2013年08月13日

サウンド・オブ・サイレンス

耳手塚治虫の無音表現「シーン」
漫画は音がありません。音を表現するには擬音を描きこめばいいのですが、音の無い状態はハテどうしたら表現できるのか?手塚治虫は、音の無い状態をあらわすコマに「シーン」と描きいれた最初の漫画家でした。文章ではそれまでも使われていた表現ですが、それを漫画の世界に転用するというアイデアは実に革命的なものだと思います。まさに漫画の神様といわれるに値する天才的な発想ですね。

「音でない音」を描くこともある。音ひとつしない場面に「シーン」と書くのは、じつはなにをかくそうぼくが始めたものだ。p112
「マンガの描き方」手塚治虫 光文社 昭和52年


耳隻手の声
「無音の音」というパラドックスを見事に表現してしまった手塚治虫のこのエピソードは、ふと禅の有名な公案「隻手の声」を彷彿とします。「隻手(せきしゅ)の声」とは禅師、白隠(1685〜1768)の創案したもので、「隻手声あり、その声を聞け」 (両手を打ち合わせると音がする。では片手ではどんな音がしたのか、それを報告しなさい。)という問題です。拍手は両手でするものですから、片手で打ち合わせることなど無論不可能な事なのですが、そうしたあからさまな不可能問題をあえて考えることでロジックの枠を超えた思考への到達を促し、人を悟りに導く奥の深い「なぞなぞ」です。公案とは答えの無いなぞなぞで、特定の答えはありませんし、昨日「正解」と見なされた答えも今日には「誤り」になることもあります。師匠はその答えが「悟りに達した者の答え」であるかどうかを見極めるわけですね。では、師匠は絶対なのか?というと、そうでもなくて、「仏に逢っては仏を殺せ」(『臨済録』)という言葉もあるように、何かを絶対とする固定観念もまた「迷い」なのでしょう。禅の悟りの道のりを10段階で描いた「十牛図」という絵がありますが、「悟り」という精神的な冒険をビジュアルに表現した極めて優れた"漫画"ですね。そういえば以前レビューしたゲーム「風ノ旅ビト(英語名:Journey)」は、まさに現代のゲーム版十牛図という感じの作品で、とても感銘を受けました。

耳知覚出来ないものは存在するか?
この「隻手の声」と良く似た哲学的な問いに「誰もいない森で一本の木が倒れた。このとき、木の倒れた音はしたのだろうか?」というものがありますね。聞く者のいない状況に「音」という現象はありうるのか?という哲学的ななぞなぞで、しばしばネットでも見かけますが、元ネタはアイルランドの哲学者ジョージ・バークリー(1685〜1753)だという説をいくつか見かけました。面白い事に、「隻手の声」の発案者 白隠と生没年がほぼ一致しています。この時代は日本の鎖国していた時期ですね。時を同じくしてバークリーと白隠は偶然互いに似たようなテーマを思索をしていたということでしょうか。ちょっと面白いですね。

耳サウンド・オブ・サイレンス
音無き音、というとサイモン&ガーファンクルの「サウンド・オブ・サイレンス」について言及しないわけにはいかないですね。1965年に発売されたこのシングル曲は全米で大反響を呼び、映画『卒業』で同曲が使用されたことも決定打となり、その人気は不動のものとなりました。現代でも多くの人の耳に馴染んだ不朽の名ポップソングでしょう。英語圏でない日本では、もしかして映画の印象にひっぱられてラブソングのようなイメージがあるかもしれません。恥ずかしながらむかし初めて聞いた時の私もそうでした。しかし、実際の歌詞はとてもミステリアスで哲学性のあるもので、ある批評家は「ポピュラーソングのボキャブラリーと視界を変えた」と絶賛しました。メロディの美しさ以上に歌詞の内容に驚愕します。
以下、歌詞をGoogle先生の協力のもとに和訳してみました。一部細かいニュアンスに迷った所はフォーク研究家でもある片桐ユズル先生の対訳を参考にしています。

サウンド・オブ・サイレンス
詩:ポール・サイモン

ハロー!僕の古くからの友達、暗闇よ。
また君と話しにきてしまったよ。
ぼんやりとした幻影が忍び寄り、
僕の眠っている隙にその"種"を脳に植えていった。
そいつはまだ居着いている。
"静寂の音"の中に。

安らぐことのない夢の中で
僕は石畳の狭い通りをひとり歩いていた。
寒さと湿気に衿を立てた。
ネオンライトの閃光が私の目を突き刺すとき
夜は引き裂かれ、"静寂の音"の感触がした。

