2019年01月18日

聖書と原罪

何かと慌ただしいような、そうでもないような感じで新年がはじまりました。すっかり開けきってしまいましたが、今年もよろしくお願いします!今回の記事は、この前部屋の整理などをしてたらふと聖書の原罪についてひらめくことがあったので、忘れないうちにメモ替わりに文章を書いているうちにいろいろ話がふくらんできたので単発記事としてアップしてみました。

本聖書の思い出

欧米の文化はキリスト教の思想が根底にあるので、聖書を一通り読んでおいたほうがハリウッド映画や文学、アニメなど、向こうの文化をより楽しめるよ、といった話を学校の先生だったか誰か忘れましたが、子供の頃どこかで聞いていたこともあって、中学生くらいの時期に聖書をよく読んでいました。欧米人ならだれでも知ってるような超ベストセラー本なわけですから、多分読めば面白かろう、という軽いノリで読んでみたのはいいですが・・・・しかし、世界宗教の聖典だけあって子供には薬が効きすぎたようでした。「原罪」に落ち込み、「十戒」に憂鬱になったりと、心の救いどころか、何か恐ろしい圧迫感や束縛感を感じつつ、それを否定すると地獄に堕ちるのではないか、神に罰せられるのではないか、という恐怖感に囚われた思い出があります。聖書に書いてある禁則事項の中には、「脳内で女性を犯しても実際に淫行したのと同じ罪!」とか「オナニーも罪!」とかあるので、思春期の少年には厳しすぎる内容です。なんとなく性に抑圧的な環境で育ったこともあって、さらに自ら禁欲的な思想まで取り入れたものですから、心の奥では逆に余計にエロに対する興味を増大させていた気がします。抑圧されるほどに、ますます性的な空想が極上のパラダイス的な魅力をもって誘惑してくる感じでしたが、そういう妄想をしている自分に罪悪感や嫌悪感もあったりして、それなりに若者らしい悩みに苦しんでいたのだなぁ、と他人事のように思い出が蘇ります。大人になるにつれて、そういう聖書の思想を背景にした社会に生きているはずの西洋人も、十戒を守って生きてるような人はほとんどいなさそうな事がわかってきて、気が楽になりました。何ごとも、イイカゲンくらいが加減がいい、つまり「いい加減」なのかもしれませんね。

聖書に限ったことではないですが、この世界は必ず2面性を持って存在しているので、醤油も調味料として使うと美味しいですが、ガブ飲みしたら毒と同じで死んでしまうように、聖書も心の成熟度とかいろいろな条件によっては毒にも薬にもなるのだということを学びました。ヘッセの小説とかは、そうしたキリスト教的な思想が文化的な背景としてあらかじめ存在している西洋人の苦悩が描かれていて、個人的にとても思い入れのある小説「デミアン」も、そうしたキリスト教的な環境からの抑圧と解放を描いていて、すごく共感したものです。なるほど思い返してみれば、もし先に聖書を読んで、さらにその聖書の世界観に暗澹たる圧迫感を感じることがなければ、ヘッセの作品から受ける印象も浅いものになったでしょうから、振り返ってみれば、聖書を読むという経験はなんだかんだいっても役に立ったには違いありません。陰謀論系のオカルト本も聖書が元ネタになってるものが多く、鬼塚五十一などの666関係の陰謀論とか、超古代文明関係の話とか、なにかと妖しい話題にも聖書はよく出てくるので、そういう話のネタ元としての興味からヨハネの黙示録を読んだりなどもしました。

一冊の読物として見ると、旧約聖書は序盤はエデンの園とかノアの洪水とかバベルの塔など有名なイベントが次々と目白押しなのでそれなりに面白いのですが、ヨシュア記とか歴代志上など旧約聖書全般に「ベニヤミンの生んだ者は長子はベラ、その次はアシベル、第三はアハラ、第四はノハ、第五はラパ。ベラの子らはアダル、ゲラ、アビウデ、アビシュア、ナアマン、アホア、ゲラ、シフパム、ヒラム。(歴代志上 第8章)」みたいな感じで誰それが誰を生んだとか家系図的な記述がえんえんと続くスコブル退屈な文章も多く、そのせいで旧約はあまりちゃんと読んでませんでした。こうした聖書の「○○○が○○○を生んだ」的な記述がしつこく繰り返されるノリをパロったのが筒井康隆の「バブリング創世記」で、内容は「ドンドンはドンドコの父なり。ドンドンの子ドンドコ、ドンドコドンを生み、ドンドコドン、ドコドンドンとドンタカタを生む。ドンタカタ、ドカタンタンを生めり。」という感じでえんえんとへんてこな家系の愉快な響きの名前が語られるユニークで実験的な短編小説です。さすがナンセンス文学の巨匠筒井康隆ですね。これも聖書のしつこい家系の記述を先に知ってないと面白さも半減しますから、やはり聖書はとりあえず読んでおくと何かと後々役に立つ本といえます。

メモ関連サイト
ニコニコ文学劇場 「バブリング創世記」 -筒井康隆- 読み手:ゆっくり
本だと字面だけで読む気が失せてしまうような威力があるのでちゃんと読んだ事はなかったのですが、こうして改めて音声で聴くとばかばかしくも妙にリズム感のある繰り返しのフレーズがツボにハマって吹き出してしまいました。聖書を茶化すというバチ当たりなノリもいかにも筒井節な感じですね。キリスト教だけでなく、そういえば仏式の葬式を茶化したブラックな漫画も描いてましたね。そこに下手に真面目な批判や風刺が込められていたりすると、ややもすると冒涜と受け取られかねないネタですが、筒井康隆の場合、ただ「面白そうだったからやった」的なノリでこういうものを書くので「筒井康隆なら仕方ない」ということになってしまう所も面白いです。こういう作品は、ちょっとでも元ネタを見下すような感じとか、批判的な風刺の匂いがすると興醒めになるのですが、絶妙にそうならないところが筒井康隆の天才性ですね。

というわけで、旧約聖書はそんなに熟読していないのですが、後半のエレミア書、エゼキエル書などの箴言集的なものは今読み返すと仏教哲学にも通じる事を言っていたりなど、なかなか含蓄があります。新約聖書はイエス・キリストを主人公にした聖典なので、基本的にイエスの人生や思想が語られる内容になっており、読みやすいです。また、旧約聖書の時代背景と較べると、旧約よりも悲壮感が無く、父なる神様も旧約の時の恐く厳しい感じでなく、比較的優しい神様になっているので馴染みやすいですね。神様が時代や民族によってキャラが微妙に変化していくのは、神様自体に問題があるのではなく、感じとる人間の側のフィルターの違いが神の違いになっているのだと思います。旧約聖書の神は人間の罪に怒って洪水を起こしたり実の子供を生贄に求めたりなど、どこか近付き難い恐い神のようなイメージがありますし、十戒のように、厳格な規則を人間に求めるスパルタ教師のような側面がありますが、こういう神の性質は、当時のイスラエル民族の置かれた厳しい環境を反映したものなのでしょうね。

現代の日本社会の有り様と聖書の時代とはかなりのギャップがあるのも確かで、書いてある事を真面目に受け取りすぎると最初に書いたようにいらぬ不安感や罪悪感を背負いかねないところもあり、キリスト教というのは世界的な宗教の割にはけっこう上級者向けの宗教のように個人的には感じてます。冷静に聖書を読めるようになったのは哲学や神話学や神秘学やスピリチュアルの教えなど、精神世界全般に興味を持って俯瞰してみるようになってからでしたね。どんな宗教でもそうですが、直感的というか感覚的に不安感や罪悪感や恐怖感を感じるようなものは、自分の肌に合ってないか、まだその教えを理解できる時期ではないか、あるいはカルト宗教などの間違った教義であるかのどれかです。基本的に、その教えを聞いて心が軽くなったり、人生を能動的に自由に生きれるようにしてくれるようなものこそがその人にとって一番必要な教えだと思います。人間に対する神の願いは一言でいえば「幸せでありなさい!」という事で、すべての教えはそのための技法にすぎません。宗教は元来、人を自由にし、幸せに導く技法でありますから、そうでないものはその宗教が間違っているか、自分の解釈が間違っているかのどちらかだろうと思います。



本原罪のはなし

キリスト教の基本的な概念で「原罪」というのがありますが、昔の私がそうだったように、これもキリスト教にネガティブな印象を持ってしまう原因にもなっているような気がします。私は別にクリスチャンでもないですし、特定の宗教の信者でもないのですが、神について興味を持ち「神とは?」という問題を研究していくと、そうした「原罪」をはじめとして、世界的にメジャーな宗教であるキリスト教もけっこう誤解して自分勝手なイメージで解釈している部分が多いことに気づいてきます。「原罪」というと、一般的に定義すれば、聖書の創世記に登場する人類最初のカップル、アダムとイブが神に背いた罪のことで、人間はすべてこのアダムとイブから受け継がれた罪(原罪)を生まれた時から皆背負っているのだ、という概念です。聞いただけで憂鬱になってくる概念ですよね。ジョセフ・キャンベルは生前日本を訪れた時の印象を「原罪を持たない国」と羨ましそうに語っていましたね。その言葉からは、それほどこの原罪というキリスト教の概念は欧米人には多かれ少なかれ潜在的に刻み込まれたトラウマ的なものであるように感じました。キャンベル先生の著書を読んでるとキリスト教に批判的な記述がしばしば出てきますが、それはおそらく、ヘッセやユングなども感じていたような、そうした西洋人の聖書的なトラウマが影響してる面もあるのかな、と思いました。キャンベル先生が神話の研究に魅入られたのは、聖書の価値観とは違った視点から語られる神話の神々の中に、そういった抑圧から解放してくれるような救いを求めていたからなのかもしれませんね。


