あるあるなお約束とパロディ
前回の記事『漫画等のあるあるシーンの話など』で、むかしの漫画などのあるあるシーンの例として、「腹パンチで失神」「森の中に屍体を埋める」などを挙げましたが、こうしたお約束は、マンネリ的なものを感じるものの、うまくハマると水戸黄門の印籠のような、物語上の小気味いいリズム感を出してくれたりもしますね。要は使い方次第なのですが、不条理を笑いどころにするナンセンス系のギャグ漫画では、そういうネタをメタ的にパロって笑いにするものもあって面白いですよね。相原コージ、和田ラジヲ、吉田戦車、中川ホメオパシー、鴨川つばめ、などなどの先生方による、そういった系の作品はとても好みです。
パロディやナンセンスというのは、突き詰めればシュルレアリスムやコンセプチュアルアートのような側面もあり、例えば赤瀬川原平のレアな短編漫画『お座敷』や『おざ式』※はどちらもつげ義春の『ねじ式』のパロディですが、同時に、漫画という表現自体に向けられたメタフィクション的な面白味※もあり、安易なパロディ漫画になっていないところに底知れない創造性を感じて感服したものでした。
そういうナンセンスな笑いは、元になる定番的な作品なりお約束表現という土台があってこそ成立するもので、結局はこの世には不要な物事などひとつも存在しないのだ※、というどこか哲学的な真理をふと感じたりするところです。
※赤瀬川原平のレアな短編漫画『お座敷』や『おざ式』〜
私が読んだのは、『お座敷』は『マンガ黄金時代 ’60年代傑作集』(文春文庫 1986年)、『おざ式』は『ガロ20年史 木造モルタルの王国』(青林堂 1984年)です。近年、どちらも収録されている『赤瀬川原平全漫画』(2015年 河出書房新社)が刊行されましたが、ちょっと値段が高めだったので少し待ってから古本で買おうとしたら、逆に高騰してしまって定価の倍以上のプレミアになってしまいました。このことから、マニア向けっぽい本は、結果的には発売時期に定価で買うのが一番安上がりなのだ、という教訓を得たのでした。
※メタフィクション的な面白味〜
メタフィクション的な漫画といえば、こち亀でもたまにコマ枠を乗り越えたり壊したりなどのメタ的な表現が出てきますが、こういう表現を見るとすごくワクワクしたのを思い出します。こういう表現の正確な元祖はわかりませんが、現代漫画の基本的なフォーマットを完成させた偉人、手塚治虫がすでにそのフォーマットを壊すようなメタ表現もしていましたね。ヒョウタンツギやオムカエデゴンスなどのキャラは、物語中に脈絡なく登場するシュールなキャラですが、これは、シリアスすぎる場の空気をいったん和ますという、メタ的な役割で登場するのみで、お話にはまったく絡んで来ない謎めいたキャラです。また、コマ枠を乗り越えたり、コマ枠を引きちぎって振り回したりなどのメタ表現も『百物語』などでやってた記憶がありますね。そういえば、手塚の実験的な短編アニメ『おんぼろフィルム』はそうしたメタ的なユーモア(キャラがフィルムの汚れに気付いて拭いたり、フイルムの枠を乗り越えたりなど)が主題となった素晴らしいアイデアの作品でしたね。メタフィクションとは、オリジナルの世界観に対するある種の異世界的な表現であり、それは平行宇宙的なものをおぼろげに感じさせるところがありますね。そうしたところも惹かれる理由なのかもしれません。推理小説でも、数十人の容疑者が全員犯人だった、とか、小説を読んでいる読者自身が犯人だった、とか突拍子も無いアイデアの作品がありますが、そういう物語自体に仕掛けがある作品って興味を引かれますね。最近気になっている日本三大奇書のひとつ中井英夫の『虚無への供物』は、メタフィクション的な手法の推理小説らしいのですが、未読なのでそのうち読破したいですね。
※この世には不要な物事などひとつも存在しないのだ〜
