2022年06月10日

カタリ派の話など

220610_yunomi.pngカタリ派の話など

なにげなく中村元先生の動画を見ていたら、「キリスト教の原罪の概念に相当するのは仏教では無明(真理を知らない愚かな状態のこと)≠ナある」という指摘をしていて、なるほど!と思いました。たしかに仏教の無明も生まれながらにして人間が抱えている克服すべき課題ですよね。しかしながら当然そのニュアンスの違いや微妙な意味の違いはあるわけで、中村先生は続けて、そこに東西の「罪」の概念の違いを話されてました。「殺すなかれ」という教えは東西を問わずほとんどの宗教に通じる教えですが、西洋の宗教における「殺すなかれ」の戒めは主に人間を殺してはいけないという意味で受けとられているのに対して、東洋では鳥や獣など、果ては草木や大地まで、その「殺してはならないもの」の範囲が広いと指摘しています。東西の宗教、つまり仏教とキリスト教を指して対比していることは明白ですが、たしかに、そういう部分はありますね。だからといって、東洋の考えの方が優れているという話にはならず、動物保護思想のあり方などを見ると、西洋の方が進んでいたりする面もあり、単純に優劣をつけないところが中村先生的でいいなぁ、と思いました。たしかに、よく論争のネタになる動物愛護問題、とくに捕鯨問題とか、双方に言い分はあるにせよ、西洋人が人間のみに憐れみを感じるとはいえない側面も多々ありますね。東西にかかわらず人類に共通して万物に対する慈悲心というものはちゃんとあって、そのうえで、その慈悲の表現に東西の文化の違いが出てくる、というようなニュアンスで話されていて、そういう視点もまた仏教的なものを感じました。

西洋にも人間以外に動物一般の殺生も禁じていた宗派があり、中村先生は一例として「カタリ派」を挙げていました。なんとなく名前は覚えていたものの、どんな宗教なのか知らなかったので、いい機会なので調べてみました。するとけっこう面白い思想を持った集団だったみたいで、がぜん興味がわいてきました。カタリ派とは、10世紀頃にヨーロッパで広まっていたキリスト教色を帯びた宗教運動です。思想的にはキリスト教(新約聖書)を聖典とした思想集団ですが、その解釈は独自のもので、同時代にカトリック教会に異端と認定されていたグノーシス主義と通じる傾向もみられることから、カタリ派もまた異端思想としてカトリック教会から厳しく批判され、やがてグノーシス主義と同じように弾圧されて歴史から消されていきます。グノーシス主義もそうですが、カタリ派もまた歴史から消された思想なので、残っている文献は主にかれらを糾弾する側が記述したものばかりで、現在では彼らがその時代にどのように生活して社会の中でどのようなふるまいをしていたか、などの側面は、当然、偏見によって否定的に記述された姿でしか知ることはできないようです。グノーシス主義もカタリ派も、ある意味、当時の腐敗しきってしまっていた教会への不満に対するカウンターカルチャーとして生まれたようなところもあると思われますし、事実、カタリ派の司祭らはカトリックよりも禁欲的な生活をしていたようです。カタリ派は、カトリック教会における権威主義や幼児の洗礼、三位一体説、免罪符などに否定的だったこともあり、当時の教会としては苦々しい存在だったのだろうな、と察します。

異端審問も狂気じみたところもあったようで、中村先生が言及していたエピソードによると、カタリ派と疑わしき人が捕らえられたら生きているニワトリを持ってきて彼に殺させようとしたようです、もし殺せたら「彼は正統なクリスチャンだ」として解放されましたが、もし殺せなかったり、可哀想だと殺すことに躊躇したりしたら「お前は異端のカタリ派だな!」ということになって火あぶりの刑に処せられた、ということがあったそうです。なんともムチャクチャですが、当時の教会の腐敗はそこまでひどかったということでしょう。

ヨーロッパの黒歴史として有名な魔女狩りはこの500年後くらいに起きますから、魔女狩りをおこすような心の闇は下地としてけっこう前からあったんでしょうね。こうした宗教思想の闇の歴史は現代でも尾をひいていて、「宗教は人を幸福にするどころかむしろ不幸にするものだ」という宗教不信の理由のひとつとしてよく挙げられますね。実際は、当時のカトリックがイエスの教えを逸脱して腐敗した権威主義に堕落してしまったのが原因であり、それはもはや宗教でもキリスト教でもないものだと思います。クリスチャンであったり司祭であったりするだけでイエスの教えをちゃんと体現できるというわけではないですし、中村先生ご自身も、多少の謙遜もあるのだと思いますが、自分自身何十年たっても仏教の教えの通りに自らを律するのは難しいし理想にはほど遠い(注)とおっしゃってます。信仰のあるなしに関わらず、立派な人は立派ですし、そうでない人はそうでないのだと思います。結局、理想の自分なり、幸福な人生なりを求めて生きようとする時に、宗教が助けになるならば信仰すれば良いし、そうでないなら、別のもの、哲学でも、科学でも、映画でもなんでも、役に立ちそうに思えるものを取り入れていけば良いのだと思います。

(注)仏教の教えの通りに自らを律するのは難しい〜
仏教をはじめとする東洋哲学研究の第一人者であった中村元(1912〜1999)ですが、仏教をただ学問の対象として研究していただけでなく、ブッダに対する尊敬の念も深く、学者であると同時に真の宗教者でもあったことをうかがわせるエピソードも多いですね。中村先生のお人柄を感じさせる有名なエピソードに、『仏教語大辞典』の原稿紛失事件があります。中村先生が20年の歳月をかけて執筆した2〜3万枚ともいわれる膨大な原稿を、あろうことかそれを受け取った出版社が紛失してしまったそうです。大量の原稿が入った箱をゴミと勘違いして捨ててしまったようで、激怒されてもおかしくないこの失策に対し、中村先生は「怒って原稿が出てくるわけでもないでしょう」と冷静に対処し出版社のその大失態を許したそうです。とはいえ、1ヵ月近くはショックで呆然とした日々だったそうですが、気を取り直しその後さらに8年かけて一からまた原稿を書きおろし、完成すると「やり直したおかげで前よりずっといいものになりました」とおっしゃったそうです。まさにブッダの境地をみるようなエピソードで、仏教は学問の対象であるだけでなく、自らも仏教の教えを体現しておられたのでしょうね。

メモ参考サイト

220610_yunomi.png慈悲

あらゆる不幸の原因は利己主義、つまり我(エゴ)にある、というのが仏教の根本にある洞察で、そのエゴの活躍を制御するために慈悲を意識するような教えを説いています。チベット仏教の僧であったチョギャム・トゥルンパは「慈悲とは方向性を持たない、いわば環境としてある寛大さだ」と説明していましたね。完成された慈悲は、それが慈悲を実践しているのだという自覚もなく、環境や事態に対する当然の自分の反射的反応であるように自然に出てくるものとして慈悲があるような、そういう寛容であることが自然で当たり前であるような心の境地が「慈悲」なのでしょうね。

