2021年02月28日

光と宇宙のはなし

はじめに神は天と地とを創造された。
地は形なく、むなしく、やみが淵のおもてにあり、神の霊が水のおもてをおおっていた。
神は「光あれ」と言われた。すると光があった。
神はその光を見て、良しとされた。神はその光とやみとを分けられた。
神は光を昼と名づけ、やみを夜と名づけられた。夕となり、また朝となった。第一日である。

旧約聖書 創世記 第1章(wikisourceより)



今回はもっとも身近で最も不思議な「光」について話してみようと思います。普段から光の神秘について思いめぐらす機会がちょくちょくあったので、いろいろ書きたかったので記事にしてみました。最も有名な宇宙創成の神話というと上に挙げた旧約聖書の創世記ですが、宇宙創造の最初に「光」をもってくるのが意味深ですね。森羅万象を読み解く古代中国の学問「易経」も、「当たるも八卦、当たらぬも八卦」で知られる八卦の元となる陰陽が元になってますから、やはり光と闇という根本概念が万象を生成する元になっていると考えたのでしょうね。神話の時代だけでなく、現代科学でも光は宇宙の解明の大きな鍵になる重要な物理現象であり、かつ物理的な実体でもあります。現代社会を支えているコンピュータは0と1の膨大な組み合わせで動作する二進法マシンですが、二進法自体のルーツは古代中国の「易経」の概念にあるというライプニッツの論文を荒俣宏さんが著書(「99万年の叡智」平河出版社)で紹介していたのを思い出します。そんな感じで、いつも身近にある光ですが、同時に謎めいていて不思議な魅力も感じます。



光のふしぎ

光の速度は人間の生活の範囲だとほとんどゼロ秒に思えるほどの高速で、そもそも光というものに、伝わるための速度が存在していることすらふだんは気付きません。子供の頃は、光というのはたんなる自然現象で、たき火とか電灯とか、何かの化学反応によって生じる現象であって、光は無限の速さで伝達されるものと思ってました。後に学校や本などで、光はそれ自体が光子という物理的な実在で、重さを持たず、そのスピードは有限(秒速約30万km)らしいということを知り、とても不思議な気分になったのを思い出します。また一般には、光速はこの宇宙における最高速度といわれてますが、無限の可能性を秘めた宇宙にもスピードの上限があるというのは、どこかミステリアスなものを感じます。

相対性理論という人類の知のパラダイムシフトは人類全体における衝撃的な革命をもたらしたと思います。光速を宇宙のスピードの上限とすることは、同時に、時間や空間などの「当たり前」に思っていた定常的に扱っていた概念が粘土細工のようにグニャグニャと歪むものであることを証明することになりました。そうした科学のもたらした新しい知見によって、よりいっそう「この世界の真相はいったいどうなっているんだろう?」という問いに魅力を感じていきます。

日常生活のスケールを超えた領域では、マクロな世界もミクロな世界も、いままで生きてきた中で培ってきた常識がひっくりかえることがしばしばです。太陽が東から昇ってやがて西に沈み、夜がきて朝が来る、といった当たり前の一日も、視点を変えれば、果てしなく広い宇宙の片隅の銀河系の端っこの太陽系の第3惑星だけに起きる非常にレアな現象でもあります。

視点を変えると常識がひっくり返ってしまう感じといえば、昔テレビかなにかで聞いた、とある思考実験を思い出します。それはアインシュタインが子供の頃に空想したとされる思考実験です。いわく「もしも自分がとほうもなく大きな巨人だったとして、ある日の正午に地球の赤道上に立ち、自転と反対方向に自転と同じ速度で歩き続けたとしたら、巨人にとって世界はどう見えるだろう?」というもしもの世界≠ナす。この場合、巨人が体験する世界は、「太陽は頭上に静止したまま動かず永遠に昼のまま」というもので、巨人はその歩みを続ける限りとてもシュールな現象を体験することになります。いわばセルフ白夜という感じでしょうか。このアインシュタインの思考実験を聞いたとき、日常のスケールをちょっと逸脱するだけで、当たり前だとか、常識だと思っていたことがいとも簡単にひっくり返るのだなぁ、と感慨にふけったものでした。

そのように、この世界に生まれ落ちて生活しているうちに自然と体感していく当たり前の現象、光とか重力とか、そういうものも、「では、それは具体的にどういうものなのか?どういう仕組みで存在しているのか?」と考えたとたんに巨大な謎としてたちはだかってきます。といいますか、よく考えてみれば、この世界のほとんどの部分は謎でできており、人間がわかっているものはごくわずかであります。人間は、人間社会という、人間だけに通用する小さなコロニーの中で人間同士のコミュニケーションだけうまくこなせていれば、とりあえず生きていけるようなシステムを造り上げたおかげで、そうした謎に興味を持たずとも生きていけるようになりました。しかしまた逆に、そうした謎に興味をもてば古今東西の賢者の思想をネットや本などで知ることができるようにもなりました。世界はある意味「打ち出の小槌」で、求める心があればちゃんと応えて出してくれるような仕組みになっているのでしょう。



光は遅い?

光は1秒間に地球を7周半するほどの高速なので、地球上にいる限り、光の伝達速度を考慮する必要がほとんどありません。地球上の、砂漠とか海の上などの、何の障害物も無い場所で身長180cmの人が見渡せる距離は約4.8km、そのままぐるりと360°周囲を見渡す場合、その範囲の面積は約81km2です。つまりこれは地球の表面積(約5億1千万km2)の約600万分の1程度しか人間は把握できないことになります。実際の日常では、建物や山の起伏などさまざまな障害物がありますし、そもそも現代人の一日はほとんど建物の中で過ごすことが多いわけですから、地球の600万分の1どころか、もっともっと狭い世界を生きていることになりますね。ちなみに東京スカイツリー第二展望台(高さ450m)から見渡せるのは地球の約2万5千分の1の範囲になります。このような人間のスケール感ですと、地球を1秒で7周半もする光は、体感ではゼロ秒に近い感じで、ほぼ瞬間的に伝達するとんでもない高速なものといえますね。

しかし、その光も宇宙という舞台ではときに亀のように遅く感じます。宇宙には地球より大きな星は無数にあり、例えば木星は地球の体積の千倍以上(1,321倍)で、直径は11倍です。木星の直径を光が横切るには0.48秒もかかり、赤道を一周するのに約1.5秒もかかります。太陽系最大の星はもちろん太陽で、ケタ違いに大きな星であり、直径は木星の10倍もあります。太陽を光が一周するのに約14秒ほどかかります。光が太陽の直径を横切る場合には4.6秒かかるので、太陽の脇を光が通過するだけで4.6秒もかかるということですね。とてつもない大きさです。

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しかし宇宙という大舞台では上には上がいます。現在観測できている星の中でもっとも大きいとされる「はくちょう座V1489星」は、直径が太陽の1650倍(22億9792万2千km)で、この星を仮に太陽系の太陽の位置に置くと、木星と土星の軌道の間あたりがこの恒星の表面になるくらいのとんでもない大きさです。「はくちょう座V1489星」を直径1mの大きなバランスボールに例えると、太陽は直径0.6ミリの砂粒のような大きさになります。だいたいボールペンの先っちょの玉くらいですね。(ちなみにこの比率でいくと地球の直径はベビーパウダーの粒子ひとつ分よりも小さくなり、約5.5マイクロメートル、ミリ換算で約0.0055ミリとなり、肉眼では見えないサイズになってしまいます)この巨大な星の直径を光が横切るには2時間8分ほどかかります。光が星ひとつ横切るのに、映画まるまる1本分鑑賞するくらいの時間を要するというのがとてつもないですよね。

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この図は惑星同士の距離というより各惑星の軌道までの距離感です。各惑星は軌道上のどこかにいることになりますから、太陽の反対側に来る場合もありますし、そうなると実際はもっともっと離れていることになりますね。

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ついでに、地球の大きさを直径1cmのパチンコ玉だと見立てて計算してみました。その場合は太陽は直径約1.1mの両手で抱えるくらいの大きなバランスボールくらいになり、その比率のままはくちょう座V1489星≠ノ当てはめると直径1.8km(甲子園球場を約10個並べたのと同じくらいの直径)の超巨大なボールとなります。ほとんど街ひとつがすっぽり収まるほどの直径の球体とパチンコ玉との比較を考えるとあまりの非現実的なサイズ感に頭がクラクラしてきますね。不動産屋さんの店先の物件紹介の貼紙とかにある「駅から徒歩○○分」というのは「80m=徒歩1分」という計算らしいですが、これでいくと1.8kmのはくちょう座V1489星≠ノ見立てた球の脇(直径)を歩いて横切るだけで20分以上かかる計算になります。そんな比較で想像してみると、宇宙の壮大さの片鱗をわずかながらでも実感できますね。

宇宙は星の無い空間のほうが圧倒的に多いのに、光が星一つ分を通過するのに2時間以上かかるというのを考えると、宇宙を把握するモノサシになっている光がいかにゆっくりなのかがわかりますね。太陽系に最も近い恒星、ケンタウルス座α星まで光の速度で4年以上かかるので、現在の科学の常識では恒星間旅行など永遠の夢物語です。ブラックホールのような時空の歪みを利用する航法など、恒星間探索のいろいろな仮説がありますが、どれも非常識なコストがかかる非現実的なものです。恒星間を行き来するような宇宙時代は必ずしも夢物語だとは思いませんが、恒星間探査を可能にするのは、相対性理論が発見された時のような、常識が180度ひっくりかえるくらいのパラダイムシフトが物理学やテクノロジーの分野で起きることが必要でしょうね。

情報のみの伝達に限っても、光速のリミッターがこの宇宙にはたらいているので、ケンタウルス座α星のようなご近所と連絡をとるのにも4年もかかりますが、もし量子もつれのようなテレポーテーションまがいのチート的な手段が情報伝達に転用できるような革新的な発見があればどんなに遠い星同士でも瞬間的な情報伝達が可能になるかもしれませんね。量子論自体が当時天才の代名詞でもあったアインシュタインさえ首を傾げたほどに不思議な理論でしたが、現在では量子コンピュータも近い将来実用段階に入りそうな感じで、量子論はそのくらい現実に即した影響力をもつリアルなものになってきました。いまだに量子論はどこか現実離れした不思議な理論のように扱われる機会が多いですが、そうした不思議な仕組みが素粒子レベルのミクロの世界では常識なわけで、他にもそうした理論的な抜け道がこの宇宙には意外とたくさん用意されているような気がしますね。そうした新しい手段によって、銀河同士で会話できるようなレベルの瞬間的な情報伝達が発見されたら、この宇宙がいっそう楽しい場所となることでしょう。



光のドップラー効果

ドップラー効果というと、救急車などのサイレンの音が、近づいてくる時と遠ざかる時とでは音の高さが変わってしまうアノ現象のことで、これは音の伝達速度が秒速約340mと遅い事によって人間に知覚可能な変化として認識されます。光もまたこれと似た現象が起こり、光速に近づくほど進行方向の景色は青に、遠ざかる景色は赤の方向にズレることになりますが、光は音速の10万倍のスピードで伝達するので、人間の日常生活ではその変化はほとんどゼロに近い微々たる変化になるので気付きません。もっと巨大な場、宇宙に目を向けるとこの現象は「赤方偏移(せきほうへんい)」という現象によっても確認されており、これは天体の観測で遠い星ほど速く遠ざかるために星が赤っぽく見える現象です。

光のドップラー効果について思い出すのは著名な天文学者、カール・セーガン(1934-1996)が、1980年に制作した『コスモス(COSMOS)』という宇宙を興味深く解説する全13回シリーズのドキュメンタリー番組です。日本でも放送され、これによってカール・セーガンの名前が日本でも一般に広く知れ渡る事になりました。20億円の巨費を投じて制作されたようですが、この番組の第8回目の『時間と空間の旅』の内容が、光のドップラー効果を説明するために、ユニークな思考実験を映像化していたのがすごく印象に残っています。その映像を見たとき、この世界にはこんな不思議な仕組みが裏ではたらいているのか!とすごくワクワクした感動を思い出します。

その映像というのは、もしも光の速度が時速60kmほどだったら世界はどう見えるか?をシミュレーションしたビデオです。光速が時速60kmほどと仮定すると、スクーターで走っただけで容易に光速に近づいてしまうため、普通の日常生活にモロに相対性理論の効果があらわれますが、それがこの映像の面白いところです。

TV動画
Carl Sagan - Cosmos - Traveling - Speed of Light (Youtube)

映像は、カール・セーガン自身による解説の後、広場で数人の同世代の友達と遊んでいた主人公の少年がスクーターで村を一周して、また元の広場に戻ってくる、といったシンプルな内容ですが、なにしろ光速がスクーターの最高時速とそう変わらない世界の話なので、奇妙な現象がいろいろ起こりまくるのが面白いです。

光に近い速度のバイクに乗っている少年は、他の人から見ると押しつぶされたように横幅が縮んで見え、さらに光のドップラー効果で青く見えるとか、バイクから見る景色は光速に近づくと虹色になって前方に固まって見えるとか、不思議の国にでも迷いこんだかのようなサイケな情景が次々にあらわれます。バイクでちょっと散歩しただけなのに、広場に戻ると自分の弟が相対性理論のウラシマ効果でよぼよぼの老人になってしまい、広場にいた同世代の友達は皆他界してしまって広場はガランとしている、というオチで、小さな村をバイクで一周しただけで何十年もの時間のズレを生じてしまうところがまさに「世にも奇妙な物語」な感じです。光というものの奇妙な性質をわかりやすく視覚的に表現していてとても秀逸なビデオですね。

光速に近づくと世界はどう見えるのか?」を手軽に体験可能なムービーが公開中(GIGAZINE様)

こちらは2018年にベルギーの大学で作られたビデオを紹介しています。光速が時速20kmの世界でボートに乗ったときに見える景色のシミュレーションです。360°ムービーになっており、再生中もマウスで任意の方向に画面を動かすことができます。光速に近づくにつれて周囲の風景は歪みはじめ、色合いも光のドップラー効果でサイケな感じに変化していきます。実際に日常では経験することのない光速の世界も、あえて日常レベルのスケールに落とし込むことで、その奇妙な性質を実感させてくれるこうした映像は、ちゃんとした科学的な理論を背景にして作られているだけに、より不思議感があって面白いですね。

