2015年03月14日

映画『LUCY/ルーシー』を見て思ったこと

使われていない脳、NIGHT HEAD
人間は脳の機能を10%しか使えていない、という説はよく聞きますが、じゃあ残り90%は何のために機能して(機能しないで)いるんだろうという疑問が湧きます。よくある俗説のひとつに「脳の眠った領域には超能力めいた未知の能力が秘められている」というものがあります。これをテーマにしたドラマというとすぐ思い浮かぶのは『NIGHT HEAD』ですね。当初深夜ドラマとして放映されましたが飯田譲治の優れた脚本の魅力と、人気の美形俳優の話題性もあって絶大な人気を博し、映画、小説などメディアミックス展開され一大ブームになりました。豊川悦司と武田真治演じるイケメンなサイキック兄弟の数奇な運命を描くSFサスペンスで、タイトルの『NIGHT HEAD』は、脳の使用されていない眠った領域を意味しています。哲学的というか、衒学的な要素があって、そういうところが自分の娯楽のツボであり、好みのポイントなので、とても面白かった印象があります。

科学的には根拠が薄いようですが
『NIGHT HEAD』の場合は「人間の脳は30%しか使っていない」という説を採用していますが、まぁ、10%か30%かは些細な問題で、つまりは、人間は脳のほとんどの領域を使えていない、ということが言いたいのでしょう。この有名な俗説には、実はたいした根拠があるわけではなく、一説には、1998年にアメリカのCMで商品のコピーに使われたことが発祥であるという見解もあります。しかし、『NIGHT HEAD』は1992年10月から放映されたドラマであり、『NIGHT HEAD』放映当時でもすでに知られていた説ですから、この俗説はもっと前からあったはずです。おそらく、もっとも古いものは19世紀の脳研究の成果にルーツがあるようで、「サイレントエリア説」というもののようです。いわゆる「科学的」には「脳はほとんど使われていない説」は誤り、ということのようです。しかし!私は、個人的な信条として、使われていない脳の領域に秘められたロマンを採択したいです。脳科学も宇宙論と同様にあまりに未知の部分が大きい学問でありますから、現在定説となっている概念も絶対的な真理ではありえません。実生活に支障のない概念であれば、自分を楽しくしてくれそうな概念のほうが有益かもしれません。科学的であるかどうかよりも、「面白い」に貢献してくれるなら、科学でもオカルトでも自分にとっては等価な概念にすぎません。むしろ、絵や音楽など、創作にかかわる人間なら、合理性と同じくらいに非合理性も味方にしておきたいものだ、と岡本太郎の「今日の芸術」を読みながら思った今日この頃です。

映画『LUCY/ルーシー』
このユニークな脳の俗説を映画にした感じの『LUCY/ルーシー』という作品を先日見ました。(予告編のリンク)去年話題になったそうで、私は今頃知ったわけですが、興味深いテーマだったので、とても関心を惹かれて勢いで見てみました。ざっと一言でいうと、『マトリックス』と『キル・ビル』を足したような作品ですが、芸術的な完成度ではどちらにも到達できていない印象です。しかし、それが逆に気楽に鑑賞できる敷居の低さにもなっていて、気負わずに楽しめます。とても面白い作品でした。アクション映画としては物足りなさが残りますが、根本的なテーマ「人間が脳の未使用領域をフルに使ったらどうなる?」という部分を、衒学的なウンチクを含めて、なにげにちゃんと掘り下げて描いているので最後まで飽きさせません。昨今のスピリチュアル的な思想や仏教や神秘学的な概念などを上手く盛り込んでいて、いわば「悟り」の映像化を試みた作品といえるかもしれません。そうしたテーマを、恋愛や仕事に疲弊し、人生の探求の旅に出る苦悩多き若者、みたいな正攻法で描くのではなく、麻薬の運び屋に仕立てられてしまった不良娘(スカーレット・ヨハンソン)と、人目をはばからずに拳銃撃ちまくる無鉄砲すぎる怪しいアジア系マフィア組織との攻防という、B級アクションの定番みたいな設定で描いてみせるところが斬新です。そして、この、精神世界とB級アクションの絶妙なコンビネーションが特異な持ち味となってヒットに繋がったのでしょうね。脳が覚醒していくたびに、覚醒度が「30%」「40%」・・・などカウントされていく演出も面白かったです。悟りを、修行ではなくドラッグで手軽に実現してしまおう、という発想は1960年代後半にアメリカで起こったヒッピーを母体として生まれたニューエイジやビートニクなどにもありましたね。映画的な派手さがあるので、ドラッグで悟ってしまう主人公という設定も娯楽としてはアリだと思いますが、実際は、精神的な成長や学習を経ないままの素の状態でいきなり薬物で無理矢理覚醒させてしまうと、世間の麻薬中毒者のように普通に廃人になってしまいそうな気もしますね〜 

