今回は最近なぜか自分の中で関心が高まっているUFOについての考察をテーマに、ダリと並んで子供の頃から好きだったベルギーの画家、ルネ・マグリットへの思い入れなどを交え、いろいろ語らせていただこうと思います。UFOという言葉は「未確認飛行物体 (Unidentified Flying Object)」の略ですから、厳密にはとくに超常現象的な飛行体を指してはいないのですが、ここでは一般にイメージされている宇宙人の乗物的な謎めいた飛行物体という意味で使っていきます。
ダリとマグリットシュルレアリスムの画家、といったら芸術に馴染みのない人であってもサルバドール・ダリの件の歪んだ時計の絵(『記憶の固執』)か、ルネ・マグリットの奇妙な浮き島の絵(『ピレネーの城』)あたりが真っ先に思う浮かぶのではないでしょうか。そのくらいダリとマグリットというふたりのシュルレアリストの生み出したイメージは飛び抜けてインパクトがありましたし、このふたりが一般の知名度から言ってもシュルレアリスムを代表するツートップであるといっても過言ではないのではないかと思います。
(左)ルネ・マグリット「ピレネーの城」1959年 (右)サルバドール・ダリ「記憶の固執」1931年
この有名な2枚の絵は、ほとんどシュルレアリスムのアイコンのような感じですね。「ピレネーの城」は、藤子不二雄のブラックユーモアの短編漫画「マグリットの石」のモチーフになっていましたが、「ドラえもん」でもタイムマシンでの移動中の異空間のイメージにダリの「記憶の固執」にインスパイアされたのであろう歪んだ時計も描かれていますね。筒井康隆はエッセイでダリのファンであると明かしていましたし、楳図かずおも「ダリの男」という短編を描いています。考えてみると、ここまで大衆文化に影響を与えた芸術家というのはあまり知りませんし、そうした意味でも彼らの芸術は普遍的な価値を内包しているといえますね。シュルレアリスム自体が広告などのグラフィックデザインに多大な影響を与えましたし、その他映画や文学など大衆文化に応用しやすい理論でした。そうしたシュルレアリスムのフレキシブルな性質をダリとマグリットは十分に体現していたアーティストだったといえるでしょう。 ダリの幻想空間は「熱くたぎった情念のフェティズム」といった感触ですが、マグリットは対称的に「白昼の明るさと静寂のストイックな幻想」を感じます。どちらも夢の光景のような不思議な空間を描いた画家ですが、受け取る印象は互いに「動と静」、「闇と光」、「陽と陰」という対称的な印象があります。スペイン人とベルギー人というお国柄も反映しているのでしょうね。
少年マガジンの表紙(1970年12月20日号)絵:ルネ・マグリット 表紙構成:水野石文
マグリットの絵を漫画雑誌の表紙にもってくるなど、この時代ならではの勢いを感じます。70年代の少年マガジンというと横尾忠則がデザインした号は凄いですね。もはやエディトリアルデザインの革命といってもいいくらいインパクトがあります。 ちなみにこの号は、中身を開いてみると連載中のジョージ秋山の「アシュラ」が親子の再会を果たす壮絶なクライマックスだったり、谷岡ヤスジの「メッタメタガキ道講座」で当時モノの「アサーッ!」に感動したり、つい読み耽ってしまいました。ほかには、画像のように、当時の人気漫画「巨人の星」に登場する主人公星飛雄馬の親父、星一徹が読者の人生相談にのるという愉快な企画など、マガジン黄金期の編集部の熱気を感じます。しかも、星一徹になりきってコメントを書いているのは担当編集者やお抱えのライターではなく、「巨人の星」の原作者でもある漫画史に残る伝説の男、梶原一騎本人に書いてもらっているというのが贅沢きわまりない感じがします。
