2017年09月03日

関口野薔薇 ヨガナンダに師事した日本人

よく出向く古本市に散歩がてらぶらりと出かけ、心地よい古い紙の匂いの立ち籠める本棚を順繰りに眺めていると、なにやらピピピ!とアンテナが合図してくる本が目に入りました。この日はすでに関心のあるテーマの安価でレアな本をいくつか見つけてカゴに入れていて、なんだかこの日は面白そうな本が集中して見つかる古本の特異点みたいな日のような予感がしていただけに、このピピピ!には何かありそうだ、とわくわくしてきました。

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『─運命の謎解く─ 宇宙と人生』、『─精神力、神通力─ 霊術秘書』、『─神の国の奥義─ 魂の本性』
伊東一著 昭和37年(1962年)不二学会発行
怪し気なオーラがたまらないです。


アンテナが合図してきたのは、黒に近い紺色の背表紙が数冊ならんでいる本棚の一角でした。濃紺の背表紙には『─運命の謎解く─ 宇宙と人生』、『─精神力、神通力─ 霊術秘書』、『─神の国の奥義─ 魂の本性』という、なにやら怪し気なオーラを放つ一連の本で、それらの著者は伊東一という聞いた事の無い著者のものでした。後にネットで調べても、いくつかの著書が国会図書館に所蔵されている記録があるだけで、詳細が全く不明の謎の著者です。ざっとページをめくってみると内容的には精神世界の研究者らしい人物で、オカルトから宗教まで幅広く精神世界にかかわりながら人間の究極の幸福とはいかなるものなのかを探求した昭和のスピリチュアリストという感じです。書名的には『宇宙と人生』に惹かれたので、もし1冊だけ手に入れるならコレかな、とカゴに入れるも、『霊術秘書』の、どことなくネクロノミコン的な怪し気な響きも捨てがたく、ええい!これもコレクションとして押さえておこう!とついついそちらもカゴに。残るは『魂の本性』という本ですが・・・いくらなんでも全く正体不明の著者の本を3冊も購入するのはいかがなものか!と理性がささやきます。

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『霊術秘書』のトビラと目次。いかにも奇書っぽい感じがそそりますね〜

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著者の伊東一氏の近影。なんとなく昭和の校長先生風というか、宮武外骨っぽい剛胆な雰囲気ですね。一体何ものなのでしょう。気になります。

まぁ、精神世界の本に限らず、だいたいひとりの著者の思想は他の著書でも変わらないものなので、2冊もあれば十分な気がしてたのですが、それでも何かひっかかって、『魂の本性』を手にとり、ページをなにげなくめくっていたら、なんとここ最近ハマっている聖者ヨガナンダの名前が!!ヨガナンダに関する記述は、著者の伊東一本人のものではなく、昭和のヨギーとして知る人ぞ知る関口野薔薇が雑誌『心霊文化』(昭和35年1月3日発行)に寄稿した文章の引用でした。

この本の発行は昭和37年、つまり1962年で、ヨガナンダの主著『あるヨギの自叙伝』のはじめての日本語訳が『ヨガ行者の一生 聖者ヨガナンダの自叙伝』という題名で関書院から出版されるのが昭和34年(1959年)です。まだヨガ自体もマイナーだった時代に、ヨガナンダの自叙伝が発売されて間もない当時の日本で、ヨガナンダの本はどのように受け止められ、またどう当時の日本に影響を与えていたのかを知る興味深い記事です。ヨガナンダがマイブームの自分にとっては、小気味いいシンクロニシティです。この古本市に来たのもむしろこの本をゲットするための伏線だったような気がしてきます。

後で調べてみると、関口野薔薇(1888〜1967年)は、米国カリフォルニアに在住して実際にパラマハンサ・ヨガナンダに師事しヨガを学んだことのある神秘思想家のようです。生前のヨガナンダを身近に知る日本人が書いたヨガナンダに関する記事ということですから、これはなかなか貴重な記事なのではないでしょうか。以下、伊東一著『魂の本性』より該当の関口野薔薇の文章を抜き出してご紹介します。

「聖者ヨガナンダの自叙伝」を称揚す
関口野薔薇

 筆者の恩師ヨガナンダ先生の自叙伝(英文)が米国で出版されたのは1946年の事であった。その後の十年間に、この書はフランス、オランダ、スウェーデン、ドイツ、ベンガリ、アラビア、イタリア、ギリシャ、スペイン、ヒンディの十カ国語に翻訳されて、欧州各国はもちろん、東洋諸国、オーストラリア及び南米の人々にも愛読されるようになったが、いずれの国でもこの書はベストセラーとして売れ行きつつあるのである。
 その後ポルトガル語の訳本が出来、次いでアイスランド語のものが出版され、1959年(昭和34年)になってはじめて、日本語訳が京都の関書院から発売されるようになった。米国版を第一として数えると、日本版は第14番目にあたる。世界の宗教思想を己が国に取り入れる事において、日本はいささか遅れをとった形だが、これも近き将来には必ずベストセラーのひとつとして数えられるに至るであろう。そのわけを筆者が説明する必要はない。日本にも心の目の明いた人々が多くいる事だから、それらの人たちがこの書の尊さを民衆に紹介してくださるであろう。
 禅仏教を奉ずる日本の人たちは、ヨガをユウガと発音して呼んでいる。しかしこれはヨガ(Yoga)と呼ぶ方が正しいので、その意味は「神と人を結ぶ道」、または「聖(きよ)き彼岸に至る道」ということである。そしてこの聖き道を日々歩みつつある人、彼岸を指して人生の渡舟場(わたしば)を渡り行きつつある人々を、インドではヨギ(yogi)と呼ぶのである。

 どうした間違いか知らぬが、日本の識者の中にもヨガとは「角兵衛獅子(かくべえじし=新潟発祥の郷土芸能、大道芸の一種)」の真似をしたり、または「カルワザ師」のような芸当をする事だと心得ている者があるらしい。「ヨガナンダの自叙伝」(=「あるヨギの自叙伝」)の日本語訳が各地の書店に現われると間もなく、ある日本の有識者が米国のヨガ教団の本部に手紙を出し、「ヨガナンダの自叙伝はヨガ行法の初伝と思われるが、我々は初伝でなく、奥伝としての行法を勉強したいのである」と書送っている。彼らは「角兵衛獅子」のような絵の入った書物を「ヨガの奥伝」だと思っているらしい。
 また「この書には、クリヤ・ヨガの必要性を論じながら、実際上の行法を教えていない。その行法を一日も早く教えて欲しい」という意味の手紙を、本部に送った者もある。
 あるいは「ダヤ先生のそばで直接勉強をしたいと思うが米国に行く機会がないので、何卒今後よろしく手紙をもってご交際をお願い申し上げます」と教団総理のダヤ女史に宛てて手紙を出した青年もある。
 かつて映画スターの京マチ子さんが米国を訪れたとき、ロスアンゼルス在住、日本人の野遊会に彼女を招待したことがあった。すると日本人の大多数は彼女を取り囲み、我れ先にと争いながらマチ子さんの前に進み出で、所持せる手帳や扇子にその署名を懇請した。その数幾百人か数えきれぬほど多数なので、マチ子さんは困り果てて、ついにどこかに姿を隠してしまった。
 それとこれとは相似たことだが、一日に五分間もゆっくり休む暇のない大多忙のダヤ総理に向かって「書面をもってご交際を乞う」とは、非常識も甚だしいものである。人の立場も考えず、自分の身分も顧みないでこれは日本人の悪い癖だが……目上の人に署名を求めたり、「手紙をくれ」と呼びかける事は失礼千万な行為である。もちろん、ダヤ先生は常にニッコリ微笑していて、決してお怒りになるような人ではないけれども……。

 さて、筆者の過去70年の生活において、筆者は何万巻の書物を読んだか、その数を数える事はできない。最近は一年に少なくとも4、5百冊ずつの本を読んでいる。そしてこの読書の結論として筆者のいいたいことは、この「聖者ヨガナンダの自叙伝」こそが、筆者の読んだ書物の中で第一位の優良書であるということである。
 キリスト教信者が同教の聖書を、そして仏教徒が仏教の経典を(例えば大無量寿経とか、法華経の如来寿量品とかいう経巻を)いくら読んでも飽きないように、万教一体を信ずる筆者は、このヨガナンダ先生の書かれた自叙伝を、いくら読んでも飽く事なく、この書の中から日々夜々に「心の糧」を頂戴しているのである。
 そのゆえにこそ、今日の分派宗教に満足せずして、真理を万教の中に求めようとしている求道者に対し筆者はこの「ヨガナンダの自叙伝」を三読・七誦せられるようにお勧めしてやまないのである。
「この書はヨガの初伝だ」などと呼ぶのは何というタワゴトであろう。この書は二度や三度読んだだけで判るような単純な本ではない。かつお節やスルメではないけれども、噛めば噛むほど味の出てくる。思想上の妙書なのである。繰り返して読めば、その読むたびに、書物の中から新しい真理を教えられるのである。

 最後にもう一言付け加えておきたいことは、ある人々が「クリヤ・ヨガの行法を教えて欲しい」とか言って、教団の本部に手紙を出している事についてである。そうした不謹慎は止めて欲しいものである。筆者がその著書「原始基督教学」の中にハッキリ書いてある通り、およそ世界的大宗教には顕密の両側面があり、その密教に属する部分は万人に公開すべきものではなく、特殊の選ばれたる人にのみ授くべき秘密の法なのである。
 筆者の知れる日系第二世に、ハリウッドの教会でクリヤ・ヨガの瞑想法を習得したが、後にこれを我欲のために乱用したため、ついに悪霊の憑依を受けて、半狂人と化した人がある。なんでも自分の心が潔くならぬ間は、決してクリヤの伝授などを懇請すべきではない。
 まず自らの心の態度を改めよ。心の態度が整ったなら、神は必ずその人にクリヤ・ヨガの行法を授けたまうであろう。
 中里介山の小説に見る机龍之介(=小説『大菩薩峠』に登場する残忍で無鉄砲な剣士)に、正宗の名刀を与えたらどうなるであろうか。吉川英治の宮本武蔵でさえも、正宗の名刀を腰に帯びる資格はない人間である。「絶対に人を切らぬ」と心の誓いが出来た人にのみ、天下の名刀を持たすべきである。
 クリヤ・ヨガを修得すれば、他人の活殺が自由自在にできる。人を助ける事はするが、人を殺すことはせぬと心に誓いを立てた人にのみ、聖師はクリヤの行法を授けるのである。

