2019年08月02日

【雑談】黄金郷通信 vol.3

更新のモチベーションを上げるために雑誌風なイメージで雑多なコラム集的なシリーズとしてはじめたものの、このシリーズ自体の更新も間が空いてしまいました。vol.1を書いてからもう1年経つにもかかわらずまだ2回しか続いてないというのもあり、そろそろ続きを書こうということで、とりあえず最近よく思うところのあった話題を中心にまとめてみました。



el_icon.png「一杯のかけそば」と「ヨイトマケの唄」

バブル時代といわれた1980年代頃は日本中が好景気で浮かれていたような感じでしたが、その反面、ロス疑惑や豊田商事などの殺伐とした事件やら、デザイナーズブランドのファッションのブームやら三高(理想の結婚相手の条件。高身長・高学歴・高収入のこと)などが流行語になったりなど、なにかと拝金主義というか物質至上主義のような所があった時代でもあったと思います。ドラマでは『男女7人夏物語』など「トレンディ・ドラマ」と呼ばれるバブル時代のライフスタイルを根底とした理想のお洒落な恋愛を描いたドラマが続々と作られて消費されていましたが、そういう時代だからこそなのか、多くの人が素朴な人情話に飢えはじめてきたちょうどいいタイミングで爆発的に流行ったショートストーリーがありました。「誰もが必ず涙する感動話」というふれこみで日本中を席巻し、未見ですが映画まで作られたのだとか。これはご存知『一杯のかけそば』という物語で、原作者は栗良平という作家さんのようです。最初は作者本人の体験に基づく実話かと思われていましたが、実際はフィクションであり、タモリさんらによるアンチの言論や、また作者が後に詐欺行為を繰り返していたことが発覚したりなどで急速に『一杯のかけそば』ブームも下火になったようです。

しかしながら、その話は感動話の定石のようなよく出来た物語で、たしかに重箱の隅を突こうと思えば突けはしますが、普通にグッとくるお話ではあります。流行しすぎたせいで、いつしか「感動の押し売りみたいで不愉快」みたいな、理不尽なバッシングもあったそうですが、これもブームの終焉にありがちなパターンですね。「不愉快」に思う人も、多分このお話自体が不愉快なのではなく、流行しているせいでいつもこの話の話題が耳に入り、まるで自分が説教されているような気分になってしまったことへの反発みたいなものなのでしょう。つまり、ブームそれ自体に対する不満ということかもしれません。

ググれば物語の概要を紹介しているサイトはいくつかヒットするので、ここでは省略しますが、簡単に説明すれば2012年の紅白歌合戦でも話題になった美輪明宏のヒット曲『ヨイトマケの唄』とよく似た話です。細部の設定は異なりますが、極貧の家庭で育った少年が、その境遇を恨むことなく、貧しい中でも精一杯愛情を注いでくれた親に感謝し、世間の偏見に負けずに立派な社会人に成長するという骨子は通底するところがあります。『一杯のかけそば』は1989年の作、『ヨイトマケの唄』は1966年の作ですから、美輪さんの唄の方が23年も先に作っていたことになりますね。私の場合は、先に知ったのが『一杯のかけそば』の方だったので、後で『ヨイトマケの唄』を知ったときは「『一杯のかけそば』によく似てる」という印象を持ちました。とはいえ、やはり『ヨイトマケの唄』は、母親の苦労とか世間の偏見に堪える描写が具体的に描かれている分、ビジュアルが想像しやすいドラマになっていて、そのあたりはさすがリアルに波瀾万丈の人生を歩んで来た美輪さんらしい才能を感じるところですね。

こうした物語、つまり「貧乏暮らし」「親子愛」「偏見との戦い」を経て、ラストに立派に育った晴れ姿を描いてカタルシスを与える物語というのは、筋書きが読めていてもついつい涙腺が刺激されてしますね。ある意味、ベタな展開なのですが、むしろ変に難しく作り込まずに、このくらいベタな方がストレートに感動を表現できるもののようにも思えます。もっと端的に言えば、「逆境にめげずに正しくたくましく成長していく理想の人間の姿」という構造は面白い物語には必ずといっていいほど見られるパターンで、それは、ヒーローを描いた物語とも言えそうです。いわゆる神話学でいうところの「英雄神話」の類型を感じさせるものがありますね。古来から英雄はいつの世でも人間の永遠の憧れであり、また人生の目標でもあります。悪人と戦って勝利するだけがヒーローなのではなく、自分の運命、逆境に打ち勝つことこそが根本的なヒーローの条件にも思えます。ゆえに、これからどんな世の中になっていくにせよ、そうしたヒーローを描く物語は人が人である限りいつまでも求められるテーマであるように思います。

そういえば、数年前にネットで話題になったタイの通信会社のCMも、そういう感じの話で良かったですね。ご存知の方も多いと思いますが、貧しい家の子が病気の母親を救いたい一心で薬局から薬を万引きし、店から逃げ出した所を店主に捉えられるシーンから始まる三分のCMです。たった三分であるにもかかわらず長編映画にも負けないくらいの巧みな演出とストーリーに感動します。このCMでは、貧しい生まれの子が、ただ立派に成長したというだけでなく、幼い頃に受けた恩を返すという粋なオチを付けているところがまた秀逸です。とてもドラマチックですが、実はこの話はアメリカで実際にあった実話を元にしているのだとか。今でも世界のどこかで誰かを救っているそんなヒーローたちがリアルにいるのだと思いますし、そう考えているだけで心が暖かくなってきますね。

メモ関連サイト
『一杯のかけそば』全文(PDF) (「緑井レディースクリニック」様のサイトより)

『ヨイトマケの歌』(YouTube検索結果より)

数年前にネットで話題になった件のタイのCMに関する記事(「カラパイア」様より)

【日本語字幕】世界中が涙したタイの感動CM(YouTubeより)




el_icon.png驚異の折り鶴

折り鶴だけに特化したマニアックな折り紙の本『折り鶴』(長谷川正勝著 昭和49年発行 グラフ社)という本を古書市で見つけました。どれも折り鶴のバリエーションのみで構成されているのですが、それゆえに創意工夫による数々のバリエーションの妙味が味わえて、ページをめくる快感を覚えるなかなかの一冊でした。この本は江戸時代後期の『秘伝千羽鶴折形(ひでんせんばづるおりかた)』に掲載されたものをアレンジした作品集で、折り鶴の奥深さに感嘆させられます。

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五羽の鶴 『折り鶴』(長谷川正勝著 昭和49年発行 グラフ社)より

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十羽の鶴 『折り鶴』(長谷川正勝著 昭和49年発行 グラフ社)より

これら驚異の折り鶴、どれも1枚の紙を折って作られていて、いろいろと面白い折り鶴を次々に紹介しています。もちろん、折り方の解説もついていますので、根気が有れば実際に作ることも可能になっています。気分がノったらいつかチャレンジしたいですね。

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八羽の鶴 『折り鶴』(長谷川正勝著 昭和49年発行 グラフ社)より

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九十七羽の鶴(原題「百鶴」ひゃっかく) 『折り鶴』(長谷川正勝著 昭和49年発行 グラフ社)より

中でも97羽の鶴を折った「百鶴(ひゃっかく)」という作品が圧巻ですね。普通に百羽近く折るだけでも大変そうなのに、それぞれの鶴が繋がった状態で折っていくのは何かの苦行めいていますが、それゆえに完成の歓びも大きそうですね。これを作れたら、いつも気の遠くなるような過酷で地味な作業をさせられることで印象的だった『FNS地球特捜隊ダイバスター』のAD小田君の気持ちが理解できそうです。

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『秘伝千羽鶴折形(ひでんせんばづるおりかた)』より。この本は1797年(寛政9年)京都の吉野屋為八によって初版が発行されました。折り鶴49種を集めた書で、現存する世界で最も古い遊戯折り紙の本だそうです。

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同上『秘伝千羽鶴折形』より、五羽の鶴(葭原雀 よしわらすずめ)のページ。

メモ関連サイト
『秘伝千羽鶴折形』の原書を公開されているページ(「折紙探偵団」様より)
江戸時代の折り紙教本『秘伝千羽鶴折形』の現物の一部(全62ページ中17ページ分)を公開されています。全ページ公開予定のようなので更新が待ち遠しいですね。

『秘伝千羽鶴折形』に収録されている折り鶴の完成作品を展示しているサイト(「紙との会話」様より)
こうして様々な折り鶴のバリエーションが並んでいると壮観ですね。ラーメンズのコント『日本の形』を彷彿とする感じですね。『日本の形』ではそのまんま折り紙がテーマの回がありますが、『秘伝千羽鶴折形』の折り鶴バリエーションを見てると、むしろ「箸」がテーマの回のアクロバティックな割り箸アートに通じる面白みがありますね。

ラーメンズ『日本の形』「箸」(YouTube検索結果)
『日本の形(THE JAPANESE TRADITION)』のコントの中で「箸」が個人的に一番好きです。この作品はDVDが出てるので、そのうち手に入れて高画質であのアクロバティックな箸や折り紙をじっくり鑑賞したいですね。



el_icon.pngクロウリーと日本

アレイスター・クロウリーといえば、20世紀を代表する魔術師ですが、ある人は「世界で最も邪悪な人物」だと言い、またある人は「世界で最も偉大な魔術師」であると言ったりと、極端に賛否の別れる怪人で、つかみどころがない人でありますね。ムッソリーニでさえクロウリーの存在を恐れて国外追放処分にした、というエピソードは有名ですが、変態エロ親父でなおかつ麻薬常用者でもあったりと、悪名高いところはあるものの、ヘビーメタルやロックなどのポピュラー音楽のアーティストには崇拝者も多く、良くも悪くもけっこうな影響を与えてますし、児童文学のミヒャエル・エンデの作品『はてしない物語』など何かと現代文化に与えた影響を垣間みる機会は多く、深入りしたくなくてもしばしば目に入る神秘家のひとりであります。クロウリーは、整理されていなかった諸々のいにしえの魔術を再構築して実践的な体系を造り上げたりなどオカルト界での貢献は大きく、その思想はなかなかに奥深く興味深いところがあるので、一概に避けて通れないところもあります。が、そのあたりの話は今は置いとくとして、今回はその20世紀が生んだ怪人クロウリーと日本との接点をテーマにちょっと語ってみようと思います。

明治34年6月29日の朝、クロウリーは、観光名所でも有名な神奈川県鎌倉の長谷(はせ)の高徳院浄泉寺にあるいわゆる「鎌倉大仏」を見物していたそうです。外国人観光客のド定番な観光地にいるクロウリー、というミスマッチがなんとも微笑ましいものを感じますね。しかしこの大仏の圧倒的な存在感にはかなりの感銘を受けたようです。クロウリーは案内人に「近くの僧堂に住み込んで修行したい」とも伝えたようで、けっこう本気で感動していたとのこと。そうしたことから仏教自体にも興味をもったみたいですね。日本滞在期間は短いものだったそうですが、鎌倉の他には江ノ島、日光、長崎、それと吉原にも足を伸ばした形跡があるようです。そこはやはり「汝の欲する所を為せ」といった彼らしく、やはりエロに対する探究心はどこに行っても正直に発揮してしまうのでしょうね。セックスのパワーを利用した性魔術の開拓でも知られるクロウリーですが、吉原探訪はオカルト研究の探求心からなのか、単なるエロ的なものからだったのか気になる所です。

性魔術というと、字面からして怪し気で、けっこうヤバそうな雰囲気満点ですが、まぁ、エロとオカルティズムの結びつきというのは、そう突飛なものでもなく、性的なパワーを上手く利用して解脱を目指す修行法というのはタントラ・ヨガや仙道の房中術などかなり昔から実践されてきたところもあるので、意外と効果がありそうな気もしますね。ドラッグを利用した行法よりはまだ健全かもしれません。仙道などでは、性行為や自慰などで無闇に精液を浪費することを戒めていますが、現代でもネットでしばしばオナ禁による開運法がまことしやかにささやかれているのと同じで、やはり性には尋常ならざるパワーが秘められているのはたしかだろうと思います。