黒い旗というわけで、マグリットへの興味というのはけっこう昔からあったのですが、今回取り上げたいのは1937年に制作された奇妙な油絵「黒い旗」です。まぁ、マグリットの絵は大概は奇妙なものなのですが、この絵は、他の作品から受ける白日夢のような明るい静寂のイメージとは逆の、暗く重々しい雰囲気があります。一説にはナチスによるスペインのゲルニカ爆撃に対するマグリットの心象を表したものだとも言われてますが、ピカソの「ゲルニカ」に対し、やはりマグリット的な静けさを感じる不思議な風景ですね。私がこの絵をはじめて見たのは中学生頃に買ってもらったマグリットの画集でした。この絵から受ける何とも言いがたい不思議な気分に浸った記憶が蘇ります。
ルネ・マグリット「黒い旗 (Le Drapeau Noir)」1937年
マグリットの作品のタイトルは、必ずしも作品とストレートに結びつくものばかりではないのはよく知られています。それは、タイトルと作品を関連付ける習慣化された行為に対するアイロニカルな問いかけでもあります。「黒い旗」の場合は、黒い旗(海賊旗や死刑執行の合図やアナーキストのシンボル等)からイメージする不安な気分を象徴させているという説がありますが、マグリットらしく意味なく直感的に与えられたタイトルなのかもしれません。考えようによっては空に浮かぶ偽飛行機自体に名付けられたネーミングのようにも受け取れますし、このタイトルもまた心をぞわぞわさせる魔力がありますね。
マグリット作品で私が好みなのは、一般に好まれている「ピレネーの城」や「大家族」などのファンタジックなものよりも「暗殺者危うし」とか「秘密の遊戯者」などの、ミステリアスな異世界を描いたものです。ちなみに、横尾忠則がマグリットの「暗殺者危うし」をモチーフに再解釈した作品を描いていますが、横尾さんもこの作品が好きだったのか、と嬉しくなりました。そういうわけで、この「黒い旗」も、そういったミステリアスな異世界を描いた作品であり、長年とても惹かれる作品でした。最も気になるマグリット作品であるといってもいいでしょう。そういえばこの作品への愛が嵩じて、「黒い旗」のイメージをモチーフにした短編漫画を描いた事もありました。
マグリットの描く不思議な異世界。(上)「暗殺者危うし」1927年 (下)「秘密の遊戯者」1926年
「黒い旗」に惹かれる理由は明確です。飛行機のようで飛行機でない、絶妙な偽物っぷりが絶妙な飛行機の造形の魅力。どうもただの金属のカタマリを適当に飛行機っぽく組み立てたモノのように見えます。当然エンジンらしきものもなさそうで、こんなモノが空を飛んでいるだけで不気味です。しかも操縦者も不在で、そもそも人間が造った乗物のようにも見えません。「ピレネーの城」のように、巨大な岩が空に浮かんでいるのはストレートな不思議ですが、飛行機っぽいのに空を飛んでるのがオカシイと感じるのは、どこか屈折した不思議さがあります。いや不思議というよりも不可解という言葉がふさわしいような、そんな「モヤモヤした不思議さ」がこの作品の醍醐味だと思います。
横尾忠則とUFO画家の横尾忠則さんに関して、その芸術だけでなく、横尾さんが長年探求していた精神世界のほうにも最近関心がでてきました。横尾さんの探求していたスピリチュアリズムはUFOと密接な関係があるので、私もUFOについて興味が高まっているところです。横尾さんはかつて三島由紀夫とも親交があり、作品にもしばしば三島の肖像が描かれますが、そういえば三島由紀夫もまたUFOにただならぬ関心をもっていた作家で、
「美しい星」という作品では宇宙人やUFOが登場するという三島作品には珍しい異色SFを書いたりしています。ブームに乗って興味本位で書き上げたということでもないらしく、石原慎太郎・黛敏郎・星新一らも所属していた「日本空飛ぶ円盤研究会」の会員でもあり、UFOの観測にも熱心だったみたいです。横尾さんがUFOに関心を持ったのは、「横尾忠則自伝」(文芸春秋 1995年)によると、1960年代の末頃に夢の中に奇妙なUFOが現れたのがきっかけだったと書いています。「私の夢日記」(角川文庫 1988年)という著書では、横尾さんが1955年から1988年にかけて見た夢を書き綴っています。見た夢を具体的に絵で描いた挿絵も挿入されていて、もちろんUFOの夢も描かれており興味深いです。