それは、『デスクリムゾン』や『四八(仮)』などの有名なアレなゲームが、アレなおかげでゲーム史に残る独特な存在となっているように、稚拙さや不完全さも、時として人を魅了するアドバンテージにすらなりうるということを示唆しているような気がします。そうしたゲームではバグですらネタとして魅力的なポイントになってたりして面白いですね。アニメでは『チャージマン研!』がそんな作品ですね。映画でも一頃エド・ウッドがそうした意味でブームになったりしましたね。未見ですが『死霊の盆踊り』というタイトルのインパクトだけのランキングがあれば優勝しそうな作品がありましたね。こうした作品の魅力は、笑ってもらうことを意図していない表現だからこそ笑える、という天然≠ネ部分もあるでしょうが、総じて人々の記憶に残るこうした天然な面白さをもつ表現は、いずれも根底には表現に対する何らかの生真面目さ≠ェあるような気がします。だからこそ、不満より先に愛着というか愛しさというか、とりあえず寄り添って楽しもう、という気分にさせる魔力があるのかもしれませんね。
気を抜くと話がどんどん横道に逸れそうなので、今回のテーマ、漫画などのあるあるシーンの続きに入ろうと思います。
あるあるシーンあれこれ
あるあるシーンで、前に書いた記事の後も、思い出したらメモしていたのですが、そのメモを中心にいくつかピックアップしたいと思います。
必殺技や魔球などの名前をわざわざ叫ぶ演出、格闘系やスポ根系のアクションものでよく見る表現ですが、こと日本ではもはやあるあるすぎて疑問にも思わなくなっている気がします。しかし、冷静に考えてみると、叫ぶ必要がないどころか、叫ぶことは(集中力が分散するとか、力が入らないとかの)デメリットしかない※わけで、現実世界ではありえない表現ですよね。海外では、まれにそういう表現があるものの、多くは日本のそういうサブカルチャーに影響を受けた作品が主で、技の名前を叫ぶというのは日本独特の演出のようです。こういう表現の正確なルーツは不明ですが、XのAIに聞いてみたら、おおよそ1970年代頃の格闘漫画や特撮ヒーローものが原点らしいです。いわれてみれば、『仮面ライダー』とか『デビルマン』などで技名を叫ぶ演出が頻出していた気がしますね。文化的な背景としては、歌舞伎や能における「名乗り」の文化の影響も遠因としてあるかもしれないとのことです。
技を叫ぶ現実的なメリットは皆無ですが、「技名を何度もアピールすることで読者の記憶に残る」「キャラの個性を際立たせる」などのフィクションとしてのメリットはあり、そのメリットはリアリティに忠実であるよりも大きいから日本ではいつしか定番の演出となっていったのでしょうね。
※叫ぶことは(集中力が分散するとか、力が入らないとかの)デメリットしかない〜
車田正美の初期のヒット作『リングにかけろ』の主要キャラのひとりに、30〜40代にしか見えないおそろしくフケ顔の中学生、志那虎一城がいます。最初は寡黙でシブいキャラでしたが、次第に気さくな人間味のあるキャラになっていくので、巻が進むほど好きになっていくキャラです。彼は幼少期に右腕を親父の狂気じみたスパルタ特訓(扇風機の羽を刃物に換えた超危険なマシンを使ったトンデモ訓練)のせいで壊してしまい、それ以来左腕一本で戦うとんでもないハンデをかかえたボクサーとなっていくのですが、そのハンデを乗り越えるために、左腕だけで戦えるために猛特訓し、0.3秒の間に3発のストレートを繰り出す必殺技「ローリングサンダー」を身につけます。この技も繰り出すときに名前を叫ぶのですが、0.3秒の間に技名を叫んでいるのだろうか、と読みながらいつも空想してました。0.3秒の間に聞き取るのも容易でないくらいの早口で「ローリングサンダー!」と叫んでるのを想像すると、技だけでなく、叫びのほうもかなりの難易度を感じる必殺ブローだなぁ、と思ったものでした。