2018年07月31日

1なる存在について(「辛いに一本足すと幸せになる」の話の続き)

先日の記事「言霊遊戯、あるいは幸、叶、鏡の話」の続きです。

先日考察した「辛いに一本足すと幸せになる」の話ですが、では幸せになるために辛いに足す一本は、具体的に何を指すのか?というところがなんとなく気になって考えてました。まぁ、「家族」とか「友達」とか「趣味」など、人それぞれ十人十色なんだろうし、万人に共通したものではないのかも、とぼんやり思ってましたが、ふと、あれ?この一本は実は万人に共通する一本なんじゃないか?と思いつきました。「一」とは「1」ですが、「1(いち)」にそっくりな英語の「I(アイ)」───この自分という存在は世界にただ一人ですから、I(アイ)と1(いち)が似た形の文字であることには、意味深なものを感じます。話を戻しますと、つまり辛いに足す一本とは、自分自身のことで、意味する所は「本当の自分自身=I(アイ)≠見つけること」なのではないか、ということです。「見つける」という言い回しですと、モラトリアム的な「自分探し」めいたニュアンスが出てきそうなので「本当の自分に成る≠アと」と言い換えたほうが正確かもしれません。

本当の自分に成る、というのは、なにも悟りとか解脱などの究極のものだけではなく、夢中になれる趣味を見つけたりとか、天職を見つける、など、人生を無上の至福で彩るような生き方を見つけること、そういう理想の状態、そういう人生を生きる自分こそ「本当の自分」であるはずです。なぜそれが本当といえるのかというと、人間は宇宙の進化の結果生まれてきた生命ですから、宇宙をつらぬく絶対的な法則、正しい成り行きに則った行為や体験には、それが正しく、本物であることを示すシグナルとして、至福感をもたらすように出来ている(と私は思っています)からです。つまり、もっとも幸せを感じるような時とは、もっとも自分らしく生きている時のことであろうと思います。

宇宙は、自分が生み出した生命(人間)を、わざわざ苦しませる理由はない気がします。なぜなら、人間もまた宇宙の一部ですから、人間の苦しみは宇宙にとっても苦しみのはずだからです。むしろ、宇宙からすれば、幸福に自由に、人生を喜びで満たすような生き方を人間にしてほしいと思っているような気がします。宇宙に考える心や感情があるというのは何も突飛なことではなく、人間に心があるということは、宇宙には心を生み出す素材が揃っていたからですし、その素材で心≠組み立てるシステムと段取りさえもあらかじめあったということです。親にある物が子に遺伝するわけですから、宇宙に心があるからこそ、人間にも心があるのではないでしょうか。冷静に考えてみれば、むしろ宇宙のほうが人間よりも複雑な仕組みと構造をもっているのですから、人間よりも高機能で精妙な心をもっていると考えた方が論理的なようにも思います。おそらく数多(あまた)の宗教は、お伽噺のような空想から生まれたのではなく、むしろかような考えと遠からぬ思想が根底にあって、宇宙を統べる超越的な存在、つまり神の存在に気づいたのではないか、とふと思いました。

とにかく、人生は無限の可能性が秘められているのですから、本来なんでも望んでいいし、どんな夢を追いかけてもいいわけです。自分に最大限の自由を与える生き方こそ誰しもが求める生き方ですが、自分の自由と他者や社会との折り合いが上手い具合につくような状況をつくるには、エゴの自分を捨てて、意識の奥にある魂で感じる本当の自分になるしかありません。多くの聖典や賢者のいうように、本当の自分(I=アイ)を覚醒させるには、自他を越えて愛(I=アイ=愛)を実践していくことが大事なのだと思います。I(アイ)は「自分」であり、また「愛」であり、そして唯一無二の「1(イチ)」です。カバラ(ユダヤ教神秘主義)では数の隠された意味や性質を探る「数秘術(ゲマトリア)」という秘術がありますが、それによれば1は唯一の神を表す神聖な数字でもあります。魔術師、アグリッパが1の神聖性について書いた興味深い一文を以下に紹介します。

それゆえ、1は高みなる神を示し、神は1であり、限りないものと思え、しかも自身で限りないものを作り、それらは彼自身の中に含まれている。それゆえ一つの神がいて、一つの神の一つの世界、一つの世界の一つの太陽、また世界における一羽の不死鳥、蜜蜂の中の一匹の王、畜牛の群れの中の一頭の指導者、獣の群れの中の一頭の支配者、一羽に従う鶴、そして多くの他の動物も単一性をあがめる。
───アグリッパ(16世紀の魔術師)


『数秘術 数の神秘と魅惑』ジョン・キング著 好田順治訳 青土社 1998年 p87より


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魔術師アグリッパ ( Henry Cornelius Agrippa Von Nettesheim 1486-1535)
16世紀ルネサンス期ドイツの魔術師、人文主義者、神学者、法律家、軍人、医師。以前の記事「エンデと神秘主義」でも触れましたが、アグリッパというと、太陽系惑星を魔方陣に対比させた惑星魔方陣が思い浮かびますね。