 インドのことわざに、「弟子のあるところ、必ずそこに師が現われる」とある。「師のあるところ、そこに弟子達が集まる」と、インドでは言わないのである。
 大師は常にいますのである。大師は時間と空間を越えて永遠に、また普遍的に生きていたまうのである。まず自らの心を清めて、聖なる法(のり)の実践者となるべくまた真実なる弟子となるべく我が魂の目的とその置き場とを確立せよ。必ず読者の師が(誰かが)諸君の面前に姿を示して、クリヤ・ヨガの行法を授ずくる日がくるであろう。
 ある日本人は自分の修行のために真理を求むるのでなく、他人の師匠となり、自ら知らざる癖に人に教えようとして真理を求めている。こうした安価な教師が(または教師志願者が)日本に多いことは、これ日本宗教界の癌とでもいうべきであろう。
 インドのことわざに「牛の尾となるはよし。されど狐の頭となるなかれ」という言葉があるが、ヨガの行者は狐の頭となることを自禁せねばならない。

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伊東一著『神の国の奥義 魂の本性』 不二学会 1962年(昭和37年) p86〜90より引用


たしかに私も『あるヨギの自叙伝』を読みながら「ところでクリヤ・ヨガってどんなヨガなの!?」という疑問はありましたが、『あるヨギ〜』の中で述べられているのは、クリヤ・ヨガは不死のヨギー、ババジ直伝のヨガの奥義で、数あるヨガの修行の中ではダントツに強力に悟りに導く秘法ということですが、そのかわり伝授するには伝授される側の準備が整っていないと効果が無いとも書かれています。関口野薔薇も書いているように、普通にヨガや瞑想などで精神鍛錬して一定のレベルに到達し、自らに受け入れる準備が整えば、おのずとクリヤ・ヨガが伝授されるチャンスが巡ってくるのでしょうし、あれこれと詮索する部分ではないのでしょうね。

気がついたら、当の著者である伊東一についてほとんど触れずじまいの記事になってしまいましたが、読んでいくうちに、なにか面白い発見があれば、いずれ項を改めてご紹介したいと思います。

この本に限らず、昭和初期〜中期あたりの時期に書かれた精神世界の本は、まだジャンルとして超マイナーだっただけに、聞いたことも無い著者の妖し気なインパクトのある面白そうな本がまだまだけっこう埋もれていそうです。実は、そういった系の本も何冊か集まってきたので、いずれ機会があればご紹介しようと思います。
posted by 八竹釣月 at 10:38| Comment(0) | 精神世界

2017年08月29日

『あるヨギの自叙伝』を読んで

ようやく念願のパラマハンサ・ヨガナンダ(1893-1952年)の主著『あるヨギの自叙伝』を手に入れて読みました!ちょうど今の自分の波長に合ったタイミングで読んでいるせいなのか、これは想像以上に面白いです!今回はこの『あるヨギの自叙伝』を読みながら思ったことや感想などを書いていこうと思います。インドの有名な聖者は自分で本を書く人は少ないようで、多くの場合、弟子達が教えをまとめた本でその人物像を想像するしかないのですが、『あるヨギの自叙伝』は聖者ヨガナンダ自身が執筆した著書であることもあり、聖者とはどんな事を思い、どんな人生を歩んでいる人なのか?という素朴な興味にひとつの応えを返してくれます。

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パラマハンサ・ヨガナンダ著『あるヨギの自叙伝』 森北出版 1983年
1946年にアメリカで出版された英語版の『Autobiography of a Yogi』の日本語訳。デザインは異なるものの、表紙に使われている眼力鋭い肖像写真は同じものが使われています。本を手に取る読者の心の内まで鋭く見透かすような神秘的な眼光が印象的ですね。


この本の序盤では、ヨガナンダはかなり小さい頃から神を知りたいという強い欲求を持って精神世界を探求していった人であることが分かります。映画スターでもなく、コミックのヒーローでもなく、いきなりこの宇宙で最強のヒーローである神≠ノ、子供の頃から最大の関心を寄せるというのは、やはり子供時代からしてタダ者ではないですね。インドはシバ神やガネーシャ神など神様のポスターやカード、または像などが日本でいえばアニメやアイドル写真のように普通に日常に溶け込んでいるようなところもあり、世界で最も神様が身近な国というイメージもありますから、もしかするとヨガナンダ少年のような子はそれほど珍しくはないのかもしれませんが、宗教や文化などのフィルターを通したある種架空の存在や何かの方便としての神ではなく、もっとリアルに実在する神を直球で求めようとする所は希有なものを感じます。かといって、いわゆる神童のようなエリート的な雰囲気の子供というのでもなく、神への探究心以外は、自分の意見を通そうと親にゴネたり学校の勉強も嫌いな、ふつうの子供っぽい感じで親しみがわきます。

第11章で、神への信仰心だけで豪華な無銭旅行に成功する少年時代の興味深い不思議な話が紹介されてます。あまりに俗世に執着が無く、神ばかりを求めているヨガナンダ少年に、現実的な兄はいつもお説教していたそうです。「何といっても先立つものは金なんだ。神様はそれからでも間に合う。長い人生には何が起こるかわからないんだぞ」といつものように粛々と説教してくる兄に、ヨガナンダ少年は躊躇無く「いいえ、何よりもまず神です。お金なんか神の奴隷にしかすぎません」と切り返します。あいかわらずの弟の返答に、業を煮やした兄はヨガナンダ少年にひとつの賭けを持ちかけます。その内容は、現在地であるインドのアーグラからブリンダバンの町まで、一銭も使わずに行って帰ってこいという課題です。お金より神が人生の最重要事なら旅費も食事も神がなんとかしてくれるはずではないか?という兄の提案です。しかも条件は厳しく、食べ物やお金を他人にねだるのも、自分たちの事情を誰かに訴えるのも禁止。しかし食事はちゃんと取らないといけない。これらの条件を守って今夜十二時までにこの家に戻ってくる事≠ニいうものです。このミッションでは、友人のジテンドラという少年がヨガナンダに付き添って旅をすることになります。ジテンドラはどちらかといえば兄のように懐疑主義的な人間で、いわば監視役ですから、旅するうえでのズルやゴマカシもききません。これはヨガナンダ兄からの本気モードの挑戦です。ヨガナンダ少年はうろたえることなくこの難易度の高いチャレンジを受け入れます。

アーグラからブリンダバンといってもピンと来ないと思うので、調べてみると、およそ70kmほど離れていて、電車で2時間少々かかる距離のようです。日本でいうと東京から伊豆くらいの距離です。結論から言うとこの兄の賭けに見事勝利する話なのですが、行く先々で起こる数々の奇跡の連続が見所です。神は奇跡を通じてその存在を人間に知らせることがよくありますが、このエピソードも、そうした具体例のひとつとして興味深いものを感じます。奇跡というと、ついつい私たちは、超常的なレアな偶発的なもののように考えがちですが、精神世界の視点から見ると、奇跡というのは、疑念とか不安などの何のノイズも入らない状態で物事が完璧にスムーズに展開する事≠フように思います。気候の変化と無関係な地下深くの完璧な状況下では、二酸化ケイ素が結晶化すると見事に六角柱状の幾何学的な形状をした水晶に育ちます。それと同じように、人間界の出来事も、悪意や不信などのノイズを限りなくゼロにした理想的な状況下では、そこで起こる出来事も完璧に理想的な展開、つまり奇跡が起こりやすくなるのだと思います。ヨガや禅など、多くの精神修行が目的とする事のひとつは、健康や精神衛生のほかに、そうした人間の肉体や心の内部のノイズをゼロに近づけることで意図的に奇跡を起こせるようになることでもあります。

そんなこんなで無事にミッションをクリアし、アーグラに帰ってきたヨガナンダ一行ですが、彼らを見て兄は仰天します。一銭も持たずに出て行ったヨガナンダが札束を抱えて帰ってきたからです。追いはぎでもしたのでは!?と不安をあらわにする兄に、不思議な奇跡が次々に起きた旅の顛末を説明すると、兄はやっと納得し、またそれまでの考えを180度改めて「私はお前が俗世の富や宝に無関心でいる理由が今やっとわかった!」と神の実在を受け入れ、友人のジテンドラと共にこの日、即座に弟ヨガナンダの弟子になったそうです。

神≠ニいうと、宗教くさい印象を受け取りやすいですが、具体的には究極の真実、または宇宙的な全てを含有する大きな超越的な法則、あるいはそれ以上の定義しがたい存在でありますから、逆に神≠ニいう言葉を使ったほうが手っ取り早いのも確かです。極論すれば、科学もまた宗教とは別のアプローチで神(≒究極の真実)を知ろうとする試みであるといえるかもしれませんね。

メモ参考サイト
インド、アーグラからブリンダバンまでの地図(Google Map)

と、まぁ、上記のような自伝的なエピソードも面白いものが多いのですが、この本の他には無いユニークな価値は、とにかく不思議な能力を持った聖者がたくさん紹介されているところです。単に「そういう聖者がいるらしい」という伝聞ではなく、紹介されている人間離れした聖者たちのほとんどに直接合って教えを受けたりしているところが生々しくて凄いです。そもそも、ヨガナンダの師匠であるグルのスリ・ユクテスワ師からして超人的にスゴイ聖者なのですが、さらにユクテスワ師の先生であるラヒリ・マハサヤ、さらにその師匠である不死のヨギー、ババジと、直系の師匠たちからして想像を超えた超人揃いで、ひさびさに読書の快楽に浸れました。読みながらこの世の秘められた広大な可能性にワクワクしてきます。ヨガナンダの紹介する聖者たちの話は、どれも日常の一般的な常識を逸脱したエピソードのオンパレードなのですが、ヨガナンダ自身不思議な生涯を送った聖者なので、それらのエピソードを確信をもって語っており、深遠な説得力があって引き込まれます。前回のヨガナンダの記事で、ビートルズのレコードジャケットにヨガナンダが登場していることに触れましたが、他にも『あるヨギの自叙伝』に登場するヨガナンダの師匠ユクテスワ師や、ラヒリ・マハサヤ師、そしてババジ師も写っていて、ビートルズ、とくにジョージ・ハリスンのヨガナンダへの傾倒は並々ならぬものを感じます。

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1967年に英国で発売されたビートルズのアルバム『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』(Sgt. Pepper's Lonely Hearts Club Band)のジャケットアートに登場するヨガナンダとその師匠たち。スリ・ユクテスワ(Sri Yukteswar 1855-1936)はヨガナンダの師匠、ラヒリ・マハサヤ(Lahiri Mahasaya 1828-1895)はユクテスワの師匠、ババジ(Babaji)はラヒリ・マハサヤの師匠です。師弟の順にババジ→ラヒリ・マハサヤ→スリ・ユクテスワ→パラマハンサ・ヨガナンダ、となります。

不思議な事は、非日常なイメージがあるので、体験しない限りは信じられないと思っていた時期も私にありましたが、日常が「不思議に乏しい世界」である原因は、そもそも人間社会が日常から不思議を排除することで「この世界は(常識の枠内に収まるような)秩序だった世界なのだ」という幻想を作り上げたせいでもあります。そうしたほうが、様々な人間の集う共同体を維持するために都合がいいからそうしているだけで、そうしたあらかじめ社会から与えられた常識的思考の枠組み≠ちょっと外してみるだけで、一挙にこの世界は謎と不思議に満ちたスリリングな世界に豹変します。

