2019年03月02日

「無限」のふしぎ

1大きな数の不思議

どんなに大きな数も、それにたった1を足す事でもっと大きな数ができてしまう。数は人類にとってなくてはならないツールで、科学や経済など日常生活に密着してどこまでもかかわり合いのあるものですが、もっとも大きい数とか、もっとも小さい数は何か、という簡単な問いを投げかけるだけで、具体的な明瞭さを一気に失ってしまうのが「数」の謎めいたところでもあり面白い所でもあります。



2「でかい物を食う話くらべ」の話

そういった関連で思い出すのは、落語めいた小話、「でかい物を食う話くらべ」です。内容は以下のようなものです。

「いかに大きなものを食ったか」
というホラで競い合う村人たちがいた。
あるものは「家」を食ったといい、あるものは「山」を食ったといい、
村人たちのホラはしだいに大きくなっていくが、
ある男の食ったものがいちばん大きいということで決着がつき、
最後にその男は、寺の和尚と勝負をすることとなった。
寺に出向いた男は、和尚に先手をうって必勝のホラを言い放つ。
「おれは『暗闇』を食った」
しかし、即座に切り返した和尚の一言に敗北する。

「そういうおまえを、わしゃ食った」


これはネットで複数流布されているバージョンですが、念のために出典を検索してみると、昭和40年代に発行されてブームになったクイズの本「頭の体操」シリーズの第2集の問43に収録されているものが元ネタらしい、というところまで判明しました。この本は昔読んでいたのですが、そういえばそんな問題があった気がします。「頭の体操」がオリジナルなのかもしれませんが、しかし、どこか落語の「頭山(あたまやま)」にテイストが似てる所もあるので、もしかするとこの問題自体に落語などの別の出典がありそうな感じもします。どんなに最大のモノを考え、それを「食った」と言っても、次に「そういうおまえを、わしゃ食った」と答えるだけで勝ってしまう、後手でのみで必勝の、反則っぽい荒技ですが、これは前述した数の性質と似てますよね。どんなに大きな数を言っても、それが「無量大数」であろうが、次の人が「その数にわしゃ1足した」と言うだけで勝ってしまうような感じです。このユニークな詭弁じみた話は、数の問題というより、ルイス・キャロル風な論理学っぽい味わいもあって好きな話です。

メモ関連サイト
でかい物を食う話くらべ(「めもめもーめもblog」様より)
「でかい物を食う話くらべ」の頭の体操オリジナルバージョンを引用なさっています。話の大筋は同じですが、村人の言い合うでかい物の具体的なバリエーションがいくつか出てきます。「この地球を団子に見立てて、餡子をまぶして食べた」など、発想のシュールさがたまりません。でかい物を食うホラ話大会、さぞや盛り上がっていたのだろうな、と想像すると頬が緩みます。

頭山(あたまやま)(ウィキペディア)



35億年ボタンの話

いまだにネットで根強く議論が堪えない「5億年ボタン」の話ですが、今回のテーマに直接関係あるわけではないですが、5億という「大きい数つながり」というアバウトな理由で少し語ってみたいと思います。この話の内容は100万円を得るために自分以外何もない異世界で5億年過ごす話です。詳しい内容は以下のリンク先を見ていただくとして、私は絶対このボタンを「押さない派」です。「押す派」もけっこういる印象があって、そちらの理屈もまぁ理解できるので、これはどのあたりを損得で捉えるのかで受け止め方も違ってくるのでしょうね。

たしかに、いくら5億年といえども、仮にそれが10億年でも10兆年であっても、有限である限り必ず終わりが来ます。異世界で送った時間の記憶は消されるので、どんなに長い年月であろうと「今」に戻った瞬間には覚えてないのでゼロと一緒と捉えられなくもありません。今の自分が感知できないような次元でもその5億年はたしかに自分が過ごすしかないのですが、その「今の自分が感知できない自分の体験」を自分の体験と捉えるかどうかという含みをどう解釈するかで意見が二分するのでしょうね。一般には私のように「押さない派」が多いのではないかという漠然とした印象はありますし、作品でもボタンを押す事をある種の「失敗」として描いているので、素直に受け取れば、100万円と引き換えに5億年という時間を無駄に過ごさざるを得ない経験は避けたいという感想が多くなりそうではあります。ただ、「押す派」が一定数存在すること自体とても興味深いですし、そういう側面から「5億年ボタン」を見直すと、また別の解釈が見つかったりして、心地よいい知的な面白さあります。

