2026年05月14日

古書を補修してみました!「落語事典」編

やる気というのは気まぐれなものですね。創作でも仕事でも、やる気がある時は面倒なことも苦にならず、とことん凝るほうが楽しくなりますし、作品の完成度を高めることが快楽になりますが、やる気が無い時はどんな簡単なことでも面倒くさくて、ついつい怠惰な娯楽にかまけてしまいがちになりますね。スケジュールが詰まって忙しい時ほど、やるべき事以外の物事にやる気が充実しがちで、「この時間を創作に使えればすごいものが作れそうなのに!」と思うものですが、いざ時間に余裕ができると、とたんにやる気もしぼんでしまい、クリエイティブな事よりも、ゲームしたり、漫画を読んだり、映画鑑賞したりなどに逃げてしまいがちになりますね。まぁ、漫画を読んだり、映画を見たりすることも、人生を豊かにしてくれるものですし、無駄なことではないですが、何事もバランスですから、インプットばかりに時間を割いてしまうのも良くないですね。

やる気というのは、波のような性質があって、とくに「やる気を出さねば!」とがんばらなくても、そのうちしばらくすると無性にやる気が出る瞬間は訪れますが、そうした気まぐれな「待てばやってくる自然なやる気」をアテにしていては、なかなか物事は先に進みません。

ふと「やる気の出し方」について検索してみたら、いろいろノウハウがあるようで、参考になりました。中でも、使えるな、と思ったのは、「とりあえず小さな目標をクリアしていく」というものです。例えば、絵を描く気力を引き出したいなら、まず机に紙を置き、画材を用意する、みたいに、とりあえず描く気がなくてもたんたんと準備をしていく。という感じです。それでも気持ちが怠惰なままなら、まず失敗してもいいから適当な落書きをする、すごい作品を描こうなどと思わず、描きたいものを描きたいように描いてみる。デッサンも構図も気にせず、完全なリハビリのつもりで描く。と、やっているうちにだんだんエンジンがかかってきて、いつのまにか没頭している。というものです。これは、仕事ではよくそういう感じでやる気を引き出せることがあるので、やる気が無いけど、やる気を今出したい!というときに使える手ですね。

気合いは大事ですが、気合いが先走ってプレッシャーになることもよくありますね。このブログも、唐十郎さんやつげ義春さんなど、思い入れのあった方々の追悼記事を書こう書こうと思っていたのですが、ちゃんとしたものにしなければ!という意気込みがプレッシャーになり、逆に気持ちが萎縮してしまってなかなか書き出せずにタイミングを逃してしまいました。いくら個人の趣味のブログといえども、公開する限りは適当にやれない、という気持ちもありますが、あまりちゃんとしたものにしようと張り切りすぎると、結局は何もできなくなるので、ある程度のいい加減さは必要ですね。ブログも絵も仕事も、つきつめれば人生の遊び道具程度の気楽さで向き合うことも大切なことなのかもしれません。つげ義春さんの記事については、書きかけテキストをずっと寝かせたままなので、こちらもこのまえのつげ義春展の記憶が薄れないうちに書いておきたいと思っているところです。

ということで、まずは楽にできることから、こなしていこうということで、今回も本の補修をテーマに書く事にしました。記事の更新もできて、結果的にコレクションの本のコンディションも良くなるので、一石二鳥です。ということで、今回補修するのはこの本です。

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『落語事典』今村信雄著 青蛙房(せいあぼう)刊 昭和34年増補改訂版

昭和34年に刊行された『落語事典』です。カバー無しの状態で、今回も背の文字が読めないので、自作のカバーを作って包もうと思います。この本は、主に古典落語のネタのあらすじを五十音順に解説した落語事典です。落語の世界も奥が深く、古典だけでも、人情話や怪談話などバラエティ豊かですが、寿限無や頭山などのシュールでナンセンスな現代アート的な感触のお話もあり、興味が尽きないですね。まだライブで生の落語を見たことがないので、機会があれば寄席を見に行きたいものです。

