空也上人と盗賊の話
空也(くうや 903年-972年)といえば、最初に思い浮かぶのは六波羅蜜寺所蔵の口の中から6人の小さな阿弥陀仏が出ているあの有名な「空也上人像」でしょう。空也は平安時代中期の僧侶ですが、私も件の像で名前を知った程度で、詳しい人物像は知らず、有名な空也像の他はほとんど白紙状態の理解だったのですが、古本市でなにげなく手に取った昭和初期に発行された仏教関連の啓蒙書『観音経講話』をパラパラとめくっていたら、空也に関するとあるエピソードが目にとまり、それはなかなか胸を打たれる内容で、ハッとさせられたのをきっかけにこの記事を書いてみました。
件の本に紹介されていた空也のエピソードは、さすが歴史に名を残す偉人だけあって、やはりその人生も尊敬に値するものなのだなぁ、と感銘を受けたのでした。以下その空也の件のエピソードを紹介しつつ、そのほか仏教に関して考えていることなどをあれこれ語ってみました。
昔、空也上人が、身は尊い金枝玉葉(きんしぎょくよう=天子・天皇の子孫や一族のこと。 皇族。)の御一人であられたが、その御修行中は雲水(うんすい=行方を定めないで諸国を行脚する修行僧のこと)として諸国を遍歴せられたものだ。ある日のこと、日も早や西に傾くという逢魔が時(おうまがとき=夕暮れ時)に、山中へかかられたところが、上人の前に雲突くばかりの大男が、ノッソリと立ちふさがった。そして上人に向かって大声疾呼、
「身ぐるみ揃えて置いて行け!」
と追い落としをかけたのであったが、上人はその大男を見て、急にハラハラと涙をおこぼしになって、静かに申されるには、
「お前は見たところ、身体も人並み優れて丈夫そうだし、今が働きざかりの年頃ではないか。その体力で一心に働いたならば、下らん追いはぎなどをして、世を狭め、諸人に迷惑をかけずとも、立派に世渡りしてゆけるではないか。血気盛んな身をもって盗賊追いはぎなどをいたすとは、まことにあさましい、情けない限りではないか。そうそうに心を改めて、善行に就きなさい、さもなくば未来の因果のほども思いやられて、思わず可哀想になり、涙も流れてこようというものだ。」
と、まごころを面(おもて)にあらわして、さとされたので、至誠天に通ず(しせいてんにつうず=まごころをもって事に当たれば願いは叶う)の例えの通り、上人のお言葉が単に口先だけの説法ではなく、まことの大同情から身をもって戒められたので、さすがの凶悪無頼の大男も、その崇高な気迫にうたれて、前非を悔い、たちまち姿を立ち木の影に隠してしまったが、それから両三日たって、上人のお宿へ尋ねて参り、
「和尚さま、先日は山中にてまことに面目次第もなき振る舞いをいたし、なんともお詫びの申し上げようもございません。あれからは、和尚さまのお言葉をふつふつと肝に銘じていると、追いはぎ泥棒いたす気にはならなくなりました。それにつけても本日までの長い歳月、人を殺(あや)め、物盗り強盗の数々が思い浮かべられて、実に苦しく居ても経ってもいられません。せっかく、私の心を御化導(けどう=人を感化して善に導くこと)くださいました因縁を持ちまして、なにとぞこの上ともお導きください。ついては、今日(こんにち)から和尚さまのお弟子の中(うち)に入れていただきたいと存じまして、無理なお願いとは存じましたが、曲げてお許しを得たく、かくは推参(すいさん)いたした次第でございます。」
と、まごころを現して、切々と己が往事の罪を覚り、仏縁によりて罪障除滅の祈願を、ひたすらに乞うたので、上人も、いたく喜ばれ、
「その罪を憎み、その人を憎まぬが仏教の本旨である。よくぞお前もそこに気付かれた。かく懺悔をなした上は、快く私が弟子にして差し上げよう。さぁもうお前は清浄無垢、身に一点の曇りもない身体となったのだ。その翻然と心をひるがえした心持ちを忘れず、仏道を励むが肝心ぞ。」