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『ライフ・サイエンス・ライブラリー 時間の測定』サミュエル・A・ハウトスミット、ロバート・クレイボーン著 小野健一監修 タイム・ライフ・ブックス発行 昭和50年刊
ライフの科学図鑑シリーズはユニークな図版が多くて楽しいですね。これは時間をテーマにした巻で、上図は「相対性に破れたスパイ作戦」と題されたユニークな絵物語の一枚です。物語の内容は、原発への爆破テロを企てたスパイが相対性理論に無知だたっために計画が頓挫してしまうというストーリーです。絵は、光速の4分の3の速度(秒速22万キロ)で走る「相対性特急列車」に乗り込んだ主人公のスパイが、車窓から外にいる仲間の見張りの男を見た時の様子を描いた挿絵です。見張りの男はたしか小太りのはずだったのに、なぜかほっそりしています。というより、あきらかに横に圧縮されたような不自然な姿です。これは光速に近いスピードで走る列車から外を見ているせいで景色が横に収縮して見える「ローレンツ収縮」といわれるものを絵にしたものです。モノを見るということは、モノに当たった光の反射を見ていることと同じですが、観測する人が光速に近い運動をしている状態では、光が当たって目に映るまでの光の動きもズレてくるのでこうした現象が起きます。こういう絵って、頭で空想した幻想画とはまた別の、シュールな味わいがあって大好きです。見た目はキテレツでも理論上はありえるというところが面白いですよね。


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上図下図とも『ガモフ全集1 不思議の国のトムキンス』ジョージ・ガモフ著 伏見康治訳 白揚社 1950年
光速がものすごくゆっくりな世界で起こる奇妙な光景を描いた絵。一般的な自転車を最速でこいでも時速30kmほどだということなので、自転車で走るだけでローレンツ収縮が起こるということは、この絵の世界は光速が時速30〜40kmくらいのようですね。これらの挿絵は第1話の「のろい町」(呪いではなく遅いほうののろい≠ナす)の挿絵です。この架空の世界でも、光速は最高速度なので、タクシーだろうが電車だろうがみんな自転車と同じくらいのスピードしか出ません。街角のおまわりさんもスピード違反を注視する必要もないためいつもヒマそうにしています。




光の時代

そういえばアインシュタインが第三次世界大戦はどうなるかについて問われて「第三次世界大戦についてはわかりませんが、第四次大戦ならわかります。石と棍棒でしょう」と答えた、という話がありますね。原爆や水爆といった、一発で都市をまるごと壊滅させるような兵器が存在するようになった現代において、もしまた世界規模の大戦が起きれば人類そのものの文明すらほとんど壊滅してしまい、その次の第四次世界大戦では、兵器工場どころか文明すら消え去った世界なので原始的な武器、つまり石と棍棒で争うような原始的な戦争になるだろうという皮肉なブラックジョークですね。最終戦争後の世界というと、北斗の拳もそういう感じでしたし、FF10の舞台、スピラもそういえば最終戦争後の世界を舞台にした世界観で、高度に発達した科学文明そのものが破壊された後の、原始的な文明に退行した世界を描いていたのを彷彿としますね。私たちの世界がそういう世界にならないためにも、これからは心の教育などが重要でしょうし、精神の豊かさを育むような社会へとシフトしていかなければ、人類自体がそのエゴによって消滅してしまうかもしれませんね。

占星術の世界でも、70年代あたりから「アクエリアスの時代」つまり水瓶座のことですが、それまでの魚座が支配していた物質偏重のエゴイズムな世界から、水瓶座が支配する時代に移り変わることで、精神面に重点を置いた協調的な自然主義の世界観にシフトしていくだろうといった説が話題になったことがありましたね。アメリカのコーラスグループ、フィフス・ディメンション(The Fifth Dimension)の60年代後期のヒット曲『輝く星座』は、原題は『Aquarius(アクエリアス)』で、まさにこの占星術の予言、水瓶座の時代をテーマに、悲しみの時代の終わりと幸福な時代の訪れを歌ったスピリチュアルな歌詞のファンタジックな曲でしたね。

フィフス・ディメンション『輝く星座(Aquarius)』(Youtube検索結果)

約2160年ごとに支配する星座が変わるということですが、占星術的には現代がそのターニングポイントになるという説が広く流布されているようです。アセンションとか、次元上昇とか、最近では風の時代などという似たようなファンタジックな説を目にする事がありますが、まぁ、そっち系はあまり深入りしないでおこうと思ってます。それを信じる信じないというより、そういう話題に関心が集中するほど、この世界が精神性に目覚める世界になってほしいという願望のあらわれでしょうね。そういう願いに似た気持ちがそういった説に投影されて流布されているのだろうな、と感じます。

人類の文明は、生物としての生存にかかわる大きな問題、衣食住をかなりの程度まで安定的に享受できるようなレベルまで進んできましたし、そういう面では物質的にはもうかなりのレベルで満たされているといえるでしょう。だからこそ、これからの時代は、人類最大の目標である「幸福」という心の問題に真剣に目を向けるべきなのかな、と感じます。

政府が発表して話題になった「ムーンショット目標」では、労働やコミュニケーションなどの人生にのしかかるいろいろな義務から解放された理想の未来のビジョンを示していて興味深いです。どこまで本気か気になるものの、実現すればそれこそアクエリアスの時代にふさわしく革命的な意識改革が起こるでしょうね。どこかマトリックスの世界を思わせるSFっぽい目標ですが、2050年までに実現させることを目標にしてたりと、わりとリアルな感触もあって、ちょっと期待してしまいます。

このまま人類が破滅的な戦争をすることなく、科学技術を発展させつづけていけば、AIやロボットの進化によって生きるための労働から解放されたり、より自由でチャレンジしがいのある人生を過ごせるようになるかもしれませんし、そうしたテクノロジーの進歩は宇宙開発へも当然向けられるでしょう。そうなればいずれは光速に近い推進力のロケットも実現できるかもしれませんし、そうした未来では、光のドップラー効果をはじめとする相対性理論でいわれてきた奇妙な現象が、ロケット開発におけるリアルな現実の課題になっていくのでしょう。さらに技術が進めば、光の速度でさえ恒星間を行き来するには遅過ぎますから、そうした未来ではワープ航法のようなチート的な技術も可能になっていくかもしれませんね。

人間社会は、ある意味宇宙の縮図のような面もありますし、生きるための労働にしても、一生懸命働くという以外にも、宝くじとか株とかいろいろとチートが存在しているのがこの世界ですから、宇宙にもそのような、光速の呪縛を突破できるような様々な仕掛けや抜け道がありそうに思う昨今です。



メモ参考サイト
はくちょう座V1489星(ウィキペディア)
はくちょう座V1489星は、地球から見てはくちょう座の方向に約5250光年離れた位置にある赤色超巨星。2012年時点で観測されている恒星の中では最も直径の大きな恒星。それまで最大の恒星とされていた「たて座UY星」は、再計測の結果以前より半分近く直径が短いことが判明したため1位の座を奪われたそうです。なんというか、半分近く短くなるほど誤差が出てたというところも驚きです。宇宙が相手となると、誤差のレベルも驚異的に壮大ですね。

近い恒星の一覧(ウィキペディア)

直径の大きい恒星の一覧(ウィキペディア)

地上から見渡せる距離や範囲の計算機(ke!isan様)

【PDF】「なぜ光の速さを超えられないのか―わかりやすい速度の合成則の導出―」近藤良彦、西川哲夫 國學院大學人間開発学研究 第9号〔平成30年2月〕

【PDF】「光の正体を探ろう!〜量子の世界への招待〜」(北海道大学大学院情報科学研究科光エレクトロニクス研究室小川和久、松岡史晃)
量子論の概論や量子コンピュータについてイラストをふんだんに使って解りやすく解説していて勉強になります。『量子コンピュータが得意なこと』と題する章に、組み合わせ爆発などの計算量が膨大な問題を例に、4GHzでCPUが動作するパソコンだと20兆年近くかかる計算を量子コンピュータは1.75 × 10^−8秒(0.0000000199秒)で算出してしまうようなことが書かれてますね。今のパソコンでおよそ20兆年(宇宙の歴史138億年の約1449倍!)かかる計算をほとんどゼロ秒で答えを出してしまうって、まるでリアルHAL9000(映画『2001年宇宙の旅』に登場する万能コンピュータ)の世界ですね〜 ただ、速いかわりに精度が落ちるとか、計算にも得意不得意があるようで、量子コンピュータが実用化しても現行のコンピュータが無くなることはないという話も聞きますね。とはいえスパコンの1億倍以上のスピードで計算するといわれるかつてない機械仕掛けの頭脳、量子コンピュータが実用化されるようになったらいろいろな常識もひっくり返って、社会や人間の意識自体にとてつもない変化が起こるでしょうね。

コスモス (テレビ番組)(ウィキペディア)

「ムーンショット目標1 2050年までに、人が身体、脳、空間、時間の制約から解放された社会を実現」(内閣府サイト)

【PDF】「太陽系の大きさを体感する」(JAXA)
なかなか実感のつかめない宇宙や星のサイズ感ですが、身近なモノや場所におきかえて類推するれば宇宙のイメージを具体的に実感できたりするので楽しいですね。このPDFでは、太陽系のスケール感を実感するための興味深い比較をいろいろ紹介していて面白いです。惑星同士の距離感も、漠然と等間隔に並んでいる様をイメージしがちですが、実際は水金地火までは太陽の近くに密集していて、そこから木星までは一気に過疎化して距離が遠くになります。そうした距離感の感覚を広場などで実際に惑星に見立てたボールを使って縮尺どおりの軌道の位置に置き、惑星間を歩いて実感してみる実験などが紹介されており興味深いです。

【動画】「Bill Nye Demonstrates Distance Between Planets」 (Youtube)
上のPDFと同じような実験を実際に行っている海外の動画。直径1mのボールを太陽に見立て、サイクリングコースの出発点に置き、その縮尺にそった大きさの惑星を縮尺どおりの軌道の距離に置いて、自転車でその惑星同士の距離感を実感してみる実験動画。火星までは次々に通過していきますが、それ以降がやたら遠くなります。自転車乗りの人がユーモラスで楽しいです。音楽やメーターなどの演出も凝っていて面白いですね。大宇宙とか銀河系などのスケール感からすれば太陽系はちっぽけに感じますが、こうして見ると地球のスケール感からすればとほうもない壮大さですね。それと同時に、天王星とか海王星などのそんなにも遠くにある小さな惑星まであの大きさの太陽がその重力でつなぎ止めているというところも感慨深いです。

「もしも月が1ピクセルしかなかったとしたら・・・太陽系の退屈で正確な地図」(Josh Worthさん制作のサイト)
グラフィックデザイナーのJosh Worthさんが作成した興味深いサイト。月がモニタ上の1ピクセルとした場合の太陽系惑星の大きさと距離感をシミュレーションしています。画面を右スクロールしていくとお馴染みの惑星が現われてきますが、こうして実際にマウスを動かしながら体験してみると、頭で想像している以上に惑星同士の距離が遠いことにびっくりしますね。アンドロメダ銀河と我々の天の川銀河が遠い将来衝突するが、星同士がぶつかる可能性はほぼ無いという話がありますが、たしかに、太陽系がこれだけスカスカで、しかも一番近い恒星まで4光年以上と、さらにとてつもなく離れているのを知ると、実感として納得できますね。
posted by 八竹彗月 at 17:43| Comment(0) | 宇宙

2017年12月25日

UFO、その謎とロマン

 UFO写真!

この前メル友のTさんから、な、なんと!UFOの生撮り画像!を送っていただきました。ブログへの転載許可をいただきましたので、お披露目したいと思います。UFO関係の記事も書きたいと思ってたところだったので、合わせて文章をまとめているうちに今頃になってしまいました。

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黄色い建物の屋上にあるテレビアンテナの隙間から謎の光体!星にしては大きすぎるし明るすぎます。

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しばらくすると斜め上のほうに移動しています。

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埋め込まれた撮影時刻のデータによればこの2枚の撮影間隔は2分ほどであるのが確認できます。とすると、飛行機にしては遅すぎますから、ますます謎は深まります。別の日に目撃した似た光体からはUFO子機らしきものが出てきたそうです。

TさんのUFO写真は、7月初旬に撮られたもので、Tさんいわく、UFOそのものではなく、UFOが出現するワープゾーン(あるいは母船でしょうか)とのことです。Tさんはこうした謎めいた光を頻繁に目にする機会があるそうです。2枚の写真に楕円状の光が写っていますが、たしかに星にしては大き過ぎです。これはTさんからのご指摘ですが、画像ファイルの詳細情報を見ると2枚の写真は2分ほどの間隔で撮られています。となると飛行機だとしたら移動速度が異常に遅過ぎます。ますます謎のUFOっぽさが増してきてワクワクします。

TさんはとくにUFOやオカルトのビリーバーではなく、あきらかに疑わしいものは無理に信じようとはしない方ですが、実体験として不思議な体験もちょくちょくしてる方で、今回のUFOも、そうしたTさんの不思議現象を引き寄せる体質が招いたものだったのでしょう。今回の撮影では、UFOが出る前にTさんは寝ていたそうで、その夢の中でUFOを見せてくれるという予知夢を見たとのことです。たしかに、事前に出るのがわかってなければ撮影は難しいですね。今回の写真は三脚を立ててきっちり撮っておられるので、そこまで準備万端にセッティングできたのは予知夢のおかげだったのでしょう。

UFOというと、異星人の乗物というイメージばかりが先行しがちですが、今回のTさんの事例や画家の横尾さんをはじめとしたUFOコンタクティーに共通するのは、UFOはどういうわけか人間の心に反応する傾向があるということです。来てくれと願うと来る確率が上がるし、光り方や飛び方などこちらで注文するとけっこう応じてくれるものらしいのです。かつてユングも指摘していたように、UFOと人間の無意識というのは、どこか通底する何かがあるような気がしています。


 アメリカ政府はUFO情報を隠蔽しているのか?

