2016年11月05日

書道

晴れ「ばらかもん」

ふとしたきっかけで最近アニメをよく見てます。「僕だけがいない街」、「モンスター」などのサスペンスな感じや、「さよなら絶望先生」、「化物語」のようなアートな感じの作品など、いろいろと刺激になりました。そんな中で、シナリオ的にとくに大事件が起こるわけでもない、のんびりした感じの癒し系の作品も、心が洗われるような感じで、けっこう良いものですね。「ふらいんぐうぃっち」「ぎんぎつね」など、そうしたヒーリングな気分に浸れる良作ですが、中でもとくに惹かれたのは、書道をモチーフにした「ばらかもん」という作品でした。

主人公にして書道家の半田清舟(はんだせいしゅう)は、自分の作品に目の前でケチをつけてきた書道業界のお偉いさんを衝動的に殴り倒してしまい、頭を冷やして反省させるために書道家の父親のすすめで長崎県五島列島に送り込まれる、というのが物語の出だしです。ストーリーは主にこののんびりした漁村での村人とのふれあいをメインにして進んでいきます。心優しい邪心のない人々とのふれあい、というのは、それだけでユートピアの必須条件なのだなぁ、としみじみ感じるのと同時に、そうした人間ドラマの中で書道とは何ぞや?という部分がさりげなく描かれていて、けっこう勉強にもなります。この作品の最大の魅力は、島に着いた主人公半田に懐いてどこでも付いてくるようになる無邪気な少女なる≠フキャラ力によるところが大きいですが、今回はこの「ばらかもん」をきっかけに、書道がマイブームになりつつある近況を中心にあれこれ語ります。

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禅師としてだけでなく書家としても高名な良寛(1758~1831年)の書。まったく読めませんが、とてつもなく美しい字であることだけはビンビン伝わってくるのが不思議です。草書に興味があるので追々勉強していきたいです。




晴れ書道という芸術について

先日ぶらりと出かけた古本市で、中古の書道具を並べてるブースがあり、いつもは素通りするところですが、書道に興味がわいている最中だったので、たくさんの筆や硯などを手に取っていろいろ鑑賞してしまいました。興味が無いときに見るとただの「習字の道具」でしかないのですが、興味を持って見ると、コレクター心をくすぐる風流なデザインのたくさんの書道具に惚れ惚れしてきます。そういえば、書道のための筆というのは一度も買ったことがないなぁ、ということに思い当たり、いい機会なので直感的にピピッときた手頃な値段の筆を衝動買いしてみました。これはおそらくばらかもん効果≠ナす。あの作品を見てると、自分でも書道への衝動≠感じて、何か筆で字を書きたい衝動にかられます。

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上の竹の柄の筆、見た目の風流な感じにやられました。墨を含んだ状態でしたがちゃんとほぐせました。下の筆は未使用のものです。なかなか貫禄のあるフォルムだと思います。筆に使われる毛も馬、狸、豚、イタチなど、様々あるのは知ってましたが、柄の材質も様々で、想像してたよりもいろんな形の筆があって目移りしてしまいました。

せっかくの筆も書かなければただの飾り物になってしまうので、熱の冷めないうちに書道してみました。遊び半分で書いたので、たいしたものではないですが、書きたいように書くというのは、けっこう楽しいです。他の筆記具と違い、筆は力の入れ加減次第で線の太さがとんでもなく自由にコントロールできるため、ハマるとものすごく気持ちいいです。余裕ができたら風情のある彫り物のある硯とか、味のある焼物の水差しなどを手に入れて、書道家気分に浸ってみたいですね〜

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自分でもよく理解していないあこがれの草書に挑戦してみましたが、やはりいきなり上手くは書けないですね。

以前は書道というと、学校の習字の時間を思い出して、上手に字を書く事、くらいの漠然としたイメージしかなく、あまり芸術としての観点でみることはなかったのですが、ここ数年、「草書体」のかっこよさに惹かれていて、よく書道関連の古書を集めたりしていて、「書もまたそれ自体芸術なのかもしれない」という漠然とした思いが培われていきましたが、そうした矢先に見たアニメだったこともあり、「ばらかもん」はけっこう惹き込まれて見てしまいました。

思えば、美輪さんの書いた達筆な文字に感動したのが書道(主に草書への興味)に惹かれるきっかっけで、書いてある文字が読めないのに、それが美しい字であることだけがビンビン伝わってくる不思議さを感じたものでした。「美輪明宏 文字」で画像検索すると美輪さんの超絶上手い手書き文字の画像が出てきます。美輪さんの時代はどうだったのか分かりませんが、明治くらいの尋常小学校では楷書ではなく、いきなり行書(楷書と草書の中間くらいの崩し字)で文字を教えていたらしいですね。美輪さんのような習字のお手本のような奇麗な字も憧れますが、そうした上手さだけが「書の美」ではなく、「ばらかもん」を見てて思ったように、究極には、「自分の字を愛して、自信をもって書いた字」、誰にも真似できない味わいのある字、というのも、また「美しい字」といえるのだと思いました。

そういえば、昔なにかのトークで黒柳徹子さんが寺山修司の字を「字がお上手ですよね」と言っていたのを見た時、「え!?」と思ったことがあります。寺山修司は「徹子の部屋」に登場したこともあり、その時のビデオだったのかもしれませんし、寺山と親交のあった女優高橋ひとみとのトークで出た言葉だったのか忘れましたが、「字が上手い」=「奇麗な字」という先入観があった頃なので、なんで徹子さんは、寺山のあの子供が書いたような字を上手いと言ったのだろう?と不思議に思ったものです。その時のひっかかりが、書の上手さとは「奇麗に整っていること」だけでは量れない世界であることをおぼろげに感じた最初だったように思い出します。たしかに、今あらためて寺山修司の字を見ると、寺山だけにしか書けない寺山的に完璧なバランスで書かれた奥深い味わいを感じます。筆跡に思想が宿っているような、妙な魔力を感じる字ですね。この寺山の字の魅力を当時から当然のように理解していた徹子さんも、なかなかの強者です。