ローリングサンダーの進化系である「スペシャルローリングサンダー」は、さらに短い0.1秒間に5発のストレートパンチを人体の5つの急所に打ち込む超人的な技ですが、こちらの叫びは前の技より0.2秒減りつつ文字数はスペシャル≠ェ入る分、4文字増えてるので、おそらく志那虎の技名の叫びは本人以外は聞き取れない速さに違いありません。まぁ、そういった意地悪な解釈はネタ的に面白いのでしてみましたが、実際の技名の叫びは志那虎の心の声なのだ、みたいな解釈もできますし、どちらかといえばそっちが真相ということでいいのかもしれませんね。
『デビルマン』でも『仮面ライダー』でも、多くのヒーローものでは敵の基地にはたくさんの魔物が控えているにもかかわらず、かならず敵はヒーローを気遣ってか、一人ずつしか現れないという法則。格闘系やスポ根系などアクションものの多くに共通する法則ですね。これはエヴァやワンパンマンなど、現代のヒーローものでもほぼ踏襲されている法則ですよね。
戦隊ヒーローものですら、敵は一人の場合が多く(『サクラ大戦』『ゴレンジャー』等)味方側は数人で戦ってるのに敵はあくまで一回の戦闘にはひとりしか出て来ない場合がよくありますね。毎回戦隊ヒーローは敵一体に手間取るレベルなのだから、敵が複数で一気に攻撃されたらスグ負けるのでは?と、子供心に何度かわき上がった疑問でしたが、「まぁ、そこはつっこんじゃいけない部分なのだろう」ということも子供心にわきまえながら見ていたのでした。ヒーローの勝利で終わらなくてはならないのがヒーローものの大前提とはいえ、敵側がひとりずつしか出せない合理的な理由があいまいなのが子供でもちょっと疑問を感じる部分ではありました。こうした敵がひとりづつ出てくる不思議なルールに合理的な理屈が付加できれば新境地が生まれそうなジャンルでもありますね。
『タイムボカンシリーズ』(ドロンジョ様など)、『サクラ大戦』(殺女、2の水狐など)『ファイナルファンタジーX』(ユウナレスカ)等でみられる、強敵が女性キャラの場合、強いキャラほど露出も過度になるという法則。とくにゲーム作品に多い印象がありますね。
男性ボスでも、けっこうむかしから大男の筋肉キャラはザコである場合が多く、ラスボス級はスタイルのいい美男子であるケースが多いですよね。これは70年代の漫画『愛と誠』などでも見られるけっこうむかしから根付いた日本独特のお約束設定ですね。思うに、日本人は強さの度合いを美で象徴するような感性がどこかにあるのかもしれませんね。深堀して考察していくと面白いネタになりそうです。
女性の場合はそもそも格闘系においてはビジュアル的に強そうに表現するのが難しいのもあり、女性ボスの場合は、物理的な強さよりも、魔性のような魔法系の強さをイメージさせる方向でああなっている、という見方もできますね。まぁ、実際のところはセクシーさで男性視聴者を惹き付ける演出ということなのでしょう。
ほかに考えられるのは、味方側のキャラは露出度を上げる合理的なシチュエーションをつくるのに困難な場合に、敵側なら逆に、露出度を高めやすいというのもありそうです。また、露出が高いコスによって、敵のアンモラルな反社会性を際出させて悪のレッテルを貼るイメージ的な誘導というメリットがあることも理由のひとつにあるのかもしれませんね。しかし、昨今はポリコレ的な風潮もあって、こうした演出は歓迎されないムードもでてきたことにより、昨今の作品では露出は抑えめな方向に流れているようですね。これも近いうちにあるあるではなくなってきそうなあるあるネタですね。
