2021年04月07日

神様論

神と宇宙法則

幸も不幸も、神が罪を裁いたのでも、神が罰を当てたのでもなく、宇宙の「理」、つまり、絶対的な宇宙法則によって自動的に生じる原因と結果である、という考えに最近はとても共感しています。神は実は人間に罰を与えたりしたことが一度も無いのではないか、と。罰に見えるのは、ただ因果の法則で、悪い種が不幸という芽を出しただけというような。仏教の教えとはそういった法則の解明を主体としており、キリスト教やイスラム教はその法則を神と呼んでいいるともいえるかもしれません。

聖書に、「神は愛です」(ヨハネの手紙一4章16節)という有名な言葉がありますが、最初は情緒的な比喩のような言い回しかと解釈してました。でも最近は、真理そのものを定義しただけのものであることに気付いてきました。別にポエティックな言い回しとして「神は愛です」というのではなく、それが真実であるから、そう言うしかない、という言葉であるというのが正しかろうと思います。そもそも、我々は「愛」というのを、人間的な、あるいは生物的な情緒のように誤解していますが、愛は万物すべからく通底する存在の種≠フような根源的なエネルギーではないか、思うようになりました。愛というのは、感情を表すだけの言葉ではなく、全ての感情と物質の根幹に関わる根源的なエネルギー、というのが意外と本質的なイメージのような気がします。この世界は、この世界の根源にある存在やその法則が「存在してもいいよ」と毎秒毎瞬、無限に許可を出し続けているから存在しているのではないでしょうか?

我々は、漠然と、存在しているものが存在するのは当たり前に思っていますが、本当にそうでしょうか?現代科学でも、物質に質量があるのは、当たり前ではなく、質量を与えるための粒子(ヒッグス粒子)が介在することで重さという概念が成立していることを示唆しています。それと同じように、我々の日常を成立させているすべて、電子の運動やひいては万物の根源である究極のヒモの振動が、振動しつづけていることは、何も理由のないことなのだろうか、と考えた場合、何か神としか呼べないような根源的な想像を絶する壮大な存在をうっすらと感じます。

神の定義について

最初の話題に戻って、幸も不幸も宇宙の法則が自動的に出した結果である、という話ですが、これは先に述べたように仏教の根幹にある思想でもありますが、またその他の宗教で「神」と呼ばれる超越的な存在が、人間に罰を下したり、幸福を授けたりしているという考え方も、正確ではないものの間違いではないですし、仏教の考えより劣るわけでもないと最近は感じています。私が思うのは、幸も不幸も自分が撒いた種が発芽した結果であるにせよ、もっと詳細にその結果を分析すれば、「幸福は神が与えたもので、不幸は自分のエゴが生み出したもの」という考えも意外と正解に近い気がしているという事です。

短絡的に「良い事は神のおかげ、悪い事は自分のせい」と言ってしまうと、いかにもカルト宗教のヤバい教えのように見えてしまいますが、それは、この教えを他人をコントロールするために使う組織があるせいでしょうね。あくまでも、真理というものは、自己の内面を浄化して魂の根源に回帰するためにあるものだと思います。そうした中で、体感していく宇宙的な力を人間の言葉で言い表したときに、「神」という言葉が、実は一番正確なようにも感じるのです。

神というと、最初は、人間と無関係に存在してて、ささいな悪に過敏に反応し、最高の善のみしか受け入れない融通のきかないモンスターのようなイメージで考えがちです。それゆえに若い頃は、神を否定したがり、神からあえて決別したがる傾向もけっこうあると思います。(そういえば詩人のアントナン・アルトーの作品に現代哲学にも引用された「器官なき身体」で有名な『神の裁きと決別するため』というのがありましたね)しかし、そもそも多くの宗教や神話では、神は人間に寛容や許しを説いてるわけですから、神ご自身が寛容でないわけがありません。神は人間の何万倍も寛容だと考えた方が論理的です。美輪明宏さんが何かの著書でおっしゃってましたが、神的な存在は、べつに人間に100%良い事ばかりしなさいと無理強いしてはおらず、悪事よりも善行の比率が高ければとりあえず合格、くらいな感覚でまずは十分だと思います。

我々が人生を通じて求めてやまないのは、麗しい異性でも、お金でも、宝石でも、不動産でもなく、「幸福」です。麗しい異性、お金、宝石、不動産、その全てが満たされても、幸福でなかったら何の意味もありません。有り余る巨富がありながら、その富を使う暇もないほど仕事に追われているとか、とてつもない価値のある不動産を所持しながら、家族仲が異常に悪く、毎日諍いが堪えないとしたら、そんな生活を誰が望むでしょうか。

神は気に入らない人間にきまぐれにひどい罰を与える怪物ではなく、まったく正反対で、本当の神とは、人間の思考をフルに働かせてイメージする最高に素敵な人物よりも何億倍も素敵で、どんな聖者よりも寛容で優しく、どんなに親しい友人よりも楽しい仲間であり、どんな偉人よりも知性的であり、考えうるどんな「最高」よりも最高な存在である可能性のほうが高いと思ってます。いや存在すら超越しているので、ジョセフ・キャンベルの定義したように「存在と非存在」であり、本来思考で捉えれないところを、あえて名付けたのが「神」なのでしょう。以前グノーシス主義の記事を書いたときに引用しましたが、言葉で表現できるギリギリで神を表現していて秀逸なので、もう一度キャンベル先生の神の定義を再掲します。

超越者(神)は思考のあらゆるカテゴリーを超越している。存在と非存在−それがカテゴリーです。「神」という語は本来あらゆる思考を超えたものを意味しているはずなのに、「神」という語そのものが思考の対象になってしまっている。
さて、神は非常に多くの形で擬人化されます。神はひとりか、それとも多くの神がいるのか。それもまた思考のカテゴリーに過ぎません。あなたがそれについて語り、考えようとしているものは、そのすべてを超越しているのです。

ジョセフ・キャンベル「神話の力」飛田茂雄訳 早川書房 1992年 p123

人間のような人格はないともいえますが、それは想像をはるかに超えた究極の人格であるゆえに、人間の知力で捉えがたいからだろうと思います。神は、信じないうちは、ファンタジー的な存在のようにしか思えず、信じてる人が迷信深い愚者にしか見えないものです。しかし、何かのきかっけで神の存在をうっすらとでも信じるようになってくると、なぜか面白いほどに小さな奇跡が頻繁に起きるようになるので、より確信的に信じるようになっていきます。まさに「信じる者は救われる」の本当の意味を実感します。神を信じるというのは、
特定の教団に入信したりすることではなく、この宇宙の背後に確かに存在する人間の知性で捉えきれない壮大な何ものかの気配に関心を向ける事です。神を知ろうとすることは宗教的な好奇心というよりは、もっと根源的な、自己の本質と最も密接な鍵だろうと思います。

神と宇宙について

そもそも、この宇宙には最初から潜在的に人間を生み出せる要素が全て揃っていたから人間が誕生したのであり、ならば、この宇宙自体も人間よりも高度な「心」や「魂」が無いはずがありません。人間でさえ、どんなクリエイターも自分に無いものは表現できません。よく耳にする意見で「神は人間の心が生み出した架空の存在だ」という見方もあります。私も以前はそう考えていたものでした。しかし、人間は、無い存在を作ったのではなく、古代の高度な意識に到達した賢者たちが、宇宙の背後に存在する壮大な何かの気配を察知して、それを表現する人間世界の言葉がなかったので、「神」という概念でそれを語るしかなかった、というのが事実かな、と思っています。

人間は宇宙が生み出した宇宙存在でもありますから、その宇宙法則に従って行動すると物事がスムーズに運び、それに逆らって行動すると困難や苦しみが伴う、というのは、そういう意味では実に理にかなった考えだと理解できます。老子は、この宇宙の法則を『道(タオ)』と名付け、生き方のエッセンスを簡潔に遺しました。一見自分が得をしそうなエゴを満たすような生き方は、結局自分を破滅させるだけで、逆に自分を捨てて周囲の人や公益に貢献する生き方のほうが、結果的に自分に最大の利益をもたらす、というのは世の中をみると全くその通りに動いていますね。狭い期間だけで見ると、悪人が栄えるように見えるケースもありますが、長いスパンでは、悪人が人生に勝利するという事はまず不可能でしょう。人間世界の幸と不幸は、ほぼ9割以上は人間関係で生じますが、そういう意味では全ての人間は幸福の担い手でもあるわけです。イエスの「隣人を愛せ」というのは、隣人のためだけでなく、主に自分の幸福の絶対条件であるということなんでしょう。

幸福は常に神からしか出力されない現象であり、不幸は常にエゴ(自分本位な利己性)からのみ生じます。エゴは利己的ですが、利己性自体がマズいわけではなく、高いレベルの利己性は「神を知りたい」「困っている人を助けたい」「この世から悲しみを消したい」という高度な「欲望」となりますし、人助けが一番気持ちのいい行為だということを悟った人は、自分が気持ちよくなるために、他人を助けたりしはじめます。これは偽善ではなく、むしろ最高の善で、自分も気持ちよく、しかもそれによって他者も気持ち良くさせるので、自己犠牲の善意よりも宇宙視点では喜びの量が最大化されるので、価値が高いといえます。

神の計画について

パラマハンサ・ヨガナンダも、常に神の事を考え、瞑想によって神と対話することの重要性を指摘していましたが、こうしたことは、精神世界に免疫がないと「宗教的」というカテゴリーで片付けてしまいがちかもしれません。本質はそういうカテゴリーとかジャンルの問題ではなく、人生の根本的な価値は、まさにそこにあるし、そこにしかない、という真理を言っていたのだなぁ、ということが最近は身にしみます。たしかに神は、神の事を熱心に考え、神に好かれようとする人間に、幸福とか奇跡を与えているように一見思えます。しかし神はえこひいきするようなレベルの低い感情は無いですから、実際は悪人にでさえ聖者に与えるのと同じ量の、いいえ、万人、万物に、等しく100%の愛のエネルギーを常に与えています。ひいきに見えるものの正体は、各人が神の愛を受け取る器の大きさや、器の状態によるのだと思います。

霊的な次元では、思うことなどの心のパワーは絶大なので、神を信じるほど神との霊的なパイプが太くなるので、より神からのエネルギーが自分に入りやすくなる気がします。聖者や賢者のように、修行の末に神の愛を受け取る心の器を大きく育てた者には、たくさん愛が入るようになるし、悪人はあらかじめ生まれもって持っている器でそれなりに愛を受けとっています。器も悪人ほど手入れをしないので、底が抜けている場合もありますし、わざわざ器を手で覆って、神の愛を受け取る量を自分で減らしている場合もあります。何にせよ、神は、太陽が完璧に分け隔てなく万物を照らすように、全ての生命と非生命に完璧に100%の愛を注いでいるように思えます。

