2017年12月25日

UFO、その謎とロマン

 UFO写真!

この前メル友のTさんから、な、なんと!UFOの生撮り画像!を送っていただきました。ブログへの転載許可をいただきましたので、お披露目したいと思います。UFO関係の記事も書きたいと思ってたところだったので、合わせて文章をまとめているうちに今頃になってしまいました。

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黄色い建物の屋上にあるテレビアンテナの隙間から謎の光体!星にしては大きすぎるし明るすぎます。

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しばらくすると斜め上のほうに移動しています。

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埋め込まれた撮影時刻のデータによればこの2枚の撮影間隔は2分ほどであるのが確認できます。とすると、飛行機にしては遅すぎますから、ますます謎は深まります。別の日に目撃した似た光体からはUFO子機らしきものが出てきたそうです。

TさんのUFO写真は、7月初旬に撮られたもので、Tさんいわく、UFOそのものではなく、UFOが出現するワープゾーン(あるいは母船でしょうか)とのことです。Tさんはこうした謎めいた光を頻繁に目にする機会があるそうです。2枚の写真に楕円状の光が写っていますが、たしかに星にしては大き過ぎです。これはTさんからのご指摘ですが、画像ファイルの詳細情報を見ると2枚の写真は2分ほどの間隔で撮られています。となると飛行機だとしたら移動速度が異常に遅過ぎます。ますます謎のUFOっぽさが増してきてワクワクします。

TさんはとくにUFOやオカルトのビリーバーではなく、あきらかに疑わしいものは無理に信じようとはしない方ですが、実体験として不思議な体験もちょくちょくしてる方で、今回のUFOも、そうしたTさんの不思議現象を引き寄せる体質が招いたものだったのでしょう。今回の撮影では、UFOが出る前にTさんは寝ていたそうで、その夢の中でUFOを見せてくれるという予知夢を見たとのことです。たしかに、事前に出るのがわかってなければ撮影は難しいですね。今回の写真は三脚を立ててきっちり撮っておられるので、そこまで準備万端にセッティングできたのは予知夢のおかげだったのでしょう。

UFOというと、異星人の乗物というイメージばかりが先行しがちですが、今回のTさんの事例や画家の横尾さんをはじめとしたUFOコンタクティーに共通するのは、UFOはどういうわけか人間の心に反応する傾向があるということです。来てくれと願うと来る確率が上がるし、光り方や飛び方などこちらで注文するとけっこう応じてくれるものらしいのです。かつてユングも指摘していたように、UFOと人間の無意識というのは、どこか通底する何かがあるような気がしています。


 アメリカ政府はUFO情報を隠蔽しているのか?

この前の米国の大統領選挙でヒラリーさんが「政府の隠蔽している極秘のUFOファイルを開示させる」と公約を発表していたのはご存知の方も多いと思います。トランプさんに負けたのでうやむやになってしまいましたが、米国ではUFO問題を大統領選挙の公約に掲げるほどに国民的な関心が高いという所のほうに私はびっくりしました。エリア51とかメン・イン・ブラックとかMJ12とかロズウェル事件などなど、有名なUFO関連のワードのほとんどは米国発ですから、ある意味、比喩ではなくUFO問題は米国の神話≠フような面があるのかもしれません。

米国政府は長年政府機関としてUFOの調査をしてきたことは有名ですが、UFOとはすなわち未確認飛行物体のことですから、宇宙人の乗物かどうかはさておき、正体不明の飛行物体というのは、国家目線で考えれば、敵国のスパイ行為、あるいは他国からの攻撃の意図を考慮する必要がありますから、軍事的な目的でUFOの調査というのは当然ありえます。もしかしたら、UFO極秘文書というのは多くはそうした軍事機密に属するようなもので、UFOマニア的見地からはあまり面白いものじゃないのかもしれません。しかしながら、見間違いや勘違いや意図的なトリックなどを排除してもなお残る謎の物体は依然としてあります。まだまだUFOは謎めいたロマンあふれる存在であるのはたしかです。

そういえば、最近のUFOマニアがいうような銀河連邦やレプティリアン云々という話は、現実離れしすぎていてまだ信じられないですが、面白い話なのは確かです。そういうのもあってもいいとも思いますし、コンタクティーの人の多くは、そうした話に理解を示す人が多いので、もしかするとそういうSFみたいな話も現実にあるのかもしれません。コンタクティーも多くは眉唾な体験談を語る人が多いですが、とても面白い話が聞けるので、あきらかに嘘っぽい話は別として、面白い見解をもったコンタクティーの話は真偽は保留にして楽しんでいます。後述するハイネック博士の本でも宇宙人と直接コンタクトをした人の体験談とか載っているので、もしかしたらそういうのもあるのかもなぁ、くらいには思っています。まぁ、真偽が不明なものは、否定するより楽しんでしまうのが有益だと思っているので、UFO情報においてはあらゆる可能性を担保して考えてみたいですね。有る無し論争より、人生を豊かにしてくれるかどうか、という視点で捉えるのがUFO(あるいはオカルト全般)に関しては正しいのかな、と思ったりもします。

メモ参考サイト
「UFOの極秘ファイルを開示する」ヒラリー・クリントン氏が前代未聞の選挙公約(The Huffington Post様)



 頭上にいつもある無限

数年前に話題になった宇宙人の屍体解剖の極秘ビデオというのは検証の結果、残念なことに捏造の可能性が高いという結論でしたが、UFOや宇宙人関連の話の多くは、そういったインチキか、あるいは見間違い、勘違いがほとんどを締めるというのはUFOマニアであっても常識のようなところがありますから、私も「またか」という気分になりました。しかしそれでもまた、トリックでも勘違いでもなく、まさに正体不明の飛行体は少なからず今も現実に空を飛んでいるのは間違いないとも思っています。深海には謎の生物がまだまだたくさん生息しているわけですが、海よりも広大な空には、その何倍も謎が蠢いていてもおかしくないように思います。

考えてみると空というのは不思議な空間です。日常の人間の視点は自分の身長の高さで平行に世界を見ているので、いつも有限な世界に生きている錯覚をしてしまいがちですが、ふと空を見上げるだけで、突如無限に底なしの天空が広がっている事実に向き合います。空のどこを見ても、無限に遠く、果てのない空間です。いつも人間は、その頭上に無限≠背負いながら、地球という有限の世界が全てだと、ワザと錯覚しながら生きています。それは、自分はいつかは死ぬ存在だということを無意識に考えないようにして生きているのと似ています。この世的な考えでは、無限というのは扱いにくく、不安なモノだからです。しかし、元を辿れば人間もまた、この無限なる宇宙を母体にして誕生した存在ですから、あえて死とか宇宙などといった無限≠象徴する存在と、正面から向き合って対峙したときに、本来のパワーが目覚め、より人生をパワフルに生きれるのではないか、とも感じます。



 北米インディアンとスターピープル

アメリカのUFO関連のユニークな最近のトピックとして私が関心をもっているのは、インディアン自治区での頻繁なUFO飛来に関するものです。特定のインディアン自治区では、UFOはかなり頻繁に目撃され、宇宙人にさえちょくちょくコンタクトをとったりしているという人も珍しくないらしく、そうしたインディアン自治区における特殊な事情をレポートした『「YOUは」宇宙人に遭っています』という本が最近気になっているところです。まだ未読なのですが、著者がインディアンの血をひく大学の研究者で、そうした出自の利点を生かしたインディアン自治区でのUFO問題のフィールドワーク、という、タイトルのうさん臭さとは逆にけっこう真面目に書かれたもののようです。そのうち読んでみたいと思っている本です。

メモ参考サイト
『「YOUは」宇宙人に遭っています』レビュー(「毎日がエドガー・ケイシー日和」様のブログより)

北米インディアン自治区でのUFO現象は、ケーブルテレビのヒストリーチャンネルで以前『HANGAR 1 〜UFOファイルが眠る場所〜』というタイトルで放映された番組(現在はhuluでも配信されているようです)でも紹介されていて、シーズン2の第5話目「スターピープルの存在」というサブタイトルで、インディアン自治区での不思議なUFO目撃談の数々を紹介していて、すごく興味深いです。アメリカ先住民族である彼らは、古来から宇宙人(スターピープル)とコンタクトをとっていたようなのです。UFOというと、未来的というかSF的なイメージがありますが、このエピソードはUFO問題にしては毛色が変わっていて独特の民族学的なテイストがそそるものがあります。諸星大二郎の短編『商社の赤い花』は普通のサラリーマンが宇宙船で遠い惑星に単身赴任する話ですが、宇宙を舞台に生活感のある話を描いているのがすごくユニークでした。番組もそういうのに似たノリが面白く、インディアンのUFO目撃や宇宙人との遭遇も、ごく普通の日常の出来事みたいに語るインディアンの青年のインタビューにグッときます。目撃談も、巨大な銀色の葉巻型UFOを至近距離で見た話など、UFOの窓から宇宙人がこちらを覗いているところまで証言していて、迫力があります。



 生きている宇宙

UFO問題をいろいろ調べていくと、UFOというものは単なる物理的な物体が飛んでいるというだけではないような気がしてきます。現在の科学の常識では、遠い星から地球に宇宙人がやってくるというのは非現実的に思えますし、環境の異なる星の生物なら、地球上に存在するウイルスや微生物に免疫がないでしょうから防護服も無しに地球に降り立ったりするのもおかしい話です。また、コンタクティの多くが遭遇する宇宙人が人間型、とくにアングロサクソン系が多いのも、どこか地球的な価値観が反映されているような気もします。しかし、途方もない距離の移動には途方もない時間がかかるはずだ、というのもまた常識という名の固定観念ですし、常識に外れているものは存在しないとは言い切れないのも事実です。ある意味UFOは理屈を超えた存在なので、理屈で解釈しても面白くなりません。