よくネットで目にするお釈迦様の逸話にこういうのがありますね。雑阿含経が出典のエピソードのようですが、あらすじはこんな感じです。
仏教に批判的なある若者がブッダのところにやってきて散々罵詈雑言をあびせたところ、何も反論せず最後まで黙って聞いていました。若者の悪口が一段落するとブッダはこう言います。「悪口を言われて悪口で返し、怒りには怒りで報いたとすれば、それは与えられたものを受け取ったということだ。しかし、その逆に、それをなんとも思わなかったとしたら、それは受け取らなかったということだ。私が受け取らなかったもの(若者の悪口、怒り)は、与えたもの(若者)の元に返るしかない」

イエスの「右の頬を打たれたら左の頬を差し出せ」を思わせるエピソードで、ある意味、暴力を超解釈で我慢しなさいとも誤解されがちなイエスの言葉に対し、このブッダの話は、件のイエスの話の上手な解説にもなっていると思います。悪口に怒るというのは、何の訓練もされていない凡人には当たり前の自然な反応に思えますが、怒りの反応になるのは、そこに我があるからです。我をゼロにするのは困難ですが、思いやりとか慈悲というのは我を制御して我を超えた隣人への共感から生まれる心ですから、我はできるだけ弱めにコントロールしていくのが精神の安定に繋がりそうです。

魔女狩りは、「私の信じているものが正しくて、相手の信じているものは間違いである」という心が引き起こしていますし、あらゆる争いも根本は相手に対する不信と「自分は正しい」というエゴであり、あらゆる不幸な事態は、自分と異なる意見を持つものへの寛容さが足りないところから来ます。要は、昔の名作ドラマ「スクール・ウォーズ」で主人公の滝沢先生の恩師が言っていた「(相手を)信じ、待ち、許してやること」を本当に実践できれば、人生の問題も、世界の問題も一気に解決するでしょう。まぁ、ある意味、そういうことは言われなくても誰でも頭では分っていることではありますが、またしかし、それを実践するのはなかなか難しいものです。だからこの世界から争いが消えず、よって不幸も消えないのでしょう。これは人類に等しく割り当てられた神様からの課題なのでしょうね。


220610_yunomi.png人生の侘び寂びについて

OSHOも言及してましたが、ある意味この宇宙は、完璧でない状態こそが完璧である、というような精妙な真理に基づいて動いているような気がします。もし宇宙が完璧なものしか生み出さないものなら、人間を苦悩する存在として生み出さなかったでしょう。しかし、完璧なものというのは、そこで「終わっている」ので、次がありませんし、変化もしません。なぜなら完璧なのですから。逆に考えると、終わっていて変化もしないものというのは、それゆえにメタ的には完璧でないともいえます。人間の尺度だと完全は不完全よりも高度なもののように感じてしまいますが、宇宙的には微妙に不完全なものが完全を目指して変化していくその動的な姿のほうが完璧性が高いのかもしれません。

よく日本の陶芸では、シンメトリーであるとか、ムラの無く釉薬(うわぐすり)を塗ったりすることを嫌い、あえていびつな形の器にムラのある塗り方をするのが美しいとされているところがあり、子供の頃はそういう美意識がわからず混乱したものです。しかし、そういった味わいを分ってくると、そうしたいびつさの中に見えてくる美になんともいえない心地よさを感じるものです。それは大量生産では敵わない、個性≠愛でる視点であり、たんにいびつなのではなく、熟達した不完全さともいうべき高次元の美を垣間みることの愉悦でもあるわけです。そういった言語化しずらい感覚を千利休は侘び寂び≠ニ呼んだわけですが、こうした微妙な美のあり方も、どこか宇宙的なものを感じてしまう昨今です。

何の障害もない安全で安定した人生を望むのは人情ではありますが、では仮にそういう人生を歩めたとして、はたして人生の最期の時に、何ひとつ問題が起きなかった自分の人生というものに果たして満足できるのだろうか?と想像すると、なんだかそうでもない気がしてきます。人生もまた優れた陶芸作品のように、絶妙ないびつさが味わいを出してくれるような、そんなもののように思います。失敗は避けたい嫌な経験ですが、しかし失敗こそが心を強くし成長させてくれる糧でもあります。魅力的な人というのは、苦労知らずの道を歩んで来た人ではなく、往々にして多くの失敗を経験して乗り越えてきた人だったりします。失敗とか不幸というのは、魂がレベルアップするために通過しなければならないただの要素であって、必要以上に恐れたり嘆いたり避けたりするものでもないのかもしれません。

苦悩の真っ最中にそれを喜ぶというのは難しいことですが、しかしそれでも、我々が苦悩するのは、最初から苦悩しない存在であるよりも幸福なのかもしれません。自分の人生で苦悩があるのは嫌がるものですが、映画や漫画などでは人気の面白い作品ほど主人公は不幸を体験し苦悩していて、それゆえに、そうした境遇から抜け出る爽快感もあるのだと思います。よく目にするオカルティックな思想では、我々は生まれてくる前に自分の人生の設計図を自分で書いて、それを元にチャレンジする内容を決めてから、そのチャレンジに向いた親を選んで生まれてくる、というのがありますね。霊界は精神が優先する世界なので、周囲は自分と似た者が集まりやすく、願いも叶いやすいようで、なかなか骨のあるチャレンジがしにくいらしく、そうした環境で何百年も過ごしていると、また下界(この世)に生まれて不幸、つまり「苦(ドゥッカ。思うようにいかないこと)」を体験したいと思うようになるということです。まぁ、こういう考えはそれこそ信じるも信じないもあなた次第、みたいな世界ですが、この世に「苦」がある理由というのは、何かの不完全性なのではなく、宇宙的な、あるいは神的な視点では、とてつもない何かのメリットがあるから存在しているようにも思えてきます。


メモ参考サイト
posted by 八竹彗月 at 06:28| Comment(0) | 精神世界

2022年04月04日

宇宙的エデンの園

220404_apple.pngチャレンジする宇宙

ネットで見かけたマザーテレサの名言にこういう言葉がありました。いわく
「神様は私たちに、成功してほしいなんて思っていません。ただ、挑戦することを望んでいるだけよ。」
というものです。ネットで見かけるソースのわからない名言にはけっこうフェイクが混じっているので、この言葉が本当にマザーのものかは断定しにくいですが、最近よく思っていたことをうまく言語化されているので、目にとまりました。今回はこの名言を肴に雑談をしようと思います。

人間は誰しも成功者に憧れるものですし、金銭的な裕福さに限らず、精神的な幸福を得るといったことも含め、広い意味で人生の成功者たりえたいと願うものです。ですが、現実はどうもそういう願いに寛容でなさそうで、世間的に成功者といわれる人間はいつの時代もごくわずかであります。成功者とまではいかなくとも、とりあえず生活が安定して人間関係に問題の無い人生を望みたいものですが、それこそ成功者でも到達出来ない難関であり、実際に成功者ほど人間関係の苦労は人並み以上にあったりします。この世で最も幸福な状態は、もしかしたら成功者になることではなく、慎ましくても人間関係が良好な平凡な幸せを獲得することなのでしょうか。