閑話休題、クロウリーは相当な偏屈な人物であったのは確かなようで、意図的に悪魔的な振る舞いを楽しんでいたフシもあり、それは幼い頃にキリスト教系の厳しい学校でひどいイジメにあっていたことがトラウマとなってアンチキリスト教的なベクトルとして魔術に関心をもっていったのではないかともいわれてますね。そんなクロウリーですが、自伝『アレイスター・クロウリーの告白 (The Confessions of Aleister Crowley)』(本邦未訳)の中で日本について語ったとされる言葉が意味深でなかなかに興味深いものを感じます。

私は、比較的にいって、日本をほとんど見ていない。私は日本人をまったく理解しなかったから、したがってあまり好きではない。日本人の貴族性が、どういうわけか私のそれとそぐわないのだ。日本人のもつ民族的傲慢には腹が立つ。私は日本人を中国人と非好意的に比較してみた。ちょうどイギリス人のように、日本人も絶縁的特質と欠点を有している。日本人はアジア人ではないのだ。まさに我々イギリス人がヨーロッパ人ではないように・・・

────────アレイスター・クロウリー


彼は「日本人はアジア人ではない」と言及していますが、これなど後の世に米国の国際政治学者サミュエル・ハンティントンが著作『文明の衝突』(1998年)で日本文明について言及していた説(世界を8つの文明に分け、日本を単一の文明圏とみなした)を連想しますね。自らを黙示録の獣と称したりなど、スピリチュアル的にはヤバヤバなオーラを発散している怪人なので、あまり近づきすぎるのは危険ではありますが、このクロウリーによる日本人評、けなしているようでいて逆説的に最大の賛辞のようでもあり、こうしたツンデレ具合がまた憎めないところでもあるんですよね。

※この記事を書くにあたって雑誌『トワイライト・ゾーン』(1987年3月号 KKワールドフォトプレス刊)のクロウリー特集の中の記事「奇人クロウリー・エピソード大全」(長尾豊・文)を参照しました。



el_icon.png「私は自殺する人間がきらいである」三島由紀夫

一般に三島由紀夫といえば、陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地内での演説の後に割腹自殺という壮絶な最期を遂げたことで、その文学に対するイメージ以上のインパクトを社会に与えたように感じます。三島と同じく、芥川龍之介にしろ太宰治にしろ川端康成にしろ昭和の有名な文豪がこうも次々に自決による最期を遂げているのは、何か因縁めいたものを感じざるを得ないですね。そうした例をみていると、知性は人を幸せにするとは限らないものだ、という想いが過ります。先日古書店でなにげなく手にした三島の本のなかに、三島自身が自殺について思う所を述べたエッセイがあり、ちょっと興味深かったので買って読んでみました。

そのエッセイは1954年12月に発表された『芥川龍之介について』という小論です。「私は弱いものがきらいである」ではじまるそのエッセイの中で、三島は自殺についてこう述べています。

私は自殺する人間がきらいである。自殺にも一種の勇気を要するし、私自身も自殺を考えた経験があり、自殺を敢行しなかったのは単に私の怯懦(きょうだ=臆病で気の弱い事)からだと思っているが、自殺する文学者というものを、どうも尊敬できない。武士には武士の徳目があって、切腹やその他の自決は、かれらの道徳律の内部にあっては、作戦や突撃や一騎打ちと同一線上にある行為の一種にすぎない。だから私は武士の自殺というものはみとめる。しかし文学者の自殺はみとめない。

──────三島由紀夫『芥川龍之介について』より抜粋

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「芥川龍之介について」 『三島由紀夫選集・15 鍵のかかる部屋』に収録 新潮社 昭和34年


エッセイのテーマは芥川龍之介の自殺に関する内容ですが、後世の私たちからすると、実に興味深い内容になっています。芥川龍之介は遺書の手紙に自殺の理由を「僕の将来に対する唯ぼんやりした不安」と記したそうです。天才作家らしいというか、なんとも曖昧で理解しがたい面はあるものの、実際にリアルに苦しんでいる人の苦しみの理由というのは、本質的にそういった、自分でも説明しがたい漠然とした、それでいて自然災害のようにリアルに襲いかかってくる恐怖なのかもしれません。三島がボディビルをはじめるのはこのエッセイが書かれた次の年、1955年(昭和30年)からですが、すでに文章からはマッチョ的というか、「強さへの憧れ」を感じますね。

三島は芥川の文学を後世に立派に残る日本文学≠ナあると高く評価しながらも、「芥川は自殺が好きだったから、自殺したのだ。私がそういう生き方をきらいであっても、何も人の生き方にとがめ立てする権利はない。」といささか投げやり気味に突き放しています。後に自らが嫌った「文学者の自殺」の系列に自分も加わる事になるわけですが、歴史の時系列を俯瞰して見れる立場の現代の私たちからすると、なんだか皮肉なものを感じてしまいます。しかし、よく読むと武士による切腹などの自殺は認める、とも書いています。三島の自決は、文学者として自殺したのではなく、まさしく武士としての最期だったのかもしれませんね。なにかこの辺りも因縁めいていて、複雑な気分になります。

自殺を嫌悪していた三島も、「死」それ自体には、ある種の美意識を持っていましたが、そういえば三島の友人でもあった澁澤龍彦の雑誌『血と薔薇』にも篠山紀信撮影による三島のヌード写真がありましたね。それは『聖セバスチャンの殉教』と題して、無数の矢に射られて殉教する聖セバスチャンの姿を描いたグイド・レーニ(Guido Reni、1575 − 1642)の絵画作品を三島の裸体に置き換えた写真で、死とエロスの緊張感ある拮抗を見事に表現しています。聖セバスチャンの殉教は三島も自身の小説で言及したこともあるお気に入りのモチーフだったようですね。

実際は聖セバスチャンは絵画に描かれているように、矢に射られて死んだわけではなく、無数の矢に射られても九死に一生を得たそうで、瀕死のセバスチャンをイレーネという女性が助けて介抱したようです。このあたりブッダを助けたスジャータの逸話を連想しますね。セバスチャンが亡くなったのは、その後キリスト教徒であることがバレて時の皇帝の怒りを買い、何度も殴打されたことが死因とのことです。当時のローマではローマの神々への信仰が主体だったようで、そうした社会におけるセバスチャンの存在は人々を迷わす邪悪な異教徒であるという認識だったのでしょうね。

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「聖セバスチャンの殉教」モデル:三島由紀夫 撮影:篠山紀信
『血と薔薇』創刊号(澁澤龍彦責任編集)天声出版 昭和43年10月発行 巻頭グラビア「男の死 LES MORTS MASCULINES」 より


三島の死にについてはオカルトめいた裏話もあって、そうした面でも興味をそそるところがあります。政治イデオロギー的には全く正反対の美輪明宏さんとも懇意におつき合いしていた三島ですが、美輪さんはその霊能力で、当時から三島の自殺の匂いを事前に察知していたという逸話が有名ですね。映画化もされた三島の作品『憂国』は、後に政治結社「盾の会」を創設するまでになる三島の政治的なイデオロギーが全面に出ている作品でもありますが、この作品の執筆中におかしな事が頻繁に起こったそうです。書いた後に読み直して気に入らない部分を書き直そうとするのですが、なぜか不思議な力が働いているかのように書き直す事ができなかった、と美輪さんにもらしたそうです。美輪さんの当時の霊視によれば、三島の背後には226事件に参加した将校の霊が見えたとのことで、そうした日本の行く末を案じて無念のうちに他界した霊たちが三島を指導していたのではないかということです。心霊的な霊能力に関しては、私も半信半疑なところもありますが、霊能力というのも、ある種の具体化した直感でもあると思いますし、無いとも言い切れないところではあります。実際に美輪さんはその霊能力で若い頃は霊障のある人を除霊したりなども何度もしていたようですし、実際そういうことが出来てもおかしくないような神秘な雰囲気がある人ですから、なんとなく納得させられてしまうところがありますね。何よりそうしたオカルト的な能力以前にその歌や音楽をはじめ、その芸術家としての存在感に前々から惹かれていたこともあって、三島の霊視の話も、何か真相に迫るヒントのひとつとして受け入れてもいいのかな、などと思っています。

メモ関連サイト
聖セバスチャン(ウィキペディア)

【画像】グイド・レーニ画『聖セバスチャンの殉教』(ウィキペディア)

美輪明宏が語る天才作家・三島由紀夫(「テレビ朝日」様のサイトより)



el_icon.pngゲームFF10・ブラスカとジェクトについて

ここ数年ゲームはあまりしてませんが、むかしハマった大好きなゲームのひとつにファイナルファンタジーX(FF10)があります。いうまでもなく名台詞名シーンがてんこ盛りの傑作で、ナンバリングタイトルの中ではじめて舞台設定を引き継いだ続編が作られたほどの人気を博した作品でもあります。ゲーム中に使われる音楽も、どれもむちゃくちゃ良いですよね。この作品中にでてくる最も好きな台詞をあえてひとつ挙げるなら、ブラスカがアーロンにはなったこの一言。

「私のために悲しんでくれるのはうれしいが、私は悲しみを消しに行くのだ」


う〜ん、胸にこみあげてくるものがある名台詞ですね。いちおう説明のために、この台詞の背景となるエピソードをざっくり言いますと、召還師ブラスカは、破壊と殺戮を繰り返しながらスピラ(劇中の舞台となる世界)を破滅に導く魔物シン≠倒すために旅を続けているのですが、そうした旅の終盤で交わされる会話で発せられた台詞です。以下多少のネタバレを含みますので、今後FF10をプレイする予定のある人は読まずにスルーしていただいたほうがよりFF10を楽しめると思います。まぁ、もう20年も前の作品ですし、こういう記事を読む方はすでにFF10をプレイ済みだとは思いますが、念のために一応エクスキューズを入れておきます。

彼らの旅の目的は命と引き換えにシンを倒す技(究極召還)を修得することです。召還師というのはFF10の世界での特殊な職種のひとつで、召還獣と呼ばれる霊的な聖獣を高次元からこの世に呼び出して物質化させ、そうすることで聖獣を自分たちの仲間として戦かわせることのできる能力を身につけた人たちの称号です。ゲーム的にいうと、ある条件を満たした場合にのみ使えるチート的な能力を持った用心棒が召還獣です。召還獣の概念はFFシリーズに通底する伝統ですが、今までゲーム的なお約束で何となく存在していた感のある召還獣が、その成り立ちなどの設定を含めてFF10では細かく練られているのも良かったですね。

ひとつの寺院には一匹の召還獣が祀られていて、試練を通過した召還師にその力を貸してくれる、という感じで、初プレイ時は、次の寺院ではどんな召還獣がゲットできるんだろう、というワクワク感でいっぱいだった記憶があります。そうした寺院巡りの旅の道中には様々な魔物が現われて襲ってくるために、旅そのものがデンジャラスなのですが、そこで助さん格さんよろしく腕利きの用心棒アーロンとジェクトのふたりがブラスカの旅のお供をしています。召還師ブラスカとそのボディガードであるジェクトとアーロンの一同は究極召還を得るための目的地、ザナルカンドにようやく着いたところで、アーロンは今まで覚悟を決めて抑えていたはずの心が揺れます。いくら世界の平和のためでもそのために生死を共にして旅をしてきた盟友ブラスカが死ぬのは嫌だ、とアーロンがブラスカに旅を止めるように懇願するのです。まさにそのシーンで出てくるのがこの上記の台詞です。FFXで一番好きなキャラはアーロンなんですが、シブいおっさんキャラのアーロンの若い時期のこの青臭さとのギャップなど、人に歴史ありって感じでなかなか味わい深いシーンです。

