戦前の少女雑誌、少女倶楽部の付録「お話面白寳典」は、叙情画の巨匠、蕗谷虹児のモダンな表紙画と裏表紙のレトロなおかっぱ美少女が微笑むトンボ鉛筆の広告が気に入っていて、目の保養にと、目立つ場所にいつも置いていたのですが、本の中身は子供の教育に良さそうな偉人の教訓的なエピソードが中心の真面目そうな感じだったので、長らく中身のほうは全く読むことなく時間が経っていきました。
少女倶楽部第16巻第1号付録「お話面白寳典」
表紙画・蕗谷虹児
大日本雄弁會講談社 昭和13年1月1日発行 より
同上・裏表紙 トンボ鉛筆の広告
おかっぱ少女がかわいいですね〜
先日、どういうわけか気まぐれに本を手に取り、ずっと飾り用で眺めるだけというのもアレなので、適当に面白そうな話のネタでも見つけようかとページをめくってみました。とりあえずピピッときた熊沢蕃山(くまざわばんざん)の話を読んでみたのですが、これがまたなかなかグッとくる話だったので、勢いであらかたほとんどの話を読んでしまいました。熊沢蕃山については、まったく知らなかったので、読後にネットで調べてみましたが、やはり偉人のエピソード集に収録されているだけあって、思わず爪の垢を煎じたくなる感じの立派な方でした。気まぐれな読書をきかっけに、つくづく世の中には自分の知らない偉人がたくさんいるものだということを改めて実感したひとときでした。
ということで、なにげなく読み始めた「お話面白寳典」、あらかた読んでみましたが、やはり最初のインスピレーションで読んだ蕃山のエピソードが中でも一番自分的にはグッときた逸話でしたので、せっかくなのでこの蕃山のお話をまずご紹介しようと思います。せっかくだから〜せっかくだから〜
蕃山の苦学
熊沢蕃山は、徳川時代の有名な学者です。
蕃山は二十歳の時に国(故郷)を出て、近江の中江藤樹先生(なかえとうじゅ 陽明学者)のところへ弟子入りしました。
ところがちょうどそのころ、お父さんが浪人して、母や弟妹たちといっしょに蕃山の家に身を寄せることになりましたので、ただでさえ貧しかった家の暮らしが、いよいよ貧しくなりました。
食べるものといっては、粟(あわ)の雑炊に生味噌くらいのもので、それも三度に一度は欠くといったありさまでしたが、蕃山はそんな苦しい中にあってもよく父母に仕え、朝はまだ暗いうちに起きて、弟や妹たちといっしょに近所の山に行って木を伐り、それを売って一日の生計をたてると同時に、わずかな暇をみては一心に勉強を続けていました。ある朝、蕃山がいつものように早く起きて、山へ行く支度をしていますと、そこへ母が出てきて、「助右衛門や(すけえもん 蕃山の名前)、お前は学問をするためにこの近江の国へ来たのに、毎日ろくに勉強する時間もなく、暮らしの苦労ばかりかけて、ほんとにすまないねぇ…」と気の毒そうに言いました。
すると蕃山は、
「いいえ、お母様、これしきの苦労は何でもございません。中江先生も『人間は本を読むばかりが学問ではない。貧乏していろいろな難儀にあうことも、かえって立派な人になる基(もとい)となるのだ」とおっしゃいます。ですから私は、毎日こうして働くことを、少しも辛いと思わないばかりか、かえってありがたいことに思っております」といって、机の上に載せてあった短冊を取ってきて母に見せました。それには、
憂(う)きことの なおこの上に 積(つ)もかれし
限りある身の 力ためさん
と、記してありました。
「人間の力には限りがあると申します。しかし私は、私の力がどれくらい難儀に打ち勝てるか、試してみたいと思うのです。むかし山中鹿之介という武将は、三日月に向かって『願わくば我に七難をあたえたまえ』と祈ったと申します。私もできるだけ多くの難儀にぶつかって、自分の力を試してみたいと思っております。どうかお母様も、私がどれくらい困難に打ち勝つ力があるか、ご覧になっていてください」
蕃山はこう言って、にっこり微笑みました。そして、弟や妹たちを引き連れて、霜のおりた野道を、勇んで山へ木こりに出かけてゆくのでした。じっとその後ろ姿を見送る母の目には、熱い涙がいっぱい浮かんでいました。
蕃山はそれから後も、いろいろな苦労や困難に出会いましたが、いつもこの歌の心をもってどんな大きな困難にも負けないで熱心に勉強を続けましたので、その苦心もようやく報われて、とうとう中江先生の塾中で一番の秀才と仰がれるようになりました。やがて先生の推薦によって、備前の池田候(備前国岡山藩主池田光政のこと)に、三千石の高禄(こうろく)で仕官する身となったのでした。
