2019年06月15日

タイムマシンにお願い!・その2(タイムマシン関連の雑記)

先のタイムマシン関連の記事の補足的な感じで、タイムマシンに関する余談をあれこれ語ってみたいと思います。

190615-TM-icon.pngタイムマシンのある生活

タイムマシンという夢のマシーンに憧れるのは、それがあれば人生をもっとパーフェクトなものにできるのではないだろうか?という願望でもあるでしょうね。昨日に戻ってあの会社での失敗を取り消したいとか、未来に行ってこれから起こる事業の失策などがあれば回避したい。あるいは、過去のアクシデントで壊してしまった骨董の花瓶が壊れる前に戻って破壊を回避させたいとか、未来に起こる災害や事件を知ってあらかじめ対策をたてておきたい、など。たしかにタイムマシンがあれば、理想の人生、はては人類永遠の夢である戦争の無い世界すら可能になるかもしれませんね。

しかし、本当にタイムマシンが実現して、それこそ自動車に毛の生えたような日常的な乗物になっている時代が来たとしたら、本当に私たちは幸福になれるのか?と考えると、それもそれで疑問に思えてきます。過去は修正がきかないからこそ私たちは「今」にベストを尽くそうとするのですし、未来が不確かでも、それでも何かを信じてチャレンジするからこそ成功の達成感もあるわけです。タイムマシンがあれば、誰もが失敗することのない人生を送る事ができるかもしれませんが、失敗した経験が無いということは、本当に幸せなのだろうか?とも思えてきます。失敗が無いということは、成功しかない人生ということになりますが、失敗が存在しない世界は成功という概念も無い世界です。欠乏感がなければ学ぼうとする気力や動機を自発的に保たねば成長できませんから、心が幼いままで一生を終えてしまう可能性もあります。ヴィヴェーカーナンダの名言に「失敗は人生の美であり、それがなかったならば、どこに人生の詩があるだろうか」「幸福よりも一層多くを教えてくれるものは不幸である。富よりも一層多くを学ばせてくれるのは貧乏である。また、内面の火をかきたててくれるのは、賞賛よりも攻撃である」という言葉がありますが、まさしくこの世は、人も歴史も、まるで物理法則のように例外無く、幸と不幸が波のように繰り返すようになっていますから、幸福のみを求めるという不可能状態を夢見るよりは、不幸からいかに学び成長できるかということに着目していったほうが、結果的には人生を幸福なものにしていくことになるのかもしれませんね。

とはいうものの・・・視点を変えてみれば、タイムマシンが当たり前に存在する世界には、そういう世界なりの苦労があるでしょうし、実際は意外と問題なくうまくやっていくのかもしれないなぁ、とも同時に思います。洗濯板で家族の服を洗っていた時代に「洗濯機なんて普及したら人間が怠惰になってしまう」と心配したり、PCが普及しだした時代に「コンピュータに仕事を奪われてしまう」と懸念したりするようなもので、実際は洗濯機によって楽になった分、別のところに時間を配分したり、生活の質を高めれるわけですし、コンピュータ社会なりの新しい仕事(プログラマやオペレーターなど)がたくさん生まれました。そのうえコンピュータによって仕事の効率が上がったり利便性が高まったりするメリットのほうがあたったりしたわけで、タイムマシンも変に心配しなくても、あったらあったなりに上手く運用しながら意外と大した不都合無くやっていけるのかもしれませんね。いくら過去や未来を書き換えることが可能になろうとも、人間の喜びや苦しみは物質的な問題ではなく心の問題ですから、タイムマシンがある時代には、そういう時代なりの心の問題がありそうですし、そういう時代なりの苦労や試練もでてくるのでしょう。

タイムマシンよりは実現の可能性の高い、来るべき未来のテクノロジーの筆頭にクローン技術やAI(人工知能)がありますが、これらも似たような問題がありますね。どちらも実現すれば人の幸福に多大な貢献をしてくれそうな技術ですが、同時に倫理的な面などで懸念や不安がささやかれているのもご存知の通りです。クローンもAIも、つきつめれば「人間に限りなく近い新しい存在の人権などをどう考えるか」などの複雑な問いを含んだところがあって、なかなか明確な答えが出しづらい問題です。クローン技術は最終的には人間の複製をも可能にするはずですし、AIも最終的には人間と同等の知能や感情、はては人格まで持ったコンピュータに行き着きます。そうなれば、単に倫理だけの問題ではなくなり、そういった存在を社会的にどう扱うべきか、という法整備などが必要になりますから、人間社会にとってだけでなく、個人個人にとっても、革命的な意識改革が必要になってきそうですね。

しかし、多分、それらの技術も、かつて産業の機械化やコンピュータなどの先進技術が当初は漠然とした不安をもって迎えられていたようなもので、普及して一般化してしまえば、そういったものが当たり前に存在する社会なりのシステムに安定していくのでしょうし、意外と上手くやっていけてしまいそうでもあります。



190615-TM-icon.png時間停止と加速剤

日常的な時間から逸脱した世界のロマンというと、「時を止めた世界」というのも興味深いものがあります。これもSF漫画などでたまに見かけるモチーフですね。そういえば昭和のアニメに「ポールのミラクル大作戦」という作品がありましたが、その作品では異世界に行くための入り口を開くための段取りとして、時間停止の描写が演出されていてユニークでしたね。

最近はアダルト動画でも「時間を止めた世界でエッチなことをする」といったタイプのジャンルが流行ってるようで、こういうドラえもん的な道具でエロ的な世界を描く作品というのは、どこか少年時代のドキドキするようなエロティシズムがあります。しかし実際に時間が止まるわけではないので、そういう系のビデオに出演する女優さんは、カメラが回っている間は瞬きが出来ないためにかなり大変みたいですね。エロの世界でも裏では見えない努力によって支えられているんだなぁ、と感心してしまいます。少年漫画でも、昔ジャンプだったかチャンピオンだったかの読み切り作品で似たような「時間が止まった世界でエロいいたずらをする」的なエッチな作品を読んだ記憶がありますが、そうしたものがヒントになって出来たジャンルなのかもしれないですね。

止まった時間モノは、自分以外、あるいは自分と特定のキャラ(時間を止めれる能力者など)以外の世界の時間の流れが止まる、という設定のものですが、実際に時間が止まった世界を考えるといろいろ破綻する部分が多く、タイムマシンものよりもそれらしい理屈を考えるのが大変そうなジャンルでもあります。エロ系の話の場合は適当に、単純に自分以外の全てが止まった世界、ということで済ませてますが、時間が止まるということは、光も進まなくなるので暗闇になりますし、分子の動きまで止まりますからモノに触れば鬼のように冷たいでしょう。時の止まった世界で、女子の胸を触ってもダイヤモンドより硬いはずですし、そもそも空気との摩擦もものすごいものになりそうですから、歩くどころか、ちょっとの身動きも大変そうです。空気の振動も無いので音も聞こえないでしょうから相当に寂しい世界でしょうね。時間が停止した世界というと、ビデオを一時停止したような、静止画のような単純な世界ではなく、上記のような寒く、暗く、音も色も無い、退屈と苦痛だけしか無いような、まるで地獄のような世界でしょうから、実際には時を止めてみても良い所はほとんどなさそうですね。

H・G・ウェルズのアイデア「加速剤」は、そうした不都合を緩和するアイデアで、自分の身体能力の全てを異常に加速させる薬を飲むことで、筋肉だけでなく思考も加速するため、周囲の時間が遅く流れているように感じるようになる、という架空の薬です。この加速の程度によっては、ほとんど周囲の世界の時間が止まった状態になるのですが、主人公視点でもわずかづつ時間は流れるため、光の問題などはクリアできますし、話にもそれなりにリアリティを持たせれる良いアイデアだと思いました。ただ、やはり他者の肉体の反応や物理現象も遅くなるので、人間の体に触ってもカチカチに固いんでしょうね。

