2022年05月19日

杜子春の話

220519_toshi.png杜子春(とししゅん)

「蜘蛛の糸」「羅生門」などの作品で知られる昭和を代表する文豪の代表格、芥川龍之介。個人的な好みでは芥川作品の中では「杜子春」と「アグニの神」が大好きです。「アグニの神」はオカルティックなミステリー短編で今読んでも古くさい感じがなく、モダンな印象の逸品ですね。純文学という堅苦しいイメージを吹き飛ばすような現代的でスリリングな展開とスッキリとした小粋なオチが見事です。舞台は上海、インド人の老婆の占い師、美少女の霊媒、といったユニークな設定だけでわくわくしてきます。「アグニの神」は芥川のオリジナル作品ですが、もうひとつの好きな作品「杜子春」のほうは唐の時代の中国の古典が下敷きになっています。とはいえ、結末を含め、半分以上は芥川の創作のようです。

以前から仙人という不思議な存在にはとても関心があり、きかっけはむかし読んだ諸星大二郎の漫画や仙道研究家の高藤聡一郎の本の影響もありますが、この「杜子春」の物語を子供の頃に読んだことがそもそもの萌芽となっているのかもしれません。ふと思い出しては何度も読みたくなるお話です。また急に「杜子春」が読みたくなっていろいろ調べたりしてるうちに、せっかくだから記事にまとめようと思い、思うところを気ままに綴ってみました。せっかくだから〜せっかくだから〜

メモ参考サイト
杜子春の話が急に読みたくなって、検索してたら、プロのナレーター、窪田等さんが朗読している動画が!
惚れ惚れするような声と抑揚で、情景が目に浮かぶような表現力が素晴らしいです。じっくり堪能させていただきました。

GYAO!でも学研の制作した「杜子春」のアニメが無料公開されていました。原作に忠実でよいアニメだと思います。個人的にはまた杜子春をアニメ化するなら諸星大二郎先生のキャラデザインで見てみたいですね。諸怪志異っぽいノリで。


杜子春の芥川バージョンは元になった中国の古典とは結末が違うとのことです。原典の、あくまで不動心を重んじた結末と違い、芥川は日本的というか、情緒的にまとめていますが、芥川の解釈も原典と同じくらい真理を描いているように思えました。仙人の鉄冠子については、いかにもネタ元になった仙人がいそうですが、それらしい原典は不明なようですね。

「杜子春」で描かれる鉄冠子(てっかんし)と名乗る仙人は、いかにもイメージ通りの仙人といった風情で描かれており、仙人になりたいと望む杜子春を峨眉山(仙人伝説のある四川省にある聖山)の頂上に連れていき、「俺はこれから天上に行って西王母(せいおうぼ。中国神話の女神)に謁見してくるが、用事を終えて俺が帰ってくるまで何があっても口をきいてはならぬ」と言いつけて去ってしまいます。鉄冠子のこの「帰ってくるまで口をきくな」という約束こそが、杜子春を仙人にしてやる条件になっているのですが、これがかなり難関です。

虎だの大蛇だの、はては峨眉山を守護する豪傑な神霊までもが杜子春の口を開かせようと攻撃してきますが、お調子者だったワリにけっこう耐え忍ぶところが「意外とやるなぁ」と思わせます。それだけ仙人になってやるという決意がかたかったのでしょうね。言うことを聞かぬ杜子春に怒って峨眉山を守護する神将は持っていた三つ又の鉾の切っ先で杜子春の胸を貫き殺してしまいます。死んでも口をきかなかった杜子春の覚悟もすごいですが、いやいや、死んでしまったら仙人になるという夢はどうなるの?という所も気になってきます。このあたりの超展開も面白いですよね。

結局、死んだ後もまだ鉄冠子との約束は生きていて、地獄の果てでも仙人への夢はかたく保持する杜子春でした。死後の世界でも、口をきこうとしない杜子春に閻魔大王は激怒します。閻魔様は死者の行き先を決めるための案内人のような存在ですから、質問に答えないというのは、心証を悪くするだけで死者にとっては損にしかなりませんが、なにせ仙人になるための条件が「口をきくな」というものですから、せっかくここまで戒めを守り通してきたのに、いまさら口をきいてしまうのもなんだかもったいないという所もあったのでしょう。

地獄の責め苦にも堪え抜いた末に、それでも口をきかぬ杜子春に業を煮やした閻魔大王が地獄で畜生道に堕ち、馬の姿になった父母を引っ立て、杜子春の眼前で鬼たちに命じて拷問をくわえます。しかし、それでも仙人になって自由闊達に生きたいという夢のために父母の解放を請おうとする気持ちを必死にこらえるのでしたが、拷問に堪えている馬になった母のかすかな声を聴いて心が揺さぶられます。

「どうだ。まだその方は白状しないか。」  閻魔大王は鬼どもに、しばらく鞭の手をやめさせて、もう一度杜子春の答を促しました。もうその時には二匹の馬も、肉は裂け骨は砕けて、息も絶え絶えに階(きざはし。階段のこと)の前へ、倒れ伏していたのです。
杜子春は必死になって、鉄冠子の言葉を思い出しながら、かたく目をつぶっていました。するとその時彼の耳には、ほとんど声といえないくらい、かすかな声が伝わってきました。
「心配をおしでない。私たちはどうなっても、おまえさえ幸せになれるのなら、それよりけっこうなことはないのだからね。大王がなんとおっしゃっても、言いたくないことは黙っておいで」
それはたしかに懐かしい、母親の声に違いありません。杜子春は思わず、眼をあきました。

芥川龍之介『杜子春』青空文庫より(仮名遣いを現代文に改め引用)

仙人の術によって何度も栄華を味わった杜子春でしたが、金持ちになればお世辞をいい、貧乏になれば見向きもしなくなる世間の人間とは違い、眼前の父母は、自分のせいで味わわなくてもすむ拷問を受けているにもかかわらず、息子の幸福のためならばと凄惨な苦痛を甘んじて耐え忍んでいる。それがあまりにも有り難過ぎて、そして、そういう父母の苦痛を傍観する自分があまりに情けなさ過ぎて、どうにも堪えきれず杜子春は半死半生の二頭の馬の元に駆け寄り、号泣しながらひとこと「お母さん!」と叫んでしまいます。そこで気を失い、気がつくといつしかまたあの洛陽の西の門の下に佇んでいるのでした。

結局、仙人・鉄冠子との約束を守れなかった杜子春、おかげでこの世の栄華にも、仙人になることにも興味はなくなった末に「人間らしい、正直な暮らし」をすることに自分なりの人生の活路を見つけます。鉄冠子もその答えに喜び、自分の持っていた家と畑を杜子春に譲渡して去っていきます。

杜子春が地獄で口をきいてしまい約束を破ったのは、自分の夢のために父母が拷問にあっているのを黙って見過ごすような自分であったなら、仙人になったところで何の意味があるのか?ということに気付いたからですが、そもそも仙人・鉄冠子は、それを気付かせるために杜子春に試練を課したのでしょう。鉄冠子いわく、「(あの時に)もしお前が黙っていたら、おれは即座にお前の命を絶ってしまおうと思っていたのだ」と言っていますから、最初から杜子春を弟子にする気はなかったのでしょうね。約束を守らなかったら仙人にはなれず、守ってもなれないわけですからね。

それは鉄冠子のイジワルなのではなく、仙人になるよりも、まだ人間として経験すべきものが杜子春には残っていることを見抜いていて、それを自分で気付かせるように誘導していたのでしょうね。


220519_toshi.png「杜子春」の馬と「千と千尋の神隠し」の豚

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神々のためのご馳走を勝手に食べてしまった罰で豚にされてしまった千尋の父
「千と千尋の神隠し」より コピーライトマークスタジオ・ジブリ


異界で両親が獣になってしまうシチュエーションは、「千と千尋の神隠し」の序盤で、千尋の両親が異界の食堂で無銭飲食したために豚に変えられて、食肉用の豚として飼育されるハメになるシーンを彷彿としますね。「千と千尋」では、他のシーンでも、ハクが少年と龍の姿を交互にとったり、湯婆婆の巨漢の子供坊≠ェネズミになったりと、元の姿から別の姿に変化するシーンがたくさん出てきます。こうした変身の描写は、なんとなく教訓めいていて、どこか輪廻転生の寓意を感じるところがありますね。

仏教用語で六道輪廻という言葉があり、これは一般には生前の行いによって死後に天道、人間道、修羅道、畜生道、餓鬼道、地獄道という六つの世界のどれかに振り分けられるカルマ的な境遇を指したりしますが、また同時に、生きている今現在の自分の心のあり方がまさにこの6つの境地を行き来していることを指したりもしますね。ブッダは死後の世界を語りませんでしたので、正しくは六道輪廻というのは仏教的には、死後の話ではなく、今生きているこの人生における心のあり方を6つの境地で表していると解釈したほうが良いのかもしれませんね。地獄というのも、死後の世界の話だけでなく、今現在の、怒りや憎しみや嫉妬などの不幸や苦しみを招く心の状態をも指しているのでしょう。針の山とか、血の池とか、仏教画にある地獄絵図は、そうした概念的な世界をビジュアルチックに表現した寓意的なものでもあるのでしょうね。人が動物に変えられてしまう世界、いわゆる畜生道の世界は、鳥・獣・虫などのように、理性や知性よりも生存本能が優位な世界、いわゆる「欲」の支配する世界で、六道の4番目、中の下にあたります。そういう意味でも、「千と千尋」で親が豚になった原因は飽食、神々に振る舞うはずだった食べ物を食い散らかすという、食を貪る欲の罪ですから、うまく六道の配置ときちんと重なっていて興味深いですね。

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親が豚になってしまったことにショックを受け気が動転しながらも急に日が暮れて暗くなった路地を駆け抜ける序盤のシーン。この怪しい路地に立ち並ぶ店の感じがつげ義春や逆柱いみりのテイストを感じさせますね。ノスタルジックでシュールな怪しさがたまりません。店のあちこちの壁に昭和モダンな感じの色ガラスの窓がはまっていてイイ味だしてます。
「千と千尋の神隠し」より コピーライトマークスタジオ・ジブリ

確認のために「千と千尋」を見返していたら、ついついまた全編見てしまいましたが、改めて思いますが、ほんとうに凄い作品ですね。物語の構造は、異界に入って最後にそこから脱出するというとてもシンプルなもので、お話もヒロインの千尋が右も左も分らない異界で自分なりに様々なアクシデントに対応していく中で人間的に成長していくという分りやすいものです。しかし、その細部で描かれる数々のエピソードは、民族学や仏教思想などが見え隠れする味わい深い描写ばかりで、おおまかなストーリーの単純さと対照的に、次々に繰り出される細部に詰め込まれた芳醇なアイデアの奔流のハーモニーが絶妙ですね。千尋が湯婆婆の双子の姉、銭婆に会いに行くために乗る汽車の正面には「中道」と書かれたプレートがあり、また銭婆の住んでいる家がある最寄り駅は、湯屋から6つ目の駅であることなど、六道輪廻などのなんらかの哲学的な意味合いが込められてそうな意味深な設定が多いですね。

「千と千尋」を見返していて今更気付いたのですが、ラストでいつのまにか人間の姿に戻っている両親の元へ向かおうとする千尋がふと後ろを振り向こうとして、ハクの「トンネルを抜けきるまで振り向いてはいけない」という言葉を思い出し、後ろを向くのを途中で止めるシーンで、銭婆からもらった紫の髪留めが光ってますね。また両親と共にトンネルを抜けて現実世界に戻った時に気になってトンネルに振り向きますが、この時にも髪留めが光りますね。この細やかな演出によって、千尋の体験した異世界の出来事が単なる幻や夢オチ的なものではないことを暗示し、より奥深い印象を残しています。現実世界に戻っても、まだ千尋に贈られた銭婆の魔法は消えていないことを示しているんでしょうね。逆に、銭婆も、千尋が現実世界に戻った後まで魔法効果を維持できるように、髪留めの作成を魔法でなく、ちゃんと手作りで糸を編み込んで作ったのかもしれませんね。そんなこんなで、見るたびに味わい深い作品で、またもや宮崎駿監督の天才ぶりを端々で再確認させられた感じです。

