シュヴァンクマイエルとファウストについての雑感
ヤン・シュヴァンクマイエルの才能は底知れないですね。クレイアニメの映像作家という枠だけで語りたくない、芸術家として語るのもまだ足りない、もっと自分の根源的な部分と結びついた愛着を勝手ながら感じています。「ああ、自分はこういう表現がしたかったんだ」「こういうものが見たかったんだ」というものを次々に具体化して見せてくれる心地よさがあります。デーモニッシュでグロテスクな、少々ショッキングなモチーフを愛用しつつも、ホラーというのとは違った、自分の潜在意識の奥底にある善悪とか美醜とか、まだ近代的な人間の価値観が定まっていないような人間の根源的な心象風景のようなものを感じ、不思議な郷愁感を感じるところがありますね。
初期の短編作品でハマってしまって、断片的にコレクションしてましたが、そうした中でDVD BOX『ヤン・シュヴァンクマイエル コンプリート・ボックス』が発売され、躊躇無くポチッたものでした。私の性分として、買ってしまうと満足してしまってそのまま何年も寝かせてしまうことがよくあります。本もけっこう積読率が高いのですが、このシュヴァンクマイエルのBOXもそうで、まだ全部は見てません。一体いつ頃購入したのか気になって購入履歴をチェックしてみたらなんと2008年でした。
ファウストというと実際に15世紀頃にドイツに実在していた魔術師ですが、ゲーテの有名な作品だけでなく、クリストファー・マーロウによる劇作など、なにかと表現のテーマに取り上げられることの多い題材だったようですね。教会の影響力の強かった時代において、悪魔と契約する魔術師ファウストを、単なるアウトローとしてだけでなく、叡智を求める探求者として肯定的ともとれる描かれ方をしたファウスト譚の流行は、キリスト教的な常識が支配する社会に新たな価値観をもたらし、ヨーロッパの自我の芽生えとして評価されてもいる、と解説に書かれてました。なるほど、西洋人の視点からすると、ファウストというのは、そうした意味もあるんですね。
私も、実在の魔術師ファウストのほうは、オカルト文献やドイツ文学者金森誠也さんの著書『霊界の研究』(PHP文庫 2008年)などで概要を知ってたので、いずれはゲーテの作品のほうも読んでみたいと思ってたところでした。なんどか古本市でも旧仮名遣いのゲーテの『ファウスト』を見かけて買おうかどうか何度か迷ったことがあるのですが、どうせ買っても積読だろう、となぜか毎回スルーしていたのでした。(ちなみに『霊界の研究』は、タイトルのスピっぽさとは逆に、スウェデンボルグからプラトンやカントなどの考えた霊界的な異世界にも多く言及されていて、読み応えがありました)
そういえば、手塚治虫も『ネオ・ファウスト』という作品を描いてますね。こちらもまだ未読ですが、wikiでは『ゲーテの『ファウスト』を題材に、舞台を高度経済成長期の日本に置き換えたオリジナルストーリーである』とのことで、奇しくもこれからレビューするシュヴァンクマイエルの『ファウスト』と似た切口で現代との関連性の中でファウスト譚を再構築しているような感じみたいで、今度は手塚版ファウストも読んでみたいですね。
あと、思い出すのは江戸川乱歩の少年探偵団をモチーフに、少年を少女に置き換えた推理ゲーム『御神楽少女探偵団』にも、劇場を舞台にした事件(たしか「太白星」というエピソード)で、ゲーテのファウストが取り上げられていましたね。まぁ、とにかく、難しそうだけど、そのうち読んでみたい気になる古典のひとつがゲーテの『ファウスト』でしたので、いきなり原作を読むより、ファウストを題材にした映画などで耐性をつけてからゆっくりチャレンジしようか、ということで、シュヴァンクマイエルの『ファウスト』を見てみることにしたのでした。
