2021年12月18日

トロッコ問題について

211218_trocco_icon.pngトロッコ問題

トロッコ問題というと、ハーバード大学のマイケル・サンデル教授の例の番組(『白熱教室』)によって一気に知られるようになった感がありますが、元は英国の哲学者フィリッパ・フットによって1967年に提起された思考実験のようですね。倫理とは何か?を深く考えさせられる秀逸な問題です。なぜ秀逸なのかといえば、答えの無い問題だからでしょう。いや、答えが無いというよりも、安易に答えさせてくれない絶妙な「答えずらさ」がこの問題の優秀な所ですね。

答えの無い問題であっても何らかの答えを出さなくては先に進めない、ということは人生には何度も突き当たるもので、トロッコ問題はそうした人生に立ち現れる様々な問題をデフォルメしたものであるともいえるかもしれません。2択を迫られる状況で、どちらを選んでも失敗であるようなことって意外と多く、単純な例では、親友二人に「どっちが一番の友達だと思う?」と聞かれたらどっちを答えても必ずもう一方を傷つけてしまいます。また政治的な問題はそのほとんどが正解の無い選択を迫られるものばかりで、何をどう選択しても反対の立場の人は必ずいるので文句をいわれます。ある意味現代版の禅問答(公案)みたいな側面もあって、考えすぎるとどんどん沼にハマっていくようなところもあり、そういった面でもなかなかよく出来た問題です。

トロッコ問題は、人によってさまざまな答えがあるでしょうし、同時にどんな答えもどこかモヤモヤした不満足感を覚えるものばかりです。なぜなら、問題の核心は、「2つの失敗のうち、どちらの失敗を選ぶか?」というものだからです。


211218_trocco_icon.png究極の意地悪クイズ?

トロッコ問題自体についてはいまさら説明するまでもないとは思いますが、ざっと説明しますと、だいたい以下のような内容の問題です。


制御不可能になってしまったトロッコが猛スピードで線路を走っている。線路の先には暴走するトロッコに気付かずに線路の補修工事をしている5人の作業員がいる。このときあなたはたまたま線路の分岐器のすぐ側にいた。分岐を切り替えて別の路線にトロッコを走らせれば5人は助かるが、切り替えた先の路線には運悪く一人の作業員が事態に気付かずに作業をしていた。あなたは分岐器でトロッコの進行先を切り替えるべきだろうか?

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答えが無いだけでなく、とっさの判断でその「答えの無い問い」に答えねばならない状況設定も秀逸です。最初に思いつくのは「より犠牲者の少ない選択」で、はじめてこの問題を出された場合、一人の作業員を犠牲にする選択をする人は多いと思いますが、よく考えると、そう単純にもいかない部分があり、思考の迷宮にハマっていきます。

トロッコ問題は、一見すると分岐する路線をどちらか選ぶ問題のように見えるものの、よく読むと本質は「分岐器を操作するか否か」という問題だからです。つまり、犠牲者が少なくてすむ選択をするには「分岐器を操作する」という行為によって、自分自身が事態に介入する選択をする必要があり、意図的にひとりの作業員を犠牲にする選択をせねばなりません。

逆に、5人を犠牲にする選択は一見悪手に思えますが、実際は分岐器を操作しない、つまり事態に介入しない選択なので、仮に操作せずに5人が犠牲になっても、「とっさの事態なので急に判断できなかったんだ!」と自分に言い訳できます。

トロッコ問題とは、犠牲を5人にするかひとりで抑えるかの単純な問題ではなく、5人を自分の不作為によって見殺しにするか、ひとりを自分の意思と行動で死に至らしめるか、の選択です。単純に「ひとりを犠牲にする」選択ができなくなっているところが、よく出来てるなぁと感心させられます。責任の所在を考慮すると、5人を犠牲にする選択は、「行動しない」ことによって引き起こされるわけですし、そもそもこの場合、分岐器の近くに自分がいなかったとしても同様の事態が起こるわけですから、そういう観点では「5人を犠牲にする」方の選択肢もさほど異常な選択肢ではなくなっているところも、よく考えられた問題ですね。

