2017年05月04日

ヨガナンダとヴィヴェーカーナンダ ─インドと世界を繋いだ聖者─

耳映画『永遠のヨギー』

パラマハンサ・ヨガナンダといえば、スティーブ・ジョブズが自身のiPadにダウンロードして唯一入れていた「あるヨギの自叙伝」の著者として話題になり、2014年には伝記映画も作られました。過去にもビートルズの「サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド(Sgt. Pepper's Lonely Hearts Club Band)」のジャケットアートにも登場していたみたいです。かのアルバムは、ビートルズの4人が、彼らが思い入れのある沢山の著名人によって取り囲まれている賑やかなジャケットですが、右上のボブ・ディランのすぐ左下にたしかにヨガナンダがいます。

どういうわけか、最近ヨガナンダのことが凄く気になっていたところ、ヨガナンダの伝記映画「永遠のヨギー」がタイミング良く近所のレンタルショップに置いてあったので、早速鑑賞してみました。ネットのレビューでの評価はあまり高い作品ではなく、たしかに構成が散漫な印象はありましたが、ヨガナンダという人物に興味がある人は楽しめると思いました。個人的には思ったより楽しく見れました。やはりというべきか、ヨガナンダの最も有名な著書「あるヨギの自叙伝」に関する話題が多く盛り込まれていますが、まだ私は未読なので、ますます「あるヨギの自叙伝」を読んでみたい衝動にかられます。けっこう高い本なので、なかなか踏ん切りがつきませんが、必要な本ならそのうち何かの縁で手に入るでしょう。映画の中で、元ビートルズのメンバー、ジョージ・ハリスンのインタビュー映像があり、昔を振り返って彼はこう言っています。「ヨガナンダの本(「あるヨギの自叙伝」)に出会わなかったら今の人生は無い。くたばっていたか、最低の人間になっていたはず。不毛な人生にならずにすんだし人生に意味を与えてくれた」

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パラマハンサ・ヨガナンダ(Paramahansa Yogananda 1893〜1952年)
本名ムクンド・ラール・ゴーシュ(Mukunda Lal Ghosh)、1914年にインドの由緒あるスワミ僧団における儀式において「ヨガナンダ」の名前を授かり、1935年にグルであるスリ・ユクテスワから「パラマハンサ」の称号を授かります。「パラマハンサ」は、天駆ける霊的な白鳥≠ニいう意味の、偉大な霊のひらめきを持った聖者に与えられる尊称、「ヨガナンダ」はヨガ+アナンダ、ヨーガによる至福≠ニいう意味のようです。


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ポピュラーミュージックの金字塔、ビートルズの名盤「サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド」のジャケットの一部。右上のあたりにヨガナンダがおります。ビートルズのアルバムのジャケットアートはデザイン性だけでなく、その思想を反映してたり、いろいろと深読みを誘う話題性のある秀逸なものがいくつもありますが、これなどもその代表的な一枚ですね。ヨガナンダの右上には昨年ノーベル文学賞を受賞したことでも話題になったフォークのカリスマ、ボブ・ディランがいます。ヨガナンダのちょうど真下にいるのはルイス・キャロルですね。他にもエドガー・アラン・ポーやアレイスター・クロウリー、チャップリン、マリリン・モンロー、H・G・ウェルズなど、ビートルズ自身の精神の旅を象徴する人物がコラージュされていて面白いです。ジャケットの左下のほうには日本の福助人形まで居てニヤリとさせられました。アルバムの音楽性自体もこのジャケットアートの影響でとても思い入れがあります。幻覚性麻薬LSDを歌っているのでは?と騒動になったあの名曲「Lucy In The Sky With Diamonds 」をはじめ、キャッチーさとマニアックさが混交した永遠の名盤です。テーマ性やトータリティを逸脱したごった煮感覚のバラエティ豊かな楽曲が詰め込まれたアルバムになっていて、ジャケットアートのテイストとよくマッチして馴染んでいます。統一感が無いことがメタ的な統一感になっている感じの素晴らしい逸品です。ヨガナンダをはじめ数人のインド聖者がジャケットに紛れ込んでいますが、収録曲にもインドの楽器シタールを用いたエスニックな曲「Within You Without You」があります。

メモ参考サイト
「サージェント・ペパーズ〜」のパロディジャケットアートいろいろ(「〜♪今日も音楽日和☆〜」様のブログより)
案の定たくさん真似されてるようですね。たしかに、「サージェント・ペパーズ〜」は、パロディ心みたいなものをくすぐる面白いデザインですから、私も機会があればパロってみたいです。そういえば、前々からYMOのアルバム『増殖』のジャケットアートは、まさに「サージェント・ペパーズ〜」のオマージュなのではないか?とずっと思っているのですが、どうなのでしょうね。

というわけで、ヨガナンダの記事をヨガナンダの本一冊も読んでないのに書いているわけですが、映画のほうで、おおまかに彼の人生や世界に与えた影響などを知ることができましたので、映画を見て思ったことなどを中心に話を拡げていこうと思います。ヨーガを世界に広めた偉人にしては、日本では今ではあまり話題になってませんし、映画のほうも気づいた時にはロードショーも終わっていて、DVDで見るしかない状況でした。日本は神道仏教の国ですが、なんとなく無神論の国というイメージも同様に根強く、宗教的な偉人の扱いに不慣れなところも、インドの精神文化がいまひとつムーブメントとして盛り上がらない原因のひとつなのかもしれません。日本人のインド感といえばカレーとヨーガですが、ヨーガも一般認識としては健康のための特殊な体操というイメージだと思います。実際のヨーガはかなり宗教色が濃いですし、そもそも体操のようなヨーガはヨーガのほんの一部で、宗教思想や奉仕活動や祭儀舞踏など、幅広い宗教活動の実践を指す言葉です。

メモ参考サイト
映画『永遠のヨギー』公式サイト



耳ヨガナンダとヴィヴェーカーナンダ

ヨガナンダは、古(いにしえ)からのインド文化の結晶ともいえるヨーガをアメリカをはじめ世界に広く普及させた人物として知られています。ヨガナンダ本人が自らの野望でヨーガを広めに西洋に渡ったというのではなく、グルから「お前の人生の使命はヨーガを世界に広める事じゃ!」と言われ、その自分の宿命に殉じた人生だったようです。当時の西洋社会ではインド人といえば蛇使い≠ネどの怪し気なイメージで見られる事が多かったそうで、様々な差別的な扱いに堪えながら、ヨーガの啓蒙に邁進していたヨガナンダですが、本音ではインドで子供たちを教育する事業に専念したかったようなことが映画では描かれてました。今世界の人がヨーガを知り、実践することが可能なのは、ヨガナンダの努力のたまものでもありますから、結果的にはグルが命じるままに使命を全うしたことは本望であったことでしょうね。

インドの精神文化は途方もなく古い時代から受け継がれてきただけあって、聖者たちも個性派揃いで面白いです。悟りを得た人は、凡人からすれば超人のように考えがちですし、また逆に、覚者というのは、清廉潔白で俗世間の楽しみに関心が無く、感情の無い正論しか言わないつまらない人間、というふうなマイナスのイメージもあると思います。しかし、悟るというのは、自分や世界のありのままを知り体感する経験ですから、実際には、より完璧に人間らしくなる、ともいえます。喜怒哀楽が無くなるのが賢者ではなく、喜怒哀楽を適切に表現できるようになるのが賢者のような気がします。そうした境地に至るためのノウハウを人類が共有するために精神世界の文化があるように感じます。

我々はなぜか「やりたいことを、やるべきときに無心にやる」というのがなかなかできませんし、「人助けしたいが、世間から偽善者と思われたら嫌だな」などと善行さえも、余計な思考が邪魔をしてきます。覚者は、そうした「余分な抵抗」をクリアした人であるので、より充実した人生を送りやすくなります。ヨガナンダも、ヨーガを世界に啓蒙するという途方も無い使命に臆する事無くチャレンジし続けられたのは、まさに、そのヨーガでの精神鍛錬によって到達した強い意志のおかげなのでしょう。

またヨガナンダのユニークなところは、テレポーテーションの話や、不死のヨギーの話など、いわゆるオカルティックな話に肯定的なところです。意外に聖者といわれる人たちは、UFOとか超能力などの話に関心がありません。むしろ、修行の妨げにしかならない邪魔なものとして退ける傾向がありますが、ヨガナンダはけっこうそうした不思議な話に寛容で、そうしたところも親しみがわいてきます。ヨガナンダ自身、自分の死期を予言して、予言した日に亡くなったそうですし、しかもその遺体も死後20日経過してもまったく腐敗する様子がなく、まるで生きているかのように生気に満ちていたそうです。最期まで精神世界のカリスマらしい神秘な人ですね。

メモ参考サイト
ジョブズが唯一iPad2にダウンロードした電子書籍 ヨガナンダの数奇な人生とは?(「ハピズム」様より)

ヨガナンダは1920年頃ヨガを世界に広める旅に出ましたが、遡ること30年前にも、ヨーガをはじめとしたインドの精神文化を西洋にもたらしたもうひとりの先人、ヴィヴェーカーナンダがいます。彼もそうした東洋と西洋の架け橋として活躍した聖者として忘れる事はできません。ヴィヴェーカーナンダはシヴァ神の化身と呼ばれた大聖者ラーマクリシュナの主要な弟子のひとりとして知られるインドの偉大な宗教家です。ヨーガ思想の啓蒙に尽力し、西洋に最初にヨガを持ち込んだ近代の聖者です。若い頃は西洋の学問を貪欲に学んだインテリで、神や宗教に懐疑的な考えをもっていましたが、ラーマクリシュナとの運命的な出会いによって熱心な弟子となってきました。このあたりの逸話も興味深いものがあります。wikiにも詳しく書かれていますので、興味のある方は読んでみてください。ヴィヴェーカーナンダがけっこう日本を評価しているような記述もあって、なんとなく嬉しくなりました。

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ヴィヴェーカーナンダ(Swami Vivekananda 1863〜1902年)は、大聖者ラーマクリシュナの主要な弟子のひとりとして知られた聖者です。ラーマクリシュナは彼に会った時に「どうして君は私をこんなに永い間待たせたのですか!」と泣いて喜んだという逸話があります。ラーマクリシュナいわく、彼ヴィヴェーカーナンダとは、いわゆる前世からの旧知の関係だったようです。聖者同士の邂逅だけあって、なんとも興味深く不思議な出会いです。

メモ参考サイト
ヴィヴェーカーナンダ(ウィキペディア)



耳ヴェーダーンタ哲学とは?

