2019年02月27日

ネット空間のシミュラークル

ネットに流布されている有名ないくつかの名言の出所を調べていくうちに、なんか面白くなってきてテンションがあがってきました。書いていたらなんとなく筆が乗ってきたので、今回の記事はかつてネット空間に跋扈していた懐かしい都市伝説や最近見かける怪しい名言などをテーマに勢いで書いてみました。

喫茶店911の都市伝説「Q33NYC」

911事件のショックが世界を覆っていた当時、とある興味深い話が世界中を飛び回ったことがあります。911、つまりアメリカ同時多発テロ事件ではさまざまな都市伝説が発生しましたが、事件から間もない時期にメールなどを通じて世界中に拡散されていた「Q33NYC」の噂は、私も最初は驚きました。当時からけっこう騒がれた都市伝説なのでご存知かと思いますが、「Q33NYC」とは、ツインタワーを崩壊させたテロリストが乗っていた航空機の機種番号で、これを「Wingdings」というフォント(絵文字記号のフォント)で、変換するとテロ事件の予言が現われる!といったものです。つまり何年も前からこのテロは事前にシナリオができていたのだ、という都市伝説ですが、後にさらに拡散されていく中で、「Q33NYC」は機種番号ではなく、ビルに突撃した飛行機の経路を示す『クイーンズ区の33番通りニューヨークシティー』を意味している、というふうに変化していきました。件の飛行機の機首番号はQ33NYCではありませんし、飛行機の経路も実際は噂とは全く違った経路になっていることがほどなくしてあきらかになり、騒動も急速に下火になっていきました。噂が発生して間もない当時、日本ではこの噂の真偽を確かめている記事がどこにもなかったので、海外のフォーラムなどを翻訳かけながら調べた覚えがあります。うすうす思っていたとおり、あの「Q33NYC」の噂は全くのデマであると説明している海外のブログがあって、個人的には「な〜んだ」ということで決着しました。この頃から、なんでも一応調べてみるのは大事だなぁ、と感じたものでした。

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「Q33NYC」をWingdingsという絵文字フォントで変換すると、いわくありげな絵文字が羅列されます。「33」が便せん2枚に置き換わりますが、二つ並ぶとたしかにツインタワーに見えますね。左から見ると、飛行機がツインタワーに向かって悲惨な結果(ドクロ)になる、という感じの並びの後にダビデの星とグッドを示す手首、というのが意味深です。まぁ、そうなるように組んでから逆算したのが「Q33NYC」というのが真相なのでしょう。しかし、単純にそれで片付けるのもモヤモヤしたところがあります。それは、このフォントで「USA」を置き換えると以下のようになるという事実です。
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「USA」という単語をWingdingsで変換すると、今度は十字架と流血とピースサインという意味ありげな不気味な並びになります。十字架はキリスト教の国を意味するのか、あるいは墓標を意味するのか。「キリスト教に血が流れし後に平和がくる」というメッセージであるとか、それらしい解釈もあるようですが、意図的でないにせよ、Wingdingsというフォントには何かタロットカードのような占術的な意味合いのツールとして使えそうな不思議なものを感じますね。このことと関連して連想するのは「イルミナティ・カード」と呼ばれる不思議なカードです。ここ数年よくオカルト系のサイトで話題になっていますが、このカードの予言もまたミステリアスで興味深いものを感じますね。

人は基本的に面倒くさがりやなので、便利なネット空間であっても不確かな言葉についてちょっと検索してみる、ということをあまりしないことがほとんどなので、911の例のように意図的でなくてもいつのまにかウソやデマが拡散しやすくなっている面があると思いますね。そのあたりは、私も同様なので、記事を書くときなどはなるべくできる範囲で事実確認のできるものはするようにしています。しかし、それも限度がありますし、事実かどうかを判断するのも自分の主観的なものでしかないですから、あまり気にしても仕方ない部分でもあります。とりあえずは自分にできる無理のない範囲で気をつけていればOKくらいに考えています。

ネット空間が特殊なのは、リアル空間が主に発話によるコミュニケーションが主体であるのに対し、ネットのそれは書き言葉を主体としたコミュニケーションであるからで、そうした違いによってリアルではなかなか起こりえないことが起こりやすくなったり、その逆もあったりしますね。たとえば、ネット上で拡散していく誰かの名言などは、拡散されていくうちに出典があいまいになっていき、言葉だけが一人歩きするような事がしばしば見受けられます。リアルでは流言飛語も自然な伝播力にまかせているだけなのでそれほど強力な拡散力はないですが、ネットは一瞬で世界中に拡散することもあります。

そういう例でいえば、ネットでよくまことしやかに流行していく「名言」のたぐいも、調べていくと、どこにも出典が見当たらないものであったりする事もよくあるので、そういうものも注意していかないとついうっかり騙されてしまいがちですね。まぁ、そういうたぐいはさほど害のあるものではないですし、誰かがデマであることに気づいていく中で自ずと軌道修正されていくのもネット空間であり、そういう伝言ゲームのような言葉の変遷を客観的にウォッチングしてみるのも面白いです。某さんの言葉だと流布しているものが、実はその某さんのものではなかったことがわかったり、さらに、実はやっぱり某さんのものだった!という証拠が見つかったり、など、ややこしい事例も少なからずあったりして、そういうのを観察するたびに、物事の真偽というのはなかなか見極めがたいものなのだなぁ、と実感します。

喫茶店ヴォルテールの名言?

