2019年04月06日

タイムマシンにお願い!(タイムパラドックスの世界)

時計寺山修司とタイムマシン

サディスティック・ミカバンドのヒット曲「タイムマシンにおねがい」は、タイムマシンに乗って恐竜の時代やら鹿鳴館の時代など、謎とロマンを求めて過去を旅する夢を歌った楽しい曲でしたね。タイムマシン、あるいはタイムトラベルもののSFはそういった感じで、過去の歴史的事件に立ち会ったり、未来の世界がどうなっているか見に行ったりといった空想を広げる人気のジャンルで、映画でも「バック・トゥ・ザ・フューチャー」や「バタフライ・エフェクト」など面白い作品が多いですね。日本アートシネマの傑作、寺山修司の映画「田園に死す」も、寺山独特のポエティックな時間論を主軸にした奇妙で詩的なシュルレアリスム作品でした。「過去」は固定した事実の集積で、「未来」は固まっていない無限の可能性の世界、というようなイメージが一般にあると思いますが、寺山はそこに詩的な問いかけをしています。過ぎ去った事は記憶の中にしか存在しない虚構に過ぎないのだから、過去とはつまり単なる記憶のことに過ぎず、であるから、実は過去を書き換える事は容易に可能なものである、という独特の思想を持っていました。映画「田園に死す」は、そういった思想を映像化した作品で、作中のキャラである映画批評家にこう言わせています。「人間は記憶から解放されない限り、ほんとに自由になることなんてできないんだよ」と。そして映画批評家は、主人公の「私」に次のような問題を投げかけます。「もし君がタイムマシンに乗って数百年をさかのぼり、君の三代前のおばあさんを殺したとしたら、現在の君はいなくなるか?」

ご存知、タイムマシンものには付き物の有名な「親殺しのパラドックス」(映画では親ではなくお婆さんですが)を言ってるわけですね。タイムマシンものは、そのように、無邪気に時間旅行のファンタジックな空想を楽しむだけでなく、「時間」というつかみ所の無い概念をどう認識するかという哲学的な問も含んでおり、また、そういった時間の解釈によって生じるパラドックスも興味深いものがあります。上述した「親殺しのパラドックス」が、その手のパラドックスの中で最も有名なもので、「バック・トゥ・ザ・フューチャー」しかり、タイムトラベルもののSFはそれをどう扱うかが重要なテーマになったりすることが多いですね。

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H・G・ウェルズ著「タイムマシン」1895年の初版本のトビラ絵。ウェルズはタイムマシンというSFの画期的なアイデアを生み出しましたが、その作品でタイムマシンが行くのは80万年後(正確には紀元802701年の世界)の未来です。今でこそタイムマシンものというと、過去の歴史的事件に介入したり、未来の競馬場に行って結果を見てから馬券を買ったりなど、現実的な欲望とリンクした使い方をされるのがメインですが、ウェルズはもっと単純に、時間を行き来するということ自体のロマンを表現したかったのでしょうね。80万年後となると、ほとんど現在の常識が通用する世界ではなくなってるはずですから、未来といってもほとんど異世界ものと区別のつかない世界でしょうね。しかしながら、タイムマシンというアイデアは、SF小説だけに限らず、物理学者なども真剣に議論のテーマにするような奥の深いものですし、また時間の謎にかかわるテーマでもあるので、哲学の分野でもしばしば議論のテーマになったりしていて面白いジャンルですね。

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寺山修司監督「田園に死す」1974年 配給:ATG
現在の「私」が少年時代の過去の自分と会話するシュールなワンシーン


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同上、「田園に死す」のワンシーン。雛壇が川上から流れてくる伝説のシーン以外にも、寺山の脳内にあった幻想怪奇のポエジーが映像として出力されているようなシーンは多く、人間の潜在意識に堆積した欲望やら希望やらがカオスに入り組んだような奇妙な世界を描き出していて凄いですね。

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上のシーンのスチール写真。一見なんてことのない寒村のスナップ写真のようでいて、同時にものすごく違和感のある異世界っぽさがにじみ出ている雰囲気がイイですね〜

メモ参考サイト
「田園に死す」(ウィキペディア)



時計親殺しのパラドックス

自分が生まれる前の過去に戻って若き日の自分の親を殺害したらどうなるか?という「親殺しのパラドックス」。自分が生まれるには両親が過去のある時点で出会って子供(つまり自分)を儲ける必要がありますが、その前に親に成るはずの人物を殺してしまうと、自分は生まれないことになり、であれば生まれてない自分が存在している自体が矛盾で、親殺し自体が不可能になります。殺された親は、まだ生んでない子供によって殺されたことになり、生まれていない殺人者がなんで存在できるのか、とか、いろんな部分が破綻してくるというパラドックスで、突き詰めていけば「存在とは何か?」という純粋に哲学そのものが扱うテーマと同じような思考の深淵にいざなわれていきますね。

「親殺しのパラドックス」は、まぁ、殺しとかですと物騒ですが、意図的でなくても似たようなミスを犯す可能性はあり、例えば、両親が結婚する大きなきかっけになったイベントなどを自分が過去に戻ってしでかした何らかのアクションによって結果的に妨害してしまうとします。すると、両親が結びつく確率がガクッと減るわけですから、自分が生まれる可能性も低くなってしまいます。殺人までしでかさなくても、過去に行くという行為自体が様々な問題を引き起こします。

そうした矛盾を解決するために、未来人の超国家的な組織であるタイムパトロール隊によって常に時間旅行者は監視されており、常に矛盾が起きないように管理しているとか、あるいはもっとアカデミックな感じで多元宇宙の概念で切り抜けようとするケースなど、そのあたりのバリエーションも様々な創意工夫があって面白いところです。父親を殺したつもりが実は自分は母親の浮気で出来た子供だった、などという悪趣味なパラドックスの解決策まであったりしますが、さらには、そういったアクシデントは偶然に起こるのではなく、もともと宇宙自体に時間の矛盾を補正する何らかの力が法則的に働いていて、タイムパラドックスが起こらないようになっている、というオカルティックな解釈もありますね。一見ご都合主義な解決法のようで、実際意外と宇宙ってそういうものじゃないだろうか、と思わせるところもあり、この解釈も突き詰めて行くと面白いアイデアになりそうな種ですね。

石川喬司著「夢探偵 SF&ミステリー百科」講談社文庫(1981年)に、親殺しのパラドックスの解決法が複数紹介されていて、そのいくつかは上記のように運命の謎めいた力によって、なぜか親を殺せない状況になってしまうというものも列挙されていますが、他にユニークな例では、アルフレッド・ベスター著「マホメットを殺した男たち」で描かれたアイデアを紹介しています。それは、殺したとたんに異質な別世界に入ってしまうというものです。話しの内容は以下のようなものです。

女房の浮気にショックを受けた科学者が我を忘れて怒り狂い、過去に旅して世界の歴史ごとめちゃくちゃにしてやろうと決意して、ナポレオンやらアインシュタインやら歴史を作ってきた歴史的な有名人を片っ端から殺害して現代に戻ってくる。しかし、戻った現代でも件の女房は相変わらず普通に存在していて、今まで通り平気で浮気しているありさま。世界は自分の行為によって何の変化もしなかったが、そのかわり自分だけが存在しない幽霊のようなものになってしまっていることに気づく。彼が変えたのは世界ではなく、自分自身の運命だったのだ。というお話です。メランコリックで詩的な情緒のあるなかなかのアイデアだと思います。

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石川喬司著「夢探偵 SF&ミステリー百科」講談社文庫(1981年)

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「SFファンタジア 2・時空編」原案:福島正実 監修:小松左京 編集:石川喬司 1977年(昭和52年) 学研
ビジュアル資料満載のSF百科事典「SFファンタジア」の2巻目の表紙。この巻は時空に関するSFがテーマで、タイムマシンやタイムトラベル関連以外にも、宇宙人はヒト型なのかという考察とか、宇宙という最大に巨大な空間を舞台に繰り広げられるスペースオペラもの、またSFアートやエッシャーなどの幻想絵画の紹介など、とても興味深い編集です。


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SFファンタジア 2・時空編」原案:福島正実 監修:小松左京 編集:石川喬司 1977年(昭和52年) 学研
タイムマシンの項は上述の「夢探偵」の著者、石川喬司が担当しています。「夢探偵」と重複する文章はありますが、こちらではもっとページ数を割いて詳細にいろいろ作品紹介をしていて、図版も多く読み応え見応えがあります。多元宇宙や異次元ものにも詳しく言及していて興味深い情報が多く紹介されています。




時計ループする時間

ドラえもんからはては以前大ヒットしたゲーム「シュタインズ・ゲート」まで、アニメ、漫画、ゲームなどでも多くの娯楽作品で、そのようなタイムトラベルによるパラドックスを様々なシチュエーションで描いていて興味深いです。そういえば「ルパン三世」の1stシリーズの第13話「タイムマシンに気をつけろ」でもタイムマシンが扱われていて、「親殺しのパラドックス」に触れてますね。シナリオでは親ではなく、もっと以前のルパン三世の先祖が魔毛狂介(まもうきょうすけ)と名乗る時間旅行者によって命を狙われる、というものでしたね。

「ひぐらしのなく頃に」などは、時間の概念自体を扱った独特の考察による「運命論」みたいな所が肝になっていてとても印象深い作品でした。話題になったアニメ「僕だけがいない街」「涼宮ハルヒの憂鬱」「魔法少女まどか☆マギカ」「Re:ゼロから始める異世界生活」などもそうした系列のいわゆるループものですから、ループもののSFは傑作を多く生み出しているジャンルともいえますね。「僕だけがいない街」は普通の現代日本を舞台にしていてキャラも普通にいそうなリアリティがあり、それだけにそうした普通の人が蜘蛛の巣のような時間の円環に囚われてしまうので余計に不思議感があって面白かったですね。物語は「ひぐらし」のオマージュ的な要素がよく出てくるので、とくに「ひぐらし」ファンにはニヤリとさせられるシーンが多く楽しかったです。内容はひぐらしより推理要素の比重が高く上質なミステリーになっていて、1話目からぐいぐい引き込まれてしまいました。ループするたびに、事件のヒントを少しずつ掴んでいく過程や、事件の原因になっている過去を見つけ出し、それを変える事で事件自体を回避していくところなど、スリリングでとても面白かったです。単にSF的な面白さだけでなく、人生論的なメッセージも深いものがあって、そうした部分が大いに共感をよんだことが大ヒットに繋がったのでしょうね。人と深く関わる事は、基本的に面倒なものなので、生きていくのに必要な程度だけ着かず離れずで人付き合いというものをしてしまいがちになりますが、そういう浅い関係は、自分だけでなく自分に関わった他者の運命にも浅い影響しか与えないために、結果的に運命に流される人生になりがちです。「僕だけ〜」では、まさにそういう、浅い人間関係だけで生きてきた厭世的な主人公が、受け入れがたい運命を変えるために、キーになる人物と深く関わっていく事になり、そうした主人公の「人間としての経験値」の上昇から伝わってくる人生の在り方などの哲学が、この作品を味わい深くしている部分だと思いました。

ループ系の作品は、ひぐらし以前の作品でいうと、押井守監督のいわくつきの作品「うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー」もそうですね。「ひぐらし」が2002年あたりの作品で、「うる星2」が1984年ですから、なんだかんだいっても押井守監督の先見性はさすがですね。ウィキの「ループもの」の解説では、時間のループ自体はけっこう昔からあったようですが、ひとつのジャンルとして認識されはじめたのは1987年のケン・グリムウッドの小説『リプレイ』の世界的ヒットから、ということで、そういう見地からも「うる星2」の先見性は注目したいですね。実は、私が「うる星2」を見たのは最近のことで、2、3年前にDVDではじめて見たのですが、「うる星やつら」らしからぬシュールで、メランコリックな雰囲気が印象的でした。原作者の高橋先生が不満を爆発された気持ちも理解できるところがありましたが、作品としては、そうした裏事情を抜きにすれば、うる星やつらのキャラで「ねじ式」を表現したようなアヴァンギャルドな感じの作品で、一見の価値はあると思います。

メモ参考サイト
「ループもの」(ウィキペディア)
「うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー」(ウィキペディア)



時計パラドックスの解決法

タイムパラドックスの解釈や解決の仕方などは、哲学的な思考実験そのもので、腰を据えて考えないとすぐ頭が混乱しそうな複雑な部分もありますが、またそこが楽しい部分でもありますね。タイムマシンもののSFをメインに執筆を続けた異端児、広瀬正さんの作品なども斬新な切り口で時間のパラドックスを描いていて面白かったですね。

タイムパラドックスのアイデアでとても気に入ってるのは、タイムマシンの発明に関する以下のようなパラドックスです。昔SF関連の事典かなにかで知ったのですが、本のタイトルが不明なので、ネット検索したら、同じアイデアが紹介されていたので引用します。

ある日、あなたは見知らぬ老人からタイムマシンの設計図を渡される。あなたはそれをもとにタイムマシンを発明し、大金持ちになる。やがて年老いたあなたはタイムマシンで過去へ向かい、かつての自分に設計図を渡す…。
…ちょっと待った、最初の設計図ってどこから出て来たんだ?

ニコニコ大百科「タイムパラドックス」より


これだけで見事なショートショートになりそうなアイデアですよね。最初に現われる見知らぬ老人の正体は、未来から来た自分自身だったというオチですが、さらに不思議なのは、その未来の自分が所持していたその設計図は一体どこから出てきたのか?という謎です。発明者が存在しないのに発明品だけがあるというパラドックスで、なかなか秀逸な謎です。上述の「夢探偵」によれば、J・G・マッキントッシュの短編「プレイバック」の中で似たような議論が描かれているそうで、「ベートーベンが『月光の曲』を書いた後で、誰かがそれを盗んで三週間前に戻り、それをベートーベンが曲を書く前に演奏して聞かせたとしたら、この曲をつくった者は誰ということになるか?」というパラドックスを紹介しています。タイムトラベルにはこのような様々な矛盾が生じますが、その原因はおそらく我々が認識している「時間」という概念そのものが間違っているのではないかというのも理由のひとつだと思います。一般に考えられているように、時間を1次元の線的なものと考えると、どうしても矛盾が生まれます。時間が1次元的な、過去から未来に流れる一方通行の流れであると仮定すると、過去は確定した世界ですから、もし過去の自分に会いに行けるなら、過去の時点で未来の自分に会った記憶があるはずです。なので、過去に「未来の自分に会った」という経験が無い以上、絶対に未来の自分は現在、あるいは過去の自分に会えないことになります。

そういえばさらに凄いパラドックスもありました。これは「夢探偵」で紹介されているタイムパラドックスのアイデアの中で最も奇妙だったもので、時間移動によって自分自身と交わって自分を生んだ話です。なかなかよく出来てますが、それなりにかなりのややこしさです。内容は以下の通り。

アメリカSF界の大御所、ロバート・A・ハインラインの短編「輪廻の蛇』は、これにさらに輪をかけた奇妙奇天烈マカ不思議な話である。この小説では、自分と自分がセックスして自分が生まれる。えっ、そんなバカな、と誰もが思うだろう。しかし本当にそうなるのだ。
詳しく説明すると──────捨子として孤児院で育てられた娘Aが、年頃になって男Bに誘惑され妊娠して、帝王切開で子供Cを生むが、その子供が病院からさらわれる。さらったのは時間旅行者で、彼はタイムマシンで昔に行き、その子供を孤児院の玄関に捨てる(C→A)一方、娘は帝王切開のとき半陰陽であることがわかり、女性器も子宮ももう役に立たないと判断した医者は、娘を男にしてしまう。娘が男になって六年目、時間旅行者はその男をたぶらかして七年昔に連れて行き、娘を誘惑させる(A→B×A)。そこで、A=B=Cということになる寸法だ。おわかり?