と仰せられたそうである。かく仏法は寛大なもので、貴賤老若のいかんを問わず、ただ一片真如の心を問うのみである。真如の心さえあったならば、そこに大慈大悲の精神現れ、心中の怨賊(おんぞく=怨みを持って死んだ仇敵の霊魂が鬼になって現れてくること)も易々として除去し得られるのだ。
『観音経講話』渡邊海旭 京文社書店発行 昭和8年(昭和14年 14版)p146〜148より
『観音経講話』渡邊海旭 京文社書店発行 昭和8年(昭和14年 14版)
なかなかグッとくるエピソード※ではないでしょうか。この空也の逸話を読みながらふと往年の熱血ドラマ『スクールウォーズ』の主人公の泣き虫先生、滝沢先生を彷彿としました。『スクールウォーズ』は、山下真司演じる主人公の滝沢先生が、どんなに手の付けられない不良でも、「信じ、待ち、許す」という恩師の言葉を忠実に実践し、不良の吹きだまりのような学校の万年最下位のラグビー部をたった数年で全国優勝に導いた感動的な実話をドラマ化したもので、とても印象深く覚えています。滝沢先生は、単なる熱血教師というだけでなく、元ラグビー日本代表だった過去を持つ体格のいい先生でしたが、空也の場合はお坊さんですから、そんなに体力に恵まれていたわけでもなさそうですし、命の危険さえある体格のいい盗賊を相手に堂々と説き伏せて改心させたというエピソードにはかなりの凄みを感じるところです。
空也上人がもしお坊さんではなく、学校の先生だったら、上記の滝沢先生みたいな生徒の記憶に一生残るような素晴らしい先生にもなったのだろうな、とふと思いましたが、調べてみたらどうも平安時代の学校は貴族の男児のみが通うことができる特権的なものだったようで、政治もこの時代は貴族が主導する摂関政治で、現代の民主主義とは性質が異なったもののようでした。そうなるとこの時代に広く衆生を導き救おうと思ったら、学校の先生や政治家ではなく、お坊さんということになるのでしょうね。
昔は肝の座ったお坊さんがけっこう居たみたいで、刃を向けた山賊に臆することなく堂々と説法して改心させた僧の逸話は空也だけでなく、雲居希膺(うんごきよう。臨済宗の僧。1582年-1659年)や、慈門尼(じもんに。江戸期元禄時代の歌人。彦根の黄檗宗広慈院尼僧。1700年-1775年)などの剛胆な逸話も同書で紹介されてました。
空也は高貴な身分の出身であるようなことがこのエピソードで最初に語られていますが、調べてみると、空也の生存中から後醍醐天皇の落胤(らくいん=高貴な出自の私生児のこと)ではないかといった噂があったものの、本人が出自を語らなかったこともあり、その真偽は不明なままだそうです。天皇家の落胤の僧といえば、おそらく日本一有名なお坊さん、一休もそうですね。一休さんが天皇家の血を受け継いでいるという話にも決定的な根拠はないそうですが、こちらの場合はほぼ間違いないだろうと思われる状況証拠が複数あるため、一休さんの場合はご落胤で間違いなさそうです。一休さんも大好きな僧侶なので、いずれ項を改めて記事にしたいです。
ウィキを見てみたら、麻倉未稀の熱唱するテーマ曲「ヒーロー」のイントロで語られる芥川隆行さんのあの傑作ナレーションも紹介されてました。「この物語は、ある学園の荒廃に戦いを挑んだ熱血教師たちの記録である。高校ラグビー界において、全く無名の弱体チームが荒廃の中から健全な精神を培い、 わずか数年で全国優勝を成し遂げた奇跡を通じて、 その原動力となった信頼と愛を、余すところなくドラマ化したものである」
2025/1/21追記
※なかなかグッとくるエピソード〜
この記事を書いたことが縁になったのか、先日古本市で手に入れた『人物叢書 空也』(堀一郎著 日本歴史学会編集 吉川弘文館 昭和38年)に、この、空也が盗賊を改心させる話の出典が書いてありました。件のエピソードの出典は、1702年(元禄15年)に編纂された日本の高僧の伝記集『本朝高僧伝』(全75巻 卍元帥蛮・撰)からのようです。ご紹介したエピソードに出てくる盗賊の悪因の報いを憂いて空也が涙するシーンの描写の一部を以下に抜粋します。