そういえばハクの「振り返ってはいけない」という警告は、古事記をはじめ世界中の神話でたびたび描かれるタブーの類型を思わせますね。ウィキペディアには「見るなのタブー」という記事で見ることを禁止するシチュエーションの神話をたくさん紹介してあり興味深かったです。日常の世界では、見るという行為だけで何かに影響を与えることはできないですが、霊的な世界ではまるで量子力学の二重スリット実験のように、観測するだけで結果に重大な違いが生じてしまうようになっているのでしょうね。振り返ってしまったらどうなるのかが説明されていないので、変にその意味にこだわると不気味な余韻を感じるシーンです。なにか呪術的な効力とか、結界のシステム的な何かが「見る」という行為でバランスが崩れて、千尋にとって不利になるような何らかの変化が起こってしまうことをハクは防ぎたかったのかもしれませんね。


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ラスト近くのシーン。トンネルを抜け異界から現実世界に戻った千尋が、出てきたトンネルを振り返って見つめるシーン。この後、「車に早く乗りなさい」と親に急かされて親の方に顔を向けますが、その瞬間銭婆にもらった紫の髪留めが一瞬キラリと光ります。なんとも繊細でニクイ演出です。
「千と千尋の神隠し」より コピーライトマークスタジオ・ジブリ



メモ参考サイト


ジブリ作品の画像集。「画像は常識の範囲内でご自由にお使いください」という衝撃的な英断が話題になりました。お言葉に甘えてありがたく使用させていただきました。

「千と千尋」関連で以前書いた記事です。ミヒャエル・エンデの「はてしない物語」を読んでたら、「千と千尋」との類似点がいくつかあって興味深かったので、その勢いで書いた記事です。宮崎監督は児童文学にも詳しそうですし、多分エンデからも少なからず影響を受けてるのかもしれませんね。


220519_toshi.png杜子春と仙人

「杜子春」の醍醐味はなんといっても不思議な存在感を醸し出している仙人の存在です。物語に登場する仙人の鉄冠子は、自分の留守中に一言もしゃべるなというシンプルな行を杜子春に課しますが、実際は魑魅魍魎にあの手この手で口を開かせられようとひどい目に合わせられることになります。とはいえ、口を開かないことでなぜ仙人になれるのかが不明瞭な話ではあります。ここの部分の私見は、上記でも書いたとおり、そもそも鉄冠子は杜子春を弟子にするつもりはなく、真面目に人生を生きる価値に気付かせたかったのが鉄冠子が杜子春に関わった理由なのではないか、と思ってます。

ウィキペディアによれば、オリジナルの中国の古典では、地獄へ堕ちた杜子春は、女に生まれ変わって現世に誕生することになるようです。そして結婚し、子を儲けますが、まだ仙人との約束を守っているため、子を授かった喜びの声の一言もなく、そうした妻の様子に激怒した夫が赤ん坊を叩き殺してしまいます。そこでやっと妻(杜子春)は悲鳴をあげてしまいますが、それによって現実に戻り、仙人に「もう少し我慢してれば仙薬が完成して、それを飲めばお前は仙人になれたのに〜残念!」と突き放されるというオチのようです。芥川バージョンが、親の愛に報いる尊さに主眼を置いたオチなのに対し、オリジナルはあくまでクールに戒めを守り通すことを求めています。物語としては芥川バージョンのほうが情緒があって好きですが、中国はそもそも仙人伝説のルーツとなる老子や荘子を生み出した国であり、抱朴子という仙人になるための行法をこと細かに解説した古典もあるくらいのお国柄なので、仙人という存在は日本人が考えるよりもけっこうリアルなものがあるような気がします。そのために、芥川バージョンのような物語的なカタルシスよりも、仙道的なリアル感、つまり俗世の執着をとことん無くして個人的な感情やエゴを超越してこそ仙人となれる、みたいな部分を描きたかったのでしょうね。

諸星大二郎先生の「諸怪志異」シリーズは、抱朴子などの道教思想を背景にしたリアル感のある仙人がよく出てくるので面白いですね。「無面目」「太公望伝」「桃源記」なども仙人が登場する逸品で、印象深かったです。


220519_toshi.png獣に変えられた親の寓意について

杜子春の面白さは、仙人という超人を描いたファンタジー感や、峨眉山の怪異や地獄の様子などの異世界描写で、これらは話にグイグイ惹き込まれる要素ですが、後半に描かれる馬に変えられた親との交流が実にエモーショナルな感動を誘い、それによってとても印象深い作品になっています。畜生道に落ちた親ではありますが、地獄に堕ちるほどの心性であっても、それでも子を思う親の愛、というのが泣かせますよね。実際は、縁が深い人ほどこじれるとやっかいなもので、家族で関係がもつれるとけっこう苦しいものですが、杜子春の場合は、若い時分に両親を亡くしているので、親の良い面だけが印象深く記憶に残っているのでしょう。

「杜子春」を読んでいて彷彿とするのは、中沢新一氏の名著「虹の階梯」に書かれていた、チベット密教におけるディープな興味深い瞑想法です。いわく、人は皆何千という輪廻を繰り返して今現在人間として生を受けている。悟りに達していない全ての生き物は、地獄の住人、餓鬼、動物、人間など6つのタイプの生物として輪廻する。その中で人間だけが愚かさから脱して輪廻を抜け出て永遠の安息、悟りに至れる可能性をもっている。人間として生を受けているというだけで、宇宙的に奇跡的な恩寵なのである。今、自分が人間として生を受けているのは、遠い過去から人間としての生を受けれるまでに自分を育て導いてきてくれた者たちのおかげであり、それらすべてに感謝しなければならない。そうした真理を深く自覚することで心の覚醒に至ることができる、というのがこの瞑想の基本的な概念です。憐れみや慈しみの心を育てる瞑想として、中沢氏のグルであるチベットの高僧ケツン・サンポ・リンポチェが教えたとされる内容ですが、とても「杜子春」的なものを感じます。それは以下のようなものです。


憐れみの心の瞑想を次のようにして深めていくのがよい、とラマ(チベット僧のこと)たちは教え伝えてきた。犯罪人が死刑になる直前、あるいは屠殺人の斧が眉間に振り下ろされる直前の動物が、その時、どんな苦痛をおぼえるか、真剣に想像してみるのである。(略)あるいは死刑になろうとしているのが、年老いた自分の母親だったらどうだろう。水につけられ息がつまっていく時、母親の苦しみはいかばかりだろう。屠殺されようとしている動物も自分の母親である、あるいは前世で自分の母親であったものだ。悲しみをたたえて見開かれた目がこちらを見つめているではないか。(略)彼らはあなたと異なるところは何もないのだ。彼らの姿はあなた自身の姿なのだ、彼らはあなたの父や母であったものなのだ、という考えをここでも極限まで問いつめていくのである。

中沢新一、ケツン・サンポ・リンポチェ共著『虹の階梯 チベット密教の瞑想修行』平河出版社 1981年 p181〜182


まさに「杜子春」ですね。といいますか、「杜子春」はただの娯楽的なお話ではなく、深い真理が込められた物語だからこそ、無意識的なところで人々の魂に響くところがあり、それゆえに名作として残っているような気がします。昔テレビの何かの番組で中沢新一氏がこの部分の話をチラッとしていて、それが強く印象に残り、引用元のこの本を探した思い出があります。このチベット密教の瞑想は、このまま鬱々と憐憫の情を深めるだけで終わるのではなく、この後に、それらの生き物たちが幸福を得て、根源的なブッダの智慧によって救われていく至福をイメージした瞑想に移っていきます。愛、憐れみ、喜び、平等心の4つ(四無量心)を育てるのがこの瞑想の目的で、引用部分は生きとし生けるものへの憐れみを喚起する瞑想の部分です。

屠殺される動物はあなたの前世で親だった者かもしれないのだ、という視点は衝撃的でした。しかしよく考えてみれば、この宇宙は元々根源的にはビッグバンにより、あるひとつの物質が爆発して出来たものなのであれば、すべての物質、すべての生命は、過去を極限まで遡れば同一のものだったわけですから、すべては自分の分身であるという考えは、論理的な類推においても納得出来るような気がします。また物理的に考えても、人間も鳥も虫も鉱物も大気もそれを構成しているのは素粒子という名の積み木の組み合わせの違いだけです。アラン・ワッツのいうように、我々はこの世界を楽しむために本来みんながひとつの同じ命であることを意図的に忘れて遊んでいるだけの神様のかくれんぼ遊び≠ネのかもしれませんね。

posted by 八竹彗月 at 15:31| Comment(0) | 雑記

2022年04月23日

道すがら春スナップ

スマホで最近取った道すがらのスナップを並べました。3G廃止に伴いようやく3月からガラケーからスマホに機種換えしたのですが、それをきっかけに、目についた景色をメモ替わりに撮るのが楽しみになってきました。


外では待ち合わせの時くらいしか使ってなかったガラケー時代とは違い、さすが時代のスタンダード、スマホの便利さを今頃堪能しているところです。カメラはオリンパスのSP-590UZしか持ってなかったので、出がけによく持っていくのを忘れたり、忘れずに持っていくにしてもいつも持ち歩くバッグに入れるとかなりかさばるので、外の写真を撮る機会はそんなになかったのですが、スマホにカメラが付いているので気軽にスナップ写真を楽しめるようになり、毎日がちょっと楽しくなりました。以前は、よく見事な夕焼け空やたまたま迷いこんだ路地にユニークな昔の木造建築などを見つけても指をくわえてアテにならない脳みその印画紙に焼き付けるのみだったのですが、今後はそういうチャンスにも対応できるようになりそうです。

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スナップ写真だけでなく、音楽を聴いたり、ネットを楽しんだりと、パソコンを持ち歩いているような便利さがありますね。私はかなりの方向音痴なので、初めての場所に行くときはマップを印刷して持ち歩いてたのですが、スマホならその場でマップを参照でき、またGPSで現在地まで表示されるので格段に分りやすくなりました。

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連日の報道などではウィルスだとか戦争だとか、暗いニュースばかり流れるので、ともすれば現代は暗黒時代であるかのような錯覚をしがちなところもありますが、身近な等身大の日常の中にある面白さや幸福感を意識的に感じていきたいものです。

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すっかり花見の定番、ソメイヨシノは散ってしまいましたが、バトンタッチするように八重桜、ツツジと開花していき、まさに春のバトンリレーを見ているようで楽しい季節ですね。その後は藤や牡丹のシーズンで、しばらくは春の余韻が続きそうです。桜前線の終着駅、北海道ではそろそろソメイヨシノの開花時期のようですね。時間と懐に余裕があれば、南から北へ向かう桜前線を追いながら日本縦断という贅沢な旅など面白そうですね。

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気軽にスナップ写真を撮れるのは良いのですが、やはりカメラ機能はオマケ的な扱いなのか、あるいはまだ使い方に慣れていないからなのか、デジカメと比べると撮った写真はコントラストが甘く、モヤッとした感じの写真になるので、載せた写真はフォトショで補正してあります。


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ほとんど雑草の定番みたいなところもあるタンポポですが、春を知らせる先発選手みたいなところもあって、そこはかとなく風情を感じますね。

