2022年01月22日

映画「デッドゾーン」とトロッコ問題

映画「デッドゾーン」について

この記事は映画「デッドゾーン」のネタバレを含みます。何回も見たくなる映画はあまりないのですが、「デッドゾーン」はそういう数少ない映画の一つで、何度見ても主演のクリストファー・ウォーケンの名演にシビれます。スティーブン・キング原作の映画は基本ハズレが少なく、「シャイニング」「キャリー」「ミザリー」と衆目も一致する傑作も多いですが、個人的には中でも「ランゴリアーズ」と「デッドゾーン」が大のお気に入りです。キング原作ものではこの二本は何度も見たくなります。ふと先に書いたトロッコ問題についての記事を読み返していて、トロッコ問題と似たジレンマを扱ったこの映画を思い出しました。前記事に脚注として追記しようと思って書き出したらけっこう長くなってきたので別記事として書く事にしました。

スティーブン・キング原作、デヴィッド・クローネンバーグ監督の「デッドゾーン」(1983年・アメリカ)は、結婚式を目前にした学校の教師がある晩に交通事故で意識不明の重体になるところから物語がはじまります。昏睡から目覚めた主人公はなぜかあれだけの大事故だったにもかかわらず身体に傷ひとつないことに気付きます。それもそのはず、主人公は5年もの間昏睡していてその間に傷が癒えてしまっていたからでした。5年の月日は残酷で、婚約者の相手もすでに他人と結婚して子供までつくっていました。そのことは主人公に深い悲しみを与えます、そして他にも、事故のショックが原因したのか、主人公には触れたものから未来を予知する超能力「サイコメトリー」(注1)を獲得していることに気付きます。この能力により、自分の居住区域で立候補している上院議員(注2)候補のスティルソンと選挙運動中に接触したことで、スティルソンが近い未来に米国大統領にまで上り詰める事、そしてライバル国との外交のもつれから核爆弾のボタンを押すことになることを予知します。

(注1)サイコメトリーとは、人の身体や、時計や写真など人の所有物に触れて、そこから所有者に関する情報を読み取る超能力のことを指す用語。

(注2)上院議員=アメリカ合衆国議会を構成する二院(上院、下院)のうち、上院にあたる議院に属する議員。日本では参議院が上院にあたる。

主人公は母国と人類の未来を守るためにスティルソンの暗殺を企てますが、現時点ではスティルソンはまだ上院議員にも当選していません。傍目から見れば精神異常者が自身の妄想を根拠として殺人を企てていることにしかなりませんので、主人公は計画を遂行するかどうか悩みます。ある日主治医のウイザック医師との会話の中で主人公は「もしヒトラーが台頭する前のドイツに行けたなら、あなたはその子供のヒトラーを殺しますか?」と尋ねると医師は「迷わずあの悪魔を殺すだろう」と答えます。老齢のウイザック医師はナチスによる悲劇を自身が体験していたからこそ、その答えだったわけですが、主人公はその答えに勇気を得て計画の実行を決意します。この主人公の正義感がなんとも切なく、そこがこの作品の魅力でもあります。

暗殺が成功しても失敗しても主人公は損しかしません。成功しても主人公はただのテロリストとして処罰され、失敗しても同様です。まぁ、失敗した場合はいずれスティルソン大統領によって世界は全面核戦争になるわけで、そこまでいった未来でやっと主人公の意図が理解されるかもしれないですが、そうなってからではもう遅いわけです。人類存亡の危機よりも不幸なことなどそうそうないのですから。このような損しか選択肢のないジレンマですが、未来を知ることのできる自分が行動しなければ最悪の未来を変えることもできないわけで、神がこのサイコメトリーという能力を自分に与えたのは、人類を救う使命を果たしてもらいたいからではないのだろうか?と自分に言い聞かせて主人公は暗殺計画を進めるのでした。

携帯電話参考リンク 映画『デッドゾーン』予告編(Youtube)
淀川さんもこの映画を解説してたんですね〜 淀川さんのセリフ「ちょっとこのテレビ見るの止めてちょっと出かけようか、なんて行ったがためにエラいことが起こることもないこともないこともないから、みなさん気をつけなさいよ」という部分、イイですね〜 視聴者をなにげなく映画の世界の中に巻き込んでしまう語り口がたまりませんね。序盤、主人公はデートの帰りに恋人のサラの家まで車で送ってあげるのですが、玄関での別れ際、サラは家に少し寄っていくように誘います。しかし主人公は気分がすぐれないために断って帰宅しようとします。まさに、この選択が運命の分かれ道で、帰路の途中で事故にあうことになります。淀川さんのセリフはこの場面をすくいあげたものですね。変な気をおこしてテレビから離れると思わぬハプニングに遭うかもしれませんよ。だから最後まで見てね。といった意味のことを映画のシーンとからめて語りかけてくる感じが淀川さんらしいユーモアですね。


選択とジレンマ

うろ覚えですがどこかで読んだ話で、このようなジレンマがありました。いわく「任務を終えたあなたは宇宙船に乗って地球に帰還しようとしている。そのとき、地球から入った連絡で、今まさに巨大隕石が地球に向かって飛んできていることが判明する。地球にぶつかればいくつかの国ごと消滅するくらいのとてつもない被害が予想される。ちょうど帰還中の宇宙船は隕石の軌道と近い場所を飛んでいて、宇宙船の進路を変えて隕石に正面衝突すれば、わずかに隕石の軌道は変わり、地球に到達するまでの距離から逆算するとギリギリ軌道を逸らせることが可能なようだ。さて、あなたは自分の命を犠牲にして隕石にぶつかりに行くか?それとも見過ごすか?」といったものです。アニメ「いぬやしき」もこれと似たジレンマを描いていましたが、なかなか難しい問いです。

平和な日常でぼーっとこの問題に対峙したら、なんとなくヒーローぶって地球を救う英雄として隕石にぶつかる選択をしそうですが、自分の命がかかっているのですから、実際問題として自分が当事者になったときにどんな選択をするのかはそうなってみないとわからないというのが正直なところです。怖じ気づいて自己保身を優先するかもしれませんし、逆に隕石にぶつかりに行く選択をしたとしても、それは正義感というよりは、生きて帰っても危機を見過ごして被害が出た後の地球ではおそらく自分の居場所はなく、幸せな生活は無理でしょうから、最悪の役立たずとして生き延びるよりはヒーローとして散っていくほうがマシというセカンドベストとしての選択を嫌々ながら選ぶかもしれません。

トロッコ問題も実のところ、保身してたくさん(5人)の犠牲を出すか、勇気を出して一人を意図的に犠牲にするかの選択なので、構図としてはよく似たジレンマだと思います。「デッドゾーン」での主人公のスティルソン暗殺計画もまた同様で、彼が何もしなければ未必の故意みたいなもので、全面核戦争が近い未来に実現して人類存亡の危機に近いものになるでしょうし、暗殺が成功した場合でもその時点ではスティルソンはまだ大統領でも犯罪者でもないですし、スティルソンがこれから未来にするであろう事を知っているのは主人公だけなのでヒーローどころかただの殺人犯として処罰されます。どっちに転んでも主人公の損にしかならない悲しい選択です。どちらかを選ばねばならないのなら、未必の故意で膨大な死者を出す未来を見過ごすよりは、犯罪者の汚名を引き受けてでも、せめて自分一人の心の中でヒーローとして死んでいくほうがマシと思えるのも理解できる気がします。