ヴィヴェーカーナンダが世界に啓蒙したのは、ヨガの思想で中心になっているヴェーダーンタ哲学と呼ばれる宗教思想で、紀元前数百年まで遡るインド哲学のエッセンスともいえる思想です。これはエックハルト・トールなどの現代のスピリチュアルの教えにも影響を与えている精神世界の重要な概念で、こうした思想を学ぶこともヨーガのひとつです。思索によって悟りを目指すヨーガをジュニャーナ・ヨーガといいます。有名な聖者ラマナ・マハルシはこのジュニャーナ・ヨーガによって悟りを得たといわれています。悟りを得られるレベルの思索というのは、概念を知識として理解するというレベルを越えて、概念を体験として実感するレベルにまでもっていかなくてはならないので、結局は日々の精神修行や身体の健康など、トータルな修練が必要になるでしょうね。

ヴィヴェーカーナンダが世界に啓蒙したヴェーダーンタ哲学の教えは、現代のスピリチュアル思想の主流になっているワンネス(全てはひとつであるという思想)の概念の源流です。インド思想によれば、自分の内面の究極には神がいて、この内部の神をアートマンといいます。また、自分の外側の世界、果てしなく宇宙にまで広がる全ての世界は、そのすべてが神の身体であり神自身が表現された存在で、これをブラフマンといいます。そして、ヴェーダーンタ哲学では、このアートマンとブラフマンは究極には全く同じであると言っています。つまりこの世界、この宇宙は、ただひとつの究極の実在(=神)だけが存在するのみで、他の一切は幻である、という考えです。神だけが存在している世界に私≠ェいるのですから、当然私≠ヘ究極的には神であるということになります。つまり、あなたもまた神なのです。一見突飛に思えますが、冷静に考えてみると、合理的な思索を突き詰めた末に見えて来る理論だというのが理解できます。

客観的と思ってるモノも自分の主観の内側で、そう定義しているだけで、「本当の客観」は自分には解りません。自分が体験する人生の内側にしか山水草木も他人も宇宙も無いわけです。人間が自分という器を越えて存在できない以上、客観的世界は、どこまでいっても主観的世界の内部の虚構ともいえるわけで、で、あるなら、自分の人生には、自分の頭で考えたり自分の目で見たり自分の耳で聞いたりするような世界以外は、リアルな現実世界であると証明することは不可能です。そうした世界観をそのまま突き詰めて行くと、必然的にヴェーダーンタ哲学の指摘する世界像そのものと合致します。人間という主体を通じて世界のリアリティを解釈しようとすると、むしろこうした世界観は容易に疑うことができませんし、科学とは別のアプローチでもって真実を指摘しているようにも思えます。

こうした考えは、必然的に仏教にも影響を与え受け継がれていきます。やがて仏教は世親の唯識論など複雑な思索哲学へと発展していきますが、禅の誕生により、思想の解釈よりブッダの悟りそのものに主眼を置いたシンプルで実践的教えが生まれました。「あれこれ考えるな、ただ座れ」というところまで教えを単純化していきましたが、それはそれで、シンプルすぎるゆえの難解さもあり、そうした歴代の偉大な精神世界の覚者たちの様々な啓蒙のアプローチの足跡もまた興味深いものがあります。


以下、ヴェーダーンタ哲学についてヴィヴェーカーナンダが言及している言葉をいくつか抜粋しました。

満月ヴェーダーンタは、我々の真の本性は無限であるという。しかるに我々は、己のカルマ(業、因縁)によって制限している。───その鉄鎖を断ち切って自由になれ! 神そのものとなれ!

満月ヴェーダーンタはいう。────我々はみな心の奥で自分の弱点を知っている。───しかし気にするな。───弱点は思い出した所であまり役に立たない。弱さに対する治療法は、弱さを案ずることではなく、強さについて、すでにあなたに内在している強さについて考える事だ。小さな事に目もくれるな、すべてを神と見て進め、神の中に全てを包め。やさしさは、そこから湧き水のようにわいてくる。進め、全てに向かって。未来は君たちのものだ。

満月ヴェーダーンタは何を教えようとしているか、───それは、「世界の神聖化」である。人間が人間を放棄して神になることだ。世界を神聖化することだ。


ヴィヴェーカーナンダ





耳瞑想について

ジュニャーナ・ヨーガは、思索を深めていきながらやがて思索そのものを越える瞑想のようなものだと思います。一般に思索を極めていく瞑想よりは、思索を止めて思考しない瞑想のほうがメジャーだと思います。これら瞑想というのは、禅や仙道など、ほかの精神世界の修行でもスタンダードなものなので、以前から下手の横好きでたまにやったりするんですが、本当は毎日習慣的に続けたほうが理想でしょう。人間は、生まれ落ちてからずっと寝てる以外は始終何かを思考しているので、「何も考えない」という時間を、たとえ1分でも設けることを嫌がります。ためしに、やってみると解りますが、たとえ1分でも何か考えれる時間を考えない≠ニいう無意味そうな事のために費やすことに、漠然とした拒否感を感じると思います。まずは、この拒否感と闘いつつ、考えない時間をつくる習慣を作っていくしかありません。実際は考えない事というのは、考える事以上のものすごい威力を持ったものです。

「人間は考える葦である」という言葉の通り、人間は考えることで地球の頂点に立つ種となりましたが、同時にこの考える能力は他の生命には無い類いの苦しみを人間にもたらしました。人間は毎日6万回思考すると言われますが、その9割はただ漫然とした無意味な思考です。無意味ならまだマシで、不安や後悔や嫉妬や憎悪など、人間に苦痛をもたらす原因のほとんどは、こうした惰性的な思考から発生しています。思考というのは、仕事や勉強などをしている時など、思考すべき目的があって、意識的に思考する場合は有用で、まさにジュニャーナ・ヨーガなどは思考を突き詰めることで思考の枠を超えるヨーガですが、それ以外の漫然とした惰性的な思考はむしろ不幸を自ら生み出す装置になっています。なので、思考しない無思考状態を生み出す瞑想の技術を会得することは、人生においてかなり役に立つテクニックになるでしょう。数分でも無思考状態に浸ってると、頭がだんだんすっきりしてきて、実感として周囲の空間から目に見えない爽やかな感じの精神的な栄養が注入されるような感覚があります。

瞑想する感覚がある程度わかってくると、思考と感情は切り離せることに気づきます。嫌な事があると、つい私たちは「嫌な事」という情報とセットで「嫌な感情」を自動的に発生させてしまい、「嫌な事は常に嫌な気分になるものだ」という条件反射を無意識に作り上げています。しかし、これらは情報処理と感情の発露を無意識に同時に行うからそうなるだけで、意識していれば嫌な事が起こっても、その事実を情報として脳で処理するだけにして、イライラする感情を切り離す、という芸当が出来るようになってきます。

また、逆に、漠然としたネガティブな感情が先に発生して、その感情に見合うような嫌な記憶を脳が捜し出して来て、あたかも、その嫌な記憶がイライラさせているかのように自分を錯覚させることもあります。体調が悪い時、病気の時、転んだりして痛みを感じた時など、不快な感情が起きている状態に、しばしば脳は嫌な記憶を捜し出して来ます。脳は、多分善かれと思って、嫌な感情だけをひとりぼっちにさせないように、嫌な記憶という遊び相手を探してくるのでしょう。この仕組み(感情と情報は別のもの)に気づけば、後は自分の意志で湧いてくる感情を受け入れるか受け入れないかを決めれるようになります。私はこのテクニックを覚えたおかげでだいぶ楽になりましたので、瞑想の習慣の無い人は気が向いたらぜひチャレンジしてほしいと思います。習慣づけていないとつい忘れがちになる瞑想ですが、何かを呆然と待ってる時間など、瞑想の時間はけっこういくらでも作れますし、ぜひ習慣にしていきたいものです。レディ・ガガのメンターとして一躍話題を集めたアメリカの有名なインド出身のスピリチュアルリーダーであるディーパック・チョプラ氏は、毎日朝晩30分づつの瞑想を習慣にしているそうですが、私も出来ればそのくらい長い時間の瞑想ができるようになりたいものです。



耳「右の頬を打たれたら左の頬を差し出せ」についての考察

話は少しそれますが、聖書の有名な言葉で「右の頬を打たれたら左の頬を差し出せ」というものがありますね。これって、最初聞いたときは、とんでもない妄言だと思ったものです。暴力を受け入れるのは、悪をつけあがらせるだけで、何の意味もないと思ってました。しかし、この言葉の真意はそういうことではなく、悪意を甘んじて受け入れなさいという意味ではないことに気づきます。暴力を受けたら反撃せずに受け入れなさいという単純な意味ではないのです。暴力をふるわれたら、どんな生物でも逃げるか反撃するかのふたつしか選択肢はありませんし、人間もそれは同じだ、と我々は思い込んでいます。しかし、イエスはそこに第三の選択肢「むしろ左の頬を差し出す」という突拍子も無い選択を提案し、そのような行為の自由さえ人間にはあるのだ。ということをいいたかったのだと推測します。つまり、人間は心の鍛錬によって怒りなどのネガティブな感情を制御することが可能であり、その境地では、他者からの悪意に対して脊髄反射のような反応ではなく、どのような状況でも無限の行動の自由があるのだ、という人間の可能性を示唆しているのではないか、ということです。噛み砕いて言えば、「右の頬を打たれたら、逃げてもいいし、殴り返してもいい。だが、それだけでなく、逆に左の頬を差し出すという意表をつく一手もあるよ」ということだろうと思います。まさにイエスの提言は、あらゆる生物の中で人間にしか取れない行動の一例を示し、人間はとてつもなく自由な存在であることを示したかったのでしょう。

原始仏教の教典『ダンマパダ』の中でブッダは、「実にこの世においては、怨みに報いるために怨みをもって行動したならば、ついに怨みが止むことがない。怨みを捨ててこそ止む。これは永遠の真理である。」と断言していて、ここでも、悪意に対して取るべき行動に恨みや怒りをもって対応すべきでないことが説かれています。この教えもよく吟味してみると、ブッダも反撃を禁じているのではなく、あらゆる物事に冷静に対処せよ、ということを言っているのでしょう。不動明王などの憤怒する仏もおりますから、怒りもまた人を正道に向かわせるためのアプローチのひとつとして正しく用いるなら、必ずしも怒りそのものが禁じ手なわけではないことをうかがわせますね。