神を信じると良い事がよく起こるようになるのは、自分に関して言えばほとんど事実だと思ってます。神を信じるというのは、具体的には、聖書を勉強するとか、イエスの十字架像を拝むとか、そういう宗教っぽい行為とはあまり関係なく、自分が存在しているこの世界と調和し、この世界に貢献する事だと思います。

神はこの宇宙の創造主だという定義は、しばしば「宇宙の創造は物理的な仕組みで起こったことで神とは関係ない」という反論もあり私もそう思っていた時期もありましたが、そういうことではなく、ただ定義としてこの宇宙を創造した何らかの力や仕組みの発生源を仮に「神」と呼んでいるだけで、ある意味科学によって開明しようとしている宇宙の謎も、神とは何か?の探究なのではないか、と思うようになりました。神と宇宙はほぼ同じ意味ともいえますが、神というと宗教的な擬人化したイメージに捕われますし、宇宙というと感情の無い無機質な物理現象に拘束された自動装置のようなイメージに捕われがちです。神を言葉と思考で捉えるのは限界がありますね。それゆえ過去の賢者たちは真理は言葉の外にあると何度も言ってきたのでしょう。神は思考の対象ではなく、人生の体験の中で直に感じとる生きた存在です。

全ては神が創造したものなので、好きなものだけでなく嫌いなものも含めて、全てのものに敬意をもつこと。それに加え、運命もまた神の領域なので、神を信頼していれば、神が100%の愛を注いでいる万物、つまり自分も万物に含まれるのですから、自分に因果を超えてわざわざ不幸な現象を与えるはずがない、ということを「信じる」ことも重要です。神を信じるということは、神が自分を不幸にすることは絶対に無いと確信することと同じです。確信は運命の設計図となり、やがてそれは現実に現象化します。一見不幸に見える現象も、それは自分を成長させるための「幸福の種」として現われたものである場合が100%であり、人間を苦しめるために与えたサディスティックな刑罰ではないのだと思ってます。そもそも神は愛なので、苦しみの正体というのは、「神からどれだけ離れているか」の魂的な距離感によって生じるものなのでしょう。

よく、人間は、自分の力ではどしょうもないことに悩んだりするものです。急いでいる時に踏切が降りてヤキモキする事が昔はありましたが、よく考えると、ヤキモキしようがしまいが同じ時間で遮断機は上がります。であれば、ヤキモキもイライラもしなくていい、と気付きます。入学試験の結果も、結果発表までは考えても悩んでも結果は変わらないので、悩むだけ嫌な時間が増えるだけ損です。何が言いたいかというと、こういう「考えても意味の無いこと」や「自分の力の及ばないもの」は、すべて霊的な次元の領分なので、ここで一番効力を発揮するのは運命を信じる力です。「人事を尽くして天命を待つ」という言葉がありますが、まさに真理で、自分の手が届く範囲のことは精一杯やって、その後の結果は神の裁量に全部お任せする、というのが、もっとも最善の結果を招くのでしょう。実際に、自分の経験に照らしても、そういう法則があるのはリアルに実感します。この物質世界に人間として存在していること自体、魂の未熟さを払拭するために修行している存在であるという考えに共感します。ならば人生、いつも理想通りにできないことは仕方ないですし、人事を尽くす時点で出来てないとか、人事を尽くしても天命に任せず、うだうだと悩んでしまうのも、未熟さゆえであります。まぁ、この世界、生けるもの全ての目的というのは、そういう未熟な魂が集まって、助け合いながら、失敗を許しあい、お互いの未熟な部分を補いあって、みんなで力を合わせてちょっとづつこの地上を天国にしていこうという、壮大な神のプロジェクトなのかもしれませんね。

posted by 八竹彗月 at 15:26| Comment(0) | 精神世界

2020年12月22日

「今のあなたにちょうどいい」の話

「ちょうどいい」の名言について

ネットでよく見かけるお釈迦様の言葉だとされる名言「今のあなたにちょうどいい」。今の環境も、今の親、兄弟、友人、同僚、上司、などの全ての人間関係も今のあなたにちょうどよい、そして幸運も不幸も病気も死も何もかも、すべては今のあなたにちょうど良い時にちょうどよく起きているのである。という意味で引用される名言で、どこかで目にしたり耳にしたことがある人も多かろうと思います。アクシデントもラッキーも、偶然に起こる事などこの宇宙には一切なく、すべては過去の生き方などで撒いた種が正確無比な物理現象と同じように現象として発芽し現われているだけである、というのは仏教の基本概念ですから、今が不服であれば未来を良くするために今の自分のあり方を省みることによって、良い因果の種を撒くことが最善なのでしょう。何の不満もなく一生を過ごせる人は皆無ですから、不満な状況が現われた時にいかなる心持ちでその状況に向き合えば良いか、というガイドラインを自分の中に明確に持っていることはけっこう生きる上で助けに成ります。

私も、思い通りにいかないことや、嫌な事が起きるたびに、この言葉を思い出して気持ちを落ち着かせてきたので、けっこうお世話になっているありがたい教えです。「もっと自分は評価されてもいいはずだ」「もっと自分に合った理想的な人と出会えないものか」など、「もっと○○○だったらいいのに!」という気持ちというのはついつい考えてしまいがちです。しかし、実際には自分のレベルに釣り合った現実が展開しているだけなので、目の前の環境をレベルアップさせるには、環境に不平を言うのではなく、まず自分自身のレベル上げをすべきだということなのでしょう。

「そんなこと言ってもこうなったのはあいつのせいではないか!」とか「もっと環境が良ければ成功したはずだ!」と、エゴは主張しますし、どうにかして今の不満を自分以外の責任にしたがりますが、仮に自分の落ち度が見当たらなくても他者や環境に責任転嫁して状況が変わる事はありません。ゆえに、まずは変えれる可能性が最も高い手近な「自分」を変えていくことが、実は最速で現実を変化させる最善手なのだというのは、スピリチュアルうんぬんを脇に置いておいても、とても合理的な推論でもあると思います。



この名言の出典を調べてみると・・・

ということで「ちょうどいい」の名言の話に戻りますが、この名言をはじめて知ったのは数年前で、Youtubeに上がっていた斎藤ひとりさんの音声動画からだったと思います。ここ数年仏教にはけっこう関心が高まっていて、仏教関連の本が増えてきたこともあり、このお気に入りの名言の出典が知りたくなり、もし持ってる本に記述があれば原典を参照してみたいと思いまして、さっそくこの名言のルーツをネットで調べてみました。

漠然と、もしかして以前のヴォルテールやマザーテレサやオーウェルやジョブズの名言(注1)を調べた時のように、ネット民の誰かが創作した名言だったりして、という疑惑がありましたが・・・・。いろいろ検索してみると、またしてもこの名言の出典も漠然としたものでした。唯一それらしい情報としては「大蔵経」(注2)がソースだというものが出てきますが、この「大蔵経」というのは仏教の特定の経典を指すものではなく、「全ての経典」という意味です。ちなみに、大正13年から昭和9年まで10年を費やして編纂した漢訳仏典の総集『大正新脩大蔵経』(注3)は全100巻で、1ページあたり17字詰め29行3段組みで各巻平均1000ページというとんでもない量です。「大蔵経」がソースだと言うのはほとんど「仏教がソースです」と言ってるのと同じ事で、出典を示すなら具体的に「理趣経」とか「華厳経」などという個別の経典名がわからないとと調べようがない感じですね。

さらに調べていくと、この「ちょうどいい」の名言の出所は斎藤ひとりさんの思想に影響を与えたといわれる小林正観さんの著書に出てくる言葉だという情報がありました。著書の中で小林さんはこの名言をお釈迦様の言葉の引用であるとし、そこに出典が「大蔵経」であると書いてあるようです。ソースが「大蔵経」というのは漠然としすぎているため、小林さんの創作ではないか?という意見も見受けられましたが、小林正観さんはもうだいぶ前に他界されておられるために確認も難しい状態ですね。小林さんの本は数冊持ってますが、そう言われてみればこの「ちょうどいい」の話も書いてあったような・・・小林正観さんは、斎藤ひとりさんと同様に、ユーモラスで分りやすく、それなりにロジカルに精神世界を語っておられたので、説得力もあり面白いですね。

寺山修司もよく著書で意図的にありもしない名言を創作することで有名でしたが、小林さんの「ちょうどいい」の名言ももしかしたら創作の可能性もありますね。あるいは意図的な創作ではなく、昔読んだ経典の中の言葉が印象に残っていたものの具体的な出典を忘れてしまい、うろ覚えで書いたということも考えられますね。まぁ、真相はどうあれ実際に自分の人生に役立っているのはたしかですし、もしかしたら仏典のどこかに似た言葉がある可能性もなきにしもあらず(注4)ですから、細かいことは気にせず、とりあえずは詳細が判明するまでは「ちょうどいい」はお釈迦様というより小林正観さんの名言として役立てていけばいいのかもしれませんね。実際に役立っていますし、多分自分にとって今後もお世話になる言葉になっていくように思います。



「ちょうどいい」の個人的な実用例

一見人生は、そんなにちょうどいい事ばかり起きているようには見えませんが、立ち止まってよく考えてみると、「ああ、やはりちょうどいい事以外はなにひとつ人生には起きないものなのだ」という事が理解できます。良い事なら受け入れやすいですが、嫌な事が起こると、「ちっともちょうどよくない!」と思いがちですよね。嫌な事が起こると、なんで私だけがこんな目に!と思う事はあると思います。そして嫌な事というのは、必ずしも因果関係がはっきりしている事ばかりではないですから、最初はタイミング悪く降り掛かった災難にしか見えないこともよくあります。

例えば、自転車で走ってるときなど、正面からこちらへ向かってくる人に道を開けようと退くと、同時に相手も同じ方向に避けたりして、それが何度か続くと、あたかも自分が相手の行く手を阻んでいるかのようなバツの悪い状態になることって誰しも覚えがあると思います。たいていはお互いに分って≠「るので照れ笑いなどを浮かべながら会釈してすれ違うような展開になると思うのですが、たまに「邪魔するな!」とばかりに怒る人もいます。私の場合、そういう人に出会ったのはまだ一度だけなので、一般的にもちょっとレアな出来事なのかもしれません。

避ける方向がタイミング悪く一致してしまうのはたまに起きることで、仕方の無い事ですし、どちらが悪いという事でもないように普通は思います。そういうことに怒る人というのが理解できず、理不尽な目に合ったという思いで、けっこうその後も嫌な気分を引きずってしまうものです。目に見える現象だけを見ると理不尽な事ですが、しかしその後ろに何かの因果がなければそういう現象は起きないはずなので、その原因を考えていくと、過去に自分も同じような理不尽な怒りを他人に向けて相手を嫌な気持ちにさせた過去の記憶が蘇ってきました。「ああ、もしかしてあの時に相手が感じた不条理な思いを今度は私が体験することになったのか」と納得したものです。状況として過去を反省するための状況が整ったために、因果の理(ことわり)が作動し、ちょうどよく起きた事象なのだと思います。まさにこれは過去を清算するためのちょうどいい出来事が起こったということでしょう。理不尽に怒る相手は、実は過去の自分自身だったわけです。