トロッコ問題はそういう思考実験なので、犠牲者が出ない選択は無いものとして考えるべきでしょう。例えば「5人の作業員に叫んで危機を知らせる」とか「線路に障害物を置いてトロッコを脱線させる」などの答えは考えるべき本質がウヤムヤになってしまいますから、トロッコ問題を答えてもらう場合には往々にしてそうした選択ができない状態が設定されています。

何年か前に線路の分岐ポイントを「中立」にすればトロッコは脱線して被害者はゼロにできるというアイデアがツイッターで話題になったことがあったみたいで、現実に起きる問題の解決策としてなら、それはそれでネタとしては楽しいのですが、トロッコ問題は犠牲者をゼロにする手段が無い場合にどうするか?という問題を作成するにあたって具体例として仮にトロッコなだけで、犠牲者を出さないためにはどうしたらよいか?を考える問題ではありません。まぁ、人情としてはどうにかして被害者のいない答えを探したくなる気持ちはすごく分りますが。ウィキペディアの解説では手押し車のようなタイプのトロッコではなく、人を乗せるタイプのトロッコ列車で解説していますが、このタイプだと、脱線させた場合は5人どころかそれ以上の乗客に被害者を出すことになります。この思考実験は二つの失敗のうちどちらの失敗を選ぶかを悩み、そのうえで自分なりの理念でどちらかを選ぶことを決断することが目的で、犠牲者をゼロにする方法が無い場合にどうするか?を考えるのがこの問いの目的です。

では私ならどちらを選ぶのか?といいますと、正直わかりません。問題を出されたらどちらかを答えると思いますが、そもそも正解が無い問題で、正解を出すための問題でもないので、答え自体はコイントスで決めても同じような気もします。トロッコ問題では、被害を最小限(1人)に抑えるためには自分が殺人者になる覚悟を必要としますし、自分の責任を最小にしようとすると最大(5人)の被害者を出してしまいます。人生にはトロッコ問題ほど深刻ではないにせよ、正解の見えない選択をしなければ前に進めないことはよくあります。そういう人生のジレンマを分りやすく擬似的にモデル化して、自分がどのような決断をするのかを客観的に知るためのものとして考えればいいのかもしれませんね。


211218_trocco_icon.png人工知能とトロッコ問題

そういえば最近トロッコ問題の話題で面白いな、と感じたのは、近い未来に実現するであろうAIの制御する自律型自動車にトロッコ問題が深くかかわってくるという話です。自動車も、将来はAIや自動車技術の進歩によって、人間がハンドルを握らなくてもコンピュータのネットワークによって制御された自動車がAIの判断で安全に目的地に運んでくれるような時代がくると予測されていますね。

そうなれば全ての道路の混雑具合を元に渋滞を避けて最短距離や最短時間を割り出して走ることになります。また近年問題になっている高齢者の運転ミスによる事故や、煽り運転の問題など、さまざまな交通に関する問題が一気に解決する夢の時代が来ると思われ、期待に胸が高鳴るところです。しかし、どうも良い所ばかりではないようで、そういう時代が来ればそういう時代なりの問題が持ち上がってくるだろうというお話です。

例えば次のような場合です。ブレーキが故障した自動車が5人の歩行者が横断中の横断歩道に突っ込もうとしている場面。ハンドルを切って横断歩道の手前の障害物に意図的にぶつかれば5人は助かりますが運転手は死に、ハンドルを切らなければ5人が亡くなります。まさにトロッコ問題ですね。客観的に考えれば5人を助ける選択をしたいところですが、ハンドルを握っているのは運転者ではなくAIです。AIが自分の制御する車に乗せている人をいざとなれば意図的に犠牲にするとなれば、そんな「自分を殺す車」には怖くて乗れないということになりますし、そういう判断をするAIを組み込んでいるシステムの管理の責任など、どちらに転んでもいろいろめんどくさいことになりそうです。

