2018年12月08日

初代ルパン三世と70年代カルチャー

el_icon.png山下毅雄の音楽

ルパン三世といえば、言わずと知れたモンキー・パンチ原作の国民的な作品で、ご多分に漏れず私も好きです。といっても、アニメ版の1stシリーズが好きすぎて、1stシリーズ以外はあまり興味がなく、映画版にもそれほど食指が動きません。なので、ルパン三世のファンではあっても、1stシリーズと原作漫画のファンであると言ったほうが正確かもしれません。久しぶりにまた1stシリーズを見返しているところなので、1stルパンへの思い入れなどをちょっと語ってみたいと思います。1stルパンの大塚康生作画の魅力は言うに及ばず、山下毅雄(やました たけお)のモンドでサイケでジャジーな音楽も、ルパン一味が生息する窃盗や殺しといったアウトローが跋扈する裏社会の妖しい世界観をじつに上手く表現していますね。そのサイケでアダルトな妖しいムード感はルパン三世の世界観をより魅力的なものにしています。ルパンの音楽といえば、大野雄二さんの存在感も大きいですし、大野ルパンのほうも大好きではありますが、個人的な好みではやはりヤマタケさんの醸し出す音楽は1stシリーズ特有の「危険でエロスな香りのするルパン」にぴったりの、妖しく退廃的なムード感が濃厚に表現されていて、琴線に触れるものがあります。

作中の重要シーンでよくかかる「ヤパッパ、パパーヤ♪」のコーラスが印象的な「Afro Lupin '68」とかとくに大好きです。ほんとに絶妙なタイミングで流れされる曲で、この曲が流れると一気にテンションが上がりますね。山下毅雄は超個性的なセンスをもった天才肌の音楽家のイメージがあるので、寡作な人のようなイメージもありましたが、調べてみると他にもアニメ「ガンバの冒険」のOP、ED曲や、サイケなお色気アクションドラマ「プレイガール」などなど生涯数千曲を手がけた多作な人だったみたいで意外でした。「クイズ・タイムショック」や「パネルクイズアタック25」のテーマもヤマタケさんの曲ですが、あの「ショック!ショック!」や「アタック!」のかけ声は本人によるものだそうですね。

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「ルパン三世 ’71 ME トラックス」1999年 VAP
1stシリーズのサントラは時折聴きたくなります。このサントラは、当時のオリジナル音源は紛失しているため、効果音がかぶっている音素材を繋いで復元して作成されており、銃声や足音などの入った曲もあったりします。ノイズの無いオリジナルが失われているというのはもったいない話ですが、まぁ、無い物はしょうがないですし、再演奏よりは元の状態に近い形で出してくれるだけでありがたいものでもありますね。


メモ関連サイト
「Afro Lupin 68」山下毅雄(YouTube検索結果より)
ヤマタケ・ルパンの傑作音源ですね。ところでなぜアニメ化するよりも前の68の年号がついているのが気になって調べてみましたが、曲名自体が当時は付けられてなくて、1980年発売のCD『テレビオリジナルBGMコレクション ルパン三世』に収録されるさいにはじめて付けられた曲名だそうですが、なぜ68なのかはやはり不明だそうです。

山下毅雄(ウィキペディアより)

2018.12.26追記
チャーリーさんの添削により「Afro Lupin '68」の幻の歌詞が判明したという記事(Visage様のHP「The Long And Winding Road」より)

上述しましたとおり、ルパン三世関連の音楽の中で「Afro Lupin '68」が個人的にもっとも好きな曲なのですが、この楽曲はもともと劇伴(げきばん=劇中に使われる音楽)として作られたもので、歌詞は歌手のチャーリー・コーセイさんのアドリブらしく、正式な歌詞は存在していないようです。そこで、なんとなく歌詞が気になってきたので調べてみると、なんとチャーリー・コーセイさんご本人に歌詞を確認していただいて正式な歌詞が判明したという記事を見つけてビックリしました。「Afro Lupin '68」の出だしなど自分では適当に「Be Feeling Year〜!」とか雰囲気で聴いてたのですが、実際はこの出だしは「P-38(thirty eight)」が正解で、ワルサーP38の事を言っていたようですし、途中でしばしば聞こえる「キッコーマン!」は「it's cool man」だとか、記事を読みながらへぇボタンをバンバン押したくなってきました。



el_icon.png十三代五ヱ門登場

ルパン、次元、五エ門、不二子、といった黄金のキャラは、ドラえもんキャラと同じくらいに日本人なら誰でも知っているお馴染みのキャラクターですね。無国籍な雰囲気の舞台と登場人物が跋扈する作品の中で唯一コテコテの日本人キャラである五エ門の存在は、異質でありながら、その異質さがいい具合にルパン三世という作品に独特の個性を出していて、当初から好きなキャラでした。パイロットフィルム版のデフォルメの強い浅黒い五エ門もカッコよくて好きです。1stシリーズの第9話を除く第4話〜第15話のOPに使用されている人物紹介の作画もパイロット版からの流用なのですが、五エ門の作画が本編とあきらかに顔が違うので昔からなんとなく気になってました。「アフロ・ルパン68」をバックに人物紹介していくこのOPも大好きです。峰不二子も顔が違ってますが、こういう作画の不二子も70年代感があってイイですね〜

五エ門登場シーンの冒頭で、五エ門がその華奢な刀身の日本刀で、アナログなバッティングマシーンみたいな装置から放たれる3本の斧や、頭上から落ちて来る鉛の塊をまっぷたつにしたり、次元の早撃ちのピストルの銃弾をその刀ですべて切り捨てるシーンであっけにとられ、そしてそのシーンのインパクトによって、五エ門だけでなくルパン三世という作品自体に魅入られてしまったような気がします。金属もスッパリと斬ってしまう架空の日本刀「斬鉄剣」の使い手というインパクトのある設定は、分厚い金庫やマシンガンの弾までまっぷたつにしてしまうという、他作に類例のないオリジナリティ抜群のアクションシーンを生み出すことに成功しました。個性的なアクションといえば、アニメ「R.O.D」で「紙」をアクションに使うという斬新なアイデアに感服したものですが、斬鉄剣にしろ「紙」にしろ、こうした意外性のあるアイテムによるアクションシーンというのは、作品のオリジナリティと娯楽性を高めますね。北斗の拳も、「経絡秘孔(けいらくひこう)」という、鍼灸のツボのような概念で、人間の秘められた急所である特定の経絡秘孔を突くと、その直接的なダメージだけでなく、関連した人体内部が破壊され、頭が爆発したりなどする、奇妙なアクションシーンがお馴染みですが、このように、独自のビジュアルチックなアクションシーンはヒット作に共通するところですね。野球漫画では魔球モノとかもそうですね。こうした独自のアクションシーンのある作品は、多くのファンを惹き付ける重要な要素になっていますね。

五エ門といえば今でこそルパン一家の固定キャラですが、五エ門が登場するのは原作では第28話、アニメでは1stシリーズの第5話目からで、途中で追加されたキャラである事が推察されます。実際の五エ門誕生のきっかけは、モンキー・パンチ氏のインタビュー記事などで何度か言及しておられましたが、作者のモンキー・パンチ氏がアメリカのサンディエゴで行われたイベントに参加したさいに、現地のアメリカ人女性から、日本の漫画なのに東洋的なテイストに乏しいという指摘をうけたのが原因だそうで、それで急遽あからさまにオリエンタル感のあるキャラとして五エ門を登場させた、というのが経緯のようです。モンキー・パンチ氏の漫画は、アメコミのような「日本人作家らしくない」作風が持ち味ですから、「日本ぽくない」という意見は、ある意味ピントのずれた指摘のようにも思いますし、普通ならそういった、ファンならまず出てこないであろうズレた意見は一蹴してしまいそうですが、なぜかそういう一見むちゃくちゃに思える意見を素直に作品に取り入れたのは、なにか直感的な啓示があったのではないか、と勘ぐってしまうほど絶妙なものを感じます。結果的に五エ門は、ルパン三世という作品の個性を際立たせている重要なキャラになってますから、当時のモンキー・パンチ氏の柔軟な対応には、なにか運命的なものがありそうですね。もしルパン三世に五エ門がいなかったら、作品が欧米風無国籍漫画という作品傾向がそのまま表現されたものになったでしょうし、もしかしたら作風が調和しすぎて印象も薄くインパクトに欠ける作品になって埋もれてしまっていたかもしれません。

2018.12.30追記
印象深い五エ門初登場の第5話「十三代五エ門初登場」ですが、そういえばこのエピソード中で流れる演歌っぽい曲がありましたね。ルパンとの初決闘の夜に五エ門はひとり寝室で正座して深夜ラジオの女性DJのトークを聴いているというシーンがあるのですが、そのラジオでかかる演歌調の曲がふと気になって調べてみたらあっさり曲名が判明してスッキリしました。毎回インターネットの重宝さには感動します。五エ門がうっとりした表情で聴き入っていたアノ曲は、小柳ルミ子の「お祭りの夜」という曲だそうですね。ウィキペディアにも詳細が書いてありましたが、大ヒットしたデビュー曲「わたしの城下町」の次にリリースされた2ndシングルがこの「お祭りの夜」みたいです。曲そのものも、味わい深くてなかなか聴かせてくれる素敵な曲ですね。

小柳ルミ子「お祭りの夜」(ウィキペディア)




el_icon.png名前の奇跡

主人公ルパン三世はモーリス・ルブランの生んだ怪盗アルセーヌ・ルパンの孫という設定で、それに対になるような存在が銭形平次の子孫である警視庁の銭形警部です。五エ門は、安土桃山時代の盗賊の首長であった石川五右衛門の13代目の末裔ということですが、残りの次元と不二子は完全なオリジナルキャラですね。彼らのネーミングの由来もユニークですね。四次元などの「次元」という言葉が好きだったから名付けたとか、「事件大好き→じけんだいすき→じげんだいすけ→次元大介」になったとか、峰不二子は仕事場の壁にかかってた富士山のカレンダーに「霊峰富士」と書いてあったのを見て思いついたとか、なんかどれもあまり深く考えずにフワっとした思いつきで決めてる感があって好きなエピソードです。後世に残る傑作って、意外にそのようにふとした思いつきとか直感がかかわってたりするというのはよく聞きますし、実際そういう自力でウンウン唸ってひねり出したアイデアよりも、ふわっと思いついた直感のほうが正確に物事を見通すことって実際の日常でもよくありますね。次元大介も峰不二子も、どちらも比較的画数の少ないシンプルな見た目の名前ですが、最初見た時からそれぞれの文字並び方に独特なオーラのような、あるいは文字の繋がりのリズム感の面白さとか、名前の響きと文字面の両方が相乗的に醸し出すシュールで不思議なざわざわ感のようなものを、なんとなく感じていたような気がします。

現代の漫画などでは、キャラクターにクセのある特殊な響きや変わった文字面の漢字を使った名前を意図的に選んで付けてるような傾向が強い印象がありますが、うまくいけばキャラに独自の個性付けができて読者にも忘れがたいキャラに成長してくれるメリットがありますが、その反面、かえって感情移入しづらくさせてしまったり、キャラ名を覚えづらくさせてしまい、読者に微妙な心理的負担をかけてしまう場合もあり、諸刃の剣でもありますね。その点でも、次元大介、峰不二子、という名前は、絶妙なバランスで「ありそうでなさそうな感じ」を出していて、ただの思いつきで名付けたとは思えない運命づけられた名前のようにも思えてきます。いやむしろ、そうした運命を操る見えない世界の情報をキャッチする場合にこそ、思いつきというか、直感がモノをいうのでしょうね。江戸川乱歩が、単純にエドガー・アラン・ポーを当て字であらわしたペンネームでありながら、字面から漂う妖気のようなオーラは抜きん出たパワーを感じますし、そういうところも大衆を虜にした要因でもあると思ってますが、そのように、名前って力を抜いた精神状態で直感的に付けてしまうのがベストなのかもしれませんね。

そう考えていくと、そもそもルパン三世の生みの親からして秀逸ですね。このモンキー・パンチというペンネームも、主人公ルパン三世の別名でもおかしくない感じがしてきます。ルパンの顔はあの特徴的な髪型のせいか、動物に例えるとまさに猿っぽい(注:いい意味で!)ですし、まるでルパンの別名みたいなペンネームなのが面白いなぁ、と思って調べてみたら、なんと当時の漫画アクションの編集長に勝手に付けられたPNだったようで、当時は気に入っておらずいずれ改名しようと思っていたそうですが、作品がヒットしてしまったため機会を逃してしまったとのことです。これもまた不思議な運命の糸というか、運命の意図を感じますね〜 さらに、アニメのルパンではたまにわざと自ら猿っぽい変顔をする時がありますが、そうした猿系キャラが定着した原因であるあのスポーツ刈りっぽい短髪の髪型、これも最初は当時流行っていたビートルズやタイガースなどのグループサウンズなどがしていたロングヘアをルパンの髪型にしようと思てったそうです。しかし結果的に週刊連載時の負担を減らそうと楽に描ける短髪の髪型にしたというのが今のルパンの髪型になった理由なようです。こうなってくると、今や国民的作品になっているルパン三世の、ルパンらしい特徴から、次元、不二子などのサブキャラ、はては五エ門を登場させる理由にいたるまで、ほとんど偶然とか直感とかが関係していて、まるで神が采配したような不思議な作品に思えてきますね。