(左)『私の夢日記』横尾忠則:著 角川文庫 1988年
(右)『横尾忠則自伝』横尾忠則:著 文芸春秋 1995年
ぼくはまたUFOだけでなく全ての超常現象に興味があったので、UFO研究家、心霊研究家、超能力者、霊能者などを訪ねて廻った。その結果驚くような超自然現象を何度も目撃することができた。そして、われわれが普段このような事柄を非科学的、非合理的という理由だけで日常のコンテクストから排除して、理性を唯一近代的知性であるかの如く考えている常識にぼくは大きい疑問を抱くようになっていった。
超常現象がぼくに与えた最大のものは感動だった。UFOを目撃し、スプーンが曲がった事実にぼくは感涙した。この事実を単に観念で認識する研究家が多い中で、ぼくは彼らのようにはなりたくなかった。超常現象を目の当たりにした時の感動ほどぼくの魂を震わすものはなかった。そしてこの感動は神とか宇宙と直結している感情のように思えた。
『横尾忠則自伝』p274 横尾忠則:著 文芸春秋 1995年
そういえば私も小学生の頃はよくUFOの夢を見ていました。私が子供の頃に見たUFOの夢の内容は、のんびりした暖かい昼下がりにUFOを発見して大急ぎでカメラを探し、UFOを激写したとたん気づかれて、直径50cmくらいの銀色の円盤形UFOに追いかけられるという、怖いような楽しいような、微妙な気分になる変な夢でした。似たような夢は何度も見ていて、いつもUFOをまずカメラに収めようとして追いかけられるというパターン。大きさも30〜50cmくらいの銀色の円盤というのも共通してましたが、何か意味があるのかどうか気になるところです。
「横尾忠則マガジン 超私的 Vol.1」(平凡社 1999年)では、あの「ちびまる子ちゃん」の作者さくらももこが寄稿していて、横尾さん宅で会談したときの事を書いておられました。横尾さんに会ったらUFOについていろいろ聞いてみようと思っていたそうで、実際にUFOやスピリチュアルな話で盛り上がったそうです。そういえば、さくら氏も
「コジコジ」などを見ると、かなり精神世界に足をつっこんだことのある人であることがわかりますし、「アミ小さな宇宙人」(エンリケ・バリオス:著 石原彰二:訳 徳間書店 2000年)というスピリチュアルなファンタジー小説では挿絵を書いていたり、と、けっこう神秘な世界に興味のある方のようですから、なにかと横尾さんと話が合いそうです。横尾さんは守護霊の団体によく助けられているという話をしたそうですが、ちょうどさくら氏も締め切りに追われてハイになって執筆している時などによく見えない力に助けられる体験をしていたそうです。しかも、執筆のテイストや方向性によって筆跡のクセも変わってくるようで、それが守護霊的な存在であるにしても複数の存在であると感じていたそうです。なので、横尾さんが守護霊をひとりではなく団体と表現したことで、ピンとくるものがあり、横尾さんの話は本物なのだと確信した、というようなことが書かれてました。
ちなみに、さくらももこの作品の中で私が一番好きなのは
「神のちから」(小学館 1992年)です。まさにギャグ漫画の神が憑依して描いたかのような不条理ギャグ漫画の大傑作。未読の方には大推薦したいです。さくらももこの本当の凄さがわかる一冊であります。この2年後に創刊された少女雑誌「きみとぼく」(ソニーマガジンズ 1994〜1997年)にスピリチュアルでファンタジーなギャグ漫画「コジコジ」の連載がはじまりますが、「コジコジ」に登場するキャラクターのいくつか(ハレハレ君、物知りじいさん、ドーデスなど)は「神のちから」に登場したキャラが使われており、そうしたところも見所です。
(左)左が『横尾忠則遺作集』學藝書林 1968年、右が『横尾忠則全集』講談社 1971年 (右)『横尾忠則遺作集』に親交のあった三島由紀夫から贈られた紹介文が載っています。