ですが、宇宙的な法則、老子のいうタオ的な、もっと端的にいえば神が人間に望む人生とは、常に変化とチャレンジと冒険にみちた人生にあるような気がしています。平凡な幸せを求めたりそれを維持しようとしたりするような安定嗜好や保守的(※)な精神はタオ的な流れに反するのかもしれません。老子の思想では、無為自然が説かれますので、一見保守的な思想に見えますが、本質は見かけの常識に捕われない、人間の尺度を超えた宇宙的な自由に価値を置いているのであり、宇宙的な(つまり自他ともに争わず競わない、世界と一体化した境地)法則においては、現状維持は流れに反するものかもしれません。生々流転し常に変化し続ける総体が宇宙でありますから、「現状維持」というのはそうした運命を支配する全体的な流れに抵抗するもののように思います。なので、この世界では、一見リスクに満ちて危なそうな「チャレンジ」よりも、現状維持を保つほうが莫大なエネルギーを必要とします。そして、チャレンジする者には、リスクを上回るメリットと報酬が得られることが多く、現状維持を選んだ場合は、現状維持を拒む見えない力(つまり現状維持はそれ自体が反タオ的なので、流れる川に抵抗して必死にその場に留まっている感じ)によって、なぜか維持が困難になるような現象がたびたび起こります。

博物館や美術館などは、過去の遺物を未来に遺すためのもので、そういう意味では現状維持の側ですが、それは別に悪ということではなく、ただ維持する事には多くのエネルギーがいるというだけです。人気のアイドルなどのコンサートにはものすごい勢いで資金が集まりますが、過去の遺物を保存する機関は、国の補助金などの公的な支えなどがないとなかなか維持出来ません。良い悪いではなく、そういう所からも、新しい娯楽や、テクノロジー、発明など、チャレンジ精神が含まれる事物には、少々のリスクと引き換えに多くの人々の関心やお金などのエネルギーが集中していくようになっていることがわかります。

(※)ここでいう「保守的」は政治イデオロギーの保守主義のことではなく、守りを優先する傾向を指す一般的な意味で使用しています。

220404_apple.png人生の法則と霊界の話

宗教や神秘主義的な考えのひとつには、この世は死後に行く霊界の居場所を決めるための試験場だという思想があります。死後に行く世界、幽界(アストラル界)や霊界は、この世と逆に、想いがダイレクトに反映される世界で、夢も願いも簡単に叶う世界だといわれてます。そのかわり、精神優位の世界なので、似た者同士が集まりやすく、安楽ではあるけど変化に乏しい世界だともいわれています。これは、スウェデンボルグをはじめとして、多くの神秘主義者がいっていることですが、私も最近はなんとなくそんなものかもしれないと思っています。

もしそうであるなら、この世でチャレンジすることに大きな価値がある理由もそういうこと≠ネのでしょう。つまり、チャレンジすることは、いろいろな経験値を積むことですから、イコール魂の成長になり、霊界での居場所も、前世よりも高度な世界に行けるようになる、といったようなことなのでしょう。そういう意味では、平凡でそこそこ幸せな人生というのは、魂的にいうと学びの少ない人生ということになるでしょう。

インドの聖者、ヴィヴェーカーナンダの言葉に「幸福よりも一層多くを教えてくれるものは不幸である。富よりも一層多くを学ばせてくれるのは貧乏である。また、内面の火をかきたててくれるのは、賞賛よりも攻撃である。」という一節があります。もちろん、不幸よりも幸福を得たいのが人情ですし、神様も人間が不幸であるより幸福であってほしいと望んでいます。そもそも自らの分け御霊である人間が受ける苦痛は神自身の痛みでもあるのですから、不幸な人生よりは幸福な人生を送ってほしいと思っているはずです。不幸というのは、最大の幸福の境地に至るためのもので、より高くジャンプするために一旦後ろに下がって助走距離をとるようなものかもしれません。

不幸というのは過去の行いや前世のカルマなどが現象化したものという面もあり、そもそもこの世に生を受けている時点で、前世で刈り取れきれなかったカルマを持ち越しているという考えもヒンドゥー教などの思想にありますね。人生においては、誰しも思い通りにならないことが起きて当然なのでしょう。合気道開祖の植芝盛平との親交でも知られる宗教家の五井昌久氏がいうには、不幸というのは過去のなんらかのカルマを清算するために起きている現象だと指摘しています。不幸を消すには、不幸が起きた時に「ああ、これで過去のカルマがひとつ清算された!神様ありがとうございます!」と感謝しなさいといっています。これは自虐ではなく、もし不幸において不幸を悲しんだり抵抗したりすると、そのことが次のカルマを生成しまうので、逆に不幸に対しては感謝の念で反応することで悪いカルマをプラマイゼロにできますよ、という意味です。五井さんは、不幸というのは自分の中にある過去の悪い因縁が消えていく姿≠ニして現象化していると解釈しています。これは五井さんだけでなく、東洋の宗教思想全般によく見られる考えでもあり、おそらく真理でしょう。

チャレンジすることは、新しい魂の境地を開拓する事と同義で、人生を豊かに有意義なものにするためには必須ではありますが、先の見えない道を突き進むには少なからず恐怖との戦いがあり、簡単ではないですが、怖くてしょうがないのは最初の一歩だけで、歩みはじめてしまえば意外となんということもなかった、ということも多いです。経験上、神はそうしたほんのちょっとの勇気に、何百倍もの利子をつけて報いてくれるところがあります。逆に安楽な状態を必要以上に維持しようとすると、すごくパワーが要ったり、仲がいい人ほど引っ越ししてしまったり、ちょっとしたことで仲違いするなどの事象が起きやすいですね。

多分、チャレンジとは、自分で自分の運命のサイコロを振ることなのだろうと思います。チャレンジすべき時期にチャレンジしないでいると、現状維持を壊すような状況が起きやすいのも、その運命のサイコロを宇宙的な外部の力で無理矢理振られることになるからでしょう。この世界にはチャレンジする者に味方するような見えない力がはたらいているのかもしれません。自分でチャレンジという名のサイコロを振らないでいると、宇宙的な運命の力が勝手に自分のサイコロを振ってしまい、その場合は、自分で振った場合よりも面倒くさい試練がやってくるケースが多い気がします。先にチャレンジという名のサイコロを自分で振ってしまったほうが、降って湧いたような災難は少なくなるような感じがします。自分の運命は自分で切り開けという宇宙的な助言のようなものなのかもしれませんね。

じっと寝ている間さえ、私達の住んでいる地球は秒速約460m(ジェット機の約2倍)で自転しており、その地球も太陽系の中で秒速28kmで公転しています。さらに、太陽系も銀河系の中で秒速217kmで回転しており、銀河系もまた近隣の銀河団の引力や宇宙の膨張などの影響で宇宙の中を猛スピードで移動しています。逆にミクロの世界にしても、分子は振動し、原子も電子が猛スピードで動き回り、原子核内部も中性子と陽子が激しく運動しています。電子などニュートリノ等の素粒子も最終的には極小のヒモの振動であるといわれておりますから、この世界はどこをどう切り取っても何らかの運動をしていて、どこにも静止している場所は無いことになります。そういう意味ではこの宇宙は常に変化することがノーマルな状態であり、鏡の国のアリスにあるように、同じ場所に止まるには全力で走らなければならないようになっているのでしょう。