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「100てんランド・アニメコレクション4・ルパン三世 PART-1 旧シリーズ全収録1」双葉社 昭和57年発行
1stルパンのビジュアルムック。設定資料や各話紹介、キャラクター紹介、拳銃などの小物の解説から、まめ知識的な記事など、より深く1stルパンを堪能できました。五エ門初登場シーンで、次元の銃弾をすべてまっぷたつに斬り捨てるシーンがありますが、斬られた銃弾の画像のキャプションには「五エ門に切断されたマグナム弾はなぜか薬莢ごと発射されていた」と厳しいツッコミが入ってたりして容赦ないです。日本では銃器の所持は禁止されてますから、馴染みの無いアイテムだけに勘違いして描いちゃったのでしょうね。


メモ関連サイト
ルパン三世 (TV第1シリーズ) (ウィキペディアより)



el_icon.pngルパンの腕時計

最初ルパン三世にハマった頃は、その妙に欧州っぽい日本という無国籍な舞台設定の雰囲気の中でひときわ異彩を放つコテコテのサムライキャラである五エ門のミスマッチ感が大好きで、初代の作画と大塚周夫氏の声が「本物の五エ門の声!」というインプットがされてしまいました。初代五エ門のキャラデザインはもちろん、女好きのくせに硬派ぶってるカッコ可愛い性格なども含め、自分の脳内に完璧な五エ門像ができあがってしまったせいで、その後の五エ門にはどうしても違和感があって馴染めずにきてしまいました。1stシリーズは、もともと大人の鑑賞に堪えれるアニメを、というコンセプトが当初にあった作品であることはファンなら周知の有名なエピソードだと思います。第1話では、レアなクロノグラフの腕時計が大写しになったり、第6話に出てくる不二子の子分、通称「お子様ランチ」の乗ってる愛車がルノーで、次元も「ルノーか。お子様ランチにゃお似合いだぜ」と言わせたり、要所要所でアイテムに語らせるようなハードボイルド風の文法が生かされているところも、アダルト感があってぐっときたものです。

腕時計にそれほどこだわりも興味もなかったので高級腕時計というとロレックスくらいしか思い浮かばなかったですが、この機会に調べてみたら、車どころか家一軒買えてしまうくらい高価な腕時計が存在していてびっくりしました。最高峰はパテックフィリップというメーカーのようで、そうした値段になるのはハリボテのブランド力とか宝石などの高価な素材を多用することが原因なのではなく、それ相応の非常に難易度の高い精巧なメカニックを搭載し、そういう機構を実際に作れる腕を持った一流職人を抱えているメーカーであることも大きな理由でもあるようです。最近、トゥールビヨンなる腕時計の超複雑機構について知ったばかりなのですが、こうした過去の一流職人の技ものは、最新のテクノロジーに匹敵する魅力がありますね。ふとオーパーツで有名な「アンティキティラ島の天体観測機械」を彷彿としました。どんな時代にも、その時代の最高峰の技術というのは時代を超えて賞賛されるに値する芸術なのかもしれません。

トゥールビヨンをはじめとする腕時計の超複雑機構、実用品でありながら実用の範囲を超えてしまってるところなど、ルパンの第10話「ニセ札つくりを狙え!」に登場したニセ札作りの職人イワノフを彷彿としますね。イワノフはあまりに器用過ぎて、ルパンいわく本物よりも精巧なニセ札≠作ってしまうほどの腕前です。しかし工芸品ならいざしらずニセ札が本物を超えてしまったらかえって役に立たないのでは、とかついつい野暮な考えが頭をよぎってしまいますが、まぁ、そういうレベルのものは腕試し的に作成してるだけで、実際の仕事≠ナは、本物と同じモノを作ってたのでしょう。本物と全く同じレベルの偽物は、本家を上回る腕がないと作れませんからね。そういえば、このエピソードの舞台は奇しくも時計繋がりの時計塔でしたね。

第1話でルパンや次元がつけていたクロノグラフのメーカーは、どちらも実在するブランドのものらしく、以下の関連サイトのリンクに詳細を調査された方の記事がありましたので、リンクを貼っておきます。ルパンのクロノグラフを追ううちに、意外な出会いがあったりなど、とてもいい話を知ることができました。

メモ関連サイト
「ルパンの腕時計 YEMA meangraph super Marine model」(三葉(みつば)様のブログより)
第1話「ルパンは燃えているか?」に印象的に登場するルパンと次元が付けているクロノグラフ。この腕時計のブランドが気になって調べていたら、とてもいい話を知ることができました。しかし腕時計の世界も奥が深いですね〜 

腕時計のロマンがつまった7大複雑機構を徹底解説(「ダンディズムコレクション」様のサイトより)
一般に高級腕時計といえばロレックスの名が思い浮かびますが、世界の最高峰はさらに次元が違うようで、こちらのサイト様では超高級腕時計に搭載されている複雑で緻密なメカニックをいくつか紹介されています。ここまでくると実用の領域を超えた芸術品のレベルですね。

アンティキティラ島の機械(ウィキペディア)



el_icon.png70年代フォークソングの話

1stシリーズの放映は1971年10月24日〜1972年3月26日とのことで、当時の日本は寺山修司や唐十郎のアングラ演劇とか、サブカル漫画のハシリである「ガロ」や「COM」などが発行されていた時期と重なりますから、けっこうヒッピーでサイケな感じの若者文化が花開いていた時期っぽいですし、1stルパンからも、そうした時代の空気をビンビン感じます。ルパン三世のロゴ自体もいかにも70年代のサイケ感があって好みですし、OPの要所要所で、動きの途中でスケッチ画風の止め絵が入ったりする演出とか、不二子の踊るシーンの背景に西洋の偉人やピンナップガールのグラビア写真やフルーツの盛り合わせなどの雑多な写真がフラッシュバックするところなど、70年代の妖しい空気感が濃厚でうっとりします。

この時代には日本屈指の実験映画の傑作が多産された時期でもあり、松本俊夫「薔薇の葬列」(1969年)、寺山修司「書を捨てよ町へ出よう」(1971年)、大島渚「新宿泥棒日記 」(1969年)、若松孝二「新宿マッド」(1970年)、勅使河原宏「他人の顔」(1966年)などなど、個人的に思い入れのある日本映画の多くが1970年前後に発表されています。また音楽でも、日本はこの時代はフォークブームで、「日本のウッドストック」ともいえる中津川フォークジャンボリー(1969〜1971年)の開催された時期ですね。フォークソングというと、なんとなく牧歌的で慎ましい青春な感じの、当時の中産階級の大学生とかがキャンプ場で輪になって歌ってそうなステレオタイプなイメージがありますが、実際当時のフォークソングを聞いてみると、そういう真面目なイメージとは真逆のパンクな音楽で、社会に対する痛烈なメッセージや、人生の苦悩をえぐるような言葉と音で表現した激しい音楽もけっこう多く、想像以上に振り幅の大きな、当時の若者文化を席巻していた文化なのだなぁという印象を持ちました。

元来の牧歌的なフォークミュージックの定義から外れて爆発的に流行したフォークソングですが、このブームは当時すでに世界的に若者を惹き付けていたカリスマ、ボブ・ディランの影響によるものが大きかったと思います。当時のヒット曲「学生街の喫茶店」(ガロ 1972年)では、行きつけの喫茶店で頻繁にかかっていたボブ・ディランを聴いていた思い出を歌っています。ここからも70年代にはボブ・ディランはすでに日本の若者文化の中に馴染みきっていた様子が伺えると思います。ボブ・ディランのかかっているフォーク喫茶といえば、当時大阪にあった喫茶店「ディラン」(もちろん店名の由来はボブ・ディラン)からとったバンド名のザ・ディランII(ザ・ディラン・セカンド)というグループもありましたね。ディランIIは、ヒット曲「プカプカ」が収録されているアルバム「きのうの思い出に別れをつげるんだもの」(1972年)を聴きましたが、「プカプカ」以外では「君の窓から」「その時」などの曲もグッときました。そういえば吉田拓郎の曲「親切」(1972年)でも、ボブ・ディランの話ばかりする友人にうんざりしている様子を歌っていましたね。

フォークソングのフォークはフォークロア(folklore=民族的な伝承、風習、民話、民謡)からきているだけに、元々はもっと素朴で土着的な音楽を指してましたが、ボブ・ディラン以降は、ただフォークギターとハーモニカで演奏してればどんな過激な音楽性でもフォークソングと呼ばれるようになったような感じですね。遠藤ミチロウのスターリン以前にすでに情念のシンガー三上寛はパンクでしたし、そうした過激なフォークシンガーといえば友川かずきや遠藤賢司もものすごい個性派でユニークな存在感をもってましたね。叙情的でキャッチーなメロディが印象的な吉田拓郎も、初期の曲はほとばしるメッセージと詩情に満ちた熱い音楽が多く、初期も傑作が多いです。当時のフォークソングは、その魅力にハマって復刻CDなどを探したりしていろいろと聞きまくった時期があります。そうしたフォーク漁りでの個人的な収穫アルバムは、あがた森魚の「噫無情」、斉藤哲夫の「バイバイグッドバイサラバイ」、吉田拓郎(初期はひらがなのよしだたくろう*シ義)の「青春の詩」などで、今でもたまに聞きたくなる名盤は多いです。

「かぐや姫」のヒット曲「神田川」が、いわゆる暗いジメジメしたフォークのイメージが定着したきかっけになったような気がしますが、そういう先入観を持たずに聴くと、非常に味わい深い名曲でもあります。貧乏学生の恋愛を描いたその曲の影響で、そうしたテイストの一連の曲を指して「四畳半フォーク」というような俗称も生まれました。(ちなみに実際に歌詞で歌われているのは「三畳一間の小さな下宿」なのですが、「四畳半」という言葉は貧乏暮らしを意味する象徴的な単語みたいなものなので、語呂もいいことからそうネーミングされたのかもしれませんね)しかし、そういう曲ばかりでなく、日本的な美意識を叙情的に描いた傑作「夢一夜」などの名曲も生んだグループでもあります。「かぐや姫」といえば、あえて特筆したいのは、民謡の「田原坂(たばるざか)」をパロった隠れた珍曲「変調田原坂(へんちょうたばるざか)」というレア曲。曲の合間にちり紙交換のアナウンスの口上を挿入したりなど、「かぐや姫」っぽくないアヴァンギャルドでユーモラスな感じが面白い変な曲です。自分の中では「老人と子供のポルカ」(歌・左卜全とひまわりキティーズ)に匹敵する昭和のナンセンスソングの傑作だと思っています。

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70年代頃に発表されたフォークソングの名盤を復刻したCD。井上陽水、吉田拓郎、斉藤哲夫、あがた森魚、泉谷しげる、友部正人、五つの赤い風船、遠藤賢司などは今でもたまに聞きたくなりますね。

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「1970年全日本フォークジャンボリー」キングレコード 1990年
日本版ウッドストック、中津川フォークジャンボリー(または全日本フォークジャンボリー)での貴重なライブ音源を収録した2枚組アルバム。なぎらけんいち「怪盗ゴールデンバットのうた」とか、ひがしのひとし「ハナゲの伸長度に関する社会学的考察」とか、どんな曲なのか気になる変な曲名の作品もお楽しみのひとつですが、とくに凄いのは遠藤賢司の初期の代表的な曲のひとつ「夜汽車のブルース」のライブです。かき鳴らすギターの激しさに観客も一体となってテンションが上がっていく緊張感のある演奏が圧巻です。


