2018年06月04日

科学冒険漫画『電光団』!!

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『科学冒険漫画・電光団 −電氣博士−』表紙 呑田耕作 昭和25年

今回もビリビリ感電しそうな秘蔵の電氣マンガをご紹介します。昭和25年4月1日発行の漫画『電光団』、作者は呑田耕作(呑田耕・作 なのか、名前が耕作なのか不明)です。表紙には呑田耕作とあるのになぜか奥付には著者名は栢木淳一郎となっています。表紙はペンネームで奥付が本名とか、そういうところでしょうか。

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『科学冒険漫画・電光団 −電氣博士−』裏表紙

昭和25年というと終戦から5年後ということで、復興を模索しながらいろいろとアバウトに物事が進んでいるような時代のようなイメージがあります。出版物もカストリ雑誌など、作りはいい加減でも熱気だけがほとばしっているような感じがしますね。この漫画で描かれる電氣万能の世界も、そうした時代を反映した未来の夢なのかもしれません。

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カッコイイ中扉! 想像ですが、おそらく『電光団』というのは、『電氣博士』というシリーズモノの漫画のエピソードのひとつなのかもしれませんね。この本でも物語は尻切れで終わっていて、主人公たちと電光団との戦いに決着はついていません。いかにもつづきがありそうですが、時代が時代だけに実際につづきが出版されたのかどうか不明です。しかし電氣博士というのが、主人公のポッピーの伯父さんのポッポ博士を指すのか、敵の組織、電光団の幹部のチンキラ博士のことを指すのか、これまた説明が無いので不明です。

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目次にも稲光がはしっていますね!

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悪の組織・電光団によって小さくされてしまったポッポ博士を甥のポッピー君が伸張電波器(のばすでんぱき)で元の姿にもどしてあげてるところ。ドラえもんのスモールライト的な感じでしょうか。悪の組織が民間人を小さくしてしまうという目的不明の攻撃が微笑ましいですね。どこかコナン的な発想も連想します。

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各章の見出しのロゴタイプも味があっていいですね。

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「わしになにか用かな?」
悪の組織・電光団の頭脳、チンキラ博士。

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「こしゃくな子僧(こぜう)め」
「僕が相手だ、ポパイのように強いんだぞ」

主人公ポッピー君と電光団との壮絶かつサイケな電氣対決!

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怪し気なプラズマ的な何かを発する装置!

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ノートパソコン的な未来のデバイス。人間が頭で想像できるものはそのうち未来に必ず実現できるという話を以前明石家さんまさんが何かで語ってたのを思い出しました。世界で最初にノートパソコンが登場したのは1975年のIBM製「IBM 5100」だそうですが、その25年前から、それっぽい装置のイメージは人間の脳内に存在していたのですね〜

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奥付。エイプリルフールに発行というのも妙なユーモアを感じます。
タグ:漫画 電気 古本
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2018年03月10日

電氣ノ世界(3)珍奇図像

今回は、電氣関連の古書コレクションの中から、昭和7年発行の『最新科學画輯』(朝日新聞社発行)をご紹介します。全編モノクロですが、全ての見開きが右に文章、左に図版というビジュアルチックな構成になっていて、ページをめくるたびに電氣のビリビリ感を感じるような、わくわく電氣ランドといった感じの楽しい本です。けっこう珍奇な図像が多くてイイ感じです。

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『最新科學画輯』朝日新聞社発行 昭和7年(1932年)

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(同上『最新科學画輯』より)

トビラのデザイン。活字でなく、レタリングされた旧字が味があります。

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米国のロバート・J・ヴァングラーフ博士が原始構造破壊用の150万ボルト超電圧を実験している所で、この装置は200万ボルトまでは出せる。(同上『最新科學画輯』より)

頭上のふたつの球体の間を電氣がビリビリいいながら放電していますね。そういえば、よくデパートの科学系の玩具を売ってるコーナーとかに、放電の面白さを鑑賞するサンダーボールとかプラズマボールと呼ばれている玩具がありますが、身近に放電を鑑賞できるとはなんと素晴らしいんだろう、なんて最近思うようになってきてるので、そのうちゲットしたいです。

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13万2000ボルトの変圧器を巻いているところ。(同上『最新科學画輯』より)


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(上)世界大戦の時、米国政府が窒素工業用として創設したウイルソン・ダムの大発電所。(下)大変圧器。米国ジー・イー会社製作のもので、スイッチを入れてから2秒後には150万馬力の変圧をするもので、有名なナイヤガラ発電所のものの2倍ある。(同上『最新科學画輯』より)


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腕木を数多持った電柱の例。(同上『最新科學画輯』より)

ムカデ電柱とでも名付けたくなるキテレツな電柱ですね〜 現在の電柱と比較して見てしまうので、どこかの異世界に迷いこんだようなシュール感を感じますが、当時の人は電柱といったらこういう電柱だったのでしょうから、当時の人には普通に近代化されたモダンな光景に写っていたのかもしれないですね。昨今は電柱や電線のある風景は美観を損ねるということで、電線を地下に通すような開発が進んでいますが、無くなったら無くなったで、「昔あの頃いつもあった電柱が懐かしい…」ということになるような気もします。個人的にはむしろ電線好きですし、現代のアニメには意識的に電線がバンバン出てくる背景を使ったりする作品もよくあるので、意外に「電線は美観を損ねる」というのは、それほど強固な常識ではなく、電線に親しみを感じる層もけっこういそうな気がします。

こんな電氣関係の記事を書きながら電氣について考えを巡らせていると、似たようなモノが引き寄せられてくるようで、書いてるうちに上記の図版のようなムカデ電柱の図版がいくつか出てきましたので、それも紹介します。

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「図説 発明狂の時代」レオナルド・デ・フリーズ著 本田成親訳 JICC出版局 1992年 より
1890年に描かれた米国ペンシルベニア州フィラデルフィアのムカデ電柱を描写した絵。電線てんこ盛りな感じで凄い光景ですね。

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1940年代の米国カリフォルニア州ロサンゼルスの某所の光景。写真だとさらにインパクトがありますね〜 「Water and Power Associates」という水力発電に関する情報をまとめているアメリカのサイトの、昔の電気工事の様子を写した写真を掲載しているページより。「Water and Power Associates」は、ほかにも電力関係のビリビリくるようなヴィンテージ写真が満載の面白いサイトでしたので、興味のある方はご覧になってください。

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(左)扇風機の冷却装置をした高圧器。(右)花畑発電所の154K・V・アレスター。(同上『最新科學画輯』より)