また、インド哲学の真髄であるヴェーダーンタ哲学の不二一元論では、究極には、内なる本来の自己(真我=アートマン)は、宇宙の根本原理(神=ブラフマン)と同一である、と説いていて、不二一元論とは、一言でいうと、すべては究極にはひとつであるという教えです。宇宙論の有名な仮説「ビッグバン」では、宇宙のはじまりは、微小・高温・高密度の「時空特異点」が爆発して出来た、とされていて、この爆発により時間と空間が生じたということですが、「すべての元は、ひとつ≠フ何かだった」という意味では、なにやら通底する真理を感じます。ヴェーダ聖典(=紀元前1000年〜500年に編纂されたインドの宗教文書の総称)の重要な聖典のひとつにウパニシャッドがありますが、これにも「この宇宙は有のみであった。唯一にして、第二のものはなかった」「太初において、アートマンはこの宇宙であり、唯一であった」「この一切万有は実にブラフマンである」との記述がありますが、紀元前の太古の時代にすでに宇宙の本質を直感的に見抜いていたかのような知見に驚きます。

明智(みょうち=分別のある賢明な知恵)とは、(アートマンとブラフマンとは)同一であるという理解であり、無明(むみょう=迷いによる無知の状態)とは、(アートマンとブラフマンとは)異なっているという理解である、と天啓聖典は宣言している。それゆえに、聖典においては、明智があらゆる努力を尽くして教示されている。

『ウパデーシャ・サーハスリー』シャンカラ著 前田専学訳 岩波文庫 p21より 


ともあれ、インド哲学によれば、人間と宇宙は真理に目覚めた目でみると究極には同一の存在であるということですが、言葉を換えれば宇宙と同等の潜在力を人間は持っているということでもあります。宇宙というのは最大にして究極の謎ですし、真偽を即座に確かめることは困難です。しかしまぁ、悪い事には懐疑的でいいと思いますが、良い事には過剰に懐疑的であるのは損なので、とりあえずは聖典の示す世界観を信じて、宇宙規模の可能性の大風呂敷を拡げたマインドで自由にこの世を渡ってゆきたいものだと思う昨今です。
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2018年07月23日

言霊遊戯、あるいは幸、叶、鏡の話

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辛いに一本足すと幸せになる

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でも、あまり足しすぎると魚の骨みたいになる。

「辛いに一本足すと幸せになる」という言葉がありますね。元ネタがどこなのか気になりますが、それは置いておいて、辛いのはほんのわずかな何か一つが足りないからで、その一つを足せば簡単に幸せはやってくるんだよ、という感じの含蓄なのだろうと思います。このような漢字の造形がそのまま人生訓になっているようなものはけっこうたくさんあって、「人という字は人と人が支えあっている姿である」などは定番ぽいですが、「吐く(はく)」と「叶う(かなう)」もなかなか意味深で面白いですね。「吐」という字は、口・+・ーと分解できることから、口から出るプラスの言葉(感謝、喜び、慈悲など)とマイナスの言葉(愚痴、不平、不満など)を意味すると見ると、そこからマイナスの言葉だけ言わないようにして、プラスの言葉だけ言うように心掛けていけば望みや願いが「叶」いますよ、ということです。気づいた人に思わず座布団あげたくなりました。まぁ、漢字の成り立ちからいえば、プラスやマイナスの記号が元になっているはずはないのですが、そうした時系列を超越した意味を表現できるくらいに「文字」というものにはパワーが宿っているようにも思いますし、こうした偶然の一致めいた部分も言霊的なものを感じます。

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話を戻して「辛いに一本足すと幸せになる」ですが、上記のように、今が辛くてもほんの少しのきっかけが一つあれば変われるんだよ!というポジティブなメッセージを表しているのはたしかだと思いますが、逆に、「幸せも、ほんのちょっとした何か一つによって支えられている危ういものなのですよ」という意味も読み取れます。どんなに仲のいい友達同士でも、何の気なしに口に出したほんのささいな言葉で相手をひどく傷つけてしまうことがあります、永い友情がそこであっけなく壊れてしまったりとか、多かれ少なかれ誰でも心当たりがある経験だと思います。幸せは、失ってから気づくことがしばしばありますが、できれば失う前に気づいておきたいものです。

多くの場合、幸せは、いつも「当たり前」だと思っているような所に潜んでいて、その「当たり前」に対する感謝の心を失っていくに従って運勢は下降するように感じます。ネット通販で家にいながらにして買い物ができるのは夏の暑い中(冬の寒い中)運んでくれる運送業の方がいるからですし、いつでもスーパーで食べ物を買えるのはそういう豊かな国を築いてくれたご先祖様たちがいるからです。水道の蛇口をひねるだけで清潔な水が出てくることも、決して当たり前ではなく、世界的に見ても希有な状況です。江戸時代だったら殿様レベルじゃないとなかなか口にできなかったアイスクリームも、今では普通に庶民が誰でも食べれるような時代になってますし、世界中の美味しい果物が近所のスーパーで安価に買えることも考えてみればすごいことです。扇風機すらなかった昔の時代からすればエアコンも魔法の道具です。他にもスマホや飛行機や新幹線やテレビやパソコンやゲームや漫画など、夢のような機械と娯楽に満ちたこの世界、昔の人から見たら現代はびっくるするほどパラダイスなのではないかと感じます。