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寺山修司の色紙。残念ながら直筆ではなくレプリカです。寺山修司の展示会イベントで手に入れたものだったような気がします。「百年たったらその意味わかる」と、意味深な言葉が書かれていますが、これは寺山が晩年に監督した最後の映画「さらば箱船」のクライマックスで狂女が絶叫する台詞です。映画は、南米文学の金字塔、ガルシア・マルケスの『百年の孤独』を原作に、寺山流に大胆にアレンジした作品ですが、原作者からの了解が得られず映画に『百年の孤独』のタイトルが付けれなかったとのこと。さぞや寺山は悔しかったろうな、と想像します。おそらく寺山は、マルケスの作品の内容もさることながら、詩人の感性で「百年の孤独」というタイトルの壮大でシュールなイマージュ、とくに「百年」という単語にビビビッときたように想像してます。おそらく「百年の孤独」というタイトルがついた作品を撮りたいがために手がけた映画だったのではないか、などと個人的には邪推しています。

「ばらかもん」では、序盤で主人公はお偉いさんに「まだ若いのに型にはまった字を書くね。手本のような字というべきか、賞のために書いた字というべきか・・・君は平凡という壁を乗り越えようとしたか?」と強烈な批判を受けます。続いて「実につまらん字だ」との一言がトリガーとなって半田はお偉いさんを殴ってしまいます。最後の一言は批評ではなく中傷ですから、どのような権威をもってしても言ってはいけない言葉には違いありませんが、それに対して暴力という手段で返答してしまった半田もまたやってはいけない手段≠使ってしまった、という感じですね。

しかしまぁ、「君は平凡という壁を乗り越えようとしたか?」という質問は、心にズシンと響きますね。芸術はすべからく、様式や伝統と、まったき自由な表現とのせめぎ合いで、前衛表現は、様式あってこその前衛であり、前に立つモノが存在しない前衛などありえません。マルセル・デュシャンもトリスタン・ツァラも先立つ伝統があってはじめて壊す≠ニいう表現が可能だったのであります。自由とは、不自由さを知っている者にしか到達し得ないのですから、そういう意味では前衛芸術にとっても伝統というのは大切な存在であります。芸術にとって、伝統と前衛は、水と油の関係ではなく、コインの裏表のような関係なのかもしれません。館長の言葉に戻ると、平凡が悪いということではなく、平凡に違和感を感じながら、そこから飛び出そうとせず保身にまわることがいけないのでしょうね。別の角度からみれば、古典をふまえた伝統的な手法をマスターしていた半田だからこそ、自分自身その伝統に囚われていることに気づき、「平凡という壁を乗り越えよう」としていながら、ずるずると先延ばしにしている自分に腹が立っていたのかもしれませんね。

「ばらかもん」で描かれる主人公の半田が辿る書の旅は、見た目に整った奇麗な保守的な書道から、想いそのものが字となって現われてくるような激しい前衛書への開花という感じです。書道ってこんなに自由でいいんだ!というメッセージがひしひし伝わってきて、書道への興味がふくらみました。




晴れ前衛書道家・上田桑鳩

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私の芸術指針は人間と自然の融合にある。例えば美しい石を削ってそこにすばらしい美しさが出現してもそれはあくまで人為として残る。だから私は石でも名山名花にそっくりだというだけでは満足しない。ありのままの美しさをもとめる。ただ買って眺めるだけでは単なる趣味になってしまう。自分でさがし、持ち上げ、みがくところに美の追求がある。草原に自分の作品をほうっておいてもその自然と融合するもの、そんなものがしたいのだ。
─────上田桑鳩

雑誌『国際写真情報』昭和38年 国際情報社


この記事を書くきっかけになったのは、ちょうど昨日古本屋で手に入れた雑誌です。手に取ったその雑誌は、昭和38年に発行されたグラフ誌「国際写真情報」というもので、とある愛石家の書道家を紹介している写真が石好きの私の心をグッと掴んでしまいました。家に戻って記事を読んでみると、石だけでなく、書道家としても面白い人なので興味がわいて調べてみると、書道界の大御所のようで、いろいろ面白い逸話のあるユニークな人物でした。書道家の名前は、上田桑鳩(うえだそうきゅう)(1899〜1968年)という人で、前衛書道の第一人者です。身近な所では、今でも本屋の店頭で見ることができる「日本経済新聞」の題字を書いた書道家でもあります。記事を読んでいると、芸術家としての哲学がしっかりした方であるのが伝わってきます。とても含蓄のある事を言っておられるので、桑鳩の言葉のほうも抜粋してご紹介して行きます。



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今日に生きていることの中には、地理的には日本に、時間的には今日ただ今、生きていることを考えねばならない。明日は今日と違い自分自身の内容も変わり、従って変わった内容の作品ができる。自分にも他人にも一切マネをしない、ただ一人の人間の関連であるが、常に変わってくる。これが真理ではないか。この真理を追究するのが私の在り方だ。これを世間では一概に前衛と言っているが、真理主義と言って欲しい。
─────上田桑鳩

雑誌『国際写真情報』昭和38年 国際情報社 p34



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ややもすると前衛芸術家と自称する人は古典を無視しがちだが、これは間違っている。伝統の中にあって伝統を無視するのは馬鹿げている。親の遺産を既製だからといって川に捨てるようなものだ。ただこれら古典などの伝統の精神を単なる形式でなく内容的に現代の地点から把握せねばならない。そして力と鍛錬によって古典を生かし、そこに人間の生命力を吹きこまねばウソだ。思いつきだけでは、長い時代にたえて生き続けることはできない。それは流行歌と同じである。われわれは社会に生きているのだ。今日の社会には今日の社会の欲求がある。読めなければならない条件の場合は読める字を書かなければならない。主義にたおれてはいけない。人間は社会に奉仕する義務がある。だから私には具象、半具象、抽象のすべてがある。
─────上田桑鳩