この本に登場する不思議な聖者達のエピソードは、精神世界に馴染みが薄いと、にわかに信じがたいものが多いかと思いますし、精神世界に馴染みがある人でも、超常現象的な派手なものは求道の本質から外れるものとして嫌う人もいます。ですがそうした超人的な部分は一般には一番興味深い部分でもありますし、また、インパクトが強いからこそそれが求道のきっかけになったりする場合もあります。また人間の可能性の限界まで到達したヨギーとはどういう存在なのかを示すひとつの側面であるのも確かですから、そうした話を包み隠さず書き残した『あるヨギの自叙伝』は貴重な資料ともいえるような気がします。

私たちは飛行機などの交通機関の発達や、インターネットなどで、なんとなく世界の全てを知ったような気分に陥りがちですが、実際問題、遠い異国どころか、つい隣町の路地裏など、行ったことも見た事もない未踏の場所は身近にも無数にあります。ストリートビューから外れた地域はネットだけで確かめる事も不可能です。宇宙の謎どころか、地球上の謎すら未解明の事のほうが多いです。という感じで、この世界は自分の認識や常識を超えた部分のほうが圧倒的に多いのが現実です。人間は、人間に具わった肉体的な感覚器官(目、耳、鼻、口など)を通じ、その刺激を解釈する事で、この世界に一定のイメージを割り当てて解釈していますが、当然、本当のリアリティというのは、部分的に伝わってくる肉体的な刺激だけで把握する事は不可能ですから、ブッダなど、多くの賢人が言うように、人間が常識的に考えているこの世界の解釈は根本から何かを勘違いしている可能性があります。

もしも、人間の視覚が捉える波長の範囲(可視光線)が紫外線、または赤外線領域に大きくズレていたとしたら、まったく違った世界を見ることになりますし、波長の違いを「色」として捉えている脳が、そうした世界をどんな「色」で認識するのかは、全くの謎です。瞑想というのは、そうした肉体的な感覚器官に頼らずにリアリティを捉えようとする試みのひとつで、自分を宇宙そのものが持つ感覚器官のひとつとして機能させることで、宇宙に溶け込み、知性ではなく、感覚的に宇宙的リアリティを体感するものともいえるでしょう。ヨガナンダは、他の著書『人間の永遠の探求』でも、瞑想を「神を知るための最も有効な手段」であると明言しています。まぁ、そうした超越的な価値だけを目的にせずとも、瞑想は普通に精神衛生にも良いですし、頭もスッキリして気持ちいいので、習慣にして損することはないと思います。

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パラマハンサ・ヨガナンダ著『人間の永遠の探求』 森北出版 1998年
こちらはヨガナンダの講演集です。『あるヨギ〜』は、自伝中心なのでインパクトの強い聖者達のエピソードに圧されてヨガナンダ自身の思想は控えぎみに書かれている感じですが、こちらの講演集は、『あるヨギ〜』では語りつくせなかったヨガナンダの教えに関する話が中心になっています。瞑想の話など、実践的な内容が多く、こちらの本もなかなかに興味深く、面白いです。


『あるヨギの自叙伝』は、序盤は少年期の神を探求するヨギーへの憧れから生涯の師匠になるユクテスワ師の元での修行にはじまり、中盤では、自己の内面の霊的なレベルが上がるにつれて知り合う聖者の超人具合もエスカレートしていき、何もない空間からモノを物質化させるヨギーや、半世紀も不食で生きるお婆さんや、死者を蘇らせたり、同時に2カ所以上に偏在できる聖者など、次から次に超人的な聖者が紹介されていきます。しかも、その多くには具体的な名前と場所、また聖者の肖像写真も掲載していて、すこぶる具体的に記述されていて臨場感があります。後半ではさらに凄い展開で、自らの意志で肉体の死を迎えた師匠のユクテスワ師が蘇り、高次元の幽界での活躍を弟子のヨガナンダに語るエピソードが圧巻です。常識では信じがたい話ばかり出てきますが、この世界は私の知るちっぽけな常識程度なら楽々飛び越えるくらいには広大なものであるのは確実だと思っていますし、何より、面白くて役に立つものなら、ある意味ちまちました常識よりも価値のあるものだと思うので、私としてはヨガナンダの話を全面的に思いっきり信じようと思ってます。おそらく、もし1年ほど早くこの本に出会っていたら、私は信じなかった気がするので、ちょうど受け入れ態勢が整った時期に良いタイミングで読めて良かったです。

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(左)ラデシャム著『ババジ伝』 森北出版 1995年
『あるヨギ〜』で紹介される聖者の中でもとびきり超人的な聖者がマハーアヴァター(偉大なる神の化身)と異名をとるババジです。この本は、3世紀初頭にこの世に現われ、以来千数百年も肉体を持ったままこの現世に留まりつつ人類を導くと伝承されている謎めいた聖者ババジに関する本です。なんとも不思議な聖者ですが、けっこう写真もバンバン撮られているようで、ネットでも「Babaji」で検索すれば気さくに笑う若々しいババジの姿がたくさん見れます。まだ手に入れたばかりの本なので未読ですが、読むのが楽しみです。
(右)スワミ・スリ・ユクテスワ著『聖なる科学』 森北出版 1983年
ヨガナンダの師匠であるスリ・ユクテスワによる著書。聖書とヒンドゥー教の根本的一致を解明する本を書きなさい、というババジからの指示で書かれたとされる本で、100ページ未満の短い内容ながら、無駄な描写をいっさい省いた凝縮された内容です。精神世界からの視点で書かれた宇宙論が序盤で語られ、真理に基づいた生き方などの実践的なノウハウなどを中心に、肉食に否定的なユクテスワ自身の思想なども盛り込まれ、奥が深いながらも興味深く読ませる内容になっています。
posted by 八竹釣月 at 04:32| Comment(0) | 精神世界

2017年08月02日

日本雛形理論と地図のロマン

◆日本雛形理論

地図帳を眺めていて、「オーストラリアと四国ってにてるなぁ」とか「ニュージーランドって日本列島に似てるなぁ」と思った人は多いと思います。こうした考えは昔の人にもあったようで、明治時代あたりに、そうした地形の類似を考察したユニークな『日本雛形理論』というオカルティックな仮説が登場しました。『日本雛形理論』とは、日本列島の形は世界の全ての陸地の縮図になっているという思想で、実際にけっこう類似点は多く、偶然だとか思い込みとかで退けるのはもったいないくらいにワクワクする面白い仮説です。霊界旅行で有名な日本のスウェデンボルグ、出口王仁三郎(でぐち おにさぶろう)が唱えたことで一躍有名になりましたが、それ以前から世界と日本の地形の類似を指摘した仮説は明治時代初期から存在していたようで、明治2年に発行された作者不詳の奇書『神典図説(しんてんずせつ)』にも、日本と世界の対応図が描かれていたようです。世界の陸地の全容がある程度はっきりしてくるのが16世紀頃ですから、もっと前の時期にこのような発見をする人がいてもおかしくない気がしますが、日本は長い間鎖国してたので、黒船によって世界と対峙せざるをえなくなってきてからやっと日本以外の世界の有り様というものに関心が向いたというのもあるかもしれませんね。

日出(ひ いづ)る国の日の本(ひのもと)は、全く世界の雛形ぞ。神倭磐余(かむやまといわれ)の君(きみ)※が大和(やまと)なる、火々真(ほほま)の岡に登り坐(まし)、蜻蛉(あきつ)の臀嘗(となめ)せる国と、詔(のら)せ給ふも理(ことわり)や。我(わが)九州は阿弗利加(アフリカ)に、北海道は北米に。台湾島は南米に、四国の嶋は豪州(オーストラリア)に、我(わが)本州は広くして、欧亜大陸其儘(そのまま)の、地形を止(や)むるも千早振(ちはやふる)、神代(かみよ)の古き昔より、深き神誓(ちか)いの在(いま)すなり。

※神倭磐余の君=神武天皇

『いろは神歌』出口王仁三郎 大正7年(1918年)


この『いろは神歌』にも歌われているように、王仁三郎の日本雛形理論では台湾を南米大陸と照応させています。台湾は明治28年(1895年)から昭和20年(1945年)までの間は日本が統治してましたから、そうした時代的な背景もあって、ちょうどうまくこの理論が成立している感じですね。各パーツの照応にはいくつかバリエーションがあって、南米を北海道に当ててたり、また別の説では淡路島を南米に当てているケースもあるようですが、やはり王仁三郎の雛形説が一番しっくりハマっている印象があります。

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これは通常の世界地図です。この地球上の主な陸地に、雛形理論が成立した時代に日本の一部だった台湾を含めて当てはめてみると以下のようになります。

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この説をはじめて知ったときはけっこう似てるのに驚きました。四国とオーストラリアの類似はかなりのそっくりさんですね。本州も複雑な地形ながら、意外に一致点は多く、アラビア半島と紀伊半島、インドは静岡あたり、インドシナ半島は伊豆半島に対応しているのがわかります。九州や台湾が共に南の暖かい地域に割り当てられている所や、北米と北海道も形状だけでなく、共に新しい開拓地という歴史的な意味合いまでも通底したものがあって意味深なものを感じます。

四国とオーストラリア、九州とアフリカはとくに似てますよね。ユーラシア大陸と照応しているのは本州で、その最大の湖である琵琶湖の位置がカスピ海の位置に近くにあります。ほかに、富士山とエベレスト山、伊勢神宮とメッカ、世界最多人口を抱える中華人民共和国は日本最大の人口を抱える都市、東京の位置と重なります。形の一致だけでなく、宗教的な聖地や、人口などまで一致点があり、なかなか神秘なロマンを感じさせます。コジツケと呼ぶには出来すぎているようにも感じますし、理性では根拠のない珍説だと否定しますが、本能的にそれだけではない何かを感じます。オカルト界隈で有名な説といううさん臭さが邪魔して真剣な議論にならない珍説ということになってますが、コジツケというには同じようなノリでコジツケ出来る国は他にあまり見当たらないですし、個人的には何か見えない世界からの霊妙な意志を感じます。出口王仁三郎はまた「日本で起こる事件は世界でも起こる。(逆もあり)」という国家規模の趨勢も対応していると説いたことも知られていますね。

突っ込みどころを探せば「完全に一致してるわけじゃない」「似てない部分は無視している」などいくらでもでてきますが、人間の親子でさえ双子のように似てるわけじゃないですから、このレベルで似てるなら十分に何かの意味=Aつまり超越的な次元での寓意を感じてしまいますね。このような日本を特別視したモノの見方をするのは、そのつもりがなくても自民族の優越性を自慢してるような居心地の悪さを感じる面もありますが、また一方で「自分や自分の属している国が特別であってはおかしい」という無意識的な考えも根拠のない固定観念にすぎません。

日本人に限らない話ではありますが、日本人はとくに、ポジティブな情報よりもネガティブな情報を信じるようなところがあり、都合のいい話より都合の悪い話のほうが信憑性があると考えがちなところがあるように思います。しかし、都合の悪いことも都合のいいこともどちらも存在してるのがこの世界ですから、都合がいい話なら普通にラッキーということで楽しめばいいいのかな、とも思います。