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デジカメで撮る写真ファイルには、画像データのほかにEXIFとかJFIFとかTIFFなど、さまざまな情報を記録したデータも自動的に埋め込まれるようになっていて、撮影日時、カメラの機種、露出やシャッター速度、カラープロファイルなどが記録されています。後から整理するのに便利なデータではあるのですが、撮影場所の位置情報などを記録するような機種もあり、個人情報保護の観点から、デジカメやスマホで撮った写真をネットにアップロードする時に気をつけましょうという話もよく聞くので、ちょっと慎重になってしまうところもありますね。まぁ、人気ミュージシャンとか、ベストセラー作家ならいざ知らず、そこまで過敏に考えることでなさそうですが、一応EXIFなどのデータを写真データから削除する方法を調べました。EXIF情報削除に関してはけっこういろいろ方法があるようですが、個人的にはアプリにドラッグするだけで詳細情報を削除してくれるImageOptimというアプリが簡単でよさげですね。ウィンドウズ、マック、リナックスなどの各OSに対応しているようです。今回の記事は、このアプリで詳細情報をファイルから削除したりしながら使い勝手を試すついでに、アプリを使用した写真で記事にしてみました。

メモ参考サイト
EXIFなどの個人情報を含む詳細データを画像ファイルから削除するPC用のフリーソフト。デジカメやスマホから画像のオリジナルデータをPCに持ってきて加工する場合に必要になります。ちなみにスマホで撮った写真をスマホから直接メールやSNSに投稿した場合は、自動でEXIF削除とweb用にサイズ調整をやってくれるようになってました。私が使っているのはタダで交換してもらった京セラのBASIO4です。さすが最近のスマホはちゃんとそのあたりは考慮されて作られてるんですね〜 デスクトップがMACなのでiPhoneにしようかと思ってたんですが、タダの誘惑でBASIO4に。しかし、思ってたより分りやすく使いやすい感じで今は気に入ってます。ストレージの拡張もマイクロSDカード(SDXC)で512GBまで可能だったので、せっかくだからMAXまで拡張しました。せっかくだから〜せっかくだから〜(せっかくだからのテーマ)京セラといえば、数ヶ月前から京セラ創業者にしてカリスマ実業家、稲森和夫氏の思想に感銘を受けていたところでしたので、これもシンクロニシティ的なものを勝手に感じています。ジョブズや松下幸之助、そして稲森さんといい、ずば抜けた起業家は自己啓発的というよりももっと宗教的な、人間としての根源を見つめてるような視座を感じる思想を持っていて惹かれるところがあります。誰もが欲しがるものや便利なものを提供することが商売の基本ですから、エゴ的に利益優先の考えの人よりも、世界を便利により良くしたいという公益を考えられる人のほうが結果的に成功しやすいのかもしれませんね。

ついでなので上記でふれた「せっかくだからのテーマ」を含む、変なゲーム「デスクリムゾン」の伝説のOPのリンクを貼っておきます。ニコ動で人気実況者のキリンさんがこの初代と続編の実況を昔されていて、これがまた傑作です。たまに無性に見たくなり、繰り返し視聴させてもらってます。

どんどん本題から離れていきますが、さらに「せっかくだからのテーマ」を作曲者の渡辺邦孝さんご本人が演奏している動画もとても良いのでご紹介します。伝説の○○ゲー「チーターマン」もそうですが、ゲーム自体はアレなのに音楽はけっこう素敵だったりというのはよくありますね。

ImageOptimのMACでの使用方法を解説しているサイト。


posted by 八竹彗月 at 11:25| Comment(0) | 雑記

2021年02月16日

夢の宇宙論・空想的な雑談

こたつでうつらうつらとしてたらいつの間にか眠りに入り、不思議な夢を見ました。夢の中の世界を散策するというビジュアルタイプのものではなく、夢の中で何かにひらめいたり、思考を深めていくような感じの夢で、夢の中ではすごい大発見をしたような気分でした。こういう夢の中の大発見というのは、目覚めて思いおこすと、しばしば実際には使い物にならないくだらないアイデアであることが多いものです。しかし今回の場合は、ちょっとそうでもなく、意外と何か本質を突いているような無いようなところがあり、全くの真理ではないにせよ、もしかしたら真理の一端に触れてそうな気もする不思議なアイデアだったので記事にすることにしました。とはいえ、所詮夢の話なので、気楽にSF小話程度に読んでいただけたら、と思います。



2021年2月15日午後9時頃に見た夢のメモより

夢の中で電車に乗っている。夕暮れ。窓の外の流れる景色を眺めている。線路沿いの看板や遠くに見える住宅街。薄暗い街並が次々にガラスの向こうに過ぎ去る。「夢の中の景色は、こんなリアルな感じじゃなくて、もっとぼんやりしたものなんだよな。現実の景色がこんなにリアルで、夢の中が現実よりもぼんやりした曖昧なものである理由は、夢の中までリアルだと、それが夢であるのか現実なのか境界が曖昧になってしまい、区別がつかなくなってしまうからだろう。」と、夢の中で思っている。夢の中でこういうことを考えている自分も、まさか自分が夢をみている最中だというのに気付いていないところが面白い。明晰夢(夢を見ていることを自覚している夢)とはまた違った変わったタイプの夢である。夢の中の自分は、むしろこっち(夢の中)のほうを現実だと思っているので、荘子の夢とちょっと似ている。

夢の中で見ている車窓からの景色は、現実と変わらないリアルな景色だったように思う。たしかに夢の中では、現実とまったく変わらない程度にリアルな景色であったように感じていたのはたしかであるが、覚醒した後の意識では夢の世界の情報がだいぶ省かれてしまうせいか、起きてから思い起こす夢の景色は、なんだかぼんやりしているようにも思える。しかし、夢の中でははっきり見えてたような意識があったので、おそらく夢を見ている最中は現実と寸分違わない光景を見てたのではなかろうか?そもそも記憶というのはそういうもので、実際に旅行などで目にしたリアルな景色さえ、いったん時間を置いて記憶として再生した場合は、ぼんやりした曖昧なものになるのだから、夢でもそれは同様なのかもしれない。

夢の中に場面を戻すと、私は依然電車に揺られながら窓の外を眺めている。夕暮れの街並みが窓の外で夕陽に照らされながら過ぎ去っていくのをぼんやり眺めている。そうしていると、ふとあることに気付いた。「世界には昼と夜がある。光と闇だ。そして、昼の世界でも、光に当たっていない面は暗い。暗い部分は色調、というか色域が明るい場所よりも当然狭い。これは何でか?科学的な解釈ではなく、もっと根源的な意味でだ。つまり、この宇宙の創造主にとって、それがどんな意味を持つのか、だ。」私は何か、この宇宙に横たわる底知れない謎が、今まさに解明されていくような、すばらしい予感をうっすらと感じている。「そうだ。この世界に光と闇が存在する理由。そして、光の世界にも必ず影をワンセットで存在させている理由。」物理的な意味で考えても意味は無い。物理というのは、すでに出来上がった世界の仕組みを説明する概念にすぎない。ここで考えるべきものは、その物理の法則以前の問題≠セ。なぜ、この世界の物理を創造主がそのようにしたか?ということだ。言っておくが、私は宗教の話をしたいわけじゃない。創造主と言ったのは、つまり宇宙が発生する以前に、この宇宙の設計図を描いた者、という意味だ。こう書くと、擬人化した神が図面を紙に描いているようなイメージを想起させてしまいかねないが、わかりやすく言えばそういうことなのだ。科学の目指すのも結局は神の解明、つまりこの世界がこのように存在している究極の理由≠ネのである。

・・・話が逸れたので、元に戻そう。この世界に光と闇が存在する理由(わけ)をズバリ言おう、それは、描写のコストを抑えるため≠ナある。この世界は常に、目に見えているように、肌で感じているように、観察者(つまり私たち)によって計算されて描画されている。観察者のいない光はただのエネルギーであり、実際に光って≠「るわけではない。光っているように見えるのは、そのエネルギーの一部の波長を光として認識する我々のセンサーによってであり、脳がそれを光として解釈しているわけだ。我々にとって光は、この宇宙に物体を存在させるための媒介だ。我々の発生以前にも物体自体はあったが、存在≠ヘしていなかった。我々は宇宙にとって、物体を認識することで存在のリアリティを強固にするのが仕事なのである。しかし、個人の認識可能な範囲であっても、その認知するすべてを把握していたら大変なので、物体が光に当たってない部分は影を創る事にしたのだ。また地球という規模では太陽光に当たっていない部分を夜にすることで、ここでも大幅に計算を省くことができる。

夢の中の電車に揺られている私は、そんな宇宙の仕組み≠ノ関する空想をしていた。


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電車に乗ってる夢ということで、往年のサウンドノベル『最終電車』っぽい感じの挿絵をつくってみました。『最終電車』は、異世界に運ばれていってしまうような最終電車の独特の情緒感が序盤中盤あたりうまく表現されていて、後半は超展開してしまうものの、雰囲気は出ていて面白かったです。



なんかヤバイ人の考えるトンデモ宇宙論みたいなうさん臭さを感じないでもありませんが、まぁ、夢の中というのはそもそもトンデモな世界なので、このくらいトンデモなほうが逆に夢らしい自由奔放さがあって面白いのではないでしょうか。理性の束縛から自由になった思考だからこそ、ときおり意外な収穫もあるのが夢の世界の面白さです。

ついでなので、夢の中で考えた奇妙な宇宙論の話をすこし考察していこうと思います。宇宙が現実に今のようになっている意図というのは検証しようのない領分ですから、夢の中で考えている理屈はまったく科学的ではないですが、どことなく「もしかしたら?」と思わせるアイデアでもあると思います。例えば、宇宙のほとんどの部分が闇である理由を考えてみますと、あまりに多くを光にさらすような宇宙では、(あくまで人間視点ですが)それらを存在させるための計算が膨大になりすぎるためとも考えられます。実際に我々がスパコンなどで宇宙をシミュレーションする場合と同じ理屈で、神が神コンピュータでこの宇宙をシミュレーションしていると仮定すると、似たような視点で解釈できると思います。

そういえば有名なホラーゲーム『サイレントヒル』では、発売当時はハードがPS1だったため、広いマップを頻繁に移動する時のCPUの描画処理の負担を軽減するために、街全体が霧に覆われているという革命的ともいえる秀逸なアイデアを用い、主人公の狭い視界(20〜30m四方くらい)より遠い景色は霧で真っ白にしてましたね。これによって、いちいち遠景を描画する必要がなくなり、かつ、視界が不明瞭であるためにホラー独特の怖さの演出にもなり、一石二鳥の天才的なアイデアだと感服したものでした。これもよく考えてみれば、そのシステムも含めてとても哲学的な示唆を感じます。つまり、この宇宙はサイレントヒルの街のように、真理へ到達するための道はどれも霧で曇っていて、どの道が近道なのか、あるいは遠回りなのか、またどの道が真理へたどり着けない袋小路になっているのか、などが解らないようになっている。というような。ヒットするゲームや映画などの娯楽には、真理をほのめかす要素が必ず含まれているものだと感じます。人間が面白いと感じるストーリーは古代から伝わる神話の構造に意図せず似てしまうという『神話の法則』の話もよく知られていますね。

夢の宇宙論の話にしても、サイレントヒルのシステムのように、この宇宙も、宇宙そのものを存続させるためのエネルギーなり、システム的な運用コストを抑えたりするようなはたらきがメタ的な部分であるのではないだろうか?というのが今回の夢で考えた仮説の主旨です。

つまりこの宇宙は、法則によって勝手に自動運転しているのでなく、そういう法則がそういうふうに運用されるのは、創造主が毎瞬そのように宇宙を維持するための念(のようなもの)を入れているからである可能性、また、物体などの存在しているもの≠ヘ、我々目線ではそれが存在しつづけるのは慣性というか惰性というか、ただそのままになっているだけのように見えますが、もし創造主が存在させるための念を常に発しているから、存在が許されて存在しつづけられているのだとしたら・・・。そういう可能性を考えると、存在しているものを存在させている間中、常に創造主側では労力が発生しているわけですから、労力をできるだけ軽減する仕組みが、この宇宙には同時に存在していてもおかしくはない、ということです。

