2023年01月30日

放浪画家、山下清との一夜

放浪画家の山下清画伯については、ドラマ化されたことでも有名でご存知の方も多いでしょう。私は芸術に興味はあるものの、以前は主にダリやデルヴォーなどのシュルレアリスムをはじめとした異端の美術ばかりに興味を惹かれていたので、山下清やルソーのような素朴でピュアな美術はあまり興味がなく、大ヒットしたドラマのほうもほとんど見てませんでした。そうした中、先日の古本市で何万冊もの本の中から、お坊さんが著者らしい仏教関係のエッセイ本をなにげなく手に取ってページをパラパラめくっていたら著者が山下清と会った時のエピソードを数ページだけ紹介していた部分が目にとまり、数行読んだだけでハッとさせられる内容でしたので思わずgetしてしまいました。その本は『道〈みち〉─本当の幸福とは何であるか─』(高田好胤 徳間書店 昭和45年)というものです。

あとでウィキで調べてみると、著者の高田好胤(たかだこういん 1924年[大正13年] - 1998年[平成10年])とは、法相宗の僧で、分かりやすい法話により「話の面白いお坊さん」、「究極の語りのエンタテイナー」とも呼ばれ、薬師寺の再生に生涯をささげた、とありました。

古本市で出会った件の本に紹介されていた著者と山下清との邂逅のエピソードを読むと、著者の好胤と山下清が出会ったのは一晩限りだったようです。しかしとても興味深い内容です。著者は出会った人を一瞬で魅了する山下清の人間力の一側面を見事にすくいあげて紹介しています。エピソードはわずか数ページですが、さすが山下清画伯、ドラマ化されるだけあって、絵の魅力だけでなく、人としての魅力がハンパない人物なのだなぁ〜と感心させられました。絵画作品のほうもちゃんと見てみたくなりましたし、ドラマのほうもこれを機会に全話みたくなってしまいました。

素朴さ、純粋さというものは誰の中にもある───ということを考えるとき、私は例の放浪の画家といわれている山下清さんのことを思い浮かべるのです。私とはわずか一夜のつきあいでしたが、そのときむしろ私のほうが教えられ、一種の感動をおぼえましたので、その一夜の模様を書いてみたいと思います。もう数年前になりますが、ある日の夕方、私が寺へ帰りますと、寺の世話をしてくれているお婆ちゃんが、「新館のほうにルンペンみたいな人が来てはりますのや」といいます。事情を聞きますと私の懇意にしている新聞記者の青山君がつれて来たのだそうで、「この名刺を渡したらわかってくれるはずだ」といって名刺をおいていったというので、それを見ますと「流浪の画家山下清をおつれしました」というようなことが書いてあります。「お婆ちゃん、その人、有名な人やで」「有名かなんか知らんけど、汚くて気持ち悪うて」と、お婆ちゃんはいうのですが、私が行ってみましたら、まぎれもなく写真などでよく知っている山下清さんがおりました。

(『道〈みち〉─本当の幸福とは何であるか─』高田好胤 徳間書店 昭和45年 p114-116)

その時の山下清は絣(かすり)の着物を着ていたそうです。山下は好胤をずっと「おじさん、おじさん」と呼ぶので、歳を聞いてみると山下のほうがひとつ年上でした。あんたのほうが年上だよと教えても、おじさん呼びが気に入ってしまったようで、別れるまで好胤のことをずっとおじさんと呼んでいたそうです。見てくれはホームレス風の身なりながらすでに全国的に有名な放浪画家だった山下清、どことなく以前記事にも書いた「竜宮童子」の昔話を彷彿としました。竜宮童子もまた洟をたらした汚い身なりながら、あらゆる富を望むままに出現させることができる神通力を持った子供でしたね。人は見かけで判断してはいけないという教訓をそのまま生きた山下清という人物になんともいえない魅力を感じます。

そういえば、またフト思い出しましたが、ここ最近漫画家の土田世紀先生が気になって、いろいろ読んでいた中に、『同じ月を見ている』という作品があります。この作品がちょうど今回の山下清を彷彿とさせる主人公が活躍する物語で、素朴で正直でピュアすぎるゆえに世間の汚い部分をうまくすり抜けて生きる要領がつかめずいろんな苦境に巻き込まれていく話です。山下清を思わせるピュアな天才画家の波瀾万丈の物語でとても感動しました。ストーリーの流れ的には土田版『愛と誠』みたいな印象もあり、土田先生の心酔している作家、宮沢賢治のニクイ引用など、読み応えがありました。映画化もされたようですが、いずれ機会があれば見たいですね〜