これもけっこうあるあるではないでしょうか。『巨人の星』(川崎のぼる、梶原一騎)の星飛雄馬と花形満(みつる)、『リングにかけろ』(車田正美)の高嶺竜児と剣崎順、『ガラスの仮面』(美内すずえ)の北島マヤと姫川亜弓などがそういうタイプの昭和の代表的な作品だと思いますが、他に何かないか調べてみると、『スラムダンク』『デスノート』『ハイキュー!!』『僕のヒーローアカデミア』など、昨今でもそういう設定の作品はけっこうあるようですね。
ありがちな設定ではあるものの、こうした設定は、努力と才能、社会構造や地位の格差などの対立構造をわかりやすくして物語の流れを明確にする効果もありますし、国民的作品、ドラえもんも典型的な作品ですよね。世界的なヒット作、ハリーポッターもそういう設定ですし、貧乏な主人公が努力して、才能にあぐらをかいている金持ちを打ち負かす、というストーリーは普遍的な娯楽性をもっているのでしょう。
実際に、世の中は圧倒的多数の持たざる者と、ごくわずかの持てる者で構成されてるわけですから、金持ちを主人公にするよりもマーケット的な意味でもそれは王道でしょう。また、よく考えてみれば、貧乏か金持ちかにかかわらず、我々はすべて、真理を知らない愚者として生まれ出て、やがて人生と苦闘しながら真実にたどり着こうとする旅人なのですから、そういう意味ではすべての人間は象徴的な意味で英雄神話の中の主人公といえるでしょう。ヒーローたちの苦闘に共感するのは、そうした潜在意識に眠っていた根源的な使命を思い出すからなのかもしれないですね。
これはむかしからさんざんギャグ漫画でパロディにされてきた有名すぎるあるあるですね。たしか『サルまん』でも解説がありましたね。そういうシチュエーションを描いた最初の頃の作品は70年代頃の初期の少女漫画なのだろうなぁ、という推測が頭をよぎります。遅刻ダッシュしてる主人公が焼きたてのトーストをくわえていると完璧なシチュエーションですね。
ついでにこれもAIに聞いてみたところ、意外な回答で面白かったです。こうしたシーンは、想像するほどあるある≠ネわけではなく、「遅刻」「曲がり角での衝突」「美形異性との恋の芽生え」という設定が全部揃った作品は『はいからさんが通る』で有名な大和和紀さんの作品『セントラルパークにて』(1972年, 週刊少女フレンド第21号掲載)のみが全ての条件を満たしているだけで、他はどれかが抜けているケースのようでした。
つまり、70年代あたりの少女漫画の部分的な記憶が複合されてできあがったあるある<Vーンのようですね。英語圏でもこの日本特有のあるある表現は知られているようで、「Crash-Into Hello」(衝突でこんにちは)と呼ばれているそうです。英語圏でも有名になった理由はTV版『新世紀エヴァンゲリオン』(1996年)の最終話でこのお約束シーンのパロディ的表現(遅刻ダッシュする綾波レイがシンジとぶつかるシーン)があり、それがきっかけのようですね。
マンデラ効果とマトリックス
部分的な記憶が複合されてできあがった、ありえないあるある<Vーンといえば、アニメ『巨人の星』のOPが有名ですね。OPの歌の部分で、「思い込んだら〜」の歌詞にあわせて主人公の飛雄馬が地ならしのための重そうな手引きのローラーを引いている、というシーンを記憶している方も多いと思います。しかし実際のそのシーンでは飛雄馬は雪山を走っているだけであり、そもそもOPにローラー自体が登場していない、というのが事実である、ということが一時話題になりました。
さらに、ローラーを引いている飛雄馬の絵と歌詞に引きずられてあの重そうなローラーはコンダラ=i重いコンダラ)という名前であるという誤認が広まった、という形でも流布されていた都市伝説ですね。
しかし、実際は飛雄馬がローラーを引く場面はOPアニメのどこにも無かったわけで、それがけっこう多くの人に共通して誤解されていたのは面白い現象ですね。私も当然のように飛雄馬がローラーを引いてるシーンを思い浮かべてましたが、こうした事実と異なる記憶を多くの人が共有している現象は通称「マンデラ効果」とも呼ばれているそうで、なかなかに興味深い現象ですね。