よく考えてみれば、我々がモノゴトの真偽を計るモノサシにしている「常識」というものも、地球上の人間だけに通用するだけのモノサシです。この宇宙における生命の発生パターンは、まだ我々の地球上での1パターンしか知らないのが現状ですから、ヒューマノイドが宇宙における知的生物の定番のフォルムなのか、異質でレアなフォルムなのか、全く解りませんし、仮にコンタクティーがヒューマノイドタイプにばかり遭遇しているとしても、それがその異質な体験を否定する根拠にはならないでしょうね。

メモ参考サイト
プラズマ状態で「無機的な生命」が誕生――最新の物理学研究(WIRED様)
人間は地球上での生命の発生パターンしか知らなかったために、永らく「生命の発生には水が必要である」とか「生命体は炭素で出来ているはずだ」とかという常識が支配していましたが、最近の研究ではプラズマ状態の中で無機的な生命体が発生する可能性を示唆しているようですね。こうしたタイプの生命が存在するならば、地球型生命体のパターンを基準に考えられてきたハピタブルゾーンに限定しなくても、もっと多様な可能性がひらけるわけですから、案外宇宙における生命の発生というのは、今まで考えられてきたよりもレアなものではなく、意外とこの宇宙は生命に満ちた世界なのかもしれませんね。

自らも宇宙存在である人間が、面白い℃魔良しとしたり、好んだりするのは、この宇宙自体が面白い事に肯定的であるということだろうと思います。つまり、この宇宙は、つまらない事よりも、面白い事のほうが起こりやすい仕組みになっており、つまらない事よりも、面白い事のほうが真理である場合が多いような、そういうシステムで宇宙は存在しているように思います。一見、つまらない事のほうが頻繁に起こっているように感じるのは、人間のマインドが、この世的な、有限性の罠に陥っているからであり、思考のダイヤルを本来の宇宙の性質である無限に合わせると、面白い事のほうが圧倒的に頻繁に生じているのがわかってきます。

リチャード・モーリス・パックの神秘体験「宇宙が死せる物質によって構成されているのではなく、一つの生ける¢カ在であることを知った」という言葉にあるように、ふだん有限に囲われている心がふとした瞬間無限に開かれると、世界の様相はまったく見た目を変えずに質が逆転します。コンピュータのクロック周波数など、一昔前にいわれていた物理的な上限を今や軽く飛び越えてしまっているように、人間が「できる」と固く 信じた事は、なぜか必ずできてしまうようにこの世界はできているような気がします。これは、宇宙から与えられ人間にそなわった無限≠フ魔法によるものなのでしょう。

天才といわれる数学者や物理学者は、真理はつねに美しいはずだという漠然とした確信をなぜかもっていたようで、正しい答えを必死で求めるというよりは、美しい解法を求めていくうちに歴史的な発見をしたりしたといった逸話を目にしますが、それは逆に言えば、真理に近づくほどソレを美しいと感じるようなアンテナを人間は持っているからかもしれませんね。

私は基本的にUFO肯定派ですが、キャトル・ミューティレーションやミステリー・サークルなどは、懐疑派の主張のほうが説得力があるように思えますし、なんでも信じるというよりはケースバイケースですが、逆にマトモな肯定派(科学的な推論によって解釈する山本弘さん系の懐疑主義的なUFO肯定論者)なら信じないようなことの中にも意外な真実が隠れてる気がしています。宇宙人と頻繁に遭ってコミュニケーションしているとされるコンタクティーの人たちの話は、金髪美人の金星人とデートしたとか突拍子も無い話をする人もいますが、中には真偽は別にして、横尾さんや秋山眞人さんなどの、捨て置けない興味深い体験談を話すコンタクティーもいます。横尾さんはUFOをどこか霊的な現象とよく似た捉え方をしており、そういうところも面白いです。



 J・アレン・ハイネック博士

 私は最初、まったくのUFO懐疑論者だった。つくり話のような(当時の私はそう信じ込んでいた)UFO目撃報告を、片っ端から見破ってはひとり悦に入り、満足していた。UFOが宇宙船であれとこよなく願う円盤狂信者のくやしそうな顔を思い浮かべては、溜飲をさげていたものである。彼らにとっては、たぶん、私は仇敵であったろう。
 だが、そんな私も、徐々にUFO肯定論者になっていった。1960年代の後半になると、完全な肯定派になっていた。これは、当初まったく予想もしなかったことである。
 現在、私は寸暇を惜しんでUFO問題に取り組んでいる。私に変身をとげさせ、これほどかりたてる理由は、UFO現象はたしかに存在するものであり、それを調査し、理解し、最終的には解答をあたえることが、人類の宇宙観にはかりしれない影響を与え、変革への大きな足がかりになると信じているからにほかならない。
───J・アレン・ハイネック

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『ハイネック博士の未知との遭遇レポート』J・アレン・ハイネック著 青木榮一訳 二見書房 1978年


UFO問題の権威というとハイネック博士に言及せねばなりませんね。天文学者のJ・アレン・ハイネック博士は、アメリカ空軍のUFO調査機関「ブルーブック」の顧問であったという過去を持ちながらも、調査を積み重ねていくうちに、たんなる誤認やインチキだけでUFO問題を片付けられないという考えに至り、肯定論者に転向したという特殊な経歴を持つUFO界の重鎮です。「第1〜3種接近遭遇」などのUFO目撃事件の分類を提唱したことでも有名で、UFO映画の金字塔であるスピルバーグの『未知との遭遇』ではアドバイザーをつとめました。肩書き的にも社会的な信用をもった人がUFOに肯定的な情報発信をするのは珍しいですし、それなりにUFO問題が単なるテレビのバラエティネタとしてでなく、人類にとってなんらかのけっこう重要なメッセージを秘めた真面目なものなもののようにも思えてきます。

ハイネック博士によるUFO接近遭遇の分類

第一種接近遭遇
 空飛ぶ円盤を至近距離から目撃すること。

第二種接近遭遇
 空飛ぶ円盤が周囲に何かしらの影響を与えること。

第三種接近遭遇
 空飛ぶ円盤の搭乗員と接触すること。

ウィキペディア「接近遭遇」より


ハイネック博士の著書に、UFO目撃から宇宙人との遭遇まで幅広く証言を集めて分類したものがありますが、やはり宇宙人との直接コンタクトの証言はインパクトがあって興味深いですね。宇宙人と呼ばれている存在が、ほんとうに外宇宙からの使者なのかどうかはさておき、そのような出所不明の謎めいた知的生物が地球のどこかに平然と暮らし、時折人間とコンタクトしている、と考えるととてつもないロマンを感じます。

プロジェクト・ブルーブック(※米国空軍に実在したUFO調査機関の名称)が、夜間の発行物体、空飛ぶ円盤、第一種と第二種の接近遭遇のどの場合にせよ、「信用ある目撃者の語る信じがたい話」をまじめにとりあつかうのを拒否しているのだから、生物≠フ存在をともなうUFO目撃事例、つまり第三種接近遭遇を邪険にあつかったとしても、なんの不思議もない。空飛ぶ円盤≠フ目撃より、生物≠ニの遭遇のほうが認めがたいのは、どうしてなのだろうか?ひとたびわれわれ以外の生物の存在をあえて認めれば、まず競争と敵対関係が怖いだけでなく、未知の存在に対する恐怖の深淵に直面せざるをえないからだろう。p196

『ハイネック博士の未知との遭遇レポート』J・アレン・ハイネック著 青木榮一訳 二見書房 1978年


UFOを単に好奇な珍現象としてだけでなく、真面目な研究対象として確立させたのはハイネック博士の大いなる貢献で、1967年に米国テキサス州に発足した世界最大のUFO研究団体「MUFON(ムーフォン)」でも、ハイネック博士の分類に準じて資料を集めているようです。MUFONは民間団体であり、また調査員も研究員も基本的にUFO肯定派ですから、真偽がグレーのものはシロとして扱ってしまう側面はありますが、それなりに精査して資料を収集しているので捨て置けない情報も多く眠っているようです。このMUFONという組織自体にスポットを当ててUFO問題をマニアックに紹介した米国の番組が上記でも触れた『HANGAR 1 〜UFOファイルが眠る場所〜』というシリーズで、毎回興味深い切り口でUFO問題を紹介していくとても面白い番組でした。UFOに興味のある人には機会があればぜひ全話視聴をお勧めしたいです。




 第三種接近遭遇(=宇宙人との接触)

オカルト好きで有名な音楽家の細野晴臣氏は、昔の雑誌の記事で『ムー』と『UFOと宇宙』を愛読していることが書かれていて、『ムー』は知ってましたが、『UFOと宇宙』という雑誌がどんなものなのか気になっていました。『UFOと宇宙』というと、子供の頃、親戚のお兄さんの本棚にUFO関係の本といっしょに挟まっていたのを覚えているくらいで、よほどコアなUFOマニアが読む雑誌なのだろうという漠然とした印象だけがあったのですが、最近古本市で安価で大量に見かける機会が何度かあり、思いきって何冊かゲットしてみました。