ルーシー・イン・ザ・スカイ・ウィズ・ダイヤモンド
映画『LUCY/ルーシー』の主人公、スカーレット・ヨハンソンの役名はルーシーで、映画の中に象徴的に何度か登場する原人の描写でわかるように、これは1974年にエチオピアで発見された318万年前のアウストラロピテクスの化石に付けられた名前です。原人のルーシーが人間の物質的なルーツであるなら、スカーレット・ヨハンソン演じるルーシーは精神を完全に目覚めさせた最初の人類という寓意が込められているのでしょう。エチオピアで貴重な人類の祖先の化石を発見した調査隊は当時流行っていたビートルズの曲『ルーシー・イン・ザ・スカイ・ウィズ・ダイヤモンド』から原人の愛称をとりました。この曲は、「タンジェリンの木とマーマレードの空」だの「万華鏡の目をした女の子」だのとサイケでシュールな歌詞で、しかも曲名の頭文字を並べると幻覚作用のある麻薬、LSD(Lucy in the Sky with Diamonds)になることから、当時から物議を醸しラジオで放送禁止になったりと騒動になったため、曲を作ったジョン・レノンは「単なる偶然だ」と弁明しました。ジョンの息子ジュリアンが描いた絵が発想の元になったとジョンは説明しましたが、本当の所は本人のみぞ知るという感じですね。なぜこの曲について細かく言及したかというと、「人類のルーツである原人」の名前を持つ主人公が「麻薬」によって脳が覚醒するという設定まで、単なる客寄せの設定ではなく、物語的にも意味のある一貫した寓意を感じたからです。

脳と宇宙
宇宙に関する謎は数多く、「ダークマター(暗黒物質)」「ダークエネルギー(暗黒エネルギー)」もそういった謎の中でもとりわけ重大で根本的な謎です。この未だに解明されてない謎の物質とエネルギーが宇宙のほとんどを司っているようで、wikiには「2003年から、宇宙背景放射を観測するWMAP衛星の観測によって、宇宙全体の物質エネルギーのうち、74%が暗黒エネルギー、22%が暗黒物質で、人類が見知ることが出来る物質の大半を占めていると思われる水素やヘリウムは4%ぐらいしかないことが分かってきている。」とありました。つまり、宇宙のほとんどの領域は正体不明の物質とエネルギーで満ち満ちているというわけですね。最近よくネットで見かける「ネズミの脳内にある神経細胞と宇宙生成のシミュレーション」を比較した興味深い画像があります。こうした脳と宇宙のアナロジカルな関係と、脳内の未解明の領域としていわれている俗説とよくにた比率の一致(10%程度の既知と、90%以上の謎の領域)をからめて類推すると、神秘学でよく言われている「人体と宇宙の対応」も、あながち眉唾なものではない気がしてきます。西洋魔術でよく見る図像「生命の木(セフィロト)」や、ヒンドゥー教のヨーガで言われる「チャクラ」など、洋の東西を問わず、古くから自らの内面と宇宙とは相互に対応しているという概念が存在しており、そうした人類の深層意識にある直感と昨今の科学的に解明されていく世界のリアリティとの類似も手伝い、「無限の力を秘めた潜在意識」に対する空想を刺激してやみません。人間が知覚できる可視領域は、電磁波のごくわずかな領域にすぎませんし、可聴域も犬以下であるということは、つまり人間はこの世界を客観的にありのままに知覚することはできていないことを意味します。あくまで人間に備わった感覚器官がもたらす刺激に反応しているだけで、世界そのままのリアリティを感じているわけではなく、人間の知覚や認識の領域を超えた概念は、全くの謎です。