夢の宇宙論の話に戻りますが、光の性質以外にも、この世界を神コンピュータが描画するために計算を楽にするような仕組みはいろいろあることに気付きます。例えば自然界の至る所に見られるこの世のフラクタル構造も、計算を楽にするための神のアイデアといえなくもありません。フラクタル幾何学を使えば任意の形状を無限に反復して増殖させることで、単純な図形からものすごく複雑な図形を生成することができます。フラクタル幾何学の概念を利用したCGでは、不定形の雲や岩や山などの地形を比較的簡単にリアルに再現することができます。(フラクタル幾何学の次元の概念も1.2次元だとか2.3次元など、線・1次元と面・2次元と立体・3次元の間にも無数の微妙な次元があって面白いですね)

また、この世界の物体を構成する元素もすべて原子と電子の組み合わせであり、超弦理論ではそれを構成するものも究極にはとても小さなヒモであるとされていますね。小さなヒモの振動の程度によって多様な素粒子を演じているだけで、根源的にはたったひとつの何かが怪人20面相のように、さまざまな仮面を付けて別々の粒子のように振る舞っているということで、これも実際に科学が行き着いた考えです。ビッグバン仮説も、そうした「この世界は根源的にはひとつであった」という、紀元前のインド哲学、ウパニシャッドでも描かれた世界観を科学的に解釈した説ともいえるように思えます。この世界は、シンプルな何かが、ある法則によって複雑な見た目を演じている、というのは、宗教家だけでなく、科学者でさえ抱いている直感でありましょう。

産業革命の時代には、世界を機械に例えた仮説が説得力をもって現われましたし、新しい発見や発明があるたびに我々はその宇宙観をアップデートしてきました。コンピュータが登場すると、世界をコンピュータに例えた仮説が様々に現われましたし、ホログラフィックの概念も宇宙論の仮説(『ホロン革命』アーサー・ケストラー著など)として引用されたりしました。こうした現代の技術革新と宇宙観のアナロジーは、たんなる思想的な流行というだけでなく、そこには時代の推進力によってアップデートされた一定の真理が含有されていると思っています。今回の「夜や影や闇は、情報量を省く宇宙の仕組みである」説も、コンピュータグラフィックの概念から類推されるSF的なアイデアですが、宇宙そのものが超コンピュータによって生成されたバーチャルイメージであるという仮説もあるくらいですから、もしかすると意外といい線いってる部分もちょっとあるかもしれませんね。そういうわけで、今回は夢の中で思いついた妙な宇宙論について記事にしてみました。
posted by 八竹彗月 at 07:37| Comment(2) | 雑記

2020年05月18日

【雑談】黄金郷通信 vol.4

興味の赴くままに書き溜めていた記事が増えてきたので、適度に切り上げてこのあたりでざっと推敲してアップしてみました。ステイホームな時期、お暇潰しにでもなれば幸いです。



el_icon.png『人面類似集』宮武外骨

宮武外骨といえば、歯に衣着せぬ過激な社会風刺により常に国に目をつけられ何度も投獄されたというエピソードのインパクトからか、昨今は明治時代の反骨のジャーナリストというイメージで語られることが多い印象がありますが、代表的な『滑稽新聞』など外骨の実際の出版物からは、そんな正義感に満ちた熱いジャーナリスト魂のようなものよりも、時代を超えた天才的なユーモアのセンスに圧倒されます。外骨はジャーナリストというより面白いことならなんでもまかせとけ!的な面白博士のような、ある種トリックスター的な神話化した存在感が自分の中ではあります。今回取り上げる『人面類似集』も、そんな外骨の奇書のひとつで、ユーモア精神と子供のような好奇心、それを出版物という形に整形して表現する天才的な編集力に感服します。

つげ義春ファンならピンとくると思いますが、この本はつげさんの短編『魚石』で言及されていて、私もソレで覚えていた本です。外骨のこともこのつげさんの漫画で初めて知りました。『魚石』もとても好きな短編です。この作品の中で、主人公はコレクションしていた大切な古書を、古書店を開業した友人に頼まれ「飾りとして」客寄せの非売品として貸すのですが、友人は約束を破って借りた本を客にほとんど売ってしまいます。当然ふたりの関係がぎくしゃくしていくのですが、ある日、その友人が謝罪替わりに「魚石」という珍しい石を主人公にプレゼントするというお話です。主人公が書架の飾り用に渡した古書の中に宮武外骨の『人面類似集』が出てくるのですが、「外骨」という奇抜な作家名、「人面類似集」という怪しすぎるタイトルのインパクトがすごくてずっと記憶の片隅に残っていました。

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つげ義春1979年の作品『魚石』のひとコマ。『つげ義春選集』小学館 1986年
大切なコレクションをそれほど親しくもない友人に台無しにされる切ないシーン、自分も古書好きなので主人公の気持ちが解りすぎて胸に迫るものがあります。この『魚石』という作品を描いたのがきっかけで水石に興味を持ったつげさんは後に代表作となる傑作『無能の人』を描くことになったそうです。そういう意味でも『魚石』はつげ作品の中でもけっこう重要な作品といえそうですね。そういえば、藤子不二雄「ブラック商会変奇郎」の第16話「夢の船旅」にもスネ夫系の友人に大切な手塚治虫の初期作品の絶版初版本コレクションをだまし取られる可哀想すぎるシーンがあったのを思い出します。「魚石」の主人公同様に、命の次に大事な手塚コレクションをユスり取られる満賀くんのシーンも切なすぎるシーンでしたね。


『人面類似集』、古書店や古書市で見かけたことも一度も無い奇書で、どんな本なのか気になっていました。古書市などでは外骨の本はとんでもないプレミアが付いてることが多いので、見つけても指をくわえて見てることしかできないと思いますが。しかし、ふと考えると、かなり昔の本なので、権利が消えている可能性があります。国会図書館のデジタルアーカイブとかにあるかもしれないと思い立って検索してみると、なんと、ありました!!

メモ参考サイト
宮武外骨『人面類似集』(「国立国会図書館デジタルコレクション」より)
ページごとにJPEGでも保存できますが、全ページPDFで一括でダウンロードもできます。PDFはきちんと目次も打ち込んであり、至れり尽くせりです。念願の『人面類似集』の全貌が分かって感動です!奥付の発行者名が「半狂堂主人 (宮武)外骨」とクレジットされています。本の隅々にまでサービス精神が行き渡ってるところが、親切心というより一種のギャグとしてやってそうな悪戯心を感じるのも外骨流という感じでしょうか。

PDFで全ページ一括ダウンロードしてざっと目を通しましたが、これは想像以上に面白い本ですね〜 タイトルの通り、中身は人面に類似した魚とか植物とか、はては人魚や人面瘡などの妖怪モノノケのたぐいまで取り上げて縦横無尽に解説していく珍本です。図版が多いのも魅力で、古書相場の高騰している昭和の子供向け妖怪図鑑のノリにも似たワクワクドキドキのB級図鑑な感じにシビレます。『滑稽新聞』などの社会風刺系だけでなく、こうした純粋に編集者としての超個性的な手腕も見事で、なみなみならぬ才能を感じますね。今後も外骨の代表的な雑誌『スコブル』や『ハート』のデジタル公開も期待したいところです。

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宮武外骨『人面類似集』表紙 昭和6年(「国立国会図書館デジタルコレクション」)

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宮武外骨『人面類似集』昭和6年(「国立国会図書館デジタルコレクション」)より
日本髪を結った人魚、インパクトのあるシュールなビジュアルですね〜


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宮武外骨『人面類似集』昭和6年(「国立国会図書館デジタルコレクション」)より
「笑う花」人面の花が咲く怪奇な盆栽の絵。笑いながら落花すると書いてありますが、ホラーですね〜 江戸時代、文化6年(1910年)に発行された本が出典のようです。怪しいうわさ話を集めた「耳袋」も江戸時代の本ですが、昔の日本人も都市伝説めいた怪しい話が大好きだったようで、人間の好奇心とか遊び心って時代を超えて変わらぬものなのでしょうね。




el_icon.png植物の心

奇麗に咲いた花に蜂の音を聴かせると花は自らの蜜を甘くしようとすることが分かった、というユニークな記事が目にとまり、読んでみました。なかなか興味深い話ですね。オカルト界隈では昔から「植物にも意識がある」というファンタジックな仮説があって、その仮説を証明するユニークな実験なども読んだ事があります。たしかに面白いのですが、この手の実験を書いた本がトンデモ本として扱われたりもしてたので、なんとなく眉唾の域を出ないものなのだろうな、と漠然と思っていました。いい機会なので少し検索してみると昨今では「植物には意識がある」と主張する学者もそれなりにいて、真剣に議論されているテーマでもあるようですね。

この蜂の音を聴かせると花は蜜を甘くするという実験はテルアビブ大学の研究チームによるものだそうで、コンピュータによって生成された蜜蜂の音の周波数(0.2〜0.5キロヘルツ)を花に聴かせると三分以内にもともと12〜17%だった蜜の糖度が20%まで増加したということです。これより高い周波数や低い周波数では反応しなかったようなので、明らかに蜂の音にピンポイントに反応しているみたいですね。多くの花が凹状のボウル型なのは、そうした「音」を聴きやすくするための集音機の役目があるのではないか、と記事では指摘しています。

この実験からは、植物にもやはり意識というか、心のようなものがあるのではないか?というロマンチックな空想がひろがりますね。醒めた解釈をすれば、進化の過程で獲得した生理的な反応という見方もできますが、では人間の心も、そういう意味では植物よりも多少複雑な生理的反応であるとも言おうとすれば言えますから、つまりは「心」とか「意識」というものをどう解釈するかの問題ともいえそうです。この場合も、花が蜂の音で蜜を甘くするという反応は、ある種の、原始的な「心」の有り様なのではないか、と考えてもよさそうに思えます。いや、まだ解明されてないだけで、もしかしたら、植物には想像以上に複雑な「心」をもっている可能性もあるかもしれません。人間の獲得した科学という知恵の領域内では、植物はあたかも動物より下等な構造で心など持ちようが無さそうに解釈されがちですが、植物は動物が発生するずっと以前から地球上に存在してきたわけなので、その長い種の歴史の中で、動物以上に進化した何かを獲得している可能性も十分あるのではないでしょうか。

以前に読んだ盆栽の本に面白い事が書いてあったのを思い出します。

草花や樹木を育ててゆく人の心は、朝な夕な一挙手一投足、植物に同化され、また植物の方も培養する人に同化して、まったく両者の呼吸がぴったり合ってこそはじめて完全に育て上げれるものであります。
このようにしてこそ、一枚の葉、一輪の花の貴さがわかり、愛らしさが増して、非常に意味深く感じられるものです。
水のかけ方、肥料のあたえ方も植物の要求を自然に了解することができてこそよく発育させることができ、その人自身の希望にそって仕立てあげることもできるようになるのです。

『盆栽の仕立て方』坂東澄夫著 金園社 1972年


盆栽の育成はかなりデリケートで、ある程度の園芸の知識と根気がないとうまく育てるのは難しく、難易度の高い趣味ですが、最終的には技術や知識だけでなく、植物の気持ちを察してあげれるくらいの「愛情」も重要なのでしょう。植物に「心」があると信じるかどうか、というよりも、「心」があるとひとまず仮定してつき合わない限り、植物も応えてくれないものなのかもしれません。

メモ参考サイト
花はハチの音が聞こえると、一時的に「蜜を甘くしよう」とがんばることが判明(「ナゾロジー」様より)