(左)要塞のような厳つい風貌の変圧器がかっこいいですね〜 (右)こちらは現代アートのインスタレーションみたいなユニークな造形美を感じますね。

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大きな方のランプは、5万ワットで15万燭光を出し寿命100時間を有っているが、小さな方は50万燭光を有する写真用フラッシュ・ランプで50分の1秒間に燃えてしまう。(同上『最新科學画輯』より)

ものすごい大きさの電球を持った女性の絵面がインパクトありますね。よく見るともう片方の手には小さな電球も持っていますね。もはや時代はLEDの時代に移り変わった感がありますが、やはり真空ガラスの中でフィラメントが発光するロマンチックさが失われていくことに一抹の寂しさを感じます。そういう気持ちは人類に共通した感情のようで、さっそくフィラメントの電球ソックリのLED電球も開発されていろいろ売られてますね。それまで空気のように気にしてなかったのに、失われると急に求めだすのは人間のサガのようで、私も今頃になって白熱電球のいい感じの灯りを楽しみたいなぁと思うようになってきました。メインの照明はLEDにまかせて、点灯頻度の低い場所には味のあるエジソン電球の贅沢な灯りを味わいたいですね。

メモ参考サイト
エジソン電球(Google画像検索)
フィラメントの形ってけっこうバリエーションがあって、そのままアート作品のようですね。電球は、まさに人間が生み出した人工太陽のような存在で、夜に光をもたらした電球の発明は、よく考えるとものすごい偉業であることに気づかされますね。確認のために、本当にエジソンが電球を最初に発明した人物なのか検索してみたら、予感は当たっていたみたいで、電球を発明したのは実はエジソンではなく、英国のジョセフ・スワンという人のようでした。さらに、その電球を光らせるための電力システムはエジソンの弟子だったニコラ・テスラの功績で、エジソンはうまく彼らの才能に便乗したみたいですね。エジソンとニコラ・テスラとの確執など、このあたりの事情には興味の尽きないエピソードが多く、映画や小説などでもしばしば扱われたりしてますね。

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ネオンチューブで作った脳髄の構造。これを作るに約一千個のチューブを要したもの。(同上『最新科學画輯』より)

レトロSF的というか、スチームパンク的というか、味のある珍妙な写真ですね。ネオン管で脳みそを作るという発想が骨董科学とでもいうような味わいがあります。真空管テレビへの郷愁みたいなものと似たノスタルジーを感じますね。

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トーキーの映写装置。人物はメトロ・ゴールドウィ・メーヤー女優ドロシー・ジョルダン。(同上『最新科學画輯』より)

メカニックな物体と美女の取り合わせは、現代版「美女と野獣」という感じのシュールな美があります。異質な組み合わせの妙からきている面白さなわけですが、現代では女性もコンピューターや先端テクノロジーを駆使していても違和感のない時代ですから、やはり昔の画像のほうが不思議テイストを強く感じますね。現代の二次元イラストでも「メカ少女」というのはもはやひとつのジャンルになっていますが、意外に普遍的な面白さのツボがひそんでいるテーマなのかもしれないですね。

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(上)電氣溶接装置によって、変圧器を溶接しているところ。花火は人の持っている人の持っている極と写真の右下から電源に繋がれている高圧器そのものの間に飛ぶ。(下)回転変流機。富士電氣製造株式会社製の2250キロワット、直流側300ボルト・8500アンペア、交流側6相、回転数300、周波数60。(同上『最新科學画輯』より)


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交差点の四角にある市内電車の信号灯。(同上『最新科學画輯』より)

「信号」の垂れ幕や丸いライトに「進」の字とか、なんかシュールで面白いです。寺山修司の映画『百年の孤独』に、記憶を無くしていく病気にかかった主人公が、柱に「柱」、水瓶に「水瓶」と家中に紙を貼り、はては自分に「俺」という貼紙をしていくシーンがありましたが、あれも記憶の喪失という意味的なものよりも、寺山的には、現実の物体を言葉という現実のイミテーションと並列にすることでシュールな哲学的な絵面を見せたかったように思います。そういえば以前の記事にも書きましたが、実験的なショートフィルム『Rabbit』も、庭のチューリップに「tulip」、窓に「window」、電気スタンドに「lamp」という具合に、学習絵本のようにいちいちモノに名称の文字が付随しているシュールな絵面がユニークで、とても感銘を受けた作品でした。

TVRun Wrake「Rabbit」
海外の古い学習絵本から抜け出てきたようなノスタルジックでシュールな絵面の魅力もさることながら、錬金術を思わせるオカルティックで寓意的なストーリーがまた奇妙で独創的です。作者のラン・レイクさんは、ロンドンを拠点に活躍していたアニメーターで、ミュージシャンのPV映像などで評価の高い気鋭のクリエーターでしたが、久しぶりにプロフィール確認のために検索してみたら、なんと2012年に46歳の若さで惜しくも急逝されてしまったみたいですね。遅まきながらご冥福をお祈りします。

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原町対米送信所。(同上『最新科學画輯』より)

送電塔がバベルの塔チックなミステリアス感があってたまりませんね〜

電気は、その名前に「気」が付いていますが、「気」のつく言葉って、思いつくだけでも、空気、熱気、元気、邪気、本気、勇気、火気、蒸気、正気、狂気、病気、根気、などなど、物理的なモノから精神的なモノまで幅広く使われていますね。共通するのは、何か根源的なエネルギーを「気」と呼んでいることですね。気が病≠でいれば「病気」であり、木のように地に根≠フ張ったような辛抱強さを「根気」とよんだり、感覚的に納得しやすい使われ方をしていて面白いですね。言葉の中には、生命力をもっているようなパワーを感じる言霊的なものも含まれていますが、この「気」も、なかなか奥が深そうです。

旧字の「氣」が「気」になったのは、表向きは単なる簡略化であることになっていますが、言霊的に考えると、日本人の生命力の源である米のエネルギーを取り去って、×印で塞き止めてしまうことになるので、文字のエネルギーを弱体化させているという意見もあるようです。いわれてみれば、たしかに呪術的な意味では旧字のほうがパワーがありそうですね。まぁ、ここではそこまで考えていませんが、なんとなく雰囲気的に「氣」の文字が好きなので、この電氣テーマの記事では氣のほうを使っています。「氣」といえば、中国の氣の概念がすごく面白いので最近気になっているところです。気功の話とか、チャクラと経絡のツボの考察とか、太湖石にみる氣の思想とか、中国の氣の文化を考察した記事もそのうち書いてみたいです。
タグ:電気 古本
posted by 八竹釣月 at 12:45| Comment(0) | 古本

