
「蜘蛛の糸」「羅生門」などの作品で知られる昭和を代表する文豪の代表格、芥川龍之介。個人的な好みでは芥川作品の中では「杜子春」と「アグニの神」が大好きです。「アグニの神」はオカルティックなミステリー短編で今読んでも古くさい感じがなく、モダンな印象の逸品ですね。純文学という堅苦しいイメージを吹き飛ばすような現代的でスリリングな展開とスッキリとした小粋なオチが見事です。舞台は上海、インド人の老婆の占い師、美少女の霊媒、といったユニークな設定だけでわくわくしてきます。「アグニの神」は芥川のオリジナル作品ですが、もうひとつの好きな作品「杜子春」のほうは唐の時代の中国の古典が下敷きになっています。とはいえ、結末を含め、半分以上は芥川の創作のようです。
以前から仙人という不思議な存在にはとても関心があり、きかっけはむかし読んだ諸星大二郎の漫画や仙道研究家の高藤聡一郎の本の影響もありますが、この「杜子春」の物語を子供の頃に読んだことがそもそもの萌芽となっているのかもしれません。ふと思い出しては何度も読みたくなるお話です。また急に「杜子春」が読みたくなっていろいろ調べたりしてるうちに、せっかくだから記事にまとめようと思い、思うところを気ままに綴ってみました。せっかくだから〜せっかくだから〜

杜子春の話が急に読みたくなって、検索してたら、プロのナレーター、窪田等さんが朗読している動画が!
惚れ惚れするような声と抑揚で、情景が目に浮かぶような表現力が素晴らしいです。じっくり堪能させていただきました。
GYAO!でも学研の制作した「杜子春」のアニメが無料公開されていました。原作に忠実でよいアニメだと思います。個人的にはまた杜子春をアニメ化するなら諸星大二郎先生のキャラデザインで見てみたいですね。諸怪志異っぽいノリで。
杜子春の芥川バージョンは元になった中国の古典とは結末が違うとのことです。原典の、あくまで不動心を重んじた結末と違い、芥川は日本的というか、情緒的にまとめていますが、芥川の解釈も原典と同じくらい真理を描いているように思えました。仙人の鉄冠子については、いかにもネタ元になった仙人がいそうですが、それらしい原典は不明なようですね。
「杜子春」で描かれる鉄冠子(てっかんし)と名乗る仙人は、いかにもイメージ通りの仙人といった風情で描かれており、仙人になりたいと望む杜子春を峨眉山(仙人伝説のある四川省にある聖山)の頂上に連れていき、「俺はこれから天上に行って西王母(せいおうぼ。中国神話の女神)に謁見してくるが、用事を終えて俺が帰ってくるまで何があっても口をきいてはならぬ」と言いつけて去ってしまいます。鉄冠子のこの「帰ってくるまで口をきくな」という約束こそが、杜子春を仙人にしてやる条件になっているのですが、これがかなり難関です。
虎だの大蛇だの、はては峨眉山を守護する豪傑な神霊までもが杜子春の口を開かせようと攻撃してきますが、お調子者だったワリにけっこう耐え忍ぶところが「意外とやるなぁ」と思わせます。それだけ仙人になってやるという決意がかたかったのでしょうね。言うことを聞かぬ杜子春に怒って峨眉山を守護する神将は持っていた三つ又の鉾の切っ先で杜子春の胸を貫き殺してしまいます。死んでも口をきかなかった杜子春の覚悟もすごいですが、いやいや、死んでしまったら仙人になるという夢はどうなるの?という所も気になってきます。このあたりの超展開も面白いですよね。
結局、死んだ後もまだ鉄冠子との約束は生きていて、地獄の果てでも仙人への夢はかたく保持する杜子春でした。死後の世界でも、口をきこうとしない杜子春に閻魔大王は激怒します。閻魔様は死者の行き先を決めるための案内人のような存在ですから、質問に答えないというのは、心証を悪くするだけで死者にとっては損にしかなりませんが、なにせ仙人になるための条件が「口をきくな」というものですから、せっかくここまで戒めを守り通してきたのに、いまさら口をきいてしまうのもなんだかもったいないという所もあったのでしょう。