加速剤はSFの世界にしか存在しない架空の薬ですが、LSDなどの幻覚を誘発する系の麻薬は、視覚的な混乱だけでなく時間の感覚も歪んでくるらしいので、そういう意味では実在する「時間を操る薬」のようなところがありますね。違法な薬物ですし、余計なリスクは抱えたくないので、まぁ試す機会は無いと思いますが。依存性はほとんど無く、むしろアルコール依存の治療薬として使われていた薬みたいですが、とりあえず現代では、仮にチャンスがあっても「君子危うきに近寄らず」というのが一番ですね。

LSDは1950年代前後に本格的な研究がはじまった新しい薬だったため、60年代半ばくらいまでは法整備が整っていなかったようで、アメリカを中心とした当時のアーティストやヒッピーなどの間でLSDによるトリップ体験をテーマにしたアートや音楽などの分野でサイケデリックなサブカルチャーが流行りました。画家の横尾忠則さんも若い頃にアメリカでLSDを体験していたそうで、そういうエッセイを昔読んだ覚えがあります。数人で友人の部屋でLSDを服用してとんでもないリアルな幻覚を見たそうで、尿意をもよおしてトイレのドアを開けたら、いきなりドアの向こうがナイアガラの滝になっていてびっくりした、というようなエピソードを読んだ記憶があります。60年代のレコードジャケットやポスターなど、サイケデリックアートは60年代のサブカルチャーの代表みたいなところもあり、そういったアートで表現されてるような原色がチカチカするめくるめく虹の世界が実際に見えるというのは楽しそうでもあり、また恐そうでもありますね。

自然界を見ると、生物の寿命は数百年も生きる貝(ホンビノスガイ)とか、250年ほど生きると言われるゾウガメなどもいれば、一年の寿命のハツカネズや、わずか一日で寿命が尽きるカゲロウの成虫などさまざまです。ということは、以前話題になった『ゾウの時間ネズミの時間』で言及されているように、それぞれの生物が体感している「時間」は、おそらく人間が感じるような早さでは流れてなくて、寿命の短い生物にとっての時間は速く流れ、寿命の長い生物の時間は遅く流れているのかもしれません。そうして見ると、ネズミが見る人間は、まるで加速剤を服用したSFの主人公のように超スローに動いているように見えてるのかもしれませんね。

そんな感じで、加速剤を使えば時間がゆっくり進む世界を体験できますが、逆に自分が加速するのではなく、ひとつの街全体の時間が遅く進む世界を描いた作品もありましたね。タイムマシンものばかり書き続けた時に憑かれた作家″L瀬正の短編、「化石の街」という作品がそれです。アメリカの片田舎に住む26歳の青年が主人公で、休日に趣味の写生をするために遠出して立ち寄ったある町の様子がおかしい事に気づきます。町の人がみんな蝋人形のように凍り付いたように固まっていているのです。何か伝染病のようなものがこの町に蔓延しているのか、などと青年は不安になりますが、次の日またその町に来てみると、昨日と同じ場所にいた人がわずかにポーズが変わっていることに気づきます。実は、この町は、街ごと時間が異常に遅延しているようで、24時間で1秒程度しか時間が進まない町なのでした。という感じの内容です。主人公の青年が書き残した遺書という体裁の短編で、映画「ブレア・ウィッチ・プロジェクト」みたいなドキュメンタリー風なノリで書かれていて、不思議な味わいのある面白い作品です。広瀬正著『タイムマシンの作り方』(集英社文庫)にも収録されていますが、タイムマシン系のアンソロジーにもよくチョイスされる作品です。

メモ関連サイト
時間停止(ニコニコ大百科)
時間停止の能力を持ったアニメなどのキャラの紹介が列挙されていますが、時間停止って思ったより意外とたくさんの作品で重宝されているんですね。

ゾウの時間・ネズミの時間 本川 達雄 氏 - こだわりアカデミー (「at home」様のサイトより)
90年代初頭に話題になった『ゾウの時間ネズミの時間』の著者であり、生物学者の本川達雄氏への興味深いインタビュー。ネズミとゾウはどちらも心臓は一生のうちに15億回打って止まるようです。しかしネズミは短命でゾウは長寿です。これは、鼓動の速度が異なるせいで、ネズミは一回の鼓動が0.1秒であるのに対しゾウは3秒とのこと。人間の尺度で感じる時間だけが唯一の時間ではなく、生物ごとにそれぞれ独自の時計を持っているのだ、といった話を筆頭に、とても興味深いテーマを語っていて勉強になります。

ポールのミラクル大作戦 第1話「よみがえったベルト・サタン」(YouTubeのTatsunokoChannel様より)
タツノコプロの公式チャンネルで公開されている懐かしの昭和アニメ「ポールのミラクル大作戦」です。この作品では異世界に参入する前段として時間停止を扱っています。9:03あたりから時間停止の描写がありますが、時間が停止した世界をモノトーンの版画のようなタッチで表現していて、とても秀逸な演出ですね。時間が止まった世界は、上述したようにビデオの一時停止のような単純な世界ではなく、原子の運動も止まった凍てつく状態でしょうし、光の運動さえも停止した暗黒の世界だと思うので、まさにこのアニメの凍てついたような冷たさのある時間停止の演出には妙なリアリティを感じます。時間停止した世界でオカルトハンマーなる魔法のハンマーで適当な場所を叩くと異世界の扉が開く、という段取りなのですが、この異世界への扉の紋様も雰囲気がありますね。どことなくFF10の「試練の間」のスフィアを置く場所にある不思議な「印」のデザインを連想させる感じで、いかにも不思議な世界にありそうな感じがグッときます。



190615-TM-icon.png時の旅人・サンジェルマン伯爵とジョン・タイター

タイムマシンの製造は不可能であることの根拠のひとつに、「歴史上タイムマシンが訪れたという記録がない」というものがあります。タイムマシンが時間を自在に移動できるなら、すでに過去のいろいろな時点に未来人が来てるはずで、未来人が歴史的な大事件に調査に訪れたり、歴史上の人物に会見したりした記録がたくさん残っていてもおかしくないはずです。なのに、それらしき記憶が全く無いということは、そもそもタイムマシンの製造は不可能で、どんな遠い未来においても作られることはないのではないか、という推論があります。これは、至極真っ当な指摘ですが、本当に未来人が過去に干渉した証拠は皆無なのかというと、意外とそうでもなく、真偽が不確かながらも、オーパーツ的なものとか、それらしい痕跡がいくつか発見されているのも事実です。

そういった逸話の代表格というと、不死の人とか、時の旅人とか言われたサンジェルマン伯爵が有名ですね。彼が食事をしているところを見た人はないないとか、何十年たってもいつも40代前の精悍な風貌で全く歳をとらなかったとか、様々な分野の専門知識があり、音楽、絵画にも熟達した芸術家でもあり、錬金術にも通じていてときおり人前でその秘術を披露したとか、かなり謎めいた人物であったようです。ルイ15世、ルイ16世をはじめ、1700年代の社交界において実際に彼と面識を持った貴族や識者、著名人は多く、不死者かどうか別にして、サンジェルマン伯爵なる人物が実在したのはたしかなようですね。

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サンジェルマン伯爵の肖像画

同時代の哲学者ヴォルテールはサンジェルマン伯爵を「決して死ぬことがなく、すべてを知っている人物」と評したとのことで、当時の知識人からも、その超人的な博識ぶりは本物だったのでしょう。また、過去の歴史的事件をさも実際に立ち会ってきたかのように話したりしていたことから、不老不死というよりは、彼はタイムトラベラーなのではないか、とまで言われるようになります。不老不死とかタイムトラベラーとか、一般にはトンデモなオカルト系のイメージがありますから、このサンジェルマン伯爵の超人的なエピソードのほとんどは彼のホラ話なのでは、という見解もあり、たしかに常識で考えれば、そっちのほうが理性が納得する解釈で、オカルト関係に寛容なコリン・ウィルソンでも彼をペテン師のような感じに捉えているみたいです。しかし、ホラ話であるという証拠もなく、ただのホラ吹きにしては上流社会のマナーに通じていたり、博学だったり、裕福な生活をしてたりしていたようで、タイムトラベラーかどうか別にしても、そうとうに超人的な人物で、かつ私生活が謎に包まれたミステリアスな人物であったのは事実みたいですね。個人的に思うに、タイムトラベラー説は置いとくとしても、ただ者ではなさそうですし、それなりに別の面白い真相がありそうな気もします。