雑誌『国際写真情報』昭和38年 国際情報社 p38



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人間と自然が一体になる。これが芸術の真髄ではないか。人間はどうしても外側のものにわざわいされがちだ。自然には作意がない。だから私は自然物をあこがれる。それで石を愛する。
─────上田桑鳩

雑誌『国際写真情報』昭和38年 国際情報社 p40


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雑誌『国際写真情報』昭和38年 国際情報社 p36-37
桑鳩の作品を紹介するページ。抽象画を思わせる絵画的な書ですね。文字というものに深く入り込み、文字そのものが直接作家に語りかけている声を代弁しているような、文字と書家がアドリブでセッションしているような、そうした音≠感じる書ですね。


上田桑鳩にまつわるエピソードで最も有名なのが1951年に日展に出品された『愛』という作品に関連するものです。当時から前衛書は存在していて、新しい潮流として書道界もブームだったそうなのですが、権威ある日展の書部門という保守的な世界で、どう評価してよいのかそうとう混乱があったようです。そもそも『愛』といいながら、書かれているのは「品」にしか見えません。桑鳩は、孫がハイハイする様子を見てインスピレーションを得て制作した、とのことですが、さすが前衛書の大家、フリーダムですね〜 感服します。日展側はこれを馬鹿にしていると受けとって激怒しますが、当時すでに評価の高い気鋭の書家であったため、単純に無視もできず、双方にらみ合いの対立となり、最終的には桑鳩は日展を去ることになりました。

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上田桑鳩『愛』 1951年

調べて行くと、「ばらかもん」の書道監修をしていた原雲涯さんも、上田桑鳩の結成した奎星会(けいせいかい)の主催する書道展で何度も受賞歴があり、同会の会員でもあるようで、ひとかたならぬ関係のある書道家のようです。────ということで、今回もなかなか面白いシンクロニシティでした。




晴れ明治時代の草書の教本「草書淵海」

よく古書市で昔の書道の教本を資料がてら集めてたのですが、雰囲気のある筆も手に入れたことなので、見て楽しむだけでなく、実際に教科書として使っていきたいです。そうした草書の教本のコレクションの中から、最近手に入れた明治時代の和本をご紹介します。

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太田聿郎:編「草書淵海」明治13年(1880年)
明治時代に発行された文字の崩し方の教本。同じ字でも書家によって崩し方が異なるのが草書の難しさでもあり面白さでもあります。この本では、同じ字を著名な書家の複数の崩し方で並べた辞典のような体裁です。

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「神」の崩し字。神々しいですね〜 旁の「申」の中棒の伸ばし方でセンスが出そうですね。文鎮替わりにページを押さえているコインも明治時代のもので、一円銀貨、通称円銀≠ナす。

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面白い形してます。道教のお札のような呪術的なフォルムが魅力的です。

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いわば書道のお手本を編集した教科書みたいな本なのですが、書それ自体が美を指向している芸術であるために、こうして文字を並べただけの見開きもアート作品のような面白みを感じますね。

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流れるようなリズム感がたまりませんね。
posted by 八竹釣月 at 01:44| Comment(0) | 芸術

2015年12月25日

機械の美学・1 「バレエ・メカニック」

機械の造形的な美は、時として彫刻などの芸術作品を上回る美しさを感じることがあります。機械の造形美は、ただの芸術的感性によるものではなく、実用を追求した果てに結果として生じるメカニカルな美であります。自動車やミシンなど、最初から美しく見栄えを繕う必然性のある機械ばかりでなく、一般の人目につくことのない工作機械や実験器具なども、あらためて見ると、なんてカッコイイのだろう、と思う事がしばしばです。そういうわけで、今回は機械のメカニカルな美をテーマにいろいろ書いてみようと思います。

「機械」というと、現代では高度に複雑化してますし、コンピュータ制御されたヒューマノイドなど見ると、どことなく「人間まで後一歩」と思ってしまうほどの「人間らしさ」を感じますが、むしろ、そうした現代のハイテクノロジーの機械よりも、昔の歯車主体のアナログなマシーンにレトロな異世界感を感じて惹かれます。昔の機械に対するイメージというと、歯車の組み合わせによる単純な動きのイメージから、システムに取り込まれて人間性を失っていく社会を風刺するためのアナロジカルな負のイメージとしてしばしば引用されてきたと思います。

映画でもフリッツ・ラングの「メトロポリス」やチャーリー・チャップリンの「モダン・タイムス」などで、機械はどこか「非人間性」の象徴のような扱いです。機械はそもそも自然に湧いて出たものではなく、人間が作ったものですし、人間の生活を豊かにしてくれる助っ人であるのが本来の姿です。しかし、社会が近代化していくほどに権力者が機械によって庶民を支配するというコミュニズム的発想がどうしてもついてまわることになり、そうした社会不安が、自らを束縛する権力への比喩として機械を敵とみなす雰囲気を形成していったのではないかと感じます。

そうしたネガティブなイメージを背負っているからか、機械というものには、どこか物悲しいムードすら感じる事がありますが、逆にそこがまた愛らしいというか、いたいけなものを感じるのであります。機械にもし心があるとすれば、それはその機械の作り手である作者の設計思想を引き継いだものになるでしょう。最近なんとなく思うのは、機械は「役に立ちたい」という心を持っており、ちゃんと正しく使ってあげることで喜ぶような存在なのではないか、ということです。