また、自動車に乗っているのが妊婦さんで、ひかれそうになっているのが薬物依存の犯罪者だったとしたらAIはそれらの属性によって犠牲者をどちらにするか判断するのだろうか?など、これもどういう決断をしても何らかの批判をうけそうなジレンマ状態になりそうです。トロッコ問題のようなものは人間でさえ確固たる答えを出せないでいる倫理的な問題ですから、AIがどのような賢い判断をしようがその判断をジャッジするのは人間なので、そう簡単には皆が納得する模範解答は得られそうもありません。

まぁ、実際に自律型自動車が本格的に世界中で運用される時代になれば、AIが状況を判断する場合に拠り所となる世界共通のルール(より多くの命を助けれることを優先する、とか、あるいは自分の車に乗っている人の命を最優先するとか)を決めて、そのルールに納得したうえで利用していくことになるでしょうね。以下のリンクにある「WIRED」様の記事によれば、マサチューセッツ工科大学の研究チームが、AIを搭載した自動車は特定の状況で何を優先すべきと思うかを世界各国でアンケートをとったそうです。「生存者と犠牲者の数」「性別」「年齢」「社会的地位」などなど9項目で、結果は興味深いものがあります。

どの国でも共通していたのは「動物より人間、少人数より多人数、高齢者より若者」が優先されたそうです。国によって差異があった傾向については、日本は助かる人数よりは「誰を助けるか」という「質」を優先する傾向があったそうで、逆に生存者数を重視したのはフランスだったようです。歩行者よりも車に乗っている人を優先したのは中国とエストニアのようです。詳細は以下のリンク先の記事を読んでいただくとして、たしかに国ごとの歴史的な背景や文化によって価値観はかなり違ってきますし、一律なルールを決めるのも難儀しそうな課題ですね。こと人命に関する意見というのは、デリケートなので本音やリアリズムだけで合理的に話を進めづらいというのもあり、今後も検討が続く問題になりそうですね。



メモ参考リンク


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posted by 八竹彗月 at 12:47| Comment(0) | 哲学

2014年10月14日

エックハルト・トール「ニュー・アース」

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「ニュー・アース -意識が変わる 世界が変わる- 」エックハルト・トール (著), 吉田 利子 (翻訳) サンマーク出版 2008年

エックハルト・トールというと、欧米ではけっこう有名人のようで、現代の精神世界のリーダーとして注目を浴びている人物みたいです。1977年、29歳のある夜、自殺を考えるほどの深い苦悩の中、突如として自分の内部で変革が起こり悟りを得たそうです。YouTubeで和訳された彼の動画も見れますが、見た目も、どこか静寂を身に纏った感じの落ち着いた雰囲気の人物です。ここのところ、ひさびさに精神世界系の本などを読んでますが、その流れで最近読んで感銘を受けたのが、このエックハルト・トールの代表作のひとつ「ニュー・アース」です。今回はこの本のレビューを書きたいと思います。この本は、読み進めるうちに自分の心の奥深くに自然に誘(いざな)われ、心の本質というか、「私」という自覚の本質に気づかせてくれます。自分で自分の心を制御するのは悟りへの第一歩ですが、まず「心」とか「私」と呼んでるものの正体を知らねばどうにも対処のしようがありません。この本では、大多数のページを割いて、この自分の内部を覆っている「自分のフリをしているやっかいな心の機能」であるエゴやペインボディ(過去のトラウマなどが堆積した古い感情。精神的苦痛をもたらす)に気づかせ、それを制御していくノウハウを噛み砕いて説明してくれます。