この前の米国の大統領選挙でヒラリーさんが「政府の隠蔽している極秘のUFOファイルを開示させる」と公約を発表していたのはご存知の方も多いと思います。トランプさんに負けたのでうやむやになってしまいましたが、米国ではUFO問題を大統領選挙の公約に掲げるほどに国民的な関心が高いという所のほうに私はびっくりしました。エリア51とかメン・イン・ブラックとかMJ12とかロズウェル事件などなど、有名なUFO関連のワードのほとんどは米国発ですから、ある意味、比喩ではなくUFO問題は米国の神話≠フような面があるのかもしれません。

米国政府は長年政府機関としてUFOの調査をしてきたことは有名ですが、UFOとはすなわち未確認飛行物体のことですから、宇宙人の乗物かどうかはさておき、正体不明の飛行物体というのは、国家目線で考えれば、敵国のスパイ行為、あるいは他国からの攻撃の意図を考慮する必要がありますから、軍事的な目的でUFOの調査というのは当然ありえます。もしかしたら、UFO極秘文書というのは多くはそうした軍事機密に属するようなもので、UFOマニア的見地からはあまり面白いものじゃないのかもしれません。しかしながら、見間違いや勘違いや意図的なトリックなどを排除してもなお残る謎の物体は依然としてあります。まだまだUFOは謎めいたロマンあふれる存在であるのはたしかです。

そういえば、最近のUFOマニアがいうような銀河連邦やレプティリアン云々という話は、現実離れしすぎていてまだ信じられないですが、面白い話なのは確かです。そういうのもあってもいいとも思いますし、コンタクティーの人の多くは、そうした話に理解を示す人が多いので、もしかするとそういうSFみたいな話も現実にあるのかもしれません。コンタクティーも多くは眉唾な体験談を語る人が多いですが、とても面白い話が聞けるので、あきらかに嘘っぽい話は別として、面白い見解をもったコンタクティーの話は真偽は保留にして楽しんでいます。後述するハイネック博士の本でも宇宙人と直接コンタクトをした人の体験談とか載っているので、もしかしたらそういうのもあるのかもなぁ、くらいには思っています。まぁ、真偽が不明なものは、否定するより楽しんでしまうのが有益だと思っているので、UFO情報においてはあらゆる可能性を担保して考えてみたいですね。有る無し論争より、人生を豊かにしてくれるかどうか、という視点で捉えるのがUFO(あるいはオカルト全般)に関しては正しいのかな、と思ったりもします。

メモ参考サイト
「UFOの極秘ファイルを開示する」ヒラリー・クリントン氏が前代未聞の選挙公約(The Huffington Post様)



 頭上にいつもある無限

数年前に話題になった宇宙人の屍体解剖の極秘ビデオというのは検証の結果、残念なことに捏造の可能性が高いという結論でしたが、UFOや宇宙人関連の話の多くは、そういったインチキか、あるいは見間違い、勘違いがほとんどを締めるというのはUFOマニアであっても常識のようなところがありますから、私も「またか」という気分になりました。しかしそれでもまた、トリックでも勘違いでもなく、まさに正体不明の飛行体は少なからず今も現実に空を飛んでいるのは間違いないとも思っています。深海には謎の生物がまだまだたくさん生息しているわけですが、海よりも広大な空には、その何倍も謎が蠢いていてもおかしくないように思います。

考えてみると空というのは不思議な空間です。日常の人間の視点は自分の身長の高さで平行に世界を見ているので、いつも有限な世界に生きている錯覚をしてしまいがちですが、ふと空を見上げるだけで、突如無限に底なしの天空が広がっている事実に向き合います。空のどこを見ても、無限に遠く、果てのない空間です。いつも人間は、その頭上に無限≠背負いながら、地球という有限の世界が全てだと、ワザと錯覚しながら生きています。それは、自分はいつかは死ぬ存在だということを無意識に考えないようにして生きているのと似ています。この世的な考えでは、無限というのは扱いにくく、不安なモノだからです。しかし、元を辿れば人間もまた、この無限なる宇宙を母体にして誕生した存在ですから、あえて死とか宇宙などといった無限≠象徴する存在と、正面から向き合って対峙したときに、本来のパワーが目覚め、より人生をパワフルに生きれるのではないか、とも感じます。



 北米インディアンとスターピープル

アメリカのUFO関連のユニークな最近のトピックとして私が関心をもっているのは、インディアン自治区での頻繁なUFO飛来に関するものです。特定のインディアン自治区では、UFOはかなり頻繁に目撃され、宇宙人にさえちょくちょくコンタクトをとったりしているという人も珍しくないらしく、そうしたインディアン自治区における特殊な事情をレポートした『「YOUは」宇宙人に遭っています』という本が最近気になっているところです。まだ未読なのですが、著者がインディアンの血をひく大学の研究者で、そうした出自の利点を生かしたインディアン自治区でのUFO問題のフィールドワーク、という、タイトルのうさん臭さとは逆にけっこう真面目に書かれたもののようです。そのうち読んでみたいと思っている本です。

メモ参考サイト
『「YOUは」宇宙人に遭っています』レビュー(「毎日がエドガー・ケイシー日和」様のブログより)

北米インディアン自治区でのUFO現象は、ケーブルテレビのヒストリーチャンネルで以前『HANGAR 1 〜UFOファイルが眠る場所〜』というタイトルで放映された番組(現在はhuluでも配信されているようです)でも紹介されていて、シーズン2の第5話目「スターピープルの存在」というサブタイトルで、インディアン自治区での不思議なUFO目撃談の数々を紹介していて、すごく興味深いです。アメリカ先住民族である彼らは、古来から宇宙人(スターピープル)とコンタクトをとっていたようなのです。UFOというと、未来的というかSF的なイメージがありますが、このエピソードはUFO問題にしては毛色が変わっていて独特の民族学的なテイストがそそるものがあります。諸星大二郎の短編『商社の赤い花』は普通のサラリーマンが宇宙船で遠い惑星に単身赴任する話ですが、宇宙を舞台に生活感のある話を描いているのがすごくユニークでした。番組もそういうのに似たノリが面白く、インディアンのUFO目撃や宇宙人との遭遇も、ごく普通の日常の出来事みたいに語るインディアンの青年のインタビューにグッときます。目撃談も、巨大な銀色の葉巻型UFOを至近距離で見た話など、UFOの窓から宇宙人がこちらを覗いているところまで証言していて、迫力があります。



 生きている宇宙

UFO問題をいろいろ調べていくと、UFOというものは単なる物理的な物体が飛んでいるというだけではないような気がしてきます。現在の科学の常識では、遠い星から地球に宇宙人がやってくるというのは非現実的に思えますし、環境の異なる星の生物なら、地球上に存在するウイルスや微生物に免疫がないでしょうから防護服も無しに地球に降り立ったりするのもおかしい話です。また、コンタクティの多くが遭遇する宇宙人が人間型、とくにアングロサクソン系が多いのも、どこか地球的な価値観が反映されているような気もします。しかし、途方もない距離の移動には途方もない時間がかかるはずだ、というのもまた常識という名の固定観念ですし、常識に外れているものは存在しないとは言い切れないのも事実です。ある意味UFOは理屈を超えた存在なので、理屈で解釈しても面白くなりません。

よく考えてみれば、我々がモノゴトの真偽を計るモノサシにしている「常識」というものも、地球上の人間だけに通用するだけのモノサシです。この宇宙における生命の発生パターンは、まだ我々の地球上での1パターンしか知らないのが現状ですから、ヒューマノイドが宇宙における知的生物の定番のフォルムなのか、異質でレアなフォルムなのか、全く解りませんし、仮にコンタクティーがヒューマノイドタイプにばかり遭遇しているとしても、それがその異質な体験を否定する根拠にはならないでしょうね。

メモ参考サイト
プラズマ状態で「無機的な生命」が誕生――最新の物理学研究(WIRED様)
人間は地球上での生命の発生パターンしか知らなかったために、永らく「生命の発生には水が必要である」とか「生命体は炭素で出来ているはずだ」とかという常識が支配していましたが、最近の研究ではプラズマ状態の中で無機的な生命体が発生する可能性を示唆しているようですね。こうしたタイプの生命が存在するならば、地球型生命体のパターンを基準に考えられてきたハピタブルゾーンに限定しなくても、もっと多様な可能性がひらけるわけですから、案外宇宙における生命の発生というのは、今まで考えられてきたよりもレアなものではなく、意外とこの宇宙は生命に満ちた世界なのかもしれませんね。

自らも宇宙存在である人間が、面白い℃魔良しとしたり、好んだりするのは、この宇宙自体が面白い事に肯定的であるということだろうと思います。つまり、この宇宙は、つまらない事よりも、面白い事のほうが起こりやすい仕組みになっており、つまらない事よりも、面白い事のほうが真理である場合が多いような、そういうシステムで宇宙は存在しているように思います。一見、つまらない事のほうが頻繁に起こっているように感じるのは、人間のマインドが、この世的な、有限性の罠に陥っているからであり、思考のダイヤルを本来の宇宙の性質である無限に合わせると、面白い事のほうが圧倒的に頻繁に生じているのがわかってきます。

リチャード・モーリス・パックの神秘体験「宇宙が死せる物質によって構成されているのではなく、一つの生ける¢カ在であることを知った」という言葉にあるように、ふだん有限に囲われている心がふとした瞬間無限に開かれると、世界の様相はまったく見た目を変えずに質が逆転します。コンピュータのクロック周波数など、一昔前にいわれていた物理的な上限を今や軽く飛び越えてしまっているように、人間が「できる」と固く 信じた事は、なぜか必ずできてしまうようにこの世界はできているような気がします。これは、宇宙から与えられ人間にそなわった無限≠フ魔法によるものなのでしょう。

天才といわれる数学者や物理学者は、真理はつねに美しいはずだという漠然とした確信をなぜかもっていたようで、正しい答えを必死で求めるというよりは、美しい解法を求めていくうちに歴史的な発見をしたりしたといった逸話を目にしますが、それは逆に言えば、真理に近づくほどソレを美しいと感じるようなアンテナを人間は持っているからかもしれませんね。

私は基本的にUFO肯定派ですが、キャトル・ミューティレーションやミステリー・サークルなどは、懐疑派の主張のほうが説得力があるように思えますし、なんでも信じるというよりはケースバイケースですが、逆にマトモな肯定派(科学的な推論によって解釈する山本弘さん系の懐疑主義的なUFO肯定論者)なら信じないようなことの中にも意外な真実が隠れてる気がしています。宇宙人と頻繁に遭ってコミュニケーションしているとされるコンタクティーの人たちの話は、金髪美人の金星人とデートしたとか突拍子も無い話をする人もいますが、中には真偽は別にして、横尾さんや秋山眞人さんなどの、捨て置けない興味深い体験談を話すコンタクティーもいます。横尾さんはUFOをどこか霊的な現象とよく似た捉え方をしており、そういうところも面白いです。



 J・アレン・ハイネック博士

 私は最初、まったくのUFO懐疑論者だった。つくり話のような(当時の私はそう信じ込んでいた)UFO目撃報告を、片っ端から見破ってはひとり悦に入り、満足していた。UFOが宇宙船であれとこよなく願う円盤狂信者のくやしそうな顔を思い浮かべては、溜飲をさげていたものである。彼らにとっては、たぶん、私は仇敵であったろう。
 だが、そんな私も、徐々にUFO肯定論者になっていった。1960年代の後半になると、完全な肯定派になっていた。これは、当初まったく予想もしなかったことである。
 現在、私は寸暇を惜しんでUFO問題に取り組んでいる。私に変身をとげさせ、これほどかりたてる理由は、UFO現象はたしかに存在するものであり、それを調査し、理解し、最終的には解答をあたえることが、人類の宇宙観にはかりしれない影響を与え、変革への大きな足がかりになると信じているからにほかならない。
───J・アレン・ハイネック

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『ハイネック博士の未知との遭遇レポート』J・アレン・ハイネック著 青木榮一訳 二見書房 1978年


UFO問題の権威というとハイネック博士に言及せねばなりませんね。天文学者のJ・アレン・ハイネック博士は、アメリカ空軍のUFO調査機関「ブルーブック」の顧問であったという過去を持ちながらも、調査を積み重ねていくうちに、たんなる誤認やインチキだけでUFO問題を片付けられないという考えに至り、肯定論者に転向したという特殊な経歴を持つUFO界の重鎮です。「第1〜3種接近遭遇」などのUFO目撃事件の分類を提唱したことでも有名で、UFO映画の金字塔であるスピルバーグの『未知との遭遇』ではアドバイザーをつとめました。肩書き的にも社会的な信用をもった人がUFOに肯定的な情報発信をするのは珍しいですし、それなりにUFO問題が単なるテレビのバラエティネタとしてでなく、人類にとってなんらかのけっこう重要なメッセージを秘めた真面目なものなもののようにも思えてきます。

ハイネック博士によるUFO接近遭遇の分類

第一種接近遭遇
 空飛ぶ円盤を至近距離から目撃すること。

第二種接近遭遇
 空飛ぶ円盤が周囲に何かしらの影響を与えること。

第三種接近遭遇
 空飛ぶ円盤の搭乗員と接触すること。

ウィキペディア「接近遭遇」より


ハイネック博士の著書に、UFO目撃から宇宙人との遭遇まで幅広く証言を集めて分類したものがありますが、やはり宇宙人との直接コンタクトの証言はインパクトがあって興味深いですね。宇宙人と呼ばれている存在が、ほんとうに外宇宙からの使者なのかどうかはさておき、そのような出所不明の謎めいた知的生物が地球のどこかに平然と暮らし、時折人間とコンタクトしている、と考えるととてつもないロマンを感じます。

プロジェクト・ブルーブック(※米国空軍に実在したUFO調査機関の名称)が、夜間の発行物体、空飛ぶ円盤、第一種と第二種の接近遭遇のどの場合にせよ、「信用ある目撃者の語る信じがたい話」をまじめにとりあつかうのを拒否しているのだから、生物≠フ存在をともなうUFO目撃事例、つまり第三種接近遭遇を邪険にあつかったとしても、なんの不思議もない。空飛ぶ円盤≠フ目撃より、生物≠ニの遭遇のほうが認めがたいのは、どうしてなのだろうか?ひとたびわれわれ以外の生物の存在をあえて認めれば、まず競争と敵対関係が怖いだけでなく、未知の存在に対する恐怖の深淵に直面せざるをえないからだろう。p196

『ハイネック博士の未知との遭遇レポート』J・アレン・ハイネック著 青木榮一訳 二見書房 1978年


UFOを単に好奇な珍現象としてだけでなく、真面目な研究対象として確立させたのはハイネック博士の大いなる貢献で、1967年に米国テキサス州に発足した世界最大のUFO研究団体「MUFON(ムーフォン)」でも、ハイネック博士の分類に準じて資料を集めているようです。MUFONは民間団体であり、また調査員も研究員も基本的にUFO肯定派ですから、真偽がグレーのものはシロとして扱ってしまう側面はありますが、それなりに精査して資料を収集しているので捨て置けない情報も多く眠っているようです。このMUFONという組織自体にスポットを当ててUFO問題をマニアックに紹介した米国の番組が上記でも触れた『HANGAR 1 〜UFOファイルが眠る場所〜』というシリーズで、毎回興味深い切り口でUFO問題を紹介していくとても面白い番組でした。UFOに興味のある人には機会があればぜひ全話視聴をお勧めしたいです。