『UFOと宇宙』(14 隔月刊 1975年10月号 ユニバース出版社)には表紙に「特別取材」という煽りで「円盤をよく見る人」という大いにソソるタイトルが書かれており、ものすごく気になったので入手してみました。記事の内容は、イラストレーターの池田雅行氏による詳細な目撃事例がメインで、ものすごい至近距離でのスリリングな目撃事例や詳しい図解などが興味深く紹介されており、またそれだけでなく、第三種接近遭遇、つまり宇宙人との遭遇体験まで含む驚くべき内容で、「信じる気マンマン」の体制で読んでいた私もにわかには信じがたい内容でした。しかしながら、UFO問題でもっとも面白いのがこの第三種接近遭遇の事例であります。そうした事が実際にこの世界では知らない所でちょくちょく起こっているのかもしれない、という気分に浸るのは楽しいです。そうして第三種接近遭遇の事例として宇宙人コンタクティの体験談などに関心が芽生え、関連情報を集めていくうちに、宇宙人とのコンタクトというのは、一般に考えられているほどトンデモでもなく、妄想でもないのではないんではないか?という気分になってきました。UFO問題は、この第三種接近遭遇の事例を受け入れるかどうかがターニングポイントで、ここを超えると一般に真性ビリーバーとして映ってしまうことは避けがたくなってきますが、同時にここを避けて通るとUFO問題の本質に触れることはできませんから、このラインを超えて信じるのはそれなりに勇気のいる決断です。

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UFO専門誌『UFOと宇宙』(右・No.43 1979年2月号、左・No.14 1975年10月号 ユニバース出版社)

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『UFOと宇宙』No.14に掲載されたUFOコンタクティーを紹介する記事。UFOを至近距離で目視したり、新宿駅で宇宙人と遭ったりと、かなりディープなコンタクティーであります。ここまでくるとなかなか信じられないレベルの体験ですが、逆にもっとあいまいで不確かな体験であれば信じるのか?というと、それはそれで疑いの余地がでてきますから、信じるかどうかよりも、まずはありうるかもしれないひとつのファンタジーとして楽しんでしまうのもひとつのスタンスなのかもしれません。

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上記の記事にあるUFOスケッチ部分と目撃情報の図解。ここまで至近距離でUFOを見れたら面白いでしょうね。でも実際にこういう場面に出くわしたら、楽しいというより、怖いかもしれないですね。

UFOとの接近遭遇は、第一種、第二種と進むにつれて信憑性が疑われる度合いが高くなり、第三種、つまり宇宙人などUFO搭乗員との遭遇に至ってはUFOマニアですら意見の別れる事が多く、一般にはほとんどデマ扱いになってしまうのが現状だと感じます。私も、懐疑的であった時期ですら目撃談くらいなら誤認の可能性もありますから真偽は別にして変な飛行物体を目撃することは「ありうる」と思っていました。しかし「宇宙人とコミュニケーションした」とか「UFOに乗って宇宙を旅した」とかいうレベルになると、妄想か虚言のどちらかであるとしか思えませんでした。でも、もしUFOが地球製の物体でないなら、中の人も地球人でない可能性のほうが高いのですから、UFOを目撃するのも宇宙人と話すのもいっしょのようにも思えますし、信じた方が面白いというのもあって、今では、第三種接近遭遇にすごく興味がわいてるところです。

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雑誌『[荒俣宏・責任編集]ボーダーランド』1997年4月号 角川春樹事務所

第三種接近遭遇へ興味がわいたきっかけはたまたま雑誌『ボーダーランド』で横尾忠則氏が語った宇宙人とのコンタクト体験談を読んだことでした。横尾さんといえば、グラフィックデザイナーの時代からオカルト全般に興味を持っていたことで知られますが、横尾さんは芸術家であって荒俣宏のような学者ではないので、オカルトへの距離感がなく、浮き輪の無い状態でオカルト世界を潜水している感じで、横尾さんのオカルトの話はとても直接的でリアルなところが荒俣先生とはまた違った面白さがあって好きです。横尾さんの宇宙人コンタクト体験は、チャネラー(宇宙人や天使や守護霊など、異次元的な存在とコンタクトする人)を通したりするコンタクトの他に、ドリームコンタクト(夢の中で異次元的な存在、霊的な存在とコンタクトすること)がメインだそうです。ただの夢と断じる意見もあると思いますが、ルドルフ・シュタイナーのいうように神秘学的には、夢は単なる脳の生理的な現象ではなく、実在するアストラル界(幽界。霊界と物質界の中間の世界)であるとされています。

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『私と直感と宇宙人』横尾忠則著 文春文庫 1997年
UFOを呼び出すだけにとどまらず、宇宙人との直接コンタクトまで頻繁に行う横尾さんの、相当にディープなコンタクティーとしての側面が垣間見える奇書。


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『優しい宇宙人』秋山眞人・坂本貢一著 求龍堂 2000年
テレビなどでもお馴染みの日本オカルト界の古株、秋山さんの宇宙人とのこれまたディープなコンタクト体験が綴られています。UFOに乗せてもらったり、UFOを操縦させてもらったりという、2百回を越える驚愕の超常体験が次々と語られていきます。と学会の『トンデモ本』シリーズでも取り上げられてましたが、そこでは過剰に思えるようなバッシングをされていて、同意しにくい批判内容でした。秋山氏の容姿を馬鹿にしたり、内容が突飛だから嘘に決まってる的な安直な批判はいただけません。初期のと学会はオカルトを茶化しながらもきちんと論理性をもった批判をしていて安易な中傷は少なかった印象がありますが、後に会長の山本弘さんが脱会したりなど、いろいろトラブルがあったようで、と学会の後期の本はとりあげる本の批評にも少し問題があったように感じます。とはいえ、横尾さんや秋山さんの体験は、理性的なUFO研究家なら退けてしまいそうなぶっとんだ話であるのも事実ではあります。しかしそうしたマトモな常識とやらに揺さぶりをかけてくれる快感もまたあって、私はそうした話を応援したい気持ちがあります。この本も、一方ではトンデモ扱いされながらも、ディープなオカルトファンにはひそかに支持されている本でもあり、古書相場はけっこう高値で取り引きされているレア本だったりもします。


調べていくと、宇宙人コンタクティは思ったより希少でもなく、現代でも、世界中に、また日本にも意外に多くのコンタクティが存在しているみたいで、だんだんと第三種接近遭遇という未知の領域への敷居も低く感じられてきます。第一種、第二種の接近遭遇は、目撃や痕跡など、未知の存在との間接的な遭遇ですが、第三種になると直接的で個人的な体験で、体験という圧倒的なリアリズムの凄みがあり、すべてのコンタクティが事実を証言してるとはさすがに思いませんが、中には真実の体験もあると思いたいですね。

映画やドラマでは、宇宙人は地球を侵略するためにやってきたという設定で描かれる場合がけっこうありますが、米国のサイエンス系の番組でお馴染みのNY市立大学のミチオ・カク教授(理論物理学)は、宇宙人が地球に来ているのだとしたら、彼らはおおむね平和的であるはずだという発言をしたそうです。地球外惑星から地球に来れるほどの科学力ということは、彼らは地球人より軽く数百、あるいは数千年は進んだ文明をもっているはずであり、それだけ長い事文明を維持できたのなら、戦争や犯罪や宗教や差別などの様々な問題はとっくに解決しているはずだというのが根拠で、なるほど科学者らしい合理的な推理だなぁと思いました。たしかに、無駄な争い事が繰り返されていたら、なかなか文明の維持は難しいでしょうし、みんなが協力する社会なら、あらゆる学問や技術が飛躍的に発展していくでしょうね。

ふと思い出すのは「人間だもの」で大ブレイクした相田みつをさんの言葉です。彼の言葉で一番感銘を受けたのは「うばい合えば足らぬ わけ合えばあまる」です。これほど人間社会の矛盾を端的に突いた言葉はないですね。この世のあらゆる問題の多く、エネルギー、お金、食料などは、奪い合って足りなくなることで人を不幸にしますが、そのどれもが実は「分け合えば余る」ようなものばかりです。人が人を疑えば、奪うことでしか得られない世界ができますが、人と人が信じあえるならば、分け合ってみんながいっぺんに幸せになれる世界が生まれるのかもしれませんね。

メモ参考サイト
相田みつを「わけ合えば」(相田みつを美術館様)



 赤瀬川原平とUFO

赤瀬川原平といえば、ユーモラスで哲学的な、四畳半シュルレアリスムというか、庶民派前衛芸術家ともでもいうべきか、とても個性的でありながら親しみを感じる独特の表現で昭和を駆け抜けた天才ですが、彼もまたUFOに見入られたひとりでした。UFOというと、宇宙ロマンな存在で、ブームのきっかけはアメリカからの舶来のものですから、なんとなく原平さんの世界とは違和感があるような気がしてましたが、実際に著書『円盤伝説』のページを開いていくと、さすがのUFOも原平さんの世界観に引きずられて、畳の空間が似合う物体になっていて面白いです。日本のごく平凡な庶民の暮らしの中から深遠な哲学的な謎を掘り起こすような独特の原平さんの目線がUFOの考察に独自の切り口を見せていて興味深かったです。

『円盤伝説』は、著者の赤瀬川原平さん本人を主人公に、UFOをお馴染みの哲学的なユーモアで考察していく漫画イラスト集です。絵もシュルレアリスム的で面白いですが、考察の内容も面白いです。第1話の「円盤からの手紙」の中で、UFOの運転手から聞かされるUFOの真実がユニークです。

「そうですよ。この円盤には足がない。だからフワフワ飛ぶんです。だから空飛ぶ円盤なんて実際には存在しないんです。エンジンの音なんて聞こえなかったでしょ?」
「はァ、私もヘンだとは思ったんですが……」
「エンジンがあるとああいうふうにフワフワとは飛べないんです。人間だってそうでしょう。足があればどうしてもエッチラ、オッチラ歩くことになる。足があるのに幽霊みたいにフワフワ飛ぶことなんて出来ませんよ」
p22