少女倶楽部第16巻第1号付録「お話面白寳典」 大日本雄弁會講談社 昭和13年1月1日発行 より
美輪さんの「ヨイトマケの唄」とか、往年の「一杯のかけそば」とか「おしん」のようなドラマなどのような、貧しさに負けずに大成していく話は日本人の琴線にふれますね。二宮金次郎とか野口英世など昔の偉人伝もだいたい苦学のヒーローが多いイメージで、この蕃山のエピソードも典型的な昔の日本の偉人伝という感じで、心に響くものがありますね。そういった多くの偉人の伝記に出てくる苦境に対する姿勢というのは、ある種本能的といいますか、強靭な意志で苦境を乗り越えていくケースが多いイメージがあります。しかし、この蕃山の場合は師匠の教えが力となって苦境と対峙する勇気となっている感じで、いわば、本来の自分だけでは不可能に思える試練も、尊敬する師の哲学を信じてそれを自分の人生で実践することによって困難を乗り切っていくという感じですね。こうしたある種のスピリチュアリティを感じる側面も蕃山の話にグッときた部分です。
人生の真理というのは、ひとりだけで到達するには数多の苦境を乗り越えて多大な時間をかけて獲得していくしかないですが、せっかく恵まれた人の世に生きているのですから、先人や優れた同時代の賢者の教えを謙虚に学ぶほうが賢い選択でもあると思います。蕃山の場合は、そうした人生の達人として仰いだ師匠はお話にも出てきた中江藤樹(なかえとうじゅ。滋賀県[近江の国]出身の江戸時代初期の陽明学者1608-1648年)で、江戸時代という身分の格差が根強く社会に残っている時代において、身分の上下を超えた平等思想を説き、広く民衆に慕われたところから、自然に皆は彼を「近江聖人(おうみせいじん)」と讃えるようになったそうです。そうした中江を蕃山が慕うようになったきっかけもなかなか興味深いです。以下中江藤樹のウィキから引用します。
ある武士が近江国を旅していたときの話。大切な金を馬の鞍につけたまま馬を返してしまった武士は金が戻らずがっかりしていたが、そのときの馬子が金をそっくり渡すため武士のもとに戻ってきた。感謝した武士はせめて礼金を渡そうとするが馬子は受け取らない。仔細をきくと、馬子の村に住む中江藤樹の教えに導かれてのことという。そこで武士は迷わず、藤樹の弟子となった。この武士こそのちに岡山藩の家老となった熊沢蕃山であるという。
蕃山が中江の教えを素直に実践して苦難を乗り越えていく裏には、そうした実体験からくる信頼感で結びついた縁があったわけですね。そういえば、昨今でも来日する外国人旅行者が日本の良い部分として、「落とし物が盗まれることなくちゃんと戻ってくる」という話をよく目にしますね。まぁ、中には盗まれて戻って来ない場合もあるでしょうが、それなりに話題になるくらいに戻ってくるケースが多いからそういう話題にもなるのでしょう。
私も以前中野区の交通量の多い歩道のどこかに現金やカードや部屋の鍵まで重要なものばかりが入ったバッグを落としてしまうという大ポカをしてしまい、頭の中が真っ白になったことがありました。落としてそうな場所を何度も往復しても見つからず、派出所のおまわりさんに相談して、いろいろ近辺の派出所に問い合わせてもらいました。「あまり期待しないでくださいね。とりあえず数日ほど様子をみるしかないでしょうね」などと恐いことを言われましたが、結局そのバッグは親切な人が拾って最寄りの交番にその日のうちに届けてくださったようで、なんとかその日のうちに戻ってきました。しかも、その届けてくださった方は報労金を受け取る権利を辞退されたとのことで、お礼をする機会は失われてしまったのものの、その無償の善意に深く感謝した一日でした。落としたであろう場所はその交番よりけっこう離れてましたので、届けてくれた人は「落とし主はさぞ困っていることだろう」とわざわざ近いわけでもない交番までその日のうちに労を惜しまず足を運んでくださったのでしょう。その日は感動のあまり、届けていただいた方の幸福を何度も祈願したものでした。
(2025/4/14 追記)
なんと熊沢蕃山の生涯を描いた漫画が無料公開されているのを発見!すごく面白いので必見です!