シュヴァンクマイエル大好きではあるんですが、アートシネマというのは鑑賞するときに気合いが要ります。まぁ、アートシネマか大衆娯楽映画かという線引きなど本当はどうでもいいことなのかもしれませんね。結局、自分にとって面白いかどうかだけが大事なので。宮崎駿監督の名言「大事な事っていうのはたいてい面倒くさい」というのがありましたが、鑑賞する側にもいえて、自分の肥やしになるような良い映画ほど気軽に鑑賞させてくれない所がありますね。当てはまらない作品も、もちろんありますが。
シュヴァンクマイエルの『ファウスト』
2008年からずっと寝かせていたDVDがやっと再生されることとなったわけですが、ということはこれを今日見たということは、奇しくも13年目。なんともはや、この西洋的な縁起の悪さもファウストの鑑賞という意味では逆にちょうどいいというか、ふさわしいタイミングっぽくもありますね。(ちなみに個人的には、13の数字にいちいち不吉を感じるのはストレスなので、13は日本では十三(とみ)、つまり富だッ!景気のいい数字だッ!≠ニ自己暗示っぽい定義をしています)
ということでいよいよ『ファウスト』のレビューに入りますが、結論からいいますと「面白い!すごい!」という感じでした。とくに爽快なシーンとか、感涙するようなシーンがあるわけではないのですが、映画を見てる間中、ずっと自分の心の中を覗いているような、神話の世界に入り込んだような、シュヴァンクマイエルの魔法にかけられてずっと夢を見ているような不思議な感覚に襲われました。真面目にストーリーを追おうと思って見ると難解に感じてしまいそうになりますが、シュヴァンクマイエル作品というのは、基本的に、その世界観に身を委ねて映像の魔法に酔いしれることが面白さのメインなので、次々と繰り出されるアイデアの奔流を目で追いながら、ひたすら感心しつづけているうちにあっという間にエンディングを迎えてしまいました。確かめると1時間37分の作品ということですが、こういう系の実験映画で時間を忘れるほど引き込まれてしまうということは、「やはり自分はシュヴァンクマイエル大好きなのだ」と再確認できたようでちょっと嬉しくなりました。(そのわりにまだBOX全部制覇してないという)
まず最初に現代のプラハの街が映され、「あれ?これファウスト≠セったはずでは??」という軽いジャブをくらいました。「ああ、そうか、ファウスト譚を現代に置き換えて再解釈する系の感じね」と、なんとなくタネがわかったつもりになり、それほど期待する事も無く、でもあのシュヴァンクマイエルなのだから、とりあえず見ておいて時間の無駄にはならないだろう、というくらいの気持ちで見始めました。しかし、それは甘かった。天才の表現力というものを侮っていた。これは傑作といっていいレベルの作品だったのでした。
まず、この作品の主人公は、毎日をただ生きることだけに追われる、とくに刮目すべきところがない冴えない中年男です。と、同時に悪魔に魂を売って宇宙の真理を知ろうとするファウスト博士そのものでもあり、また人間ですらないマリオネットでもあります。舞台は雑踏の行き交う現代のプラハの街であり、同時に怪し気な地下劇場でもあり、同時に地平線が見渡せる平原でもあります。「夢と現実が交錯する」みたいな表現方法ってありますが、この作品ではさらに度を超して、夢であると同時に現実であり、その境界も区別もない、混沌とした描き方をしています。それでいて、現実と虚構がきちんと映像的にアナロジカルに結びつけれてているので、言うほどややこしい感じは受けません。むしろ、そういう見せ方をするからこそ、シュヴァンクマイエルのニヒリスティックでありながらもどこか本質を突いた哲学が作品を通して訴えかけてくるところがあります。
起きている出来事が、地下劇場の舞台の上の出来事だったと思えば、いつのまにか現実の街中で起きている最中の出来事に変わっていたりと、まるで夢の中で起きている出来事のような描き方がとても面白いです。もしかしたら、人生そのものも、ひとつの演劇のようなものなのかもしれない、いや、そうではなく、ひとつの演劇を実際の自分の人生だと勘違いして生きている自分自身に向けた皮肉がこの作品のメッセージなのではないか?などといろいろ考えさせられました。