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赤瀬川原平著『円盤伝説』 青林堂 1989年


円盤から降りてきた運転手の幽霊が、自分が操縦しているUFOもまた幽霊、つまり霊的なモノだと証言しているくだりです。お話はフィクションではありますが、なかなか興味深い説です。UFOは現実的な物質で出来ているのではなく、そもそもこの物質世界のマテリアルが材料なのではなく、霊的な、別の次元の物体であるということです。この本は、1978年に青林堂から『虚構の神々 超科学紙芝居』という題で出た作品の改題復刻版です。このユニークなUFO幽霊説は、実はあの日本SF界の第一人者、星新一も同じ考えを常々漏らしていたようです。

 敬愛するSF界の大先輩、星新一さんは、私の顔を見るたびに、同じ質問をする。「ねえ、UFOの正体わかった?」そして判で押したように、こうつけ加えるのである。「ぼくはUFOは宇宙から来るのではなく、幽霊だと思うんだがね」
 星さんが隠れたUFOファンであることは知る人ぞ知るだが、べつに専門的データを集めて研究しているわけではない。恐らく作家としての直感からそう言われるのだろうが、案外それがUFO現象の本質を言い当てているのではないかと、いつも内心ぎくりとさせられる。

「UFOは本当に宇宙から来るのか」南山宏 (『月刊ポエム』8月号「特集=星の詩学」 すばる書房 1977年)



UFO現象を正体不明の物理現象としてではなく、そもそもその現象自体が物理的なものではなく幽霊のような心的な現象なのではないか、という星新一の推察は、けっこう鋭いものだと思います。というのは、UFOの目撃も、たまたま目撃するケースだけでなく、頻繁に目撃する人もおり、そういう人は多くの場合、受動的に偶然多く目撃できているのではなく、積極的にUFOが現れるようにテレパシーを送り、かつて流行ったUFO呼びかけの呪文「ベントラ、ベントラ」みたいにUFOを自覚的に呼び寄せるという方法をとるケースもよくあり、もしUFOが人間が念じるとそれに応えてやってくるのであれば、物理現象というより心の関係する領域の現象としてUFOを考えてみるのも有効であるように思えます。深層意識が空に投影されたものがUFOである、というユングの仮説も、またそうした「呼びかけに応えるUFO」を解釈する仮説のひとつだと思います。



 思念とUFO

精神分析学の巨人、ユングもUFOは人間の無意識が空に投影されたものだという風変わりな考察をしていました。

魂はプラトンの「世界霊魂」になぞらえて球形と考えられていたが、現代人の夢の中にも同じシンボルを見ることができる。この古いシンボルの起源をさかのぼれば、すべての「イデア」が貯えられているプラトンの「天外の清浄界」という宇宙空間にまで達するだろう。したがってUFOを単純に「魂」と解釈して一向にさしつかえない。もちろんUFOが現代風に理解された魂というのではない。そうではなく、ある無意識内容、つまい個人の全一性を表す「円環 rotundum」の、自然発生的な元型的、神話的なイメージなのである。p34-35

第二次世界大戦以後、とくに頻繁に現われているようだが、それは共時的現象、つまり意味上の一致であると考えられる。人類の心的状態と物理的現実としてのUFO現象のあいだには、たがいになんの因果関係も認めれない。両者は意味において一致して見えるのである。その意味による結びつきは、一方では投影によって、他方では投影された意味に都合のよい円形や円筒状という、古来対立物の統一を表す形によって生じたものにほかならない。p196

『空飛ぶ円盤』C・G・ユング著 松代洋一訳 朝日出版社(エピステーメー叢書)1976年


文中に出てくる「共時的現象」というのは、今や一般的な名詞に昇格した感のある「シンクロニシティ(synchronicity)」の和訳です。よく例に使われるのは、「久しく会ってない友人のことを思い出していたら、偶然その当の友人から電話がかかってきた」というようなものです。昔の友人の記憶を思い出すことと、その友人から電話が来ることは、合理的な因果関係は存在しないはずなのに、ふたつの事象には偶然で片付けがたい意味的に共通する一致点がある場合に、そうした事象をシンクロニシティ(共時性)とユングは命名しました。凡人ならふつうは単なる偶然として見過ごしがちな現象に着目して研究対象にしてしまうところにユングの並々ならぬ非凡さを感じますね。

ユングの言う、UFOを物理的存在としてでなく、心的な、あるいは霊的な存在として解釈する説はメジャーではないものの、少なからずあるようで、コリン・ウィルソンが著書『ミステリーズ』の中で、科学者でUFO研究家のトマス・ベアデンの奇妙な説を紹介しています。

個人の無意識は物質世界に直接影響を与えることがある。ポルターガイスト現象、サイコキネシスがその直接的な例である。集合的無意識は個人的無意識よりはるかに強力であり、適切な条件のもとでは思念の形を直接具体化できる。それは物体かもしれないし、生物のことすらある。現われ出てくる思念の形(タルパ)は集合的無意識の中の元型として出発し、実体化する途上で通過しなければならない無意識の比較的浅い層によってしだいに変容され、形成されていく。UFO、妖精、天使、サスカッチ、ネス湖の怪獣等は、このようにして無意識のタルパが物質化したものである。つまり、それらは人類の「夢」なのだ。───トマス・ベアデン

『ミステリーズ』コリン・ウィルソン著 工作舎 1987年



トマス・ベアデンなる人物は、もっぱら疑似科学として有名な謎の電磁波「スカラー波」の提唱者といううさん臭いところがある人ですが、それゆえに直球のオカルトな説を唱えていて、この論は仮説としてはけっこう面白いと思いました。タルパというのは最近はネットでも見かける単語になりましたが、元はチベット密教の奥義にある秘術のようで、精神の力で人工的に人間や動物などの生命体を物質化させたものを指します。術者の力が弱いと、術者本人にしか見えない淡い存在しか生み出せないですが、達人になると他人にも見えるレベルで物質化できるみたいです。これは中国の道教の秘法、仙道でも「出神」といって、自らの氣を練りあげることで人間や動物などの形をとった僕(しもべ、式神)を生み出す術がありますし、西洋魔術でも錬金術師のパラケルススや魔術師のアレイスター・クロウリーがホムンクルスと呼ばれる人工生命体の生成に成功したという伝説がありますから、そうした秘術は洋の東西を問わず古(いにしえ)から秘伝として存在したのでしょうね。誰しもが寝てる時に見る「夢」では、実在するようにしか見えない人間や世界そのものをいつも当たり前のように生み出しているわけですから、現実世界にタルパを生み出すようなパワーが人間に秘められていてもおかしくないように私は思います。実際タルパの生成に成功した現代人の体験談はネットを検索するとけっこう出てきますし、チャレンジすれば意外にそれほど難しいものではないのかもしれません。UFOも、そうしたタルパ的な存在であるという説も、赤瀬川原平や星新一の幽霊説と同様、いわばUFOを物質面ではなく唯心論的な視点から解釈したもので、意外に真相に近い説なのではないか、と思います。

空は、ある意味人間の無意識を象徴する空間≠ナ、普段の日常の目線で見る街や人などの有限の世界(=理性、有限の象徴的世界)と対になったものであると解釈することもできると思います。学校、会社、自宅など、日常で経験する目線の世界を毎日9割がた眺めて生活していますが、目線を空に向けるだけで、その何万倍も広大な無限の空間にいつでもアクセスできるわけで、それは当たり前のようでいて、よく考えてみると底知れない不思議さを感じます。よく、大海に浮かぶ浮き島の水面から上の見える部分が理性(顕在意識)で、その下の9割がた水面下に沈んでいる部分が無意識(潜在意識)だという例えを聞きますが、空もまたそうした無意識が現出したものであるのだとしたら、理性を超えた部分を担当している「空」に人間の思念が物質化してUFOとなって飛んでいるという考えは、意外にしっくりくるところがありますね。UFOコンタクティーの人や、UFO目撃者の多くが、UFOを念じて呼んだり、UFOに「まだ消えないで」と心で願うとそれに応えてくれたりするという話をよく聞きますが、そのように、UFOが人の精神に感応するのは、UFOの真相に、何らかの形で「心」が深くかかわっているのかもしれませんね。
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2017年11月03日

【音楽】60年代ドリーミング

ふと聴きたくなった浸れる感じの60年代洋楽を集めてみました。

るんるんThe Mamas & The Papas「California Dreamin' 」
ママス&パパスの代表曲、邦題は「夢のカリフォルニア」です。メロディアスな聴きやすさの中に60年代のサイケでパラダイスな雰囲気が充満していて大好きな一曲です。切ない感じのコーラスのハモり具合が素晴らしい!