私は日本を訪れたときの経験を決して忘れないでしょう。原罪による堕落も、エデンの園もまるで聞いたことのない国です。神道の聖典のひとつに、自然の営みが悪しきものであるはずはない、と書いてあるのです。あらゆる自然な衝動は矯正するものではなく、昇華すべきものである、美化すべきものである。自然の美と、自然との協力とに対するすばらしい関心がありますから、日本の庭園のいくつかでは、どこで自然が終わって人工が始まっているのかわからない。これはすごい体験でしたよ。
──────ジョセフ・キャンベル

ジョセフ・キャンベル、ビル・モイヤーズ著『神話の力』(飛田茂雄訳 1992年 早川書房) p65より



と、まぁ、人を救い、人を幸せにするのが宗教のはずなのに、なんで原罪などというトラウマ的な概念で人を縛るのか?という部分で、キリスト教をはじめとする宗教全般への懐疑心を持つ人も多いように思います。かつては私もそうでしたので、多分、そのような考えを持つ人はけっこういそうな気がします。この間、この原罪の概念についてふとひらめいたことがあったので、この記事を書こうと思ったのですが、その考えとは「そもそもこの原罪というのは、いわゆる人間を罪人として定義することが本義ではないのではないか?」とうことでした。ニュアンス的には、「罪」というよりは「不完全」という意味ではなかろうか、ということです。人間はもともと神(あるいは宇宙≠ナもいいですが)と繋がっているのが自然な状態であるはずなのに、すべての人間は神を知らない状態で生まれてくる。この人間の置かれた不完全な状態を言い表したのが「原罪」という概念なのではないか、というようなことが頭に浮かんできました。

あらゆる宗教は、なんらかの方法で神との絆を回復しようとする試みであるともいえると思います。宇宙138億年の歴史の結晶として人間が誕生したわけですが、その宇宙の子である人間は宇宙について無知であることと似ています。神秘家のグルジェフも、人間はそのままの状態ではただ環境に自動的に反応しているだけの機械にすぎない、と言っていましたね。人間は能動的に「目覚める」努力をしない限りは眠ったまま生まれて眠ったまま死んでいくだけである、というのがグルジェフの思想でしたが、たしかに人間というのはそういう存在なのかもしれません。神を知り、神と共にいる、という「本来の状態」に、なんらかの方法で回帰するためのノウハウを提供しているのが宗教や神秘主義やスピリチュアル思想などの精神世界なのだと思います。

人間以外の動物は、善悪の概念を持たないゆえに罪を犯す事はあり得ません。ライオンがシマウマを殺すのは自然が認めた生きるための行為であって悪ではないですし、蜘蛛が自らの作った粘着質の網の罠にかかった蝶を食べるのも罪ではありません。ライオンも蜘蛛も善悪という基準で生きてませんから、悪意で他者を殺すことは原理的に不可能です。同じように、植物も、石も、山も罪を犯しません。ただ人間だけが善悪を知っているために罪を犯してしまいます。これが聖書の創世記にある「善悪を知る木」の実を食べたアダムとイブの寓意であるように思いました。

では、なぜ人間は「善悪を知る」存在であるのか?善悪を知らなければ罪を犯す事はないですし、もっと自由に生きれたはずです。善悪を知るというのは神の罰なのでしょうか?いや多分、それこそが神の恩寵でもあるように思います。なぜなら、動物は善悪を知らないゆえに罪を犯したくても犯せない存在ですが、自分の不完全性についても知らないので、神を知ることもできません。つまり、動物は悪い生き方ができないかわりに、より良く生きるという生き方もできないわけです。動物は愚かな存在だといいたいわけではなく、むしろ赤ちゃんのように無垢な存在だということです。無垢でありますが、それ以上にも以下にもなれない。人間は悪によって動物以下の心性に堕ちる事もありますが、善を行うことで動物の無垢な心性よりも高次の心性を獲得することも可能な存在です。聖書が神の姿に似せて人間を造った、と記述しているのは、まさに、「万物の中で、人間だけが神と似たような存在になれる特権を与えられた」ことを示唆しているのではないか、ということです。

神は自分のかたちに人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し、男と女に創造された。

聖書 創世記 第1章


人間だけが、少なくとも地球上の生物の中では唯一宇宙を知ろうとする生物として存在していますし、人間だけが神の存在に気づくことが可能で、さらには神に限りなく近づくことも原則的に可能な状態にあるわけです。そう考えると、かつて抱いていたような、人間を原罪という窮屈な檻に閉じ込めて罪悪感を植え付けようとしているかのような陰鬱なイメージとは真逆の、非常にポジティブなメッセージを読み取る事ができます。そして、この解釈のほうがインドのヴェーダーンタ哲学から最近のスピリチュアル思想まで共通して現われてくる考えに近いものがありますし、意外とこれが真相に近いような気もしている昨今です。
posted by 八竹彗月 at 07:23| Comment(0) | 精神世界

2018年11月01日

竜宮童子と浦島太郎

異世界に迷いこんだりする話は、SF小説や漫画だけでなく、昔話でも定番のモチーフですね。フィクションの世界だけにとどまらず、江戸時代の知識人、平田篤胤(ひらたあつたね)の「仙境異聞(せんきょういぶん)」という著書では、神仙界を訪れて見聞してきたと主張する少年の話を聞き取ってまとめたもので、岩波文庫などでも読めます。私は中央公論社の「日本の名著」シリーズの平田篤胤の巻に収録されているものを少し読んでみましたが、古い文体なので読みずらく、腰を据えてかからないとなかなか内容が頭に入ってきませんね。しかし、異世界見聞録というのはすこぶる興味をそそるものには違いないので、そのうちちゃんと読破してみたいです。

メモ関連サイト
仙境異聞(ウィキペディア)

異世界といってもいろいろあり、平行宇宙のような世界や、死後の世界や霊界、イデア界、仙境、シャンバラなどの地下王国、他の惑星などの地球以外の別の天体、宇宙論などで出てくる5次元〜11次元の世界などや、SFファンタジーなどで描かれるような世界など多種多様ですが、どれもがこの日常とかけはなれた魅惑の世界で、はてしないロマンをかき立てます。以前の記事でも書いた桃源郷なども、理想郷としての異世界のひとつで、隠れ里的なたたずまいがミステリアスで惹かれるところです。日常に埋没してしまうと、こうした世界はいかにも現実逃避のように思ってしまいがちですが、小学校から中学校に上がるのもひとつの新しい世界、異世界に飛び込むようなものですし、会社に就職するのも別世界に参入する行為でもあります。今いる場所が、居心地が良かろうと悪かろうと、どっちにしてもいずれは別の世界に移行しなければならないように人生はできているように思います。好んで移行するか、状況が変わって無理にでも移行せざるをえなくなるかの違いはあっても、どっちにしろ、同じ場所に止まることを阻止しようとする何らかの力がこの世界にははたらいているような気がします。まさに、鏡の国のアリスですね。「同じ場所にとどまるためには、絶えず全力で走っていなければならない」変化することよりも、むしろ維持することのほうが大きなエネルギーを要するようにこの世はできているのかもしれません。

そうしたわけで、人生は自分で選択するにしろ、状況に迫られて選択させられるにしろ、ある時期が来ると必ず新しい世界に参入するような状況に出会いますが、フィクションや伝説などで語られる異世界の話は、そうした人生に訪れる新世界への参入を寓意的にあらわしているようにも思えてきます。

昔話で描かれる異世界というと、いろいろありますが、桃太郎の鬼ヶ島とか、浦島太郎の竜宮城などが真っ先に思い浮かびますね。ということで、無理矢理っぽいですが、今回は浦島太郎のバージョン違いみたいな感じの「竜宮童子」という民話についてちょっと語ってみたいと思います。「竜宮童子」は新潟県見附市葛巻町の石地という土地にまつわる民話ということのようですが、亀に乗って竜宮城に行くとか、姫君から帰りに不思議な贈り物を授かったりとか、浦島太郎の話を下敷きにしてそうな設定が見受けられますが、お話全体のテイストは浦島太郎とはけっこう違った味わいの話になっていて、なかなか面白いと思いました。浦島太郎も、この「竜宮童子」も、当たり前のように亀の背に乗って海中を潜って竜宮城に行き着きますが、なぜ海中で息ができるのかという理由は語られず、単なる物語上の「お約束」でそうなってるだけのようにも思いますが、水中で溺死しそこなった主人公の臨死体験としての異世界、というふうに想像すると、ちょっと別の味わいのある物語にもみえてきますね。