マンデラ効果とは、事実と異なる記憶を不特定多数の人が共有している現象を指すインターネットスラング、またはその原因を超常現象や何らかの陰謀として解釈する都市伝説または陰謀論の総称で、名前の由来は、当時存命中であったネルソン・マンデラについて1980年代に獄中死していたという記憶を持つ物が大勢現れたという現象からきているそうです。マンデラ効果の興味深い例がウィキペディアにたくさん挙げられてますが、たしかに自分も記憶違いしているものもいくつかあって、ドキリとさせられました。奇しくも、先に挙げたあるあるシーンの「遅刻する食パン少女」もマンデラ効果の一例に挙げられていますね。つくづく人間の記憶はアテにならないものだと痛感します。
ウィキにも指摘されてるように、マンデラ効果を心理的な記憶錯誤という見地だけでなく、前世や平行世界などの別次元の記憶が流入したために起きた錯誤であるというファンタジックな解釈もあるようで、それはそれで面白い観点ですね。そういえば映画『マトリックス』で、似たような記憶の錯誤の一例であるデジャヴ(既視感)≠フ面白い解釈がありましたね。主人公のネオは廊下を通り過ぎる猫が体を震わせる行動をするのを二回連続して見かけ、ネオは、これはいわゆるデジャヴだ、とつぶやきますが、マトリックスの事情を把握しているトリニティがその現象の正体を説明します。いわく、デジャヴというのはマトリックスに何らかの異常があった場合に起きる兆候だと。デジャヴというのは、仮想世界をシミュレートしているマトリックス(世界そのものをシミュレーションしている超コンピュータ的なもの)にプログラムの変更などを加えた場合に起きる現象で、つまりこの場合は、彼らを捜索している追っ手による仕業であるため、危険が迫っている兆候でもある、ということでしたね。
これは実に見事に現実世界と映画の中の世界を結びつける秀逸なシーンでした。このような何気ないシーンの積み重ねにより、マトリックスとは映画の中だけのフィクションではなく、実は自分がここにこうしている現実というのも本当はマトリックスが生み出した幻影なんじゃなかろうか!?という不気味な気分に何度も襲われます。現実と思っていたものはコンピュータ内のシミュレーションだった、というのがこの作品の興味深い世界観ですが、仏教の空≠フ思想を表現しているようにも受け取れるところがあって、何度見ても引き込まれますね。確認のために久しぶりにDVDを引っ張り出してきて鑑賞しましたが、マトリックスという作品は、近未来SFのような体裁をとった仏教的世界のビジュアル化のような側面も心惹かれる所以なのかもしれないなぁ、と思ったのでした。
実際に、この宇宙そのものも超コンピュータ的なものが生み出しているホログラム的な実体の無い世界なのかもしれない、といった「シミュレーション仮説」が哲学者や物理学者といったアカデミックな立場から主張されている現代においては、デジャヴやマンデラ効果のようなものも、単に脳科学的な現象にとどまらず、突き詰めて行くと宇宙の本質に迫る意外な足がかりになるかもしれませんね。
個人的なマンデラ効果的なものの話など
ほかにマンデラ効果的なもので思いつくのは、都市伝説界隈では、実際は放映されてないドラえもんのエピソード『タレント』がありますね。これもストーリーもそこそこ詳しく語られており、実際にむかし見たと思い込んでる人が意外と多いようで謎めいていますね。断片的な情報をまとめて、いっぽんのドラえもんのエピソードとして映像化した動画を作った人もいて、YouTubeかなにかで何年か前に見たことありますが、なかなか奇妙なテイストの動画で、異世界の番組を見てるような不思議な気分にさせられました。