本当は、感謝してもしきれないくらいの状況がいつでも整っているのが今なのですが、人間の性(サガ)というべきか、どんな快適さにも慣れてしまって、すぐにそれを「当たり前」と思ってしまいます。それどころか、人間は、足りないもの、欠落しているもの、不満なものを見つけるのが得意中の得意です。人間はデフォルトの状態だけで生きていると、不幸になるプロフェッショナルにはすぐなれますが、幸福になることにはアマチュアのままです。

嫌な物事に執着する習慣が続きすぎると、重度にこじれてしまって、ネガティブ性の中に安息してしまう環境ができていきます。怒ったり批判したりするために嫌いな人や嫌な行為を見つけようとしたりしはじめて、あえて自ら進んで毎日をイライラしながら過ごす事になります。冷静に考えれば、楽しいことや面白いことを捨ててまで嫌いな事に注目するなど馬鹿げているようにも思えますが、私の過去の経験からも、そういう状態になると負の感情に浸っていることがある種の快楽になっていくので、自分では気づきにくくなってしまっています。そういう状態であることに気づいたら一刻も早く意識的に抜け出そうという方向に気持ちを切り替えることが必要ですね。

こうした負の感情にあえて浸ろうとする心のはたらきをエックハルト・トールは「ペイン・ボディ」と名付けました。また20世紀ロシアの高名なオカルティスト、グルジェフは似たようなそういう心のはたらきを「緩衝器」と呼んでましたね。さらに数年前にブームになったハワイのスピリチュアルメソッド「ホ・オポノポノ」の中心人物であるヒューレン博士は同様のはたらきを「記憶(いわゆる通常の意味の記憶のことではなく、潜在意識に堆積した不純物を指す言葉)」と呼んで、件の4つの言葉「ありがとう、ごめんなさい、許してください、愛しています」で記憶≠クリーニングする手法を提唱しました。「ペイン・ボディ」「緩衝器」「記憶」はそれぞれ微妙に定義は異なりますが、おおまかには精神の解放にブレーキをかけている心のはたらきを指していることは共通していると思います。これらの心の機能は仏教ではさらに詳細に分析されていますね。肉体だけでなく、心のはたらきも、大部分は無自覚的に自動ではたらいているので、なかなかそうした自分の制御を離れた心の挙動は自覚しづらいですし、そもそもこの自動機能さえ「自己」と同一視しがちなので厄介です。しかしいったん自覚できてしまえばそうした「ペイン・ボディ」的なはたらきに対して意識的に「かかわらない」ようにすることも可能になります。「ペイン・ボディ」と「私の本質(魂、意識、心の根源)」は別物である、という視点に立って、「ペイン・ボディ」の誘惑(ペイン・ボディは、自己否定、諦観、不可能性などのネガティブな感情がエサになっているので、いつもそういうマイナスの感情を引き出そうとしてきます)を何度かスルーしていると、そのうちコツがつかめてきます。

閑話休題。「当たり前」と思っているものほど実は「有り難い」という話題に戻しますが、この私のこの身体も、よく考えてみれば、「人間なのだから人間の身体を私が持っているのは当たり前」だと思っていますね。でも、心臓ひとつ意識的に動かしているわけではなく、爪や髪が伸びるのも、怪我の傷を塞いでくれるのも自分の意志でやってるわけではありません。自分の身体さえ、99%以上は自動運転されていて、「自分」がコントロールしているのは脳のほんの一部を使って身体の一部、手足を操ったり、目や耳で外部の刺激に反応してみたり、あとは悩んだり喜んだりする「思考」を弄んでいるだけです。ヨガのマスターでもない限り、多くの人々は身体のわずかな部分しかコントロールできてないのですから、身体もまたこの世に生れ出るために用意された神様からの授かり物なのではないか?と思えてきます。よくスピリチュアルな思想の多くでは「自分を愛せ」といいますが、これはなにも自己中心的になれということではなく、自分と思い込んでいるものの9割以上は実際は自分の所有物ではなく超越的な存在からの授かり物なのだから大事に扱いなさい、という意味もあるように思います。

そういえば、この前何かの機会で知った「おお!」と思った言葉があります。ご存知の方も多いと思いますがそれについて少し語ってみようと思います。うろ覚えですが「かがみ(鏡)≠見ればが(我)≠ェ映る。我を無くして鏡を見ればかみ(神)≠ェ映る」という感じの言葉です。「かがみ(鏡)」という3音節の名詞の真ん中には「が(我)」があります。また、その「が(我)」を取り払ってみると「かみ(神)」が残ります。なかなか上手くできてるなぁと感心しました。

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身だしなみを確認するために日常覗いてる鏡には「我」である肉体の自分の顔がただ映っているだけですが、我を取り払った魂の境地で自分の顔を見れば、そこに映るのは自分であって自分ではないもの、自分だとばかり思っていた神からの有り難い授かり物である宝物のような身体が映っていることに気づくのでしょう。そういえば鏡をご神体にしている神社は多いですし、そもそも古事記に描かれる三種の神器のひとつは鏡です。合わせ鏡にすると一挙に万華鏡のような無限の空間が生まれるのも不思議な性質です。鏡の中の世界は、この現実世界とまったく同じに見えるのに、鏡の中には実際には何もない、という所も、般若心経の色即是空、空即是色を物質化したかのような含蓄を感じます。もしかすると鏡というのは、目に見えない次元ではスゴイ役割をしてる霊的物体なのかもしれませんね。