地獄の責め苦にも堪え抜いた末に、それでも口をきかぬ杜子春に業を煮やした閻魔大王が地獄で畜生道に堕ち、馬の姿になった父母を引っ立て、杜子春の眼前で鬼たちに命じて拷問をくわえます。しかし、それでも仙人になって自由闊達に生きたいという夢のために父母の解放を請おうとする気持ちを必死にこらえるのでしたが、拷問に堪えている馬になった母のかすかな声を聴いて心が揺さぶられます。
「どうだ。まだその方は白状しないか。」 閻魔大王は鬼どもに、しばらく鞭の手をやめさせて、もう一度杜子春の答を促しました。もうその時には二匹の馬も、肉は裂け骨は砕けて、息も絶え絶えに階(きざはし。階段のこと)の前へ、倒れ伏していたのです。
杜子春は必死になって、鉄冠子の言葉を思い出しながら、かたく目をつぶっていました。するとその時彼の耳には、ほとんど声といえないくらい、かすかな声が伝わってきました。
「心配をおしでない。私たちはどうなっても、おまえさえ幸せになれるのなら、それよりけっこうなことはないのだからね。大王がなんとおっしゃっても、言いたくないことは黙っておいで」
それはたしかに懐かしい、母親の声に違いありません。杜子春は思わず、眼をあきました。
芥川龍之介『杜子春』青空文庫より(仮名遣いを現代文に改め引用)
仙人の術によって何度も栄華を味わった杜子春でしたが、金持ちになればお世辞をいい、貧乏になれば見向きもしなくなる世間の人間とは違い、眼前の父母は、自分のせいで味わわなくてもすむ拷問を受けているにもかかわらず、息子の幸福のためならばと凄惨な苦痛を甘んじて耐え忍んでいる。それがあまりにも有り難過ぎて、そして、そういう父母の苦痛を傍観する自分があまりに情けなさ過ぎて、どうにも堪えきれず杜子春は半死半生の二頭の馬の元に駆け寄り、号泣しながらひとこと「お母さん!」と叫んでしまいます。そこで気を失い、気がつくといつしかまたあの洛陽の西の門の下に佇んでいるのでした。
結局、仙人・鉄冠子との約束を守れなかった杜子春、おかげでこの世の栄華にも、仙人になることにも興味はなくなった末に「人間らしい、正直な暮らし」をすることに自分なりの人生の活路を見つけます。鉄冠子もその答えに喜び、自分の持っていた家と畑を杜子春に譲渡して去っていきます。
杜子春が地獄で口をきいてしまい約束を破ったのは、自分の夢のために父母が拷問にあっているのを黙って見過ごすような自分であったなら、仙人になったところで何の意味があるのか?ということに気付いたからですが、そもそも仙人・鉄冠子は、それを気付かせるために杜子春に試練を課したのでしょう。鉄冠子いわく、「(あの時に)もしお前が黙っていたら、おれは即座にお前の命を絶ってしまおうと思っていたのだ」と言っていますから、最初から杜子春を弟子にする気はなかったのでしょうね。約束を守らなかったら仙人にはなれず、守ってもなれないわけですからね。
それは鉄冠子のイジワルなのではなく、仙人になるよりも、まだ人間として経験すべきものが杜子春には残っていることを見抜いていて、それを自分で気付かせるように誘導していたのでしょうね。

神々のためのご馳走を勝手に食べてしまった罰で豚にされてしまった千尋の父
「千と千尋の神隠し」より
スタジオ・ジブリ

異界で両親が獣になってしまうシチュエーションは、「千と千尋の神隠し」の序盤で、千尋の両親が異界の食堂で無銭飲食したために豚に変えられて、食肉用の豚として飼育されるハメになるシーンを彷彿としますね。「千と千尋」では、他のシーンでも、ハクが少年と龍の姿を交互にとったり、湯婆婆の巨漢の子供坊≠ェネズミになったりと、元の姿から別の姿に変化するシーンがたくさん出てきます。こうした変身の描写は、なんとなく教訓めいていて、どこか輪廻転生の寓意を感じるところがありますね。