そういえば諸星大二郎の傑作『暗黒神話』の中では、武内宿禰(たけうちのすくね。4世紀前半頃、景行・成務・仲哀・応神・仁徳の五朝にわたって朝廷に仕えていたとされる伝説上の人物)の正体はサンジェルマン伯爵だった、というユニークな仮説を描いていて面白かったですね。

サンジェルマン伯爵の生まれは通説では1700年前後といわれていて、主なエピソードも18世紀ヨーロッパにおけるものがメインですが、マリーアントワネットの処刑も前もって知っていたかのように予言めいた忠告を残していたとか、はては聖書のヨハネ福音書に書かれているカナの婚礼のイベントに立ち会ったとか、古代の出来事も体験談のように話していたそうです。また、サンジェルマンは1784年2月27日にリューマチと鬱病を煩い死去したという記録がドイツのエッカーフェーデ教会の戸籍簿に記録されているとのことですが、その翌年にはドイツのヴィルヘルムスバートで開かれた秘密結社の集会に出ていたという記録や、さらに死後7年後の1791年にはアントワネット王妃の侍女アデマール夫人と会って話もしたようで、生前の彼を知っている夫人は幽霊が現われたのかと驚いたほどその人物の容姿はサンジェルマン伯爵と瓜二つだったようです。彼女は伯爵の葬儀にも参列していたそうなので、見間違いとも断言しがたく、また彼は自身をサンジェルマン本人を名乗っていたようなので、これも不思議なエピソードです。

他には、ナポレオンと会ってたとか、第二次大戦中にチャーチル首相に会い、ヒトラー戦の助言をしていたとか、謎めいた噂も多いですね。こうした逸話を、サンジェルマン伝説に尾ひれがついて広まったデマ話と片付けるのは容易ですが、ヨガナンダの本に出てくるヨガナンダの師匠の師匠のそのまた師匠であるヨガマスター、ババジも似たような不老不死の神人として書かれてますし、サンジェルマンのような達人(アデプト)がこの世に一人や二人くらいいてもらったほうが楽しい世界になりそうです。

そういえば、タイムトラベルもののヒット作、「シュタインズ・ゲート」に、件のサンジェルマン伯爵の現代版であるタイムトラベル界のニュースター、ジョン・タイターが何度か言及されていましたね。「シュタインズ・ゲート」におけるタイムトラベルの理屈は、ほぼこのジョン・タイターによる時間理論を元にしたもので、タイターの言及している「世界線」などの解釈はなかなかユニークで興味深いものを感じます。ジョン・タイターは、2000年にインターネット上に現われ、自称2036年からやってきた未来人を名乗り、その書き込み内容がそれなりにリアリティのある理論や設定であったために、一躍世界的な有名人になっていったようです。未来人を名乗っているだけに、未来に起こりうる歴史的な事件などを予言したりもしていますが、予言内容を見ると、中国の宇宙進出とか当たってる予言も少しありますが、ほとんどはハズレてるので、こちらはやはり本物の未来人と見るには少し条件が足りない感じがします。まぁ、実際、それらしいネタをネットに投下して楽しんだ愉快犯というのが常識的な見方だとは思います。しかし、時間旅行の理論や、タイムマシンの構造など、なかなかそれらしい感じではありましたし、予言が外れる事も「世界線のズレ」による影響という解釈によって、それなりに説明に整合性を付けてる所が芸が細かく、また、ネットから消える最後まで野暮なネタバレをしないまま去ってくれたおかげで、完全否定もまた出来ないままロマンの余地を残してくれた感じではありますね。

考えてみれば、タイターがいなければ「シュタインズ・ゲート」も無かったわけですから、彼は少なくとも日本のゲームやアニメなどのサブカルチャーにはそれなりの影響を与えたわけです。サンジェルマンのほうは、数ある不思議な逸話のほとんどは多少尾ひれがついていると思うものの、かなり謎めいた怪人物には違いなさそうではあります。タイムトラベラーかどうかわかりませんが、魔術師的な能力はかなりのレベルだったのではないかと推察します。

サンジェルマンもタイターも冷静に考えればタイムトラベラーと断定するには疑問の余地がありますが、完全否定することを少し躊躇せざるをえないくらいには「それっぽさ」があって、もしも正体が単なる詐話師であったにせよ、彼らの言動がこの世界をちょっと面白い愉快なものにしてくれているのは確かですから、そう考えると、ある意味人々に夢を与えて社会貢献している立派な人たちのようにも思えてきますね。

メモ関連サイト
サンジェルマン伯爵(ウィキペディア)

ジョン・タイター(ウィキペディア)
posted by 八竹彗月 at 04:21| Comment(0) | 雑記

2019年06月02日

とあるおばあちゃんの詩についてのエッセイ

「この世の人生というは、魂の修行の場である」というスピリチュアルな考えがありますね。最初聞いたときは根拠の無い宗教的な適当な方便、くらいにしか思ってませんでしたが、考えれば考えるほど、意外と人生とは本当にそういうものなのではなかろうか、と思う事がしばしばあります。いくつになっても天真爛漫で豪快なイメージのファッションデザイナー、山本寛斎氏も、かつて伊集院光さんのラジオ番組で「人生は表面がどう見えようとも、いい時悪い時、山谷(やま たに)はみんなあります。右肩上がりでズーッといい事づくめ、なんてことはないですよ」とおっしゃっていたのが印象に残ってます。「でも世の中にはそんな人もいるんじゃないですか?」という質問に対しても「いいや、これは断言できます」と確信をもって否定しています。

地球上にいる人類の総数は国連などの統計によれば現在推定75億人ということですが、なんとなく、私たちは、75億人もの人間がいるなら相当数の「幸福だけの人生」を過ごしている人がいてもおかしくないのではないか?という漠然とした推測をしてしまいがちです。しかし、自分の周囲を振り返ってもそういう人はいませんし、有名人など「この人なら不幸は経験してないはずだ」と目星をつけても、よく調べてみるとけっこう深刻な悩みを抱えていたりするものです。そういえば私も、昔働いていた職場の経理のお姐さんに「あんた、悩みなんて無いでしょ?」と目が合うとよく言われてました。私の場合、深刻な悩みにもがいている時ほど、他人にはひょうひょうと悩み無く生きているように見えてるようです。誰しも他人の悩みなどほとんど無関心なのが普通なので、悩んでいるのは自分だけ、みたいな気分に陥りがちですが、ポジティブを絵に描いたような山本寛斎さんのような人でさえ不幸や悩みがあるんですから、おそらく悩み無く生きている人はほぼ皆無でしょう。ブッダも言ったように、人間の悩みは人間関係やお金などの表面的なものだけでなく、人間すべからく逃れざる「苦」、つまり生老病死と無関係に人生を過ごすことはできないわけです。

まぁ、とにかく、人生は、そういう世界でいかに幸福に過ごす事ができるか、ということにチャレンジし続けるゲームのようなものなのでしょう。ゲームに勝つにはゲームの仕組みを理解しないと話になりませんが、幸いな事にキリストやブッダや老子などの数々の賢者がヒントをたくさん遺してくださってますし、また、自分自身の半生そのものが最大のヒントですから、そこから自分なりの解答を見つけ出していくのもゲームの醍醐味なのかもしれませんね。今回は、そうした人生ゲームの終盤に差し掛かったとある女性が書いたとされる、ある一編の何とも言えない味わいのある詩を取り上げたいと思います。

もう一度生きられたら

次の人生ではもっと誤りを犯したい。リラックスしたい。柔軟に生きたい。この人生よりも愚か者でありたい。ものごとを生真面目にとらないようにしよう。もっとチャンスを手に入れよう。もっともっと山に登り、もっともっと川で泳ごう。アイスクリームを今よりたくさん食べて、豆類は少なくしよう。きっと現実でのトラブルは多くなるだろうが、不安や思い過ごしは少なくなるに違いない。