220404_apple.pngエデンのスケール

先日読んだネットの記事にあったものですが、我々の宇宙の中央値、つまりマクロとミクロの中間はおよそ1mmほどのスケールの世界であるという説がありました。1mm前後のスケール感の世界というと虫のスケール感です。ゆえに、そのことがこの生命の惑星である地球上において、虫こそがもっとも種類も数も豊富で繁栄を極めている理由なのではなかろうか、というユニークな考察がありました。人間の背丈はおよそ平均1.5〜2メートル程度でしょうから、ざっくりと1メートルくらいのスケール感の世界が人間の世界だといえます。まぁ、宇宙スケールの中央値ですから、人間の普段認識する世界もほぼ中央値のようなものです。

以前からずっと気になっていたのは、この世界はマクロになると星のように球体ばかりになり、ミクロになっても原子のように球体ばかりの世界になることです。人間の認識しているスケール感での生物や鉱物など様々な自然の形態の驚くべき多様性とくらべると、マクロもミクロもどうも単調な気がして、子供の頃はそういうところに漠然と不思議さを感じていました。科学的な視点で考えれば、人間世界では微弱で磁石にも負ける程度の重力は、マクロになるほど影響が大きく現れるようになり、その力は物体の中心にむかってはたらくために最も安定した形状、つまり球体になるわけですし、ミクロの場合も原子核をブンブン回る電子は量子論の確率的な振る舞いにより物理的な理由で球体に見えます。また電子そのものもほぼ完全な球体であるとインペリアル・カレッジ・ロンドンの研究チームによって観測されたようです。

別の視点から考えれば、人間の知覚しているこの世界をこれほどまでに多様性にあふれた楽園にするためには、宇宙はこれほどまでに巨大な場を必要とするのかもしれないですし、また素粒子ほどまでに極小の素材があってこそ、人間世界の多様性が実現できているのでしょうね。

オカルト雑誌などでよく見る数多ある宇宙人の目撃例では、ほとんどが人間程度のサイズ感で、小さくてもチンパンジー程度、大きくても2、3メートル程度でおさまるサイズ感であるのも、いかにも人間の想像力に収まる範囲の宇宙人、という感じでインチキ説を後押しする面がありますが、もしかすると、そういうスケールの範囲でしかこの宇宙では知的生物は発生しないということであれば、そういうサイズ感で宇宙人が目撃されるのはむしろ当然であるのかもしれませんね。そう考えると、嘘っぽく思えていた宇宙人の目撃例のいくつかは、本物の可能性もあるかもしれず、ロマンを感じるところです。

記事では、前述のとおり宇宙のスケールの中央値は1ミリメートルのあたりで、ちょうど虫のスケールであり、地球上で最も多様な種を保持する虫こそが宇宙に祝福された最適な生物なのではないかという考察でしたが、虫のスケールですと知性や霊性を獲得するための脳の容量が不足しそうにも思いますし、他の惑星では事情が変わってくるにしろ、現実にこの地球上では人間だけが最も知的(高度に抽象的な概念を理解できるという意味)な活動を可能としていますから、虫よりひとまわり大きな人間スケールの1〜2メートルあたりが宇宙の恩恵を最も受け取りやすいサイズ感のようにも思えます。人間より大型の恐竜のような、数メートルのスケールになってくると神経系の伝達が遅くなるので機敏な活動ができなくなったり、身体の維持に摂取エネルギーのほとんどを持っていかれたりするため、知的活動に支障がでてきそうですし、やはり人間の生きているスケールは、びっくりするほどちょうどよく、宇宙の豊かさを最も享受でき、それこそ宇宙におけるエデンの園のようなスケールの世界に我々は生を受けているのでしょうね。

メモ参考サイト


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posted by 八竹彗月 at 03:30| Comment(0) | 精神世界

2022年02月17日

忍性さんの話

鎌倉時代の真言律宗の僧、忍性(にんしょう・1217〜1303)について知ったきっかけは、東洋哲学研究の巨匠・中村元先生が珍しく感極まった口調で件の僧を紹介しておられた映像でした。忍性さんといえば日本のマザーテレサと評されることもあるくらいに慈悲に厚く、人々の救済に生涯を捧げたことで知られるお坊さんです。また、同時代の僧侶、日蓮と意見が合わず対立していたこともエピソードとしてよく語られる部分ですね。たしかに戦うお坊さんというイメージの日蓮の激しいキャラは、忍性さんとは正反対な感じで、いかにも水と油っぽい感じですね。僧侶といえども人間ですから、やはりウマが合わない人とはうまくいかないものなのでしょう。

忍性さんといえばボランティア≠ナすが、当時は仏教の修行のひとつとして考えられていた人助けなどのボランティアに、忍性さんは仏教の勉強そっちのけの勢いで熱心に働かれ、そのあまりのエネルギッシュすぎる慈悲の精神に、師匠の叡尊(えいそん・1201〜1290)から「いくらなんでも慈悲が過ぎる!」(注1)と苦笑されたほどだったようです。そこまで人助けに熱心なお坊さんになった背景には、忍性16歳の時分に早くに亡くした母親の影響が大きかったといわれています。

生涯に施した貧困者への衣服3万3千着、架橋した橋189カ所、掘った井戸33カ所、病人や被差別者のために築造した家屋5カ所、草創したお寺が93カ所、などなど、他にも数知れないほど世のため人のために奔走し、87歳で逝去した後にその功績を認められ後醍醐天皇から「忍性菩薩」の称号を授かったそうです。その偉大な業績のわりにいまひとつ知名度が高くないのが不思議なところですね。

忍性さんのエピソードとしてとても好きなのは、中村元先生をも感涙せしめたあるハンセン病(注2)患者とのふれあいの不思議な逸話です。ハンセン病は、当時は治療法も確立されておらず触れると感染する伝染病の一種だと思われていたため、ハンセン病患者は集落から離れた場所にまとめて隔離され、不便な生活を強いられていたそうです。以下のエピソードはそうした時代背景の中で起きた奇跡です。

奈良の北にある奈良坂には貧しい人たちの集落があり、その小屋の住人のひとりにハンセン病で歩くのもままならない男がいました。彼は奈良の街中で出て働く事が出来なくなってしまったため毎日の食事にも事欠くほど困っていました。それを知った忍性さんは、この男を毎日背負って街まで送り迎えしようと決心します。片道一時間もかけて雪の日も真夏の暑苦しい日も急な坂を男を背負って毎日休む事無く彼を街へ送り届け、夕方にはまた彼を背負って小屋まで帰してあげるのでした。「忍性さま、なぜです?なぜそこまで私などのために尽くしてくださるのです?」との問いかけに「心配せんでもよろしい。これも修行です」と忍性さんは笑って答えました。そうした忍性さんの姿を遠巻きに見ていた世間の人も次第に大いに忍性さんを尊敬するようになっていったそうです。

送り迎えは彼が亡くなる前まで数年間に渡ってずっと続けられました。ハンセン病が恐ろしい伝染病と誤解され、病人には触れるどころか近づくこともできなかった時代、そしてハンセン病は過去世での悪行の因縁であるという差別的な考えも蔓延していた時代であることも鑑みるに、忍性さんのとてつもない慈愛の精神は胸を打たれるものがあります。当時の常識から察すれば同じ病を患う覚悟無しには出来ないことです。リスクの無い善行でさえ、思っていてもなかなかできないものですが、罹患のリスクのあることならなおさら覚悟と勇気のいることだったでしょう。そこまでしても自分の善行に満足することなく、一人では救済にも限界があるからと、忍性さんは後に病院や療養所「北山十八間戸」(現代も跡地が残っているそうです)の建立などに着手していったそうです。