難解な本や退屈な本を読んでいると眠くなる、というのは良くある話ですが、エックハルト・トールの代表作「ニュー・アース」は、平易に面白い事が書いてあるのに眠くなるという不思議な本です。この本を必要としている度合いが高い人ほど眠くなると思います。私も読了までに何度も睡魔に襲われ、何度も眠ってしまいました。それはこの本が、「私」だといつも思い込んでいる部分、「エゴ」を暴きだし、「私」をエゴから解放するノウハウを語っている本だからかもしれません。エゴとは、普段「私」と同一視して「私」そのものだと勘違いしてしまっている部分であり、「私」を乗っ取っている「思考」という名の精神寄生体です。エゴを本来の「私」に制御されてしまうと、エゴは脳内の安楽な居場所を追われる事になります。なので、このようなエゴを暴くような"エゴにとって危険な本"を読む時にはエゴは必死になって眠りに誘い邪魔をするのでしょう。

そもそもエゴは「私」の一部であり「私でないもの」ではないので、基本的に敵対するようなものではなく、扱い方を知っていれば良い友人です。エゴがやっかいなのは、エゴは私の部分としてではなく、エゴのはたらきが「私そのもの」であるような錯覚を私に与え、問題の無いところに問題を創造する機能があるからです。エゴは私の心の機能の部分的なはたらきである、という自覚をもたなければエゴが暴走をはじめたときにブレーキをかけることができません。エゴの存在に気づき、制御するためには、エゴを客観的に眺める距離感を感じることから可能になります。そうするにはどうすればいいかというと、「"今"に気づくこと」です。

エックハルト・トールの根本思想はいたってシンプルで、「"今"という唯一の場所に気づき、"今"を生きよ」ということです。一見当たり前のように聞こえますが、普段我々の心は一日の大部分が「今」でない場所に居ます。過去の失敗を悔やんだり、未来の予定を立てて不安になったり、心配したり、いつも「今」でない時間に心を飛ばして、なんの得にもならないのにネガティブな気分になって過ごす事で、余計なストレスを抱え込んでいます。こうした心のはたらきを、なにげなく「自分の心」がそうしているのだからしかたない、と、当然のように感じて過ごしてしまい、そうしたストレスからは逃げられないのが当たり前のように思い込んでいます。しかし、「思考」と「私の本質」とは別であるという認識にいったん立って、「思考」を客観的に眺める、という感覚をマスターすることで、そうしたストレスを回避することが可能になります。

この「思考」を客観視する「私」という心はどこにあるか?というと、「今、ここに」あるわけです。「今」について「考える」こと無しに、「今」をただただ「感じる」ようにしていくと、突然、「思考≒エゴ」とは別の種類の「心」のはたらきを感じることができます。エックハルト・トールは、この「今、ここ」にある「心」を起点にすることの重要さを何度も繰り返し示しています。そして、この「今」こそが唯一不動の安息をもたらす場であると主張しています。とてもシンプルな思想なのですが、本質的な部分の理解は「それ」を体感した時の実感を必要とします。「ニュー・アース」は、「心のおしゃべり」を止めて、「今」という場を感じる気持ち良さに浸るためのノウハウ本といえるかもしれません。興味を持たれたらぜひ"今"を体感してみてください。
posted by 八竹彗月 at 22:46| Comment(0) | 哲学

2013年08月13日

サウンド・オブ・サイレンス

耳手塚治虫の無音表現「シーン」
漫画は音がありません。音を表現するには擬音を描きこめばいいのですが、音の無い状態はハテどうしたら表現できるのか?手塚治虫は、音の無い状態をあらわすコマに「シーン」と描きいれた最初の漫画家でした。文章ではそれまでも使われていた表現ですが、それを漫画の世界に転用するというアイデアは実に革命的なものだと思います。まさに漫画の神様といわれるに値する天才的な発想ですね。

「音でない音」を描くこともある。音ひとつしない場面に「シーン」と書くのは、じつはなにをかくそうぼくが始めたものだ。p112
「マンガの描き方」手塚治虫 光文社 昭和52年