「虹の階梯」


「デッドゾーン」では、主人公のサイコメトリー能力が本物であることがほぼ確定で観客が納得出来るので、主人公の行い、人類の敵となる以前の、罪を犯す前の人間を暗殺することに漠然と共感してしまうように物語が構成されています。しかし、これも微妙なところがあって、現実問題に置き換えると、地下鉄サリン事件によって多くの死者を出した例の教団教祖の口実ともなんとなく似ていて、それを思うと素直に主人公の悲痛な正義感を完全に擁護できないジレンマもありモヤモヤするところです。事件に対する教祖の言い訳は、やがて罪を犯す事になる人間を事前にポアしたのだ、という理屈でした。教祖は最終解脱者という設定なので、人間の現在過去未来のカルマを見通せるのだ、ということのようですが、信者以外には通用しない理屈です。そもそも信者でもない他人のカルマに勝手に介入する解脱者(注3)というのは聞いた事がありません。むしろ遠くの国で起きている戦争でさえ自らの心の汚れが反映されたものと解釈して他者の罪まで引き受けるのが本物の聖者の多くに共通した心性のように思います。もし教祖に予知能力があるのなら、そのサリンを撒く行為によって結果的に教祖自身や家族の人生はおろか教団そのものも崩壊させてしまうことになる未来は予知出来なかったのでしょうか。多くのスピリチュアルな思想では、現在のみがリアルなものであり、過去とか未来というのは脳が生み出す幻のようなものだと解釈するのが共通していますが、そういう意味でも、未来予知を根拠に殺人を犯すというのは、フィクションでは許されても現実には許されないものです。ウィキペディアを参照してみると、某教祖のポアの解釈が載っていて、ポアとはチベット密教に由来する言葉のようです。
ポアの概念は教団が聖典のように扱っていたとされる中沢新一氏の著書『虹の階梯』(1981年、平河出版社)からヒントを得ていた(注4)ようですが、事件とは無関係なきかっけで『虹の階梯』に感銘をうけた私としては中沢氏の白眉ともいえるこの名著が穢された感もあり悲しい思いです。このことで中沢氏は世間から猛烈なバッシングを受けたようですが、当時はあの教団も、ビートたけしさんをはじめ、有名人や知識人に肯定的に評価されていた面もあり、誰もあのような犯罪史上まれに見るような事をやらかすとは予想出来なかったはずです。(ちなみに「虹の階梯」は中沢氏自身がチベット語を修得しながらチベットの賢者の元でチベット仏教の深い教えに触れていく内容で、とても興味深いフィールドワークの賜物です。当然ながらサリン事件を肯定できるような思想が書かれているわけではありません)事件後に擁護してたなら別ですが、事件前に自分の著書が教団の教義などに影響を与えていた事についてあまり責め立てるのは可哀想に感じました。教団の勢力拡大に間接的に寄与していたと言われればたしかにそうですが、当時教団があのように暴走することは外部の人間には分ろうはずもなく、部外者の中沢氏にしても同様でしたでしょう。当時は中沢氏だけでなく、ダライ・ラマをはじめとした名のあるチベットの賢者たちも騙されていたわけですから、あの教団の教義などは表に出ている変なアニメや歌から推測される幼稚なものではなく、けっこう熟達した宗教家も唸らせることができるレベルの高度なものがあったのかもしれません。

そうしたことからも、勝手に中沢氏の著書を聖典にしている教団が犯罪を犯したのであり、それにより不名誉を蒙った作者はむしろ被害者の側面も大きいでしょう。自分が心血を注いで書いた本が、直接的ではないにせよ、それに心酔した教団が暴走して多くの人の命が失われたという事実に、作者本人も傍観者が想像する以上に悲しみ苦しんでいるように思います。戦後最大の誘拐事件といわれた吉展ちゃん誘拐事件(1963年)の犯人は、黒澤明監督の映画『天国と地獄』の予告編を見て誘拐計画を思いついたと自白していますが、そのことで黒澤監督に事件の責任を問うのは筋違いというものです。ほぼ全ての観客は普通に映画を楽しんだはずなのに、一人の観客がそれで悪事を思いついたからといってクリエイターに責任を問うていたらこの世から映画も本もなくなってしまいます。(要旨は伝わっていると思いますが、念のために付け加えれば、クリエイターは表現に無責任であって良いという事を言っているわけではなく、責任を問うにも常識的な限度があるということです)

(注3)他人のカルマに勝手に介入する解脱者〜 2022.1.28追記
「復讐するは我にあり」という映画化もされた佐木隆三の小説がありますが、語感からなんとなくデスノートの主人公みたいな、自分だけの正義感で他人を罰することのように勘違いしがちで、自分も漠然と勘違いしてた言葉です。この言葉の原典は聖書(ローマ人への手紙・第12章第19節)で、「我」とは神をさしています。意味は「憎い相手でも復讐してはならない、復讐するのは人間の領分ではなく、神の仕事であるから、神の裁きにまかせなさい」というような意味で、むしろ寛容さを説いた言葉です。某教祖のように勝手に人間が他人に危害を加えてはならないということですね。

これはエゴのレベルで考えるとお人好しで損な考えのように錯覚しがちですが、実は自分で復讐するよりも神、つまり厳密な宇宙の縁起の法則にまかせてしまったほうが、確実であり、最も強力な報いが生じます。さらに心の内でも相手を完全に許すことは、逆説的に相手に対する最大の攻撃が報いとして生じます。ブッダも「実にこの世においては、怨みに報いるために怨みをもって行動したならば、ついに怨みが止むことがない。怨みを捨ててこそ止む。これは永遠の真理である」と仏典『ダンマパダ』の中で言っているように、基本的に多くの宗教では毒を持って毒を制すような考えは避けており、極力慈悲心によって怒りや恨みなどのネガティブな感情や不幸な境遇に打ち勝つように説いています。これは悪人を増長させるように思われがちですが、実際は憎むより許した方が悪人にとって最も辛い因果が生じます。

密教的な思想にはたまに暴力を肯定するような教えも出てきますが、それはかなり限定された条件の相当なレベルの覚醒者のみにあてはまるような教えで一般人には毒になるものが多いです。例えば仏典の『理趣経』は、性欲などの現世の快楽も菩薩の境地でありありがたく良いものだ、と、人間のほとんどの我欲を肯定している異色の経典ですが、これは性欲などに惑わされなくなったハイレベルな境地の修行者のための教えであって、そこに至っていない人には誤解を与え毒にもなるセンシティブな教えです。某教祖の行いも密教の教えを悪用したものですが、結果的に社会に悪影響しか与えていないわけで、そもそも解脱者ではないか、あるいは教団の中で安楽な生活を続けていくうちに堕落してしまったか、といったところなのでしょう。覚者と呼ばれる人の中でも、信者にちやほやされてうるうちに魂のレベルが下がってしまうのか、贅沢三昧の暮らしに執着したり、はては犯罪にはしってしまう元聖者という人は意外といますね。悟ることよりも、その悟りを一生維持していくことのほうが難しいものなのかもしれませんね。