ネットでよく目につくその類いの例では、ヴォルテールの名言とされている「私はあなたの意見には反対だ、だがあなたがそれを主張する権利は命をかけて守る」というのがありますね。この言葉を私が最初に聞いたのはかなり昔で、10年くらい前にニュース系の某掲示板で名無しさん同志が議論していた中で出てきたのがこの言葉でした。一目でなかなかイイ言葉だな〜と惚れ込んでしまう「ザ・名言」という感じの言葉で、案の定その後ネットで良く見る名言の定番となっていきますが、そんなイイ言葉を発するヴォルテールさんとはどんな人なのか?とか、その名言の出典となっている本を読んでみたい、とか気になって調べていくと、そもそもあの名言はヴォルテールの言葉ではないという情報も出てきて驚きました。定番のネット百科事典、ウィキペディアによれば、件の名言はヴォルテール自身の著作には存在しないようで、別の作家の本の中に引用されているヴォルテール関係の記述の中で出てくる言葉のようです。しかもそれはヴォルテールの言葉として書かれているわけでもない、といった興味深い情報が載っていました。詳細は実際にウィキを見ていただくとして、件のヴォルテールの名言は本当に彼が言った言葉かどうかはかなりグレーなもののようですね。

まぁ、出典が怪しいというのは置いといて、言葉自体に罪はないですし、やはり含蓄のある言葉は人生の指針になったりしますし、上手く活用していきたいものです。おおざっぱに解釈すれば、「他人の意見が自分と異なっていても寛容であれ」ということで、それを「命を賭けて」などのドラマチックな装飾によって人を魅了するポエティックな箴言になっているのがこの言葉です。しかし、「私はあなたの意見には反対だ、だがあなたがそれを主張する権利は命をかけて守る」、ある種の理想ではあるものの、これはあからさまにパラドキシカルな構造をもった言葉なので、現実にはそういったポリシーで生きるのはいろいろ問題がでてきそうにも思います。まともに実践すると「敵に塩を送る」ようなリスクを自らわざわざ背負い込むような理屈でもありますから、とてつもなく絶妙なバランス感覚の中でしか実践の難しい態度のようにも感じますね。

実際のヴォルテールは他人の異論にそれほど寛容な人ではなかったようで、論敵を監獄送りにしたりなど、ほとんど言論封殺まがいのこともしていたという記事もありました。まぁ理想と現実は違ういうことで、人間らしいといえば人間らしい所ですね。この世はなんとなく、約束するとそれを破らざるを得ない状況が待っていたりしますし、何かの理想を掲げたとたんにその理想に反する行動をとらざるを得ないような試練が必ず来るような所がありますね。「お前はその理想を言葉だけでなく、行動で示せるのか?」という天からの試験のようなものなのかもしれません。そういう意味では、約束を破らない人間になるには、極力約束などしないことでしょうし、何度も約束しなくてもいいくらいに信頼される人間になるように精進するというのも良い目標かもしれませんね。

話を戻しますと、そもそも議論というのは異なる意見同士の戦いですから、最近はできるだけ議論自体を避けるようになりました。むかしは議論好きだったのですが、議論というのは勝っても負けてもろくな結果にならないので、少なくとも自分には向かないものなのだと思うようにしています。これに関する言葉で、ネットに司馬遼太郎の「龍馬がゆく」からの引用で、まさに我が意を得たりという言葉を見かけました。以下引用。

竜馬は議論しない。議論などは、よほど重大なときでないかぎり、してはならぬといいきかせている。もし議論に勝ったとせよ、相手の名誉をうばうだけのことである。通常、人間は議論に負けても自分の所論や生き方は変えぬ生きものだし、負けたあと持つのは負けた恨みだけである。

司馬遼太郎「龍馬がゆく」


同じような言葉を、たしかヴォルテールの「寛容論」でも読んだ記憶があるのですが、今その本は手元にないため未確認です。いずれ本を入手したら確認して追記するかもしれません。どちらかというと、同じヴォルテールなら、こちらのような言葉のほうが個人的にはしっくりきます。そうなんです。人は議論ごときでは持論を曲げませんし、その意見がアイデンティティの根幹にかかわるポリシーのようなものならなおさらです。なので、無駄に議論をするのは不幸を招くだけで、思うほどの収穫はないというのが経験上の実感です。議論になるのは「自分が正しい」と思いたがるエゴの心なので、議論をしないように心掛けるだけで、けっこうスピリチュアルな訓練になります。本当に正しいのは喧嘩にならないような状況を作れる言葉であって、自分の主張を押し通す言葉はいくら正しいように思っていても、高い次元で俯瞰すれば間違っているのでしょうね。世の中、いろいろあるので全く議論しなくて済むのかといえば、そうでないケースもありますが、どちらにせよ必要以上の議論は控えるようにしたいものです。