2018年03月04日

電氣ノ世界(2)絵本

電氣は現代文明に欠かせない多くの機械の元になるエネルギーですから、事実上電氣というのは文明を動かすエネルギーといっても差し支えないような気がします。人体もまた脳や筋肉などは電氣を発生して身体を制御していますから、これをアナロジカルに地球にあてはめると、人間の機械文明(鉄道網や航空網、さらにインターネットや電信電話等のコミュニケーションネットワークなど)の拡大は、そのまま地球の身体≠走る神経ネットワークのように思えてしかたありません。

地球の生み出す電氣というと、大空のうっぷんが爆発したかのような雷のような恐ろし気な現象もありますが、天空を覆う虹色のカーテン、オーロラの原理も電氣的なものであります。オーロラの原理は、太陽風や地球の磁力線などの作用によるものという一応の解釈がありますが、未だに詳細はよくわかっていない現象でもあるようです。神秘的な見た目のとおり、その正体も謎めいているところもまたオーロラの魅力ですね。オーロラの幻想的な姿は、まるで神々の住まう天界の様子がつかの間この世に現出したかのような感じで、人生で一度は実際に見てみたいものです。

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オーストラリアの探検家であるダグラス・モーソン(Douglas Mawson)が1900年代初頭に南極大陸で観察したオーロラの図。

メモ参考サイト
オーロラ(ウィキペディア)

オーロラの動画(Youtubeより)
2014年2月27日に、スコットランド北部で発生したオーロラを撮影した動画。

前置きはこのくらいにして、今回は、そうした様々な魅力と実用性を兼ね備えた電氣の啓蒙を目的とした学習絵本をご紹介します。まずは、『デンキノチカラ』ですが、これは昭和16年に講談社から発行された絵本で、絵を担当しているのは私のもっとも心酔している絵師のひとりでもある金子茂二先生です。戦前戦後にかけて児童雑誌の挿絵などをメインに筆をふるっていた画家で、あの極彩色パラダイスな夢の絵本『幼女の友』のメインの絵師として活躍していたことでも知られています。この絵本ではちょうど戦争の真っ最中に発行されているせいか、持ち味の楽園感覚はおさえられて表現してますね。しかし金子先生の気持ちのいい線の魅力は十分堪能できると思います。

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『講談社の繪本 デンキノチカラ』絵・金子茂二 文・柚木卯馬 大日本雄弁会講談社発行 昭和16年(1941年)

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同上。アールデコなデザインのラジオと、デルビル磁石式壁掛電話機がイイですね〜 恐いものの代名詞として江戸時代あたりから「地震、雷、火事、親父」という言葉がありましたが、この絵のヒゲのお父さんを見ても、この時代もまだまだお父さんは恐い存在だったであろう頼もしい存在感がありますね。

メモ参考サイト
デルビル磁石式壁掛電話機(郵政博物館様)

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同上。この時代の電気機関車(国鉄EF55形電気機関車)の漆黒のレトロなフォルムがかっこいいですね〜

メモ参考サイト
国鉄EF55形電気機関車(ウィキペディア)

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同上。家庭の身近な電気器具を並べた見開き。どれもお洒落なデザインですね。機能的には現代の製品のほうが何倍も便利で高機能ですが、昔のアイテムには、豊かな暮らしへの憧れ、みたいな人間の夢が詰め込まれているようなところがあって惹かれます。どれも大事に使われてそうな感じで、機械たちも嬉しそう。

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同上。紡績工場で働く工女さんたち。生き生きとした群像の表現力も金子先生の持ち味ですね。

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同上。歯医者さんで治療をうける子供の図。レトロな治療マシーンのメカニックな感じが江戸川乱歩的なシュールさがあってぐっときますね。

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同上。模型の電車で遊ぶ兄妹。

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同上。「ヤサシイ デンキノ オコシカタ」と題する見開き。身近なもので簡単に電氣を発生させることもできます、ということを説明しています。静電気はホコリ取りとか手品のタネなどの地味な利用のされ方をしている印象がありますが、何か画期的なアイデアで化けそうなエネルギーのような気もしますね。


次は『電気のはたらき』という絵本です。こちらも講談社発行の絵本で、先の『デンキノチカラ』から12年後、昭和28年の発行で、戦後復興を果たして活気を取り戻している感じの時代ですね。この年には日本初のテレビ放映が開始された年です。絵本からも明るい希望が伝わってくる感じですね。基本的にこの絵本は先の『デンキノチカラ』をリニューアルした感じの構成になっています。戦争に関するところだけ差し替えられて別のテーマになってますが、多くのページで金子先生の構図などをほぼ踏襲して描かれていました。

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『電気のはたらき』絵・谷口健雄 文・満田清剛 大日本雄弁会講談社発行 昭和28年(1953年)

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同上。よく見ると、右上の家族団らんとか、右下の歯医者の絵など、先に紹介したページとの類似が解ると思います。微妙に家庭の電化製品のアイテムが時代を反映して新しくなってるのも見所ですね。

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同上。当時の街の様子が垣間みれますね。路面電車が昭和感があっていいですね〜

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同上。夜の繁華街。現代のイメージからすると、この絵の夜の街は暗い印象がありますね。しかし、逆に、夜は暗いものという当たり前の事すら忘れて暮らせている東京などの現代の都市生活というもののほうが、ちょっと行き過ぎているのかもしれません。この絵から感じるような「夜のワクワク感」みたいな感覚も時代と共に薄れてきてる感じもします。たしかに夜の灯りは、防犯に非常に役立ってますし、人々に安心感を与えますが、それとは別のところで、「夜の健全な暗さ」を忘れてしまう生物としての怖さ、みたいなものもありますね。まぁ、すべてがプラスだけの社会というのはあり得ない話ですから、何かを得れば何かを失うのは何ごとにおいても覚悟すべきなのでしょうね。
posted by 八竹釣月 at 05:32| Comment(0) | 古本

2018年02月27日

電氣ノ世界(1)随想

「電気」に対する関心はけっこう以前からありましたが、それは科学としてではなく、神秘のエネルギーといった不思議な畏敬の混じったものでした。おそらく、子供の頃、コンセントをイタズラして感電した経験(ちょっとビリビリしただけの軽度のもの)も影響してるような気もしますが、「電気」という言葉自体が持つシュールで、どことなく鋭さと、危険さ、あるいは、浅草名物「電気ブラン」に見るように、「モダン」の意味が込められた昭和な響きでもあり、明和電気、電気グルーヴなど、テクノ系カルチャーを象徴する言葉でもありますね。まぁ、言葉にしずらい感覚なのですが、とにかく電氣な感じ≠ノ惹かれます。電気という言葉も、電気の気を旧字の「氣」にすると、さらにロマンあふれる感じになってグッときます。