そういう意味でも私に理不尽な怒りを向けた見知らぬ彼は実はただの嫌な人ではなく、霊的な深いレベルでは私の人生の教師を臨時に受け持ってくれた非常勤講師であったのかもしれません。嫌な事が起きるたびに、そうすぐに納得できるものではないですが、なんにせよネガティブな思いをずっと引きずるよりも少しでも早く気分を冷静にするテクニックとして活用できるなら、そういう利点だでけも「ちょうどいい」の言葉は価値があると思ってます。合理主義的に考えれば、「ちょうどいい」というのは真理というより気持ちを落ち着かせるための技法と捉えれるかもしれませんし、べつにそう考えても間違いではないと思いますが、理性を超えたさらに深いレベルでは、意外とそれが真理であるようにも思えてくる昨今です。


(注1)
ヴォルテールの名言とされている言葉「私はあなたの意見に反対だ。しかしあなたがそれを主張する権利を私は命を賭けて守る」は、その男気あふれるカッコ良い言葉のせいか、だいたい10年ほど前からネットでかなり広く引用されている印象ですが、実際はヴォルテールの言葉ではないようです。
マザーテレサの名言とされている言葉「思考に気をつけなさい。それはいつか言葉になるから。言葉に気をつけなさい。それはいつか行動になるから。行動に気をつけなさい。それはいつか習慣になるから。習慣に気をつけなさい。それはいつか性格になるから。性格に気をつけなさい。それはいつか運命になるから。」。これもよくネットで見かける名言ですが、これもマザーの言葉であるという明確なソースは不明です。マザーテレサは、こういった詩的なリズムで真理を表現するような技巧的な言い回しをあまり使わず、素朴にストレートな言い方をすることのほうが多いですし、多分ネット民の創作か以下のリンク先の考察にあるように別の偉人の言葉なのかもしれませんね。
オーウェルの名言とされている言葉「ジャーナリズムとは報じられたくない事を報じることだ。それ以外のものは広報に過ぎない」も出典は不明でオーウェルのものではない可能性が高いようです。
ジョブズの名言とされている言葉「私は、ビジネスの世界で、成功の頂点に君臨した。他の人の目には、私の人生は、成功の典型的な縮図に見えるだろう。」からはじまる最後の言葉≠ニされるものも、文章に事実誤認の箇所が多く、現在はジョブズのものではなくネット民の創作であることが判明しています。

ヴォルテールの名言とされてきた文言(ウィキペディア)

マザー・テレサじゃなかった⁈ 名言「思考に気をつけなさい…」の謎(ブログ『Blue Eli ニューヨーク便り』様より)

ジョージ・オーウェルの言葉じゃない? 「ジャーナリズムとは報じられたくない事を報じることだ。それ以外のものは広報に過ぎない」(ブログ『pelicanmemo』様より)

スティーブ・ジョブズの最後の言葉の裏にある噂と真実(「リーダーズ・ダイジェスト」の英文記事)
件の「最後の言葉」は出典が不明で、ジョブズの家族やアップル社も認めていない。その引用の全ては非公式のSNSアカウントやブログのみでまともな根拠のあるソースが存在しない、といった内容が記事には書かれています。

名言関係についての感想は過去記事でも少し書いているのでよろしければどうぞ。
・スティーブ・ジョブズの名言について(記事『【雑談】黄金郷通信 vol.4』の後半)
・ヴォルテールとオーウェルの名言について(記事『ネット空間のシミュラークル』の後半)
・マザーテレサの名言について(記事『「引き寄せ」について』の中盤あたり)

(注2)
大蔵経とは?(コトバンク)

(注3)
大正新脩大蔵経(Wikiwand)

(注4)
丁度よい(「光華女子学園」様)
これも正確な出典は不明なものの、お寺の会報にこの言葉が掲載されたこともあるということは、仏典のどこかに実際に書かれてる言葉の可能性もありますね。ただ執筆したのは住職の奥様とのことで、実際に仏典を参照したものなのか、一般書からの孫引きなのかは不明です。
posted by 八竹彗月 at 20:43| Comment(0) | 精神世界

2020年11月02日

イエス・キリストについて

el_icon.pngプレドイ礼拝堂の十字架像

イエス・キリストといえばなんといっても十字架上の磔刑がシンボリックなイメージとして思い浮かびます。美術の本とか教会の宗教画などに描かれた図像から想像する漠然としたイメージを誰しもが思い浮かべるのではないでしょうか。私もそうした一人でしたが、たまたまイタリアにある古い礼拝堂、プレドイの聖霊礼拝堂の壁に掛けてある磔のキリスト像を見て、とてもショックを受けたのをきっかけに、それまでのイエスのイメージが微妙に変わりました。(実際の画像は記事の最後に載せたリンク先にあります。宗教的な真面目な意図で作られたものではありますが、見た目はグロテスクなので閲覧注意です)

そんな感じで、プレドイ礼拝堂の十字架像をきかっけにイエス・キリストについて考えをめぐらせ、いろいろメモしていくうちに、ついでに記事にしてまとめてみようと思い立って書いてみました。自分自身では現在リアルに興味あるのは仏教やヒンドゥー教なのですが、最初に読んだ聖典が聖書だったせいか、書いていていろいろ思う所が多く、自分も意外とキリスト教の影響を受けて生きているんだなぁと思いました。イエスの教えを教義とした教団や組織などにはあまり関心はないのですが、今や世界の時間の基軸となっている西暦の主であるイエス・キリストとはいかなる人だったのか?という人物像や思想の部分にはとても興味があります。

宗教画の多くでは、やせ細ったイエス・キリストがイバラの冠をかぶり、十字架に手足と脇腹に杭を打たれて固定されている図が描かれますが、身体自体は杭を打たれている箇所が痛々しい程度でそれ以外はふつうに痩せた男の身体です。しかし、件のプレドイ礼拝堂のものは全身血まみれで、鞭打ちによって剥がれかけた皮膚や、深い傷口から骨が覗いているような凄惨な表現がなされています。一瞬、そのグロさに嫌悪感すら催すレベルで、俗な目で見れば猟奇趣味のような印象さえ抱きかねなく、見てはいけないものを見てしまったような気まずさで目を背けてページを閉じてしまいました。

しかし、よく考えてみれば、この凄惨なイエス像こそ当時のリアルな姿であり、よく見る宗教画に描かれている十字架上の奇麗なイエス像のほうが美化された理想像なのではないか?と思い直し、もう一度プレドイのイエス像を見てみることにしました。たしかイエスは十字架にかかる前に拷問されてたような記述があった覚えがあったので確かめてみると、磔刑の前に鞭打ちの拷問をうけていたそうです。しかも当時のローマ帝国(ユダヤ教の支配者に死刑の権限はなかったため、引き渡されたローマ帝国が刑を執行しています)ではより苦痛を与えるために目隠しをさせ、鞭には鋭く尖った動物の骨や金属などを埋め込んでいたらしいです。当時のローマ帝国でも十字架刑は残忍で重い刑罰だったようです。この時点でイエスはすでに瀕死の状態であり、ほとんどプレドイの件のイエス像に近い血まみれの状態だったと思われますし、その衰弱した身体で自分を磔にするための重い十字架を背負ってゴルゴダの丘を登っていったのですから、イエスにくだされた刑罰が想像を絶する残酷なものであることがうかがえます。

ルネッサンス美術などでよく見る奇麗なイエス像のほうであっても、さぞや磔刑の苦痛に耐えるのはスコブルしんどいだろうなぁ、と想像してたものですが、プレドイのイエス像はより具体的に当時のイエスの置かれた無慈悲な現実を突きつけられているようで胸にくるものがありました。十字架刑というのは、十字架に張付けにされたらすぐに死ねるようなものではなく、身体を支えられなくなってからじわじわと呼吸困難で窒息することで死ぬことになるので、死ぬまで2日間も苦しんでから息絶えるケースもあったといいます。およそ考えうる人間が受ける極悪な苦痛の中でもトップクラスの嫌な目にあっていながら、信念を貫き通したすごさは想像を超えるものがありますね。肉体的な痛みだけでなく、弟子に裏切られ、人類を幸福に導くために生きたその生き方自体を社会に否定されてもなお弁解も命乞いもすることもなく、自分を貶めた者に悪態をつくでもなく、こう言ったとされてます。いわく「父(神のこと)よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」(ルカ福音書23章 33〜34)

el_icon.png汝の敵を愛せ

イエスの有名な言葉に「汝の敵を愛せ」(マタイによる福音書第五章、ルカによる福音書第六章)というものがありますが、それをひとつの哲学として口にするだけではなく、イエスの磔刑に至るまでの言動は、口だけでなくそれを自分自身でその思想を実践してみせたことが大きな意味を持っているように感じます。イエスは出来もしない理想論を口にしていたのではなく、実践可能な生ける哲学を伝えていたということが素晴らしいところですね。

当時のユダヤ教の常識からすると、イエスの存在は神の存在を軽視する思想的異端者であり社会秩序を乱す異常者と映ったのでしょう。新しい価値観というのは、ガリレオの例のように、常に社会的に激しい軋轢を生じるものです。時代を俯瞰できる我々の目には正邪がはっきりして見えますが、当時の社会において、イエスの価値観を正当に評価できるほど柔軟な思考ができる人間は少数派だったでしょう。イエスを裁いた者たちを非難するのは簡単ですが、ではあの時代に自分はイエスの味方になれたのか?と聞かれれば、答えに窮してしまうのもたしかです。

さて、自分を苦しめる者にさえも哀れんで神に許しを乞うイエスの心情とはどのようなものだったのか?おそらく、たんにお人好しで許しを乞うてあげてるのではなく、イエスを苦しめているその彼らのカルマ的な罪は尋常ではないはずなので、それがわかっているイエスは自身が取りなしをしない限り彼らが死後に大変な目にあうであろうことがありありとわかったのでしょう。解脱した聖者、つまり精神が限りなく神に近づいた者をヒドイ目にあわせるというのは霊的な視点では最凶最悪の大罪(聖者を殺すというのは、人類が幸福になるための機会を奪う事になるため)ということになるでしょうから、イエスは彼らが負うことになる罪の報いを知って哀れんだのでしょう。イエス自身がとんでもない拷問にさらされていながら、拷問している相手をどうにか助けたいと思えるくらいなのですから、その罪の報いはそれほど凄まじいということなのかもしれません。真に悟りを得た聖者は現在過去未来、全ての人間のカルマが見通せる、という説も仏教で言及されてたりするので、イエスも相手が清算すべきカルマの重さが大変なことになっているのが手に取るようにわかるために慈悲の心で神に取りなしてあげたのではないかと想像します。