そして裸電球の灯りの中に僕は見たのだ。
一万人、いやもっと多くの人間を。
話すことなくしゃべり
聞かずに聴き
決して歌われる事の無い詩を書く人々を。
そして誰ひとり"静寂の音"を乱すことはなかった。

「愚か者たちよ!」僕は言った。
「君らは何も解っちゃいないんだ。静寂というのは癌のように身を蝕むということを」
「僕の言葉を聞け。君に教えてあげよう。差し伸べる僕の手を取るんだ」
だけど、僕の言葉は音も無く落ちてゆく雨の雫(しずく)
"静寂の井戸"の中でただコダマするだけだ。

人は頭を垂れて祈る、彼ら自身が造った"ネオンの神"に。
ネオンサインは警告の言葉を形成しフラッシュさせた。
ネオンサインは語る「預言者の言葉は、地下鉄の壁に、またアパートの壁に書かれている」と。
静寂の音の中でささやくように


テクノロジーの奴隷と化した現代社会に対するアイロニー、という一般的な解釈をよく聞きますが、なにかそれだけでないような神秘学的な内容の歌詞で、おそらくポール・サイモンも社会風刺という事も少なからず意識はしてたでしょうが、それよりも主に、自己の内面と向き合って心の深層にダイブしていく精神的な冒険を描いたのではないかと思います。とくに終盤の「預言者の言葉は、地下鉄の壁に、またアパートの壁に書かれている」という箇所にグッときます。人間の生き方に宗教が昔ほど効力を持たなくなってしまった現代。そういう社会における「神」を「ネオンの神(the neon god)」と表現していて、とてもユニークです。真理は山奥の仙人やどこかに眠る遺跡の中にあるのではなく、テレビや街中の看板、折り込みチラシや塀の落書きなど、とるに足らないと思い込んでいる情報に隠されて神の啓示が実行されているんだ、というエキセントリックな洞察にとても惹かれます。「サウンド・オブ・サイレンス(The Sounds of Silence)」、静寂の音、というタイトル自体、パラドキシカルで哲学的な含蓄がありますが、歌詞の中にも「話す事なく話す(talking without speaking)」「聞くことなく聴く(hearing without listening)」などの言葉がでてきます。この曲がつくられた時代の米国は禅の思想やドラッグカルチャーが渾然となったビートニクやヒッピーなどの若者文化が全盛の頃ですから、そうした時代背景もポール・サイモンの詩作に影響していたでしょうね。
posted by 八竹釣月 at 05:08| Comment(3) | 哲学
この記事へのコメント
ヒジョーに深い話しですね!
有名な「無音の音」の公案は有名すぎてドラマなんかでもよく使われてちょっと安売りされてて悲しいです。
片手で音を出す方法はいくつかあるのでこの公案、実はあんまり良い公案では無いかも知れませんね、私の考えですけどw
サウンドオブサイレンスの「預言者の言葉は、地下鉄の壁に、またアパートの壁に書かれている」ってのは若い頃歌詞を読んでハッ!と思ったのを良く憶えてます。
ま、いつかは必ず終わる命なのになんで何かを探したり求めたりしちゃうんでしょうね、その辺がキリスト教で言う原罪なのかも知れませんね。
Posted by dekoya at 2013年08月17日 23:40
あ、“有名な「無音の音」の公案”ってのは“有名な「隻手の声」の公案”の間違いでーーーす
^^;
Posted by dekoya at 2013年08月17日 23:41
>片手で音を出す方法はいくつかあるので

たしかに指パッチンとかは片手で音を出せますね^^
この問いは「片手で片手同士を打ち合わせる音」というシュールな問いですから、手のひらでなく指を鳴らす方向の解答は微妙かもしれませんね。逆に完璧な不可能性よりも、微妙なツッコミどころを残している分、段階的に悟りに至る思考を促せるという意味では、実践向きというか、使い勝手のいい公案のようにも思えますね。

>いつかは必ず終わる命なのになんで何かを探したり求めたりしちゃうんでしょうね

生きてる間に、自分が生まれ落ちたこの時代、この世界、この宇宙、この世の真実を知りたいというのは根源的な欲求なのでしょうね。悪魔と契約してでもそれを知りたいと願ったファウスト博士の心情はなんとなく理解できます。この人生に意味は無い。というのは一面の真理ですが、本当の意味は、意味を超越したところにある。というのが禅をはじめあらゆる思想に通底する謎めいた確信のような気がしますね。あらゆる思想は到達困難な、あるいは到達不能な真実を、それでも希求してやまない「あがき」なのでしょうね〜
Posted by イヒ太郎 at 2013年08月18日 16:23
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