電気(でんき、英: electricity)とは、電荷の移動や相互作用によって発生するさまざまな物理現象の総称である。

「電気」ウィキペディアより


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高圧放電による空気中やガイスラー管の発光現象(1898年)
「図説 発明狂の時代」レオナルド・デ・フリーズ著 本田成親訳 JICC出版局 1992年 より

電氣感≠フある音楽というと、YMOの「磁性紀」は、なんというか、電氣楽園といった感じの雰囲気があって好きです。なんとなくヤバげな陽気さというか、危ない遊園地みたいな、妙に歪んだパラダイス感が凄い曲ですね。YMOといえば、まだシンセサイザーの黎明期だった頃に、どでかい箪笥を積み上げたような機械の箱にプラグを抜き差ししながら演奏している姿にはものすごいインパクトがありました。戸川純、上野耕路、太田螢一の3人組ユニット「ゲルニカ」も、産業革命による戦後復興を成し遂げる架空の戦後日本をテーマにしているような感じのレトロかつ電氣な感じの曲を多く発表していて面白かったですね。電磁石への想いをテーマに歌うという異色の「磁力ビギン」など、未来派音楽っぽいノリが素晴らしいです。そのものズバリ「電力組曲」というのもありましたね。ゲルニカはフルオーケストラでの重厚な演奏をメインにして別世界の郷愁感を表現しましたが、あえてシンセなどの電氣楽器を使わずとも電氣っぽい雰囲気は十分表現できるものなのだなぁ、と感心しました。

るんるんYMO「磁性紀」
フジカセットのCMの映像がものすごく良くて、あのCMを収録しているDVD「Visual YMO the Best」もゲットしました。ほんとにYMOというのは日本の80年代カルチャーを象徴するカリスマですね。テクノブームの主導的牽引だけでなく、音楽のみならず、ファッションやグラフィックデザインなど、当時の文化のあらゆるところにその影響が垣間見えます。

るんるんゲルニカ「磁力ビギン」
YMOメンバーだった細野晴臣が主催するレーベル『YEN』からデビューしたレトロで未来派でドイツで産業革命な感じのカルトなユニット「ゲルニカ」。80年代のカルトスター、戸川純のかかわったプロジェクトの中で、個人的にゲルニカが一番好きです。太田螢一の歪んだレトロ趣味と、上野耕路の類い稀な音楽センスが見事に結晶化した夢のユニットですね。

るんるんStereolab「Spark Plug」
ついでに「スパークプラグ(点火プラグ)」という、電氣な感じのタイトルのステレオラブの逸品。名盤「Emperor Tomato Ketchup(トマトケチャップ皇帝)」からの曲で、すごくいい感じです。

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CDのコレクションを漁ってたら電氣な感じのジャケットが出てきたのでついでにこちらも紹介します。ヴィンテージなピンナップガールの左脇にピンクの帯になにやら妖しい図版が。上のほうにHot Airとか小さく書いてあるので、温風器か、あるいは冷却装置かなにかの構造図なのでしょうか。連なるドーナツ型のコイルにたくさんの矢印が絡み付いているイメージが奇妙で、脇のレトロガールと絶妙なコンビネーションを見せていて、グラフィックデザインとしてもただならぬ個性的センスを感じます。昔のアングラなCDのジャケットアートは、こんな感じの屈折したアート趣味が炸裂しているものがよくありますね。このCDは、90年代にコアなマニアの間で話題になったStock, Hausen & Walkman(ストック・ハウゼン&ウォークマン)なるサンプリングを多用した音のコラージュを特徴とする3人組ユニットのアルバム「Giving Up」です。現代音楽の大家、カールハインツ・シュトックハウゼンとは何の関係もありません。音はノイジーな実験的なノリですが、レトロでモンドなテイストがあり、妙な味わいもあって、独特な個性を感じます。

るんるんStock, Hausen & Walkman「Schweitzer」
だいたいほとんどのアルバムで、中身の半分以上は一発ネタっぽいいかれた感じの短い曲が締めているのですが、こういった味のある曲もたまに混じっています。何か出てくるかよくわからない箱の中に手を入れてクジを引いてるような感じになってくるのがストック・ハウゼン&ウォークマンのアルバムです。

そろそろ音楽の話はこの辺りにして、今回は電氣のビジュアルイメージをテーマに、古本コレクションなど紹介しつつアレコレ語ってみたいと思います。電氣、それは目に見えないながらも現代生活に欠かせない重要なエネルギーでありますが、あえて電氣をビジュアルでイメージすると、ニコラ・テスラのあの衝撃的なテスラ・コイルの放電現象などの、あの放電の花火のような稲妻が思い浮かびます。あとは変電所とか、電柱などでよく見る白いセラミックの蛇腹っぽいアレとか、すごく電氣っぽいフォルムだと思ってます。アレでは伝わらないので調べてみると、アレは碍子(がいし)という名前のようで、電線を絶縁するための器具のようです。蛇腹っぽく見えるのは、円形の碍子をいくつも重ねているからで、この数が多いほど送電線に流れる電圧が高いということになるようです。高圧電線からは有害な電磁波も周囲に放たれ、人体の健康や、作物の生育などにも影響があるようで、電氣の利便性と危険性は表裏一体というところでしょうか。しかしまぁ、よく考えてみれば、薬も量を間違えれば毒になりますし、食べ物も必要以上に摂取すれば病気を引き起こしますから、厳密には良い面だけの存在というのはこの世には存在しません。この世界のあらゆるものは、そのモノ自体は良くも悪くもなく存在していて、全ては扱い方次第なのでしょうね。

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参考写真がないかと散歩中にデジカメで撮ったスナップの中から探してみたら、碍子の写ってるものがいくつかありました。一時期よく電線を撮ってたのですが、碍子は電線の魅力を支える名傍役ですね。

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こちらも碍子を写したスナップ。

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これも碍子がいい味だしてますね。

メモ参考サイト
碍子(がいし)(ウィキペディアより)

テスラ・コイルのダイナミックな放電の図。(ウィキペディアより)
激しい放電の側で平然と読書をするニコラ・テスラ、有名なシーンですが、つくづくシュールな絵面ですね〜

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「電力」岩波写真文庫90 岩波書店 1960年 第4刷 表紙
この碍子の林のごとき壮観な変電所の写真が圧巻です。電氣感バリバリな感じが素敵です。まさに電氣楽園というか、まぁ、楽園と呼ぶにはかなりデンジャラスな感じの威圧感を感じる光景ですが、それもまた電氣の魅力でもありますね。ちなみに、この写真は南川越変電所を写したもののようです。見てるだけで強力な磁界に巻き込まれそうですね。