「勝嘗て夜帰り、緑林の客に遭ふ、而(しか)して頻(しき)りに涕泣(ていきゅう)す、賊曰く、すでに沙門と称するに何為(なにすれ)ぞ吝惜(りんせき)するや。勝曰く、公等適(たまたま)、人身を受く、当(ま)さに善因を修すべきに卻(かえ)って悪業を作(な)す、未来の罪果、遂に逭(のが)るべからず、我れ子(し)のために泣くのみ、と。賊、空也と知り相引いて互に逃ぐ。」
追記終わり
あの有名なシュールな空也像について
口から六体の阿弥陀仏を出している有名な空也像は、空也の死後200年ほどたってから作られた木彫りの像だそうです。口から六体の小さな可愛らしい阿弥陀仏が出てくるシュールな造形は、日本の数多ある仏像の中でも抜きん出た個性があり、ある種現代アートといっても通じるような斬新な表現ですね。これは、空也上人が「南無阿弥陀仏」の六文字を唱えるとその言霊が阿弥陀如来の姿に変わった、という伝承があったそうで、その伝承をそのままビジュアルで表現したのがあの立像のようです。最初にあの像を写真で見たときには、パッと見た感じ、口にくわえた枝に6匹の小鳥が乗ってさえずっている長閑でユーモラスな像だと勘違いしてしまったものです。
空也は特定の宗派にこだわらない超宗派的な僧侶だったようで、一応天台宗の僧ということで知られていましたが、あの有名な像が納められている空也の活動拠点でもあった六波羅蜜寺は真言宗のお寺だそうですし、そうした教条主義に陥らない考え方もラーマクリシュナやクリシュナムルティなどの万教一致的な聖者と通じるところがあって惹かれるところです。
空也は仏教の系譜の中でもユニークな存在だったみたいで、「南無阿弥陀仏」を唱えることで阿弥陀仏からの救済が得られるとする実践法の元祖でもあるようです。また、この実践的念仏信仰は、出家僧だけの修行法としてではなく、広く世俗の者に向けて広められたものであることも、空也の慈悲に満ちた人柄がうかがわれますね。
六波羅蜜寺に安置されているあの有名な空也像をはじめとした仏像などが紹介されています。
仏様の格付けの話
空也の仏教において中心的な信仰の対象である阿弥陀仏ですが、さて阿弥陀仏とは一体どういう存在なのか?というのが気になって以前調べたことがあります。仏教美術ではざまざまな仏、菩薩や神や如来が描かれますが、それらはどういう存在なのか?というのは、仏教に興味を持ち始めた最初に誰しも思う疑問のひとつではないか、と思います。仏教系のサイトの多くで解説されていることですが、個人的なおさらいの意味でもざっと説明してみたいと思います。
それぞれの仏は、仏格のランキングでいうと、天→明王→菩薩→如来となります。如来は輪廻から解脱した最高位の仏です。菩薩以下は、六道(地獄、餓鬼、畜生、人間、阿修羅、天)の六つの世界の中の最上位「天」に住んでいます。この六道輪廻ですが、仏教を学ぶ前は、輪廻の思想というのは救いの思想のような感じで、俗人からすると「死んで終わりじゃないんだ!」という希望を感じる思想なのですが、ヒンドゥーや仏教の教えでは、「輪廻こそ苦しみの原因なのだから、輪廻そのものから脱しなさい!」と説いています。つまり、死んでもそれで終わりじゃない、というのは決して救いなのではなく、むしろ輪廻とは、死んでも苦≠ゥら逃げられない!という絶望なのだという認識が根底にあります。ゆえに、この永遠に逃げられない輪廻から脱することを仏教は目指していて、苦を永遠に滅した絶対的な平安の世界、涅槃(ニルヴァーナ)に至るためのノウハウとその実践方法が仏教の本旨です。ある意味、仏の格付けランキングとかは仏教の主旨からいえば意味のない迷妄でもありますが、言葉の理解だけでもしておくと、経典の深い理解にも繋がるので、知的楽しみとして覚えておくだけでも役に立つようにも思います。