編集・備前市教育委員会、発行所・備前市、と奥付にありますので、岡山県備前市が地元の偉人を啓蒙するために企画した作品のようです。いい仕事してますね〜 けっこう細かいエピソードまで調べてあって、蕃山をより深く知ることができました。
「無料で読む」というバナーをクリックすると漫画を読めます。
ひょんなきっかけで読んだ「お話面白寳典」がきっかけで、熊沢蕃山という人を知り、その人となりに興味がわいて、なにげなく検索してたら、上記しましたとおり、熊沢蕃山の生い立ちから永眠まで、その人生をいくつものエピソードとともに丁寧に描いた漫画が無料公開されていました。100ページあまりのボリュームのある漫画でしたが一気に読んでしまいました。今回ご紹介したエピソードだけでは想像出来ないほど偉大な人であることがよくわかりましたし、蕃山に少しでも興味をもたれた方はぜひ一読をおすすめします!どことなく諸星先生の傑作『太公望伝』を彷彿とする蕃山の壮大な人生行路に感動しました。序盤は学習漫画っぽい感じで、『ブラタモリ』的なノリである親子が蕃山ゆかりの地へ赴くところからはじまりますが、蕃山と人生の師匠となる中江藤樹との出会いあたりからがぜん面白くなっていきグイグイ引き込まれていきます。
ウィキの引用で、蕃山が中江に惹かれるきかっけになった馬子のエピソードは、漫画のほうでは、蕃山自身の話ではなく、別の侍の話を蕃山が側で聞いていたことになっていますね。中江先生は、イメージしてたよりも温和でとても謙虚な人格者として描かれていて、なるほど、こんな魅力的な人に出会ったら蕃山でなくとも、ぜひともお近づきになって教えを乞いたいと思わせますね。
(追記おわり)
(2025/7/5 追記)
遅まきながら「お話面白寳典」で熊沢蕃山を知り、漫画まで見つけて蕃山の魅力に惹かれていたところ、先日の古書市では、岩波の全集「日本思想体系」に収録された熊沢蕃山と中江藤樹の著作も激安で見つけたりして、何かと縁を感じている昨今です。引用の中で触れている蕃山の和歌「憂きことのなおこの上に積もれかし限りある身の力ためさん」ですが、これは蕃山の思想や人となりを反映した代表的な歌のようで、藤子不二雄先生も「ドラえもん」の中でのび太の父の口を借りて引用もされているようです。この歌は、一説には引用の中でも言及している山中鹿之介の作ともいわれる場合もあるようですが、鹿之助への共感を蕃山が歌ったものという見方もあり、蕃山の作とみる説が一般的みたいですね。
蕃山にグッとくる一番のポイントは、この歌にも詠まれているとおり、ふつうは避けたい「不幸」や「試練」を、蕃山は逃げるでも恐れるでもなく「ドンと来い!来るなら来なさい!望むところだ!」という勇猛な姿勢で立ち向かおうとするところです。むしろ蕃山は、そうした試練や不幸こそが自分の魂を磨く絶好のチャンスとして見ています。まさに、そこにシビレる憧れる!ですね。
我々は嫌なことを必要以上に嫌がりすぎる傾向があるために、しばしば嫌なことそのものだけでなく、嫌なことが起きない状態であっても、嫌な予感や予想だけで憂鬱な暗澹たる気分をわざわざ味わって不幸を感じてしまう場合が多いように思います。蕃山のように、最初から来るなら来い!という覚悟でいれば、けっこう気が楽に乗り越えられそうですね。
そういえば一休さんも似たような考えの歌を詠んでますね。「有漏路(うろじ)より 無漏路(むろじ)へ帰る 一休み 雨ふらば降れ 風ふかば吹け」(うろじ=この世。むろじ=涅槃の境地)という歌ですが、これは、「人生というのは、迷いの無知の状態から、いずれ悟って涅槃に行き着くまでの長い輪廻の中の中間地点でしかない、試練も不幸も来るなら来い、それはどうせ避けたくても避けれない人生の段取りの必修の一部なのだから」といったニュアンスだと思います。歌の中に自分の名前がさりげなく入っているところも一休さんらしいユーモアがあって好きな歌です。あわてない、あわてない。一休み、一休み、の精神で、人生、何があろうと蕃山や一休さんのように勇猛に、そしてひょうひょうと行きたいものですね。