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同上。高圧送電線を紹介するページ。線画のように空間にそびえる数本の腕を持っている無骨な塔、見ていると、鉄塔同士が送電線を使ってあやとりをしているような感じがしてきます。

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同上。変電所の変圧器などの写真。ビリビリきそうな感じですね〜

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「子供電氣學」山本忠興著(小学生全集第58巻)興文社 昭和4年(1929年) 
小学生向けの学習読物の全集のうちの一冊ですが、大人が読んでもためになるくらいに内容は充実しています。トビラページのタイトルロゴが昭和モダンな雰囲気があってイイですね。

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同上。当時の家庭用電気器具を見開きで紹介しているページ。メカメカしい金属製品が標本のように並んでいる感じが素敵ですね。深緑のインクがまたシュール感を出していてぐっときます。

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同上。「電氣」づくしの目次が壮観ですね。文字量の多い本ですが、電氣感のあるメカニックな感じの図版も多く楽しい本です。

ほかに、電柱や電線、テレビなどのアンテナなども、電氣の妖しいイメージをかき立てるアイテムです。あの、いろいろな怪し気な形状をしたアンテナは、どこからともなくやってくる目に見えない電波を受信する装置でありますから、世界のどこかでは、この世の発信者の存在しない異世界からの情報をキャッチしてしまってるのかもしれない、などと、とりとめのない空想をしてると、不思議な気分になってきます。まさに、そうした空想をかき立てる余地を感じるところが、アンテナというオブジェの魅力でもあります。電波という、空中を飛び交う不可視の情報をチャッチするアンテナという存在には、どこかミステリアスな魅力があり、いい感じのアンテナを街中で見つけたときに運良くカメラの持ち合わせあれば必ずパチリとやってしまいます。以下、自前のスナップ写真の中からいくつかそういったアンテナ美を感じるものをチョイスしてみました。

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昨今、現代生活の必需品となったスマホなどの携帯型電話機の普及により、あちこちに電波を中継するための基地局に立てられている鉄塔を見かけるようになりましたが、あの鉄塔もマグリットの絵を見るときに感じるのと似た妙なぞわぞわ感があって惹かれますね。

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幻聴や妄想などは俗に「電波」と言われてたりもしますね。90年代あたりから言われだしたサブカル的な流行語でしたが、うまく現象を言い表してる便利さもあるためか、すっかり定着してしまった感があります。こうした俗語の定着も、電氣という奇妙なエネルギーへの恐れのようなものが無意識にあるためなのかどうか、気になるところです。妄想の類いには、しばしば「国家権力から脳波を盗聴されている」とか「隣の家から毒性の電波攻撃を受けている」とか、電波や電氣に関するものが多い印象がありますし、10年以上前に「スカラー電磁波」による攻撃から身を守るためという理由で白装束に身を包んだ某団体が世間を騒がせた事もありましたね。人魂もUFOもプラズマが原因だと主張する某教授とか、アメリカはプラズマ兵器で人工地震を世界各地で起こしている、といったプラズマ陰謀論のようなものなど、なにかと電氣に関連するさまざまな現象や物理的な力について、事実なのか妄想なのか区別のつきにくい様々な憶説、言説が無数にあります。こうしてみると、今やあらゆる現代文明の利器が電氣を頼っている時代でありながら、なおも電氣というものに、原始人が恐る恐る手にした火と同じような畏れがあるような気がしますし、そうした言説の背後にあるのは、そのような電氣への謎めいた神秘や畏れなのかもしれませんね。

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散歩中にふと空を見上げたら電線がいい感じだったので思わずシャッターをきった一枚。夕暮れの太陽を反射してきらめく電線が奇麗ですね。
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2017年10月17日

バベルの塔とバベルの図書館

バベルの塔について

「さあ、町と塔を建てて、その頂を天に届かせよう。そして我々は名を上げて、全地のおもてに散るのを免れよう」
旧約聖書・創世記:11章



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19世紀フランスの画家、ギュスターヴ・ドレ(1832-1883年)の描くバベルの塔の版画。頂上が雲で見えなくなってしまってる荘厳な描写が圧巻です。天に届くかのようなものすごい高さを暗示させる絶妙な表現ですね。人々が塔の周囲で嘆き悲しんでいる様子ですが、ちょうど神の技で言葉を乱され互いに意思疎通が不可能になった瞬間を描いているのでしょうね。人々は互いにコミュニケーションがとれなくなってしまい、塔の建設どころではなくなっている、という場面ですね。

塔というのは、実在の建築物として存在していながらも、古くは宗教的な目的で建造されてきた歴史もあって、もともと居住を目的とする建物というイメージは全く無いですし、それゆえ実用を超えた目的性が、ある種の違和感を呼び起こし、どこか見えない世界の超越的な事象を寓意的に表しているいるかのような、不思議な印象を抱かせます。そうした意味での塔というと、まさに聖書に登場するバベルの塔、あの人類の潜在意識の雲間を破ってそびえ立つかのようなバベルの塔の強烈なイメージがやはり大きく影響しているような気がします。塔全般に惹かれるところがありますが、とくにバベルの塔は、人類の共同無意識めいた未踏の場所にそびえる塔でありますから、そのような、無限に空にそびえる魔性の塔のイメージに遊ぶことはとても甘美な愉しみを感じます。

バベルの塔の最も著名なイメージはピーテル・ブリューゲルによる2枚のバベルの塔の油彩画であろうと思いますが、個人的には、もうちょっと高い塔が好みなので、ギュスターヴ・ドレやアタナシウス・キルヒャーの版画に描かれる異常に高いバベルの塔のイメージのほうにより惹かれます。神話の世界の話にでてくる塔なので、実在したかどうかはともかく、「本物のバベルの塔」というものを見た者はいないわけで、だからこそ画家にとっては想像力をかきたてるチャレンジしがいのあるテーマであるに違いありません。