中年男のファウスト博士が究極の知恵を得るために召還する悪魔、メフィストフェレスはその召還者たる中年男と同一の顔で出てくるところも意味深で良いですね。ドッペルゲンガーを意味しているのか?とか、悪魔は自分自身の心に潜んでいるということの暗喩なのか?とか、いろいろ解釈はあると思いますが、私はこれはシュヴァンクマイエル監督の哲学的な皮肉なのではないか、と思いました。究極の秘密を尋ねる相手が自分自身であるという。まぁ、結局、本当の秘密というのは、自分とは何者なのか?という謎の背後に隠れているものなのでしょう。
この作品では、人間と人形(マリオネット)が入れ替わりながら話が進んでいきます。マリオネットを操る傀儡師(くぐつし。人形を操る人の意)の手が何度も映るのですが、結局傀儡師自身は最後まで裏方のまま姿を見せずに終わります。これも実に面白いですね。マリオネットを操っている傀儡師は、運命とか、神の暗喩なのでしょう。人形も人の手で作られたものではなく、どこからともなく地の果てから転がってやってくる不可解な物体として描かれてますし、傀儡師もマリオネットを操ったり、雷の効果音をブリキ板を震わせて鳴らしたりしてますが、手だけしか出てこないので、実体のない異次元の存在のような雰囲気を醸し出しています。
シュヴァンクマイエル作品の惹かれるところというのは、東欧独特の「心象風景がそのまま物体化したかのような街の色」を上手く表現していて、遠い神話の世界にリアルに没入していく非現実感を体験させてくれるところですね。
寺山修司と市街劇
主人公の中年男は、自分の退屈な日常から、街中で手にした奇妙な地図に案内されて、不思議な地下劇場に迷いこみ、いつのまにかファウスト博士そのものになっていきますが、このくだりの流れは、寺山修司の代表的な前衛劇『ノック』『人力飛行機ソロモン』などの「市街劇」のアイデアを思わせますね。市街劇とは、文字通り劇場ではなく普通の市街でそのまま行う演劇スタイルで、街の空き地や銭湯の湯船の中で突然劇が行われるという前衛的な表現です。市街劇『ノック』では、地図を手渡された客は、地図を頼りに、アパートの一室や公園など、市街のあちこちで起こる演劇≠ニいう名のハプニングを体験するというユニークなものだったようです。寺山いわく、市街劇とは、演劇を劇場という名の牢獄から解放するための試みであり、また、我々の日常生きているこの生活の場こそ人生という演劇の舞台そのものではないか?というのが市街劇の哲学的背景です。1975年4月19日午後3時から4月20日午後9時にかけて、30時間市街劇『ノック』が上演されますが、観客にとっては演劇には違いないものの、関係のない一般市民にとってはわけがわからない異常な状態でもあり、案の定、市民からの苦情がきて警察が介入する事態になったようです。まぁ、そうしたハプニングも含めて寺山修司の武勇伝のようなところがありますが、突拍子も無いアイデアを思いつくだけでなく、実行してしまう行動力も手伝って伝説化してしまった感がありますね。
『ファウスト』でも、地下劇場の人形劇のシーンでファウストの助手役の人形が、悪魔に対して悪魔を呼び出す呪文と追い払う呪文の両方を交互に唱えるというイジワルを仕掛ける事で、悪魔が舞台と、劇場の外の市街を行ったり来たりと慌ただしく往復する描写があります。また、中年男が野外カフェでテーブルに穴を開けて、穴から出るワインを飲む場面など、現実と演劇的な状況が交錯してる様子を描くシーンがいくつもあって、文献やビデオなどで片鱗しか見た事の無い寺山修司の市街劇も、こんな感じだったのだろうか?などと考えながら鑑賞していました。