なんだか案の定とりとめがなくなってきましたが、そんな感じで、機械の美や面白さを感じるアートや写真などをご紹介していこうと思います。

雷バレエ・メカニック

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TVFernand Leger - Ballet mecanique (1924)
「バレエ・メカニック」は、フェルナン・レジェ制作、マン・レイ撮影、ジョージ・アンタイル音楽、という豪華なコラボレーションで作られた実験映画。ダリ&ブニュエルの『アンダルシアの犬』を彷彿とするシュールな映像ですが、こちらのほうが4年ほど先に作られているので、影響をうけているとしたら『アンダルシアの犬』のほうでしょうね。前衛環境ビデオのような感じで、物語によって映像が繋がっているのではなく、タイトル通り「機械の舞」をテーマにイメージの連想ゲームのようにリズミカルに連なる映像がユニークです。

正直にいえば、当時のアヴァンギャルド映画としてみても、「アンダルシアの犬」や「詩人の血」など優れた実験作品は他にありますし、それほど目を見張るものがあるわけではないのですが、それでも歴史に埋もれることなく現代でもたびたび取沙汰されるのは、やはりフェルナン・レジェ、マン・レイといった高名な芸術家がかかわっているということによるのもあるでしょう。そして、なんにしてもこの「バレエ・メカニック」という思わせぶりなタイトルの魅惑的な引力によるところも要因として大きいのではないでしょうか。内容は「アンダルシアの犬」のほうが(個人的な見解ですが)圧倒的に上ですが、タイトルのポエティックなインパクトは逆に「バレエ・メカニック」が格段に上ですね。会話や文章などに引用したくなるカッコよさがある、といいましょうか。坂本龍一も同名の作品を作曲していますが、フェルナン・レジェの元ネタの映像やジョージ・アンタイルの楽曲とはあまり関係なさそうな雰囲気の曲です。おそらく映像作品としての「バレエ・メカニック」に対する思い入れというよりは、ただこのタイトルをつけたかったという理由が大きいように感じます。これもまさに、「バレエ・メカニック」というタイトルの魔力の為せる技なのではないでしょうか。

坂本龍一のオマージュ的な作品もいいですが、やはりオリジナルの楽曲こそ「バレエ・メカニック」という響きと共鳴していて好みです。「音楽の不良少年」と称されたジョージ・アンタイルのこの音楽のモダンなカッコよさもまた、「バレエ・メカニック」を見過ごせない作品にしている要因のひとつだと感じます。約90年前の音楽ですが、「かつての前衛」という古びた印象を感じさせず、むしろスティーブ・ライヒなどの現代音楽を思わせる新鮮なインパクトを感じます。サイレンや飛行機のエンジンなども楽器として使われ、パンクな、というより、この時代的にいうとダダ的なチャレンジ精神に満ち満ちた傑作です。実験映画というと取っ付きにくい面がありますが、ある意味、ジョージ・アンタイルの音楽のプロモーションビデオという感じで鑑賞すると気楽に楽しめますね。

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るんるんジョージ・アンタイル作曲「バレエ・メカニック」の演奏
検索するとロシアやドイツの楽団による名演奏もヒットしますが、個人的にイトゥス・アンサンブルによる見た目にもユニークな2012年の演奏風景をチョイスします。巨大なプロペラがシュールです。これがただの飾りではなく楽器として使われるというのが凄いですね。1970年代以降の現代音楽ではこのような試みは珍しくないのですが、さらに遡ること1920年代、90年前にもこのような刺激的な音楽が存在していることが驚きです。考えてみれば、この時代はダダイズムやシュルレアリスムといった芸術表現全般に影響を与えることになる前衛表現が席巻していた頃ですから、そうした意味では音楽の分野でもこうした表現があってもおかしくはないともいえます。しかし、ただ奇をてらった前衛音楽というだけでなく、意外にしっかり「音楽」としての醍醐味があって、独特のグルーヴ感のある面白い曲になっているところが時代を超えて聞き継がれている所以だろうと感じます。

雷フェルナンド・ヴィセンテの機械人間

近頃ちらほらネットで目にするシュールなサイボーグの作品が気になって調べてみると、フェルナンド・ヴィンセンテ(Fernando Vicente)というスペインのアーティストによるものでした。自動車の部品を説明した古いポスターに人体を上手い事ペインティングしているようです。SFというより、もっと別の奇妙なニュアンスを感じますね。メカニックにレトロ感のあるところがツボです。強い異世界感覚を覚える不思議な作品ですね。
フェルナンド・ヴィンセンテの作品

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解剖学的な機械人間を描く「アナトミアス(Anatomias)」シリーズより


雷アンソニー・ハウの風力芸術

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TVアンソニー・ハウの「風力彫刻」

アメリカ、ユタ州出身のアーティスト、アンソニー・ハウによるユニークな「風力彫刻」シリーズをセレクトした動画のようです。風を受けて奇妙な動きをするメタリックな造形の驚異! 異次元の機械のようなシュールなフォルムと不思議な動きがたまりません。素晴らしいセンスとアイデアです。一度生で見てみたいものです。

雷太田螢一の「働く僕ら」

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鬼才太田螢一によるレトロ・メカニックをテーマにしたユニークな絵本「働く僕ら」(リブロポート 1991年)。文章も日本語と共にドイツ語も併記されていてムードがあります。機械とドイツというと、テクノの先駆け、クラフトワークが思い浮かびますね。ドイツといっても、この絵本の場合、旧東ドイツのイメージでしょうか。1920年代の華々しさと重い空気感が同居した不思議な時代を背景にした感じで、独特のインダストリアルなユートピア感が表現されていて面白いです。

太田螢一というと、戸川純、上野耕路とのユニット「ゲルニカ」のメンバーとしても知られますが、個性の塊のようなイメージと画風、まさに異界の絵師ともいうべきアーティストで、今年はデビュー35周年になるそうです。本家HPでは、画業35周年を記念した企画ページを用意されていて、過去の傑作をたくさん拝見できます。気になる方は要チェックです。