石川喬司著「夢探偵 SF&ミステリー百科」講談社文庫(1981年)p174より


とにかくタイムマシンに関する様々な矛盾や解釈は、ある意味とてもチャレンジしがいのある知的ゲームですから、無数の論説があって個人ではカバーしきれないところでもあります。そのあたりの様々な解釈のバリエーションを分類したりするのも面白い研究テーマかもしれませんし、もうそういう論説をしている作家さんもいるかもしれませんね。これから私が語ろうとしているタイムマシンに関する解釈も、もしかしたらすでに誰かが論じているような気もしますが、ざっと検索したところ、全く同じような論旨はたまたま見つからなかったのもあり、それをちょっと書いてみようと思います。

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広瀬正「広瀬正・小説全集・6 タイムマシンのつくり方」集英社文庫 1982年
ウェルズの創始したタイムマシンですが、タイムマシン(タイムトラベルも含む)ジャンルの開拓者というとハインラインということになるのでしょうか。ハインラインは読んでないので何とも言及しずらいですが、日本におけるこのジャンルの作家といえば広瀬正を抜きには語れないでしょうね。小松左京、光瀬龍、筒井康隆などSF界の巨匠が多く関わっていた日本SF創世記における重要な同人誌「宇宙塵」に寄稿した広瀬正のタイムマシンものの短編「もの」が星新一に絶賛されたことがきっかけになり、それ以降広瀬はタイムマシンもののSFばかり書くようになったそうですが、48で急逝という短い生涯だっただけに、結果的にタイムマシンものだけに取り組んだ特異な作家として日本SF史に残る事に。星新一は「結果的に彼にとって気の毒なことになったのではないかと後悔している」と後に語っていたと筒井康隆があとがきで触れてましたが、逆に、タイムマシンもの(時間もの)だけに才能を集中させたことで印象深い作家になっているともいえますし、一概に判断するのは難しいところでしょうね。




時計タイムトラベルによる宇宙への影響について

前述の親殺しや、あるいはタイムマシンの発明者を発明する前の過去に戻って殺すとか、タイムマシンが存在するだけで重大なパラドックスが生じると思われるわけですが、往々にしてパラドックスというのは、そもそも前提となる根本が間違っているから起こるのであり、パラドックスが生じるのは、時間を過去に遡ったり、未来に進めたりという行為自体が不可能であることの証拠である、という見方もあると思います。そこで、ここでは、それがなぜ不可能なのか、についての話しをしたいと思います。

スピリチュアルな解釈では、時間は「今ここ」にしか存在せず、過去も未来もエゴの妄想(仏教では迷いともいいますね)であって、そんなものは元々無い、という考えがあり、これはおそらく実際にもそれが真実に近いであろうと私も思います。過去とか未来というのは人間が物事の「変化」を随時脳に記憶させることで生じる架空の概念で、実際には過去の世界とか未来の世界というのは存在せず、ただ脳が物事を認識したり分類したりするときに便利だから一時的に採用している人間独自の「解釈」なのでしょう。しかしその解釈を採択してしまうとタイムパラドックスをこれ以上論じてもつまらないですから、少し別の側面から考えてみようと思います。

仮にタイムマシンが存在するとして、それを使って自分が過去や未来に行ったりできるとすると、タイムマシンで行った先の過去や未来では、その時点での宇宙の総質量は、自分と乗ってきたタイムマシンの分だけ増えることになります。単純に考えて、過去の自分に会う(会うと矛盾が生じるので、遠くから観察する、でもいいですが)その時点の宇宙は、余分な自分の質量分だけ多いことになります。タイムマシンが存在する時代なら、自分だけが使えるわけではないでしょうから、過去の歴史的瞬間などでは、とくに未来からの見物客がたくさん来そうですし、そうなると、クレオパトラや楊貴妃がどのくらいの美人だったか生で見たい人は多いでしょうし、戦争の真実を調査したい歴史家や、生物の進化などの調査など、なにかと特定の時期には未来からの来訪が増えて、宇宙の総質量がその時々で増えたり減ったりとすることになります。

宇宙全体の質量が必ずしも厳密に保存されるかどうかは分かりませんが、宇宙をひとつの閉鎖された箱庭のようなものだとすれば、宇宙を構成する物質が人間の都合で増えたり減ったりするのは、おかしいような気もします。宇宙全体からすれば、地球上の人類すべてがある歴史的な事件のあった過去の地点に観光に行ったとしても、海水に墨汁を一滴垂らしても海は黒くならないように、時間移動で生じる宇宙総量の変化は物理的な量としてはほとんどゼロみたいなものかもしれませんが、ゼロでない限りはやはり変化してしまうには違いありません。そうした物理的な矛盾を許容するように宇宙はできているのかどうか、というのがひとつの疑問です。

もうひとつは、時間移動に伴う空間移動の問題です。タイムトラベルによる時間を遡るというイメージが、単に地球上の人間のスケール感だけで解釈している場合が多いですが、実際はガリレオの時代のクリスマスと、去年のクリスマスにおける地球の位置は、太陽系においてはほとんど同じですが、太陽系ごと銀河系を回っているので、銀河系での位置はまったく別の空間になっています。また銀河系もグレートアトラクターと呼ばれる重力場に秒速1000キロものスピードで引き寄せられているそうなので、時間をちょっと移動するだけでも空間的にはまったく別の場所にかなりとんでもなく複雑に移動することになります。

つまり、例えば時間を5分遡るということは、宇宙全体まるごと5分巻き戻すのと同じといえます。5分前に時間を遡るイメージだけだと簡単そうですが、5分前の時間に存在していた同じ空間に行くということは、宇宙スケールでの大事件になるはずなので、そう考えると、一般的な時間の解釈で考えてもタイムトラベルは不可能そうに思えてきます。バタフライ・エフェクト(バタフライ効果)は、蝶の羽ばたきという微細な現象も、巡り巡っては地球の裏側で起こる竜巻などの気象の原因にもなるうるという、カオス理論でいうカオス運動の予測不可能生の例え話ですが、そもそもこの宇宙は細部に至るまで宇宙にとって不必要なパーツは存在せず、全てが宇宙の何らかの構成要素なのですから、どんな些細な物質やエネルギーも何らかの大きな現象の要因になる可能性はあるのではないでしょうか。そういう意味でも、たとえ5分だけでも時間を戻すということは、その5分間で生じた宇宙の全物質とそのエネルギーの状態を変えなくてはならず、わずかな時間旅行も宇宙規模の大事(おおごと)になるのではないかと思います。

タイムトラベルの科学的な推論のひとつに、ブラックホールの強烈な重力場における時間の伸縮を利用したタイムトラベル的なものなど、相対性理論などの現代物理学の成果を利用したものがありますが、宇宙まるごと巻き戻して過去に戻るということはさすがにどんな方法も皆無でしょうから、仮にそうした現代科学的な方法で時間を移動できても、それで行く「過去」や「未来」は、いわゆる本当の過去や未来ではなさそうな気がしますね。

メモ参考サイト
「グレートアトラクター」(ウィキペディア)
「バタフライ効果」(ウィキペディア)



時計でも可能性を信じたい

とはいうものの、それは個人的な人生の短い経験や学習によって育んだ経験則のような、多分に固定観念を含む常識をもとにした思考ですから、実際の宇宙はもっと融通の利いた自由な世界かもしれません。不可能を論じるだけでは面白くないので、また別の視点で考えてみますと、この宇宙は、物理的存在として捉えられる部分以外にも、さまざまな次元で存在していると思われるので、以前の記事などでも何度か言及したように、何か全く新しいパラダイムの登場によって、意外と簡単に時間旅行が可能になる可能性も十分あるとも思っています。

人間の脳が「時間移動」のアイデアを捻出することが可能であるから、人間はそうした概念で遊べるわけですし、宇宙は人間に時間旅行に関する思考を許しているから人間はそういう考えを持てるともいえると思います。人間も宇宙に組み込まれた存在である以上、真に無意味な事を考える事も不可能であると思うので、人間が時間について考えたり時間旅行について思考するのも何らかの可能性や意味のあることなのかもしれません。もしかしたら、意外な何か突破口があって、それを発見する事でタイムマシンも意外とあっさり実現してしまうこともありそうな気もしています。実際にタイムマシンが存在する世界が訪れたら、そういう時代では、タイムパラドックスもすでにあっけなく解決されてるでしょう。未来人は「なんで昔の人は時間移動でパラドックスが生じるなんていう誤解をしてたんだろう」と思うのかもしれませんね。

まぁ、タイムマシンの製造が可能か不可能かなど、突き詰めれば「わからない」という答えにしかならないわけですから、それなら「可能性」を信じる方がロマンもあって楽しいのはたしかです。実際に、それについて真剣に考えた人が漫画や映画などタイムトラベルものの傑作を生み出してきたのですし、そうした作品で涙したり、勇気をもらったりする人もたくさんいるわけで、そう考えると、それはそれで、実際にタイムマシンを作ること以上に価値のある事なのかもしれません。
posted by 八竹彗月 at 13:13| Comment(0) | 雑記

2019年02月28日

どろろん、どろろん、どろろ論

「どろろ」のリメイクアニメ、評判どおりスコブル面白いですね!毎回ワクワクドキドキスコスコブルブルな感じで、先のストーリーは分かっていながらも強く惹き付けられるその世界観、さすが漫画の神様による神作品だけのことはあります。設定も内容もあまりに深過ぎて少年雑誌での連載当時はウケが悪く、打ち切りになったというのは有名な話ですが、振り返って俯瞰すれば「どろろ」は未完の作品でありながらも手塚作品の中でも、他の傑作に退けを取らない傑作と断じても過言ではないでしょう。だからこそ、ゲームや実写映画や今回のリメイクなど、時を超えて何度も日の目を見る事になったのだと思います。

「どろろ」という作品は、名前だけはずっと知ってましたが、そのタイトルの不気味な響きに、「何かドロドロした人間関係を描いたおどろおどろしい時代劇作品」といった先入観をもってしまって、ずっとスルーしてきました。秋田書店サンデーコミックス版の単行本表紙のイメージがそんな感じで、当時はどろろの筆文字のロゴデザインだけで恐いイメージがありましたし、不覚ながら傑作のニオイを嗅ぎ取れませんでした。その後だいぶ時が経ってからPS2のゲーム「どろろ」をプレイしたのがきっかけで、「どろろってこんなに面白い作品だったのか!」と衝撃を受けたのを思い出します。原作では48の部位のうち16カ所を取り戻したところで未完になっているようですが、ゲームではその後ちゃんと48の部位奪還をコンプリートするまでオリジナルシナリオで補完されており、自分の中では今までプレイしたゲームのベスト10には必ず上位に入れたい作品になりました。まぁ、そんなにたくさんゲームはやってるわけではないので、他人には役に立たないベスト10になりそうですが。ゲーム版も、どろろの可愛い声や百鬼丸のシブい声、声優さんの演技も完璧にハマっていて完成度がとても高い作品になってましたね。どろろの「ほげたら攻撃」とか変なアイデアも満載の面白い作品でした。ゲーム版の設定では、百鬼丸が取り戻す48の部位のうち7つは肉体器官ではなくチャクラ(霊的な次元の身体に具わっているとされる身体各所に点在するエネルギースポット)が割り当てられている所もマニアックでニヤリとさせられる部分です。またしばらくぶりにプレイしてみたいです。ゲーム版の設定では百鬼丸は、肉体部位のみならずチャクラまで鬼神に奪われた状態から鬼神を倒さざるを得ないわけですから、初期のバトルは唯一最初から持っていたもの、つまり己の「魂」のみを武器にして運命を切り開いていくような感じだったのでしょうね。壮絶というかなんというか、フィクションとはいえここまで過酷な条件が設定された主人公は他に類例がないですね。

メモ関連サイト
PS2「どろろ」オープニングムービー(YouTube)
ゲーム版「どろろ」のオープニング。個人的にこれほど期待感を高めてくれたオープニングムービーは珍しかったです。百鬼丸の解剖図らしき図解が怪し気に出てきますが、これはおそらく百鬼丸の育ての親、寿海が、百鬼丸に付けるための義手義足などを作るために作成した設計図みたいなものでしょうね。他、チャクラの図など、東洋オカルティズムを彷彿とするビジュアルが好みのツボを突かれる神秘的な導入で、「これは絶対面白い作品のはず!」と確信させてくれる秀逸なムービーでした。前半は地獄堂の鬼神に父である醍醐景光(だいごかげみつ)によって生贄に捧げられた芋虫状態の布にくるまった百鬼丸と、それを見下ろす48体の鬼神。炎をまといながら迫り来る無数の馬上の鎧武者の映像も意味ありげですが、これは1969年にアニメ化された「どろろと百鬼丸」のテーマ曲の歌詞にある「燃える鎧に燃える馬」を映像化したものだといわれてますね。このムービーではどろろはそんなに可愛く表現されてないように思えるかもしれませんが、本編ではチョコマカ動くアクションや大谷育江さんの可愛らしい声が絶妙にマッチしててとてもかわいいです。

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『どろろ』PlayStation2 制作・セガ 2004年
こんな面白い作品があったのか!と衝撃を受けたゲーム版の「どろろ」です。ロードが重いとか多少の欠点はありますが、それを凌ぐクオリティのため全部許せてしまいます。そういえば、「どろろ」というネーミングセンス、インパクトがすごい響きですが、由来は当時は幼児だった息子さんの手塚眞氏が「泥棒」を「どろろう」と舌足らずに発音したことがネーミングのきかっけになっているというエピソードを「どろろ」の単行本のあとがきかなにかで読んだような記憶があります。念のために調べてみると、wikiにもそのあたりのエピソードが紹介されていますが、少々事情は複雑みたいで、そういう説はたしかにあるものの細部が異なる複数の説を手塚先生自身が残しており、手塚眞氏も先生の生前そのあたりを聞きそびれていたとのことで詳細は永遠の謎らしいですね。


ゲームに感動した勢いで原作を読んだりしましたし、モノクロ時代のアニメ「どろろと百鬼丸」も見ましたが、やはり最初に出会ったのがゲーム版だったせいか、ゲーム版どろろが個人的には一番好きだったりします。今回のリメイクは、その思い入れのあるゲーム版に匹敵しそうなくらいの完成度があって、スタッフのどろろという作品に対する並々ならぬリスペクトを感じます。身体部位の欠損という設定は、現代ではとくに倫理的に神経質な目もある中で、ギリギリなものがありますが、漫画、アニメという日本の現代文化を先導して牽引してきた偉人、手塚治虫の作品ということもあり、そのあたりは誤解されることなくリメイク放映が叶ったのかもしれませんね。