他にも、最近よくネットで見かけるようになった名言、辛辣な文明批評を含んだSF「1984」の作者、ジョージ・オーウェルの言葉とされる言葉。いわく「ジャーナリズムとは報じられたくない事を報じることだ。それ以外のものは広報に過ぎない」ですが、これも出典を検索してみるとはっきりした情報が見当たらず、出所の怪しい名言のようですね。もともとは英語圏で流布していた言葉らしく、日本語訳されて日本でも拡散されていった、というのが経緯のようです。こうなると、いつも座右の銘にしているようなあの言葉もその言葉ももしかしたら?などと気になってきますが、全て完璧に事実を把握するなんてことは誰しも不可能ですから、そんなこんなも含めて寛容の精神で気楽に楽しくネット空間で遊ぶのが吉なのでしょう。

メモ関連サイト
ヴォルテールの名言とされてきた文言(ウィキペディア)

ヴォルテールは嘘つき?仏歴史家が明かす寛容論の真実(「アゴラ」様より)

坂本龍馬が教える人望を失わないための法則(「JB PRESS」様のサイトより)

ジョージ・オーウェルの言葉じゃない? 「ジャーナリズムとは〜」(「pelicanmem」様のブログより)
posted by 八竹彗月 at 11:18| Comment(0) | 雑記

2019年02月21日

【音楽】郷愁の60年代ミュージックフェア

深夜のコーヒーブレイクに合いそうな60年代前後のパラダイスな感じの洋楽のレトロサウンドを選んでみました。



るんるんMel Torme「Puttin' On The Ritz」
るんるんKenny Ball and his Jazzmen「Puttin' on the Ritz」
「Puttin' on the Ritz(踊るリッツの夜)」は、たまに無性に聴きたくなる曲のひとつです。80年代にTACOが歌って大ヒットしましたが、元は1930年に作られたミュージカルの楽曲だそうで、TACOの曲はそのカバーです。私もTACOのカバーで知ったクチですが、この曲もいろいろなアーティストがカバーしていて、とくに大好きなのはメル・トーメの超シブいカバーです。またインストではケニー・ボールのハイテンポでグルーヴィーなジャズアレンジも大プッシュです!「踊るリッツの夜」は、陽気な中に何かミステリアスな雰囲気があって惹かれますね。メロディは全然違いますが「ホテル・カルフォルニア」に通じる不思議な余韻がたまりません。歌詞自体は、「憂鬱な気分で何をしたらいいか迷っているなら、いっそのこと思いっきりお洒落してリッツ(英国にある超高級ホテル)でパーッと遊びまくろうぜ!」という感じで、とくに妖しいものではないのですが、やはりTACOのPVの怪し気な印象の影響でしょうか。



るんるんDamita Jo「I'll Save The Last Dance For You」
邦題は「ラストダンスは私に」です。越路吹雪のカバーなどで日本でもお馴染みの懐メロですね。オリジナルはドリフターズ(全員集合のほうではなく、米国のコーラスグループのほう)の楽曲で、リンク先はダミタ・ジョーによるカバーです。越路吹雪のイメージで、てっきりエディット・ピアフとかのシャンソンがオリジナルかとずっと思ってましたが、ドリフターズのオリジナルを聴くと当たり前ですがちゃんと60sアメリカ音楽っぽくて逆に新鮮です。



るんるんThe Three Suns「A Summer Place」
るんるんThe Ventures「A Summer Place」
1940〜60年代に活躍した米国のバンド、ザ・スリー・サンズによる、映画「避暑地の出来事(A Summer Place)」のテーマ曲のカバーです。お馴染みの映画音楽の定番曲で、心地いい郷愁感に浸れる名曲ですが、映画のほうは未見です。パーシー・フェイス・オーケストラのバージョンが有名ですが、スリー・サンズのヴィンテージ感あふれるアレンジもなかなかに雰囲気あって素敵です。ベンチャーズのカバーもトロピカル感がハマっていてこちらもイカス!