植物に「意識」はあるのか?(「Gigazine」様より)



el_icon.pngジョージ秋山「アシュラ」

2012年にアニメ映画として公開されたことで注目を集めることになった往年の問題作「アシュラ」。『週刊少年マガジン』掲載時には、物語の序盤からいきなりカニバリズム(人肉食)の描写が生々しく描かれたりなど当時はかなり物議をかもしたそうで、神奈川県では有害図書指定され未成年への販売を禁止するという社会問題へと発展したようです。そうした事情は後で知ったのですが、知らないまでも「アシュラ」というタイトルと、おどろおどろしい主人公の人相が恐ろしかったからなのか、とくに関心を持つ事なく時は過ぎていきました。

2012年にアニメ映画化されますが、どういう気持ちの変化か、あるいはうまく宣伝にのせられたからなのか、無性に見たくなって映画館で鑑賞した覚えがあります。予想通りにヘビーな内容ではありましたが、同時に深く考えさせられる部分も多く、たんに残虐描写を面白がるような作品ではなく、けっこう宗教的というか、ちゃんとした真っ当なメッセージが根底にある作品で、とても感銘を受けました。主人公アシュラは飢餓の極限の中を生きている役なので、声優の野沢雅子さんは声に命を吹き込むために仕事中は常に空腹状態を維持するようにしていたという裏話がありましたね。超ベテラン声優でも一切手を抜かないことに感動しましたが、逆に一作一作に全力で取り組んできたからこそ常にその声でファンを魅了し続けて来れたのでしょうね。ベテランといわれている声優さんは、長年の慣れやテクニックだけで声を当てているのではなく、意外と裏では新人顔負けの努力を常に惜しまずに取り組んでおられるのかもしれないなぁ、などと、プロの凄みを感じました。

原作は未読のままだったのですが、どうもネットで無料で全話読めるらしいという話を目にしたので、検索してみると、いくつかの漫画サイト(もちろん合法に運営されています)で無料公開されていました。広告収入を作者に還元する形で無料で読めるようになっているようです。映画では端折られたエピソードもけっこうあるので、さらに奥深い世界観を堪能できました。残酷な描写も多いですし、グロいシーンもてんこ盛りですが、食べるものが無いという極限状況の中で生きる人間たちの心の有り様を実に巧みに描いていて、いろいろな事を考えさせてくれる傑作です。

母恋しさを作中の紅一点キャラ、若狭(わかさ)に投影するアシュラですが、実の母は自分を殺して喰らおうとしたのも事実であり許しがたい、といった母へのアンビバレンツな感情に苦しみます。母の胸に飛び込んで思いっきり甘えたい!という本能の叫びと、自分を殺そうとした母親を許せるものか!という激しい葛藤、そうしたヘビーな問題が何度もアシュラを苦しめますが、そうした親に対する葛藤と愛憎のイメージはふと手塚治虫の「どろろ」の百鬼丸と重なります。悪鬼の生贄に生まれたばかりの百鬼丸を捧げる事で、見返りに天下を取ろうとした鬼畜な父親。百鬼丸は生まれた時からそのせいで身体のほとんどの部位を欠損しているという設定です。飢餓と殺戮が蔓延する暗黒時代を舞台にしているところも「アシュラ」を連想するところがありますね。どちらも同時代の作品ですし、「どろろ」や「アシュラ」ほどではないにしろ70年代前後の漫画は、けっこう重いテーマのものが多いイメージはありますね。同時期に後に「がきデカ」で日本中に知られることになる山上たつひこ氏も「光る風」という、近未来の日本における統制国家の陰謀を描いた異色の作品を描いていてましたね。調べてみると、「アシュラ」は週刊少年マガジンに1970〜1971年の連載、「どろろ」は週刊少年サンデーで1967〜1968年の連載ですから、「どろろ」のほうが先のようですね。さすが漫画の神様、先見の明といった感じでしょうか。

この時代はヒットした歌謡曲も「時には母のない子のように」(1969年 寺山修司作詞、カルメンマキ歌)など、重い感じの歌が流行ったりしていて、いろいろと濃い時代ですね。他に70年前後のアニメや漫画では「あしたのジョー(アニメは1970〜1971年放映)」とか「アパッチ野球軍(アニメは1971〜1972年放映)」とか面白い作品でしたが、そういえばこれらの作品も背景に貧困や差別などを赤裸々に描いていて、いかにも70年代っぽさのある作品でしたね。ウィキに70年代アニメの一覧がありましたが見てみると懐かしの名作ぞろいで感慨深いです。漠然と重い暗いという印象の70年代文化ですが、「天才バカボン」とか「ど根性ガエル」とか陽気な作品もヒットしてますし、暗い時代というのも多分に先入観のある見方なのかもしれません。

以下に「アシュラ」の無料公開サイトのリンクを貼っておきますが、他にもジョージ秋山の問題作「銭ゲバ」も全話無料公開されていて、こちらもすごかったです。お金しか信じない通称「銭ゲバ」と呼ばれる主人公の波乱の人生を描いた怪作で、この作品も人間存在の闇を描く事で読者に人生のあり方について考えさせられる内容です。あいかわらずヘビーな内容ですが、ミステリー仕立てなので、案外読みやすいですね。とはいえ、人間の暗部を正面から直球で描いている超ヘビーな物語なので、直感的に「読みたい!」という気にならない人は無理して読まないほうがよさそうです。

メモ参考サイト
ジョージ秋山「アシュラ」全巻無料 (漫画サイト『タチヨミ』様)

ジョージ秋山「アシュラ」全巻無料 (漫画サイト『スキマ』様)

(過去記事)「映画『アシュラ』を鑑賞」
以前映画館で『アシュラ』を鑑賞した時の感想です。

日本のテレビアニメ作品一覧 (1970年代)(ウィキペディア)



el_icon.pngスティーブ・ジョブズ「最後の言葉」について

スティーブ・ジョブズ(1955-2011)、アップル社創業者としてだけでなく、ある意味世界を変えたカリスマとして、死後10年足らずでもはや神格化された感もある人物ですね。禅やヨガなどに傾倒していた事でも知られ、自身のipadに唯一入れていた本がパラマハンサ・ヨガナンダの主著『あるヨギの自叙伝』であったというエピソードもあり、単に利益を追求するだけの経営者としてではなく、より良く人生を生きようと苦闘してきた一人の人間としての一面に惹かれるものがあります。私自身、はじめて触れたコンピュータがマッキントッシュで、いまだにパソコンはマック以外は使ったことがないので、思い入れというよりは、長い付き合いの友人みたいな感じで、その生みの親であるジョブズについても、なんとなく気になる人物でありました。スマートで男前で天才的な実業家、黒のタートルネックとジーンズという定番のファッションも、ミニマル的というか禅な感じというか、自身の思想を見える形で具体化したようにも見えます。傍目には典型的な成功者ですが、複雑な生い立ちを持った人で、人並み以上の苦労をしてきた人でもあったようですね。

その思想や奇行などのエピソードはユニークなものが多く、知れば知るたび興味深い人だなぁと感心します。中でも、あの名言「ハングリーであれ!愚か者であれ!(Stay hungry, Stay foolish)」で印象的な2005年の米スタンフォード大学での卒業式におけるスピーチは、胸に突き刺さります。この名言自体はジョブズのオリジナルではなく、ジョブズが若い頃に愛読していたヒッピー向けのアングラ雑誌『ホール・アース・カタログ』の最終号に掲げられた言葉で、スピーチの締めくくりにそれを引用したのですが、今ではもはやジョブズの名言という感じで、彼の思想を上手く一言で現している上手い言葉だと思います。スピーチ自体も改めて聴いてみても、最初から最後まで人生の重要な秘密を凝縮して話していてすごいですね。「他人の意見によって自分の内なる声をかき消してしまわぬように。あなたの心、直感に従う勇気を持ちなさい」というくだりもぐっときます。話の内容は一言で言えば、誰しも自分の人生は自分が主役だということで、自分の人生の主役たれ!という生き方を会場の卒業生に向けて奨めています。客観的視点を知るためには他人の意見を聞く謙虚さももちろん大事ですが、人生を左右する問題は結局は自分自身で答えを出すしかない、ということなのでしょう。人生には目に見えない起承転結があり、今やっていることが今だけしか意味の無い「点」にしか見えなくても、それはいずれ未来に起きる重要な転換期に役に立ったりするかもしれない。それによって「点」と「点」は繋がり「線」になっていく。だから、今心が求めている事をないがしろにするなよ、というようなショーペンハウエル的な考えにも人生の真理のようなものを感じますね。

メモ参考サイト
スティーブ・ジョブス スタンフォード大学卒業式辞 日本語字幕版(YouTubeより)
濃密な内容で、最初から最後まで面白く、学ぶところの多い素晴らしいスピーチですね〜 どこかアラン・ワッツにも通じるような、前向きでスピリチュアリティのある人生訓に感銘を受けました。

スピーチでは、一年前に診断された膵臓癌に冒されていることを告白しながらも、手術も成功して未来の希望を語っていましたが、この3年後には癌の転移が見つかり年々病状は深刻なものになっていったようです。一説には東洋文化に傾倒していたジョブズは、西洋医学に不信感をもっており、菜食、鍼治療などの民間療法で完治をはかろうとしていたことが適切な治療を遅らし病状を悪化させてしまったともいわれてますね。そして世界を変えた男、スティーブ・ジョブズは2011年10月5日に膵臓腫瘍の転移が原因で56歳の若さで永眠します。

死後も自伝が世界的ベストセラーになったり映画が作られたりと、その大きな喪失感を埋めるかのごとくジョブズにまつわるたくさんの思い出が語られていきましたが、ある日「スティーブ・ジョブズの最後の言葉( Last Words Spoken by Steve Jobs )」と題される興味深い文章が2015年あたりにSNSでシェアされ、瞬く間に世界各国で翻訳され、日本でも動画サイトや自己啓発やスピリチュアル系のブログなどで和訳が掲載されました。私は最近この話を知ったのですが、なかなかに含蓄のある「ジョブズの最後の言葉」に感銘をうけたりしました。その内容は「私はビジネスの世界で世界の頂点に達した。他人には私の人生は成功者の典型に思えるかもしれない。しかし仕事以外では喜びの少ない人生だった」といった、人生を悔恨するような語りからはじまる話ですが、スタンフォード大のスピーチにみられるような、人生の希望やアドバイスのようなことも語っています。

しかし、ちょっと気になるところがある「最後の言葉」でもあります。「最後の言葉」では、ジョブズは自分の人生を、富を追いかけて大事なもの(夢や愛など)をおろそかにしてしまった、と後悔している内容なのですが、ジョブズの成功への原動力はスタンフォード大でのスピーチで語っているように、富よりは創造する快楽であるような印象がありましたし、ジョブズにとって仕事そのものが創造行為であり、仕事を深く愛していた人ですから、「富を追いかけるのに夢中で本当に大事なものを置き忘れてしまった人生」というニュアンスの言葉を発するというのは違和感を感じなくもありません。この世ではお金はあればあるほど生活は便利に快適になっていきますし、善行をするにもたくさんのお金があるほど多くの人を助けることもできるわけで、全く富に執着しないことがスピリチュアルな生き方だとは思いません。富は富自体を目的として追いかけるものではなく、人生の至福を追求していくうちに結果的についてくるものであると考えるほうが、なんとなくジョブズらしいイメージがあります。