世界のリアリティに関する雑感
例えば数学的な4次元以上の空間は、3次元の我々にはリアルに脳内に描くことが不可能なために、3次元以上の高次元の物体を把握するためには、3次元以下の空間に翻訳した影や展開図といった婉曲な概念で認識していくしかありません。突き詰めると、科学というのは、人間の理性が共有できる概念の総体のようなもので、オカルティズムの側から解釈すれば、科学は意識の覚醒度合いに左右されない知識体系であり、「悟っていてもいなくても納得できうる万人に共有可能な概念」と言い換えることができると思います。意識状態が普段と違う状態でないと把握できない概念、つまり悟りなどの特殊な意識状態では、科学的でない解釈や概念が頻出します。つまりオカルティズムは理性で捉えられる概念を超えているため、本当の意味で理解するためには、意識状態そのものを自覚的に変容させる必要があります。まさにそのことがオカルティズムに対する誤解の原因にもなっているように感じます。一例として、古代インドから連綿と続く宗教的な真理に「アートマン(真我、自分の本質、内在する神)は、本来ブラフマン(宇宙を存在させ動かす最高原理、神)と同一である」という考えがあります。最近ネットでもよく目にするようになった現代のインドの覚者ラマナ・マハルシ(1879〜1950年)が悟った境地もまさにソレであったようです。自分と宇宙が同一であるなどという概念は、普段の日常的な意識では、納得できる解釈が不可能ですから、これを現代の脳科学や心理学などで解釈し、「嘘」か「誤謬」であるかのように判定しがちです。しかし、よく考えてみれば、私たちの身体は宇宙にある物質でできており、宇宙と「私」というものは別種の存在ではありません。人間は人間単独で生きることはできず、常に食べ物を外界から取り入れ、空気を必要とし、人間以外のあらゆるものによって生かされていますし、それは人間に限らず、全てのものが他の何かを存在させるために機能しています。真の意味で、この宇宙には「個体」というものは存在せず、なにか境界があるように思えるのは、「皮膚の内側だけが自分」とか考えてる脳内の線引きにすぎないように思えます。皮膚の内側にいる自分でさえ、心臓ひとつ意識的に制御できず、まさに意識の外にある潜在的な脳の機能に頼らざるを得ないわけです。デカルトは我思うこと(思考)に立脚したものを明瞭なリアリティへの出発点としましたが、禅などの瞑想修行を伴う宗教では、思考は心のかなり浅いレベルの機能であることを喝破していて、むしろ思考を止める意識状態からがようやく目覚めた意識への出発点と捉えているのがユニークです。思考(理性)によって真理に到達しようとするのが科学であると仮定すると、思考を離れてしまうと、もはや学問(科学)として検証することが不可能です。しばしばオカルトや宗教は、非科学的であることを理由に軽んじられますが、そもそもが非合理な領域を把握するツールなので、どちらが正しいというものは究極的にはない気がします。相対性理論の双子のパラドクスとか、量子論の有名な二重スリット問題など、素人目にはオカルトにしか見えませんが、そのように科学もこの世界のリアリティに近づくほどオカルトめいてくるように感じます。この私たちが生きている世界は、退屈どころか、実は想像している以上に、とんでもなくユニークで面白い世界なのかもしれません。
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2014年12月20日