(注4)ポアの概念は〜 2022.2.13追記
先日たまたま以下の動画を見ていたら、元幹部だった上祐氏が、ポアの概念の出典となる「ヴァジラヤーナ」の出所について話しておられました。
動画では、事件を起こす背景になったヴァジラヤーナ(密教≠意味する言葉。金剛乗)の奥義ポアは、元教祖が高名なチベット仏教の賢者、カル・リンポチェ(リンポチェ≠ヘチベット仏教の高僧の称号)から直々に教わったものだという話が出てきます。元教祖はダライラマともそこそこ交流があったようで、そういったお墨付きも中沢新一氏をはじめ文化人や世間に誤解を与えていたのでしょうね。チベット仏教も仏教の宗派のひとつですから、当然殺生は厳しく禁じられています。しかし、お釈迦様も、受け取る人のレベルによって教えの内容も変えてますし、小学生と大学生では授業内容が異なるように、一般人と高度な修行僧とは学ぶべき内容も変わっていくものです。それゆえ、密教、つまり民衆に開かれている根本的な教えと対照的に、一般にはおすすめできない高度な修行僧向けのハイリスクハイリターンな感じの教えでは、時として真逆なように見える教えも出てきます。そうしたものの中にポアなどの教えもあったということでしょうね。ポアの概念は、専門的にはかなり深い内容で、単純に殺人を正当化してる思想ではないですが、それこそ『デッドゾーン』の主人公のように、確実に100%未来が見通せる確証があってはじめて、殺害対象が明らかにこの世に地獄をもたらす悪魔であるかどうかを決めれるわけですが、実際問題そういうことは無理(客観的に未来予知を証明できない)でしょうね。未来に起きるかもしれない、現時点でやってもいない罪で他者を裁くというのは、どうしても理不尽なものを感じてしまいます。


デヴィッド・クローネンバーグ

多くの人は皆予言者なのではないですから、自分のした善行でさえ、ゆくゆく誰かの悪行の手助けになってしまうことは皆無ではありません。なにげない善意の募金が兵器を買うお金になってしまう事もあるでしょう。ナイフも調理人が持てば美食で人を唸らすツールになりますが、悪人が持てば凶器にもなります。キリストも姦通罪で捕らえられた女性をめぐって「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい」(ヨハネによる福音書 8章7節)と言った記述がありますが、まさに、他者を責める前に自分にその資格があるのかどうかを冷静に見つめ直す事はとても大事ですね。私もネットニュースの断片的な情報で、つい記事から受ける印象だけで犯人の動機や被害者の心情まで憶測して、SNSに持論を吐露するまではいかなくとも、ついつい心の中で断罪したり裁いたりしがちで、その後正確な情報が憶測と違った内容だったりして反省することもよくある事です。リアルな対人関係でも誤解によって人を判断して失敗することもたまにあります。そうした自戒を込めて気をつけたいものです。

「デッドゾーン」の主人公を多くの観客が支持するのは、彼が本物のサイコメトラーであり、彼の予知が完璧であることが事前にきちんと描かれているために、彼のとった暗殺という手段が最善ではないにせよ、多くの人の共感を得られるレベルのヒロイックなものに見えるからです。しかし現実の事件は犯人の内面を知ることは当人しかできないことなので、仮にデッドゾーンの主人公のような生き方をする人がいても、まず共感を得る事はないでしょう。だからこそ逆にそういう問題を考えることで余計に「デッドゾーン」の主人公の悲しみがヒシヒシと伝わってくるのでしょうね。さすがはスティーブン・キングといった感じでしょうか。

メガホンをとったデヴィッド・クローネンバーグも好きな監督で、サイコなモダンホラー「ビデオドローム」(1983年)の衝撃は凄まじかったですね。「世にも奇妙な物語」に若き頃の竹中直人(当時35歳)が出演している「プリズナー」(1991年)という大好きなエピソードがあるんですが、これなどモロに「ビデオドローム」の影響を感じさせるアヴァンギャルドなホラー作品でしたね。また、ウィリアム・バロウズの代表作「裸のランチ」の映画化もすごかったですね。ジャンキーの目線で映像化された世界もユニークでしたが、音楽もフリージャズの巨匠オーネット・コールマンというのがシブくてセンスよかったです。

トロッコ問題とからめて「デッドゾーン」の思い入れを語ろうと書き始めたものの、後半はあまりトロッコ問題とは関係ない話になってしまいましたが、ちょうど自分が今チベット仏教に関することに興味がある時期だからか、「デッドゾーン」の主人公の苦悩とトロッコ問題とあの事件の話などから、中沢新一さんへのバッシングに対する私見などに脱線してしまいました。トロッコが脱線するのはまずいですが、話は多少は脱線したほうが広がりがあって良い面もあるので良しとしましょう。チベットに興味があると書きましたが、チベットは地下王国シャンバラの伝説とか、死後の世界のマニュアル「死者の書」など興味の尽きないところがあり、ミラレパなどの聖者やチョギャム・トゥルンパなどの現代のスピリチュアリストなどユニークな賢者も多く、知れば知る程面白いですね。いずれ地下世界をテーマにした記事などでシャンバラについて思いの丈を書いてみたいと思ってます。地下の世界ってジュール・ヴェルヌの空想したようにある種のロマンを感じる異世界で、とても心惹かれるものがあります。きれいな鉱物が埋まっていたり、鍾乳洞のような異界の風景が広がっていたりなど、地下にはダンテの描いたような地獄というよりは、シャンバラ伝説のような、秘められた楽園が眠っていそうなワクワク感があります。そのあたりはまた別の記事であらためて書いてみたいと思います。


メモ参考リンク

「世にも奇妙な物語」のエピソード「プリズナー」(「アニヲタWiki(仮)」様より)
posted by 八竹彗月 at 10:43| Comment(2) | 映画

2021年03月28日

映画『ファウスト』(ヤン・シュヴァンクマイエル)を鑑賞

シュヴァンクマイエルとファウストについての雑感

ヤン・シュヴァンクマイエルの才能は底知れないですね。クレイアニメの映像作家という枠だけで語りたくない、芸術家として語るのもまだ足りない、もっと自分の根源的な部分と結びついた愛着を勝手ながら感じています。「ああ、自分はこういう表現がしたかったんだ」「こういうものが見たかったんだ」というものを次々に具体化して見せてくれる心地よさがあります。デーモニッシュでグロテスクな、少々ショッキングなモチーフを愛用しつつも、ホラーというのとは違った、自分の潜在意識の奥底にある善悪とか美醜とか、まだ近代的な人間の価値観が定まっていないような人間の根源的な心象風景のようなものを感じ、不思議な郷愁感を感じるところがありますね。

初期の短編作品でハマってしまって、断片的にコレクションしてましたが、そうした中でDVD BOX『ヤン・シュヴァンクマイエル コンプリート・ボックス』が発売され、躊躇無くポチッたものでした。私の性分として、買ってしまうと満足してしまってそのまま何年も寝かせてしまうことがよくあります。本もけっこう積読率が高いのですが、このシュヴァンクマイエルのBOXもそうで、まだ全部は見てません。一体いつ頃購入したのか気になって購入履歴をチェックしてみたらなんと2008年でした。

ファウストというと実際に15世紀頃にドイツに実在していた魔術師ですが、ゲーテの有名な作品だけでなく、クリストファー・マーロウによる劇作など、なにかと表現のテーマに取り上げられることの多い題材だったようですね。教会の影響力の強かった時代において、悪魔と契約する魔術師ファウストを、単なるアウトローとしてだけでなく、叡智を求める探求者として肯定的ともとれる描かれ方をしたファウスト譚の流行は、キリスト教的な常識が支配する社会に新たな価値観をもたらし、ヨーロッパの自我の芽生えとして評価されてもいる、と解説に書かれてました。なるほど、西洋人の視点からすると、ファウストというのは、そうした意味もあるんですね。