死んでもいないのに「遺作集」とか、人気絶頂で創作意欲も旺盛な30代の作品集に「全集」とつけてしまったりと、人を食ったシニカルなセンスが横尾さんらしい。これらはデザイナー時代の横尾忠則の代表的な作品集。まだ横尾さんが30代の半ば頃のもので、ページを開くたびに当時の激しい熱気が伝わってきます。多分『横尾忠則遺作集』が最初の作品集になるのだと思いますが、処女作品集に「遺作集」と名付けるセンスがただものではありません。これは、どうやらおふざけの意味だけでなく、自分の死に対する底知れない恐怖を克服するために、あえて擬似的に死んでしまおうという逆転の発想からひらめいたアイデアだったようです。この当時からインド思想などに傾倒し、瞑想なども行っていたみたいです。
横尾さんは70年代当時ハマっていた神秘思想で言及されている理想郷伝説「
シャンバラ」にとても惹かれていたようで、シャンバラを題材にした版画なども多く発表していましたが、そうした中、当時の大ヒットしたコメディドラマ
「ムー」(1977年)のオープニング映像も手がけていました。その映像にも、当時のインド趣味が炸裂していて、OPを見ただけではドラマの内容がまったく想像できないというところも、ある意味スゴイ斬新なものです。そして、奇しくもドラマ「ムー」放映から2年後に学研から同じタイトルのオカルト雑誌「ムー」が創刊することになります。ドラマ界の革命的コメディ作品と、オカルトというマニアなジャンルを大ヒットさせた雑誌界での革命が同時期に存在していたというのは面白い偶然のように感じます。ドラマと雑誌には何の関係もなく、ドラマの「ムー」は、演出家の久世光彦が、それまでのホームドラマと違いを出すために片仮名1字の記号のようなタイトルにしようとしたところから
適当に名付けられたもののようですし、雑誌のほうは超古代文明説でお馴染みの幻のムー大陸からとられた名前です。
インド風のイメージをベースにフランスの画家アングルの絵やマリリン・モンローやターザンなどのハリウッド的イメージやフリーメーソンのシンボル「万物を見通す目」などなど当時の横尾さんのマイブームが蛍光色でサイケにアレンジされ詰め込まれたキテレツなイメージがたまりません。マジシャンとしても名声の高い荒木一郎によるバックに流れるインド風の神秘的な音楽もとても良いですね。
矢追純一と「ムー」UFO界のレジェンド、矢追純一がUFO関連の番組を「11PM」などでぽつぽつ作りはじめるのが1960年代で、この頃にはオカルト雑誌などでもUFO問題が取り上げられるようになります。矢追氏が本腰を入れてUFO特番を精力的に作りはじめるのはその後の1970年代の後半になってからのようで、日本でUFOが一般に注目されたのは実質このあたりだと見ていいかもしれません。矢追純一のUFO特番は、日本にUFOというジャンルが定着する大きなきかっけになったと思います。嘘くさいとかハッタリかましすぎだとかいろいろ言われますが、テレビの娯楽番組ですから、真偽よりも先にまず視聴者を楽しませることを優先するのはしかたがありません。こうしたものは話題のきっかけになったり、今後のジャンルの開拓に繋がる突破口の役割を果たすだけで十分で、私はそこを評価したいです。
そんな感じで、このUFO特番で日本中がUFOブームにわき上がっている70年代後半に、今やオカルト雑誌の王者である学研の
「ムー」(学研 1979〜)が創刊されます。オカルト専門誌は、実は「ムー」以前にもいくつか存在していましたが、どれも成人向けのマニアックなもので、エロとオカルトの混在したものでした。「ムー」以前の代表的なオカルト雑誌に「不思議な雑誌」(日本文芸社 1963〜1965年)や「オカルト時代」(みのり書房 1976〜1977年)などがありますが、「私は幽霊とベッドを共にした!」だの「秘境に謎の媚薬村を発見!」だのといったうさん臭い記事が満載で、実話系週刊誌の編集部が「ムー」を作ったらこうなるんじゃないか、みたいな猥雑で怪しげな雑誌です。「ムー」がオカルトを楽しくライトに扱うことで、それまでうさん臭いキワモノ的な娯楽だったオカルトが、誰もが楽しめる娯楽になったともいえます。矢追純一特番や「ムー」創刊以降、つまり80年代にはいるとUFOもオカルトもそれまでのマイナーな扱いから一気にメジャーなコンテンツとして取り上げられるようになります。今やオカルト番組のご意見番としてお馴染みの作家、