ドラえもんといえば、私も、『ドラえもん』か『ど根性ガエル』か忘れましたが、夕方頃になにげなく見ていたTVアニメで、こんなお話を見た記憶があります。その作品の登場人物たちは、夜中に肝試しがてら友達グループと小学校に忍び込み、学校の基礎の部分に入り込み真っ暗な中を懐中電灯の灯りを頼りに先に進んで行くのですが、ほどなく足下にマンホールのようなものを発見します。そのふたを開けると地底世界に通じるはしごのようなものがあった。というエピソードです。地下では、現実の街とそっくりの街があり、ただ、地上の街との違いは人っ子一人いない無人だというところです。無人の理由は、戦時中に空襲を逃れるために作られた地下施設だから、という理屈が述べられていた気もしますが、それにしては、地下の街は昔の街並ではなく現在≠フ街とまったく同じで、商店でも普通に商品が並べられていた記憶があります。
後にそういう幼少期の記憶を頼りに検索してみても、めぼしい情報には行き当たらず、これも複数の似たようなシチュエーションの漫画などが混ぜ合わさってできたマンデラ効果的な記憶の誤認のようなものなのかもなぁ、と自分を納得させるしかありませんでした。でも、もしかしたら、子供時代の柔軟な脳が垣間みた異世界の記憶だったりして!と想像すると、ちょっとわくわくするものを感じますね。
閑話休題。今回は、この前の記事で書いた漫画などのあるあるネタを引き続き考察してみましたが、こうした定番の表現は、後にパロディにされたり、オマージュ的に新しい価値を付加されて楽しまれたりしながら、楽しい思い出が世代を超えて引き継がれていくものでもあろうか、と思います。人が面白いと感じる物語には神話の構造を踏襲した一定の骨組みが存在すると言われてますし、斬新すぎる物語は共感を得られ辛い面があります。「型があるから型破り。型が無ければ形無しだ」※という言葉がありますが、まさに、先立つ型≠ェなければパロディもオマージュも成立しません。パロディにしろオマージュにしろ、作家がそれを取り上げたくなるほどの魅力や、ネタ元を多くの人が気付けるほど広まった表現であることが前提ですから、人々が飽き飽きするくらいに繰り返された定型のパターンというものも、次の時代の格好の遊び場となって親しまれていくものなのでしょう。ダダイズムもパンクも先んずる伝統表現があってこそ、それを壊して先に進もうという表現が生まれる余地があるわけで、伝統の無いところには前衛表現は存在できません。そう考えていると、この世には何一つ無駄な物など無いのだ、ということをいろんな意味でしみじみ実感しますね。
※「型があるから型破り。型が無ければ形無しだ」〜
自分は立川談志が言っていたという記憶があるのですが、十八代目中村勘三郎の言葉としても知られているようです。調べてみると、中村勘三郎によって知られるようになったこの名言の出所は、無着成恭(むちゃくせいきょう 禅宗の僧侶 1927-2023)がTBSラジオ「全国こども電話相談室」で「型破りと形無しの違いはなんですか?」という質問に対して答えた時の発言をたまたま聞いていた中村が感銘を受けたことがきかっけで以後中村の座右の銘になったそうです。立川談志の場合は、弟子の立川談春のエッセイ『赤めだか』でこの言葉に触れられているところから知られるようになったようで、談志さんの場合は無着との関連は不明でした。さらに無着のこの言葉のルーツは千利休の訓をまとめた『利休道歌』の「規矩作法 守り尽くして破るとも離るるとても本を忘るな」の一節、守破離(しゅはり)の思想を表現した言葉だそうです。