さて毎日背負って送り迎えしていた件の男は、ある日いよいよ病気も重くなり死期を悟ったのか忍性さんにこう言います。「忍性さま、私は必ずやこの世に生まれ変わってきて、お世話になったあなたに報いられるようお仕えしたしましょう。その時は額にアザのある姿であなたの前に現れますから、きっとすぐお分かりになるでしょう。」男はそんな不思議な言葉を言い残し息を引き取りました。

それから月日は流れ何年かの後に、なんと実際に門下生の一人に額にアザのある者が現れたそうです。その者はよく忍性さんに尽くし働いたということです。件のあの男の生まれ変わりだったのでしょうか。件の門下生であるアザの男は、忍性さんにとっては、おそらく疑う余地もなく、恩に報いるために生まれ変わってでも会いにきてくれたあの時の彼(注3)だったのでしょう。運命は時として粋な事をするものです。


(注1)ウィキペディアによれば『聴聞集』に「良観房ハ慈悲ガ過ギタ」と忍性に対する叡尊の苦言が記載されているようです。良観とは忍性さんの通称です。

(注2)「ハンセン病は,らい菌という細菌による感染症ですが,感染力は弱く,感染したとしても発病することは極めてまれで,しかも,万一発病しても,現在では治療法も確立し,早期発見と適切な治療により後遺症も残りません。」(法務省HPより)

(注3)現代では額にアザのある男、といえば昨今大人気作品の「鬼滅の刃」主人公、炭治郎が思い浮かびますね。これも個人的には最近気になっている忍性さんとのちょっとしたシンクロニシティ的なものを感じます。どういう意味が託されたシンクロなのかは今の所分りませんが、タイミング的には面白い一致だと思っています。「鬼滅の刃」はアニメ版の第一期の途中までしか見てませんが、序盤の岩を刀で割るところとか、ゲンセンカン主人みたいな天狗面の男、鱗滝さんとの師弟愛などすごくグッときました。ネットでよく見かける煉獄さんとは何者なのか気になるので、そのうちアニメか漫画などで続きを見てみたいです。


メモ参考サイト

2016年に映画も作られていたんですね〜
狂言師の和泉元彌さんが忍性さんを演じているようです。
機会があれば見てみたいですね。


posted by 八竹彗月 at 02:00| Comment(0) | 精神世界

2021年04月07日

神様論

神と宇宙法則

幸も不幸も、神が罪を裁いたのでも、神が罰を当てたのでもなく、宇宙の「理」、つまり、絶対的な宇宙法則によって自動的に生じる原因と結果である、という考えに最近はとても共感しています。神は実は人間に罰を与えたりしたことが一度も無いのではないか、と。罰に見えるのは、ただ因果の法則で、悪い種が不幸という芽を出しただけというような。仏教の教えとはそういった法則の解明を主体としており、キリスト教やイスラム教はその法則を神と呼んでいいるともいえるかもしれません。

聖書に、「神は愛です」(ヨハネの手紙一4章16節)という有名な言葉がありますが、最初は情緒的な比喩のような言い回しかと解釈してました。でも最近は、真理そのものを定義しただけのものであることに気付いてきました。別にポエティックな言い回しとして「神は愛です」というのではなく、それが真実であるから、そう言うしかない、という言葉であるというのが正しかろうと思います。そもそも、我々は「愛」というのを、人間的な、あるいは生物的な情緒のように誤解していますが、愛は万物すべからく通底する存在の種≠フような根源的なエネルギーではないか、思うようになりました。愛というのは、感情を表すだけの言葉ではなく、全ての感情と物質の根幹に関わる根源的なエネルギー、というのが意外と本質的なイメージのような気がします。この世界は、この世界の根源にある存在やその法則が「存在してもいいよ」と毎秒毎瞬、無限に許可を出し続けているから存在しているのではないでしょうか?

我々は、漠然と、存在しているものが存在するのは当たり前に思っていますが、本当にそうでしょうか?現代科学でも、物質に質量があるのは、当たり前ではなく、質量を与えるための粒子(ヒッグス粒子)が介在することで重さという概念が成立していることを示唆しています。それと同じように、我々の日常を成立させているすべて、電子の運動やひいては万物の根源である究極のヒモの振動が、振動しつづけていることは、何も理由のないことなのだろうか、と考えた場合、何か神としか呼べないような根源的な想像を絶する壮大な存在をうっすらと感じます。

神の定義について

最初の話題に戻って、幸も不幸も宇宙の法則が自動的に出した結果である、という話ですが、これは先に述べたように仏教の根幹にある思想でもありますが、またその他の宗教で「神」と呼ばれる超越的な存在が、人間に罰を下したり、幸福を授けたりしているという考え方も、正確ではないものの間違いではないですし、仏教の考えより劣るわけでもないと最近は感じています。私が思うのは、幸も不幸も自分が撒いた種が発芽した結果であるにせよ、もっと詳細にその結果を分析すれば、「幸福は神が与えたもので、不幸は自分のエゴが生み出したもの」という考えも意外と正解に近い気がしているという事です。

短絡的に「良い事は神のおかげ、悪い事は自分のせい」と言ってしまうと、いかにもカルト宗教のヤバい教えのように見えてしまいますが、それは、この教えを他人をコントロールするために使う組織があるせいでしょうね。あくまでも、真理というものは、自己の内面を浄化して魂の根源に回帰するためにあるものだと思います。そうした中で、体感していく宇宙的な力を人間の言葉で言い表したときに、「神」という言葉が、実は一番正確なようにも感じるのです。

神というと、最初は、人間と無関係に存在してて、ささいな悪に過敏に反応し、最高の善のみしか受け入れない融通のきかないモンスターのようなイメージで考えがちです。それゆえに若い頃は、神を否定したがり、神からあえて決別したがる傾向もけっこうあると思います。(そういえば詩人のアントナン・アルトーの作品に現代哲学にも引用された「器官なき身体」で有名な『神の裁きと決別するため』というのがありましたね)しかし、そもそも多くの宗教や神話では、神は人間に寛容や許しを説いてるわけですから、神ご自身が寛容でないわけがありません。神は人間の何万倍も寛容だと考えた方が論理的です。美輪明宏さんが何かの著書でおっしゃってましたが、神的な存在は、べつに人間に100%良い事ばかりしなさいと無理強いしてはおらず、悪事よりも善行の比率が高ければとりあえず合格、くらいな感覚でまずは十分だと思います。

我々が人生を通じて求めてやまないのは、麗しい異性でも、お金でも、宝石でも、不動産でもなく、「幸福」です。麗しい異性、お金、宝石、不動産、その全てが満たされても、幸福でなかったら何の意味もありません。有り余る巨富がありながら、その富を使う暇もないほど仕事に追われているとか、とてつもない価値のある不動産を所持しながら、家族仲が異常に悪く、毎日諍いが堪えないとしたら、そんな生活を誰が望むでしょうか。