この世界ではシンを倒すということは、人々の悲しみの原因を消すことと同じです。プレイ当初は、どうせ倒してもまた蘇るシンを、命がけで倒す旅に志願する召還師たちの気持ちというのがいまいちピンときませんでしたが、このブラスカの言葉でなんか納得してしまいました。世界から悲しみを無くす仕事、それはある意味世界で最も貴い仕事で、まさにブラスカをはじめとする大召還師というのは英雄の中の英雄という感じですね。そうした歴史上シンを倒した召還師達は大きな像が造られ各地の寺院で英霊として祀られていますが、たしかに、このスピラという世界に住む住民にとってはシンを倒すというのはそれだけのスゴい偉業であることでしょう。

ブラスカは劇中ではあまり描かれてませんが、普段は物腰の柔らかい真面目な物静かな紳士で自己主張の少ないキャラだけに、あの固い信念に裏打ちされた、優しくて、そして力強い台詞にはグッときました。このブラスカの娘ユウナが後に父の遺志を引き継いで蘇ったシンにまた立ち向かうというのがメインストーリーなのですが、主人公ティーダとその父ジェクトの関係といい、主人公もヒロインもいろんな形でそれぞれ父親の影響を受けて今がある、という描き方をしていて、本当によく出来たシナリオだなぁ、とつくづく感心しました。

ジェクト 「なあブラスカ、(旅を)止めてもいいんだぞ」
ブラスカ 「気持ちだけ受け取っておこう」
ジェクト 「わ〜ったよ!もう言わねえよ!」
アーロン 「いや、俺は何度でも言います!ブラスカ様、帰りましょう!あなたが死ぬのは・・・嫌だ」
ブラスカ 「君も、覚悟していたはずじゃないか」
アーロン 「あの時は・・・どうかしていました」
ブラスカ 「私のために悲しんでくれるのはうれしいが・・・私は悲しみを消しに行くのだ。「シン」を倒し、スピラを覆う悲しみを消しにね。わかってくれ、アーロン」

「ファイナルファンタジーX」(スクウェア・エニックス 2001年)


FF10が大好きなのは、やはり主人公ティーダと父親であるジェクトとの不器用な親子関係の妙味にあるのかもしれません。子供の気持ちなど塵ほどにも考慮せずワガママ放題で傲慢にも見える親父、しかし実際は、息子の成長を陰ながら見守りいつでも力になりたいと思っていながらも照れくささが先んじてしまって息子をからかい、そして嫌われてしまう不器用な父親です。この父親像というのが、先頃他界した自分の父とダブってしまい、物語にドップリとはまって共感してしまうところがありました。ティーダは幼い頃、父ジェクトによくからかわれ泣かされてしました。幼いティーダがグズると決まってジェクトは「泣くぞ、すぐ泣くぞ、絶対泣くぞ、ほら泣くぞ!」と追い打ちをかけてイジメてくる嫌味な親父です。しかし実際のジェクトは自分の息子をイジメて楽しむ毒親だったわけではなく、小さな事でメソメソして泣き出す息子を見て将来が心配でたまらず、これから対峙するであろう社会という名の大海の波に負けない強い男に育ってほしいという願いが根底にあってしたことでした。しかし素直な愛情表現がとことん苦手な元来の不器用さが、あのような意地悪とも取れる不器用なやりかたになってしまったのですね。

この世に生まれるという事は、つまり魂がいまだ未熟だから修行のためにこの世に生れ出るのだ、という説があります。老若男女、みんな自分と同じ未熟者。そう思えば、他人の行いも「あの人だってこの人だって私と同じ未熟者」として許してあげようという気になります。人は一生かかっても魂を完成させることはなかなか困難で、だから何度も何度も輪廻して千回万回と生まれ変わり、未熟さをひとつひとつ克服していくのでしょう。そういえばFF10の世界観も意味深で、スピラという世界自体がシンの登場によって千年もの間、破壊と再生を繰り返す輪廻の輪にはまり込んでいますね。そのスピラ自体が繰り返す「死の螺旋」を止めるのがブラスカの娘ユウナなのですが、まるでFF10は世界を覆う死の輪廻を止めることによって世界を涅槃に導く物語、というような、仏教的な世界観が見え隠れしているようにも見えてきます。

仏教では、はてしなく生老病死を繰り返す苦の世界であるこの世から解脱し、輪廻することのない完成された魂(仏性)を獲得する事で涅槃(ニルヴァーナ)に至ることを目指します。FF10では、シンは「人間の罪が具現化した怪物」として描かれ、シンという名も英語のSin(=罪)からきているようですね。このシンがスピラを死の輪廻に縛り付けている張本人なわけですが、ユウナたちによってシンを倒した後には罪の輪廻から解き放たれ「生きる自由」を千年ぶりに獲得した世界に到達します。輪廻しない平和な世界、まさに涅槃の暗喩のようにも思えてきますね。またFF10での物語が召還獣をひとつ獲得するごとに各属性魔法への未熟さを克服していく寺院巡りの構造をベースに組み立てられていますが、これも宗教的な悟りに至る修行の工程の暗喩とみれなくもないですね。

私の父もジェクトも、素直に他人に愛を伝えられない未熟者で、自分の非を絶対認めない頑固者でしたが、居なくなってしまうと、むしろそうした未熟さ至らなさが逆に無償に人間らしい愛おしさとして感じられてきます。いや、もしかすると、すべての他人には未熟さというのは無く、それを「未熟」であると判断してしまう自分自身こそが本当の未熟者なのかもしれません。ただ他者の未熟さは自分の未熟さが投影されているだけで、もし自分が真に未熟さを克服したならば、全ての人は自分の魂を完成に導くために必要不可欠な教師でしかないことに気づくのかもしれませんね。現にティーダは、あれだけジェクトを憎みながらも、結果的に今の自分が立派に生きているのはジェクトの存在と導きがあってこそだったということに気づきます。ティーダが勇気を出して口にしたジェクトと交わす最後の言葉「はじめて思った。・・・あんたの息子でよかった」が胸に刺さりますね。──────などと書いていたらまたFF10を最初からプレイしたくなってきました。

メモ関連サイト
FF10「私は悲しみを消しに行くのだ」のシーン(YouTube)
posted by 八竹彗月 at 20:25| Comment(0) | 雑記

2019年06月15日

タイムマシンにお願い!・その2(タイムマシン関連の雑記)

先のタイムマシン関連の記事の補足的な感じで、タイムマシンに関する余談をあれこれ語ってみたいと思います。

190615-TM-icon.pngタイムマシンのある生活

タイムマシンという夢のマシーンに憧れるのは、それがあれば人生をもっとパーフェクトなものにできるのではないだろうか?という願望でもあるでしょうね。昨日に戻ってあの会社での失敗を取り消したいとか、未来に行ってこれから起こる事業の失策などがあれば回避したい。あるいは、過去のアクシデントで壊してしまった骨董の花瓶が壊れる前に戻って破壊を回避させたいとか、未来に起こる災害や事件を知ってあらかじめ対策をたてておきたい、など。たしかにタイムマシンがあれば、理想の人生、はては人類永遠の夢である戦争の無い世界すら可能になるかもしれませんね。

しかし、本当にタイムマシンが実現して、それこそ自動車に毛の生えたような日常的な乗物になっている時代が来たとしたら、本当に私たちは幸福になれるのか?と考えると、それもそれで疑問に思えてきます。過去は修正がきかないからこそ私たちは「今」にベストを尽くそうとするのですし、未来が不確かでも、それでも何かを信じてチャレンジするからこそ成功の達成感もあるわけです。タイムマシンがあれば、誰もが失敗することのない人生を送る事ができるかもしれませんが、失敗した経験が無いということは、本当に幸せなのだろうか?とも思えてきます。失敗が無いということは、成功しかない人生ということになりますが、失敗が存在しない世界は成功という概念も無い世界です。欠乏感がなければ学ぼうとする気力や動機を自発的に保たねば成長できませんから、心が幼いままで一生を終えてしまう可能性もあります。ヴィヴェーカーナンダの名言に「失敗は人生の美であり、それがなかったならば、どこに人生の詩があるだろうか」「幸福よりも一層多くを教えてくれるものは不幸である。富よりも一層多くを学ばせてくれるのは貧乏である。また、内面の火をかきたててくれるのは、賞賛よりも攻撃である」という言葉がありますが、まさしくこの世は、人も歴史も、まるで物理法則のように例外無く、幸と不幸が波のように繰り返すようになっていますから、幸福のみを求めるという不可能状態を夢見るよりは、不幸からいかに学び成長できるかということに着目していったほうが、結果的には人生を幸福なものにしていくことになるのかもしれませんね。

とはいうものの・・・視点を変えてみれば、タイムマシンが当たり前に存在する世界には、そういう世界なりの苦労があるでしょうし、実際は意外と問題なくうまくやっていくのかもしれないなぁ、とも同時に思います。洗濯板で家族の服を洗っていた時代に「洗濯機なんて普及したら人間が怠惰になってしまう」と心配したり、PCが普及しだした時代に「コンピュータに仕事を奪われてしまう」と懸念したりするようなもので、実際は洗濯機によって楽になった分、別のところに時間を配分したり、生活の質を高めれるわけですし、コンピュータ社会なりの新しい仕事(プログラマやオペレーターなど)がたくさん生まれました。そのうえコンピュータによって仕事の効率が上がったり利便性が高まったりするメリットのほうがあたったりしたわけで、タイムマシンも変に心配しなくても、あったらあったなりに上手く運用しながら意外と大した不都合無くやっていけるのかもしれませんね。いくら過去や未来を書き換えることが可能になろうとも、人間の喜びや苦しみは物質的な問題ではなく心の問題ですから、タイムマシンがある時代には、そういう時代なりの心の問題がありそうですし、そういう時代なりの苦労や試練もでてくるのでしょう。

タイムマシンよりは実現の可能性の高い、来るべき未来のテクノロジーの筆頭にクローン技術やAI(人工知能)がありますが、これらも似たような問題がありますね。どちらも実現すれば人の幸福に多大な貢献をしてくれそうな技術ですが、同時に倫理的な面などで懸念や不安がささやかれているのもご存知の通りです。クローンもAIも、つきつめれば「人間に限りなく近い新しい存在の人権などをどう考えるか」などの複雑な問いを含んだところがあって、なかなか明確な答えが出しづらい問題です。クローン技術は最終的には人間の複製をも可能にするはずですし、AIも最終的には人間と同等の知能や感情、はては人格まで持ったコンピュータに行き着きます。そうなれば、単に倫理だけの問題ではなくなり、そういった存在を社会的にどう扱うべきか、という法整備などが必要になりますから、人間社会にとってだけでなく、個人個人にとっても、革命的な意識改革が必要になってきそうですね。

しかし、多分、それらの技術も、かつて産業の機械化やコンピュータなどの先進技術が当初は漠然とした不安をもって迎えられていたようなもので、普及して一般化してしまえば、そういったものが当たり前に存在する社会なりのシステムに安定していくのでしょうし、意外と上手くやっていけてしまいそうでもあります。



190615-TM-icon.png時間停止と加速剤

日常的な時間から逸脱した世界のロマンというと、「時を止めた世界」というのも興味深いものがあります。これもSF漫画などでたまに見かけるモチーフですね。そういえば昭和のアニメに「ポールのミラクル大作戦」という作品がありましたが、その作品では異世界に行くための入り口を開くための段取りとして、時間停止の描写が演出されていてユニークでしたね。