イップ・マン

ブルース・リーの師匠だったという実在した伝説の武術家イップ・マンの人生を描いた映画が数年前に公開され、カンフー映画としては日本でもひさびさのヒット作だったそうですね。私はいまさら知りましたが、YouTubeでいくつか断片的な映像を見て、主演のドニー・イェンのアクションにいっぺんで惹き込まれてしまい、衝動的に「イップ・マン 序章」「イップ・マン 葉問」「イップ・マン 誕生」の3本を借りてきて立て続けに鑑賞しました。さきほど見終わった所ですが、いや〜超絶面白かったです。時代背景が戦争をまたいでいるので、「序章」では反日的なシーンもありますが、拳法のアクションの見事な演出に目を奪われっぱなしで、それほど嫌みな描写という印象は個人的にはなかったです。ソコはやはりアクション映画ですから、悪役はそれなりにキチンと嫌なやつとして描かれていないとカタルシスを作れないですから、ある意味お約束だと思うしかないですね。「序章」では日本人、「葉問」ではイギリス人が悪者として出てきますが、かなりトンデモなキャラに描かれてますし、忠実な自伝映画ではなく、かなりフィクションを混ぜてそうな感じですね。イップ・マンという実在の人物をモデルに描くヒーローモノとして見たほうが良いでしょう。ただ、実際イップ・マンは当時日本軍にそうとうヒドイ目にあわされ、「(詠春拳を)日本人には教えてはならない」と遺言を残したほどだったそうですから、ブルース・リーが学んだ拳法という圧倒的なアドバンテージがありながら詠春拳が日本では耳慣れない拳法である理由も、そうした事情が関わっているのかもしれません。

格闘技とか全く詳しくないですが、中国武術(カンフー)って単なる格闘術というだけでなく、独特のユニークな「型」が魅力です。その絵になる「動き」の美しさはまさに映画向きで、香港映画だけにとどまらず「マトリックス」をはじめ世界中のアクション映画に絶大な影響を与えていますね。「北斗の拳」「男塾」などもそうですが、少年漫画でも定番ともいえるほどカンフーアクションは浸透してます。演出面ではワイヤーアクションで現実ではありえないような動きまで表現するところも面白いですし、型を演じる動作にいちいちブオッ!ブオッ!という風を切る摩擦音が入るのも気持ち良くて好きな演出です。今回のイップ・マン演じるドニーの操る詠春拳は女性武術家が創始した流派のようで、俊敏な動きの中に流麗な美しさを感じますね。「イップ・マン 葉問」ではドニー・イェンVSサモ・ハン・キンポーという興味深いバトルも見所です。というか全てのバトルシーンがかっこ良くて美しいです。ドニー・イェンの演技はこの映画で見たのがはじめてですが、目にも留まらぬスピードの中に何か静けさと色気を感じる個性的なアクションは新時代のカリスマ性を感じ、とても楽しませてもらいました。

「イップ・マン 序章」のワンシーン。
武術の街、広東省仏山市に突如現れたガラの悪い道場破りが街一番の使い手であるイップ・マン宅に押し掛け、そのままバトルに突入した場面です。秒単位で計算されつくしたアクション演出が素晴らしい。こんな感じの胸躍るアクションシーンが序盤からクライマックスまでバランス良く配置され、構成も見事なものです。このシーンでは、イップ・マン宅のインテリアも実に趣味がよく、不思議な形の奇石の置物や盆栽、円形の飾り棚などのオリエンタルな小物とアールヌーボー調の建具やシャンデリアなどの洋風デザインがいい感じに融合していて、こんな家に住んでみたいと思わせる趣味人っぽい豪邸にも惹かれます。美術さんもいい仕事してますね。

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「イップ・マン 序章」のワンシーン。物語的には重要ではないシーンですが、テーブルの上に置かれたユニークな奇石の置物に思わず反応してしまいました。イップ・マン宅の描写では、そこかしこに不思議な置物があって面白いです。建物や景観やインテリアなどなど、オリエンタル情緒あふれる美術も見てて楽しいです。