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問題の背表紙。この画像だと、まったく読めないというわけでもないですが、光を直に当ててるのでこの程度に見えるだけで、実際に室内光だけだと、少し離れただけでほぼ読めない感じです。

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検索してもカバーの参考資料が全くヒットしませんでしたので、オリジナルのデザインでカバーを作ろうと思います。布張りの表紙に鶴の図柄が型圧しで入っていたので、これをトレースして飾りに使おうと思います。

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デザイン自体は、シンプルにまとめようと思うので、紙は色味のあるものが良いかな、ということで用紙はクラフトペーパーを使おうと思います。というか、普通の白い用紙以外はクラフト紙くらいしか持ってなかっただけですが。こういう用途も今後ありそうなので、ブックカバーに使う前提で、それっぽい他の用紙も少し買っておこうな、と思いました。

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簡素に必要事項だけ置いて、鶴の図柄をポイント的に配置しました。タイトルの行書体が雰囲気作り過ぎかな、と思って実際の出力では下の画像のように細めの楷書体に変更しました。しかし、今考えると、最初の行書体でも良かったかもですね。まぁ、背表紙の題字が読めるようにすることが目的なので、細かい事は目をつぶることにしましょう。(プリントし直すと紙もインクも無駄になってしまうので…)

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さっそくカバーで包んでみました。ちょっとシンプルすぎて面白味に欠ける感も否めませんね。どうせオリジナルの自作になるわけなので、杉浦康平風など、もっと自由に実験してみても良かったかも、というのが今回の反省点ですね。

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まぁ、とりあえず背の題字は分りやすくなったので、良しとしましょう!
これにて一件落着!

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ちなみに、中身は、落語のネタのあらすじを五十音順に字引できるように編集されているのがメインですが、付録的に落語家の系図や、このページのように落語のオチのパターンの解説などもあり、勉強になりそうです。

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寿限無のページ。長い名前の代名詞的なネタですが、結局寿限無≠ニ略せれるのだから、わざわざフルネームを言う必要はあるのか?という突っ込みは野暮というものなのでしょう。調べてみると、現在で異常に長い名前の人はニュージーランドに住むローレンス・ワトキンスさんで、2,253のミドルネームを持ち、ギネス世界記録「最も長い個人名」に認定されている、とのことです。フルネームを全て呼ぶには約20分かかるとのことで、寿限無のはるか斜め上をいく長さですね。画家のピカソも長い名前で有名でしたね。ちなみにピカソのフルネームは「パブロ、ディエーゴ、ホセ、フランシスコ・デ・パウラ、ホアン・ネポムセーノ、マリーア・デ・ロス・レメディオス、クリスピーン、クリスピアーノ、デ・ラ・サンティシマ・トリニダード、ルイス・イ・ピカソ」、だそうですが、それでもワトキンスさんと比べるとだいぶ短く感じてしまいますね。寿限無の魅力は、名前が長いことだけでなく、「寿限無」という略称自体の風情感というか、面白味にもありますね。逆さに読むと「無限の寿命」という感じで、縁起がいいというだけでなく、数学的なポエティックな響きがかっこいいというか。

この落語で、寿限無という名前がつく由来は、生まれた男の子が丈夫で長生きするようにと、お寺の住職に名前を付けてもらいに行くことが発端で、住職は、求めに応じていろいろな名前の候補を提案させられることになるのですが、結局候補がたくさん出過ぎて逆にどれかひとつに決めかねて、それならいっそ全部それらの名前を繋げちゃいましょう!ということで、あのように長くなった、ということです。ちなみにこの寿限無のフルネーム※は「寿限無寿限無 五劫の擦り切れ 海砂利水魚の水行末 雲来末 風来末 喰う寝る処に住む処 やぶらこうじのぶらこうじ パイポ・パイポ・パイポのシューリンガン シューリンガンのグーリンダイ グーリンダイのポンポコピーのポンポコナの長久命の長助」です。途中から擬音めいたナンセンスな名前になっていくのがイイですよね。筒井康隆の『バプリング創世記』を彷彿とするいい加減な感じも実に面白いところです。そういえば、今やお笑い界のベテラン、くりぃむしちゅーさんの旧名は、この寿限無の途中に出てくる海砂利水魚≠ナしたね。