話を戻して、菩薩というのは元来は修行中のお釈迦様のことを指してました。そこから転じて、悟りを求めて修行する人を広く菩薩と称するようになったようです。文殊菩薩や観音菩薩などさまざまな菩薩がおられますが、その名称は固有名詞というより、修行者が悟りへ向かって修行する場合の方法論の違いというか、仏の世界の役職のようなものの違いで、ざっくりいえば、知性を高めて仏法を極めようとする高度な修行僧が文殊菩薩で、愛や慈悲によって衆生を救うことで修行を続ける高僧を観音菩薩と呼ぶのだと理解しています。ヨーガでいうジュニャーニャ・ヨーガが文殊菩薩の修行で、バクティ・ヨーガやカルマ・ヨーガが観音菩薩的な修行という感じでしょうか。
不動明王、孔雀明王など明王≠フつく仏は仏教に取り込まれたヒンドゥー教の神々の仏格で、如来の使者を指し、怒りの形相で描かれます。
帝釈天、弁天、梵天、毘沙門天など天≠フつく仏は六道輪廻の最上部である天界に属する神人で、この方々もヒンドゥーの神々の仏教的な仏格ですが、人間から見ればほとんど神のような存在ですが、六道輪廻に取り込まれて解脱をはたしていないため、その寿命は何百億年というすさまじい長寿ですが、その寿命は有限です。
明王や天の位は、いわばヒンドゥー教と仏教の派閥争い的な大人の事情で出来上がった尊格ですから、それほど気にしない方がいいところかもしれません。梵天はヒンドゥー教では宇宙三大神の一柱であるブラフマーですし、大黒天もヒンドゥー教の三大神の一柱シヴァ神の異名ですから、あきらかに仏教界隈がヒンドゥーの神々を格下に見てるような政治的な視点を感じてしまいますし、このあたりはまさに本質ではない大人の事情ととらえておくのがよいのかもしれませんね。
六道輪廻の世界
上で輪廻とは、死んでも苦≠ゥら逃げられないという絶望であるという話をしましたが、いや、そうは言っても人生は苦しいことばかりじゃないし、そこそこ楽しいこともけっこうあるし、という方もいらっしゃるかもしれませんし、たしかに人間と一口にいっても豊かな先進国に生まれ容姿やお金に不満もない人もいます。しかし、どんなに恵まれた環境で暮らしている人でも、生老病死というすべての生命に課せられた苦からは逃れられません。また、そもそも輪廻の中で人間に生まてくるというのはそんなに簡単なことではなく、お釈迦様が人間に生まれ変わることの希有さを亀に例えて話されたとされる「盲亀浮木(もうきふぼく)」という寓話があります。
盲亀浮木とは以下のような話です。海底の奥深くを泳いでいる盲目の亀が百年に一度だけ空気を吸うために海面に上がってくるのですが、この亀が海面に上がったときに、たまたま浮かんでいた穴の空いた流木のその穴の部分にちょうど亀の頭がスッポリとはまるくらいのレアな確率が、私たちが人間界に誕生できる確率に等しいのだ。という寓話です。広大な海のどこかに浮かんでいる流木の穴にたまたま百年に一度浮かんで来た亀の頭にハマる確率、まぁ、ほとんどゼロに等しいということです。実際に計算した人の換算では、114京9286兆4919億5633万3945年に一度位の確率になるそうです。つまり、輪廻の輪の中で自分が人間に生まれてくるという奇跡が起きるには、この宇宙の寿命では全然足りないほどの希少な確率ですね。一説にはこの宇宙の寿命は約1400億年とされていますが、そうするとひとつの宇宙の一生だけでは全く足りず、宇宙が生まれて死んでまた生まれて・・・と次々と宇宙の歴史を700万回以上くり返してやっと一回だけ人間として生を受けることができる※ということになります。だからこそこの貴重な人生の中で善いカルマを積んで輪廻そのものから脱出しなければならない、というのが仏教の教えなのですね。
少なくとも六道輪廻の人間界やそれより上の世界なら万々歳※ですが、盲亀浮木の確率が大げさだとしても、そのくらい人間に生まれるだけでもかなりのレアケースっぽい感じもしますし、逆に人間以下の世界は解脱のために修行できるような余裕すらない苦痛に満ちた世界なので、絶対行きたくない世界ですね。この世の物理法則も、下に落ちるのは何もしなくても重力で簡単に落下しますが、上に浮かんだり飛んだり昇ったりするのは意識的な努力や体力や知恵などが必要な困難さがあります。この世も他の世界も全く別個の法則の世界なのではなく、それぞれ境界のあいまいな連続した世界でもあり、この世の物理法則も、おそらく霊的な法則が粗雑化したものなのかもしれません。