るんるんJulie London「Evenin'」
るんるんJulie London「You'd Be So Nice To Come Home To」
ジュリー・ロンドン(1926-2000)は米国の女優、シンガー。「You'd Be So Nice To Come Home To(帰ってくれれば嬉しいわ)」や「クライ・ミー・ア・リヴァー」などが主なヒット曲ですが、お気に入りのアルバム「Send for Me」に収録されている「Evenin'」など、モンド感のあるセクシーな感じの曲も素敵ですね。



るんるんSkeeter Davis「Dear Heart」
るんるんSkeeter Davis「Fly Me To The Moon (In Other Words)」
スキータ・デイヴィスといえば永遠の名曲「The End of The World(この世の果てまで)」のイメージですが、たまたまスタンダード曲のカバー集を聴いてたらこちらもけっこういい感じでグッときました。フランス・ギャルの歌唱のようなあどけない感じの少女っぽさがあって可愛いですね。



るんるんThe Four Lads「Grandfather's Clock」
ザ・フォア・ラッズは1950〜60年代に活躍した4人組のカナダのコーラスグループ。曲は童謡としても親しまれている「大きな古時計」です。オリジナルは米国のヘンリー・クレイ・ワークが作詞作曲した1876年の大ヒット曲だそうで、そういえば平井堅のカバーでもこの前ヒットしてましたね。といいつつ、平井バージョンがヒットしたのは2002年のようですから、もう17年も前になるんですね。時の経つの早過ぎ!日本でも馴染みの曲ですが、日本語バージョンは原曲といくつか相違点があり、とくに印象的なのは曲中の百歳のおじいさんは原曲では90歳です。たしかに「百年休まずにチクタクチクタク」の部分は「90 years without slumbering,Tick, tock, tick, tock,」と歌ってますね。wikiよると、これは単純に日本語で訳した場合に百年のほうが曲に乗せやすいからという理由のようです。たしかに「90年休まずに〜」では語呂が悪いですね。

メモ関連サイト
「大きな古時計」英語&日本語歌詞

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画・ケイ・スミス(Kay Lovelace Smith 1923~) 60年代の米国の絵本「Beginner's Bookshelf」第1巻より
posted by 八竹彗月 at 02:46| Comment(0) | 音楽

2019年01月29日

昭和少女スター図鑑

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昭和初期の少女スターというと、何度か記事でもご紹介した松島トモ子ちゃんが個人的な思い入れもあってか代表格っぽいイメージがありますが、他にも魅力的な方も多く、自前のプロマイドコレクションの中から適当に独特の昭和な可愛らしさのある少女スターを何人か選んでみました。昭和30年(1955年)頃の「なかよし」付録のプロマイドを中心に、「平凡」や「少女クラブ」の付録プロマイドや出所不明のカードなどを交えてご紹介します。

カードの裏面にスターの住所が番地まで当たり前のように書かれてますが、およそ65年ほど前の住所であり現在は住んでおられない(そもそも彼女たちは当時未成年者なので保護者の住所)と思うので、オリジナルを尊重してそのままにしました。昔の人はこういうものを参照してファンレターなどを送ってたのでしょうね。



かわいい小鳩くるみ

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ロリロリで可愛いですね。20代には大ヒットしたアニメ「アタックNo.1」の主人公、鮎原こずえ役の声優をされてたようですね。現在は児童文学や翻訳のお仕事をされているようです。

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かわいい小林節子

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知的で上品なお嬢様っぽい雰囲気が素敵ですね。この子のプロマイドはこれしか持ってないのですが、いろいろ集めてみたいですね。調べてみると、この後フジテレビのアナウンサーとして活躍されていたようで、逸見政孝さんと同期だったそうです。



かわいい近藤圭子

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不思議なムードをもった可愛さがありますね。童謡歌手として活躍されていたようで、絶頂期は「明星」などの雑誌に美空ひばりと並んで頻繁にグラビアを飾っていたそうです。

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メモ関連サイト
近藤圭子(ウィキペディア)



かわいい渡辺典子

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なんとなく小鳩くるみちゃんぽい雰囲気ですね。彼女は童謡歌手として近藤圭子と共に人気だったそうです。世代によっては角川映画で有名な同名の女優のほうが頭に浮かんできてしまうと思いますが、まぁ、いかにも同姓同名が多そうな普通っぽい名前なので仕方ないですね。ウィキペディアでも、「曖昧さ回避」で同姓同名の6人の著名人が出てきました。

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メモ関連サイト
渡辺典子(ウィキペディア)



かわいい浅丘ルリ子

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現代的なシャープな顔立ちの美少女ですね。ご存知のように、この後言わずと知れた大女優と成長していきます。浅丘ルリ子といえば、私の場合、横尾忠則が浅丘ルリ子のヌードを妄想で描いた初期の傑作「浅丘ルリ子 裸体姿之図」が思い浮かんでしまいます。

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メモ関連サイト
浅丘ルリ子(ウィキペディア)

横尾忠則「浅丘ルリ子 裸体姿之図」(Google画像検索)



かわいい鰐淵晴子

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西洋人とのハーフでバイオリン、バレー、ピアノなど幼少から多芸でハイソな感じが独特のオーラをもった鰐淵晴子ちゃん。松島トモ子ちゃんといっしょに昭和20〜30年代の少女雑誌でよく見かけますね。