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「鏡の国のアリス」 ジョン・テニエル画 1871年

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合わせ鏡の中の迷宮
posted by 八竹彗月 at 02:00| Comment(0) | 精神世界

2018年07月21日

【雑談枠】黄金郷通信 vol.1

ひとつのテーマで記事にするほどまとめきれていないものが次から次に湧いてくるのですが、そのまま寝かせてそのうち忘却してしまう、というパターンに陥る事が多いです。誰の言葉だったか、「怠け者ほど完璧主義者である」というような事を聞いた事がありますが、たしかにちゃんとしたものを書こうと張り切りすぎると「間違いの無いように、しっかりした構成で・・・」と自分への注文が多くなっていって、そのうち書くのが面倒くさくなり、そのうち忘れてしまうか、あるいはどうでもよくなってしまいます。

何ごともほどほどに気楽さが必要なのでしょう。ある程度アバウトに対処していったほうが長続きするし、気を張って取り組んだときよりも、意外に良いものになったりします。このブログも、書きたい事自体は山ほどあるのですが、どこから手を付けていいかわからなくなり、結局何も書かないで過ごしてしまう、という悪循環にしばしば陥ったりするので、そういうのを払拭するためにも、今回から、月一くらいを目標に、まとめきれなかったテーマを中心に、忘備録を兼ねてその月にたまってきた小ネタを雑多にご紹介しながら自由におしゃべりしていく雑談風の不定期記事を「黄金郷通信」と題して開始しようと思い立ちました。長く語りたいテーマがあるときは、いつもの感じでその都度ワンテーマの記事をあげていこうと考えています。

では、まずはじめはこんなネタから。





el_icon.png三浦梅園・神秘の宇宙マンダラ

マンダラ的な幾何学的で神秘な感じの図形に惹かれるところがあって、密教のマンダラのほかにも、錬金術の文献に出てくる宇宙創成図とか、儀式魔術で使われる魔法円とか、風水に用いられる方位図など、神秘感のある円形の模式図のようなものにぞくぞくしたりします。先日の古本市で、いつものように本棚を物色していて、それまで聞いた事の無かった江戸後期の哲学者、三浦梅園(みうらばいえん)の本を手に取ったのは、そうした嗜好が引き寄せたものなのか、その本を開くと、これまた不思議で神秘なオーラをびんびん感じるマンダラ的な図形がいくつも載っていて、それがきっかけで著者三浦梅園なる人物に俄然興味が湧くことになったのでした。少し前にも平田篤胤の古事記の神々の世界を神秘な模式図で表現したものや、山片蟠桃(やまがたばんとう)の奇妙な宇宙図などを知ったばかりだったので、日本の古典にもいろいろと面白い精神の探求者がいるものだなぁ、と感じました。つくづく感じるのは、この世の中とは、いつも何かに好奇心とか興味を持っていれば、世界は面白そうなモノをいつも小出しで与えてくれるような感じがしますね。一度に全部この世の真理を欲しがるとファウスト博士のように悪魔の罠に引っかかってしまうと思いますし、こうして小出しにされるほうがひとつひとつをじっくり楽しめるのでちょうどいいのかもしれません。

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三浦梅園「神物剖析図一合」

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三浦梅園「天地象質成之図」

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三浦梅園「経緯剖対図」

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三浦梅園「気物相吐粲立図」

三浦梅園(1723-1789)は大分県出身の江戸時代の思想家。中央から離れ地元でもくもくと深遠な思索を深めていきましたが、それでもその人望や卓越した知性は評判だったみたいで、幾人もの藩主から招聘の声がかかるほどでしたが、それらを全て断り自分の道をひたすら歩み続けました。梅園のユニークなその独自の哲学は「条理学」と名付けられ、マンダラめいた不思議な図は、中国の陰陽思想をベースに神や宇宙万物の相関関係を表しています。そのあまりに独特な哲学は、個性的すぎるゆえに他者が理解するには難解きわまるものであったようで、梅園の名が世に知られ認められるのは死後百年以上後の時代でした。明治の終わり頃に熱心な梅園研究者が現れたおかげで梅園の哲学に日が当たり、徐々に認められるようになったようです。

メモ関連サイト
三浦梅園(ウィキペディア)

三浦梅園の謎を解く
梅園哲学の代表作「玄語」の全8巻完全公開を含む貴重な資料が充実した梅園研究サイト。すごい!




el_icon.pngバシャール・宇宙人とスピリチュアル

別世界とのコンタクトの手段というと、死者の霊を呼び出す口寄せやこっくりさんなどの降霊術や、天使や悪魔を召還する西洋魔術などがありますが、80年代あたりに新たな異世界との交流テクニックとして「チャネリング」というものがブームになりました。チャネリングで呼び出す異世界の住人は天使とか宇宙人が多い印象がありますが、当時はうさん臭く思っていたものでした。今もチャネリングなるものを信じているのか?というと微妙で、やはり天使や宇宙人という存在があまりに非日常すぎて、なかなか実感として伝わってこないというのが正直なところです。ですが安易に否定するにはもったいない面白いものなので、チャネリングした宇宙人が実在するのかどうかよりも、「宇宙人が語った」という部分は「チャネリング現象の基本設定」として留保しつつ、語った内容自体を楽しんだりしています。