神は気に入らない人間にきまぐれにひどい罰を与える怪物ではなく、まったく正反対で、本当の神とは、人間の思考をフルに働かせてイメージする最高に素敵な人物よりも何億倍も素敵で、どんな聖者よりも寛容で優しく、どんなに親しい友人よりも楽しい仲間であり、どんな偉人よりも知性的であり、考えうるどんな「最高」よりも最高な存在である可能性のほうが高いと思ってます。いや存在すら超越しているので、ジョセフ・キャンベルの定義したように「存在と非存在」であり、本来思考で捉えれないところを、あえて名付けたのが「神」なのでしょう。以前グノーシス主義の記事を書いたときに引用しましたが、言葉で表現できるギリギリで神を表現していて秀逸なので、もう一度キャンベル先生の神の定義を再掲します。

超越者(神)は思考のあらゆるカテゴリーを超越している。存在と非存在−それがカテゴリーです。「神」という語は本来あらゆる思考を超えたものを意味しているはずなのに、「神」という語そのものが思考の対象になってしまっている。
さて、神は非常に多くの形で擬人化されます。神はひとりか、それとも多くの神がいるのか。それもまた思考のカテゴリーに過ぎません。あなたがそれについて語り、考えようとしているものは、そのすべてを超越しているのです。

ジョセフ・キャンベル「神話の力」飛田茂雄訳 早川書房 1992年 p123

人間のような人格はないともいえますが、それは想像をはるかに超えた究極の人格であるゆえに、人間の知力で捉えがたいからだろうと思います。神は、信じないうちは、ファンタジー的な存在のようにしか思えず、信じてる人が迷信深い愚者にしか見えないものです。しかし、何かのきかっけで神の存在をうっすらとでも信じるようになってくると、なぜか面白いほどに小さな奇跡が頻繁に起きるようになるので、より確信的に信じるようになっていきます。まさに「信じる者は救われる」の本当の意味を実感します。神を信じるというのは、
特定の教団に入信したりすることではなく、この宇宙の背後に確かに存在する人間の知性で捉えきれない壮大な何ものかの気配に関心を向ける事です。神を知ろうとすることは宗教的な好奇心というよりは、もっと根源的な、自己の本質と最も密接な鍵だろうと思います。

神と宇宙について

そもそも、この宇宙には最初から潜在的に人間を生み出せる要素が全て揃っていたから人間が誕生したのであり、ならば、この宇宙自体も人間よりも高度な「心」や「魂」が無いはずがありません。人間でさえ、どんなクリエイターも自分に無いものは表現できません。よく耳にする意見で「神は人間の心が生み出した架空の存在だ」という見方もあります。私も以前はそう考えていたものでした。しかし、人間は、無い存在を作ったのではなく、古代の高度な意識に到達した賢者たちが、宇宙の背後に存在する壮大な何かの気配を察知して、それを表現する人間世界の言葉がなかったので、「神」という概念でそれを語るしかなかった、というのが事実かな、と思っています。

人間は宇宙が生み出した宇宙存在でもありますから、その宇宙法則に従って行動すると物事がスムーズに運び、それに逆らって行動すると困難や苦しみが伴う、というのは、そういう意味では実に理にかなった考えだと理解できます。老子は、この宇宙の法則を『道(タオ)』と名付け、生き方のエッセンスを簡潔に遺しました。一見自分が得をしそうなエゴを満たすような生き方は、結局自分を破滅させるだけで、逆に自分を捨てて周囲の人や公益に貢献する生き方のほうが、結果的に自分に最大の利益をもたらす、というのは世の中をみると全くその通りに動いていますね。狭い期間だけで見ると、悪人が栄えるように見えるケースもありますが、長いスパンでは、悪人が人生に勝利するという事はまず不可能でしょう。人間世界の幸と不幸は、ほぼ9割以上は人間関係で生じますが、そういう意味では全ての人間は幸福の担い手でもあるわけです。イエスの「隣人を愛せ」というのは、隣人のためだけでなく、主に自分の幸福の絶対条件であるということなんでしょう。

幸福は常に神からしか出力されない現象であり、不幸は常にエゴ(自分本位な利己性)からのみ生じます。エゴは利己的ですが、利己性自体がマズいわけではなく、高いレベルの利己性は「神を知りたい」「困っている人を助けたい」「この世から悲しみを消したい」という高度な「欲望」となりますし、人助けが一番気持ちのいい行為だということを悟った人は、自分が気持ちよくなるために、他人を助けたりしはじめます。これは偽善ではなく、むしろ最高の善で、自分も気持ちよく、しかもそれによって他者も気持ち良くさせるので、自己犠牲の善意よりも宇宙視点では喜びの量が最大化されるので、価値が高いといえます。

神の計画について

パラマハンサ・ヨガナンダも、常に神の事を考え、瞑想によって神と対話することの重要性を指摘していましたが、こうしたことは、精神世界に免疫がないと「宗教的」というカテゴリーで片付けてしまいがちかもしれません。本質はそういうカテゴリーとかジャンルの問題ではなく、人生の根本的な価値は、まさにそこにあるし、そこにしかない、という真理を言っていたのだなぁ、ということが最近は身にしみます。たしかに神は、神の事を熱心に考え、神に好かれようとする人間に、幸福とか奇跡を与えているように一見思えます。しかし神はえこひいきするようなレベルの低い感情は無いですから、実際は悪人にでさえ聖者に与えるのと同じ量の、いいえ、万人、万物に、等しく100%の愛のエネルギーを常に与えています。ひいきに見えるものの正体は、各人が神の愛を受け取る器の大きさや、器の状態によるのだと思います。

霊的な次元では、思うことなどの心のパワーは絶大なので、神を信じるほど神との霊的なパイプが太くなるので、より神からのエネルギーが自分に入りやすくなる気がします。聖者や賢者のように、修行の末に神の愛を受け取る心の器を大きく育てた者には、たくさん愛が入るようになるし、悪人はあらかじめ生まれもって持っている器でそれなりに愛を受けとっています。器も悪人ほど手入れをしないので、底が抜けている場合もありますし、わざわざ器を手で覆って、神の愛を受け取る量を自分で減らしている場合もあります。何にせよ、神は、太陽が完璧に分け隔てなく万物を照らすように、全ての生命と非生命に完璧に100%の愛を注いでいるように思えます。

神を信じると良い事がよく起こるようになるのは、自分に関して言えばほとんど事実だと思ってます。神を信じるというのは、具体的には、聖書を勉強するとか、イエスの十字架像を拝むとか、そういう宗教っぽい行為とはあまり関係なく、自分が存在しているこの世界と調和し、この世界に貢献する事だと思います。

神はこの宇宙の創造主だという定義は、しばしば「宇宙の創造は物理的な仕組みで起こったことで神とは関係ない」という反論もあり私もそう思っていた時期もありましたが、そういうことではなく、ただ定義としてこの宇宙を創造した何らかの力や仕組みの発生源を仮に「神」と呼んでいるだけで、ある意味科学によって開明しようとしている宇宙の謎も、神とは何か?の探究なのではないか、と思うようになりました。神と宇宙はほぼ同じ意味ともいえますが、神というと宗教的な擬人化したイメージに捕われますし、宇宙というと感情の無い無機質な物理現象に拘束された自動装置のようなイメージに捕われがちです。神を言葉と思考で捉えるのは限界がありますね。それゆえ過去の賢者たちは真理は言葉の外にあると何度も言ってきたのでしょう。神は思考の対象ではなく、人生の体験の中で直に感じとる生きた存在です。