最近はアダルト動画でも「時間を止めた世界でエッチなことをする」といったタイプのジャンルが流行ってるようで、こういうドラえもん的な道具でエロ的な世界を描く作品というのは、どこか少年時代のドキドキするようなエロティシズムがあります。しかし実際に時間が止まるわけではないので、そういう系のビデオに出演する女優さんは、カメラが回っている間は瞬きが出来ないためにかなり大変みたいですね。エロの世界でも裏では見えない努力によって支えられているんだなぁ、と感心してしまいます。少年漫画でも、昔ジャンプだったかチャンピオンだったかの読み切り作品で似たような「時間が止まった世界でエロいいたずらをする」的なエッチな作品を読んだ記憶がありますが、そうしたものがヒントになって出来たジャンルなのかもしれないですね。

止まった時間モノは、自分以外、あるいは自分と特定のキャラ(時間を止めれる能力者など)以外の世界の時間の流れが止まる、という設定のものですが、実際に時間が止まった世界を考えるといろいろ破綻する部分が多く、タイムマシンものよりもそれらしい理屈を考えるのが大変そうなジャンルでもあります。エロ系の話の場合は適当に、単純に自分以外の全てが止まった世界、ということで済ませてますが、時間が止まるということは、光も進まなくなるので暗闇になりますし、分子の動きまで止まりますからモノに触れば鬼のように冷たいでしょう。時の止まった世界で、女子の胸を触ってもダイヤモンドより硬いはずですし、そもそも空気との摩擦もものすごいものになりそうですから、歩くどころか、ちょっとの身動きも大変そうです。空気の振動も無いので音も聞こえないでしょうから相当に寂しい世界でしょうね。時間が停止した世界というと、ビデオを一時停止したような、静止画のような単純な世界ではなく、上記のような寒く、暗く、音も色も無い、退屈と苦痛だけしか無いような、まるで地獄のような世界でしょうから、実際には時を止めてみても良い所はほとんどなさそうですね。

H・G・ウェルズのアイデア「加速剤」は、そうした不都合を緩和するアイデアで、自分の身体能力の全てを異常に加速させる薬を飲むことで、筋肉だけでなく思考も加速するため、周囲の時間が遅く流れているように感じるようになる、という架空の薬です。この加速の程度によっては、ほとんど周囲の世界の時間が止まった状態になるのですが、主人公視点でもわずかづつ時間は流れるため、光の問題などはクリアできますし、話にもそれなりにリアリティを持たせれる良いアイデアだと思いました。ただ、やはり他者の肉体の反応や物理現象も遅くなるので、人間の体に触ってもカチカチに固いんでしょうね。

加速剤はSFの世界にしか存在しない架空の薬ですが、LSDなどの幻覚を誘発する系の麻薬は、視覚的な混乱だけでなく時間の感覚も歪んでくるらしいので、そういう意味では実在する「時間を操る薬」のようなところがありますね。違法な薬物ですし、余計なリスクは抱えたくないので、まぁ試す機会は無いと思いますが。依存性はほとんど無く、むしろアルコール依存の治療薬として使われていた薬みたいですが、とりあえず現代では、仮にチャンスがあっても「君子危うきに近寄らず」というのが一番ですね。

LSDは1950年代前後に本格的な研究がはじまった新しい薬だったため、60年代半ばくらいまでは法整備が整っていなかったようで、アメリカを中心とした当時のアーティストやヒッピーなどの間でLSDによるトリップ体験をテーマにしたアートや音楽などの分野でサイケデリックなサブカルチャーが流行りました。画家の横尾忠則さんも若い頃にアメリカでLSDを体験していたそうで、そういうエッセイを昔読んだ覚えがあります。数人で友人の部屋でLSDを服用してとんでもないリアルな幻覚を見たそうで、尿意をもよおしてトイレのドアを開けたら、いきなりドアの向こうがナイアガラの滝になっていてびっくりした、というようなエピソードを読んだ記憶があります。60年代のレコードジャケットやポスターなど、サイケデリックアートは60年代のサブカルチャーの代表みたいなところもあり、そういったアートで表現されてるような原色がチカチカするめくるめく虹の世界が実際に見えるというのは楽しそうでもあり、また恐そうでもありますね。

自然界を見ると、生物の寿命は数百年も生きる貝(ホンビノスガイ)とか、250年ほど生きると言われるゾウガメなどもいれば、一年の寿命のハツカネズや、わずか一日で寿命が尽きるカゲロウの成虫などさまざまです。ということは、以前話題になった『ゾウの時間ネズミの時間』で言及されているように、それぞれの生物が体感している「時間」は、おそらく人間が感じるような早さでは流れてなくて、寿命の短い生物にとっての時間は速く流れ、寿命の長い生物の時間は遅く流れているのかもしれません。そうして見ると、ネズミが見る人間は、まるで加速剤を服用したSFの主人公のように超スローに動いているように見えてるのかもしれませんね。

そんな感じで、加速剤を使えば時間がゆっくり進む世界を体験できますが、逆に自分が加速するのではなく、ひとつの街全体の時間が遅く進む世界を描いた作品もありましたね。タイムマシンものばかり書き続けた時に憑かれた作家″L瀬正の短編、「化石の街」という作品がそれです。アメリカの片田舎に住む26歳の青年が主人公で、休日に趣味の写生をするために遠出して立ち寄ったある町の様子がおかしい事に気づきます。町の人がみんな蝋人形のように凍り付いたように固まっていているのです。何か伝染病のようなものがこの町に蔓延しているのか、などと青年は不安になりますが、次の日またその町に来てみると、昨日と同じ場所にいた人がわずかにポーズが変わっていることに気づきます。実は、この町は、街ごと時間が異常に遅延しているようで、24時間で1秒程度しか時間が進まない町なのでした。という感じの内容です。主人公の青年が書き残した遺書という体裁の短編で、映画「ブレア・ウィッチ・プロジェクト」みたいなドキュメンタリー風なノリで書かれていて、不思議な味わいのある面白い作品です。広瀬正著『タイムマシンの作り方』(集英社文庫)にも収録されていますが、タイムマシン系のアンソロジーにもよくチョイスされる作品です。

メモ関連サイト
時間停止(ニコニコ大百科)
時間停止の能力を持ったアニメなどのキャラの紹介が列挙されていますが、時間停止って思ったより意外とたくさんの作品で重宝されているんですね。

ゾウの時間・ネズミの時間 本川 達雄 氏 - こだわりアカデミー (「at home」様のサイトより)
90年代初頭に話題になった『ゾウの時間ネズミの時間』の著者であり、生物学者の本川達雄氏への興味深いインタビュー。ネズミとゾウはどちらも心臓は一生のうちに15億回打って止まるようです。しかしネズミは短命でゾウは長寿です。これは、鼓動の速度が異なるせいで、ネズミは一回の鼓動が0.1秒であるのに対しゾウは3秒とのこと。人間の尺度で感じる時間だけが唯一の時間ではなく、生物ごとにそれぞれ独自の時計を持っているのだ、といった話を筆頭に、とても興味深いテーマを語っていて勉強になります。

ポールのミラクル大作戦 第1話「よみがえったベルト・サタン」(YouTubeのTatsunokoChannel様より)
タツノコプロの公式チャンネルで公開されている懐かしの昭和アニメ「ポールのミラクル大作戦」です。この作品では異世界に参入する前段として時間停止を扱っています。9:03あたりから時間停止の描写がありますが、時間が停止した世界をモノトーンの版画のようなタッチで表現していて、とても秀逸な演出ですね。時間が止まった世界は、上述したようにビデオの一時停止のような単純な世界ではなく、原子の運動も止まった凍てつく状態でしょうし、光の運動さえも停止した暗黒の世界だと思うので、まさにこのアニメの凍てついたような冷たさのある時間停止の演出には妙なリアリティを感じます。時間停止した世界でオカルトハンマーなる魔法のハンマーで適当な場所を叩くと異世界の扉が開く、という段取りなのですが、この異世界への扉の紋様も雰囲気がありますね。どことなくFF10の「試練の間」のスフィアを置く場所にある不思議な「印」のデザインを連想させる感じで、いかにも不思議な世界にありそうな感じがグッときます。



190615-TM-icon.png時の旅人・サンジェルマン伯爵とジョン・タイター

タイムマシンの製造は不可能であることの根拠のひとつに、「歴史上タイムマシンが訪れたという記録がない」というものがあります。タイムマシンが時間を自在に移動できるなら、すでに過去のいろいろな時点に未来人が来てるはずで、未来人が歴史的な大事件に調査に訪れたり、歴史上の人物に会見したりした記録がたくさん残っていてもおかしくないはずです。なのに、それらしき記憶が全く無いということは、そもそもタイムマシンの製造は不可能で、どんな遠い未来においても作られることはないのではないか、という推論があります。これは、至極真っ当な指摘ですが、本当に未来人が過去に干渉した証拠は皆無なのかというと、意外とそうでもなく、真偽が不確かながらも、オーパーツ的なものとか、それらしい痕跡がいくつか発見されているのも事実です。

そういった逸話の代表格というと、不死の人とか、時の旅人とか言われたサンジェルマン伯爵が有名ですね。彼が食事をしているところを見た人はないないとか、何十年たってもいつも40代前の精悍な風貌で全く歳をとらなかったとか、様々な分野の専門知識があり、音楽、絵画にも熟達した芸術家でもあり、錬金術にも通じていてときおり人前でその秘術を披露したとか、かなり謎めいた人物であったようです。ルイ15世、ルイ16世をはじめ、1700年代の社交界において実際に彼と面識を持った貴族や識者、著名人は多く、不死者かどうか別にして、サンジェルマン伯爵なる人物が実在したのはたしかなようですね。

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サンジェルマン伯爵の肖像画

同時代の哲学者ヴォルテールはサンジェルマン伯爵を「決して死ぬことがなく、すべてを知っている人物」と評したとのことで、当時の知識人からも、その超人的な博識ぶりは本物だったのでしょう。また、過去の歴史的事件をさも実際に立ち会ってきたかのように話したりしていたことから、不老不死というよりは、彼はタイムトラベラーなのではないか、とまで言われるようになります。不老不死とかタイムトラベラーとか、一般にはトンデモなオカルト系のイメージがありますから、このサンジェルマン伯爵の超人的なエピソードのほとんどは彼のホラ話なのでは、という見解もあり、たしかに常識で考えれば、そっちのほうが理性が納得する解釈で、オカルト関係に寛容なコリン・ウィルソンでも彼をペテン師のような感じに捉えているみたいです。しかし、ホラ話であるという証拠もなく、ただのホラ吹きにしては上流社会のマナーに通じていたり、博学だったり、裕福な生活をしてたりしていたようで、タイムトラベラーかどうか別にしても、そうとうに超人的な人物で、かつ私生活が謎に包まれたミステリアスな人物であったのは事実みたいですね。個人的に思うに、タイムトラベラー説は置いとくとしても、ただ者ではなさそうですし、それなりに別の面白い真相がありそうな気もします。

そういえば諸星大二郎の傑作『暗黒神話』の中では、武内宿禰(たけうちのすくね。4世紀前半頃、景行・成務・仲哀・応神・仁徳の五朝にわたって朝廷に仕えていたとされる伝説上の人物)の正体はサンジェルマン伯爵だった、というユニークな仮説を描いていて面白かったですね。