長いネーミングというと、人名ではないですが、ダリの通称『ペルピニャン駅』という絵のフルタイトルも、なかなかに長かったですね。正式名称は「ポップ、オップ、月並派、大いに結構と題する作品の上に、反重力状態でいるダリを眺めるガラ、その画面には冬眠の隔世遺伝の状態にあるミレーの晩鐘の悩ましげな二人の人物が認められ、前方にひろがる空は、全宇宙の集中するペルピニャン駅のまさに中心で、突如としてマルトの巨大な十字架に変形するはずである。」
ダリ本人もおそらく題名を付けてすぐ忘れてしまったのではないかと思わせる長さですよね。そういえば、ここ数年くらいラノベのタイトルが急にやたら長いのが多くなってきましたが、これも不思議な流行ですね。本来、人名も作品タイトルも、短く分りやすくしないと、他人の記憶に残りづらく、セールス的にはマイナスっぽいイメージがありますが、逆にだからこそ、その長さによって着目される、ということもあるのでしょうね。

そうしたラノベの長いタイトルの流行でふと小話的なこんなネタを思いつきました。「近未来、ラノベのタイトルがどんどん長くなっていき、ついには本編の物語よりもタイトルの方が長くなってしまったのであった」という小ネタです。どこか頭山などの不条理系落語っぽいナンセンスさがあって、4コマ漫画のネタになりそうなアイデアですね。やる気がわいたら描いてみたいです。(←典型的なやらないパターン)

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奥付のページです。蛙の絵柄の扇子のデザインの検印紙が風情があってイイですね〜
現在は検印は廃止されているので、こうした部分も古書蒐集の楽しさのひとつですね。

落語は、まだそれほど詳しくないですが、私が落語に興味を持ったきかっけは、夢野久作原作、松本俊夫監督の映画『ドグラマグラ』に登場する主要キャラのひとり、正木博士役の桂枝雀の演技に惚れ込んだことでした。映画を見終わった後、気になって、あの独特の味のある演技を見せてくれた桂枝雀の本職である落語のほうもぜひ聴いてみたい!と思ったのでした。枝雀の落語も、また実に個性的で、しゃべりも上方らしく漫才のテイストを思わせるモダンさがあって、アクが強いわりに聴きやすく、一発でハマりました。落語というと、それまで古くさい芸能という固定観念があったのですが、枝雀の洗礼を受けて、まったく落語の印象が変わったのでした。

昨今、落語もじわじわとその魅力が再確認されているような感じですね。このまえアニメ版の『昭和元禄落語心中』を見ましたが、こちらも面白かったですね〜 お話も魅力的ですごく面白かったですが、声優さんも落語がテーマの作品だけあって、現代日本の声優陣のハイレベルな演技を存分に堪能できるのも魅力的な作品でした。かれこれ数年前に見たアニメで、記憶もいい具合に薄れてきたので、また見直したいです。とくに山ちゃんこと山寺宏一さんの無頼の天才落語家の初太郎役の演技がびっくりするほど素晴らしかった印象があります。山ちゃん最高ですね。山ちゃんといえば、深夜放送されたルパンシリーズ『峰不二子という女』での、銭形警部の声もとても感動しました。オリジナルの納谷悟朗さんのイメージを損なうことなく、銭形の危険な香りのする裏の顔を見事に声で演技していて、まさに日本を代表するトップクラスの天才声優であることを認識させられました。

この後、引き続きもう一冊同じように背表紙が読めない本にカバーを作ったので、そちらも近いうちに記事にしようと思います。
ということで、御清覧ありがとうございました!