大好きなシーン。「イップ・マン 葉問」の序盤のワンシーンです。仏山市から香港に移ってきたばかりの頃、生活のために道場を始めるイップ・マン。門下生がひとりもいなくて悶々としているときに現れた第一弟子との出会いを描いたシーンです。ちょうど、ケンカ自慢の若者が「俺に勝ったらとりあえず稽古代を払う」とイップ・マンを挑発し手合わせを始めるところからの場面ですが、その圧倒的な強さにプライドを傷つけられ不良仲間を連れて復讐に来ます。が、あっという間に彼の詠春拳で制圧され、それによって完全に降参した若者は素直に土下座して弟子入りを懇願、この後にすぐ残りの不良たちも次いで土下座して弟子入りを希望します。これにより道場経営がやっとスタートするというイイ展開に繋がります。それにしても速くて美しいほれぼれするアクションです。カンフー独特の技巧的な魅せる格闘術を鮮やかに表現していますね。

ドニー・イェン主演の「イップ・マン」2作(「序章」、「葉問」)によってイップ・マン・ブームのような感じになったようで、イップ・マンのエピソードをモチーフにした映画が続々と作られましたが、今回見た「イップ・マン 誕生」もそうした作品のひとつです。こちらはドニー・イェンではなくデニス・トーが若かりし頃のイップ・マンを演じていますが、こちらもなかなかに良いアクションを見せてくれます。「序章」より若い時期、幼少から描いていてこちらもすごく面白いです。「誕生」でもあからさまにトンデモな日本人の悪者が出てきますが、道場のお家騒動や「詠春拳とは何ぞや」的な蘊蓄も描かれていて楽しいです。幼なじみの女の子と富豪のご令嬢との三角関係といううらやましいモテっぷりも描かれ、どこか矢吹ジョーっぽいストイックなロマンスが武術家らしいエピソードです。去年の近作では「グランドマスター」、晩年を描いた「イップ・マン 最終章」なども作られており、まだまだブームは続いているようですね。
posted by 八竹釣月 at 09:56| Comment(0) | 映画

2014年01月20日

無垢の楽園「エコール」

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映画「エコール」のチラシ。B5サイズ。
2004年 フランス映画 監督・脚本:ルシール・アザリロヴィック 原作:「ミネ・ハハ」フランク・ヴェデキント 協賛:アニエスb


いつか書こうと思っていた「エコール」ですが、思い入れのある映画ゆえに、考えすぎてしまってなかなか手をつけれませんでした。気負いすぎるといつになるかわからないので、何も考えずに勢いで書いてみようと思います。

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細長い蛇腹折りのチラシ。

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同上チラシを開いたところ。

緑に囲まれた森の中にひっそりと佇む少女だけの秘密の学校。イリス、アリス、ビアンカの3人の少女の視点から、謎めいた学校を舞台に描かれる寓意的でシュールな作品です。鮮やかな緑の森を舞う、真っ白な制服の少女たちを通して、無垢であるがゆえのエロスを見事に描き出した傑作。とても好きな映画です。原題は「イノセンス(Innocence)」ですが、押井守のアニメ映画との混同を避けるために作者の了承の下、日本では「エコール」として公開されたようです。

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「エコール」のDVD。ピクチャーレーベルが美しい。

どこか深い地底から地上を目指すモグラような視点の奇妙な映像から物語ははじまります。やがて地を出ると水底で、さらに水面を目指して上昇する映像。やっと地上に出ると、自然豊かな森の中の映像がしばらく続きます。これは原作の「ミネ・ハハ」で描かれる序盤の以下の部分の映像化だと思いますが、なかなか思わせぶりでユニークな演出です。

刻み込まれた、古い記憶の中に潜っていく。
途切れ途切れの記憶。
記憶の隅にある、いちばん最初の記憶まで、深く、深く。

光が見える。
わたしは光の中にいる。
透ける緑色の葉。
隙間からこぼれる、金色の光。

わたしは、二歳くらいだろうか。
たしか、その夏は雨が降らなかった。
わたしは、夏の太陽を透かした葉を見つめていた。
生まれてはじめて知った空の色も、この色だった。
一点の曇りもなく、輝く緑。