「最後の言葉」の話の総体としては、ジョブズは自分の人生を失敗だったと後悔していて、私のような富の追求は人間を歪ませるから、生きるのに十分なお金を稼いだらもうビジネスに執着し過ぎるのは止めて、芸術とか人との関係とか若い頃からの夢など、富以外の心の豊かさ、つまり「体験」を求めた方が良い。といった事を主張しています。お金は死後にまで持っていけるものじゃない。持っていけるのは愛に満ちた思い出だけだ。物質的なものは無くしてもまたいつでも見つける事が出来るが、人生は一度無くしたら二度と見つける事はできない。命はひとつしかないからだ。と。たしかに、うなづける部分が多い、というか、話自体はすべてその通りといった感じですが、ただ一点、これがジョブズの言葉かというとおかしい点が多いのも事実です。東洋医学に傾倒しすぎて死期を早めてしまったほどスピリチュアリティが染み付いたジョブズが、そんなに富に執着していたとは思えないところがありますし、スタンフォード大のスピーチでは自分の人生を後悔どころかポジティブに肯定しています。失敗も多かったが、その失敗から多くを学んだんだ、ということを言ってたジョブズが、最期になって急に自己否定にはしるというのはしっくりきません。

ということで、念のために「最後の言葉」が本物なのかどうかちょっと検索して調べてみました。まぁ、晩年に考えが変わることもありえない話ではないですが、ちょっと真相が知りたくなる話ではあります。結論からいうと、案の定、あの「最後の言葉」はジョブズのものだとする証拠は全く無いようで、また言葉の内容からもフェイクである可能性が大きいようです。

和訳が載っているサイトを含め、英語圏のサイトでも、あの言葉の出典が明確に書かれているページは見つかりませんでした。おさわがせな感じではありますが、まぁ、話の内容は良い事言っているので微妙な気分になりますね。「最後の言葉」を考えた人、普通に自分の言葉として発するよりジョブズの言葉として発信したほうが拡散力がありますから、ちょっと魔が差したのでしょうか。私もいろいろと過ちの多い人間なので、他者の不注意にあれこれ言えたものではないですし、人間心理としては理解できなくもないです。承認欲求は誰しもありますし、それが手軽に満たせるゆえにSNSがものすごいたくさんのひとに利用されてるわけですからね。とはいえ、UFO搭乗記とかUMA発見のようなフェイクは安心して楽しめる所がありますが、実在の人物を騙るのは事と次第によっては関係者に迷惑がかかることもありますし、後々リスキーな事になりそうなので自分自身のためにも慎んだ方が賢明でしょうね。

難しいのは、世の中意図せず他人に迷惑をかけてしまうことはもう必然的にあるもので、この「最後の言葉」も、作者が意図的に拡散したとも限らず、もしかしたら何かの文芸関係のサークルなどの少数の仲間内で閲覧するだけの掲示板みたいな所になにげなく投稿したなりきり系≠フ文章を、閲覧者の誰かが気に入って外部に拡散してしまった、というような可能性もなきにしもあらずということです。最初から誰にも悪意はないのに結果的に大事(おおごと)になってしまうパターンというのも世の中よくあるものなので、事実関係が明確でないものは出来るだけ寛容でありたいと自戒を込めて思います。

「最後の言葉」は、ジョブズが病院のベッドで人工呼吸器に繋がれた状態で語っている(書いている?)ような内容なのですが、実際は、ジョブズが亡くなったのは自宅で家族に看取られた中ですし、人工呼吸器もつけていなかったようです。こうした状況証拠からも件の文章はフェイクでほぼ確定でしょう。動画サイトで、「最後の言葉」をジョブズ本人ぽい口調で英語で話している動画もありますが、生命維持装置に繋がれて発話するのは不可能なので声真似でしょう。実際に遺された意識が無くなる直前の最後の言葉は家族や親族も聴いていて、それは「Oh wow、oh wow、oh wow」という声だったようで、何か意味のある言葉ではなかったそうです。

このwowがどういうニュアンスで発せられたかはわかりませんが、ルーベンスの絵画のような、たくさんの天使がまばゆい光の中で迎えに来ているような情景を見て感嘆していたのかもしれませんね。仕事には頑固で敵も多かった人なので、対人関係などは後悔もあったでしょうが、努力も人一倍した人ですし、世界中の人々の生活スタイルを変えて便利な世の中にしたりと大きな結果も残したわけで、この世を去る間際には「私は自分に出来うる最良の人生を歩んだ」という自負は確実にあったのではないかと想像します。そういえばジョブズの訃報が世界中を駆け巡っていた頃、SNSで実にうまいことを言う人がいましたね。

「世界を変えた3つのリンゴがある。ひとつはアダムのリンゴ。もうひとつはニュートンのリンゴ。三つめがジョブズの齧られたリンゴだ」


メモ参考サイト
スティーブ・ジョブズの実際の最後の言葉は「Oh,Wow」(ウィキペディアより)

「スティーブ・ジョブズ最後の言葉」への疑問 長坂尚登様(言論プラットフォーム「アゴラ」より)

スティーブ・ジョブズの最後の言葉の裏にある噂と真実(「リーダーズ・ダイジェスト」の英文記事)
世界最大の定期刊行雑誌「リーダーズ・ダイジェスト」のサイトでもこの話題が取り上げられていました。予想以上に大事(おおごと)に発展してるようですね。件の「最後の言葉」はよくできているが出典が不明で、ジョブズの家族やアップル社も認めていない。その引用の全ては非公式のSNSアカウントやブログのみでまともな根拠のあるソースが存在しない、といった内容が記事には書かれています。

全地球カタログ(ウィキペディア)
ジョブズのスタンフォード大でのスピーチを締めくくる名言「ハングリーであれ。愚かであれ」は、1970年代前後にアメリカで発刊されていたヒッピー向けの雑誌『全地球カタログ(ホール・アース・カタログ)』の最終号の裏表紙に掲げられた言葉であると本人もスピーチの中で言っていますが、今ではもうジョブズの名言という感じで定着してますね。
posted by 八竹彗月 at 08:58| Comment(2) | 雑記

2019年08月02日

【雑談】黄金郷通信 vol.3

更新のモチベーションを上げるために雑誌風なイメージで雑多なコラム集的なシリーズとしてはじめたものの、このシリーズ自体の更新も間が空いてしまいました。vol.1を書いてからもう1年経つにもかかわらずまだ2回しか続いてないというのもあり、そろそろ続きを書こうということで、とりあえず最近よく思うところのあった話題を中心にまとめてみました。



el_icon.png「一杯のかけそば」と「ヨイトマケの唄」

バブル時代といわれた1980年代頃は日本中が好景気で浮かれていたような感じでしたが、その反面、ロス疑惑や豊田商事などの殺伐とした事件やら、デザイナーズブランドのファッションのブームやら三高(理想の結婚相手の条件。高身長・高学歴・高収入のこと)などが流行語になったりなど、なにかと拝金主義というか物質至上主義のような所があった時代でもあったと思います。ドラマでは『男女7人夏物語』など「トレンディ・ドラマ」と呼ばれるバブル時代のライフスタイルを根底とした理想のお洒落な恋愛を描いたドラマが続々と作られて消費されていましたが、そういう時代だからこそなのか、多くの人が素朴な人情話に飢えはじめてきたちょうどいいタイミングで爆発的に流行ったショートストーリーがありました。「誰もが必ず涙する感動話」というふれこみで日本中を席巻し、未見ですが映画まで作られたのだとか。これはご存知『一杯のかけそば』という物語で、原作者は栗良平という作家さんのようです。最初は作者本人の体験に基づく実話かと思われていましたが、実際はフィクションであり、タモリさんらによるアンチの言論や、また作者が後に詐欺行為を繰り返していたことが発覚したりなどで急速に『一杯のかけそば』ブームも下火になったようです。

しかしながら、その話は感動話の定石のようなよく出来た物語で、たしかに重箱の隅を突こうと思えば突けはしますが、普通にグッとくるお話ではあります。流行しすぎたせいで、いつしか「感動の押し売りみたいで不愉快」みたいな、理不尽なバッシングもあったそうですが、これもブームの終焉にありがちなパターンですね。「不愉快」に思う人も、多分このお話自体が不愉快なのではなく、流行しているせいでいつもこの話の話題が耳に入り、まるで自分が説教されているような気分になってしまったことへの反発みたいなものなのでしょう。つまり、ブームそれ自体に対する不満ということかもしれません。

ググれば物語の概要を紹介しているサイトはいくつかヒットするので、ここでは省略しますが、簡単に説明すれば2012年の紅白歌合戦でも話題になった美輪明宏のヒット曲『ヨイトマケの唄』とよく似た話です。細部の設定は異なりますが、極貧の家庭で育った少年が、その境遇を恨むことなく、貧しい中でも精一杯愛情を注いでくれた親に感謝し、世間の偏見に負けずに立派な社会人に成長するという骨子は通底するところがあります。『一杯のかけそば』は1989年の作、『ヨイトマケの唄』は1966年の作ですから、美輪さんの唄の方が23年も先に作っていたことになりますね。私の場合は、先に知ったのが『一杯のかけそば』の方だったので、後で『ヨイトマケの唄』を知ったときは「『一杯のかけそば』によく似てる」という印象を持ちました。とはいえ、やはり『ヨイトマケの唄』は、母親の苦労とか世間の偏見に堪える描写が具体的に描かれている分、ビジュアルが想像しやすいドラマになっていて、そのあたりはさすがリアルに波瀾万丈の人生を歩んで来た美輪さんらしい才能を感じるところですね。

こうした物語、つまり「貧乏暮らし」「親子愛」「偏見との戦い」を経て、ラストに立派に育った晴れ姿を描いてカタルシスを与える物語というのは、筋書きが読めていてもついつい涙腺が刺激されてしますね。ある意味、ベタな展開なのですが、むしろ変に難しく作り込まずに、このくらいベタな方がストレートに感動を表現できるもののようにも思えます。もっと端的に言えば、「逆境にめげずに正しくたくましく成長していく理想の人間の姿」という構造は面白い物語には必ずといっていいほど見られるパターンで、それは、ヒーローを描いた物語とも言えそうです。いわゆる神話学でいうところの「英雄神話」の類型を感じさせるものがありますね。古来から英雄はいつの世でも人間の永遠の憧れであり、また人生の目標でもあります。悪人と戦って勝利するだけがヒーローなのではなく、自分の運命、逆境に打ち勝つことこそが根本的なヒーローの条件にも思えます。ゆえに、これからどんな世の中になっていくにせよ、そうしたヒーローを描く物語は人が人である限りいつまでも求められるテーマであるように思います。

そういえば、数年前にネットで話題になったタイの通信会社のCMも、そういう感じの話で良かったですね。ご存知の方も多いと思いますが、貧しい家の子が病気の母親を救いたい一心で薬局から薬を万引きし、店から逃げ出した所を店主に捉えられるシーンから始まる三分のCMです。たった三分であるにもかかわらず長編映画にも負けないくらいの巧みな演出とストーリーに感動します。このCMでは、貧しい生まれの子が、ただ立派に成長したというだけでなく、幼い頃に受けた恩を返すという粋なオチを付けているところがまた秀逸です。とてもドラマチックですが、実はこの話はアメリカで実際にあった実話を元にしているのだとか。今でも世界のどこかで誰かを救っているそんなヒーローたちがリアルにいるのだと思いますし、そう考えているだけで心が暖かくなってきますね。

メモ関連サイト
『一杯のかけそば』全文(PDF) (「緑井レディースクリニック」様のサイトより)

『ヨイトマケの歌』(YouTube検索結果より)

数年前にネットで話題になった件のタイのCMに関する記事(「カラパイア」様より)

【日本語字幕】世界中が涙したタイの感動CM(YouTubeより)




el_icon.png驚異の折り鶴

折り鶴だけに特化したマニアックな折り紙の本『折り鶴』(長谷川正勝著 昭和49年発行 グラフ社)という本を古書市で見つけました。どれも折り鶴のバリエーションのみで構成されているのですが、それゆえに創意工夫による数々のバリエーションの妙味が味わえて、ページをめくる快感を覚えるなかなかの一冊でした。この本は江戸時代後期の『秘伝千羽鶴折形(ひでんせんばづるおりかた)』に掲載されたものをアレンジした作品集で、折り鶴の奥深さに感嘆させられます。