仏教用語で六道輪廻という言葉があり、これは一般には生前の行いによって死後に天道、人間道、修羅道、畜生道、餓鬼道、地獄道という六つの世界のどれかに振り分けられるカルマ的な境遇を指したりしますが、また同時に、生きている今現在の自分の心のあり方がまさにこの6つの境地を行き来していることを指したりもしますね。ブッダは死後の世界を語りませんでしたので、正しくは六道輪廻というのは仏教的には、死後の話ではなく、今生きているこの人生における心のあり方を6つの境地で表していると解釈したほうが良いのかもしれませんね。地獄というのも、死後の世界の話だけでなく、今現在の、怒りや憎しみや嫉妬などの不幸や苦しみを招く心の状態をも指しているのでしょう。針の山とか、血の池とか、仏教画にある地獄絵図は、そうした概念的な世界をビジュアルチックに表現した寓意的なものでもあるのでしょうね。人が動物に変えられてしまう世界、いわゆる畜生道の世界は、鳥・獣・虫などのように、理性や知性よりも生存本能が優位な世界、いわゆる「欲」の支配する世界で、六道の4番目、中の下にあたります。そういう意味でも、「千と千尋」で親が豚になった原因は飽食、神々に振る舞うはずだった食べ物を食い散らかすという、食を貪る欲の罪ですから、うまく六道の配置ときちんと重なっていて興味深いですね。
親が豚になってしまったことにショックを受け気が動転しながらも急に日が暮れて暗くなった路地を駆け抜ける序盤のシーン。この怪しい路地に立ち並ぶ店の感じがつげ義春や逆柱いみりのテイストを感じさせますね。ノスタルジックでシュールな怪しさがたまりません。店のあちこちの壁に昭和モダンな感じの色ガラスの窓がはまっていてイイ味だしてます。
「千と千尋の神隠し」より
スタジオ・ジブリ

確認のために「千と千尋」を見返していたら、ついついまた全編見てしまいましたが、改めて思いますが、ほんとうに凄い作品ですね。物語の構造は、異界に入って最後にそこから脱出するというとてもシンプルなもので、お話もヒロインの千尋が右も左も分らない異界で自分なりに様々なアクシデントに対応していく中で人間的に成長していくという分りやすいものです。しかし、その細部で描かれる数々のエピソードは、民族学や仏教思想などが見え隠れする味わい深い描写ばかりで、おおまかなストーリーの単純さと対照的に、次々に繰り出される細部に詰め込まれた芳醇なアイデアの奔流のハーモニーが絶妙ですね。千尋が湯婆婆の双子の姉、銭婆に会いに行くために乗る汽車の正面には「中道」と書かれたプレートがあり、また銭婆の住んでいる家がある最寄り駅は、湯屋から6つ目の駅であることなど、六道輪廻などのなんらかの哲学的な意味合いが込められてそうな意味深な設定が多いですね。
「千と千尋」を見返していて今更気付いたのですが、ラストでいつのまにか人間の姿に戻っている両親の元へ向かおうとする千尋がふと後ろを振り向こうとして、ハクの「トンネルを抜けきるまで振り向いてはいけない」という言葉を思い出し、後ろを向くのを途中で止めるシーンで、銭婆からもらった紫の髪留めが光ってますね。また両親と共にトンネルを抜けて現実世界に戻った時に気になってトンネルに振り向きますが、この時にも髪留めが光りますね。この細やかな演出によって、千尋の体験した異世界の出来事が単なる幻や夢オチ的なものではないことを暗示し、より奥深い印象を残しています。現実世界に戻っても、まだ千尋に贈られた銭婆の魔法は消えていないことを示しているんでしょうね。逆に、銭婆も、千尋が現実世界に戻った後まで魔法効果を維持できるように、髪留めの作成を魔法でなく、ちゃんと手作りで糸を編み込んで作ったのかもしれませんね。そんなこんなで、見るたびに味わい深い作品で、またもや宮崎駿監督の天才ぶりを端々で再確認させられた感じです。