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メモ関連サイト
鰐淵晴子(ウィキペディア)



かわいい美空ひばり

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美空ひばりといえば石原裕次郎と同じく昭和という時代を象徴するカリスマでしたね。この写真は、見た感じ13〜15歳あたりのものでしょうか。6歳から舞台に立ってたとの事で、すでに落ち着いた貫禄があります。
posted by 八竹彗月 at 14:13| Comment(2) | コレクション

2019年01月18日

聖書と原罪

何かと慌ただしいような、そうでもないような感じで新年がはじまりました。すっかり開けきってしまいましたが、今年もよろしくお願いします!今回の記事は、この前部屋の整理などをしてたらふと聖書の原罪についてひらめくことがあったので、忘れないうちにメモ替わりに文章を書いているうちにいろいろ話がふくらんできたので単発記事としてアップしてみました。

本聖書の思い出

欧米の文化はキリスト教の思想が根底にあるので、聖書を一通り読んでおいたほうがハリウッド映画や文学、アニメなど、向こうの文化をより楽しめるよ、といった話を学校の先生だったか誰か忘れましたが、子供の頃どこかで聞いていたこともあって、中学生くらいの時期に聖書をよく読んでいました。欧米人ならだれでも知ってるような超ベストセラー本なわけですから、多分読めば面白かろう、という軽いノリで読んでみたのはいいですが・・・・しかし、世界宗教の聖典だけあって子供には薬が効きすぎたようでした。「原罪」に落ち込み、「十戒」に憂鬱になったりと、心の救いどころか、何か恐ろしい圧迫感や束縛感を感じつつ、それを否定すると地獄に堕ちるのではないか、神に罰せられるのではないか、という恐怖感に囚われた思い出があります。聖書に書いてある禁則事項の中には、「脳内で女性を犯しても実際に淫行したのと同じ罪!」とか「オナニーも罪!」とかあるので、思春期の少年には厳しすぎる内容です。なんとなく性に抑圧的な環境で育ったこともあって、さらに自ら禁欲的な思想まで取り入れたものですから、心の奥では逆に余計にエロに対する興味を増大させていた気がします。抑圧されるほどに、ますます性的な空想が極上のパラダイス的な魅力をもって誘惑してくる感じでしたが、そういう妄想をしている自分に罪悪感や嫌悪感もあったりして、それなりに若者らしい悩みに苦しんでいたのだなぁ、と他人事のように思い出が蘇ります。大人になるにつれて、そういう聖書の思想を背景にした社会に生きているはずの西洋人も、十戒を守って生きてるような人はほとんどいなさそうな事がわかってきて、気が楽になりました。何ごとも、イイカゲンくらいが加減がいい、つまり「いい加減」なのかもしれませんね。

聖書に限ったことではないですが、この世界は必ず2面性を持って存在しているので、醤油も調味料として使うと美味しいですが、ガブ飲みしたら毒と同じで死んでしまうように、聖書も心の成熟度とかいろいろな条件によっては毒にも薬にもなるのだということを学びました。ヘッセの小説とかは、そうしたキリスト教的な思想が文化的な背景としてあらかじめ存在している西洋人の苦悩が描かれていて、個人的にとても思い入れのある小説「デミアン」も、そうしたキリスト教的な環境からの抑圧と解放を描いていて、すごく共感したものです。なるほど思い返してみれば、もし先に聖書を読んで、さらにその聖書の世界観に暗澹たる圧迫感を感じることがなければ、ヘッセの作品から受ける印象も浅いものになったでしょうから、振り返ってみれば、聖書を読むという経験はなんだかんだいっても役に立ったには違いありません。陰謀論系のオカルト本も聖書が元ネタになってるものが多く、鬼塚五十一などの666関係の陰謀論とか、超古代文明関係の話とか、なにかと妖しい話題にも聖書はよく出てくるので、そういう話のネタ元としての興味からヨハネの黙示録を読んだりなどもしました。

一冊の読物として見ると、旧約聖書は序盤はエデンの園とかノアの洪水とかバベルの塔など有名なイベントが次々と目白押しなのでそれなりに面白いのですが、ヨシュア記とか歴代志上など旧約聖書全般に「ベニヤミンの生んだ者は長子はベラ、その次はアシベル、第三はアハラ、第四はノハ、第五はラパ。ベラの子らはアダル、ゲラ、アビウデ、アビシュア、ナアマン、アホア、ゲラ、シフパム、ヒラム。(歴代志上 第8章)」みたいな感じで誰それが誰を生んだとか家系図的な記述がえんえんと続くスコブル退屈な文章も多く、そのせいで旧約はあまりちゃんと読んでませんでした。こうした聖書の「○○○が○○○を生んだ」的な記述がしつこく繰り返されるノリをパロったのが筒井康隆の「バブリング創世記」で、内容は「ドンドンはドンドコの父なり。ドンドンの子ドンドコ、ドンドコドンを生み、ドンドコドン、ドコドンドンとドンタカタを生む。ドンタカタ、ドカタンタンを生めり。」という感じでえんえんとへんてこな家系の愉快な響きの名前が語られるユニークで実験的な短編小説です。さすがナンセンス文学の巨匠筒井康隆ですね。これも聖書のしつこい家系の記述を先に知ってないと面白さも半減しますから、やはり聖書はとりあえず読んでおくと何かと後々役に立つ本といえます。