バベルの塔の伝説のルーツは旧約聖書の創世記11章の序盤にあるわずか十数行程度の記述で語られる物語です。通説では、天に届くような塔を建てようとすることは、神と等しくなろうとする人間の傲慢であって、それが神の怒りにふれて民の共通の言葉を混乱させて意思の疎通ができないようにしたため、塔の建設を諦めて各地に散った、とあります。バベルの塔を象徴しているといわれるタロットカードの塔のカードでは、天の怒りを表すカミナリが塔に落ちて塔の上部にいた人々が足場を失って落下する様子が描かれているので、なんとなくバベルの塔は神の雷(いかづち)で破壊されたかのようなイメージがありますが、聖書の記述では、神が民の言葉を混乱させたことで、塔の建設を諦めたという話になっていますね。つまり神が塔を壊したわけではなく、人間側が単に塔を建造するのを途中で止めた、ということですね。神が人類の言葉を混乱させた、というところから町の名前がバラル(乱す)とバビロンをかけてバベルとなった、とのことですから、正確にはバベルというのは塔につけられた名前ではなく、塔を建てようとした町の名前なんですね。バベルという響きにも長年に渡って人類がその言葉の中に様々なイメージを練り込んできたおかげで、独特の怪し気な波動を発するユニークな単語になっているように感じます。

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タロットカードの「塔のカード」

バベルの塔の事件が起こる前には、あのノアの箱船の物語がありますから、つまりはバベルの塔建設を企てたのは大洪水を生き残ったノアの子孫ということになります。地球を飲み込む大洪水という、未曾有の危機を乗り切った人類の生き残りがこの話の主要なキャストなわけで、だからこそ、「全地のおもてに散るのを免れよう」、つまり生死を共にした絆の深い親族たちとずっといつまでも健やかに一緒に暮らせるようにと町を作ろうとしたわけですね。人情としてすごく理解できるので、そうした人間達の結束を壊すのは神のイジワルのようにもみえます。しかし、一カ所に固まって暮らしてたら、天災や事故などで人類が絶滅するリスクが高まりますから、神としては、人類の種の保存のために、各地に散らばらせていろんな環境に適応させたかったのかもしれませんね。

そうしたことからも、私が思うに、天に届くような塔を建てようとすること自体は神的にはどうでもよくて、せっかく生き残った人類が狭い町に固まって生活しようとすることにダメ出しをしただけのようにも感じます。バベルの塔というのは傲慢の象徴というよりは、わずかに生き残った人類の結束のシンボルという印象をうけます。前代未聞の大洪水を経験している生き残りの子孫ですから、また洪水が起こっても水没しないだけの高い建物を作ろうと考えるのは傲慢どころか、普通の人間心理ともいえます。しかし神の視点で見れば、大洪水で数が激減してしまった人類が一カ所に固まって暮らすというのは生存の可能性を狭めるだけのリスキーな選択でしかなく、愛のムチで人類の言語を混乱させて人々を世界に分散させることのほうが大局的には人間のためであると考えたのかもしれません。「生めよ、増えよ、地に満ちよ」(創世記:1章)というのが当初から人間に与えられた神の指令ですから、そういう意味では一貫しているともいえます。と、まぁ、筆に任せて適当に解釈してみましたが、創世記は聖書の中でもとくに寓意に満ちた神話的な部分なので、いろいろ想像がふくらみますね。

ノアの箱船の残骸が発見されたとか、バベルの塔は実際にあった、とか夢のある仮説もいろいろあるようですが、神話の中の話だと思われていたトロイの遺跡を発掘したシュリーマンのような前例もありますし、聖書の寓話も、何らかの実話を元にしている可能性もあるかもしれませんね。

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ピーテル・ブリューゲルによるバベルの塔はふたつのバージョンが現存していて、1563年作(左)と1568年作(右)です。2作目のほうがより高く重厚感が増していて、2枚を並べてみると、作りかけだった塔が完成していく様子を時系列で眺めている感じで面白いですね。先日の「バベルの塔展」で来日したのは塔建造の完成に近づきつつある様子の2枚目のバージョンのほうです。生で見れた人がうらやましい!ブリューゲル以前のバベルの塔の図像は円錐形よりは四角い筒のような形状の教会風のデザインの塔をみかけますが、もしかするとお馴染みの螺旋状の塔の形状もブリューゲルがハシリだったのでしょうか。

バベルの塔のビジュアルイメージといえばブリューゲル。ブリューゲルのバベルの塔といえば、先日まで東京、大阪で開催されてた「バベルの塔展」ですが、行こうかな〜どうしようかな〜と思っているうちに結局行きそびれてしまいました。そのうちまた縁があれば見てみたいです。調べていくとブリューゲル以外にもバベルの塔を描いた画家はたくさんいて、けっこういい感じのものもあります。ブリューゲルの塔は、自分が想像しているバベルの塔よりも低く、もっと天を突くくらいの高さが欲しいと常々思ってたのですが、そういう絵も調べてみるとけっこうあって、そうした絵を見てると空想をかきたてられて楽しいです。

アタナシウス・キルヒャー(1601-1680)といえば、主に荒俣宏の啓蒙で日本でも広く知られるようになった17世紀のドイツ出身の奇想の博物学者ですが、そのキルヒャーの本に、ブリューゲルよりバベル度の高いバベルの塔が載っていて、とてもいい感じの雰囲気です。神話的な塔であるにもかかわらず、建築の図面のように図鑑の絵らしく真面目に描かれているので、かえって奇妙な雰囲気を醸し出してしまっているのがキルヒャー流といった感じですね。

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アタナシウス・キルヒャー著『バベルの塔』に所収されているバベルの塔の版画。(ニューヨーク公共図書館・デジタルコレクション より)

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こちらも同書に所収のものと思われるバベルの塔。
上記のと違って、こちらはブリューゲル版のバベルの塔をスタイリッシュにしたようなフォルムでお洒落ですね。1679年の作品のようですが、どことなくロシア・アヴァンギャルドのアーティスト、ウラジミール・タトリン(1885-1953)の代表的な作品、「第三インターナショナル記念塔」を思わせる雰囲気もあって、現代的なかっこよさを感じますね。


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赤瀬川原平著『櫻画報激動の千二百五十日』青林堂 1974年
なんともシュールな「バベルの青林堂」。件の「アカイ、アカイ、アサヒ、アサヒ」のアレで、朝日ジャーナルの回収騒動を起こしたことで知られる赤瀬川原平の初期の代表的な仕事のひとつ『櫻画報』をまとめた作品集からのヒトコマです。朝日ジャーナルの連載が打ち切りになった後に漫画雑誌「ガロ」に発表の場を移したことをユーモラスに表現しています。ガロの出版社、青林堂といえば作家に原稿料を払えないほど厳しい経営状態が慢性的に続いていたのは有名で、朝日ジャーナルでの問題のコピーをもじって「アカイ、アカイ、アカジ、アカジ」と書き入れていますね。茶化すだけでなく、掲載の場をつくってくれた青林堂をバベルの塔のような立派すぎる社屋で描き、あからさまにヨイショしてるのが原平さんらしくて笑えます。この後、青林堂の経営はさらに厳しくなり、80年代には材木屋の二階に間借りして編集を続けたのはもはや伝説的な語りぐさになりました。とはいえ、原稿料が出ないかわりに作家の作品に編集が一切手を入れないという独自のシステムにより、自由な表現の場を求める有名無名の錚々たる作家達を惹き付け続け、日本のアンダーグラウンドカルチャーの重要な育成機関になっていたので、とくに漫画文化の躍進を裏で支えていたのはガロのような雑誌だったのかもしれません。