マジックショーを見ても、その不思議さを純粋に楽しむより、まずは種明かしにこだわるような国民性なので、何度もマジックブームがおこってもいつも短命で終わってなかなか定着しないのは、種明かしにこだわりすぎるなど、マジックの楽しみ方がよくわかっていないからかもしれません。このような国民性は、16世紀に日本に初めてキリスト教を伝えたことで知られるフランシスコ・ザビエルの書簡でも指摘されていて面白いです。

日本人はどの国民より何ごとでも道理に従おうとします。日本人はいつも相手の話に聞き耳を立て、しつこいほど質問するので、私たちと論じ合うときも、仲間同士で語り合うときも、話は全く切りがありません。(p89)

『ザビエルの見た日本』ピーター・ミルワード著 松本たま訳 講談社学術文庫 1998年


ザビエルは宣教師ですから、当然神についての質問も日本人からたくさんうけます。神が完全に善なる存在ならなぜこの世に悪があるのか?とか、なぜ悪魔を創ったのか?いくら生前に罪をおかしたとはいえ、なぜ地獄というものまで作って永遠に魂を責め続けるのか?慈悲の心がない神なのか?などと、懐疑主義的に直球で問題の核心を突いてくる日本人に、「悪魔ももとは善いものとして創造されたが、その過失のために悪者になり、そのために永遠の罰と責め苦にさらされているのだ」などと教条主義的な苦しい受け答えに終始しています。

日本人は、この万物の創造主である神は善いものか悪いものか、また、それは善悪双方の根源であるかないかについていろいろ質問しました。私たちは、創造主である神は一人おられるだけで、それは至高の善であり、悪はみじんも混じっていないと答えました。
日本人はこの答えに満足しませんでした。悪魔は生来悪者で、人類の敵だと彼らは考えていて、もし神が善だとすれば、それほど悪いものを創造するはずはないと言いました。この主張に対して私たちは、悪魔ももとは善いものとして創造されたが、その過失のために悪者になり、そのために永遠の罰と責め苦にさらされているのだと答えました。これに対して日本人は、人間をそれほど厳しく罰する神はあわれみ深い者ではないと反論しました───では神が、私たちが教えたような方法で人類を創造したとしたら、神はいったいどういうわけで神を礼拝するために人間を世界に送り出しておきながら人間が悪魔に誘われたり苦しめられたりするのを許したのか。神が善なら、神はどうして人間をこれほど弱くて、罪に傾きやすくて、すべての悪を逃れることができない者にしたのか。そしてまた、神がこれほど恐ろしい責め苦を永遠に耐え忍ばなければならない者に対して何のあわれみも持たずに地獄という牢獄を創造したとすれば、それでも神は善だと言えるか。(p87〜88)

『ザビエルの見た日本』ピーター・ミルワード著 松本たま訳 講談社学術文庫 1998年


当時の日本人はキリスト教的な宗教観は全くの未知のものであったはずですが、かなり的確な指摘をしていますね。日本は仏教というロジカルな宗教を先に受け入れていたせいか、神学的な内容にも論理的に反駁していて、このあたりのやりとりは小気味いいです。この時代のキリスト教者の神観はかなり教条主義的で融通がきかないところがあるのがザビエルの書簡集を読んでいても感じますね。まぁ、ザビエルの所属するイエズス会という組織自体が、「教皇の精鋭部隊」とも呼ばれ、世界中への伝道活動を積極的に行うアクティブな団体でしたから、一般のクリスチャンの考えよりもそうとうに原理主義的な傾向があったのかもしれません。こうしたある意味屁理屈で矛盾を解釈する部分にはヨーロッパ人でさえ不信感をもっていましたし、異文化圏の日本ではなおさらだったのでしょう。

ザビエルは日本人を、合理主義者で知識欲が旺盛、好奇心に満ち、どの国民よりも盗みを嫌う民族であると絶賛していますが、布教の内容は正直いただけない印象があります。キリスト教自体を知らない当時の日本人の先祖は、当然生前に洗礼をしていないわけですが、そうしたご先祖様はザビエル的には皆地獄で永遠の責め苦に苛まれていると断じています。そして、その地獄にいる先祖を救う方法も皆無であるとしてるので、そうとう当時の日本人は困惑したみたいです。ザビエルの論法だと、そもそもイエス・キリストの生まれる前の世界では、すべての人類は死んだら地獄のみへの一方通行でひとりも天国には行けないということになります。こうした昔のキリスト教の情緒的な善悪二元論的な解釈は整合性を著しく欠くもので、ニーチェは厳しく批判していましたし、ヘルマン・ヘッセやユングもキリスト教的な抑圧にあるヨーロッパの解放を東洋思想に求めました。近年は、ジョセフ・マーフィーをはじめとするニューソート思想で再解釈されたキリスト教や、パラマハンサ・ヨガナンダなどヒンドゥー教の聖者によるキリスト教の解釈などの影響で、昔の教条主義的な解釈をされたキリスト教だけがキリスト教の本質ではないことが認知され、新たな価値を持ってきたように思います。

話が横道にそれましたが、『日本雛形理論』に話を戻しますと、こうした仮説はなにかとイデオロギー的に解釈されることが多く、実際にそういう面もなきにしもあらずですが、ふつうにこのユニークな偶然の一致は面白いと思いました。なんというか、見えない世界からの精妙な影響力のようなものの一端を垣間みているような感じで好奇心をくすぐる説です。

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今度は逆に世界の陸地を使って日本列島っぽく組み合わせてみました。

「日本雛形理論」で検索すると、全国各地と世界各国との詳細な対応を解説したサイトなどもヒットしますので、興味のある方は調べてみると面白いです。

メモ参考サイト
日本雛形理論(ニコニコ大百科)



◆世界のミニチュアとしての地図

『日本雛形理論』の面白さは、日本という国自体が縮小された世界、つまり世界地図の役割をしているという入れ子構造にあると思います。日本の国土そのものが地球の地図になっているというところがこの仮説の魅力ですね。そもそも地図自体がロマンあふれる魅力的なものですから、世界を新聞紙くらいの大きさに縮めて携帯できるようにしてしまった地図という存在は、その実用性を超えてコレクションの対象にもなっている事もうなづけるところです。

想像力の冒険王! テーブルの上のアメリカ大陸を一日二往復目 目で走破しても
息切れしない私は 魂の車輪の直径を
メートル法ではかりながら
「癌の谷」をいくつも越え捨ててきた

『ロング・グッドバイ』(抜粋) 寺山修司



大好きな詩、寺山修司の『ロング・グッドバイ』の序盤に出てくる描写ですが、「地図」という言葉を全く使わずに地図を拡げたテーブルを描いています。逆に、地図という言葉を省いたからこそ、サボテンと荒野が続く広大なアメリカ大陸をテーブルの上に幻出させる言葉の魔術が成功しているともいえますね。

学生時代など、なにげなく地図帳を開いて「エロマンガ島」とか「スケベニンゲン」の位置を確かめたりした方も多いと思います。そういうのもまた地図の愉しみのひとつですね。

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江戸時代初期に描かれた世界地図の屏風絵。北海道がまるまる消えているのがミステリアスです。

地図というもの自体が、現実の空間を二次元的に縮尺したミニチュア世界ですから、それ自体で胸のときめくロマンチシズムを感じるのは前述したとおりです。技術が未熟だった過去の時代につくられた不正確な古地図などは、正確な今の地図よりも、当時の時代の技術力や世界に対する好奇心や憧れまでもが封じ込められていて、格別の味わいがありますね。未踏の地は、誰も情報として存在が未確認であるために、事実上存在しない土地ということになっているのもミステリアスなムードがあります。江戸時代の古地図に、北海道がまるで存在しないかのように消えているものがいくつもありますが、こうしたものもなかなか不思議な感じがします。北海道の場合は、存在自体は昔から知られていましたが、19世紀初頭に日本の管轄下となった新しい地なので、それ以前の地図ではそうした政治的な理由で消えてるのでしょうね。イデオロギーによって無い事になっている土地というのも不思議な感じがします。

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「ヨーロッパの新しい平野と完全な地図 (New Plain and Exact Map of Europe)」 17世紀
ニコラス・ビッシャー(nicolaes visscher)による地図を元にした、ヨアン・ブラウ(Joan Blaeu)による英語版の地図。欧州の地図にも北海道が消えてるものが複数あります。


メモ参考サイト
江戸時代の世界地図(google画像検索結果)

初期の世界地図(ウィキペディア)

また、数年前の都市伝説ブームで話題になった杉沢村などの地図に載っていない村≠フ話も興味を惹かれますね。本来リアル世界と一対一対応しているはずの地図という案内板に無い場所というのは、異世界っぽい幻想をかきたててとてもミステリアスです。隣町の路地裏など、我々にとって足を踏み入れていない未知の場所は身近にも無数にありますから、地図というのは、目的地にたどり着くために必須の頼りになる案内役です。案内役ですから、嘘つきでは困りますので、地図はいつも正直で正確であることが求められます。こと近年では地図情報の更新は頻繁に行われるようになってきたので、いつしか地図に載っている情報は正しくて当たり前のように思い込んでいるフシが我々にはあります。そういう意味では、地図上の世界もまたリアル世界に影響を及ぼすもうひとつの世界でもあります。そこにあるはずの場所が載ってなかったり、無いはずの場所が載ってたりすると、とたんに平凡な日常に異次元の扉が開いてしまったような不可思議な違和感を感じるのだと思います。地図に無い街の話は杉沢村の都市伝説が流行るよりもずっと前にSF界の鬼才、P・K・ディックが短編小説で披露していたのを思い出します。以下に、その原作を幻想小説研究家だった時代の若き日の荒俣宏が短くリライトした逸品を引用します。


地図にない町
P・ディック原作

スペード「そんな駅ありませんよ!」

 その小男は、窓口へ五ドル札を差し出した。
「切符を一枚。メイコン・ハイツ行きのを。」
「メイコン・ハイツ?」
駅員は、驚いて路線図を調べた。
「お客さん、そんな駅はありませんよ。」
「ない? 冗談きついな。私はメイコン・ハイツに住んでいるんだぞ。」
「ないものはないんです。ほら、この路線図を見てください。ありもしない駅の切符なんか、おいてあるわけないでしょう?」
「そんなバカな! 私はもう半年もこのB電車を利用しているんだ。」
 小男は路線図をひきよせると、熱心にそれを調べだした。ふいに小男の姿がパッと消えた。路線図だけがパタンと床に落ちた。
 駅員は驚きで息が詰まりそうになった。
 数分後、駅員はまたあのことばを聞いた。
「切符を一枚。メイコン・ハイツ行きのを。」
 さっきの男だった。駅員は青くなった。が、今度は男を事務室のなかにひっぱりこんだ。
 すると、その男はむくれだした。
「切符を一枚買うのになんだって手間をとらせるんだ。なぜいつものように売ってくれない!?」
 助役のペインがとんできて、男に言った。
「あなたはホントに、いつもこのB電車を利用なさっているんですか?この路線には、メイコン・ハイツという駅はないんですがね。」
「イヤになるなあ。きみたちは自分の鉄道のこともよく知らないのか! この駅からちょうど49分のところがメイコン・ハイツだ。人口は5000ぐらいかな。私は二年ほど前から、その町に住んでいるんだ。」
おかしいな。その町は地図にもないし、市町村名簿にものっていませんよ。私たちは…。」
 ペインはことばをとぎらせた。目の前で、男の姿は吹き消すように消えてしまったのだ。

