2014年05月04日

謎の公園「哲学堂」

「哲学堂」と名付けられた公園が東京都中野区にあります。哲学という無形の精神世界を視覚化した世にも奇妙な公園です。哲学堂設立者は、後の東洋大学設立者でもある井上円了。明治37年にソクラテス、カント、孔子、釈迦を祀った「四聖堂」を建設したのが哲学堂のはじまりのようです。

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「哲理門」の瓦。全部「哲」の字になっているのが面白いですね〜 この妙な部分に凝るセンスにグッときます。

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哲・哲・哲・哲・哲・哲・哲・哲・哲

「哲学」というと、どこか堅苦しいイメージがありますが、井上円了は、哲学する心を養うには迷信を打破する必要がある、という信念から、妖怪の研究も熱心だったそうで、そうした思想を反映して、哲学堂にはソクラテスなどの偉人像だけでなく、幽霊やら妖怪やらの像まで置かれています。

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「哲理門」の左右には、幽霊と天狗の像がそれぞれ祀られています。幽霊は精神界の不可解、天狗は物質界の不可解を象徴しているようです。

たまたま偶然の成り行きで、予備知識無しに入った公園だったんですが、異次元世界に迷い込んだようなユニークさに驚きました。何か妙な導きのような感覚を覚えました。けっこう広い敷地の公園で、複雑な通路が縦横に張り巡らされ、まさに脳内のシナプスを走る電気信号そのものになったかのような奇妙な感覚に陥ります。公園のそこかしこに「認識路」だの「神秘洞」だの「意識駅」だのといった珍奇なネーミングの場所が70以上点在しています。その名前すべてが、形を持たぬ「心」に関する用語に由来するものなので、かなりシュールです。

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異世界に迷い込んだような気にさせる奇妙な名前の刻まれた石札。

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「髑髏庵」と書かれた石。件の庵はそんなに不気味なものではなく、普通の休憩所です。

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どこか凌雲閣(浅草十二階)を彷彿とする3階建ての真っ赤な建物です。怪奇な風情がたまりません。最上階に、聖徳太子、菅原道真、中国の荘子、朱子、インドの龍樹、迦毘羅の東洋の六人の哲人が祀られていることから「六賢台」と名付けられています。建物そのものの外壁も六角形というこだわりようです。

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絶対的な哲学的真理は書物の中にある。ということで名付けられた図書室「絶対城」前の石碑。現在は建物保存のため中には入れません。左右の童子が碑を支えてますが、無垢な探求心こそ真理への道であるということでしょうか。あるいは、究極の知は「青い鳥」の話のように生まれながらにすでに持っているのだ、という暗喩なのでしょうか。

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妖しい場所ばかりでなく、心が洗われるような美しい造園も見所です。季節柄、赤、白、ピンクのツツジが咲き乱れていて奇麗です。

「哲学堂公園」地図
posted by 八竹彗月 at 04:57| Comment(4) | 日記
この記事へのコメント
なぜいつも自分なのか?
なぜいつも今なのか?
なぜいつもここなのか?
十牛図じゃないけれどあれこれ考えてぐるぐるまわってまた元のところへ戻ってくるんでしょうね、きっと・・・
「人間は考える葦」であるとか「吾思う故に吾あり」とか本当に深いですなぁ。
Posted by dekoya at 2014年05月08日 00:18
哲学は、純粋に「考える」事を主軸にしている特殊な、あるいは根源的なユニークな学問ですよね。

人は誰しもが何らかの悩みをかかえて生きていますが、それを乗り越えるためにキリスト教は神に救いを求めたり、禅は悩みを生み出す思考そのものを止める(無我)に向かったりと、宗教では様々なアプローチがなされてきましたが、哲学ではむしろ悩みを突き詰め、悩み抜く事で、解答を導きだそうとする感じですね。

理性が納得する答えであることが哲学では重要ですから、特別な信仰心を必要とせずに真理を捕らえようとするところが面白いと思います。

また、誰もが見落としがちな謎を発見し、新たな「悩みの種」を創造する事も哲学の本質で、そういう意味では、哲学というもの自体がパラドックス的なものなのかもしれません。

で、今回のテーマ、哲学堂ですが、諸学の根本は哲学に通じるという信念のもと、専門家だけのものではなく、広く一般日本庶民の素養として哲学を啓蒙したいという考えで造られたのが哲学堂のようです。

公園がまるで一冊の哲学書に見立てられているかのようで、哲学遊園地とでもいうべき特異な場になっています。妖怪や天狗などは、円了の思想からいっても本来哲学的真理への障害なのですが、それらを意図的に取り入れる事で、一般庶民の興味を惹く意味もあったのでしょうね。
Posted by イヒ太郎 at 2014年05月08日 08:44
哲学などと難しいことはわかりませんが、
ただ、ビッグバン以来、悠久の時の流れの中で、
たかだか、100年くらいの短い人生、
それがなぜ、今か、いつも不思議に思っています。

友人が新井薬師に住んでいたこともあって、
何度か行ったことがあります。
40年以上前ですが……
カメラを持って、日が落ちそうそうな頃に、
また、行ってみたいと思います。

どうも、ありがとうございます。
Posted by 郷愁倶楽部 at 2014年05月16日 14:59
>ビッグバン以来、悠久の時の流れの中で、たかだか、100年くらいの短い人生、それがなぜ、今か、いつも不思議に思っています

私たち個人個人は、人類という種のバトンリレーの過渡的なランナーでしかないのか?あるいは、個人の人生にも何らかの意味があるのか?誰しも一度はなんとなく考えてしまう根源的な哲学的な問いですよね。おそらく答えはでない問題ですが、そうした「不可能」をあえてアレコレ考えてみるのもけっこう楽しいですよね^^

>何度か行ったことがあります。

足を運ばれた事があるんですか、奇遇ですね。私はなんとはなしに偶然に通りかかって、「哲学堂」という妙なネーミングに惹かれてフラフラと先日入ったのが最初でした。「哲学」という思考、観念、心など形を持たないものを扱う学問を、公園という日常的な場に視覚的に展開していくという発想に仰天しました。公園を歩いてると、いつのまにか自分の心の内面に入り込んでしまったような、落語の「頭山」の噺のように、自分の心の中を自分が歩いてるような、奇妙な感覚があって楽しかったです。
「青い鳥」の童話のように、秘境というのは意外に身近な所にもあるんだなぁ、と思いました。
Posted by イヒ太郎 at 2014年05月18日 00:52
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