この作品の奇抜な所は、なんといっても主人公が鬼神に身体中の部位を奪われたマイナス状態からスタートし、全身の部位を奪還するまでを骨子にしている物語であることですね。目的を全部達成した暁にはスーパーマンになったりするわけではなく、多分ありふれた健常な人間になるだけに思えますが、そういうところも哲学的な深いものを感じます。誰しもが普通に当たり前に思っているような状態こそが、実はこの世で最も貴く幸福な状態なのだ。という御大手塚治虫による深遠なメッセージのようにも受け取れます。

また、ゲームにもなったくらいで、よく考えてみると、48の部位を取り戻す旅と戦い、というのはゲームシナリオとしても絶妙で、最初からゲームのために考案した設定であるようにも思えるほどゲーム性のあるアイデアですね。物語の骨子が見てて分かりやすいそういう所もこの作品の魅力なのでしょう。次から次へと強い敵が出てきて戦う、という少年漫画にあちがちな繰り返しパターンに、どろろの場合はきちんと終始一貫した根拠と理屈が最初から与えられているために、そういったパターン化したマンネリ感を感じずに楽しめるようになっているところも感服する部分です。

そういえば、「どろろ」の主人公はどちらかというとどろろではなく百鬼丸のほうだと思いますが、これも「天才バカボン」の主人公がバカボンではなくパパのほうであるのと何か通じるものを感じてしまいます。こういった、なにげない部分で定石に肩すかしをくらわせている所も天才の発想みたいなものを感じてしまいますね。

マイナスの状態からの主人公が、ゼロの状態を目指して戦い、成長していく話というと、「アシュラ」もそうでしたね。以前ジョージ秋山の問題作「アシュラ」が40年ぶりに映画化されて日の目を見ることになり、ちょっとした話題になったことが思い起こされます。主人公アシュラもまたマイナスからゼロを目指すような話で、あまりの飢餓の時代のために親に捨てられ人間の言葉も常識も愛情も何も持たずに成長してしまったアシュラが人間の心を取り戻すまでをドラマチックに描いた傑作でした。人肉を喰らってでも生き延びることだけが最大の行動原理になってしまったアシュラですが、彼もまた、普通に人間社会で、人に必要とされ、人を愛し愛されるような平凡な人並みの人生の出発点に行き着くことこそが彼にとっての目標でありました。

百鬼丸とアシュラ、彼らの生き様は、マイナスからの出発という過酷な宿命を生きる可哀想な運命として捉えがちではありますが、そんな彼らに深く共感する私たちもまた、もしかしたら百鬼丸たちと同じ部類の、失ったものを見つけ出す旅を続けている仲間なのではないだろうか?と、ふとそんなことを思いました。前述したように、彼らの姿は、私たちに「当たり前こそが有り難い」という真実に気づかせてくれます。毎日食べ物があるというのは有り難い。蛇口をひねるだけで清潔な水がこんなに簡単に得られるのは有り難い。アニメを見たりゲームをしたりネットを楽しめる目があることが有り難い。たとえ何人でも自分を気にかけてくれる人がいること自体が有り難い。身の回りにある便利な機械や道具は、全てどこかの誰かが苦心して作ってくれたから今ここにあるわけで、着ている服から何からほとんどのものは自分以外の誰かのおかげさまで、楽をして過ごせているのだということにふと気づくと、感謝の心というのは無理に儀礼的にひねり出さずとも、いつでも自然に湧いて出てくる状態のほうが本来の真実の人間の在り方なのではないだろうか、と、そんなことを考えさせられました。

百鬼丸やアシュラの目線で現代を見るなら、この世はそのまんま天国のような夢の世界にみえるのかもしれません。毎日空腹を感じることのないほど食べ物が満ちあふれている時点で、百鬼丸やアシュラの時代では考えられないような楽園に違いありません。百鬼丸たちが身体の部位や人間性など、私たちにとってはあって当たり前だと思っていたものを取り戻そうと奮闘しているように、私たちも同様に当たり前でなければならないもの、つまり「感謝」すべきものに感謝する心を失っていて、それを取り戻す人生という旅をしているように思えてきます。相田みつをさんの言葉「奪い合えば足らぬ。分け合えば余る」というのを見たとき、衝撃でした。まさに、奪い合えばこの世は地獄になり、分け合えばこの世はそのまま一瞬にして天国にもなるという極意。テクノロジーの発展だけが天国の条件なのではなく、むしろどのような時代であっても、人と人が分かち合って喜びあえるような世界こそが天国であるのかもしれませんね。
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2019年02月27日

ネット空間のシミュラークル

ネットに流布されている有名ないくつかの名言の出所を調べていくうちに、なんか面白くなってきてテンションがあがってきました。書いていたらなんとなく筆が乗ってきたので、今回の記事はかつてネット空間に跋扈していた懐かしい都市伝説や最近見かける怪しい名言などをテーマに勢いで書いてみました。

喫茶店911の都市伝説「Q33NYC」

911事件のショックが世界を覆っていた当時、とある興味深い話が世界中を飛び回ったことがあります。911、つまりアメリカ同時多発テロ事件ではさまざまな都市伝説が発生しましたが、事件から間もない時期にメールなどを通じて世界中に拡散されていた「Q33NYC」の噂は、私も最初は驚きました。当時からけっこう騒がれた都市伝説なのでご存知かと思いますが、「Q33NYC」とは、ツインタワーを崩壊させたテロリストが乗っていた航空機の機種番号で、これを「Wingdings」というフォント(絵文字記号のフォント)で、変換するとテロ事件の予言が現われる!といったものです。つまり何年も前からこのテロは事前にシナリオができていたのだ、という都市伝説ですが、後にさらに拡散されていく中で、「Q33NYC」は機種番号ではなく、ビルに突撃した飛行機の経路を示す『クイーンズ区の33番通りニューヨークシティー』を意味している、というふうに変化していきました。件の飛行機の機首番号はQ33NYCではありませんし、飛行機の経路も実際は噂とは全く違った経路になっていることがほどなくしてあきらかになり、騒動も急速に下火になっていきました。噂が発生して間もない当時、日本ではこの噂の真偽を確かめている記事がどこにもなかったので、海外のフォーラムなどを翻訳かけながら調べた覚えがあります。うすうす思っていたとおり、あの「Q33NYC」の噂は全くのデマであると説明している海外のブログがあって、個人的には「な〜んだ」ということで決着しました。この頃から、なんでも一応調べてみるのは大事だなぁ、と感じたものでした。

190227-Q33NYC.jpg
「Q33NYC」をWingdingsという絵文字フォントで変換すると、いわくありげな絵文字が羅列されます。「33」が便せん2枚に置き換わりますが、二つ並ぶとたしかにツインタワーに見えますね。左から見ると、飛行機がツインタワーに向かって悲惨な結果(ドクロ)になる、という感じの並びの後にダビデの星とグッドを示す手首、というのが意味深です。まぁ、そうなるように組んでから逆算したのが「Q33NYC」というのが真相なのでしょう。しかし、単純にそれで片付けるのもモヤモヤしたところがあります。それは、このフォントで「USA」を置き換えると以下のようになるという事実です。
190227-USA.jpg
「USA」という単語をWingdingsで変換すると、今度は十字架と流血とピースサインという意味ありげな不気味な並びになります。十字架はキリスト教の国を意味するのか、あるいは墓標を意味するのか。「キリスト教に血が流れし後に平和がくる」というメッセージであるとか、それらしい解釈もあるようですが、意図的でないにせよ、Wingdingsというフォントには何かタロットカードのような占術的な意味合いのツールとして使えそうな不思議なものを感じますね。このことと関連して連想するのは「イルミナティ・カード」と呼ばれる不思議なカードです。ここ数年よくオカルト系のサイトで話題になっていますが、このカードの予言もまたミステリアスで興味深いものを感じますね。

人は基本的に面倒くさがりやなので、便利なネット空間であっても不確かな言葉についてちょっと検索してみる、ということをあまりしないことがほとんどなので、911の例のように意図的でなくてもいつのまにかウソやデマが拡散しやすくなっている面があると思いますね。そのあたりは、私も同様なので、記事を書くときなどはなるべくできる範囲で事実確認のできるものはするようにしています。しかし、それも限度がありますし、事実かどうかを判断するのも自分の主観的なものでしかないですから、あまり気にしても仕方ない部分でもあります。とりあえずは自分にできる無理のない範囲で気をつけていればOKくらいに考えています。

ネット空間が特殊なのは、リアル空間が主に発話によるコミュニケーションが主体であるのに対し、ネットのそれは書き言葉を主体としたコミュニケーションであるからで、そうした違いによってリアルではなかなか起こりえないことが起こりやすくなったり、その逆もあったりしますね。たとえば、ネット上で拡散していく誰かの名言などは、拡散されていくうちに出典があいまいになっていき、言葉だけが一人歩きするような事がしばしば見受けられます。リアルでは流言飛語も自然な伝播力にまかせているだけなのでそれほど強力な拡散力はないですが、ネットは一瞬で世界中に拡散することもあります。

そういう例でいえば、ネットでよくまことしやかに流行していく「名言」のたぐいも、調べていくと、どこにも出典が見当たらないものであったりする事もよくあるので、そういうものも注意していかないとついうっかり騙されてしまいがちですね。まぁ、そういうたぐいはさほど害のあるものではないですし、誰かがデマであることに気づいていく中で自ずと軌道修正されていくのもネット空間であり、そういう伝言ゲームのような言葉の変遷を客観的にウォッチングしてみるのも面白いです。某さんの言葉だと流布しているものが、実はその某さんのものではなかったことがわかったり、さらに、実はやっぱり某さんのものだった!という証拠が見つかったり、など、ややこしい事例も少なからずあったりして、そういうのを観察するたびに、物事の真偽というのはなかなか見極めがたいものなのだなぁ、と実感します。

喫茶店ヴォルテールの名言?

ネットでよく目につくその類いの例では、ヴォルテールの名言とされている「私はあなたの意見には反対だ、だがあなたがそれを主張する権利は命をかけて守る」というのがありますね。この言葉を私が最初に聞いたのはかなり昔で、10年くらい前にニュース系の某掲示板で名無しさん同志が議論していた中で出てきたのがこの言葉でした。一目でなかなかイイ言葉だな〜と惚れ込んでしまう「ザ・名言」という感じの言葉で、案の定その後ネットで良く見る名言の定番となっていきますが、そんなイイ言葉を発するヴォルテールさんとはどんな人なのか?とか、その名言の出典となっている本を読んでみたい、とか気になって調べていくと、そもそもあの名言はヴォルテールの言葉ではないという情報も出てきて驚きました。定番のネット百科事典、ウィキペディアによれば、件の名言はヴォルテール自身の著作には存在しないようで、別の作家の本の中に引用されているヴォルテール関係の記述の中で出てくる言葉のようです。しかもそれはヴォルテールの言葉として書かれているわけでもない、といった興味深い情報が載っていました。詳細は実際にウィキを見ていただくとして、件のヴォルテールの名言は本当に彼が言った言葉かどうかはかなりグレーなもののようですね。

まぁ、出典が怪しいというのは置いといて、言葉自体に罪はないですし、やはり含蓄のある言葉は人生の指針になったりしますし、上手く活用していきたいものです。おおざっぱに解釈すれば、「他人の意見が自分と異なっていても寛容であれ」ということで、それを「命を賭けて」などのドラマチックな装飾によって人を魅了するポエティックな箴言になっているのがこの言葉です。しかし、「私はあなたの意見には反対だ、だがあなたがそれを主張する権利は命をかけて守る」、ある種の理想ではあるものの、これはあからさまにパラドキシカルな構造をもった言葉なので、現実にはそういったポリシーで生きるのはいろいろ問題がでてきそうにも思います。まともに実践すると「敵に塩を送る」ようなリスクを自らわざわざ背負い込むような理屈でもありますから、とてつもなく絶妙なバランス感覚の中でしか実践の難しい態度のようにも感じますね。

実際のヴォルテールは他人の異論にそれほど寛容な人ではなかったようで、論敵を監獄送りにしたりなど、ほとんど言論封殺まがいのこともしていたという記事もありました。まぁ理想と現実は違ういうことで、人間らしいといえば人間らしい所ですね。この世はなんとなく、約束するとそれを破らざるを得ない状況が待っていたりしますし、何かの理想を掲げたとたんにその理想に反する行動をとらざるを得ないような試練が必ず来るような所がありますね。「お前はその理想を言葉だけでなく、行動で示せるのか?」という天からの試験のようなものなのかもしれません。そういう意味では、約束を破らない人間になるには、極力約束などしないことでしょうし、何度も約束しなくてもいいくらいに信頼される人間になるように精進するというのも良い目標かもしれませんね。

話を戻しますと、そもそも議論というのは異なる意見同士の戦いですから、最近はできるだけ議論自体を避けるようになりました。むかしは議論好きだったのですが、議論というのは勝っても負けてもろくな結果にならないので、少なくとも自分には向かないものなのだと思うようにしています。これに関する言葉で、ネットに司馬遼太郎の「龍馬がゆく」からの引用で、まさに我が意を得たりという言葉を見かけました。以下引用。

竜馬は議論しない。議論などは、よほど重大なときでないかぎり、してはならぬといいきかせている。もし議論に勝ったとせよ、相手の名誉をうばうだけのことである。通常、人間は議論に負けても自分の所論や生き方は変えぬ生きものだし、負けたあと持つのは負けた恨みだけである。

司馬遼太郎「龍馬がゆく」


同じような言葉を、たしかヴォルテールの「寛容論」でも読んだ記憶があるのですが、今その本は手元にないため未確認です。いずれ本を入手したら確認して追記するかもしれません。どちらかというと、同じヴォルテールなら、こちらのような言葉のほうが個人的にはしっくりきます。そうなんです。人は議論ごときでは持論を曲げませんし、その意見がアイデンティティの根幹にかかわるポリシーのようなものならなおさらです。なので、無駄に議論をするのは不幸を招くだけで、思うほどの収穫はないというのが経験上の実感です。議論になるのは「自分が正しい」と思いたがるエゴの心なので、議論をしないように心掛けるだけで、けっこうスピリチュアルな訓練になります。本当に正しいのは喧嘩にならないような状況を作れる言葉であって、自分の主張を押し通す言葉はいくら正しいように思っていても、高い次元で俯瞰すれば間違っているのでしょうね。世の中、いろいろあるので全く議論しなくて済むのかといえば、そうでないケースもありますが、どちらにせよ必要以上の議論は控えるようにしたいものです。

他にも、最近よくネットで見かけるようになった名言、辛辣な文明批評を含んだSF「1984」の作者、ジョージ・オーウェルの言葉とされる言葉。いわく「ジャーナリズムとは報じられたくない事を報じることだ。それ以外のものは広報に過ぎない」ですが、これも出典を検索してみるとはっきりした情報が見当たらず、出所の怪しい名言のようですね。もともとは英語圏で流布していた言葉らしく、日本語訳されて日本でも拡散されていった、というのが経緯のようです。こうなると、いつも座右の銘にしているようなあの言葉もその言葉ももしかしたら?などと気になってきますが、全て完璧に事実を把握するなんてことは誰しも不可能ですから、そんなこんなも含めて寛容の精神で気楽に楽しくネット空間で遊ぶのが吉なのでしょう。

