連日猛暑で、すっかり夏めいてきました。夏の恒例というと怪談ですが、恐怖で涼しくなるという効果を実感したことは残念ながらありません。「背筋が凍る」という慣用句にちなんだ洒落のようなものなのでしょうね。恐怖と寒さは全くの無関係かというとそうでもなくて、冷えた室内で身体を冷やしながら眠ると悪夢を見る確率が高くなることはよく知られていますから、あながち間違ってるものでもないのでしょうね。
というわけで、久しぶりにホラーなテーマでいってみようと思います。ホラーといっても映画、漫画、アニメ、音楽、演劇、落語、など多岐にわたりますが、今回は好みの恐怖小説を中心に書いてみようと思います。
前にも書きましたが、私は昨今流行りの心霊系の怪談や実話系怪談にはあまり興味が無く、SFっぽさがあったり寓話的だったりするポエティックなモダンホラーが好みです。ここでも何度か取り上げた学研の児童書『世界の恐怖怪談』(1977年)は、自分の中では「恐怖」の教科書のような存在で、「恐怖する愉しみ」を満喫するためのノウハウを教わりました。恐怖小説はファンタジー(幻想)文学と非常に近しく、現代ではSFととても相性のいいジャンルで、まだまだ開拓の余地のある面白いジャンルだと思います。『世界の恐怖怪談』の前書きで当時30歳の若き荒俣宏は「恐怖することの悦楽」をとても見事に表現していて、今読んでもワクワクする素晴らしい文章です。以下前書きから引用します。
「人間のもつ最も古く、最も強い感情は、恐怖である。」とアメリカの恐怖作家H・P・ラブクラフトがいっています。
たしかに私たち人間は、夜を恐れ、獣を恐れ、魔法を恐れて生きてきました。説明のつかないできごとがあまりに多すぎた古代にあっては、「恐れる」ことだけが自分を守る唯一の方法だったからなのです。
でも一面で、人間は古くから、幽霊や妖怪たちもまた同じ地球に住む仲間だと考えてきました。「アラビアン・ナイト」にしても、「今昔物語」や「竹取物語」にしても、そこにでてくる幽霊や妖怪たちは、みんな人間のごく親しい知り合いとして、同じ町や村でくらしていました。
けれど科学が、私たちの生活から次々に恐怖を消し去ってくれました。消し去れないまでも、恐ろしいものの正体を明かしてくれたのです。
なのに、最後まで正体のわからない恐怖もいくつか残りました。そして私たち人間は、科学で消し去れない恐ろしいものが、みな"別世界"の住人だったことに、やっと気づいたのです。
そして、恐怖小説は、それら恐ろしいものをとりあつかう文学として生まれました。
本書に集めた作品は、すべてアメリカやヨーロッパの有名な作家が心をこめてえがいた、恐怖とふしぎにみちた別世界からのレポートです。
原作はどれもかなり長いものですが、この本のために、特に短く書きあらためました。本一冊分の恐怖を三〇以上もまとめた自信作です。
どうかこの本で、「恐怖する」楽しみをじゅうぶんに味わってください。
海外文学研究家 荒俣宏以前に『世界の恐怖怪談』に収録されている「深夜の急行列車」を紹介しました。収められている作品はどれもとびきりの恐怖の愉しみを味わわせてくれる素晴らしいものですが、今回はD・H・ケラー「地下室のなか」を紹介したいと思います。
D・H・ケラー「地下室のなか」トミーの家には古い大きな地下室があった。何百年も前につくられたもので、いろんなものがはいっていたが、奥の暗闇に何があるか、誰も知らなかった。
トミーは地下室を怖がった。赤ん坊の時からそうだった。地下室へのドアがある台所へつれてくると、トミーは火がついたように泣き出した。
這うようになると、一時も台所にいようとはしなかった。地下室へのドアが少しでも開いていると、声がかれるまで泣き続けた。
学校へ行くようになっても同じだった。
地下室に置いてある野菜を取ってくるように母親に言われても、顔色を変えて逃げ回り、絶対に地下室へ入ろうとはしなかった。
父親は怒った。「いつまでお前は子供なんだ! なぜ地下室を恐れるんだ!」
「あそこには何かがいるんだ!」
「おまえ、そいつを見たのかね?」
「いや。でも、何かがいるんだ!」
「私と母さんは、しょっちゅう地下室へ入っているが、変わったことは何もないぞ!」
それでもトミーは怖がるので、両親は医者に相談した。医者は言った。
「あの子は甘やかされたんですな。地下室のドアを開けて、締められないように釘付けし、ひとりで台所に置くんです。あそこに何も居ないとわかれば、怖がらなくなりますよ」