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植草甚一編集の雑誌「宝島」1976年4月号より
あがた森魚によるボブ・ディランのアルバム「欲望」についてのレビュー記事
70年代の「宝島」はジャズ、ミステリー、映画評論など多岐にわたる執筆で知られた稀代の雑学王、植草甚一が編集していて、とても時代を反映した雑誌になっています。植草甚一編集の時代の「宝島」は、1冊まるごとマリファナ特集みたいな号もあったりして、サイケデリック、ヒッピー、ビートニクなどの当時の先鋭的な若者文化を旺盛に取り入れた大胆な編集が見所です。この号は、アメリカ建国200年を祝した号で、1冊まるごとアメリカ万歳な号ですが、そこは植草甚一編集だけあって、ドラッグカルチャーやロックやSFなど、カルトな切り口でアメリカを賛美していて面白いです。このページは、当時すでに日本の若者を虜にしていたカリスマ、ボブ・ディランの17枚目となる当時のニューアルバム「欲望」について、5人のレビュアーがひとり見開き2ページ分担当して語りまくる「ファイブ・アルバム・レビューズ」という企画の中の一部です。このページではあがた森魚さんがボブ・ディランをレビューしていて、興味深いです。あがた森魚というと、当時のフォークシンガーの中でも異質で、フォークソングのテーマにありがちな社会批判とか苦悩の青春とかラブソング的なものとは一線を画して、宮沢賢治的な天体ロマンとか鉱物愛的な歌とか大正ロマンな情緒など、とても虚構性の高いテーマを表現していてユニークなアーティストですが、そういうあがた森魚さんでもやはりボブ・ディランというのはかなり大きな存在だったみたいで、そういう所がちょっと意外で興味深い記事でした。


メモ関連サイト
四畳半フォーク(ウィキペディア)
念のためにウィキを検索してみたら、なかなか面白い事が書いてありました。「四畳半フォーク」という言葉は松任谷由実(当時は荒井由実)が当時のフォークを揶揄して使った言葉だとする説など、興味深い雑学を紹介してますね。

田原坂(たばるざか)(ウィキペディア)



el_icon.pngグラフィックとアクション

初代ルパンは音楽や作画や声優など、全般に渡って好きですが、まず最初に見たときに惹かれたのは構図のカッコよさです。といっても、はじめて見たのは小学生の子供の頃なので、構図がどうとか、そういう美術的な知識はなかったのですが、それでもなおグッとくるものがありました。「カッコよさ」という漠然とした概念を具体的に絵で表したものを見たときの感動がそこにはありました。例えば、大好きな五エ門初登場の第5話(まぁ、初代のエピソードは全部好きなのですが)に描かれたこの構図(下図参照)です。初めて見た時の衝撃は忘れられません。なんというかっこよさ!これは原作のモンキー・パンチ先生の天才的な構図のセンスをアニメに上手く持ち込んだシーンのひとつですね。子供心に思ったのは、「人間の身体って、みんな似たような形だと思い込んでいたけど、こういう角度から見ると、こんなにかっこ良く見えるんだ!」という事でした。

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この構図のカッコよさには子供でもしびれるものがありました。高速道路を走る車の群れの中、車の背を飛び石(庭園などに飛び飛びに置かれている石)を渡るように飛びながら、このときは敵対している五エ門と決闘をするシーンです。


このシーンは原作を確認していないのですが、おそらくモンキー・パンチ先生の絵をそのまま参考にしていそうな典型的モンキー・パンチな構図ですね。たなびくスリムなスラックスから覗く極細の足首もなんかカッコよさを感じてました。また、腕毛やすね毛が描かれたアニメというのも斬新で、「うーんマンダム」のCMが流行した70年代らしく、まだ男臭い男がカッコイイとされた時代ならではの「カッコイイ」の記号だったのでしょうね。この後、80年代に入ると、だんだんメンズファッションも中性的なものがウケるようになっていきますが、そういう意味でもルパン三世における「男」の描き方というのは時代を写していて、ルパンのいる世界は一見無国籍な異世界のようでいて、意外と時代を反映している所も多いですね。

あと、グラフィック的な面白さというと、ルパン三世のロゴのサイケ感とか、オープニングでロゴに撃たれる弾丸の痕とか、サブタイトルのタイプライター音とか、今となってはどれも「ルパンっぽさ」を醸し出すエレメントになっている感がありますね。ルパン三世のロゴは微妙に何度も変遷がありますが、初代の第3話までに使用された細いウェイトのロゴがスタイリッシュで怪しさも出ていて70年代特有のサイケ感まで匂ってくる感じで一番好きです。第4話からロゴがぽってりした太いフォントになるのですが、おそらく制作側の意図ではなく、視聴率不審からくるスポンサーやTV局側の大人の事情(もっと目立つロゴにして欲しい、とか)によるものじゃないかと推測します。このあたりは本当の事情を知りたいところですね。

前述したルパン三世のサブタイトルのタイプライター風の表示は、ネット上でもいろいろシミュレーションできるジェネレーターを公開されているサイトもあって、なかなか楽しいですね。

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初代ルパン三世のOPでお馴染みのサーチライトに追いかけられながら逃げるルパンも象徴的です。焦るどころか追いかけられるのを楽しんでいるように不敵な笑みを浮かべるこのOPのルパンの表情がまた素晴らしい。

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これは第1話にあるシーンですが、このヘルメットのかぶり方のアクションも独特で、いかにもルパンな感じのアクションの典型だと思います。こうした細かい個性的な描写が積み重なってルパン三世の唯一無二の世界観が構築されているのだと思います。

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「漫画アクション・コミックス ルパン三世 第1集」モンキー・パンチ著 双葉社 昭和43年
モンキー・パンチ先生の絵の才能は比類の無いもので、原色の鮮やかな配色を用いながらもスタイリッシュに魅せるセンスや、キャラの独特の大胆なポージングなど、ものすごい才気を感じる画面構成に圧倒されます。絵のタッチからただよう妖しい空気感なども天性のものを感じますね。ジャッキー・チェンの映画の素晴らしい日本版ポスターなども手がけられていて、イラストレーターとしての腕前も一級です。また集大成的な作品集出して欲しいですね〜


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同上。アニメの第2話「魔術師と呼ばれた男」の原作「魔術師」のヒトコマ。パイカルという「酔っぱらっちまいそうな名前」は、中国のお酒「白乾児(パイカル)」からとったものですが、字面に「白」があるからか、パイカルはアニメでは真っ白のスーツを着てましたね。原作では白以外に色付きのスーツを着用しているシーンがあります。また、アニメでは、パイカルの3つの謎(火炎放射する指先、銃弾を跳ね返す肉体、空中浮遊)をルパンひとりで全部解いてしまいますが、原作ではルパンお抱えの専任科学者に依頼して解析してもらっています。また、アニメのラストではルパンとパイカルはお互いを炎で焼き合いますが、ルパンもパイカルの使用しているのと同じ耐熱防弾効果のある皮膜を生成する薬品を使用していたため無事で、パイカルのほうは薬を塗ってから時間がたっていたため効果が消えかかっていて、焼け死んでしまうというオチでしたが、原作ではパイカルが焼死してしまったところまでは同じですが、専任科学者がルパンのアソコにだけ薬品を塗り忘れていたために股間を大やけどしてしまったというオチになっています。けっこうアダルトな表現が多めの印象のあるアニメ版第2話ですが、原作と比較すると、それでもかなりマイルドに抑えられていることがわかりますね。



el_icon.pngルパンと鬼太郎

冷静に考えると、泥棒という、犯罪者を主人公にした作品が国民的に愛されるようになったのも不思議な感じがしますね。手塚治虫作品の中で大好きな作品の筆頭に「ブラック・ジャック」があるのですが、この作品もまた法を逸脱した無免許の天才外科医が主人公でしたね。70年代あたりの漫画には、こうしたそれまでの品行方正な「正義の味方」像がかならずしも子供のヒーローでなくてもかまわないんだ、というパラダイムの転換を感じます。当時勢いのあった学生運動などの影響も多少ありそうな価値観ですが、またそうしたものと同時に、ルパンはある種の「自由」の象徴でもあり、そこに人々は憧れたのではないか、とも感じます。

ルパン三世1stシリーズ初放映の1971年10月には、ルパンと同じく今でも人気の長寿作品「ゲゲゲの鬼太郎」の第2シーズンの放映も開始されています。この鬼太郎のアニメOPではお馴染みの「お化けにゃ学校も試験もなんにもない!」という印象深い歌詞がありますが、これは原作者の水木しげる先生本人の作詞で、先生の思想のエッセンスである「幸せの七ヵ条」を彷彿とする哲学がうまく練り込まれた秀逸な歌詞だなぁと感心します。普通、お化けというと、ある意味「恐怖」や「不安」などの感情を擬人化したような存在で、どちらかというとネガティブな存在という一般通念がありますが、水木先生の詩では全く逆に、お化けは学校も試験も無い自由な存在で、むしろ彼らは人間より愉快で充実した人生を送っているんだよ、といったような、どこか憧れの対象であるかのような存在としてお化けを捉えているところがとても面白いです。お化けというのは、見えない世界の住人です。人間側がそれを恐ろしい邪悪な存在だと認識した場合に彼らは「お化け」と呼ばれますが、社会がまだ文明の洗礼を受けていない時代では、そういう存在はポジティブに捉えられていて、見えない世界の住人は集落を守護する精霊だったり、実りをもたらす神々だったりします。水木先生は戦争中、ニューギニアの現地人と親しく交流していた事を語っていますが、そうした経験もあって、見えない世界は迷信でも妄想でもなくちゃんと実在しているのだという確信があったのでしょうね。

「ゲゲゲの鬼太郎」では、しばしば社会に束縛されて苦しむ人間と、すべてのしがらみから自由に生きる妖怪のコントラストが描かれますが、これは本来の水木しげる先生本人の思想にもあるように、「ゲゲゲの鬼太郎」を通して「自由とは何か」を描いている面もあるのでしょうね。妖怪やお化けも、ある意味暗黒街を住処にする犯罪者であるルパンとその仲間たちと同じアウトローといえますが、ルパンたちもそういえばお化けたちと同じく、学校とか試験などの束縛や社会の法律からも自由な存在であります。そうした意味でも、ルパン三世は、単なるアンチヒーローではなく、人生の「自由」を獲得した存在でもあり、そうしたルパンたちの自由さが人々を惹き付けてるのではないか、とふと思いました。

メモ関連サイト
水木しげる「幸せの七ヵ条」(「grape」様のサイトより)



el_icon.png異世界としての暗黒街

そんなルパン一味が生息しているのは、盗みや殺しが日常的に起こっている暗黒街の片隅です。そこはなにやら殺伐とした恐ろしい世界のようですが、でもルパンや次元のような、単純に「悪人」ともいいきれない魅力的な男たちが闊歩する魅惑の世界でもあります。また、単純にヤクザやマフィアが生息する実際のアウトローの住む世界というよりは、この世界と真逆の法則が支配している「鏡の国」のような異世界っぽさもどことなく感じる妙な世界です。物語に何度も出てくる「殺し屋」という風変わりな職業などがいい例ですね。菅野ひろゆき氏のゲーム「EVE」や「探偵紳士」などに出てくる探偵(ゲーム内の世界では、探偵業を営むには世界的な探偵のギルドから発行されるライセンスが必要とされている。実際は探偵を開業するために特別な資格は無い)みたいな感じで、ルパン内の世界でも実際とは別のルールで存在する「殺し屋」がいい具合に異世界感がありますね。物語内で描かれる殺し屋はマフィア的な組織の仕事の一部としての殺しではなく、どうも殺し請負を専門にしている組織のようで、殺し屋プーンのエピソード(第9話「殺し屋はブルースを歌う」)や五エ門の師匠、殺し屋百地の話(第5話「十三代五ヱ門登場」)などを見るに、けっこう大規模な組織っぽく、このあたりの虚構性の高さというか、ファンタジーなノリが、平気で主人公一味が敵を殺害する1stルパンの殺伐としがちな空気を和らげています。

ルパンたちの暮らす「暗黒街」、そこは実社会の日陰に生きるアウトローの住む世界というような深刻な世界でもなく、表社会の鏡像のようにモラルや法などのあらゆるシステムが正反対になった異世界のような奇妙な世界です。そもそもがルパン三世の舞台になっているのは日本家屋よりも洋館率の高い日本のようで日本でないような無国籍な世界ですから、最初からルパン三世はある種の異世界の住人であるようにも思えます。第9話「殺し屋はブルースを歌う」では、そうした独特の異世界的な裏社会のテイストを描き出していて、ルパンと出会う前の峰不二子が所属していた殺し屋組織でのエピソードが語られて興味深いですね。

五エ門の師匠である殺し屋百地の話によると、どうやらその裏社会では殺人の数を競うオリンピックみたいなものがあるらしく、暗黒街でルパンや五エ門がブイブイ言わすようになるまでは百地が殺しの世界チャンピオンだったことが第5話で描かれています。子供の頃は、大人の世界の裏側では、日常感覚から隔たったそういうアナーキーな世界があるのかもしれないなぁ、などと素直に思ってましたが、これはこれでナンセンス風味の効いたブラックユーモア的な設定でユニークではありますね。こういうあきらかにフィクショナルな設定が、ルパンの犯罪をもどこかファンタジーな魔法と同じ扱いで見ることができるために、安心して子供も楽しめるような作品になってるのかもしれないですね。