スペード四次元の停車場

電車は殺風景な平野を走っていた。ところどころ丘があり、ハイウェイにそって走る車が見え、電柱が次々に現れては消えていく。
 ペインはまた腕時計を見た。乗ってから41分すぎていた。彼はメイコン・ハイツというところがあるかどうか、確かめにきたのだ。
 太陽がちょうど地平線に沈んで、夕暮れが平野をつつみはじめた。
 あの男のいった49分にあと1分、50秒、40秒…。ペインは緊張し、息を殺した。
 そのとき彼は、平野の上に半透明の煙幕のようなものが横に長くたなびいているのを見た。
 なんだろう? かすみにしては変だ。
 急にブレーキの音がし、電車が停止した。
 ペインの向かい側にすわっていた背広の男が立ち上がってドアのほうへ行き、電車から地上へ飛び降りた。
 男は足早に野原を横切っていき、あの煙幕のようなもののほうへ歩いていった。
 男のからだが宙に浮いた。彼は地上から30センチほどのところを歩いていた。それがだんだん高くなり、地上1メートルの高さになった。やがてその姿は煙幕の中に消えてしまった。
 ペインはあわてておりようとしたが、もう電車はスピードをあげていた。
 彼は車掌室のほうへスッとんでいった。
「おい、今の停車はどういうわけだ?」
「え? あそこにはいつも止まりますが…!?」
「バカをいえ。あんなところに駅はない!」
「B電車はメイコン・ハイツにはいつも停車します。きょうも平常どおり、時刻表どおりです。」
 車掌が差し出した時刻表をペインは見た。
 ウソではなかった。メイコン・ハイツ駅は、確かにそれに出ていた。
 夕闇の中で、あの巨大な煙幕のようなものは、急速に形を整えていた。一つの町が生まれつつあるようにも見えた。

スペード「過去」がひっくり返った!

 翌朝、ペインは恋人のローラが住んでいるアパートにやってきた。
「どうだった? わかったかい?」
と、ペインはせきこんでたずねた。彼はローラに、メイコン・ハイツという名について、図書館で古い記録を調べてもらったのだ。
「わかったわ。七年前に、郊外に新しく三つの住宅地を開発する計画がたったの。ところが三つのうち決まったのは二つで、一つはとりやめになったのね。それがメイコン・ハイツよ。たった一票差で議会で認められなかったのよ。」
「そうだったのか───。」
 ペインは考えこんだ。メイコン・ハイツはあと一票で承認されるところだったのだ。つまりそのときの空間と時間の流れはきわめて不安定だった。その時期がすぎたあと、まだ完全にかたまっていなかった過去に変化が生じたのだ!

 ペインはまた電車に乗って、メイコン・ハイツへ急いだ。
 彼の予感はあたった。駅におりると、午後の日差しをあびてきらきら輝くメイコン・ハイツの町があった。24時間前にはただの荒れ地だったところに、商店街が、スーパーが、銀行が、そして住宅がたちならんでいた。
 ごくふつうの人々が、町を歩き、買い物をし、喫茶店やスナックで楽しそうに話していた。
 ペインは、女の子のひとりにきいてみた。
「どれくらいこの町に住んでいるの?」
「そうね、もう二年になるかしら。」
 青ざめた顔で彼は町をながめた。信じられなかった。だが、町はまちがいなく実在していた。
 ふいに、彼はすべてを理解した。
《過去が変化すると、現在もその影響を受け、変わってしまうことになる。そうだ、このメイコン・ハイツは広がっているのだ。丘の向こうへの、自分の町の中へもこの町の人たちははいりこんでいるのだ! 自分の町も今、変化しつつあるのだ!》
《すると、恋人のローラはまだそこにいるだろうか? 自分の生活に変化はないだろうか?》
 彼は恐怖にとらわれた。もう、メイコン・ハイツどころではなかった。彼はタクシーをつかまえ、自分の町へ向かってぶっとばした。
 町なみが矢のようにすぎていく。やがて自分の町へはいってきた。彼は町を見回した。
《大きなデパート。あれは前にはなかったぞ。あれ、ここにあった肉市場はどうしたんだ!?》
 すべてのものが変わりつつあった。
 心臓が破裂しそうだった。彼はタクシーをおり、恋人のローラのアパートへかけこんだ。
「ローラ、きみは大丈夫か!」
 彼は絶叫した。台所からローラが目をまるくしてとびだしてきた。
「まあ、ジミーが目をさましたじゃない!」
「ジミー? い、いったいだれだ、それは?」
「あら、あなた、私たちの子ども忘れちゃったの?」
 ローラはそういって、かたわらのベッドに寝ている赤ん坊を見て、にっこり笑った。(完)

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『世界の恐怖怪談』荒俣宏、武内孝夫著 学研 1977年


時空の歪みという壮大なテーマをごく普通の一般人の目線で描いていて、異世界に迷いこむリアルさを感じる傑作だと思います。たった一票差で議会の承認を得られなかったメイコン・ハイツという存在しないはずの住宅地に迷いこんでしまった男の話ですが、一票差で町そのものが生まれるかどうかが決まるなどのギリギリの決断をしているようなバランスの悪い♂゚去はとても不安定で、ちょっとしたきっかけがあると、もう片方の可能性で成立して分岐していた世界に迷いこんでしまう事がある、というようなことを匂わせる描写がとてもユニークで面白いです。何か次元を超えたあるショックが生じるとその影響で、不安定な時空のある箇所は、線路が切り替わるように、可能性の高い近隣の平行世界の時間線に接触したり融合したりする場合がある、という感じでしょうか。未見ですが、先頃米国でドラマ化された「もしも第二次大戦でナチスと日本の同盟国が勝利していたら?」という平行世界を描いた『高い城の男』もそういえばディックの作品でしたね。どちらも、あり得た可能性のあるもしもの世界≠描いた作品ですね。

2004年に2ちゃんねるの書き込みが元で広まったといわれるネット発祥の都市伝説「きさらぎ駅」の話も存在しない駅の話でしたね。それ以前の2002年にサウンドノベルゲームの『最終電車』でも似たようなシナリオで異世界に列車ごと迷いこんでしまった不思議な話がありましたが、電車とかバスとか飛行機や船など、乗物系の不思議話は独特のムードがあって面白いです。スティーブン・キング原作の映画『ランゴリアーズ』は飛行機ごと異次元に迷いこんでしまった話で、独特の時間≠フ解釈がとても面白かったですね。

乗物とは見方を変えれば動く密室≠ンたいなものですから、「もしかしたら意図しない目的地に連れていかれるかもしれない」という空想が入り込む余地があるのかもしれません。そうしたところが、何かの拍子に別世界に通じてしまいそうな、不思議な感覚を誘うのでしょうね。

メモ参考サイト
きさらぎ駅とは?(ピクシブ百科事典)

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かつてオーパーツではないかと騒がれた「ピリ・レイスの地図」 1513年

地図のミステリーというと、オーパーツで有名なピリ・レイスの地図がありますね。1513年に作成されたこの地図には、当時まだ発見されてされていなかった南極大陸(1820年に発見)が描かれている!ということで話題になりましたが、「南極に見える部分は実際は南米大陸なのではないか?」という懐疑的な主張も説得力があるために、今ではあまり取り上げられることも少なくなりました。理性的に解釈すれば、懐疑派の言うことのほうが合理的かつ論理的ですから、一般にはこのピリ・レイス地図はオーパーツではないということで決着してしまってるかのような雰囲気ですが、オーパーツである可能性もゼロではないですし、不定形の羊皮紙に宝島の地図のようにデコラティブに描かれた風情も相まって、未だにそこはかとない神秘な雰囲気を醸し出していて素敵な地図だと思います。

メモ参考サイト
ピリ・レイスの地図(ウィキペディア)

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カボチャ型にぐにゃりと歪んだ地球に描かれた世界地図。その北極点に結んだロープで地球を軽々とつまんで持ち上げる神の右手がなんとも神秘的でイイですね〜 よく見ると右上の端っこにサツマイモみたいな形にひしゃげた日本が描かれてますね。これは1602年にウィリアム・キップ(William Kip)によって作られた、わずか8センチほどの直径に描かれたオカルティックな世界図の版画です。世界に二つしか現存しない非常にレアな地図で、イングランドのアマーシャム(Amersham)という町に在住するS・イスラー(S.Isler)氏と大英博物館のみが所蔵している地図のようです。書き込まれている碑文のほとんどはヘブライ語の「エホバ」を除いてラテン語で書かれています。

こちらのオカルティックな味わいのレアな世界地図も南極大陸発見以前に作られたものですが、ふつうに南極が描かれています。調べてみると、すでにプトレマイオスが南極の存在を2世紀頃に予言していて、ずっと想像上の仮説のままではありましたが、南極に大陸が実在する可能性はずっといわれ続けてきたようです。この図の南極は実際よりもすごく巨大に描かれてますが、「北半球の陸地とバランスをとるようにそれに匹敵する面積の陸地が南の果てにあるのではないか?」という仮説に則ったもののようです。この当時考えられていた南極大陸の存在って、ほとんどムー大陸とかアトランティス大陸とかと同じくらいにミステリアスな存在だったのでしょうね。ちなみに地図上に描かれた南極大陸に横断して書いてある「TERRA AUSTRALIS INCOGNITA」というラテン語の文は「南の未知の土地」という意味です。

メモ参考サイト
メガラニカ(ウィキペディア)
メガラニカとは、かつて想像されていた仮説上の南極大陸の名前です。

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秘境探検
posted by 八竹釣月 at 04:40| Comment(0) | 精神世界

2017年05月04日

ヨガナンダとヴィヴェーカーナンダ ─インドと世界を繋いだ聖者─

耳映画『永遠のヨギー』

パラマハンサ・ヨガナンダといえば、スティーブ・ジョブズが自身のiPadにダウンロードして唯一入れていた「あるヨギの自叙伝」の著者として話題になり、2014年には伝記映画も作られました。過去にもビートルズの「サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド(Sgt. Pepper's Lonely Hearts Club Band)」のジャケットアートにも登場していたみたいです。かのアルバムは、ビートルズの4人が、彼らが思い入れのある沢山の著名人によって取り囲まれている賑やかなジャケットですが、右上のボブ・ディランのすぐ左下にたしかにヨガナンダがいます。