ごらんの通り、私は時を日についで、賢く清らかに生きている大衆の一人だ。ああ、自分だけの時がもてていたなら。もし、もう一度生きてそうすることができたら、たっぷり自由な時を持つことだろう。つまり、他のことは何も試みまい。毎日あくせくと生きて多年を過ごす代わりに、ひとつ、またひとつと、ただそういう瞬間のみを。私は、温度計や魔法瓶や、レインコートや、パラシュートを持たずには、どこへも行かない人間だった。もし、もう一度それができたら、私は身軽に旅することだろう。

もう一度生きることができたら、まだ早春のうちにはだしで出かけよう。そして、晩秋になっても、大自然の中にとどまっていよう。もっとダンスをしに行こう。メリーゴーランドにもっと乗ろう。ひな菊をもっとたくさん摘もう。

ナディーヌ・ステア 85歳



作者の名前はナディーヌ・ステア(Nadine Stair)。アメリカ・ケンタッキー州・ルーイヴィル在住の女性で、彼女が85歳の時に書いたとされるこの詩は、多くの人に感銘を与え、多くの本や雑誌に引用され、またネットでもこの詩の引用をよく見かけます。引き寄せブームの火付け役になった『ザ・シークレット』に登場したことでも知られるジャック・キャンフィールドの著書『こころのチキンスープ』(原著は1993年刊)にも紹介されてますし、ニューエイジのスピリチュアルリーダー、ラム・ダスの著書『覚醒への旅』(原著は1978年刊)にも引用が見られ、また先日ネットでも見かけたりして、ここのところよくこの詩を見るので、ちょっと気になっていたこともあって今回記事にしてみました。

数々の本に引用される名詩の作者であるナディーヌ・ステアなる女性ですが、その素性が気になって調べてみたら意外な事が分かりました。英語版のウィキによれば、この女性、まことしやかに住所まで示されていながらも、実は実在する人物かどうかもわかっていないようです。この詩の出所を辿っていくと、あの南米文学の巨匠、ホルヘ・ルイス・ボルヘスに行き当たるようですが、ボルヘスの創作した詩ということではなく、アメリカの漫画家ドン・ヘロルド(Don Herold)の『私はもっとひな菊を摘もうと思う(I'd Pick More Daisies)』というタイトルの1935年に書かれた詩がオリジナルのようです。その詩をボルヘスがどこかのテキストに引用したようで、それがボルヘスの作として誤って拡散されていったみたいですね。そして、さらにそれがどういう経緯か、ナディーヌ・ステアなる老女の詩という改変が為されて主に北米で最も一般的に知られるバージョンに育っていったようです。先日のヴォルテールの話ではないですが、これもまた伝言ゲームみたいな面白い流れですね。

ちなみにドン・ヘロルドの詩は1953年のリーダース・ダイジェストにも改訂版を公開しているようです。オリジナルの詩は男性の視点で書かれてるので、どこか人生訓めいた重さがあるためか、さほど知られてなかったようですが、その後改変されて拡散された老女ナディーヌ・ステアのバージョンでは、女性目線のロマンチックな情緒が加味されているため、多くの人の心をつかんでいたのでしょうね。詳細は以下のウィキを参照してください。

まぁ、そういった細かい経緯はどうあれ、作品自体は味わい深い良い詩であるのはたしかで、人生をよりよく生きるにはどうしたら良いのか、という人類共通の問題を、ブッダなどの賢者目線ではなく、一般の普通のおばあちゃん目線で語っているところが、親しみ深く心に染み込んでくる所以でしょうね。

人生という劇場では、「自分」というひとりの主観劇を一本だけしか見る事はできませんから、充実した人生を送った人でも、後悔、というよりは「もしあの時こうしていたらどうだったろう?」とか、いろいろと「あり得たはずの別の人生」を想像してしまうのかもしれません。「次の人生ではもっと誤りを犯したい」という最初の一句が胸に刺さります。死後の世界があるにしろ、この自分という個体の人生は一度きりですし、何かの行為がどういう結果を招くのかは未知の世界なので、無難に生きようとしがちですが、慎重になりすぎてしまうと冒険の無い単調なものになってしまいますし、本当に人生というのは正解の無いドラマだなぁ、と感じます。しかし、どうも運命を支配している法則は、リスクを背負ってでも冒険する者に多くを与えるようになっているようにも感じます。人生の最後に後悔するのは、失敗した経験ではなく、やろうと思っていながらチャレンジしなかった事である、という話がありますね。スティーブ・ジョブズの名言に「ハングリーであれ。愚かであれ。(Stay hungry, stay foolish)」というのがありますが、まさに人間はハングリーな状態こそがアイデアや行動力を発揮しやすくなるところがあり、人生においてはチャレンジする事のリスクを勘定して臆病になってしまうような賢さよりも、見切り発車できる愚かさのほうが大切なのかもしれませんね。

関連サイト
ナディーヌ・ステアの有名な詩の出所について(wiki 英語)
posted by 八竹彗月 at 07:06| Comment(0) | 雑記

2019年05月19日

【音楽】アレサンドロ・アレサンドローニとノラ・オルランディ(イタリアン・レトロ・グルーヴ vol.1)

ここ最近は一頃流行った「イルマ」や「スケーマ」などの現代のラウンジ系サウンドを経て、ここ最近映画音楽の巨匠アルマンド・トロヴァヨーリ、ピエロ・ピッチオーニなどの原点を味わったりしてました。このところ、昔聞いたイルマのコンピレーションに収録されてた好みの曲が前々から気になっていて、それはアレサンドロ・アレサンドローニというちょっと風変わりな名前が印象的なミュージシャンなのですが、ここ数日彼の作品をまとまって聴きまくっていたこともあって、またしばらくぶりにイタリアン・グルーヴにハマっています。その流れで最近知ったばかりのノラ・オーランディと合わせていい感じのレトロサウンドを選んでみました。

るんるんAlessandro Alessandroni「Dialogando」
アレサンドロ・アレサンドローニ(Alessandro Alessandroni 1925-2017)はイタリアの作曲家、アレンジャー。「Dialogando」は、たしかこのブログでの最初の音楽ネタの記事でけっこう前に一度触れた曲ですが、アレサンドローニに惹かれるきっかけになった大好きな曲なので再掲します。シュールでレトロ感のあるスキャットとミニマル音楽っぽいグルーヴィーでモダンなテイストが異次元の世界に誘われるような感じで個人的に大好きな曲です。

るんるんAlessandro Alessandroni「Sweet Emotions」
アレサンドローニは口笛の名手としても有名だったそうで、同国の映画音楽の巨匠エンニオ・モリコーネのマカロニ・ウェスタンものの映画音楽の多くでアレサンドローニは口笛で参加しているようです。口笛の名手というと、ふと初代ルパン三世の音楽担当だった山下毅雄を連想しますね。ヤマタケサウンドもそういえばイタリアの映画音楽に通じるモンド感があって好きな音楽家ですが、やはりこのあたりの欧州の映画音楽の影響とかもありそうですね。ヤマタケさんは「パネルクイズアタック25」のテーマでは口笛を披露してますし、60年代のお色気サスペンスドラマ「プレイガール」のOPなどは、モロに同時代(60年代)のイタリアの映画音楽っぽいモンド感にあふれていて素敵ですね。

るんるんAlessandro Alessandroni「Sunday Theme」
るんるんAlessandro Alessandroni「Vocalese Fugue」
るんるんAlessandro Alessandroni「Numero uno」
るんるんAlessandro Alessandroni「Blue Bossa」
好きな曲はたくさんありますが、とくにいくつかアレサンドローニの秀作を選んでみました。音楽もセンスもさることながら、名前もなにげにフックのある感じで、荒俣宏がラブクラフトの名前に関して語った言葉「僕は最初にラヴクラフトという名前を聞いただけでおもしろいと思いました。やっぱり、作家というのは、読む前から魅力がなくちゃだめなんです」というのを思い出します。アレサンドロ・アレサンドローニ、日本で言えば町田町蔵%Iな感じの、繰り返し感のあるユニークな名前ですよね。荒俣先生の言うように、まず名前を聞いただけで興味を惹かれてしまうインパクトがあります。