耳隻手の声
「無音の音」というパラドックスを見事に表現してしまった手塚治虫のこのエピソードは、ふと禅の有名な公案「隻手の声」を彷彿とします。「隻手(せきしゅ)の声」とは禅師、白隠(1685〜1768)の創案したもので、「隻手声あり、その声を聞け」 (両手を打ち合わせると音がする。では片手ではどんな音がしたのか、それを報告しなさい。)という問題です。拍手は両手でするものですから、片手で打ち合わせることなど無論不可能な事なのですが、そうしたあからさまな不可能問題をあえて考えることでロジックの枠を超えた思考への到達を促し、人を悟りに導く奥の深い「なぞなぞ」です。公案とは答えの無いなぞなぞで、特定の答えはありませんし、昨日「正解」と見なされた答えも今日には「誤り」になることもあります。師匠はその答えが「悟りに達した者の答え」であるかどうかを見極めるわけですね。では、師匠は絶対なのか?というと、そうでもなくて、「仏に逢っては仏を殺せ」(『臨済録』)という言葉もあるように、何かを絶対とする固定観念もまた「迷い」なのでしょう。禅の悟りの道のりを10段階で描いた「十牛図」という絵がありますが、「悟り」という精神的な冒険をビジュアルに表現した極めて優れた"漫画"ですね。そういえば以前レビューしたゲーム「風ノ旅ビト(英語名:Journey)」は、まさに現代のゲーム版十牛図という感じの作品で、とても感銘を受けました。

耳知覚出来ないものは存在するか?
この「隻手の声」と良く似た哲学的な問いに「誰もいない森で一本の木が倒れた。このとき、木の倒れた音はしたのだろうか?」というものがありますね。聞く者のいない状況に「音」という現象はありうるのか?という哲学的ななぞなぞで、しばしばネットでも見かけますが、元ネタはアイルランドの哲学者ジョージ・バークリー(1685〜1753)だという説をいくつか見かけました。面白い事に、「隻手の声」の発案者 白隠と生没年がほぼ一致しています。この時代は日本の鎖国していた時期ですね。時を同じくしてバークリーと白隠は偶然互いに似たようなテーマを思索をしていたということでしょうか。ちょっと面白いですね。

耳サウンド・オブ・サイレンス
音無き音、というとサイモン&ガーファンクルの「サウンド・オブ・サイレンス」について言及しないわけにはいかないですね。1965年に発売されたこのシングル曲は全米で大反響を呼び、映画『卒業』で同曲が使用されたことも決定打となり、その人気は不動のものとなりました。現代でも多くの人の耳に馴染んだ不朽の名ポップソングでしょう。英語圏でない日本では、もしかして映画の印象にひっぱられてラブソングのようなイメージがあるかもしれません。恥ずかしながらむかし初めて聞いた時の私もそうでした。しかし、実際の歌詞はとてもミステリアスで哲学性のあるもので、ある批評家は「ポピュラーソングのボキャブラリーと視界を変えた」と絶賛しました。メロディの美しさ以上に歌詞の内容に驚愕します。
以下、歌詞をGoogle先生の協力のもとに和訳してみました。一部細かいニュアンスに迷った所はフォーク研究家でもある片桐ユズル先生の対訳を参考にしています。

サウンド・オブ・サイレンス
詩:ポール・サイモン

ハロー!僕の古くからの友達、暗闇よ。
また君と話しにきてしまったよ。
ぼんやりとした幻影が忍び寄り、
僕の眠っている隙にその"種"を脳に植えていった。
そいつはまだ居着いている。
"静寂の音"の中に。

安らぐことのない夢の中で
僕は石畳の狭い通りをひとり歩いていた。
寒さと湿気に衿を立てた。
ネオンライトの閃光が私の目を突き刺すとき
夜は引き裂かれ、"静寂の音"の感触がした。

そして裸電球の灯りの中に僕は見たのだ。
一万人、いやもっと多くの人間を。
話すことなくしゃべり
聞かずに聴き
決して歌われる事の無い詩を書く人々を。
そして誰ひとり"静寂の音"を乱すことはなかった。