私も、実在の魔術師ファウストのほうは、オカルト文献やドイツ文学者金森誠也さんの著書『霊界の研究』(PHP文庫 2008年)などで概要を知ってたので、いずれはゲーテの作品のほうも読んでみたいと思ってたところでした。なんどか古本市でも旧仮名遣いのゲーテの『ファウスト』を見かけて買おうかどうか何度か迷ったことがあるのですが、どうせ買っても積読だろう、となぜか毎回スルーしていたのでした。(ちなみに『霊界の研究』は、タイトルのスピっぽさとは逆に、スウェデンボルグからプラトンやカントなどの考えた霊界的な異世界にも多く言及されていて、読み応えがありました)

そういえば、手塚治虫も『ネオ・ファウスト』という作品を描いてますね。こちらもまだ未読ですが、wikiでは『ゲーテの『ファウスト』を題材に、舞台を高度経済成長期の日本に置き換えたオリジナルストーリーである』とのことで、奇しくもこれからレビューするシュヴァンクマイエルの『ファウスト』と似た切口で現代との関連性の中でファウスト譚を再構築しているような感じみたいで、今度は手塚版ファウストも読んでみたいですね。

あと、思い出すのは江戸川乱歩の少年探偵団をモチーフに、少年を少女に置き換えた推理ゲーム『御神楽少女探偵団』にも、劇場を舞台にした事件(たしか「太白星」というエピソード)で、ゲーテのファウストが取り上げられていましたね。まぁ、とにかく、難しそうだけど、そのうち読んでみたい気になる古典のひとつがゲーテの『ファウスト』でしたので、いきなり原作を読むより、ファウストを題材にした映画などで耐性をつけてからゆっくりチャレンジしようか、ということで、シュヴァンクマイエルの『ファウスト』を見てみることにしたのでした。



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シュヴァンクマイエル大好きではあるんですが、アートシネマというのは鑑賞するときに気合いが要ります。まぁ、アートシネマか大衆娯楽映画かという線引きなど本当はどうでもいいことなのかもしれませんね。結局、自分にとって面白いかどうかだけが大事なので。宮崎駿監督の名言「大事な事っていうのはたいてい面倒くさい」というのがありましたが、鑑賞する側にもいえて、自分の肥やしになるような良い映画ほど気軽に鑑賞させてくれない所がありますね。当てはまらない作品も、もちろんありますが。

シュヴァンクマイエルの『ファウスト』

2008年からずっと寝かせていたDVDがやっと再生されることとなったわけですが、ということはこれを今日見たということは、奇しくも13年目。なんともはや、この西洋的な縁起の悪さもファウストの鑑賞という意味では逆にちょうどいいというか、ふさわしいタイミングっぽくもありますね。(ちなみに個人的には、13の数字にいちいち不吉を感じるのはストレスなので、13は日本では十三(とみ)、つまり富だッ!景気のいい数字だッ!≠ニ自己暗示っぽい定義をしています)

ということでいよいよ『ファウスト』のレビューに入りますが、結論からいいますと「面白い!すごい!」という感じでした。とくに爽快なシーンとか、感涙するようなシーンがあるわけではないのですが、映画を見てる間中、ずっと自分の心の中を覗いているような、神話の世界に入り込んだような、シュヴァンクマイエルの魔法にかけられてずっと夢を見ているような不思議な感覚に襲われました。真面目にストーリーを追おうと思って見ると難解に感じてしまいそうになりますが、シュヴァンクマイエル作品というのは、基本的に、その世界観に身を委ねて映像の魔法に酔いしれることが面白さのメインなので、次々と繰り出されるアイデアの奔流を目で追いながら、ひたすら感心しつづけているうちにあっという間にエンディングを迎えてしまいました。確かめると1時間37分の作品ということですが、こういう系の実験映画で時間を忘れるほど引き込まれてしまうということは、「やはり自分はシュヴァンクマイエル大好きなのだ」と再確認できたようでちょっと嬉しくなりました。(そのわりにまだBOX全部制覇してないという)

まず最初に現代のプラハの街が映され、「あれ?これファウスト≠セったはずでは??」という軽いジャブをくらいました。「ああ、そうか、ファウスト譚を現代に置き換えて再解釈する系の感じね」と、なんとなくタネがわかったつもりになり、それほど期待する事も無く、でもあのシュヴァンクマイエルなのだから、とりあえず見ておいて時間の無駄にはならないだろう、というくらいの気持ちで見始めました。しかし、それは甘かった。天才の表現力というものを侮っていた。これは傑作といっていいレベルの作品だったのでした。

まず、この作品の主人公は、毎日をただ生きることだけに追われる、とくに刮目すべきところがない冴えない中年男です。と、同時に悪魔に魂を売って宇宙の真理を知ろうとするファウスト博士そのものでもあり、また人間ですらないマリオネットでもあります。舞台は雑踏の行き交う現代のプラハの街であり、同時に怪し気な地下劇場でもあり、同時に地平線が見渡せる平原でもあります。「夢と現実が交錯する」みたいな表現方法ってありますが、この作品ではさらに度を超して、夢であると同時に現実であり、その境界も区別もない、混沌とした描き方をしています。それでいて、現実と虚構がきちんと映像的にアナロジカルに結びつけれてているので、言うほどややこしい感じは受けません。むしろ、そういう見せ方をするからこそ、シュヴァンクマイエルのニヒリスティックでありながらもどこか本質を突いた哲学が作品を通して訴えかけてくるところがあります。

起きている出来事が、地下劇場の舞台の上の出来事だったと思えば、いつのまにか現実の街中で起きている最中の出来事に変わっていたりと、まるで夢の中で起きている出来事のような描き方がとても面白いです。もしかしたら、人生そのものも、ひとつの演劇のようなものなのかもしれない、いや、そうではなく、ひとつの演劇を実際の自分の人生だと勘違いして生きている自分自身に向けた皮肉がこの作品のメッセージなのではないか?などといろいろ考えさせられました。

中年男のファウスト博士が究極の知恵を得るために召還する悪魔、メフィストフェレスはその召還者たる中年男と同一の顔で出てくるところも意味深で良いですね。ドッペルゲンガーを意味しているのか?とか、悪魔は自分自身の心に潜んでいるということの暗喩なのか?とか、いろいろ解釈はあると思いますが、私はこれはシュヴァンクマイエル監督の哲学的な皮肉なのではないか、と思いました。究極の秘密を尋ねる相手が自分自身であるという。まぁ、結局、本当の秘密というのは、自分とは何者なのか?という謎の背後に隠れているものなのでしょう。

この作品では、人間と人形(マリオネット)が入れ替わりながら話が進んでいきます。マリオネットを操る傀儡師(くぐつし。人形を操る人の意)の手が何度も映るのですが、結局傀儡師自身は最後まで裏方のまま姿を見せずに終わります。これも実に面白いですね。マリオネットを操っている傀儡師は、運命とか、神の暗喩なのでしょう。人形も人の手で作られたものではなく、どこからともなく地の果てから転がってやってくる不可解な物体として描かれてますし、傀儡師もマリオネットを操ったり、雷の効果音をブリキ板を震わせて鳴らしたりしてますが、手だけしか出てこないので、実体のない異次元の存在のような雰囲気を醸し出しています。

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シュヴァンクマイエル作品の惹かれるところというのは、東欧独特の「心象風景がそのまま物体化したかのような街の色」を上手く表現していて、遠い神話の世界にリアルに没入していく非現実感を体験させてくれるところですね。