チャネリングといえばバシャールが有名ですね。バシャールは、ダリル・アンカ氏がコンタクトしている宇宙人の名前で、オリオン座の方向にある地球よりも300年進んだ文明を持つ惑星「エササニ」に住んでいるそうです。こうした「設定」的な部分に注視すると、SF的で信じがたい面もありますが、バシャールが語ったとされる言葉自体はとても示唆にとんだ発言が多く、宇宙人うんぬんは置いておいて、毛色の変わったスピリチュアルリーダーの言葉として人生の参考にするのがよいのかな、と思います。バシャールの言葉のユニークな点は、どんな質問にもポジティブな返しをすることです。究極のプラス思考の見本のような、そのポジティブ発想の抽き出しの多さに最初はあっけにとられ、そしていつのまにか気持ちが軽く楽になっていくのを感じます。バシャールのチャネリングの様子はネットに動画がいくつもあがっていますが、本で読んだイメージ通りのハイテンションさで、パフォーマンスとして地味になりがちなチャネリング界においてバシャールが長年頂点に君臨しているのは、そうした派手さも理由のひとつにあるのかもしれませんね。

バシャール哲学は、一言で言うと「ワクワクしなさい」というメッセージです。動画などを見てると、バシャールはよくexcitementという単語を頻繁に使っていますが、これが「ワクワク」と訳され、バシャールといいえばワクワク、みたいな感じになったようですね。科学者のミチオ・カク氏も言っていたように、宇宙人が人類よりもはるかに永い期間文明を維持できた生命体であるなら、怒り、悩み、苦しみ、不安などの精神的な問題をすでに解決している可能性があるので、宇宙人がバシャールのようなテンションの高い超ポジティブなキャラであることには、なんとなく説得力を感じたりもします。

皆さんの「自分は誰か」という存在の表現、波動が「ワクワク」です。(略)それが皆さんを導いてゆく信号になります。ですから、自分の歩むべき道を歩むことは、本当は簡単なのです。(略)皆さんの文明では、何千年もの間、本来の自然な自分に抵抗したり、否定したりしてきました。ワクワクするものは抑圧しなければいけない、と学んできたのです。なぜなら、皆さんは「人生というのは辛いものなのだ」と年上の人から教えられてきたからです。(略)「ワクワク」というのは、自分が本当にやりたいことをやっている、やりたいことを知っている、もしくは、非常に内なる穏やかさ、心の平和がある、ということです。(略)自分がワクワクすることを始めるとき、二つのことが起こります。第一に、非常に素晴らしい偶然が次々に起こります。常に魔法のように、あるべき所に、あるべき時に、あるべきことが起こります。そして第二に、自分のやることが、努力なしに進むようになります。「自分自身が誰か」を示すことを自然にやっているからです。
p96-97

まず最初に、「すべての状況は中立である」ということです。どんな状況も、最初から否定的だったり、肯定的だったり、意味を持ったりはしていません。(略)起きているのは「中立」なことなのに、それに意識的に、潜在意識的に、無意識的に意味を与えます。中立な状況に肯定的な意味を与えれば、そこからは肯定的な結果しか引き出すことができません。中立な状況に否定的な意味を与えれば、そこからは否定的な結果しか得ることができません。いつも言っているように、これは哲学ではないのです。単なる物理学、力学なのです。(略)「現実」は、それ自体が意識や意志をもっているわけではありません。あなたがそれに選択を与えなければ、現実が勝手に変わっていくことはないのです。(略)「私がなにも知らないうちに、こういうことが起きてしまった」ということは、本当はありえません。人生は「降り掛かってくる」ものではないのです。人生は、必ず、あなたを通して出てきます。
p154-155

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『BASHAR 2 宇宙存在バシャールが語る進化への道』バシャール(宇宙存在)、ダリル・アンカ(チャネラー)著 VOICE発行 1989年


宇宙人が地球人にスピリチュアルなメッセージを送るという話は、UFO搭乗記で有名なジョージ・アダムスキーのあたりから定着した定番の設定ですね。アダムスキーも宇宙人から聞いた話という設定でけっこうイイ話を書いてるんですが、いわゆる「アダムスキー型UFO」を写した写真が模型を写したトリック写真の疑いが濃厚であることから、UFO搭乗記の内容も宇宙人のスピリチュアルなイイ話もひっくるめて全否定されてしまってる感じです。ちょっと可哀想でもありますが、まぁ、最終的には語り手の信用が受け手の印象を大きく左右しますから、よほど興味を惹く問題でない限り「これは嘘だけど、こっちは本当ですよ」という細かい区別はしないのが人間ですし、仕方ない部分もあるでしょうね。アダムスキーが宇宙人から授かった哲学を著した「宇宙哲学」などの本を読みましたが、けっこうタメになる深い話もあって、とかくアダムスキーはUFO詐話師っぽいイメージが定着してしまってるだけに意外な驚きがありました。