そういえば、仏教にも「慈悲の瞑想」というものがあり、「私を嫌っている生命が幸せでありますように」と、自分を嫌う人間すら許す心を培うための祈りの瞑想がありますね。エゴが特別強い人だけではなく、普通に誰しもが、意識的に訓練しない限り、敵を愛すとか許すとかいう境地にはなかなか至れません。そもそもこの世は、魂がそういう境地に至るための訓練施設だと思われるので、イラッとくるたびにイラッとする自分に気付き、そうして自分を成長させる機会を作ってくれたイラッとさせた相手に感謝する、ということを繰り返すことで、ちょっとづつ魂を成長させていくゲームを私たちはプレイしているんだと思います。

なんで敵を許すことが大事なのか?というと、許したほうが自分自身の心が楽になるからであり、相手を恨むよりも単純に許す方が得だからに他なりません。魂の本質は自分と他人という境が無いので、誰かを否定することは、自分の中の何かを否定しているので、それが自分自身に不幸という形で人生に反映されてしまいます。まぁ、憎しみや怒りをいだいているよりも、すっきりと許してしまえれば楽だろうな、とは誰しも思う部分だとは思いますが、実際に嫌な目にあった時に即座に許せるかというとなかなか難しいものです。エゴは自分を尊重してくれない事が大嫌いなので、自分を軽んじる相手を許したがりません。「許すのは損だ!仕返しするべきだし、それが無理ならせめて怒り、憎むことでしかこのイライラは解消できないではないか!」というのがエゴの声ですが、これに従って物事が好転することはほとんどありません。

el_icon.png運命とビギナーズラック

怒りなどの負の感情も、一時状況を良くしてくれる場合がありますが、それはパチンコのビギナーズラックみたいなものです。角を立てないように大人しく振る舞っている人が、度重なる理不尽な仕打ちにキレて怒ったりして、周囲がびっくりして一時期はまわりが気を使って自分に優しくなるような場合があります。そして、これに味をしめてしまって、気に入らない状況を変えるためにしばしば意図的にキレて怒ったりしていくようになりがちなのですが、そうすると次第に周囲に疎まれて孤立していくことになります。最初は正当な怒りでも、怒る機会が増えると、怒る沸点がだんだん低くなっていくものですし、またそういう状態ではもう怒りに加速度がついて自動運転してる状態なので、自分自身怒りの沸点が低くなっていることに半分気づいていながらなかなか歯止めがきかなくなっていきます。どうせ途中でセーブするのは難しい感情なので、最初から負の感情は消すことを目標にしたほうがよさそうに思います。

イエスの言葉「右の頬を打たれたら左の頬を差し出しなさい」というものがありますが、これも要点はそういうことで、いじめられることに甘んじなさいということではなく、相手の悪意に対してさえ興奮せずに冷静でありなさいということだろうと思います。実際に、右の頬をなぐったら左の頬を差し出す人がいたら、また左頬をなぐられるというよりは、相手は何が起こったのかわからず混乱してビビるのではないかと思います。精神年齢が低い相手なら、その落ち着きの原因がわからず、もしや自分よりも数段格上の格闘技の達人なんじゃなかろうか?とか勘ぐると思いますし、精神年齢が高い相手なら、その冷静さにショックを受け自分が暴力という卑劣な手段に訴えたことの未熟さと恥ずかしさにいたたまれなくなるのではないでしょうか。まぁ、実際に左の頬を差し出しなさいというよりは、そのくらいに状況に冷静でありなさいということでしょうね。以前の記事(後半部分)にも書きましたが、このイエスの言葉は、本当は人間というのは悪意に対してさえ怒らない≠ニいう選択ができるほど高度な存在なのだ、という事を訴えたかったのだと思います。

そいえば、先日ネットで話題のパチンコ漫画「連ちゃんパパ」の試し読み部分だけ読みましたが、噂通りユニークな作品で、人間がどんどん闇に飲まれていく様をひょうひょうと当たり前のように描いていく感じが逆に怖さを感じました。この作品で描かれてるように、パチンコで身を持ち崩す人はたいていがビギナーズラックを経験していて、パチンコは楽に儲けれるゲームだという強烈な刷り込みを最初に経験することで中毒化していくのですが、酒、タバコなどと同じように中毒になってから止めるのは難しいものです。私も昔パチンコは10回くらいやってみましたが、たしかにどういうわけか最初は出るんですよね面白いくらいに。投資も数百円程度で2、3回は打ち止めまでいきました。でもまぁ、こんな調子で出ていたらパチンコ屋さん側が絶対儲かるわけなかろうと思いましたし、まさにビギナーズラックだと思ってそれきりやってません。10回程度しかやってませんが、それでも打ち止めで儲けた分は数回の負けでスッてしまい、トータルでは差し引きゼロくらいな所で止めたような気がします。ギャンブルはトータルでは必ず客が負けることになっているゲームですから、長く遊ぶほど確実に損します。人間というものは、面白いとか美味しいと思ったものを適度なところで止めるという自制心をあまり持ち合わせていないものなので、プロのギャンブラーを目指すならいいですが、そうでなければリスキーな遊びだと思います。エックハルト・トールは、怒りや憎しみなどの、人間の負の感情も、そういったギャンブルの快楽みたいなある種の依存症のようなものだと喝破してましたが、まさにその通りだと思います。

許した方がいいと頭では思っていても、事と次第によってはすぐには許せないような出来事もあるでしょうし、できないのなら無理に許そうと努力する必要もないと思います。どのみちいずれは全ての憎しみを捨て去ったほうが何より自分の幸福にとって最大のメリットがありますから、ちょっとづつ小さな「イラッ」というのを克服していく所からはじめるのが良いのでしょうね。実際に、これを続けていくと現実世界に変化が起こります。ちょっとしたイラつく相手の言動を心の中で許していくだけで、不思議なことに相手の言動がだんだんと柔らかく親切な感じになっていくので、毎日がその分だけちょっとづつ幸せになっていきます。こうした現象を経験するたびに、やはり人生は目に見えない部分で何かの法則がはたらいているという実感があり、イエスやブッダなど聖者の言葉の真実性が自分の体験の中で検証されていってるような感覚があります。

人をさばくな。そうすれば、自分もさばかれることがないであろう。
また人を罪に定めるな。そうすれば、自分も罪に定められることがないであろう。
ゆるしてやれ。そうすれば、自分もゆるされるであろう。

ルカによる福音書 第6章 37節 (Wikisourceより)


el_icon.png悪魔の誘惑

仏教では完全に悟った人間に現われるとされる6つの神通力「六神通」について言及していますが、このレベルでは分身や壁や塀や山までもすり抜けたりできる「神足通」や、人の心や思考を見通す「他心通」など、完全に解脱した人間はほとんど超人のようになるとされてるようです。イエスは悪魔に3つの誘惑をされるシーンがあり、それは「お前が神の子なら、この石にパンになれと命じてみろ」「俺様(悪魔)にひざまずくならこの世の栄華を与えよう」「お前が神の子ならここ(宮廷の頂上)から下に飛び降りてみよ。神が助けてくれるだろうから」という3つですが、イエスはことごとく全てを拒否します。お釈迦様の逸話にも悪魔の誘惑のシーンがありますが、完全な解脱にリーチがかかった状態になると、こういう悪魔の誘惑と戦うという最終ステージがあるんでしょうね。

悪魔の3つの誘惑を退けたイエスでしたが、これはイエスがそうした神通力が無いから悪魔の問いから逃げたわけではなく、そういう超能力的な力を使って我欲のためにこの世の物理や秩序を変化させるのは聖者の域にある人間にとっては相当のタブーだからなのかもしれません。イエスは聖書の別の箇所では「全く疑うことなくこの山に動けと命じたならばその通りになるであろう」といったことも述べてますから、イエスにはすでに絶大な神通力が具わっていたのではないかと想像します。そもそも弟子のユダが自分を裏切って裁判官に引き渡すことさえ前日にすでに予言していましたね。いつでも現実を自分の都合のいいように変えれるような、そういう力がありながらも、あえてそういう力は使わず十字架の運命から逃げようとしなかったということだと思います。ソクラテスも、イエスと同じように愚かな裁判によって死刑になり、ソクラテスのような賢者が死んでしまうのは惜しいと牢屋番の男が牢の中に鍵を投げ入れて逃がそうとしますが、それを拒否して自ら毒杯をあおって死んだとされる話が有名ですね。理想の人生を送ることのほうが命よりも大事だったのでしょう。普通に考えれば、人間誰しも死を逃れたいと思うのは責められるものではないし、もっと融通のきいた利口な生き方をするのもアリなんじゃないかなぁ、と思ったりもしますが、イエスやソクラテスがもし利口な人間≠セったら歴史に残っていたかどうかはわかりません。人類を導くようなスケールの霊的な指導者の生き方というのはそもそもそういうものなのかもしれませんね。

イエスの神通力については、手で触れただけで病を治したりする話などがありますが、とくに印象的なのはパンを無尽蔵に増やす奇跡の話ですね。イエスはお腹をすかせたひもじい人々のために5個のパンと魚2匹に祈りを唱えて増やし、5千人の人々の腹を満たしたというアノ逸話です。他人を救うためなら惜しみなくその絶大な神通力を使うような方なのですね。しかし、自分の運命から逃げるためには一切その力を使うことが無かったというところが、カッコイイというか、崇高な美学を感じます。一体なぜ自分のために神通力を使わないのか、本当の意味はわかりませんが、ほとんどの人間は神通力はないですから、自分の試練に立ち向かう時にはもって生まれた己の力のみで闇を切り開いていかねばなりません。イエスも、神通力で困難をなんとかしていたら、後世の迷える子羊達に何の教訓もならず手本にもなりませんから、あえて「疑わず100%信じることができればお前達も私と同じようにどんな苦難に立ち向かうことができるんだよ」という事例を見せたかったのかもしれませんね。

病人を治癒したという奇跡は、なんとなくありそうな感じがしますが、このパンを数千倍に増やすという、とてつもない奇跡は、私たちの常識からするといかにもフィクションっぽくて、後世に神格化されたイエス像のような印象をもってしまいがちです。しかしながら新約聖書の四つの福音書全てに記述があるイエスの奇跡はこの事例だけということもあり、当時の人々にとっても信じられないような飛び抜けて印象深いエピソードであったということも考えられます。イエス・キリストといえば、人類史から俯瞰すればキングオブ聖者のような存在ですから、完全に解脱した人間の潜在力を示す事実としてのエピソードであると信じたいところです。ヒンドゥー教でも、ヨガナンダの本で一躍知られる事になった不死のヨギー、ババジのエピソードでは、目の前に一瞬で黄金の巨大な宮殿を物質化させてしまう話など、とてつもない話がちょくちょく出てきますので、最近は聖書の奇跡もほとんどは実際に起きたことではないかと思うようになりました。般若心経の教えのようにこの世の物質的な側面は心の迷妄が生み出した幻影なのだとすれば、物質を増やしたり、あるいは消したり、など本来は自在に操れる類いのものなのかもしれません。

el_icon.png奇跡と科学についての雑感

他にもイエスが水の上を歩く奇跡もありましたね。使途たちはそのあまりの不思議さに、目の前の現象が信じられず怯えてしまうほどでしたが、使徒ペテロがイエスに、自分も水の上を歩けるように奇跡を与えてくださいと頼むと、ペテロまで水面を歩けるようにしてしまいます。水面を歩いている途中で急な風が吹いてきたためペテロが水中に沈んでしまわないか怖じ気ずくと同時に、足が水の中に沈みかけたのでイエスに助けを求めました。イエスは急いで手を伸ばしてペテロを助けますが、イエスは「なぜ疑ったのか?」とペテロに問いかけます。つまりペテロが水面を歩いたのはイエスの魔法だったのではなく、水面を歩けるはずだとペテロ自身が100%信じていたから可能になったのでしょうね。この世界の物理現象は、見た目は絶対的な法則に従っているように見えますが、量子論のようなミクロの世界では電子(素粒子)の振る舞いが(二重スリット実験のように)観測の仕方によって粒子(物質)だったり波(非物質)だったりすることが検証されているともいいます。この広大な宇宙も、全て素粒子など何らかの最小単位(量子)の集まりで構成されているわけですから、量子の性質も、この我々の日常、とくに運命とか偶然とか、人間には太刀打ちできなそうなこの世の側面を読み解く鍵になってそうな空想がふくらみます。