これとよく似た名言に、デーモン閣下の「常識は破ってもかまわないが、非常識であってはならない」という言葉も有名ですね。これは閣下のオリジナルなのかどうか気になってざっと調べたところ、初出は閣下自身の著書『我は求め訴えたり』のようで、ここから広まった言葉のようです。デーモン閣下は今年(2025年)で10万62歳とのことですが、さすが途方も無い長い人生を生き抜いた達人らしい箴言です。調べてみたら、だいたい10万年前というと人類の直接の祖先であるホモサピエンスがアフリカで発生した時期のようです。(正確にはホモサピエンスは約20万年前にアフリカで発生して、日本には約7〜6万年前に到着した、とされているようです)閣下が自分の年齢を1億とか100万とかではなく、10万ちょっとの数値に設定していることも、思い付きのでたらめでなくて、けっこうちゃんとした考古学的な裏付けのある数値っぽくて、そこになんとも奥ゆかしい知性をさりげなく感じるところです。
2025/10/18 追記
また別の「あるある」なパターンを思い出したので追記します。
敵の奇異なたくらみの謎を追っているうちに敵の軍勢に捕らえられた主人公(あるいは味方のキャラ)が、死の瀬戸際に「せめてお前の目的を教えてくれ!」と頼むと、「フハハハ。どうせもうじきあの世に行くお前に冥土の土産に教えてやろう」と、素直に教えてくれるベタな場面ってけっこうありますよね。さっさとトドメを刺せば敵側はミッションコンプリートなのに、この冥土の土産を話すことが味方の形勢を立て直す時間稼ぎになってしまって返り討ちにされるところまでがお約束です。なので、この冥土の土産≠ニいうセリフが出た時点で主人公の生存フラグが立ったようなものですから、逆に安心してしまうシチュエーションですね。このセリフが主人公(か味方キャラ)以外に発せられた場合はけっこうそのまま本当に冥土の土産になってしまうパターンもありますが。検索してたらちょうどピクシブ百科事典でも記事になってました。
まぁ、面白いストーリーというのは、何らかの奇跡的な展開があるものですから、現実的に考えるといろいろ破綻している部分があって当然だろうと思います。今回の記事のような「あるある」な部分もネタ的なものですので、実際にこういう「あるある」は避けるべきとか、無くすべきとは全く思ってません。
自分がハマった作品も、多くはいわゆる中二病%Iな要素が多分に含まれていますし。物語の現実的な整合性を考えすぎるとこじんまりした躍動感のないものになりがちですからね。破綻した部分を補ってあまりある面白さ≠ェあれば全然問題ないと思ってます。
車田正美の『リングにかけろ』は少年時代にハマって全巻揃えて繰り返し読んでましたが、これなども、ボクシング漫画でありながら、話の中盤あたりから、いつのまにか体重による階級が無くなり、試合もテンカウントではなく必殺技がきれいに決まったら勝ち!みたいなノリになっていきます。うわべだけ見るとトンデモですが、ジャンプのガキ大将・本宮ひろ志御大がリンかけの後書きで言っていたように、ちまちましたボクシングの公式ルールを無視して必殺技が飛び交うバトルに突入してからが車田漫画の本領発揮という感じで、このふっきれ具合が、後の『聖闘士星矢』の大ヒットに繋がっていったのでしょう。(車田漫画は、後期の必殺技バトル系も好きですが、それ以前に描いていた『スケ番あらし』などの人情ものもイイですね。スケ番やリンかけの初期の頃のタッチもイイ味があって、線に暖かい情緒がこもっていて好きなんですよね〜)
また、『愛と誠』『侍ジャイアンツ』『巨人の星』『空手バカ一代』『あしたのジョー』など数々のヒット作で知られる漫画黄金期の巨人、梶原一騎も細部をつっつけば破綻も多いですが、それを圧倒する豪快で大胆で胸躍るようなドラマの魅力が全編にほとばしっていて、細かい部分の破綻より、次の展開のほうが気になってページをめくらされる感じでした。物語というのは、そういった作品ににじみ出てくる作者の熱量に共感することこそが醍醐味なのでしょうね。
追記終わり