映画「デッドゾーン」について
この記事は映画「デッドゾーン」のネタバレを含みます。何回も見たくなる映画はあまりないのですが、「デッドゾーン」はそういう数少ない映画の一つで、何度見ても主演のクリストファー・ウォーケンの名演にシビれます。スティーブン・キング原作の映画は基本ハズレが少なく、「シャイニング」「キャリー」「ミザリー」と衆目も一致する傑作も多いですが、個人的には中でも「ランゴリアーズ」と「デッドゾーン」が大のお気に入りです。キング原作ものではこの二本は何度も見たくなります。ふと先に書いたトロッコ問題についての記事を読み返していて、トロッコ問題と似たジレンマを扱ったこの映画を思い出しました。前記事に脚注として追記しようと思って書き出したらけっこう長くなってきたので別記事として書く事にしました。
スティーブン・キング原作、デヴィッド・クローネンバーグ監督の「デッドゾーン」(1983年・アメリカ)は、結婚式を目前にした学校の教師がある晩に交通事故で意識不明の重体になるところから物語がはじまります。昏睡から目覚めた主人公はなぜかあれだけの大事故だったにもかかわらず身体に傷ひとつないことに気付きます。それもそのはず、主人公は5年もの間昏睡していてその間に傷が癒えてしまっていたからでした。5年の月日は残酷で、婚約者の相手もすでに他人と結婚して子供までつくっていました。そのことは主人公に深い悲しみを与えます、そして他にも、事故のショックが原因したのか、主人公には触れたものから未来を予知する超能力「サイコメトリー」(注1)を獲得していることに気付きます。この能力により、自分の居住区域で立候補している上院議員(注2)候補のスティルソンと選挙運動中に接触したことで、スティルソンが近い未来に米国大統領にまで上り詰める事、そしてライバル国との外交のもつれから核爆弾のボタンを押すことになることを予知します。
(注1)サイコメトリーとは、人の身体や、時計や写真など人の所有物に触れて、そこから所有者に関する情報を読み取る超能力のことを指す用語。
(注1)サイコメトリーとは、人の身体や、時計や写真など人の所有物に触れて、そこから所有者に関する情報を読み取る超能力のことを指す用語。
(注2)上院議員=アメリカ合衆国議会を構成する二院(上院、下院)のうち、上院にあたる議院に属する議員。日本では参議院が上院にあたる。
参考リンク 映画『デッドゾーン』予告編(Youtube)
主人公は母国と人類の未来を守るためにスティルソンの暗殺を企てますが、現時点ではスティルソンはまだ上院議員にも当選していません。傍目から見れば精神異常者が自身の妄想を根拠として殺人を企てていることにしかなりませんので、主人公は計画を遂行するかどうか悩みます。ある日主治医のウイザック医師との会話の中で主人公は「もしヒトラーが台頭する前のドイツに行けたなら、あなたはその子供のヒトラーを殺しますか?」と尋ねると医師は「迷わずあの悪魔を殺すだろう」と答えます。老齢のウイザック医師はナチスによる悲劇を自身が体験していたからこそ、その答えだったわけですが、主人公はその答えに勇気を得て計画の実行を決意します。この主人公の正義感がなんとも切なく、そこがこの作品の魅力でもあります。
暗殺が成功しても失敗しても主人公は損しかしません。成功しても主人公はただのテロリストとして処罰され、失敗しても同様です。まぁ、失敗した場合はいずれスティルソン大統領によって世界は全面核戦争になるわけで、そこまでいった未来でやっと主人公の意図が理解されるかもしれないですが、そうなってからではもう遅いわけです。人類存亡の危機よりも不幸なことなどそうそうないのですから。このような損しか選択肢のないジレンマですが、未来を知ることのできる自分が行動しなければ最悪の未来を変えることもできないわけで、神がこのサイコメトリーという能力を自分に与えたのは、人類を救う使命を果たしてもらいたいからではないのだろうか?と自分に言い聞かせて主人公は暗殺計画を進めるのでした。