両親はなるほどと思い、それを実行した。
ひとしきり、台所で泣き叫ぶトミーの声が聞こえた。やがて泣き声が止んだ。
一時間後、両親と医者は台所のドアを開けた。灯りが消えていた。ローソクをつけると、床の上にトミーが倒れていた。全身をズタズタに引き裂かれ、もう息はなかった。
母親は動かなくなった物体を抱きしめた。
「どうして死んだ?誰が殺したんです?」
父親は医師に向かって絶叫した。
医師は、震え声で、やっとこう言った。
「わ、私に何がわかるっていうんです?あなたは、あそこには何もいないって言ったでしょう?何もいないって、地下室には・・・・!」
「世界の恐怖怪談」学研 ユアコースシリーズ 昭和52年この作品はジャンル的にはサイコ・ホラーですが、得体の知れない「何か」への恐怖をとても見事に表現しています。この作品の初出は伝説のホラー雑誌「ウィアード・テールズ(Weird Tales)」誌の1932年3月号の掲載です。あえて「描かない」ことで想像力を刺激する上質のホラー作品ですね。上の文章は『世界の恐怖怪談』に収録された荒俣宏による見事なダイジェストです。原作の翻訳は『アンダーウッドの怪』という短編集に「地下室の怪異(The Thing in the Cellar)」という題で収録されています。しかしこの本は古書でもあまり見かけないレア本になってしまっているようです。『アンダーウッドの怪』は国書刊行会から80年代中頃に刊行された「アーカム・ハウス叢書」というレアなホラー作品を作家別に紹介するシリーズの中の一冊で、原作は上記のダイジェストの7倍くらいの分量です。あらためて比較して読んでみると、荒俣宏の無駄の無い原作の短縮化のすごさに驚きます。あらすじっぽくなく、はじめからこの長さであるかのように上手く詩的にまとめていますね。クライマックスの「母親は動かなくなった物体を抱きしめた。」のくだりなど、語彙の選び方が天才的です。
「アンダーウッドの怪」デイヴィッド・H・ケラー=著 仁賀克雄=訳 国書刊行会 アーカム・ハウス叢書 昭和61年デビッド・ヘンリー・ケラー(1880〜1966)はアメリカ・ペンシルベニア州・フィラデルフィア生まれの作家。
半村良「幻視街」半村良(1933〜2002年)といえば映画にもなった「戦国自衛隊」がつとに有名で、伝奇SFというジャンルの創始者でもあります。私は長編小説はあまり読まないので、代表作のようなものは未読なのですが、この「幻視街」という短編集は自分にとってかなり印象深い作品集ですのでご紹介したいと思います。異世界ホラーが好きな方にオススメです。この作品集は最初の中編「獣人街」「巨根街」は置いておいて、その後に載っている短編12編がすごく面白いです。とくにプッシュしたいのは「無縁の人」「赤い斜線」あたりでしょうか。どれも諸星大二郎の初期短編漫画のようなテイストの不条理なブラックユーモアSFで、読後にジワジワくる不気味さが秀逸です。
とりあえず「無縁の人」をピックアップしてみます。この作品は、「縁」についてのユニークな考察が醍醐味です。地球上には何十億という人間が住んでいますが、実際に個人の一生で出会う人間はごくわずかなものです。それこそ何かの「縁」がなければ人と人が出会うことはありません。「袖ふれあうも多生の縁」ともいいますし、偶然街ですれ違う人でも、「縁」あらばこそすれ違えることができるわけです。ということは出会うことも何もない大部分の人間は「縁のない人」とも言えるわけですが、では、その「縁のない人」と無理矢理に縁を持とうとしたらどうなるか?という展開で、話は思わぬ結末に・・・
「幻視街」半村良 角川文庫 昭和55年
眉村卓のショートショート仕事などで手が離せないほど忙しいとき、ふと窓の外で大好きなドラマのロケをやっていて、何もかも放り出して見物したいと思ったり、大好きなミュージシャンのライブがたまたま地元で公演する時に限って外せない重要な用事がスケジュールされたり、そういうような事って誰しも経験があると思います。そういう手が離せない「時」というのは、なにか特別の「時間」で、例えばそういう忙しさがMAXになったときは時空が歪み異界の扉が開く瞬間なのではないか?という空想をしたことはありませんか?眉村卓のジュブナイルSFショートショート集「1分間だけ」の中にそうした雰囲気をテーマにした作品があります。「花を見ない?」と「白い本」という作品で、とても短い作品ですが、日常のふとした瞬間に開く異界の入り口を見せてくれます。繰り返される日常のローテーションをとるか?全てを捨てて夢に賭けるか?という究極の選択は、誰しもが何度も何度も突き当たる抗いがたい衝動ですが、そういう気持ちをうまく描いていますね。