メモ関連サイト
ヴォルテールの名言とされてきた文言(ウィキペディア)

ヴォルテールは嘘つき?仏歴史家が明かす寛容論の真実(「アゴラ」様より)

坂本龍馬が教える人望を失わないための法則(「JB PRESS」様のサイトより)

ジョージ・オーウェルの言葉じゃない? 「ジャーナリズムとは〜」(「pelicanmem」様のブログより)
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2018年12月08日

初代ルパン三世と70年代カルチャー

el_icon.png山下毅雄の音楽

ルパン三世といえば、言わずと知れたモンキー・パンチ原作の国民的な作品で、ご多分に漏れず私も好きです。といっても、アニメ版の1stシリーズが好きすぎて、1stシリーズ以外はあまり興味がなく、映画版にもそれほど食指が動きません。なので、ルパン三世のファンではあっても、1stシリーズと原作漫画のファンであると言ったほうが正確かもしれません。久しぶりにまた1stシリーズを見返しているところなので、1stルパンへの思い入れなどをちょっと語ってみたいと思います。1stルパンの大塚康生作画の魅力は言うに及ばず、山下毅雄(やました たけお)のモンドでサイケでジャジーな音楽も、ルパン一味が生息する窃盗や殺しといったアウトローが跋扈する裏社会の妖しい世界観をじつに上手く表現していますね。そのサイケでアダルトな妖しいムード感はルパン三世の世界観をより魅力的なものにしています。ルパンの音楽といえば、大野雄二さんの存在感も大きいですし、大野ルパンのほうも大好きではありますが、個人的な好みではやはりヤマタケさんの醸し出す音楽は1stシリーズ特有の「危険でエロスな香りのするルパン」にぴったりの、妖しく退廃的なムード感が濃厚に表現されていて、琴線に触れるものがあります。

作中の重要シーンでよくかかる「ヤパッパ、パパーヤ♪」のコーラスが印象的な「Afro Lupin '68」とかとくに大好きです。ほんとに絶妙なタイミングで流れされる曲で、この曲が流れると一気にテンションが上がりますね。山下毅雄は超個性的なセンスをもった天才肌の音楽家のイメージがあるので、寡作な人のようなイメージもありましたが、調べてみると他にもアニメ「ガンバの冒険」のOP、ED曲や、サイケなお色気アクションドラマ「プレイガール」などなど生涯数千曲を手がけた多作な人だったみたいで意外でした。「クイズ・タイムショック」や「パネルクイズアタック25」のテーマもヤマタケさんの曲ですが、あの「ショック!ショック!」や「アタック!」のかけ声は本人によるものだそうですね。

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「ルパン三世 ’71 ME トラックス」1999年 VAP
1stシリーズのサントラは時折聴きたくなります。このサントラは、当時のオリジナル音源は紛失しているため、効果音がかぶっている音素材を繋いで復元して作成されており、銃声や足音などの入った曲もあったりします。ノイズの無いオリジナルが失われているというのはもったいない話ですが、まぁ、無い物はしょうがないですし、再演奏よりは元の状態に近い形で出してくれるだけでありがたいものでもありますね。


メモ関連サイト
「Afro Lupin 68」山下毅雄(YouTube検索結果より)
ヤマタケ・ルパンの傑作音源ですね。ところでなぜアニメ化するよりも前の68の年号がついているのが気になって調べてみましたが、曲名自体が当時は付けられてなくて、1980年発売のCD『テレビオリジナルBGMコレクション ルパン三世』に収録されるさいにはじめて付けられた曲名だそうですが、なぜ68なのかはやはり不明だそうです。

山下毅雄(ウィキペディアより)

2018.12.26追記
チャーリーさんの添削により「Afro Lupin '68」の幻の歌詞が判明したという記事(Visage様のHP「The Long And Winding Road」より)

上述しましたとおり、ルパン三世関連の音楽の中で「Afro Lupin '68」が個人的にもっとも好きな曲なのですが、この楽曲はもともと劇伴(げきばん=劇中に使われる音楽)として作られたもので、歌詞は歌手のチャーリー・コーセイさんのアドリブらしく、正式な歌詞は存在していないようです。そこで、なんとなく歌詞が気になってきたので調べてみると、なんとチャーリー・コーセイさんご本人に歌詞を確認していただいて正式な歌詞が判明したという記事を見つけてビックリしました。「Afro Lupin '68」の出だしなど自分では適当に「Be Feeling Year〜!」とか雰囲気で聴いてたのですが、実際はこの出だしは「P-38(thirty eight)」が正解で、ワルサーP38の事を言っていたようですし、途中でしばしば聞こえる「キッコーマン!」は「it's cool man」だとか、記事を読みながらへぇボタンをバンバン押したくなってきました。



el_icon.png十三代五ヱ門登場

ルパン、次元、五エ門、不二子、といった黄金のキャラは、ドラえもんキャラと同じくらいに日本人なら誰でも知っているお馴染みのキャラクターですね。無国籍な雰囲気の舞台と登場人物が跋扈する作品の中で唯一コテコテの日本人キャラである五エ門の存在は、異質でありながら、その異質さがいい具合にルパン三世という作品に独特の個性を出していて、当初から好きなキャラでした。パイロットフィルム版のデフォルメの強い浅黒い五エ門もカッコよくて好きです。1stシリーズの第9話を除く第4話〜第15話のOPに使用されている人物紹介の作画もパイロット版からの流用なのですが、五エ門の作画が本編とあきらかに顔が違うので昔からなんとなく気になってました。「アフロ・ルパン68」をバックに人物紹介していくこのOPも大好きです。峰不二子も顔が違ってますが、こういう作画の不二子も70年代感があってイイですね〜

五エ門登場シーンの冒頭で、五エ門がその華奢な刀身の日本刀で、アナログなバッティングマシーンみたいな装置から放たれる3本の斧や、頭上から落ちて来る鉛の塊をまっぷたつにしたり、次元の早撃ちのピストルの銃弾をその刀ですべて切り捨てるシーンであっけにとられ、そしてそのシーンのインパクトによって、五エ門だけでなくルパン三世という作品自体に魅入られてしまったような気がします。金属もスッパリと斬ってしまう架空の日本刀「斬鉄剣」の使い手というインパクトのある設定は、分厚い金庫やマシンガンの弾までまっぷたつにしてしまうという、他作に類例のないオリジナリティ抜群のアクションシーンを生み出すことに成功しました。個性的なアクションといえば、アニメ「R.O.D」で「紙」をアクションに使うという斬新なアイデアに感服したものですが、斬鉄剣にしろ「紙」にしろ、こうした意外性のあるアイテムによるアクションシーンというのは、作品のオリジナリティと娯楽性を高めますね。北斗の拳も、「経絡秘孔(けいらくひこう)」という、鍼灸のツボのような概念で、人間の秘められた急所である特定の経絡秘孔を突くと、その直接的なダメージだけでなく、関連した人体内部が破壊され、頭が爆発したりなどする、奇妙なアクションシーンがお馴染みですが、このように、独自のビジュアルチックなアクションシーンはヒット作に共通するところですね。野球漫画では魔球モノとかもそうですね。こうした独自のアクションシーンのある作品は、多くのファンを惹き付ける重要な要素になっていますね。

五エ門といえば今でこそルパン一家の固定キャラですが、五エ門が登場するのは原作では第28話、アニメでは1stシリーズの第5話目からで、途中で追加されたキャラである事が推察されます。実際の五エ門誕生のきっかけは、モンキー・パンチ氏のインタビュー記事などで何度か言及しておられましたが、作者のモンキー・パンチ氏がアメリカのサンディエゴで行われたイベントに参加したさいに、現地のアメリカ人女性から、日本の漫画なのに東洋的なテイストに乏しいという指摘をうけたのが原因だそうで、それで急遽あからさまにオリエンタル感のあるキャラとして五エ門を登場させた、というのが経緯のようです。モンキー・パンチ氏の漫画は、アメコミのような「日本人作家らしくない」作風が持ち味ですから、「日本ぽくない」という意見は、ある意味ピントのずれた指摘のようにも思いますし、普通ならそういった、ファンならまず出てこないであろうズレた意見は一蹴してしまいそうですが、なぜかそういう一見むちゃくちゃに思える意見を素直に作品に取り入れたのは、なにか直感的な啓示があったのではないか、と勘ぐってしまうほど絶妙なものを感じます。結果的に五エ門は、ルパン三世という作品の個性を際立たせている重要なキャラになってますから、当時のモンキー・パンチ氏の柔軟な対応には、なにか運命的なものがありそうですね。もしルパン三世に五エ門がいなかったら、作品が欧米風無国籍漫画という作品傾向がそのまま表現されたものになったでしょうし、もしかしたら作風が調和しすぎて印象も薄くインパクトに欠ける作品になって埋もれてしまっていたかもしれません。

2018.12.30追記
印象深い五エ門初登場の第5話「十三代五エ門初登場」ですが、そういえばこのエピソード中で流れる演歌っぽい曲がありましたね。ルパンとの初決闘の夜に五エ門はひとり寝室で正座して深夜ラジオの女性DJのトークを聴いているというシーンがあるのですが、そのラジオでかかる演歌調の曲がふと気になって調べてみたらあっさり曲名が判明してスッキリしました。毎回インターネットの重宝さには感動します。五エ門がうっとりした表情で聴き入っていたアノ曲は、小柳ルミ子の「お祭りの夜」という曲だそうですね。ウィキペディアにも詳細が書いてありましたが、大ヒットしたデビュー曲「わたしの城下町」の次にリリースされた2ndシングルがこの「お祭りの夜」みたいです。曲そのものも、味わい深くてなかなか聴かせてくれる素敵な曲ですね。

小柳ルミ子「お祭りの夜」(ウィキペディア)




el_icon.png名前の奇跡

主人公ルパン三世はモーリス・ルブランの生んだ怪盗アルセーヌ・ルパンの孫という設定で、それに対になるような存在が銭形平次の子孫である警視庁の銭形警部です。五エ門は、安土桃山時代の盗賊の首長であった石川五右衛門の13代目の末裔ということですが、残りの次元と不二子は完全なオリジナルキャラですね。彼らのネーミングの由来もユニークですね。四次元などの「次元」という言葉が好きだったから名付けたとか、「事件大好き→じけんだいすき→じげんだいすけ→次元大介」になったとか、峰不二子は仕事場の壁にかかってた富士山のカレンダーに「霊峰富士」と書いてあったのを見て思いついたとか、なんかどれもあまり深く考えずにフワっとした思いつきで決めてる感があって好きなエピソードです。後世に残る傑作って、意外にそのようにふとした思いつきとか直感がかかわってたりするというのはよく聞きますし、実際そういう自力でウンウン唸ってひねり出したアイデアよりも、ふわっと思いついた直感のほうが正確に物事を見通すことって実際の日常でもよくありますね。次元大介も峰不二子も、どちらも比較的画数の少ないシンプルな見た目の名前ですが、最初見た時からそれぞれの文字並び方に独特なオーラのような、あるいは文字の繋がりのリズム感の面白さとか、名前の響きと文字面の両方が相乗的に醸し出すシュールで不思議なざわざわ感のようなものを、なんとなく感じていたような気がします。

現代の漫画などでは、キャラクターにクセのある特殊な響きや変わった文字面の漢字を使った名前を意図的に選んで付けてるような傾向が強い印象がありますが、うまくいけばキャラに独自の個性付けができて読者にも忘れがたいキャラに成長してくれるメリットがありますが、その反面、かえって感情移入しづらくさせてしまったり、キャラ名を覚えづらくさせてしまい、読者に微妙な心理的負担をかけてしまう場合もあり、諸刃の剣でもありますね。その点でも、次元大介、峰不二子、という名前は、絶妙なバランスで「ありそうでなさそうな感じ」を出していて、ただの思いつきで名付けたとは思えない運命づけられた名前のようにも思えてきます。いやむしろ、そうした運命を操る見えない世界の情報をキャッチする場合にこそ、思いつきというか、直感がモノをいうのでしょうね。江戸川乱歩が、単純にエドガー・アラン・ポーを当て字であらわしたペンネームでありながら、字面から漂う妖気のようなオーラは抜きん出たパワーを感じますし、そういうところも大衆を虜にした要因でもあると思ってますが、そのように、名前って力を抜いた精神状態で直感的に付けてしまうのがベストなのかもしれませんね。

そう考えていくと、そもそもルパン三世の生みの親からして秀逸ですね。このモンキー・パンチというペンネームも、主人公ルパン三世の別名でもおかしくない感じがしてきます。ルパンの顔はあの特徴的な髪型のせいか、動物に例えるとまさに猿っぽい(注:いい意味で!)ですし、まるでルパンの別名みたいなペンネームなのが面白いなぁ、と思って調べてみたら、なんと当時の漫画アクションの編集長に勝手に付けられたPNだったようで、当時は気に入っておらずいずれ改名しようと思っていたそうですが、作品がヒットしてしまったため機会を逃してしまったとのことです。これもまた不思議な運命の糸というか、運命の意図を感じますね〜 さらに、アニメのルパンではたまにわざと自ら猿っぽい変顔をする時がありますが、そうした猿系キャラが定着した原因であるあのスポーツ刈りっぽい短髪の髪型、これも最初は当時流行っていたビートルズやタイガースなどのグループサウンズなどがしていたロングヘアをルパンの髪型にしようと思てったそうです。しかし結果的に週刊連載時の負担を減らそうと楽に描ける短髪の髪型にしたというのが今のルパンの髪型になった理由なようです。こうなってくると、今や国民的作品になっているルパン三世の、ルパンらしい特徴から、次元、不二子などのサブキャラ、はては五エ門を登場させる理由にいたるまで、ほとんど偶然とか直感とかが関係していて、まるで神が采配したような不思議な作品に思えてきますね。

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「100てんランド・アニメコレクション4・ルパン三世 PART-1 旧シリーズ全収録1」双葉社 昭和57年発行
1stルパンのビジュアルムック。設定資料や各話紹介、キャラクター紹介、拳銃などの小物の解説から、まめ知識的な記事など、より深く1stルパンを堪能できました。五エ門初登場シーンで、次元の銃弾をすべてまっぷたつに斬り捨てるシーンがありますが、斬られた銃弾の画像のキャプションには「五エ門に切断されたマグナム弾はなぜか薬莢ごと発射されていた」と厳しいツッコミが入ってたりして容赦ないです。日本では銃器の所持は禁止されてますから、馴染みの無いアイテムだけに勘違いして描いちゃったのでしょうね。