サンジェルマン伯爵の生まれは通説では1700年前後といわれていて、主なエピソードも18世紀ヨーロッパにおけるものがメインですが、マリーアントワネットの処刑も前もって知っていたかのように予言めいた忠告を残していたとか、はては聖書のヨハネ福音書に書かれているカナの婚礼のイベントに立ち会ったとか、古代の出来事も体験談のように話していたそうです。また、サンジェルマンは1784年2月27日にリューマチと鬱病を煩い死去したという記録がドイツのエッカーフェーデ教会の戸籍簿に記録されているとのことですが、その翌年にはドイツのヴィルヘルムスバートで開かれた秘密結社の集会に出ていたという記録や、さらに死後7年後の1791年にはアントワネット王妃の侍女アデマール夫人と会って話もしたようで、生前の彼を知っている夫人は幽霊が現われたのかと驚いたほどその人物の容姿はサンジェルマン伯爵と瓜二つだったようです。彼女は伯爵の葬儀にも参列していたそうなので、見間違いとも断言しがたく、また彼は自身をサンジェルマン本人を名乗っていたようなので、これも不思議なエピソードです。

他には、ナポレオンと会ってたとか、第二次大戦中にチャーチル首相に会い、ヒトラー戦の助言をしていたとか、謎めいた噂も多いですね。こうした逸話を、サンジェルマン伝説に尾ひれがついて広まったデマ話と片付けるのは容易ですが、ヨガナンダの本に出てくるヨガナンダの師匠の師匠のそのまた師匠であるヨガマスター、ババジも似たような不老不死の神人として書かれてますし、サンジェルマンのような達人(アデプト)がこの世に一人や二人くらいいてもらったほうが楽しい世界になりそうです。

そういえば、タイムトラベルもののヒット作、「シュタインズ・ゲート」に、件のサンジェルマン伯爵の現代版であるタイムトラベル界のニュースター、ジョン・タイターが何度か言及されていましたね。「シュタインズ・ゲート」におけるタイムトラベルの理屈は、ほぼこのジョン・タイターによる時間理論を元にしたもので、タイターの言及している「世界線」などの解釈はなかなかユニークで興味深いものを感じます。ジョン・タイターは、2000年にインターネット上に現われ、自称2036年からやってきた未来人を名乗り、その書き込み内容がそれなりにリアリティのある理論や設定であったために、一躍世界的な有名人になっていったようです。未来人を名乗っているだけに、未来に起こりうる歴史的な事件などを予言したりもしていますが、予言内容を見ると、中国の宇宙進出とか当たってる予言も少しありますが、ほとんどはハズレてるので、こちらはやはり本物の未来人と見るには少し条件が足りない感じがします。まぁ、実際、それらしいネタをネットに投下して楽しんだ愉快犯というのが常識的な見方だとは思います。しかし、時間旅行の理論や、タイムマシンの構造など、なかなかそれらしい感じではありましたし、予言が外れる事も「世界線のズレ」による影響という解釈によって、それなりに説明に整合性を付けてる所が芸が細かく、また、ネットから消える最後まで野暮なネタバレをしないまま去ってくれたおかげで、完全否定もまた出来ないままロマンの余地を残してくれた感じではありますね。

考えてみれば、タイターがいなければ「シュタインズ・ゲート」も無かったわけですから、彼は少なくとも日本のゲームやアニメなどのサブカルチャーにはそれなりの影響を与えたわけです。サンジェルマンのほうは、数ある不思議な逸話のほとんどは多少尾ひれがついていると思うものの、かなり謎めいた怪人物には違いなさそうではあります。タイムトラベラーかどうかわかりませんが、魔術師的な能力はかなりのレベルだったのではないかと推察します。

サンジェルマンもタイターも冷静に考えればタイムトラベラーと断定するには疑問の余地がありますが、完全否定することを少し躊躇せざるをえないくらいには「それっぽさ」があって、もしも正体が単なる詐話師であったにせよ、彼らの言動がこの世界をちょっと面白い愉快なものにしてくれているのは確かですから、そう考えると、ある意味人々に夢を与えて社会貢献している立派な人たちのようにも思えてきますね。

メモ関連サイト
サンジェルマン伯爵(ウィキペディア)

ジョン・タイター(ウィキペディア)
posted by 八竹彗月 at 04:21| Comment(0) | 雑記

2019年06月02日

とあるおばあちゃんの詩についてのエッセイ

「この世の人生というは、魂の修行の場である」というスピリチュアルな考えがありますね。最初聞いたときは根拠の無い宗教的な適当な方便、くらいにしか思ってませんでしたが、考えれば考えるほど、意外と人生とは本当にそういうものなのではなかろうか、と思う事がしばしばあります。いくつになっても天真爛漫で豪快なイメージのファッションデザイナー、山本寛斎氏も、かつて伊集院光さんのラジオ番組で「人生は表面がどう見えようとも、いい時悪い時、山谷(やま たに)はみんなあります。右肩上がりでズーッといい事づくめ、なんてことはないですよ」とおっしゃっていたのが印象に残ってます。「でも世の中にはそんな人もいるんじゃないですか?」という質問に対しても「いいや、これは断言できます」と確信をもって否定しています。

地球上にいる人類の総数は国連などの統計によれば現在推定75億人ということですが、なんとなく、私たちは、75億人もの人間がいるなら相当数の「幸福だけの人生」を過ごしている人がいてもおかしくないのではないか?という漠然とした推測をしてしまいがちです。しかし、自分の周囲を振り返ってもそういう人はいませんし、有名人など「この人なら不幸は経験してないはずだ」と目星をつけても、よく調べてみるとけっこう深刻な悩みを抱えていたりするものです。そういえば私も、昔働いていた職場の経理のお姐さんに「あんた、悩みなんて無いでしょ?」と目が合うとよく言われてました。私の場合、深刻な悩みにもがいている時ほど、他人にはひょうひょうと悩み無く生きているように見えてるようです。誰しも他人の悩みなどほとんど無関心なのが普通なので、悩んでいるのは自分だけ、みたいな気分に陥りがちですが、ポジティブを絵に描いたような山本寛斎さんのような人でさえ不幸や悩みがあるんですから、おそらく悩み無く生きている人はほぼ皆無でしょう。ブッダも言ったように、人間の悩みは人間関係やお金などの表面的なものだけでなく、人間すべからく逃れざる「苦」、つまり生老病死と無関係に人生を過ごすことはできないわけです。

まぁ、とにかく、人生は、そういう世界でいかに幸福に過ごす事ができるか、ということにチャレンジし続けるゲームのようなものなのでしょう。ゲームに勝つにはゲームの仕組みを理解しないと話になりませんが、幸いな事にキリストやブッダや老子などの数々の賢者がヒントをたくさん遺してくださってますし、また、自分自身の半生そのものが最大のヒントですから、そこから自分なりの解答を見つけ出していくのもゲームの醍醐味なのかもしれませんね。今回は、そうした人生ゲームの終盤に差し掛かったとある女性が書いたとされる、ある一編の何とも言えない味わいのある詩を取り上げたいと思います。

もう一度生きられたら

次の人生ではもっと誤りを犯したい。リラックスしたい。柔軟に生きたい。この人生よりも愚か者でありたい。ものごとを生真面目にとらないようにしよう。もっとチャンスを手に入れよう。もっともっと山に登り、もっともっと川で泳ごう。アイスクリームを今よりたくさん食べて、豆類は少なくしよう。きっと現実でのトラブルは多くなるだろうが、不安や思い過ごしは少なくなるに違いない。

ごらんの通り、私は時を日についで、賢く清らかに生きている大衆の一人だ。ああ、自分だけの時がもてていたなら。もし、もう一度生きてそうすることができたら、たっぷり自由な時を持つことだろう。つまり、他のことは何も試みまい。毎日あくせくと生きて多年を過ごす代わりに、ひとつ、またひとつと、ただそういう瞬間のみを。私は、温度計や魔法瓶や、レインコートや、パラシュートを持たずには、どこへも行かない人間だった。もし、もう一度それができたら、私は身軽に旅することだろう。

もう一度生きることができたら、まだ早春のうちにはだしで出かけよう。そして、晩秋になっても、大自然の中にとどまっていよう。もっとダンスをしに行こう。メリーゴーランドにもっと乗ろう。ひな菊をもっとたくさん摘もう。

ナディーヌ・ステア 85歳



作者の名前はナディーヌ・ステア(Nadine Stair)。アメリカ・ケンタッキー州・ルーイヴィル在住の女性で、彼女が85歳の時に書いたとされるこの詩は、多くの人に感銘を与え、多くの本や雑誌に引用され、またネットでもこの詩の引用をよく見かけます。引き寄せブームの火付け役になった『ザ・シークレット』に登場したことでも知られるジャック・キャンフィールドの著書『こころのチキンスープ』(原著は1993年刊)にも紹介されてますし、ニューエイジのスピリチュアルリーダー、ラム・ダスの著書『覚醒への旅』(原著は1978年刊)にも引用が見られ、また先日ネットでも見かけたりして、ここのところよくこの詩を見るので、ちょっと気になっていたこともあって今回記事にしてみました。

数々の本に引用される名詩の作者であるナディーヌ・ステアなる女性ですが、その素性が気になって調べてみたら意外な事が分かりました。英語版のウィキによれば、この女性、まことしやかに住所まで示されていながらも、実は実在する人物かどうかもわかっていないようです。この詩の出所を辿っていくと、あの南米文学の巨匠、ホルヘ・ルイス・ボルヘスに行き当たるようですが、ボルヘスの創作した詩ということではなく、アメリカの漫画家ドン・ヘロルド(Don Herold)の『私はもっとひな菊を摘もうと思う(I'd Pick More Daisies)』というタイトルの1935年に書かれた詩がオリジナルのようです。その詩をボルヘスがどこかのテキストに引用したようで、それがボルヘスの作として誤って拡散されていったみたいですね。そして、さらにそれがどういう経緯か、ナディーヌ・ステアなる老女の詩という改変が為されて主に北米で最も一般的に知られるバージョンに育っていったようです。先日のヴォルテールの話ではないですが、これもまた伝言ゲームみたいな面白い流れですね。

ちなみにドン・ヘロルドの詩は1953年のリーダース・ダイジェストにも改訂版を公開しているようです。オリジナルの詩は男性の視点で書かれてるので、どこか人生訓めいた重さがあるためか、さほど知られてなかったようですが、その後改変されて拡散された老女ナディーヌ・ステアのバージョンでは、女性目線のロマンチックな情緒が加味されているため、多くの人の心をつかんでいたのでしょうね。詳細は以下のウィキを参照してください。

まぁ、そういった細かい経緯はどうあれ、作品自体は味わい深い良い詩であるのはたしかで、人生をよりよく生きるにはどうしたら良いのか、という人類共通の問題を、ブッダなどの賢者目線ではなく、一般の普通のおばあちゃん目線で語っているところが、親しみ深く心に染み込んでくる所以でしょうね。

人生という劇場では、「自分」というひとりの主観劇を一本だけしか見る事はできませんから、充実した人生を送った人でも、後悔、というよりは「もしあの時こうしていたらどうだったろう?」とか、いろいろと「あり得たはずの別の人生」を想像してしまうのかもしれません。「次の人生ではもっと誤りを犯したい」という最初の一句が胸に刺さります。死後の世界があるにしろ、この自分という個体の人生は一度きりですし、何かの行為がどういう結果を招くのかは未知の世界なので、無難に生きようとしがちですが、慎重になりすぎてしまうと冒険の無い単調なものになってしまいますし、本当に人生というのは正解の無いドラマだなぁ、と感じます。しかし、どうも運命を支配している法則は、リスクを背負ってでも冒険する者に多くを与えるようになっているようにも感じます。人生の最後に後悔するのは、失敗した経験ではなく、やろうと思っていながらチャレンジしなかった事である、という話がありますね。スティーブ・ジョブズの名言に「ハングリーであれ。愚かであれ。(Stay hungry, stay foolish)」というのがありますが、まさに人間はハングリーな状態こそがアイデアや行動力を発揮しやすくなるところがあり、人生においてはチャレンジする事のリスクを勘定して臆病になってしまうような賢さよりも、見切り発車できる愚かさのほうが大切なのかもしれませんね。