(2016/5/15 追記)(2016/5/25「五劫の擦り切れ」部分を改訂)

※寿限無のフルネームは〜

フルネームの中にいろいろと不可思議な単語が頻出していて楽しいものの、それらに何か意味があるのか気になって調べてみたら、意外に興味深いものだったので追記します。まず最初の出だしの「寿限無」は文字通り限りない寿命を意味しています。
次の「五劫の擦り切れ」が奥が深いのですが、意味は無限に近い悠久の時間を意味していて、劫(こう)とはインド哲学でひとつの宇宙の寿命を意味するカルパ(kalpa)という単位を漢字であらわしたものです。仏教の説話に「盤石刧(ばんじゃくこう)」という面白い寓話があります。それは次のような話です。百年に一度下界に下りてきた天女が身にまとっているやわらかな羽衣で一辺が15kmほどある巨大な岩(盤石刧)をサッとひと撫でします。一度では岩には何の変化もありませんが、これが何度も何度も繰り返されて岩が削れて無くなってしまうまでの時間が1刧で、ひとつの宇宙の生滅に要する時間と同じだとされています。それが×五回分というほとんど無限に近いとんでもない時間を指して「五劫の擦り切れ」と表現しているわけですね。
「海砂利水魚」は海の砂利や水中の魚のように限りなく大量にあることを意味しているようです。
「水行末雲来末風来末」水、雲、風など、来る時も去る時も果てしない無限に繰り返される自然現象を指していて、これもそうした無限の自由を意味する縁起のいい言葉、ということのようです。
「喰う寝る処に住む処」これはそのまま、食べるに困らず、住居にも困らない、人間の社会生活の基盤が安定していること。
「やぶらこうじのぶらこうじ」このあたりから、だんだん名前のバリエーションを考えるのが面倒くさくなってきていい加減な単語を並べたてる、という感じのナンセンス的な笑いなのかな、と最初は思ってたのですが、さにあらず、やぶらこうじ≠ヘ藪柑子(やぶこうじ)という生命力豊かな縁起のいい木の名前からきてるようでした。つづくぶらこうじ≠フ部分は今も諸説あるようですが、藪柑子が小道に沿ってたくさんの赤い実をブラブラと実らせている様子を表現しているとも言われているみたいです。
「パイポ・パイポ・パイポのシューリンガン、シューリンガンのグーリンダイ、グーリンダイのポンポコピーのポンポコナ」
ここにも意味があるようで、パイポは古代中国にあったとされる架空の国、シューリンガンはその国の王様の名前、グーリンダイはその妃で、彼らの間に生まれた子供がポンポコピーとポンポコナだということです。このポンポコピーとポンポコナはたいへん長生きしたということで、ここも長寿の御利益にあやかった名前になっているみたいですね。まさか、この部分までちゃんと由来のある縁起のいい名前をもってきてるとは新鮮な驚きを感じたのですが・・・・このパイポ王国やその王様グーリンダイや子供のポンポコピーなど、実際には何が出典なのか気になってさらに調べたところ、このパイポがどうのというくだりの意味は、噺家がこの演目の噺の中で語る架空の設定で、実際の中国の古典などにあるちゃんとした設定ではないようですね。つまり、やはり最初の直感のとおり、言葉のリズムで笑いを誘うことが主旨のくだりであり、パイポ国などの設定は寿限無のストーリーの中だけで語られるもので、このお話の中だけの架空の設定のようでした。この部分は、まさに筒井康隆の『バプリング創世記』みたいなノリで、テキトーな意味の無い擬音ぽい言葉を並べて笑いを誘う部分なようです。
「長久命の長助」は、文字どおりの、寿限無と同様に長い命を意味する名前です。

(追記終わり)

(2016/5/16 追記)

※ラノベのタイトルが急にやたら長いのが多くなってきましたが〜

他との差別化を図る意味で奇をてらった長いタイトルを付けているのかな、と最初は思ってましたが、調べてみると、この長いタイトルには合理的な理由があるようで、興味深かったです。昔だったら、長い題名というのは覚えづらいために、むしろいかに短く印象的なタイトルにするか、というのが基本でしたが、昨今の小説の在り方はネットの時代になってだいぶ変わってきて、そのために時代に合わせたマーケティングの結果、あのように長くなっていったようです。