「愚か者たちよ!」僕は言った。
「君らは何も解っちゃいないんだ。静寂というのは癌のように身を蝕むということを」
「僕の言葉を聞け。君に教えてあげよう。差し伸べる僕の手を取るんだ」
だけど、僕の言葉は音も無く落ちてゆく雨の雫(しずく)
"静寂の井戸"の中でただコダマするだけだ。

人は頭を垂れて祈る、彼ら自身が造った"ネオンの神"に。
ネオンサインは警告の言葉を形成しフラッシュさせた。
ネオンサインは語る「預言者の言葉は、地下鉄の壁に、またアパートの壁に書かれている」と。
静寂の音の中でささやくように


テクノロジーの奴隷と化した現代社会に対するアイロニー、という一般的な解釈をよく聞きますが、なにかそれだけでないような神秘学的な内容の歌詞で、おそらくポール・サイモンも社会風刺という事も少なからず意識はしてたでしょうが、それよりも主に、自己の内面と向き合って心の深層にダイブしていく精神的な冒険を描いたのではないかと思います。とくに終盤の「預言者の言葉は、地下鉄の壁に、またアパートの壁に書かれている」という箇所にグッときます。人間の生き方に宗教が昔ほど効力を持たなくなってしまった現代。そういう社会における「神」を「ネオンの神(the neon god)」と表現していて、とてもユニークです。真理は山奥の仙人やどこかに眠る遺跡の中にあるのではなく、テレビや街中の看板、折り込みチラシや塀の落書きなど、とるに足らないと思い込んでいる情報に隠されて神の啓示が実行されているんだ、というエキセントリックな洞察にとても惹かれます。「サウンド・オブ・サイレンス(The Sounds of Silence)」、静寂の音、というタイトル自体、パラドキシカルで哲学的な含蓄がありますが、歌詞の中にも「話す事なく話す(talking without speaking)」「聞くことなく聴く(hearing without listening)」などの言葉がでてきます。この曲がつくられた時代の米国は禅の思想やドラッグカルチャーが渾然となったビートニクやヒッピーなどの若者文化が全盛の頃ですから、そうした時代背景もポール・サイモンの詩作に影響していたでしょうね。
posted by 八竹彗月 at 05:08| Comment(3) | 哲学

2012年02月19日

5億年ボタン

ちょっと哲学的なネタです。

2002年に文芸社から出版された菅原そうた著『みんなのトニオちゃん』というユニークな漫画本の存在を最近知りました。この本に収録された「アルバイト(BUTTON)」という短編漫画がネットで一時期けっこう話題になったそうで、話の内容のインパクトから正式タイトルより『5億年ボタン』という名前で知られています。私はつい先日ネットサーフィンしてて知ったばかりなのですが、すでにご存知の方も多いと思います。とても哲学的な示唆を含む面白い話なのですが、売り上げが芳しくなかったのか現在は絶版状態です。復刻が待たれるところです。

「5億年ボタン」で検索するといろいろなところで議論をよんでいるのが判ります。内容は以下のリンクなどでも紹介されてます。
http://www.youtube.com/watch?v=31Lde3W5ywY

楽に稼げるバイトを探しているジャイ太とスネ郎に、トニオが「一瞬で100万円稼げるバイト」の話を持ちかけるという話ですが、バイトの内容が問題です。ただ小さな箱に付いてるボタンを押すだけで100万円もらえるというのですが、ボタンを押すと何にも無い虚無の異世界にワープして、死ぬ事も眠る事もできず、ただひたすらソコで5億年を過ごさなければなりません。5億年たったら元の世界に戻れますが、戻った瞬間に5億年分の記憶は消され元の状態に戻り、100万円が支払われる、というものです。傍目にもそれはボタンを押しただけですぐに大金を得たようにしか見えませんが、5億年の時間を過ごした記憶が消され、時間も身体も元の状態に戻されただけです。