関連サイト
ナディーヌ・ステアの有名な詩の出所について(wiki 英語)
posted by 八竹彗月 at 07:06| Comment(0) | 雑記

2019年04月06日

タイムマシンにお願い!(タイムパラドックスの世界)

時計寺山修司とタイムマシン

サディスティック・ミカバンドのヒット曲「タイムマシンにおねがい」は、タイムマシンに乗って恐竜の時代やら鹿鳴館の時代など、謎とロマンを求めて過去を旅する夢を歌った楽しい曲でしたね。タイムマシン、あるいはタイムトラベルもののSFはそういった感じで、過去の歴史的事件に立ち会ったり、未来の世界がどうなっているか見に行ったりといった空想を広げる人気のジャンルで、映画でも「バック・トゥ・ザ・フューチャー」や「バタフライ・エフェクト」など面白い作品が多いですね。日本アートシネマの傑作、寺山修司の映画「田園に死す」も、寺山独特のポエティックな時間論を主軸にした奇妙で詩的なシュルレアリスム作品でした。「過去」は固定した事実の集積で、「未来」は固まっていない無限の可能性の世界、というようなイメージが一般にあると思いますが、寺山はそこに詩的な問いかけをしています。過ぎ去った事は記憶の中にしか存在しない虚構に過ぎないのだから、過去とはつまり単なる記憶のことに過ぎず、であるから、実は過去を書き換える事は容易に可能なものである、という独特の思想を持っていました。映画「田園に死す」は、そういった思想を映像化した作品で、作中のキャラである映画批評家にこう言わせています。「人間は記憶から解放されない限り、ほんとに自由になることなんてできないんだよ」と。そして映画批評家は、主人公の「私」に次のような問題を投げかけます。「もし君がタイムマシンに乗って数百年をさかのぼり、君の三代前のおばあさんを殺したとしたら、現在の君はいなくなるか?」

ご存知、タイムマシンものには付き物の有名な「親殺しのパラドックス」(映画では親ではなくお婆さんですが)を言ってるわけですね。タイムマシンものは、そのように、無邪気に時間旅行のファンタジックな空想を楽しむだけでなく、「時間」というつかみ所の無い概念をどう認識するかという哲学的な問も含んでおり、また、そういった時間の解釈によって生じるパラドックスも興味深いものがあります。上述した「親殺しのパラドックス」が、その手のパラドックスの中で最も有名なもので、「バック・トゥ・ザ・フューチャー」しかり、タイムトラベルもののSFはそれをどう扱うかが重要なテーマになったりすることが多いですね。

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H・G・ウェルズ著「タイムマシン」1895年の初版本のトビラ絵。ウェルズはタイムマシンというSFの画期的なアイデアを生み出しましたが、その作品でタイムマシンが行くのは80万年後(正確には紀元802701年の世界)の未来です。今でこそタイムマシンものというと、過去の歴史的事件に介入したり、未来の競馬場に行って結果を見てから馬券を買ったりなど、現実的な欲望とリンクした使い方をされるのがメインですが、ウェルズはもっと単純に、時間を行き来するということ自体のロマンを表現したかったのでしょうね。80万年後となると、ほとんど現在の常識が通用する世界ではなくなってるはずですから、未来といってもほとんど異世界ものと区別のつかない世界でしょうね。しかしながら、タイムマシンというアイデアは、SF小説だけに限らず、物理学者なども真剣に議論のテーマにするような奥の深いものですし、また時間の謎にかかわるテーマでもあるので、哲学の分野でもしばしば議論のテーマになったりしていて面白いジャンルですね。

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寺山修司監督「田園に死す」1974年 配給:ATG
現在の「私」が少年時代の過去の自分と会話するシュールなワンシーン


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同上、「田園に死す」のワンシーン。雛壇が川上から流れてくる伝説のシーン以外にも、寺山の脳内にあった幻想怪奇のポエジーが映像として出力されているようなシーンは多く、人間の潜在意識に堆積した欲望やら希望やらがカオスに入り組んだような奇妙な世界を描き出していて凄いですね。

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上のシーンのスチール写真。一見なんてことのない寒村のスナップ写真のようでいて、同時にものすごく違和感のある異世界っぽさがにじみ出ている雰囲気がイイですね〜

メモ参考サイト
「田園に死す」(ウィキペディア)



時計親殺しのパラドックス

自分が生まれる前の過去に戻って若き日の自分の親を殺害したらどうなるか?という「親殺しのパラドックス」。自分が生まれるには両親が過去のある時点で出会って子供(つまり自分)を儲ける必要がありますが、その前に親に成るはずの人物を殺してしまうと、自分は生まれないことになり、であれば生まれてない自分が存在している自体が矛盾で、親殺し自体が不可能になります。殺された親は、まだ生んでない子供によって殺されたことになり、生まれていない殺人者がなんで存在できるのか、とか、いろんな部分が破綻してくるというパラドックスで、突き詰めていけば「存在とは何か?」という純粋に哲学そのものが扱うテーマと同じような思考の深淵にいざなわれていきますね。

「親殺しのパラドックス」は、まぁ、殺しとかですと物騒ですが、意図的でなくても似たようなミスを犯す可能性はあり、例えば、両親が結婚する大きなきかっけになったイベントなどを自分が過去に戻ってしでかした何らかのアクションによって結果的に妨害してしまうとします。すると、両親が結びつく確率がガクッと減るわけですから、自分が生まれる可能性も低くなってしまいます。殺人までしでかさなくても、過去に行くという行為自体が様々な問題を引き起こします。

そうした矛盾を解決するために、未来人の超国家的な組織であるタイムパトロール隊によって常に時間旅行者は監視されており、常に矛盾が起きないように管理しているとか、あるいはもっとアカデミックな感じで多元宇宙の概念で切り抜けようとするケースなど、そのあたりのバリエーションも様々な創意工夫があって面白いところです。父親を殺したつもりが実は自分は母親の浮気で出来た子供だった、などという悪趣味なパラドックスの解決策まであったりしますが、さらには、そういったアクシデントは偶然に起こるのではなく、もともと宇宙自体に時間の矛盾を補正する何らかの力が法則的に働いていて、タイムパラドックスが起こらないようになっている、というオカルティックな解釈もありますね。一見ご都合主義な解決法のようで、実際意外と宇宙ってそういうものじゃないだろうか、と思わせるところもあり、この解釈も突き詰めて行くと面白いアイデアになりそうな種ですね。

石川喬司著「夢探偵 SF&ミステリー百科」講談社文庫(1981年)に、親殺しのパラドックスの解決法が複数紹介されていて、そのいくつかは上記のように運命の謎めいた力によって、なぜか親を殺せない状況になってしまうというものも列挙されていますが、他にユニークな例では、アルフレッド・ベスター著「マホメットを殺した男たち」で描かれたアイデアを紹介しています。それは、殺したとたんに異質な別世界に入ってしまうというものです。話しの内容は以下のようなものです。

女房の浮気にショックを受けた科学者が我を忘れて怒り狂い、過去に旅して世界の歴史ごとめちゃくちゃにしてやろうと決意して、ナポレオンやらアインシュタインやら歴史を作ってきた歴史的な有名人を片っ端から殺害して現代に戻ってくる。しかし、戻った現代でも件の女房は相変わらず普通に存在していて、今まで通り平気で浮気しているありさま。世界は自分の行為によって何の変化もしなかったが、そのかわり自分だけが存在しない幽霊のようなものになってしまっていることに気づく。彼が変えたのは世界ではなく、自分自身の運命だったのだ。というお話です。メランコリックで詩的な情緒のあるなかなかのアイデアだと思います。

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石川喬司著「夢探偵 SF&ミステリー百科」講談社文庫(1981年)

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「SFファンタジア 2・時空編」原案:福島正実 監修:小松左京 編集:石川喬司 1977年(昭和52年) 学研
ビジュアル資料満載のSF百科事典「SFファンタジア」の2巻目の表紙。この巻は時空に関するSFがテーマで、タイムマシンやタイムトラベル関連以外にも、宇宙人はヒト型なのかという考察とか、宇宙という最大に巨大な空間を舞台に繰り広げられるスペースオペラもの、またSFアートやエッシャーなどの幻想絵画の紹介など、とても興味深い編集です。


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SFファンタジア 2・時空編」原案:福島正実 監修:小松左京 編集:石川喬司 1977年(昭和52年) 学研
タイムマシンの項は上述の「夢探偵」の著者、石川喬司が担当しています。「夢探偵」と重複する文章はありますが、こちらではもっとページ数を割いて詳細にいろいろ作品紹介をしていて、図版も多く読み応え見応えがあります。多元宇宙や異次元ものにも詳しく言及していて興味深い情報が多く紹介されています。




時計ループする時間

ドラえもんからはては以前大ヒットしたゲーム「シュタインズ・ゲート」まで、アニメ、漫画、ゲームなどでも多くの娯楽作品で、そのようなタイムトラベルによるパラドックスを様々なシチュエーションで描いていて興味深いです。そういえば「ルパン三世」の1stシリーズの第13話「タイムマシンに気をつけろ」でもタイムマシンが扱われていて、「親殺しのパラドックス」に触れてますね。シナリオでは親ではなく、もっと以前のルパン三世の先祖が魔毛狂介(まもうきょうすけ)と名乗る時間旅行者によって命を狙われる、というものでしたね。

「ひぐらしのなく頃に」などは、時間の概念自体を扱った独特の考察による「運命論」みたいな所が肝になっていてとても印象深い作品でした。話題になったアニメ「僕だけがいない街」「涼宮ハルヒの憂鬱」「魔法少女まどか☆マギカ」「Re:ゼロから始める異世界生活」などもそうした系列のいわゆるループものですから、ループもののSFは傑作を多く生み出しているジャンルともいえますね。「僕だけがいない街」は普通の現代日本を舞台にしていてキャラも普通にいそうなリアリティがあり、それだけにそうした普通の人が蜘蛛の巣のような時間の円環に囚われてしまうので余計に不思議感があって面白かったですね。物語は「ひぐらし」のオマージュ的な要素がよく出てくるので、とくに「ひぐらし」ファンにはニヤリとさせられるシーンが多く楽しかったです。内容はひぐらしより推理要素の比重が高く上質なミステリーになっていて、1話目からぐいぐい引き込まれてしまいました。ループするたびに、事件のヒントを少しずつ掴んでいく過程や、事件の原因になっている過去を見つけ出し、それを変える事で事件自体を回避していくところなど、スリリングでとても面白かったです。単にSF的な面白さだけでなく、人生論的なメッセージも深いものがあって、そうした部分が大いに共感をよんだことが大ヒットに繋がったのでしょうね。人と深く関わる事は、基本的に面倒なものなので、生きていくのに必要な程度だけ着かず離れずで人付き合いというものをしてしまいがちになりますが、そういう浅い関係は、自分だけでなく自分に関わった他者の運命にも浅い影響しか与えないために、結果的に運命に流される人生になりがちです。「僕だけ〜」では、まさにそういう、浅い人間関係だけで生きてきた厭世的な主人公が、受け入れがたい運命を変えるために、キーになる人物と深く関わっていく事になり、そうした主人公の「人間としての経験値」の上昇から伝わってくる人生の在り方などの哲学が、この作品を味わい深くしている部分だと思いました。

ループ系の作品は、ひぐらし以前の作品でいうと、押井守監督のいわくつきの作品「うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー」もそうですね。「ひぐらし」が2002年あたりの作品で、「うる星2」が1984年ですから、なんだかんだいっても押井守監督の先見性はさすがですね。ウィキの「ループもの」の解説では、時間のループ自体はけっこう昔からあったようですが、ひとつのジャンルとして認識されはじめたのは1987年のケン・グリムウッドの小説『リプレイ』の世界的ヒットから、ということで、そういう見地からも「うる星2」の先見性は注目したいですね。実は、私が「うる星2」を見たのは最近のことで、2、3年前にDVDではじめて見たのですが、「うる星やつら」らしからぬシュールで、メランコリックな雰囲気が印象的でした。原作者の高橋先生が不満を爆発された気持ちも理解できるところがありましたが、作品としては、そうした裏事情を抜きにすれば、うる星やつらのキャラで「ねじ式」を表現したようなアヴァンギャルドな感じの作品で、一見の価値はあると思います。

メモ参考サイト
「ループもの」(ウィキペディア)
「うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー」(ウィキペディア)



時計パラドックスの解決法

タイムパラドックスの解釈や解決の仕方などは、哲学的な思考実験そのもので、腰を据えて考えないとすぐ頭が混乱しそうな複雑な部分もありますが、またそこが楽しい部分でもありますね。タイムマシンもののSFをメインに執筆を続けた異端児、広瀬正さんの作品なども斬新な切り口で時間のパラドックスを描いていて面白かったですね。

タイムパラドックスのアイデアでとても気に入ってるのは、タイムマシンの発明に関する以下のようなパラドックスです。昔SF関連の事典かなにかで知ったのですが、本のタイトルが不明なので、ネット検索したら、同じアイデアが紹介されていたので引用します。

ある日、あなたは見知らぬ老人からタイムマシンの設計図を渡される。あなたはそれをもとにタイムマシンを発明し、大金持ちになる。やがて年老いたあなたはタイムマシンで過去へ向かい、かつての自分に設計図を渡す…。
…ちょっと待った、最初の設計図ってどこから出て来たんだ?