寺山修司と市街劇

主人公の中年男は、自分の退屈な日常から、街中で手にした奇妙な地図に案内されて、不思議な地下劇場に迷いこみ、いつのまにかファウスト博士そのものになっていきますが、このくだりの流れは、寺山修司の代表的な前衛劇『ノック』『人力飛行機ソロモン』などの「市街劇」のアイデアを思わせますね。市街劇とは、文字通り劇場ではなく普通の市街でそのまま行う演劇スタイルで、街の空き地や銭湯の湯船の中で突然劇が行われるという前衛的な表現です。市街劇『ノック』では、地図を手渡された客は、地図を頼りに、アパートの一室や公園など、市街のあちこちで起こる演劇≠ニいう名のハプニングを体験するというユニークなものだったようです。寺山いわく、市街劇とは、演劇を劇場という名の牢獄から解放するための試みであり、また、我々の日常生きているこの生活の場こそ人生という演劇の舞台そのものではないか?というのが市街劇の哲学的背景です。1975年4月19日午後3時から4月20日午後9時にかけて、30時間市街劇『ノック』が上演されますが、観客にとっては演劇には違いないものの、関係のない一般市民にとってはわけがわからない異常な状態でもあり、案の定、市民からの苦情がきて警察が介入する事態になったようです。まぁ、そうしたハプニングも含めて寺山修司の武勇伝のようなところがありますが、突拍子も無いアイデアを思いつくだけでなく、実行してしまう行動力も手伝って伝説化してしまった感がありますね。

『ファウスト』でも、地下劇場の人形劇のシーンでファウストの助手役の人形が、悪魔に対して悪魔を呼び出す呪文と追い払う呪文の両方を交互に唱えるというイジワルを仕掛ける事で、悪魔が舞台と、劇場の外の市街を行ったり来たりと慌ただしく往復する描写があります。また、中年男が野外カフェでテーブルに穴を開けて、穴から出るワインを飲む場面など、現実と演劇的な状況が交錯してる様子を描くシーンがいくつもあって、文献やビデオなどで片鱗しか見た事の無い寺山修司の市街劇も、こんな感じだったのだろうか?などと考えながら鑑賞していました。

あと、唐突なお色気担当のバレエダンサーの集団もユニークですね。とくに意味は無いけどセクシー感が欲しい!という感じで挿入されてるような雰囲気がたまりません。こういう計算外のようなシュールシーンもシュヴァンクマイエル作品の好きなところで、『オテサーネク』でも、アパートの階段で意味なく少女のパンチラシーンがあったのを思い出します。意味は無いけど、じゃあ、あのシーンを削ってもいいのかと言われれば、けっこう印象深く、シュヴァンクマイエル監督のフェチっぽいエロスの感覚というのがああいったシーンで独特の味わいを醸し出しているので、絶対必要なシーンでもありますね。

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せっかくなので孔雀の羽とか、近くに置いてあるものをいろいろ並べて撮ってみました。そういえば寺山修司も実験映像を集大成したボックス『寺山修司実験映像ワールド』がVHS版で出て、その後DVDでも再発されましたね。もしやこれも絶版か?と気になって検索してみたら現在では全4巻で単品でも買えるようでほっとしました。アートシネマといえど日本アートシネマの代表格のような人ですから、さすがにちゃんと今でもニーズがあるのでしょうね。

人形と人間

シュヴァンクマイエル作品は、短編作品時代のクレイアニメで一気に知られるようになりましたし、粘土の人形という意味では、今回のマリオネットも、シュヴァンクマイエルらしいアイテムといってもいいのでしょう。粘土のアニメーションとしての人形は、人間に似せて、人間にできない動きや変化を表現させるのが主目的ですが、今回のマリオネットは、民芸品のようなアルカイックな造形の人形を用い、あえてリアルでないことによって、人間に似せるのではなく、人間そのものの暗喩として機能させているような表現でしたね。人間であったのが、いつのまにか人形になっていたり、人形かと思っていると、かぶりものの中は人間が入っていたり、など、特撮とか前衛とか、そういうのとはニュアンスが違う、動物がしゃべったり、人間と神々が普通に交流するような世界、寓話や神話の世界のような、霊的な存在と物質的な存在の境界の無いような、不思議な世界観を映画という形で見事に構築していて、本当に唯一無二の才能だなぁと感心しました。

この映画の秀逸なアイデアは、奇妙な地図に案内されて行った先に、奇妙な人形劇の劇場があるという、ミステリー的というか、パズル的な仕掛けですね。地図に案内されて迷いこんだ主人公は、いつしかアイデンティティを失って、替わりにファウストを演じる役者だと思い込んでいき、いつしか、もはや役者でもなく、ファウストそのものだと信じ込んでしまうという流れも、なかなか不思議なムード感でよかったですね。

この怪しい劇場の雰囲気で連想するのは、『世にも奇妙な物語』でも映像化された諸星大二郎の短編『復讐クラブ』の地下映写室や、少女だけが集う森の中の学校を舞台にしたロリータで幻想的な映画『エコール』に描かれる、地下の演芸場で行われる少女のバレエ発表会、それに、ヘルマン・ヘッセの神秘的な寓意譚『荒野の狼』で言及される「魔術劇場」などです。それらはどれも自分の嗜好性にかなりの影響を受けた作家や作品ですが、そうした今までの嗜好の総集編的なニュアンスもこの『ファウスト』にはあって、それで引き込まれたところもあるのだと思います。

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ヤン・シュヴァンクマイエルのコレクション。シュヴァンクマイエル全アイテムをコンプリートしてるわけではないですが、大好きなアーティストであることには違いありません。他にも絵本などの翻訳などもいろいろ出ていて、マニアックな作風ながらも意外と日本人受けする作家というイメージもありますね。私はコレクター気質はあると自分で思ってますが、コンプリート欲のようなものは希薄で、全集なども全巻揃えたいという欲求はあまりありません。欲しい巻だけ揃えるという感じのコレクターですが、それってコレクターというより単なる普通のお買い物なのでは?と自問自答する今日この頃。
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2015年03月14日

映画『LUCY/ルーシー』を見て思ったこと

使われていない脳、NIGHT HEAD
人間は脳の機能を10%しか使えていない、という説はよく聞きますが、じゃあ残り90%は何のために機能して(機能しないで)いるんだろうという疑問が湧きます。よくある俗説のひとつに「脳の眠った領域には超能力めいた未知の能力が秘められている」というものがあります。これをテーマにしたドラマというとすぐ思い浮かぶのは『NIGHT HEAD』ですね。当初深夜ドラマとして放映されましたが飯田譲治の優れた脚本の魅力と、人気の美形俳優の話題性もあって絶大な人気を博し、映画、小説などメディアミックス展開され一大ブームになりました。豊川悦司と武田真治演じるイケメンなサイキック兄弟の数奇な運命を描くSFサスペンスで、タイトルの『NIGHT HEAD』は、脳の使用されていない眠った領域を意味しています。哲学的というか、衒学的な要素があって、そういうところが自分の娯楽のツボであり、好みのポイントなので、とても面白かった印象があります。