そういえばハクの「振り返ってはいけない」という警告は、古事記をはじめ世界中の神話でたびたび描かれるタブーの類型を思わせますね。ウィキペディアには「見るなのタブー」という記事で見ることを禁止するシチュエーションの神話をたくさん紹介してあり興味深かったです。日常の世界では、見るという行為だけで何かに影響を与えることはできないですが、霊的な世界ではまるで量子力学の二重スリット実験のように、観測するだけで結果に重大な違いが生じてしまうようになっているのでしょうね。振り返ってしまったらどうなるのかが説明されていないので、変にその意味にこだわると不気味な余韻を感じるシーンです。なにか呪術的な効力とか、結界のシステム的な何かが「見る」という行為でバランスが崩れて、千尋にとって不利になるような何らかの変化が起こってしまうことをハクは防ぎたかったのかもしれませんね。
ラスト近くのシーン。トンネルを抜け異界から現実世界に戻った千尋が、出てきたトンネルを振り返って見つめるシーン。この後、「車に早く乗りなさい」と親に急かされて親の方に顔を向けますが、その瞬間銭婆にもらった紫の髪留めが一瞬キラリと光ります。なんとも繊細でニクイ演出です。
「千と千尋の神隠し」より
スタジオ・ジブリ


ジブリ作品の画像集。「画像は常識の範囲内でご自由にお使いください」という衝撃的な英断が話題になりました。お言葉に甘えてありがたく使用させていただきました。
「千と千尋」関連で以前書いた記事です。ミヒャエル・エンデの「はてしない物語」を読んでたら、「千と千尋」との類似点がいくつかあって興味深かったので、その勢いで書いた記事です。宮崎監督は児童文学にも詳しそうですし、多分エンデからも少なからず影響を受けてるのかもしれませんね。

「杜子春」の醍醐味はなんといっても不思議な存在感を醸し出している仙人の存在です。物語に登場する仙人の鉄冠子は、自分の留守中に一言もしゃべるなというシンプルな行を杜子春に課しますが、実際は魑魅魍魎にあの手この手で口を開かせられようとひどい目に合わせられることになります。とはいえ、口を開かないことでなぜ仙人になれるのかが不明瞭な話ではあります。ここの部分の私見は、上記でも書いたとおり、そもそも鉄冠子は杜子春を弟子にするつもりはなく、真面目に人生を生きる価値に気付かせたかったのが鉄冠子が杜子春に関わった理由なのではないか、と思ってます。
ウィキペディアによれば、オリジナルの中国の古典では、地獄へ堕ちた杜子春は、女に生まれ変わって現世に誕生することになるようです。そして結婚し、子を儲けますが、まだ仙人との約束を守っているため、子を授かった喜びの声の一言もなく、そうした妻の様子に激怒した夫が赤ん坊を叩き殺してしまいます。そこでやっと妻(杜子春)は悲鳴をあげてしまいますが、それによって現実に戻り、仙人に「もう少し我慢してれば仙薬が完成して、それを飲めばお前は仙人になれたのに〜残念!」と突き放されるというオチのようです。芥川バージョンが、親の愛に報いる尊さに主眼を置いたオチなのに対し、オリジナルはあくまでクールに戒めを守り通すことを求めています。物語としては芥川バージョンのほうが情緒があって好きですが、中国はそもそも仙人伝説のルーツとなる老子や荘子を生み出した国であり、抱朴子という仙人になるための行法をこと細かに解説した古典もあるくらいのお国柄なので、仙人という存在は日本人が考えるよりもけっこうリアルなものがあるような気がします。そのために、芥川バージョンのような物語的なカタルシスよりも、仙道的なリアル感、つまり俗世の執着をとことん無くして個人的な感情やエゴを超越してこそ仙人となれる、みたいな部分を描きたかったのでしょうね。
諸星大二郎先生の「諸怪志異」シリーズは、抱朴子などの道教思想を背景にしたリアル感のある仙人がよく出てくるので面白いですね。「無面目」「太公望伝」「桃源記」なども仙人が登場する逸品で、印象深かったです。

杜子春の面白さは、仙人という超人を描いたファンタジー感や、峨眉山の怪異や地獄の様子などの異世界描写で、これらは話にグイグイ惹き込まれる要素ですが、後半に描かれる馬に変えられた親との交流が実にエモーショナルな感動を誘い、それによってとても印象深い作品になっています。畜生道に落ちた親ではありますが、地獄に堕ちるほどの心性であっても、それでも子を思う親の愛、というのが泣かせますよね。実際は、縁が深い人ほどこじれるとやっかいなもので、家族で関係がもつれるとけっこう苦しいものですが、杜子春の場合は、若い時分に両親を亡くしているので、親の良い面だけが印象深く記憶に残っているのでしょう。