前述のように、意見が二分する原因は、異世界での自分の経験≠燻ゥ分の経験と見なすかどうかにあると思いますが、そのあたりは「ツブアンマン」や「ガンツ」などに通じる自己同一性をどう解釈するかの哲学的な問題になっていくので、面白そうではありますが、ここでは割愛しようと思います。

過去記事「5億年ボタン」

メモ関連サイト
5億年ボタン(YouTube)
出典は週刊SPA!で連載されていた菅原そうたのCGマンガ作品『みんなのトニオちゃん』に登場するエピソードのひとつがこの作品で、正式なエピソード名は「アルバイト(BUTTON)」。「5億年ボタン」はネット上での俗称です。


ツブアンマン(「ガジェット通信」様)

GANTZ(ガンツ)あらすじ(ウィキペディア)



4無限ホテルの話

また数の話に戻しますが、永遠に果てなく数は続くので、最大の具体的な数を決定するのは不可能だというのは自明ですね。最大の数を決定するのは不可能ですが、さりとてあるはずの「その先」を扱えないのはモヤモヤした不達成感があるため、無限に続く数の果て、あるいはその集積を表す概念として無限大(∞)が考案されたのでしょう。これは「最大の数」を意味する概念をあらわしてるので、一般に数ではない(いくつかの数論で限定的に数として扱われる場合もあるようですが)とされていますが、この無限大という概念もまた魔物じみてミステリアスなところが興味を惹かれます。いつも使っていて馴染みのあるはずの「数」も、ふと「そもそも数って何だろう?」と考えたとたんにつかみ所のない迷宮に誘(いざな)われますが、それはまるで神の概念のようで深遠なものを感じます。数学はピタゴラスを例に出すまでもなく、昔は神の創造したこの宇宙を読み解くツールとして考えられたりもしてましたし、神秘主義の観点からも関心があるのですが、それは別の機会に論じてみようと思います。

閑話休題、無限を扱った話で面白かったのは、「無限ホテル」の話です。たしかこれも上記の「頭の体操」にも出題されたことがあったような記憶があるのですが、この話のオリジナルは有名な大数学者ヒルベルトによって考案された集合論に関するパラドックスのようです。自己流で物語風に噛み砕いて紹介しますと以下のような内容になります。

ある国の観光地に、客室が無限にあるホテルがありました。そこに部屋を借りようと客がひとりやってきますが、運悪くホテルは満室でした。もう日は暮れて外はどしゃぶりであったため、無下に断るのも可哀想に思ったフロント係は、ふといいアイデアを思いつきます。「少々お待ちください。多分お部屋をご用意できるかもしれません!」といってフロントは急いで全客室にアナウンスしました。「お客様の皆様にお願い申し上げます。大変申し訳ありませんが、お部屋の移動をお願い致します。1号室にいたお客様は2号室へ、2号室のお客様は3号室へ、3号室のお客様は4号室へ、皆さん全員ひとつ後の部屋番号の部屋にお移りください」

移動は一斉にスムーズに行われ、わずかな時間で移動は完了し、そして1号室に空きができました。後から来た件の客は無事に空いた1号室に入り、またホテルは満室になりましたとさ。


という話です。実に不思議な話ですが、無限には始まりは想定できても最後の数が不確定で幽霊みたいに実在しそうで実在しないような性質を元来内包しているためにこんな奇妙な事が起こってしまうのでしょう。そんな無限を扱うこうしたパラドックスは興味が尽きない面白みがあります。実はこの満室の無限ホテル、客が複数であっても同じようにして宿泊させることが可能で、仮に3人なら1号室の客を4号室に、2号室の客を5号室に、というように自室の部屋番号に3をプラスした部屋に移動させれば、1〜3号室に空きができるので、そこに泊めればよいわけです。また、無限の来客をさらに宿泊させることも原理的に可能で、その場合は、まず全員に廊下に出てもらってから全ての客を奇数の部屋に移動させるようにすれば偶数の部屋がまるごと空き部屋になるので、さらに無限の人数の客を新たに泊めることも可能になるという具合です。これは、無限の数では奇数も偶数も無限になることから起こるパラドックスです。