分子は複数の原子で出来ていて、原子は原子核と電子で出来ていて、原子核は陽子と中性子から出来ていて、陽子はクォーク(素粒子の一種)が集まってできています。(水分子は10の-7乗cm、クォークに至っては10の-16乗cm)素粒子はクォークやニュートリノなど名前だけはよく聞くなんか小さい粒のようなイメージのアレですが、さすがに小さ過ぎて、カミオカンデのような巨大水槽に溜めた3000トンの大量の水分子でも宇宙から降り注ぐ大量のニュートリノがごくたま〜に衝突する程度(小さ過ぎてほとんどが地球ごとすり抜けてしまうため)です。それを検出したことで小柴教授は2002年にノーベル賞を受賞しましたが、欧州原子核研究機構(CERN)やカミオカンデなど、ミクロの世界になるほど検出する装置が巨大になっていくのが面白いです。またクォークなどの素粒子の存在まで発見していく最前線の人間の科学力も驚異的なものを感じますね。クォークを構成する物質としてさらに小さいプレオンという仮想上の粒子も考えられているみたいですが、科学が進むほど小さい粒子が発見されていく様は、まるで宇宙の広さが天文学の進歩と比例して大きくなっているのと似ていて、我々の存在は、無限小と無限大の中間で「有限という仮想現実」を生きているような錯覚に陥ります。

el_icon.pngいろは歌とキリスト

そういえば、一説に空海が作者だといわれてきた「いろは歌」にはキリストの磔刑を表す言葉が隠されているという有名なオカルトネタがありますね。「いろは歌」自体が日本語の仮名47文字を全て一回づつ使って意味のある和歌になっているという超絶技工の言葉遊びで、さすが書の達人でもある空海の底知れぬ才能をうかがわせるものを感じたものです。念のために調べてみたら、いろは歌が空海の作だというのは俗説で、学術的には作者不詳というのが現在の定説になっているみたいですね。

その技巧をこらしたいろは歌にさらに仕掛けがあるというのは、子供の頃オカルト関連の本で読んだときびっくりした思い出があります。いろは歌を7文字づつ飛ばして読むと「とかなくてしす(罪無くて死す)」と読めるというアレです。(「とか」は「とが=咎」つまり「罪」のこと)これは罪も無いのに十字架上で死んだイエス・キリストをさすものだということのようです。さすがに賛否のある説のようで、はっきりしたことはわかってないようですが、本当だとすれば面白いですね。


いろは歌 作者不詳

いろはにほへと ちりぬるを
わかよたれそ  つねならむ
うゐのおくやま けふこえて
あさきゆめみし ゑひもせす

色は匂へど 散りぬるを
我が世誰ぞ 常ならん
有為の奥山 今日超えて
浅き夢見し 酔ひもぜず


無実の罪で死んだのはキリストだけじゃないので、イエス・キリストではなく別の人物を指しているのでは?という声や、そもそもが冤罪で死刑になった人物が作者でいろは歌はその人の辞世の句だった、という説もあるみたいですが、7文字づつ飛ばすという「7」といういかにも聖書的な数字によって仕掛けが施されているところなど、イエスと結びつけるのはそんなに変ではないようにも思えます。アカデミックに考えれば、キリスト教の日本伝来はザビエルによる布教(16世紀)というのが定説なので、いろは歌が成立したとされる年代(およそ11世紀)の当時の日本にキリストの教えを知る者がいたのか?とか、もやもやした所があるのもたしかです。しかし、いろは歌を作るほどの高度な文学的素養がある人物なのですから、作者は一般人よりも権力者や知識人と交流する機会があるような人物と考えてもよさそうです。例えば中国は唐の時代7世紀にはキリスト教が伝来していたそうなので、中国経由などでキリスト教の概要を知った知識人が日本にいた可能性もゼロではないように個人的には思います。

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意外と日本ってそういったキリストとの繋がりを示唆するオカルトネタは多く、イスラエルの失われた10支族、日ユ同祖説とか、青森のキリストの墓とか、東北の民謡「ナニャドラヤ」は実はヘブライ語の歌だったとか、童謡「かごめかごめ」の謎とか、伝統紋様の籠目(カゴメ)と六芒星(ダビデの星)の関係など、ロマンをかき立てる謎ネタが多いですね。そうした日本のオカルト的な側面から見ると、いろは歌にキリストの磔刑を暗示するギミックが仕掛けられていたとする説も「もしかしたら」と思わせるロマンを感じます。

この手のキリスト教関連のミステリーで個人的にとても好きなのは、諸星大二郎先生の傑作短編『生命の木』ですね。たしか阿部寛さんが稗田礼次郎役で映画にもなった気がしますが、映画は未見です。むかし、漫画評論の先駆者である呉智英氏がこの作品をいたく絶賛していたのも印象的でした。内容は、東北地方に伝わる隠れキリシタンが残した文書「世界開始の科の御伝え(せかいかいしのとがのおつたえ)」をめぐって、東北のとある寒村で起こった奇妙な殺人事件の謎に、異端の考古学者であり主人公の稗田礼次郎が追っていくというお話です。隠れキリシタンの文書「世界開始の科の御伝え」は、エデンの園のアダムとイブを描いた聖書の創世記を下敷きにした世界観なのですが、当時禁じられた宗教だっただけに、おそらく伝聞とか記憶違いなどが重なって、結果的に珍妙な話になっているところがとてもツボです。聖書ではアダムとイブはエデンの園の禁断の木2本(善悪を知る木と生命の木)のうち、ヘビにそそのかされて善悪を知る木の実だけ食べることになっていますが、「世界開始の科の御伝え」では、アダムとイブの他に「じゅすへる」という3人目の人間が出てきます。アダムとイブが善悪を知る木の実を食べるところまでは聖書と同じですが、じゅすへる≠ヘ生命の木の実のほうを食べてしまいます。この改変された部分がキーになっていて、短編漫画とは思えないあの有名な壮大なクライマックスを迎えます。もしも未読の方がいらしたらアレなので詳細は書けませんが、民族学などのアカデミックなネタをモチーフに極上の娯楽作品に料理してしまう腕前には感服するばかりですし、その一級の表現力がいまだ衰えず現役であるというのもすごすぎますね。

el_icon.pngイエスと共に処刑されたふたりの罪人について

当時十字架にかけられて処刑されたのはイエスのほかに二人いて、聖書ではイエスを真ん中に、左右に一人づつ十字架にかかった囚人が描写されています。片方の罪人が、「もしお前が神の子なら自分で自分を救い出し、ついでに俺も助けだしてくれよ」と悪態をつきますが、もう片方の罪人はそれをたしなめて「この期に及んでもお前は神を恐れないのか。俺たちは悪行の報いとしてこうして罰を受けているが、この方(イエス)はそうではない。」と助け舟を出し、さらに「あなたが天国に帰られたときは私のことを思い出してください」とチャッカリとおねだりします。イエスはそれに答えて「真の言葉として言おう。今日お前は私と共に天国にいるであろう」と天国行きを約束します。罪人の言葉とはいえ、肉体と精神の極限の苦難の中でかけられた優しい言葉にさすがのイエスも心に染み入ったのかもしれませんね。終わりよければ全て良しという感じか、罪人であっても最期の瞬間に悔い改めて改心すれば、ほぼ地獄行き確定の魂であっても一気に天国行きにチェンジできてしまうのも、意味深いところだと思います。逆にずっと努力を積み重ねてきても、肝心な所で悪に手を出してしまえば全て御破算なのも、よく芸能人のスキャンダル等の報道でも見かけるこの世のシビアな現実ですね。

el_icon.png死後の世界と魂の重さを量る話について

霊界探訪で知られるスウェデンボルグの見て来た天国と地獄の話では、死後の魂を天国と地獄に振り分けるのは閻魔大王のような裁判官によるものではなく、死後はたんに自分の魂が好む集落に各々惹き付けられて行って暮らすだけだといいますね。生前に他人に親切にしていた人は、そういう心の波長の人が集まっている集落に引きつけられ、互いに互いを尊重して生きる人ばかりの村で暮らすことになり、それがまさに天国であるというわけです。また、生前に人を騙したり悪事を好き好んでしてきた利己的な魂は、似たようなそういう荒い波長の魂ばかりがいる集落に落ち着くことになるので、そういう場所は必然的に騙し騙され不信と犯罪が日常の世界になるので、まさに地獄というわけです。心の有り様、心の波長のようなものは、霊界においてはいわゆるラジオの周波数とか、磁力のような感じで、同じ周波数を発する魂の所に磁石のように引きつけられるような感じなのかもしれませんね。霊界は精神の有り様で周囲の環境が決まるところがあり、現世のように善人と悪人が同じ空間に共存するような状況にはならないようです。(逆に現世では肉体という物質の鎧をまとっているために、波長の異なる魂が交流できるようになっているということです)ゆえにあの世では善人は天国のような暮らしができるものの、嫌な出来事や悪人に遭遇する機会も激減するため、不幸な人を助けたり、嫌なことをする人を許したりなどの、魂を成長させる出来事もめったに起こらなくなり、それゆえにいつしか単調な毎日に飽きて来て、また現世に戻って魂を向上させてより高い霊界を目指す、みたいなこともあるようですね。

霊界についてはこの世では検証のしようのない世界ですから、見て来たといわれる人の話を信じるかどうかという話になってきますし、仮に自分が臨死体験などでそういう世界を見たとしても、錯覚とか幻覚とか夢とか、いろいろそれらしい理性的な反駁に抗えるだけの説得力があるのかどうか、ということになります。今のところは、どっちにせよ存在を肯定するも否定するにも根拠に乏しいのはいっしょですから、霊界のような場所があると考えても間違いとは誰も断言できないわけです。魂にも物理的な重さがあるという俗説もあり、モンロー研究所などの幽体離脱実験など、人間に肉体以外にそのような霊体もあるなら、霊体でしか認識できない相応の世界があってもよさそうです。