山口敏太郎氏も「ムー」のコンテストで受賞したのがオカルトのジャンルに足を踏み入れるきかっけになっていますから、現代日本のオカルティズムにとって重要な役割を果たしてきた雑誌であるといえるでしょう。
学研「ムー」の創刊号から9号までのヒトケタ号コレクション。5号と6号が抜けているのでいつか揃えたいです。上段の創刊号〜4号で表紙画を描いているのはスターウォーズのポスターなどで知られる去年急逝された世界的イラストレーターの生頼範義(おおらい のりよし)。下段の7〜9号の表紙画はポーランド出身のフランスの画家ウォジテク・シュドマク(Wojtek Siudmack)。ダリがSF画を描いたらこうなるんじゃないか、という感じのテイストが面白いです。日本ではこの「ムー」の仕事によって知られているのみの画家ですが、もっと日本でも周知されるべき才能の持ち主だと思います。シュドマク氏のアートワーク 謎の飛行物体が目撃されるという事件はUFOという言葉も無かった時代から世界中であったことが文献などであきらかになっていますが、実際にそれをUFOというオカルトのジャンルとして具体的に認識するきっかけになったのは1947年の
ケネス・アーノルド事件から、というのが定説になっています。「水面をはねるコーヒー皿のような飛び方をしていた」と"飛び方"を語ったものが「コーヒー皿のような物体だった」と"形状"に置き換えられて誤って伝えられ、「空飛ぶ円盤(フライング・ソーサー)」という言葉ができた。と、いうことですが、この誤報通りに、後に続々と円盤形のUFOばかりが目撃されるようになります。肯定派にとっては身も蓋もない成り行きに思えますが、こうした誤解がそのまま現実化するという経緯は、まさに大衆心理に原因がありそうですね。実際ユングはUFOを人間の無意識が空に投影されたものだという面白い説を発表しています。そして、ついには宇宙人と仲良くなって円盤に乗せてもらって金星に行ってきた、という衝撃の手記で一躍世界的に脚光をあびることになる
ジョージ・アダムスキーが登場します。たしかに普通に考えればアダムスキーの言っている事はトンデモなのですが、横尾さんの上記の自伝などを読んでいると、UFOコンタクティ(UFOと日常的に接触している人こと)の多くが言及しているUFO同乗の体験というのは、この世界とは意識次元の違う異世界的なところでの体験のような印象を受けます。実際横尾さん自身もUFOコンタクティのひとりで、著書でもそのコンタクトの様子を書いておられますが、どうも普通の意識状態でしている体験ではなさそうです。もしかすると、この世界には、人間が感じるこの現実世界だけでなく、レイヤー(階層)の違う別の次元が重なり合っていて、瞑想などで意識を精妙な段階に移行させることで、そうした次元にある世界を感じる事ができるようになるのかなぁ、などと最近は想像しています。
懐疑派の観点から客観的にUFO問題を解説なさっていて興味深いです。
『空飛ぶ円盤』カール・グスタフ・ユング:著 松代洋一:訳 朝日出版社 1976年