るんるんThe Rolling Stones「As Tears Go By」
ローリングストーンズの1966年のヒット曲。ストーンズというとアウトローっぽいイメージがあるせいか、逆にこういう路線のロマンチックな曲がすごく心に染み入りますね。

るんるんHerman's Hermits「There's A Kind Of Hush」
60年代英国のバンド、ハーマンズ・ハーミッツの1967年のヒット曲。最近知ったのですが、とても素敵なバンドですね!ベスト盤を聴いてて、あれ?どこかで聴いた曲だな、と思ってたら、カーペンターズの「There's A Kind Of Hush(邦題『見つめあう恋』)がハーマンズ・ハーミッツのこの曲のカバーなんですね。

るんるんHerman's Hermits「My Sentimental Friend」
こちらもハーマンズ・ハーミッツのロマンチックでいい感じの曲です。ノスタルジックでドラマチックな、とてもムードのあるいい曲ですね〜

るんるんJ.J. Barnes「Baby, Please Come Back Home」
60年代に活躍した米国のシンガーソングライター、J・J・バーンズによる1967年の曲。エモーショナルな味わいのあるR&Bですね。

るんるんPatti Drew「Hard To Handle」
ファンキーでかっこいい曲です。60年代後半に活躍した米国のシンガー、パティ・ドリューによる1968の曲。

るんるんBobby Hebb「Sunny」
米国のR&B系ミュージシャン、ボビー・ヘブの1966年の代表的な大ヒット曲「サニー」です。未だに多くのミュージシャンにカバーされる名曲で、カバー曲にも好きなアレンジのものが多いですが、個人的に大プッシュしたいのがジャズ、R&B系の女性シンガー、デラ・リース(Della Reese)によるカバーです。ニナ・シモンばりの深みのある歌唱が絶品です。

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60年代にちなんで60年代の洋雑誌コレクションを紹介します。写真はアメリカの雑誌『AVANTGARDE(アヴァンギャルド)』の表紙です。1968年から1971年まで全14号が発行されました。60年代をラディカルにグラフィカルに切り取って魅せた敏腕出版人ラルフ・ギンズバーグ(Ralph Ginzburg 1929-2006)のセンスが光る伝説の雑誌です。題字にも使われている文字のツメがカッコイイこのフォントは、そのまんまアヴァンギャルド・ゴシックとして今でもグラフィックデザインなどで使われてます。ちなみに「Avant Garde Gothic free」で検索するとフォントをフリーで提供しているサイトがいくつか見つかります。
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2017年10月20日

【音楽】70年代洋楽ノリノリの曲選集

ふと聴きたくなった70年代のノリのいい感じの曲を選んでみました。

るんるんMadness「One Step Beyond」
るんるんMadness「In the City」
マッドネスは英国70年代のスカの代表的バンドのひとつ。2、4拍目を強調したリズムが特徴のポップロックのジャンル「スカ(Ska)」のルーツは1950年代のジャマイカだそうですが、スカパラでお馴染みの現代のあのようなスタイルの音楽はジャマイカのスカに影響を受けた70年代の英国のスペシャルズ、マッドネス、セレクターなどバンドによってはじめられた2トーンと呼ばれるパンク風のスカのスタイルのバンドのブームの影響が大きいようです。ノリのいいリズムと管楽器のパワフルな響きが気分を高揚させてくれます。

るんるんThe Specials「A Message To You Rudy」
2トーンスカの代表的なバンド、ザ・スペシャルズの大ヒット曲。不良少年たちに向けた、前向きに生きろという説教臭いメッセージが歌詞ですが、飄々とした曲調のせいか、押し付けがましくない雰囲気でいいですね。

るんるんLight Of The World「Swingin'」
スピード感があってかっこいい!英国のジャズ・ファンクバンド、ライト・オブ・ザ・ワールドによる1979年の曲。小刻みなギターが気持ちいいですね。

るんるんSugarhill Gang「Rapper's Delight」
かっこいいですね〜 1979年の曲ですが、70年代にしてすでに今っぽい感じですね。調べてみたらこの曲のヒットによってラップやラッパーという言葉が流行したとのことで、ヒップホップの元祖みたいな曲のようですね。

るんるんThe Doobie Brothers「Listen To The Music」
米国の大御所ロックバンド、ドゥービー・ブラザーズの1972年の大ヒット曲。もしも今幸せなら、あるいは幸せになりたいなら、そうさ音楽を聴こう。いつの時でも。

るんるんCarole King「I Feel The Earth Move」
邦題は「空が落ちてくる」。恋に落ちてコントロール不能になった激情を、地面が揺れ猛り、空が落っこちてくるようだ、とダイナミックに表現していてユニークですね。
訳詩(「オレの歌詞和訳」様より)

るんるんJoao Donato「Bambu」
るんるんJoao Donato「Mosquito」
サイケでファンキーなインストゥルメンタル。陽気でちょっぴり怪し気なモンドな感じのジャズフュージョンがカッコイイ!ブラジルのミュージシャン、ジョアン・ドナートの1970年の傑作アルバム「A Bad Donato」からの2曲です。

るんるんDreams「Calico Baby」
フュージョン系のバンド、ドリームスの1972年のセカンド・アルバム「Imagine my surprise」収録の曲。程よくクセのある雰囲気の曲調が面白いバンドですね。

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タグ:音楽 洋楽
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2017年10月17日

バベルの塔とバベルの図書館

バベルの塔について

「さあ、町と塔を建てて、その頂を天に届かせよう。そして我々は名を上げて、全地のおもてに散るのを免れよう」
旧約聖書・創世記:11章



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19世紀フランスの画家、ギュスターヴ・ドレ(1832-1883年)の描くバベルの塔の版画。頂上が雲で見えなくなってしまってる荘厳な描写が圧巻です。天に届くかのようなものすごい高さを暗示させる絶妙な表現ですね。人々が塔の周囲で嘆き悲しんでいる様子ですが、ちょうど神の技で言葉を乱され互いに意思疎通が不可能になった瞬間を描いているのでしょうね。人々は互いにコミュニケーションがとれなくなってしまい、塔の建設どころではなくなっている、という場面ですね。

塔というのは、実在の建築物として存在していながらも、古くは宗教的な目的で建造されてきた歴史もあって、もともと居住を目的とする建物というイメージは全く無いですし、それゆえ実用を超えた目的性が、ある種の違和感を呼び起こし、どこか見えない世界の超越的な事象を寓意的に表しているいるかのような、不思議な印象を抱かせます。そうした意味での塔というと、まさに聖書に登場するバベルの塔、あの人類の潜在意識の雲間を破ってそびえ立つかのようなバベルの塔の強烈なイメージがやはり大きく影響しているような気がします。塔全般に惹かれるところがありますが、とくにバベルの塔は、人類の共同無意識めいた未踏の場所にそびえる塔でありますから、そのような、無限に空にそびえる魔性の塔のイメージに遊ぶことはとても甘美な愉しみを感じます。

バベルの塔の最も著名なイメージはピーテル・ブリューゲルによる2枚のバベルの塔の油彩画であろうと思いますが、個人的には、もうちょっと高い塔が好みなので、ギュスターヴ・ドレやアタナシウス・キルヒャーの版画に描かれる異常に高いバベルの塔のイメージのほうにより惹かれます。神話の世界の話にでてくる塔なので、実在したかどうかはともかく、「本物のバベルの塔」というものを見た者はいないわけで、だからこそ画家にとっては想像力をかきたてるチャレンジしがいのあるテーマであるに違いありません。

バベルの塔の伝説のルーツは旧約聖書の創世記11章の序盤にあるわずか十数行程度の記述で語られる物語です。通説では、天に届くような塔を建てようとすることは、神と等しくなろうとする人間の傲慢であって、それが神の怒りにふれて民の共通の言葉を混乱させて意思の疎通ができないようにしたため、塔の建設を諦めて各地に散った、とあります。バベルの塔を象徴しているといわれるタロットカードの塔のカードでは、天の怒りを表すカミナリが塔に落ちて塔の上部にいた人々が足場を失って落下する様子が描かれているので、なんとなくバベルの塔は神の雷(いかづち)で破壊されたかのようなイメージがありますが、聖書の記述では、神が民の言葉を混乱させたことで、塔の建設を諦めたという話になっていますね。つまり神が塔を壊したわけではなく、人間側が単に塔を建造するのを途中で止めた、ということですね。神が人類の言葉を混乱させた、というところから町の名前がバラル(乱す)とバビロンをかけてバベルとなった、とのことですから、正確にはバベルというのは塔につけられた名前ではなく、塔を建てようとした町の名前なんですね。バベルという響きにも長年に渡って人類がその言葉の中に様々なイメージを練り込んできたおかげで、独特の怪し気な波動を発するユニークな単語になっているように感じます。

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タロットカードの「塔のカード」

バベルの塔の事件が起こる前には、あのノアの箱船の物語がありますから、つまりはバベルの塔建設を企てたのは大洪水を生き残ったノアの子孫ということになります。地球を飲み込む大洪水という、未曾有の危機を乗り切った人類の生き残りがこの話の主要なキャストなわけで、だからこそ、「全地のおもてに散るのを免れよう」、つまり生死を共にした絆の深い親族たちとずっといつまでも健やかに一緒に暮らせるようにと町を作ろうとしたわけですね。人情としてすごく理解できるので、そうした人間達の結束を壊すのは神のイジワルのようにもみえます。しかし、一カ所に固まって暮らしてたら、天災や事故などで人類が絶滅するリスクが高まりますから、神としては、人類の種の保存のために、各地に散らばらせていろんな環境に適応させたかったのかもしれませんね。

そうしたことからも、私が思うに、天に届くような塔を建てようとすること自体は神的にはどうでもよくて、せっかく生き残った人類が狭い町に固まって生活しようとすることにダメ出しをしただけのようにも感じます。バベルの塔というのは傲慢の象徴というよりは、わずかに生き残った人類の結束のシンボルという印象をうけます。前代未聞の大洪水を経験している生き残りの子孫ですから、また洪水が起こっても水没しないだけの高い建物を作ろうと考えるのは傲慢どころか、普通の人間心理ともいえます。しかし神の視点で見れば、大洪水で数が激減してしまった人類が一カ所に固まって暮らすというのは生存の可能性を狭めるだけのリスキーな選択でしかなく、愛のムチで人類の言語を混乱させて人々を世界に分散させることのほうが大局的には人間のためであると考えたのかもしれません。「生めよ、増えよ、地に満ちよ」(創世記:1章)というのが当初から人間に与えられた神の指令ですから、そういう意味では一貫しているともいえます。と、まぁ、筆に任せて適当に解釈してみましたが、創世記は聖書の中でもとくに寓意に満ちた神話的な部分なので、いろいろ想像がふくらみますね。