わたしには、この色が幸せの色に映る。今でも、本当に時折、子供の頃のように心が躍る瞬間がある。そのとき、わたしはこの色を見ている。希望さえも含まない純粋な幸福の緑色。希望の色は何色だろうか。
その色を知るには、わたしは歳をとりすぎてしまった。
今はもう、胸に希望を抱く理由もないのだから。


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「ミネ・ハハ」フランク・ヴェデキント:著 市川実和子:訳 リトルモア:発行 2006年

少女たちのフェティッシュでエロティックな表現も躊躇することなく挿入されていて、公開当時のレビューも性的な表現の部分に賛否が別れているようです。しかし、そもそも少女もまた人間である以上、性からまったく切り離された「無垢」などというものは嘘であることを女性であるルシール監督は前提として理解していますし、偽善的、建前的な「無垢」ではなく、もっと深い意味での「無垢」を表現したかったのではないかと推察します。

ルシール監督の描く「無垢」は、性への関心を建前的に封印した少女によってではなく、年相応に当たり前に性と向き合う少女の姿の中に見いだせる「無垢性」こそが本物なのだ、という哲学を感じます。少女の、無邪気さゆえに純粋に邪悪を求めていく姿を描いた「小さな悪の華」(1970年 フランス ジョエル・セリア:監督)もまた、「無垢」とは何かを深く追求した先に見える本質に気づかされます。

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「エコール」パンフレット

この学校は天国であり、同時に刑務所でもあるのです。
ルシール・アザリロヴィック(「エコール」パンフレットのインタビューより抜粋)


ある意味、無垢であること、純粋であることは、俗世で生きるのに不便な特質です。だから彼女たちは俗世から切り離された森の中で、妖精のように生きています。しかし、彼女たちが無垢であることを許されるのは、まさに少女ゆえの特権であって、永続的な資質なのではありません。やがて初潮を迎える頃に少女たちは、エコール(学校)を巣立つわけですが、映画では、学校を卒業したその後の少女の顛末についてあまり明確に描いていません。しかしながらとても想像をかきたてられるユニークなラストであります。

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「エコール Les poupées d'Hizuki dans L'Ecole」陽月・吉田良:著 アニエス・b:衣装 飛鳥新社:発行 2006年
人形作家の陽月さんによるもうひとつの「エコール」。想像以上に素晴らしい作品集です。可愛らしく妖しい球体関節人形によって「エコール」の世界が見事に表現されています。石坂圭一氏による美しい装丁も見事です。


「無垢な少女」という記号性は、学年を示すリボンの色分けや、アニエス・bのデザインする真っ白な服によって際立ったビジュアルイメージで表現されます。なにか大きな事件が起こるわけでもなく、一見地味なシナリオですが、ビジュアルはそれを補うように饒舌で、少女の小悪魔的な内面や、やがてやってくる初潮への畏れなどを、セリフに頼る事なく「絵」として様々な角度から描き出していて退屈しません。

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金井美恵子「春の画の館」思潮社 1973年

彼女たちの通う学校は、どこか売春宿の寓意を匂わせていて、この映画を見て私はすぐに、金井美恵子の散文詩「春の画の館」を思い出しました。以前にも記事で触れましたが、「春の画の館」は、「エコール」よりも、もっと具体的に「春の画の館では公然と売春が行われる」と書かれていて、その館は、少女だけでなく、少年もいます。この作品も寓意的で、「エコール」の世界に通じる質感を感じました。興味のある方はぜひ読んで欲しい作品です。

奇しくも「エコール」日本公開と同年の2006年に、ゲーム「ルール・オブ・ローズ」がPS2ソフトとして発売になります。無邪気で邪悪な少女たちが支配する寂れた孤児院に迷い込んでしまった主人公を襲う怪異を、ファンタジックに描いた作品で、これもどこか「エコール」的な世界を感じるユニークなゲームです。

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(右)映画「カルネ」(1994年)パンフレット (左)映画「ミミ」(1996年)のポストカード。
「エコール」の監督ルシール・アザリロヴィックは、現代を舞台にしたリアル赤ずきんちゃんと言われたあの映画「ミミ」の監督でもあり、序盤の衝撃的な映像で話題になったギャスパー・ノエの「カルネ」の編集にもかかわっていたようですね。