そういえば以前の記事で触れた聖書の外典(旧約新約の聖書正典に含まれていない文書)に、「パウロの黙示録」という興味深い文書があります。イエスの十二使徒のひとりであるパウロが天使の案内で死後の世界を見聞するという内容で、スウェデンボルグの霊界探訪やチベット死者の書などを彷彿とする興味深い文書です。高校生くらいの頃だったか、公民館の図書室で聖書の外典を収録した本を見つけ、「黙示録」というオカルト界隈でよく出てくる単語に興味を惹かれて読んでみたのですが、中身が霊界旅行のような話なのでびっくりした思い出があります。ただ霊界の描写そのものは宗教的な寓意が込められていて、死後の世界の話によく出てくる走馬灯のようなものなど興味深い描写も多いですが、やはり善悪がどのくらいの厳しさでジャッジされるのかが明確ではないので、読んでいてあまり楽しい気分にはなりません。生前の行いを監視していた天使の報告によって裁かれて天国や地獄に割り振られるような描写があるのですが、寓意的というか、宗教的なものを感じる死後の世界です。そういう意味ではスウェデンボルグの見聞したという霊界の記録のほうが科学者らしい客観性を感じるところがありますね。(スウェデンボルグは当時は科学や技術に秀でた功績があり普通に社会から尊敬を集めていた人物で、ダビンチに匹敵する天才と呼ばれていました)ネットで検索すればパウロの黙示録を取り上げている記事もそこそこあるみたいなので、興味がある方は調べてみると面白いと思います。

魂の重さの話ですが、20世紀の初頭、アメリカの医師ダンカン・マクドゥーガル博士によって魂の重さを量った実験があったという話がありますね。オカルト系の話で出てくる有名なエピソードで、息を引き取る前の患者の体重が、死亡と同時に21グラム減ったというアノ実験です。この実験は有名ではありますが、実験は4人しか行われておらず、うち一人は検証準備が整わないうちに死亡したため実質3人しか検証されていないようです。その中で一番体重が減ったケースが21グラムということですから、たしかに興味深い面はあるものの、わずか三例のデータですので、この重さ自体にあまり確実性はないように思われます。博士は人間だけでなく、犬15匹による実験も行いましたが、犬の場合は死後に体重が減少するような結果は得られなかったそうです。実験の異質性もあって同じような実験は以後ほとんど行われることはなく、マウスによる実験もあったそうですが、これも一定の結果が得られることはなく、マクドゥーガル博士が検出した21グラムが本当に魂の重さだったのかどうかは素直に私も疑問に思う所です。魂とか心など、そういう部分は物理的な次元では検出の難しいものだろうと思いますし、最初から物理的な量を持ってなさそうにも思えます。質量がないものは実体もない、つまり存在しない。とはならないのがこの世の面白いところで、身近な例では「光」がソレです。光は質量がゼロですが、光が存在しないと思う人は誰もいないように、魂も質量はなくても光のようにこの世界で重要な役割を果たしていそうな気がします。

メモ参考リンク
慈悲の瞑想(ウィキペディア)

六神通(ウィキペディア)

プレドイの聖霊礼拝堂(ウィキペディア イタリア語)
件の十字架像の写真もあります。引きの写真なので傷口などの細かいディティールははっきり写ってません。ショッキングな画像が苦手な方は以下のリンクではなく、こちらを参照してみてください。

【閲覧注意!】聖霊の礼拝堂、プレドイ(推定1455)のイエスの磔の像(tumblr S:Bさんのページ) その1 その2 その3 その4 その5
件のリアルなイエス像の部分アップの画像。実際のイエスの肉体は当時はここまで悲惨な状態だったのかもしれませんね。よくキリスト教では、イエスの十字架の解釈は、全人類の罪を購うものであるとしていて、以前は「いや、それは風呂敷拡げすぎだろう」と思って聞いてましたが、プレドイのイエス像を見てると、「たしかに、この最悪の状態で信念を貫いたパワーというのは、全人類を救うに足りるほどの底知れないものに違いない」と思わせる説得力があります。イエスは、ソクラテスやブッダや老子など、イエスよりも数百年も前に高度な霊的レベルに到達した数々の賢者たちを差し置き、西暦という今や世界の時を牛耳る暦の基準になっている人物ですが、これはほとんど「人類史上最も偉大な人物」という人類による評価そのものだと思います。思想自体は他の賢者のほうが学ぶところがありますが、人間存在の強さとか、困難と戦う無限の力など、実践的な人生の手本としてはイエスの生き様はやはりトップクラスの輝きがありますね。

荒野の誘惑(ウィキペディア)


キリストの磔刑(ウィキペディア)

諸星大二郎の作品「生命の木」(ウィキペディア)

量子ってなあに?(文部科学省)

PDF『魂の重さを測った人』リエゾンセンター センター長 教授 宗像惠(近畿大学中央図書館報 No.43, 2012)
魂の重さを量ったダンカン・マクドゥーガル博士の前代未聞の実験の詳細がうかがえる興味深い論文。
posted by 八竹彗月 at 04:55| Comment(0) | 精神世界

2020年07月25日

不食と小食について

ダイエットとラマダンの話

インドといえば聖者の国。遠い昔から現在まで精神世界をリードする多くの聖者を輩出していて、興味が尽きないです。先日も80年間何も飲まず喰わずを貫いたヨギーが90歳で老衰のために亡くなったとのニュースがSNSのトレンドに上がってましたが、さすがインドというか、なんとも摩訶不思議な事が日常茶飯事に起こってそうな神秘の国ですね。食という本能に関わる欲望を制御するのはそれなりに強固な意志力を必要としますし、生きるための食というより、現代では食は人生の楽しみのひとつでもありますから、これを断つというのは、わずかな期間だけであってもなかなか難しいものがあります。ダイエットは生活系雑誌の定番記事で、「○○○ダイエット!」なるいろんなダイエット法が次から次へと登場しますが、単純な話、食べ過ぎるから太るというだけの話で、食べる量を制限すればそれに伴い必然的に体重は減るはずです。にもかかわらず、ダイエット情報がいろいろ出てくるのは、それだけ食欲を制御するのが難しいということでしょう。一度決心すれば出来なくはない事ですが、この初めの一歩である「決心」ができないのが人間のサガですね。

そういえば禁煙したときも、決断するまでが長くて、決断したら意外とすんなり禁煙できてしまい、もうかれこれ6年が経過しました。下手にパイポなどの中途半端な禁煙法に頼っているうちは全然無理でしたが、何の脈略も無く「もう吸わない」と決意し、そのまま実行したらあっけなく禁煙できてしまいました。いかに決断という「初めの一歩」が大事か、ということですが、様々な場面でこれが実行できれば世話はありません。そうはいかない弱さがあるのが人間でもあり、まぁ、そこは地道に精神を鍛えていくしかないのでしょう。

イスラム教徒は定期的に絶食するラマダンというものがあるのは知られています。食の節制という難関を宗教の戒律で半ば強制的にクリアするわけですが、別の見方をすれば宗教で強制的に健康にしてくれるわけで、優柔不断な人間には渡りに舟な戒律でもあると思います。調べてみると、ラマダンはイスラム暦で第9月の日の出から最終日の日没までおよそ1ヵ月間断食をするというものですが、完全な断食ではなく、決められた時間に一日一食だけ質素な食事を摂れるようです。現代人は、ほとんどの場合1日3食のペースで食料を摂取してますが、そうなると内蔵は毎日間断なく休み無く働き続けていることになります。なので、週に一日でも断食して内蔵を休ませるだけでも、かなり体調が良くなるという話を聞きますね。

多くの人にとって、美味しいものを食べるのは人生の至福のひとときなわけですが、美味しければ美味しいほど、それを食べることを腹八分目で止めれる精神力も必要になってきます。とくに現代は、甘いお菓子やジューシーな唐揚げなど、カロリーが高くて安くて美味しいものが溢れてますから、それゆえに食の誘惑に抗えるだけの食欲を制御する精神力を鍛えるのはけっこう重要かもしれません。

水野南北の小食開運術

江戸時代の占術家、水野南北(1760-1834年)は、食の節制は健康だけでなく、強力な開運効果があることを主張したことで知られ、昨今よく耳にする人物です。南北がそのような思想に至ったのは、身をもって体験した事実を元に確信したものであったようで、そうした彼自身のエピソードはとても興味深いものがあります。

子供の頃から酒や喧嘩や窃盗に手を染め、18歳にして獄中を体験するという、ギザギザハートの子守唄を地でいき、チェインギャングを歌い出しそうな南北の少年時代、出獄した折りに見てもらった占い師から、その顔に「死相が出ている」と言われ、このままだと成人を迎える前に死ぬかもしれないことに恐怖したのをきかっけに、一念発起でお寺に出家して少しでも運気を上げようとしました。しかし死相が見えるほどのかなりヤバヤバな凶相だった南北、あまりに人相の悪い若者ゆえ寺も彼の入門をためらい「1年間、麦と大豆だけの食事を通すことができたら弟子にしてもよい」と、ほとんど門前払いの言い訳めいた条件をつけて南北を追い払いました。そうなると南北は余計に不安にかられ、何が何でも入門したいとの思いで、なんだかんだで1年が立ち、お寺の出した条件を見事に達成してしまいました。いざお寺に出家しようとする南北でしたが、自分の顔に死相を見た件の占い師の言葉が蘇り、念のためにあの時の占い師にまた見てもらったところ、1年間であの時に見えた死相はきれいに消えているといわれ、またそれだけでなく、最悪だった運気までなぜか180度好転してしまいます。この体験から、小食は強力に開運をもたらすという事を確信し、自分を泥沼から救い出してくれた占い(観相学。人相占い)に興味を持ち探究していくことになったそうです。

南北の小食開運法は、その開運に至る理屈もなかなか説得力のあるユニークなものですが、常識的な見地からも小食は健康に良さそうですし、開運に関してもヨガや禅など多くの宗教的な修行でも食の制限は必ず出てきますので、効果はありそうに思います。インドの著名な近代の聖者のひとり、ラマナ・マハルシも推奨されるべき生活態度として、節度ある睡眠、節度ある会話と並んで節度ある食事を挙げていましたね。

小食は普通に健康によいはずですが、前述の80年間不食のヨギーの話のように、精神修行をしている人の中にはときおりそのような完全な断食をしているとされる人の話をたまに聞きますね。人間も生き物なので、食べずに何年も生きているというのは、にわかに信じられないという人も多かろうと思います。SNSなどでは、実際はこっそり食べていてインチキしているんだろうという意見も散見されましたが、件のヨギー、プララド・ジャニさんは10年前の2010年に、本当に何も食べてないのか確かめるためにインドの病院で、医師30人の立ち会いと監視のもとに24時間態勢で15日間観察されたことがありました。結果は、期間中にジャニさんが液体と接触したのは、うがいと風呂の際だけだった、ということで、食事はもちろん一度もせず、トイレにも行かなかったそうです。懐疑的な人は、その期間だけ我慢してただけだろうという見方もするでしょうが、トイレに行かなかったということは、胃腸がカラになる程度の期間は実験前に準備しておく必要があるはずですし、普段こっそり食べてる人がいきなり2週間以上の完全断食にチャレンジするのは相当難しいであろうことも推察できます。

