
なにげなく中村元先生の動画を見ていたら、「キリスト教の原罪の概念に相当するのは仏教では無明(真理を知らない愚かな状態のこと)≠ナある」という指摘をしていて、なるほど!と思いました。たしかに仏教の無明も生まれながらにして人間が抱えている克服すべき課題ですよね。しかしながら当然そのニュアンスの違いや微妙な意味の違いはあるわけで、中村先生は続けて、そこに東西の「罪」の概念の違いを話されてました。「殺すなかれ」という教えは東西を問わずほとんどの宗教に通じる教えですが、西洋の宗教における「殺すなかれ」の戒めは主に人間を殺してはいけないという意味で受けとられているのに対して、東洋では鳥や獣など、果ては草木や大地まで、その「殺してはならないもの」の範囲が広いと指摘しています。東西の宗教、つまり仏教とキリスト教を指して対比していることは明白ですが、たしかに、そういう部分はありますね。だからといって、東洋の考えの方が優れているという話にはならず、動物保護思想のあり方などを見ると、西洋の方が進んでいたりする面もあり、単純に優劣をつけないところが中村先生的でいいなぁ、と思いました。たしかに、よく論争のネタになる動物愛護問題、とくに捕鯨問題とか、双方に言い分はあるにせよ、西洋人が人間のみに憐れみを感じるとはいえない側面も多々ありますね。東西にかかわらず人類に共通して万物に対する慈悲心というものはちゃんとあって、そのうえで、その慈悲の表現に東西の文化の違いが出てくる、というようなニュアンスで話されていて、そういう視点もまた仏教的なものを感じました。
西洋にも人間以外に動物一般の殺生も禁じていた宗派があり、中村先生は一例として「カタリ派」を挙げていました。なんとなく名前は覚えていたものの、どんな宗教なのか知らなかったので、いい機会なので調べてみました。するとけっこう面白い思想を持った集団だったみたいで、がぜん興味がわいてきました。カタリ派とは、10世紀頃にヨーロッパで広まっていたキリスト教色を帯びた宗教運動です。思想的にはキリスト教(新約聖書)を聖典とした思想集団ですが、その解釈は独自のもので、同時代にカトリック教会に異端と認定されていたグノーシス主義と通じる傾向もみられることから、カタリ派もまた異端思想としてカトリック教会から厳しく批判され、やがてグノーシス主義と同じように弾圧されて歴史から消されていきます。グノーシス主義もそうですが、カタリ派もまた歴史から消された思想なので、残っている文献は主にかれらを糾弾する側が記述したものばかりで、現在では彼らがその時代にどのように生活して社会の中でどのようなふるまいをしていたか、などの側面は、当然、偏見によって否定的に記述された姿でしか知ることはできないようです。グノーシス主義もカタリ派も、ある意味、当時の腐敗しきってしまっていた教会への不満に対するカウンターカルチャーとして生まれたようなところもあると思われますし、事実、カタリ派の司祭らはカトリックよりも禁欲的な生活をしていたようです。カタリ派は、カトリック教会における権威主義や幼児の洗礼、三位一体説、免罪符などに否定的だったこともあり、当時の教会としては苦々しい存在だったのだろうな、と察します。
異端審問も狂気じみたところもあったようで、中村先生が言及していたエピソードによると、カタリ派と疑わしき人が捕らえられたら生きているニワトリを持ってきて彼に殺させようとしたようです、もし殺せたら「彼は正統なクリスチャンだ」として解放されましたが、もし殺せなかったり、可哀想だと殺すことに躊躇したりしたら「お前は異端のカタリ派だな!」ということになって火あぶりの刑に処せられた、ということがあったそうです。なんともムチャクチャですが、当時の教会の腐敗はそこまでひどかったということでしょう。