雷テスラ・コイルの放電シーン

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テスラ・コイルの放電実験の様子。数百万ボルトの放電のすぐ近くで平気な様子で椅子に座っているニコラ・テスラの有名な画像ですが、この画像のインパクトは強烈ですね。アートパフォーマンスとしても一級のビジュアルで、実際にこういう実験を生で見てみたいです。ニコラ・テスラといえば、交流電流やラジオや蛍光灯などなど多数の発明で知られる天才発明家。彼の知名度は多大な実績のわりにマイナーなイメージもありますが、無線による送電システム発明が財閥の収益体制に打撃を与えるという理由でイルミナティに握り潰された、という陰謀論めいた噂とか、フィラデルフィア計画(テスラ・コイルを利用して巨大な駆逐艦エルドリッジをまるごと消失させたというミステリアスな都市伝説)にもからんだ人物であることから、なにかとオカルト界隈での知名度は圧倒的です。

テスラ・コイルの放電の様子を映した動画
posted by 八竹釣月 at 03:31| Comment(0) | 芸術

2015年08月12日

絶景!大清帝国

大清帝国は波乱に満ちた中国最後の統一王朝で、1636年から1912年まで続きましたが、日本でいうと江戸時代から明治時代あたりの時期で、日本がそうであったように、東洋に西洋文明が怒濤のように流入してきた時代であり、一風変わった国際意識というか、否応無く精神的に世界観の拡大が起きた時代であったのだろうと思います。思想面では神仙文化の土台であり元祖スピリチュアルな感じの老荘に惹かれますが、美術では、明治〜昭和初期の戦前文化が好みの私としては中国でいうと清の時代の和洋折衷ならぬ中洋折衷といいますか、そんな東西の混沌としたバランス感覚に面白みを感じています。

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『芥子園図画譜』より。
昔の中国人のステレオタイプなイメージのひとつ、ラーメンマンでおなじみの弁髪ですが、もともとは満州族の文化だったようですね。満州族が中国を統一し清王朝を築き、多数派の漢民族にも弁髪を強要したことでこの奇抜なヘアスタイルが世界に広く知られる事に。思ったほど中国の古い風習というわけではないのが意外ですね。中国のステレオタイプといえば、男性の弁髪に並んで女性の纏足がありますが、纏足のほうの歴史は古く、宋王朝にまで遡り、つい百年ほど前まで続いていたそうで、こちらは約千年ほどの歴史があるようです。


清朝末期から中華人民共和国が成立するまではさらにカオスな時代でしたが、美術面ではそうした波瀾万丈の時代に似合わずパラダイス感覚溢れる魅力的な美人画の広告が溢れていたようです。逆に混沌の時代だからこそ民衆は心に楽園を渇望していたのかもしれませんね。この時代の中国の美人広告はけっこう人気があり、現在もレプリカのポスターや絵葉書、トランプの図柄などに流用されて楽しまれてます。

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戦前の中国美人広告画の第一人者、関對_による楽園感覚溢れるポスターを使用した絵葉書。

閑話休題、前置きが長くなりそうなので本題に。先日神保町の中国専門の古書を扱う店にぶらりと入り、何か面白い本はないかと物色してたところ、ものすごく琴線に響く画集を発見してしまいました。『呉友如画宝』と題する全3巻の横長の分厚い画集がソレなのですが、これは呉友如という清後期の絵師による膨大な作品を収録したもののようです。真偽不明の当時の怪奇なニュースや、歴史絵巻的なものや、美人画など、テーマは多岐にわたっていて、それらをイマジネーション豊かに描きあげていて飽きないです。

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『呉友如画宝』呉友如:画 上海古籍書店出版:刊 1983年
耽美、珍奇、風流な異才・呉友如の大量の作品が納められていて圧巻の一言。上中下巻とも電話帳のような分厚さです。中でも白眉なのが「海上百體図」と題された風流耽美な全百枚のシリーズで、今回はこの「海上百體図」からいくつかご紹介します。総じて、清朝特有の雅な宮廷ファションといい、生花、盆景などインテリア全般に華美な装飾が施されていて、モノクロ作品ながら極彩色の色彩を感じる逸品揃いです。


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庭園の奇石を肴に飲茶を楽しむ風雅な美女たち。奇石というのは、絵に描かれているような、珍妙な形状の岩石を愛でる趣味のことで、唐以前にまで遡るかなり古い中国の文化です。日本にも700年ほど前に中国から奇石趣味が伝わった形跡があるみたいですが、江戸時代中期には広く流行り、後にはつげ義春の『無能の人』でお馴染みの水石趣味として独自の発展がみられます。

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蘇州庭園に見られる奇石。日本の水石は、やはり日本らしく侘び寂びな静かな美を表しますが、中国の奇石はダイナミックでユニークな形状の珍妙さを楽しむようなところがあり、こちらもなかなか面白い世界だと思います。中国奇石のサイト(英語)

『呉友如画宝』は全く予備知識の無いままインスピレーションでゲットしたのですが、後で調べると、武田雅哉、中野美代子の著書などをはじめとする中国関係の面白図版などの引用元にけっこう見受けられるネタ本のひとつで、また、水木しげるの妖怪絵図のインスピレーション元になってたりする図版もあるそうで、けっこう評価の高い絵師のようです。しかし私が惹かれたのは、そうした珍奇な面ではなく、絶景の中に息づく美女の図の耽美な描写のほうで、ご覧の通り、絵師の底知れぬクリエイティビティを感じるところです。画集には、清朝末期、魔都・上海を舞台に活躍したといわれる呉友如の自在な筆の魔力が何千枚も納められていて、まだ全て鑑賞しきれてませんが、熱の冷めないうちに記事にしてみました。

異才・呉友如の画業は、これまた日本の中国研究における奇才・武田雅哉先生も著書『清朝絵師 呉友如の事件帖』(1998年)で詳しく紹介されているようで、こちらもそのうち読んでみたいと思ってます。
posted by 八竹釣月 at 03:37| Comment(0) | 芸術