あと、唐突なお色気担当のバレエダンサーの集団もユニークですね。とくに意味は無いけどセクシー感が欲しい!という感じで挿入されてるような雰囲気がたまりません。こういう計算外のようなシュールシーンもシュヴァンクマイエル作品の好きなところで、『オテサーネク』でも、アパートの階段で意味なく少女のパンチラシーンがあったのを思い出します。意味は無いけど、じゃあ、あのシーンを削ってもいいのかと言われれば、けっこう印象深く、シュヴァンクマイエル監督のフェチっぽいエロスの感覚というのがああいったシーンで独特の味わいを醸し出しているので、絶対必要なシーンでもありますね。
せっかくなので孔雀の羽とか、近くに置いてあるものをいろいろ並べて撮ってみました。そういえば寺山修司も実験映像を集大成したボックス『寺山修司実験映像ワールド』がVHS版で出て、その後DVDでも再発されましたね。もしやこれも絶版か?と気になって検索してみたら現在では全4巻で単品でも買えるようでほっとしました。アートシネマといえど日本アートシネマの代表格のような人ですから、さすがにちゃんと今でもニーズがあるのでしょうね。
人形と人間
シュヴァンクマイエル作品は、短編作品時代のクレイアニメで一気に知られるようになりましたし、粘土の人形という意味では、今回のマリオネットも、シュヴァンクマイエルらしいアイテムといってもいいのでしょう。粘土のアニメーションとしての人形は、人間に似せて、人間にできない動きや変化を表現させるのが主目的ですが、今回のマリオネットは、民芸品のようなアルカイックな造形の人形を用い、あえてリアルでないことによって、人間に似せるのではなく、人間そのものの暗喩として機能させているような表現でしたね。人間であったのが、いつのまにか人形になっていたり、人形かと思っていると、かぶりものの中は人間が入っていたり、など、特撮とか前衛とか、そういうのとはニュアンスが違う、動物がしゃべったり、人間と神々が普通に交流するような世界、寓話や神話の世界のような、霊的な存在と物質的な存在の境界の無いような、不思議な世界観を映画という形で見事に構築していて、本当に唯一無二の才能だなぁと感心しました。
この映画の秀逸なアイデアは、奇妙な地図に案内されて行った先に、奇妙な人形劇の劇場があるという、ミステリー的というか、パズル的な仕掛けですね。地図に案内されて迷いこんだ主人公は、いつしかアイデンティティを失って、替わりにファウストを演じる役者だと思い込んでいき、いつしか、もはや役者でもなく、ファウストそのものだと信じ込んでしまうという流れも、なかなか不思議なムード感でよかったですね。
この怪しい劇場の雰囲気で連想するのは、『世にも奇妙な物語』でも映像化された諸星大二郎の短編『復讐クラブ』の地下映写室や、少女だけが集う森の中の学校を舞台にしたロリータで幻想的な映画『エコール』に描かれる、地下の演芸場で行われる少女のバレエ発表会、それに、ヘルマン・ヘッセの神秘的な寓意譚『荒野の狼』で言及される「魔術劇場」などです。それらはどれも自分の嗜好性にかなりの影響を受けた作家や作品ですが、そうした今までの嗜好の総集編的なニュアンスもこの『ファウスト』にはあって、それで引き込まれたところもあるのだと思います。
ヤン・シュヴァンクマイエルのコレクション。シュヴァンクマイエル全アイテムをコンプリートしてるわけではないですが、大好きなアーティストであることには違いありません。他にも絵本などの翻訳などもいろいろ出ていて、マニアックな作風ながらも意外と日本人受けする作家というイメージもありますね。私はコレクター気質はあると自分で思ってますが、コンプリート欲のようなものは希薄で、全集なども全巻揃えたいという欲求はあまりありません。欲しい巻だけ揃えるという感じのコレクターですが、それってコレクターというより単なる普通のお買い物なのでは?と自問自答する今日この頃。