科学的には根拠が薄いようですが
『NIGHT HEAD』の場合は「人間の脳は30%しか使っていない」という説を採用していますが、まぁ、10%か30%かは些細な問題で、つまりは、人間は脳のほとんどの領域を使えていない、ということが言いたいのでしょう。この有名な俗説には、実はたいした根拠があるわけではなく、一説には、1998年にアメリカのCMで商品のコピーに使われたことが発祥であるという見解もあります。しかし、『NIGHT HEAD』は1992年10月から放映されたドラマであり、『NIGHT HEAD』放映当時でもすでに知られていた説ですから、この俗説はもっと前からあったはずです。おそらく、もっとも古いものは19世紀の脳研究の成果にルーツがあるようで、「サイレントエリア説」というもののようです。結論から言えばいわゆる「科学的」には「脳はほとんど使われていない説」は誤り、ということのようですが、脳科学も宇宙論と同様にあまりに未知の部分が大きい学問でありますから、現在定説となっている概念も絶対的な真理かというと、そうでもなさそうでもあり、実生活に支障のない概念であれば、科学的であるかどうかよりも、「面白い」ほうを採択するのが自分の最近の傾向としてあります。合理的、論理的なものが、そうでないものよりも正しい、と考えるのは、人間特有の先入観のようにも思いますし、正しいか間違っているかということよりも、人生を豊かに幸福にしてくれるかどうかで物事を判断していくほうが、意外とより良い人生の歩き方としては正解なのではないか、と思う昨今です。

映画『LUCY/ルーシー』
このユニークな脳の俗説を映画にした感じの『LUCY/ルーシー』という作品を先日見ました。(予告編のリンク)去年話題になったそうで、私は今頃知ったわけですが、興味深いテーマだったので、とても関心を惹かれて勢いで見てみました。ざっと一言でいうと、『マトリックス』と『キル・ビル』を足したような作品ですが、芸術的な完成度ではどちらにも到達できていない印象です。しかし、それが逆に気楽に鑑賞できる敷居の低さにもなっていて、気負わずに楽しめます。とても面白い作品でした。アクション映画としては物足りなさが残りますが、根本的なテーマ「人間が脳の未使用領域をフルに使ったらどうなる?」という部分を、衒学的なウンチクを含めて、なにげにちゃんと掘り下げて描いているので最後まで飽きさせません。昨今のスピリチュアル的な思想や仏教や神秘学的な概念などを上手く盛り込んでいて、いわば「悟り」の映像化を試みた作品といえるかもしれません。そうしたテーマを、恋愛や仕事に疲弊し、人生の探求の旅に出る苦悩多き若者、みたいな正攻法で描くのではなく、麻薬の運び屋に仕立てられてしまった不良娘(スカーレット・ヨハンソン)と、人目をはばからずに拳銃撃ちまくる無鉄砲すぎる怪しいアジア系マフィア組織との攻防という、B級アクションの定番みたいな設定で描いてみせるところが斬新です。そして、この、精神世界とB級アクションの絶妙なコンビネーションが特異な持ち味となってヒットに繋がったのでしょうね。脳が覚醒していくたびに、覚醒度が「30%」「40%」・・・などカウントされていく演出も面白かったです。悟りを、修行ではなくドラッグで手軽に実現してしまおう、という発想は1960年代後半にアメリカで起こったヒッピーを母体として生まれたニューエイジやビートニクなどにもありましたね。映画的な派手さがあるので、ドラッグで悟ってしまう主人公という設定も娯楽としてはアリだと思いますが、実際は、精神的な成長や学習を経ないままの素の状態でいきなり薬物で無理矢理覚醒させてしまうと、世間の麻薬中毒者のように普通に廃人になってしまいそうな気もしますね〜 

ルーシー・イン・ザ・スカイ・ウィズ・ダイヤモンド
映画『LUCY/ルーシー』の主人公、スカーレット・ヨハンソンの役名はルーシーで、映画の中に象徴的に何度か登場する原人の描写でわかるように、これは1974年にエチオピアで発見された318万年前のアウストラロピテクスの化石に付けられた名前です。原人のルーシーが人間の物質的なルーツであるなら、スカーレット・ヨハンソン演じるルーシーは精神を完全に目覚めさせた最初の人類という寓意が込められているのでしょう。エチオピアで貴重な人類の祖先の化石を発見した調査隊は当時流行っていたビートルズの曲『ルーシー・イン・ザ・スカイ・ウィズ・ダイヤモンド』から原人の愛称をとりました。この曲は、「タンジェリンの木とマーマレードの空」だの「万華鏡の目をした女の子」だのとサイケでシュールな歌詞で、しかも曲名の頭文字を並べると幻覚作用のある麻薬、LSD(Lucy in the Sky with Diamonds)になることから、当時から物議を醸しラジオで放送禁止になったりと騒動になったため、曲を作ったジョン・レノンは「単なる偶然だ」と弁明しました。ジョンの息子ジュリアンが描いた絵が発想の元になったとジョンは説明しましたが、本当の所は本人のみぞ知るという感じですね。なぜこの曲について細かく言及したかというと、「人類のルーツである原人」の名前を持つ主人公が「麻薬」によって脳が覚醒するという設定まで、単なる客寄せの設定ではなく、物語的にも意味のある一貫した寓意を感じたからです。

脳と宇宙
宇宙に関する謎は数多く、「ダークマター(暗黒物質)」「ダークエネルギー(暗黒エネルギー)」もそういった謎の中でもとりわけ重大で根本的な謎です。この未だに解明されてない謎の物質とエネルギーが宇宙のほとんどを司っているようで、wikiには「2003年から、宇宙背景放射を観測するWMAP衛星の観測によって、宇宙全体の物質エネルギーのうち、74%が暗黒エネルギー、22%が暗黒物質で、人類が見知ることが出来る物質の大半を占めていると思われる水素やヘリウムは4%ぐらいしかないことが分かってきている。」とありました。つまり、宇宙のほとんどの領域は正体不明の物質とエネルギーで満ち満ちているというわけですね。最近よくネットで見かける「ネズミの脳内にある神経細胞と宇宙生成のシミュレーション」を比較した興味深い画像があります。こうした脳と宇宙のアナロジカルな関係と、脳内の未解明の領域としていわれている俗説とよくにた比率の一致(10%程度の既知と、90%以上の謎の領域)をからめて類推すると、神秘学でよく言われている「人体と宇宙の対応」も、あながち眉唾なものではない気がしてきます。西洋魔術でよく見る図像「生命の木(セフィロト)」や、ヒンドゥー教のヨーガで言われる「チャクラ」など、洋の東西を問わず、古くから自らの内面と宇宙とは相互に対応しているという概念が存在しており、そうした人類の深層意識にある直感と昨今の科学的に解明されていく世界のリアリティとの類似も手伝い、「無限の力を秘めた潜在意識」に対する空想を刺激してやみません。人間が知覚できる可視領域は、電磁波のごくわずかな領域にすぎませんし、可聴域も犬以下であるということは、つまり人間はこの世界を客観的にありのままに知覚することはできていないことを意味します。あくまで人間に備わった感覚器官がもたらす刺激に反応しているだけで、世界そのままのリアリティを感じているわけではなく、人間の知覚や認識の領域を超えた概念は、全くの謎です。