るんるんNora Orlandi「A Doppia Faccia」
るんるんNora Orlandi「Soho」
ノラ・オルランディ(1933〜)はイタリアのシンガー、作曲家、ピアニスト。主に60〜70年代の映画音楽を手がけた美人の女性音楽家です。さほど多作な音楽家でないためか、才能のわりに知る人ぞ知る感じのようですが、楽曲はシビレるくらいにお洒落でキャッチーなレトロサウンドです。イタリアン・ラウンジ・ミュージックのイメージそのものといった感じの程よいモンド感がいい感じですね。曲は2曲とも1969年の映画「二重の顔(A Doppia Faccia)」のサントラ曲。

るんるんNora Orlandi「Marcel-Deborah」
るんるんNora Orlandi「Ginevra」
こちらもノラ・オルランディの曲で、1968年の映画「デボラの甘い肉体(Ii Dolce Corpo Di Deborah)」のテーマサントラより。映画のほうはエロスな感じのカルトな作品のようで、映画のほうも機会があれば見てみたいですね。サントラの方も全体的に質が高く、近年音楽マニアからひそかに注目を集めているようで、レトロで妖しいムード感がただよっている感じが素晴らしいです。ノラ・オルランディとアレサンドロ・アレサンドローニは1954年にコーラスグループ「2+2」、「4+4」など同じグループで活動した時期があり、友人関係にあったようで、ふたりのサントラ曲を収録した『A Doppia Faccia / La Terrificante Notte Del Demonio』というレアなカップリングCDも出てますね。

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Irma Cocktail Lounge, Vol. 1 (Irma La Douce Collection) Various artists

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これはたしか昔渋谷のHMVで店員さんのポップに釣られて衝動買いした時のイルマのコンピレーションCDで、これに収録されていた曲ではじめてアレサンドロ・アレサンドローニを知りました。

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IRMAコレクション。コンピレーションはハズレがあまりなく、好みの所属アーティストも多いので、昔よく聴いてました。音楽の楽しさを教えてくれた先生みたいなレーベルですね。イタリアンラウンジ音楽は好みのジャンルなので、好みの曲やアーティストが多く、そのうちまた続編的な記事も書こうと思います。
posted by 八竹彗月 at 04:21| Comment(0) | 音楽

2019年04月06日

タイムマシンにお願い!(タイムパラドックスの世界)

時計寺山修司とタイムマシン

サディスティック・ミカバンドのヒット曲「タイムマシンにおねがい」は、タイムマシンに乗って恐竜の時代やら鹿鳴館の時代など、謎とロマンを求めて過去を旅する夢を歌った楽しい曲でしたね。タイムマシン、あるいはタイムトラベルもののSFはそういった感じで、過去の歴史的事件に立ち会ったり、未来の世界がどうなっているか見に行ったりといった空想を広げる人気のジャンルで、映画でも「バック・トゥ・ザ・フューチャー」や「バタフライ・エフェクト」など面白い作品が多いですね。日本アートシネマの傑作、寺山修司の映画「田園に死す」も、寺山独特のポエティックな時間論を主軸にした奇妙で詩的なシュルレアリスム作品でした。「過去」は固定した事実の集積で、「未来」は固まっていない無限の可能性の世界、というようなイメージが一般にあると思いますが、寺山はそこに詩的な問いかけをしています。過ぎ去った事は記憶の中にしか存在しない虚構に過ぎないのだから、過去とはつまり単なる記憶のことに過ぎず、であるから、実は過去を書き換える事は容易に可能なものである、という独特の思想を持っていました。映画「田園に死す」は、そういった思想を映像化した作品で、作中のキャラである映画批評家にこう言わせています。「人間は記憶から解放されない限り、ほんとに自由になることなんてできないんだよ」と。そして映画批評家は、主人公の「私」に次のような問題を投げかけます。「もし君がタイムマシンに乗って数百年をさかのぼり、君の三代前のおばあさんを殺したとしたら、現在の君はいなくなるか?」

ご存知、タイムマシンものには付き物の有名な「親殺しのパラドックス」(映画では親ではなくお婆さんですが)を言ってるわけですね。タイムマシンものは、そのように、無邪気に時間旅行のファンタジックな空想を楽しむだけでなく、「時間」というつかみ所の無い概念をどう認識するかという哲学的な問も含んでおり、また、そういった時間の解釈によって生じるパラドックスも興味深いものがあります。上述した「親殺しのパラドックス」が、その手のパラドックスの中で最も有名なもので、「バック・トゥ・ザ・フューチャー」しかり、タイムトラベルもののSFはそれをどう扱うかが重要なテーマになったりすることが多いですね。

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H・G・ウェルズ著「タイムマシン」1895年の初版本のトビラ絵。ウェルズはタイムマシンというSFの画期的なアイデアを生み出しましたが、その作品でタイムマシンが行くのは80万年後(正確には紀元802701年の世界)の未来です。今でこそタイムマシンものというと、過去の歴史的事件に介入したり、未来の競馬場に行って結果を見てから馬券を買ったりなど、現実的な欲望とリンクした使い方をされるのがメインですが、ウェルズはもっと単純に、時間を行き来するということ自体のロマンを表現したかったのでしょうね。80万年後となると、ほとんど現在の常識が通用する世界ではなくなってるはずですから、未来といってもほとんど異世界ものと区別のつかない世界でしょうね。しかしながら、タイムマシンというアイデアは、SF小説だけに限らず、物理学者なども真剣に議論のテーマにするような奥の深いものですし、また時間の謎にかかわるテーマでもあるので、哲学の分野でもしばしば議論のテーマになったりしていて面白いジャンルですね。

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寺山修司監督「田園に死す」1974年 配給:ATG
現在の「私」が少年時代の過去の自分と会話するシュールなワンシーン


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同上、「田園に死す」のワンシーン。雛壇が川上から流れてくる伝説のシーン以外にも、寺山の脳内にあった幻想怪奇のポエジーが映像として出力されているようなシーンは多く、人間の潜在意識に堆積した欲望やら希望やらがカオスに入り組んだような奇妙な世界を描き出していて凄いですね。

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上のシーンのスチール写真。一見なんてことのない寒村のスナップ写真のようでいて、同時にものすごく違和感のある異世界っぽさがにじみ出ている雰囲気がイイですね〜

メモ参考サイト
「田園に死す」(ウィキペディア)



時計親殺しのパラドックス

自分が生まれる前の過去に戻って若き日の自分の親を殺害したらどうなるか?という「親殺しのパラドックス」。自分が生まれるには両親が過去のある時点で出会って子供(つまり自分)を儲ける必要がありますが、その前に親に成るはずの人物を殺してしまうと、自分は生まれないことになり、であれば生まれてない自分が存在している自体が矛盾で、親殺し自体が不可能になります。殺された親は、まだ生んでない子供によって殺されたことになり、生まれていない殺人者がなんで存在できるのか、とか、いろんな部分が破綻してくるというパラドックスで、突き詰めていけば「存在とは何か?」という純粋に哲学そのものが扱うテーマと同じような思考の深淵にいざなわれていきますね。

「親殺しのパラドックス」は、まぁ、殺しとかですと物騒ですが、意図的でなくても似たようなミスを犯す可能性はあり、例えば、両親が結婚する大きなきかっけになったイベントなどを自分が過去に戻ってしでかした何らかのアクションによって結果的に妨害してしまうとします。すると、両親が結びつく確率がガクッと減るわけですから、自分が生まれる可能性も低くなってしまいます。殺人までしでかさなくても、過去に行くという行為自体が様々な問題を引き起こします。

そうした矛盾を解決するために、未来人の超国家的な組織であるタイムパトロール隊によって常に時間旅行者は監視されており、常に矛盾が起きないように管理しているとか、あるいはもっとアカデミックな感じで多元宇宙の概念で切り抜けようとするケースなど、そのあたりのバリエーションも様々な創意工夫があって面白いところです。父親を殺したつもりが実は自分は母親の浮気で出来た子供だった、などという悪趣味なパラドックスの解決策まであったりしますが、さらには、そういったアクシデントは偶然に起こるのではなく、もともと宇宙自体に時間の矛盾を補正する何らかの力が法則的に働いていて、タイムパラドックスが起こらないようになっている、というオカルティックな解釈もありますね。一見ご都合主義な解決法のようで、実際意外と宇宙ってそういうものじゃないだろうか、と思わせるところもあり、この解釈も突き詰めて行くと面白いアイデアになりそうな種ですね。