このように、無限というのは普通の数と違った妙な性質があるので、数学だけに留まらず、哲学的な思索にも大きく影響を与えている概念です。1、2、3・・・という馴染みのある数も、極限では数らしくないふるまいをしだすのが奇妙で、そこがまた面白いですね。この無限ホテルの話、いかにも数学上の思考実験の中にしか存在しない架空の話のように思ってしまいがちで、私も最初はトリッキーでシュールな現象が数学的には有りになってしまう面白さに惹かれたものです。まぁ、現実には無限の客室のホテルなど存在しないわけですから、数学的なSFみたいな印象もある話ではあります。

メモ関連サイト
ヒルベルトの無限ホテルのパラドックス(ウィキペディア)

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5宇宙・人間・数

では、無限という概念はリアルな世界には存在しないものなのか?といえばそうでもなく、「宇宙」の存在などは(まだ全容が解明されていないにせよ)おそらく無限の性質を持ち合わせている可能性が高いと思われます。いつものように、これはいわゆる学問的な考察ではないですが、空想を広げて解釈していくのも一興ですので続けます。宇宙のはじまりは諸説あるものの通常はビッグバン仮説によって説明されますが、宇宙の終わりについてはさまざまな説があり、ビッグバンのような決定的な指針になる説はまだ確定してないのが現状だと思います。これも、数のアナロジーで言えば、自然数の場合は始まりは明確で0から(場合によって1から)はじまりますが、最終的な終わりの数については無限に続くために不定であります。これも、まるで宇宙のそれ(始まりがあって終わりが不明な感じ)と似ていて、まさに数は宇宙の性質を隠し持った道具のように見えてきます。

また数は自然数だけでなく、マイナスの数を含んだ「整数」や、さらに分数を含む「有理数」、さらに「実数」「虚数」「複素数」などに拡張されていきましたが、例えば整数は「ビッグバン以前の宇宙」を示唆しているような気もしますし、虚数の存在などは宇宙の多元構造を示唆しているようにも思えてきます。ピタゴラスがかつてそう感じていたように、数はそのまま宇宙のアナロジーになっているのではないか、というおぼろげながらも確信めいた感覚を感じます。

フラクタル幾何学は無限の反復計算を前提とした理論ですが、自然の造形の謎を読み解く最も有効な理論でもあります。最も有名なフラクタルであるマンデルブロ集合などを見てると、単純な式の無限の反復計算がこんなにも豊穣で、植物や動物の体内器官を思わせるような有機的な造形を生み出せるという事実は、この世界の究極の本質は有限なるものではなく、無限なるものなのではないかというインスピレーションを感じます。この無限に複雑な造形を生み出していく脅威の図形であるマンデルブロ集合は、無限を体現しながらも、その全体は有限の範囲に収まっていることも意味深なものを感じます。そういうふうに有限に収束するようにしている式だからそうなっているわけではありますが、これは、宇宙や人間など、有限なようで無限な存在の寓意もなんとなく感じますね。この世界は有限と無限が重なりあって同時にどちらも正解であるような。量子論めいたアナロジーでいえば、自分の力を有限に過小評価しても、それは真実だし、自分には無限の力が潜んでいると信じても、それも真実だろうと思います。自動車王フォードの名言「出来ると思っても出来ないと思ってもどちらも正しい」というのはそういう意味だと思います。どうせどちらも真実なら、無限の可能性を自分に見つけ出したほうが断然有益であろうと思います。

そう考えてみると無限ホテルは、数学上の問題にとどまらず、また一般世間にとってもただの浮世離れした思考実験というだけではなく、我々の日常の世界にも通じる何らかの真理を感じとることもできるように思えてくるのです。たとえば、この世の富は有限のようにみんな思ってしまいがちで、それによって富の奪い合いが起こり、最終的にそれが戦争の原因になったりすることもあるわけです。しかし、本当に富は有限なのか?といえば、決してそうではないと思います。