世界のリアリティに関する雑感
例えば数学的な4次元以上の空間は、3次元の我々にはリアルに脳内に描くことが不可能なために、3次元以上の高次元の物体を把握するためには、3次元以下の空間に翻訳した影や展開図といった婉曲な概念で認識していくしかありません。突き詰めると、科学というのは、人間の理性が共有できる概念の総体のようなもので、オカルティズムの側から解釈すれば、科学は意識の覚醒度合いに左右されない知識体系であり、「悟っていてもいなくても納得できうる万人に共有可能な概念」と言い換えることができると思います。意識状態が普段と違う状態でないと把握できない概念、つまり悟りなどの特殊な意識状態では、科学的でない解釈や概念が頻出します。つまりオカルティズムは理性で捉えられる概念を超えているため、本当の意味で理解するためには、意識状態そのものを自覚的に変容させる必要があります。まさにそのことがオカルティズムに対する誤解の原因にもなっているように感じます。一例として、古代インドから連綿と続く宗教的な真理に「アートマン(真我、自分の本質、内在する神)は、本来ブラフマン(宇宙を存在させ動かす最高原理、神)と同一である」という考えがあります。最近ネットでもよく目にするようになった現代のインドの覚者ラマナ・マハルシ(1879〜1950年)が悟った境地もまさにソレであったようです。自分と宇宙が同一であるなどという概念は、普段の日常的な意識では、納得できる解釈が不可能ですから、これを現代の脳科学や心理学などで解釈し、「嘘」か「誤謬」であるかのように判定しがちです。しかし、よく考えてみれば、私たちの身体は宇宙にある物質でできており、宇宙と「私」というものは別種の存在ではありません。人間は人間単独で生きることはできず、常に食べ物を外界から取り入れ、空気を必要とし、人間以外のあらゆるものによって生かされていますし、それは人間に限らず、全てのものが他の何かを存在させるために機能しています。真の意味で、この宇宙には「個体」というものは存在せず、なにか境界があるように思えるのは、「皮膚の内側だけが自分」とか考えてる脳内の線引きにすぎないように思えます。皮膚の内側にいる自分でさえ、心臓ひとつ意識的に制御できず、まさに意識の外にある潜在的な脳の機能に頼らざるを得ないわけです。デカルトは我思うこと(思考)に立脚したものを明瞭なリアリティへの出発点としましたが、禅などの瞑想修行を伴う宗教では、思考は心のかなり浅いレベルの機能であることを喝破していて、むしろ思考を止める意識状態からがようやく目覚めた意識への出発点と捉えているのがユニークです。思考(理性)によって真理に到達しようとするのが科学であると仮定すると、思考を離れてしまうと、もはや学問(科学)として検証することが不可能です。しばしばオカルトや宗教は、非科学的であることを理由に軽んじられますが、そもそもが非合理な領域を把握するツールなので、どちらが正しいというものは究極的にはない気がします。相対性理論の双子のパラドクスとか、量子論の有名な二重スリット問題など、素人目にはオカルトにしか見えませんが、そのように科学もこの世界のリアリティに近づくほどオカルトめいてくるように感じます。この私たちが生きている世界は、退屈どころか、実は想像している以上に、とんでもなくユニークで面白い世界なのかもしれません。
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2014年12月20日

イップ・マン

ブルース・リーの師匠だったという実在した伝説の武術家イップ・マンの人生を描いた映画が数年前に公開され、カンフー映画としては日本でもひさびさのヒット作だったそうですね。私はいまさら知りましたが、YouTubeでいくつか断片的な映像を見て、主演のドニー・イェンのアクションにいっぺんで惹き込まれてしまい、衝動的に「イップ・マン 序章」「イップ・マン 葉問」「イップ・マン 誕生」の3本を借りてきて立て続けに鑑賞しました。さきほど見終わった所ですが、いや〜超絶面白かったです。時代背景が戦争をまたいでいるので、「序章」では反日的なシーンもありますが、拳法のアクションの見事な演出に目を奪われっぱなしで、それほど嫌みな描写という印象は個人的にはなかったです。ソコはやはりアクション映画ですから、悪役はそれなりにキチンと嫌なやつとして描かれていないとカタルシスを作れないですから、ある意味お約束だと思うしかないですね。「序章」では日本人、「葉問」ではイギリス人が悪者として出てきますが、かなりトンデモなキャラに描かれてますし、忠実な自伝映画ではなく、かなりフィクションを混ぜてそうな感じですね。イップ・マンという実在の人物をモデルに描くヒーローモノとして見たほうが良いでしょう。ただ、実際イップ・マンは当時日本軍にそうとうヒドイ目にあわされ、「(詠春拳を)日本人には教えてはならない」と遺言を残したほどだったそうですから、ブルース・リーが学んだ拳法という圧倒的なアドバンテージがありながら詠春拳が日本では耳慣れない拳法である理由も、そうした事情が関わっているのかもしれません。

格闘技とか全く詳しくないですが、中国武術(カンフー)って単なる格闘術というだけでなく、独特のユニークな「型」が魅力です。その絵になる「動き」の美しさはまさに映画向きで、香港映画だけにとどまらず「マトリックス」をはじめ世界中のアクション映画に絶大な影響を与えていますね。「北斗の拳」「男塾」などもそうですが、少年漫画でも定番ともいえるほどカンフーアクションは浸透してます。演出面ではワイヤーアクションで現実ではありえないような動きまで表現するところも面白いですし、型を演じる動作にいちいちブオッ!ブオッ!という風を切る摩擦音が入るのも気持ち良くて好きな演出です。今回のイップ・マン演じるドニーの操る詠春拳は女性武術家が創始した流派のようで、俊敏な動きの中に流麗な美しさを感じますね。「イップ・マン 葉問」ではドニー・イェンVSサモ・ハン・キンポーという興味深いバトルも見所です。というか全てのバトルシーンがかっこ良くて美しいです。ドニー・イェンの演技はこの映画で見たのがはじめてですが、目にも留まらぬスピードの中に何か静けさと色気を感じる個性的なアクションは新時代のカリスマ性を感じ、とても楽しませてもらいました。

「イップ・マン 序章」のワンシーン。
武術の街、広東省仏山市に突如現れたガラの悪い道場破りが街一番の使い手であるイップ・マン宅に押し掛け、そのままバトルに突入した場面です。秒単位で計算されつくしたアクション演出が素晴らしい。こんな感じの胸躍るアクションシーンが序盤からクライマックスまでバランス良く配置され、構成も見事なものです。このシーンでは、イップ・マン宅のインテリアも実に趣味がよく、不思議な形の奇石の置物や盆栽、円形の飾り棚などのオリエンタルな小物とアールヌーボー調の建具やシャンデリアなどの洋風デザインがいい感じに融合していて、こんな家に住んでみたいと思わせる趣味人っぽい豪邸にも惹かれます。美術さんもいい仕事してますね。

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「イップ・マン 序章」のワンシーン。物語的には重要ではないシーンですが、テーブルの上に置かれたユニークな奇石の置物に思わず反応してしまいました。イップ・マン宅の描写では、そこかしこに不思議な置物があって面白いです。建物や景観やインテリアなどなど、オリエンタル情緒あふれる美術も見てて楽しいです。

大好きなシーン。「イップ・マン 葉問」の序盤のワンシーンです。仏山市から香港に移ってきたばかりの頃、生活のために道場を始めるイップ・マン。門下生がひとりもいなくて悶々としているときに現れた第一弟子との出会いを描いたシーンです。ちょうど、ケンカ自慢の若者が「俺に勝ったらとりあえず稽古代を払う」とイップ・マンを挑発し手合わせを始めるところからの場面ですが、その圧倒的な強さにプライドを傷つけられ不良仲間を連れて復讐に来ます。が、あっという間に彼の詠春拳で制圧され、それによって完全に降参した若者は素直に土下座して弟子入りを懇願、この後にすぐ残りの不良たちも次いで土下座して弟子入りを希望します。これにより道場経営がやっとスタートするというイイ展開に繋がります。それにしても速くて美しいほれぼれするアクションです。カンフー独特の技巧的な魅せる格闘術を鮮やかに表現していますね。