「SFショートショート 1分間だけ」眉村卓 秋元文庫 昭和56年眉村卓はとくに小中学生をターゲットにしたジュブナイルSFが好きですが、一般向けのSFでも個性的なアプローチで作品を書いています。SFという性質上、特殊な能力を持った人間や特殊な状況を舞台にする場合が多いですが、そうした反体制「アウトサイダー」が展開していくSFと対極的なSF、むしろごく一般的なサラリーマンを主人公に据え、組織の機構の中に身を置いた視点で紡ぐ「インサイダーSF」を眉村卓は提唱し実践してきました。このジャンルの代表作はまだ未読なのですが、そうした味わいを持ったショートショート集もいくつか発表しており、こちらもなかなか面白いです。中でも個人的に好きなのは「C席の客」(1973年 角川文庫)というショートショート集です。この本の収録作品でとくに面白かったオススメは以下のとおりです。
「災難」
p49
署名活動の光景は街中でよく見かけます。そのほとんどは善意の運動のように見えるものばかりですが・・・・軽い気持ちで署名してしまうとこういう事になるかもしれません。「音」
p163
国家というのは地球上で最も大きな組織の形態です。末端の庶民に隠された陰謀が無いわけがありません。例えば、国中の至る所に全ての国民の反国家的言動を監視する録音装置が存在していて、登録されている禁止ワードを発するたびに密かにカウントされていて、ある回数までカウントされると・・・・なんて事があったりしたら怖いと思いませんか?「理由」
p169
親切な叔父のコネで入社した甥。彼はその上司でもある叔父を殺害してしまう。一体何があったのか?乱歩のいう「プロバビリティの犯罪」にカテゴライズできそうなユニークな作品。はたして叔父の親切は本心だったのか偽りだったのか?どちらにしてもゾッとする話です。「帰途」
p226
会社で激務が続いて帰りの電車の中で居眠りをしてしまい乗り過ごしてしまった、なんていう経験はよくあると思います。そうしたなにげない体験も料理の仕方ひとつでこの作品のようにユニークなものになるんですね〜「土地成金」
p259
この世界と重なり合って存在していながらなかなかコンタクトの困難な異次元の世界。そうした世界に何らかのアクシデントで迷い込む話はよくありますが、この作品では、この世界に居ながらにして異世界の情報をキャッチする手軽で現実的な実験方法を提示しています。この話のようにうまくいくことはないでしょうが、つい実験してみたくなる刺激的なアイデアです。
「C席の客」眉村卓 角川文庫 昭和48年
ロアルド・ダール「廃墟にて」ロアルド・ダールといえば、『チャーリーとチョコレート工場』や『あなたに似た人』などで有名な英国の作家ですが、「廃墟にて(In the Ruins)」(1964年)は異色の短編としてマニアの間でなにげに評価が高いようです。私は少年向けの怪談本に収録されていたものを子供の頃に読んだのですが、その不気味なインパクトは鮮烈です。装飾を削ぎ落としたどこか暗黒童話めいた情景がすごいですね。
瓦礫の山と化した街の廃墟をさまゆい歩くうち、私は地面に座りこんでいる医者らしい男に出会った。彼はノコギリで自分の足を切っている。
横には、注射器などの入った黒いカバンが口を開いていた。彼は私を見上げると、「食べますか?」ときいた。
私は空腹で餓死しそうだった。次の食事に私が自分の足を提供するなら、食べさせてもいい、と彼はいうのだ。麻酔注射をうってやれば痛みもなにも感じないから、という。
「いいでしょう」そう答えると、私はタキギを拾ってきて、医者の左足を焼きはじめた。
そこへ、四歳ぐらいの女の子がよたよたとやって来た。多分、肉の焼ける匂いにつられて来たのだろう。
「お嬢ちゃんも欲しい?」と、医者がきいた。「うん」女の子はうなづいて、私が焼いている肉をじっと見つめている。
「こうやって三人そろっていれば、当分長生きできるぞ」と、医者が言う。
「わたしママがほしい」と、女の子はしくしく泣き出した。医者はその女の子をなだめて、優しく言った。