ニコニコ大百科「タイムパラドックス」より


これだけで見事なショートショートになりそうなアイデアですよね。最初に現われる見知らぬ老人の正体は、未来から来た自分自身だったというオチですが、さらに不思議なのは、その未来の自分が所持していたその設計図は一体どこから出てきたのか?という謎です。発明者が存在しないのに発明品だけがあるというパラドックスで、なかなか秀逸な謎です。上述の「夢探偵」によれば、J・G・マッキントッシュの短編「プレイバック」の中で似たような議論が描かれているそうで、「ベートーベンが『月光の曲』を書いた後で、誰かがそれを盗んで三週間前に戻り、それをベートーベンが曲を書く前に演奏して聞かせたとしたら、この曲をつくった者は誰ということになるか?」というパラドックスを紹介しています。タイムトラベルにはこのような様々な矛盾が生じますが、その原因はおそらく我々が認識している「時間」という概念そのものが間違っているのではないかというのも理由のひとつだと思います。一般に考えられているように、時間を1次元の線的なものと考えると、どうしても矛盾が生まれます。時間が1次元的な、過去から未来に流れる一方通行の流れであると仮定すると、過去は確定した世界ですから、もし過去の自分に会いに行けるなら、過去の時点で未来の自分に会った記憶があるはずです。なので、過去に「未来の自分に会った」という経験が無い以上、絶対に未来の自分は現在、あるいは過去の自分に会えないことになります。

そういえばさらに凄いパラドックスもありました。これは「夢探偵」で紹介されているタイムパラドックスのアイデアの中で最も奇妙だったもので、時間移動によって自分自身と交わって自分を生んだ話です。なかなかよく出来てますが、それなりにかなりのややこしさです。内容は以下の通り。

アメリカSF界の大御所、ロバート・A・ハインラインの短編「輪廻の蛇』は、これにさらに輪をかけた奇妙奇天烈マカ不思議な話である。この小説では、自分と自分がセックスして自分が生まれる。えっ、そんなバカな、と誰もが思うだろう。しかし本当にそうなるのだ。
詳しく説明すると──────捨子として孤児院で育てられた娘Aが、年頃になって男Bに誘惑され妊娠して、帝王切開で子供Cを生むが、その子供が病院からさらわれる。さらったのは時間旅行者で、彼はタイムマシンで昔に行き、その子供を孤児院の玄関に捨てる(C→A)一方、娘は帝王切開のとき半陰陽であることがわかり、女性器も子宮ももう役に立たないと判断した医者は、娘を男にしてしまう。娘が男になって六年目、時間旅行者はその男をたぶらかして七年昔に連れて行き、娘を誘惑させる(A→B×A)。そこで、A=B=Cということになる寸法だ。おわかり?

石川喬司著「夢探偵 SF&ミステリー百科」講談社文庫(1981年)p174より


とにかくタイムマシンに関する様々な矛盾や解釈は、ある意味とてもチャレンジしがいのある知的ゲームですから、無数の論説があって個人ではカバーしきれないところでもあります。そのあたりの様々な解釈のバリエーションを分類したりするのも面白い研究テーマかもしれませんし、もうそういう論説をしている作家さんもいるかもしれませんね。これから私が語ろうとしているタイムマシンに関する解釈も、もしかしたらすでに誰かが論じているような気もしますが、ざっと検索したところ、全く同じような論旨はたまたま見つからなかったのもあり、それをちょっと書いてみようと思います。

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広瀬正「広瀬正・小説全集・6 タイムマシンのつくり方」集英社文庫 1982年
ウェルズの創始したタイムマシンですが、タイムマシン(タイムトラベルも含む)ジャンルの開拓者というとハインラインということになるのでしょうか。ハインラインは読んでないので何とも言及しずらいですが、日本におけるこのジャンルの作家といえば広瀬正を抜きには語れないでしょうね。小松左京、光瀬龍、筒井康隆などSF界の巨匠が多く関わっていた日本SF創世記における重要な同人誌「宇宙塵」に寄稿した広瀬正のタイムマシンものの短編「もの」が星新一に絶賛されたことがきっかけになり、それ以降広瀬はタイムマシンもののSFばかり書くようになったそうですが、48で急逝という短い生涯だっただけに、結果的にタイムマシンものだけに取り組んだ特異な作家として日本SF史に残る事に。星新一は「結果的に彼にとって気の毒なことになったのではないかと後悔している」と後に語っていたと筒井康隆があとがきで触れてましたが、逆に、タイムマシンもの(時間もの)だけに才能を集中させたことで印象深い作家になっているともいえますし、一概に判断するのは難しいところでしょうね。




時計タイムトラベルによる宇宙への影響について

前述の親殺しや、あるいはタイムマシンの発明者を発明する前の過去に戻って殺すとか、タイムマシンが存在するだけで重大なパラドックスが生じると思われるわけですが、往々にしてパラドックスというのは、そもそも前提となる根本が間違っているから起こるのであり、パラドックスが生じるのは、時間を過去に遡ったり、未来に進めたりという行為自体が不可能であることの証拠である、という見方もあると思います。そこで、ここでは、それがなぜ不可能なのか、についての話しをしたいと思います。

スピリチュアルな解釈では、時間は「今ここ」にしか存在せず、過去も未来もエゴの妄想(仏教では迷いともいいますね)であって、そんなものは元々無い、という考えがあり、これはおそらく実際にもそれが真実に近いであろうと私も思います。過去とか未来というのは人間が物事の「変化」を随時脳に記憶させることで生じる架空の概念で、実際には過去の世界とか未来の世界というのは存在せず、ただ脳が物事を認識したり分類したりするときに便利だから一時的に採用している人間独自の「解釈」なのでしょう。しかしその解釈を採択してしまうとタイムパラドックスをこれ以上論じてもつまらないですから、少し別の側面から考えてみようと思います。

仮にタイムマシンが存在するとして、それを使って自分が過去や未来に行ったりできるとすると、タイムマシンで行った先の過去や未来では、その時点での宇宙の総質量は、自分と乗ってきたタイムマシンの分だけ増えることになります。単純に考えて、過去の自分に会う(会うと矛盾が生じるので、遠くから観察する、でもいいですが)その時点の宇宙は、余分な自分の質量分だけ多いことになります。タイムマシンが存在する時代なら、自分だけが使えるわけではないでしょうから、過去の歴史的瞬間などでは、とくに未来からの見物客がたくさん来そうですし、そうなると、クレオパトラや楊貴妃がどのくらいの美人だったか生で見たい人は多いでしょうし、戦争の真実を調査したい歴史家や、生物の進化などの調査など、なにかと特定の時期には未来からの来訪が増えて、宇宙の総質量がその時々で増えたり減ったりとすることになります。

宇宙全体の質量が必ずしも厳密に保存されるかどうかは分かりませんが、宇宙をひとつの閉鎖された箱庭のようなものだとすれば、宇宙を構成する物質が人間の都合で増えたり減ったりするのは、おかしいような気もします。宇宙全体からすれば、地球上の人類すべてがある歴史的な事件のあった過去の地点に観光に行ったとしても、海水に墨汁を一滴垂らしても海は黒くならないように、時間移動で生じる宇宙総量の変化は物理的な量としてはほとんどゼロみたいなものかもしれませんが、ゼロでない限りはやはり変化してしまうには違いありません。そうした物理的な矛盾を許容するように宇宙はできているのかどうか、というのがひとつの疑問です。

もうひとつは、時間移動に伴う空間移動の問題です。タイムトラベルによる時間を遡るというイメージが、単に地球上の人間のスケール感だけで解釈している場合が多いですが、実際はガリレオの時代のクリスマスと、去年のクリスマスにおける地球の位置は、太陽系においてはほとんど同じですが、太陽系ごと銀河系を回っているので、銀河系での位置はまったく別の空間になっています。また銀河系もグレートアトラクターと呼ばれる重力場に秒速1000キロものスピードで引き寄せられているそうなので、時間をちょっと移動するだけでも空間的にはまったく別の場所にかなりとんでもなく複雑に移動することになります。

つまり、例えば時間を5分遡るということは、宇宙全体まるごと5分巻き戻すのと同じといえます。5分前に時間を遡るイメージだけだと簡単そうですが、5分前の時間に存在していた同じ空間に行くということは、宇宙スケールでの大事件になるはずなので、そう考えると、一般的な時間の解釈で考えてもタイムトラベルは不可能そうに思えてきます。バタフライ・エフェクト(バタフライ効果)は、蝶の羽ばたきという微細な現象も、巡り巡っては地球の裏側で起こる竜巻などの気象の原因にもなるうるという、カオス理論でいうカオス運動の予測不可能生の例え話ですが、そもそもこの宇宙は細部に至るまで宇宙にとって不必要なパーツは存在せず、全てが宇宙の何らかの構成要素なのですから、どんな些細な物質やエネルギーも何らかの大きな現象の要因になる可能性はあるのではないでしょうか。そういう意味でも、たとえ5分だけでも時間を戻すということは、その5分間で生じた宇宙の全物質とそのエネルギーの状態を変えなくてはならず、わずかな時間旅行も宇宙規模の大事(おおごと)になるのではないかと思います。

タイムトラベルの科学的な推論のひとつに、ブラックホールの強烈な重力場における時間の伸縮を利用したタイムトラベル的なものなど、相対性理論などの現代物理学の成果を利用したものがありますが、宇宙まるごと巻き戻して過去に戻るということはさすがにどんな方法も皆無でしょうから、仮にそうした現代科学的な方法で時間を移動できても、それで行く「過去」や「未来」は、いわゆる本当の過去や未来ではなさそうな気がしますね。

メモ参考サイト
「グレートアトラクター」(ウィキペディア)
「バタフライ効果」(ウィキペディア)



時計でも可能性を信じたい

とはいうものの、それは個人的な人生の短い経験や学習によって育んだ経験則のような、多分に固定観念を含む常識をもとにした思考ですから、実際の宇宙はもっと融通の利いた自由な世界かもしれません。不可能を論じるだけでは面白くないので、また別の視点で考えてみますと、この宇宙は、物理的存在として捉えられる部分以外にも、さまざまな次元で存在していると思われるので、以前の記事などでも何度か言及したように、何か全く新しいパラダイムの登場によって、意外と簡単に時間旅行が可能になる可能性も十分あるとも思っています。