人間社会では、学校などで知識を学ぶ習慣は永い時間をかけて訓練されますが、感情のコントロールを訓練する機会はほとんど無いのが現状です。とくに、怒りや不安などの苦しみをもたらす感情をコントロールしていくことは、人生においてとても重要なことですから、瞑想はそういう意味でもとても役に立つ技術であるように感じます。



耳ヴィヴェーカーナンダの言葉

インド関係の古書を読んでいたら、ヴィヴェーカーナンダの深い言葉が目にとまり、感動したので、最後にいくつかご紹介したいと思います。

満月あなたは存在する一切である。目醒めて立ち上がれ。おお、強いものよ、この眠りはあなたにふさわしくない。目醒めて立ち上がれ。このままではあなたに似つかわしくないではないか。あなたは弱くてみじめだと思うな。至上万能なるものよ、目覚めよ、そして立ち上がれ。あなた自身の本性をあらわせ。

満月決して「否、ノー」というな。決して「私は出来ない」というな。あなたは無限なのだから。あなたは何でも出来る。あらゆることがあなたにとっては可能である。あなたは全能なのだ。

満月完成は得られようとしているのではない。あなたはすでに完全である。あなたはその場で偉大である。小さな事を考えて人を批判するな。神そのものである自分に気付け。あなたの心を覆っている迷信を駆逐せよ。

満月神はあなたの享楽する富の中にもある。神はあなたの心の中におきる欲望の中にもある。神はあなたが欲望を満たすために買う品物のなかにもある。

満月我々はあらゆるものを、神自身で覆わなければならない。いつわりの楽天主義によるのでもなく、我々の目を悪に対してふさぐのでもなく、あらゆるものの中に神を見なければならないのである。

満月石や木は決して法則を破る事はない。しかしいつまでたっても石は石であり、木は木のままである。ただ人間だけが、束縛や法則を乗り越えて、運命と戦って、これに打ち勝つ力を恵まれているのである。

満月我々不死なる、永久に純粋なる、完全なる霊を、小さき心や、小さき身体だと考えるな。これこそ一切の無知のもと───一切の利己心の母体である。人間はたとえ見かけが弱くとも、すべて光栄ある不滅の児である。これが真理である。

満月諸君が欲するすべてを持て!ただ真理を知れ、それを実現せよ!諸君の存在の全ての部分に神があることを知れ。世界はたちまちにして天国と変わるだろう。

満月幸福よりも一層多くを教えてくれるものは不幸である。富よりも一層多くを学ばせてくれるのは貧乏である。また、内面の火をかきたててくれるのは、賞賛よりも攻撃である。

満月あなたが世界中探しまわっていた相手、神殿で泣きつつ訴えた相手、雲に包まれて一切の神秘中の神秘として見えなかった相手、───真理、神はあなた自身であり、あなたの中にいる。

満月私は生まれる事のない、死ぬ事の無い、浄福にあふれる永遠なる大霊である。このことを昼も夜も思え。それがあなたの生命の一部となり、分子となるまで思え!あなたの行動のすべては、この思想の力によって拡大され、変質され、神聖化される。

満月我々がかくありたいと願うものは、何でも我々自身でそれを為す力をもっている。今我々の前にあるところのものは、すべて我々自身の過去の行動の結果として現われたものである。我々が将来なりたいと願うものは何でも、現在によって創りだすことが出来る。

満月失敗を恐れるな。闘いによって得られるものでなければ、持つに値しないものだ。失敗は人生の美であり、それがなかったならば、どこに人生の詩があるだろうか。理想を千回も振りかざせ。そして千回失敗しても、もう一度企てよ。

満月世界の歴史は自己を信じた少数の人たちの手によってつくられた。あなたたちは何でも出来る。失敗するのは、無限の力をあらわす努力が足りないからである。個人でも国家でも、自信を失えば死が来る。まずあなたたち自身を信ぜよ。神であることを信ぜよ。

満月自己をこの小さい肉体の中に閉じ込めるな。私は宇宙である。一切者であるあの無限なるものが、自分であるといえるまでになれ。あなたには死はなく、病もなく、不幸もない。あなたは不死、不滅なる、永遠で完全な霊そのものである。あなたは無限の青空のように大きいのだ。


内垣日親著『超人世界・ヨーガの大聖ラーマクリシュナとその弟子たち」ベーダンタ文庫 1973年 より
posted by 八竹釣月 at 09:11| Comment(0) | 精神世界

2017年04月25日

インド・天竺と呼ばれた国

耳東洋哲学の巨匠、中村元
般若心経の唯心論的な世界観に惹かれて仏教関係をいろいろ調べていくと、日本の仏教というのはほとんど中国を経由した大乗仏教がメインであることに気づきます。では、中国のフィルターがかかっていない生の仏教とはどういうものか?が気になって調べていくと、必然的に中村元(なかむら はじめ)に行き着きます。中村元先生は中国を経由した教典ではなく、インドの現地語の教典を直で翻訳し、日本の東洋哲学研究を大きく前進させたことで知られる偉大な学者です。ネットの動画で動いている中村先生を拝見して、想像してたような学者然とした頑固そうな感じではなく、気さくで優しそうな笑顔の似合う方で、より興味がでてきました。

TV参考サイト
仏教の本質 哲学者「中村元」(YouTube)

仏教の母体になっているバラモン教やヒンドゥー教の思想のひとつにヴェーダーンタ哲学というものがありますが、これは現代のスピリチュアルで流行っているアドヴァイタ(不二一元論。いわゆるワンネス的な思想)のルーツということもあって、たまたま『ヴェーダーンタ哲学の発展』(昭和30年[1955年] 岩波書店)という本を手に入れたのですが、この本の著者が中村元で、それで遅まきながら知った感じでした。そして、仏教の興味から、仏教の母体になっているインド思想に興味がわき、『バガヴァットギーター』などをはじめ、バラモン教、ヒンドゥー教などのインド文化に関心がわいているところです。

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インド関係の本。

耳天竺と呼ばれた国、インド
そんなこんなで、自分の中で興味が高まっている最中のインドですが、インドって知れば知るほど奥が深いですね〜 錬金術が化学を発展させたように、神を論理的に証明するという熱意が哲学を生んだように、この現代の現実世界を支配している合理主義も、元はと言えば精神世界に行き着きます。そして精神世界を突き詰めて行くとインドにたどり着きます。インドといえば、かつてサイババブームがありましたが、悟りを開いた聖者の伝説が数多くある国で、インド政府も聖者認定などをしていたりとか、インドの聖者というのも一種の国策っぽい所があるようで、それゆえインチキ臭い聖者も多いようですが、また本物も多く、現代世界においてもスピリチュアルリーダーはインド出身者が圧倒的に多いのも事実です。そういえば先日70年間も断食していたヨガの行者がニュースになりましたね。インド政府が確認のために2週間ほど監視したところ、たしかに何も食べずに生活していることが証明されたそうです。この前俳優の榎木孝明さんが1ヵ月の不食チャレンジに成功した話が話題になってましたが、さすがインド、こちらは70年です。さすが神秘の国ですね〜 ビートルズも横尾さんもインドに惹かれた気持ちが最近よくわかるようになりました。

メモ参考サイト
70年断食のインド ヨガ聖者、科学者も仰天(AFPニュース)

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インドグッズその1。一度見たら忘れられない象さんの顔を持つ神様、ガネーシャのカレンダー。富と智慧をもたらす神様として人気です。なぜ象の顔をしているかというと理由があって、ガネーシャはシヴァ(父)とパールヴァティ(母)の子というエリートな血をひく神様ですが、シヴァが自分の子供だというのを知らずに首をはねたところ奥さんに激しく怒られ、たまたま通りがかった象の首をもぎ取って急いで付け替えたことから象の顔になったようです。なんともアンパンマン的なユニークな逸話ですね。ガネーシャもアンパンマンも「頭」というアイデンティティの中枢を入れ替えても何もなかったように記憶や意志など心の機能まで受け継がれる所に哲学的な空想がふくらみますが、そういえば以前ネットで話題を呼んだ「ツブアンマン」というアンパンマンのパロディ漫画がそうした問題をテーマにしていて、その鋭い考察とユーモアに感服したのを思い出しました。

ガネーシャといえばこの間「夢をかなえるゾウ」というユニークでスピリチュアルな小説がドラマ化され面白かったですね。冴えないサラリーマンのアパートに突然ゾウの顔をして関西弁をしゃべるガネーシャ神が現れ、主人公に成功哲学を説いていくユーモラスな物語でした。

るんるんJai Ganesh Jai Ganesh Jai Ganesh Deva
インド音楽もすごく個性的で、聴いてると神話の世界にトリップしそうな感じで独特の心地よさがあります。とくにこのガネーシャ神を讃える曲が好きで、最近よく聴いてます。

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インドグッズその2。破壊と舞踏の神、シヴァの像。ヒンドゥー教の三大神の一柱。ブラフマーが世界を創造し、ヴィシュヌが世界を維持し、シヴァが世界を破壊します。新しい世界を造るためには古い世界はいったん壊されて無に帰さなくてはならないからであり、破壊といってもそこにはネガティブな意味合いはなく、ただ宇宙の三つの様相のうちのひとつを担当しているという感じだと思います。破壊神という恐ろしげな側面がありながらも人気の高い神様で、紀元前2000年以上も前から崇拝されていたらしく、今日知られている神々の中で最も古い神であるという説もあるようです。

耳昨日も明日も同じである!
最近知ったのですが、インドの公用語ヒンディー語では「昨日」と「明日」が同じ言葉だということです。まさに文化の違いを如実に感じると同時に、言葉の奥に横たわる深遠な哲学さえ感じさせてくれます。英語や日本語では区別しているので、当然「なぜ区別しないのか?」と疑問に思いますが、区別しない文化では区別しないのが当たり前で、この場合は文法や文脈などで十分理解できる仕組みのようです。例えば日本語では順番をあらわすのに「○○番目」という言い方をしますが、英語にはこの「○○番目」という概念がありませんし、英語ではお湯も水も「water」ですし、また英語では兄と弟、姉と妹を区別しませんが、それで困る事は無いのと同じ事だろうと思います。このあたりは言語学的に考察すると面白そうですね。言葉とその対象物は基本的には1対1対応しているという建前で言語体系(ランガージュ)が成り立ってますが、実際には民族や文化によって「何をひとかたまりの概念として認識するか」が微妙に異なるので、上記のような細部の食い違いが起こるのでしょうし、それこそが異文化の魅力でもあります。

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google翻訳にかけてみたら、やはり同じ単語に翻訳されました。