全ては神が創造したものなので、好きなものだけでなく嫌いなものも含めて、全てのものに敬意をもつこと。それに加え、運命もまた神の領域なので、神を信頼していれば、神が100%の愛を注いでいる万物、つまり自分も万物に含まれるのですから、自分に因果を超えてわざわざ不幸な現象を与えるはずがない、ということを「信じる」ことも重要です。神を信じるということは、神が自分を不幸にすることは絶対に無いと確信することと同じです。確信は運命の設計図となり、やがてそれは現実に現象化します。一見不幸に見える現象も、それは自分を成長させるための「幸福の種」として現われたものである場合が100%であり、人間を苦しめるために与えたサディスティックな刑罰ではないのだと思ってます。そもそも神は愛なので、苦しみの正体というのは、「神からどれだけ離れているか」の魂的な距離感によって生じるものなのでしょう。

よく、人間は、自分の力ではどしょうもないことに悩んだりするものです。急いでいる時に踏切が降りてヤキモキする事が昔はありましたが、よく考えると、ヤキモキしようがしまいが同じ時間で遮断機は上がります。であれば、ヤキモキもイライラもしなくていい、と気付きます。入学試験の結果も、結果発表までは考えても悩んでも結果は変わらないので、悩むだけ嫌な時間が増えるだけ損です。何が言いたいかというと、こういう「考えても意味の無いこと」や「自分の力の及ばないもの」は、すべて霊的な次元の領分なので、ここで一番効力を発揮するのは運命を信じる力です。「人事を尽くして天命を待つ」という言葉がありますが、まさに真理で、自分の手が届く範囲のことは精一杯やって、その後の結果は神の裁量に全部お任せする、というのが、もっとも最善の結果を招くのでしょう。実際に、自分の経験に照らしても、そういう法則があるのはリアルに実感します。この物質世界に人間として存在していること自体、魂の未熟さを払拭するために修行している存在であるという考えに共感します。ならば人生、いつも理想通りにできないことは仕方ないですし、人事を尽くす時点で出来てないとか、人事を尽くしても天命に任せず、うだうだと悩んでしまうのも、未熟さゆえであります。まぁ、この世界、生けるもの全ての目的というのは、そういう未熟な魂が集まって、助け合いながら、失敗を許しあい、お互いの未熟な部分を補いあって、みんなで力を合わせてちょっとづつこの地上を天国にしていこうという、壮大な神のプロジェクトなのかもしれませんね。

posted by 八竹彗月 at 15:26| Comment(0) | 精神世界

2020年12月22日

「今のあなたにちょうどいい」の話

「ちょうどいい」の名言について

ネットでよく見かけるお釈迦様の言葉だとされる名言「今のあなたにちょうどいい」。今の環境も、今の親、兄弟、友人、同僚、上司、などの全ての人間関係も今のあなたにちょうどよい、そして幸運も不幸も病気も死も何もかも、すべては今のあなたにちょうど良い時にちょうどよく起きているのである。という意味で引用される名言で、どこかで目にしたり耳にしたことがある人も多かろうと思います。アクシデントもラッキーも、偶然に起こる事などこの宇宙には一切なく、すべては過去の生き方などで撒いた種が正確無比な物理現象と同じように現象として発芽し現われているだけである、というのは仏教の基本概念ですから、今が不服であれば未来を良くするために今の自分のあり方を省みることによって、良い因果の種を撒くことが最善なのでしょう。何の不満もなく一生を過ごせる人は皆無ですから、不満な状況が現われた時にいかなる心持ちでその状況に向き合えば良いか、というガイドラインを自分の中に明確に持っていることはけっこう生きる上で助けに成ります。

私も、思い通りにいかないことや、嫌な事が起きるたびに、この言葉を思い出して気持ちを落ち着かせてきたので、けっこうお世話になっているありがたい教えです。「もっと自分は評価されてもいいはずだ」「もっと自分に合った理想的な人と出会えないものか」など、「もっと○○○だったらいいのに!」という気持ちというのはついつい考えてしまいがちです。しかし、実際には自分のレベルに釣り合った現実が展開しているだけなので、目の前の環境をレベルアップさせるには、環境に不平を言うのではなく、まず自分自身のレベル上げをすべきだということなのでしょう。

「そんなこと言ってもこうなったのはあいつのせいではないか!」とか「もっと環境が良ければ成功したはずだ!」と、エゴは主張しますし、どうにかして今の不満を自分以外の責任にしたがりますが、仮に自分の落ち度が見当たらなくても他者や環境に責任転嫁して状況が変わる事はありません。ゆえに、まずは変えれる可能性が最も高い手近な「自分」を変えていくことが、実は最速で現実を変化させる最善手なのだというのは、スピリチュアルうんぬんを脇に置いておいても、とても合理的な推論でもあると思います。



この名言の出典を調べてみると・・・

ということで「ちょうどいい」の名言の話に戻りますが、この名言をはじめて知ったのは数年前で、Youtubeに上がっていた斎藤ひとりさんの音声動画からだったと思います。ここ数年仏教にはけっこう関心が高まっていて、仏教関連の本が増えてきたこともあり、このお気に入りの名言の出典が知りたくなり、もし持ってる本に記述があれば原典を参照してみたいと思いまして、さっそくこの名言のルーツをネットで調べてみました。

漠然と、もしかして以前のヴォルテールやマザーテレサやオーウェルやジョブズの名言(注1)を調べた時のように、ネット民の誰かが創作した名言だったりして、という疑惑がありましたが・・・・。いろいろ検索してみると、またしてもこの名言の出典も漠然としたものでした。唯一それらしい情報としては「大蔵経」(注2)がソースだというものが出てきますが、この「大蔵経」というのは仏教の特定の経典を指すものではなく、「全ての経典」という意味です。ちなみに、大正13年から昭和9年まで10年を費やして編纂した漢訳仏典の総集『大正新脩大蔵経』(注3)は全100巻で、1ページあたり17字詰め29行3段組みで各巻平均1000ページというとんでもない量です。「大蔵経」がソースだと言うのはほとんど「仏教がソースです」と言ってるのと同じ事で、出典を示すなら具体的に「理趣経」とか「華厳経」などという個別の経典名がわからないとと調べようがない感じですね。

さらに調べていくと、この「ちょうどいい」の名言の出所は斎藤ひとりさんの思想に影響を与えたといわれる小林正観さんの著書に出てくる言葉だという情報がありました。著書の中で小林さんはこの名言をお釈迦様の言葉の引用であるとし、そこに出典が「大蔵経」であると書いてあるようです。ソースが「大蔵経」というのは漠然としすぎているため、小林さんの創作ではないか?という意見も見受けられましたが、小林正観さんはもうだいぶ前に他界されておられるために確認も難しい状態ですね。小林さんの本は数冊持ってますが、そう言われてみればこの「ちょうどいい」の話も書いてあったような・・・小林正観さんは、斎藤ひとりさんと同様に、ユーモラスで分りやすく、それなりにロジカルに精神世界を語っておられたので、説得力もあり面白いですね。