どういうわけか、最近ヨガナンダのことが凄く気になっていたところ、ヨガナンダの伝記映画「永遠のヨギー」がタイミング良く近所のレンタルショップに置いてあったので、早速鑑賞してみました。ネットのレビューでの評価はあまり高い作品ではなく、たしかに構成が散漫な印象はありましたが、ヨガナンダという人物に興味がある人は楽しめると思いました。個人的には思ったより楽しく見れました。やはりというべきか、ヨガナンダの最も有名な著書「あるヨギの自叙伝」に関する話題が多く盛り込まれていますが、まだ私は未読なので、ますます「あるヨギの自叙伝」を読んでみたい衝動にかられます。けっこう高い本なので、なかなか踏ん切りがつきませんが、必要な本ならそのうち何かの縁で手に入るでしょう。映画の中で、元ビートルズのメンバー、ジョージ・ハリスンのインタビュー映像があり、昔を振り返って彼はこう言っています。「ヨガナンダの本(「あるヨギの自叙伝」)に出会わなかったら今の人生は無い。くたばっていたか、最低の人間になっていたはず。不毛な人生にならずにすんだし人生に意味を与えてくれた」

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パラマハンサ・ヨガナンダ(Paramahansa Yogananda 1893〜1952年)
本名ムクンド・ラール・ゴーシュ(Mukunda Lal Ghosh)、1914年にインドの由緒あるスワミ僧団における儀式において「ヨガナンダ」の名前を授かり、1935年にグルであるスリ・ユクテスワから「パラマハンサ」の称号を授かります。「パラマハンサ」は、天駆ける霊的な白鳥≠ニいう意味の、偉大な霊のひらめきを持った聖者に与えられる尊称、「ヨガナンダ」はヨガ+アナンダ、ヨーガによる至福≠ニいう意味のようです。


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ポピュラーミュージックの金字塔、ビートルズの名盤「サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド」のジャケットの一部。右上のあたりにヨガナンダがおります。ビートルズのアルバムのジャケットアートはデザイン性だけでなく、その思想を反映してたり、いろいろと深読みを誘う話題性のある秀逸なものがいくつもありますが、これなどもその代表的な一枚ですね。ヨガナンダの右上には昨年ノーベル文学賞を受賞したことでも話題になったフォークのカリスマ、ボブ・ディランがいます。ヨガナンダのちょうど真下にいるのはルイス・キャロルですね。他にもエドガー・アラン・ポーやアレイスター・クロウリー、チャップリン、マリリン・モンロー、H・G・ウェルズなど、ビートルズ自身の精神の旅を象徴する人物がコラージュされていて面白いです。ジャケットの左下のほうには日本の福助人形まで居てニヤリとさせられました。アルバムの音楽性自体もこのジャケットアートの影響でとても思い入れがあります。幻覚性麻薬LSDを歌っているのでは?と騒動になったあの名曲「Lucy In The Sky With Diamonds 」をはじめ、キャッチーさとマニアックさが混交した永遠の名盤です。テーマ性やトータリティを逸脱したごった煮感覚のバラエティ豊かな楽曲が詰め込まれたアルバムになっていて、ジャケットアートのテイストとよくマッチして馴染んでいます。統一感が無いことがメタ的な統一感になっている感じの素晴らしい逸品です。ヨガナンダをはじめ数人のインド聖者がジャケットに紛れ込んでいますが、収録曲にもインドの楽器シタールを用いたエスニックな曲「Within You Without You」があります。

メモ参考サイト
「サージェント・ペパーズ〜」のパロディジャケットアートいろいろ(「〜♪今日も音楽日和☆〜」様のブログより)
案の定たくさん真似されてるようですね。たしかに、「サージェント・ペパーズ〜」は、パロディ心みたいなものをくすぐる面白いデザインですから、私も機会があればパロってみたいです。そういえば、前々からYMOのアルバム『増殖』のジャケットアートは、まさに「サージェント・ペパーズ〜」のオマージュなのではないか?とずっと思っているのですが、どうなのでしょうね。

というわけで、ヨガナンダの記事をヨガナンダの本一冊も読んでないのに書いているわけですが、映画のほうで、おおまかに彼の人生や世界に与えた影響などを知ることができましたので、映画を見て思ったことなどを中心に話を拡げていこうと思います。ヨーガを世界に広めた偉人にしては、日本では今ではあまり話題になってませんし、映画のほうも気づいた時にはロードショーも終わっていて、DVDで見るしかない状況でした。日本は神道仏教の国ですが、なんとなく無神論の国というイメージも同様に根強く、宗教的な偉人の扱いに不慣れなところも、インドの精神文化がいまひとつムーブメントとして盛り上がらない原因のひとつなのかもしれません。日本人のインド感といえばカレーとヨーガですが、ヨーガも一般認識としては健康のための特殊な体操というイメージだと思います。実際のヨーガはかなり宗教色が濃いですし、そもそも体操のようなヨーガはヨーガのほんの一部で、宗教思想や奉仕活動や祭儀舞踏など、幅広い宗教活動の実践を指す言葉です。

メモ参考サイト
映画『永遠のヨギー』公式サイト



耳ヨガナンダとヴィヴェーカーナンダ

ヨガナンダは、古(いにしえ)からのインド文化の結晶ともいえるヨーガをアメリカをはじめ世界に広く普及させた人物として知られています。ヨガナンダ本人が自らの野望でヨーガを広めに西洋に渡ったというのではなく、グルから「お前の人生の使命はヨーガを世界に広める事じゃ!」と言われ、その自分の宿命に殉じた人生だったようです。当時の西洋社会ではインド人といえば蛇使い≠ネどの怪し気なイメージで見られる事が多かったそうで、様々な差別的な扱いに堪えながら、ヨーガの啓蒙に邁進していたヨガナンダですが、本音ではインドで子供たちを教育する事業に専念したかったようなことが映画では描かれてました。今世界の人がヨーガを知り、実践することが可能なのは、ヨガナンダの努力のたまものでもありますから、結果的にはグルが命じるままに使命を全うしたことは本望であったことでしょうね。

インドの精神文化は途方もなく古い時代から受け継がれてきただけあって、聖者たちも個性派揃いで面白いです。悟りを得た人は、凡人からすれば超人のように考えがちですし、また逆に、覚者というのは、清廉潔白で俗世間の楽しみに関心が無く、感情の無い正論しか言わないつまらない人間、というふうなマイナスのイメージもあると思います。しかし、悟るというのは、自分や世界のありのままを知り体感する経験ですから、実際には、より完璧に人間らしくなる、ともいえます。喜怒哀楽が無くなるのが賢者ではなく、喜怒哀楽を適切に表現できるようになるのが賢者のような気がします。そうした境地に至るためのノウハウを人類が共有するために精神世界の文化があるように感じます。

我々はなぜか「やりたいことを、やるべきときに無心にやる」というのがなかなかできませんし、「人助けしたいが、世間から偽善者と思われたら嫌だな」などと善行さえも、余計な思考が邪魔をしてきます。覚者は、そうした「余分な抵抗」をクリアした人であるので、より充実した人生を送りやすくなります。ヨガナンダも、ヨーガを世界に啓蒙するという途方も無い使命に臆する事無くチャレンジし続けられたのは、まさに、そのヨーガでの精神鍛錬によって到達した強い意志のおかげなのでしょう。

またヨガナンダのユニークなところは、テレポーテーションの話や、不死のヨギーの話など、いわゆるオカルティックな話に肯定的なところです。意外に聖者といわれる人たちは、UFOとか超能力などの話に関心がありません。むしろ、修行の妨げにしかならない邪魔なものとして退ける傾向がありますが、ヨガナンダはけっこうそうした不思議な話に寛容で、そうしたところも親しみがわいてきます。ヨガナンダ自身、自分の死期を予言して、予言した日に亡くなったそうですし、しかもその遺体も死後20日経過してもまったく腐敗する様子がなく、まるで生きているかのように生気に満ちていたそうです。最期まで精神世界のカリスマらしい神秘な人ですね。

メモ参考サイト
ジョブズが唯一iPad2にダウンロードした電子書籍 ヨガナンダの数奇な人生とは?(「ハピズム」様より)

ヨガナンダは1920年頃ヨガを世界に広める旅に出ましたが、遡ること30年前にも、ヨーガをはじめとしたインドの精神文化を西洋にもたらしたもうひとりの先人、ヴィヴェーカーナンダがいます。彼もそうした東洋と西洋の架け橋として活躍した聖者として忘れる事はできません。ヴィヴェーカーナンダは神の化身と呼ばれた大聖者ラーマクリシュナの主要な弟子のひとりとして知られるインドの偉大な宗教家です。ヨーガ思想の啓蒙に尽力し、西洋に最初にヨガを持ち込んだ近代の聖者です。若い頃は西洋の学問を貪欲に学んだインテリで、神や宗教に懐疑的な考えをもっていましたが、ラーマクリシュナとの運命的な出会いによって熱心な弟子となってきました。このあたりの逸話も興味深いものがあります。wikiにも詳しく書かれていますので、興味のある方は読んでみてください。ヴィヴェーカーナンダがけっこう日本を評価しているような記述もあって、なんとなく嬉しくなりました。

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ヴィヴェーカーナンダ(Swami Vivekananda 1863〜1902年)は、大聖者ラーマクリシュナの主要な弟子のひとりとして知られた聖者です。ラーマクリシュナは彼に会った時に「どうして君は私をこんなに永い間待たせたのですか!」と泣いて喜んだという逸話があります。ラーマクリシュナいわく、彼ヴィヴェーカーナンダとは、いわゆる前世からの旧知の関係だったようです。聖者同士の邂逅だけあって、なんとも興味深く不思議な出会いです。

メモ参考サイト
ヴィヴェーカーナンダ(ウィキペディア)



耳ヴェーダーンタ哲学とは?