淀川さんもこの映画を解説してたんですね〜 淀川さんのセリフ「ちょっとこのテレビ見るの止めてちょっと出かけようか、なんて行ったがためにエラいことが起こることもないこともないこともないから、みなさん気をつけなさいよ」という部分、イイですね〜 視聴者をなにげなく映画の世界の中に巻き込んでしまう語り口がたまりませんね。序盤、主人公はデートの帰りに恋人のサラの家まで車で送ってあげるのですが、玄関での別れ際、サラは家に少し寄っていくように誘います。しかし主人公は気分がすぐれないために断って帰宅しようとします。まさに、この選択が運命の分かれ道で、帰路の途中で事故にあうことになります。淀川さんのセリフはこの場面をすくいあげたものですね。変な気をおこしてテレビから離れると思わぬハプニングに遭うかもしれませんよ。だから最後まで見てね。といった意味のことを映画のシーンとからめて語りかけてくる感じが淀川さんらしいユーモアですね。
参考リンク
「世にも奇妙な物語」のエピソード「プリズナー」(「アニヲタWiki(仮)」様より)
選択とジレンマ
うろ覚えですがどこかで読んだ話で、このようなジレンマがありました。いわく「任務を終えたあなたは宇宙船に乗って地球に帰還しようとしている。そのとき、地球から入った連絡で、今まさに巨大隕石が地球に向かって飛んできていることが判明する。地球にぶつかればいくつかの国ごと消滅するくらいのとてつもない被害が予想される。ちょうど帰還中の宇宙船は隕石の軌道と近い場所を飛んでいて、宇宙船の進路を変えて隕石に正面衝突すれば、わずかに隕石の軌道は変わり、地球に到達するまでの距離から逆算するとギリギリ軌道を逸らせることが可能なようだ。さて、あなたは自分の命を犠牲にして隕石にぶつかりに行くか?それとも見過ごすか?」といったものです。アニメ「いぬやしき」もこれと似たジレンマを描いていましたが、なかなか難しい問いです。
平和な日常でぼーっとこの問題に対峙したら、なんとなくヒーローぶって地球を救う英雄として隕石にぶつかる選択をしそうですが、自分の命がかかっているのですから、実際問題として自分が当事者になったときにどんな選択をするのかはそうなってみないとわからないというのが正直なところです。怖じ気づいて自己保身を優先するかもしれませんし、逆に隕石にぶつかりに行く選択をしたとしても、それは正義感というよりは、生きて帰っても危機を見過ごして被害が出た後の地球ではおそらく自分の居場所はなく、幸せな生活は無理でしょうから、最悪の役立たずとして生き延びるよりはヒーローとして散っていくほうがマシというセカンドベストとしての選択を嫌々ながら選ぶかもしれません。
トロッコ問題も実のところ、保身してたくさん(5人)の犠牲を出すか、勇気を出して一人を意図的に犠牲にするかの選択なので、構図としてはよく似たジレンマだと思います。「デッドゾーン」での主人公のスティルソン暗殺計画もまた同様で、彼が何もしなければ未必の故意みたいなもので、全面核戦争が近い未来に実現して人類存亡の危機に近いものになるでしょうし、暗殺が成功した場合でもその時点ではスティルソンはまだ大統領でも犯罪者でもないですし、スティルソンがこれから未来にするであろう事を知っているのは主人公だけなのでヒーローどころかただの殺人犯として処罰されます。どっちに転んでも主人公の損にしかならない悲しい選択です。どちらかを選ばねばならないのなら、未必の故意で膨大な死者を出す未来を見過ごすよりは、犯罪者の汚名を引き受けてでも、せめて自分一人の心の中でヒーローとして死んでいくほうがマシと思えるのも理解できる気がします。
「虹の階梯」
「デッドゾーン」では、主人公のサイコメトリー能力が本物であることがほぼ確定で観客が納得出来るので、主人公の行い、人類の敵となる以前の、罪を犯す前の人間を暗殺することに漠然と共感してしまうように物語が構成されています。しかし、これも微妙なところがあって、現実問題に置き換えると、地下鉄サリン事件によって多くの死者を出した例の教団教祖の口実ともなんとなく似ていて、それを思うと素直に主人公の悲痛な正義感を完全に擁護できないジレンマもありモヤモヤするところです。事件に対する教祖の言い訳は、やがて罪を犯す事になる人間を事前にポアしたのだ、という理屈でした。教祖は最終解脱者という設定なので、人間の現在過去未来のカルマを見通せるのだ、ということのようですが、信者以外には通用しない理屈です。そもそも信者でもない他人のカルマに勝手に介入する解脱者(注3)というのは聞いた事がありません。むしろ遠くの国で起きている戦争でさえ自らの心の汚れが反映されたものと解釈して他者の罪まで引き受けるのが本物の聖者の多くに共通した心性のように思います。もし教祖に予知能力があるのなら、そのサリンを撒く行為によって結果的に教祖自身や家族の人生はおろか教団そのものも崩壊させてしまうことになる未来は予知出来なかったのでしょうか。多くのスピリチュアルな思想では、現在のみがリアルなものであり、過去とか未来というのは脳が生み出す幻のようなものだと解釈するのが共通していますが、そういう意味でも、未来予知を根拠に殺人を犯すというのは、フィクションでは許されても現実には許されないものです。ウィキペディアを参照してみると、某教祖のポアの解釈が載っていて、ポアとはチベット密教に由来する言葉のようです。