ヒンディー語で「昨日」と「明日」を区別しないというのも背景にある文化が影響しているのでしょうね。インドでは時間というのは「今」が最大の起点で、明日や昨日というのは「今」からの隔たり具合がどちらも1日分であり、似たようなものなのかもしれないですね。スピリチュアル宗主国だけあって、インド的には、時間は過去から未来に流れる1次元的なものではなく、「今」という中心点に自分がいて、そこから同心円状に広がっているのが過去や未来なのでしょうか。時間の概念については、私も前々から興味があって、相対性理論での時間の伸び縮みとかワクワクしたものですが、いつも行き着く考えは「我々が考えている時間≠ニいうのは本当に1次元的なものなのか?」ということでした。「過去は変えられなくて未来は無限の可能性がある、というのは慣れた概念だが、その逆、過去は自由に変えられるが未来は固定している、というのもアリな考えなのではないか?」という寺山修司っぽい空想など、いろいろな時間の在り方を考えるのは楽しいです。そもそも時間というのはただ我々が社会環境から類推した仮定の概念であって、環境が違えば時間の概念もまるっきり変わるはずだ、というのは漠然と思っていたことなのですが、このインドの「昨日」と「明日」が同じ言葉という事実は、そうした考えに何らかの示唆を感じる面白い発見でした。

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インドグッズその3。多分ヒンディー語のアルファベットを覚えるための児童用の教育ポスターだと思います。何かインドっぽいものが無いかと部屋を探してたら出てきました。多分アジア系雑貨店で昔手に入れたものだと思います。こういう普通のものまで神秘の香りがしてしまうところもインドの面白さですね。

本当は、最近気になっているインドの聖者、パラマハンサ・ヨガナンダやラーマクリシュナなどについて書こうかな、と思って書きはじめたのですが、そこに至るまでのインドへの傾倒について書いていたら長くなってしまったので、そのあたりはまた項を改めて書いてみようと思います。そんな感じでインドが気になっている昨今、最近の食事はカレーの頻度がすこぶる高くなっております。カレーといえば、一度本格的にナンを主食にして食べてみたいと思っているのですが、本場のインド人はほとんどナンは食べないという話をネットで見かけました。とにかく、ナンとも謎多き国で興味が尽きないですね。
posted by 八竹釣月 at 03:09| Comment(0) | 精神世界

2017年02月24日

夢散歩

「夢」という言葉は、睡眠状態の時に経験する件の現象という意味の他にも、将来の理想や願望を意味しますが、たまに「なんで同じ言葉を当てているのだろう?」と思う事があります。意味的にも睡眠時に見る夢のほうは、一般に生理現象とされていますし、これが将来の希望などをも意味するというのは昔からなんとなく気になっていました。英語でも同様にどちらもDreamですから、もしかすると世界的にそうなのか?と思って調べてみると、どうも日本で将来の希望を「夢」と言い表すのは明治時代あたりからと比較的新しい表現のようで、英語と同じなのは、そもそも英語のDreamを訳すときに「夢」としたために、Dreamの二重の意味も「夢」に当てられたことが現在の慣用になっていったみたいですね。そうなると、じゃあ英語ではなぜ「ドリーム」に二重の意味があるのか?と気になってくるところですが、どんどん話がズレていってしまうので掘り下げずに進みます。

今回は睡眠時に見るほうの「夢」の話です。昨日変な夢を見たので忘備録替わりに書いてみようというのが趣旨です。他人の夢の話ほどくだらぬものはない、という一般論がありますが、個人的には「夢」というのはとても関心のある現象なので、他人の夢にもけっこう興味があります。夢判断みたいな興味はあまりなくて、純粋に、夢の不条理で突飛な世界に興味があるのです。

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昨日見た夢。なぜか異常なほど狭いエレベーターに乗っている。途中の階で止まり、扉が開くとエレベーターを待っている夫婦と目が合う。どう考えても自分ひとりしか乗れるスペースの無い狭すぎるエレベーターなので、申し訳無さそうにペコリを頭を下げて早々にドアを閉めようとする。

フロイトは「夢は無意識に至る王道である」と言ったそうですが、まさに夢は、広大で自由でとりとめのないパワーを秘めた潜在性を、目覚めた意識が捉える常識的な世界で普段生活している我々に気づかせてくれる何かのチャンスのような気がします。フロイトが夢を手がかりに人間の奥深くに封じ込められている無意識の領域に光を当てたのは科学というより、人類文化的な革命だったと思います。フロイトにつづいて無意識の探検家ユングも実に興味深い研究をしていますし、精神分析だけでなく、芸術にも影響を与え、アンドレ・ブルトンを先頭にヨーロッパを席巻したシュルレアリスム運動が興りました。もっとも成功したシュルレアリスト、サルバドール・ダリもフロイトの影響を強く受け、夢の世界を現実世界を写生しているかのように写実的に描いてみせて世界中を驚かせました。

ダリだけでなく、現代でも多くのクリエイターが物理法則までなにかおかしい夢の中の妙な世界にヒントやアイデアを得て創作に生かしているのは周知のところで、そうした夢を意識的に作品に取り入れている作家というと、画家の横尾忠則や漫画家のつげ義春、蛭子能収や小説家の筒井康隆など、いくらでも出てきますね。夏目漱石の「夢十夜」も文豪の巧みな観察眼で10の夢を描き出した作品で印象深く思い起こされます。夢は、自分の理性で思いつく以上のアイデアをもたらす宝庫ですから、これをうまく活用できるようにすることは、チャレンジしがいのあるレッスンですね。

メモ参考サイト
夏目漱石『夢十夜』(「青空文庫」様)

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先日見た夢。身体から切り離された手首を手にしている。これは自分の手だというのが解る。しかし、ちゃんと腕からのびる手は二本ともついているので、これは頭にある手を取り外したモノであることに気づく。だんだんと手首が紫色に変色していく。早く元通りにくっつけないと手首に血液が滞って腐ってしまい、二度とくっ付けることが不可能になってしまうので焦りはじめる。(下の絵につづく)

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手首を頭上に乗せてグリグリとはめ込む。やった、うまくハマって元通りになった。頭上の手首はみるみる血色がよくなり元気にグーパーをしている───。
頭に手首が生えていることを全く疑問に思っていないところが夢の世界独特の感覚ですね。普段の常識も夢の中では全く考慮されてなくて、とことんフリーダムです。


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久住昌之『夢蔵』 情報センター出版局 1995年
漫画家、エッセイストの久住昌之さんが友人知人から聞き描きしたたくさんの夢をスケッチしたキテレツな夢画集。面白くてシュールでなんともいえない存在感をもった一冊です。「一人乗りロープウェイ」の図など、上記の私の夢「狭いエレベーターの夢」と通じる異世界独特の変な設備ですね。絵のタッチもラフスケッチっぽくもあり、かつ意外に緻密でもあるような、まさに繊細なんだかいい加減なんだかわからない夢の独特な世界を上手くあらわしている絶妙なタッチで惹き込まれます。つげ義春さんや吉田戦車さんの絵っていつも夢っぽい≠ニいうか、夢の世界のリアリズムをスケッチするのに適した絵柄だなぁと思っているのですが、久住さんもまた夢っぽいタッチを駆使する異才であることを認識させられた一冊です。現在は『mangaum』と改題されて刊行されていますが、新たに新作の書き下ろしが12点あるらしいのでこの新版のほうも見てみたいですね。


オカルティストの言うような「寝ている時に体験する別世界」としての夢というのも惹かれる概念ですし、シュタイナーやカスタネダなど、多くのオカルティストは夢を単なる生理現象としてではなく、世界の真理を探究するためのひとつの方法論として扱っていますね。無意識の世界は想像を超えた広大な領域なので、理性の範疇を超えた何かスゴイものが潜んでそうです。私も昔「明晰夢」を見る訓練を少しやったことがあり、なかなか面白かったです。夢はなんとなく現実よりもチャチくてアバウトな世界、というイメージがあると思いますが、これはたいてい目覚めたときにはほとんど詳細は忘れてしまうために、夢の世界のディテールが抜け落ちているせいです。

明晰夢とは、自分が夢を見てることを自覚している夢のことで、以前、私は明晰夢を見ることに成功した時に、「夢の世界の事物は現実と較べてどこまで繊細で緻密なのだろうか?」ということが気になって、たまたま夢の中で歩いていた道の脇にあった雑木林の中の一本の木から葉っぱを一枚ちぎり、その葉っぱの葉脈がどうなっているか目を近づけて見てみました。どうせ夢の中の葉っぱだからテキトーな感じなのだろうとタカをくくっていたのですが、実際に夢の葉っぱはものすごく緻密な葉脈がはしっていて、じっと見てると本物よりも瑞々しく、オーラのように光を発しはじめたりしました。おそらく、注意を向けたモノは注意を向けた分だけエネルギーを得るために、どんどん緻密さを増したのだと思います。夢の中の本屋でダリの画集を見ると、ダリが絶対描いていないであろう未知のダリ作品が載ってますし、こういう本が欲しいと思っているものがそのまま出て来たりするので、夢の探索は興味がつきないものがあります。

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アントニオ・ガウディ『カサ・ミラ』
去年の春頃に、人気の無い田舎のあぜ道を歩いている夢を見ました。道の脇は桑畑で、歩いている途中に唐突に巨大な建物がそびえています。H・R・ギーガーの絵を彷彿とする印象で、有機的な曲線が連なっている建物です。とても印象深く、起きた後もしばらく気になっていました。そんなある日、本屋で偶然夢と同じ建物が写った写真を発見してビックリ。それはアントニオ・ガウディの「カサ・ミラ」でした。たしかにガウディの建築って見方によればギーガーっぽいな、と改めて感心しました。それ以来、急にガウディに興味がわき、続いてガウディに影響を与えた当時の芸術様式であるアールヌーヴォー(とくに家具)にとても惹かれるようになりました。以前はグニャグニャして曲線ばかりのノリが気持悪いとさえ思っていたアールヌーヴォーですが、夢をきかっけに俄然パラダイス感を持った魅力的な様式という感じで180度印象が変わりました。


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つげ義春『必殺するめ固め』 晶文社 1981年
つげ義春の夢を漫画にした一連の作品がすごく好きで、つげさんの「夢をできるだけ新鮮なまま表現したイラスト」というか「夢を見ながらその場でスケッチしたかのような」そんな雰囲気がたまりません。『ねじ式』はそうした夢をモチーフにした最初の作品であり、また漫画史に残る大傑作ですが、その後のそうした夢を題材にした本で一番ショックを受けたのは『必殺するめ固め』に収録された作品群です。「そうそう夢の世界ってほんとこんな感じなんだよね〜」と膝を叩きたくなるような秀逸な作品の数々、まさに夢の作品集です。