ヴィヴェーカーナンダが世界に啓蒙したのは、ヨガの思想で中心になっているヴェーダーンタ哲学と呼ばれる宗教思想で、紀元前数百年まで遡るインド哲学のエッセンスともいえる思想です。これはエックハルト・トールなどの現代のスピリチュアルの教えにも影響を与えている精神世界の重要な概念で、こうした思想を学ぶこともヨーガのひとつです。思索によって悟りを目指すヨーガをジュニャーナ・ヨーガといいます。有名な聖者ラマナ・マハルシはこのジュニャーナ・ヨーガによって悟りを得たといわれています。悟りを得られるレベルの思索というのは、概念を知識として理解するというレベルを越えて、概念を体験として実感するレベルにまでもっていかなくてはならないので、結局は日々の精神修行や身体の健康など、トータルな修練が必要になるでしょうね。

ヴィヴェーカーナンダが世界に啓蒙したヴェーダーンタ哲学の教えは、現代のスピリチュアル思想の主流になっているワンネス(全てはひとつであるという思想)の概念の源流です。インド思想によれば、自分の内面の究極には神がいて、この内部の神をアートマンといいます。また、自分の外側の世界、果てしなく宇宙にまで広がる全ての世界は、そのすべてが神の身体であり神自身が表現された存在で、これをブラフマンといいます。そして、ヴェーダーンタ哲学では、このアートマンとブラフマンは究極には全く同じであると言っています。つまりこの世界、この宇宙は、ただひとつの究極の実在(=神)だけが存在するのみで、他の一切は幻である、という考えです。神だけが存在している世界に私≠ェいるのですから、当然私≠ヘ究極的には神であるということになります。つまり、あなたもまた神なのです。一見突飛に思えますが、冷静に考えてみると、合理的な思索を突き詰めた末に見えて来る理論だというのが理解できます。

客観的と思ってるモノも自分の主観の内側で、そう定義しているだけで、「本当の客観」は自分には解りません。自分が体験する人生の内側にしか山水草木も他人も宇宙も無いわけです。人間が自分という器を越えて存在できない以上、客観的世界は、どこまでいっても主観的世界の内部の虚構ともいえるわけで、で、あるなら、自分の人生には、自分の頭で考えたり自分の目で見たり自分の耳で聞いたりするような世界以外は、リアルな現実世界であると証明することは不可能です。そうした世界観をそのまま突き詰めて行くと、必然的にヴェーダーンタ哲学の指摘する世界像そのものと合致します。人間という主体を通じて世界のリアリティを解釈しようとすると、むしろこうした世界観は容易に疑うことができませんし、科学とは別のアプローチでもって真実を指摘しているようにも思えます。

こうした考えは、必然的に仏教にも影響を与え受け継がれていきます。やがて仏教は世親の唯識論など複雑な思索哲学へと発展していきますが、禅の誕生により、思想の解釈よりブッダの悟りそのものに主眼を置いたシンプルで実践的教えが生まれました。「あれこれ考えるな、ただ座れ」というところまで教えを単純化していきましたが、それはそれで、シンプルすぎるゆえの難解さもあり、そうした歴代の偉大な精神世界の覚者たちの様々な啓蒙のアプローチの足跡もまた興味深いものがあります。


以下、ヴェーダーンタ哲学についてヴィヴェーカーナンダが言及している言葉をいくつか抜粋しました。

満月ヴェーダーンタは、我々の真の本性は無限であるという。しかるに我々は、己のカルマ(業、因縁)によって制限している。───その鉄鎖を断ち切って自由になれ! 神そのものとなれ!

満月ヴェーダーンタはいう。────我々はみな心の奥で自分の弱点を知っている。───しかし気にするな。───弱点は思い出した所であまり役に立たない。弱さに対する治療法は、弱さを案ずることではなく、強さについて、すでにあなたに内在している強さについて考える事だ。小さな事に目もくれるな、すべてを神と見て進め、神の中に全てを包め。やさしさは、そこから湧き水のようにわいてくる。進め、全てに向かって。未来は君たちのものだ。

満月ヴェーダーンタは何を教えようとしているか、───それは、「世界の神聖化」である。人間が人間を放棄して神になることだ。世界を神聖化することだ。


ヴィヴェーカーナンダ





耳瞑想について

ジュニャーナ・ヨーガは、思索を深めていきながらやがて思索そのものを越える瞑想のようなものだと思います。一般に思索を極めていく瞑想よりは、思索を止めて思考しない瞑想のほうがメジャーだと思います。これら瞑想というのは、禅や仙道など、ほかの精神世界の修行でもスタンダードなものなので、以前から下手の横好きでたまにやったりするんですが、本当は毎日習慣的に続けたほうが理想でしょう。人間は、生まれ落ちてからずっと寝てる以外は始終何かを思考しているので、「何も考えない」という時間を、たとえ1分でも設けることを嫌がります。ためしに、やってみると解りますが、たとえ1分でも何か考えれる時間を考えない≠ニいう無意味そうな事のために費やすことに、漠然とした拒否感を感じると思います。まずは、この拒否感と闘いつつ、考えない時間をつくる習慣を作っていくしかありません。実際は考えない事というのは、考える事以上のものすごい威力を持ったものです。

「人間は考える葦である」という言葉の通り、人間は考えることで地球の頂点に立つ種となりましたが、同時にこの考える能力は他の生命には無い類いの苦しみを人間にもたらしました。人間は毎日6万回思考すると言われますが、その9割はただ漫然とした無意味な思考です。無意味ならまだマシで、不安や後悔や嫉妬や憎悪など、人間に苦痛をもたらす原因のほとんどは、こうした惰性的な思考から発生しています。思考というのは、仕事や勉強などをしている時など、思考すべき目的があって、意識的に思考する場合は有用で、まさにジュニャーナ・ヨーガなどは思考を突き詰めることで思考の枠を超えるヨーガですが、それ以外の漫然とした惰性的な思考はむしろ不幸を自ら生み出す装置になっています。なので、思考しない無思考状態を生み出す瞑想の技術を会得することは、人生においてかなり役に立つテクニックになるでしょう。数分でも無思考状態に浸ってると、頭がだんだんすっきりしてきて、実感として周囲の空間から目に見えない爽やかな感じの精神的な栄養が注入されるような感覚があります。

瞑想する感覚がある程度わかってくると、思考と感情は切り離せることに気づきます。嫌な事があると、つい私たちは「嫌な事」という情報とセットで「嫌な感情」を自動的に発生させてしまい、「嫌な事は常に嫌な気分になるものだ」という条件反射を無意識に作り上げています。しかし、これらは情報処理と感情の発露を無意識に同時に行うからそうなるだけで、意識していれば嫌な事が起こっても、その事実を情報として脳で処理するだけにして、イライラする感情を切り離す、という芸当が出来るようになってきます。

また、逆に、漠然としたネガティブな感情が先に発生して、その感情に見合うような嫌な記憶を脳が捜し出して来て、あたかも、その嫌な記憶がイライラさせているかのように自分を錯覚させることもあります。体調が悪い時、病気の時、転んだりして痛みを感じた時など、不快な感情が起きている状態に、しばしば脳は嫌な記憶を捜し出して来ます。脳は、多分善かれと思って、嫌な感情だけをひとりぼっちにさせないように、嫌な記憶という遊び相手を探してくるのでしょう。この仕組み(感情と情報は別のもの)に気づけば、後は自分の意志で湧いてくる感情を受け入れるか受け入れないかを決めれるようになります。私はこのテクニックを覚えたおかげでだいぶ楽になりましたので、瞑想の習慣の無い人は気が向いたらぜひチャレンジしてほしいと思います。習慣づけていないとつい忘れがちになる瞑想ですが、何かを呆然と待ってる時間など、瞑想の時間はけっこういくらでも作れますし、ぜひ習慣にしていきたいものです。レディ・ガガのメンターとして一躍話題を集めたアメリカの有名なインド出身のスピリチュアルリーダーであるディーパック・チョプラ氏は、毎日朝晩30分づつの瞑想を習慣にしているそうですが、私も出来ればそのくらい長い時間の瞑想ができるようになりたいものです。



耳「右の頬を打たれたら左の頬を差し出せ」についての考察

話は少しそれますが、聖書の有名な言葉で「右の頬を打たれたら左の頬を差し出せ」というものがありますね。これって、最初聞いたときは、とんでもない妄言だと思ったものです。暴力を受け入れるのは、悪をつけあがらせるだけで、何の意味もないと思ってました。しかし、この言葉の真意はそういうことではなく、悪意を甘んじて受け入れなさいという意味ではないことに気づきます。暴力を受けたら反撃せずに受け入れなさいという単純な意味ではないのです。暴力をふるわれたら、どんな生物でも逃げるか反撃するかのふたつしか選択肢はありませんし、人間もそれは同じだ、と我々は思い込んでいます。しかし、イエスはそこに第三の選択肢「むしろ左の頬を差し出す」という突拍子も無い選択を提案し、そのような行為の自由さえ人間にはあるのだ。ということをいいたかったのだと推測します。つまり、人間は心の鍛錬によって怒りなどのネガティブな感情を制御することが可能であり、その境地では、他者からの悪意に対して脊髄反射のような反応ではなく、どのような状況でも無限の行動の自由があるのだ、という人間の可能性を示唆しているのではないか、ということです。噛み砕いて言えば、「右の頬を打たれたら、逃げてもいいし、殴り返してもいい。だが、それだけでなく、逆に左の頬を差し出すという意表をつく一手もあるよ」ということだろうと思います。まさにイエスの提言は、あらゆる生物の中で人間にしか取れない行動の一例を示し、人間はとてつもなく自由な存在であることを示したかったのでしょう。

原始仏教の教典『ダンマパダ』の中でブッダは、「実にこの世においては、怨みに報いるために怨みをもって行動したならば、ついに怨みが止むことがない。怨みを捨ててこそ止む。これは永遠の真理である。」と断言していて、ここでも、悪意に対して取るべき行動に恨みや怒りをもって対応すべきでないことが説かれています。この教えもよく吟味してみると、ブッダも反撃を禁じているのではなく、あらゆる物事に冷静に対処せよ、ということを言っているのでしょう。不動明王などの憤怒する仏もおりますから、怒りもまた人を正道に向かわせるためのアプローチのひとつとして正しく用いるなら、必ずしも怒りそのものが禁じ手なわけではないことをうかがわせますね。

人間社会では、学校などで知識を学ぶ習慣は永い時間をかけて訓練されますが、感情のコントロールを訓練する機会はほとんど無いのが現状です。とくに、怒りや不安などの苦しみをもたらす感情をコントロールしていくことは、人生においてとても重要なことですから、瞑想はそういう意味でもとても役に立つ技術であるように感じます。



耳ヴィヴェーカーナンダの言葉

インド関係の古書を読んでいたら、ヴィヴェーカーナンダの深い言葉が目にとまり、感動したので、最後にいくつかご紹介したいと思います。

満月あなたは存在する一切である。目醒めて立ち上がれ。おお、強いものよ、この眠りはあなたにふさわしくない。目醒めて立ち上がれ。このままではあなたに似つかわしくないではないか。あなたは弱くてみじめだと思うな。至上万能なるものよ、目覚めよ、そして立ち上がれ。あなた自身の本性をあらわせ。

満月決して「否、ノー」というな。決して「私は出来ない」というな。あなたは無限なのだから。あなたは何でも出来る。あらゆることがあなたにとっては可能である。あなたは全能なのだ。

満月完成は得られようとしているのではない。あなたはすでに完全である。あなたはその場で偉大である。小さな事を考えて人を批判するな。神そのものである自分に気付け。あなたの心を覆っている迷信を駆逐せよ。

満月神はあなたの享楽する富の中にもある。神はあなたの心の中におきる欲望の中にもある。神はあなたが欲望を満たすために買う品物のなかにもある。

満月我々はあらゆるものを、神自身で覆わなければならない。いつわりの楽天主義によるのでもなく、我々の目を悪に対してふさぐのでもなく、あらゆるものの中に神を見なければならないのである。

満月石や木は決して法則を破る事はない。しかしいつまでたっても石は石であり、木は木のままである。ただ人間だけが、束縛や法則を乗り越えて、運命と戦って、これに打ち勝つ力を恵まれているのである。