石川喬司著「夢探偵 SF&ミステリー百科」講談社文庫(1981年)に、親殺しのパラドックスの解決法が複数紹介されていて、そのいくつかは上記のように運命の謎めいた力によって、なぜか親を殺せない状況になってしまうというものも列挙されていますが、他にユニークな例では、アルフレッド・ベスター著「マホメットを殺した男たち」で描かれたアイデアを紹介しています。それは、殺したとたんに異質な別世界に入ってしまうというものです。話しの内容は以下のようなものです。

女房の浮気にショックを受けた科学者が我を忘れて怒り狂い、過去に旅して世界の歴史ごとめちゃくちゃにしてやろうと決意して、ナポレオンやらアインシュタインやら歴史を作ってきた歴史的な有名人を片っ端から殺害して現代に戻ってくる。しかし、戻った現代でも件の女房は相変わらず普通に存在していて、今まで通り平気で浮気しているありさま。世界は自分の行為によって何の変化もしなかったが、そのかわり自分だけが存在しない幽霊のようなものになってしまっていることに気づく。彼が変えたのは世界ではなく、自分自身の運命だったのだ。というお話です。メランコリックで詩的な情緒のあるなかなかのアイデアだと思います。

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石川喬司著「夢探偵 SF&ミステリー百科」講談社文庫(1981年)

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「SFファンタジア 2・時空編」原案:福島正実 監修:小松左京 編集:石川喬司 1977年(昭和52年) 学研
ビジュアル資料満載のSF百科事典「SFファンタジア」の2巻目の表紙。この巻は時空に関するSFがテーマで、タイムマシンやタイムトラベル関連以外にも、宇宙人はヒト型なのかという考察とか、宇宙という最大に巨大な空間を舞台に繰り広げられるスペースオペラもの、またSFアートやエッシャーなどの幻想絵画の紹介など、とても興味深い編集です。


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SFファンタジア 2・時空編」原案:福島正実 監修:小松左京 編集:石川喬司 1977年(昭和52年) 学研
タイムマシンの項は上述の「夢探偵」の著者、石川喬司が担当しています。「夢探偵」と重複する文章はありますが、こちらではもっとページ数を割いて詳細にいろいろ作品紹介をしていて、図版も多く読み応え見応えがあります。多元宇宙や異次元ものにも詳しく言及していて興味深い情報が多く紹介されています。




時計ループする時間

ドラえもんからはては以前大ヒットしたゲーム「シュタインズ・ゲート」まで、アニメ、漫画、ゲームなどでも多くの娯楽作品で、そのようなタイムトラベルによるパラドックスを様々なシチュエーションで描いていて興味深いです。そういえば「ルパン三世」の1stシリーズの第13話「タイムマシンに気をつけろ」でもタイムマシンが扱われていて、「親殺しのパラドックス」に触れてますね。シナリオでは親ではなく、もっと以前のルパン三世の先祖が魔毛狂介(まもうきょうすけ)と名乗る時間旅行者によって命を狙われる、というものでしたね。

「ひぐらしのなく頃に」などは、時間の概念自体を扱った独特の考察による「運命論」みたいな所が肝になっていてとても印象深い作品でした。話題になったアニメ「僕だけがいない街」「涼宮ハルヒの憂鬱」「魔法少女まどか☆マギカ」「Re:ゼロから始める異世界生活」などもそうした系列のいわゆるループものですから、ループもののSFは傑作を多く生み出しているジャンルともいえますね。「僕だけがいない街」は普通の現代日本を舞台にしていてキャラも普通にいそうなリアリティがあり、それだけにそうした普通の人が蜘蛛の巣のような時間の円環に囚われてしまうので余計に不思議感があって面白かったですね。物語は「ひぐらし」のオマージュ的な要素がよく出てくるので、とくに「ひぐらし」ファンにはニヤリとさせられるシーンが多く楽しかったです。内容はひぐらしより推理要素の比重が高く上質なミステリーになっていて、1話目からぐいぐい引き込まれてしまいました。ループするたびに、事件のヒントを少しずつ掴んでいく過程や、事件の原因になっている過去を見つけ出し、それを変える事で事件自体を回避していくところなど、スリリングでとても面白かったです。単にSF的な面白さだけでなく、人生論的なメッセージも深いものがあって、そうした部分が大いに共感をよんだことが大ヒットに繋がったのでしょうね。人と深く関わる事は、基本的に面倒なものなので、生きていくのに必要な程度だけ着かず離れずで人付き合いというものをしてしまいがちになりますが、そういう浅い関係は、自分だけでなく自分に関わった他者の運命にも浅い影響しか与えないために、結果的に運命に流される人生になりがちです。「僕だけ〜」では、まさにそういう、浅い人間関係だけで生きてきた厭世的な主人公が、受け入れがたい運命を変えるために、キーになる人物と深く関わっていく事になり、そうした主人公の「人間としての経験値」の上昇から伝わってくる人生の在り方などの哲学が、この作品を味わい深くしている部分だと思いました。

ループ系の作品は、ひぐらし以前の作品でいうと、押井守監督のいわくつきの作品「うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー」もそうですね。「ひぐらし」が2002年あたりの作品で、「うる星2」が1984年ですから、なんだかんだいっても押井守監督の先見性はさすがですね。ウィキの「ループもの」の解説では、時間のループ自体はけっこう昔からあったようですが、ひとつのジャンルとして認識されはじめたのは1987年のケン・グリムウッドの小説『リプレイ』の世界的ヒットから、ということで、そういう見地からも「うる星2」の先見性は注目したいですね。実は、私が「うる星2」を見たのは最近のことで、2、3年前にDVDではじめて見たのですが、「うる星やつら」らしからぬシュールで、メランコリックな雰囲気が印象的でした。原作者の高橋先生が不満を爆発された気持ちも理解できるところがありましたが、作品としては、そうした裏事情を抜きにすれば、うる星やつらのキャラで「ねじ式」を表現したようなアヴァンギャルドな感じの作品で、一見の価値はあると思います。

メモ参考サイト
「ループもの」(ウィキペディア)
「うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー」(ウィキペディア)



時計パラドックスの解決法

タイムパラドックスの解釈や解決の仕方などは、哲学的な思考実験そのもので、腰を据えて考えないとすぐ頭が混乱しそうな複雑な部分もありますが、またそこが楽しい部分でもありますね。タイムマシンもののSFをメインに執筆を続けた異端児、広瀬正さんの作品なども斬新な切り口で時間のパラドックスを描いていて面白かったですね。

タイムパラドックスのアイデアでとても気に入ってるのは、タイムマシンの発明に関する以下のようなパラドックスです。昔SF関連の事典かなにかで知ったのですが、本のタイトルが不明なので、ネット検索したら、同じアイデアが紹介されていたので引用します。

ある日、あなたは見知らぬ老人からタイムマシンの設計図を渡される。あなたはそれをもとにタイムマシンを発明し、大金持ちになる。やがて年老いたあなたはタイムマシンで過去へ向かい、かつての自分に設計図を渡す…。
…ちょっと待った、最初の設計図ってどこから出て来たんだ?