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『エドガー・エンデ画集』 岩波書店 1988年
夢っぽい世界を描く画家はダリやマグリットなどシュルレアリスムの画家に数多くいますが、ジョルジオ・デ・キリコの雰囲気に通じるエドガー・エンデの独特な静寂で哲学的な幻想とでもいうべき世界は、夢の風景にある奇妙なムード感をするどく描き出していて惹かれます。エドガー・エンデは、『はてしない物語』や『モモ』の作者として知られるドイツの児童文学者ミヒャエル・エンデの父でもあります。超個性派ファミリー、といった感じで、芸術の雰囲気に満ちあふれた羨ましい家族を想像しますが、実際は父エドガーが愛人をつくって同棲して絶望のどん底にたたき落とされた母をミヒャエルが支えになって賢明に助けたりなど、波瀾万丈なところもあったみたいで、やはり深みのある作品を作る作家はそれなりに人生の深淵を見て来ているのだなぁ、と感じます。
posted by 八竹釣月 at 11:48| Comment(0) | 精神世界

2016年10月14日

もののけ姫と動物神

唐突ですが、一番好きな宮崎駿作品は「千と千尋の神隠し」です。しかし、この項ではべつに「千と千尋の神隠し」を論じたいわけではなく、「千と千尋の神隠し」の次に好きな「もののけ姫」について書いてみたいと思います。「もののけ姫」の面白いところは、神がイノシシやオオカミという物理的な存在として動物の姿で描かれるユニークさです。人間よりもヒエラルキーの高い聖なる動物としてイノシシやオオカミなどが描かれていて、見ているうちに、そうした概念を共有している古代社会にある種のユートピア的なものを感じます。あの世界では、イノシシやオオカミなど野生の動物が神になったりする世界ですから、つまりはちょっと森に入れば聖なる存在に物理的に出会える可能性があるわけで、そうしたところが「もののけ姫」に惹かれるところですね。

ところで、人気のブログのジャンルに「海外の反応」というのがありますが、それ系のとあるブログで、世界各国の外国人による宮崎駿作品への感想が紹介されていました。そこに「もののけ姫」についての気になる興味深いコメントがひとつありました。

「もののけ姫」のクライマックスでは、森の主であるシシ神を殺しその首を狩るというシーンがでてきますが、その気になったコメントは、この「神殺し」についてのコメントです。「なぜ神を殺すのか?」というものですが、たしかに、あれは日本人の目からも普通にショッキングなシーンであり、だからこそあの作品の力強いメッセージが生きてくるのだと思いますが、たしかに、いったいどのような宗教観から神殺しという発想がでてくるのか?というのは、とくに外国人からは興味のある部分なのだろうな、と感じました。

「もののけ姫」での神殺しは、人間と神を対立構造ととらえたうえで、文明と神話、あるいは科学と宗教との相克を象徴しているような印象で、いかにもリベラリストの宮崎駿監督らしい切り口です。神殺しは、主人公の本意ではなく、鉄を作る村を治めるエボシの意志であり、それを後押ししているのは天朝、つまり国家権力であります。国家による神話世界の破壊が神殺しであり、宮崎監督は、あくまで神殺しを否定的に描いているようにみえます。ここで殺される神は、一神教の神ではなく、ひとつの森を治める八百万の神々のうちの一柱でしょうから、西洋的な視点からは精霊、自然霊に類する存在が近いのかもしれませんね。

神は崇高な存在ですから、ついつい「神殺し」は絶対的な悪なのだ、という条件反射的な思い込みが現代人にはあり、私も、そうした部分にはなんの疑問もなく、「もののけ姫」での宮崎監督の神殺しの意味付け(神殺し=聖なる存在への冒涜、というような)に、納得してしまっていたのですが、今日たまたま読んでいた岡本太郎の「日本の伝統」という評論文に、ハッとするような考えが述べられていて、「神殺し」の意味、神を殺すとはどういうことなのか?を、もう一度考え直してみたくなったのが、この記事を書くきっかけになりました。以下、該当部分を引用します。

 狩猟民族にとっては、獲物は激烈な闘争の相手であり、敵です。ところが彼らはそれを糧にして生きているのです。獲物がないということはただちに飢であり、死を意味します。彼らは全存在をそれにゆだね、かけている。だからこそ獲物は彼らにとってまた神聖な存在、つまり神なのです。
 彼らの生存をおびやかし、直接危害をあたえる凶暴な動物か、あるいはそれをとって食べなければ生活できない、つまりそういう危機をはらんだものこそ、宗教的に神聖視されるのです。
 彼らはつねに犯すべからざる神を殺す。逆にいえば犯すゆえにこそ、それはまた神なのです。
 ちょっと今日の常識では分かりにくいかもしれません。だがじじつ、考えてごらんなさい。ぜったいに犯されることのない、そんな心配もないものならば、おそれることも大事にすることも、したがって神聖もへったくれもありません。犯されるという前提、その危機のうえにあるから、犯してはいけないものとして神聖な存在があるのです。
 しかもさらに原始社会では、それを食うということはもっとも神聖な儀式なのです。

岡本太郎「日本の伝統」(『日本教養全集 15』 角川書店 昭和50年[1975年])P209より


殺されるゆえに神聖なのだ。ということですが、ユニークで、しかもとても合点のいく考えですね。人間の、というより生きとし生けるもの全てが背負っている業のようなものを感じます。獲物は食べられるためにいったんは殺されますが、食べられることで別の生命として生きることになります。食べ物は、食べる前は他者≠ナすが、食べたとたんに、かつて他者≠ナあったモノが自分そのもの≠ノなります。食べ物とは、未来の自分の血肉であり自分そのものなのだなぁ、と思うと、食卓に並ぶ食べ物も、縁あって出会った神聖な客人のような気がしてきます。

そういえばアメリカ先住民、インディアンの神話でも、バッファローは獲物であり同時に神でもある神聖な動物として描かれますね。『神話の力』のなかでジョセフ・キャンベルはバッファローにまつわるインディアンの神話を紹介したあとに、その意味を興味深く解説しています。

動物に対するインディアンの関係は、動物に対する私たちの関係とは対照的です。私たちは動物を、より低い生物と見なしています。聖書には、私たち人間が支配者だと書いてあります。さっきも言ったように、狩猟民族のあいだでは、動物はいろいろな意味で人間よりまさっています。あるポーニー・インディアンからこう言われたことがあります───「万物の始まりにおいて、知恵と知識は動物と共にあった。創造神ティワラ、つまり<天上の一者>は、人間に直接語りかけることはなく、ある種の動物を遣わし、『私は動物を通して自分を表す』むねを人類に告げさせた。だから、人間はそれを動物から、そして、星や太陽や月からも、学ばなくてはならない」と。

ジョセフ・キャンベル、ビル・モイヤーズ著『神話の力』(飛田茂雄訳 1992年 早川書房) p152より


殺されて食べられる側にいる豚や鳥などの動物は、たしかに私自身、ともすれば彼らを殺すという罪悪感を払拭したいがために弱肉強食という自然観で自分を納得させ、「弱い存在」として見ようとするクセが知らず知らずについていたように思います。しかし、そういった彼らを見下すような考えに立たつよりも、古代人やインディアンの考えのように、神聖なる存在としての動物、という視点のほうが、より調和的な思想のような気がしてきます。そもそも「弱さ」というものを劣った属性として考えてしまうことも先入観でしかなく、かつて「美しさとは弱さです」と太宰治がいったように、弱さ、儚さ、脆さ、というのは美≠際立たせる属性でもあります。ジョセフ・キャンベルの引用したポーニー・インディアンの言葉はとても奥深いですね。偉い学者や先生の言うことばかりではなく、犬や猫や雲や風など森羅万象が人を導く教師であるという考えは、途方もなく謙虚で、しかも壮大な、究極の思想だと感じます。そういう視点で物事をみれる心の状態こそが悟りのような境地なのかもしれないですね。
posted by 八竹釣月 at 18:51| Comment(0) | 精神世界

2016年06月17日

謎の賢者 老子とタオイズム

三日月道教と仙人

道教というとあまり日本には馴染みが無いですが、仙人の伝説の根底にある民間信仰や思想でもあり、また筮竹占いや四柱推命などの占いなども源流は道教のようで、道教的なるものに触れる機会は意外にあったりしますね。中国文化の根底にある重要な思想が儒教と道教のふたつらしいのですが、孔子の教えを基盤とする儒教と較べて、老子を始祖とする道教は、どこか妖しげでミステリアスな印象をうけます。またそこが惹かれるポイントでもあります。道教は、老子の思想を母体にしつつも、シンプルを極めた老子の教えとは真逆の、バロック的な魔術体系と発展していったのがユニークだなぁと思います。道教では不思議な魔法を駆使する東洋のスーパーマン、仙人が数多く登場し、それぞれに信仰を集めているようです。カンフー映画の傑作、ジャッキーチェンの『酔拳』でも中国の有名な8人の仙人になぞらえた8つの拳法を駆使して戦うアクションがユニークでした。老子の教え自体は禅の教えに似た感じで、教えの中にはどこにも仙人もキョンシーも出て来ないですし、紀元前に成立した聖典とは思えないほど神話色が薄く、哲学のテイストに近い触感があるのですが、それが2千年以上の歴史の中で民間信仰や土着の神話などが入り交じって現在のような不思議テイスト満載の壮大でバロックな思想体系に発展していったのでしょう。老子とその思想を受け継いだ荘子をあわせた老荘思想(道家)と、仙人が跋扈する道教とは歴史的には繋がりがありますが、思想的には別ものになってしまってるという感じです。アカデミックにはもっと厳密な定義があるのだと思いますが、以下そうした元祖老荘思想と発展系の道教をひっくるめたニュアンスでタオイズムという言葉を使っていきます。

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以上「TAO MAGIC -THE SECRET LANGUAGE OF DIAGRAMS & CALLIGRAPHY-」(Laszlo Legeza著 Thames & Hudson刊 1975年)より
道教の呪術や占いなどに使われる護符を大胆に構成したページを並べてみました。オカルティックな妖しい雰囲気だけでなく、カリグラフィとしてのグラフィックな観点からの面白さも感じます。そもそも漢字自体がグラフィックな魅力のある文字ですが、そうした土壌から発生した文字と絵の境界があいまいな感じがユニークです。