(追記おわり)
「お話面白寳典」は、他にも小林一茶や松尾芭蕉など俳句がらみの粋なエピソードも多く、そういう話も印象的で、また機会があれば紹介したいですが、次は蕃山のいい話の余韻を引き継いで、音楽史に残る天才ピアニスト、フランツ・リストのいい話をご紹介たいと思います。
情け深い音楽家
フランツ・リストはハンガリーの生んだ音楽の大天才である。ある冬、片田舎の町に旅行したところ、街角に演奏会のビラが貼ってあるのを見た。
「はてな?誰の演奏会だろう、何、ベルタ・ラハーグ夫人?知らない名前だな。おやっ?リスト先生の弟子と書いてある。私はこんな女性を弟子にした覚えはない。不審な女性だな」
リストは銀色の白髪頭を振った。
その夜更け、リストはベルタと名乗る女音楽家の泊まっている旅館を訪ねた。
旅館とは名ばかり、ひどい安宿であった。リストは眉をしかめてベルタの部屋に案内された。そして、びっくりした。
ああ、何という可哀想な有様だろう、寒い冬の夜に火の気もなく、ロウソクの灯が淋しく光っている中にやつれた女が悲しそうに座っていた。その膝元に小さい兄妹が指先をハァハァと息で暖めているのである。
「どなたでしょう?」と女がおずおずと言った。
「私はリストだが・・・」その言葉に女はざっと青ざめた。それと見たリストは「いや、私はあなたに恥をかかせるために来たのではない、が、どうして私の弟子だなどと書いたのか、それを・・・・」
「ごめんなさい、先生、私は下手な音楽家なのでお客が来てくれません。すると、この子供達に食べさせるパンも買えません。悪いとは知りながら先生の名を拝借して・・・・」女はハラハラと涙を流してすすり泣いた。
「おお、そうか。けれど、勝手に私の名を書いては町の人を騙すことになる。まぁ、それはそれとして、あなたがどれだけ弾けるかちょっと聞かせてくださらんか」
おどおどしながら女は帳場(ちょうば。旅館のフロント)にある古ピアノの前に座って恐る恐る弾きだした。
「おお、なかなか上手じゃないか。が、ちょっと直したいところがある」リストがピアノに向かって弾きだした。その美しい音色に女も子供も宿の者もうっとりと聞き惚れていた。と、リストがにこりとして、
「さぁ、これで私はあなたにピアノを教えた。もう大いばりでリストの弟子とビラに書きなさい。ああ、それから、明日の演奏会にはリスト先生も出演すると書き加えなさい。じゃあ、お休み」情け深い老音楽家はそう言ってドアのほうへ進んだ。
「先生!」と女がひざまづいて手を合わせた。
「おお、母は力強く生きよ。しかし、正しく生きよ」
やさしく子供の頭を撫でたリストはそのふたりの手にキラキラ光る金貨を握らせて出て行った。
女はひざまづいたままうれし泣きにむせび泣いていた。
少女倶楽部第16巻第1号付録「お話面白寳典」 大日本雄弁會講談社 昭和13年1月1日発行 より
天才というと、その道では達人でも偏屈で人格に難のある人物像を漠然とイメージしてしまいますが、リストは人格も素晴らしく立派だったそうで、上記の粋なエピソードはウィキにもちょっと触れてありました。このエピソードにはいくつかバリエーションがあるようで、検索してみると、リストを偽るピアニストは、上記の貧しい女性の場合のほかに、リストの弟子を騙って一稼ぎしようとする音楽家くずれの男のバージョンも散見します。内容的にけっこうプライベートな逸話なので、正確な記録がなく、口伝えで広まっていくうちに細部が変化していったのかもしれませんが、遠からず似たようなことは実際にあったんでしょうね。
フランツ・リスト(1811-1886)は超絶的な技巧を持つ当時最高のピアニストで「ピアノの魔術師」と呼ばれ、どんな曲でも初見で弾きこなした。その技巧と音楽性からピアニストとして活躍した時代には「指が6本あるのではないか」という噂がまともに信じられていた。彼の死後、彼を超えるピアニストは現れないだろうと言われている。(ウィキペディアより)