ドニー・イェン主演の「イップ・マン」2作(「序章」、「葉問」)によってイップ・マン・ブームのような感じになったようで、イップ・マンのエピソードをモチーフにした映画が続々と作られましたが、今回見た「イップ・マン 誕生」もそうした作品のひとつです。こちらはドニー・イェンではなくデニス・トーが若かりし頃のイップ・マンを演じていますが、こちらもなかなかに良いアクションを見せてくれます。「序章」より若い時期、幼少から描いていてこちらもすごく面白いです。「誕生」でもあからさまにトンデモな日本人の悪者が出てきますが、道場のお家騒動や「詠春拳とは何ぞや」的な蘊蓄も描かれていて楽しいです。幼なじみの女の子と富豪のご令嬢との三角関係といううらやましいモテっぷりも描かれ、どこか矢吹ジョーっぽいストイックなロマンスが武術家らしいエピソードです。去年の近作では「グランドマスター」、晩年を描いた「イップ・マン 最終章」なども作られており、まだまだブームは続いているようですね。
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2014年01月20日

無垢の楽園「エコール」

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映画「エコール」のチラシ。B5サイズ。
2004年 フランス映画 監督・脚本:ルシール・アザリロヴィック 原作:「ミネ・ハハ」フランク・ヴェデキント 協賛:アニエスb


いつか書こうと思っていた「エコール」ですが、思い入れのある映画ゆえに、考えすぎてしまってなかなか手をつけれませんでした。気負いすぎるといつになるかわからないので、何も考えずに勢いで書いてみようと思います。

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細長い蛇腹折りのチラシ。

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同上チラシを開いたところ。

緑に囲まれた森の中にひっそりと佇む少女だけの秘密の学校。イリス、アリス、ビアンカの3人の少女の視点から、謎めいた学校を舞台に描かれる寓意的でシュールな作品です。鮮やかな緑の森を舞う、真っ白な制服の少女たちを通して、無垢であるがゆえのエロスを見事に描き出した傑作。とても好きな映画です。原題は「イノセンス(Innocence)」ですが、押井守のアニメ映画との混同を避けるために作者の了承の下、日本では「エコール」として公開されたようです。

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「エコール」のDVD。ピクチャーレーベルが美しい。

どこか深い地底から地上を目指すモグラような視点の奇妙な映像から物語ははじまります。やがて地を出ると水底で、さらに水面を目指して上昇する映像。やっと地上に出ると、自然豊かな森の中の映像がしばらく続きます。これは原作の「ミネ・ハハ」で描かれる序盤の以下の部分の映像化だと思いますが、なかなか思わせぶりでユニークな演出です。

刻み込まれた、古い記憶の中に潜っていく。
途切れ途切れの記憶。
記憶の隅にある、いちばん最初の記憶まで、深く、深く。

光が見える。
わたしは光の中にいる。
透ける緑色の葉。
隙間からこぼれる、金色の光。

わたしは、二歳くらいだろうか。
たしか、その夏は雨が降らなかった。
わたしは、夏の太陽を透かした葉を見つめていた。
生まれてはじめて知った空の色も、この色だった。
一点の曇りもなく、輝く緑。

わたしには、この色が幸せの色に映る。今でも、本当に時折、子供の頃のように心が躍る瞬間がある。そのとき、わたしはこの色を見ている。希望さえも含まない純粋な幸福の緑色。希望の色は何色だろうか。
その色を知るには、わたしは歳をとりすぎてしまった。
今はもう、胸に希望を抱く理由もないのだから。


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「ミネ・ハハ」フランク・ヴェデキント:著 市川実和子:訳 リトルモア:発行 2006年

少女たちのフェティッシュでエロティックな表現も躊躇することなく挿入されていて、公開当時のレビューも性的な表現の部分に賛否が別れているようです。しかし、そもそも少女もまた人間である以上、性からまったく切り離された「無垢」などというものは嘘であることを女性であるルシール監督は前提として理解していますし、偽善的、建前的な「無垢」ではなく、もっと深い意味での「無垢」を表現したかったのではないかと推察します。

ルシール監督の描く「無垢」は、性への関心を建前的に封印した少女によってではなく、年相応に当たり前に性と向き合う少女の姿の中に見いだせる「無垢性」こそが本物なのだ、という哲学を感じます。少女の、無邪気さゆえに純粋に邪悪を求めていく姿を描いた「小さな悪の華」(1970年 フランス ジョエル・セリア:監督)もまた、「無垢」とは何かを深く追求した先に見える本質に気づかされます。

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「エコール」パンフレット

この学校は天国であり、同時に刑務所でもあるのです。
ルシール・アザリロヴィック(「エコール」パンフレットのインタビューより抜粋)


ある意味、無垢であること、純粋であることは、俗世で生きるのに不便な特質です。だから彼女たちは俗世から切り離された森の中で、妖精のように生きています。しかし、彼女たちが無垢であることを許されるのは、まさに少女ゆえの特権であって、永続的な資質なのではありません。やがて初潮を迎える頃に少女たちは、エコール(学校)を巣立つわけですが、映画では、学校を卒業したその後の少女の顛末についてあまり明確に描いていません。しかしながらとても想像をかきたてられるユニークなラストであります。

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「エコール Les poupées d'Hizuki dans L'Ecole」陽月・吉田良:著 アニエス・b:衣装 飛鳥新社:発行 2006年
人形作家の陽月さんによるもうひとつの「エコール」。想像以上に素晴らしい作品集です。可愛らしく妖しい球体関節人形によって「エコール」の世界が見事に表現されています。石坂圭一氏による美しい装丁も見事です。


「無垢な少女」という記号性は、学年を示すリボンの色分けや、アニエス・bのデザインする真っ白な服によって際立ったビジュアルイメージで表現されます。なにか大きな事件が起こるわけでもなく、一見地味なシナリオですが、ビジュアルはそれを補うように饒舌で、少女の小悪魔的な内面や、やがてやってくる初潮への畏れなどを、セリフに頼る事なく「絵」として様々な角度から描き出していて退屈しません。

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金井美恵子「春の画の館」思潮社 1973年

彼女たちの通う学校は、どこか売春宿の寓意を匂わせていて、この映画を見て私はすぐに、金井美恵子の散文詩「春の画の館」を思い出しました。以前にも記事で触れましたが、「春の画の館」は、「エコール」よりも、もっと具体的に「春の画の館では公然と売春が行われる」と書かれていて、その館は、少女だけでなく、少年もいます。この作品も寓意的で、「エコール」の世界に通じる質感を感じました。興味のある方はぜひ読んで欲しい作品です。

奇しくも「エコール」日本公開と同年の2006年に、ゲーム「ルール・オブ・ローズ」がPS2ソフトとして発売になります。無邪気で邪悪な少女たちが支配する寂れた孤児院に迷い込んでしまった主人公を襲う怪異を、ファンタジックに描いた作品で、これもどこか「エコール」的な世界を感じるユニークなゲームです。

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(右)映画「カルネ」(1994年)パンフレット (左)映画「ミミ」(1996年)のポストカード。
「エコール」の監督ルシール・アザリロヴィックは、現代を舞台にしたリアル赤ずきんちゃんと言われたあの映画「ミミ」の監督でもあり、序盤の衝撃的な映像で話題になったギャスパー・ノエの「カルネ」の編集にもかかわっていたようですね。

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日本では2006年に渋谷シネマライズで上映され、運良く私も劇場公開を見ることができました。

「エコール」日本版トレーラー
少女のひそひそ声にドキッとします。秀逸な予告編ですね。
posted by 八竹彗月 at 00:39| Comment(2) | 映画