(注4)ポアの概念は〜 2022.2.13追記
ポアの概念は教団が聖典のように扱っていたとされる中沢新一氏の著書『虹の階梯』(1981年、平河出版社)からヒントを得ていた(注4)ようですが、事件とは無関係なきかっけで『虹の階梯』に感銘をうけた私としては中沢氏の白眉ともいえるこの名著が穢された感もあり悲しい思いです。このことで中沢氏は世間から猛烈なバッシングを受けたようですが、当時はあの教団も、ビートたけしさんをはじめ、有名人や知識人に肯定的に評価されていた面もあり、誰もあのような犯罪史上まれに見るような事をやらかすとは予想出来なかったはずです。(ちなみに「虹の階梯」は中沢氏自身がチベット語を修得しながらチベットの賢者の元でチベット仏教の深い教えに触れていく内容で、とても興味深いフィールドワークの賜物です。当然ながらサリン事件を肯定できるような思想が書かれているわけではありません)事件後に擁護してたなら別ですが、事件前に自分の著書が教団の教義などに影響を与えていた事についてあまり責め立てるのは可哀想に感じました。教団の勢力拡大に間接的に寄与していたと言われればたしかにそうですが、当時教団があのように暴走することは外部の人間には分ろうはずもなく、部外者の中沢氏にしても同様でしたでしょう。当時は中沢氏だけでなく、ダライ・ラマをはじめとした名のあるチベットの賢者たちも騙されていたわけですから、あの教団の教義などは表に出ている変なアニメや歌から推測される幼稚なものではなく、けっこう熟達した宗教家も唸らせることができるレベルの高度なものがあったのかもしれません。
そうしたことからも、勝手に中沢氏の著書を聖典にしている教団が犯罪を犯したのであり、それにより不名誉を蒙った作者はむしろ被害者の側面も大きいでしょう。自分が心血を注いで書いた本が、直接的ではないにせよ、それに心酔した教団が暴走して多くの人の命が失われたという事実に、作者本人も傍観者が想像する以上に悲しみ苦しんでいるように思います。戦後最大の誘拐事件といわれた吉展ちゃん誘拐事件(1963年)の犯人は、黒澤明監督の映画『天国と地獄』の予告編を見て誘拐計画を思いついたと自白していますが、そのことで黒澤監督に事件の責任を問うのは筋違いというものです。ほぼ全ての観客は普通に映画を楽しんだはずなのに、一人の観客がそれで悪事を思いついたからといってクリエイターに責任を問うていたらこの世から映画も本もなくなってしまいます。(要旨は伝わっていると思いますが、念のために付け加えれば、クリエイターは表現に無責任であって良いという事を言っているわけではなく、責任を問うにも常識的な限度があるということです)
(注3)他人のカルマに勝手に介入する解脱者〜 2022.1.28追記
「復讐するは我にあり」という映画化もされた佐木隆三の小説がありますが、語感からなんとなくデスノートの主人公みたいな、自分だけの正義感で他人を罰することのように勘違いしがちで、自分も漠然と勘違いしてた言葉です。この言葉の原典は聖書(ローマ人への手紙・第12章第19節)で、「我」とは神をさしています。意味は「憎い相手でも復讐してはならない、復讐するのは人間の領分ではなく、神の仕事であるから、神の裁きにまかせなさい」というような意味で、むしろ寛容さを説いた言葉です。某教祖のように勝手に人間が他人に危害を加えてはならないということですね。
これはエゴのレベルで考えるとお人好しで損な考えのように錯覚しがちですが、実は自分で復讐するよりも神、つまり厳密な宇宙の縁起の法則にまかせてしまったほうが、確実であり、最も強力な報いが生じます。さらに心の内でも相手を完全に許すことは、逆説的に相手に対する最大の攻撃が報いとして生じます。ブッダも「実にこの世においては、怨みに報いるために怨みをもって行動したならば、ついに怨みが止むことがない。怨みを捨ててこそ止む。これは永遠の真理である」と仏典『ダンマパダ』の中で言っているように、基本的に多くの宗教では毒を持って毒を制すような考えは避けており、極力慈悲心によって怒りや恨みなどのネガティブな感情や不幸な境遇に打ち勝つように説いています。これは悪人を増長させるように思われがちですが、実際は憎むより許した方が悪人にとって最も辛い因果が生じます。