ノアの箱船の残骸が発見されたとか、バベルの塔は実際にあった、とか夢のある仮説もいろいろあるようですが、神話の中の話だと思われていたトロイの遺跡を発掘したシュリーマンのような前例もありますし、聖書の寓話も、何らかの実話を元にしている可能性もあるかもしれませんね。

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ピーテル・ブリューゲルによるバベルの塔はふたつのバージョンが現存していて、1563年作(左)と1568年作(右)です。2作目のほうがより高く重厚感が増していて、2枚を並べてみると、作りかけだった塔が完成していく様子を時系列で眺めている感じで面白いですね。先日の「バベルの塔展」で来日したのは塔建造の完成に近づきつつある様子の2枚目のバージョンのほうです。生で見れた人がうらやましい!ブリューゲル以前のバベルの塔の図像は円錐形よりは四角い筒のような形状の教会風のデザインの塔をみかけますが、もしかするとお馴染みの螺旋状の塔の形状もブリューゲルがハシリだったのでしょうか。

バベルの塔のビジュアルイメージといえばブリューゲル。ブリューゲルのバベルの塔といえば、先日まで東京、大阪で開催されてた「バベルの塔展」ですが、行こうかな〜どうしようかな〜と思っているうちに結局行きそびれてしまいました。そのうちまた縁があれば見てみたいです。調べていくとブリューゲル以外にもバベルの塔を描いた画家はたくさんいて、けっこういい感じのものもあります。ブリューゲルの塔は、自分が想像しているバベルの塔よりも低く、もっと天を突くくらいの高さが欲しいと常々思ってたのですが、そういう絵も調べてみるとけっこうあって、そうした絵を見てると空想をかきたてられて楽しいです。

アタナシウス・キルヒャー(1601-1680)といえば、主に荒俣宏の啓蒙で日本でも広く知られるようになった17世紀のドイツ出身の奇想の博物学者ですが、そのキルヒャーの本に、ブリューゲルよりバベル度の高いバベルの塔が載っていて、とてもいい感じの雰囲気です。神話的な塔であるにもかかわらず、建築の図面のように図鑑の絵らしく真面目に描かれているので、かえって奇妙な雰囲気を醸し出してしまっているのがキルヒャー流といった感じですね。

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アタナシウス・キルヒャー著『バベルの塔』に所収されているバベルの塔の版画。(ニューヨーク公共図書館・デジタルコレクション より)

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こちらも同書に所収のものと思われるバベルの塔。
上記のと違って、こちらはブリューゲル版のバベルの塔をスタイリッシュにしたようなフォルムでお洒落ですね。1679年の作品のようですが、どことなくロシア・アヴァンギャルドのアーティスト、ウラジミール・タトリン(1885-1953)の代表的な作品、「第三インターナショナル記念塔」を思わせる雰囲気もあって、現代的なかっこよさを感じますね。


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赤瀬川原平著『櫻画報激動の千二百五十日』青林堂 1974年
なんともシュールな「バベルの青林堂」。件の「アカイ、アカイ、アサヒ、アサヒ」のアレで、朝日ジャーナルの回収騒動を起こしたことで知られる赤瀬川原平の初期の代表的な仕事のひとつ『櫻画報』をまとめた作品集からのヒトコマです。朝日ジャーナルの連載が打ち切りになった後に漫画雑誌「ガロ」に発表の場を移したことをユーモラスに表現しています。ガロの出版社、青林堂といえば作家に原稿料を払えないほど厳しい経営状態が慢性的に続いていたのは有名で、朝日ジャーナルでの問題のコピーをもじって「アカイ、アカイ、アカジ、アカジ」と書き入れていますね。茶化すだけでなく、掲載の場をつくってくれた青林堂をバベルの塔のような立派すぎる社屋で描き、あからさまにヨイショしてるのが原平さんらしくて笑えます。この後、青林堂の経営はさらに厳しくなり、80年代には材木屋の二階に間借りして編集を続けたのはもはや伝説的な語りぐさになりました。とはいえ、原稿料が出ないかわりに作家の作品に編集が一切手を入れないという独自のシステムにより、自由な表現の場を求める有名無名の錚々たる作家達を惹き付け続け、日本のアンダーグラウンドカルチャーの重要な育成機関になっていたので、とくに漫画文化の躍進を裏で支えていたのはガロのような雑誌だったのかもしれません。

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ちなみにこの本、昔古書店で手に入れたもので、原平さんのサイン入りです。家宝ものですね。哲学的空想とシニカルなユーモアあふれる独自の表現で日本の戦後芸術に影響を与えてきた原平さんでしたが、生活そのものを芸術として遊ぶような、人生を楽しむセンスも今も学ぶ所が多いです。

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ロジェ・カイヨワ著『文学の思い上がり その社会的責任』中央公論社 1959年
原題は『Babel, orgueil, confusion, et ruine de la littérature(バベル、誇り、混迷、文学の荒廃)』で、バベルの塔のことについて書いてある本ではなく、辛辣な戦後文学の批評がテーマです。単純に装丁に使われている原題からのBABELの文字がかっこよかったので入手しました。束に金色のインクが塗られていてお洒落な本です。中身は超辛口の文芸批評ですが、フランス人批評家らしい知的な語り口が絶妙に刺々しさをオブラートに包み込んでいる感じのポエティックな文体で、勉強になりそうな本です。



メモ参考サイト
「バベルの塔、教訓と絵画集」(のぶなが様のサイトより)
いろいろなバベルの塔を紹介されています。

ブリューゲル以前のバベルの塔。15世紀の画家、マイスター・デ・ミュンヘン・レジェンダ・アウレア(Meister der Münchner Legenda Aurea)の作。
ブリューゲル以前のバベルの塔は宗教色が濃い感じで、塔の形状も教会っぽいゴシック様式ですね。神が怒りだすほど高い塔に見えないですが、そんなところも愛嬌があって微笑ましい図像です。この高さで神罰がくだるなら、現代ではマンションや団地でさえ普通にこれより高いですから、東京都庁とかサンシャイン60とか、かなりけしからん建物ということになりそうです。

ルーカス・ヴァン・レッケンボル (Lucas van Valckenborch 1535-1597)のバベルの塔。1594年作(ウィキペディア・コモンズ)
ブリューゲルのバベルの塔の建設がさらに進んだ感じの雰囲気で、だいぶ完成に近づいてきてる様子ですね。

トビアス・ヴェルハヒト(Tobias Verhaecht 1561-1631)作のバベルの塔。
コロッセオを積み上げたようなスタイリッシュなローマ様式の建築がいいですね。天に向かって増殖していく塔の階層構造がかっこいい!

ポール・ゴセリン(Paul Gosselin 1961- )によるバベルの塔。
現代のベルギーの画家による2011年の作品。昆虫の巣みたいな感じですね。たしかに、ブリューゲル系のバベルの塔を完成させると、仕上がりはこんな感じになるでしょうね。こうして見ると、やはりバベルの塔は未完成だから美しいものなのかもしれません。

イラクの螺旋の塔、マルウィヤ・ミナレット(ウィキペディア・コモンズ)
イラクの至宝と評される螺旋式の塔、マルウィヤ・ミナレット(Malwiya Minaret)もバベル感のある神秘的な塔ですね。852年に建造されたこのミステリアスな塔は、螺旋状に天に伸びる形状が神話的でぐっときます。調べてみると、そもそもドレやブリューゲルをはじめとした西洋人の描くバベルの塔のイメージは、まさにこのマルウィヤ・ミナレットがモデルになっているそうで、言われてみるとさもありなんといった感じですね。




バベルの図書館について

バベルの塔は、もしも神様のダメ出しが無かったとしたら、無限に天に向かって建造されていったのかもしれませんね。バベルというと、以前の塔をテーマにした記事でも触れたホルヘ・ルイス・ボルヘス『バベルの図書館』が思い起こされます。バベルの塔の全ての階に本棚を設置して無限の本を収納していくというのはビブリオマニアの甘美な空想ですが、ボルヘスの想像した図書館は、そういう判りやすい構造ではなく、塔というより宇宙そのものを図書館に見立てたような突拍子も無いアイデアです。寺山修司を心酔させた南米文学を代表する巨匠だけあって、その哲学的で深遠な作品は読む者を思考の迷宮に誘いこみます。

その宇宙(他の人々はそれを図書館とよぶ)は、中央に巨大な換気孔がつき、非常に低い手摺(てすり)をめぐらした不定数の、おそらく無数の六角形の回廊から成っている。どの六角形からも、はてしなく上下の階がみえる。回廊の配置は不変である。一辺につき五段の長い棚が二十段、二辺を除くすべての辺をおおっている。その高さ、すなわち各階の高さは、ふつうの図書館の本棚の高さをほとんどこえていない。棚のない一辺はせまいホールに通じ、それは最初の及び他のすべてのものと同じもう一つの回廊に通じる。(p55)