「外は外なのか?」というようなことを山下清さんはいきなり聞いてきます。どういう意味かよくわからないながらも、「そうや、外は外や。外には塀も何もあらへんのや」と私が答えますと、部屋の隅の何か盛り上がっている座布団を指し、「あ、あれがぼくのリュックサックだ」という。座布団でリュックサックを隠しているのだというのです。「なんでそんなことをするのや。あんたのリュックサックなら、おそらく汚いもんやろうから、誰も盗みはせん。それをあんなふうに隠しておくと、かえって何ぞ大事なもんでも入ってるんやないかということで、中を探そうという気持ちになるやないか」と私はいい、さらにこういったのです。「大体、あんたが人を疑うから、人があんたを疑うんや。そう思わへんか?」「そ、そうだね。ぼ、ぼくが疑うから人がまたぼくを疑うんだね」そういって非常に素直に相づちを打つのです。それからいろいろな話をして、四、五十分たったころだと思うのですが、彼は突然、福島県の平(たいら)の駅で盗難にあったことがあるといいました。そして、それを見ていたある人が、「油断したらだめよ」と教えてくれたということです。そのことを思い出して彼はこういうのです。「ゆ、油断してはいけないということと、ひ、人を疑ってはいけないということは、た、大変むずかしいね」私はそれを聞いてはっと思いました。彼は私のいうことを聞いて、私の忠告がすっと自分の心の中に入ったと思うのです。ところが、何年か前に平駅で聞いた忠告もすっと素直に入っていた。そこで心の中で私の忠告が前の忠告にポンとぶつかった。普通ならそこで「だ、だけど、おじさん………」と反論してくるわけですが、山下清さんはふたつの忠告の矛盾を「大変むずかしいね」と表現しました。私はそのとき、人を信じることのむずかしさということを山下清さんから逆に教えられたように思いました。

(『道〈みち〉─本当の幸福とは何であるか─』高田好胤 徳間書店 昭和45年 p116-118)

矛盾したことを言ってくる他人に、混乱して腹を立てたり、矛盾を指摘して皮肉を返したりせず、「大変むずかしいね」と返すのが素敵ですね。今は答えがわからなくても、その矛盾の中に矛盾を超えた真理があるかもしれない。矛盾がなくなるようないい答えがあるのかもしれない。という気持ちが「大変むずかしいね」の言葉の奥にあるような気がしてきます。そのような山下清に対し、下手に言い訳じみたことを言わず素直に脱帽してみせる好胤の潔さもあいまって、微笑ましいエピソードですね。

調べてみると、著者の高田好胤は話術にも長けていたそうで、人間国宝にも認定された落語会の巨匠、3代目桂米朝もその話術を参考にしていたようです。米朝と好胤は懇意な付き合いもあったようで、そのあたりの逸話もウィキに書かれていて面白かったです。好胤の宝物であった床の間の掛け軸がいたく気に入ってしまった米朝は、好胤にゆずってくれと懇願するも「誰であっても譲れない」とかたくなに断ったそうです。米朝はそこで「本来無一物。これが僧のあるべき姿では」とたたみかけたところ、さしもの好胤も返答に困ってしまい、しぶしぶ譲渡に応じたとのこと。本来無一物(ほんらいむいちもつ)とは、仏教用語で「事物はすべて本来 空 (くう) であるから、執着すべきものは何一つない」という意味です。さすが落語界の大家、洒落た返しですね。好胤さんほどの人でもモノへの執着というものがまだあったのだなぁ、と考えさせられるエピソードです。それほどに執着という煩悩を滅するというのは本職のお坊さんでも難しい課題であるということでしょう。

それから、私は山下清さんにある雑誌を見せてやりましたが、雑誌のグラビアを眺めながら彼はこんなことをいうのです。ここに勲章をつけている人といない人がいるけれども、勲章をつけていないほうが大変偉そうに見える。勲章をつけているほうが偉いはずなのに、なぜそう見えるのだろうか、という疑問なのです。誰のことをいっているのだろうと私がその雑誌をのぞいてみますと、勲章のないのは大正天皇で、勲章をつけているのは山県有朋(やまがたありとも)でした。私たちは勲章をつければ偉いという見せかけの権威を信用しがちですが、純真な心で見れば本当に偉いのは誰かということがわかるものです。勲章だけにかぎりません、むやみに金バッジをつけたがる人、名誉職につきたがる人───中身の無い者ほど外側を飾ろうとしているのだということだろうと思います。

(『道〈みち〉─本当の幸福とは何であるか─』高田好胤 徳間書店 昭和45年 p118-119)

これなども山下清がタダ者ではないことをうかがわせるエピソードですね。勲章をつけて雑誌の写真に載っていた山県有朋(1838-1922)はウィキによると、最終階級・称号は元帥陸軍大将。位階勲等功級爵位は従一位大勲位功一級公爵。内務卿(第9代)、内務大臣(初代)、内閣総理大臣(第3・9代)、司法大臣(第7代)、枢密院議長(第5・9・11代)、陸軍第一軍司令官、貴族院議員、陸軍参謀総長(第5代)を歴任した、とあり、写真を見ても髭をたくわえていてお札の肖像になってもおかしくない立派な風貌をしています。しかし山下清は勲章のない人(大正天皇)のほうが位が上だと一瞬で見抜いています。山下には見えているものの奥まで見通す勘が鋭かったのでしょう。あらためて山下のちぎり絵の作品など見てみますと、その表現の中に、ものの本質を見る霊眼のようなものを感じますね。