「殺しの世界チャンピオン」というパンチの効いたフレーズでふと思い出すのは、こちらもよくネットで話題になった「木曜日のリカ」(小池一夫原作、松森正漫画)での主人公リカの名台詞「世界でただひとり…ノーベル殺人賞をもらった女よ…」。どこの世界のノーベル賞だ!とつっこまずにいられないインパクトのある台詞ですが、原作はギャグ漫画ではなく、けっこうシリアスなピカレスクロマンっぽいですね。ギャグでなく、大真面目にこの台詞が出てくるからこそインパクトも最大ですね。ラッキーなことに、数ヶ月前に安価で「木曜日のリカ」の単行本を古本市で見かけたことがあるのですが、その日の気分的に、ネタ要素としての興味だけで購入する気になれなかったこともあってスルーしてしまいました。

ノーベル殺人賞でまた思い出したんですが、そういえば70年代を代表するロックバンド「頭脳警察」のサードアルバム「頭脳警察3」に、「指名手配された犯人は殺人許可証を持っていた」というインパクトのある曲名の作品が収録されていました。演奏時間が10秒足らずというのも斬新というか実験的な曲で、歌詞はそのまんま曲名を言うだけの作品です。この「殺人許可証」という物騒でありながら異世界感のあるフィクショナルな響きも「ノーベル殺人賞」に匹敵する怪しさがありますね。頭脳警察はむかしハマった時期があって、とくにアルバム「頭脳警察セカンド」「仮面劇のヒーローを告訴しろ」「悪たれ小僧」の3枚はよく聴いてました。過激なロックだけでなく哲学的で詩情のある曲も多いのが頭脳警察の魅力ですね。

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頭脳警察のCD。「悪たれ小僧」のジャケットデザイン、70年代テイストが濃厚でイイですね〜 バンド名の「頭脳警察」というシュールなネーミングも秀逸ですね。由来はフランク・ザッパの曲名で「頭脳警察ってのはどいつらなんだよ? 」(Who Are The Brain Police?)から取ったものだそうです。過激な曲に混じってヒネリのある知的な曲があったりするのがこのバンドの魅力で、ヘルマン・ヘッセの詩をモチーフにしたといわれる「さようなら世界夫人よ」とか、ブリジット・フォンテーヌの「ランボオのように」の日本語歌詞バージョンとか、パンタさんのそのセンス溢れるインテリ不良っぽい所にシビれます。

メモ関連サイト
「木曜日のリカ」の例の名台詞(google画像検索結果)

ルパン三世第2シーズン風のサブタイトルを作って遊んでみました。「真※いぬ小屋」様のサイトのジェネレーターをお借りしました)



el_icon.pngルパンの影としての次元大介

ウィキの「次元大介」の補足に、次元大介は、「ルパンを長髪にして髭と帽子を付け加えて完成されたキャラ」であるという面白いエピソードがありますね。この説は、原作者のモンキー・パンチ氏自身がテレビ番組「トリビアの泉」で語ったということなので、本当のことなのでしょう。たしかに、子供の頃よくルパン三世の似顔絵を描いてたときがあって、まさに次元ってルパンが衣装を変えただけのような外見だなぁ、と思ってました。そういう記号的で、没個性に徹したような風情が、逆にとても魅力的です。まさしく次元はルパンと不可分なキャラで、ルパンの影のような寓意的存在なのかもしれないですね。そういえば次元大介は服装も黒ずくめで、まさにルパンの影≠象徴しているかのような存在です。こうなるとどこか神話的なものまで感じてきますね。ふと思い出すのは、アニメの第1話がすでに、レーサーの格好をしたルパンと次元が入れ替わるトリックが見せ場になってたことです。第1話は印象的なシーンが盛りだくさんで、拘束された不二子のコチョコチョハンドによる羞恥責めとか、例のクロノグラフの大写しなどの大胆な編集に目を奪われてしまいますが、ルパンと次元の双子のような、あるいはジキルとハイド的な陰陽の関係性をストレートに描き出しているエピソードでもあったわけですね。意図的なのか結果的にそう見えるのか、どちらにせよルパン三世の主要キャラクターたちはそれぞれほんとによく出来てるなぁ、と感心します。

メモ関連サイト
モンキー・パンチ先生による次元大介誕生の逸話(ウィキペディアより)



el_icon.png変装

ルパンは変装の名人、という設定ですが、第4話「脱獄のチャンスは一度」で次元はお坊さんに、第6話「雨の午後はヤバイゼ」で不二子はルパンそっくりに変装しています。それぞれ元の人物と全く同一の姿形に変装できているので、ルパンだけが変装の名人というわけではなく、ルパン一家はみんな基本技能として変装術は達人のレベルにあるのでしょうね。ルパンの変装術には2パターンあって、全く別の人物にソックリに化けるパターンと、素顔に付け髭とカツラをかぶっただけなのになぜか見破られない謎の変装というものです。後者は単純に漫画アニメのお約束的な表現であって、別人に変装してしまうと絵面として都合が悪いエピソードの場合によくこの「視聴者にはルパンにしか見えないのに、銭形などの物語内のキャラにはなぜか見破られない」ような変装をしますね。このパターンでの傑作は第14話「エメラルドの秘密」ですね。このエピソードではルパンはニップル伯爵と称する謎の貴族に変装します。

このニップル伯爵、これもまたルパンが付け髭とカツラを付けただけのアバウトな変装です。さっそく銭形に不審に思われてしまい、職務質問されそうになるのですが、変装した不二子が気を利かせて「ベルモント王朝の末裔のニップル伯爵ですわ」と助け舟を出します。このエピソードでのルパンのミッションは、「ナイルの瞳」と呼ばれる大粒のエメラルドを盗むというもので、豪華客船という動く密室を舞台にスリリングでユーモラスな駆け引きがとても面白かったです。エメラルドの隠し場所の謎を解くという王道のミステリーをテンポよく20分足らずで表現してしまうシナリオも凄かったです。1stルパンのミステリー系エピソードの中では第11話「七番目の橋が落ちる時」と並んで好きなエピソードです。先日久しぶりにこの「エメラルドの秘密」を見返してたんですが、ふと「そういえば、なにげなく無意識にスルーしていたけど、よりにもよってニップル(Nipple=乳首)なんてきわどい名前をなぜつけたのか?」というのが気になってきました。まぁ、もともとルパン三世1stシリーズは「大人の鑑賞に堪えうるアニメ」というコンセプトが当初はありましたし、当時のアニメでは珍しいエロチックな表現も持ち味でしたから、おそらくそうしたノリであえて乳首伯爵にしたのだろうと思ってました。しかし、念のために調べてみると、どうもアテが外れたようで、ニップル伯爵のニップルは「Nipple(乳首)」ではなく、ルパン(LUPIN)の逆さ読みでニップル(NIPUL)になったようです。長年のニップルな謎が解けてスッキリしました。

変装ネタといえば一番ショッキングだったのは、第20話「ニセルパンを捕えろ!」の序盤で、謎の組織が変装を解くシーンです。謎の組織の一員が、別人になりすました顔のマスクを剥ぐと、中からガスマスクをつけた顔が出て来るというシーンがあるのですが、いくらなんでもガスマスクの上から変装用のマスクというのはアクロバティックすぎる表現でしたね。まぁ、ここまででなくても、ルパン三世の世界では、変装用のゴムマスクはかなり万能なアイテムと化してますから、第20話という後半戦では、感覚が麻痺してそうした変装の万能性に拍車がかかっていたのかもしれませんね。まぁ、そういうびっくりシーンはあるものの、物語自体は、この謎の組織を追ってルパンが泥棒村に潜入するというお話でかなり面白いエピソードでした。

変装モノというと、江戸川乱歩の生んだ怪人二十面相も魅力的ですね。発表当時の少年雑誌の倫理規定の問題で、当初は「怪盗二十面相」とするつもりが「盗」の字を使うのはマズいということで、「怪人」になったというのは有名な逸話ですが、結果的に「怪盗」より「怪人」のほうが怪し気なインパクトが出ていて、むしろ「怪人」のほうが人間離れした怪しい二十面相らしさが出ていてイイですよね。昨今の倫理規制は行き過ぎた言葉狩り的な面も指摘されたりして、こういう規制というものは規制したい側とされる側では許容するラインが異なってることが多いのでサジ加減が難しいものだとは思いますが、この「怪人二十面相」に関しては、規制が逆にプラスの効果になっているかなり珍しいケースですね。また百とか千ではなく「二十」と控えめな所が変に奥ゆかしいですよね。調べてみると二十面相というのは、トマス・W. ハンシュー作「四十面相のクリーク」からアイデアを得たネーミングだそうですが、ちゃんと40以下にしているところなど、オリジナルに対する敬意のようなものを感じます。怪人二十面相の、盗みはするが殺人や暴力は絶対にしないというポリシーからして魅力的で、泥棒なのに紳士のような感じも面白いですね。絶対私生活ではお金に困ってそうになく、家柄もハイソっぽいのに、なぜか泥棒を天職みたいにして世間を楽しませているエンターティナー、それが怪人二十面相やルパン三世なのかもしれません。



el_icon.pngルパンとコンピュータ

裏社会のトップクラスに君臨するルパン三世とその一味は、毎回様々なライバルや敵に遭遇します。普通の悪人に混じってときおり、空中浮遊したり指先から火炎放射する暗黒街の魔術師とか、タイムマシンを使ってルパンを殺そうとするタイムトラベラーだとか、ぶっとんだ敵もいて、そういう絶妙なナンセンス加減も1stルパンの魅力で、そういう一見チャチになりそうなSF的な設定も、大塚作画、ヤマタケサウンド、ルパン一家の初期声優たちの魔法で、とてもカッコイイエピソードに見事に料理してみせていて素晴らしいです。中でもとびきり異質だった敵は、最終話のひとつ前、第22話に登場するコンピュータ≠ナす。人間相手なら、長年裏世界を生き延びてきたノウハウが生かせますが、前代未聞のコンピュータが相手ということで、さすがのルパンも苦戦を強いられます。

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昔のアニメとかに出てくるコンピュータでお馴染みのこんな感じの紙テープ。(図の穴の開け方は適当です)かつてコンピュータの情報を記録するために使われたアイテムで、自動パンチ機で穴をあけ、穴の有無で0,1の信号を記録する仕組みだったようです。

このコンピュータ、70年代の漫画によくある定番のパンチ穴の開いた紙の帯(鑽孔テープ)を読み取る式のヴィンテージなコンピュータが微笑ましいです。しかしこのコンピュータ、現代のマシンよりも先を行っていて、ルパンの身長体重や過去の犯罪歴などの様々なデータを元に、今後のルパンが起こすであろう犯罪も未然に予知して、さらにその対策もはじき出してしまうというスグレモノです。この時代はまだパソコンも普及しておらず、コンピュータといえば「人間の頭脳の何百倍も高速に演算をするバケモノのような機械」というアバウトなイメージが一般にあったように思われます。こういう万能コンピュータのイメージは、おそらく当時(1972年)の4年前、1968年に世界的に大ヒットしたSF映画の金字塔「2001年宇宙の旅」に登場する架空のコンピュータ「HAL9000」の影響も大きいでしょうね。第22話以前にも、五エ門が初登場する第5話「十三代五ヱ門登場」にも、すでにそういう万能コンピュータがちょろっと出てきます。第5話では、五エ門の師匠である百地(ももち)が、殺し屋の世界でのトップの座を脅かすルパンと弟子の五エ門をも抹殺しようと画策しますが、五エ門にバレて逆に返り討ちにされそうになります。その時に百地は「コンピュータに命令されたんだ!」というデンパな言い逃れの嘘をつくのですが、その嘘の回想シーンで出てくるのがなんでも予測する件の万能コンピュータです。意識的に誇張している面はあるにせよ、けっこうコンピュータに対する現実以上の買いかぶりは一般に当時かなりあったのではないか、と感じますね。