ほとんど一文無しだったある女性がいました。彼女は無職であるばかりでなく、母親を亡くし、夫との離婚なども重なり失意のどん底でしたが、時間だけは有り余っていたため、昔から暖めていた空想の物語を執筆しようと思い立ち、夢中で書き上げたその作品は奇跡的な大ベストセラーとなり、出版史上最も多くの報酬を得た作家とまでいわれるほどになりました。女性の名はJ・K・ローリング、あのハリーポッターシリーズの作者です。何もない状態から巨万の富を得ることになったターニングポイントは、彼女の脳内にあったアイデアを現実世界にアウトプットしたことです。

彼女の例は特殊な例のようで、そうではなく、世の中の富はみなすべて最初は人間の脳内にあっただけのアイデアを外に出力したものです。自分が座っている椅子も、最初は誰かの脳内に設計デザインのアイデアがあって、それを具体的に工場などで物体化させたわけですし、それが販売されることで設計者や生産者や販売者や運送社に富が配分されていくわけです。脳内にあるアイデアという形のない思考も、それが世に出て人に必要とされれば、とたんに富という形をとることができるのですから、ある意味誰でもゼロから無限を生み出す魔術師であるといえると思います。富は誰かから奪わなくても、自ら生み出すことができる類いのもので、そうしたチャンスはどのような時代であっても無限にあります。富はいつでも自分の内側から無限に生み出すことができる可能性があり、人間は最初からそういうふうに出来ている。人間も宇宙の雛形のようなものなので、無限の性質を持っており、人間は無限ホテルのように、いくらでも無限にアイデアも富も愛も出力できる、まるで宇宙のような存在なのだろうと思います。自分の能力の限界というのは自分で勝手に決めているもので、本当の限界ではなく、一度自分の能力は無限であるという真実を素直に受け入れれば、それが自分の人生に法則としてはたらきはじめるものなのかもしれません。

メモ関連サイト
J・K・ローリング(ウィキペディア)

マンデルブロ集合をどんどんズームしていく動画 Sapphires - Mandelbrot Fractal Zoom (Maths Townさんの作品)(YouTube)

フラクタル幾何学の代表的な図形、マンデルブロ集合の一部を無限に拡大していく動画です。マンデルブロ集合は、シンプルな数式を何度も反復して計算する事で複素平面上に現われる奇妙な図形です。この動画でも分かるように、かなり複雑で自然界の造形を思わせる生物っぽいフォルムが何度となく現われてくるのがスゴイです。拡大が進むにつれて、元の全体図と同じ形をしたミニチュアのマンデルブロ集合も図形のあちこちにちょこちょこ現われてきて、子供や孫みたいな感じで何か可愛いです。こういう所も、自然界の秘密を訴えかけているような気がして興味深いものを感じます。

マンデルブロ集合(ウィキペディア)
posted by 八竹彗月 at 03:28| Comment(0) | 数学

2015年05月11日

ライフゲームとその他科学ネタ

ひらめきライフゲーム
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目が届く範囲いっぱいまで広がった非常に大きなチェッカー盤を想像してみよう。ほとんどの升目、すなわちセルは空である。このセルのほんの少しにだけ不思議な生きものがおり、これは自分の隣にひどく敏感である。それぞれの運命は周りの数によって左右される。隣人が多いと混みすぎて死ぬし、あまりに少ないと寂しくて死んでしまう。3人だと和気あいあいで新しい生命が誕生するし、2人だと快適な安定を保つ。p262
(「現代数学ワンダーランド」アイヴァース・ピーターソン:著 奥田晃:訳 新曜社 1990年)


これは1970年に英国の数学者コンウェイによって発明されたライフゲームと呼ばれる興味深い数学ゲームの基本ルールを説明したもので、wikiの「ライフゲームのルール」の項を読んでいただければわかるとおり、ライフゲームの主人公である升目一つ分を占有する四角いピクセル生物は、とても単純なルールで増えたり減ったりします。簡単なルールから複雑な世界を作り出していくその様子は、まさに生命の進化を神の視点で眺めているような不思議な感覚に陥ります。このとても興味深いライフゲームの世界を、実に上手く、面白く紹介されている傑作動画を先日見つけてとても感動したのでご紹介します。数年前に作られた、かなり再生数の多い人気動画のようですから、すでにご覧になった方も多いと思いますが、まだの方で、この手の世界に興味のある方はぜひおすすめしたいです。