とかくUFOや宇宙人の話は、肯定派には肯定的なデータや目撃談などがたくさん目につくのでますます肯定的になっていくというのはありますね。いわゆる確証バイアスというもので、肯定派の妄信ぶりを揶揄する時にしばしば権威主義的に使われる言葉のイメージがありますが、確証バイアスはなにも肯定派だけに当てはまるものではなく、懐疑的な人には懐疑的な側面がいくつも見えてくるのでより否定的になっていくわけですから、懐疑派にも当然確証バイアスはあるわけです。「あなたの意見は空論(または詭弁、極論)だ!」と言う代わりに「それは確証バイアスといって云々」と言えば反射的な反発をかわしつつ優位に立てるということもあって重宝されてるような印象があります。しかしながら、確証バイアスはそもそも人間の認知システムの根幹にあるはたらきなので、確証バイアスに無関係な人間など存在しないともいえます。何が真実か?を突き詰めていくと、結局「わからない」のでありますから、引いて見れば、議論というのは多くの場合、異なる思い込み同士の水掛け論みたいなものなのでしょうね。まぁ、現状のような、UFOとか宇宙人の存在が確定していない世界だからこそ、謎めいていて楽しいのかもしれません。

そういえば宗教家の五井昌久(1916-1980)も宇宙人とコンタクトしていた話を著作や講演でよくしていますね。五井昌久氏は街中でたまに見かける「世界人類が平和でありますように」の看板でも知られる白光真宏会(びゃっこうしんこうかい)という教団の開祖です。宗教団体には興味はないのですが、宇宙人とか守護霊などの話をよくするのでお話は面白いです。ですが、それが逆に宗教家としてはうさん臭く思われてしまう部分でもあると思います。調べてみて驚いたのは、合気道の開祖、植芝盛平(うえしばもりへい 1883-1969)との親交があった事で、互いに深い信頼を寄せていたようです。そういう話を知ると、意外にすごい人なのかもしれない、と思い直しています。植芝盛平も、武道だけでなく、宇宙と合一するという悟りのような神秘体験をしている人で、銃弾を避けたとか、部屋にいながら外から来る訪問者の気配や服装がわかったりとか、不思議な逸話がたくさんありますが、そういう心身合一した達人が本物と認めている人物なら、少なくともタダ者ではなさそうなので、最近ちょっと気になっています。




el_icon.pngボリス・インドリコフの不思議な絵

いつものようにピンタレストで画像蒐集をしていたら、とても琴線を触れてくる絵が目についたので調べてみました。それはボリス・インドリコフという画家の絵でした。シュルレアリスムとアールヌーヴォーが融合したような独特の世界観をエルンスト・フックス風の幻想神話な感じの画風で描きあげた感じで、優雅かつ奇妙、華麗でグロテスク、天国のような地獄のような、言葉で言い表すと捉えどころがないのですが、その作品を一目見れば、明瞭な世界観をもって作品を生み出していることがわかると思います。未来的なアンティーク感、とでもいいますか、そんな不思議なテイストがたまりませんね。

「アーティストは(この世界とは別の)平行宇宙の創造者であり、また(絵を描く事は)そこにたどり着くための儀式の一種です。絵を描く事というのは私にとって瞑想のようなものです。私たちは芸術という言語を使って神と話すのです。」

「絵画──それは平行世界への扉です。そこはすべてのものが異なる世界です。別の法則、別の線や形が存在しています。」

「これは私の世界だ。私は多分そこから来たのだ、そしていずれそこに還っていくだろう。」

────────ボリス・インドリコフ



ボリス・インドリコフ(Boris Indrikov / Борис Индриков)は1967年生まれのシュルレアリスム画家。ロシア、レニングラード生まれ。モスクワ在住。エディトリアル・デザイナー、イラストレーターの仕事を経て、2002年頃から本格的にアーティスト活動を開始、現在に至る。

メモ関連サイト
ボリス・インドリコフの作品(本人の公式サイト)

オンラインのアートギャラリーサイト、Saatchi Art(サッチーアート)内のボリス・インドリコフの紹介ページ。

ボリス・インドリコフの作品(google画像検索ページ)




el_icon.png幸福とは?「メキシコ人の漁師の話」と「花咲くいろは」

メキシコ人の漁師の話というのがネットで何度か話題になっているみたいで、読んでみるとたしかに考えさせられる話で面白かったです。青い鳥的な幸福論を土台にして、今に満足する能力≠フ有る人、無い人のふたつの視点でテンポよく会話が進み、落語のような洒落たオチで締めていて、シナリオ的にも見事なショートストーリーになっていますね。

メモ関連サイト
『億万長者』メキシコ人の漁師の話(「わーど わーるど」様)

今置かれている自分の環境、状況を肯定する大切さが教訓として読み取れますが、コンサルタント側の主張も、狂言回しのように「頭のいい愚か者」ぽく描かれているものの、こちらの視点もよく考えてみると、漁師と同様に幸福の在り方としては間違ってはいないように思いました。漁師の生き方もネガティブな側面から解釈すれば「チャレンジしない言い訳」とも取れますし、まさに、それぞれの視点で見た幸福の在り方なのだろうと思います。がむしゃらにいろいろチャレンジしながら波瀾万丈に生きる充実した幸福もアリでしょうし、自分の置かれた環境に満足し今あるものに至福を見いだす生き方もまた幸福の在り方です。アクティブな人にはコンサルタントの言うような生き方が人生を充実させそうですし、あくせくしないでのんびりと生きたい人には漁師の生き方のほうがくつろげそうです。どちらが正しいか、というよりも、どちらが自分に合っているか、という視点でこの話は受け取ったほうがいいのかもしれないですね。