日本人でも不食者といわれている人は何人もいますが、以前俳優の榎木孝明さんが30日の断食をクリアしたニュースが思い出されます。榎木さんに限らず、30日クリアできるレベルの不食チャレンジャーは、そのままずっと食べずにいけそうですが、30日経過した時点でまったく食欲がわかなくても「本当にこのまま食べないで大丈夫だろうか?」とものすごく不安になるようです。気分も体調も良好であっても、長く絶食していて身体に良いはずがない、このまま続けてたら死んでしまうのではないだろうか、という不安によって意識的に止めるケースが多いのではないかと想像します。

ヨガナンダが出会った50年間不食の女性

私は個人的にはジャニさんの80年間不食を信じています。人間にはその程度の潜在能力があると思うからです。ヨガナンダの『あるヨギの自叙伝』の第46章に「断食50年の女ヨギ」というエピソードが出てきます。ギリバラという名の70歳の女性が、50年以上にわたって飲まず喰わずの生活を維持しているとの噂を確かめるためにヨガナンダが実際に彼女の家まで出向くエピソードです。こちらもなかなか興味深いです。彼女も、上述のジャニさんと同じように不食の事実を検証されています。検証を行ったのはインドの貴族、ビジャイ・チャンド・マハターブ大公で、自身の宮廷にギリバラさんを2ヵ月間缶詰にして不食の検証が行われました。一度だけでなく、その後も20日間、3度目は15日間、宮廷の一室に缶詰にされて観察されました。この厳重な3度の観察のすべてのテストをクリアし、彼女は見事に完全な絶食を証明したそうです。なぜ飲まず喰わずで生きていけるのか?についてヨガナンダは「この女ヨギは、あるヨガの技法により、エーテルと日光と空気から宇宙エネルギーを直接吸収して肉体生命を維持している。」と解説しています。また彼女は不食だけでなく睡眠もあまりとらないそうです。

ヨガの思想では、空気というのは、我々が常識的に考えているような、酸素と窒素と二酸化炭素の混合物というだけの物理的な実体だけでなく、霊的なエネルギー「プラーナ」に満ちているとされています。仙人もよく「霞を食って生きている」と俗に言われたりしますが、まさにこの霞、つまり空気というのは、この場合も物理的な実体ではなく、空気と密接に結びついている高次元の霊的なエネルギーのことを指しているのでしょう。中国ではこの空間に満ちている目に見えない精気のようなものを「気」と呼んでいますが、これもプラーナと通じる同じような概念です。気を操る技法が「気功」で、健康法や武術など、広く中国文化に浸透した概念ですね。中国の道教の秘術に、抱朴子などの仙術がありますが、仙道の秘術にはチャクラの概念や先に述べたプラーナの概念など、けっこうヨガと通じる考え方が散見されます。インドから中国に渡った文化は仏教の伝来だけでなく、ヨガに関してもいろんな経路から中国に渡って、道教の神秘思想と結びついていったのでしょうね。

ヨガや禅などの精神修行では瞑想を重視しますが、この瞑想を行う上で重要なのが呼吸法です。呼吸は普段は生命維持のために無意識に行われますが、よほど訓練された人でない限り、無意識に行う呼吸は浅い呼吸で、浅い呼吸ではプラーナを吸収することはできず、瞑想も雑念ばかりで深まりません。無意識の呼吸は肉体維持に必要な最低限の呼吸で、意識的に行うゆっくりした深い腹式呼吸は肉体より高次元の霊体にエネルギーや養分を与えることができるとされています。なので、ヨガでは意識的にプラーナを取り入れるための深い腹式呼吸をするわけです。

ヨガナンダは不食者が取り入れているエネルギーとして空気のプラーナなどのほかに日光を挙げてますが、これも興味深い指摘です。そもそも「食べ物」とは何ものなのでしょう?食べ物とは、元を質せばすべて太陽エネルギーを蓄積した電池であるといえると思います。植物は光合成によって栄養素を作りますが、イモ類などはそのエネルギーを根っこに溜めてイモになります。果物は実にそのエネルギーを溜めます。またそうしたエネルギーを食べる動物も、間接的に植物の太陽エネルギーを取り入れてるわけですから、動物にも太陽エネルギーに満ちています。そもそも人間は太陽を浴びるだけでもビタミンDという栄養素を自力で作り出しており、日光浴は単に気持ちいいだけのリラクゼーションだけではない事が知られています。腐った食べ物を忌避するのは、腐敗による毒素だけでなく、太陽エネルギーが抜けきって生命力を失っていて役に立たないことが直感的に分かるからかもしれません。塩などの無機物は別にして、ほとんどの食べ物は生命の「気」に満ちています。食べ物から生命力が抜けると腐敗していきます。食べ物に蓄積されている生命力とは太陽のパワーですから、食べ物を経由せずに直接太陽からパワーを得ている人がいてもおかしくないような気がします。

人間も動物ですから、最初から不食で生きれるような身体で生まれ落ちてくることはないですが、以上のような考えからヨガなどの訓練により、不食で生きれる肉体に鍛えることも可能なのではないか、と思っています。食べる事は人生の楽しみのひとつですから、わざわざ理由もなく不食に挑戦するのはナンセンスであろうと思いますが、スーパー、コンビニ、飲食店など、普段目に付かない所で莫大な廃棄食料があるという話も聞きます。全ての生命にとって、食べ物は宝物のようなもので、多くの動物は食料を得るために全精力を傾けて生きてます。地球上で人類だけが、食料の持続的な生産と享受をほぼ可能にしていて、それは素晴らしい事で人類の偉大な成果には違いありません。しかし別の視点からみれば、先進国では飢えて死ぬより食べ過ぎで死ぬ人の方が多いようで、これもこれで問題です。私はベジタリアンではありませんが、人間の飽くなき食の欲望の犠牲になって、食べられる事も無く賞味期限切れで捨てられていく食肉を思うと、何のためにこの豚や牛や鳥は人間に身を捧げたのだろうか、とふとセンチメンタルな気分になるのも確かです。感謝していただく、というのは良い心がけに違いないですが、地球上の生き物から無駄に命を奪う事のないように、とくに、食べられることなく廃棄される食肉をできるだけ減らせるような世界にしていきたいものです。近年「どろろ」や「アシュラ」など飢餓の世界を背景にした作品がアニメ化されたり映画化されたりなどリバイバルしていてることも、何かそんな感じの地球生命(ガイア)の意識が訴えてるメッセージのような気がしてくる昨今です。

メモ参考リンク

80年も飲まず食わず? インドのヨガ行者が死去、90歳か 2020.5.26(AFP BB News)

70年断食の印ヨガ聖者、科学者も仰天 2010.5.10(AFP BB News)
不食のヨギー、ジャニさんに関するちょうど10年前の記事。

ラマダーン(ウィキペディア)

水野南北(ウィキペディア)

「南北相法」水野南北著 明治41年 須原屋書店(国立国会図書館デジタルコレクション)
「南北相法極意秘伝集」水野南北著 明治27年 両輪堂(国立国会図書館デジタルコレクション)
小食こそが開運の鍵であるというシンプルで説得力のある思想で昨今注目されている江戸時代の観相学(人相占い)の大家、水野南北の著作。江戸時代の和本はほとんど草書体ばかりですが、これらの本は明治時代に復刻されたものなので、活字で印刷されているため比較的読みやすいですね。拾い読みするだけでも面白い情報がありそうです。

飢えて死ぬ者よりも、食べすぎて死ぬ者のほうが多い(「Daiwa」様より)

不食の人・榎木孝明、4年前に30日間の不食チャレンジ!現在も「10日くらい食べない」(「まいどなニュース」様)
posted by 八竹彗月 at 19:08| Comment(0) | 精神世界

2019年10月06日

「引き寄せ」について

以前スピリチュアル的な方面への関心が高まってきた頃に、その源流が気になって自分なりに辿ってみたことがあります。そうした過程で、それらは最近になってポッっと出てきた新しい思想なのではなく、けっこう昔からある思想のアレンジであることに気づいていきました。現代のスピリチュアル系の重要なキーワードを挙げると、ワンネス(すべてはひとつという思想)とか、ノン・デュアリティ(非二元、ワンネスと似たような意味)とか、マインド・フルネス(いわゆる「今ここ」の瞑想法)などがありますが、これらは人類の最も古い宗教思想のひとつともいえるインドの聖典にすでに言及されていることに気づきます。一見すると、占いなどに似た軽薄なファッション的な流行りもの文化っぽく写る面もあるスピリチュアルですが、その思想の根っこになっている部分はけっこう古くからある人類普遍の思想に根ざしている部分も見えてきたりして面白いです。

またスピリチュアルブームの火付け役になったといわれるロンダ・バーンの「ザ・シークレット」やヒックス夫妻の「引き寄せの法則」シリーズなどで有名になった「引き寄せ」ですが、これの直接の源流は19世紀半ばに米国で興ったキリスト教を再解釈した新しい思想運動「ニューソート」だとされています。ニューソートはジョセフ・マーフィーやジェームズ・アレン、ニール・ドナルド・ウォルシュ、ナポレオン・ヒルや中村天風などの成功哲学や自己啓発的な思想や戦後の新興宗教の多くに影響を与えた思想運動です。思想の特徴は、端的に言えばいわゆるポジティブ・シンキングの薦めであり、その理由は「この世界は思考が現実化するようになっている」からだとするものです。ゆえに、ネガティブな考えはネガティブな現実を引き寄せるので、「こうなったら嫌だな、心配だな」と考えるかわりに「こんなこといいな、できたらいいな」とドラえもんの歌のような思考法のほうがより豊かな人生を引き寄せることができますよ、という思想です。

しかし、そういった「思考は現実化する」という思想もまた、ニューソート運動で突然出てきた新しい発想なのではなく、これもヴェーダーンタ哲学や仏教にも見られる古くからある考えです。キリスト教の場合、イエス・キリストの十字架に見られる悲壮なイメージや、十戒やノアの洪水やソドムとゴモラのような厳しい神のイメージ、また「人間は生まれたときからすでに罪人である」とする原罪などの印象で、一般にあるイメージですと、なにかと重苦しい部分がある宗教ですから、もっとポジティブに聖書を解釈していくことで、キリスト教をもっと明るい気持ちで信仰できるものにしたいという想いがニューソート思想になっていったのではないか、と想像します。ニューソート思想は、うさん臭いとか科学的でないとか、現代では何かと揚げ足をとられて批判されたりする場合も散見しますが、考え方自体は良いものですし、信じることからはじまる精神世界と、疑うことからはじまる科学とでは、根本的にスタート地点や視点が異なるので、こうした思想は、正しいかどうかというよりは、自分にとって有益かどうかで判断するしかないものだろうと思います。いわゆるアスリートの実践しているイメージトレーニングというのは良い結果をイメージするポジティブシンキング的な行為ですし、効果も実証されているわけで、スポーツに限らず物事をポジティブに受け取る考え方というのは、普通に人生にも良い影響があると思います。