メモ関連サイト
ニコニコ文学劇場 「バブリング創世記」 -筒井康隆- 読み手:ゆっくり
本だと字面だけで読む気が失せてしまうような威力があるのでちゃんと読んだ事はなかったのですが、こうして改めて音声で聴くとばかばかしくも妙にリズム感のある繰り返しのフレーズがツボにハマって吹き出してしまいました。聖書を茶化すというバチ当たりなノリもいかにも筒井節な感じですね。キリスト教だけでなく、そういえば仏式の葬式を茶化したブラックな漫画も描いてましたね。そこに下手に真面目な批判や風刺が込められていたりすると、ややもすると冒涜と受け取られかねないネタですが、筒井康隆の場合、ただ「面白そうだったからやった」的なノリでこういうものを書くので「筒井康隆なら仕方ない」ということになってしまう所も面白いです。こういう作品は、ちょっとでも元ネタを見下すような感じとか、批判的な風刺の匂いがすると興醒めになるのですが、絶妙にそうならないところが筒井康隆の天才性ですね。

というわけで、旧約聖書はそんなに熟読していないのですが、後半のエレミア書、エゼキエル書などの箴言集的なものは今読み返すと仏教哲学にも通じる事を言っていたりなど、なかなか含蓄があります。新約聖書はイエス・キリストを主人公にした聖典なので、基本的にイエスの人生や思想が語られる内容になっており、読みやすいです。また、旧約聖書の時代背景と較べると、旧約よりも悲壮感が無く、父なる神様も旧約の時の恐く厳しい感じでなく、比較的優しい神様になっているので馴染みやすいですね。神様が時代や民族によってキャラが微妙に変化していくのは、神様自体に問題があるのではなく、感じとる人間の側のフィルターの違いが神の違いになっているのだと思います。旧約聖書の神は人間の罪に怒って洪水を起こしたり実の子供を生贄に求めたりなど、どこか近付き難い恐い神のようなイメージがありますし、十戒のように、厳格な規則を人間に求めるスパルタ教師のような側面がありますが、こういう神の性質は、当時のイスラエル民族の置かれた厳しい環境を反映したものなのでしょうね。

現代の日本社会の有り様と聖書の時代とはかなりのギャップがあるのも確かで、書いてある事を真面目に受け取りすぎると最初に書いたようにいらぬ不安感や罪悪感を背負いかねないところもあり、キリスト教というのは世界的な宗教の割にはけっこう上級者向けの宗教のように個人的には感じてます。冷静に聖書を読めるようになったのは哲学や神話学や神秘学やスピリチュアルの教えなど、精神世界全般に興味を持って俯瞰してみるようになってからでしたね。どんな宗教でもそうですが、直感的というか感覚的に不安感や罪悪感や恐怖感を感じるようなものは、自分の肌に合ってないか、まだその教えを理解できる時期ではないか、あるいはカルト宗教などの間違った教義であるかのどれかです。基本的に、その教えを聞いて心が軽くなったり、人生を能動的に自由に生きれるようにしてくれるようなものこそがその人にとって一番必要な教えだと思います。人間に対する神の願いは一言でいえば「幸せでありなさい!」という事で、すべての教えはそのための技法にすぎません。宗教は元来、人を自由にし、幸せに導く技法でありますから、そうでないものはその宗教が間違っているか、自分の解釈が間違っているかのどちらかだろうと思います。



本原罪のはなし

キリスト教の基本的な概念で「原罪」というのがありますが、昔の私がそうだったように、これもキリスト教にネガティブな印象を持ってしまう原因にもなっているような気がします。私は別にクリスチャンでもないですし、特定の宗教の信者でもないのですが、神について興味を持ち「神とは?」という問題を研究していくと、そうした「原罪」をはじめとして、世界的にメジャーな宗教であるキリスト教もけっこう誤解して自分勝手なイメージで解釈している部分が多いことに気づいてきます。「原罪」というと、一般的に定義すれば、聖書の創世記に登場する人類最初のカップル、アダムとイブが神に背いた罪のことで、人間はすべてこのアダムとイブから受け継がれた罪(原罪)を生まれた時から皆背負っているのだ、という概念です。聞いただけで憂鬱になってくる概念ですよね。ジョセフ・キャンベルは生前日本を訪れた時の印象を「原罪を持たない国」と羨ましそうに語っていましたね。その言葉からは、それほどこの原罪というキリスト教の概念は欧米人には多かれ少なかれ潜在的に刻み込まれたトラウマ的なものであるように感じました。キャンベル先生の著書を読んでるとキリスト教に批判的な記述がしばしば出てきますが、それはおそらく、ヘッセやユングなども感じていたような、そうした西洋人の聖書的なトラウマが影響してる面もあるのかな、と思いました。キャンベル先生が神話の研究に魅入られたのは、聖書の価値観とは違った視点から語られる神話の神々の中に、そういった抑圧から解放してくれるような救いを求めていたからなのかもしれませんね。