 第三種接近遭遇(=宇宙人との接触)

オカルト好きで有名な音楽家の細野晴臣氏は、昔の雑誌の記事で『ムー』と『UFOと宇宙』を愛読していることが書かれていて、『ムー』は知ってましたが、『UFOと宇宙』という雑誌がどんなものなのか気になっていました。『UFOと宇宙』というと、子供の頃、親戚のお兄さんの本棚にUFO関係の本といっしょに挟まっていたのを覚えているくらいで、よほどコアなUFOマニアが読む雑誌なのだろうという漠然とした印象だけがあったのですが、最近古本市で安価で大量に見かける機会が何度かあり、思いきって何冊かゲットしてみました。

『UFOと宇宙』(14 隔月刊 1975年10月号 ユニバース出版社)には表紙に「特別取材」という煽りで「円盤をよく見る人」という大いにソソるタイトルが書かれており、ものすごく気になったので入手してみました。記事の内容は、イラストレーターの池田雅行氏による詳細な目撃事例がメインで、ものすごい至近距離でのスリリングな目撃事例や詳しい図解などが興味深く紹介されており、またそれだけでなく、第三種接近遭遇、つまり宇宙人との遭遇体験まで含む驚くべき内容で、「信じる気マンマン」の体制で読んでいた私もにわかには信じがたい内容でした。しかしながら、UFO問題でもっとも面白いのがこの第三種接近遭遇の事例であります。そうした事が実際にこの世界では知らない所でちょくちょく起こっているのかもしれない、という気分に浸るのは楽しいです。そうして第三種接近遭遇の事例として宇宙人コンタクティの体験談などに関心が芽生え、関連情報を集めていくうちに、宇宙人とのコンタクトというのは、一般に考えられているほどトンデモでもなく、妄想でもないのではないんではないか?という気分になってきました。UFO問題は、この第三種接近遭遇の事例を受け入れるかどうかがターニングポイントで、ここを超えると一般に真性ビリーバーとして映ってしまうことは避けがたくなってきますが、同時にここを避けて通るとUFO問題の本質に触れることはできませんから、このラインを超えて信じるのはそれなりに勇気のいる決断です。

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UFO専門誌『UFOと宇宙』(右・No.43 1979年2月号、左・No.14 1975年10月号 ユニバース出版社)

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『UFOと宇宙』No.14に掲載されたUFOコンタクティーを紹介する記事。UFOを至近距離で目視したり、新宿駅で宇宙人と遭ったりと、かなりディープなコンタクティーであります。ここまでくるとなかなか信じられないレベルの体験ですが、逆にもっとあいまいで不確かな体験であれば信じるのか?というと、それはそれで疑いの余地がでてきますから、信じるかどうかよりも、まずはありうるかもしれないひとつのファンタジーとして楽しんでしまうのもひとつのスタンスなのかもしれません。

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上記の記事にあるUFOスケッチ部分と目撃情報の図解。ここまで至近距離でUFOを見れたら面白いでしょうね。でも実際にこういう場面に出くわしたら、楽しいというより、怖いかもしれないですね。

UFOとの接近遭遇は、第一種、第二種と進むにつれて信憑性が疑われる度合いが高くなり、第三種、つまり宇宙人などUFO搭乗員との遭遇に至ってはUFOマニアですら意見の別れる事が多く、一般にはほとんどデマ扱いになってしまうのが現状だと感じます。私も、懐疑的であった時期ですら目撃談くらいなら誤認の可能性もありますから真偽は別にして変な飛行物体を目撃することは「ありうる」と思っていました。しかし「宇宙人とコミュニケーションした」とか「UFOに乗って宇宙を旅した」とかいうレベルになると、妄想か虚言のどちらかであるとしか思えませんでした。でも、もしUFOが地球製の物体でないなら、中の人も地球人でない可能性のほうが高いのですから、UFOを目撃するのも宇宙人と話すのもいっしょのようにも思えますし、信じた方が面白いというのもあって、今では、第三種接近遭遇にすごく興味がわいてるところです。

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雑誌『[荒俣宏・責任編集]ボーダーランド』1997年4月号 角川春樹事務所

第三種接近遭遇へ興味がわいたきっかけはたまたま雑誌『ボーダーランド』で横尾忠則氏が語った宇宙人とのコンタクト体験談を読んだことでした。横尾さんといえば、グラフィックデザイナーの時代からオカルト全般に興味を持っていたことで知られますが、横尾さんは芸術家であって荒俣宏のような学者ではないので、オカルトへの距離感がなく、浮き輪の無い状態でオカルト世界を潜水している感じで、横尾さんのオカルトの話はとても直接的でリアルなところが荒俣先生とはまた違った面白さがあって好きです。横尾さんの宇宙人コンタクト体験は、チャネラー(宇宙人や天使や守護霊など、異次元的な存在とコンタクトする人)を通したりするコンタクトの他に、ドリームコンタクト(夢の中で異次元的な存在、霊的な存在とコンタクトすること)がメインだそうです。ただの夢と断じる意見もあると思いますが、ルドルフ・シュタイナーのいうように神秘学的には、夢は単なる脳の生理的な現象ではなく、実在するアストラル界(幽界。霊界と物質界の中間の世界)であるとされています。

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『私と直感と宇宙人』横尾忠則著 文春文庫 1997年
UFOを呼び出すだけにとどまらず、宇宙人との直接コンタクトまで頻繁に行う横尾さんの、相当にディープなコンタクティーとしての側面が垣間見える奇書。


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『優しい宇宙人』秋山眞人・坂本貢一著 求龍堂 2000年
テレビなどでもお馴染みの日本オカルト界の古株、秋山さんの宇宙人とのこれまたディープなコンタクト体験が綴られています。UFOに乗せてもらったり、UFOを操縦させてもらったりという、2百回を越える驚愕の超常体験が次々と語られていきます。と学会の『トンデモ本』シリーズでも取り上げられてましたが、そこでは過剰に思えるようなバッシングをされていて、同意しにくい批判内容でした。秋山氏の容姿を馬鹿にしたり、内容が突飛だから嘘に決まってる的な安直な批判はいただけません。初期のと学会はオカルトを茶化しながらもきちんと論理性をもった批判をしていて安易な中傷は少なかった印象がありますが、後に会長の山本弘さんが脱会したりなど、いろいろトラブルがあったようで、と学会の後期の本はとりあげる本の批評にも少し問題があったように感じます。とはいえ、横尾さんや秋山さんの体験は、理性的なUFO研究家なら退けてしまいそうなぶっとんだ話であるのも事実ではあります。しかしそうしたマトモな常識とやらに揺さぶりをかけてくれる快感もまたあって、私はそうした話を応援したい気持ちがあります。この本も、一方ではトンデモ扱いされながらも、ディープなオカルトファンにはひそかに支持されている本でもあり、古書相場はけっこう高値で取り引きされているレア本だったりもします。


調べていくと、宇宙人コンタクティは思ったより希少でもなく、現代でも、世界中に、また日本にも意外に多くのコンタクティが存在しているみたいで、だんだんと第三種接近遭遇という未知の領域への敷居も低く感じられてきます。第一種、第二種の接近遭遇は、目撃や痕跡など、未知の存在との間接的な遭遇ですが、第三種になると直接的で個人的な体験で、体験という圧倒的なリアリズムの凄みがあり、すべてのコンタクティが事実を証言してるとはさすがに思いませんが、中には真実の体験もあると思いたいですね。

映画やドラマでは、宇宙人は地球を侵略するためにやってきたという設定で描かれる場合がけっこうありますが、米国のサイエンス系の番組でお馴染みのNY市立大学のミチオ・カク教授(理論物理学)は、宇宙人が地球に来ているのだとしたら、彼らはおおむね平和的であるはずだという発言をしたそうです。地球外惑星から地球に来れるほどの科学力ということは、彼らは地球人より軽く数百、あるいは数千年は進んだ文明をもっているはずであり、それだけ長い事文明を維持できたのなら、戦争や犯罪や宗教や差別などの様々な問題はとっくに解決しているはずだというのが根拠で、なるほど科学者らしい合理的な推理だなぁと思いました。たしかに、無駄な争い事が繰り返されていたら、なかなか文明の維持は難しいでしょうし、みんなが協力する社会なら、あらゆる学問や技術が飛躍的に発展していくでしょうね。

ふと思い出すのは「人間だもの」で大ブレイクした相田みつをさんの言葉です。彼の言葉で一番感銘を受けたのは「うばい合えば足らぬ わけ合えばあまる」です。これほど人間社会の矛盾を端的に突いた言葉はないですね。この世のあらゆる問題の多く、エネルギー、お金、食料などは、奪い合って足りなくなることで人を不幸にしますが、そのどれもが実は「分け合えば余る」ようなものばかりです。人が人を疑えば、奪うことでしか得られない世界ができますが、人と人が信じあえるならば、分け合ってみんながいっぺんに幸せになれる世界が生まれるのかもしれませんね。

メモ参考サイト
相田みつを「わけ合えば」(相田みつを美術館様)



 赤瀬川原平とUFO

赤瀬川原平といえば、ユーモラスで哲学的な、四畳半シュルレアリスムというか、庶民派前衛芸術家ともでもいうべきか、とても個性的でありながら親しみを感じる独特の表現で昭和を駆け抜けた天才ですが、彼もまたUFOに見入られたひとりでした。UFOというと、宇宙ロマンな存在で、ブームのきっかけはアメリカからの舶来のものですから、なんとなく原平さんの世界とは違和感があるような気がしてましたが、実際に著書『円盤伝説』のページを開いていくと、さすがのUFOも原平さんの世界観に引きずられて、畳の空間が似合う物体になっていて面白いです。日本のごく平凡な庶民の暮らしの中から深遠な哲学的な謎を掘り起こすような独特の原平さんの目線がUFOの考察に独自の切り口を見せていて興味深かったです。

『円盤伝説』は、著者の赤瀬川原平さん本人を主人公に、UFOをお馴染みの哲学的なユーモアで考察していく漫画イラスト集です。絵もシュルレアリスム的で面白いですが、考察の内容も面白いです。第1話の「円盤からの手紙」の中で、UFOの運転手から聞かされるUFOの真実がユニークです。

「そうですよ。この円盤には足がない。だからフワフワ飛ぶんです。だから空飛ぶ円盤なんて実際には存在しないんです。エンジンの音なんて聞こえなかったでしょ?」
「はァ、私もヘンだとは思ったんですが……」
「エンジンがあるとああいうふうにフワフワとは飛べないんです。人間だってそうでしょう。足があればどうしてもエッチラ、オッチラ歩くことになる。足があるのに幽霊みたいにフワフワ飛ぶことなんて出来ませんよ」
p22

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赤瀬川原平著『円盤伝説』 青林堂 1989年


円盤から降りてきた運転手の幽霊が、自分が操縦しているUFOもまた幽霊、つまり霊的なモノだと証言しているくだりです。お話はフィクションではありますが、なかなか興味深い説です。UFOは現実的な物質で出来ているのではなく、そもそもこの物質世界のマテリアルが材料なのではなく、霊的な、別の次元の物体であるということです。この本は、1978年に青林堂から『虚構の神々 超科学紙芝居』という題で出た作品の改題復刻版です。このユニークなUFO幽霊説は、実はあの日本SF界の第一人者、星新一も同じ考えを常々漏らしていたようです。

 敬愛するSF界の大先輩、星新一さんは、私の顔を見るたびに、同じ質問をする。「ねえ、UFOの正体わかった?」そして判で押したように、こうつけ加えるのである。「ぼくはUFOは宇宙から来るのではなく、幽霊だと思うんだがね」
 星さんが隠れたUFOファンであることは知る人ぞ知るだが、べつに専門的データを集めて研究しているわけではない。恐らく作家としての直感からそう言われるのだろうが、案外それがUFO現象の本質を言い当てているのではないかと、いつも内心ぎくりとさせられる。

「UFOは本当に宇宙から来るのか」南山宏 (『月刊ポエム』8月号「特集=星の詩学」 すばる書房 1977年)



UFO現象を正体不明の物理現象としてではなく、そもそもその現象自体が物理的なものではなく幽霊のような心的な現象なのではないか、という星新一の推察は、けっこう鋭いものだと思います。というのは、UFOの目撃も、たまたま目撃するケースだけでなく、頻繁に目撃する人もおり、そういう人は多くの場合、受動的に偶然多く目撃できているのではなく、積極的にUFOが現れるようにテレパシーを送り、かつて流行ったUFO呼びかけの呪文「ベントラ、ベントラ」みたいにUFOを自覚的に呼び寄せるという方法をとるケースもよくあり、もしUFOが人間が念じるとそれに応えてやってくるのであれば、物理現象というより心の関係する領域の現象としてUFOを考えてみるのも有効であるように思えます。深層意識が空に投影されたものがUFOである、というユングの仮説も、またそうした「呼びかけに応えるUFO」を解釈する仮説のひとつだと思います。



 思念とUFO

精神分析学の巨人、ユングもUFOは人間の無意識が空に投影されたものだという風変わりな考察をしていました。

魂はプラトンの「世界霊魂」になぞらえて球形と考えられていたが、現代人の夢の中にも同じシンボルを見ることができる。この古いシンボルの起源をさかのぼれば、すべての「イデア」が貯えられているプラトンの「天外の清浄界」という宇宙空間にまで達するだろう。したがってUFOを単純に「魂」と解釈して一向にさしつかえない。もちろんUFOが現代風に理解された魂というのではない。そうではなく、ある無意識内容、つまい個人の全一性を表す「円環 rotundum」の、自然発生的な元型的、神話的なイメージなのである。p34-35

第二次世界大戦以後、とくに頻繁に現われているようだが、それは共時的現象、つまり意味上の一致であると考えられる。人類の心的状態と物理的現実としてのUFO現象のあいだには、たがいになんの因果関係も認めれない。両者は意味において一致して見えるのである。その意味による結びつきは、一方では投影によって、他方では投影された意味に都合のよい円形や円筒状という、古来対立物の統一を表す形によって生じたものにほかならない。p196