そういえば、あのマザー・テレサの名言としてネットでよく見かける言葉「思考に気をつけなさい、それはいつか言葉になるから。言葉に気をつけなさい、それはいつか行動になるから。行動に気をつけなさい、それはいつか習慣になるから。習慣に気をつけなさい、それはいつか性格になるから。性格に気をつけなさい、それはいつか運命になるから。」というのがありますね。これも思考というのが単なる脳内のささいな現象なのではなく、結果的に人生に起こる現実そのものを造っていく材料になっているのだから気をつけなさいという意味で、「思考は現実化する」的な共通する考えですが、なんかこの言葉を知った当初から語彙の雰囲気が感覚的にマザー・テレサっぽくないテイストではあるなぁ、と思ってたので、一体この言葉はマザーがどこで発言した言葉なのか、この機会に調べてみると、案の定というべきか、この言葉がマザーのものであると流布されているのは日本くらいのようで、その言葉の出典は不明瞭なもののようです。前にも記事にしたヴォルテールの名言みたいに、この名言もまたグッときた言葉を反射的に拡散する傾向のあるネット特有の現象が生んだ名言なのかもしれませんね。まぁ、言葉自体は含蓄がありますし、内容もブッダの教えに通じるものがあり、誰の言葉かは置いといて、名言には違いないですが。

メモ関連サイト
マザー・テレサじゃなかった?! 名言「思考に気をつけなさい…」の謎(ブログ「Blue Eli ニューヨーク便り」様より)

ニューソート思想のもっとも著名な人物といえばジョセフ・マーフィーだと思いますが、その著書が多くの人に感銘を与える反面、「思考した通りに現実が造られる」という神秘的な思想がストレートに語られるので、精神世界に馴染みのない人にはうさん臭く思われる部分も多いかもしれませんね。多くの人は教育を通じて科学的思考で世界や自分を捉えますから、自分は宇宙の片隅のちっぽけな部品のひとつという認識になりがちですが、精神世界の考え方は全く逆で、自分の心こそが宇宙を作り出している根本原理であるという考え方があるので、非常にポジティブに人生や物事に対処できるようになれるメリットがあります。

マーフィーの本では、たしかに、人間の思考がまるで魔法か何かのように、人生を創造していく万能薬のような描かれ方をしている面もあるので、免疫のない合理主義的な精神の人はそうした考えを受け付けないようなところもあるでしょうね。しかし、科学の視点からみても、ダークマターの問題など、この宇宙は物質として認識できる部分よりも、人間には知覚不能な何かが大方を締めているような世界であることが指摘されているように、スピリチュアルや神秘学のような、科学的思考では捉えられない理性で捉えきれない思想体系も、実はけっこう真理に近いところにあるものなのではないかと思います。私たちは、教育などによって、物事の正しさを「科学的かどうか」という基準でジャッジしがちなので、こうしたスピリチュアルな思想は科学的ではないために「正しくない」と判断しがちですが、精神世界、つまり神や霊や魂などの世界は少なくとも現時点での科学のモノサシの通用する世界ではありません。科学とスピリチュアルのどちらが正しいかということではなく、双方はこの宇宙を読み解くコインの裏表のような存在なのではないか、と考えています。ブッダはその悟りによって、人の人生は偶然に起こるものではなく、それなりにキッチリとした法則に則って全ての事態が生じるということを発見しましたが、それは、ある意味、「運命の科学」というものだろうと思います。

かようにニューソートで主軸となる引き寄せ的な概念やポジティブシンキング思想の源流もかなり古くからある考えで、原始仏教にもそのような記述があります。また、キリスト教の聖典である聖書にさえ言及している記述がみられます。こうした思考や心が現実を生み出す原因になっているという思想は、そういう思想を受け入れて信じることで実際に機能しだすので、疑う限りは「それ見たことか、やっぱり思考は現実化しない!」という「疑ったほうが正しい」と思われるような現実を引き寄せます。しかしこれはこれで詭弁ぽい言い方ですが「思考した通りの現実を体験する」という意味ではちゃんと思考が現実化しているわけです。認証バイアスという言葉がありますが、それは信じる側にも疑う側にも同時に当てはまる概念ですし、そもそもが全ての人間は何らかのバイアスを通してしか物事を判断できないようになっています。ということは、この宇宙に意志があるなら(当然あると思っていますが)最初から人間に「バイアスのかかっていない正しい認識」みたいなものを求めていない気がします。絶対的な正しい認識に意味があるなら、宇宙としてはそういう天才が一人存在するだけで間に合うからです。人間が何十億人もいて、それぞれにバイアス(というかバリエーションというべきか)があることのほうが、正解がひとつしかない世界よりも豊穣で面白い、だから明確な正解が存在しないような世界にしているのでしょう。ラーマクリシュナがいったように、この宇宙は神の遊戯そのものであるのかもしれません。

以下、仏典のひとつ「ウダーナヴァルガ(感興のことば)」と、新約聖書のマルコ福音書から引き寄せ的な思想を述べている該当部分をそれぞれ引用してみます。

ひとは「われはこれこれのものである」と考えるそのとおりのものとなる。それと異なったものになることは、ありえない。

──────ゴータマ・ブッダ

中村元訳『ブッダの真理のことば 感興のことば』岩波文庫
(p288 感興のことば 第32章・33節より)



よく聞いておくがよい。だれでもこの山に、動き出して、海の中にはいれと言い、その言ったことは必ず成ると、心に疑わないで信じるなら、そのとおりに成るであろう。
そこで、あなたがたに言うが、なんでも祈り求めることは、すでにかなえられたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになるであろう。

──────イエス・キリスト

新約聖書 マルコによる福音書 第11章より (Wikisourceより)



ブッダの言葉は、明快に自分の人生は自分の思考がシナリオとなって現実を創造していくという法則を指摘していますね。ゆえにシナリオが邪悪だったり過剰に懐疑的だと人生も苦しいものとして現われてきてしまいます。実際に自分の過去を振り返ると、ブッダなどの聖者が言っていたことは、道徳的な理想論を言っていたわけではなく、ただこの世界を動かしている見えない法則をそのまま指摘していただけなのだ、という実感がします。マルコ福音書のイエスの言葉も興味深いですね。完全に「信じる」ことが可能なら、人間には山をも動かす潜在力があるのだ、という力強い言葉です。

また、「なんでも祈り求めることは、すでにかなえられたと信じなさい」などは、そのまんま引き寄せの法則などで言及される願望実現の重要なコツで、「欲しいモノがあるなら、すでにそれを手に入れた後の気分を味わいなさい」ということです。よく神社では願い事をするのではなくただ神様に感謝を捧げなさいということがいわれてますが、これも神様に願い事をするな、という単純な意味ではなく、「願い方」の法則をいったものだと思います。つまり、何かを願うということは、その時点では「まだその願いが叶っていない」ということですが、神様はなぜかその「願いが叶っていない状態」を叶えようとします。神様に願いを叶えて欲しい場合は、叶っていないうちから「すでに願いは叶いました。ありがとうございます!」という「感謝の気持ち」を伝えることで、「願いが叶っている状態」を叶えてくれるようになります。

神的な存在は、上位の存在ほど人間のエゴ的な思考のレベルにある言語的な思考にはあまり反応しない性質がある気がします。霊的な存在は高次のレベルほど言語的な思考よりも感情とか気分とか気持ちとか、そういう情緒的な感覚のほうに反応しやすいように思います。それゆえに聖書の言葉のように「すでにかなえられたと信じなさい」ということなのでしょう。これには、神は願うまでもなく人が何を願っているか、何を欲しているかくらいはお見通しでありますから、もしその人に必要なものなのであれば、願うまでもなく神が叶えてくださるのだ、という「信じる気持ち」に敏感に神的な存在が反応するのだと思います。

これは実際にすごく役に立つノウハウで、タイトな締め切りの仕事の時も、仕事をはじめる前に「すでに余裕をもって締め切りに間に合い、仕事を終えた自分」が味わうであろうホッとした気持ちを数分くらい瞑想すると、何故かその通りになります。これは何度もありました。また、物事が普通に考えるとダメな方向に行きそうなときも、「なぜかすべて理想どおりに事がすすんでくれて良かった!」と未来の自分が感じている気持ちを瞑想すると、そういう方向に現実が動きやすくなるため、事態が好転しやすいです。

後は、願いが叶ったらちゃんと神様なり守護してくれた霊的な存在なりのはたらきに感謝するのを忘れないですると、なぜか奇跡の起こる頻度は増します。これは、なにも無理矢理神仏を信心しなさいということを言いたいのではなく、奇跡が起こったのは自分のパワーのおかげだ、という傲慢な気持ちを消すために必要な儀式だと考えると分かりやすいです。これはおそらく幸福とか奇跡というのは、利他的な心や信じる心に反応する性質をもっているからだと思います。まぁ、とにかくスピリチュアルにしろ引き寄せにしろ、正しいかどうかとか、信じる信じないを迷うようなものではなく、とりあえず自分の人生で実践してみて身をもって判断するべきものが精神世界なので、興味があれば実践してみるのが一番ですね。

最近思うのは、「ニューソート」とか「ヴェーダーンタ」とか、あるいは「キリスト教」だとか「仏教」だとか、「構造主義」だとか「現象学」だとか、我々は特定の思想に名前を付けて安心してしまって本質から離れがちになっていないだろうか、という自戒があります。概念に名称のラベルを貼って論評の対象にしてアレコレ議論していく過程で、当初は世界を貫く何らかの真理を指ししめす概念に便宜的に「ヴェーダーンタ」などの名前を付けてきただけのはずなのに、いつのまにか、あらかじめ名付けられている無数の思想の項目のひとつであるかのような錯覚をしてしまってはいないだろうか、と。自分と関係のない、何か、本棚の中の適当な一冊を指し示しているだけのような、たくさんのジャンルの中のひとつのような矮小化した概念に貶めている部分があるのではなかろうか、ということにフト気づくとき、巧妙に張り巡らされたこの世界のマーヤー(幻影、迷い)が可視化されたような感じがしてきます。本来、自分の人生の中で実践することで検証していけば自ずと答えは出るはずの、それだけのシンプルなものなのに、気を緩めると、瞑想も八正道も隣人愛も実践することなく、ただ頭の中だけでそれらの思想を解釈してジャッジしようとしがちなところがあるので、自分も気をつけたいところです。
posted by 八竹彗月 at 23:21| Comment(0) | 精神世界