そういえば、先日精神世界系の動画を見ていて、面白い解釈をされている動画があって感銘をうけたので少しそれについて話してみたいと思います。いわく、六道の概念も、実際は六つの世界がそれぞれ独立してるというよりは、あいまいに連続して繋がっているのだ、という見方です。畜生道はつまりこの世界にいる動物や虫などのことで、近い世界なので人間界の生物(つまり我々)にも普通に見える世界だということです。さらに下の餓鬼道の生物は、いわゆる幽霊のことで、霊能者などの特殊な人がギリギリ察知できる世界※ですが、2段階下の世界なのであまりハッキリと把握できない世界です。さらに下の地獄は下過ぎて人間には感知できない世界です。逆に上の世界も、精神性のよほど高い人は天使や六道の中の天界に住む神々が見える場合があるということでした。けっこうしっくりくる考え方ですし、たしかに真相に近いような気がする考えなので、私も「そうなのかも」と思っています。
脚注部分の追記2024/12/13
※六道輪廻の人間界やそれより上の世界なら万々歳〜
生前の悪行のカルマによって死後に行き着く六道の下位の世界(地獄、餓鬼、畜生)を「三悪趣(さんあくしゅ)」と言い、逆に六道の上位の世界(人間、修羅、天上)を三善趣(さんぜんしゅ)と言います。天上界に生まれても寿命が尽きるとそれまでのカルマで下の世界に落ちることもあり、地獄ならなおさらひとつでも上の世界に行きたいものです。この輪廻から解脱するのは易しいことではないので、まずは、少なくとも三悪趣に落ちないようにするのが目標ですね。まぁ、これも盲亀浮木の例えが本当なら次の生が人間界になるだけでもけっこうハードルが高そうです。キリスト教でも、マタイの福音書に「金持ちが天国に行くのはラクダが針の穴を通るより難しい」と書いてますから、天界もあまり簡単に行けるところではなさそうな感じですね。
とはいえ、伝統宗教のそのような厳しい死後観だけでなく、スウェデンボルグやシルバーバーチなどの近代以降のスピリチュアルの思想では、よほどの悪業を積んだりしない限りは人間界レベルへの転生か、あるいは自分と同レベルの人間が住んでいる霊界に行く、みたいな感じなので、ちょっと安心します。まぁ、生きてる間はわからない世界のことなので、楽観的すぎるよりも多少厳しめに考えていたほうがなまけずに済みそうですが。塵も積もれば山となる と、ことわざにもあるように、とりあえずは、できる範囲で昨日よりも一歩でも前に魂を向上させるくらいを目標に、小さな徳を積んでいくことが大事かもしれないですね。
※餓鬼道の生物は、いわゆる幽霊のこと〜
よく仏教美術で描かれる餓鬼の図は、ガリガリに痩せて腹だけ膨れた亡者が石ころをガツガツ食べている様子が描かれていますが、これは、常に飢えていて食べ物だけでは全く足りずに石まで食べてしまうという貪欲さを描いています。餓鬼界は、尽きぬ欲望と永遠にそれを得られない苦しみの世界です。とあるオカルト系の動画で、霊能力を持つ方が、「仏壇やお墓に食べ物をお供えすることは幽霊にとって意味があるのか?」という質問に、面白い回答をされてたのが印象的でした。いわく、幽霊は物質界の住人ではないので、食べ物は基本食べなくても大丈夫だが、生前の記憶から、食べる楽しみを味わいたいという欲はあるみたいで、お供えものを食べることはできるが、ただ味がなく、満腹感などの満足がまるでない、ということでした。まさに、食べても食べても満足できないというのは、餓鬼界の特徴ですから、幽霊=餓鬼界に落ちた元人間という解釈は意外といい線いってるのかも、とその話を聴きながらなんとなく確信を深めた次第です。仏教美術で描かれるあの餓鬼の姿は、おそらく餓鬼界の特徴や性質を象徴的にあらわしているだけなのかもしれませんね。