漫画がコミケなどの同人文化の発展にともない、一挙に裾野が広がったように、小説もまた、ネットの小説投稿サイトのブームで消費者側の選択肢が一気に増えたこともあり、また、ベストセラーだから読むというより、自分の好みのジャンルや嗜好が反映した作品を求める趣味の細分化もあって、無数に並ぶ作品の中から、すぐに読者の好みの作品を見つけやすくするために、中身の物語がどんな内容なのかがわかりやすいあらすじ的な¢阮シを付ける慣習が広まっていった、というのが理由のようですね。例えば『異世界でおじさんが美少女に転生して世界を救ってみた』みたいな感じのタイトルのラノベがあったとすると、そうしたあらすじと舞台設定を盛り込んだ題名が、その手の物語を求めている読者にすばやく認知してもらいやすくする、という効果があります。

漫画の場合は、ストーリーだけでなくビジュアルの好きずきも手に取るときの大きな要因になっていることもあり、タイトルを長くする切実な理由はないですが、小説はそうしたビジュアル的なインパクトで勝負できないために、タイトルというのは重要なマーケティングの要素になっている、ということですね。

ただ、私のような、読書家というより本フェチに近い人種には、長々としたタイトルは本棚映えしないという理由もあって、実際に本を買うなら普通に簡潔でポエティクなタイトルのほうが好みですね。マックス・エルンストの『百頭女』や、日影丈吉の『幻想器械』、寺山修司の『月蝕機関説』、唐十郎『錬夢術』、加藤周一『幻想薔薇都市』、荒俣宏『別世界通信』、小栗虫太郎『絶景万国博覧会』、夢野久作『ドグラマグラ』、稲垣足穂『天体嗜好症』、谷川俊太郎『二十億光年の孤独』、レーモン・ルーセル『ロクス・ソルス』、ボルヘス『バベルの図書館』、ガルシア・マルケス『百年の孤独』などなど、中身云々を飛び越えて「こんな題名の本を本棚に並べたい!」という強い衝動が先に立ってお迎えした本も少なくありませんし、そうした直感で選んだ本はけっこう高確率で中身も面白かったりします。そういう意味では、江戸川乱歩も題名のセンスが飛び抜けて素晴らしい作家ですよね、『パノラマ島奇談』『目羅博士の不思議な犯罪』『怪人二十面相』『屋根裏の散歩者』『人間椅子』『鏡地獄』など、題名だけで読みたくなる吸引力がありますね。

そういえば、つげ義春にハマるきかっけになった『ねじ式』ですが、この作品は手塚治虫の本で不条理漫画として紹介されていたことがきかっけで知ったのですが、題名から漂う奇妙なインダストリアル感にすごく惹き付けられたのを思い出します。へんなザワザワ感のあるその題名に、「いったいどういう作品なんだろう?」という好奇心を刺激されて作品集を探しまわった思い出があります。

閑話休題。ネット小説や電子書籍の場合は長いタイトルも仕方ない面もあると思いますが、紙の本の場合は、せめて長い説明文のような文章はサブタイトル的に使えば良いように思うのですが・・・まぁ、長い題名も、あらすじ的な実用的な効果だけでなく、昨今は長い今風のラノベ的なニュアンスを戦略的にねらってあえて付けてる場合もありそうですね。

しかし、よく考えてみると、私も長いタイトルは全て嫌いなわけでなく、たとえば寺山修司の『地球をしばらく止めてくれぼくはゆっくり映画を見たい』とか、植草甚一の『雨降りだからミステリーでも勉強しよう』など、長いからこそにじみ出る詩情のある題名というのもグッときたりしますね。やはり、題名に一編の詩のような存在感があると長短にかかわらず惹き付けられるのかもしれません。秀逸な題名の本は中身うんぬんにかかわらず無性に自分の本棚に並べてみたくなります。

(追記終わり)

posted by 八竹彗月 at 17:46| Comment(0) | 古本
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