前置きはこのくらいにして、件の「竜宮童子」のお話をまずはご紹介します。

竜宮童子

 むかし、石地というところに、貧乏な花売りの男が住んでいた。
 毎日山を下って信濃川の沿岸の村々、町々を商って歩いたが、なにぶん温度の低い山里から来るので、良い花を持ってきたことがほとんどなかった。そのために、夕方になっても、いつも売れ残りの花が、背の籠の中でゆれていた。その残った花は、帰りの渡しのあるところまで来ると、きまってゆるやかな大川へ流すのであった。色とりどりの花々は、くるくるまわりながら、夕靄のただよう水面を音もなくすべっていった。その花のゆくえをしばらく目で追ってから、花売りはやおら腰を上げて渡しをわたるのであった。
ある日、終日花を売って渡しにさしかかった。と、朝はおだやかだった大川が増水し、氾濫していた。
「これでは、川を渡ることができやしない。はて、困ったことになったわい」
 と、ひとりごとを言っていると、ふいに足下の水の中から大亀が姿を現した。見ると、背の上に乗れという様子をするので、あやぶみながらも花売りは、その広い背に乗った。大亀は波立つ川をどこまでもすいすいと泳いでいった。花売りはびっくりして、
「どこへゆくんです」
 と聞いた。大亀は顔を前方に向けたままで、
「お前さんには話をしていないから、さぞ驚いたことでしょう。じつは、乙姫様は、いつもお前さんがお花をあげるのを大変喜ばれて、お礼をしたいからお連れするように、とおいいつけになったのですよ」
 と答えた。
 大亀は、たゆまず泳いでいった。それからとほうもない長い時が経ったと思う頃、前方に美しい城が見えてきた。それは乙姫の竜宮であった。
 乙姫の手厚いもてなしを受けて、時の経つのを忘れたが、やがて花売りは里心がついた。帰るというと、乙姫はひとりの童子を手招きした。それは青ばなを出し、よだれを垂らしている、見るからに汚い子供だった。
「お前の優しい心映えを賞(め)でて、この子をあげようと思います。だいじに養えば、お前の望みはなんなりと叶えてくれます」
 と、乙姫がいった。
「ありがとうございます。それでは私の子にして、大切にいたしましょう。ところで、この子の名はなんというのですか」
「名前は、とほう小僧といいます」
 おかしな名もあればあるものと思ったが、礼をのべて、小僧を連れて帰った。輝くばかりの美しい竜宮から、久しぶりにあばら屋に帰ってみると、それはいかにも狭くて、みすぼらしいさまが目についてしかたなかった。花売りは乙姫の言葉を思い出し、
「とほうよ、とほうよ」
 と呼んだ。あいかわらず青ばなを垂らした小童が、花売りのそばにやってきた。
「間取りを広くしたいが、すまんが変えてくれないか」
 というと、小童は目をつむって、手を三つ打った。すると、たちまち奇麗な広い屋敷になった。
「家ができたら、それに似つかわしい家具調度がのうては困る。すぐ出してくれないか」
 というと、これもぞうさもなく調えた。屋敷ができると、こんどは貧乏なことに気がついた。
「おれは金がない。すまんが金を出してくれないか」
「どれくらい出したらよいかね」
「千両(=現在の価値でおよそ1億円)も出してもらえばよいのだが」
「ああ、そんな金なら、なんのぞうさもないこと」
 といって、小童は即座に千両箱を出した。
 花売りは、大金をにぎったので、いままでの商売をやめ、その千両をもとにして金貸しになった。番頭や女中をおく身分になり、たちまち大金持ちになった。
 それから旦那づきあいが広くなり、毎日のように招かれていくようになったが、どこへゆくにも、いつも汚い小童がついていって離れなかった。小童が汚くて、いかにも体裁が悪いので、
「とほうよ。青ばなをかんではどうだい」
 というと、
「とてもかまれねえ」
 と答えた。
「それじゃあ、よだれはどうだ」
 というと、
「それもふかれねえ」
「お前の着物は、はなやよだれでどろどろに汚れている。せめて着物を新しいのに着替えてはどうだ」
「この着物もかえることはできねえ」
 と答えた。あいかわらず汚いなりで、旦那から離れる様子はなかった。旦那もすっかり困ってしまった。
 ある日のこと、旦那は小童をよんで、
「とほうよ。お前は、なにかほしいものはないか」
「おらぁ、なにも、欲しいものや食べたいものはねえ」
 といった。
 小童がそばにくると、異様な臭いがするので、日がたつにつれて我慢ができなくなった。
「ずいぶんお前の世話になった。ありがとう。だが、わしは知ってのとおり、今日ではどこへいっても旦那、旦那といわれる身分になった。お前の働きも、いちおう終わったといってもよい。ついては、このへんでお前にひまを出したいと思うが、どうだね」
「そうですか。おらぁ、いついつまでも旦那のそばにいて、ほしいものをすぐ出してあげたいと思っていたが、旦那にその気がなけりゃしかたがねえ」
 そういって、小童は屋敷を出て行った。
 やっと、小童から自由になった旦那は、庭へおりて両手を広げて深呼吸をした。それから屋敷の方へふりかえった旦那は、気を失うほどに驚いた。そこには、自慢の屋敷や蔵があとかたもなく無くなり、そのかわりに、むかしのあばら屋だけが跡に残っていた。身につけたやわらかい着物も消えて、もとのやぶれ衣に変わっていた。おどろいて小童のあとを追って飛び出したが、もうどこにもその姿は見えなかった。
(新潟県見附市葛巻町石地)

「日本伝説集」武田静澄著 現代教養文庫 723 社会思想社 1971年刊


「とほう小僧」の「とほう」という響きもなにやら怪し気で、意味が何なのか気になりますね。「途方」からきてるのでしょうか。それはそれとして、竜宮城が出てくる昔話というと「浦島太郎」が有名ですが、この「竜宮童子」のお話もまた違った味わいの面白い民話ですね。竜宮に住む乙姫というのは、竜神の化身でしょうね。意にかなった人間を招いては盛大な歓待をする点が「浦島太郎」と共通してます。また先に触れたように亀の使いによって竜宮城に行くというのも同じ設定ですし、ラストに主人公が何らかの禁忌を犯してしまって元の状態に戻ってしまうというのも共通した部分です。しかし、「浦島太郎」の場合は、「開けてはならぬ」というタブーを犯すことで「竜宮城で歓待されていた膨大な時間」が身に降り掛かり一気に白髪の老人になってしまう、という理不尽なもので、禁忌を犯す動機もちょっとした好奇心であり、そもそも「開けてはいけないと」いう意味不明で迷惑な玉手箱を土産によこす乙姫様は何の魂胆があったのか、など、なんかモヤモヤする読後感のお話ですが、「竜宮童子」のほうは、もっとわかりやすく「いくら恩人でも、汚くて醜い小僧につきまとわれるのは世間体が悪くてカッコ悪いから」というエゴイスティックな動機で、福を授ける小僧を手放してしまうという人間臭いわかりやすいストーリーが魅力です。大企業の令嬢と結婚して逆玉の輿に乗るために、長くつき合ってきた恋人を振ってしまう男、みたいな、昔のドラマとかでよくあるエゴイスティックなジレンマを彷彿とするところがあって、どこか普遍的な、人間の心の弱さを描いていて考えさせられる昔話ですね。

始終鼻水やよだれを垂らしながら異臭を放つ汚い着物を着た子供が富をもたらすという所も意味深ですね。小僧の汚さは富を得るためのある種のリスクという見方もできますし、まさにそのような「富を授けてくれるのはいいが、汚いなりでつきまとわれるのは不快だ」という主人公のジレンマが物語のキモです。しかし、単に話を面白くするだけの理由でこの小さな福の神のなりが汚いのかといえば、それだけでもなさそうな気もします。以前「トイレの神様」という歌がヒットしましたが、この曲の影響なのかどうかその後のスピリチュアル界隈で「トイレ掃除をすると金運が上がる」的な話がよく挙がるようになりましたね。トイレ掃除を嫌がらずにするとお金持ちになるとか美人になるとか、なんらかの現世的な御利益があるということですが、まぁおそらくは、元は子供をしつけるうえでの方便が起源になってる話のような気がしますが、このトイレの神様の正体はインド神話に出てくる火の神、アグニを起源とする密教の神様、烏枢沙摩明王(ウスサマ明王)であるという説など、どんどんそれっぽい話になってきていて、もしかしたら単に子供をしつけるための方便ではなく、実際に御利益のあるものなのかも?という気分にさせてくれます。

なぜにトイレ掃除が金運と関係あるのか?という理由についても、ユニークな説がありますね。それによれば、人が住む前の新しい家には、人より先にまず神々が訪れてきて、担当する部屋をそれぞれ決めて守護するのだそうです。最初に来た神は応接室、次に来た神は玄関、という感じでどんどん居心地のよさげな部屋が埋まっていきます。最後に訪れる神にはトイレしか残ってないのでそこに住むことになった、という話です。神々の来る順番は、それぞれの神様が授けようとしている福の詰まった袋の大きさに依存しており、袋が大きいほど重いので家に到着するのが遅くなり、一番たくさんの福を持ってくる神が最後になってしまいます。その神こそがトイレの神様だ、ということです。だからトイレを清潔に保っている家は、トイレの神様が喜ばれて住む者に富をもたらすという話です。なんだかイイ話ですし、ただの作り話を超えたものを感じるところがあります。「竜宮童子」が小汚い子供である理由も、家の中で最も汚れやすいトイレと金運が密接にかかわっている事と、どこか繋がった価値観を感じます。もしかしたらとほう小僧≠ェ臭くて汚いのは、願いを叶えてあげるために関わってきた無数の人間の穢れた欲望を一身に引き受けているために汚れているだけで、彼自身の汚さではないのかもしれませんね。