メモ関連サイト
ルパン三世 (TV第1シリーズ) (ウィキペディアより)



el_icon.pngルパンの腕時計

最初ルパン三世にハマった頃は、その妙に欧州っぽい日本という無国籍な舞台設定の雰囲気の中でひときわ異彩を放つコテコテのサムライキャラである五エ門のミスマッチ感が大好きで、初代の作画と大塚周夫氏の声が「本物の五エ門の声!」というインプットがされてしまいました。初代五エ門のキャラデザインはもちろん、女好きのくせに硬派ぶってるカッコ可愛い性格なども含め、自分の脳内に完璧な五エ門像ができあがってしまったせいで、その後の五エ門にはどうしても違和感があって馴染めずにきてしまいました。1stシリーズは、もともと大人の鑑賞に堪えれるアニメを、というコンセプトが当初にあった作品であることはファンなら周知の有名なエピソードだと思います。第1話では、レアなクロノグラフの腕時計が大写しになったり、第6話に出てくる不二子の子分、通称「お子様ランチ」の乗ってる愛車がルノーで、次元も「ルノーか。お子様ランチにゃお似合いだぜ」と言わせたり、要所要所でアイテムに語らせるようなハードボイルド風の文法が生かされているところも、アダルト感があってぐっときたものです。

腕時計にそれほどこだわりも興味もなかったので高級腕時計というとロレックスくらいしか思い浮かばなかったですが、この機会に調べてみたら、車どころか家一軒買えてしまうくらい高価な腕時計が存在していてびっくりしました。最高峰はパテックフィリップというメーカーのようで、そうした値段になるのはハリボテのブランド力とか宝石などの高価な素材を多用することが原因なのではなく、それ相応の非常に難易度の高い精巧なメカニックを搭載し、そういう機構を実際に作れる腕を持った一流職人を抱えているメーカーであることも大きな理由でもあるようです。最近、トゥールビヨンなる腕時計の超複雑機構について知ったばかりなのですが、こうした過去の一流職人の技ものは、最新のテクノロジーに匹敵する魅力がありますね。ふとオーパーツで有名な「アンティキティラ島の天体観測機械」を彷彿としました。どんな時代にも、その時代の最高峰の技術というのは時代を超えて賞賛されるに値する芸術なのかもしれません。

トゥールビヨンをはじめとする腕時計の超複雑機構、実用品でありながら実用の範囲を超えてしまってるところなど、ルパンの第10話「ニセ札つくりを狙え!」に登場したニセ札作りの職人イワノフを彷彿としますね。イワノフはあまりに器用過ぎて、ルパンいわく本物よりも精巧なニセ札≠作ってしまうほどの腕前です。しかし工芸品ならいざしらずニセ札が本物を超えてしまったらかえって役に立たないのでは、とかついつい野暮な考えが頭をよぎってしまいますが、まぁ、そういうレベルのものは腕試し的に作成してるだけで、実際の仕事≠ナは、本物と同じモノを作ってたのでしょう。本物と全く同じレベルの偽物は、本家を上回る腕がないと作れませんからね。そういえば、このエピソードの舞台は奇しくも時計繋がりの時計塔でしたね。

第1話でルパンや次元がつけていたクロノグラフのメーカーは、どちらも実在するブランドのものらしく、以下の関連サイトのリンクに詳細を調査された方の記事がありましたので、リンクを貼っておきます。ルパンのクロノグラフを追ううちに、意外な出会いがあったりなど、とてもいい話を知ることができました。

メモ関連サイト
「ルパンの腕時計 YEMA meangraph super Marine model」(三葉(みつば)様のブログより)
第1話「ルパンは燃えているか?」に印象的に登場するルパンと次元が付けているクロノグラフ。この腕時計のブランドが気になって調べていたら、とてもいい話を知ることができました。しかし腕時計の世界も奥が深いですね〜 

腕時計のロマンがつまった7大複雑機構を徹底解説(「ダンディズムコレクション」様のサイトより)
一般に高級腕時計といえばロレックスの名が思い浮かびますが、世界の最高峰はさらに次元が違うようで、こちらのサイト様では超高級腕時計に搭載されている複雑で緻密なメカニックをいくつか紹介されています。ここまでくると実用の領域を超えた芸術品のレベルですね。

アンティキティラ島の機械(ウィキペディア)



el_icon.png70年代フォークソングの話

1stシリーズの放映は1971年10月24日〜1972年3月26日とのことで、当時の日本は寺山修司や唐十郎のアングラ演劇とか、サブカル漫画のハシリである「ガロ」や「COM」などが発行されていた時期と重なりますから、けっこうヒッピーでサイケな感じの若者文化が花開いていた時期っぽいですし、1stルパンからも、そうした時代の空気をビンビン感じます。ルパン三世のロゴ自体もいかにも70年代のサイケ感があって好みですし、OPの要所要所で、動きの途中でスケッチ画風の止め絵が入ったりする演出とか、不二子の踊るシーンの背景に西洋の偉人やピンナップガールのグラビア写真やフルーツの盛り合わせなどの雑多な写真がフラッシュバックするところなど、70年代の妖しい空気感が濃厚でうっとりします。

この時代には日本屈指の実験映画の傑作が多産された時期でもあり、松本俊夫「薔薇の葬列」(1969年)、寺山修司「書を捨てよ町へ出よう」(1971年)、大島渚「新宿泥棒日記 」(1969年)、若松孝二「新宿マッド」(1970年)、勅使河原宏「他人の顔」(1966年)などなど、個人的に思い入れのある日本映画の多くが1970年前後に発表されています。また音楽でも、日本はこの時代はフォークブームで、「日本のウッドストック」ともいえる中津川フォークジャンボリー(1969〜1971年)の開催された時期ですね。フォークソングというと、なんとなく牧歌的で慎ましい青春な感じの、当時の中産階級の大学生とかがキャンプ場で輪になって歌ってそうなステレオタイプなイメージがありますが、実際当時のフォークソングを聞いてみると、そういう真面目なイメージとは真逆のパンクな音楽で、社会に対する痛烈なメッセージや、人生の苦悩をえぐるような言葉と音で表現した激しい音楽もけっこう多く、想像以上に振り幅の大きな、当時の若者文化を席巻していた文化なのだなぁという印象を持ちました。

元来の牧歌的なフォークミュージックの定義から外れて爆発的に流行したフォークソングですが、このブームは当時すでに世界的に若者を惹き付けていたカリスマ、ボブ・ディランの影響によるものが大きかったと思います。当時のヒット曲「学生街の喫茶店」(ガロ 1972年)では、行きつけの喫茶店で頻繁にかかっていたボブ・ディランを聴いていた思い出を歌っています。ここからも70年代にはボブ・ディランはすでに日本の若者文化の中に馴染みきっていた様子が伺えると思います。ボブ・ディランのかかっているフォーク喫茶といえば、当時大阪にあった喫茶店「ディラン」(もちろん店名の由来はボブ・ディラン)からとったバンド名のザ・ディランII(ザ・ディラン・セカンド)というグループもありましたね。ディランIIは、ヒット曲「プカプカ」が収録されているアルバム「きのうの思い出に別れをつげるんだもの」(1972年)を聴きましたが、「プカプカ」以外では「君の窓から」「その時」などの曲もグッときました。そういえば吉田拓郎の曲「親切」(1972年)でも、ボブ・ディランの話ばかりする友人にうんざりしている様子を歌っていましたね。

フォークソングのフォークはフォークロア(folklore=民族的な伝承、風習、民話、民謡)からきているだけに、元々はもっと素朴で土着的な音楽を指してましたが、ボブ・ディラン以降は、ただフォークギターとハーモニカで演奏してればどんな過激な音楽性でもフォークソングと呼ばれるようになったような感じですね。遠藤ミチロウのスターリン以前にすでに情念のシンガー三上寛はパンクでしたし、そうした過激なフォークシンガーといえば友川かずきや遠藤賢司もものすごい個性派でユニークな存在感をもってましたね。叙情的でキャッチーなメロディが印象的な吉田拓郎も、初期の曲はほとばしるメッセージと詩情に満ちた熱い音楽が多く、初期も傑作が多いです。当時のフォークソングは、その魅力にハマって復刻CDなどを探したりしていろいろと聞きまくった時期があります。そうしたフォーク漁りでの個人的な収穫アルバムは、あがた森魚の「噫無情」、斉藤哲夫の「バイバイグッドバイサラバイ」、吉田拓郎(初期はひらがなのよしだたくろう*シ義)の「青春の詩」などで、今でもたまに聞きたくなる名盤は多いです。

「かぐや姫」のヒット曲「神田川」が、いわゆる暗いジメジメしたフォークのイメージが定着したきかっけになったような気がしますが、そういう先入観を持たずに聴くと、非常に味わい深い名曲でもあります。貧乏学生の恋愛を描いたその曲の影響で、そうしたテイストの一連の曲を指して「四畳半フォーク」というような俗称も生まれました。(ちなみに実際に歌詞で歌われているのは「三畳一間の小さな下宿」なのですが、「四畳半」という言葉は貧乏暮らしを意味する象徴的な単語みたいなものなので、語呂もいいことからそうネーミングされたのかもしれませんね)しかし、そういう曲ばかりでなく、日本的な美意識を叙情的に描いた傑作「夢一夜」などの名曲も生んだグループでもあります。「かぐや姫」といえば、あえて特筆したいのは、民謡の「田原坂(たばるざか)」をパロった隠れた珍曲「変調田原坂(へんちょうたばるざか)」というレア曲。曲の合間にちり紙交換のアナウンスの口上を挿入したりなど、「かぐや姫」っぽくないアヴァンギャルドでユーモラスな感じが面白い変な曲です。自分の中では「老人と子供のポルカ」(歌・左卜全とひまわりキティーズ)に匹敵する昭和のナンセンスソングの傑作だと思っています。

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70年代頃に発表されたフォークソングの名盤を復刻したCD。井上陽水、吉田拓郎、斉藤哲夫、あがた森魚、泉谷しげる、友部正人、五つの赤い風船、遠藤賢司などは今でもたまに聞きたくなりますね。

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「1970年全日本フォークジャンボリー」キングレコード 1990年
日本版ウッドストック、中津川フォークジャンボリー(または全日本フォークジャンボリー)での貴重なライブ音源を収録した2枚組アルバム。なぎらけんいち「怪盗ゴールデンバットのうた」とか、ひがしのひとし「ハナゲの伸長度に関する社会学的考察」とか、どんな曲なのか気になる変な曲名の作品もお楽しみのひとつですが、とくに凄いのは遠藤賢司の初期の代表的な曲のひとつ「夜汽車のブルース」のライブです。かき鳴らすギターの激しさに観客も一体となってテンションが上がっていく緊張感のある演奏が圧巻です。


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植草甚一編集の雑誌「宝島」1976年4月号より
あがた森魚によるボブ・ディランのアルバム「欲望」についてのレビュー記事
70年代の「宝島」はジャズ、ミステリー、映画評論など多岐にわたる執筆で知られた稀代の雑学王、植草甚一が編集していて、とても時代を反映した雑誌になっています。植草甚一編集の時代の「宝島」は、1冊まるごとマリファナ特集みたいな号もあったりして、サイケデリック、ヒッピー、ビートニクなどの当時の先鋭的な若者文化を旺盛に取り入れた大胆な編集が見所です。この号は、アメリカ建国200年を祝した号で、1冊まるごとアメリカ万歳な号ですが、そこは植草甚一編集だけあって、ドラッグカルチャーやロックやSFなど、カルトな切り口でアメリカを賛美していて面白いです。このページは、当時すでに日本の若者を虜にしていたカリスマ、ボブ・ディランの17枚目となる当時のニューアルバム「欲望」について、5人のレビュアーがひとり見開き2ページ分担当して語りまくる「ファイブ・アルバム・レビューズ」という企画の中の一部です。このページではあがた森魚さんがボブ・ディランをレビューしていて、興味深いです。あがた森魚というと、当時のフォークシンガーの中でも異質で、フォークソングのテーマにありがちな社会批判とか苦悩の青春とかラブソング的なものとは一線を画して、宮沢賢治的な天体ロマンとか鉱物愛的な歌とか大正ロマンな情緒など、とても虚構性の高いテーマを表現していてユニークなアーティストですが、そういうあがた森魚さんでもやはりボブ・ディランというのはかなり大きな存在だったみたいで、そういう所がちょっと意外で興味深い記事でした。


メモ関連サイト
四畳半フォーク(ウィキペディア)
念のためにウィキを検索してみたら、なかなか面白い事が書いてありました。「四畳半フォーク」という言葉は松任谷由実(当時は荒井由実)が当時のフォークを揶揄して使った言葉だとする説など、興味深い雑学を紹介してますね。

田原坂(たばるざか)(ウィキペディア)



el_icon.pngグラフィックとアクション

初代ルパンは音楽や作画や声優など、全般に渡って好きですが、まず最初に見たときに惹かれたのは構図のカッコよさです。といっても、はじめて見たのは小学生の子供の頃なので、構図がどうとか、そういう美術的な知識はなかったのですが、それでもなおグッとくるものがありました。「カッコよさ」という漠然とした概念を具体的に絵で表したものを見たときの感動がそこにはありました。例えば、大好きな五エ門初登場の第5話(まぁ、初代のエピソードは全部好きなのですが)に描かれたこの構図(下図参照)です。初めて見た時の衝撃は忘れられません。なんというかっこよさ!これは原作のモンキー・パンチ先生の天才的な構図のセンスをアニメに上手く持ち込んだシーンのひとつですね。子供心に思ったのは、「人間の身体って、みんな似たような形だと思い込んでいたけど、こういう角度から見ると、こんなにかっこ良く見えるんだ!」という事でした。

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この構図のカッコよさには子供でもしびれるものがありました。高速道路を走る車の群れの中、車の背を飛び石(庭園などに飛び飛びに置かれている石)を渡るように飛びながら、このときは敵対している五エ門と決闘をするシーンです。


このシーンは原作を確認していないのですが、おそらくモンキー・パンチ先生の絵をそのまま参考にしていそうな典型的モンキー・パンチな構図ですね。たなびくスリムなスラックスから覗く極細の足首もなんかカッコよさを感じてました。また、腕毛やすね毛が描かれたアニメというのも斬新で、「うーんマンダム」のCMが流行した70年代らしく、まだ男臭い男がカッコイイとされた時代ならではの「カッコイイ」の記号だったのでしょうね。この後、80年代に入ると、だんだんメンズファッションも中性的なものがウケるようになっていきますが、そういう意味でもルパン三世における「男」の描き方というのは時代を写していて、ルパンのいる世界は一見無国籍な異世界のようでいて、意外と時代を反映している所も多いですね。

あと、グラフィック的な面白さというと、ルパン三世のロゴのサイケ感とか、オープニングでロゴに撃たれる弾丸の痕とか、サブタイトルのタイプライター音とか、今となってはどれも「ルパンっぽさ」を醸し出すエレメントになっている感がありますね。ルパン三世のロゴは微妙に何度も変遷がありますが、初代の第3話までに使用された細いウェイトのロゴがスタイリッシュで怪しさも出ていて70年代特有のサイケ感まで匂ってくる感じで一番好きです。第4話からロゴがぽってりした太いフォントになるのですが、おそらく制作側の意図ではなく、視聴率不審からくるスポンサーやTV局側の大人の事情(もっと目立つロゴにして欲しい、とか)によるものじゃないかと推測します。このあたりは本当の事情を知りたいところですね。