第22話では、ルパンは実際にそういうコンピュータと対決し、結果的にはルパンはコンピュータに勝つのですが、コンピュータを打ち負かしたルパンの戦略は、なかなか含蓄があります。ルパンが対峙しているのはコンピュータというよりも、哲学的な味わいのある問い≠サのもので、これは言い換えれば「自分のすべての行動を完璧に予測する者が仮にいたとして、そうした者を相手にする場合、どうすれば相手の裏をかくことができうるのか?」ということでもあります。ルパンは最初は己の天才的な頭脳を過信して、論理的思考によってコンピュータを出し抜こうとしますが、思考ではじき出す戦略というのは、つまり理性を武器にした戦略ですから、このコンピュータにとってはそうした戦略は、すでに入力されているルパンという人間の全データ≠元に予測してしまいます。理性によるどんな戦略も予測解析可能という設定のマシンなので、それに勝つには非理性的なアプローチしかありません。それに気づいたルパンは非理性的な戦略に切り替えます。ふとした思いつきで計画を途中でコロコロ変えていくという、直感≠ノ従った行動をとったのです。すべて思考が相手に読まれていることを承知で、牢屋に捕らえられた仲間を助けるために厳重な警備の中ルパンは単身敵の手中に乗り込みますが、気まぐれにちょいちょい計画をその場で変えていき、ルパンは見事仲間の救出に成功してします。幽閉されていた仲間の元に現われたルパンはこういいます。「コンピュータの裏をかくには気まぐれ≠ェ一番なのさ」。

まぁ、細かい事を言えば、気まぐれというのも人間ならかなりの頻度で起こるはずで、以前は私も、「すべてを予測するコンピュータなら、そういう気まぐれも予測できないと役に立たないはずだ」と思ってました。が、しかし、そういうのは野暮でもありますし、よく考えてみれば、野暮どころか、少々未熟な指摘でもあるように思えてきます。視点を変えれば、そういう表面的なつっこみどころよりも、このエピソードは論理的思考と直感、理性と無意識、みたいな対立項が骨格になっており、むしろソコがこの作品の魅力の本質ではないか、ということに気づきます。いつも事前に犯罪を予告して遂行する計画性のあるルパンが、最終的には頭で考えることを止めて直感に頼ることを余儀なくさせる結末が、なんとも皮肉めいていて教訓的というか、寓意的で面白いです。ある意味では、それまで経験を生かした自力の戦略で生きてきたルパンが、はじめてこのエピソードで過去に培ってきたノウハウを捨て去り、まったく新しい戦術をとっています。奇しくもこの次のエピソードで1stシリーズの最終話となるわけで、そういう意味でもこの第22話はルパンというキャラの限界を示すと同時に、別の新しい伸びしろを伺わせる象徴的なエピソードのように思えてきます。



el_icon.pngゴダールの話

万能の人工知能コンピュータといえば、先に触れた「2001年宇宙の旅」のHAL9000のインパクトが大きいですが、そういえばゴダールの映画「アルファヴィル」にも似たような機械が出てきたな、と思い出し、やはりゴダールも「2001年〜」の影響を受けてたんだな、とにやにやしながら、ふと念のために調べてみたのですが・・・なんとゴダールの「アルファヴィル」のほうが「2001年〜」よりも3年も前に作られてたようでビックリしました!う〜む、ゴダール、天才すぎる!「アルファヴィル」はゴダール作品にしては異質のSF映画ですが、未来都市の設定なのに、普通に当時のパリ市街で撮影されてた、というのもユニークなエピソードとして有名ですね。この映画もまたゴダールらしいポエティックなカッコイイ台詞が頻発してて印象的な映画でした。主人公が万能コンピュータ「アルファ60」と会話するシーンがあって、主人公はコンピュータといくつか問答するのですが、特に印象に残っているのは、コンピュータが「死者の特権とは何か?」と質問してくる場面です。

「死者の特権とは何か?」その質問に主人公はこう答えます「二度と死なないことさ」。まず普通の日常会話では出てこない知的でお洒落なやり取りですが、そういう詩的でかっこいいシチュエーションを描くのはゴダールの持ち味ですね。ゴダールの映画は、お洒落で知的なフランスというステレオタイプなイメージをそのまま映像にしたような感じで、難解でとっつきにくい面がありつつ、理解できなくてもいいから見てみたいと思わせる変な魅力があり、むかしは気合いをいれて鑑賞しまくった時期があります。それは「ゴダール映画を知ってる俺って知的でかっこいい」と思いたいという俗物的な思惑も大いにあったわけですが、そういうステイタス的な魅力も含めてゴダールの魅力だと思います。実際鑑賞してみると、それだけでなない収穫もたくさんありましたし、見ておいてよかったと思います。上記のような、スタイリッシュでポエティックな台詞の応酬とかは、ゴダール作品特有の個性ですし、出世作「勝手にしやがれ」では、まさに前述したルパンの第22話のように、毎日その場で考えた脚本を次の日に撮影していくという、気まぐれや思いつきを生かした実験的な作品で、即興演出や斬新な編集など、ヌーベルバーグを代表する傑作ですし、見ておいて損は無い作品でした。「気狂いピエロ」なども代表的ですが、個人的には「女と男のいる舗道」「男性女性」あたりの作品がお気に入りです。ゴダールの独特のノリに慣れると楽しく見れるようになってきますし、なによりものの見せ方、会話のリズム感など、今でも勉強になる部分の多い監督ですね。自分が好きなものやこだわっているものを世間受けを気にせずけっこうストレートに作品に持ち込む監督で、そういう所も好きです。

フォークソングの話のところでもちょっと触れたあがた森魚の傑作アルバム「噫無情(レ・ミゼラブル)」(1972年)ですが、このアルバムの中の一曲「最后のダンス・ステップ(昭和柔侠伝の唄)」に印象的なゴダールの引用がありましたね。この曲は緑魔子さんとデュエットしているのも注目したい点で、緑魔子といえば現在は俳優の石橋蓮司さんの奥さんとしても知られていますが、名前のインパクト通り当時はアングラ演劇や前衛的な映画で活躍した女優さんです。彼女は当時からゴダールの大ファンだったようで、このあがた森魚とのデュエットでも、序盤に入る「私の名は朝子です」からはじまる緑魔子さんの少女っぽく初々しい語りは、ゴダールの「女と男のいる舗道」をアレンジして引用したもののようです。たしかにCD付属の歌詞カードを参照してみると、歌詞の中に「J・L・ゴダール「女と男のいる舗道」より)とクレジットがあります。映画のほうはだいぶ昔に見たきりなので、どういうシーンからの引用なのか覚えてませんが、なんとなく気になるのでそのうちDVDなどで見直してみたいです。日本の音楽とゴダール、といえば、このあがた森魚の曲のほかに、YMOの「マッドピエロ」(映画「気狂いピエロ」がタイトルの元ネタ)や「中国女」や「東風」もゴダールの映画のタイトルを引用した曲として有名ですね。また、沢田研二さんの往年のヒット曲「勝手にしやがれ」もゴダールの映画タイトルが元ネタになっています。こうしてみると、意外とゴダールというのは日本の大衆文化のあちこちで引用され重宝されている側面もあったりして面白いですね。お洒落さや知的感性を象徴する権威、というかある種箔付けのような意味合いでゴダールが引用されている面もあるとは思いますが、そういうものも含めた魅力があるのもたしかですし、私がそうだったように、そうした魅力がゴダール映画を鑑賞してみようという動機になったりすることも多いわけですから、入り口はファッション感覚でかまわないのかな、とも思います。結果的にそれが人生を少しでも豊かにしてくれるものなら儲け物です。

ゴダールは作品も素敵ですが、本人もめちゃくちゃカッコよくて、顔面にパイ投げされたハプニング映像を昔見たことがありますが、その時のリアクションがかっこよすぎたのが記憶に焼き付いていて、私の場合、それもあってゴダールが気になる監督になっていったような気がします。一昔前、世界的に当時暗躍していたゲリラ的な集団で、気に入らない有名人の顔にパイを投げつけてクリームまみれにして、そのかっこ悪い姿やリアクションをビデオにとってマスコミに流し、世間のさらし者にするという、反権力が生き甲斐みたいなノリの悪趣味な集団で、日本でもちょっと取り上げられたことがありました。たまたまその時の報道映像で、ハリウッド俳優やビルゲイツなどの著名人にまじってゴダールがターゲットにされた時の映像がありました。件の集団は「パイ投げスナイパー」と呼ばれる集団で、ベルギーを拠点に活動していたようです。パイを投げられ顔中クリームまみれになったゴダールは、口のまわりのパイをぬぐいそれまでくわえていた葉巻をまたヒョイとくわえます。突然のハプニングなのに、実にスマートに反応をしていてシビれました。お洒落って、ファッションのことではなく、こういうにじみ出る人間力のことなんだろうなぁ、と思わずにいられない映像でした。

パイ投げスナイパーのリーダーをしているのは、調べてみたら作家や俳優などをしているノエル・ゴディンという人物のようです。屈強なガードマンの防御をかいくぐりビル・ゲイツを奇襲したことで世界的に有名になってしまったようですが、それにしても人によってはユーモアや冗談だけで済まなさそうなギリギリな活動ですよね。パイ投げ団のそんな冗談に命かけてる感には苦笑を禁じ得ません。

ルパンの記事なのになんかゴダールの話が長くなってしまいましたが、まぁルパンもモーリス・ルブラン原作のアルセーヌ・ルパンの孫という設定で、なんとかフランス繋がりではあるので、とりあえず良しとしましょう!

メモ関連サイト
ゴダールの映画「アルファヴィル」(ウィキペディア)

ゴダールの傑作映画『勝手にしやがれ』予告編(YouTube)

カンヌでパイを顔に当てられるゴダールの映像(YouTube)

鑽孔テープ(「邪悪な波動に目覚めたアルマジロ」様のブロマガより)
鑽孔テープの雑学と、それが出てくる娯楽作品について書かれていて興味深いです。鑽孔(さんこう)テープとは、上記でも触れた昔のコンピュータの描写によくあるパンチ穴の開いた紙テープのことです。
posted by 八竹彗月 at 22:27| Comment(0) | 雑記

2018年08月28日

【雑談枠】黄金郷通信 vol.2

なんとなく更新が滞ってきたので、せっかくなので雑談的に今回もとりとめなく興味の赴くままに語ります!ここのところ、月のロマンとか宇宙に関する珍奇なビジュアルなどをテーマに何か書きたいとネタを暖めているところですが、とりあえず最近気になっているテーマなどをいくつか雑多に取り上げてみました。



el_icon.pngチベットの聖者ミラレパ

チベット仏教において最も有名な聖者だといわれているのがミラレパ(1052〜1135年)だそうで、その名前だけは何かの本で出てきたためかなんとなく知っていましたが、実際どのような人物なのか調べてみると、想像以上に波瀾万丈で興味深かったです。実在した人物とは思えないほどの不思議な人生を送った聖者で、ウィキペディアをはじめ、検索するといくつかミラレパの人生をテーマにした記事がヒットしますので興味のある方は調べてみると面白いと思います。チベット仏教というと、輪廻転生によって引き継がれてきた最高指導者、ダライ・ラマとか、OSHOばりにアナーキーなチョギャム・トゥルンパなどが思い浮かびます。また「チベット死者の書」や、シャンバラ伝説など、チベット自体が神秘に満ちた不思議な地域の印象があります。チベットは現代はややこしい状況になっていますが、なんとか良い方向に改善されることを期待してやみません。

さて、ミラレパに話を戻しますが、彼はチベットの裕福な名家の生まれで何不自由の無い幼少期を過ごしたそうです。しかし、ミラレパが7歳の頃に父が病死してから運命は一転します。叔父と叔母の画策によって父の遺産を強奪され、さらにミラレパの一家は彼らの奴隷にされて悲惨な暮らしを強いられることになります。一家を奈落の底に陥れた叔父と叔母に復讐するために母はミラレパに黒魔術を学ばせます。誦咒(しょうじゅ)、厭勝(えんしょう)、霰(せん)の3つの魔術をマスターしたミラレパは、叔父と叔母だけでなく、彼らに加担して自分たちを虐待した村人35人をも呪殺してしまいます。それでも気が納まらなかったのか、天候を操る秘法によって村の全ての農作物を壊滅させてしまったそうです。実在の人物のエピソードというより、神話の話のようですね。この頃の日本は平安時代後期ですから、余計に不思議さを感じますね。でも、西洋の黒歴史、魔女狩りは、15〜18世紀と、意外にそう遠くない時代に起こってますので、それ以前のミラレパの生きていた11〜12世紀頃の世界は、想像以上に神話の世界に近い様相だったのかもしれませんね。

というわけで、復讐を完遂したミラレパでしたが、黒魔術とはいえ、そこまでの呪法をマスターしたほどなので、もともと魔術師的な素質があったのでしょう。そういえば、昔「復讐するは我にあり」という映画がありましたが、このハードボイルド風なタイトルは実は聖書の言葉(ローマ人への手紙)が元ネタのようで、「我」とは神を指しています。意味は「自ら復讐に手を染めてはならない。ただ神の怒りに任せなさい」ということのようです。精神世界の教えでは復讐というのは相手だけでなく自分にも悪いカルマを背負う愚かな行為です。「人を呪わば穴ふたつ」とはまさに至言で、人を呪って仮に相手が不幸になっても、同じくらいの不幸を自分も背負うことになります。自分で復讐しなくても、人を不幸にした者は同等の報いによって購わせられるという法則が、まるで物理法則のようにはたらくことは、多くの聖典で述べられていますし、実際自分の経験に照らしてみても、そういうはたらきがあるように感じます。なので、復讐したいくらい憎い相手なら、自分で手を下して自分までカルマを背負って苦しむよりも、すべて神(=天の法則)に任せてしまったほうが、結果的にはノーリスクで復讐が完遂するのだから、そっちのほうが得ですよ、ということですね。