寺山修司もよく著書で意図的にありもしない名言を創作することで有名でしたが、小林さんの「ちょうどいい」の名言ももしかしたら創作の可能性もありますね。あるいは意図的な創作ではなく、昔読んだ経典の中の言葉が印象に残っていたものの具体的な出典を忘れてしまい、うろ覚えで書いたということも考えられますね。まぁ、真相はどうあれ実際に自分の人生に役立っているのはたしかですし、もしかしたら仏典のどこかに似た言葉がある可能性もなきにしもあらず(注4)ですから、細かいことは気にせず、とりあえずは詳細が判明するまでは「ちょうどいい」はお釈迦様というより小林正観さんの名言として役立てていけばいいのかもしれませんね。実際に役立っていますし、多分自分にとって今後もお世話になる言葉になっていくように思います。



「ちょうどいい」の個人的な実用例

一見人生は、そんなにちょうどいい事ばかり起きているようには見えませんが、立ち止まってよく考えてみると、「ああ、やはりちょうどいい事以外はなにひとつ人生には起きないものなのだ」という事が理解できます。良い事なら受け入れやすいですが、嫌な事が起こると、「ちっともちょうどよくない!」と思いがちですよね。嫌な事が起こると、なんで私だけがこんな目に!と思う事はあると思います。そして嫌な事というのは、必ずしも因果関係がはっきりしている事ばかりではないですから、最初はタイミング悪く降り掛かった災難にしか見えないこともよくあります。

例えば、自転車で走ってるときなど、正面からこちらへ向かってくる人に道を開けようと退くと、同時に相手も同じ方向に避けたりして、それが何度か続くと、あたかも自分が相手の行く手を阻んでいるかのようなバツの悪い状態になることって誰しも覚えがあると思います。たいていはお互いに分って≠「るので照れ笑いなどを浮かべながら会釈してすれ違うような展開になると思うのですが、たまに「邪魔するな!」とばかりに怒る人もいます。私の場合、そういう人に出会ったのはまだ一度だけなので、一般的にもちょっとレアな出来事なのかもしれません。

避ける方向がタイミング悪く一致してしまうのはたまに起きることで、仕方の無い事ですし、どちらが悪いという事でもないように普通は思います。そういうことに怒る人というのが理解できず、理不尽な目に合ったという思いで、けっこうその後も嫌な気分を引きずってしまうものです。目に見える現象だけを見ると理不尽な事ですが、しかしその後ろに何かの因果がなければそういう現象は起きないはずなので、その原因を考えていくと、過去に自分も同じような理不尽な怒りを他人に向けて相手を嫌な気持ちにさせた過去の記憶が蘇ってきました。「ああ、もしかしてあの時に相手が感じた不条理な思いを今度は私が体験することになったのか」と納得したものです。状況として過去を反省するための状況が整ったために、因果の理(ことわり)が作動し、ちょうどよく起きた事象なのだと思います。まさにこれは過去を清算するためのちょうどいい出来事が起こったということでしょう。理不尽に怒る相手は、実は過去の自分自身だったわけです。

そういう意味でも私に理不尽な怒りを向けた見知らぬ彼は実はただの嫌な人ではなく、霊的な深いレベルでは私の人生の教師を臨時に受け持ってくれた非常勤講師であったのかもしれません。嫌な事が起きるたびに、そうすぐに納得できるものではないですが、なんにせよネガティブな思いをずっと引きずるよりも少しでも早く気分を冷静にするテクニックとして活用できるなら、そういう利点だでけも「ちょうどいい」の言葉は価値があると思ってます。合理主義的に考えれば、「ちょうどいい」というのは真理というより気持ちを落ち着かせるための技法と捉えれるかもしれませんし、べつにそう考えても間違いではないと思いますが、理性を超えたさらに深いレベルでは、意外とそれが真理であるようにも思えてくる昨今です。


(注1)
ヴォルテールの名言とされている言葉「私はあなたの意見に反対だ。しかしあなたがそれを主張する権利を私は命を賭けて守る」は、その男気あふれるカッコ良い言葉のせいか、だいたい10年ほど前からネットでかなり広く引用されている印象ですが、実際はヴォルテールの言葉ではないようです。
マザーテレサの名言とされている言葉「思考に気をつけなさい。それはいつか言葉になるから。言葉に気をつけなさい。それはいつか行動になるから。行動に気をつけなさい。それはいつか習慣になるから。習慣に気をつけなさい。それはいつか性格になるから。性格に気をつけなさい。それはいつか運命になるから。」。これもよくネットで見かける名言ですが、これもマザーの言葉であるという明確なソースは不明です。マザーテレサは、こういった詩的なリズムで真理を表現するような技巧的な言い回しをあまり使わず、素朴にストレートな言い方をすることのほうが多いですし、多分ネット民の創作か以下のリンク先の考察にあるように別の偉人の言葉なのかもしれませんね。
オーウェルの名言とされている言葉「ジャーナリズムとは報じられたくない事を報じることだ。それ以外のものは広報に過ぎない」も出典は不明でオーウェルのものではない可能性が高いようです。
ジョブズの名言とされている言葉「私は、ビジネスの世界で、成功の頂点に君臨した。他の人の目には、私の人生は、成功の典型的な縮図に見えるだろう。」からはじまる最後の言葉≠ニされるものも、文章に事実誤認の箇所が多く、現在はジョブズのものではなくネット民の創作であることが判明しています。

ヴォルテールの名言とされてきた文言(ウィキペディア)

マザー・テレサじゃなかった⁈ 名言「思考に気をつけなさい…」の謎(ブログ『Blue Eli ニューヨーク便り』様より)

ジョージ・オーウェルの言葉じゃない? 「ジャーナリズムとは報じられたくない事を報じることだ。それ以外のものは広報に過ぎない」(ブログ『pelicanmemo』様より)

スティーブ・ジョブズの最後の言葉の裏にある噂と真実(「リーダーズ・ダイジェスト」の英文記事)
件の「最後の言葉」は出典が不明で、ジョブズの家族やアップル社も認めていない。その引用の全ては非公式のSNSアカウントやブログのみでまともな根拠のあるソースが存在しない、といった内容が記事には書かれています。

名言関係についての感想は過去記事でも少し書いているのでよろしければどうぞ。
・スティーブ・ジョブズの名言について(記事『【雑談】黄金郷通信 vol.4』の後半)
・ヴォルテールとオーウェルの名言について(記事『ネット空間のシミュラークル』の後半)
・マザーテレサの名言について(記事『「引き寄せ」について』の中盤あたり)

(注2)
大蔵経とは?(コトバンク)

(注3)
大正新脩大蔵経(Wikiwand)

(注4)
丁度よい(「光華女子学園」様)
これも正確な出典は不明なものの、お寺の会報にこの言葉が掲載されたこともあるということは、仏典のどこかに実際に書かれてる言葉の可能性もありますね。ただ執筆したのは住職の奥様とのことで、実際に仏典を参照したものなのか、一般書からの孫引きなのかは不明です。
posted by 八竹彗月 at 20:43| Comment(0) | 精神世界