とほう小僧≠ェ主人公の男について離れない理由は、ある種の嫌がらせみたいなもので、前述したように、異臭のする薄汚れた小僧の存在を我慢することが、もたらされた富を維持するための条件になっているのではないか、と最初は考えて読んでましたが、改めて物語を読み返していたら、さらに別の部分に気づきました。汚さを我慢するのが富を維持する何らかの条件になっているのは確かだと思いますが、とほう小僧自身はそういう条件を念頭にして動いているわけではない、ということです。つまり、真相は、とほう小僧には何の魂胆もなくて、単に主人公の男を実はけっこう気に入っているからベッタリと付いて来るだけ、という単純なものなのではないか、ということです。なぜなら、もし嫌がらせで付きまとうなら、これほど面倒くさいことはありませんし、そこまで熱心に他人の不幸のために腐心し努力するような小僧であるなら、なぜその当人の願いを何でも叶えてあげようとするのか、という矛盾がうまれます。もっというなら、小僧が男に付いて離れないのは、男を「好きになろうとして」いたからなのかもしれませんね。好ましいと思う人間だからこそ、願いを叶えてやろうとする熱意も生まれてきます。小僧にとっても、嫌な人間に奉仕するよりも、好ましい人間に奉仕したいはずです。だから、もしかすると一生の付き合いになるかもしれない男を少しでも好きになろうとして、男から離れなかったのではないでしょうか。乙姫様も、一瞬で豪邸を出現させたりするほどの魔力を持った有能で貴重な眷属であるとほう小僧≠奉公に差し出すわけですから、とくに意地悪な下心はないはずです。しかし、そうしたとほう小僧のいじらしい想いが結果的に主人公の悩みの種になり、破局を迎えた、ということなのでしょうね。

まぁそんなこんなで、とほう小僧が去ってしまうと、立派な屋敷も何もかもが元の貧しい状態に還ってしまいますが、このあたりは、怪談話によくある、美人の幽霊と逢い引きする男の話の結末などでもお馴染みの現象ですね。逢い引きしていたはずの立派な屋敷が、じつはあばら屋だった、というアレです。「竜宮童子」のお話の場合は、この世の栄華も夢幻のように儚いものだ、というような教訓も込められてそうですね。どこか杜子春の話も彷彿とする諸行無常を感じますね。

醜い外見ながら、あらゆる望みを叶える神通力を持ったとほう小僧≠ナすが、かれは他者の望みを叶えることを楽しみとしているようなそぶりで、自分自身はとくに欲しいものはない、といった無欲さもユニークなところです。ある意味、典型的な聖人、聖者の類型にあてはまるところがあるのもとほう小僧≠フ面白い特徴ですね。ふと永井豪の問題作「オモライくん」や秋山ジョージの「アシュラ」などを思い出します。これらの漫画作品は疎まれる側の人間の視点を通してこの世の真実を描き出した傑作ですが、オモライくんもアシュラもある意味聖者のような存在でもあるような気がしますね。

インドの偉大な聖者として有名なラマナ・マハルシは、残された写真や映像を見ても、どれもパンツ一丁で外をうろうろしてるフリーダムな姿をみせていて、偉大な精神を持っている者ほど、俗世間の価値に執着しないんだろうな〜と、へんに感心したものです。有名になると、高い車に乗ったり、豪邸に住んだりしはじめる聖者もたまにいますが、有名になろうが贅沢に無関心のラマナ・マハルシは本物の聖者の風格を感じます。絶対的な心の平安と至福を得たと言うのに、他に何が必要だというのか、といわんばかりのパンツ一丁の姿に、心底憧れる境地に自分がいるのかどうか、というのも自分の精神のレベルを計るいいテストになりますね。

自由気ままに外をうろうろ歩く天然≠チぽい感じの聖者といえば、そういえば日本にもそんな風情の人物がいましたね。幕末から明治にかけての宮城県に実在した、福の神のように慕われた仙台四郎という人物のことです。知的障害があり、会話能力は低かったそうですが、他人に危害をくわえることはなく、子供好きでいつも機嫌が良く、愛嬌のある風貌をしていたこともあって誰からも好かれていたそうです。市中を気ままに徘徊するのが四郎の毎日でしたが、不思議な事に四郎が立ち寄った店はなぜか繁盛し、客の入りが良くなったそうで、そうした噂が広まるにつれ、福の神のように扱われるようになったようです。四郎の死後も、彼の写真を飾ると商売繁盛の御利益があるとされ、大正時代には、ちょっとした民間信仰のように崇められる存在になっていったとのことです。

とんち話で有名な一休さんもアニメのような感じの人ではなく、かなりフリーダムで破天荒な禅宗の僧侶だったようですが、仙台四郎のユニークなところは、禅などの宗教とも無関係の、いわゆる一般人であるところですね。人間、人生において何が最も大事な能力か?といえば、知性でも経済力でも腕力でもなく、それは「人に好かれる能力」だと思います。これがあるだけで、誰もその人を放っておきませんから、何かあれば誰かが助けてくれるので貧乏にもなりませんし、もめ事に遭遇することも少ないはずです。天才と言われた哲学者や文学者など知性的な著名人でも自殺する人はいますから、教養があることや頭が切れることが人を必ずしも幸福にするとは限らないのでしょう。そういう意味でも、仙台四郎は天性の好かれる才能≠もっていた人であり、生まれつきの聖者だったのでしょうね。ロシア民話の「イワンの馬鹿」も、まさにそうした真理を描いていて興味深いですね。頭がいいとか、お洒落であるとか、スタイルがいいとか、お金持ちだとか、そういう属性は、この世的なエゴ的な部分で凄く惹かれる属性ですが、自分の見栄だけでそれらの属性をひけらかす人には誰もついていきませんし、それらの属性が人を幸せにするのは、結局のところ、その属性によって他人を幸せにできたときだけです。この世では、自分が幸せになるためには、まず他者を幸せにする能力を磨かねばならないのでしょうね。

メモ関連サイト
仙台四郎(ウィキペディア)

とほう小僧≠焉Aなんでも願いを叶えてくれるわりには、「ハナをかめ」「よだれを垂らすな」「服を着替えろ」という自分に対する要求には断固として従いません。とほう小僧≠ノとっては、自分の生き方の自由を制限されることは絶対に受け入れないということでしょう。そして、その自由こそが、とほう小僧≠フ魔法の源泉でもあるように思います。この世は、目に見える物質に頼った世界なので、価値観というのもどうしても物質的なものになりがちで、見た目の善し悪しで人を判断してしまうことが多々あります。聖書では小さき者(世間的にとるに足らない者とされている人たち)こそ神の視点では偉大な人間なのである、というパラドックス的な真理を述べていますが、これは高次元の世界からみた価値観ですね。

だれでもこの幼な子をわたしの名のゆえに受けいれる者は、わたしを受けいれるのである。そしてわたしを受けいれる者は、わたしをおつかわしになったかたを受けいれるのである。あなたがたみんなの中でいちばん小さい者こそ、大きいのである。

聖書 ルカによる福音書 第9章 48節


私たちが食べ物を与えているのは飢えたキリストなのです。衣服を着せてあげるのは裸のキリスト、宿を与えてあげるのは家のないキリストなのです。(略)これまでそうだったように、今日でも、キリストが同胞のところへやってきても、人々は気づきません。キリストは、貧しき人々の腐った身体のうちに顕われます。(略)そしていまここに、私やあなたの前にキリストは姿を現します。ところがいつも私たちは見過ごしてしまうのです。
───マザー・テレサ

「20世紀の神秘思想家たち」アン・バンクロフト著 吉福伸逸訳 平河出版社 1984年


聖書といえば、有名な「信じる者は救われる」という言葉も誤解されがちですね。この言葉もこの世的に解釈すると、いかにもずるい人に簡単に騙されてしまいそうな危うい価値観に見えてしまいますが、宗教やスピリチュアルや神秘学など、精神世界では「疑い」からは何も得られない世界で、まずは信じないとはじまらないところがあります。神も、神を信じない人間には恩寵を授けたくても授けるルートが「疑い」によって遮断されているために、それができません。だから信じないと救いようがないために「信じる者は救われる」というわけです。けっこうこの言葉は「救うか救わないかを神が自分への信仰心を基準にしてえり好みしている」というような意味で誤読されがちですが、救うかどうかを決定しているのは神ではなく人間の側にあるわけです。太陽はえり好みすることなく万人に光を与えますが、わざわざ建物の影に隠れたり、地下に潜ってしまったりする人間にはせっかくの光も届きません。

怪し気な宗教団体が、こうした高次元の理屈をこの世的な次元で解釈して金儲けに利用したりして信者から搾取するための理屈にしているケースもよくあるので、危ういといえば実際危うい面もある教えですが、リスク無しに得られるものは何もないというのもこの世の法則のひとつです。信じることはリスクが伴いますが、疑うことよりも得られるものは大きいのもたしかです。オリンピックレベルのトップアスリートの世界では、実力的な部分はギリギリまで均衡しているために、最後にモノをいうのは自分の勝利を信じるメンタル力だったりするという話を聞きますし、そういった意味でも、信じるということは、リアルに現実を変革するパワーがあるのは事実だと思います。