それから寝る段になって、「あんた、明日はどこへ行くのや?」と聞いてみましたら、「あ、明日のことは、わ、わからないね」私はその言葉で胸を突かれたような気がして、青山君と顔を見合わせていますと、「お、おじさん、ぼ、ぼく、へんなことをいったのかな?」「いや、明日のことはわからない、というようなことはよほど悟った人でないといえることではない。あんたは偉いことをいう人やと感心しているのや」「そうですね」と青山君も表情をひきしめていいました。すると、「あ、明日のことはわからない、ということが本当にわかっていえる人は、な、何人の中に何人ぐらいいるだろうな?」と彼のたまわくです。まったくおそれ入って、青山君と顔を見合わせてばかりいました。

(『道〈みち〉─本当の幸福とは何であるか─』高田好胤 徳間書店 昭和45年 p121-122)

「明日のことはわからない」、ある意味、そんなに感心するほどスゴイ言葉なのか?と一瞬思いがちになりますが、たいていはこういう場合、本当にまだ予定がたってなくても、その場で適当にどこそこに行くかもしれません、と言うか、あるいは、「どうしようかな〜、どこに行こうかな〜」と考えこんだりしそうで、「わからん」と即答するのも、わからないことに引け目を感じず、わからないという心に自信を持っていないと言えない言葉だなぁ、と、時間差で感心してしまいました。さらに、その回答に感心する言葉に増長するでもなく、「明日のことはわからない、ということが本当にわかっていえる人は、何人の中に何人ぐらいいるだろう?」と、ラーマクリシュナばりの深遠な言葉をサラリと返すところもすごいですね。かっこつけようとして言ってるのではなく、そういう言葉が自然にスッと出てきた感じなのでしょうね。

「明日のことはわからない」。言葉のうえではなんの変哲もない平凡な言葉にみえますが、この言葉は漂泊を人生の住処にした山下清が言うと特別な意味がでてきますよね。私たちは、明日のことがわからないから不安になったり心配したりすることが多いものですが、山下清にとってはむしろ明日のことは明日にまかせて、今は今を生きていれば良いのだ、といった悟りのようなものがありそうに思えてきます。「明日のことはわからない」というのは、スケジュールとか時間に縛られない自由の中で芸術を生み出してきた山下だからこそ出てくる彼にとっては至極当然の反応だったのでしょう。続けて放った「明日のことはわからない、ということが本当にわかっていえる人は〜」の言葉は、まさしく、そうした境地、つまり明日の予定など立てずに自由に人生を旅する自分のような人間の仲間はこの世にいったい何人くらいいるんだろうな、という素朴な疑問だったのかもしれません。

精神薄弱と私たちはいいますが、私は山下清さんとすごした一夜の経験で、むしろ私たちのほうが障害者なのではあるまいか、としばしば考え込みました。知識の程度は劣っているかもしれないが、心という点に関してははるかに山下清のほうが健康で清浄です。たった一夜ではありましたが、山下清さんと過ごしてみて、私は人間の善意というものに自信を持つことができたように思います。しかし、山下さんが「ぼくは能力が弱いだろう、だから………」ということをいったときには私は叱りました。「ばかなことをいうものではない。あなたが絵を描けば多くの人が大変感動するやないか。私が絵を描いても歌をうたっても、どれだけの感動を人に与えることができるか。君のように素晴らしい能力に恵まれている人なんか、そうざらにあるものではない。能力が弱いなんて、そんなことをいったらバチがあたる。もったいない。お母さんに申し訳ないよ」そんな私の言葉を、彼は、「うん、うん」とうなずきながら素直に聞いてくれたのです。

(『道〈みち〉─本当の幸福とは何であるか─』高田好胤 徳間書店 昭和45年 p123-124)

この部分では、半世紀前に書かれた本なので、現代の倫理基準では配慮が足りないように思える言葉もいくつか出てきますが、そうした部分は真意をくみとって読んでいただければと思います。聖書の一句にも「あなたがたみんなの中でいちばん小さい者こそ、大きいのである(ルカによる福音書 第9章 48節)」とありますが、まさに真理ですね。この聖句は、みんなが軽んじている者ほど実は霊的にはみなより偉大なのだ、という意味だけでなく、最も軽んじられている人の中にいる神を見いだし、慈しむことのできる人間であれ、ということでもあると思います。山下清の弱音に対して、馬鹿を言うな!あなたほど才能に恵まれている果報者などそうそういないではないか!と鼓舞する好胤もまたカッコイイですね。人々に愛された放浪の画家、山下清は1971年(昭和46年)7月12日、脳出血のためわずか49歳という短い生涯を閉じましたが、この高田好胤和尚の一喝は山下にとっても忘れられない宝物になったのではないではないかと感じます。


メモ参考リンク


posted by 八竹彗月 at 06:41| Comment(0) | 芸術
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