しかしまぁ、ミラレパの蒙った理不尽さは、なかなか一般の人間が経験できるようなレベルを越えていますし、憎しみの動機も痛いほど解るので、ミラレパの復讐を単純に責める気にはなれないところもありますね。しかし見えない次元ではたらいているカルマ的な法則は自動的にはたらきます。後に聖人と呼ばれるほどになったミラレパですから、そうした天の法則にもうすうす気づいたのか、自分の犯した悪のカルマの報いを恐れるようになり、正しい仏法を探求するようになります。そうして出会ったのが生涯の師、マルパ師でした。

後に聖人となる人物の師匠ですから、マルパ師もそうとうな達人で、出会う前から夢の知らせでミラレパが特別な弟子であることを知っていました。ミラレパはゆくゆくは世界を照らすほどの救いの光明をもたらす人物となること、それには犯してしまった黒魔術による殺人や村の破壊などの悪業を浄化する必要があること、その浄化はマルパによって可能であること、などが夢で知らされたそうです。そういうこともあってか、ミラレパが弟子になると、ミラレパにひとりで石造りの塔を建てさせ、完成が近づくと自分でそれを壊すように命じたりと、理不尽な仕打ちを何度も続けました。苦労して石を運び、こつこつと積み重ね、仏塔を造りつづける毎日、しかし完成の一歩手前で、それを壊せと命じられる苦しみ。ミラレパは、完成の喜びさえ味わうことを許されない重労働を、何度も何度も強いられました。さらに、ミラレパを他の弟子の前で罵倒したり、公衆の前で殴り、蹴り付けたりと過酷な目に何度も合わせました。これもミラレパが積んでしまった悪業の浄化のために必要なミソギでした。多分、そういう真意があろうともミラレパにした理不尽な仕打ちのカルマをマルパ師は背負うことになるはずです。しかし、神から託された弟子をちゃんと解脱せるのが自分の使命であることも承知しているので、覚悟の上で心を鬼にしていたのでしょうね。

悪行の浄化のためとはいえ、あまりの厳しい虐待にマルパ師の元から逃げ出したりもしますが、結局最後までマルパ師の元で厳しい修行に耐えて最終奥義を授けられます。師の元を離れた後、ミラレパは人里離れた洞窟で苦行に励み、とうとう最終的な悟りの境地に至ったといわれています。ミラレパの伝記をけっこう端折って紹介しましたが、ほかにも興味深いエピソードが多いので、興味のある方は調べてみると面白いと思います。

メモ関連サイト
ミラレパ(ウィキペディア)



el_icon.pngカバラの動画

カバラと聞くと、どうしてもマニアックな秘教的オカルト思想をイメージしてしまいがちなのですが、「ブネイ・バルーフ カバラ教育研究所」という組織が数年前からYoutubeなどにアップしている動画をたまたま見ていたら、意外に精神世界全般に通じる普遍的な教えが根底にある思想であることを知り、がぜん興味を持ちました。たしかにカバラというとゲマトリア(数秘術)に代表されるようなオカルト要素に惹かれるところではありますが、もともとカバラの母体であるユダヤ教自体が、歴史的にキリスト教と通底するところがあるだけに、カバラもまた万人の心に響くものを根底に持った思想なのだなぁ、と感じました。ブネイ・バルーフ カバラ教育研究所は、イスラエルを拠点としたカバラの啓蒙を目的とした非営利組織だそうです。ユダヤ教とかカバラというと日本人に馴染みの薄いところがあって、それゆえに神秘な匂いがたまらないところがありますね。

TV動画
カバリストはどんな意識状態に到達したのか?(ブネイ・バルーフ カバラ教育研究所)
オプションで日本語訳の字幕を表示できます。

いろいろ興味深い動画があがっていましたが、例えば上記の動画では、人間は特有の脳のトリックによって、心の内側で生じるさまざまな現象を、あたかも「外側」で起きている事象のように錯覚しているのだ、というユニークな見解を解説していて面白いです。内側と外側という境界はただ脳の都合でそう認識しているだけで、本来違いは無い、という立場は、ヒンドゥー教や仏教ではお馴染みの思想ですが、カバラでも同じ視点にたっているところが興味深いですね。

メモ関連サイト
カバラ(ウィキペディア)

ブネイ・バルーフ カバラ教育研究所日本語版公式サイト



el_icon.pngヴィンテージでオリエンタルなファッション写真・孫郡(Sun Jun)

孫郡(Sun Jun)は、ファッション写真に伝統的な中国美術の要素を取り入れたヴィンテージ感漂うユニークな作風で注目されている写真家です。漢詩の世界のようなオリエンタルなポエジーを感じる写真がとてもユニークです。モダンなファッションと風流な東洋的レトロ感が絶妙で、とくに、何もない空間を大胆に作る禅庭を思わせる東洋的な美意識が心地いいですね。孫郡は7歳の時から中国画を学び始めたそうで、そうした素養が実に見事にファッション写真というある意味ミスマッチな分野で発揮されたというところも面白いですね。

以前、中国人ファッションデザイナー、ヴィヴィアン・タムの『China Chic』という本(ファッションの写真集というよりは、彼女のイマジネーションの源流をコレクションしたような、古今の中国文化をビジュアル的に構成したイメージブックという体裁)に感銘を受けて、現代の中国人クリエイターに関心を持ちはじめていたのですが、そうした中で孫郡の作品を見つけ、さらに関心が深まりました。

メモ関連サイト
孫郡(Sun Jun)の作品(中国語のブログ「The FEMIN」様より)

孫郡(Sun Jun)の作品(google画像検索結果)



el_icon.png偶然という名の必然・シンクロニシティについて

アメリカといえば、フリーメーソンが建国にかかわっていた、とか、ドル紙幣にまつわる都市伝説とか、UFOや超能力の研究を国家機関が行っていたとか、歴史の浅い新しい国という割には、いろいろと不思議ネタに事欠かない底知れない魅力に満ちた国でもあります。そうしたネタのひとつにアメリカ大統領、リンカーンとケネディの不思議な共通点の話があり、子供の頃に読んだオカルト系の本に載っていたせいで、とても印象深く記憶にあります。アメリカ本国では案の定オカルト系の本でよく取り上げられていた題材のようで、検索してみると、かなりたくさんの一致点があるみたいで、ひさびさにびっくりしました。代表的な一致点というと以下のようなものがあります。

リンカーンとケネディ

 ジョン=ケネディ大統領とリンカーン大統領は、共通点がある。
(1) リンカーンが大統領に選ばれたのは1860年、ケネディが選ばれたのは百年後の1960年。
(2) ふたりの大統領のあとをついだのはどちらもジョンソンという名前の人。生まれた年は、これまたちょうど百年違い。
(3) 暗殺者の生まれた年も百年違い。リンカーンの暗殺者は1839年、ケネディの暗殺者は1939年生まれ。
(4) リンカーンの秘書の名はケネディ、ケネディの秘書の名はリンカーンといった。
 これらの事実は、偶然だろうか・・・・。

「超科学ミステリー」斎藤守弘著 学研 昭和49年(1974年)刊 p137より


メモ関連サイト
リンカーン大統領とケネディ大統領の共通点(ウィキペディア)
けっこうありますね。私は上記の4つ程度しか知らなかったので、思ってた以上に共通項が多くてびっくりしました。

歴史に名を残すような人物は、それだけ世界に影響を与えている人物でもありますから、シンクロニシティめいた現象が起こりやすいといえます。シンクロニシティとは、ある種、見えない次元を支配している法則のひとつで、この世がたんなる物質同士の反応だけで存在している世界ではない事を人間に知らせてくれます。アメリカ大統領のような影響力の大きい人物であれば、なおさら霊的次元での影響も大きいはずで、だからこそシンクロニシティという形で解りやすくこの世に投影されやすいのだろうと察します。

日本でいえば、天皇陛下や総理大臣なども影響力が大きいですから、探せばいろいろとシンクロニシティ的なものが見つかりそうですね。そういえば、皇室にまつわる不思議なシンクロニシティの話が一時期話題になった時がありましたね。雅子様と紀子様は共に皇室に嫁いだことで日本中で話題になりましたが、このおふたりには偶然にしては出来すぎたあるシンクロニシティがありました。それは、おふたりの名前に関するもので、ご存知の方も多いと思いますが、ご結婚前のフルネーム、小和田雅子(おわだまさこ)、川嶋紀子(かわしまきこ)を一字づつとばして交互に読むと、お互いの名前に一致するというものです。

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天皇の家系は神話の時代まで遡ることができますし、三種の神器というモロに神話のアイテムを引き継ぐことで継承していくわけですから、この目に見える世界だけでなく、霊的な影響力も相当なように感じます。そうした霊的なパワーを継承していく選ばれた家系に入っていく人も、民間人とはいえ、高い次元では、前もって決まっていた方々だったのかもしれませんね。

シンクロニシティの興味深い事例として印象的なのは、1950年代にアメリカのある教会で起きた奇妙な事件です。昔、南山宏さんのコラムかなにかで読んだ記憶があるのですが、以前「トリビアの泉」というテレビ番組で紹介されたこともあるみたいなので、ご存知の方も多いと思います。この事件は当時の有名なニュース雑誌『LIFE』にも載ったそうで、信憑性も高そうです。その事件とは、「1950年3月1日、ウエスト・サイド・バプティスト教会において午後7時25分、ガス漏れによる事故で教会が爆発し全壊した」というものです。爆発した時間帯には、ちょうど聖歌隊のメンバー15人が全員集まって練習する予定であったにかかわらず、奇跡的に全員が£x刻したために難を逃れたのでした。しかも、遅刻の理由は15人それぞれに別々の理由(宿題が終わらないので遅れた、とかラジオ番組に夢中になって忘れていた、とか)というのも実に神がかった奇跡です。

メモ関連サイト
「トリビアの泉」で紹介された教会ガス爆発事件で起きた奇跡の内容(「日本発ニュース」様)

偶然で片付けてしまうのは簡単ですが、この宇宙は多くの科学者が考えているように、厳密になんらかの法則に支配されているはずで、そういう意味では「偶然」は存在しないともいえます。人間世界で起こる社会現象も、目線を変えれば宇宙で起きている物理現象のひとつでもありますから、一見人間的で物理法則とは無関係に思われている怒りや友情や恋愛などの感情や、人間関係で起こる様々な出来事なども、すべてその背後にはまだ解明されていない次元での見えない法則が影響しているように思います。奇跡を偶然と片付けるのもひとつの見方ではありますが、「起こりうる最も理想的な成り行き」を奇跡と呼ぶわけで、聖典などでいわれているのは、主にそういう「偶然」をいかに「偶然」として片付けずに、むしろ積極的に人生に活用していくべきかを語っており、そういうところが精神世界に惹かれるところでもありますね。

シンクロニシティについて考察していくと、「偶然とか何か?」という問題が気になってきますし、数学で扱う偶然「確率論」にも興味がわいてきます。数学で扱う「偶然」も、「モンティホール問題」などを筆頭にけっこう面白いものが多く、いずれ項を改めて記事にしたいと思います。
posted by 八竹彗月 at 23:58| Comment(0) | 雑記

2018年07月21日

【雑談枠】黄金郷通信 vol.1

ひとつのテーマで記事にするほどまとめきれていないものが次から次に湧いてくるのですが、そのまま寝かせてそのうち忘却してしまう、というパターンに陥る事が多いです。誰の言葉だったか、「怠け者ほど完璧主義者である」というような事を聞いた事がありますが、たしかにちゃんとしたものを書こうと張り切りすぎると「間違いの無いように、しっかりした構成で・・・」と自分への注文が多くなっていって、そのうち書くのが面倒くさくなり、そのうち忘れてしまうか、あるいはどうでもよくなってしまいます。

何ごともほどほどに気楽さが必要なのでしょう。ある程度アバウトに対処していったほうが長続きするし、気を張って取り組んだときよりも、意外に良いものになったりします。このブログも、書きたい事自体は山ほどあるのですが、どこから手を付けていいかわからなくなり、結局何も書かないで過ごしてしまう、という悪循環にしばしば陥ったりするので、そういうのを払拭するためにも、今回から、月一くらいを目標に、まとめきれなかったテーマを中心に、忘備録を兼ねてその月にたまってきた小ネタを雑多にご紹介しながら自由におしゃべりしていく雑談風の不定期記事を「黄金郷通信」と題して開始しようと思い立ちました。長く語りたいテーマがあるときは、いつもの感じでその都度ワンテーマの記事をあげていこうと考えています。