読後の感想は、多くの人は、自分なら絶対にそんなバイトなどやらないだろうと考えますし、私もそう思います。5億年という人間の感覚を超える無限に等しい時間を何も出来ずに過ごす苦痛に、100万円という金はとても割に合わないと感じるでしょう。しかし、この話の秀逸なところは、ジャイ太の役回りです。彼がいっしょにいなければ、おそらくスネ郎はボタンを押さなかったと思います。いっしょにいたジャイ太がボタンをちょいと押しただけで大金を手にしているのを見たスネ郎の気持ちになって考えてみると、意外に自らもこうしたボタンを押す側の人間なんじゃないか、と思ってしまいます。スネ郎の視点でこの状況を見る場合、ボタンを押す決意を後押しするいくつかの考えが浮かびます。

スネ郎の思考はこんな感じでしょう。
「5億年を異世界で過ごすという非現実的な話自体ありえない。ジャイ太を見てても、ボタンを押しただけですぐ100万円をもらっている。仮に、ジャイ太が本当に5億年過ごしてきたのだとしても、その記憶は無くなるんだし、今そこで浮かれてるジャイ太もボタンを押した一瞬でその苦行は終わってるじゃないか」
つまり、5億年過ごすという事自体の疑惑と、仮に本当だとしても、いつもいっしょに遊んでいる友人がやすやすとミッションを終えている(ように見える)という状況は、かなり心がぐらつくのではないでしょうか。どんなに永い時間であっても、無限の時間でない限りは確実にボタンを押した一瞬後の世界に戻って来れるわけです。

スネ郎視点でこの異世界を想像すると、より怖く感じます。漫画では、時間の経過を地の文で説明してますが、時計もカレンダーも無い世界にいるスネ郎自身には時の経過を知る手がかりがありません。途方も無い時間が過ぎたように思っても、実は数時間だったり、あるいは、ちょっとボーッとしてたように感じても実は何年も過ぎてたり、といった時間の錯誤を引き起こしているはずです。眠ることもできず空腹を感じない世界なので、体内時計もアテになりそうもありません。ここに来てからどのくらいたつのか?あとどのくらいこの世界で過ごせばいいのか?カウントダウンをしてくれる他者がいないため、しばらくするとゴールもスタート地点もあいまいになっていきます。さらに、仮に5億年たったとしても現実に戻れるのかどうかはトニオの口約束だけでしか保障されていません。これもかなり不安と恐怖を感じると思います。

もし、5億年というのが嘘で、本当にボタンを押すだけで大金をゲットできるのだとしても、現実世界では真偽が判別できません。それがたとえ5億年過ごし終わった本人ですら・・・。このゲーム(バイト)で学習できることは、「ボタンを押しただけで100万円がもらえた」という経験だけで、「5億年過ごした」のかどうかは元の世界では真偽不明のままですし、あったとしてもそれがどれだけ辛かったのかの実感などありません。どんなに苦労や苦痛を味わっても、その経験が記憶として残らないため元の世界と連続性が保てず、経験を元に学習することが不可能であるというのは怖いですね。

エチオピアで発掘されルーシーと名付けられたアウストラロピテクスは318万年前の人類の祖先だそうですから、5億年という時間は人類の歴史すら遠く及ばないとんでもないスケールです。恐竜のいた時代ですら2億5000万年前。ちなみに5億年前の地球は古生代(約5億7000万〜約2億5000万年前)で、化石で有名な三葉虫やアンモナイトはこの時代に発生しました。三葉虫のいた時代から現在までの時間と同じくらいのタイムスケールを何も無い世界でただ生きるという事がどんなことなのか想像つきませんが、絶対に体験したくない事であるのは確かですね。

一応ストーリーはバイトの話なので、ちょっと計算してみました。
一瞬で100万円と考えると美味しい話に聞こえますが、5億年で100万円となると、年収0.002円という事になり、時給換算だと0.0000002円ということになりますね。これでいくと100円貯めるには5万年かかります。まったく割に合わないバイトということになりますね(^□^;
posted by 八竹彗月 at 13:00| Comment(4) | 哲学