ヨーロッパの黒歴史として有名な魔女狩りはこの500年後くらいに起きますから、魔女狩りをおこすような心の闇は下地としてけっこう前からあったんでしょうね。こうした宗教思想の闇の歴史は現代でも尾をひいていて、「宗教は人を幸福にするどころかむしろ不幸にするものだ」という宗教不信の理由のひとつとしてよく挙げられますね。実際は、当時のカトリックがイエスの教えを逸脱して腐敗した権威主義に堕落してしまったのが原因であり、それはもはや宗教でもキリスト教でもないものだと思います。クリスチャンであったり司祭であったりするだけでイエスの教えをちゃんと体現できるというわけではないですし、中村先生ご自身も、多少の謙遜もあるのだと思いますが、自分自身何十年たっても仏教の教えの通りに自らを律するのは難しいし理想にはほど遠い(注)とおっしゃってます。信仰のあるなしに関わらず、立派な人は立派ですし、そうでない人はそうでないのだと思います。結局、理想の自分なり、幸福な人生なりを求めて生きようとする時に、宗教が助けになるならば信仰すれば良いし、そうでないなら、別のもの、哲学でも、科学でも、映画でもなんでも、役に立ちそうに思えるものを取り入れていけば良いのだと思います。
(注)仏教の教えの通りに自らを律するのは難しい〜
仏教をはじめとする東洋哲学研究の第一人者であった中村元(1912〜1999)ですが、仏教をただ学問の対象として研究していただけでなく、ブッダに対する尊敬の念も深く、学者であると同時に真の宗教者でもあったことをうかがわせるエピソードも多いですね。中村先生のお人柄を感じさせる有名なエピソードに、『仏教語大辞典』の原稿紛失事件があります。中村先生が20年の歳月をかけて執筆した2〜3万枚ともいわれる膨大な原稿を、あろうことかそれを受け取った出版社が紛失してしまったそうです。大量の原稿が入った箱をゴミと勘違いして捨ててしまったようで、激怒されてもおかしくないこの失策に対し、中村先生は「怒って原稿が出てくるわけでもないでしょう」と冷静に対処し出版社のその大失態を許したそうです。とはいえ、1ヵ月近くはショックで呆然とした日々だったそうですが、気を取り直しその後さらに8年かけて一からまた原稿を書きおろし、完成すると「やり直したおかげで前よりずっといいものになりました」とおっしゃったそうです。まさにブッダの境地をみるようなエピソードで、仏教は学問の対象であるだけでなく、自らも仏教の教えを体現しておられたのでしょうね。


あらゆる不幸の原因は利己主義、つまり我(エゴ)にある、というのが仏教の根本にある洞察で、そのエゴの活躍を制御するために慈悲を意識するような教えを説いています。チベット仏教の僧であったチョギャム・トゥルンパは「慈悲とは方向性を持たない、いわば環境としてある寛大さだ」と説明していましたね。完成された慈悲は、それが慈悲を実践しているのだという自覚もなく、環境や事態に対する当然の自分の反射的反応であるように自然に出てくるものとして慈悲があるような、そういう寛容であることが自然で当たり前であるような心の境地が「慈悲」なのでしょうね。
よくネットで目にするお釈迦様の逸話にこういうのがありますね。雑阿含経が出典のエピソードのようですが、あらすじはこんな感じです。
仏教に批判的なある若者がブッダのところにやってきて散々罵詈雑言をあびせたところ、何も反論せず最後まで黙って聞いていました。若者の悪口が一段落するとブッダはこう言います。「悪口を言われて悪口で返し、怒りには怒りで報いたとすれば、それは与えられたものを受け取ったということだ。しかし、その逆に、それをなんとも思わなかったとしたら、それは受け取らなかったということだ。私が受け取らなかったもの(若者の悪口、怒り)は、与えたもの(若者)の元に返るしかない」
イエスの「右の頬を打たれたら左の頬を差し出せ」を思わせるエピソードで、ある意味、暴力を超解釈で我慢しなさいとも誤解されがちなイエスの言葉に対し、このブッダの話は、件のイエスの話の上手な解説にもなっていると思います。悪口に怒るというのは、何の訓練もされていない凡人には当たり前の自然な反応に思えますが、怒りの反応になるのは、そこに我があるからです。我をゼロにするのは困難ですが、思いやりとか慈悲というのは我を制御して我を超えた隣人への共感から生まれる心ですから、我はできるだけ弱めにコントロールしていくのが精神の安定に繋がりそうです。