「ライフゲームの世界」ニコニコ動画

動画の作者さんは、そうとう深くライフゲームを研究していて驚愕しました。丁寧に構成されていて、序盤から惹き込まれますが、回を追うごとに知的興奮と面白さはエスカレートしていきます。最後のほうにいくにつれて、ついには壮大で畏怖を感じるような神懸かった領域にまで到達していきます。クローン技術や核開発技術など、人類はすでに神の領域に片足を突っ込みはじめた時代に突入していますが、こうしたコンピュータの世界も、それをもっとも感じますね。

ひらめきルービックキューブ自動完成させ機
レゴ・マインドストームによるルービックキューブ自動完成させ機、すごいですね〜 波平の自動卵割り機なみにナンセンスな機械ですが、こうした機械は、役に立たないがゆえに、玩具的な面白みを感じますね。
レゴ・マインドストームは、ロボットなどの複雑な機械を作成することが可能なレゴブロックの発展的な製品のようです。しかしまぁ、いろんな事ができるんですね〜 そういえば昔日本にもラジオやブザーなどの単純な機械をブロックを組み立てることで作れてしまう「電子ブロック」という科学玩具がありましたが、今やロボットという現代の先端技術も玩具として遊べる時代になったというのは凄い事です。
ネットでは、こういう感じで、世界の何処かにいる誰かが個人的な遊び心だけでスゴイものを作ってしまう感じの動画をよく目にしますが、そうした情報を得られるのも発信できるのもインターネットあればこそです。情報のあり方自体が日々革命的に変化しているのを感じますね。

ひらめき海の奇妙な生物
放散虫
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自然の芸術、放散虫。「Art Forms in Nature」Ernst Haeckel:著 Dover:刊 1974年
細密な工芸品のような放散虫。その正体は海のプランクトンですが、球形を基本にした様々な形が、まさに神の作る美術品といった感じですね。そのまんま現代アートといってもうなづいてしまう斬新な造形美がスゴイ。
放散虫についての様々な情報や豊富な画像が充実してるサイトRadiolaria.org(英語)

テヅルモヅル
次に、樹木のように枝分かれした腕がウニョウニョ動く海の不思議生物、テヅルモヅルも、奇妙です。ヒトデの仲間のようですが、腕が枝分かれしすぎて植物っぽい形状になっていますが、こういう形態でウネウネ動かれるとゾワッときますね。

コンドロクラディア・リラ
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これが生物?と目を疑う人工物感が半端ない肉食の不思議生物コンドロクラディア・リラ。まさに深海の神秘といった感じです。地球上に生息する全ての生物のうち、人間が認知できている種類はほんのわずかだと言われていますし、まだまだ地球は人間にとって未知の世界のようです。
posted by 八竹彗月 at 02:16| Comment(2) | 数学

2015年01月28日

フラクタル・トリップ

異世界を探検しているような不思議な気分にさせてくれるフラクタル動画の中から、グッときた作品をいくつか紹介させていただきます。

フラクタル幾何学というと、当初のマンデルブロ集合やジュリア集合などの二次元の複雑怪奇な図形だけでなく、昨今ではコンピュータのスペックの驚異的な進化によって三次元に展開されたフラクタル造形をより身近に鑑賞する機会が増えてきたように感じます。ネットにも興味深い立体的なフラクタル造形をたくさん見かけるようになり、ますます凝った表現を見かけるようになりました。90年代あたりに、通称ビデオドラッグという、サイケな幾何学的図形を万華鏡のように変化させたような単純な動画が流行りましたが、昨今見かけるフラクタル動画はまさに現代のビデオドラッグといった感じですね。
フラクタルの面白さは、繰り返しの演算を基本にした一見単純な仕組みでありながら、このような生物のような有機的なカタチを生成出来てしまう事です。木の葉が、その本体である樹木の形状とソックリなのは多くの人が経験したであろう子供の頃の小さな発見のひとつですが、こうしたフラクタルの基礎概念である自己相似形は、自然界のあらゆる所に見いだされるように、自然の多様性を読み解く鍵になる数学的な概念なのでしょうね。