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五羽の鶴 『折り鶴』(長谷川正勝著 昭和49年発行 グラフ社)より

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十羽の鶴 『折り鶴』(長谷川正勝著 昭和49年発行 グラフ社)より

これら驚異の折り鶴、どれも1枚の紙を折って作られていて、いろいろと面白い折り鶴を次々に紹介しています。もちろん、折り方の解説もついていますので、根気が有れば実際に作ることも可能になっています。気分がノったらいつかチャレンジしたいですね。

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八羽の鶴 『折り鶴』(長谷川正勝著 昭和49年発行 グラフ社)より

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九十七羽の鶴(原題「百鶴」ひゃっかく) 『折り鶴』(長谷川正勝著 昭和49年発行 グラフ社)より

中でも97羽の鶴を折った「百鶴(ひゃっかく)」という作品が圧巻ですね。普通に百羽近く折るだけでも大変そうなのに、それぞれの鶴が繋がった状態で折っていくのは何かの苦行めいていますが、それゆえに完成の歓びも大きそうですね。これを作れたら、いつも気の遠くなるような過酷で地味な作業をさせられることで印象的だった『FNS地球特捜隊ダイバスター』のAD小田君の気持ちが理解できそうです。

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『秘伝千羽鶴折形(ひでんせんばづるおりかた)』より。この本は1797年(寛政9年)京都の吉野屋為八によって初版が発行されました。折り鶴49種を集めた書で、現存する世界で最も古い遊戯折り紙の本だそうです。

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同上『秘伝千羽鶴折形』より、五羽の鶴(葭原雀 よしわらすずめ)のページ。

メモ関連サイト
『秘伝千羽鶴折形』の原書を公開されているページ(「折紙探偵団」様より)
江戸時代の折り紙教本『秘伝千羽鶴折形』の現物の一部(全62ページ中17ページ分)を公開されています。全ページ公開予定のようなので更新が待ち遠しいですね。

『秘伝千羽鶴折形』に収録されている折り鶴の完成作品を展示しているサイト(「紙との会話」様より)
こうして様々な折り鶴のバリエーションが並んでいると壮観ですね。ラーメンズのコント『日本の形』を彷彿とする感じですね。『日本の形』ではそのまんま折り紙がテーマの回がありますが、『秘伝千羽鶴折形』の折り鶴バリエーションを見てると、むしろ「箸」がテーマの回のアクロバティックな割り箸アートに通じる面白みがありますね。

ラーメンズ『日本の形』「箸」(YouTube検索結果)
『日本の形(THE JAPANESE TRADITION)』のコントの中で「箸」が個人的に一番好きです。この作品はDVDが出てるので、そのうち手に入れて高画質であのアクロバティックな箸や折り紙をじっくり鑑賞したいですね。



el_icon.pngクロウリーと日本

アレイスター・クロウリーといえば、20世紀を代表する魔術師ですが、ある人は「世界で最も邪悪な人物」だと言い、またある人は「世界で最も偉大な魔術師」であると言ったりと、極端に賛否の別れる怪人で、つかみどころがない人でありますね。ムッソリーニでさえクロウリーの存在を恐れて国外追放処分にした、というエピソードは有名ですが、変態エロ親父でなおかつ麻薬常用者でもあったりと、悪名高いところはあるものの、ヘビーメタルやロックなどのポピュラー音楽のアーティストには崇拝者も多く、良くも悪くもけっこうな影響を与えてますし、児童文学のミヒャエル・エンデの作品『はてしない物語』など何かと現代文化に与えた影響を垣間みる機会は多く、深入りしたくなくてもしばしば目に入る神秘家のひとりであります。クロウリーは、整理されていなかった諸々のいにしえの魔術を再構築して実践的な体系を造り上げたりなどオカルト界での貢献は大きく、その思想はなかなかに奥深く興味深いところがあるので、一概に避けて通れないところもあります。が、そのあたりの話は今は置いとくとして、今回はその20世紀が生んだ怪人クロウリーと日本との接点をテーマにちょっと語ってみようと思います。

明治34年6月29日の朝、クロウリーは、観光名所でも有名な神奈川県鎌倉の長谷(はせ)の高徳院浄泉寺にあるいわゆる「鎌倉大仏」を見物していたそうです。外国人観光客のド定番な観光地にいるクロウリー、というミスマッチがなんとも微笑ましいものを感じますね。しかしこの大仏の圧倒的な存在感にはかなりの感銘を受けたようです。クロウリーは案内人に「近くの僧堂に住み込んで修行したい」とも伝えたようで、けっこう本気で感動していたとのこと。そうしたことから仏教自体にも興味をもったみたいですね。日本滞在期間は短いものだったそうですが、鎌倉の他には江ノ島、日光、長崎、それと吉原にも足を伸ばした形跡があるようです。そこはやはり「汝の欲する所を為せ」といった彼らしく、やはりエロに対する探究心はどこに行っても正直に発揮してしまうのでしょうね。セックスのパワーを利用した性魔術の開拓でも知られるクロウリーですが、吉原探訪はオカルト研究の探求心からなのか、単なるエロ的なものからだったのか気になる所です。

性魔術というと、字面からして怪し気で、けっこうヤバそうな雰囲気満点ですが、まぁ、エロとオカルティズムの結びつきというのは、そう突飛なものでもなく、性的なパワーを上手く利用して解脱を目指す修行法というのはタントラ・ヨガや仙道の房中術などかなり昔から実践されてきたところもあるので、意外と効果がありそうな気もしますね。ドラッグを利用した行法よりはまだ健全かもしれません。仙道などでは、性行為や自慰などで無闇に精液を浪費することを戒めていますが、現代でもネットでしばしばオナ禁による開運法がまことしやかにささやかれているのと同じで、やはり性には尋常ならざるパワーが秘められているのはたしかだろうと思います。

閑話休題、クロウリーは相当な偏屈な人物であったのは確かなようで、意図的に悪魔的な振る舞いを楽しんでいたフシもあり、それは幼い頃にキリスト教系の厳しい学校でひどいイジメにあっていたことがトラウマとなってアンチキリスト教的なベクトルとして魔術に関心をもっていったのではないかともいわれてますね。そんなクロウリーですが、自伝『アレイスター・クロウリーの告白 (The Confessions of Aleister Crowley)』(本邦未訳)の中で日本について語ったとされる言葉が意味深でなかなかに興味深いものを感じます。

私は、比較的にいって、日本をほとんど見ていない。私は日本人をまったく理解しなかったから、したがってあまり好きではない。日本人の貴族性が、どういうわけか私のそれとそぐわないのだ。日本人のもつ民族的傲慢には腹が立つ。私は日本人を中国人と非好意的に比較してみた。ちょうどイギリス人のように、日本人も絶縁的特質と欠点を有している。日本人はアジア人ではないのだ。まさに我々イギリス人がヨーロッパ人ではないように・・・

────────アレイスター・クロウリー


彼は「日本人はアジア人ではない」と言及していますが、これなど後の世に米国の国際政治学者サミュエル・ハンティントンが著作『文明の衝突』(1998年)で日本文明について言及していた説(世界を8つの文明に分け、日本を単一の文明圏とみなした)を連想しますね。自らを黙示録の獣と称したりなど、スピリチュアル的にはヤバヤバなオーラを発散している怪人なので、あまり近づきすぎるのは危険ではありますが、このクロウリーによる日本人評、けなしているようでいて逆説的に最大の賛辞のようでもあり、こうしたツンデレ具合がまた憎めないところでもあるんですよね。

※この記事を書くにあたって雑誌『トワイライト・ゾーン』(1987年3月号 KKワールドフォトプレス刊)のクロウリー特集の中の記事「奇人クロウリー・エピソード大全」(長尾豊・文)を参照しました。



el_icon.png「私は自殺する人間がきらいである」三島由紀夫

一般に三島由紀夫といえば、陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地内での演説の後に割腹自殺という壮絶な最期を遂げたことで、その文学に対するイメージ以上のインパクトを社会に与えたように感じます。三島と同じく、芥川龍之介にしろ太宰治にしろ川端康成にしろ昭和の有名な文豪がこうも次々に自決による最期を遂げているのは、何か因縁めいたものを感じざるを得ないですね。そうした例をみていると、知性は人を幸せにするとは限らないものだ、という想いが過ります。先日古書店でなにげなく手にした三島の本のなかに、三島自身が自殺について思う所を述べたエッセイがあり、ちょっと興味深かったので買って読んでみました。

そのエッセイは1954年12月に発表された『芥川龍之介について』という小論です。「私は弱いものがきらいである」ではじまるそのエッセイの中で、三島は自殺についてこう述べています。

私は自殺する人間がきらいである。自殺にも一種の勇気を要するし、私自身も自殺を考えた経験があり、自殺を敢行しなかったのは単に私の怯懦(きょうだ=臆病で気の弱い事)からだと思っているが、自殺する文学者というものを、どうも尊敬できない。武士には武士の徳目があって、切腹やその他の自決は、かれらの道徳律の内部にあっては、作戦や突撃や一騎打ちと同一線上にある行為の一種にすぎない。だから私は武士の自殺というものはみとめる。しかし文学者の自殺はみとめない。

──────三島由紀夫『芥川龍之介について』より抜粋

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「芥川龍之介について」 『三島由紀夫選集・15 鍵のかかる部屋』に収録 新潮社 昭和34年


エッセイのテーマは芥川龍之介の自殺に関する内容ですが、後世の私たちからすると、実に興味深い内容になっています。芥川龍之介は遺書の手紙に自殺の理由を「僕の将来に対する唯ぼんやりした不安」と記したそうです。天才作家らしいというか、なんとも曖昧で理解しがたい面はあるものの、実際にリアルに苦しんでいる人の苦しみの理由というのは、本質的にそういった、自分でも説明しがたい漠然とした、それでいて自然災害のようにリアルに襲いかかってくる恐怖なのかもしれません。三島がボディビルをはじめるのはこのエッセイが書かれた次の年、1955年(昭和30年)からですが、すでに文章からはマッチョ的というか、「強さへの憧れ」を感じますね。

三島は芥川の文学を後世に立派に残る日本文学≠ナあると高く評価しながらも、「芥川は自殺が好きだったから、自殺したのだ。私がそういう生き方をきらいであっても、何も人の生き方にとがめ立てする権利はない。」といささか投げやり気味に突き放しています。後に自らが嫌った「文学者の自殺」の系列に自分も加わる事になるわけですが、歴史の時系列を俯瞰して見れる立場の現代の私たちからすると、なんだか皮肉なものを感じてしまいます。しかし、よく読むと武士による切腹などの自殺は認める、とも書いています。三島の自決は、文学者として自殺したのではなく、まさしく武士としての最期だったのかもしれませんね。なにかこの辺りも因縁めいていて、複雑な気分になります。

自殺を嫌悪していた三島も、「死」それ自体には、ある種の美意識を持っていましたが、そういえば三島の友人でもあった澁澤龍彦の雑誌『血と薔薇』にも篠山紀信撮影による三島のヌード写真がありましたね。それは『聖セバスチャンの殉教』と題して、無数の矢に射られて殉教する聖セバスチャンの姿を描いたグイド・レーニ(Guido Reni、1575 − 1642)の絵画作品を三島の裸体に置き換えた写真で、死とエロスの緊張感ある拮抗を見事に表現しています。聖セバスチャンの殉教は三島も自身の小説で言及したこともあるお気に入りのモチーフだったようですね。

実際は聖セバスチャンは絵画に描かれているように、矢に射られて死んだわけではなく、無数の矢に射られても九死に一生を得たそうで、瀕死のセバスチャンをイレーネという女性が助けて介抱したようです。このあたりブッダを助けたスジャータの逸話を連想しますね。セバスチャンが亡くなったのは、その後キリスト教徒であることがバレて時の皇帝の怒りを買い、何度も殴打されたことが死因とのことです。当時のローマではローマの神々への信仰が主体だったようで、そうした社会におけるセバスチャンの存在は人々を迷わす邪悪な異教徒であるという認識だったのでしょうね。