魔女狩りは、「私の信じているものが正しくて、相手の信じているものは間違いである」という心が引き起こしていますし、あらゆる争いも根本は相手に対する不信と「自分は正しい」というエゴであり、あらゆる不幸な事態は、自分と異なる意見を持つものへの寛容さが足りないところから来ます。要は、昔の名作ドラマ「スクール・ウォーズ」で主人公の滝沢先生の恩師が言っていた「(相手を)信じ、待ち、許してやること」を本当に実践できれば、人生の問題も、世界の問題も一気に解決するでしょう。まぁ、ある意味、そういうことは言われなくても誰でも頭では分っていることではありますが、またしかし、それを実践するのはなかなか難しいものです。だからこの世界から争いが消えず、よって不幸も消えないのでしょう。これは人類に等しく割り当てられた神様からの課題なのでしょうね。

OSHOも言及してましたが、ある意味この宇宙は、完璧でない状態こそが完璧である、というような精妙な真理に基づいて動いているような気がします。もし宇宙が完璧なものしか生み出さないものなら、人間を苦悩する存在として生み出さなかったでしょう。しかし、完璧なものというのは、そこで「終わっている」ので、次がありませんし、変化もしません。なぜなら完璧なのですから。逆に考えると、終わっていて変化もしないものというのは、それゆえにメタ的には完璧でないともいえます。人間の尺度だと完全は不完全よりも高度なもののように感じてしまいますが、宇宙的には微妙に不完全なものが完全を目指して変化していくその動的な姿のほうが完璧性が高いのかもしれません。
よく日本の陶芸では、シンメトリーであるとか、ムラの無く釉薬(うわぐすり)を塗ったりすることを嫌い、あえていびつな形の器にムラのある塗り方をするのが美しいとされているところがあり、子供の頃はそういう美意識がわからず混乱したものです。しかし、そういった味わいを分ってくると、そうしたいびつさの中に見えてくる美になんともいえない心地よさを感じるものです。それは大量生産では敵わない、個性≠愛でる視点であり、たんにいびつなのではなく、熟達した不完全さともいうべき高次元の美を垣間みることの愉悦でもあるわけです。そういった言語化しずらい感覚を千利休は侘び寂び≠ニ呼んだわけですが、こうした微妙な美のあり方も、どこか宇宙的なものを感じてしまう昨今です。
何の障害もない安全で安定した人生を望むのは人情ではありますが、では仮にそういう人生を歩めたとして、はたして人生の最期の時に、何ひとつ問題が起きなかった自分の人生というものに果たして満足できるのだろうか?と想像すると、なんだかそうでもない気がしてきます。人生もまた優れた陶芸作品のように、絶妙ないびつさが味わいを出してくれるような、そんなもののように思います。失敗は避けたい嫌な経験ですが、しかし失敗こそが心を強くし成長させてくれる糧でもあります。魅力的な人というのは、苦労知らずの道を歩んで来た人ではなく、往々にして多くの失敗を経験して乗り越えてきた人だったりします。失敗とか不幸というのは、魂がレベルアップするために通過しなければならないただの要素であって、必要以上に恐れたり嘆いたり避けたりするものでもないのかもしれません。
苦悩の真っ最中にそれを喜ぶというのは難しいことですが、しかしそれでも、我々が苦悩するのは、最初から苦悩しない存在であるよりも幸福なのかもしれません。自分の人生で苦悩があるのは嫌がるものですが、映画や漫画などでは人気の面白い作品ほど主人公は不幸を体験し苦悩していて、それゆえに、そうした境遇から抜け出る爽快感もあるのだと思います。よく目にするオカルティックな思想では、我々は生まれてくる前に自分の人生の設計図を自分で書いて、それを元にチャレンジする内容を決めてから、そのチャレンジに向いた親を選んで生まれてくる、というのがありますね。霊界は精神が優先する世界なので、周囲は自分と似た者が集まりやすく、願いも叶いやすいようで、なかなか骨のあるチャレンジがしにくいらしく、そうした環境で何百年も過ごしていると、また下界(この世)に生まれて不幸、つまり「苦(ドゥッカ。思うようにいかないこと)」を体験したいと思うようになるということです。まぁ、こういう考えはそれこそ信じるも信じないもあなた次第、みたいな世界ですが、この世に「苦」がある理由というのは、何かの不完全性なのではなく、宇宙的な、あるいは神的な視点では、とてつもない何かのメリットがあるから存在しているようにも思えてきます。