道教に関心が芽生えたのは、昔諸星大二郎の漫画などを読んでて、仙人という東洋的な超人思想に惹かれたのがきかっけでした。諸星大二郎の中国を題材にした漫画でしばしば登場する思想で、思いつくだけでも「桃源記」「諸怪志異」「無面目」「太公望伝」など、錚々たる傑作の背景にあるのが道教思想です。現在の中国は共産主義体制のため宗教色の濃い思想は政治的な理由で歓迎されない空気があり、道教も仏教もさかんではなくなっているようですが、かなり民衆に根付いた文化でもあり、民間の行事や風習に根強く道教の影響が見え隠れしています。仙道(仙人になるためのノウハウ)は台湾では現在でも息づいているようで、実際に仙人と呼んでも差し支えないような不思議な法術を使う道士(道教の魔術を使う達人)が存在しているようです。日本では高藤聡一郎が仙道(仙人になる修行体系)の啓蒙において重要な人物でしたが、ここ20年ほど現在の足取りが不明のようです。現代の仙人と呼ばれていた人だけに今頃は仙道を極めて仙境に遊んでいるような気がしてなりません。

三日月関落陰(かんらくいん)

オカルトでは幽体離脱などの特殊な状態で霊的な世界に参入する話はよくありますが、道教の秘術である「関落陰(かんらくいん)」と呼ばれる術はもっと変わっていて、目覚めている状態の普通のクリアな意識を保ったまま霊界に行くことができるとされる摩訶不思議な秘術です。この術を使いこなす道士が台湾に何人か居るらしく、道士は希望者を自在に霊界に送り込みます。目的は主に開運のためで、希望者を霊界にある自分の魂と対応している『魂の家』に行かせて、そこにある不具合を修正することで現実の自分の運勢を好転させるというわけです。『魂の家』にある特定のアイテムが破損してたり汚れていたりすると、実際の人生でそれに対応するアクシデントや不運に見舞われるので、そうした部分を確認して修正するために霊界に行く、ということのようです。私も一度体験してみたいものです。詳細は具道士著「光の中へ―中国道教に伝わる異次元旅行」という本にも書かれていますが、ネットでも「関落陰」で検索すると、詳しい内容や実際の体験記などもヒットしますので興味がある方は調べてみてください。

三日月老子

UMAてんこもりの幻獣の博物誌『山海経』とか、仙人になるためのノウハウを詳しく記した『抱朴子』など、中国の古典には不思議な書物がたくさんあり、興味が尽きませんが、仙人思想のルーツである謎の賢者、老子の思想が書かれた『道徳経』も、そうした古典の中では基本中の基本であり、スピリチュアルの聖典であり、精神世界の法則を知るための貴重な教えに満ちたまさしく賢者の書といった感じの素晴らしい書物で、とても好きな本です。老子・・・生没年不詳どころか実在する人物なのかどうかも曖昧、というのもミステリアスで惹かれます。司馬遷の『史記』では孔子が老子を訪ねて教えを請うという場面が書かれており、紀元前6世紀の人物とされてますが、研究によっては孔子よりも後世の人物であるという説もあり、まだよくわかってないようです。『道徳経』は実に奥深い深遠な思想をシンプルに説いていますが、これほどの思想を持った人物であり、また後世の宗教や思想哲学に多大な影響を与えていながら、功名心がまるでないところがカッコよすぎます。

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清朝時代に刊行された絵の教本、芥子園画譜に描かれた老子の図。司馬遷の『史記』によると、老子は晩年に隠遁を決意し周の国を出ようとしますが、関所の守衛であった尹喜(いんき)によって足を止められ、傑出した賢者がこのまま俗世から姿を消してしまうのを惜しみ、その思想を本に残して欲しいと懇願します。そうして書かれたのが『道徳経』上下二巻であり、その後の老子の足取りを知る者は誰もいない、と書かれています。周を立ち去るときに老子は青い水牛に乗って現れたという伝説があり、老子を描いた絵画の多くが牛にまたがっている老賢者の図であるのはそうした逸話がモチーフになっているようです。

三日月道(タオ)

老子の思想を一言で言うと「道(タオ)の思想」ということだと思います。「道(タオ)」とは全ての根源であり、宇宙万物を貫く法則であり、宇宙そのものでもあり、それらを超えたものでもあり、本来名付けようもないものである、というとらえどころのない、しかし超越的な概念を意味しています。これはこの世界の究極の存在を指しているのですが、ざっくり言えば、多くの宗教が「神」と呼ぶ概念と同じ対象を意味しているのだと思います。「神」と言われると、なんとなく高潔な人格の威厳のある人間っぽい形のイメージを持ってしまいますが、「道」という人間のイメージでない、連続した流れのような流動的なものに神的な概念を例えるのが老子らしさを感じます。道(Road)のイメージというと、出発点もなく到達点もない、ただ流れ行くのみ、という感じで、まさに「無為自然」を説いた老子らしい比喩だなぁと感服します。この道(タオ)の法則を理解して、これに逆らわずに生きることが人間にとってもっとも幸福な生き方である、というのが根底にある思想です。

「道」が語りうるものであれば、それは不変の「道」ではない。「名」が名付けうるものであれば、それは不変の「名」ではない。天と地が出現したのは「無名(=名付けえないもの)」からであった。「有名(=名付けうるもの)」は、万物の母にすぎない。まことに「永遠に欲望から解放されているもののみが『妙(=隠された本質)』をみることができ、決して欲望から解放されないものは、『徼[きょう](=その結果)』だけしかみることができない」のだ。この二つは同じもの(=鋳型)から出てくるが、それにもかかわらず名を異にする。この同じものを、われわれは「玄(=神秘)」と呼ぶ。いやむしろ「玄」よりもいっそう見えにくいものというべきであろう。それは、あらゆる「妙」が出てくる門である。

老子『道徳経』第一章



仏教を母体に生まれた禅の基本思想に「不立文字」、つまり真理を文字に現すことはできないという考えがありますが、この老子の「道」の定義もまた究極の真理には呼ぶべき名前が無く、名付けようがない究極の概念を便宜上「道」と呼んでいるということが述べられます。覚醒してない人間には本質は見えず、ただ本質が映し出す影を見て「これぞリアリティだ」と思い込んでいるのだ、ということも述べてますね。老子の教えは「道」という文字からはじまる上巻と、「徳」という文字からはじまる下巻のみで、全81章、トータルわずか5000文字という、贅肉をそぎ落としたシンプルなものです。この書には老子は正式な名前もつけなかったので、上下巻の最初の文字を拾って「道徳経」と呼んでいるのですが、この深遠なる賢者の書にタイトルを付けないという所、思想の奥深さだけでなく、作者老子の究極に執着心の無い様子は、口先だけの思想家なのではなく、まさしくその思想通りに生きたのであろう証のようにも思えます。

言葉は内にひそんでいる意味を損なうものだ。ひとたび口に出すと、すべては常にすぐいくらか違ってくる、いくらかすり替えられ、いくらか愚かしくなる。

ヘルマン・ヘッセ『シッダールタ』


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幸運の護符。道蔵より。

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不思議な書体で書かれた宋の時代の護符。文字や記号が秘教的な法則で集合しつつひとつの絵柄となっている感じが面白いです。道蔵より。

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「変化の図」。宋時代の道教の経典「道蔵」に収められている護符。

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頭脳を生き生きとさせる護符。道蔵より。

クセのない飲みやすい日本酒に「上善如水(じょうぜんみずのごとし)」という銘柄がありますが、これは「道徳経」第8章の出だしの「上善若水(=最上の善とは水のようなものだ)」からとったものだそうです。また、慣用表現に、晩年になって成功することを「大器晩成」といいますが、これも「道徳経」第41章が出典です。なにげに老子が現代にも息づいていて面白いです。「天網(てんもう)恢恢(かいかい)疎(そ)にして漏(も)らさず」というのも「道徳経」第73章からの言葉で、これもまた含蓄のある凄い言葉ですね。「天の網は広くて大きい。目は粗いが、逃すことはない」という意味で、一見アバウトなようで寸分の隙もないのが天の法則だ、ということを言っています。これはまさに慧眼ですね。ふとジョセフ・キャンベルの以下の言葉を思い出します。

ショーペンハウエルは「個人の運命における意図らしきものについて」というすばらしい論文の中で、人が高齢に達して人生を振り返ってみると、そこには、まるで小説家が意図的に構成したかのように、一貫した筋道や計画があったように見えることがある、と指摘しています。生起した当座は偶然でほとんど意味が無いと思われていた出来事が、一貫したプロットの構成に不可欠の要素になってしまっている。すると、そのプロットを考え出したのはだれか。ショーペンハウエルは、夢がその人自身の−自分では意識できない−ある一面によって作られるのと同じように、人の一生もその人の内なる意志によって作られるのではないか、と言っています。ちょうど、偶然としか思われない形で出会った人が、のちに私の人生を構成する主要な働きをすることがよくあるように、私が知らず知らずのうちに他人の人生を動かしたり、それに意味を与えたりすることもあるのでしょう。あらゆるものがひとつの大きなシンフォニーのようにいっしょに働き、あらゆる要素が無意識のうちに、他のあらゆる要素の構成に役立っている。そしてショーペンハウエルは結論として、われわれの人生は、たったひとりの人間が見ているひとつの巨大な夢のさまざまな様相のようなものであり、その夢のなかに登場するものもすべてまた夢を見るから、あらゆるものは他のあらゆるものと結びついており、それらがひとつの生命の意志、すなわち、自然の内なる宇宙意志によって動かされているのだ、と言っています。

ジョセフ・キャンベル

『神話の力』ジョセフ・キャンベル、ビル・モイヤーズ 飛田茂雄訳 早川書房 1992年  p398〜399 


意味が無いような偶然の出来事も、振り返ってみると重要な意味を持つ出来事だったりすることは誰しもが思い当たると思います。私たちは一方通行の1次元的な時間軸を想定して人生を見ようとするから、それらを「偶然」と認識しているだけなのかもしれません。無時間的な「天」の視点で見通せば、実は全ての出来事には偶然は無いのでしょう。それは、この世界は決定論的な世界である、という事を短絡的に意味するわけではなく、ただ「出来事には全て隠された意味がある」という事のように思います。カルロス・カスタネダの本で、ドンファンと呼ばれるインディアンのシャーマンが全ての出来事を見えない世界からの啓示として受け取るくだりが出てきますが、こうした一見迷信的とも思える思考こそが実は真相を捉える発想なのではないかと感じます。この宇宙は、まだ解明されていないにせよ、ある種の法則が全てを支配している事は明白です。そうでなければ物理学は成立しません。であれば、本来、「偶然に」何かが起こるという発想は正しくなく、カオス理論のような感じで「答え」を解明するための現実的な手段が存在しないために分からないだけ、とも言えます。