『空飛ぶ円盤』C・G・ユング著 松代洋一訳 朝日出版社(エピステーメー叢書)1976年


文中に出てくる「共時的現象」というのは、今や一般的な名詞に昇格した感のある「シンクロニシティ(synchronicity)」の和訳です。よく例に使われるのは、「久しく会ってない友人のことを思い出していたら、偶然その当の友人から電話がかかってきた」というようなものです。昔の友人の記憶を思い出すことと、その友人から電話が来ることは、合理的な因果関係は存在しないはずなのに、ふたつの事象には偶然で片付けがたい意味的に共通する一致点がある場合に、そうした事象をシンクロニシティ(共時性)とユングは命名しました。凡人ならふつうは単なる偶然として見過ごしがちな現象に着目して研究対象にしてしまうところにユングの並々ならぬ非凡さを感じますね。

ユングの言う、UFOを物理的存在としてでなく、心的な、あるいは霊的な存在として解釈する説はメジャーではないものの、少なからずあるようで、コリン・ウィルソンが著書『ミステリーズ』の中で、科学者でUFO研究家のトマス・ベアデンの奇妙な説を紹介しています。

個人の無意識は物質世界に直接影響を与えることがある。ポルターガイスト現象、サイコキネシスがその直接的な例である。集合的無意識は個人的無意識よりはるかに強力であり、適切な条件のもとでは思念の形を直接具体化できる。それは物体かもしれないし、生物のことすらある。現われ出てくる思念の形(タルパ)は集合的無意識の中の元型として出発し、実体化する途上で通過しなければならない無意識の比較的浅い層によってしだいに変容され、形成されていく。UFO、妖精、天使、サスカッチ、ネス湖の怪獣等は、このようにして無意識のタルパが物質化したものである。つまり、それらは人類の「夢」なのだ。───トマス・ベアデン

『ミステリーズ』コリン・ウィルソン著 工作舎 1987年



トマス・ベアデンなる人物は、もっぱら疑似科学として有名な謎の電磁波「スカラー波」の提唱者といううさん臭いところがある人ですが、それゆえに直球のオカルトな説を唱えていて、この論は仮説としてはけっこう面白いと思いました。タルパというのは最近はネットでも見かける単語になりましたが、元はチベット密教の奥義にある秘術のようで、精神の力で人工的に人間や動物などの生命体を物質化させたものを指します。術者の力が弱いと、術者本人にしか見えない淡い存在しか生み出せないですが、達人になると他人にも見えるレベルで物質化できるみたいです。これは中国の道教の秘法、仙道でも「出神」といって、自らの氣を練りあげることで人間や動物などの形をとった僕(しもべ、式神)を生み出す術がありますし、西洋魔術でも錬金術師のパラケルススや魔術師のアレイスター・クロウリーがホムンクルスと呼ばれる人工生命体の生成に成功したという伝説がありますから、そうした秘術は洋の東西を問わず古(いにしえ)から秘伝として存在したのでしょうね。誰しもが寝てる時に見る「夢」では、実在するようにしか見えない人間や世界そのものをいつも当たり前のように生み出しているわけですから、現実世界にタルパを生み出すようなパワーが人間に秘められていてもおかしくないように私は思います。実際タルパの生成に成功した現代人の体験談はネットを検索するとけっこう出てきますし、チャレンジすれば意外にそれほど難しいものではないのかもしれません。UFOも、そうしたタルパ的な存在であるという説も、赤瀬川原平や星新一の幽霊説と同様、いわばUFOを物質面ではなく唯心論的な視点から解釈したもので、意外に真相に近い説なのではないか、と思います。

空は、ある意味人間の無意識を象徴する空間≠ナ、普段の日常の目線で見る街や人などの有限の世界(=理性、有限の象徴的世界)と対になったものであると解釈することもできると思います。学校、会社、自宅など、日常で経験する目線の世界を毎日9割がた眺めて生活していますが、目線を空に向けるだけで、その何万倍も広大な無限の空間にいつでもアクセスできるわけで、それは当たり前のようでいて、よく考えてみると底知れない不思議さを感じます。よく、大海に浮かぶ浮き島の水面から上の見える部分が理性(顕在意識)で、その下の9割がた水面下に沈んでいる部分が無意識(潜在意識)だという例えを聞きますが、空もまたそうした無意識が現出したものであるのだとしたら、理性を超えた部分を担当している「空」に人間の思念が物質化してUFOとなって飛んでいるという考えは、意外にしっくりくるところがありますね。UFOコンタクティーの人や、UFO目撃者の多くが、UFOを念じて呼んだり、UFOに「まだ消えないで」と心で願うとそれに応えてくれたりするという話をよく聞きますが、そのように、UFOが人の精神に感応するのは、UFOの真相に、何らかの形で「心」が深くかかわっているのかもしれませんね。
posted by 八竹彗月 at 23:59| Comment(3) | 宇宙

2016年10月30日

北斗七星

史記天官書(しきてんかんしょ)によれば中宮は天極星なりとあり。これ北極星にして天帝と称し、その周囲にある星は皆天帝を守るもので、これらを総称して紫宮(しきゅう)というのであるが、紫宮の外側にあって警戒の任にあるのが北斗七星である。これを北極紫微宮(ほっきょくしびきゅう)というので、天の朝廷で各星は皆官職に見立ててある。これら各星の変化が国家人類に影響すること大なるので、支那では天変の有無はよく調べたものである。
────(中略)────
人間は皆、前世においては天の五帝の子で、北斗の諸星(しょせい)から財物を受け得てこの世に生まれ来たもので、いずれも五帝の気を受けたものである。五帝は木火土金水の徳を備えたもので、人間は皆この徳を受けているものであるというにあるらしい。

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『三世相運勢鑑』龍澤慎作:著 誠文堂 昭和3年(1928年) p28


ここ数年、北斗七星に惹かれています。宇宙に関心が湧いて来た関係で興味がでてきた星座(正確にはおおぐま座を構成する一部であり星座ではないのですが)です。何か強烈な神秘を感じるので、時折北斗七星について調べたりしています。北斗七星は柄杓の形に例えられるように、名前も柄杓を意味する「斗」の文字がはいっています。北斗七星というと大ヒットした漫画『北斗の拳』が思い浮かびますが、そちら系からの関心ではなく、オカルティズム的な面での関心があります。しかし、あらためて『北斗の拳』で言及されている北斗七星について思い返してみると、意外に古代の星辰伝説に基づいた根拠のあるものだということに気づかされます。

漫画では、主人公ケンシロウが使う拳法の流派「北斗神拳」、それと対をなすような「南斗聖拳」のふたつの流派がでてきます。以下にもご紹介する中国の星辰伝説『生の星と死の星』でも、北斗七星は死をつかさどり、南斗六星は命をつかさどる、という説がでてきますが、漫画でも北斗と南斗は陰陽の関係で対比されてますね。北斗七星の柄の端から二番目の二等星ミザールの傍にあるアルコルは見る時期によって明るさが変化する変光星という特殊な星で、肉眼で見えたり見えなかったりすることから、「見えると死ぬ」とか、逆に「見えないと死ぬ」とかいう迷惑至極な迷信があったそうですが、『北斗の拳』でも、見えると死や敗北を意味する不吉な星「死兆星」というのが出てきます。漫画では北斗七星を構成する星ではなく、北斗七星の側で輝く青い星として登場するみたいですが、多分そうした伝説を元にした設定でしょうね。と、まぁ、そんな感じで、今回は、そうした北斗七星への個人的な関心を軸にして、中国神話で描かれる摩訶不思議で諸星大二郎チックな星辰伝説をいくつかご紹介していきます。

北斗と豚

 唐の開元(かいげん)といった時代に、一行(いちぎょ)上人という高僧があった。天文や暦の学者である上に、仙人となる術にも通じていたので、時の天子玄宗(玄宗=唐の第9代皇帝)もたいそう敬われて、天師という号をもさずけられていた。
 ある時、一行が住んでいた渾天寺(こんてんじ)という大寺へ、ひとりの老婆が訪ねて来た。王婆という名で、一行が貧しかった頃、たいそう親切にしてくれた人なので、喜んで迎え入れると、「せがれが、人殺しのお疑いを受けて裁判が長引いています。どうぞお上人のお力で助かるようにしてくだされ」との頼みである。一行も、これには困って、「国のおきては、わしが口添えしたとて、とても曲げさすことはできぬ」と断った。老婆はすっかり失望して、「情け知らず。恩知らずの坊主め」などとののしって帰っていった。

 そのあとで、一行はしばらく考えこんでいたが、やがて寺の一室に、大きなかめをすえさせて、それから二人の寺男を呼び、「この町の向こうの角に、荒れ果てた庭がある。そこへ出かけて、隠れていよ。すると、昼から日の暮れまでの間に、やってくるものがあるから、頭からこれをかぶせて、ひとつ残らず捕らえてくるのじゃ」といって、大きな布袋を渡した。
 寺男が、いいつけどおり、荒れ庭へ行って隠れていると、果たしてどこからともなく、異様なものが七匹入り込んできたので、すかさず布袋をかぶせた。中からは、ぶうぶう豚のなく声が聞こえた。引きずって寺に帰ると、一行は七匹とも用意の大がめの中へ押し込めて、木蓋をかぶせ、どろで封じてしまった。

 明くる朝、玄宗の使いがあわててやって来て、至急のお召しでござると伝えた。御殿へ上ると、玄宗は心配そうに、「天文博士の申し出たのでは、北斗七星が昨夜にわかに見えなくなったとのこと。何か不吉な知らせではあるまいか」と言われた。
 一行は衣の袖をかき合わせて、「それは由々しき一大事でござる。昔、魏(ぎ)の時代に、けいわく星(火星)が消え失せたという話はござるが、北斗七星が消え失せたとおは聞き及ばぬ天変。おそらく、人を殺したという無実の罪で、お裁きが暇取っておる者があり、そして、それを天帝(=神)が怒られておるに相違ございませぬ」と答えた。
 玄宗は驚いて、早速王婆のせがれを牢屋から放たせた。一行は渾天寺に帰ると、すぐ大がめの封を取りのけた。豚は一匹一匹と飛び出して、空へ登って行った。
 その夜、天文博士が、御殿へまかり出て、「ただいま、北斗七星がひとつ、空にあらわれました」と申し上げた。玄宗はほッとして、「ありがたや、天帝のお心がとけはじめたと見ゆる」といった。
 それから、毎夜ひとつづつ北斗の数が増して、ついに七つの星が出そろい、玄宗もようやく安心した。

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『星の神話・伝説』野尻抱影:著 白鳥社 昭和23年(1948年)


一行は、夜空に昇って輝く前、昼間の北斗七星は、豚の姿になって下界で遊んでいることを知っていて、その居場所までも何かの秘術で知り得たのでしょうか。それとも、直接に北斗七星を豚に変えてしまう術を使ったのでしょうか。どちらにしても、一行上人の術は星すら下界の俗世に現出させるわけですから、そうとうに強力な仙術ですね。

この不思議な伝説には実在した皇帝、玄宗が登場するところなど、嘘か誠か判然としない独特のムードが楽しいですね。玄宗皇帝は唐代の名君でしたが、後年あの絶世の美女にして稀代の悪女、楊貴妃を溺愛して国を乱すこととなりました。諸星大二郎の『諸怪志異』シリーズの第1巻『異界録』に収録されている「幽山秘記」は、この玄宗と楊貴妃の運命的な出会いをテーマにした見事な小品で、好きなエピソードです。漫画は、ふたりが出会う百年前に起きた不思議なエピソードを描いていて、神仙が身近な存在であるかのような古代中国の悠然とした空気感を見事に表現しています。

三国志でも死期を悟った諸葛孔明が北斗七星を祀ることで延命を図るというシーンがあります。北斗七星は、死をつかさどるというネガティブな見方もされてきた反面、同時に人間界の栄華盛衰を操るそのパワーはあらゆるアクシデントを防ぐ力があるとされ、その力にあやかるために熱心に祀られてきたりもしたようです。中国の伝説でも、北斗七星についての評価はまちまちで、南斗六星との対比では陰の役割を果たしますが、単体では天帝(神)の乗物に見立てられたりもしてます。また、先にご紹介した神話『北斗と豚』にあるように、豚に例えられる例もあります。

これはこの神話だけに唐突に出てくるアイデアではなく、宋の時代にいた徐武功(じょむこう)という北斗七星を信仰している男が、北斗信仰のために豚を一切食することはなかったという伝説を野尻抱影が『星の神話・伝説』の中で紹介していました。伝説の内容はこうです。ある時、徐武功は冤罪で法廷に引き出され、いよいよ死刑判決がくだろうとするやいなやいきなり雲行きが変わり豪雨になり雷鳴が鳴り響いたそうです。法廷にはどこからともなく七匹の豚が現われ、不当な裁判を糾弾するかのように法廷前に一斉にうずくまったとのことで、それが原因で徐は無罪放免となった、とのことです。日頃の信心のおかげで、北斗七星の化身である七匹の豚によって命を救われた、というお話です。

中国の北斗七星信仰は日本にも伝わり、京都大覚寺の勅使門には北斗七星が刻まれています。これを祀ると天災地変を未然に防ぐことができる、とされていて、厄除けの星々として信仰されてきたようです。中国の北斗七星信仰などの星辰信仰が日本に伝わったのはかなり古い時代で、聖徳太子所用とされる国宝「七星剣」(大阪、四天王寺蔵)などからも、その影響がうかがえます。七星剣は名前のとおり北斗七星の意匠を取り入れた刀剣で、中国の道教思想に基づき破邪のパワーが宿っているとされているようです。

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江戸時代につくられた木彫りの北斗七星。京都、本覚寺、勅使門の蟇股(かえるまた)

七人の和尚

太宗(たいそう。北宋の第2代皇帝。976〜997年在位)の時代に、七人の和尚が、どこからともなく西京に現われて、酒を飲み歩くこと二石(にこく。約360リットル)に及んだ。同時に北斗七星が空から光を消したので、さてそこの七人は北斗の精に違いないと、太宗が召して酒を飲ませようとしたが、たちまち姿を隠してしまい、その夜から再び北斗が輝き出たという伝説もある。
 こういうふうに、中国には、星が人になったり、動物になったりする伝説は珍しくない。有名な水滸伝の百八人の豪傑が、伏魔殿を破って八方へ飛び散ったのは、天こう星、地さつ星の生まれ変わりとなっているが、これも北斗七星のことである。

『星の神話・伝説』野尻抱影:著 白鳥社 昭和23年(1948年)