密教的な思想にはたまに暴力を肯定するような教えも出てきますが、それはかなり限定された条件の相当なレベルの覚醒者のみにあてはまるような教えで一般人には毒になるものが多いです。例えば仏典の『理趣経』は、性欲などの現世の快楽も菩薩の境地でありありがたく良いものだ、と、人間のほとんどの我欲を肯定している異色の経典ですが、これは性欲などに惑わされなくなったハイレベルな境地の修行者のための教えであって、そこに至っていない人には誤解を与え毒にもなるセンシティブな教えです。某教祖の行いも密教の教えを悪用したものですが、結果的に社会に悪影響しか与えていないわけで、そもそも解脱者ではないか、あるいは教団の中で安楽な生活を続けていくうちに堕落してしまったか、といったところなのでしょう。覚者と呼ばれる人の中でも、信者にちやほやされてうるうちに魂のレベルが下がってしまうのか、贅沢三昧の暮らしに執着したり、はては犯罪にはしってしまう元聖者という人は意外といますね。悟ることよりも、その悟りを一生維持していくことのほうが難しいものなのかもしれませんね。
(注4)ポアの概念は〜 2022.2.13追記
先日たまたま以下の動画を見ていたら、元幹部だった上祐氏が、ポアの概念の出典となる「ヴァジラヤーナ」の出所について話しておられました。
動画では、事件を起こす背景になったヴァジラヤーナ(密教≠意味する言葉。金剛乗)の奥義ポアは、元教祖が高名なチベット仏教の賢者、カル・リンポチェ(リンポチェ≠ヘチベット仏教の高僧の称号)から直々に教わったものだという話が出てきます。元教祖はダライラマともそこそこ交流があったようで、そういったお墨付きも中沢新一氏をはじめ文化人や世間に誤解を与えていたのでしょうね。チベット仏教も仏教の宗派のひとつですから、当然殺生は厳しく禁じられています。しかし、お釈迦様も、受け取る人のレベルによって教えの内容も変えてますし、小学生と大学生では授業内容が異なるように、一般人と高度な修行僧とは学ぶべき内容も変わっていくものです。それゆえ、密教、つまり民衆に開かれている根本的な教えと対照的に、一般にはおすすめできない高度な修行僧向けのハイリスクハイリターンな感じの教えでは、時として真逆なように見える教えも出てきます。そうしたものの中にポアなどの教えもあったということでしょうね。ポアの概念は、専門的にはかなり深い内容で、単純に殺人を正当化してる思想ではないですが、それこそ『デッドゾーン』の主人公のように、確実に100%未来が見通せる確証があってはじめて、殺害対象が明らかにこの世に地獄をもたらす悪魔であるかどうかを決めれるわけですが、実際問題そういうことは無理(客観的に未来予知を証明できない)でしょうね。未来に起きるかもしれない、現時点でやってもいない罪で他者を裁くというのは、どうしても理不尽なものを感じてしまいます。
2023.2.19追記
チベット仏教を調べていくと、かなり特殊な仏教ということがわかってきます。どうも殺人を肯定するような経典も実際に存在しているようで、ショックをうけました。インドで仏教が廃れてしまう直前の後期仏教が受け継がれているのがチベット仏教の特色で、世界で仏教国といわれる国のほとんどが上座部仏教(原始仏典に従ったいわゆる小乗仏教)と大乗仏教のどちらかであるのに対して、チベット仏教は上座部仏教から大乗仏教、そして過激な密教などの後期仏教を統合したオールマイティな仏教だといわれています。とくに修行が進んだ僧にしか学ぶことが許されていない後期密教の教えは、たしかに危険なものが多分に含まれており、無上瑜伽タントラに類する仏典には、性的快楽や暴力や不道徳な行為、さらには殺人までも肯定する教えも説かれていたりして仰天しました。(「秘密集会タントラ」等)これは、「一切は空(くう)」という真理から導かれる最後の法で、善悪というものも最終的には乗り越えねばならない二元性の迷いの境地であるという視点で説かれているものだと思います。しかし、これは凡夫には猛毒となる思想であり、そうとうに高度な境地に至った僧にしか薬にならないセンシティブな教えですね。エゴを滅尽した修行者でしか正しく利用することは不可能な教えであり、また、修行に絶対不可欠な教えというわけでもない(そもそも顕教での教えでは悪しきことは滅するべき煩悩である)ので、凡夫が浅い解釈で実践すると件の教団のようなことになってしまうのかもしれません。インドで仏教が淘汰されてしまった原因はイスラム教やヒンドゥー教からの弾圧がありますが、インドにおける後期仏教にはそうした危機感や異教との戦いを余儀なくさせられる状況があったこともあり、秘密集会タントラなどの過激な思想は、そうした国内の不安定な状況が生み出した異端の仏教ともいえるかもしれませんね。