前述したルパン三世のサブタイトルのタイプライター風の表示は、ネット上でもいろいろシミュレーションできるジェネレーターを公開されているサイトもあって、なかなか楽しいですね。

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初代ルパン三世のOPでお馴染みのサーチライトに追いかけられながら逃げるルパンも象徴的です。焦るどころか追いかけられるのを楽しんでいるように不敵な笑みを浮かべるこのOPのルパンの表情がまた素晴らしい。

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これは第1話にあるシーンですが、このヘルメットのかぶり方のアクションも独特で、いかにもルパンな感じのアクションの典型だと思います。こうした細かい個性的な描写が積み重なってルパン三世の唯一無二の世界観が構築されているのだと思います。

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「漫画アクション・コミックス ルパン三世 第1集」モンキー・パンチ著 双葉社 昭和43年
モンキー・パンチ先生の絵の才能は比類の無いもので、原色の鮮やかな配色を用いながらもスタイリッシュに魅せるセンスや、キャラの独特の大胆なポージングなど、ものすごい才気を感じる画面構成に圧倒されます。絵のタッチからただよう妖しい空気感なども天性のものを感じますね。ジャッキー・チェンの映画の素晴らしい日本版ポスターなども手がけられていて、イラストレーターとしての腕前も一級です。また集大成的な作品集出して欲しいですね〜


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同上。アニメの第2話「魔術師と呼ばれた男」の原作「魔術師」のヒトコマ。パイカルという「酔っぱらっちまいそうな名前」は、中国のお酒「白乾児(パイカル)」からとったものですが、字面に「白」があるからか、パイカルはアニメでは真っ白のスーツを着てましたね。原作では白以外に色付きのスーツを着用しているシーンがあります。また、アニメでは、パイカルの3つの謎(火炎放射する指先、銃弾を跳ね返す肉体、空中浮遊)をルパンひとりで全部解いてしまいますが、原作ではルパンお抱えの専任科学者に依頼して解析してもらっています。また、アニメのラストではルパンとパイカルはお互いを炎で焼き合いますが、ルパンもパイカルの使用しているのと同じ耐熱防弾効果のある皮膜を生成する薬品を使用していたため無事で、パイカルのほうは薬を塗ってから時間がたっていたため効果が消えかかっていて、焼け死んでしまうというオチでしたが、原作ではパイカルが焼死してしまったところまでは同じですが、専任科学者がルパンのアソコにだけ薬品を塗り忘れていたために股間を大やけどしてしまったというオチになっています。けっこうアダルトな表現が多めの印象のあるアニメ版第2話ですが、原作と比較すると、それでもかなりマイルドに抑えられていることがわかりますね。



el_icon.pngルパンと鬼太郎

冷静に考えると、泥棒という、犯罪者を主人公にした作品が国民的に愛されるようになったのも不思議な感じがしますね。手塚治虫作品の中で大好きな作品の筆頭に「ブラック・ジャック」があるのですが、この作品もまた法を逸脱した無免許の天才外科医が主人公でしたね。70年代あたりの漫画には、こうしたそれまでの品行方正な「正義の味方」像がかならずしも子供のヒーローでなくてもかまわないんだ、というパラダイムの転換を感じます。当時勢いのあった学生運動などの影響も多少ありそうな価値観ですが、またそうしたものと同時に、ルパンはある種の「自由」の象徴でもあり、そこに人々は憧れたのではないか、とも感じます。

ルパン三世1stシリーズ初放映の1971年10月には、ルパンと同じく今でも人気の長寿作品「ゲゲゲの鬼太郎」の第2シーズンの放映も開始されています。この鬼太郎のアニメOPではお馴染みの「お化けにゃ学校も試験もなんにもない!」という印象深い歌詞がありますが、これは原作者の水木しげる先生本人の作詞で、先生の思想のエッセンスである「幸せの七ヵ条」を彷彿とする哲学がうまく練り込まれた秀逸な歌詞だなぁと感心します。普通、お化けというと、ある意味「恐怖」や「不安」などの感情を擬人化したような存在で、どちらかというとネガティブな存在という一般通念がありますが、水木先生の詩では全く逆に、お化けは学校も試験も無い自由な存在で、むしろ彼らは人間より愉快で充実した人生を送っているんだよ、といったような、どこか憧れの対象であるかのような存在としてお化けを捉えているところがとても面白いです。お化けというのは、見えない世界の住人です。人間側がそれを恐ろしい邪悪な存在だと認識した場合に彼らは「お化け」と呼ばれますが、社会がまだ文明の洗礼を受けていない時代では、そういう存在はポジティブに捉えられていて、見えない世界の住人は集落を守護する精霊だったり、実りをもたらす神々だったりします。水木先生は戦争中、ニューギニアの現地人と親しく交流していた事を語っていますが、そうした経験もあって、見えない世界は迷信でも妄想でもなくちゃんと実在しているのだという確信があったのでしょうね。

「ゲゲゲの鬼太郎」では、しばしば社会に束縛されて苦しむ人間と、すべてのしがらみから自由に生きる妖怪のコントラストが描かれますが、これは本来の水木しげる先生本人の思想にもあるように、「ゲゲゲの鬼太郎」を通して「自由とは何か」を描いている面もあるのでしょうね。妖怪やお化けも、ある意味暗黒街を住処にする犯罪者であるルパンとその仲間たちと同じアウトローといえますが、ルパンたちもそういえばお化けたちと同じく、学校とか試験などの束縛や社会の法律からも自由な存在であります。そうした意味でも、ルパン三世は、単なるアンチヒーローではなく、人生の「自由」を獲得した存在でもあり、そうしたルパンたちの自由さが人々を惹き付けてるのではないか、とふと思いました。

メモ関連サイト
水木しげる「幸せの七ヵ条」(「grape」様のサイトより)



el_icon.png異世界としての暗黒街

そんなルパン一味が生息しているのは、盗みや殺しが日常的に起こっている暗黒街の片隅です。そこはなにやら殺伐とした恐ろしい世界のようですが、でもルパンや次元のような、単純に「悪人」ともいいきれない魅力的な男たちが闊歩する魅惑の世界でもあります。また、単純にヤクザやマフィアが生息する実際のアウトローの住む世界というよりは、この世界と真逆の法則が支配している「鏡の国」のような異世界っぽさもどことなく感じる妙な世界です。物語に何度も出てくる「殺し屋」という風変わりな職業などがいい例ですね。菅野ひろゆき氏のゲーム「EVE」や「探偵紳士」などに出てくる探偵(ゲーム内の世界では、探偵業を営むには世界的な探偵のギルドから発行されるライセンスが必要とされている。実際は探偵を開業するために特別な資格は無い)みたいな感じで、ルパン内の世界でも実際とは別のルールで存在する「殺し屋」がいい具合に異世界感がありますね。物語内で描かれる殺し屋はマフィア的な組織の仕事の一部としての殺しではなく、どうも殺し請負を専門にしている組織のようで、殺し屋プーンのエピソード(第9話「殺し屋はブルースを歌う」)や五エ門の師匠、殺し屋百地の話(第5話「十三代五ヱ門登場」)などを見るに、けっこう大規模な組織っぽく、このあたりの虚構性の高さというか、ファンタジーなノリが、平気で主人公一味が敵を殺害する1stルパンの殺伐としがちな空気を和らげています。

ルパンたちの暮らす「暗黒街」、そこは実社会の日陰に生きるアウトローの住む世界というような深刻な世界でもなく、表社会の鏡像のようにモラルや法などのあらゆるシステムが正反対になった異世界のような奇妙な世界です。そもそもがルパン三世の舞台になっているのは日本家屋よりも洋館率の高い日本のようで日本でないような無国籍な世界ですから、最初からルパン三世はある種の異世界の住人であるようにも思えます。第9話「殺し屋はブルースを歌う」では、そうした独特の異世界的な裏社会のテイストを描き出していて、ルパンと出会う前の峰不二子が所属していた殺し屋組織でのエピソードが語られて興味深いですね。

五エ門の師匠である殺し屋百地の話によると、どうやらその裏社会では殺人の数を競うオリンピックみたいなものがあるらしく、暗黒街でルパンや五エ門がブイブイ言わすようになるまでは百地が殺しの世界チャンピオンだったことが第5話で描かれています。子供の頃は、大人の世界の裏側では、日常感覚から隔たったそういうアナーキーな世界があるのかもしれないなぁ、などと素直に思ってましたが、これはこれでナンセンス風味の効いたブラックユーモア的な設定でユニークではありますね。こういうあきらかにフィクショナルな設定が、ルパンの犯罪をもどこかファンタジーな魔法と同じ扱いで見ることができるために、安心して子供も楽しめるような作品になってるのかもしれないですね。

「殺しの世界チャンピオン」というパンチの効いたフレーズでふと思い出すのは、こちらもよくネットで話題になった「木曜日のリカ」(小池一夫原作、松森正漫画)での主人公リカの名台詞「世界でただひとり…ノーベル殺人賞をもらった女よ…」。どこの世界のノーベル賞だ!とつっこまずにいられないインパクトのある台詞ですが、原作はギャグ漫画ではなく、けっこうシリアスなピカレスクロマンっぽいですね。ギャグでなく、大真面目にこの台詞が出てくるからこそインパクトも最大ですね。ラッキーなことに、数ヶ月前に安価で「木曜日のリカ」の単行本を古本市で見かけたことがあるのですが、その日の気分的に、ネタ要素としての興味だけで購入する気になれなかったこともあってスルーしてしまいました。

ノーベル殺人賞でまた思い出したんですが、そういえば70年代を代表するロックバンド「頭脳警察」のサードアルバム「頭脳警察3」に、「指名手配された犯人は殺人許可証を持っていた」というインパクトのある曲名の作品が収録されていました。演奏時間が10秒足らずというのも斬新というか実験的な曲で、歌詞はそのまんま曲名を言うだけの作品です。この「殺人許可証」という物騒でありながら異世界感のあるフィクショナルな響きも「ノーベル殺人賞」に匹敵する怪しさがありますね。頭脳警察はむかしハマった時期があって、とくにアルバム「頭脳警察セカンド」「仮面劇のヒーローを告訴しろ」「悪たれ小僧」の3枚はよく聴いてました。過激なロックだけでなく哲学的で詩情のある曲も多いのが頭脳警察の魅力ですね。

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頭脳警察のCD。「悪たれ小僧」のジャケットデザイン、70年代テイストが濃厚でイイですね〜 バンド名の「頭脳警察」というシュールなネーミングも秀逸ですね。由来はフランク・ザッパの曲名で「頭脳警察ってのはどいつらなんだよ? 」(Who Are The Brain Police?)から取ったものだそうです。過激な曲に混じってヒネリのある知的な曲があったりするのがこのバンドの魅力で、ヘルマン・ヘッセの詩をモチーフにしたといわれる「さようなら世界夫人よ」とか、ブリジット・フォンテーヌの「ランボオのように」の日本語歌詞バージョンとか、パンタさんのそのセンス溢れるインテリ不良っぽい所にシビれます。

メモ関連サイト
「木曜日のリカ」の例の名台詞(google画像検索結果)

ルパン三世第2シーズン風のサブタイトルを作って遊んでみました。「真※いぬ小屋」様のサイトのジェネレーターをお借りしました)



el_icon.pngルパンの影としての次元大介

ウィキの「次元大介」の補足に、次元大介は、「ルパンを長髪にして髭と帽子を付け加えて完成されたキャラ」であるという面白いエピソードがありますね。この説は、原作者のモンキー・パンチ氏自身がテレビ番組「トリビアの泉」で語ったということなので、本当のことなのでしょう。たしかに、子供の頃よくルパン三世の似顔絵を描いてたときがあって、まさに次元ってルパンが衣装を変えただけのような外見だなぁ、と思ってました。そういう記号的で、没個性に徹したような風情が、逆にとても魅力的です。まさしく次元はルパンと不可分なキャラで、ルパンの影のような寓意的存在なのかもしれないですね。そういえば次元大介は服装も黒ずくめで、まさにルパンの影≠象徴しているかのような存在です。こうなるとどこか神話的なものまで感じてきますね。ふと思い出すのは、アニメの第1話がすでに、レーサーの格好をしたルパンと次元が入れ替わるトリックが見せ場になってたことです。第1話は印象的なシーンが盛りだくさんで、拘束された不二子のコチョコチョハンドによる羞恥責めとか、例のクロノグラフの大写しなどの大胆な編集に目を奪われてしまいますが、ルパンと次元の双子のような、あるいはジキルとハイド的な陰陽の関係性をストレートに描き出しているエピソードでもあったわけですね。意図的なのか結果的にそう見えるのか、どちらにせよルパン三世の主要キャラクターたちはそれぞれほんとによく出来てるなぁ、と感心します。

メモ関連サイト
モンキー・パンチ先生による次元大介誕生の逸話(ウィキペディアより)



el_icon.png変装

ルパンは変装の名人、という設定ですが、第4話「脱獄のチャンスは一度」で次元はお坊さんに、第6話「雨の午後はヤバイゼ」で不二子はルパンそっくりに変装しています。それぞれ元の人物と全く同一の姿形に変装できているので、ルパンだけが変装の名人というわけではなく、ルパン一家はみんな基本技能として変装術は達人のレベルにあるのでしょうね。ルパンの変装術には2パターンあって、全く別の人物にソックリに化けるパターンと、素顔に付け髭とカツラをかぶっただけなのになぜか見破られない謎の変装というものです。後者は単純に漫画アニメのお約束的な表現であって、別人に変装してしまうと絵面として都合が悪いエピソードの場合によくこの「視聴者にはルパンにしか見えないのに、銭形などの物語内のキャラにはなぜか見破られない」ような変装をしますね。このパターンでの傑作は第14話「エメラルドの秘密」ですね。このエピソードではルパンはニップル伯爵と称する謎の貴族に変装します。

このニップル伯爵、これもまたルパンが付け髭とカツラを付けただけのアバウトな変装です。さっそく銭形に不審に思われてしまい、職務質問されそうになるのですが、変装した不二子が気を利かせて「ベルモント王朝の末裔のニップル伯爵ですわ」と助け舟を出します。このエピソードでのルパンのミッションは、「ナイルの瞳」と呼ばれる大粒のエメラルドを盗むというもので、豪華客船という動く密室を舞台にスリリングでユーモラスな駆け引きがとても面白かったです。エメラルドの隠し場所の謎を解くという王道のミステリーをテンポよく20分足らずで表現してしまうシナリオも凄かったです。1stルパンのミステリー系エピソードの中では第11話「七番目の橋が落ちる時」と並んで好きなエピソードです。先日久しぶりにこの「エメラルドの秘密」を見返してたんですが、ふと「そういえば、なにげなく無意識にスルーしていたけど、よりにもよってニップル(Nipple=乳首)なんてきわどい名前をなぜつけたのか?」というのが気になってきました。まぁ、もともとルパン三世1stシリーズは「大人の鑑賞に堪えうるアニメ」というコンセプトが当初はありましたし、当時のアニメでは珍しいエロチックな表現も持ち味でしたから、おそらくそうしたノリであえて乳首伯爵にしたのだろうと思ってました。しかし、念のために調べてみると、どうもアテが外れたようで、ニップル伯爵のニップルは「Nipple(乳首)」ではなく、ルパン(LUPIN)の逆さ読みでニップル(NIPUL)になったようです。長年のニップルな謎が解けてスッキリしました。