2015年08月01日

ダリ 深層意識の遊園地

ダリは小学生の頃からファンでしたから、今では「いまさらダリでもないだろう」などと知ってるつもりになっていてあまりダリ作品と向き合う機会が減っていました。しかし、先日古本市でダリの展覧会の図録を手にしてなにげなくめくっていたら、さすがは20世紀を代表する巨匠だけあって、けっこう知らない作品がまだまだあったりして新鮮でした。普通、そういう未見のレアな作品って駄作だったりするのが理由で見かける機会が少ないだけだったりするのですが、ダリの場合はやはり格が違います。未見の作品も代表作に退けを取らないレベルの面白いものが多く、天才にも程があるだろ!という感じです。そういうわけで、今回は、上記の本だけでなく、多分ダリの熱心なファン以外は見る機会が少ないであろう作品の中からとくに好みのものを取り上げてみようと思います。

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ダリ「狂人協会 Board of Demented Associations (Fireworks)」 1931年
昔見かけた小さなモノクロ図版でしか見れなかった作品ですが、インターネットの恩恵でやっとカラーで見れました。異世界の生物、というより心の奥深くに潜んでいるまだ物体化していない何かの標本、みたいな感じが面白いです。


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ダリ「コンビネーション Combinations.The CombinedDalinian Phantasms;Ants, Keys, Nails」1931年
くりぬかれた石板から蟻や鍵などのダリの偏愛するオブジェが覗いていますが、よく見ると、全裸の女性が鍵の刺さった蟻の湧いた性器を弄んでいるエロスでシュールな逸品ですね。上記の作品もそうですが、こうしたグラフィックデザイン的な方法論で描かれた作品に最近は惹かれています。これもモノクロ図版でしか知らなかった作品なので、ネット様様(さまさま)です。


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左:ダリ「無題(性病に関するキャンペーン) Untitled - for the campaign against venereal disease」1942年
右:ダリ「骸骨の中のバレリーナ Ballerina in a Death's Head」1939年
骸骨をモチーフにしただまし絵をふたつ選んでみました。だまし絵(隠し絵というのが正しいでしょうか)の傑作が多いのもダリの面白さの大きなアドバンテージですね。知的で遊戯的なイメージにワクワクします。


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ダリ「シュルレアリスト・ミステリー The Surrealist Mystery of New York」1935年
展覧会のカタログかポスターか何かでしょうか。この不思議な空気感、現実とは全く異なる物理法則が支配するかのような異世界感がいいですね。全くの別世界ではなく、時計やら安全ピンやら馴染みのあるアイテムも見受けられることから、やはり、どこか人間の無意識に広がる内的な世界のようなムードがありますね。


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ダリ「"バッカス祭"用の衣装 Costumes for "Bacchanele"」1938年
つっかえ棒のような杖が拘束具のように身体にまとわりついていて面白いですね。シンプルで大胆な色使いのセンスも抜群です。この杖のアイテムは30年代後半から頻繁に現れ、ダリの偏愛するお馴染みのモチーフのひとつとなっていきます。


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ダリ「ある家畜小屋−図書室の解釈のための草案 A Cattle Shed for Interpretation of the Library」1945年
ハリウッド女優っぽい大衆好みの美女のタッチといい、抽き出しのついた子羊に羊毛の電話機が乗っている可愛いらしさといい、ダリらしくない作品で、なんとなくこれも広告ポスターを連想させる感じで、構図の安定したいい感じの作品ですね。


ダリのアートワークを年代別に整理してあるサイトがありました。自分的には初期のレアな作品が圧巻ですね。シュルレアリスムに傾倒しはじめた1930年の作品群の目映い幻惑的なイマジナリーに圧倒されます。1940年代は脂がのって傑作を多産し、1950年以降は完成されたダリワールドといった感じで絵に迷いが無いですが、やはり20年代後半から40年代中盤にかけての初期の作品群の凄みは特筆に値するパワーを感じますね。

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左:「アパートの部屋として使用可能なメイ・ウェストの顔」の唇部分の小さなレプリカ。スポンジみたいな素材で、柔らかいです。この元になった作品は油絵のほかに、ダリ美術館ではこの顔の部屋が再現されています。右:ダリのシール。

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ダリ・タロット。深紅のベルベットケースに金の箔押し文字が耽美な感じです。ちなみに中身のカードのデザインはこんな感じです。

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ダリデザインのトランプもあるみたいですね。こちらはあのマルセイユ・トランプばりの素晴らしいデザインで、ぜひコレクションに欲しいところですが、相応にいい値段してますね。海外のトランプ研究サイトにダリトランプの高解像度の画像がありました。他に岡本太郎池田満寿夫のカードもあるようです。(芸術新潮 1978年1月号)

夢は現実の投影であり、現実は夢の投影である。
ジークムント・フロイト


ネットに拡散しているフロイトの名言の中で一番面白い言葉を引用してみましたが、なんか学者というよりオカルティストのような印象の言葉で、この発言は何の本からの引用なのか気になるところです。アンドレ・ブルトンのシュルレアリスム運動の思想的な背景にはフロイトの夢理論が色濃く反映されていますが、後にシュルレアリスム運動に関わる事になるダリもまた、この運動を通じてフロイトに傾倒していくようになります。ダリの絵画はたしかに夢の世界のような非合理な幻想を描きますが、特異なところは、その「夢」をまるで実際に今目の前に広がっている現実の風景を描いているかのように写実的に描き出しているところです。本来目覚めてから思い出す夢は漠然とした曖昧模糊としたものですが、ダリの絵では、シャガールなどの絵のように「目覚めてから思い出す夢」ではなく、「今見ている最中の夢そのもの」として提示されるので、強烈なインパクトがあるのだと思います。