フェイク・プレーンUFOは上記のように、最初は円盤形が主流で、「空飛ぶ円盤」というのは「UFO」と同義でした。しかし、しばらくすると、葉巻型や三角形のものなど、円盤形以外の形状のバリエーションが報告されるようになります。現代では、CGの技術やドローンなどのテクノロジーも発達していきているので、無数の突拍子も無いUFOがネットに溢れている始末です。あまりリアルだと嘘っぽく、あまり不明瞭だと見間違い説が濃厚になりますから、ますますUFO研究が難しい時代になってきたように察します。最近では人間型のUFOとか、馬の形をしたUFOとか、はては月などの天体のフリをしたUFOだとか、雲に擬態したUFOであるとか、もうとりあえず空に何か飛んでればUFO?という状態になってきているようです。もはやUFOのインフレのような状態です。そんな数あるニュータイプの中で、面白いと思ったのは「フェイク・プレーン」なるUFOの一種です。
「文芸春秋デラックス UFOと宇宙船」文芸春秋社 1978年
いろいろな形のUFOを紹介するページ。おそらく元になった不鮮明な写真や目撃者の描いた稚拙な図などを参考にイラストレーターがプロの画力と想像力で思いっきり補ったUFOの絵なのでしょう。ネットで見かけた「子供が描いたモンスターをプロが本気で描き直してみた」記事を彷彿とします。とはいえ、こうしたイラストは小松崎茂など昭和の少年漫画誌のグラビアイラストのようなワクワク感があってミステリアスな空想をかきたてますね。 フェイク・プレーンというのは、UFOが飛行機に化けた偽飛行機のことです。UFOが円盤やその他の「いかにもUFOらしい形」をしていると人間に怪しまれるので、最近のUFOは、空を飛んでいても怪しまれない見慣れたモノ、つまり旅客機やヘリコプターなどの姿にホログラム的な技術によって擬態する事が多い、とのことです。飛行機そっくりのUFO、いやそれ本物の飛行機とどうやって見分けるの?という話になりますが、フェイク・プレーンの特徴は、一見すると飛行機のようだが見よう見まねで化けているので積み木の飛行機のような雑な造形であるとか、よく似てるけど翼がないとか、あり得ない変な色をしているとか、半透明であるとか、つまり、どこか不完全な擬態をしているそうです。一応国内外で報告されているフェイク・プレーンといわれている画像や動画をいろいろ見てみましたが、本物の飛行機をズームで拡大したときに起こる光学的な現象によるものばかりで、細部がデフォルメされることで変な形に見えるだけというものがほとんどでした。まぁ、ご察しのように、フェイク・プレーンとは、ただの飛行機をあれはUFOだ!と強弁しているものが多いようです。
ただ、その「UFOが飛行機に擬態する」というアイデアは、とても面白い着眼です。フェイク・プレーン現象とは、UFO現象というよりは、現実を楽しむファンタジーのひとつなのかもしれません。実は普通の旅客機であったにしても、「もしかしたらアレはUFOが飛行機に擬態しているのでは!?」なんて考えながら見ると、いつもの日常がちょっとファンタジックなものに変わっていきそうです。このフェイク・プレーンというUFO界のニューフェイスですが、これでふと思い出したのが先に言及したルネ・マグリットの絵画作品『黒い旗』だったわけです。描かれているのは、数機の飛行機が暗い曇り空の中に飛んでいる、というより浮遊している感じの、謎めいた景色ですが、よく見ると、その飛行機も飛行機に似せた不可解な物体であり、飛行するための機械的な構造を内部に有しているとは思えないその姿が、とても印象深い作品です。まさに未確認飛行物体であり、私がUFOに惹かれる理由のひとつは、ありえないモノが空を飛んでいるというファンタジーであり、たんにオカルト的な好奇心を刺激するだけでなく、ある意味シュルレアリスム的な、アート的な現象だからといえるかもしれません。
文字だけだとピンとこないと思いますので、UFOマニアのチャンネルに投稿されていたフェイク・プレーンのリンクを貼っておきます。
飛行機のようで飛行機でないという典型的な"フェイク・プレーンらしさ"のある映像。真偽はどうあれ面白い映像ですね。