変装ネタといえば一番ショッキングだったのは、第20話「ニセルパンを捕えろ!」の序盤で、謎の組織が変装を解くシーンです。謎の組織の一員が、別人になりすました顔のマスクを剥ぐと、中からガスマスクをつけた顔が出て来るというシーンがあるのですが、いくらなんでもガスマスクの上から変装用のマスクというのはアクロバティックすぎる表現でしたね。まぁ、ここまででなくても、ルパン三世の世界では、変装用のゴムマスクはかなり万能なアイテムと化してますから、第20話という後半戦では、感覚が麻痺してそうした変装の万能性に拍車がかかっていたのかもしれませんね。まぁ、そういうびっくりシーンはあるものの、物語自体は、この謎の組織を追ってルパンが泥棒村に潜入するというお話でかなり面白いエピソードでした。

変装モノというと、江戸川乱歩の生んだ怪人二十面相も魅力的ですね。発表当時の少年雑誌の倫理規定の問題で、当初は「怪盗二十面相」とするつもりが「盗」の字を使うのはマズいということで、「怪人」になったというのは有名な逸話ですが、結果的に「怪盗」より「怪人」のほうが怪し気なインパクトが出ていて、むしろ「怪人」のほうが人間離れした怪しい二十面相らしさが出ていてイイですよね。昨今の倫理規制は行き過ぎた言葉狩り的な面も指摘されたりして、こういう規制というものは規制したい側とされる側では許容するラインが異なってることが多いのでサジ加減が難しいものだとは思いますが、この「怪人二十面相」に関しては、規制が逆にプラスの効果になっているかなり珍しいケースですね。また百とか千ではなく「二十」と控えめな所が変に奥ゆかしいですよね。調べてみると二十面相というのは、トマス・W. ハンシュー作「四十面相のクリーク」からアイデアを得たネーミングだそうですが、ちゃんと40以下にしているところなど、オリジナルに対する敬意のようなものを感じます。怪人二十面相の、盗みはするが殺人や暴力は絶対にしないというポリシーからして魅力的で、泥棒なのに紳士のような感じも面白いですね。絶対私生活ではお金に困ってそうになく、家柄もハイソっぽいのに、なぜか泥棒を天職みたいにして世間を楽しませているエンターティナー、それが怪人二十面相やルパン三世なのかもしれません。



el_icon.pngルパンとコンピュータ

裏社会のトップクラスに君臨するルパン三世とその一味は、毎回様々なライバルや敵に遭遇します。普通の悪人に混じってときおり、空中浮遊したり指先から火炎放射する暗黒街の魔術師とか、タイムマシンを使ってルパンを殺そうとするタイムトラベラーだとか、ぶっとんだ敵もいて、そういう絶妙なナンセンス加減も1stルパンの魅力で、そういう一見チャチになりそうなSF的な設定も、大塚作画、ヤマタケサウンド、ルパン一家の初期声優たちの魔法で、とてもカッコイイエピソードに見事に料理してみせていて素晴らしいです。中でもとびきり異質だった敵は、最終話のひとつ前、第22話に登場するコンピュータ≠ナす。人間相手なら、長年裏世界を生き延びてきたノウハウが生かせますが、前代未聞のコンピュータが相手ということで、さすがのルパンも苦戦を強いられます。

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昔のアニメとかに出てくるコンピュータでお馴染みのこんな感じの紙テープ。(図の穴の開け方は適当です)かつてコンピュータの情報を記録するために使われたアイテムで、自動パンチ機で穴をあけ、穴の有無で0,1の信号を記録する仕組みだったようです。

このコンピュータ、70年代の漫画によくある定番のパンチ穴の開いた紙の帯(鑽孔テープ)を読み取る式のヴィンテージなコンピュータが微笑ましいです。しかしこのコンピュータ、現代のマシンよりも先を行っていて、ルパンの身長体重や過去の犯罪歴などの様々なデータを元に、今後のルパンが起こすであろう犯罪も未然に予知して、さらにその対策もはじき出してしまうというスグレモノです。この時代はまだパソコンも普及しておらず、コンピュータといえば「人間の頭脳の何百倍も高速に演算をするバケモノのような機械」というアバウトなイメージが一般にあったように思われます。こういう万能コンピュータのイメージは、おそらく当時(1972年)の4年前、1968年に世界的に大ヒットしたSF映画の金字塔「2001年宇宙の旅」に登場する架空のコンピュータ「HAL9000」の影響も大きいでしょうね。第22話以前にも、五エ門が初登場する第5話「十三代五ヱ門登場」にも、すでにそういう万能コンピュータがちょろっと出てきます。第5話では、五エ門の師匠である百地(ももち)が、殺し屋の世界でのトップの座を脅かすルパンと弟子の五エ門をも抹殺しようと画策しますが、五エ門にバレて逆に返り討ちにされそうになります。その時に百地は「コンピュータに命令されたんだ!」というデンパな言い逃れの嘘をつくのですが、その嘘の回想シーンで出てくるのがなんでも予測する件の万能コンピュータです。意識的に誇張している面はあるにせよ、けっこうコンピュータに対する現実以上の買いかぶりは一般に当時かなりあったのではないか、と感じますね。

第22話では、ルパンは実際にそういうコンピュータと対決し、結果的にはルパンはコンピュータに勝つのですが、コンピュータを打ち負かしたルパンの戦略は、なかなか含蓄があります。ルパンが対峙しているのはコンピュータというよりも、哲学的な味わいのある問い≠サのもので、これは言い換えれば「自分のすべての行動を完璧に予測する者が仮にいたとして、そうした者を相手にする場合、どうすれば相手の裏をかくことができうるのか?」ということでもあります。ルパンは最初は己の天才的な頭脳を過信して、論理的思考によってコンピュータを出し抜こうとしますが、思考ではじき出す戦略というのは、つまり理性を武器にした戦略ですから、このコンピュータにとってはそうした戦略は、すでに入力されているルパンという人間の全データ≠元に予測してしまいます。理性によるどんな戦略も予測解析可能という設定のマシンなので、それに勝つには非理性的なアプローチしかありません。それに気づいたルパンは非理性的な戦略に切り替えます。ふとした思いつきで計画を途中でコロコロ変えていくという、直感≠ノ従った行動をとったのです。すべて思考が相手に読まれていることを承知で、牢屋に捕らえられた仲間を助けるために厳重な警備の中ルパンは単身敵の手中に乗り込みますが、気まぐれにちょいちょい計画をその場で変えていき、ルパンは見事仲間の救出に成功してします。幽閉されていた仲間の元に現われたルパンはこういいます。「コンピュータの裏をかくには気まぐれ≠ェ一番なのさ」。

まぁ、細かい事を言えば、気まぐれというのも人間ならかなりの頻度で起こるはずで、以前は私も、「すべてを予測するコンピュータなら、そういう気まぐれも予測できないと役に立たないはずだ」と思ってました。が、しかし、そういうのは野暮でもありますし、よく考えてみれば、野暮どころか、少々未熟な指摘でもあるように思えてきます。視点を変えれば、そういう表面的なつっこみどころよりも、このエピソードは論理的思考と直感、理性と無意識、みたいな対立項が骨格になっており、むしろソコがこの作品の魅力の本質ではないか、ということに気づきます。いつも事前に犯罪を予告して遂行する計画性のあるルパンが、最終的には頭で考えることを止めて直感に頼ることを余儀なくさせる結末が、なんとも皮肉めいていて教訓的というか、寓意的で面白いです。ある意味では、それまで経験を生かした自力の戦略で生きてきたルパンが、はじめてこのエピソードで過去に培ってきたノウハウを捨て去り、まったく新しい戦術をとっています。奇しくもこの次のエピソードで1stシリーズの最終話となるわけで、そういう意味でもこの第22話はルパンというキャラの限界を示すと同時に、別の新しい伸びしろを伺わせる象徴的なエピソードのように思えてきます。



el_icon.pngゴダールの話

万能の人工知能コンピュータといえば、先に触れた「2001年宇宙の旅」のHAL9000のインパクトが大きいですが、そういえばゴダールの映画「アルファヴィル」にも似たような機械が出てきたな、と思い出し、やはりゴダールも「2001年〜」の影響を受けてたんだな、とにやにやしながら、ふと念のために調べてみたのですが・・・なんとゴダールの「アルファヴィル」のほうが「2001年〜」よりも3年も前に作られてたようでビックリしました!う〜む、ゴダール、天才すぎる!「アルファヴィル」はゴダール作品にしては異質のSF映画ですが、未来都市の設定なのに、普通に当時のパリ市街で撮影されてた、というのもユニークなエピソードとして有名ですね。この映画もまたゴダールらしいポエティックなカッコイイ台詞が頻発してて印象的な映画でした。主人公が万能コンピュータ「アルファ60」と会話するシーンがあって、主人公はコンピュータといくつか問答するのですが、特に印象に残っているのは、コンピュータが「死者の特権とは何か?」と質問してくる場面です。

「死者の特権とは何か?」その質問に主人公はこう答えます「二度と死なないことさ」。まず普通の日常会話では出てこない知的でお洒落なやり取りですが、そういう詩的でかっこいいシチュエーションを描くのはゴダールの持ち味ですね。ゴダールの映画は、お洒落で知的なフランスというステレオタイプなイメージをそのまま映像にしたような感じで、難解でとっつきにくい面がありつつ、理解できなくてもいいから見てみたいと思わせる変な魅力があり、むかしは気合いをいれて鑑賞しまくった時期があります。それは「ゴダール映画を知ってる俺って知的でかっこいい」と思いたいという俗物的な思惑も大いにあったわけですが、そういうステイタス的な魅力も含めてゴダールの魅力だと思います。実際鑑賞してみると、それだけでなない収穫もたくさんありましたし、見ておいてよかったと思います。上記のような、スタイリッシュでポエティックな台詞の応酬とかは、ゴダール作品特有の個性ですし、出世作「勝手にしやがれ」では、まさに前述したルパンの第22話のように、毎日その場で考えた脚本を次の日に撮影していくという、気まぐれや思いつきを生かした実験的な作品で、即興演出や斬新な編集など、ヌーベルバーグを代表する傑作ですし、見ておいて損は無い作品でした。「気狂いピエロ」なども代表的ですが、個人的には「女と男のいる舗道」「男性女性」あたりの作品がお気に入りです。ゴダールの独特のノリに慣れると楽しく見れるようになってきますし、なによりものの見せ方、会話のリズム感など、今でも勉強になる部分の多い監督ですね。自分が好きなものやこだわっているものを世間受けを気にせずけっこうストレートに作品に持ち込む監督で、そういう所も好きです。

フォークソングの話のところでもちょっと触れたあがた森魚の傑作アルバム「噫無情(レ・ミゼラブル)」(1972年)ですが、このアルバムの中の一曲「最后のダンス・ステップ(昭和柔侠伝の唄)」に印象的なゴダールの引用がありましたね。この曲は緑魔子さんとデュエットしているのも注目したい点で、緑魔子といえば現在は俳優の石橋蓮司さんの奥さんとしても知られていますが、名前のインパクト通り当時はアングラ演劇や前衛的な映画で活躍した女優さんです。彼女は当時からゴダールの大ファンだったようで、このあがた森魚とのデュエットでも、序盤に入る「私の名は朝子です」からはじまる緑魔子さんの少女っぽく初々しい語りは、ゴダールの「女と男のいる舗道」をアレンジして引用したもののようです。たしかにCD付属の歌詞カードを参照してみると、歌詞の中に「J・L・ゴダール「女と男のいる舗道」より)とクレジットがあります。映画のほうはだいぶ昔に見たきりなので、どういうシーンからの引用なのか覚えてませんが、なんとなく気になるのでそのうちDVDなどで見直してみたいです。日本の音楽とゴダール、といえば、このあがた森魚の曲のほかに、YMOの「マッドピエロ」(映画「気狂いピエロ」がタイトルの元ネタ)や「中国女」や「東風」もゴダールの映画のタイトルを引用した曲として有名ですね。また、沢田研二さんの往年のヒット曲「勝手にしやがれ」もゴダールの映画タイトルが元ネタになっています。こうしてみると、意外とゴダールというのは日本の大衆文化のあちこちで引用され重宝されている側面もあったりして面白いですね。お洒落さや知的感性を象徴する権威、というかある種箔付けのような意味合いでゴダールが引用されている面もあるとは思いますが、そういうものも含めた魅力があるのもたしかですし、私がそうだったように、そうした魅力がゴダール映画を鑑賞してみようという動機になったりすることも多いわけですから、入り口はファッション感覚でかまわないのかな、とも思います。結果的にそれが人生を少しでも豊かにしてくれるものなら儲け物です。

ゴダールは作品も素敵ですが、本人もめちゃくちゃカッコよくて、顔面にパイ投げされたハプニング映像を昔見たことがありますが、その時のリアクションがかっこよすぎたのが記憶に焼き付いていて、私の場合、それもあってゴダールが気になる監督になっていったような気がします。一昔前、世界的に当時暗躍していたゲリラ的な集団で、気に入らない有名人の顔にパイを投げつけてクリームまみれにして、そのかっこ悪い姿やリアクションをビデオにとってマスコミに流し、世間のさらし者にするという、反権力が生き甲斐みたいなノリの悪趣味な集団で、日本でもちょっと取り上げられたことがありました。たまたまその時の報道映像で、ハリウッド俳優やビルゲイツなどの著名人にまじってゴダールがターゲットにされた時の映像がありました。件の集団は「パイ投げスナイパー」と呼ばれる集団で、ベルギーを拠点に活動していたようです。パイを投げられ顔中クリームまみれになったゴダールは、口のまわりのパイをぬぐいそれまでくわえていた葉巻をまたヒョイとくわえます。突然のハプニングなのに、実にスマートに反応をしていてシビれました。お洒落って、ファッションのことではなく、こういうにじみ出る人間力のことなんだろうなぁ、と思わずにいられない映像でした。

パイ投げスナイパーのリーダーをしているのは、調べてみたら作家や俳優などをしているノエル・ゴディンという人物のようです。屈強なガードマンの防御をかいくぐりビル・ゲイツを奇襲したことで世界的に有名になってしまったようですが、それにしても人によってはユーモアや冗談だけで済まなさそうなギリギリな活動ですよね。パイ投げ団のそんな冗談に命かけてる感には苦笑を禁じ得ません。

ルパンの記事なのになんかゴダールの話が長くなってしまいましたが、まぁルパンもモーリス・ルブラン原作のアルセーヌ・ルパンの孫という設定で、なんとかフランス繋がりではあるので、とりあえず良しとしましょう!