ニコニコ大百科「タイムパラドックス」より


これだけで見事なショートショートになりそうなアイデアですよね。最初に現われる見知らぬ老人の正体は、未来から来た自分自身だったというオチですが、さらに不思議なのは、その未来の自分が所持していたその設計図は一体どこから出てきたのか?という謎です。発明者が存在しないのに発明品だけがあるというパラドックスで、なかなか秀逸な謎です。上述の「夢探偵」によれば、J・G・マッキントッシュの短編「プレイバック」の中で似たような議論が描かれているそうで、「ベートーベンが『月光の曲』を書いた後で、誰かがそれを盗んで三週間前に戻り、それをベートーベンが曲を書く前に演奏して聞かせたとしたら、この曲をつくった者は誰ということになるか?」というパラドックスを紹介しています。タイムトラベルにはこのような様々な矛盾が生じますが、その原因はおそらく我々が認識している「時間」という概念そのものが間違っているのではないかというのも理由のひとつだと思います。一般に考えられているように、時間を1次元の線的なものと考えると、どうしても矛盾が生まれます。時間が1次元的な、過去から未来に流れる一方通行の流れであると仮定すると、過去は確定した世界ですから、もし過去の自分に会いに行けるなら、過去の時点で未来の自分に会った記憶があるはずです。なので、過去に「未来の自分に会った」という経験が無い以上、絶対に未来の自分は現在、あるいは過去の自分に会えないことになります。

そういえばさらに凄いパラドックスもありました。これは「夢探偵」で紹介されているタイムパラドックスのアイデアの中で最も奇妙だったもので、時間移動によって自分自身と交わって自分を生んだ話です。なかなかよく出来てますが、それなりにかなりのややこしさです。内容は以下の通り。

アメリカSF界の大御所、ロバート・A・ハインラインの短編「輪廻の蛇』は、これにさらに輪をかけた奇妙奇天烈マカ不思議な話である。この小説では、自分と自分がセックスして自分が生まれる。えっ、そんなバカな、と誰もが思うだろう。しかし本当にそうなるのだ。
詳しく説明すると──────捨子として孤児院で育てられた娘Aが、年頃になって男Bに誘惑され妊娠して、帝王切開で子供Cを生むが、その子供が病院からさらわれる。さらったのは時間旅行者で、彼はタイムマシンで昔に行き、その子供を孤児院の玄関に捨てる(C→A)一方、娘は帝王切開のとき半陰陽であることがわかり、女性器も子宮ももう役に立たないと判断した医者は、娘を男にしてしまう。娘が男になって六年目、時間旅行者はその男をたぶらかして七年昔に連れて行き、娘を誘惑させる(A→B×A)。そこで、A=B=Cということになる寸法だ。おわかり?

石川喬司著「夢探偵 SF&ミステリー百科」講談社文庫(1981年)p174より


とにかくタイムマシンに関する様々な矛盾や解釈は、ある意味とてもチャレンジしがいのある知的ゲームですから、無数の論説があって個人ではカバーしきれないところでもあります。そのあたりの様々な解釈のバリエーションを分類したりするのも面白い研究テーマかもしれませんし、もうそういう論説をしている作家さんもいるかもしれませんね。これから私が語ろうとしているタイムマシンに関する解釈も、もしかしたらすでに誰かが論じているような気もしますが、ざっと検索したところ、全く同じような論旨はたまたま見つからなかったのもあり、それをちょっと書いてみようと思います。

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広瀬正「広瀬正・小説全集・6 タイムマシンのつくり方」集英社文庫 1982年
ウェルズの創始したタイムマシンですが、タイムマシン(タイムトラベルも含む)ジャンルの開拓者というとハインラインということになるのでしょうか。ハインラインは読んでないので何とも言及しずらいですが、日本におけるこのジャンルの作家といえば広瀬正を抜きには語れないでしょうね。小松左京、光瀬龍、筒井康隆などSF界の巨匠が多く関わっていた日本SF創世記における重要な同人誌「宇宙塵」に寄稿した広瀬正のタイムマシンものの短編「もの」が星新一に絶賛されたことがきっかけになり、それ以降広瀬はタイムマシンもののSFばかり書くようになったそうですが、48で急逝という短い生涯だっただけに、結果的にタイムマシンものだけに取り組んだ特異な作家として日本SF史に残る事に。星新一は「結果的に彼にとって気の毒なことになったのではないかと後悔している」と後に語っていたと筒井康隆があとがきで触れてましたが、逆に、タイムマシンもの(時間もの)だけに才能を集中させたことで印象深い作家になっているともいえますし、一概に判断するのは難しいところでしょうね。




時計タイムトラベルによる宇宙への影響について

前述の親殺しや、あるいはタイムマシンの発明者を発明する前の過去に戻って殺すとか、タイムマシンが存在するだけで重大なパラドックスが生じると思われるわけですが、往々にしてパラドックスというのは、そもそも前提となる根本が間違っているから起こるのであり、パラドックスが生じるのは、時間を過去に遡ったり、未来に進めたりという行為自体が不可能であることの証拠である、という見方もあると思います。そこで、ここでは、それがなぜ不可能なのか、についての話しをしたいと思います。

スピリチュアルな解釈では、時間は「今ここ」にしか存在せず、過去も未来もエゴの妄想(仏教では迷いともいいますね)であって、そんなものは元々無い、という考えがあり、これはおそらく実際にもそれが真実に近いであろうと私も思います。過去とか未来というのは人間が物事の「変化」を随時脳に記憶させることで生じる架空の概念で、実際には過去の世界とか未来の世界というのは存在せず、ただ脳が物事を認識したり分類したりするときに便利だから一時的に採用している人間独自の「解釈」なのでしょう。しかしその解釈を採択してしまうとタイムパラドックスをこれ以上論じてもつまらないですから、少し別の側面から考えてみようと思います。

仮にタイムマシンが存在するとして、それを使って自分が過去や未来に行ったりできるとすると、タイムマシンで行った先の過去や未来では、その時点での宇宙の総質量は、自分と乗ってきたタイムマシンの分だけ増えることになります。単純に考えて、過去の自分に会う(会うと矛盾が生じるので、遠くから観察する、でもいいですが)その時点の宇宙は、余分な自分の質量分だけ多いことになります。タイムマシンが存在する時代なら、自分だけが使えるわけではないでしょうから、過去の歴史的瞬間などでは、とくに未来からの見物客がたくさん来そうですし、そうなると、クレオパトラや楊貴妃がどのくらいの美人だったか生で見たい人は多いでしょうし、戦争の真実を調査したい歴史家や、生物の進化などの調査など、なにかと特定の時期には未来からの来訪が増えて、宇宙の総質量がその時々で増えたり減ったりとすることになります。

宇宙全体の質量が必ずしも厳密に保存されるかどうかは分かりませんが、宇宙をひとつの閉鎖された箱庭のようなものだとすれば、宇宙を構成する物質が人間の都合で増えたり減ったりするのは、おかしいような気もします。宇宙全体からすれば、地球上の人類すべてがある歴史的な事件のあった過去の地点に観光に行ったとしても、海水に墨汁を一滴垂らしても海は黒くならないように、時間移動で生じる宇宙総量の変化は物理的な量としてはほとんどゼロみたいなものかもしれませんが、ゼロでない限りはやはり変化してしまうには違いありません。そうした物理的な矛盾を許容するように宇宙はできているのかどうか、というのがひとつの疑問です。

もうひとつは、時間移動に伴う空間移動の問題です。タイムトラベルによる時間を遡るというイメージが、単に地球上の人間のスケール感だけで解釈している場合が多いですが、実際はガリレオの時代のクリスマスと、去年のクリスマスにおける地球の位置は、太陽系においてはほとんど同じですが、太陽系ごと銀河系を回っているので、銀河系での位置はまったく別の空間になっています。また銀河系もグレートアトラクターと呼ばれる重力場に秒速1000キロものスピードで引き寄せられているそうなので、時間をちょっと移動するだけでも空間的にはまったく別の場所にかなりとんでもなく複雑に移動することになります。

つまり、例えば時間を5分遡るということは、宇宙全体まるごと5分巻き戻すのと同じといえます。5分前に時間を遡るイメージだけだと簡単そうですが、5分前の時間に存在していた同じ空間に行くということは、宇宙スケールでの大事件になるはずなので、そう考えると、一般的な時間の解釈で考えてもタイムトラベルは不可能そうに思えてきます。バタフライ・エフェクト(バタフライ効果)は、蝶の羽ばたきという微細な現象も、巡り巡っては地球の裏側で起こる竜巻などの気象の原因にもなるうるという、カオス理論でいうカオス運動の予測不可能生の例え話ですが、そもそもこの宇宙は細部に至るまで宇宙にとって不必要なパーツは存在せず、全てが宇宙の何らかの構成要素なのですから、どんな些細な物質やエネルギーも何らかの大きな現象の要因になる可能性はあるのではないでしょうか。そういう意味でも、たとえ5分だけでも時間を戻すということは、その5分間で生じた宇宙の全物質とそのエネルギーの状態を変えなくてはならず、わずかな時間旅行も宇宙規模の大事(おおごと)になるのではないかと思います。