デヴィッド・クローネンバーグ
多くの人は皆予言者なのではないですから、自分のした善行でさえ、ゆくゆく誰かの悪行の手助けになってしまうことは皆無ではありません。なにげない善意の募金が兵器を買うお金になってしまう事もあるでしょう。ナイフも調理人が持てば美食で人を唸らすツールになりますが、悪人が持てば凶器にもなります。キリストも姦通罪で捕らえられた女性をめぐって「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい」(ヨハネによる福音書 8章7節)と言った記述がありますが、まさに、他者を責める前に自分にその資格があるのかどうかを冷静に見つめ直す事はとても大事ですね。私もネットニュースの断片的な情報で、つい記事から受ける印象だけで犯人の動機や被害者の心情まで憶測して、SNSに持論を吐露するまではいかなくとも、ついつい心の中で断罪したり裁いたりしがちで、その後正確な情報が憶測と違った内容だったりして反省することもよくある事です。リアルな対人関係でも誤解によって人を判断して失敗することもたまにあります。そうした自戒を込めて気をつけたいものです。
「デッドゾーン」の主人公を多くの観客が支持するのは、彼が本物のサイコメトラーであり、彼の予知が完璧であることが事前にきちんと描かれているために、彼のとった暗殺という手段が最善ではないにせよ、多くの人の共感を得られるレベルのヒロイックなものに見えるからです。しかし現実の事件は犯人の内面を知ることは当人しかできないことなので、仮にデッドゾーンの主人公のような生き方をする人がいても、まず共感を得る事はないでしょう。だからこそ逆にそういう問題を考えることで余計に「デッドゾーン」の主人公の悲しみがヒシヒシと伝わってくるのでしょうね。さすがはスティーブン・キングといった感じでしょうか。
メガホンをとったデヴィッド・クローネンバーグも好きな監督で、サイコなモダンホラー「ビデオドローム」(1983年)の衝撃は凄まじかったですね。「世にも奇妙な物語」に若き頃の竹中直人(当時35歳)が出演している「プリズナー」(1991年)という大好きなエピソードがあるんですが、これなどモロに「ビデオドローム」の影響を感じさせるアヴァンギャルドなホラー作品でしたね。また、ウィリアム・バロウズの代表作「裸のランチ」の映画化もすごかったですね。ジャンキーの目線で映像化された世界もユニークでしたが、音楽もフリージャズの巨匠オーネット・コールマンというのがシブくてセンスよかったです。
トロッコ問題とからめて「デッドゾーン」の思い入れを語ろうと書き始めたものの、後半はあまりトロッコ問題とは関係ない話になってしまいましたが、ちょうど自分が今チベット仏教に関することに興味がある時期だからか、「デッドゾーン」の主人公の苦悩とトロッコ問題とあの事件の話などから、中沢新一さんへのバッシングに対する私見などに脱線してしまいました。トロッコが脱線するのはまずいですが、話は多少は脱線したほうが広がりがあって良い面もあるので良しとしましょう。チベットに興味があると書きましたが、チベットは地下王国シャンバラの伝説とか、死後の世界のマニュアル「死者の書」など興味の尽きないところがあり、ミラレパなどの聖者やチョギャム・トゥルンパなどの現代のスピリチュアリストなどユニークな賢者も多く、知れば知る程面白いですね。いずれ地下世界をテーマにした記事などでシャンバラについて思いの丈を書いてみたいと思ってます。地下の世界ってジュール・ヴェルヌの空想したようにある種のロマンを感じる異世界で、とても心惹かれるものがあります。きれいな鉱物が埋まっていたり、鍾乳洞のような異界の風景が広がっていたりなど、地下にはダンテの描いたような地獄というよりは、シャンバラ伝説のような、秘められた楽園が眠っていそうなワクワク感があります。そのあたりはまた別の記事であらためて書いてみたいと思います。

「世にも奇妙な物語」のエピソード「プリズナー」(「アニヲタWiki(仮)」様より)