次は、明治大正にかけて活躍した数学者、菊池大麓(きくちだいろく。1855-1917年)のエピソードです。この方は裕福な生まれの名門の出で、男爵の位をもつ秀才です。苦学生ということでもなく、二度にわたって英国留学をしたりと、華やかなエリート街道を歩み、ウィキには東京帝国大学(東京大学の前身)理科大学長・総長、文部次官・大臣、学習院長、京都帝国大学(京都大学の前身)総長、帝国学士院院長、貴族院議員、枢密顧問官を歴任した、とあり、きらびやかな人生です。このエピソードでは、菊地本人のいい話というよりは、留学先のイギリス人に関するいい話で、イギリスの印象がちょっと変わりました。
首席あらそい
世界的な数学者として、名声をあげた菊池大麓男爵は、若い時に英国のケンブリッジ大学に学びました。その学業の成績は素晴らしく、幾百の英国学生を圧倒して、いつも首席を占めていました。
ところが、いつも大麓と首席を争って、惜しくも二番になったのは、ブラウンという学生でした。ブラウンは、「他国の留学生に首席を占められるのは、わが大英国の恥である!」といって、いっそう馬力をかけて、ぜひとも大麓を追い越そうと、必死になって勉強を続けました。
すると、たまたま大麓は、病気になって入院し、長い間、学校を休むことになりました。ほかの学生たちはたいへん喜んで、かわるがわるブラウンに向かって、「おい、ブラウン君、いい機会だ、今度こそ君が首席になれるぞ。ぼくたちは申し合わせて、大麓にノートを貸さないことにしたから、君はぜひしっかり勉強してくれ」と、言いました。
ブラウンはそれを聞くと、むっとして顔色を変えました。
「よしてくれ!君たちはそれでも英国の学生か!病気につけこんで首席をとるなんて、そんなあさましいことができるものか!『不正の勝ちはまことの勝ちにあらず』だ!ぼくには英国人としての誇りがある。その誇りを犠牲にしてまでも、首席を占めようとは思っていない!」
ブラウンが、きっぱりそう言うと、さすがに学生たちは、恥ずかしそうに黙ってしまいました。
ブラウンは、それからというもの、折々大麓を病院に見舞うとともに、欠席してからのノートを、毎日ちゃんときれいに写して、大麓の病床へ送り届けました。そのうちに大麓の病気は全快しました。そして学期試験を受けますと、やっぱり首席でありました。ブラウンは、「ああ、これでぼくは英国人としての誇りを傷つけずに済んだ」と言って、自分が二番であったことを喜んだのでありました。このブラウンのことは、大麓も長く心を離れなくて、後に世界的な学者として名声を馳せてからも、
「わたしの学生時代の益友は、十指を屈するほどあるが、その中でブラウン君の『不正の勝ちは、まことの勝ちにあらず』という金言にもとづく高潔な英国魂ほど、わたしを深く感動させたものはない」と、常に物語っていたそうであります。
少女倶楽部第16巻第1号付録「お話面白寳典」 大日本雄弁會講談社 昭和13年1月1日発行 より
ブラウンのかっこよさにシビれるエピソードですね。まさに英国紳士のイメージ通りの本物の紳士を感じます。人種も文化も違う異国の地で、ブラウンのようなフェアネス精神をもった高潔な人に一目置かれた大麓はさぞや心強かったことでしょうね。他国での生活ではこういう人との出会いでその国の印象もだいぶ変わってくるでしょうし、また相手からはひとりの日本人ではなく、自分もまた日本人のイメージそのものとして受け取られているのでしょう。こういうエピソードを読むと、ひとりひとりがその国の大使でもあるということを感じますね。
以前日本レスリング史上初のオリンピックメダリスト、内藤克俊(ないとう かつとし、1895年2月25日 - 1969年9月27日)選手の話を紹介したことがありましたが、上記の大麓とブラウンの友情の話は、内藤選手とライバルの米国人のリード選手との友情の話を彷彿としました。こういう、国境を越えた友情ってグッときますね。
ということで、今回は戦前の少女雑誌「少女倶楽部」の付録、「お話面白寳典」から個人的にぐっときたお話を3つ選んでご紹介しました。ご清覧ありがとうございました。