「さぁ、お座り。私たちがじっくり面倒を見てあげるからね」
山村美紗「教科書」山村美紗といえば推理作家として有名ですが、短編集「50パーセントの幸福」(1998年)に収録されている「教科書」という短編は、奇妙な味わいの異次元SFモノです。この短編はむかし少年向けの怪談集「恐怖の館」(加納一郎・編 広済堂 たぬきの本 1978年)に収録されたもので読んだ事があります。年代的に初出はこちらのほうが近いですね。今でも印象深いホラーチックな短編で、眉村卓のジュブナイルSFを彷彿とさせる面白いSFホラーです。
検索してもwikiに作品名だけ羅列されてるのみで全くレビューなども無い状態ですから、意外に知られていない作品なのかもしれませんね。
お話は、風邪で学校を休んだ高校生男子の主人公が二日ぶりに学校へ通うところからはじまります。快活で成績も優秀な主人公ですが、その日行われたテストはいつにもなく難問ばかりで惨憺たる結果に。さぞやクラスのみんなも苦戦しただろうという主人公の予想に反して、いつもは自分よりも成績の悪いクラスメートさえも高得点を取っており、クラスの平均点は82点。もしかしたらちょうど休んでいた日の授業で出た問題ばかりが出たのではないか?そう考えた主人公でしたが、原因はもっと奇妙なものでした。そのテストは、なんと主人公だけが持っていないもうひとつの教科書から出題されていたのでした。-----というのが、ざっくりとしたあらすじです。
あらすじだけでは面白さが伝わりづらいですが、ポイントは風邪で休む前の世界とその後の世界が全く別の世界になってしまった事を匂わせている所です。この謎の教科書は、休む前の世界にはありませんでしたが、その後の世界では、以前の世界とうわべだけソックリな世界における唯一の違和感です。主人公はこの世界の住人に、別の世界の人間であることがバレているようで、「教科書」の存在をひた隠しにしている様子です。物語では、どうしてそうなったか、とか、その世界は本当に異世界なのか、などの説明は全くありませんので、主人公の感じる不気味な感覚が読者によく伝わってきます。
北山賛水「テレビ狂時代」上記で触れた「恐怖の館」に収録されている作品ですが、この作家、北山賛水氏はネットでも全く情報が見当たらない謎の作家です。この作品が収録されている「恐怖の館」は、70〜80年代に雨後のタケノコのように流行った子供向けの豆本シリーズの中の一冊で、乱歩や山村美紗、谷川俊太郎などの著名な作家から、無名ながら素晴らしい力量の作家なども多く収録されていて、見過ごせないホラーアンソロジー集です。どの収録作品もかなり良質のチョイスなのですが、やはりというべきか、現在の古書市場ではとんでもない高値になってるようですね。
で、北山賛水「テレビ狂時代」ですが、この作品は「未来文明の恐怖」というSF色のあるホラーのカテゴリーで掲載されています。テレビにまつわる恐怖を、散文詩のような感じで三編のシチュエーションで表現しています。3つとも物語上のつながりは無くテレビをモチーフにした独立したお話です。御茶漬海苔の漫画「TVO」(1989〜1990年)やD・クローネンバーグの「ビデオドローム」(1982年)を彷彿とするシュールでポエティックなホラー掌編ですが、この作品はそれらよりも発表時期は古い(1978年以前)というのも驚きです。
テレビ狂時代
1
隣の部屋から明るい音楽が聞こえていた。時々、屈託の無い笑い声も混じっていた。夕食後の家族団らんのひとときを、家族はテレビの前ですごしていた。
彼はどうしても、きょう中にやらなければならない仕事があった。しぶしぶ明るいテレビの前から一人離れ、隣の書斎に閉じこもっていた。いいようもなく、彼は孤独だった。これほど、テレビから離れているのが、辛いことだとは思わなかった。
突然、部屋の窓ガラスが、音をたてて砕け落ちた。破れた窓を乗り越え、黒い装束の男が、部屋の中にはいってきた。テレビで見たとおりの格好だった。地下足袋をはき、顔を手ぬぐいで隠していた。手には怪しく光る包丁が、握られている。「静かにしろ」泥棒が押し殺した声で言った。
隣の部屋から、あいかわらずテレビの音が聞こえていた。音楽が沈痛な曲に変わっていた。笑い声が消え、ひっそりしていた。
きっと泥棒がはいってきた物音を、聞きつけたに違いなかった。通報をうけて警官が来るまで、時間をかせがなければと彼は思った。