「杜子春」を読んでいて彷彿とするのは、中沢新一氏の名著「虹の階梯」に書かれていた、チベット密教におけるディープな興味深い瞑想法です。いわく、人は皆何千という輪廻を繰り返して今現在人間として生を受けている。悟りに達していない全ての生き物は、地獄の住人、餓鬼、動物、人間など6つのタイプの生物として輪廻する。その中で人間だけが愚かさから脱して輪廻を抜け出て永遠の安息、悟りに至れる可能性をもっている。人間として生を受けているというだけで、宇宙的に奇跡的な恩寵なのである。今、自分が人間として生を受けているのは、遠い過去から人間としての生を受けれるまでに自分を育て導いてきてくれた者たちのおかげであり、それらすべてに感謝しなければならない。そうした真理を深く自覚することで心の覚醒に至ることができる、というのがこの瞑想の基本的な概念です。憐れみや慈しみの心を育てる瞑想として、中沢氏のグルであるチベットの高僧ケツン・サンポ・リンポチェが教えたとされる内容ですが、とても「杜子春」的なものを感じます。それは以下のようなものです。
憐れみの心の瞑想を次のようにして深めていくのがよい、とラマ(チベット僧のこと)たちは教え伝えてきた。犯罪人が死刑になる直前、あるいは屠殺人の斧が眉間に振り下ろされる直前の動物が、その時、どんな苦痛をおぼえるか、真剣に想像してみるのである。(略)あるいは死刑になろうとしているのが、年老いた自分の母親だったらどうだろう。水につけられ息がつまっていく時、母親の苦しみはいかばかりだろう。屠殺されようとしている動物も自分の母親である、あるいは前世で自分の母親であったものだ。悲しみをたたえて見開かれた目がこちらを見つめているではないか。(略)彼らはあなたと異なるところは何もないのだ。彼らの姿はあなた自身の姿なのだ、彼らはあなたの父や母であったものなのだ、という考えをここでも極限まで問いつめていくのである。
中沢新一、ケツン・サンポ・リンポチェ共著『虹の階梯 チベット密教の瞑想修行』平河出版社 1981年 p181〜182
まさに「杜子春」ですね。といいますか、「杜子春」はただの娯楽的なお話ではなく、深い真理が込められた物語だからこそ、無意識的なところで人々の魂に響くところがあり、それゆえに名作として残っているような気がします。昔テレビの何かの番組で中沢新一氏がこの部分の話をチラッとしていて、それが強く印象に残り、引用元のこの本を探した思い出があります。このチベット密教の瞑想は、このまま鬱々と憐憫の情を深めるだけで終わるのではなく、この後に、それらの生き物たちが幸福を得て、根源的なブッダの智慧によって救われていく至福をイメージした瞑想に移っていきます。愛、憐れみ、喜び、平等心の4つ(四無量心)を育てるのがこの瞑想の目的で、引用部分は生きとし生けるものへの憐れみを喚起する瞑想の部分です。
屠殺される動物はあなたの前世で親だった者かもしれないのだ、という視点は衝撃的でした。しかしよく考えてみれば、この宇宙は元々根源的にはビッグバンにより、あるひとつの物質が爆発して出来たものなのであれば、すべての物質、すべての生命は、過去を極限まで遡れば同一のものだったわけですから、すべては自分の分身であるという考えは、論理的な類推においても納得出来るような気がします。また物理的に考えても、人間も鳥も虫も鉱物も大気もそれを構成しているのは素粒子という名の積み木の組み合わせの違いだけです。アラン・ワッツのいうように、我々はこの世界を楽しむために本来みんながひとつの同じ命であることを意図的に忘れて遊んでいるだけの神様のかくれんぼ遊び≠ネのかもしれませんね。