満月我々不死なる、永久に純粋なる、完全なる霊を、小さき心や、小さき身体だと考えるな。これこそ一切の無知のもと───一切の利己心の母体である。人間はたとえ見かけが弱くとも、すべて光栄ある不滅の児である。これが真理である。

満月諸君が欲するすべてを持て!ただ真理を知れ、それを実現せよ!諸君の存在の全ての部分に神があることを知れ。世界はたちまちにして天国と変わるだろう。

満月幸福よりも一層多くを教えてくれるものは不幸である。富よりも一層多くを学ばせてくれるのは貧乏である。また、内面の火をかきたててくれるのは、賞賛よりも攻撃である。

満月あなたが世界中探しまわっていた相手、神殿で泣きつつ訴えた相手、雲に包まれて一切の神秘中の神秘として見えなかった相手、───真理、神はあなた自身であり、あなたの中にいる。

満月私は生まれる事のない、死ぬ事の無い、浄福にあふれる永遠なる大霊である。このことを昼も夜も思え。それがあなたの生命の一部となり、分子となるまで思え!あなたの行動のすべては、この思想の力によって拡大され、変質され、神聖化される。

満月我々がかくありたいと願うものは、何でも我々自身でそれを為す力をもっている。今我々の前にあるところのものは、すべて我々自身の過去の行動の結果として現われたものである。我々が将来なりたいと願うものは何でも、現在によって創りだすことが出来る。

満月失敗を恐れるな。闘いによって得られるものでなければ、持つに値しないものだ。失敗は人生の美であり、それがなかったならば、どこに人生の詩があるだろうか。理想を千回も振りかざせ。そして千回失敗しても、もう一度企てよ。

満月世界の歴史は自己を信じた少数の人たちの手によってつくられた。あなたたちは何でも出来る。失敗するのは、無限の力をあらわす努力が足りないからである。個人でも国家でも、自信を失えば死が来る。まずあなたたち自身を信ぜよ。神であることを信ぜよ。

満月自己をこの小さい肉体の中に閉じ込めるな。私は宇宙である。一切者であるあの無限なるものが、自分であるといえるまでになれ。あなたには死はなく、病もなく、不幸もない。あなたは不死、不滅なる、永遠で完全な霊そのものである。あなたは無限の青空のように大きいのだ。


内垣日親著『超人世界・ヨーガの大聖ラーマクリシュナとその弟子たち」ベーダンタ文庫 1973年 より
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2017年04月25日

インド・天竺と呼ばれた国

耳東洋哲学の巨匠、中村元
般若心経の唯心論的な世界観に惹かれて仏教関係をいろいろ調べていくと、日本の仏教というのはほとんど中国を経由した大乗仏教がメインであることに気づきます。では、中国のフィルターがかかっていない生の仏教とはどういうものか?が気になって調べていくと、必然的に中村元(なかむら はじめ)に行き着きます。中村元先生は中国を経由した教典ではなく、インドの現地語の教典を直で翻訳し、日本の東洋哲学研究を大きく前進させたことで知られる偉大な学者です。ネットの動画で動いている中村先生を拝見して、想像してたような学者然とした頑固そうな感じではなく、気さくで優しそうな笑顔の似合う方で、より興味がでてきました。

TV参考サイト
仏教の本質 哲学者「中村元」(YouTube)

仏教の母体になっているバラモン教やヒンドゥー教の思想のひとつにヴェーダーンタ哲学というものがありますが、これは現代のスピリチュアルで流行っているアドヴァイタ(不二一元論。いわゆるワンネス的な思想)のルーツということもあって、たまたま『ヴェーダーンタ哲学の発展』(昭和30年[1955年] 岩波書店)という本を手に入れたのですが、この本の著者が中村元で、それで遅まきながら知った感じでした。そして、仏教の興味から、仏教の母体になっているインド思想に興味がわき、『バガヴァットギーター』などをはじめ、バラモン教、ヒンドゥー教などのインド文化に関心がわいているところです。

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インド関係の本。

耳天竺と呼ばれた国、インド
そんなこんなで、自分の中で興味が高まっている最中のインドですが、インドって知れば知るほど奥が深いですね〜 錬金術が化学を発展させたように、神を論理的に証明するという熱意が哲学を生んだように、この現代の現実世界を支配している合理主義も、元はと言えば精神世界に行き着きます。そして精神世界を突き詰めて行くとインドにたどり着きます。インドといえば、かつてサイババブームがありましたが、悟りを開いた聖者の伝説が数多くある国で、インド政府も聖者認定などをしていたりとか、インドの聖者というのも一種の国策っぽい所があるようで、それゆえインチキ臭い聖者も多いようですが、また本物も多く、現代世界においてもスピリチュアルリーダーはインド出身者が圧倒的に多いのも事実です。そういえば先日70年間も断食していたヨガの行者がニュースになりましたね。インド政府が確認のために2週間ほど監視したところ、たしかに何も食べずに生活していることが証明されたそうです。この前俳優の榎木孝明さんが1ヵ月の不食チャレンジに成功した話が話題になってましたが、さすがインド、こちらは70年です。さすが神秘の国ですね〜 ビートルズも横尾さんもインドに惹かれた気持ちが最近よくわかるようになりました。

メモ参考サイト
70年断食のインド ヨガ聖者、科学者も仰天(AFPニュース)

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インドグッズその1。一度見たら忘れられない象さんの顔を持つ神様、ガネーシャのカレンダー。富と智慧をもたらす神様として人気です。なぜ象の顔をしているかというと理由があって、ガネーシャはシヴァ(父)とパールヴァティ(母)の子というエリートな血をひく神様ですが、シヴァが自分の子供だというのを知らずに首をはねたところ奥さんに激しく怒られ、たまたま通りがかった象の首をもぎ取って急いで付け替えたことから象の顔になったようです。なんともアンパンマン的なユニークな逸話ですね。ガネーシャもアンパンマンも「頭」というアイデンティティの中枢を入れ替えても何もなかったように記憶や意志など心の機能まで受け継がれる所に哲学的な空想がふくらみますが、そういえば以前ネットで話題を呼んだ「ツブアンマン」というアンパンマンのパロディ漫画がそうした問題をテーマにしていて、その鋭い考察とユーモアに感服したのを思い出しました。

ガネーシャといえばこの間「夢をかなえるゾウ」というユニークでスピリチュアルな小説がドラマ化され面白かったですね。冴えないサラリーマンのアパートに突然ゾウの顔をして関西弁をしゃべるガネーシャ神が現れ、主人公に成功哲学を説いていくユーモラスな物語でした。

るんるんJai Ganesh Jai Ganesh Jai Ganesh Deva
インド音楽もすごく個性的で、聴いてると神話の世界にトリップしそうな感じで独特の心地よさがあります。とくにこのガネーシャ神を讃える曲が好きで、最近よく聴いてます。

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インドグッズその2。破壊と舞踏の神、シヴァの像。ヒンドゥー教の三大神の一柱。ブラフマーが世界を創造し、ヴィシュヌが世界を維持し、シヴァが世界を破壊します。新しい世界を造るためには古い世界はいったん壊されて無に帰さなくてはならないからであり、破壊といってもそこにはネガティブな意味合いはなく、ただ宇宙の三つの様相のうちのひとつを担当しているという感じだと思います。破壊神という恐ろしげな側面がありながらも人気の高い神様で、紀元前2000年以上も前から崇拝されていたらしく、今日知られている神々の中で最も古い神であるという説もあるようです。

耳昨日も明日も同じである!
最近知ったのですが、インドの公用語ヒンディー語では「昨日」と「明日」が同じ言葉だということです。まさに文化の違いを如実に感じると同時に、言葉の奥に横たわる深遠な哲学さえ感じさせてくれます。英語や日本語では区別しているので、当然「なぜ区別しないのか?」と疑問に思いますが、区別しない文化では区別しないのが当たり前で、この場合は文法や文脈などで十分理解できる仕組みのようです。例えば日本語では順番をあらわすのに「○○番目」という言い方をしますが、英語にはこの「○○番目」という概念がありませんし、英語ではお湯も水も「water」ですし、また英語では兄と弟、姉と妹を区別しませんが、それで困る事は無いのと同じ事だろうと思います。このあたりは言語学的に考察すると面白そうですね。言葉とその対象物は基本的には1対1対応しているという建前で言語体系(ランガージュ)が成り立ってますが、実際には民族や文化によって「何をひとかたまりの概念として認識するか」が微妙に異なるので、上記のような細部の食い違いが起こるのでしょうし、それこそが異文化の魅力でもあります。

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google翻訳にかけてみたら、やはり同じ単語に翻訳されました。

ヒンディー語で「昨日」と「明日」を区別しないというのも背景にある文化が影響しているのでしょうね。インドでは時間というのは「今」が最大の起点で、明日や昨日というのは「今」からの隔たり具合がどちらも1日分であり、似たようなものなのかもしれないですね。スピリチュアル宗主国だけあって、インド的には、時間は過去から未来に流れる1次元的なものではなく、「今」という中心点に自分がいて、そこから同心円状に広がっているのが過去や未来なのでしょうか。時間の概念については、私も前々から興味があって、相対性理論での時間の伸び縮みとかワクワクしたものですが、いつも行き着く考えは「我々が考えている時間≠ニいうのは本当に1次元的なものなのか?」ということでした。「過去は変えられなくて未来は無限の可能性がある、というのは慣れた概念だが、その逆、過去は自由に変えられるが未来は固定している、というのもアリな考えなのではないか?」という寺山修司っぽい空想など、いろいろな時間の在り方を考えるのは楽しいです。そもそも時間というのはただ我々が社会環境から類推した仮定の概念であって、環境が違えば時間の概念もまるっきり変わるはずだ、というのは漠然と思っていたことなのですが、このインドの「昨日」と「明日」が同じ言葉という事実は、そうした考えに何らかの示唆を感じる面白い発見でした。

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インドグッズその3。多分ヒンディー語のアルファベットを覚えるための児童用の教育ポスターだと思います。何かインドっぽいものが無いかと部屋を探してたら出てきました。多分アジア系雑貨店で昔手に入れたものだと思います。こういう普通のものまで神秘の香りがしてしまうところもインドの面白さですね。

本当は、最近気になっているインドの聖者、パラマハンサ・ヨガナンダやラーマクリシュナなどについて書こうかな、と思って書きはじめたのですが、そこに至るまでのインドへの傾倒について書いていたら長くなってしまったので、そのあたりはまた項を改めて書いてみようと思います。そんな感じでインドが気になっている昨今、最近の食事はカレーの頻度がすこぶる高くなっております。カレーといえば、一度本格的にナンを主食にして食べてみたいと思っているのですが、本場のインド人はほとんどナンは食べないという話をネットで見かけました。とにかく、ナンとも謎多き国で興味が尽きないですね。
posted by 八竹釣月 at 03:09| Comment(0) | 精神世界