神話などでは、自然の事物万象がしばしば擬人化されますが、ユング的に解釈すれば、人間の内面ではさなざまな外的な事物が個人的な意味を付加されて無意識に溜め込まれますし、逆に言えば、日常で出会うリアルな他人すらも、それを目撃した時点で内面では私的に意味付けされた象徴的な存在に置き換わるわけです。なので、見方を変えれば、現実世界で出会う人も、神話の世界と同様に、実は個人的に意味のある象徴であり、なにかの概念や理想が擬人化された存在である、ともいえると思います。そういう観点でみれば、現実世界では、神話のように誰かが「私は○○の化身である」などという種明をしたりしない世界というだけで、実体は神話と同様に、様々な象徴や概念が形をとって人やモノとして存在している世界でもあるような気がしてきますね。次に紹介する神話『生の星と死の星』でも運命を象徴する北斗七星や南斗六星の化身としていかつい大男たちがあらわれます。

生の星と死の星

 昔、管輅(かんろ)という人があった。彼はいろんな術に通じて、過去のことでも未来のことでも、はっきりと知ることができるのであった。
 五月のある日、南陽の野原を歩いていると、一人の少年が、田の中で麦を刈っているのを見た。管輅は少年の顔を見ると、思わず悲しそうな吐息をして通り過ぎた。
 少年はそれを怪しんで、管輅に声をかけて、「どうしてあなたは、そんな悲しそうな吐息をおつきになるのです」と尋ねた。管輅は少年の姓名を聞いた。少年が、「姓は趙(ちょう)、名は顔(がん)と申します」と答えると、管輅は言葉を続けて、「実はお前さんは二十歳をこえないうちに死ぬことになっておるのだよ。それが気の毒で、覚えず吐息をついたのじゃ」と言った。これを聞くと、趙顔はおどろき恐れて、たちまち管輅の足下に身を投げながら、「それは大変でございます。どうかわたくしの命をお助けください」と、ひたすら哀願した。しかし管輅は、「いや、気の毒じゃが、人間の寿命は、天のつかさどるところで、わしの手ではどうにもならぬのじゃ」と言い捨てて立ち去った。

 趙顔は、身も世もあらぬ気持ちになって、大急ぎで家に駆け戻った。そして父にそのことを話すと、父も非常に驚き悲しんで、「それは本当に一大事じゃ。そうしてもその方にお願いするよりほかはない」と言って、わが子といっしょに馬に乗って管輅の後を追っかけた。十里(=中国里での換算で約5km)ばかり駆け続けると、やっと管輅に追いついた。親子は馬から飛び降りて、彼を伏し拝んで、一所懸命に命を長くしてくださいと願った。
 管輅はとうとう可哀さに負けて、「それでは、家に帰って清酒を一樽と、鹿の肉を一斤ほど用意して置いて貰いたい。そしたら卯(う)の日にわしが訪ねて来て、なんとか工夫をしてみるから」と言った。親子は非常に喜んで、すぐに家に帰って、言いつけられた通りの支度をして、ひたすら管輅が来るのを待ちわびていた。
 卯(う)の日になると、管輅がやって来た。そして趙顔にむかって、「お前さんが麦を刈っていたところの南に、大きな桑の樹があって、その下で二人の男が碁をうっている。で、お前さんは、そっとその側に歩み寄って、酒を杯についで、肉を並べておくのじゃ。そしたら二人は、その酒を飲んで肉を食べるだろう。杯の酒がなくなったら、またついでおくがいい。そのうちに二人が、お前さんのいるのに気がついて、何物じゃ、何しに来たと尋ねるに違いない。その時お前さんは、口をきいてはいけない。ただ黙ってお辞儀をしていなくてはならぬ」と教えてくれた。

 趙顔は教わった通りに、大きな桑の樹のところに行ってみると、果たして二人の男がその下で碁をうっていた。趙顔は静かにその側に歩み寄って、鹿の肉を並べ、酒を杯についだ。二人の男は、碁に夢中になっていたので、趙顔がやって来たことにも、酒肴を並べ立てたことにも、まるで気がつかなかった。しかし酒があり肴があるのは目についているので、誰が持って来たかということなどは考えないで、碁をうつ手があきさえすると、杯の酒を飲んでは、鹿の肉を口に詰め込むのであった。趙顔も黙々として、しきりに杯に酒をついだ。
 しばらくすると、一局が終わった。二人の男ははっとわれに返って顔を上げた。と、見知らぬ少年が自分たちの側に立っていたので、北側に座っていた一人が非常に腹を立てて、「お前は何物じゃ。何用があってここに来た?」と叱りつけた。しかし趙顔は、管輅の教えを守って、ただうやうやしくお辞儀をするだけで、なんとも返事をしなかった。

 しばらくすると、南側に座っている男が、北側に座っている男に向かって、「他人の酒を飲み肴を喰らった以上、知らぬ顔をしているわけにもいくまい。なんとかしてお礼を言わなくては、あまりに無情に過ぎるね」と言い出した。北側に座っている男は、これを聞くと、困ったような顔をして、「しかし文書はもう決まってしまって、たやすく改めるわけにはいかぬではないか」と言った。南側に座っている男は、「まぁ、そう言わずに、その文書を貸しておくれ」と言って、北側に座っている男から文書を借りて、ぱらぱらと繰り広げていたが、趙顔の名を記したところに来ると、ぴたりとそこに目をつけた。文書には、趙顔の命は十九歳となっていた。男は、「よし、これを改めることにしよう」と言って、筆を取り上げて、十九をひっくり返して九十にした。趙顔はこれを見て、心の中でしめたと思った。南側に座っていた男は趙顔の方を振り向いて、「お前の命を延ばしてやったよ。九十歳までは大丈夫だよ」と言った。趙顔はもう嬉しくてたまらないので、むやみにお辞儀をして、大急ぎで家に帰って来た。

 管輅は彼からその話を聞くと、「うまくいってよかった。これで安心だろう」と言った。趙顔は、「あの二人の方は一体どなたでございます」と尋ねた。管輅はにこりと笑って、「北側に座っていたのは北斗星で、南側に座っていたのが南斗星じゃ。そして南斗星は生を注し、北斗星は死を注するのじゃ」と語った。
 親子の喜びはひとかたではなかった。そして趙顔の父はやがて絹と金を持ち出して、「おかげさまで、息子の命が助かりました。こんな嬉しいことはございません。これはまことにつまらぬものではございますが、ほんのお礼のしるしにお納めください」と言った。しかし管輅はそれらの品には手も触れないで、飄然として立ち去ってしまった。(『捜神記』)

『中国神話伝説集』松村武雄:編 伊藤清司:解説 現代教養文庫八七五 社会思想社 昭和51年(1976年) p24-29


紙に書かれた文字、「十九」を「九十」にひっくり返すというところが、不思議感をかきたてて面白いです。神的な世界の掟で、寿命文書の文字自体を書き直すのはNGらしいですが、そこですでに書かれた文字を魔法の筆でひっくり返すことによって寿命を延ばしてやった、ということですね。星の化身が持っている筆だけあって、ただ字を書くだけでなく、書かれた字さえ動かしたりできるのでしょう。そういえば和風なビジュアルと世界観が秀逸だったゲーム『大神』では、空間に文字を書くことができる「筆しらべ」という技を使いながら物語を攻略していきますが、そのシュールな絵面を、この神話を読みながらふと思い出しました。

メモ参考サイト
ゲーム「大神」より、森羅万象を操る神業「筆しらべ」の一覧(CAPCOM様)
見たいサムネールを選ぶと不思議な「筆しらべ」の技がムービーで再生されます。

南斗六星は射手座の中に含まれる6つの星で、北斗七星と対をなすように6つの星を繋ぐと柄杓形になります。『生の星と死の星』では、全ての人間の寿命が記載されているノートみたいなものが出てきますが、そういえば水木しげるの短編などでも、こうした人間の寿命を操作する妖怪のような霊的な存在を描いた作品がありますね。近年だと「デスノート」なども連想します。それはそうと、北斗と南斗の精が碁をうっているというシチュエーションが面白いこのお話、諸星大二郎の『諸怪志異』シリーズを読んでいるような気にさせるお話ですが、それもそのはず、『諸怪志異』は清代の『聊齋志異』からだけでなく、このお話が収録された『捜神記』などからもアイデアを得て描かれてます。

そういえば、このお話で北斗の男と南斗の男が碁に興じてましたが、この「碁をうつ」というシチュエーションも、考えてみると意味深です。碁は、白石と黒石を使い方眼状の交差点に石を置いていきますが、これは見た目にも星座のような感じです。碁はただの遊戯というよりも、運命を占う寓意もありそうです。ルールは単純ながら、数学的にみると囲碁はチェスや将棋と較べても格段に複雑だそうで、ウィキペディアによれば「盤面状態の種類は、チェスで10の50乗、シャンチー(象棋)で10の48乗、将棋で10の71乗と見積もられるのに対し、囲碁では10の160乗と見積もられる」とあり、見た目の単純さに似合わずものすごい複雑なゲームのようで、まさに神々の遊びにふさわしい風格を感じたりしてきます。日本でも、かつて相撲は宗教的な神事でしたし、勝ち負けを白星黒星と呼ぶところなど、運命と星の関係性というものを、古くから人間は感じとっていたのかもしれませんね。

上記の中国の伝説でもそうですが、中国神話の特異なところは、多くの神話がそうであるような「むかしむかしあるところに」というアバウトな時代背景ではなく、いつ、どこで、だれが、という明確な設定で書かれているものが多いことですね。神話学者松村武雄氏いわく、「中国には、神話が少ないのに対して、伝説は極めて多い」とのことですが、なるほどと思いました。たしかに神話というよりは伝説、昨今ブームにもなった都市伝説のテイストに近い感触が中国神話の面白さのような気がします。

都市伝説というと、昨今ではMr.都市伝説の関暁夫さんが思い浮かびますが、映画にドラマにと大ヒットした『新耳袋』という怪異集もブームになりました。中国の古典的怪異譚『聊齋志異』など、中国版の『新耳袋』という感じで(むしろ時代的に『新耳袋』のアイデア元、江戸時代に書かれた『耳袋(みみぶくろ)』は『聊齋志異』の影響がありそうです)人々のうわさ話を集めてつくった本です。都市伝説特有の、うさんくさいけどもしかしたら本当にあったかもしれないような、嘘と真実の境のあいまいな、微妙で絶妙なリアリズムが独特で面白いです。『聊齋志異』の場合は、中国らしく、不思議な術を使う仙人や道士が日常に普通に出てくる話が多く、異次元世界を垣間みるようなトリップ感があって楽しいです。

メモ参考サイト
江戸時代の都市伝説集『耳袋』の現代語訳サイト、『耳袋』様
奇妙な話や珍奇なエピソードが満載で面白いです!きちんと構築された物語よりも、このような風変わりな随筆のほうが、江戸時代の空気感をリアルに感じますね。情報網が今ほど発達している時代ではないですが、だからこそ都市伝説の本来の「現実と非現実の狭間」をさまよう異世界感覚あふれる時代でもあったのだと思います。うさん臭い話がまことしやかに街中を闊歩していて、そういう時代では、まさに黄昏時の物陰に妖怪が普通に小豆を研いでいてもおかしくないのだろうなぁ、と感じます。古典という敷居を感じさせるようなものではなく、けっこう惹き込まれる面白い奇談が多ですが、星に関する話では、巻之一(013)の「ちかぼしのこと」や巻之四(011)「木星が月を抜けた狂歌のこと」がありました。

古代中国の数ある不思議伝説の中では、「河図洛書」がとても気に入っているのですが、これもまた、関心の理由を振り返って考えてみれば、魔方陣を数字でなく点を線で結んでいるビジュアルが星座をイメージさせ、ミクロコスモス的な幻想をかき立てるせいなのかなぁ、と思ったりします。そうしてみると、以前サイコロのコレクションにハマったことがありましたが、これも数字を点であらわすビジュアルが星座のイメージと重なります。そう考えて行くと、なんとなく、個人的なマイブームも運命的な気がしてきますが、よくよく考えてみれば、宇宙とは、これすなわち「全て」と同じような意味の存在ですから、最終的に全て宇宙と関係しているように見えるのは、当然といえば当然なのかもしれません。この世界には、宇宙と関係のないモノなどひとつも存在しないわけですから。

私たちは、無意識のうちに、いつもの日常と、天空にひろがる大宇宙が別の次元のもののように感じてますが、鼻をかんだりカラオケを歌ったりするのも今現在この宇宙で起きている確実な現象のひとつであります。そのように、常に私たちは宇宙と関連していることは事実で、昔の人は、そういう感覚がよりリアルだったために、天空の星座と人間世界の運命との対応を理論化して占星術を考え出したりしてたのでしょうね。そういう観点でいえば、占星術というのは「当たるかどうか」以前に、その発想の根底はとても合理的であることが見えてきます。もともと天文学の黎明期は星占いのような側面があり、国や人の栄華盛衰は何らかの形で星に現われているという発想から、星を観測することで運命を知ろうとしていましたが、これは現代人が思うほど突飛なことではないような気がしています。宇宙と人体が無関係なはずはありませんし、私は確実に何らかの照応があると思っていますが、占星術はその照応を正しく把握していないために予測を外すのでしょう。とはいえ、「運命」というものを、文字通り「運任せ」にして諦めず、「運命」もまた人間の手で制御可能な自然現象として扱う古代人の思想はとてもワクワクします。

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「河図洛書」。「周易本義」より
posted by 八竹彗月 at 11:24| Comment(0) | 宇宙

2016年08月22日

宇宙旅行の夢 (2) 火星人襲来!