「あの金庫を開けるんだ」泥棒は部屋の隅に置いてある、大型の金庫を指差した。金庫の中には、何も大切なものは入ってなかったが、彼はいかにも困ったような顔をしてみせた。こういう場面のテレビのとおりに、彼はわざわざ指を震わせ、顔をひきつらせてみせた。そうすると、本当にこわいような気がした。
「おいっ、はやくするんだ」泥棒がすごんだ。包丁が首に迫ってきた。
もうすぐ、あのドアを開け、警官が飛び込んでくる。悪人は抵抗するが最後に、とうとうつかまってしまう。悪人は警官の顔を見据え、叫ぶのだ。「ちくしょう」
彼が全然、金庫を開けようとしないので、泥棒は本気で怒っている格好をした。こめかみの青筋がヒクヒクしていた。いかにも本物に見せようと、目をギラギラと輝かせた。しかし、どう見ても本物の役者のようには、上手くない。迫力がなく、いかにもぎこちなかった。彼は思わず、顔をほころばせた。しまったと思ったが、遅かった。
「きさまっ」泥棒が叫んだ。包丁が振り上げられた。彼はやっと身の危険を感じた。
「だれか来てくれぇ」彼は叫んだ。「だれか来てくれぇ」
必死で避けたが、間に合わなかった。「ウギャーアー」ものすごい悲鳴をあげながら、血飛沫の中を、彼は転げ回った。
そのとき、彼は見た。
ドアの隙間に、家族の目が並んでいた。彼らの目は、まるでテレビを見ているように、輝いていた。
2
彼は必死で走っていた。彼の額からは、大粒の汗が流れ落ちた。彼はそれをぬぐおうともせず、ひたすら我が家を目指していた。
ああ、もう時間が無い。彼は道ばたの家のドアを叩いた。「すいません、開けてください」いくら呼んでも、いくら叩いても、返事は無かった。家の中から明るい音楽が、おどるように流れていた。
「お願いです。開けてください」彼は涙を流していた。どの家の戸を叩いても、誰も出て来なかった。とうとう彼は、力いっぱい戸を蹴破った。
突然、家の奥に居た知らない家族が、彼を取り囲んだ。みんなで彼の身体をところかまわずヒステリックに殴りつけた。奥さんらしい優しそうな女が、目をつり上げて、彼の首を締め上げ、顔をかきむしった。
彼は道ばたに放り出された。半死半生の状態だった。
「うるさいわね。今一番面白いところなのよ」彼らは、家の奥に消えた。彼は必死に、這いずり回った。はやく、はやく家に帰らなければ、面白い世界ビックリショーが終わってしまう。
彼は血まみれの身体で必死に這っていた。彼の家は、まだ遠かった。
3
街の家々に明るい灯がともっていた。パパもママも女の子も、みんなテレビの前に座っていた。明るい家族の団らんを、みんなテレビに見入っていた。
テレビの画面に、一人の男の顔が、いっぱいに写っていた。みんな彼の顔を見つめている。家の中は静かだった。
画面の男の顔が、静かに変化した。まゆげが歪み、口が曲げられ、目が小さくなった。笑い顔だ。パパの顔もママの顔も女の子の顔も、男の顔と同じ笑い顔になった。男の顔が悲しそうな顔になった。みんなの顔が、悲しそうな顔になった。男の顔が怒った顔になり、涙を流した。みんなの顔から涙が流れた。
男の顔が次々に変わってゆく。みんなの顔も次々に変わってゆく。どんどんコマ落としのように速くなった。みんなの顔がめまぐるしく変化していった。笑い顔になった、涙をこぼした。
男の顔が止まった。無表情な顔になり、画面の横にENDの字が出た。テレビの放送時間が終わったのだ。みんなは、ぼつぼつ立ち上がった。家族団らんの時間は終わった。みんな自分の寝室に消えた。
茶の間に、消し忘れられた一台のテレビだけが、取り残されていた。一瞬男の顔がニタリと歪んだように見えたが、その時は誰も、テレビを見ている者はいなかった。静かな夜だった。どこか安部公房の短編のような不条理感を彷彿とする詩的な味わいのホラーですね。作品が書かれた時代は今と違ってネットもゲームも無い時代で、まさにテレビは娯楽の帝王でしたから、そういう時代の目から見た未来というものは、この作品が描く「テレビによって全てが支配されるアンチユートピア」だったのかもしれません。2つ目の話は「そんなに見たかったなら録画予約しておけばいいのに!」と思われるかもしれませんが、これが書かれた時代にはビデオレコーダーが無かったのでそれは不可能です。3つ目の話は、近年に広まったテレビの都市伝説
「明日の犠牲者」、
「NNN臨時放送」に通じる不気味な話ですね。

「恐怖の館」加納一郎・編(広済堂 たぬきの本 1978年)

「恐怖の館」目次