「道徳経」には、その「道徳」の名前の通りに、倫理を説いた章もありますが、上記のようなスピリチュアル的な不思議な箴言を述べている章もいくつかあります。その中で特に私が惹かれたのは第47章の以下の言葉です。

戸口から一歩も出ないで、天下のすべてを知り、窓の外を覗くこともしないで、天の道すべて知る。出てゆくことが遠くなればなるほど、知ることはいっそう少なくなる。それゆえに、聖人は出かけていかないでも知り、見ないでもその名をはっきりいい、何の行動もしないで万事を成し遂げる。

老子『道徳経』第四十七章


仙人伝説のルーツになった賢者らしい不思議な味わいの箴言です。まさに行動不要論者ともいうべき境地ですね。外に出ずに世界の真実を知り、見聞すること無しに全てを知り、全てを得る。ヘタに行動することは叡智を曇らす。といった内容で、普通の常識とは真逆のパラドキシカルな言葉です。何もしなくても全てが思いのままになる、というのはすごく気が楽になる思想ですね。ただし、この境地は老子も言及しているように「聖人」について書かれた話です。ジョセフ・マーフィーなどの近年のニューソート系の思想やバシャールなどの思想にも通じる超楽観論ですが、この理屈を理屈通りに作用させるためには、その理屈に疑念を持たずに実践できるかどうかにかかってるように思えます。科学的な思考方法に慣れきっている私たちは、宇宙の内側の銀河の片隅に存在するものすごくちっぽけな存在として自己を認識しますが、神秘学的には、「宇宙は自分の外側に広がっているのではなく、自分の内側に宇宙がある」と考えます。これはインドの古い哲学や仏教思想にもある考え方で、近年ではダグラス・ハーディングが「頭のない方法」という実践的な実験を通してその理論を体験するユニークなノウハウを公開しています。

メモ参考サイト
ダグラス・ハーディングが開発した自己探求の方法

そのような感じで、老子の言葉も、何かの比喩や寓意でこの言葉を語ったのではなく、言葉通りの意味で言ったのだろうと、私は考えています。おそらく老子は「宇宙は自分の内側に存在する」という視点でモノを見れることができたからこそ、あえて「外」に出て行かなくても世界の全てを知ることは可能なのだ、ということを言っていたのだろうと推測します。西洋的な超人思想は人間の能力にプラスαのオプションを付加していく発想で、たとえば西洋魔術では天使の召還などで見えない世界からのパワーを利用する術がありますが、老子をはじめとする中国の神仙思想はむしろ現状の人間にあらかじめ備わっている様々な機能が元来備わっている超人性を阻害しているという立場から、存在の根源、「無」や「空」などに向かうために、余分な機能を引き算していってたどり着く境地を目指そうとしますね。そうした引き算の発想が、「何もしないで万事を成し遂げる」という究極の賢者の姿を描写しているように思います。これは仏教にも通じる発想ですね。仏教思想においては、人間は元来超人(=仏)だが、環境から学習していく思い込みなどで超人性(=仏性)に多層の覆いがかかってしまっているという前提で、環境や体験によって堆積してきた不純物や塵を取り除くことで自己の根源、つまり本来の自分に回帰することを目標とする宗教思想といえると思います。

三日月芸術と道(タオ)

音楽や絵画など芸術的な文化では、よく「個性が大事」であるかのような思い込みがあって、「オリジナル信仰」みたいなものを感じますが、実際に偉大な作品を残した芸術家のほとんどは、あまり「個性」とか「オリジナリティ」ということに縛られず、むしろ積極的に感銘を受けた他者の作品を模倣したりして自分のものに昇華しているように見受けられます。逆に「個性」に意識的にこだわっている作家は、「個性的な表現に見えそうなパターン」というのを踏襲してしまいがちで、個性を目指すあまりに逆に没個性的になってしまうということがしばしばあるように感じます。丸尾末広はガロのインタビューで自身の漫画の作風を「パクリの集大成です」とおっしゃっていて、その発言にはおそらく謙遜もあるでしょうが、個性派と思われるような作家ほど丸尾氏のように、表現者自身は「個性」に頓着していないケースはよくあり、また、個性に頓着しないほど、実際の作品は個性的になっていくものなのだ、と感じます。つまるところ、鑑賞者が作品に対していだく印象としては「個性的」と感じるのはまったくもって自由だと思うのですが、作り手側は「個性」というものに縛られないほうがよいのかもしれません。

『漫画の描き方』のようなまんが入門書のパロディで、竹熊健太郎と相原コージの共著『サルでも描けるまんが教室』、通称『サルまん』という面白い作品がありましたが、この本の中で、読者の質問に応える読者ページをパロったページがあり、そこに面白いQ&Aがありました。今その本が手元にないのでうろ覚えで申し訳ないのですが、こんな感じのQ&Aだったと思います。「Q・漫画はオリジナリティが大事だということですが、やはり誰も見た事ないような斬新なアイデアが必要なのでしょうか?」という感じの質問に「A・誰も見た事ないものを描いても誰も理解してくれません。」みたいな回答だったと思います。「新しい」というのは必ずしも「面白い」とは限らない、ということですが、これは読んだ当時は、座右の銘にしたいくらいすごく感銘を受けてしまった考えでした。つまり、漫画は(とくにアマチュアであるなら)自分の関心のある描きたいテーマで描けば良いのであり、それが「新しい」のだろうか、とか「オリジナリティ」があるだろうか、などという部分は気にする必要はないのだ、ということだと思いました。突き詰めれば、変に計算づくで描くのではなく、本気で好きなものを楽しんで描いたものこそ、他者の視点からは個性的に感じるものなのだろう、と思います。誰しも自分という存在は唯一無二ですから、「自分らしさ」という、最初から持っている個性が、己の至福を表現することで発現し、まがい物ではない「新しさ」が生じるのでしょう。こうしたことも、考えようによってはとても老子的なものを感じます。個性的であろうとするなら、むしろ個性に執着しないことで、結果的にとても個性的なものになる、といったような。反逆のブッダと呼ばれたOSHO(和尚)ことバグワン・シュリ・ラジニーシも、芸術的創造行為の本質について興味深いことを言っています。


芸術家が芸術家であるのは、彼が創造が"起こる"のを許す限りにおいてであって、彼が創造行為を"する"わけじゃない。もし彼が創造するとしたら、彼はクリエイターではない。彼はモノを制作しているかもしれない。が、クリエイターではない。彼は技術屋ではあるかもしれない。が、芸術家ではない。

例えば、何か詩をつくるのに、完全に詩学の法則にのっとってつくることもできる。その中にはひとつの過ちもないかもしれない。だが、それは詩ではあるまい。文法は完璧かもしれない。リズムも、韻律も、すべてOKだ。しかし、それはちょうど死体のようなものだろう。何もかも完璧だ。が、その身体は死んでいる。その中には何の魂もない。

(略)

創造するというのは「しないこと」だ。多くの事が"起こる"が、そこには誰も"する"者がいない。

バグワン・シュリ・ラジニーシ(OSHO)著『TAO 永遠の大河』第3巻 p186〜188
めるくまーる社 1980年



こういうことは、なかなか言葉で表現しずらい概念なのですが、さすがOSHO、上手く言葉で語っていて、さすがだなぁ、と感心します。なんとなく納得させられる言葉です。ちなみに、彼の言っている「クリエイター」というのは、多分、職種として創作活動を生業にしている人という意味以外に、創造主(神)のこともダブらせて表現しているのだと思います。一流の漫画家は、自身の創作を語る時、しばしば「キャラクターが勝手に動くので、いつのまにか作品ができあがってしまう」というような事を言います。生前赤塚不二夫がギャグ漫画を描く時はオチを先に考えずに描く、とどこかで話していたのを思い出します。それは、自分でも予想できないようなオチじゃないと本当に面白いギャグ漫画にならないからだ。というのが理由で、たしかにオチが先にあると、ラストのオチに向かって予定調和でストーリーを進行させることになるので、ストーリーの過程にワクワクするような緊張感がなくなってしまうということはあるかもしれません。赤塚不二夫にとって、オチは描いてるうちにどこかから「降りてくる」ものであり、「考え」て創るものではなかったのでしょうね。

傑出した作品ほどその創作行為においては作者の制御を離れている。優れた作品ほど、作者のコントロールを逸脱している。まさに作品が、考えることなしに創られていく。哲学者のウィトゲンシュタインも「頭で考えなくても、ペンが勝手に考える」というような事を言っていましたし、画家の横尾忠則も「芸術は考えるより、考えないことの凄さがある」と言っています。優れた創造行為は主に直感的なところでなされており、歴史を塗り替えるような偉大な発明や発見にも直感、インスピレーションが深くかかわっています。剣道の達人は脳の神経回路が反応するスピードよりも速く剣が反応するといいますが、これも優れた武道家は考えるよりも速く反応しているということなのだろうと察します。上記のOSHOの言葉の出典はもともとOSHOが老子についてえんえんと語っている本なので、ついでにOSHO流の道(タオ)の解釈も引用してみます。

<道TAO>とは全体性のことだ。全体性と完璧は違う。それは常に不完全だ。なぜならば、それが常に生きているからだ。完成というのは常に死んでいる。何であれ完璧になったら死んでいる。どうして生きられる? どうしてそれが完璧になってまだ生きる事なんかできる?何も生きる必要がない。それは他の部分を否定してしまっている。そして、生というのは反対同士の緊張を反対同士の出会いを通じて存在するものなのだ。もし反対のものを拒絶すれば、あなたは完璧にはなれる。が、トータルではあるまい。あなたは何か逃している。

バグワン・シュリ・ラジニーシ(OSHO)著『TAO 永遠の大河』第1巻 p60
めるくまーる社 1980年


全体性については、ヘルマン・ヘッセの『デミアン』でも、物事を狭い視点で善悪で振り分けて恣意的に悪とされてるだけの片方をないがしろにしている現代社会をデミアンが批判するシーンがありましたね。