信じる力というと、この前DVDでなにげなく第1話を見返していていたらついつい全話通してまた鑑賞してしまった往年の名作ドラマ「スクール・ウォーズ」を思い出します。実話を元に脚色した熱血スポ根モノの物語で、校内暴力の吹き荒れる問題校の弱小ラグビー部が、わずか数年で万年最下位から全国優勝を勝ち取るという奇跡を描いています。その奇跡を成し遂げれた最大の理由は、主人公の滝沢先生が自身の信念「信じ、待ち、許してやること」を教育の場で貫いたことによるものでした。現代社会において、こうした「信じる事」とか「愛する事」というのは、どこか面映い言葉になってしまているせいか、私もそうした言葉をなかなか素直に受け取れずに、昔はひねくれてあえてそういう言葉に反抗してたような気がします。しかし、「信じる」「愛する」というのは、とてもプリミティブでもあり、またパワフルなものでもある、人間の幸福に直結したとても重要な精神でもあります。「信じたからって叶うものではない」などという、ペシミスティックな考えって誰しも多少あると思いますが、宝くじも買わないと当たらないように、まず信じないと奇跡は起こりません。

武田鉄矢さんがかつてヒット曲「贈る言葉」で「信じられぬと嘆くよりも、人を信じて傷つくほうがいい」と歌っていましたが、それなども昔は「まさに正直者が馬鹿を見るような、役に立たないどころか有害な理想論だな」と馬鹿にしていたものでした。しかし、今考えると、やっぱりそれは真実を歌ってるのではないか、と気づかされます。信じると裏切られたときにダメージが大きいので、信じない、疑う、というのをデフォルトで生きるというのをやってた時が私もかつてありましたが、そんな時期ほどよく裏切られて傷つく経験が多かったような気がします。信じない人生ではなく信じる人生を生きようと決意すると、不思議と、実際は「人を信じて傷つく」という経験は減っていきます。世界は自分の心を反映する性質があるので、人や世界に不信感を持っていると、なぜか他人から信用されなかったり、物事がうまくいかなかったりします。逆に、人や世界を心から信頼するようにすると、ラッキーな事が頻繁に起こるようになりますし、物事がうまくいくように変化してきます。以前は、「祈り」というのを、ただの気休めくらいにしか思っておらず、何の意味もパワーもないと思ってましたが、実は、これほど現実を変革する威力のある行為はない、と最近思うようになりました。祈りとは、人や世界がより良くなることを信頼する″s為ですから、現実世界では一見無力なように見えても、見えない世界ではものすごいパワーで影響を与えているように感じます。祈りについては、また別の機会にもっと掘り下げて書いてみたいです。

話が逸れてきたので「竜宮童子」に話を戻しますが、調べてみると、類似の民話は熊本にもあるみたいですね。「まんが日本昔ばなし〜データベース〜」様によと、アニメ「日本昔ばなし」でも92話(1976年10月30日放映)「はなたれ小僧さま」というタイトルで放映されたようです。「はなたれ小僧さま」のほうの主人公は花売りではなく薪売りのおじいさんという設定で、売れ残りの薪を竜神を祀る祠の前の川に、竜神様使ってください、と薪を流したことで洟垂れ小僧をゲットする流れになっていますね。

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はなたれ小僧さま(「まんが日本昔ばなし〜データベース〜」様のサイトより)


竜宮童子(ウィキペディア)
ここを読むと、どうやら薪売りのおじいさんのバージョンのほうがオーソドックスな「竜宮童子」のシナリオみたいですね。もしかしたら花売りバージョンは、浦島太郎の物語の影響を受けながら派生したものなのかもしれないですね。

ちょっと上記でも触れた浦島太郎ですが、最後にちょっとしたお遊びで、自分なりにあの物語のモヤモヤした部分を想像で補ったショートストーリーを考えてみました。亀を助けてくれた恩人の浦島太郎に、乙姫様はなぜ最後の最後であんな理不尽な仕打ちをしようとしたのか、という謎に対する説明としては、けっこうイケてるのではないか、と思いますがいかがでしょうか。浦島太郎視点だと見えてこなかった事実が、乙姫様視点で読み解くと、すべて合点がいきます。

私家版浦島太郎異説
八竹釣月作

仲間の亀を助けてくれたお礼にと浦島太郎を竜宮に招いたものの、あまりにいい気になって長居する浦島太郎に、いいかげんうんざりしてきた乙姫様だった。しかし招待しておきながら帰れともいえず、乙姫様のイライラは日に日につのっていった。いつしか手厚い歓待に慣れきってしまった浦島は、すっかり客人の礼儀まで忘れてしまっていた。選りすぐりの美人の人魚をはべらせてはセクハラ三昧、忠実な可愛い部下(マグロ)をどうしても刺身で喰わせろと無理を言ってくることもたびたびであった。あきれることに、浦島太郎がようやく帰る気になったのは、招待してから40年以上もたったある日のことだった。乙姫様は、顔では笑いながらも、心の中ではずうずうしく居座り続けていた浦島太郎に、もう亀を助けてくれた恩どころか、賠償請求でもしたいくらいに立腹していた。そこで、乙姫はひらめいた。竜宮では時の流れが止まった異世界であるが、現世では時間は止まることなく流れている。そこで、この竜宮での時間分を現世で購わせるための氣≠封じ込めた玉手箱を、上手いこと言ってはぐらかしながら浦島に土産に持たせて帰らせたのだ。そう、玉手箱は褒美などではなく、竜神の化身であらせられる姫様の厚意に甘え、何十年もタダで他人様の城で贅沢三昧しまくるという、はなはだ常軌を逸した非礼に対する罰≠ネのだった。そうとは知らず、満足そうにニコニコ手を振って亀に乗って海上に昇ってゆく浦島を眺め、乙姫様は満面の笑みで見送るのであった。その笑みは、穀潰しがいなくなった安堵だけでなく、これから浦島が開けるであろう玉手箱によって迎えるはずの結末に対するものなのであった。邪魔者は去り、竜宮城には何十年かぶりにようやく平安が戻ったのであった。 
───完───


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浦島太郎(ウィキペディア)
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2018年09月26日

1と一について。そして霊界の話など。

この前の記事(「1なる存在について」)で、数字の「1(いち)」と、「私」を表す「I(アイ)」の類似などについて考察しましたが、漢字の「一」もまた1を横に倒した感じでよく似てますね。まぁ、「ひとつ」を表す字が、短い線一本であるのはそんなに驚くようなアイデアではない気もしますが、アラビア数字だけでなく西洋ではローマ数字も「I」でタテですが、漢字では横倒しの「一」であるのも面白いなぁ、となんとなく思いました。そこになんとなく西洋と東洋の個性の違いのようなものを感じた次第です。

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西洋的な直立する1のイメージと、東洋的な漢字の一。1をキリストの立像、一をブッダの涅槃仏像でシンボリックに見立ててみたのですが、こうして並べると「聖☆おにいさん」っぽい感じがしてきますね。映画化もされるほど人気のようなのでご存知の方も多いとおもいますが、ちなみに「聖☆おにいさん」というのはキリストとブッダが現代の日本で安アパートで暮らす、というコメディ漫画です。どちらも歴史上の大聖者なので、実際はさすがに漫画のような弱点の多いキャラではないと思いますが、宗教を真正面からコメディのネタにもってくるというのはかなり新鮮で、あまり深く考えずに見れば面白いです。そういえば、聖者とは真逆に地獄の魔王様が現代日本でこれまた安アパートに住みながらファーストフード店のバイトをして生活費を稼ぐという「はたらく魔王さま!」というのもありましたね。作品の発表時期は「聖☆おにいさん」のほうが先のようですが、こちらもなかなか楽しかったです。欧州のどこかの国の言葉っぽい響きのインチキな魔界語をしゃべたりするのですが、これがまたソレっぽくて笑えます。声優さんも謎の言語を流暢に話していて、そういうところも見所でした。

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映画「聖☆おにいさん」予告編
「はたらく魔王さま!」PV

西洋的価値観とは物質主義的で個人主義的、東洋的価値観は精神主義で集団主義的、というのはけっこう漠然としたイメージとして一般にあるように思います。こういうのは、歴史の成り行きから生じた偶発的なもので意味がないと以前は思ってましたが、逆に、最近の私は思考が前よりスピリチュアルな傾向にあるので、そういうことにもけっこう意味を感じてしまいます。例えば、西洋では龍(ドラゴン)は火属性の魔性の獣ですが、東洋の龍は豊作をもたらす水属性の聖獣だったりしますし、西洋はイスラム教やキリスト教など一神教のイメージですが、東洋はヒンドゥー教や仏教や神道など多神教(仏教は厳密には神を想定せずに真理を究明する宗教なのですが、一般にはヒンドゥー教の神々を仏教の守護神に取り入れたりなど多神教的な側面があると思います)といったこともあります。また、コウモリは西洋ではドラキュラのイメージからかハロウィン御用達のモノノケみたいな扱いで、最近は東洋でもそうしたイメージが定着してますが、昔は東洋では吉祥のイメージで捉えられ、よく昔の鋳造や焼物の図案などにはコウモリが描かれたりしてます。あとはヘビも西洋では悪魔の使い、東洋は神の使いみたいな扱いの違いもみられますね。