言いかえれば、あらゆる言語で、およそ表現しうるものはすべてである。そこにはあらゆるものがある。未来の詳細な歴史、大天使の自伝、図書館の信ずべきカタログ、何千という偽のカタログ、これらのカタログの虚偽性の論証、王たちのグノーシス派の福音書、この福音書の注釈、きみの死の真実の記述、それぞれの本のすべての言語による翻訳、すべての本の中でのあらゆる本の書きかえ。(p58)

ボルヘス『バベルの図書館』より

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(ホルヘ・ルイス・ボルヘス著 篠田一士訳『伝奇集』所収 集英社 1984年)


ボルヘスの「バベルの図書館」は、六角形が基本構造になっています。6という数字は数学的にもユニークな数字で、自然数で最初の完全数でもあります。完全数とは自分自身を除いた全ての約数の和がそれ自身と等しくなる数のことです。6の場合は、約数が1、2、3で、それらを全て足すと1+2+3=6となり、それ自身と等しくなります。また六角形というのは自然界では蜂の巣などにも見られる頑丈な構造(ハニカム構造)で、工業的にも有用なものですし、亀の甲羅や雪の結晶や水晶の結晶など、自然界の様々な場面で六角形が姿を現します。おそらく、そうした暗示もバベルの図書館の構造にはあるような気がします。

図書館のイメージとしては蜂の巣のような感じで同階層の前後左右に無限に連なり、また上下にも階段を通じて無限に空間を埋め尽くしているという感じで、前述したとおり「バベルの」というわりには「塔」のイメージとはほど遠い建造物といったイメージです。どことなく映画『CUBE』の部屋の構造(こちらは六角形ではなく立方体ですが)にも通じるようなところがありますね。上下左右に無限に部屋が連なっているということは、すべての空間がこの六角形の部屋で埋め尽くされているということであり、これはボルヘスも最初に「その宇宙」と言っているように、まさに別世界のもうひとつの風変わりな宇宙そのものです。その宇宙ではたくさんの本が書架に並んだ無数の六角形の部屋だけで宇宙の全ての空間を満たしているという異様な世界です。

想像してみると、上の階層に行きすぎれば登山のように酸素が薄くなりそうですし、ものすごく下の階層では気圧もものすごいことになってしまわないだろうか、とか心配になってきます。まぁ、こういう宇宙であれば、「そもそもどこから酸素が供給されているのか?」などといった疑問も含めて、こういう宇宙なりの都合に合わせた物理法則がありそうですし、全ての空間における気圧やら重力やらの設定値は一定に保たれてるのかもしれません。しかし、本を収めるための部屋しか存在しないような宇宙では、本を書くにしても、読むにしても、この本だらけの部屋について以外のことは経験できないはずですし、読書体験を生かすための外の世界もありません。空の青さや広さという概念すら想像で補うしかない状態では、物語というのが成立しがたく、そもそも本に書かれた内容を理解するための最低限の素養や人生経験が無い状態での読書とは何か?とか、考えだすと思考の迷宮に入り込むような感じです。ボルヘスはあえてそういう切り口では書いていないため、逆にそういう諸々の思考実験を楽しめる余地があり、そうした所もこの作品の魅力なのかもしれません。

まぁ、この図書館のイメージは、そのように物理的な実在としてヤボなつっこみをいれても意味はなく、それは書物フェチの妄想する観念の遊戯としての世界ですから、ボルヘスといっしょにこの異様な図書館に入り込んで、思う存分に夢の迷宮世界に遊び、その官能の世界に浸りきるのが正しい読者の在り方ではありますね。

ところで映画『CUBE』では、上下左右に無限に連なった立方体に登場人物たちはいつのまにか閉じ込められていた、という設定でしたが、「バベルの図書館」でも同様に、この話に登場する語り手や司書たちといった登場人物は、入り口も出口も無い「バベルの図書館」という壮大な閉鎖世界にどうやって入り込んだのか?という肝心な部分の詳細をあえてぼかしているために、カフカや安部公房などの作品に通底するような不条理な感覚がありますね。

しかし、よく思い起こしてみれば、私たちもまた、「バベルの図書館」を徘徊する司書達と同じように、この宇宙にあるこの世界に、理由も目的も知らされないままに産み落とされて、いつのまにか存在しているわけですし、『CUBE』の登場人物たちが自分たちのいる立方体の部屋について何の情報も持たないまま置き去りにされているのと同じように、この宇宙はどういう仕組みで何のために機能している世界なのかを知らない状態で私たちは生きています。そういう意味ではボルヘスやカフカなどをはじめとした文学や映画などの不条理劇は、単に不条理な物語というよりは、我々の現実の実存をそのままリアルに写し出している鏡のような世界でもあります。「バベルの図書館」は、人生や宇宙の謎を図書館に収蔵された書物に例えて、自らが生まれ落ちたこの世界の謎を読み解こうとする人類の営みを寓意的に象徴しているのかもしれませんね。


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映画『CUBE』ヴィンチェンゾ・ナタリ(Vincenzo Natali)監督 1997年 カナダ
低予算作品ながら抜群に面白い発想とシナリオが人気を呼んだ『CUBE』、後年いくつかの類似作品が作られましたが、やはり原点であるこの作品を凌ぐことはできませんでしたね。無限に連なる立方体の部屋に閉じ込められた7人の登場人物による脱出劇です。素数などの数学的要素がカギになってるあたりもツボでした。


メモ参考サイト
バベルの図書館の図解「草子ブックガイド 早稲田文学編 第6回」(玉川重機様)(PDF版)
ボルヘスの「バベルの図書館」を漫画家の玉川重機さんが絵で丁寧にビジュアルに説明されています。たしかに文章だけでバベルの図書館の構造をイメージするのはけっこう難しいので、こうした噛み砕いた解説はとても参考になりますね。

「バベルの図書館」の構造(pastel-gras様のブログ「集積---イメージ・ことば」より)
記事によりますと「バベルの図書館」が収録されている短編集『伝奇集』は初版の1944年版と後の1956年版とでは図書館の構造に関する重要な部分に加筆修正がされているという興味深い指摘がされています。最初のアイデアでは、「バベルの図書館」はバベルの塔のイメージをそのまま象徴する感じで上下に無限に伸びる塔ような構造だったみたいですね。

「バベルの図書館」のビジュアルイメージ(Googleイメージ検索)
ボルヘスの夢想した図書館は、具体的にどういう構造で、どういう見た目なのかというのは、ボルヘスファンでかつ絵心のある人ならチャレンジしたくなるテーマですね。案の定、多くの絵師により様々なビジュアルイメージが作り出されているようで、見ているといっそう空想に拍車がかかりそうです。

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「バベルの図書館」を再現したサイト(ジョナサン・バジル様)
web上で「バベルの図書館」を仮想体験できる風変わりなサイト。作成したのはニューヨークの作家ジョナサン・バジル(Jonathan Basile)氏。アクセスして「Browse」をクリックすると図書館に入り込めます。原作に書かれている設定どおりに、六角形の部屋の壁に本棚が設置されており、すべての本は410ページで構成されています。使い方をいまいち理解していないのですが、任意の書架をクイックすると本棚が正面に現われるので、適当な本をさらにクリックすると中身が閲覧できます。文字列はランダムに生成されるようなので、意味のある文章が出てくるまで本を物色してたら人生が終わってしまいそうです。

「バベルの図書館」の蔵書数は?(「巨大数研究 Wiki」様)
我々の宇宙の広大さと物質のバリエーションに較べたら、六角形の部屋が重なってるだけの単調な「バベルの図書館」という名の宇宙は、さほど驚愕するにあたらない世界のように思ってしまいますが、「バベルの図書館」の蔵書数を実際に計算すると、上記サイト様の計算によれば、その蔵書を全て収める図書館を作るためには、どうやら現在観測可能な我々の宇宙を軽く上回る程度に広大な敷地を必要とするようですね〜

ペンブログ内関連ページ
塔のロマン
posted by 八竹釣月 at 11:16| Comment(0) | 古本

2017年09月26日

古本散策日記

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先週から古本市などで手に入れた本を適当にご紹介します。適度に離れた距離に古書会館があり、毎週のように近隣の古書店が複数参加しての古本市を開催していて、散歩がてらいい気分転換になっていますが、だいたいソコで良さげなものが見つかるので最近はあまり遠出して古本市に出かけることは無くて、近場の古本市や古書店に行く事が多いですね。古書会館で催される古本市は、デパートなどで開催される古本市より場所代が安いためか、平均してかなり安価で売られているのも魅力です。古書会館に足を運ぶようなマニア濃度が高そうな客層を意識してか、安いだけでなく、レア度もそれなりに高いものをよく目にします。今回ご紹介するのは、とくにレアなものではないですが、こうして集めた本をあらためて見てみると、最近自分の関心のあるテーマが何なのかが客観的に確認できて面白いです。




中国の好色美術『春宮画』の魅力

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『YUN YU , ÉSSAI SUR L'ÉROTISME ET L'AMOUR DANS LA CHINE ANCIENNE』Nagel社 1969年

世界の好色美術を紹介する大型美術本のシリーズの中の一冊で、これは中国の好色美術をテーマにした画集です。シリーズには、中国のほかにインド、アラビア、ローマ、ギリシャ、アフリカ、そして日本の春画を紹介した本も出ています。世界の好色美術の中でもここ最近は中国の春画が気に入っていて、そうした本もすでに何冊も持っているのですが、まだ見た事の無い図版がいくつも紹介されてたのでゲットしました。

フランス語の本なのでフランスで出版された本かと思いきや、スイスのジュネーブにある出版社から出されたもののようです。スイスはドイツ語、フランス語、イタリア語、ロマンシュ語の4つを公用語とする国ですが、6割以上はドイツ語で他は少数派みたいですね。