では、まずはじめはこんなネタから。





el_icon.png三浦梅園・神秘の宇宙マンダラ

マンダラ的な幾何学的で神秘な感じの図形に惹かれるところがあって、密教のマンダラのほかにも、錬金術の文献に出てくる宇宙創成図とか、儀式魔術で使われる魔法円とか、風水に用いられる方位図など、神秘感のある円形の模式図のようなものにぞくぞくしたりします。先日の古本市で、いつものように本棚を物色していて、それまで聞いた事の無かった江戸後期の哲学者、三浦梅園(みうらばいえん)の本を手に取ったのは、そうした嗜好が引き寄せたものなのか、その本を開くと、これまた不思議で神秘なオーラをびんびん感じるマンダラ的な図形がいくつも載っていて、それがきっかけで著者三浦梅園なる人物に俄然興味が湧くことになったのでした。少し前にも平田篤胤の古事記の神々の世界を神秘な模式図で表現したものや、山片蟠桃(やまがたばんとう)の奇妙な宇宙図などを知ったばかりだったので、日本の古典にもいろいろと面白い精神の探求者がいるものだなぁ、と感じました。つくづく感じるのは、この世の中とは、いつも何かに好奇心とか興味を持っていれば、世界は面白そうなモノをいつも小出しで与えてくれるような感じがしますね。一度に全部この世の真理を欲しがるとファウスト博士のように悪魔の罠に引っかかってしまうと思いますし、こうして小出しにされるほうがひとつひとつをじっくり楽しめるのでちょうどいいのかもしれません。

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三浦梅園「神物剖析図一合」

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三浦梅園「天地象質成之図」

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三浦梅園「経緯剖対図」

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三浦梅園「気物相吐粲立図」

三浦梅園(1723-1789)は大分県出身の江戸時代の思想家。中央から離れ地元でもくもくと深遠な思索を深めていきましたが、それでもその人望や卓越した知性は評判だったみたいで、幾人もの藩主から招聘の声がかかるほどでしたが、それらを全て断り自分の道をひたすら歩み続けました。梅園のユニークなその独自の哲学は「条理学」と名付けられ、マンダラめいた不思議な図は、中国の陰陽思想をベースに神や宇宙万物の相関関係を表しています。そのあまりに独特な哲学は、個性的すぎるゆえに他者が理解するには難解きわまるものであったようで、梅園の名が世に知られ認められるのは死後百年以上後の時代でした。明治の終わり頃に熱心な梅園研究者が現れたおかげで梅園の哲学に日が当たり、徐々に認められるようになったようです。

メモ関連サイト
三浦梅園(ウィキペディア)

三浦梅園の謎を解く
梅園哲学の代表作「玄語」の全8巻完全公開を含む貴重な資料が充実した梅園研究サイト。すごい!




el_icon.pngバシャール・宇宙人とスピリチュアル

別世界とのコンタクトの手段というと、死者の霊を呼び出す口寄せやこっくりさんなどの降霊術や、天使や悪魔を召還する西洋魔術などがありますが、80年代あたりに新たな異世界との交流テクニックとして「チャネリング」というものがブームになりました。チャネリングで呼び出す異世界の住人は天使とか宇宙人が多い印象がありますが、当時はうさん臭く思っていたものでした。今もチャネリングなるものを信じているのか?というと微妙で、やはり天使や宇宙人という存在があまりに非日常すぎて、なかなか実感として伝わってこないというのが正直なところです。ですが安易に否定するにはもったいない面白いものなので、チャネリングした宇宙人が実在するのかどうかよりも、「宇宙人が語った」という部分は「チャネリング現象の基本設定」として留保しつつ、語った内容自体を楽しんだりしています。

チャネリングといえばバシャールが有名ですね。バシャールは、ダリル・アンカ氏がコンタクトしている宇宙人の名前で、オリオン座の方向にある地球よりも300年進んだ文明を持つ惑星「エササニ」に住んでいるそうです。こうした「設定」的な部分に注視すると、SF的で信じがたい面もありますが、バシャールが語ったとされる言葉自体はとても示唆にとんだ発言が多く、宇宙人うんぬんは置いておいて、毛色の変わったスピリチュアルリーダーの言葉として人生の参考にするのがよいのかな、と思います。バシャールの言葉のユニークな点は、どんな質問にもポジティブな返しをすることです。究極のプラス思考の見本のような、そのポジティブ発想の抽き出しの多さに最初はあっけにとられ、そしていつのまにか気持ちが軽く楽になっていくのを感じます。バシャールのチャネリングの様子はネットに動画がいくつもあがっていますが、本で読んだイメージ通りのハイテンションさで、パフォーマンスとして地味になりがちなチャネリング界においてバシャールが長年頂点に君臨しているのは、そうした派手さも理由のひとつにあるのかもしれませんね。

バシャール哲学は、一言で言うと「ワクワクしなさい」というメッセージです。動画などを見てると、バシャールはよくexcitementという単語を頻繁に使っていますが、これが「ワクワク」と訳され、バシャールといいえばワクワク、みたいな感じになったようですね。科学者のミチオ・カク氏も言っていたように、宇宙人が人類よりもはるかに永い期間文明を維持できた生命体であるなら、怒り、悩み、苦しみ、不安などの精神的な問題をすでに解決している可能性があるので、宇宙人がバシャールのようなテンションの高い超ポジティブなキャラであることには、なんとなく説得力を感じたりもします。

皆さんの「自分は誰か」という存在の表現、波動が「ワクワク」です。(略)それが皆さんを導いてゆく信号になります。ですから、自分の歩むべき道を歩むことは、本当は簡単なのです。(略)皆さんの文明では、何千年もの間、本来の自然な自分に抵抗したり、否定したりしてきました。ワクワクするものは抑圧しなければいけない、と学んできたのです。なぜなら、皆さんは「人生というのは辛いものなのだ」と年上の人から教えられてきたからです。(略)「ワクワク」というのは、自分が本当にやりたいことをやっている、やりたいことを知っている、もしくは、非常に内なる穏やかさ、心の平和がある、ということです。(略)自分がワクワクすることを始めるとき、二つのことが起こります。第一に、非常に素晴らしい偶然が次々に起こります。常に魔法のように、あるべき所に、あるべき時に、あるべきことが起こります。そして第二に、自分のやることが、努力なしに進むようになります。「自分自身が誰か」を示すことを自然にやっているからです。
p96-97

まず最初に、「すべての状況は中立である」ということです。どんな状況も、最初から否定的だったり、肯定的だったり、意味を持ったりはしていません。(略)起きているのは「中立」なことなのに、それに意識的に、潜在意識的に、無意識的に意味を与えます。中立な状況に肯定的な意味を与えれば、そこからは肯定的な結果しか引き出すことができません。中立な状況に否定的な意味を与えれば、そこからは否定的な結果しか得ることができません。いつも言っているように、これは哲学ではないのです。単なる物理学、力学なのです。(略)「現実」は、それ自体が意識や意志をもっているわけではありません。あなたがそれに選択を与えなければ、現実が勝手に変わっていくことはないのです。(略)「私がなにも知らないうちに、こういうことが起きてしまった」ということは、本当はありえません。人生は「降り掛かってくる」ものではないのです。人生は、必ず、あなたを通して出てきます。
p154-155

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『BASHAR 2 宇宙存在バシャールが語る進化への道』バシャール(宇宙存在)、ダリル・アンカ(チャネラー)著 VOICE発行 1989年


宇宙人が地球人にスピリチュアルなメッセージを送るという話は、UFO搭乗記で有名なジョージ・アダムスキーのあたりから定着した定番の設定ですね。アダムスキーも宇宙人から聞いた話という設定でけっこうイイ話を書いてるんですが、いわゆる「アダムスキー型UFO」を写した写真が模型を写したトリック写真の疑いが濃厚であることから、UFO搭乗記の内容も宇宙人のスピリチュアルなイイ話もひっくるめて全否定されてしまってる感じです。ちょっと可哀想でもありますが、まぁ、最終的には語り手の信用が受け手の印象を大きく左右しますから、よほど興味を惹く問題でない限り「これは嘘だけど、こっちは本当ですよ」という細かい区別はしないのが人間ですし、仕方ない部分もあるでしょうね。アダムスキーが宇宙人から授かった哲学を著した「宇宙哲学」などの本を読みましたが、けっこうタメになる深い話もあって、とかくアダムスキーはUFO詐話師っぽいイメージが定着してしまってるだけに意外な驚きがありました。

とかくUFOや宇宙人の話は、肯定派には肯定的なデータや目撃談などがたくさん目につくのでますます肯定的になっていくというのはありますね。いわゆる確証バイアスというもので、肯定派の妄信ぶりを揶揄する時にしばしば権威主義的に使われる言葉のイメージがありますが、確証バイアスはなにも肯定派だけに当てはまるものではなく、懐疑的な人には懐疑的な側面がいくつも見えてくるのでより否定的になっていくわけですから、懐疑派にも当然確証バイアスはあるわけです。「あなたの意見は空論(または詭弁、極論)だ!」と言う代わりに「それは確証バイアスといって云々」と言えば反射的な反発をかわしつつ優位に立てるということもあって重宝されてるような印象があります。しかしながら、確証バイアスはそもそも人間の認知システムの根幹にあるはたらきなので、確証バイアスに無関係な人間など存在しないともいえます。何が真実か?を突き詰めていくと、結局「わからない」のでありますから、引いて見れば、議論というのは多くの場合、異なる思い込み同士の水掛け論みたいなものなのでしょうね。まぁ、現状のような、UFOとか宇宙人の存在が確定していない世界だからこそ、謎めいていて楽しいのかもしれません。

そういえば宗教家の五井昌久(1916-1980)も宇宙人とコンタクトしていた話を著作や講演でよくしていますね。五井昌久氏は街中でたまに見かける「世界人類が平和でありますように」の看板でも知られる白光真宏会(びゃっこうしんこうかい)という教団の開祖です。宗教団体には興味はないのですが、宇宙人とか守護霊などの話をよくするのでお話は面白いです。ですが、それが逆に宗教家としてはうさん臭く思われてしまう部分でもあると思います。調べてみて驚いたのは、合気道の開祖、植芝盛平(うえしばもりへい 1883-1969)との親交があった事で、互いに深い信頼を寄せていたようです。そういう話を知ると、意外にすごい人なのかもしれない、と思い直しています。植芝盛平も、武道だけでなく、宇宙と合一するという悟りのような神秘体験をしている人で、銃弾を避けたとか、部屋にいながら外から来る訪問者の気配や服装がわかったりとか、不思議な逸話がたくさんありますが、そういう心身合一した達人が本物と認めている人物なら、少なくともタダ者ではなさそうなので、最近ちょっと気になっています。




el_icon.pngボリス・インドリコフの不思議な絵

いつものようにピンタレストで画像蒐集をしていたら、とても琴線を触れてくる絵が目についたので調べてみました。それはボリス・インドリコフという画家の絵でした。シュルレアリスムとアールヌーヴォーが融合したような独特の世界観をエルンスト・フックス風の幻想神話な感じの画風で描きあげた感じで、優雅かつ奇妙、華麗でグロテスク、天国のような地獄のような、言葉で言い表すと捉えどころがないのですが、その作品を一目見れば、明瞭な世界観をもって作品を生み出していることがわかると思います。未来的なアンティーク感、とでもいいますか、そんな不思議なテイストがたまりませんね。

「アーティストは(この世界とは別の)平行宇宙の創造者であり、また(絵を描く事は)そこにたどり着くための儀式の一種です。絵を描く事というのは私にとって瞑想のようなものです。私たちは芸術という言語を使って神と話すのです。」

「絵画──それは平行世界への扉です。そこはすべてのものが異なる世界です。別の法則、別の線や形が存在しています。」

「これは私の世界だ。私は多分そこから来たのだ、そしていずれそこに還っていくだろう。」

────────ボリス・インドリコフ



ボリス・インドリコフ(Boris Indrikov / Борис Индриков)は1967年生まれのシュルレアリスム画家。ロシア、レニングラード生まれ。モスクワ在住。エディトリアル・デザイナー、イラストレーターの仕事を経て、2002年頃から本格的にアーティスト活動を開始、現在に至る。

メモ関連サイト
ボリス・インドリコフの作品(本人の公式サイト)