たとえば夢の世界では、大人でも無邪気に濃い想像(イマジネーション)の世界に遊ぶ事ができるので、そんなときこそ常識で押さえつけている力の弱まった隙をくぐり抜け、底に隠されていた人間本来の欲望やイメージがあらわに浮かびでてくるのです。このような自分自身にもはっきりわかっていない心の奥底に生き続けている意識のほうが、世間体だの常識などによって、無理に歪められた意識上のものより真実だ。だからこれを直接に表すことが、もっとも純粋で正しい芸術表現だというのです。超現実主義(シュルレアリスム)は、たんに夢の世界とか狂気の世界などにとどまらないで、あらゆる技術をつかい、思いがけない組み合わせによって、新鮮なドラマをつくりあげます。つまり、人間本能の非合理生を追求したのです。
岡本太郎「新版・今日の芸術」p76 光文社 1963年


ダリの絵は、幻想を好まないオーディエンスからは、奇抜で奇を衒ったこけおどしに見えるかもしれませんが、私たちの意識の底にある広大な無意識の世界は、まさにダリの描き出しているような非合理で不条理で、まだこの世界に生み出される前のアイデアのスープや、未来の展望や希望、過去の雑多な記憶、社会規範を逸脱した欲望、喜びと愛に満ちた高貴な理想、そんなような、天国と地獄が重なり合っているようなところです。ダリの幻想は、非現実としての幻想ではなく、無意識の世界を写実的に暴きだすリアリズム的なものです。ダリ自身が自分の方法論を「偏執狂的批判的方法」と言ったように、意識の外縁にある非合理世界を可視化させ、このリアルな合理的世界に引っ張り出してくる魔法であり、それは一種の錬金術なのかもしれません。

錬金術は、ご存知のように、鉛(価値の低い物質)を金(価値の高い物質)に変える魔法のことです。無意識という未開拓な世界を絵画によってリアルな現実に変容させるという観念的な意味だけでなく、実際に脳内幻想をキャンバスの中に現象化させることは、ダリにそうとうなお金も生み出したようで、奇しくもダリ自身それを錬金術に例えていました。

−あなたは絵の制作にどれだけ時間をつぎ込みますか?
「1年のうち6ヶ月ほど。ポルト・リガトの私のアトリエで。その時は太陽とともに目を覚まし、日の沈むまで仕事をします」
−では、あとの6ヵ月ニューヨークでどう過ごすのですか?
「ニューヨークでは大抵眠るだけです」
−6ヵ月も?
「そうですとも。ずっと眠っています。このインタビューだって、私は時間が来るまでベッドに居ました」
−ニューヨークをねぐらに選んだわけは?
「他の場所より、ここにいろいろなアイデアがあるから、ニューヨークが好きなのです。アイデアがファンタスティックなくらいどっさりと。だが、もっと肝心なことは、ダリ夫人にならって、私はお金が一番好きです。ニューヨークではいつもびっくりするほど多くのお金を手に入れる事ができます。このお金の歓びの源は、私のスペイン流の神秘主義。中世の錬金術師たちは、手に触れる全てのものを黄金にしようと思いました。この物質の転換は精神的なものにするための最善の方法です」
米国のプレイボーイ誌によるインタビュー 1964年 (「芸術生活」1964年10月号の記事「サルバドール・ダリの生活」小川正隆:文 
より引用)


いやぁ優雅な暮らしぶりですね〜 このインタビューを受けた当時はダリがちょうど60歳の時です。天才画家というと、ゴッホやセザンヌなどのイメージからか、なんとなく生前は不遇で後世認められ、みたいな固定観念がありますが、ダリはかなり若い時期から認められ、30代の半ばにはブルトンから「ドルの亡者」と不躾な言葉を浴びせられるほど稼ぎまくっていました。上記のインタビューでは、寝てばっかりでグウタラしてそうに思われるかもしれませんが、ダリはいつも朝は6時に起床するようで、けっこう生活スタイルは規則正しいようです。この記事より10年前の1954年にはヒッチコックの「白い恐怖」で、夢の中の情景を描いたシーンの美術をダリが担当してましたが、件のシーンはヒッチコックの個性と正面から食い合う感じの個性的すぎる映像でしたね。

TVダリを起用したチョコレートのCM
大げさすぎるアクション、世紀の天才画家がノリノリでチョコレートを宣伝する絵面が珍妙です。

TV短編映画「アンダルシアの犬」1929年 ルイス・ブニュエル&サルバドール・ダリ
ダリとフランス映画の巨匠ルイス・ブニュエルが共同脚本でつくった実験映画「アンダルシアの犬」はシュルレアリスム映画の代表的な作品ですね。不条理なシーンが次から次へと展開されていて、まさに夢の中にさまよい込んだような妙な感覚になる映像です。

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「芸術生活」1964年10月号 「ダリ・その幻覚的な生活」より
作品だけでなく、存在そのものが稀代のトリックスターだったダリ。普通という言葉がこれほど似合わない人はいないですが、だからこそ、普段どうしているのかがとても気になるのは、当時の人たちも同様であったみたいですね。私が気になったのは、この写真でダリが手にもっている怪しげなパズルボックスのようなオブジェ。

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下手にいじくると異次元の扉が開いてしまいそうなオブジェですね。

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「芸術新潮」1976年5月号 「ダリの料理」より
ダリは絵画や彫刻などにとどまらず、珍妙な料理のレシピからジュエリーデザイン、舞台美術など、様々なジャンルでその才能を発揮しました。かなり多作な作家ですから、なかなかその全貌をつかむのが難しいですが、だからこそ宝探しのように、ダリのイマジネーションの断片を探索していくのは楽しいです。


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なんかものすごく着させられてる感が否めないダリの法被姿。あまりの似合ってなさが珍しくも微笑ましい一枚です。写真では一見日本贔屓っぽいですが、残念ながらダリにとって日本はさして関心のある国ではなかったようです。とくに美術に関しては日本の美術界にはまったく関心がなかったような印象があります。たしか横尾忠則がアポをとってアトリエで面会したときも、持ち込んだ自身の作品に目もくれずまったく興味がなさそうなダリに憤慨したというような記事をどこかで読んだような記憶があります。唯一認めていた日本人画家は岡本太郎だけだった、という記事も何かで読んだ気がします。
posted by 八竹釣月 at 05:17| Comment(2) | 芸術

2015年07月30日

芸術は爆発だ!