現代でも、卍(まんじ)とハーケンクロイツなど、形が鏡対称であるだけでなく、その意味も聖なるシンボルとナチスのシンボルというように東西で正反対の意味で扱われているのも意味深です。また、弥勒(みろく=遠い未来に次のブッダとなり人々を救済するとされる菩薩のこと。菩薩とは仏教の修行者の位)は、日本語読みでの音を数字にすると三六(みろく)になりますが、3つの6といえば聖書のヨハネ黙示録で予言されている未来の偽キリスト(世の終わりに現れるキリストを騙り人類を支配する悪魔的独裁者)を暗示する数字「666」も3つの6です。ミロクに関しては、日本語以外では成立しない語呂であるところなど、ちょっとこじつけっぽく感じる強引さはありますが、偶然にもどちらも未来の人物を指している数字ですし、トンデモと簡単に片付けるのもしっくりこないところでもあります。これも東西における鏡のような意味の逆転の一例として私的にはなかなか面白いと思っています。西洋と東洋のこうしたコインの裏表のような相違点は探せばまだまだけっこうでてきそうで、いろいろ調べてみるのも楽しそうです。

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ヨハネの黙示録 日本語訳全文(Wikisource様)

おおざっぱにいえば、西洋と東洋の違いの多くは、狩猟民族と農耕民族という違いがもたらす文化的な視点の相違からくるものが原因のように思いますが、それだけでは説明のつかない部分も多く、やはりどこか神秘な背景を想像したくなってきます。

で、話を戻しますと、西洋は1を縦で表し、東洋では横で表す、というところから思ったのは、西洋は1の立ってる状態(つまり立っている時は目覚めて活動している昼の象徴)から、1なる根本原因に「理性」を重視しているのではないだろうか?といったん仮定してみることでした。そうすると、漢字の横向きの一は何か?それは、寝ている状態(つまり夜の睡眠中、無意識の活動が優勢になる状態)であり、非合理性や唯物論で捉えきれない精神世界を象徴していて、東洋における1なる根本原因は「非理性」的なものに求めているのでは?ということがふと思い浮かびました。

まぁ、古代人が数字の記号の発祥にそういう意味をあらかじめ込めていたとは思いませんが、プラトンのいうようなイデア界(完全な世界のこと。この現世はイデア界の影のようなものなので不完全な世界である、という説)みたいな、超越的な見えない次元からは、そうした意味合いもあらかじめあったのではないかと思ってます。イデア的な世界にある西洋的な構造(理性、個性、男性的、な役割)と東洋的な構造(心性、全体性、女性的、な役割)が反映されているのがこの世界なので、そういう鋳型が漠然とこの世に投影されているために、理由のつかない不思議な相違点が「西洋vs東洋」に見つかるのではないでしょうか。1と一の違いも、常識的に考えれば実際は横書きの言語と縦書きの言語の違いによる単なる筆記のうえでの合理性でそうなったのだと思いますが、このように「たまたまそうなった」という事柄なのにかかわらず、そこになぜか西洋的価値観や東洋的価値観が投影されていることがシンクロニシティ的であり、そこに面白さを感じるわけです。

などと案の定話がだんだんオカルティックな方向に進んできましたが・・・以前は、人間に知覚できない世界を仮定して物事を考えるのはナンセンスだと思っていました。変われば変わるものです。まぁ、どのみちこの世界は、決定的な答えを用意していない世界であるように思います。答えを出してしまうと、それ以上考えなくてよいですから、楽ですが、それ以上の進歩も発展もなく、広がりのない世界になってしまいます。おそらく、宇宙的な視点からは、「答え」よりも「答えを見つけるための様々なアプローチを楽しむ」ことのほうが価値が高いのだと思います。松尾芭蕉が、旅の目的地よりも旅そのものに価値を見いだしたように、この宇宙も、これまでにない面白い気候の星を生み出したりとかするのが楽しくて、「絶対的に理想的な完璧な星」というのをあえて想定せずに、あらゆる可能性を試したがって無数の星々を生み出しているのではないでしょうか。そして人間もまた、何が絶対的に正しいかを知らされずに生きているのは、それを見つけ出す過程こそが宇宙的至福であるからではないでしょうか。ふと、そんな事を思いました。

唯物論の権化だと思われてきた科学も、ここ半世紀の間にもますます不思議な領域に入ってきていて、ある意味、ゲーデルの不完全性定理とか、量子力学とか、人間原理とか、ダークマターなど、現代アカデミズムのキーワード的な、ここ百年で急激に世界を変えてきた様々なそれらの概念が指し示す方向、それは唯物論の終焉、そしてこれからの新時代に向けた新たなパラダイムの誕生、を示唆しているような気がなんとなくします。カナダのチームが、スパコンの1億倍の演算能力を持つといわれている量子コンピュータの試作を完成したニュースがついこの間話題になりましたが、時代はますます加速度的に未知の領域に突き進んでいってるような、時代のジェットコースターに乗っているような気分のする昨今です。量子コンピュータが普及していくと、人工知能(AI)の研究も想像以上に進みそうでわくわくしますね。

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これだけは知っておきたい、量子コンピュータの基礎と現状(FUJITSU JOURNAL様)
従来のコンピュータでは膨大な時間がかっていた巡回セールスマン問題のような指数関数的に増える莫大な組み合わせの中から正解を見つけていくような問題も、従来のコンピュータとは根本的な演算方式が異なる量子コンピュータなら一瞬で答えを出せるようですね。まさに夢のマシーンで、これが実用化できればおそらく人間並みの人工知能も夢ではなくなる気もします。ですが逆に気がかりな面もでてきますね。現代の最速のスパコンさえも子供の玩具以下に成り下がるくらいに爆速の量子コンピュータが実用化したら、クレジットカードなどのセキュリティ関連の暗号とかも簡単に解析できてしまうかもしれません。素数を生成したり、ある数列が素数であるかどうかを判定する方法など、素数に関する多くの問題はまだちゃんと解明されていないために、セキュリティに関する暗号処理には桁数の多い素数が使われているという話を聞いた事があります。これも莫大な演算を一瞬でやってしまう量子コンピュータを使えば、そういう素数式の暗号も破られる危険性がありますから、現在の緻密に構成されたITシステムも根本から構築しなおす時代が来ているのかもしれないですね。(ちなみに確認がてらウィキの「素数」のページを読んでみましたが、素数に関する問題は完全に解明されてはいないものの、現在ではけっこう使えるアルゴリズムもいろいろ存在するようで興味深かったです。素数は、虚数とか無理数などの、あからさまにとっつきにくい感じの数ではなく、むしろフィボナッチ数よりも単純そうで、一見したところ何の変哲も無さそうな初歩的な数っぽく見える数でありながら、世界の天才たちもがその解明に未だに難儀させられているというのは、どこかこの世界のパラドクス的な構造が垣間見えるような気がして興味をそそります。素数もそうですが、かつてピタゴラスが示唆していたように、そもそも「数」というもの自体に神秘な秘密が隠されているのかもしれませんね。身近なようで謎めいている「数」というものに底知れない不思議な魅力を感じる昨今です。)

そういう時代の空気もあって、「非合理性の価値」というものに目覚めてきているのかもしれません。そうしたわけで、イデア界とか霊界的な概念も、空想や、何かの哲学的な寓意とかではなく、リアルにそういう世界はありうるんじゃないか?と考えるようになってきました。医師など、人の死に立ち会う機会が一般人より比較的多い職業だと思いますが、人の死を実際に何度も見ているうちに死後の世界を信じざるを得なくなったという話も洋の東西を違わずよく耳にします。未読ですが、アメリカの外科医エベン・アレグザンダーが自分自身の臨死体験を契機に死後の世界を確信したというレポートで話題になり全米ベストセラーになった「プルーフ・オブ・ヘヴン」という本(テレビ番組「アンビリーバボー!」でも紹介されたそうです)とか、日本でも、医師である矢作直樹氏の死後の世界肯定論が有名みたいですね。

私も、先日古本屋で臨死体験とか死後の世界関係の本が安価でたくさん入荷していたので面白そうな本をいくつか買って読んでたのですが、けっこう具体的に死後の世界を肯定していて興味深かったです。臨死体験の中には、夢などの脳のはたらきでは説明できない状況もあるようで、そうした話もまた項を改めて記事に書いてみようと想ってます。実際に、現在亡命中のチベット仏教の最高指導者ダライ・ラマ14世は輪廻転生の生き証人で、最高指導者の位であるダライ・ラマの称号は世襲ではなく、生まれ変わりを探して即位させるという摩訶不思議な伝統を守ってきました。あと最近では中国の奥地にあるといわれている「生まれ変わりの村」(中国の奥地に、前世をハッキリ覚えている人がやたら多い村があるらしい)の話も耳にしますね。輪廻転生したら死後に霊界に行く必要がなさそうに思えるので、輪廻転生と死後の世界とは別のジャンルみたいにみえますが、霊界の住人も魂の修行のためにまた現世に戻って生まれてくるという説もオカルト界隈ではよく聞きます。まぁ、神秘な次元の話なので真相はなかなか掴めないですし、はっきりしたところがわからないからこそ、その謎自体に魅力を感じる、という面もありますね。