この話を読んでいて、ふと先日夢中で最後まで見てしまったアニメ『花咲くいろは』に登場する押しの強いキャラ、経営コンサルタントの祟子(たかこ)さんを彷彿としました。舞台となる旅館、喜翆荘(きっすいそう)の経営不振を解決するために女将の息子であり旅館の番頭でもある縁(えにし)が、大学時代のガールフレンドで経営コンサルタントの祟子(たかこ)さんに問題の解決を依頼するのですが、旅館の風情や客層を無視したトンチンカンで大胆な改革案(和服の仲居さんたちにキャバレーのホステスみたいな露出の多い派手な衣装を着させるなど)で余計に混乱を招いてしまう、といったエピソードが中盤に描かれています。まさにメキシコ人の漁師の話に出てくるコンサルタントを思わせるノリがあり、ふと連想してしまいました。

このアニメもまた、登場する様々なキャラがそれぞれの目線で感じる「幸福のカタチ」を表現していて、大げさな事件が起こったりするような派手さはない作品ですが、人間描写が巧みで飽きずに一気に見れました。のんびりした田舎の温泉街を舞台に旅館に住み込みで働く主人公少女の精神的な成長を丁寧に描いた物語で、とても面白かったです。

メモ関連サイト
『花咲くいろは』公式サイト
posted by 八竹彗月 at 05:27| Comment(0) | 雑記

2018年07月13日

【音楽】レトロ・グルーヴ!

最近聴いているかっこいいレトロサウンドの音楽やふと聴きたくなったオールディーズの名曲などをいくつか選んでみました。

るんるんArmando Trovajoli「L'arcidiavolo」
めちゃくちゃかっこいい!グルーヴィーなベースのフレーズが一気に心をつかんできますね。この曲は1966年の同名のイタリア映画のテーマ曲です。アルマンド・トロヴァヨーリ(1917〜2013)は映画音楽の分野で知られるイタリアの音楽家。こんな感じのグッとくるベースの曲というと、リズ・ブレイディ(Liz Brady)の同年(1966年)のヒット曲「Palladium (The Hip)」を思い出します。トロヴァヨーリのモンド感のあるレトログルーヴは日本でも1990年代に脚光を浴び、フリッパーズ・ギターのヒット曲「恋とマシンガン」での特徴的なスキャットはトロヴァヨーリの「黄金の7人」にアイデアを得たものであるとか、そういった話題でも注目されてましたね。

るんるんFred Van Zegveld「Dynamite」
こちらもベースがうねりまくるノリノリのイカス曲です!フリーキーなハモンドオルガンとギターが怪し気なモンド感を出しつつパンチの効いたサイケなかっこよさを醸し出しています。フレッド・バン・ゼグヴェルトはオランダのオルガン奏者のようですが、ざっと検索してみても情報は少なく、アルバムもこの曲が収録されている1969年の同名のアルバム『ダイナマイト(Dynamite)』やオランダのレアグルーヴのコンピレーションアルバムくらいしか見当たりませんね。

るんるんThe Dave Pike Set「Got The Feelin'」
こちらも気持ちいいレトログルーヴですが、ファンクな感じの聞き覚えのある曲だなぁ、誰かの曲に似てるなぁ、と考えながら聞いてて思い出しました。そう、ジェームズ・ブラウン作詞作曲の名曲「I Got The Feelin'」です。オリジナルのパワフルなJBの歌付きの楽曲も超かっこいいですが、このデイヴ・パイク・セットのサイケなカバーも面白いですね。

るんるんThe Rob Franken Organ-Ization「Black Jack」
うねるベース、サイケなオルガンがたまらない1969年のファンキーな曲です。ロブ・フランケン(1941-1983)はオランダのジャズ・ピアニスト、ハモンド・オルガン奏者。主にドイツでセッション・ミュージシャンとして活躍していたようです。この曲はビートルズの「フール・オン・ザ・ヒル」「マザー・ネイチャーズ・サン」「オブラディ・オブラダ」のカバーを含むアルバム『オブラディ・オブラダ(Ob-La-Di, Ob-La-Da)』に収録された曲で、アルバムも全体的にいい感じです。この曲の出だしの期待感をそそるギターのフレーズで、ふとThe Quantic Soul Orchestraの「Hold It Down」を連想しました。こちらは2003年のモダンなファンクですが、負けず劣らずカッコイイですね。

るんるんBrigitte Bardot「C'est une bossa nova」
包み込むようなボサノヴァのメロディに溶けこむような甘い歌声が素敵ですね〜 ブリジット・バルドーといえばフランスの有名な女優ですが、歌手としても魅力的な作品が多いですね。最近は動物愛護活動などの社会運動で時折耳にしますが、昨今のMeToo運動については批判的見解を述べてるそうで、そうした一筋縄でいかない感じがフランス人、というかパリ人っぽいですね。

るんるんDoris Day「Whatever Will Be Will Be (Que Sera, Sera)」
ドリス・デイの代表曲にして不朽の名曲「ケ・セラ・セラ」です。ヒッチコックの映画『知りすぎていた男(1956年)』の劇中でドリス・デイがこの歌を唄うシーンは映画史に残る名シーンですね。わずか2分弱の歌の中で世代をまたいだ壮大な人生の物語が描かれていて、詩の可能性を感じさせてくれます。何度も繰り返されるスペイン語かフランス語っぽい感じの印象的なフレーズ「ケ・セラ・セラ」は、実は何語でもない架空の造語だそうで、そうした意味ありげで無さげな悪戯っぽい遊びも味わいを深めていますね。