宇宙ロマンな感じの古本などを紹介しつつ、またアレコレと雑談していこうと思います。今回は人間にとって身近なお隣の惑星、火星を主に語っていこうと思います。


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『宇宙旅行』小学館 昭和47年(1972年) イラスト:中島章作

宇宙関連のイラストは80年代にはエアブラシによる表現が主流になり、写真のような臨場感のある表現が可能になっていきますが、私はむしろこの時代の筆の味わいのあるタッチで描かれる宇宙のほうがレトロフューチャーな感じで好みです。


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同上。 「小惑星ヒダルゴから見た土星」

土星、かっこいいですね。


参考サイト


土星さんが自分の公転軌道を周回するのを止めて、突然地球に向かってやってきたらどう見えるかをシミュレーションした面白い実験動画です。土星の重力の影響とか細かいことは抜きに、土星という巨大な惑星が地球を横切るとどう見えるかというシュールな絵面を楽しむためのものでしょうね。土星の近くを廻っている衛星ミマスから見える土星もなかなか壮大で、これは単なる空想でなく、実際にその場ではありうる景色でしょうから、ますます宇宙旅行の夢は膨らみます。


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同上。 「月世界基地の風景」

この本の発行はアポロ計画での有人月面着陸から3年後の時代ですが、人類初の月面着陸という前代未聞の偉業の興奮がまだ冷めやらないといった時代の空気を感じるイラストですね。


考えてみれば、地球上で唯一人間だけが「宇宙への好奇心」を持つ特異な生物であります。宇宙の謎、人生の謎、形而上学的なものへの関心など、自分や自己の属する種の存続にかかわる知恵とはかけ離れた知識に関する興味を人間だけが持つのは何故か?なぜ人間だけが余計な£m識を求め無駄な″D奇心に突き動かされるのでしょうか? 単純に考えれば生物界では抜きん出た巨大な頭脳がそれを可能にしているわけですが、ここでは他の視点から少し考察してみます。


人間はなぜ無駄な知識を求めるのか? その合理的な理由のひとつには、「生命を脅かす天敵から逃れる」ことと「食料の安定的な確保」という、地球上の全ての生物に共通する最大の難関をほぼクリアできたのが人間だけだからで、それゆえに「すでに重大事項は解決してしまったために余計な文化を発展させる余裕が生まれた」という解釈もあるかと思います。しかし、私はもっと別の理由があるように思っています。


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映画「地球は青かった」広告 『映画情報』国際情報社 昭和37年(1962年)より

ソ連の宇宙船スプートニク1号による地球の周回に成功したのはこの雑誌の発行年の前年で、この時代(1962年)はまだアメリカのアームストロングによる月面着陸より7年前ですから、ガガーリンはまさに前人未到の宇宙へ繰り出した英雄そのものなのでしょう。


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同上。映画「地球は青かった」のレビュー記事。


宇宙への好奇心というのは余計な≠烽フではなく、もし人類にとってとても重要なものであるとしたら、どういう見方ができるでしょうか。人間活動は今や地球の生態系さえ影響を与えるレベルにありますから、別の見方をすれば、「地球という母体から生じた人間という自らの器官によって、地球は自己管理のシステムを構築している」ような気がします。人間の思考や行動は、地球という意識体にとっての意図的な誘導でもあるように思います。宇宙への好奇心もまた、そうした地球意識にとっての関心事なのかもしれません。


とはいえ、宇宙開発は、軍事的利用価値や、気象衛星、カーナビなどのような生活の利便の拡大という側面もありますし、宇宙への好奇心が人間社会に全く寄与しないとは思いません。むしろ古来から人間は宇宙を、航海ではコンパス代わりに、農業では暦のかわりに、政治では予言書のかわりに、とさまざまな用途で利用してきました。そうした意味では、宇宙への好奇心はそもそも余計な≠烽フであるという前提が間違っているという指摘もあると思います。しかし、人間の宇宙への好奇心の一番の理由はそんな微視的なエゴイスティックな価値ではなく、「私という存在が生じた原因は何か?」という謎に対するひとつの有効なアプローチであるから、といえると思います。突き詰めれば、最終的には、その答えを握っているのは宇宙であり、宇宙を知ることなしに本当の意味で自分を知ることも出来ないことに本能的に気づいているからこそ、人は宇宙という究極の謎に魅せられ続けているのではないかと感じます。なぜなら、我々人間は、肉体も精神もすべてこの宇宙にある素材で構成された宇宙存在でありますから、宇宙を知ることは最終的には己を知ることに繋がります。人間は地球の器官であると同時に宇宙の器官でもありますから、もっとマクロな視点では、人間存在は宇宙が宇宙自身を知ろうとする欲求により生じた器官であるともいえます。


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「火星人の饗宴」

『別冊 笑の泉 世界艶笑怪奇読本』笑の泉社 昭和33年(1958年)より

この時代は月どころかまだソ連のスプートニク1号の打ち上げの3年前ですから、宇宙が完全なる未知の世界だった頃ですね。まぁ、今も宇宙に関しては謎だらけですが。この記事では、当時はまだまだ未知の惑星であった火星の様子を想像力豊かに描写したイラストで紹介しています。この雑誌はあくまで娯楽雑誌ですから、当然科学的な考察に基づいたものではありませんが、このようなSF的好奇心にまかせて描かれたうさん臭い記事のほうがむしろ読んでてワクワクしますね。


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以下、パノラマイラストが続きますが、そこに描かれている火星人はトビラの文章によれば、17、8世紀頃に西洋人が想像した様々な火星人の姿をイラストにしたものだそうです。画面中央のステージに見えるタコ形宇宙人は古典的ながら典型的な火星人のイメージですね。火星人=タコ形、というイメージはすでに広く定着していて、吉田戦車さんの『火星田マチ子』『火星ルンバ』もタコ形火星人が活躍するギャグ漫画として思い出されます。火星人=タコ形のイメージのルーツはSFの父、H・G・ウェルズの作品『宇宙戦争』のようです。タコ形はウェルズの独創ではなく、当時の天文学の成果を元にした推論から来ているようですね。


参考サイト



宇宙人の侵略を描いた古典的SFというだけでなく、後にオーソン・ウェルズのラジオ番組でこの小説を放送したところ、本当に火星人が地球に侵略してきたと勘違いした大衆がパニックに陥ったという事件もあり、そうした諸々の経緯がH・G・ウェルズの想像した火星人のイメージが強烈に人類の共同幻想として定着した所以なのでしょう。
(2021/4/30追記 オーソンウェルズによる『火星人襲来』のSF小説のラジオ放送がパニックを起こしたという有名なエピソードですが、後にこの噂の真相を詳細にレポートした研究書によれば、実際にはパニックになったりはしなかったそうです。真相は、当時躍進してきたラジオの登場で報道メディアとしての影響力を危ぶんだ新聞メディアが書いたデマ記事が発端になって広まったものだとのこと。詳しくは以下のリンクを参照してください。
そういえば、一時期けっこう広く信じられていた「百匹目の猿」とか、映画フィルムに細工をするとコーラが飲みたくなるという「映画館のサブリミナル実験」など、文化人もけっこう引用してたような科学的な成果に見えるエピソードもちょっと検索して調べてみれば根拠の無い作り話だったりすることがけっこうありますね。ウィキペディアも間違った事が書かれてる場合もありますし、ブルーバックスなどの比較的信用度のある書籍でもたまにそういうことがあるのでノーミスでものを書くというのは難しいですが、まぁ、面倒でない範囲で気をつけていこうと思います)

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上記のイラストの部分。


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宇宙人というより、ヒエロニムス・ボスの描いた地獄の悪魔たちのような寓意的な姿の宇宙人。左下の小さい宇宙人は妖精風というか、ピクミンっぽくて可愛いですね。


以下に、タコ形宇宙人のイメージの元になったとされるH・G・ウェルズ著『宇宙戦争』の中で、火星人の特徴を説明している箇所を引用してみました。たしかに、この描写通りに挿絵を描くとしたらタコっぽい感じになるのもうなずけますね。


火星人どもはとうてい考えもおよばない、この世のものとはとうてい思われないしろものだった。直径が四フィート(=約1.2メートル)もある、でかいまんまるい胴体──むしろ、頭──をしていて、そのそれぞれの胴体の正面に顔がついていた。顔には鼻の穴がなく──実際、火星人はなんら嗅覚を持たないらしかった。しかし、一対のたいへん大きな黒い目があって、すぐその下に肉ぶとのくちばしのようなものがあった。この頭または胴体といったもの──わたしにはとうていなんというべきかわからないが──の後ろは、ぴんと張った太鼓の皮のような一枚板になっていて、あとで解剖して耳だとわかったが、地球の濃密な大気のなかではほとんど役にたたなかったにちがいない。口のまわりには、十六本の細長いほとんど鞭のような触手がひと群れになって生えていて、それぞれ八本づつのふたつの束になって並んでいた。それらの束は、あの著名な解剖学者ハウズ教授によって、以後、適切にも手≠ニ命名された。わたしがはじめて火星人を見たとき、彼らはその手を使ってある程度楽々と動きまわれるものと想像していい理由があった。
(略)
人間から見ると不思議に思えるかも知らないが、われわれのからだで大きな部分を占めている複雑な消化器官は、火星人には存在しなかった。彼らは頭であり──常に頭だけだった。内蔵というものはまるでないのである。(p173~174)

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『宇宙戦争』H・G・ウェルズ 井上勇:訳 創元推理文庫 1969年


上記の「火星人の饗宴」のトビラの画像中にある文章にオカルト界の巨人、スウェデンボルグの名前があがっていて、記事に微妙にマニアックなこだわりが感じられますね。エマニュエル・スウェデンボルグ(1688〜1772年)は、生前はダビンチと並び称されるほどの天才的な学者として尊敬を集めていましたが、晩年に著された『霊界日記』が注目されるにあたって、その後の評価はガラリと変わり、学者としての功績よりはオカルティストとして周知され、賛否の別れる奇人めいた印象がついてまわることに。しかし、彼の霊界探訪はそれまでのオカルティズムになかった斬新な視点で描かれており、その思想的な背景を含めて、その後のオカルティズム、主に心霊主義に決定的な影響を与えました。丹羽哲郎の霊界の概念もほぼスウェデンボルグの見聞した霊界の構造を元にしてますし、ほぼ全てのオカルト関係で言及される霊界の概念はスウェデンボルグの霊界見聞記の影響下にあるように感じます。また、メジャーなところでは、彼の思想は後年ヘレン・ケラーの心の支えとして彼女にかなりの影響を与えました。いろんな意味でただ者でない人物でしたが、ここでは画像の文章で触れられている、スウェデンボルグが「火星人に会った」とされる内容について、少し説明したいと思います。


スウェデンボルグは霊界探訪の人というイメージが強いですが、実は太陽系のほとんどの惑星にも行き来していて、その見聞録も残しています。太陽系惑星のほとんどには地球人と同等以上に進化した精神や文明を持つ住人がいるという彼の話は、一見現代の天文学の基礎的な常識からも外れたもので、反射的に否定してしまいがちですが、よく読んでみると、スウェデンボルグは霊的なレベルにある階層に存在する惑星での体験を記しているのであり、物理的な実在としての惑星を見聞してきたとは一言も書いていません。例えば、火星の「霊」と交流したということを書いているので、いわば、神秘主義の視点で見た宇宙論であります。


火星の霊たちは我々の太陽系の諸々の地球から来ている霊たちの間で最良の者たちである。(略)火星に住む者たちの言葉は我々の地球に住む者の言葉とは異なっており、すなわち、それは調子の高いものではなくて、ほとんど無音であって、内的な聴覚と視覚へ近道をして入り込み、それでそれはさらに完全で、さらに思考の観念に満ちており、かくて霊と天使との言葉にさらに近づいているのである。その言葉の情愛そのものもまた彼らにあってはその顔に表され、その思考は目に表されている。なぜなら思いと言葉とは、また情愛と顔とは、彼らにあってはひとつのものとして働くからである。彼らは考えることと言うことが異なることを、また欲することと顔に表現することとが異なることを極悪のことと考えている。彼らは偽善とは何であるかを知らず、偽りの口実と詐欺との何であるかも知らない。
「火星の地球または遊星、その霊たちと住民」p68〜70より引用

『宇宙間の諸地球』エマニュエル・スウェデンボルグ著 柳瀬芳意訳 静思社刊 昭和33年(1958年)


霊的な視点でみた火星の状況をスウェデンボルグは描き出していますが、にわかには信じがたい内容でもあります。しかしながら、真偽を抜きにすれば、なかなか含蓄に富んだ面白い内容だと思います。現代では、少なくとも太陽系には地球人と同等の知性を持った生物はいないと考えるのが常識になっていますが、もしかしたら、この宇宙は我々の認識できる宇宙だけでなく、人間の五感では感知できない異次元の宇宙も多数重なりあって存在しているのかもしれません。そうした階層の異なった次元にある宇宙では、普通に火星人も金星人も暮らしているのではないでしょうか。いきなり話がぶっ飛んできましたが、まぁ、オカルトを含め精神世界は真偽をあれこれ考えるものではなく、信じるかどうかだけが意味を持つ世界なので、信じたほうが人生が面白くなるなら信じてみたいような気もします。


自分の目で確かめたこと、体験したことだけしか信じない、としてしまうと、この世界はとたんにマッチ箱のような小さい世界になってしまいますし、そもそも自分の見聞を軸にするにしても、それが必ずしも真実を解釈しているとは限りません。思うに、この世界の真実を探求する場合、人間に染み付いた思考法、「正しいか?間違っているか?」という考え方が根本的におかしいのではないか?という気がします。正しいことを求めるのは良いことのように信じられていますが、真理を探究するために人間が手にしている「言葉」や「数学」などのツールが、思っているほど完全な道具ではないことが現代のアカデミックな成果でもあきらかになってきていますし、おそらく、人間は合理主義的発想で究極の真理に到達することは不可能なように感じます。神秘主義は、合理主義では掴みきれないこの世の真理をなんとか掴もうとする非合理的な手段でありますが、非理性的なロジックを多分に含むので、扱いが難しいツールでもあります。しかし、実は人間社会は、合理的な秩序だけでなりたっているものではなく、例えば恋愛感情などは音楽や映画など娯楽芸術の主要なテーマですが、恋愛ほど非合理な感情はありません。人を好きになることは、予測も計算もできないオカルト的な現象です。また、性に対する文化も、生物としての人間にとって最高に興味深いものであるにもかかわらず、今だに社会は性≠どのように扱ってよいのか試行錯誤しているのが現状です。性や恋愛はしばしば秩序ある社会システムから逸脱するものですが、排除することもできない重要なものでもあります。


現代社会が、とくに共産主義国でなくても、宗教やオカルトなどの精神文化を忌避する傾向があるのは、それが非合理的な世界を扱う文化であるからです。非合理ゆえに、なかなか合理主義の手法では管理が難しい。精神世界は、例えば仏教では「悟り」の体験を通して、日常的意識を逸脱した精神状態を体験し、その意識状態から世界を再解釈する重要性を指摘しますが、これも別の角度から見れば、オルダス・ハクスリーティモシー・リアリーなど、ヒッピーカルチャーで流行したドラッグによる「ハイ」になる体験、インディアンの呪術的儀式で用いられる幻覚作用のあるサボテン(ペヨーテ)の服用なども、同様に人をそうした非日常≠ヨ誘うことでこの世の真理を知ろうとする試みのひとつです。しかし、秩序ある社会はそうした拡大された意識を管理する手段がないため、社会の構成員はできるだけ目覚めて欲しくない≠ヘずであり、ゆえに覚者≠嫌う傾向があるように思います。そもそも覚者と単なるアウトローは凡人の目からは外面的に区別がつきませんから、社会にうまく取り込むのはかなりやっかいであると思われます。