宇宙と人間の神秘に関する雑感パラレルワールド説は現代では真面目に議論されている宇宙論のアイデアのひとつですが、パラレルワールドの存在は、そうしたレイヤーの違う階層構造を持った異世界の存在がさほど夢想じみたアイデアではなさそうな期待を持たせてくれます。人間はこの宇宙に内包された存在ですから、人間の知性も、この宇宙にとって何らかの役に立つツールである可能性が高いですし、必要があって得られた能力であろうと思います。数学で4次元、5次元・・・・n次元と、無限の次元を人間の知性が扱うことができるのは、そもそもこの宇宙が無限のレイヤー構造を持っている可能性を持っているからこそ、「次元」という概念を思考することが可能になっているのではないだろうか、と、なんとなく感じます。
宇宙のほとんどの質量を占めるといわれる
暗黒物質(ダークマター)は、質量を持っていることだけがわかっている謎の物質です。とりあえず存在していることだけが分かっているだけで、その正体は観測不可能というのですから、現代科学の力をもってしてもこの宇宙の大部分は謎だらけということだと思います。実体がなく質量だけが存在する、という、どうにも非科学的な存在を科学によって見つけてしまうというのが面白いですね。
UFOがうさん臭がられる理由は、太陽系外惑星から地球に到達するまでの気の遠くなるような距離の問題もありますが、一番ネックになるのは、UFOを飛ばせるほど高度な文明を築いた生物が同じ時期に互いに行き来できる距離に存在する可能性がほとんどゼロに等しいと思われるからです。人間以上に高度な知性を獲得した生物がいる惑星自体は、かなり高い確率で銀河系の中だけでも相当数あると思われますが、そうした種が繁栄している時期というのは宇宙の視点からは一瞬ですから、たまたま同じ時期にふたつ以上の惑星の知性体が、しかも行き来が可能な近距離に存在する可能性はとほうもなく低いといえるでしょう。しかし、可能性がどんなに低くても、母数が尋常じゃなく大きいのが宇宙ですから、ゼロでない限り常に可能性はあるともいえます。また、そうした判断の材料になっているのは、現時点での科学の知恵によるもので、もし現時点より進んだ新しいパラダイムが発見されれば、そうした常識さえ非常識となることもありえます。アインシュタインが相対性理論によって宇宙の常識をまるっと塗り替えてしまったように、ひとつの発見が昨日までの常識を180度変えてしまう事が十分あり得るわけです。
人類が地球が丸いことの実際的な証明を得たのは、マゼランの世界一周旅行によってということですが、今では常識中の常識であるような地球は丸いという初歩的な知識さえ500年程度の歴史しかないことになります。人類を月に送った時にアポロ11号の誘導に使われたスーパーコンピュータのスペックはファミコンなみだったというのはよく言われてますが、コンピュータの進化の著しさは文字通り日進月歩といえるでしょう。身近なパソコンでさえちょっと昔には当たり前に感じていた常識が数年で簡単に塗り替えられてしまうのですから、今の常識で物事の可能性を断定することはとても危うい面があると感じます。まぁ、何が言いたいかというと、UFOも頭から否定せずに、分からない事は基本的に自分の都合のいい方向(楽しい方向)で考えてしまってかまわないのではないか、ということです。UFOは非科学的ですが、あくまで現時点の科学では非科学的なだけで、これからも非科学的でありつづける保証もないのですから。
科学が予測できるのは常に現時点での科学による予測であって、その科学自体が進歩したらその都度変更を余儀なくされるのは、今までの歴史が証明しています。現時点での常識は、理性的な人間は、UFOもオカルトも信用ならない迷信俗信の類いであり非知性的なものだと考えるべきであるかのような空気があります。「常識」というのは、それによって社会は倫理や秩序を保つことを可能にしますから、必要なものでありますが、あくまで限られた時代や文化の中で効力を発揮するだけであり、絶対的なモノサシなのではない、ということを常に念頭に入れておくべきであろうと思います。常識というものはいつの時代もクセモノで、常識は先入観となり、やがては自由な発想を封じ込めるようになっていきます。だからといって、ほどほどのバランス、中庸が大事なのだ、と言ってみても、それを言うのは簡単ですが、この世は相対的な世界なので、何を持ってニュートラルと考えるのかは、結局は個々人の主観に依存するしかない、というジレンマがあります。