オンラインのアートギャラリーサイト、Saatchi Art(サッチーアート)内のボリス・インドリコフの紹介ページ。

ボリス・インドリコフの作品(google画像検索ページ)




el_icon.png幸福とは?「メキシコ人の漁師の話」と「花咲くいろは」

メキシコ人の漁師の話というのがネットで何度か話題になっているみたいで、読んでみるとたしかに考えさせられる話で面白かったです。青い鳥的な幸福論を土台にして、今に満足する能力≠フ有る人、無い人のふたつの視点でテンポよく会話が進み、落語のような洒落たオチで締めていて、シナリオ的にも見事なショートストーリーになっていますね。

メモ関連サイト
『億万長者』メキシコ人の漁師の話(「わーど わーるど」様)

今置かれている自分の環境、状況を肯定する大切さが教訓として読み取れますが、コンサルタント側の主張も、狂言回しのように「頭のいい愚か者」ぽく描かれているものの、こちらの視点もよく考えてみると、漁師と同様に幸福の在り方としては間違ってはいないように思いました。漁師の生き方もネガティブな側面から解釈すれば「チャレンジしない言い訳」とも取れますし、まさに、それぞれの視点で見た幸福の在り方なのだろうと思います。がむしゃらにいろいろチャレンジしながら波瀾万丈に生きる充実した幸福もアリでしょうし、自分の置かれた環境に満足し今あるものに至福を見いだす生き方もまた幸福の在り方です。アクティブな人にはコンサルタントの言うような生き方が人生を充実させそうですし、あくせくしないでのんびりと生きたい人には漁師の生き方のほうがくつろげそうです。どちらが正しいか、というよりも、どちらが自分に合っているか、という視点でこの話は受け取ったほうがいいのかもしれないですね。

この話を読んでいて、ふと先日夢中で最後まで見てしまったアニメ『花咲くいろは』に登場する押しの強いキャラ、経営コンサルタントの祟子(たかこ)さんを彷彿としました。舞台となる旅館、喜翆荘(きっすいそう)の経営不振を解決するために女将の息子であり旅館の番頭でもある縁(えにし)が、大学時代のガールフレンドで経営コンサルタントの祟子(たかこ)さんに問題の解決を依頼するのですが、旅館の風情や客層を無視したトンチンカンで大胆な改革案(和服の仲居さんたちにキャバレーのホステスみたいな露出の多い派手な衣装を着させるなど)で余計に混乱を招いてしまう、といったエピソードが中盤に描かれています。まさにメキシコ人の漁師の話に出てくるコンサルタントを思わせるノリがあり、ふと連想してしまいました。

このアニメもまた、登場する様々なキャラがそれぞれの目線で感じる「幸福のカタチ」を表現していて、大げさな事件が起こったりするような派手さはない作品ですが、人間描写が巧みで飽きずに一気に見れました。のんびりした田舎の温泉街を舞台に旅館に住み込みで働く主人公少女の精神的な成長を丁寧に描いた物語で、とても面白かったです。

メモ関連サイト
『花咲くいろは』公式サイト
posted by 八竹彗月 at 05:27| Comment(0) | 雑記

2018年02月03日

アニメ『いぬやしき』感想

『いぬやしき』なんとなく見始めて、第1話からぐいぐい惹き込まれて一気に最後まで見てしまいました。ロボット老人という設定の妙は、なんとなく大友克洋&江口寿史の『老人Z』を思い起こしますが、物語自体のテイストはまったく別物で、原作が『ガンツ』の作者ということもあって、ナンセンスな設定を用いながらリアルな現代社会の風刺や、生きるとはどういうことか、人生にはどんな意味があるのか、などの哲学的な問いを、壮絶なアクションをはさみながら畳み込むように描いていて、最後まで飽きさせません。

冴えないサラリーマン・犬屋敷 壱郎(いぬやしき いちろう)は、犬の散歩中に宇宙人のUFO墜落現場に居合わせてしまったせいでいったん死亡してしまいますが、宇宙人も良心が傷んだのか、そのままにはせずに急いで出来合いの機械パーツを使って元とそっくりの機械人間として蘇らせます。身体のパーツが全部入れ替わっていますが、心は元の犬屋敷壱郎のままです。しかし、オリジナルの人間の犬屋敷壱郎≠ニは部品が全て違うのだから、この犬屋敷壱郎だと思い込んでる「心」も、もしかしたら入れ替わった機械が犬屋敷壱郎をシミュレートしてるだけで、本当の自分ではないのではないか?という実存的なジレンマに壱郎は苦しむ事になります。このあたりの哲学的なテイストは、物質的に別のモノでそっくりに組み立てられた「自分」は、本物の自分なのだろうか?という問いを投げかける「ガンツ」と通底する部分ですね。

主人公壱郎は、自分は元の「人間・犬屋敷壱郎」なのだ、という確信を得たくて、人助けなどの人間らしい″s為をしながら、人間としての実感を取り戻そうと生きることになります。時を同じくして、同じ場所でUFO事故に巻き込まれたもうひとりの主人公である高校生、獅子神 皓(ししがみ ひろ)も、壱郎と同様の機械の身体を得ます。彼は壱郎と正反対に、人を殺すことで自分が生きているという実感を確かめようとして、無慈悲な殺害を淡々と繰り返していきます。冴えない初老の男でありながら正義の心をもった壱郎と、他人への共感能力に乏しいイケメン高校生が巻き起こす殺戮、という明快かつユニークなコントラスト。明快な設定と激しいアクション&哲学的テイストというのは作者の持ち味なのでしょうね。そうした「ガンツ」から引き継がれた持ち味に、人間愛や家族愛などの情緒的な部分も丁寧に描いたことで、とても魅力的な作品に仕上がっていますね。

機械によって超人的な能力を手に入れたふたりの人間が、その能力をまったく対照的な目的のために行使するユニークさがこの作品の背骨になっていて、正義の老人、壱郎の人助けのエピソードは弱きを助ける必殺仕事人っぽいノリで王道のヒーローもので楽しいです。方や皓(ひろ)のエピソードは、愛に飢えた孤独な少年が、身近にいる母や恋人や幼なじみだけを心の支えに、大事な彼らを守ろうとして結果的に利己的な殺害を繰り返すという、切なくも殺伐としたものです。彼の犯した冷酷な殺人の数々を考えると、同情の余地はないはずなのですが、一方で、皓(ひろ)の狂おしいまでの寂しさや人恋しさが伝わってもくるので、彼のキャラを自分はどう扱い、どう評価したらよいのか悩みました。ある意味、皓(ひろ)は壱郎の闇の部分であり、壱郎は皓(ひろ)の光(理想)を象徴する存在なのでしょうね。壱郎だけのエピソードでまとめあげてもよかったのではないか、とも途中ふと思ったりしましたが、エピソードを重ねるごとに、皓(ひろ)という冷酷さと繊細さを持った、生きる事にとことん不器用なキャラがどうも憎みきれない感じになってきて、見ているうちに、「ああ、そういえば壱郎もまた、皓(ひろ)と同様に、不器用にしか生きれないキャラだったな」ということに気づき、彼をからませるその意図になるほどと合点がいったのでした。

今回は「ガンツ」と違って、宇宙人は裏方というか、最初の「事故」以来どこかに去ってしまって物語には出てきません。なので、より人間描写や社会風刺を掘り下げて描写していて社会派SFっぽいノリもあって面白かったです。ラストはとても考えさせられますね。ネタバレになるので書きませんが、同じ立場だったら自分ならどういう選択をしただろうか?と考えずにはいられない秀逸な結びでしたね。

メモ参考サイト
ウィキペディア『いぬやしき』

『いぬやしき』公式サイト
posted by 八竹彗月 at 18:24| Comment(0) | 雑記

2016年07月04日

七変化

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散歩してると、たまに見かける不思議な花が無性に気になったので撮ってみました。同じ個体から様々な色や形の花が咲くという摩訶不思議な、そして可愛らしい花です。後で調べてみると、この花はランタナ、和名を「七変化(シチヘンゲ)」と呼ぶということがわかりました。七変化、たしかに、まさしく不思議な性質をそのまま言い表していて、ストレートながらなんとなく忍者っぽいユーモラスなネーミングでもあります。

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というわけで、近くの公園で撮影した七変化の写真を並べながら、あれこれと雑談してみたいと思います。

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七変化の花言葉は『厳格』『合意』『協力』『確かな計画』。花言葉というのは、花に想いを託して相手に向けるメッセージで、あえて言葉でなく花に語らせるというのが優雅ですね。花言葉というのは西洋が起源で、かなり古い風習のようですが、はじめて花言葉が本にまとめられたのが19世紀初頭のようで、実質このあたりから、行き当たりばったりでなく、それぞれ花に固有のキャラ付けがされてきたのでしょうね。モノに宿る象徴性を読み解く文化は、西洋魔術の自然魔法、万物照応論などに見られ、万物は、動物、植物、天体、方位、数字など、すべて固有の意味と象徴によって結びついているという考え方がありますが、もしかすると花言葉も、そうした西洋のオカルティズムの影響から発生したものなのかもしれませんね。


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万物照応というと、数字に秘められた象徴を駆使して世界を読み解こうとするカバラ秘術の「ゲマトリア(数秘術)」とか興味があります。歴史上の有名人の名前を数字に変換して演算してみたりすると、その隠された意味があらわになる、という話をよく聞きますね。歴史的な事件事故の起こった日付などをいろいろ足したり掛けたりして意味を探ろうとするのは陰謀論でよく見かけるお馴染みのもので、基本的には眉唾でみていますが、さりとて全く無意味だとも思っていません。「偶然」というのは、ただ人間の認識が追いつかないものであるにすぎず、すべての事象には秘められた意味があり、なんらかの象徴によって互いに影響し結びついているという発想は惹かれるものがありますし、もしかするとそうした思考法にもなにがしかの真理が含まれてそうな気もします。最近では、もっとライトな感じの数秘術「エンジェル・ナンバー」が流行っていますね。いろいろそのあたりの話も書きたいところですが、あまり話が逸れるのもなんなので元に戻します。

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七変化(ランタナ)は、それほどレアではないので公園の植え込みや住宅街などで見かけますし、ご存知の方も多いと思いますが、日常に潜むこうした身近な不思議にふと気づくたびに、地球という博物館が出してくるアイデアあふれる生命の多様さに感動します。植物は、その本来の機能、大地に酸素を供給するとか、蝶などの虫にエサを与えるとか、そうした事のほかに、おそらく、いや確実に「人間を楽しませるため」という目的性も持ってますね。花は、その美しさ可愛らしさゆえに、人間の生存にとってさして必要不可欠でもない花までもが好んで保護育成され、人間が美しいと感じるということがそのまま種の存続に役立っています。

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人間が現在のところ地球の支配者ですから、人間に好かれるという要素は地球上の生命にとって意外に重要な生き残りの鍵になっているのでしょう。環境の変化で絶滅しそうになる個体も、人間がそこに憐憫を感じれば無理矢理にでも環境が保護されます。コアラは動物として競争力がとことん弱く栄養豊かなエサがある場所では生き残れなかったのか木の上に昇り栄養が少なく毒もあるユーカリを体内で解毒して生きています。養分の少ないユーカリしかエサを獲得できなかったっために体力維持のために一日20時間近くを睡眠に当てるというコスパの悪い生き方をしています。しかし、「可愛い」と人間に感じさせる容姿を持っていたために現在では人間によって全力で保護される生き物になることができました。キャベツも、あのように葉っぱが内側に重なっていては光合成がうまくいかないので、植物としての進化は失敗しているものの、人間に「おいしい!」と思われたために大量に栽培される種となりました。

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地球上の生命は、少なくとも人間が生命体のヒエラルキーの頂上にいる間は、人間にどう思われるか?という事が非常に大事な要件になっているように思われます。だからこそ、人間は人間のみの狭い視野でなく、地球規模でのマクロな視点で環境を扱っていく責任がありますね。よく「人間は地球のガン細胞だ」という厭世的な意見を耳にすることがありますが、人間がちゃんと地球が望む役割を果たしていけば、地球という一個の生命体の脳細胞として機能することになりますから、地球に好かれるように人間は謙虚に自然と向き合うことが大事なのでしょう。

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宇宙論において最も魅力的な考え方に「人間原理」があります。宇宙は人間が観測することによって存在しているという、科学というより哲学っぽいニュアンスを感じる不思議な説ですが、上記の話のように、現在の地球がすでに物理的にも人間原理で説明できそうな状況になりつつあるのが面白いと思います。人間原理というのは、宇宙を人間中心に考えるので、いかにも非科学的なイメージをもってしまいがちですが、そもそも科学というのは人間の知覚しうる範囲で世界を把握する技法なので、演繹的に宇宙を科学的に捉えていこうとすると最終的には人間原理に行き着かざるを得ないのかもしれませんね。

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posted by 八竹彗月 at 18:28| Comment(0) | 雑記