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posted by 八竹彗月 at 08:40| Comment(0) | 音楽

2018年06月09日

紙もの展示室

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包装紙、切符、栞、絵葉書など、本以外の雑多な脇役的な紙製品は俗に「紙もの」と呼ばれ、古書店、古書市などでよく見かけます。当時ではただの紙くずとしてしか扱われなかったような商品のパッケージや瓶のラベルなども一定の時を経ると突如として魅力あふれる宝物のように輝きだしてくるのが面白いです。捨てずにちゃんと残して採っておいていた人がいるから今そうしたものを手に出来るわけですが、そう考えると、「これは後世に残すべき!」とまではいかなくても、それなりにボンヤリとした使命感のようなものがコレクター気質の人にはあるような気がしてきます。と、まぁそんなわけで、なんとなく集めていた雑多な紙ものが部屋を整理してたら出てきたので、今回はそうした紙ものコレクションの中から適当にご紹介します。

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「クラブ化粧品」の紙箱。逆読みの文字とアールデコのデザインからして戦前のものっぽいですね。夢野久作や小栗虫太郎といった昭和異端文学の巨星を輩出してきたことで知られる文芸誌『新青年』のデザインを彷彿とするミステリー感のあるデザインにぐっときます。

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メンコです。相手の置いたメンコの脇に自分のメンコを叩き付け風圧で裏返したら勝ちで、裏返したメンコは自分のモノになる、という素朴なルールのゲームだったと思います。幼少期に何度かやった記憶がありますが、すでに廃れた遊びになっていたため、メンコで遊ぶというよりは、カードコレクションのような感じで蒐集して楽しむような感じだったと思います。当時の人気漫画などが絵柄になってますが、本家に許可をとって製造しているものは少なく、微妙に似てないキャラなどが多い印象がありますが、そういう昭和のパチモンくささもまたメンコの魅力でもあったりしますね。

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メンコの裏側。メンコを手にした事のある人であれば一度は疑問に思うことのひとつがこの裏面の謎です。メンコの裏側には謎の数字や、トランプ的な絵柄や、ジャンケンの図など、いわくありげな記号に満ちあふれていることに気づくと思います。相手のメンコをひっくり返す以外の、何か特殊な遊び方がメンコにはあるのか?と、疑問に思ってさっそくネットで調べてみると、あっさり長年の謎が解けました。あの裏面の謎の数字などは、どうやらメンコ業者の過剰サービス精神が生んだもののようで、メンコを風圧で裏返すという遊び以外にも、メンコを多種多様な遊びに使ってほしいという業者の想いが込められていたようですね。メンコ裏面の謎解きの詳細は以下のリンク先の記事を参照してください。

メモ参考サイト
「メンコの不思議な記号」ブログ『メンコ昭和館』様の記事より
他の記事も、たくさんのメンコ画像とともに、メンコから読み解く昭和という時代を考察しておられて興味深かったです。

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飴玉などの包装紙や広告入りの栞など。

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「家族合わせ」のゲーム札。今では馴染みが薄くなってしまったカードゲームの一種ですね。バラバラになっている5つの家族のメンバーを揃えていく遊びです。森田童子の「セルロイドの少女」で歌われているイメージのせいか、どことなくメランコリックで寺山修司的な情緒を感じるカードゲームでしたが、実際に家族合わせカードを手にしてみると、それぞれの名前がユーモラスなダジャレになっている場合が多く、なにやら楽し気な雰囲気ですね。そのうち自作のカードを作ってみたいです。

メモ参考サイト
家族合わせ(ウィキペディア)

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朝野寝坊八(あさのねぼはち)の娘のカード。職業が番頭(商家などの使用人のチーフ)なのに朝寝坊の常習犯っぽい感じの名前というのがイイですね。これだけでギャグ漫画の短編が一本描けそうです。

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「令女 Reijo Silk Cap」。裁縫針っぽいものが刺さっていますが、もともとは髪型をキープするヘアネットをくるむ台紙のようです。高峰秀子風のレトロテイストの婦人画がいい味だしてますね。

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しまかげのアイスクリームの袋。麦わら帽子にお下げ髪の少女がアイスバーを持ってるアイコンぽいイラストが可愛いですね。マルシンハンバーグのみみちゃん系のシンプルな線に惹かれます。昭和のオーラを感じるイラストと色使いが和みますね。残念ながら商品の詳細は解りません。アイスクリームなのに紙袋というのが謎めいていますね。調べてみると、製造会社のしまかげは度重なる火災のために1997年にアイスクリーム製造から撤退、とありました。

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大善の『御花紙』2種。「お鼻紙」のもじりですね。いかにも昭和のご婦人のエチケット用品っぽい乙女なデザインがいいですね。

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『獅子印・ライオン歯磨』の紙箱。諸星大二郎先生の「孔子暗黒伝」に出てくる開明獣テイストな妖しいライオンの版画が神秘なオーラを放っていてイイですね〜 昔のマッチ箱もそうですが、こんな感じの装飾過多な戦前のデザインってロマンがあって素敵ですね。
posted by 八竹彗月 at 12:09| Comment(0) | コレクション