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「聖セバスチャンの殉教」モデル:三島由紀夫 撮影:篠山紀信
『血と薔薇』創刊号(澁澤龍彦責任編集)天声出版 昭和43年10月発行 巻頭グラビア「男の死 LES MORTS MASCULINES」 より


三島の死にについてはオカルトめいた裏話もあって、そうした面でも興味をそそるところがあります。政治イデオロギー的には全く正反対の美輪明宏さんとも懇意におつき合いしていた三島ですが、美輪さんはその霊能力で、当時から三島の自殺の匂いを事前に察知していたという逸話が有名ですね。映画化もされた三島の作品『憂国』は、後に政治結社「盾の会」を創設するまでになる三島の政治的なイデオロギーが全面に出ている作品でもありますが、この作品の執筆中におかしな事が頻繁に起こったそうです。書いた後に読み直して気に入らない部分を書き直そうとするのですが、なぜか不思議な力が働いているかのように書き直す事ができなかった、と美輪さんにもらしたそうです。美輪さんの当時の霊視によれば、三島の背後には226事件に参加した将校の霊が見えたとのことで、そうした日本の行く末を案じて無念のうちに他界した霊たちが三島を指導していたのではないかということです。心霊的な霊能力に関しては、私も半信半疑なところもありますが、霊能力というのも、ある種の具体化した直感でもあると思いますし、無いとも言い切れないところではあります。実際に美輪さんはその霊能力で若い頃は霊障のある人を除霊したりなども何度もしていたようですし、実際そういうことが出来てもおかしくないような神秘な雰囲気がある人ですから、なんとなく納得させられてしまうところがありますね。何よりそうしたオカルト的な能力以前にその歌や音楽をはじめ、その芸術家としての存在感に前々から惹かれていたこともあって、三島の霊視の話も、何か真相に迫るヒントのひとつとして受け入れてもいいのかな、などと思っています。

メモ関連サイト
聖セバスチャン(ウィキペディア)

【画像】グイド・レーニ画『聖セバスチャンの殉教』(ウィキペディア)

美輪明宏が語る天才作家・三島由紀夫(「テレビ朝日」様のサイトより)



el_icon.pngゲームFF10・ブラスカとジェクトについて

ここ数年ゲームはあまりしてませんが、むかしハマった大好きなゲームのひとつにファイナルファンタジーX(FF10)があります。いうまでもなく名台詞名シーンがてんこ盛りの傑作で、ナンバリングタイトルの中ではじめて舞台設定を引き継いだ続編が作られたほどの人気を博した作品でもあります。ゲーム中に使われる音楽も、どれもむちゃくちゃ良いですよね。この作品中にでてくる最も好きな台詞をあえてひとつ挙げるなら、ブラスカがアーロンにはなったこの一言。

「私のために悲しんでくれるのはうれしいが、私は悲しみを消しに行くのだ」


う〜ん、胸にこみあげてくるものがある名台詞ですね。いちおう説明のために、この台詞の背景となるエピソードをざっくり言いますと、召還師ブラスカは、破壊と殺戮を繰り返しながらスピラ(劇中の舞台となる世界)を破滅に導く魔物シン≠倒すために旅を続けているのですが、そうした旅の終盤で交わされる会話で発せられた台詞です。以下多少のネタバレを含みますので、今後FF10をプレイする予定のある人は読まずにスルーしていただいたほうがよりFF10を楽しめると思います。まぁ、もう20年も前の作品ですし、こういう記事を読む方はすでにFF10をプレイ済みだとは思いますが、念のために一応エクスキューズを入れておきます。

彼らの旅の目的は命と引き換えにシンを倒す技(究極召還)を修得することです。召還師というのはFF10の世界での特殊な職種のひとつで、召還獣と呼ばれる霊的な聖獣を高次元からこの世に呼び出して物質化させ、そうすることで聖獣を自分たちの仲間として戦かわせることのできる能力を身につけた人たちの称号です。ゲーム的にいうと、ある条件を満たした場合にのみ使えるチート的な能力を持った用心棒が召還獣です。召還獣の概念はFFシリーズに通底する伝統ですが、今までゲーム的なお約束で何となく存在していた感のある召還獣が、その成り立ちなどの設定を含めてFF10では細かく練られているのも良かったですね。

ひとつの寺院には一匹の召還獣が祀られていて、試練を通過した召還師にその力を貸してくれる、という感じで、初プレイ時は、次の寺院ではどんな召還獣がゲットできるんだろう、というワクワク感でいっぱいだった記憶があります。そうした寺院巡りの旅の道中には様々な魔物が現われて襲ってくるために、旅そのものがデンジャラスなのですが、そこで助さん格さんよろしく腕利きの用心棒アーロンとジェクトのふたりがブラスカの旅のお供をしています。召還師ブラスカとそのボディガードであるジェクトとアーロンの一同は究極召還を得るための目的地、ザナルカンドにようやく着いたところで、アーロンは今まで覚悟を決めて抑えていたはずの心が揺れます。いくら世界の平和のためでもそのために生死を共にして旅をしてきた盟友ブラスカが死ぬのは嫌だ、とアーロンがブラスカに旅を止めるように懇願するのです。まさにそのシーンで出てくるのがこの上記の台詞です。FFXで一番好きなキャラはアーロンなんですが、シブいおっさんキャラのアーロンの若い時期のこの青臭さとのギャップなど、人に歴史ありって感じでなかなか味わい深いシーンです。

この世界ではシンを倒すということは、人々の悲しみの原因を消すことと同じです。プレイ当初は、どうせ倒してもまた蘇るシンを、命がけで倒す旅に志願する召還師たちの気持ちというのがいまいちピンときませんでしたが、このブラスカの言葉でなんか納得してしまいました。世界から悲しみを無くす仕事、それはある意味世界で最も貴い仕事で、まさにブラスカをはじめとする大召還師というのは英雄の中の英雄という感じですね。そうした歴史上シンを倒した召還師達は大きな像が造られ各地の寺院で英霊として祀られていますが、たしかに、このスピラという世界に住む住民にとってはシンを倒すというのはそれだけのスゴい偉業であることでしょう。

ブラスカは劇中ではあまり描かれてませんが、普段は物腰の柔らかい真面目な物静かな紳士で自己主張の少ないキャラだけに、あの固い信念に裏打ちされた、優しくて、そして力強い台詞にはグッときました。このブラスカの娘ユウナが後に父の遺志を引き継いで蘇ったシンにまた立ち向かうというのがメインストーリーなのですが、主人公ティーダとその父ジェクトの関係といい、主人公もヒロインもいろんな形でそれぞれ父親の影響を受けて今がある、という描き方をしていて、本当によく出来たシナリオだなぁ、とつくづく感心しました。

ジェクト 「なあブラスカ、(旅を)止めてもいいんだぞ」
ブラスカ 「気持ちだけ受け取っておこう」
ジェクト 「わ〜ったよ!もう言わねえよ!」
アーロン 「いや、俺は何度でも言います!ブラスカ様、帰りましょう!あなたが死ぬのは・・・嫌だ」
ブラスカ 「君も、覚悟していたはずじゃないか」
アーロン 「あの時は・・・どうかしていました」
ブラスカ 「私のために悲しんでくれるのはうれしいが・・・私は悲しみを消しに行くのだ。「シン」を倒し、スピラを覆う悲しみを消しにね。わかってくれ、アーロン」

「ファイナルファンタジーX」(スクウェア・エニックス 2001年)


FF10が大好きなのは、やはり主人公ティーダと父親であるジェクトとの不器用な親子関係の妙味にあるのかもしれません。子供の気持ちなど塵ほどにも考慮せずワガママ放題で傲慢にも見える親父、しかし実際は、息子の成長を陰ながら見守りいつでも力になりたいと思っていながらも照れくささが先んじてしまって息子をからかい、そして嫌われてしまう不器用な父親です。この父親像というのが、先頃他界した自分の父とダブってしまい、物語にドップリとはまって共感してしまうところがありました。ティーダは幼い頃、父ジェクトによくからかわれ泣かされてしました。幼いティーダがグズると決まってジェクトは「泣くぞ、すぐ泣くぞ、絶対泣くぞ、ほら泣くぞ!」と追い打ちをかけてイジメてくる嫌味な親父です。しかし実際のジェクトは自分の息子をイジメて楽しむ毒親だったわけではなく、小さな事でメソメソして泣き出す息子を見て将来が心配でたまらず、これから対峙するであろう社会という名の大海の波に負けない強い男に育ってほしいという願いが根底にあってしたことでした。しかし素直な愛情表現がとことん苦手な元来の不器用さが、あのような意地悪とも取れる不器用なやりかたになってしまったのですね。

この世に生まれるという事は、つまり魂がいまだ未熟だから修行のためにこの世に生れ出るのだ、という説があります。老若男女、みんな自分と同じ未熟者。そう思えば、他人の行いも「あの人だってこの人だって私と同じ未熟者」として許してあげようという気になります。人は一生かかっても魂を完成させることはなかなか困難で、だから何度も何度も輪廻して千回万回と生まれ変わり、未熟さをひとつひとつ克服していくのでしょう。そういえばFF10の世界観も意味深で、スピラという世界自体がシンの登場によって千年もの間、破壊と再生を繰り返す輪廻の輪にはまり込んでいますね。そのスピラ自体が繰り返す「死の螺旋」を止めるのがブラスカの娘ユウナなのですが、まるでFF10は世界を覆う死の輪廻を止めることによって世界を涅槃に導く物語、というような、仏教的な世界観が見え隠れしているようにも見えてきます。

仏教では、はてしなく生老病死を繰り返す苦の世界であるこの世から解脱し、輪廻することのない完成された魂(仏性)を獲得する事で涅槃(ニルヴァーナ)に至ることを目指します。FF10では、シンは「人間の罪が具現化した怪物」として描かれ、シンという名も英語のSin(=罪)からきているようですね。このシンがスピラを死の輪廻に縛り付けている張本人なわけですが、ユウナたちによってシンを倒した後には罪の輪廻から解き放たれ「生きる自由」を千年ぶりに獲得した世界に到達します。輪廻しない平和な世界、まさに涅槃の暗喩のようにも思えてきますね。またFF10での物語が召還獣をひとつ獲得するごとに各属性魔法への未熟さを克服していく寺院巡りの構造をベースに組み立てられていますが、これも宗教的な悟りに至る修行の工程の暗喩とみれなくもないですね。

私の父もジェクトも、素直に他人に愛を伝えられない未熟者で、自分の非を絶対認めない頑固者でしたが、居なくなってしまうと、むしろそうした未熟さ至らなさが逆に無償に人間らしい愛おしさとして感じられてきます。いや、もしかすると、すべての他人には未熟さというのは無く、それを「未熟」であると判断してしまう自分自身こそが本当の未熟者なのかもしれません。ただ他者の未熟さは自分の未熟さが投影されているだけで、もし自分が真に未熟さを克服したならば、全ての人は自分の魂を完成に導くために必要不可欠な教師でしかないことに気づくのかもしれませんね。現にティーダは、あれだけジェクトを憎みながらも、結果的に今の自分が立派に生きているのはジェクトの存在と導きがあってこそだったということに気づきます。ティーダが勇気を出して口にしたジェクトと交わす最後の言葉「はじめて思った。・・・あんたの息子でよかった」が胸に刺さりますね。──────などと書いていたらまたFF10を最初からプレイしたくなってきました。

メモ関連サイト
FF10「私は悲しみを消しに行くのだ」のシーン(YouTube)
posted by 八竹彗月 at 20:25| Comment(0) | 雑記