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ちなみにこの本、昔古書店で手に入れたもので、原平さんのサイン入りです。家宝ものですね。哲学的空想とシニカルなユーモアあふれる独自の表現で日本の戦後芸術に影響を与えてきた原平さんでしたが、生活そのものを芸術として遊ぶような、人生を楽しむセンスも今も学ぶ所が多いです。

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ロジェ・カイヨワ著『文学の思い上がり その社会的責任』中央公論社 1959年
原題は『Babel, orgueil, confusion, et ruine de la littérature(バベル、誇り、混迷、文学の荒廃)』で、バベルの塔のことについて書いてある本ではなく、辛辣な戦後文学の批評がテーマです。単純に装丁に使われている原題からのBABELの文字がかっこよかったので入手しました。束に金色のインクが塗られていてお洒落な本です。中身は超辛口の文芸批評ですが、フランス人批評家らしい知的な語り口が絶妙に刺々しさをオブラートに包み込んでいる感じのポエティックな文体で、勉強になりそうな本です。



メモ参考サイト
「バベルの塔、教訓と絵画集」(のぶなが様のサイトより)
いろいろなバベルの塔を紹介されています。

ブリューゲル以前のバベルの塔。15世紀の画家、マイスター・デ・ミュンヘン・レジェンダ・アウレア(Meister der Münchner Legenda Aurea)の作。
ブリューゲル以前のバベルの塔は宗教色が濃い感じで、塔の形状も教会っぽいゴシック様式ですね。神が怒りだすほど高い塔に見えないですが、そんなところも愛嬌があって微笑ましい図像です。この高さで神罰がくだるなら、現代ではマンションや団地でさえ普通にこれより高いですから、東京都庁とかサンシャイン60とか、かなりけしからん建物ということになりそうです。

ルーカス・ヴァン・レッケンボル (Lucas van Valckenborch 1535-1597)のバベルの塔。1594年作(ウィキペディア・コモンズ)
ブリューゲルのバベルの塔の建設がさらに進んだ感じの雰囲気で、だいぶ完成に近づいてきてる様子ですね。

トビアス・ヴェルハヒト(Tobias Verhaecht 1561-1631)作のバベルの塔。
コロッセオを積み上げたようなスタイリッシュなローマ様式の建築がいいですね。天に向かって増殖していく塔の階層構造がかっこいい!

ポール・ゴセリン(Paul Gosselin 1961- )によるバベルの塔。
現代のベルギーの画家による2011年の作品。昆虫の巣みたいな感じですね。たしかに、ブリューゲル系のバベルの塔を完成させると、仕上がりはこんな感じになるでしょうね。こうして見ると、やはりバベルの塔は未完成だから美しいものなのかもしれません。

イラクの螺旋の塔、マルウィヤ・ミナレット(ウィキペディア・コモンズ)
イラクの至宝と評される螺旋式の塔、マルウィヤ・ミナレット(Malwiya Minaret)もバベル感のある神秘的な塔ですね。852年に建造されたこのミステリアスな塔は、螺旋状に天に伸びる形状が神話的でぐっときます。調べてみると、そもそもドレやブリューゲルをはじめとした西洋人の描くバベルの塔のイメージは、まさにこのマルウィヤ・ミナレットがモデルになっているそうで、言われてみるとさもありなんといった感じですね。




バベルの図書館について

バベルの塔は、もしも神様のダメ出しが無かったとしたら、無限に天に向かって建造されていったのかもしれませんね。バベルというと、以前の塔をテーマにした記事でも触れたホルヘ・ルイス・ボルヘス『バベルの図書館』が思い起こされます。バベルの塔の全ての階に本棚を設置して無限の本を収納していくというのはビブリオマニアの甘美な空想ですが、ボルヘスの想像した図書館は、そういう判りやすい構造ではなく、塔というより宇宙そのものを図書館に見立てたような突拍子も無いアイデアです。寺山修司を心酔させた南米文学を代表する巨匠だけあって、その哲学的で深遠な作品は読む者を思考の迷宮に誘いこみます。

その宇宙(他の人々はそれを図書館とよぶ)は、中央に巨大な換気孔がつき、非常に低い手摺(てすり)をめぐらした不定数の、おそらく無数の六角形の回廊から成っている。どの六角形からも、はてしなく上下の階がみえる。回廊の配置は不変である。一辺につき五段の長い棚が二十段、二辺を除くすべての辺をおおっている。その高さ、すなわち各階の高さは、ふつうの図書館の本棚の高さをほとんどこえていない。棚のない一辺はせまいホールに通じ、それは最初の及び他のすべてのものと同じもう一つの回廊に通じる。(p55)

言いかえれば、あらゆる言語で、およそ表現しうるものはすべてである。そこにはあらゆるものがある。未来の詳細な歴史、大天使の自伝、図書館の信ずべきカタログ、何千という偽のカタログ、これらのカタログの虚偽性の論証、王たちのグノーシス派の福音書、この福音書の注釈、きみの死の真実の記述、それぞれの本のすべての言語による翻訳、すべての本の中でのあらゆる本の書きかえ。(p58)

ボルヘス『バベルの図書館』より

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(ホルヘ・ルイス・ボルヘス著 篠田一士訳『伝奇集』所収 集英社 1984年)


ボルヘスの「バベルの図書館」は、六角形が基本構造になっています。6という数字は数学的にもユニークな数字で、自然数で最初の完全数でもあります。完全数とは自分自身を除いた全ての約数の和がそれ自身と等しくなる数のことです。6の場合は、約数が1、2、3で、それらを全て足すと1+2+3=6となり、それ自身と等しくなります。また六角形というのは自然界では蜂の巣などにも見られる頑丈な構造(ハニカム構造)で、工業的にも有用なものですし、亀の甲羅や雪の結晶や水晶の結晶など、自然界の様々な場面で六角形が姿を現します。おそらく、そうした暗示もバベルの図書館の構造にはあるような気がします。