人間の脳が「時間移動」のアイデアを捻出することが可能であるから、人間はそうした概念で遊べるわけですし、宇宙は人間に時間旅行に関する思考を許しているから人間はそういう考えを持てるともいえると思います。人間も宇宙に組み込まれた存在である以上、真に無意味な事を考える事も不可能であると思うので、人間が時間について考えたり時間旅行について思考するのも何らかの可能性や意味のあることなのかもしれません。もしかしたら、意外な何か突破口があって、それを発見する事でタイムマシンも意外とあっさり実現してしまうこともありそうな気もしています。実際にタイムマシンが存在する世界が訪れたら、そういう時代では、タイムパラドックスもすでにあっけなく解決されてるでしょう。未来人は「なんで昔の人は時間移動でパラドックスが生じるなんていう誤解をしてたんだろう」と思うのかもしれませんね。

まぁ、タイムマシンの製造が可能か不可能かなど、突き詰めれば「わからない」という答えにしかならないわけですから、それなら「可能性」を信じる方がロマンもあって楽しいのはたしかです。実際に、それについて真剣に考えた人が漫画や映画などタイムトラベルものの傑作を生み出してきたのですし、そうした作品で涙したり、勇気をもらったりする人もたくさんいるわけで、そう考えると、それはそれで、実際にタイムマシンを作ること以上に価値のある事なのかもしれません。
posted by 八竹彗月 at 13:13| Comment(0) | 雑記

2019年02月28日

どろろん、どろろん、どろろ論

「どろろ」のリメイクアニメ、評判どおりスコブル面白いですね!毎回ワクワクドキドキスコスコブルブルな感じで、先のストーリーは分かっていながらも強く惹き付けられるその世界観、さすが漫画の神様による神作品だけのことはあります。設定も内容もあまりに深過ぎて少年雑誌での連載当時はウケが悪く、打ち切りになったというのは有名な話ですが、振り返って俯瞰すれば「どろろ」は未完の作品でありながらも手塚作品の中でも、他の傑作に退けを取らない傑作と断じても過言ではないでしょう。だからこそ、ゲームや実写映画や今回のリメイクなど、時を超えて何度も日の目を見る事になったのだと思います。

「どろろ」という作品は、名前だけはずっと知ってましたが、そのタイトルの不気味な響きに、「何かドロドロした人間関係を描いたおどろおどろしい時代劇作品」といった先入観をもってしまって、ずっとスルーしてきました。秋田書店サンデーコミックス版の単行本表紙のイメージがそんな感じで、当時はどろろの筆文字のロゴデザインだけで恐いイメージがありましたし、不覚ながら傑作のニオイを嗅ぎ取れませんでした。その後だいぶ時が経ってからPS2のゲーム「どろろ」をプレイしたのがきっかけで、「どろろってこんなに面白い作品だったのか!」と衝撃を受けたのを思い出します。原作では48の部位のうち16カ所を取り戻したところで未完になっているようですが、ゲームではその後ちゃんと48の部位奪還をコンプリートするまでオリジナルシナリオで補完されており、自分の中では今までプレイしたゲームのベスト10には必ず上位に入れたい作品になりました。まぁ、そんなにたくさんゲームはやってるわけではないので、他人には役に立たないベスト10になりそうですが。ゲーム版も、どろろの可愛い声や百鬼丸のシブい声、声優さんの演技も完璧にハマっていて完成度がとても高い作品になってましたね。どろろの「ほげたら攻撃」とか変なアイデアも満載の面白い作品でした。ゲーム版の設定では、百鬼丸が取り戻す48の部位のうち7つは肉体器官ではなくチャクラ(霊的な次元の身体に具わっているとされる身体各所に点在するエネルギースポット)が割り当てられている所もマニアックでニヤリとさせられる部分です。またしばらくぶりにプレイしてみたいです。ゲーム版の設定では百鬼丸は、肉体部位のみならずチャクラまで鬼神に奪われた状態から鬼神を倒さざるを得ないわけですから、初期のバトルは唯一最初から持っていたもの、つまり己の「魂」のみを武器にして運命を切り開いていくような感じだったのでしょうね。壮絶というかなんというか、フィクションとはいえここまで過酷な条件が設定された主人公は他に類例がないですね。

メモ関連サイト
PS2「どろろ」オープニングムービー(YouTube)
ゲーム版「どろろ」のオープニング。個人的にこれほど期待感を高めてくれたオープニングムービーは珍しかったです。百鬼丸の解剖図らしき図解が怪し気に出てきますが、これはおそらく百鬼丸の育ての親、寿海が、百鬼丸に付けるための義手義足などを作るために作成した設計図みたいなものでしょうね。他、チャクラの図など、東洋オカルティズムを彷彿とするビジュアルが好みのツボを突かれる神秘的な導入で、「これは絶対面白い作品のはず!」と確信させてくれる秀逸なムービーでした。前半は地獄堂の鬼神に父である醍醐景光(だいごかげみつ)によって生贄に捧げられた芋虫状態の布にくるまった百鬼丸と、それを見下ろす48体の鬼神。炎をまといながら迫り来る無数の馬上の鎧武者の映像も意味ありげですが、これは1969年にアニメ化された「どろろと百鬼丸」のテーマ曲の歌詞にある「燃える鎧に燃える馬」を映像化したものだといわれてますね。このムービーではどろろはそんなに可愛く表現されてないように思えるかもしれませんが、本編ではチョコマカ動くアクションや大谷育江さんの可愛らしい声が絶妙にマッチしててとてもかわいいです。

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『どろろ』PlayStation2 制作・セガ 2004年
こんな面白い作品があったのか!と衝撃を受けたゲーム版の「どろろ」です。ロードが重いとか多少の欠点はありますが、それを凌ぐクオリティのため全部許せてしまいます。そういえば、「どろろ」というネーミングセンス、インパクトがすごい響きですが、由来は当時は幼児だった息子さんの手塚眞氏が「泥棒」を「どろろう」と舌足らずに発音したことがネーミングのきかっけになっているというエピソードを「どろろ」の単行本のあとがきかなにかで読んだような記憶があります。念のために調べてみると、wikiにもそのあたりのエピソードが紹介されていますが、少々事情は複雑みたいで、そういう説はたしかにあるものの細部が異なる複数の説を手塚先生自身が残しており、手塚眞氏も先生の生前そのあたりを聞きそびれていたとのことで詳細は永遠の謎らしいですね。


ゲームに感動した勢いで原作を読んだりしましたし、モノクロ時代のアニメ「どろろと百鬼丸」も見ましたが、やはり最初に出会ったのがゲーム版だったせいか、ゲーム版どろろが個人的には一番好きだったりします。今回のリメイクは、その思い入れのあるゲーム版に匹敵しそうなくらいの完成度があって、スタッフのどろろという作品に対する並々ならぬリスペクトを感じます。身体部位の欠損という設定は、現代ではとくに倫理的に神経質な目もある中で、ギリギリなものがありますが、漫画、アニメという日本の現代文化を先導して牽引してきた偉人、手塚治虫の作品ということもあり、そのあたりは誤解されることなくリメイク放映が叶ったのかもしれませんね。

この作品の奇抜な所は、なんといっても主人公が鬼神に身体中の部位を奪われたマイナス状態からスタートし、全身の部位を奪還するまでを骨子にしている物語であることですね。目的を全部達成した暁にはスーパーマンになったりするわけではなく、多分ありふれた健常な人間になるだけに思えますが、そういうところも哲学的な深いものを感じます。誰しもが普通に当たり前に思っているような状態こそが、実はこの世で最も貴く幸福な状態なのだ。という御大手塚治虫による深遠なメッセージのようにも受け取れます。

また、ゲームにもなったくらいで、よく考えてみると、48の部位を取り戻す旅と戦い、というのはゲームシナリオとしても絶妙で、最初からゲームのために考案した設定であるようにも思えるほどゲーム性のあるアイデアですね。物語の骨子が見てて分かりやすいそういう所もこの作品の魅力なのでしょう。次から次へと強い敵が出てきて戦う、という少年漫画にあちがちな繰り返しパターンに、どろろの場合はきちんと終始一貫した根拠と理屈が最初から与えられているために、そういったパターン化したマンネリ感を感じずに楽しめるようになっているところも感服する部分です。

そういえば、「どろろ」の主人公はどちらかというとどろろではなく百鬼丸のほうだと思いますが、これも「天才バカボン」の主人公がバカボンではなくパパのほうであるのと何か通じるものを感じてしまいます。こういった、なにげない部分で定石に肩すかしをくらわせている所も天才の発想みたいなものを感じてしまいますね。

マイナスの状態からの主人公が、ゼロの状態を目指して戦い、成長していく話というと、「アシュラ」もそうでしたね。以前ジョージ秋山の問題作「アシュラ」が40年ぶりに映画化されて日の目を見ることになり、ちょっとした話題になったことが思い起こされます。主人公アシュラもまたマイナスからゼロを目指すような話で、あまりの飢餓の時代のために親に捨てられ人間の言葉も常識も愛情も何も持たずに成長してしまったアシュラが人間の心を取り戻すまでをドラマチックに描いた傑作でした。人肉を喰らってでも生き延びることだけが最大の行動原理になってしまったアシュラですが、彼もまた、普通に人間社会で、人に必要とされ、人を愛し愛されるような平凡な人並みの人生の出発点に行き着くことこそが彼にとっての目標でありました。

百鬼丸とアシュラ、彼らの生き様は、マイナスからの出発という過酷な宿命を生きる可哀想な運命として捉えがちではありますが、そんな彼らに深く共感する私たちもまた、もしかしたら百鬼丸たちと同じ部類の、失ったものを見つけ出す旅を続けている仲間なのではないだろうか?と、ふとそんなことを思いました。前述したように、彼らの姿は、私たちに「当たり前こそが有り難い」という真実に気づかせてくれます。毎日食べ物があるというのは有り難い。蛇口をひねるだけで清潔な水がこんなに簡単に得られるのは有り難い。アニメを見たりゲームをしたりネットを楽しめる目があることが有り難い。たとえ何人でも自分を気にかけてくれる人がいること自体が有り難い。身の回りにある便利な機械や道具は、全てどこかの誰かが苦心して作ってくれたから今ここにあるわけで、着ている服から何からほとんどのものは自分以外の誰かのおかげさまで、楽をして過ごせているのだということにふと気づくと、感謝の心というのは無理に儀礼的にひねり出さずとも、いつでも自然に湧いて出てくる状態のほうが本来の真実の人間の在り方なのではないだろうか、と、そんなことを考えさせられました。

百鬼丸やアシュラの目線で現代を見るなら、この世はそのまんま天国のような夢の世界にみえるのかもしれません。毎日空腹を感じることのないほど食べ物が満ちあふれている時点で、百鬼丸やアシュラの時代では考えられないような楽園に違いありません。百鬼丸たちが身体の部位や人間性など、私たちにとってはあって当たり前だと思っていたものを取り戻そうと奮闘しているように、私たちも同様に当たり前でなければならないもの、つまり「感謝」すべきものに感謝する心を失っていて、それを取り戻す人生という旅をしているように思えてきます。相田みつをさんの言葉「奪い合えば足らぬ。分け合えば余る」というのを見たとき、衝撃でした。まさに、奪い合えばこの世は地獄になり、分け合えばこの世はそのまま一瞬にして天国にもなるという極意。テクノロジーの発展だけが天国の条件なのではなく、むしろどのような時代であっても、人と人が分かち合って喜びあえるような世界こそが天国であるのかもしれませんね。
posted by 八竹彗月 at 02:02| Comment(0) | 雑記