LSDなどの麻薬による意識の覚醒は60〜70年代のアメリカのヒッピー文化、ニューエイジ運動などでは「インスタント禅」などと呼ばれていましたが、精神修行をともなわずに一気に薬で意識を覚醒させても、悟りどころか薬物依存体質になってしまって自己破壊に繋がりかねません。薬物という物質頼りで精神世界の真実に近づくのには危険が伴うでしょう。映画『ルーシー』でも薬物による悟りをSFチックに興味深く描いてましたが、やはり薬に頼るのではなくヨーガなり瞑想なりで自力で脳内麻薬を分泌させるのが自然ですしベストな気がしますね。そういえばそのような社会と精神世界の対立構造については、社会学者の宮台真司さんが講釈をしていた動画をたまたま見て面白かったのでちょっとご紹介します。


近代社会では麻薬を禁止しました。これはいくつかのファクターがある中でおそらく重要な事は、我々の感覚が開かれすぎると、精妙に出来上がった社会の複雑なシステムのかみ合いと両立しないわけです。逆に言えば、もし社会が原初的な段階にあって、もっと単純であれば、我々がもしトランス状態になって感覚が開かれて、あらかじめフォーマットの中に書かれていないようなふるまいをしたとしても、それは社会が受け止める事ができるわけですよね。これほど左様に、我々の社会は科学的かとは全く別の、社会からの要求として、我々の感覚が「あらかじめ予想可能な範囲の中で生じなければいけない」という、ある種の要求からして、超常現象は「ない」どころか、超常体験なるものも「存在しない」、シンクロニシティも体験することなどありえないと、されています。体験として生じうるそうしたものについて、我々の社会は事実上封印してしまっている。しかし、封印したとしても、体験は起こってきてしまうワケです。シンクロニシティを体験してしまったり、ある人間たちがある手順でフック(きっかけ)を用意すると神の声が聞こえちゃったりするし、ある浮遊という現象を体験しちゃったりするんです。

(超常現象の否定や、麻薬の禁忌などは)体験の領域が広がりすぎないように(社会が)封印した。
しかし、単にそれが「無い」という話になっていると、ちょっとしたときにソレを体験するわけですよ。そうすると、それがフックとして「効きすぎて」ね、絶対性を信じ込んでしまったり、超越性を信じ込んでしまったりすることがあるような気がするんです。

宮台真司・談

TV動画「超常体験が絶対性や超越性を信じるきっかけになる」より


オカルトや宗教などひっくるめて、精神世界的なもの、超常現象などは現代社会の一般通念では嘘、勘違い、空想、ファンタジーという扱いであり、社会の一般常識としては「真実ではない」としているように感じますが、社会学者の宮台真司氏はその理由について上記のような解釈をしています。近代社会がオカルトを否定したがるのは、麻薬を禁じている理由と似ていて、我々の感覚が開かれすぎると、精妙に出来上がった社会の複雑なシステムのかみ合いと両立しないから、というものです。もし社会が原初的な段階にあって、もっと単純であれば、シャーマンが神の声を聞いたと主張しても、それを受け止める土壌が社会にあるのですが、現代の科学を基本とした合理主義というか、理性的なシステムの中では、そうした非合理性は否定してしまったほうが物事がスムースに運ぶということであります。そういう意味では、私たちの「体験の領域」は、知らず知らずのうちに社会システムの制約の中で許容された範囲に限定されているということになります。体験の領域が広がりすぎると理性では収集がつかなくなるのであり、理性によって構築された社会においては、それは最大のタブーになる、というのが宮台氏の説ですが、なかなかの慧眼だと感服しました。


彼自身指摘しているように、だからといって神秘体験に執着しすぎて妄信すると、社会との軋轢を生じたり、精神的に疲弊したりしますから、バランスは必要ですね。とはいうものの、そのバランスとやらも、客観的にジャッジしてくれるモノサシがあるわけではないので、結局自分のさじ加減でしかありません。なので、やはりそうしたものを信じるかどうかというのは最終的には己の直感的な判断になります。個人的には、その場合たいていは面白そうだとか、楽しそうだとか感じる選択肢を選んでおけば間違いないように思います。なぜなら、楽しくなさそうな方を選んだらハズした場合に後悔しますが、楽しそうなものを選んでハズしても自分を納得させやすいからです。


後悔度の高いのは「正しそう」な方を選んでハズした場合です。「正しいと信じてたのに!」という怒りに似た裏切られた気分を味わうことになります。正しい事というのは判断が難しいですし、今自分が考えていることは正しいのかどうかすら断言するのは困難です。しかし、楽しいかどうかはリアルな実感として感じるものですから「自分は今楽しいかどうか?」に疑問の余地はありません。ゆえに、楽しい方を常に選ぶ、というのはけっこう賢い選択法だと思います。正しさは自分だけの領分では決定しずらく、だいたいは複数の他者が決めるものです。しかし、楽しさは自分が主体的に感じる絶対的な体験なので、間違いはありません。私は正しい。というテーゼは危ういですが、私は今楽しい。という感覚は誰も否定できない真理です。正しさを基準にするから争いが起こるのであって、もしも楽しい≠基準にする社会があれば、けっこう平和にまとまるのではないか?と最近思います。正しさがぶつかり合うと戦争になりますが、楽しさがぶつかり合うとお祭りになります。実に平和的であります。


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武田雅哉著『桃源郷の機械学』(作品社 1995)より。中国の幼き天才オカルティスト、江希帳(こうきちょう)による火星人の想像図。1916年に刊行された齢10歳の江希帳の著書『大千図説』という奇書では易学などの中華思想を母体にした摩訶不思議な大宇宙の構造を図版を交えて考察しているようで、とても面白そうです。江希帳は三歳で文章を綴り、五歳で経書(儒教の文献)に注釈をしたという逸話のある神童で、そのような才気溢れる幼い頭脳が垣間みた異次元の宇宙図鑑が『大千図説』だということで、とても興味深いものがあります。独自の切り口で中国文化を研究されている武田雅哉先生の『桃源郷の機械学』には、火星以外にも聞いた事もない奇妙な惑星や宇宙人の図版が多く紹介されていて凄く面白いです。また、まだ未読ですが、河出文庫『中国怪談集』(中野美代子、武田雅哉編)でもこの奇書が紹介されているようなのでそのうち読んでみたいです。


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『科学大観』第19号 原子力・宇宙旅行特集 昭和34年(1959年) 世界文化社

火星に向かうブリキのおもちゃのようなケバケバしい宇宙船がレトロフューチャーな感じでイイですね。


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同上。「火星人の宇宙訪問」と題するユニークな記事があったのでご紹介します。火星を舞台にしたSF小説というと、ついH・G・ウェルズの『宇宙戦争』が真っ先に思い浮かんできますが、実はその前にドイツの天文学者ラスウィッチなる人物が火星探検をテーマにした空想小説を書いていたという興味深い記事です。面白い記事なので関心のある方はぜひクリックして読んでみてください。




天文系ソフト



「Stellarium」というフリーソフトがあるのを最近知りました。PC上で美麗な星空をシミュレーションできる無料のオープンソースプラネタリウム。ウィンドウズやマックなど様々なプラットフォームに対応したソフトです。私の環境では古いバージョンのものしか動作させれないのでアレですが、無料とは思えないほど充実したアプリなので、使いこなせると楽しそうですね。



お馴染みグーグルアースですが、地球のほかにも月や火星もグリグリ動かせるようになっていて、仮想の宇宙旅行が楽しめます。オカルト好きの方などは、日夜、月や火星の人工物っぽい謎の地形を探索しておられる方も世界中にいるようで、それもそれで楽しみ方のひとつだと思います。私もついでにグーグルアースで見つけた火星の面白い地形をいくつか並べてみます。


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とてもアートな雰囲気の地形があったのでスクリーンショットをとってみました。シュルレアリスムの画家イヴ・タンギーの絵画のような雰囲気が面白い。


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なんか蟻地獄っぽいものが並んでいる妙な地形を発見。巨大な穴っぽいこの黒い部分は何なのでしょうね。


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中央あたりに、水が流れた跡のようなシミが見えます。何らかの液体が地中から染み出てきたように見えますが、これも謎めいてますね。
posted by 八竹彗月 at 22:19| Comment(0) | 宇宙

2016年08月10日

宇宙旅行の夢 (1)

宇宙ロマンな本がたまってきたので、宇宙旅行をテーマに何回かシリーズ的に記事を書こうと思います。『世界画報』は国際的な時事ニュースを豊富な写真や図解で紹介するA4判サイズのグラフ誌で、古本市などではよく見かける部類の雑誌です。安価に出回っているワリには面白い写真も多く編集もユニークで、なによりディスプレイ映えするいい感じの表紙が多く、つい手に取ってしまいます。

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『世界画報 PICTORIAL WORLD』第27巻 第2号 国際情報社 1958年(昭和33年)

今回ご紹介する『世界画報』は、表紙のインパクトで選んだものですが、中身でも宇宙関連の記事があり、そちらもいっしょにご紹介していこうと思います。まずこの号の発行年は1958年というところに注目していただきたいです。宇宙旅行をテーマにした記事で、月面探索計画の記事などがありますが、この時代にはまだ人類は月へはおろか地球外にさえ抜け出てはいません。(人工衛星の打ち上げには前年、1957年にソ連のスプートニク1号、2号が成功しています)この年、1958年はちょうどアメリカ航空宇宙局(NASA)が設立した年です。この3年後にソ連のガガーリンが「地球は青かった」と言い、11年後にやっと米国のニール・アームストロングが月面に一歩を踏み出します。そうした時系列をふまえて見ていただくと、より面白みがあると思います。

米ソの宇宙開発競争は、冷戦の軍事的な緊張がもたらした功罪の「功」の面の代表的なものだと思います。両国はその互いへの軍事的脅威を言い訳にできたために、莫大な予算を必要とする宇宙開発という人類のロマンを前進させる原動力になっていました。振り返ってみれば、ネガティブな印象で語られることの多い冷戦時代も、人類史的には必要な段取りだったのかもしれませんね。

人類が初めて宇宙空間に出たのは、およそ半世紀前。1961年4月11日、世界初の有人宇宙飛行としてボストーク1号に単身搭乗したソビエト連邦の宇宙飛行士ガガーリンは、「地球は青かった」という宇宙から地球を見た感動を伝える名言でよく知られています。正確には、ガガーリンはそのような表現では語っていないそうですが、まぁ、おおむね地球が青く見えたことが印象的であったことは事実のようですね。

次いでアメリカも人類初の有人月面着陸計画(アポロ計画)を威信をかけて遂行します。1969年7月20日にアポロ11号がついに月面に着陸。人類がはじめて地球外天体へ踏み出した記念碑的な偉業でした。「これは一人の人間にとっては小さな一歩だが、人類にとっては偉大な飛躍である。」船長のニール・アームストロングの有名な言葉ですが、まさにそのとおりですね。

オカルト好きには有名な「実は人類はまだ月に行ってはいない」とするアポロ計画陰謀論がありますが、ウィキペディアにアポロ陰謀論への反論が詳細に載っていて、それを読む限りは陰謀論は分が悪いように感じました。アポロ陰謀論は1977年のSF映画「サテリコン1」によって拡散したという印象がありますが、ウィキを見てみると、アポロ11号の着陸から早くも翌年1970年に我が国の作家、草川隆が『アポロは月へ行かなかった』というSF小説を書いているようですね。誇らしいような、そうでもないような、複雑なものを感じます。しかし、作家としては、かなりの先見の妙というべき着目だと思います。

迷信や宗教やオカルトなどを揶揄する時に、かつて「人類が月に行くような時代に」という言い回しがよくありましたが、それほどまでに、人類が月に行ったというニュースは社会にとって衝撃的で印象深いものだったのでしょう。人類は宇宙に出たことによって、「地球上の生命という意味での家族意識」のようなものに実感として目覚めた部分はあるのではないか、と推察します。

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「宇宙旅行へもう一歩 1」(『世界画報 PICTORIAL WORLD』第27巻 第2号より)
米ソ科学者の想像した宇宙旅行の夢をイラストでビジュアルに紹介していく記事。

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「宇宙旅行へもう一歩 2」(『世界画報 PICTORIAL WORLD』第27巻 第3号より)

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宇宙船の丸い窓から見える地球。のっぺりした不気味な緑色の地球の図。地球を実際に人が外から見たことのない時代に描かれた想像上の地球という意味で見ると味わい深いですね。キャプションには「青白く輝く地球」とあるので、地球が外からは青く見えるとありますが、この記事の書かれる前年、1957年にソ連が人工衛星の打ち上げに成功しているので、地球が外からどう見えるのかは宇宙の最新情報として既知であったのでしょうね。メインの大きなイラストも、真っ赤なロケットが妖しく、不思議な気分になりますね。

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記事からも読み取れるように、この当時の宇宙開発はすでにソ連が米国よりも一歩進んでいました。アメリカの焦りに似た宇宙への情熱が見て取れますね。

当時米ソともに尋常でないほどの莫大な資金を宇宙開発につぎ込んでますが、もし冷戦がなかったら目に見えるうま味に乏しいバクチのような宇宙開発など議会の通過も難しいでしょうし、そもそも国民の納得も得られなかったのではないでしょうか。あの時代だからこそ出来たことなのでしょう。後から考えると歴史というのは実に精妙に動いているものだと感じます。

人類が地球という檻を抜け出してはじめて宇宙に出て、そこから地球を振り返ったとき、争いが絶えない牢獄だとばかり思っていた地球が、実は、そこでしか我々は生きることができない、かけがえのない楽園だったことにガガーリンやアームストロングたちの目を通して我々もリアリティをもって気づいたように思います。宇宙へ踏み出した一歩は、科学文明の飛躍の一歩であると同時に、人間精神のパラダイムシフトでもあったのだろう、と感じます。
タグ:宇宙 古本
posted by 八竹彗月 at 06:35| Comment(0) | 宇宙