私は日本を訪れたときの経験を決して忘れないでしょう。原罪による堕落も、エデンの園もまるで聞いたことのない国です。神道の聖典のひとつに、自然の営みが悪しきものであるはずはない、と書いてあるのです。あらゆる自然な衝動は矯正するものではなく、昇華すべきものである、美化すべきものである。自然の美と、自然との協力とに対するすばらしい関心がありますから、日本の庭園のいくつかでは、どこで自然が終わって人工が始まっているのかわからない。これはすごい体験でしたよ。
──────ジョセフ・キャンベル

ジョセフ・キャンベル、ビル・モイヤーズ著『神話の力』(飛田茂雄訳 1992年 早川書房) p65より



と、まぁ、人を救い、人を幸せにするのが宗教のはずなのに、なんで原罪などというトラウマ的な概念で人を縛るのか?という部分で、キリスト教をはじめとする宗教全般への懐疑心を持つ人も多いように思います。かつては私もそうでしたので、多分、そのような考えを持つ人はけっこういそうな気がします。この間、この原罪の概念についてふとひらめいたことがあったので、この記事を書こうと思ったのですが、その考えとは「そもそもこの原罪というのは、いわゆる人間を罪人として定義することが本義ではないのではないか?」とうことでした。ニュアンス的には、「罪」というよりは「不完全」という意味ではなかろうか、ということです。人間はもともと神(あるいは宇宙≠ナもいいですが)と繋がっているのが自然な状態であるはずなのに、すべての人間は神を知らない状態で生まれてくる。この人間の置かれた不完全な状態を言い表したのが「原罪」という概念なのではないか、というようなことが頭に浮かんできました。

あらゆる宗教は、なんらかの方法で神との絆を回復しようとする試みであるともいえると思います。宇宙138億年の歴史の結晶として人間が誕生したわけですが、その宇宙の子である人間は宇宙について無知であることと似ています。神秘家のグルジェフも、人間はそのままの状態ではただ環境に自動的に反応しているだけの機械にすぎない、と言っていましたね。人間は能動的に「目覚める」努力をしない限りは眠ったまま生まれて眠ったまま死んでいくだけである、というのがグルジェフの思想でしたが、たしかに人間というのはそういう存在なのかもしれません。神を知り、神と共にいる、という「本来の状態」に、なんらかの方法で回帰するためのノウハウを提供しているのが宗教や神秘主義やスピリチュアル思想などの精神世界なのだと思います。

人間以外の動物は、善悪の概念を持たないゆえに罪を犯す事はあり得ません。ライオンがシマウマを殺すのは自然が認めた生きるための行為であって悪ではないですし、蜘蛛が自らの作った粘着質の網の罠にかかった蝶を食べるのも罪ではありません。ライオンも蜘蛛も善悪という基準で生きてませんから、悪意で他者を殺すことは原理的に不可能です。同じように、植物も、石も、山も罪を犯しません。ただ人間だけが善悪を知っているために罪を犯してしまいます。これが聖書の創世記にある「善悪を知る木」の実を食べたアダムとイブの寓意であるように思いました。

では、なぜ人間は「善悪を知る」存在であるのか?善悪を知らなければ罪を犯す事はないですし、もっと自由に生きれたはずです。善悪を知るというのは神の罰なのでしょうか?いや多分、それこそが神の恩寵でもあるように思います。なぜなら、動物は善悪を知らないゆえに罪を犯したくても犯せない存在ですが、自分の不完全性についても知らないので、神を知ることもできません。つまり、動物は悪い生き方ができないかわりに、より良く生きるという生き方もできないわけです。動物は愚かな存在だといいたいわけではなく、むしろ赤ちゃんのように無垢な存在だということです。無垢でありますが、それ以上にも以下にもなれない。人間は悪によって動物以下の心性に堕ちる事もありますが、善を行うことで動物の無垢な心性よりも高次の心性を獲得することも可能な存在です。聖書が神の姿に似せて人間を造った、と記述しているのは、まさに、「万物の中で、人間だけが神と似たような存在になれる特権を与えられた」ことを示唆しているのではないか、ということです。