身近な太陽系のことすら年々新発見がされている状態で、知ろうとすればするほど、知らない事のほうが多いという事実を突きつけられるようです。おそらく科学が発展すればするほど、世界が明瞭になっていく以上に、むしろ人間が「何を知らなかったのか」を知っていくことでしょう。ダークマターなどはそうした良い例だと思います。つい10年前には冥王星が惑星から降格して、もっと巨大な準惑星エリスが見つかったりしてますし、さらに最近では
木星よりも巨大な第9惑星が存在するかもしれない、という説が浮上していて天文ファンの話題の的になってます。仮説ではありますが、かなり有力視されているようで、研究チームによると太陽を1〜2万年かけて一周しているらしいとのことです。まるで一時期オカルト界隈で話題になっていた
惑星ニビルを彷彿とする仮説で、ロマンをかきたてますね。
生命はその生存のために外界をいかに知覚するか、という事に全力を傾けます。人間は、さらに、自らが存在している宇宙自体について知ろうとしはじめています。これは人間の知的探求心であるだけでなく、宇宙自身が人間の知性を生み出したのですから、宇宙自身が自己発見していくゲームに興味を示しはじめた、と言い換えることもできるように思います。宇宙が、それ自体ひとつの存在でもありますが、「ひとつ」である限りは自分自身を知ることができません。ひとつであるゆえに「外」がなく、自分を観察する「対象」もなく、対象がないので自分を何かに比較することもなく、ひとりゆえに誰かと競うこともありません。
人間のユニークなところは、宇宙と分離した存在であるかのような勘違いをする生命体であるということです。人間はザックリ言えば宇宙で発生した宇宙生物ですから、これはちょっと不自然にも思える性質です。しかし、逆に宇宙にとって人間がそのような分離感を抱いているメリットは何か?と発想していくと、ある仮説が思い浮かびます。宇宙の立場から、宇宙の視点に立って考えてみます。それは、宇宙が「ひとり」でありながら、二人目(人間)の存在を仮定し、そうした自己暗示を自らにかけることで、バーチャルな「外部(つまり人間の意識)」を生み出したのではないか、という可能性についてです。人間が宇宙を知ろうとする行為は、とりもなおさず、宇宙が宇宙自身を知ろうとしている事にほかなりません。宇宙が、人間という思考する装置を138億年かけて生み出したのは、自分を知るためのバーチャルな「外部」を作り出すためだったのではないか、と思います。あくまでバーチャルなので、人間も「本当の事」に気づいたとたんに自分が「外部」ではなく、「内部」であり、究極には宇宙そのものであることを知ってしまい、そこでいったんゲームは終わります。この「気づいてしまうこと」というのが「悟り」といわれているものなのかもしれません。「ひとつ」であることは無限の安心感がありますが、分離の幻想に浸ることでダイナミックな快楽を得ることができます。この宇宙が静的でなく、つねに運動し、生々流転し、変化し続けているのは、そのような分離の幻想を宇宙自身が楽しんでいるからなのでしょうね。
人間は自力で空を飛ぶ事ができませんから、古来から空というのは、神々の住まう高次元の世界の暗喩でもありました。宗教画で天使の絵に鳥の翼が付いているのは、そうした「天界の住人」であることの象徴です。天体の動きは、神秘的な意味があるとされ、占星術などが生まれましたし、昔から空というのは神秘そのものの象徴であったのでしょう。そういう意味では、UFOというのは、現代における神話的な現象ともいえるのかもしれませんね。