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日本では2006年に渋谷シネマライズで上映され、運良く私も劇場公開を見ることができました。

「エコール」日本版トレーラー
少女のひそひそ声にドキッとします。秀逸な予告編ですね。
posted by 八竹釣月 at 00:39| Comment(2) | 映画

2012年10月05日

映画『アシュラ』を鑑賞

1970年少年マガジンに連載され有害図書として発禁問題を起こした問題作が40年の沈黙を破り映画化。恥ずかしながら原作は未読なので、予備知識や先入観をあまり持たずに鑑賞できたのは、それはそれで良かったのかなと思いました。見終わって、感動の余韻にひたりつつ作品を振り返ると、なぜこれが「有害」なのかに首をかしげます。少年誌だからマズいということなのかもしれませんが、少なくとも「有害」という名称で貶めてよい作品ではないと思いますね。ジョージ秋山作品は読んでなかったんですが、想像以上に凄い作家だったんだな〜と痛感します。テーマは重いですが、ここまで重いと暗いとか湿っぽいとかというレベルも超越して清々しささえ感じます。3Dのモーションを多用した作品ということですが、とくに違和感もなく、セルアニメとはまた違った新鮮な動きの表現に最近のアニメのコンピュータ化技術の進歩もかいま見れて興味深かったです。声優陣の魂のこもった熱演も見事。とにかく素晴らしい内容の作品でした。ぜひ原作も読んでみたいと思います。

序盤にひとりの身重の狂女が廃屋で子を産む壮絶なシーンから物語は始まりますが、人間も犬も鳥も大地さえも腹を空かせているような地獄のような世界で、狂女は喰えそうな食料が我が子しかいないという現実にわずかに残った理性で激しく葛藤します。普段当たり前すぎて気にかけることの少ない「食べる」という行為。当たり前に食べ物が手に入るということが、どれほど特殊な状況で恵まれた状態なのだろうか。陳腐な感想ですが、そういうことを考えずにいられませんでした。黒澤明の名作『七人の侍』でも米さえ満足に食べれない貧しい農村が舞台で、「食」について考えさせられましたが、現代の先進国でさえ餓死する人はいますから、食べ物に困らない状況というのはそれだけで天国なんだろうなぁと。『アシュラ』は、「問題作」といわれるだけの猟奇的な断片はたしかにありますが、作品全体から受けるメッセージはそのような至極まっとうなものであり、描かれる世界はなにも中世の特殊な世界なのではなく、もしかしたら現代に生きる人間の本質的な姿を、アシュラというアウトサイダーの視点から描いているようにも思いました。

現代文明の中で生まれた私たちは、物心つかないうちから文明の洗礼を受けて育ち、教育を受け、社会に出ます。ヒトもこの地球上で進化した動物なので、野生動物のような獣性は確実にその内部に抱えて生きているわけですが、文明の中でそれに気づく事無く大人になってしまいます。しかし中世の貧しい時代に生まれ落ちた主人公アシュラは文明の洗礼を受ける機会を逃し孤独にただ生きることだけを目的に成長していきます。人肉食というセンセーショナルなテーマは、ただ見世物的な好奇心や興味本位の猟奇趣味で描かれるのではなく、人肉を食らうことでしか命をつなぎ止めていくことができない究極の状況の中で描かれます。齢8歳にして人の命を奪うことでしか己を生かす術が無く、人の心を育む機会を逃して育ってしまったアシュラは、殺して喰うつもりだった放浪の法師によって人の道を教わり、行き倒れの彼を介抱してくれた少女によって人の心を取り戻していきます。心に突き刺さる名シーンが盛りだくさんでいろいろ語りたいところですが、これから見る方もいらっしゃると思うのでこの辺りで控えて筆を置こうと思います。
posted by 八竹釣月 at 16:44| Comment(0) | 映画