メモ関連サイト
ゴダールの映画「アルファヴィル」(ウィキペディア)

ゴダールの傑作映画『勝手にしやがれ』予告編(YouTube)

カンヌでパイを顔に当てられるゴダールの映像(YouTube)

鑽孔テープ(「邪悪な波動に目覚めたアルマジロ」様のブロマガより)
鑽孔テープの雑学と、それが出てくる娯楽作品について書かれていて興味深いです。鑽孔(さんこう)テープとは、上記でも触れた昔のコンピュータの描写によくあるパンチ穴の開いた紙テープのことです。
posted by 八竹彗月 at 22:27| Comment(0) | 雑記

2018年08月28日

【雑談枠】黄金郷通信 vol.2

なんとなく更新が滞ってきたので、せっかくなので雑談的に今回もとりとめなく興味の赴くままに語ります!ここのところ、月のロマンとか宇宙に関する珍奇なビジュアルなどをテーマに何か書きたいとネタを暖めているところですが、とりあえず最近気になっているテーマなどをいくつか雑多に取り上げてみました。



el_icon.pngチベットの聖者ミラレパ

チベット仏教において最も有名な聖者だといわれているのがミラレパ(1052〜1135年)だそうで、その名前だけは何かの本で出てきたためかなんとなく知っていましたが、実際どのような人物なのか調べてみると、想像以上に波瀾万丈で興味深かったです。実在した人物とは思えないほどの不思議な人生を送った聖者で、ウィキペディアをはじめ、検索するといくつかミラレパの人生をテーマにした記事がヒットしますので興味のある方は調べてみると面白いと思います。チベット仏教というと、輪廻転生によって引き継がれてきた最高指導者、ダライ・ラマとか、OSHOばりにアナーキーなチョギャム・トゥルンパなどが思い浮かびます。また「チベット死者の書」や、シャンバラ伝説など、チベット自体が神秘に満ちた不思議な地域の印象があります。チベットは現代はややこしい状況になっていますが、なんとか良い方向に改善されることを期待してやみません。

さて、ミラレパに話を戻しますが、彼はチベットの裕福な名家の生まれで何不自由の無い幼少期を過ごしたそうです。しかし、ミラレパが7歳の頃に父が病死してから運命は一転します。叔父と叔母の画策によって父の遺産を強奪され、さらにミラレパの一家は彼らの奴隷にされて悲惨な暮らしを強いられることになります。一家を奈落の底に陥れた叔父と叔母に復讐するために母はミラレパに黒魔術を学ばせます。誦咒(しょうじゅ)、厭勝(えんしょう)、霰(せん)の3つの魔術をマスターしたミラレパは、叔父と叔母だけでなく、彼らに加担して自分たちを虐待した村人35人をも呪殺してしまいます。それでも気が納まらなかったのか、天候を操る秘法によって村の全ての農作物を壊滅させてしまったそうです。実在の人物のエピソードというより、神話の話のようですね。この頃の日本は平安時代後期ですから、余計に不思議さを感じますね。でも、西洋の黒歴史、魔女狩りは、15〜18世紀と、意外にそう遠くない時代に起こってますので、それ以前のミラレパの生きていた11〜12世紀頃の世界は、想像以上に神話の世界に近い様相だったのかもしれませんね。

というわけで、復讐を完遂したミラレパでしたが、黒魔術とはいえ、そこまでの呪法をマスターしたほどなので、もともと魔術師的な素質があったのでしょう。そういえば、昔「復讐するは我にあり」という映画がありましたが、このハードボイルド風なタイトルは実は聖書の言葉(ローマ人への手紙)が元ネタのようで、「我」とは神を指しています。意味は「自ら復讐に手を染めてはならない。ただ神の怒りに任せなさい」ということのようです。精神世界の教えでは復讐というのは相手だけでなく自分にも悪いカルマを背負う愚かな行為です。「人を呪わば穴ふたつ」とはまさに至言で、人を呪って仮に相手が不幸になっても、同じくらいの不幸を自分も背負うことになります。自分で復讐しなくても、人を不幸にした者は同等の報いによって購わせられるという法則が、まるで物理法則のようにはたらくことは、多くの聖典で述べられていますし、実際自分の経験に照らしてみても、そういうはたらきがあるように感じます。なので、復讐したいくらい憎い相手なら、自分で手を下して自分までカルマを背負って苦しむよりも、すべて神(=天の法則)に任せてしまったほうが、結果的にはノーリスクで復讐が完遂するのだから、そっちのほうが得ですよ、ということですね。

しかしまぁ、ミラレパの蒙った理不尽さは、なかなか一般の人間が経験できるようなレベルを越えていますし、憎しみの動機も痛いほど解るので、ミラレパの復讐を単純に責める気にはなれないところもありますね。しかし見えない次元ではたらいているカルマ的な法則は自動的にはたらきます。後に聖人と呼ばれるほどになったミラレパですから、そうした天の法則にもうすうす気づいたのか、自分の犯した悪のカルマの報いを恐れるようになり、正しい仏法を探求するようになります。そうして出会ったのが生涯の師、マルパ師でした。

後に聖人となる人物の師匠ですから、マルパ師もそうとうな達人で、出会う前から夢の知らせでミラレパが特別な弟子であることを知っていました。ミラレパはゆくゆくは世界を照らすほどの救いの光明をもたらす人物となること、それには犯してしまった黒魔術による殺人や村の破壊などの悪業を浄化する必要があること、その浄化はマルパによって可能であること、などが夢で知らされたそうです。そういうこともあってか、ミラレパが弟子になると、ミラレパにひとりで石造りの塔を建てさせ、完成が近づくと自分でそれを壊すように命じたりと、理不尽な仕打ちを何度も続けました。苦労して石を運び、こつこつと積み重ね、仏塔を造りつづける毎日、しかし完成の一歩手前で、それを壊せと命じられる苦しみ。ミラレパは、完成の喜びさえ味わうことを許されない重労働を、何度も何度も強いられました。さらに、ミラレパを他の弟子の前で罵倒したり、公衆の前で殴り、蹴り付けたりと過酷な目に何度も合わせました。これもミラレパが積んでしまった悪業の浄化のために必要なミソギでした。多分、そういう真意があろうともミラレパにした理不尽な仕打ちのカルマをマルパ師は背負うことになるはずです。しかし、神から託された弟子をちゃんと解脱せるのが自分の使命であることも承知しているので、覚悟の上で心を鬼にしていたのでしょうね。

悪行の浄化のためとはいえ、あまりの厳しい虐待にマルパ師の元から逃げ出したりもしますが、結局最後までマルパ師の元で厳しい修行に耐えて最終奥義を授けられます。師の元を離れた後、ミラレパは人里離れた洞窟で苦行に励み、とうとう最終的な悟りの境地に至ったといわれています。ミラレパの伝記をけっこう端折って紹介しましたが、ほかにも興味深いエピソードが多いので、興味のある方は調べてみると面白いと思います。

メモ関連サイト
ミラレパ(ウィキペディア)



el_icon.pngカバラの動画

カバラと聞くと、どうしてもマニアックな秘教的オカルト思想をイメージしてしまいがちなのですが、「ブネイ・バルーフ カバラ教育研究所」という組織が数年前からYoutubeなどにアップしている動画をたまたま見ていたら、意外に精神世界全般に通じる普遍的な教えが根底にある思想であることを知り、がぜん興味を持ちました。たしかにカバラというとゲマトリア(数秘術)に代表されるようなオカルト要素に惹かれるところではありますが、もともとカバラの母体であるユダヤ教自体が、歴史的にキリスト教と通底するところがあるだけに、カバラもまた万人の心に響くものを根底に持った思想なのだなぁ、と感じました。ブネイ・バルーフ カバラ教育研究所は、イスラエルを拠点としたカバラの啓蒙を目的とした非営利組織だそうです。ユダヤ教とかカバラというと日本人に馴染みの薄いところがあって、それゆえに神秘な匂いがたまらないところがありますね。

TV動画
カバリストはどんな意識状態に到達したのか?(ブネイ・バルーフ カバラ教育研究所)
オプションで日本語訳の字幕を表示できます。

いろいろ興味深い動画があがっていましたが、例えば上記の動画では、人間は特有の脳のトリックによって、心の内側で生じるさまざまな現象を、あたかも「外側」で起きている事象のように錯覚しているのだ、というユニークな見解を解説していて面白いです。内側と外側という境界はただ脳の都合でそう認識しているだけで、本来違いは無い、という立場は、ヒンドゥー教や仏教ではお馴染みの思想ですが、カバラでも同じ視点にたっているところが興味深いですね。

メモ関連サイト
カバラ(ウィキペディア)

ブネイ・バルーフ カバラ教育研究所日本語版公式サイト



el_icon.pngヴィンテージでオリエンタルなファッション写真・孫郡(Sun Jun)

孫郡(Sun Jun)は、ファッション写真に伝統的な中国美術の要素を取り入れたヴィンテージ感漂うユニークな作風で注目されている写真家です。漢詩の世界のようなオリエンタルなポエジーを感じる写真がとてもユニークです。モダンなファッションと風流な東洋的レトロ感が絶妙で、とくに、何もない空間を大胆に作る禅庭を思わせる東洋的な美意識が心地いいですね。孫郡は7歳の時から中国画を学び始めたそうで、そうした素養が実に見事にファッション写真というある意味ミスマッチな分野で発揮されたというところも面白いですね。

以前、中国人ファッションデザイナー、ヴィヴィアン・タムの『China Chic』という本(ファッションの写真集というよりは、彼女のイマジネーションの源流をコレクションしたような、古今の中国文化をビジュアル的に構成したイメージブックという体裁)に感銘を受けて、現代の中国人クリエイターに関心を持ちはじめていたのですが、そうした中で孫郡の作品を見つけ、さらに関心が深まりました。

メモ関連サイト
孫郡(Sun Jun)の作品(中国語のブログ「The FEMIN」様より)

孫郡(Sun Jun)の作品(google画像検索結果)



el_icon.png偶然という名の必然・シンクロニシティについて

アメリカといえば、フリーメーソンが建国にかかわっていた、とか、ドル紙幣にまつわる都市伝説とか、UFOや超能力の研究を国家機関が行っていたとか、歴史の浅い新しい国という割には、いろいろと不思議ネタに事欠かない底知れない魅力に満ちた国でもあります。そうしたネタのひとつにアメリカ大統領、リンカーンとケネディの不思議な共通点の話があり、子供の頃に読んだオカルト系の本に載っていたせいで、とても印象深く記憶にあります。アメリカ本国では案の定オカルト系の本でよく取り上げられていた題材のようで、検索してみると、かなりたくさんの一致点があるみたいで、ひさびさにびっくりしました。代表的な一致点というと以下のようなものがあります。

リンカーンとケネディ

 ジョン=ケネディ大統領とリンカーン大統領は、共通点がある。
(1) リンカーンが大統領に選ばれたのは1860年、ケネディが選ばれたのは百年後の1960年。
(2) ふたりの大統領のあとをついだのはどちらもジョンソンという名前の人。生まれた年は、これまたちょうど百年違い。
(3) 暗殺者の生まれた年も百年違い。リンカーンの暗殺者は1839年、ケネディの暗殺者は1939年生まれ。
(4) リンカーンの秘書の名はケネディ、ケネディの秘書の名はリンカーンといった。
 これらの事実は、偶然だろうか・・・・。

「超科学ミステリー」斎藤守弘著 学研 昭和49年(1974年)刊 p137より


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リンカーン大統領とケネディ大統領の共通点(ウィキペディア)
けっこうありますね。私は上記の4つ程度しか知らなかったので、思ってた以上に共通項が多くてびっくりしました。

歴史に名を残すような人物は、それだけ世界に影響を与えている人物でもありますから、シンクロニシティめいた現象が起こりやすいといえます。シンクロニシティとは、ある種、見えない次元を支配している法則のひとつで、この世がたんなる物質同士の反応だけで存在している世界ではない事を人間に知らせてくれます。アメリカ大統領のような影響力の大きい人物であれば、なおさら霊的次元での影響も大きいはずで、だからこそシンクロニシティという形で解りやすくこの世に投影されやすいのだろうと察します。

日本でいえば、天皇陛下や総理大臣なども影響力が大きいですから、探せばいろいろとシンクロニシティ的なものが見つかりそうですね。そういえば、皇室にまつわる不思議なシンクロニシティの話が一時期話題になった時がありましたね。雅子様と紀子様は共に皇室に嫁いだことで日本中で話題になりましたが、このおふたりには偶然にしては出来すぎたあるシンクロニシティがありました。それは、おふたりの名前に関するもので、ご存知の方も多いと思いますが、ご結婚前のフルネーム、小和田雅子(おわだまさこ)、川嶋紀子(かわしまきこ)を一字づつとばして交互に読むと、お互いの名前に一致するというものです。

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天皇の家系は神話の時代まで遡ることができますし、三種の神器というモロに神話のアイテムを引き継ぐことで継承していくわけですから、この目に見える世界だけでなく、霊的な影響力も相当なように感じます。そうした霊的なパワーを継承していく選ばれた家系に入っていく人も、民間人とはいえ、高い次元では、前もって決まっていた方々だったのかもしれませんね。

シンクロニシティの興味深い事例として印象的なのは、1950年代にアメリカのある教会で起きた奇妙な事件です。昔、南山宏さんのコラムかなにかで読んだ記憶があるのですが、以前「トリビアの泉」というテレビ番組で紹介されたこともあるみたいなので、ご存知の方も多いと思います。この事件は当時の有名なニュース雑誌『LIFE』にも載ったそうで、信憑性も高そうです。その事件とは、「1950年3月1日、ウエスト・サイド・バプティスト教会において午後7時25分、ガス漏れによる事故で教会が爆発し全壊した」というものです。爆発した時間帯には、ちょうど聖歌隊のメンバー15人が全員集まって練習する予定であったにかかわらず、奇跡的に全員が£x刻したために難を逃れたのでした。しかも、遅刻の理由は15人それぞれに別々の理由(宿題が終わらないので遅れた、とかラジオ番組に夢中になって忘れていた、とか)というのも実に神がかった奇跡です。

メモ関連サイト
「トリビアの泉」で紹介された教会ガス爆発事件で起きた奇跡の内容(「日本発ニュース」様)

偶然で片付けてしまうのは簡単ですが、この宇宙は多くの科学者が考えているように、厳密になんらかの法則に支配されているはずで、そういう意味では「偶然」は存在しないともいえます。人間世界で起こる社会現象も、目線を変えれば宇宙で起きている物理現象のひとつでもありますから、一見人間的で物理法則とは無関係に思われている怒りや友情や恋愛などの感情や、人間関係で起こる様々な出来事なども、すべてその背後にはまだ解明されていない次元での見えない法則が影響しているように思います。奇跡を偶然と片付けるのもひとつの見方ではありますが、「起こりうる最も理想的な成り行き」を奇跡と呼ぶわけで、聖典などでいわれているのは、主にそういう「偶然」をいかに「偶然」として片付けずに、むしろ積極的に人生に活用していくべきかを語っており、そういうところが精神世界に惹かれるところでもありますね。

シンクロニシティについて考察していくと、「偶然とか何か?」という問題が気になってきますし、数学で扱う偶然「確率論」にも興味がわいてきます。数学で扱う「偶然」も、「モンティホール問題」などを筆頭にけっこう面白いものが多く、いずれ項を改めて記事にしたいと思います。
posted by 八竹彗月 at 23:58| Comment(0) | 雑記