図書館のイメージとしては蜂の巣のような感じで同階層の前後左右に無限に連なり、また上下にも階段を通じて無限に空間を埋め尽くしているという感じで、前述したとおり「バベルの」というわりには「塔」のイメージとはほど遠い建造物といったイメージです。どことなく映画『CUBE』の部屋の構造(こちらは六角形ではなく立方体ですが)にも通じるようなところがありますね。上下左右に無限に部屋が連なっているということは、すべての空間がこの六角形の部屋で埋め尽くされているということであり、これはボルヘスも最初に「その宇宙」と言っているように、まさに別世界のもうひとつの風変わりな宇宙そのものです。その宇宙ではたくさんの本が書架に並んだ無数の六角形の部屋だけで宇宙の全ての空間を満たしているという異様な世界です。

想像してみると、上の階層に行きすぎれば登山のように酸素が薄くなりそうですし、ものすごく下の階層では気圧もものすごいことになってしまわないだろうか、とか心配になってきます。まぁ、こういう宇宙であれば、「そもそもどこから酸素が供給されているのか?」などといった疑問も含めて、こういう宇宙なりの都合に合わせた物理法則がありそうですし、全ての空間における気圧やら重力やらの設定値は一定に保たれてるのかもしれません。しかし、本を収めるための部屋しか存在しないような宇宙では、本を書くにしても、読むにしても、この本だらけの部屋について以外のことは経験できないはずですし、読書体験を生かすための外の世界もありません。空の青さや広さという概念すら想像で補うしかない状態では、物語というのが成立しがたく、そもそも本に書かれた内容を理解するための最低限の素養や人生経験が無い状態での読書とは何か?とか、考えだすと思考の迷宮に入り込むような感じです。ボルヘスはあえてそういう切り口では書いていないため、逆にそういう諸々の思考実験を楽しめる余地があり、そうした所もこの作品の魅力なのかもしれません。

まぁ、この図書館のイメージは、そのように物理的な実在としてヤボなつっこみをいれても意味はなく、それは書物フェチの妄想する観念の遊戯としての世界ですから、ボルヘスといっしょにこの異様な図書館に入り込んで、思う存分に夢の迷宮世界に遊び、その官能の世界に浸りきるのが正しい読者の在り方ではありますね。

ところで映画『CUBE』では、上下左右に無限に連なった立方体に登場人物たちはいつのまにか閉じ込められていた、という設定でしたが、「バベルの図書館」でも同様に、この話に登場する語り手や司書たちといった登場人物は、入り口も出口も無い「バベルの図書館」という壮大な閉鎖世界にどうやって入り込んだのか?という肝心な部分の詳細をあえてぼかしているために、カフカや安部公房などの作品に通底するような不条理な感覚がありますね。

しかし、よく思い起こしてみれば、私たちもまた、「バベルの図書館」を徘徊する司書達と同じように、この宇宙にあるこの世界に、理由も目的も知らされないままに産み落とされて、いつのまにか存在しているわけですし、『CUBE』の登場人物たちが自分たちのいる立方体の部屋について何の情報も持たないまま置き去りにされているのと同じように、この宇宙はどういう仕組みで何のために機能している世界なのかを知らない状態で私たちは生きています。そういう意味ではボルヘスやカフカなどをはじめとした文学や映画などの不条理劇は、単に不条理な物語というよりは、我々の現実の実存をそのままリアルに写し出している鏡のような世界でもあります。「バベルの図書館」は、人生や宇宙の謎を図書館に収蔵された書物に例えて、自らが生まれ落ちたこの世界の謎を読み解こうとする人類の営みを寓意的に象徴しているのかもしれませんね。


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映画『CUBE』ヴィンチェンゾ・ナタリ(Vincenzo Natali)監督 1997年 カナダ
低予算作品ながら抜群に面白い発想とシナリオが人気を呼んだ『CUBE』、後年いくつかの類似作品が作られましたが、やはり原点であるこの作品を凌ぐことはできませんでしたね。無限に連なる立方体の部屋に閉じ込められた7人の登場人物による脱出劇です。素数などの数学的要素がカギになってるあたりもツボでした。


メモ参考サイト
バベルの図書館の図解「草子ブックガイド 早稲田文学編 第6回」(玉川重機様)(PDF版)
ボルヘスの「バベルの図書館」を漫画家の玉川重機さんが絵で丁寧にビジュアルに説明されています。たしかに文章だけでバベルの図書館の構造をイメージするのはけっこう難しいので、こうした噛み砕いた解説はとても参考になりますね。

「バベルの図書館」の構造(pastel-gras様のブログ「集積---イメージ・ことば」より)
記事によりますと「バベルの図書館」が収録されている短編集『伝奇集』は初版の1944年版と後の1956年版とでは図書館の構造に関する重要な部分に加筆修正がされているという興味深い指摘がされています。最初のアイデアでは、「バベルの図書館」はバベルの塔のイメージをそのまま象徴する感じで上下に無限に伸びる塔ような構造だったみたいですね。

「バベルの図書館」のビジュアルイメージ(Googleイメージ検索)
ボルヘスの夢想した図書館は、具体的にどういう構造で、どういう見た目なのかというのは、ボルヘスファンでかつ絵心のある人ならチャレンジしたくなるテーマですね。案の定、多くの絵師により様々なビジュアルイメージが作り出されているようで、見ているといっそう空想に拍車がかかりそうです。

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「バベルの図書館」を再現したサイト(ジョナサン・バジル様)
web上で「バベルの図書館」を仮想体験できる風変わりなサイト。作成したのはニューヨークの作家ジョナサン・バジル(Jonathan Basile)氏。アクセスして「Browse」をクリックすると図書館に入り込めます。原作に書かれている設定どおりに、六角形の部屋の壁に本棚が設置されており、すべての本は410ページで構成されています。使い方をいまいち理解していないのですが、任意の書架をクイックすると本棚が正面に現われるので、適当な本をさらにクリックすると中身が閲覧できます。文字列はランダムに生成されるようなので、意味のある文章が出てくるまで本を物色してたら人生が終わってしまいそうです。

「バベルの図書館」の蔵書数は?(「巨大数研究 Wiki」様)
我々の宇宙の広大さと物質のバリエーションに較べたら、六角形の部屋が重なってるだけの単調な「バベルの図書館」という名の宇宙は、さほど驚愕するにあたらない世界のように思ってしまいますが、「バベルの図書館」の蔵書数を実際に計算すると、上記サイト様の計算によれば、その蔵書を全て収める図書館を作るためには、どうやら現在観測可能な我々の宇宙を軽く上回る程度に広大な敷地を必要とするようですね〜

ペンブログ内関連ページ
塔のロマン
posted by 八竹釣月 at 11:16| Comment(0) | 古本