つまり、今の話は、キリスト教の欠点が一番はっきり出てきている点の一つなんだ。問題は、旧約にしろ新約にしろ、このキリスト教の神は、全体として見た場合、大したものに違いないけれども、やはり、本来そうであるべきものになっていないという点にある。神は、善であり、上品さであり、父であり、美であり、高いものでもあれば、センチメンタルなものでもある。それはそれで、いっこうにかまわない。でも、世界というものは、もっとほかのものからもできている。ところが、そういったものは、すべて、あっさり悪魔のせいにされてしまい、この部分の全部、つまり世界のまるまる半分は、黙殺され、隠されているんだ。

ヘルマン・ヘッセ『デミアン』 p208

中央公論社「世界の文学37 ヘッセ」1963年 より


これは単純にキリスト教を批判をしているのではなく、人間を抑圧する古い観念や慣習をヨーロッパ人的な視点でキリスト教になぞらえて批判しているのだと思います。善と悪、心と身体、光と闇、幸福と不幸、喜びと悲しみ・・・二元論的な世界観は得てしてその片方だけを珍重し、もう片方をないがしろにしがちです。世界はどちらも含んだトータルなものなので、片方のみを追い求めすぎると、結果的には逆効果になるケースはよくあることです。デミアンは「善」ばかりに価値を置くのではなく、善悪をひっくるめた価値、つまり全体性に意識を向けて、その全体的な視点からもう一度我々の価値観を見直すべきだ、と言っているのだと思います。ついつい私たちは幸福のみがエンドレスで続く人生を求めてしまいますが、不幸という反対の状況を経験することがなければ、それが幸福であることに気づくことができません。病気になってはじめて健康であることの有り難さを実感するのが人間です。全ての人間の人生は、幸福と不幸が必ずセットになって繰り返されますが、これは、神の罰でも原罪でもなく、むしろ恩寵であり、幸福感を存分に楽しむために不幸が必要であるからなのかもしれません。

老子の教えにはじめて触れたときは、自分もそうでしたが、あまりに無欲すぎる思想で、何も持たないことの充足感というものにピンときませんでした。それゆえ、あまり思想的に惹かれることもなかったのですが、老子の人間像を史実をまじえながら想像力豊かに描ききった真崎守の漫画『老子』(古典コミックシリーズ 徳間書店)を読んで、がぜん興味がわき、「無為自然」というものの価値というものが少しわかったような気がしました。なぜ無為であるのか、といえば、それは環境や運命の自然な流れ、つまり道(タオ)に逆らわない最善のスタンスであるからで、そうして道(タオ)と波長を合わして生きることが、下手に欲望を満たすためにあくせく努力するよりも、よほど幸福に人生を送ることができるのだ、ということだろうと思います。無執着に達することで、逆にすべてを得る、ということですが、これはお金などの物質的なモノに対するだけの執着の事ではなく、アイデンティティのような、「自分をこうだと規定している心理的なモノ」への執着も捨てる、というところまで含みます。

三日月パラドックスの深遠

日常でもよく経験すると思いますが、欲しい欲しいと思っていたものなどが、欲しいと強烈に思っている時には手に入らなくて、すっかり忘れてどうでもよくなったときに不意に手に入ることがよくあると思います。そういうとき、ふと道(タオ)の深遠なるはたらきを感じたりしてニヤリとしてしまいます。タオイズムでも仏教でも「無執着」ということを推奨していますが、それはただ「欲しがるな」ということを単純に言っているのではなく、むしろ欲しいものを手に入れる最も最善最速の方法が「欲しいモノへの執着を捨てる」ということかと思います。この辺りのノウハウは昨今のスピリチュアルでも言及されている「引き寄せの法則」と同じで、絶妙なコツがあり、簡単なようで意外にさじ加減はデリケートです。無執着というのは、欲しいモノを欲しいと思わないようにすることではなく、欲しいモノが手に入っても手に入らなくてもかまわないが、手に入ったら入ったでそれは幸せな事だろう、という感じのニュアンスを意味しているように思います。欲があってもかまわないけれど、欲に囚われない、というのが大事なのかもしれません。

聖人と呼ばれる人の多くは無欲ですが、私はそのことを今までなんとなく、聖人はこの世を達観して、この世的な価値に興味がなくなったので無欲なのだろうか?それなら聖人って何てつまらないんだろう。と考えてました。実は、真相はそうではなく、聖人が無欲なのは、あえてアレコレ欲しがらなくても実はもうすでに自分が究極に価値のあるものに十分満たされている、ということに気づいているからなのでしょう。ある意味、究極に無欲であることは同時に究極に貪欲である事と限りなく似ているのかもしれません。最上の至福はどこか遠くにあって必死に探し求めるものなのではなく、実は最初から無条件であらかじめ与えられているものなのだ、ということに多くの聖典が言及しているのは、迷信でも気休めでも方便でもなく、けっこうリアルな真実なのではないだろうか、と最近思うようになりました。

精神世界の話は、いろいろとパラドキシカルな論理に満ちていて、ある種の敷居の高さを感じさせる面もありますが、実は物事の本質には至る所にパラドキシカルな構造が見られることに気づきます。柔道などでよくいわれる理念で、堅牢剛健さよりも柔軟であるほうが実は強靭なのだ、という意味の「柔よく剛を制す」という言葉がありますが、この、しなやかさは固さに勝るという考えも、ある意味逆説的な味わいのある箴言ですね。そしてそれはまた建築における理念でもありますね。地震に強い建築とは、揺れに抗う建築ではなく、揺れに逆らわないしなやかさを計算にいれた建築だということはよく知られてます。

『不思議の国のアリス』の作者ルイス・キャロルは本職は数学者でしたが、彼が発案したユニークな論理パズル的な小話に「ワニのパラドックス」と呼ばれるものがあります。パラドックスの内容はこうです。川縁で人食いワニに子供を人質にされた母親が「どうか子供を食べないで!」とワニに懇願します。するとワニは「オレ様がこれから何をするか予言できたら子供を返してやろう。だが、予言が外れたら問答無用で子供を喰わせてもらうよ」と条件を出してきました。一見すると超能力者でもない人間がそんな無理難題をクリアするのは不可能に思えます。ワニもあえて答えれない問いをふっかけてきたわけですね。しかし賢い母親は子供を助けたい一心で頭をフル回転させ、回答をせかすワニに向けて思いきってある予言をします。ワニは、その予言が外れるような逆の行動をとればよいのですから、ニヤリと笑って母親の予言と逆の事をしようとします。そこでハタとワニは気づきます。約束を守る限り、ワニはどう転んでも子供を喰うことが不可能な状況に陥ったことに気づいたのです。母親の放った予言はこうです。「あなたはこれから私の子供を食らうでしょう」

もしワニが子供を喰おうとするなら、予言は当たったのですから、条件に従って子供は返さないとならないし、子供を喰わずに返すなら予言は外れたことになるので、やっぱり子供を喰ってよいことになります。しかし子供を喰おうとすると・・・というように自己矛盾の無限ループに陥りワニは約束を忠実に守る限り、子供を喰う事も喰わないこともできなくなった、というお話です。このユニークな話は、単なる頭の体操に留まらず、実際の私たちの生活の中にこのお話の構造と同じ仕組みをもったモノがあります。ブザーやベルなどは、回路の途中に電磁石によって開閉する部分を作ることで電流が流れるとハンマーが鐘を叩き、鐘を叩くと回路の接点が開いて電流が止まり鐘からハンマーが離れます。電流を流し続ける限り、電流が流れる→ハンマーが鐘を叩く→電流が切れるのでハンマーが元に戻る→そのことによってまた電流が回路に流れる、ということが高速でえんえんと繰り返されることでブザー音になります。まさにこの回路の構造は「ワニのパラドックス」と同じです。

メモ参考サイト
ワニのパラドックス 「ウィキペディア」より

ベル(電鈴)の仕組み 「TDK テクマグ」より

パラドックスは、パズルのような知的な玩具としてだけでなく、数学から現代哲学やAI(人工知能)の研究、また禅の公案からタオイズムまで、まさに科学からオカルトまで、どこにでも顔を出す不思議な要素です。おそらく、パラドックスというのは、なにかこの世の隠された仕組みの根幹にかかわる性質が、人間に知覚できる形でにじみ出てきた事を知らせるシグナルなのかもしれないですね。

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1・「世界の名著4 老子・荘子」中央公論社 1978年
2・「Books Esoterica 4 道教の本 不老不死をめざす仙道呪術の世界」学研 1992年
学研のBooks Esotericaシリーズは基本を抑えながらバラエティ感覚のある楽しい編集が素晴らしく「読ませる教科書」といった感じのシリーズなので、手っ取り早く知るのには一番ですね。
3・「世界の名著 史記列伝 司馬遷」貝塚茂雄、川勝義雄訳 中央公論社 1968年
4・「中国古典文学大系8 抱朴子・列仙伝・神仙伝・山海経」本田濟訳 平凡社 1969年
仙人になる方法が書かれた抱朴子、伝説の仙人を紹介する神仙伝、いにしえのUMA百科事典の山海経と、中国古典の中でも異彩を放つ奇書ばかりを集めた巻。
5・「中国古典新書 抱朴子」村上嘉実著 明徳出版社 1967年
仙人の教科書「抱朴子」の内容と解説。こういう書物はえてして著者がアカデミックに客観的に分析して解説してたりして興醒めしてしまうものですが、この著者はかなり精神世界に理解がある感じの方なので解説も安心して面白く読めます。
6・「道教 1 道教とは何か」平河出版社 1983年
7・「現代思想 特集・タオイズム」青土社 1991年
8・「TAO MAGIC -THE SECRET LANGUAGE OF DIAGRAMS & CALLIGRAPHY-」Laszlo Legeza著 Thames & Hudson刊 1975年
洋書ですが、図版を大胆に構成したつくりなので図版を眺めているだけで楽しい本です。道教の不思議な護符がたくさん載っています。
9・「イメージの博物誌9 タオ 悠久中国の生と造形」フィリップ・ローソン、ラズロ・レゲザ著 大室幹雄訳 平凡社 1982年
このイメージの博物誌シリーズもグラフィックをメインにした構成で目で楽しむタオイズム、という感じの構成で面白いです。
10・「道教の美術 TAOISM ART」読売新聞大阪本社、大阪市立美術館発行 2009年
テーマ別に構成された貴重なカラー図版が満載のタオイズム・アートを存分に堪能できる画集です。
11・「TAO 永遠の大河 バグワン・シュリ・ラジニーシ老子を語る」全4巻 バグワン・シュリ・ラジニーシ著 めるくまーる社 1979年
OSHOことラジニーシが老子を語って語って語りまくる本。
posted by 八竹釣月 at 05:29| Comment(0) | 精神世界