目UNIVERSO FRACTAL
アンコールワットみたいな異世界の遺跡っぽい雰囲気の3Dフラクタル映像。空気の層の表現によって実際の風景のようなリアリズム溢れる映像になっていて吸い込まれるような世界観が素晴らしいです。20分近い力作ですが、映像演出も凝っていて、序盤の遺跡っぽい感じから未来的な異世界観、原始生命が満ちた古代の海底のようなイメージなど、様々な切り口のフラクタル造形が見事です。こうした映像は、凝ったビジュアルでありながら、物語などの"思考"を刺激する要素がないので、フルスクリーンで瞑想用にボーッと眺めるのもいいですね。

目Like in a dream
干上がった海底に散乱した藤壷みたいな光景や、ギーガーの絵に出てきそうな有機的な曲線によって構築された建造物みたいな景色、ダークファンタジーな感じの魔界の遊園地といった風情ですね。

目Morphy's World
立体化されたフラクタルイメージの面白さを自由に表現した感じですね。不思議な世界にトリップします。

目Orion - Spacy Trip
タイトルからすると、遠い宇宙のどこかにある惑星の、高度に発展した都市の風景をイメージしているのでしょうか。

目Living Planet
これもどこか遠くにある不思議な惑星のイメージのようです。造形もさることながら、動きが不気味で面白いですね。まさに魔界のような様相です。

YouTubeでこの手の動画を検索すると必ずヒットするのがKrzysztof Marczakさんの驚異的なフラクタルCGアニメの数々です。3Dフラクタル作成アプリ「Mandelbulber」の作者で、自作のアプリによって生成した数々の素晴らしい異世界の壮大な風景を動画にして公開しておられます。
Krzysztof Marczakさんのサイト「Mandelbulber」

以下は、Krzysztof Marczakさんの再生リストから個人的に気に入った作品をピックアップしました。

目Trip to center of hybrid fractal
脅威の空間。バロック建築のような細かなディティールが壁面に無限に増殖していく不思議な光景に吸い込まれていくようです。文明がとめどなく発展し続け、惑星の内部にまで人類が繁殖していき地下に壮大な都市が構築されている、みたいな感じでいろいろ想像すると楽しいですね。有機的な形状とメタリックな色合いのせいか、どことなくギーガーの描く世界のようなディストピア感がたまりません。

目Mandelbox trip
無重力空間に浮かぶ石造建築の廃墟のような感じですね。無限に入り組んだ巨大キューブの内部が圧巻です。

目IFS fractal morph and flight
壮大な空中庭園。上下左右の概念の無いエッシャーの庭園(「相対性」などの絵)を無限に拡張したような光景ですね。
posted by 八竹彗月 at 06:15| Comment(2) | 数学

2013年10月27日

びっくりするほど増える話

予想と実際が食い違うのは日常よくある事ですが、数学には予想と実際がまったく違う結果になるような問題がよくありますね。今回はそういう感じで、想像した予想が、実際に計算した結果と甚だしくギャップがある、という数学関係のネタをいくつか書いてみます。



どんっ(衝撃)チェス盤と小麦
クイズの本などでよく紹介されているインドの民話に、そうした数学的思考のユニークさを表した話があります。

インドの王様シリムは、顧問のシザ・ベン・ダヒルがチェスのゲームを発明した功績に対して褒美を与えようと考えた。王様はチェス盤の64の升目すべてに金貨を置き、それを彼に与えようというのだ。シザはていねいにこの申し出を断って、別の褒美が欲しいと願いでた。「第1の升目に小麦一粒、第2の升目に2粒、第3の升目に4粒、第4の升目に8粒、というように64の升目すべてに置いて、それをいただきたく存じます」王様はこの"謙虚"な申し出に感心して召使いに小麦の袋を取りに行かせ、望み通りの段取りで小麦を数えるように命じた。