日本の、主に江戸期に流行った好色絵画を一般に春画と呼びますが、この言葉も元は桃山時代に中国から伝わった春宮秘戯図(春宮画)が語源だという説があります。日本の春画は庶民文化が花開いた江戸時代に作られたために、庶民の性生活がモチーフになっているものが多いですが、中国の春宮画は宮廷生活を背景にしたブルジョワ感ただよう華美なものが中心で、そうした違いも見てて楽しいです。春宮画に限らず、中国美術に頻出するモチーフ、芭蕉の木、主に太湖石などの奇石、幾何パターンの中華模様などがエキゾチックなパラダイス感を醸し出していてなんともいえない魅力があります。

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(上)芭蕉の木が南国っぽい情緒を醸し出していて不思議な楽園感覚がありますね。(下)西洋にもこうした歪み絵(アナモルフィックアート)の伝統がありますが、中国でもこういう絵が描かれてたんですね。

メモ参考サイト
現代の美術家によるアナモルフィックアート(「ラビトーク!」様)




かな草書に憧れて

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『書体字典 かな編』野ばら社 1965年

かな草書の勉強に、と思って手に入れました。同じ字でも書家によって崩し方は実に多様ですね。バランスを良くするためや、リズム感をつけるため、また次に続く文字と繋げやすくするために、例えば「も」だったら「毛」だけでなく「母」を崩した「も」を使う場合もあり、とても感覚的で奥が深いです。現行の仮名の変わりに、変体仮名を使ったりすると玄人っぽくてかっこいいですよね。




仙人の性生活

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『世界性学全集13 東洋性典集』性問題研究会編 河出書房新社 1958年

世界の性学(Sexlogy)を集めたシリーズの13巻目。他の巻はフロイトをはじめとした西洋の性学で東洋の文献を紹介しているのはこの巻のみです。古本市の書架でこの本をパラパラとめくってたら、老子がこう言ったとか、彭祖(ほうそ。荘子などに登場する超長寿の仙人)がああ言ったなどという文が出てくるので、てっきり中国の房中術関係の文献集かな、とおもってゲットしたのですが、収録されている文献は主に江戸期に日本で書かれたもので、中国の房中術(道教の性技術)や養生術(道教の健康法)関連の古典を編纂したり解説した本を紹介しているものでした。まぁ、当たらずとも遠からずで、けっこう興味深い文献が多く紹介されていて面白いです。

中国の性学、とくに道教系の、仙術に関するテクニックに房中術というのがあって、かつて諸星大二郎の短編『桃源記』にも言及がありましたが、これは大まかに言うとセックス健康法みたいなものです。仙人になるための性行為という視点なので、いわばセックスで超人になる術という、壮大なロマンを感じるテクニックが開発されていてすごいです。仙人というと眉唾なイメージで捉えられがちですが、古代中国の房中術は、古代インドのタントラと並んで、現代の西洋でもエナジーオーガズムとかマルティプルオーガズムなどに取り込まれ、性テクニックを超えた、ある種の覚醒を伴うスピリチュアルな側面もある性の技術として見直されてきてます。よくオナ禁すると健康や運勢にものすごい効果があるという俗説をネットで見かけることがありますが、古代中国の仙人が行っていたのもそれと似ていて、男性であれば、とくに40歳を越えたら1滴も精液を漏らしてはいけない、とされています。仙人のセックスは一言でいうと「接して漏らさず」で、これは、性交しても精液を漏らすべからず、という意味です。むしろ、精を出すのではなく、男性器の精管から女性の生命エネルギーを吸い取るような術もあるようで、まさに仙人というのは東洋の魔術師のような存在ですね。

この男女の性生活における正しい方法は、きわめて容易でありながら、人はその方法を知らない。その方法とは、一夜に十人の女と関係しても、一回も(精液を)漏らさないだけである。これができるようになると正しい性生活の方法は卒業である。以上述べたことの他に薬餌(やくじ)をたやさず使うようにするのである。そうすれば気力は盛んになり知恵は日々発達していくであろう。しかもこの方法は神仙になる術にほかならないのである。

『東洋性典集』 医心方巻第二八(房内) p20


このような「接して漏らさず」的な言及は中国の房中術の根幹にある教えのようで、他の文献でもたびたび言及されていますね。上記の引用は『東洋性典集』に収録されている日本最古の医書、『医心方』からの抜粋です。982年に書かれたもので、著者は鍼博士丹波宿禰康頼(はりはかせたにはのすくねやすより)、康頼は中国からの帰化人のようです。隋、唐の膨大な医学書を編纂した本のようで、仙人になるための健康法や性技術などが書かれていて、なかなか興味深い文献です。黄帝(紀元前2500年頃に中国を統一した皇帝)が彭祖素女などの仙人に教えを請う中で、様々な性技術や健康法などが解説されていくような部分もあり、読物としても面白いです。他にも呪術的なノリに満ちた東洋性学の面白い文献をたくさん紹介してあるので、また何か発見があれば追々ご紹介していこうと思います。

メモ参考サイト
マルチプル・オーガズム開発法(◆i880BAKAok様)
仙道やタントラなどの秘術を取り入れつつ現代風にアレンジした異次元の性感を得るためのノウハウ。エロも正しく極めれば悟りのような覚醒の境地に誘う有効な術になりそうですね。この手の内容の本は古書相場が高騰していて入手しずらいこともあり、こうした情報が手軽に得られるのはありがたいことです。このサイトは未翻訳の洋書からの翻訳のようなので、ここでしか読めない情報が盛りだくさんで凄いです。運営者様に感謝ですね。




オカルト界の巨星、ルドルフ・シュタイナー

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『シュタイナー思想入門』西川隆範著 白馬書房 1987年 

ルドルフ・シュタイナーといえば、西洋のオカルティストの中でもつとに有名な重要人物で、オカルティズムという、どこか日陰のイメージのあるジャンルを飛び越え、教育思想など実践的なアプローチでも有名で、現実教育に霊性を育むことの重要性をうったえ、今もその教育方針を実践する学校も存在していますね。精神面を重視した学校というと、一般には宗教系の学校が多いですが、教条主義を超えて自由に霊性を伸ばす教育を目指したシュタイナーの思想は注目すべきものがあります。

この本は、教育思想ではなく、シュタイナー本来の独特の神秘思想を解説する内容になっています。シュタイナーの神秘思想は、けっこう難解なので、かみくだいた内容の本が欲しかったところだったので入手しました。シュタイナーだけでなく、現近代のオカルティストは、グルジェフにしろ、ブラヴァッキー夫人にしろ、難解な思想を持った人物が多い印象があります。シュタイナーの「アカシャ年代記」の思想など、人間の霊性の進化を土星や金星などの遊星に当てはめて解釈しているのですが、遊星と人間の精神を結びつけることにどういう意味があるのか、とか、とまどうところがあったので、そのあたりを理解したかったのが手に入れた理由です。グルジェフも同じく惑星を関連づけたオカルト思想を唱えたりしてましたが、こういうのはやはり何か、高い精神のレベルで見えてくるような特殊な世界観なのでしょうね。

メモ参考サイト
シュタイナー教育(ウィキペディア)




基本から覚えるヨガ

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『一億人のヨーガ』番場一雄著 人文書院 1988年

ヨガナンダの影響で、インド思想にハマってきているというのもあり、インドといえばやはりヨガを押さえておくべきだろうということでゲット。基本的なところから解説している感じの本で、健康法としてのヨガだけでなく、インド思想の中で捉える本質的な、ヨガとは何ぞやみたいな部分の解説も興味深いです。番場一雄先生はNHKの教育番組でもヨガの講師として出演していたみたいで、YouTubeなどで当時の番組の一部が見れます。

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人体におけるチャクラの位置

この本はヨガの一般書として書かれているので、オカルティックな側面は詳しく書かれていませんが、人間の身体は肉体だけでなく、霊的なボディが幾層も重なっているという思想がヨガにはあります。肉体の他に幽体(アストラル・ボディ)やコーザル体など、いくつかの霊的な身体を纏っているという考えがあります。これは中国の仙道にも同じ思想はありますし、西洋の神秘学でもルドルフ・シュタイナーなど何人か同様の指摘をする神秘家がいます。霊的なボディには霊的な器官が具わっており、よく耳にするチャクラというのもそうした霊的な身体器官です。最近そのチャクラを活性化することに興味がわいてきてるので、そうしたこともあって基本からヨガを知ろうと思った次第です。




古代ローマの驚異!

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『Marvels of Ancient Rome』Giacomo Lauro画 Regione Lazio発行 1992年

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イタリアで発行された『古代ローマの驚異』と題するジャコモ・ラウロ(1584-1637年)というイタリア人画家による版画集の復刻です。絶妙にパースやデッサンが狂っているところが逆にシュール感を増していて、キルヒャーの版画を見てるような怪しい雰囲気がたまりません。詳細はわかりませんが、おそらく普通に古代ローマの文化を想像力豊かに描いたものなのでしょうが、当時の時代の空気なのか、ジョルジオ・デ・キリコの絵に出てきそうな怪し気な雰囲気をただよわせているのがイイですね。ネットで詳細を調べていたら、なんとこの画集の1641年発行の当時のオリジナルらしきものが高解像度でアップされてましたのでリンクを貼っておきます。古代ローマの不思議世界をご堪能あれ。

メモ参考サイト
『Marvels of Ancient Rome』Giacomo Lauro(ハーバード美術館提供)
posted by 八竹釣月 at 22:05| Comment(0) | 古本