タイムトラベルの科学的な推論のひとつに、ブラックホールの強烈な重力場における時間の伸縮を利用したタイムトラベル的なものなど、相対性理論などの現代物理学の成果を利用したものがありますが、宇宙まるごと巻き戻して過去に戻るということはさすがにどんな方法も皆無でしょうから、仮にそうした現代科学的な方法で時間を移動できても、それで行く「過去」や「未来」は、いわゆる本当の過去や未来ではなさそうな気がしますね。

メモ参考サイト
「グレートアトラクター」(ウィキペディア)
「バタフライ効果」(ウィキペディア)



時計でも可能性を信じたい

とはいうものの、それは個人的な人生の短い経験や学習によって育んだ経験則のような、多分に固定観念を含む常識をもとにした思考ですから、実際の宇宙はもっと融通の利いた自由な世界かもしれません。不可能を論じるだけでは面白くないので、また別の視点で考えてみますと、この宇宙は、物理的存在として捉えられる部分以外にも、さまざまな次元で存在していると思われるので、以前の記事などでも何度か言及したように、何か全く新しいパラダイムの登場によって、意外と簡単に時間旅行が可能になる可能性も十分あるとも思っています。

人間の脳が「時間移動」のアイデアを捻出することが可能であるから、人間はそうした概念で遊べるわけですし、宇宙は人間に時間旅行に関する思考を許しているから人間はそういう考えを持てるともいえると思います。人間も宇宙に組み込まれた存在である以上、真に無意味な事を考える事も不可能であると思うので、人間が時間について考えたり時間旅行について思考するのも何らかの可能性や意味のあることなのかもしれません。もしかしたら、意外な何か突破口があって、それを発見する事でタイムマシンも意外とあっさり実現してしまうこともありそうな気もしています。実際にタイムマシンが存在する世界が訪れたら、そういう時代では、タイムパラドックスもすでにあっけなく解決されてるでしょう。未来人は「なんで昔の人は時間移動でパラドックスが生じるなんていう誤解をしてたんだろう」と思うのかもしれませんね。

まぁ、タイムマシンの製造が可能か不可能かなど、突き詰めれば「わからない」という答えにしかならないわけですから、それなら「可能性」を信じる方がロマンもあって楽しいのはたしかです。実際に、それについて真剣に考えた人が漫画や映画などタイムトラベルものの傑作を生み出してきたのですし、そうした作品で涙したり、勇気をもらったりする人もたくさんいるわけで、そう考えると、それはそれで、実際にタイムマシンを作ること以上に価値のある事なのかもしれません。
posted by 八竹彗月 at 13:13| Comment(0) | 雑記

2019年04月05日

【音楽】マルイ月トゥスヰート

桜の季節、ということで、最近よく聞いている細野さんの曲とか、なんとなくふと聞きたくなった懐かしのメロディなど、日本の曲をいくつか選んでみました。

るんるん細野晴臣「悲しみのラッキースター」
細野さんの作詞作曲のロマンチックなポップソング。細野さんのソロバージョンはアルバム「HoSoNoVa」からの曲ですが、先頃発表された細野さんのアルバム「Vu Jà Dé」では気鋭のシンガー青葉市子さんとのデュオが収録されていて、こちらも絶品! 最近アルバム「Vu Jà Dé」はよく聴いてます。

るんるんDip in the Pool「マルイ月トゥスヰート」
dip in the pool(ディップ・イン・ザ・プール)はファッションモデルの甲田益也子ボーカル、キーボードの木村達司作詞作曲、による主に80〜90年代に活躍したユニット。代表的な曲「Retinae」など、モダンなフレンチポップ風の都会的でファッショナブルな楽曲が話題を呼んだユニットです。「マルイ月トゥスヰート」は中でも好きな曲で、日本語の響きを生かしたお洒落で不思議な音空間が気持ちいいです。このPVも大好きで、月の神秘的な映像とクラシカルな自動車でのドライブ風景、様々に変わる甲田さんのファッション、背景の富士山や海など、絵に描いたようなパラダイス感がとても素敵ですね。

るんるんほたる日和「東京組曲」
ほたる日和(ほたるびより)は、早川厚史、渡辺啓太郎によるユニット。 この曲は、夢を抱いて東京に上京する青年の不安と期待の入り交じった複雑な感情を歌った歌で、自分もかつてそういうひとりだっただけに、とても共感しました。こうした東京への夢を歌った曲というと、他に美輪明宏の「東京」とか、長渕剛の「しゃぼん玉」なども名曲ですね。

るんるん鈴木ヒロミツ「愛に野菊を」
70年代の刑事ドラマ「明日の刑事」の主題歌。荘厳なコーラスと魂を感じる鈴木ヒロミツのボーカルが泣かせる名曲ですね。鈴木ヒロミツといえば、役者としても活躍しましたが、骨太ロックバンド「ザ・モップス」のボーカルとしてもイイ味出してましたね。吉田拓郎の名曲「たどり着いたらいつも雨降り」のロックなカバーなど、元祖サンボマスターともいうべき魂のこもった鈴木ヒロミツの力強いボーカルにシビれます。たまたまネットを徘徊してたら、この吉田拓郎の名曲「たどり着いたらいつも雨降り」は、もともと鈴木ヒロミツのバンド、モップスのために提供した曲らしく、最初は甘いラブソングだったものを男臭い歌詞に書き直した作品だと拓郎さん本人が語ってますね。

るんるん町田義人「戦士の休息」
角川映画黄金期の傑作「野生の証明」の主題歌。薬師丸ひろ子のデビュー作としても有名ですが、元自衛隊の特殊工作隊員(架空の部隊)だった高倉健がたったひとりでたくさんの戦車や戦闘ヘリに立ち向かうラストのスケール感が圧巻で、脂がのっていた全盛期の角川映画らしい作品でしたね。なんとなく「ひぐらしのなく頃に」のクライマックス、特殊部隊と主人公チームが戦うシーンを彷彿としますが、野生の証明のオマージュ的なものもあるのか気になる所です。まぁ、それは置いといて曲ですが、この主題歌もまた琴線に触れる泣ける名曲ですね。映画は1978年の公開のようで、歌詞も、まだこの頃は男臭いマンダムな男がカッコイイとされていた時代を反映している感じで、眠っていた男の本能をくすぐるところがあり、惹かれますね。

るんるんスピッツ「ロビンソン」
いつまでも色あせない名曲ですね。My Little Loverの名曲「NOW AND THEN〜失われた時を求めて〜」と合わせてときおり聴きたくなる曲のひとつです。夢とロマンと、ちょっぴり切ない感じや、ノスタルジックなムード感を、キャッチーで素直なアレンジで聴かせてくれるバランス感など、とても完成度の高い作品ですね。「ロビンソン」という曲名は、有名な例の無人島漂流記の小説の主人公「ロビンソン・クルーソー」からきているという話を昔聞いた覚えがあるのですが、念のため調べてみると、草野マサムネさんがタイに行った時に印象深かった「ロビンソン百貨店」が由来で深い意味は無いというのが真相らしいようですね。音楽に限らず、名作ってけっこうそういった深い意味のない思いつきの部分が結果的に印象深いものになっている事がよくありますね。そういえば、バンド名の「スピッツ」も、最初は女の子バンドみたいなネーミングだなと思ってたのですが、ついでに調べてみたら実際はそうした可愛い子犬の名前以外に、ドイツ語で「尖っている」「辛辣な」という意味の単語だということも意識したものだそうで、そもそも最初はパンクバンドだったらしく、バンド名のほうはけっこう深い意味があるようですね。

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posted by 八竹彗月 at 05:16| Comment(0) | 音楽