スウェデンボルグや出口王仁三郎など霊界を見聞してきたオカルティストもいますし、チャネリング系で支持者の多いシルバーバーチの霊界通信でも、けっこう詳細に霊界の様子を語っていて興味深いです。上記で少し触れた聖書の黙示録ですが、聖書というのはひとつのまとまった教典ではなく、作者の異なる複数の文書を編纂した書物です。この聖書の編纂時には外された文書もたくさんあり、そうした文書類は聖書外典という扱いで現在でも翻訳された本もあるので読む事ができます。その外典の中に、「パウロの黙示録」という奇妙な文書があります。4〜5世紀につくられたとされるこの文書は、むかし学生時代に図書館でたまたま手にして読んだことがあります。ヨハネ以外にも黙示録があったのか、ということにチラリと興味を惹かれて読んでみたのですが、その内容がなんとスウェデンボルグばりの霊界見聞記のような感じで、とても衝撃をうけたのを思い出します。秘密の文書を読んでいるような妙なスリルを感じながらページをめくっていた当時を久しぶりに思い出しました。多分大きめの図書館には聖書外典の翻訳本は置いてると思うので、機会があれば興味のある方は読んでみてください。まぁ、なんというか古今東西を問わず、生きている間に霊界を見て来た人というのは少なからずいるのだなぁ、と感慨深く思ったものです。とはいえ、こうした話は結局のところ「信じるか信じないかはあなた次第です」という世界ではありますが、意外とこの世界は、直感が「面白そう」と感じた事を選ぶと結果的には正しかったりするような世界だと私は思っています。

そういう感じで、ここのところは、そんな霊界的な場所の存在もあるような気がしています。霊界の話は、シュタイナーやスウェデンボルグ等、神秘学的な興味もありますが、プラトンのイデア論や、チベットやエジプトの「死者の書」など、人文学としても興味の尽きないテーマであります。

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こっち関係の本もだんだん集まってきました。まだ読破してないですが、霊界だけでなく、地下王国の伝説とか、理想郷伝説など、別世界のイメージにとても惹かれるところがあります。世間では、そういう場所は「無い」とするのが常識みたいな空気がありますが、そもそも正解の見つかっていない未知の物事ですから、「無いかもしれない」よりも「あったらいいな」の方に価値を置いています。

地底世界のロマンにからめてシャンバラ伝説の記事を下書きしてるところだったのですが、ふと1と一について考えてたら筆がノってしまいました。霊界や死後の世界などの別次元の世界の話は、ルドルフ・シュタイナーの話などとからめて、これもまたいずれ掘り下げて考察してみたいテーマです。
posted by 八竹彗月 at 13:58| Comment(0) | 精神世界

2018年07月31日

1なる存在について(「辛いに一本足すと幸せになる」の話の続き)

先日の記事「言霊遊戯、あるいは幸、叶、鏡の話」の続きです。

先日考察した「辛いに一本足すと幸せになる」の話ですが、では幸せになるために辛いに足す一本は、具体的に何を指すのか?というところがなんとなく気になって考えてました。まぁ、「家族」とか「友達」とか「趣味」など、人それぞれ十人十色なんだろうし、万人に共通したものではないのかも、とぼんやり思ってましたが、ふと、あれ?この一本は実は万人に共通する一本なんじゃないか?と思いつきました。「一」とは「1」ですが、「1(いち)」にそっくりな英語の「I(アイ)」───この自分という存在は世界にただ一人ですから、I(アイ)と1(いち)が似た形の文字であることには、意味深なものを感じます。話を戻しますと、つまり辛いに足す一本とは、自分自身のことで、意味する所は「本当の自分自身=I(アイ)≠見つけること」なのではないか、ということです。「見つける」という言い回しですと、モラトリアム的な「自分探し」めいたニュアンスが出てきそうなので「本当の自分に成る≠アと」と言い換えたほうが正確かもしれません。

本当の自分に成る、というのは、なにも悟りとか解脱などの究極のものだけではなく、夢中になれる趣味を見つけたりとか、天職を見つける、など、人生を無上の至福で彩るような生き方を見つけること、そういう理想の状態、そういう人生を生きる自分こそ「本当の自分」であるはずです。なぜそれが本当といえるのかというと、人間は宇宙の進化の結果生まれてきた生命ですから、宇宙をつらぬく絶対的な法則、正しい成り行きに則った行為や体験には、それが正しく、本物であることを示すシグナルとして、至福感をもたらすように出来ている(と私は思っています)からです。つまり、もっとも幸せを感じるような時とは、もっとも自分らしく生きている時のことであろうと思います。

宇宙は、自分が生み出した生命(人間)を、わざわざ苦しませる理由はない気がします。なぜなら、人間もまた宇宙の一部ですから、人間の苦しみは宇宙にとっても苦しみのはずだからです。むしろ、宇宙からすれば、幸福に自由に、人生を喜びで満たすような生き方を人間にしてほしいと思っているような気がします。宇宙に考える心や感情があるというのは何も突飛なことではなく、人間に心があるということは、宇宙には心を生み出す素材が揃っていたからですし、その素材で心≠組み立てるシステムと段取りさえもあらかじめあったということです。親にある物が子に遺伝するわけですから、宇宙に心があるからこそ、人間にも心があるのではないでしょうか。冷静に考えてみれば、むしろ宇宙のほうが人間よりも複雑な仕組みと構造をもっているのですから、人間よりも高機能で精妙な心をもっていると考えた方が論理的なようにも思います。おそらく数多(あまた)の宗教は、お伽噺のような空想から生まれたのではなく、むしろかような考えと遠からぬ思想が根底にあって、宇宙を統べる超越的な存在、つまり神の存在に気づいたのではないか、とふと思いました。

とにかく、人生は無限の可能性が秘められているのですから、本来なんでも望んでいいし、どんな夢を追いかけてもいいわけです。自分に最大限の自由を与える生き方こそ誰しもが求める生き方ですが、自分の自由と他者や社会との折り合いが上手い具合につくような状況をつくるには、エゴの自分を捨てて、意識の奥にある魂で感じる本当の自分になるしかありません。多くの聖典や賢者のいうように、本当の自分(I=アイ)を覚醒させるには、自他を越えて愛(I=アイ=愛)を実践していくことが大事なのだと思います。I(アイ)は「自分」であり、また「愛」であり、そして唯一無二の「1(イチ)」です。カバラ(ユダヤ教神秘主義)では数の隠された意味や性質を探る「数秘術(ゲマトリア)」という秘術がありますが、それによれば1は唯一の神を表す神聖な数字でもあります。魔術師、アグリッパが1の神聖性について書いた興味深い一文を以下に紹介します。

それゆえ、1は高みなる神を示し、神は1であり、限りないものと思え、しかも自身で限りないものを作り、それらは彼自身の中に含まれている。それゆえ一つの神がいて、一つの神の一つの世界、一つの世界の一つの太陽、また世界における一羽の不死鳥、蜜蜂の中の一匹の王、畜牛の群れの中の一頭の指導者、獣の群れの中の一頭の支配者、一羽に従う鶴、そして多くの他の動物も単一性をあがめる。
───アグリッパ(16世紀の魔術師)


『数秘術 数の神秘と魅惑』ジョン・キング著 好田順治訳 青土社 1998年 p87より


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魔術師アグリッパ ( Henry Cornelius Agrippa Von Nettesheim 1486-1535)
16世紀ルネサンス期ドイツの魔術師、人文主義者、神学者、法律家、軍人、医師。以前の記事「エンデと神秘主義」でも触れましたが、アグリッパというと、太陽系惑星を魔方陣に対比させた惑星魔方陣が思い浮かびますね。


また、インド哲学の真髄であるヴェーダーンタ哲学の不二一元論では、究極には、内なる本来の自己(真我=アートマン)は、宇宙の根本原理(神=ブラフマン)と同一である、と説いていて、不二一元論とは、一言でいうと、すべては究極にはひとつであるという教えです。宇宙論の有名な仮説「ビッグバン」では、宇宙のはじまりは、微小・高温・高密度の「時空特異点」が爆発して出来た、とされていて、この爆発により時間と空間が生じたということですが、「すべての元は、ひとつ≠フ何かだった」という意味では、なにやら通底する真理を感じます。ヴェーダ聖典(=紀元前1000年〜500年に編纂されたインドの宗教文書の総称)の重要な聖典のひとつにウパニシャッドがありますが、これにも「この宇宙は有のみであった。唯一にして、第二のものはなかった」「太初において、アートマンはこの宇宙であり、唯一であった」「この一切万有は実にブラフマンである」との記述がありますが、紀元前の太古の時代にすでに宇宙の本質を直感的に見抜いていたかのような知見に驚きます。

明智(みょうち=分別のある賢明な知恵)とは、(アートマンとブラフマンとは)同一であるという理解であり、無明(むみょう=迷いによる無知の状態)とは、(アートマンとブラフマンとは)異なっているという理解である、と天啓聖典は宣言している。それゆえに、聖典においては、明智があらゆる努力を尽くして教示されている。