脚注部分の追記 終わり
脚注の追記(2024/12/27)
※次々と宇宙の歴史を700万回以上くり返してやっと一回だけ人間として生を受けることができる〜
インドや中国の故事の例え話関係は、まさに白髪三千条的なおおげさで途方もないものが多いですが、この盲亀浮木もそうしたお国柄を反映した大げさなものなのだろうな、と最初は思っていました。しかし、宇宙論関係の本などを読んでいると、いや意外とそのくらい人間として生を受けるというのはありえないほどの奇跡なのではなかろうか?と気付かされます。人類の宇宙探索や天文学の急激な進歩で、いかに我々のいるこの宇宙がありえないほど広大であるかを考えてみたときに、それでもいまだに地球外知的生命体の発見には至っていないというのが現実です。ある星に生命が誕生するための条件は科学的に考えると、とほうもなく多くの微妙な条件が全て揃わなければならず、科学的視点で見ても、人間レベルの生命が宇宙に誕生する確率はそうとうにレアなものであるに相違無さそうです。まさに盲亀浮木レベルの希有な確率でこの大宇宙の片隅に奇跡的に条件の揃った惑星に我々は人間として生まれてきたのでしょうし、それは宇宙的なレベルの奇跡といえるかもしれません。さらに驚くべきは、人間の誕生する確率がそのくらいのレア度であろうということを、宇宙探査ロケットどころか望遠鏡すら存在しない紀元前5〜6世紀頃にお釈迦様は見通していたことですね。
脚注の追記終わり
阿弥陀仏とはどんな仏様?
如来というのは、いわゆるブッダと同義で、究極の悟りを得た者を指します。阿弥陀仏とは、お釈迦様とは別の如来(ブッダ)であり、大乗ではお釈迦様の師匠という位置づけのようです。お釈迦様が地球上の生命を救うブッダであるのに対し、阿弥陀仏は宇宙全ての生命を救う誓いをたてた絶大なパワーをもった如来で、その名を唱えて帰依する者の全てを極楽浄土に導くとされています。お釈迦様は実在が確定している人物ですが、阿弥陀仏はざっくり言えば究極の真理や悟りそのものを分りやすく擬人化された仏(法身)なので、おそらく解脱したブッダにしか正しく認知できない存在でしょうから、科学と合理主義に浸されている我々にとっては、確たる信仰心を持つにはかなり純粋で素直な心が必要になりそうですね。
そういえば、一般によく使われる「他力本願」という言葉の語源も阿弥陀仏を本尊とする浄土真宗の教えからきているようで、元来はよく使われる「他人任せ」というネガティブな意味ではなく、本来の意味は「そもそも人間は煩悩にまみれていてるせいで自力ではいかなる善もなし得ない。 だから解脱した仏の力他力≠ノよってしか救われない※」という意味のようです。つまり、「四の五の言わず仏を頼りなさい!」ということなのでしょう。
※自力ではいかなる善もなし得ない〜
宗教の信者じゃなくとも、人に親切にしたり、人を窮地から救ったりする善意の人はいくらでもいるじゃないか?と思うかもしれませんが、そういうことではなく、他人に親切したり救ったりする行為も注意深く掘り下げると、感謝されたいから、あるいは、自分が気持ちよくなりたいから、好ましい人だから、といった様々な微細な利己心のノイズが何かあるはずで、そういう意味では、内面的な潔癖さまで備えた完全な善行というのはなかなか難しい、ということだと思います。カバラの教えでも人間は本来的に純粋な善行を行うのは不可能である、という思想がありますが、だからこそ、究極の至福へ至るための完全な善を行うには、神や仏といったこの宇宙の根底に偏在する究極の存在からの助けが絶対に必要なのだ、ということなのでしょう。まぁ、完全な善行以外は意味がない、ということではもちろんなくて、解脱という究極の目標にたどり着くための条件であって、俗人の我々には、たとえ小さな利己心がまぎれた善行でも充分素晴らしいことには違いなく、この世界がより良くなる小さな種に他ならないというのも事実だと思います。