有名な話なので、どこかで聞いた事があると思います。実際に計算してみると、シザの申し出は謙虚どころかとんでもない強欲な申し出であることが判明します。升目には1粒、2粒、4粒、8粒、16粒・・・と置かれ、このまま全ての升目に置いていってもなんとなくこじんまりした量にしかならなそうな錯覚をしてしまいます。10升目には512粒と手のひらに乗せれるレベルですが、
13升目で4096粒になりようやく茶碗一杯分程度の量になります。
20升目には52万4288粒と茶碗161杯分くらいの量に膨れ上がり、23升目では60kgの米俵2俵近く(419万4304粒)に。
30升目は5億3687万912粒、茶碗約16万杯分で、60kgの米俵にすると約201俵。
40升目では5497億5581万3888粒、米俵換算で20万俵。
50升目は562兆9499億5342万1312粒、米俵2億俵を超えます。
最後の64升目は922京3372兆368億5477万5808粒です。
64升目の米俵は3兆俵超えとなりますが、褒美としてもらおうとしているのは「全ての升目」で換算された小麦です。全ての升目の小麦粒の総計は、1844京6744兆737億955万1615粒となります。小麦1億粒で1トンとすると、2000億トンになり、現在の世界の小麦生産量はwikiによると6億トンですから、シザの要求を満たすには世界中の農家ががんばっても3世紀もかかる計算になりますね。
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茶碗一杯分を3250粒、米俵60kgを266万7000粒として計算しました。升目の計算は、1升目=2の0乗、2升目=2の1乗、3升目=2の2乗、4升目=2の3乗、と続きます。全ての升目の粒の和は、律儀に1升づつ足していかなくても、2の64乗からマイナス1した数と等しくなります。
googleの計算機では桁数が足りなかったので、多種多様な計算ができる計算サイト「Ke!san」様のカテゴリ「数学・物理」→「数学公式集」→「対数・指数」にあるベキ乗の計算機を使用して計算いたしました。便利なサイトですね〜




どんっ(衝撃)クイズの本に載ってたネタ
子供の頃は、親戚のお姉さんが持ってた木乃美光のクイズの本を読んだ影響で、クイズ本が大好きでした。クイズ本というと、往年のベストセラー、多胡輝の「頭の体操」(光文社)は、抜きん出てユニークなクイズが満載のシリーズでハマりました。内容だけでなく、問題ページの裏ページに解答と解説、という今やお馴染みの構成も良かったですね。それだけでなく、表紙カバーをカリスマ絵師・伊坂芳太良が手がけ、中のイラストも欧米のイラストレーターのような軽妙なタッチが魅力の水野良太郎が描いていて素晴らしいです。シリーズは23冊を数えますが、とくに、1〜5集目までは内容、デザインを含めとても好みです。8集目以降は未読です。

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「頭の体操」多胡輝:著 光文社・カッパブックス 1967年
第4集目のカラーテレビを全体のテーマにした巻が私はとくに好きです。目次が番組表を模してあり、第1問目はテレビのテストパターンをネタにしてたり、合間合間にCMをパロった風刺画を挟んだりと、とても凝った内容です。本文ページにカラーページが4ページあるというのも、シリーズ中異色の巻です。


長い前置きになりましたが、その「頭の体操」に載ってたクイズで、今回のテーマにふさわしそうな問題を思い出したのですが、肝心の本は現在手元に無く、どうしたものかと思ってふと検索してみたら同じような問題がけっこうヒットしましたので、その中からクイズ・パズル大百科様のサイトに掲載されたクイズのリンクを貼っておきます。本にあった問題もだいたいこのクイズと同じものです。

【問題】 繁殖する微生物(「クイズ・パズル大百科」様のサイトより)



どんっ(衝撃)梵天の塔
以前、塔をテーマにした記事でも触れましたが、インドというと梵天の塔(ハノイの塔)の逸話もありますね。ハノイの地にある寺院に、梵天が天地開闢の時に作られた、円盤の刺さった3本の棒がある、という話です。3本のうちの左端の棒に64枚の純金の円盤が刺さっています。これを「一度に一枚だけ動かさないといけない。小さな円盤の上に大きな円盤を載せてはいけない。3本の棒以外の所に円盤を置いてはいけない。」という3つのルールに添って右端の棒に全ての円盤を移し替えるのが目的です。この作業が完了した時に、この世界の終わりが来るといわれています。古(いにしえ)の頃から寺院では僧侶が一日も休まずこの作業を続けているといわれますが、いまだに作業は終わりません。世界の終末を回避するために僧侶たちが怠けているからなのではありません。1回の移動に1秒かかるとして、これを不眠不休で行ったとしても、なんと5800億年もかかるからです。宇宙の年齢は138億年といわれてますが、梵天の塔を完成させるにはまだまだ及びません。同じ宇宙の歴史を42回くらい繰り返してやっと世界の終わりが来ると考えれば、梵天様はなんと慈悲深いのかわかりますね。
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実際にハノイの塔で遊べるサイトがあります。さすがに64枚の円盤移動は不可能なので円盤の数を減らしてあります。初級レベルの5枚ですらけっこうややこしい手順を踏まないとルール通りに移し替えるのは時間がかかりますね。これが64枚となると気が遠くなります。