『ウパデーシャ・サーハスリー』シャンカラ著 前田専学訳 岩波文庫 p21より 


ともあれ、インド哲学によれば、人間と宇宙は真理に目覚めた目でみると究極には同一の存在であるということですが、言葉を換えれば宇宙と同等の潜在力を人間は持っているということでもあります。宇宙というのは最大にして究極の謎ですし、真偽を即座に確かめることは困難です。しかしまぁ、悪い事には懐疑的でいいと思いますが、良い事には過剰に懐疑的であるのは損なので、とりあえずは聖典の示す世界観を信じて、宇宙規模の可能性の大風呂敷を拡げたマインドで自由にこの世を渡ってゆきたいものだと思う昨今です。
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2018年07月23日

言霊遊戯、あるいは幸、叶、鏡の話

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辛いに一本足すと幸せになる

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でも、あまり足しすぎると魚の骨みたいになる。

「辛いに一本足すと幸せになる」という言葉がありますね。元ネタがどこなのか気になりますが、それは置いておいて、辛いのはほんのわずかな何か一つが足りないからで、その一つを足せば簡単に幸せはやってくるんだよ、という感じの含蓄なのだろうと思います。このような漢字の造形がそのまま人生訓になっているようなものはけっこうたくさんあって、「人という字は人と人が支えあっている姿である」などは定番ぽいですが、「吐く(はく)」と「叶う(かなう)」もなかなか意味深で面白いですね。「吐」という字は、口・+・ーと分解できることから、口から出るプラスの言葉(感謝、喜び、慈悲など)とマイナスの言葉(愚痴、不平、不満など)を意味すると見ると、そこからマイナスの言葉だけ言わないようにして、プラスの言葉だけ言うように心掛けていけば望みや願いが「叶」いますよ、ということです。気づいた人に思わず座布団あげたくなりました。まぁ、漢字の成り立ちからいえば、プラスやマイナスの記号が元になっているはずはないのですが、そうした時系列を超越した意味を表現できるくらいに「文字」というものにはパワーが宿っているようにも思いますし、こうした偶然の一致めいた部分も言霊的なものを感じます。

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話を戻して「辛いに一本足すと幸せになる」ですが、上記のように、今が辛くてもほんの少しのきっかけが一つあれば変われるんだよ!というポジティブなメッセージを表しているのはたしかだと思いますが、逆に、「幸せも、ほんのちょっとした何か一つによって支えられている危ういものなのですよ」という意味も読み取れます。どんなに仲のいい友達同士でも、何の気なしに口に出したほんのささいな言葉で相手をひどく傷つけてしまうことがあります、永い友情がそこであっけなく壊れてしまったりとか、多かれ少なかれ誰でも心当たりがある経験だと思います。幸せは、失ってから気づくことがしばしばありますが、できれば失う前に気づいておきたいものです。

多くの場合、幸せは、いつも「当たり前」だと思っているような所に潜んでいて、その「当たり前」に対する感謝の心を失っていくに従って運勢は下降するように感じます。ネット通販で家にいながらにして買い物ができるのは夏の暑い中(冬の寒い中)運んでくれる運送業の方がいるからですし、いつでもスーパーで食べ物を買えるのはそういう豊かな国を築いてくれたご先祖様たちがいるからです。水道の蛇口をひねるだけで清潔な水が出てくることも、決して当たり前ではなく、世界的に見ても希有な状況です。江戸時代だったら殿様レベルじゃないとなかなか口にできなかったアイスクリームも、今では普通に庶民が誰でも食べれるような時代になってますし、世界中の美味しい果物が近所のスーパーで安価に買えることも考えてみればすごいことです。扇風機すらなかった昔の時代からすればエアコンも魔法の道具です。他にもスマホや飛行機や新幹線やテレビやパソコンやゲームや漫画など、夢のような機械と娯楽に満ちたこの世界、昔の人から見たら現代はびっくるするほどパラダイスなのではないかと感じます。

本当は、感謝してもしきれないくらいの状況がいつでも整っているのが今なのですが、人間の性(サガ)というべきか、どんな快適さにも慣れてしまって、すぐにそれを「当たり前」と思ってしまいます。それどころか、人間は、足りないもの、欠落しているもの、不満なものを見つけるのが得意中の得意です。人間はデフォルトの状態だけで生きていると、不幸になるプロフェッショナルにはすぐなれますが、幸福になることにはアマチュアのままです。

嫌な物事に執着する習慣が続きすぎると、重度にこじれてしまって、ネガティブ性の中に安息してしまう環境ができていきます。怒ったり批判したりするために嫌いな人や嫌な行為を見つけようとしたりしはじめて、あえて自ら進んで毎日をイライラしながら過ごす事になります。冷静に考えれば、楽しいことや面白いことを捨ててまで嫌いな事に注目するなど馬鹿げているようにも思えますが、私の過去の経験からも、そういう状態になると負の感情に浸っていることがある種の快楽になっていくので、自分では気づきにくくなってしまっています。そういう状態であることに気づいたら一刻も早く意識的に抜け出そうという方向に気持ちを切り替えることが必要ですね。

こうした負の感情にあえて浸ろうとする心のはたらきをエックハルト・トールは「ペイン・ボディ」と名付けました。また20世紀ロシアの高名なオカルティスト、グルジェフは似たようなそういう心のはたらきを「緩衝器」と呼んでましたね。さらに数年前にブームになったハワイのスピリチュアルメソッド「ホ・オポノポノ」の中心人物であるヒューレン博士は同様のはたらきを「記憶(いわゆる通常の意味の記憶のことではなく、潜在意識に堆積した不純物を指す言葉)」と呼んで、件の4つの言葉「ありがとう、ごめんなさい、許してください、愛しています」で記憶≠クリーニングする手法を提唱しました。「ペイン・ボディ」「緩衝器」「記憶」はそれぞれ微妙に定義は異なりますが、おおまかには精神の解放にブレーキをかけている心のはたらきを指していることは共通していると思います。これらの心の機能は仏教ではさらに詳細に分析されていますね。肉体だけでなく、心のはたらきも、大部分は無自覚的に自動ではたらいているので、なかなかそうした自分の制御を離れた心の挙動は自覚しづらいですし、そもそもこの自動機能さえ「自己」と同一視しがちなので厄介です。しかしいったん自覚できてしまえばそうした「ペイン・ボディ」的なはたらきに対して意識的に「かかわらない」ようにすることも可能になります。「ペイン・ボディ」と「私の本質(魂、意識、心の根源)」は別物である、という視点に立って、「ペイン・ボディ」の誘惑(ペイン・ボディは、自己否定、諦観、不可能性などのネガティブな感情がエサになっているので、いつもそういうマイナスの感情を引き出そうとしてきます)を何度かスルーしていると、そのうちコツがつかめてきます。

閑話休題。「当たり前」と思っているものほど実は「有り難い」という話題に戻しますが、この私のこの身体も、よく考えてみれば、「人間なのだから人間の身体を私が持っているのは当たり前」だと思っていますね。でも、心臓ひとつ意識的に動かしているわけではなく、爪や髪が伸びるのも、怪我の傷を塞いでくれるのも自分の意志でやってるわけではありません。自分の身体さえ、99%以上は自動運転されていて、「自分」がコントロールしているのは脳のほんの一部を使って身体の一部、手足を操ったり、目や耳で外部の刺激に反応してみたり、あとは悩んだり喜んだりする「思考」を弄んでいるだけです。ヨガのマスターでもない限り、多くの人々は身体のわずかな部分しかコントロールできてないのですから、身体もまたこの世に生れ出るために用意された神様からの授かり物なのではないか?と思えてきます。よくスピリチュアルな思想の多くでは「自分を愛せ」といいますが、これはなにも自己中心的になれということではなく、自分と思い込んでいるものの9割以上は実際は自分の所有物ではなく超越的な存在からの授かり物なのだから大事に扱いなさい、という意味もあるように思います。

そういえば、この前何かの機会で知った「おお!」と思った言葉があります。ご存知の方も多いと思いますがそれについて少し語ってみようと思います。うろ覚えですが「かがみ(鏡)≠見ればが(我)≠ェ映る。我を無くして鏡を見ればかみ(神)≠ェ映る」という感じの言葉です。「かがみ(鏡)」という3音節の名詞の真ん中には「が(我)」があります。また、その「が(我)」を取り払ってみると「かみ(神)」が残ります。なかなか上手くできてるなぁと感心しました。

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身だしなみを確認するために日常覗いてる鏡には「我」である肉体の自分の顔がただ映っているだけですが、我を取り払った魂の境地で自分の顔を見れば、そこに映るのは自分であって自分ではないもの、自分だとばかり思っていた神からの有り難い授かり物である宝物のような身体が映っていることに気づくのでしょう。そういえば鏡をご神体にしている神社は多いですし、そもそも古事記に描かれる三種の神器のひとつは鏡です。合わせ鏡にすると一挙に万華鏡のような無限の空間が生まれるのも不思議な性質です。鏡の中の世界は、この現実世界とまったく同じに見えるのに、鏡の中には実際には何もない、という所も、般若心経の色即是空、空即是色を物質化したかのような含蓄を感じます。もしかすると鏡というのは、目に見えない次元ではスゴイ役割をしてる霊的物体なのかもしれませんね。

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「鏡の国のアリス」 ジョン・テニエル画 1871年

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合わせ鏡の中の迷宮
posted by 八竹彗月 at 02:00| Comment(0) | 精神世界