芸術とは何か?というのは、どこか「神とは何か?」という問いに似ていて、誰もそれを明確に定義できないのに、誰もが漠然とその意味を非言語的に知っているように感じます。岡本太郎は「芸術は爆発だ!」と定義しましたが、これは誰にでも当てはまる定義ではありません。しかし、そもそも芸術は、誰にでも当てはまる定義を持たないもののように思います。誰もが自分自身にとって一番しっくりくる定義があるはずで、それを見つけるのもまた芸術というゲームの醍醐味でもあると思います。

TV「芸術は爆発だ!」のあのCM。カッコイイ!

芸術というものが何なのか、気になってしかたがない人だけが、それについて考え探求する動機を与えられます。私にとって、そうした問いを投げかけてきたのはダリでした。小学校の図書室で美術事典をなにげなくめくっていたら、ダリの代表的傑作「記憶の固執」の小さな図版が目にとまり、ピカソの絵を初めて見た岡本太郎のように「なにだこれは!?」という衝撃で、しばらくその意味不明でありながら純粋に「面白さ」だけがビンビン伝わってくる不思議な絵に見入っていました。ダリという面白い絵を描く画家の作品をもっと見たい!というのが発端で、そのうち、彼の絵はシュルレアリスムという芸術運動を母体にしているという知識を得ますが、そこで気になるのは、そもそも芸術って何だろう?ということでした。

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1972年のミュンヘン・オリンピックのために造られた岡本太郎デザインのメダル。

芸術とは何か?という問いに応えてくれたのは、岡本太郎でした。これも学校の図書室に並んでいた岡本太郎全集をパラパラとめくっていたときに偶然目に入った一文「今日の芸術は、うまくあってはいけない。きれいであってはいけない。ここちよくあってはいけない」という衝撃の思想で、なんとなく「芸術というのは、何か上品な、きれいな観念やモノを上手に描いたり演奏したりすること」という漠然とした幼い定義を覆すものでした。岡本太郎から学んだことは、芸術にはこれといった定義など無い!好きにやれ!といった感じの自由さでした。これは芸術だと思えば何でも芸術なんだ、というなんでもアリとは違います。真剣にキャンバス(あるいは楽譜でもいいですが)の中に自由を見いだし、己の魂を無上の喜びで満たすような表現を追求する精神こそが芸術なのだ、ということなのだと思います。

まことに、芸術っていったい何なのだろう。
素朴な疑問ですが、それはまた、本質をついた問題でもあるのです。
芸術は、ちょうど毎日の食べ物と同じように、人間の生命にとって欠く事のできない、絶対的な必要物、むしろ生きることそのものだと思います。
岡本太郎「新版・今日の芸術」p48 光文社 1963年


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岡本太郎の芸術論は独特で、岡本太郎自身の主観的な見方が主体になっていますが、芸術というのは根本的に主観的にしか捉える事の出来ない部分に本質的なものがあったりするわけで、そういう意味では岡本太郎という人は、教科書的な美術論などよりも芸術とは何なのかを直感的に教えてくれる最良の先生だと思います。この「今日の芸術」もどのページもほとばしるパッションに満ちていてとても面白い本です。

岡本太郎のユニークなところは、作品のユニークさだけでなく、その思想にも及んでいます。シュルレアリスム運動やピカソの強い影響などから、前衛芸術家にみられる特有のニヒリズム(「芸術なんてものはくだらないお遊びを権威付けしただけのガラクタのようなものだ」みたいな)があってもよさそうな気がしますが、まったく逆で、とても前向きでポジティブな価値を芸術に与えています。それは、斜に構えた反芸術気取りの自称芸術家などよりもよほどカッコイイですね。岡本太郎の芸術は、前衛芸術でありながら、そのモチーフとするテーマは縄文土器などに見られるプリミティブな生命力の表現であることも、その情熱的で生き生きとした思想が生まれる源泉となっているのでしょうし、それは、ピカソがアフリカの原始美術に傾倒して新境地を描き出した事からの影響もあるだろうと思います。

なんとなく、芸術など無くても人は生きていける、と思いがちですが、では、もし無くても困らないようなものなら、なぜ人類の歴史の最初の頃からすでに絵や音楽があったのか?芸術には人間生活においてどういう価値があるのか?そうした問いに、ああ、なるほど!と感服したのは、昨今再評価の声が高まっている反逆の神秘思想家、OSHOことバグワン・シュリ・ラジニーシの言葉でした。

誰かが何不自由ない暮らしをし、何でも必要なものが手に入るとき、、芸術がなくてはならないものになる。こんなふうになぞらえてみるといい−科学は肉体であり、芸術は心(マインド)であり、宗教は魂である、と。肉体的な欲求が満たされたとき、心は何かを求めはじめる−よい音楽、絵画、芸術、彫刻、小説、詩などといったものを。肉体が満たされたとき、心は新たなものを求めはじめる。体の欲求が満たされて初めて心の欲求が起こってくるのであって、けっしてそれ以前ではない。それはより高い欲求、心の欲求だ。
OSHO(バグワン・シュリ・ラジニーシ)「英知の辞典」p185 めるくまーる 1996年


芸術は心の栄養というわけですね。これはとても得心のいく考えです。体を生かすだけでは満たされないのが人間の人間たる所以です。物質的な豊かさだけに囚われるのではなく、心の豊かさがあってはじめて人生という壮大なゲームを両輪で乗りこなし、トゥルー・エンドに導いてゆけるのかもしれませんね。

先日古本市でダリの図録を手に入れたのをきっかけにダリの記事を書こうとしたのですが、いつのまにか岡本太郎の記事になってしまいました。ダリの記事はまた頁を改めて書こうと思います。
posted by 八竹釣月 at 06:43| Comment(0) | 芸術