神は自分のかたちに人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し、男と女に創造された。

聖書 創世記 第1章


人間だけが、少なくとも地球上の生物の中では唯一宇宙を知ろうとする生物として存在していますし、人間だけが神の存在に気づくことが可能で、さらには神に限りなく近づくことも原則的に可能な状態にあるわけです。そう考えると、かつて抱いていたような、人間を原罪という窮屈な檻に閉じ込めて罪悪感を植え付けようとしているかのような陰鬱なイメージとは真逆の、非常にポジティブなメッセージを読み取る事ができます。そして、この解釈のほうがインドのヴェーダーンタ哲学から最近のスピリチュアル思想まで共通して現われてくる考えに近いものがありますし、意外とこれが真相に近いような気もしている昨今です。
posted by 八竹彗月 at 07:23| Comment(0) | 精神世界

2018年12月15日

【音楽】最近聴いてる曲

元気な曲から、ヒーリングな曲まで、最近聴いている曲の中からいい感じの音楽を気分で選んでみました。

るんるんSlade「Cum On Feel The Noize」
元気が湧いて来るパワフルな曲です。最近よく聴いてます。クワイエット・ライオットやオアシスのカバーでも知られるヒット曲「カモン・フィール・ザ・ノイズ」ですが、やはりスレイドによる1973年のオリジナル曲はプリミティブなパワーがあってイイですね〜

るんるんJimi Hendrix「Purple Haze」
るんるんJimi Hendrix「Sunshine Of Your Love」
激しい中に遊び心とかっこよさとサイケ感のあるフリーダムなギターの唸りにシビれます。このところなぜかジミヘンが無性に聴きたくなってきて、最近は仕事のBGMのジミヘン率が微妙に上昇中です。以前はアクが強過ぎる感じがして苦手だったんですが、最近ようやくジミヘンの良さが分かってきたみたいです。「パープル・ヘイズ」といえば、HIS(忌野清志郎&坂本冬美&細野晴臣のユニット)が和風にアレンジした「パープル・ヘイズ音頭」という曲がありましたね。「サンシャイン・オブ・ユア・ラヴ」は伝説のロックバンド、クリームの名曲のカバーです。

るんるんNigel Kennedy「Fire」
るんるんNigel Kennedy「Transfiguration」
ナイジェル・ケネディは英国イングランドのヴァイオリニスト。「Fire」はオムニバスのジミヘンのトリビュートアルバム「Stone Free ( A Tribute to Jimi Hendrix )」からの曲で、ジミヘンの曲「Fire」をいい感じにアレンジしていて気持ちいい曲です。「Transfiguration」はナイジェル・ケネディの2010年のオリジナルアルバム「Shhh!」からの曲で、フリーキーで個性的な曲ながらも心地いいグルーヴ感のある面白い曲です。

るんるんBalanescu Quartet「Computer Love」
るんるんBalanescu Quartet「The Model」
バラネスク・カルテットはルーマニア出身のヴァイオリニスト、作曲家のアレクサンダー・バラネスクによる弦楽ユニット。オリジナル曲もユニークでかっこいい曲が多いですが、マイケル・ナイマンの弦楽四重奏曲の演奏や、今回ピックアップしたクラフトワークのカバー曲などもとてもいい感じですね。テクノの名曲も生楽器のアレンジが意外とハマっていて、なかなか聴かせてくれます。

るんるんGary Lewis & The Playboys「Green Grass」
るんるんGary Lewis & The Playboys「Sure Gonna Miss Her」
ゲイリー・ルイス&ザ・プレイボーイズは主に60年代に活躍したアメリカのポップ・ロック・バンド。いかにも60年代ポップスな夢のようなスウィート感のあるテイストが気持ちいいですね。

るんるんHoneydrippers「Sea of Love」
レッド・ツェッペリンのロバート・プラントの結成したバンド、ハニー・ドリッパーズによる80年代の大ヒット曲、「シー・オブ・ラブ」。てっきりオリジナル曲かと思ってましたが、1959年のフィル・フィリップス( Phill Phillips )による同名のヒット曲がオリジナルのようですね。郷愁感のある切ないロマンチックなムード感がたまりません。

るんるんSteven Geraghty「You Were There」
ゲーム史に残るであろう傑作「ICO」のサントラ「ICO~霧の中の旋律~ 」からの一曲。スティーブン・ジェラティは英国の少年合唱団「Libera(リベラ)」に所属していた歌手で、聴く者を神聖な天界に誘うようなその天使のようなけがれ無き歌声に癒されます。ICOの不思議な世界観と相まって、実に神秘的な味わいの楽曲に仕上がっていますね。

るんるんLibera「Air」
上でも触れたロンドンを拠点に活動している天使のような歌声の少年合唱団「Libera(リベラ)」、この曲はバッハの有名な名曲「G線上のアリア( Air on G String )」ですが、透き通った少年たちのコーラスによってより崇高な気分に誘われますね〜
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posted by 八竹彗月 at 04:06| Comment(4) | 音楽