どんっ(衝撃)笑いと感動の「組み合わせ爆発」アニメ
このようなテーマを取り上げたのは、ネットで以下のような動画をたまたま見たのがきっかけになりました。

『フカシギの数え方』 おねえさんといっしょ! みんなで数えてみよう!

この動画は「組み合わせ爆発」といわれているものを解りやすくアニメで紹介しているものですが、堅苦しい教育ビデオだと思って見ているとビックリします。話が進むにつれてトンデモナイ展開をしていきます。これがトンデモ理論などではなく、数学の世界では当たり前の事であることが面白いですね。



どんっ(衝撃)巡回セールスマン問題
上記の動画のような組み合わせ爆発の例として、「巡回セールスマン問題」というのがあります。あるセールスマンが幾つかの都市を一度ずつ訪問して出発点に戻ってくるときに、移動距離が最短になるルートを求める問題です。図のように訪問する箇所の数が少なければ楽なのですが、10都市を巡回する場合、最短の道を見つけるためには36万2880通りの可能性から絞り込まなくてはなりません。こうした組み合わせ関係の問題は、選択肢が少し増えただけで一気に膨大な計算量を必要とするので、コンピュータでもそのまま計算させるのはすぐに限界に行き着いてしまいます。なので、もっと計算を楽にするために様々なアルゴリズムが考えられているようです。チェスの名人を打ち破ったコンピュータがむかしニュースになりましたが、そうしたチェスのプログラムもこうした問題の解法と通じるものでしょうね。
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タグ:数学
posted by 八竹彗月 at 01:10| Comment(2) | 数学

2012年12月18日

バナッハ・タルスキーのパラドックス

ここにひとつの球がある。これを切ったり割ったりすると、いくつかの断片ができる。ここまではいたって普通の日常でも起こりうる現象です。さて、この断片を集めてもう一度くっつけるとどうなるでしょうか? 

元の球と断片の集合は同じ体積ですから、元の球に戻るだけ、というのが常識的な推察ですが、ポーランド出身のふたりの天才数学者バナッハとタルスキーは、「同じ大きさの球を二つ作ることができる」ことを完璧に証明してしまいました。『バナッハ=タルスキーの定理』から導きだされる不条理な結論ですが、彼らはこの定理を1924年に発見し、その証明は数学的に正しい定理であることがすでに検証済みだそうです。この定理からは、同じ大きさの球を2つどころか好きなだけ作る事が可能になり、さらには、分割した球の断片を使って2倍(あるいはそれ以上)の体積の球をつくることも可能なのだそうです。

「じゃあ、金塊もこの定理を使って増やせるのか?」となると答えは「NO」です。まず、この分割方法には具体的な手段(どう切ったら良いか?など)が存在しません。『バナッハ=タルスキーの定理』がこのような奇妙なパラドックスを産み出す原因は、「体積という概念は(例えば面積よりも)確定的な概念ではない」ところにあるそうで、ひとつの球を使って同じ大きさのふたつの球を作るという矛盾は、そもそも定義された「体積」というものが存在しないことから生じているようです。このファンタジックな空想を刺激する定理は、数学者でありSF作家でもあるルディ・ラッカーが小説「ホワイトライト」(早川文庫)でもネタに使っています。普段、当たり前のように疑問を持たずに考えている「体積」という概念が、数学的には不明瞭な概念だというのは意外ですね。

以上記事は、「バナッハ・タルスキーのパラドックス」砂田利一著(岩波科学ライブラリー49 1994年発行)を参照しました。

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(左)「バナッハ・タルスキーのパラドックス」 (右)「ホワイト・ライト」ルディ・ラッカー著 早川文庫 1992年
posted by 八竹彗月 at 10:49| Comment(2) | 数学