2021年2月15日午後9時頃に見た夢のメモより
夢の中で電車に乗っている。夕暮れ。窓の外の流れる景色を眺めている。線路沿いの看板や遠くに見える住宅街。薄暗い街並が次々にガラスの向こうに過ぎ去る。「夢の中の景色は、こんなリアルな感じじゃなくて、もっとぼんやりしたものなんだよな。現実の景色がこんなにリアルで、夢の中が現実よりもぼんやりした曖昧なものである理由は、夢の中までリアルだと、それが夢であるのか現実なのか境界が曖昧になってしまい、区別がつかなくなってしまうからだろう。」と、夢の中で思っている。夢の中でこういうことを考えている自分も、まさか自分が夢をみている最中だというのに気付いていないところが面白い。明晰夢(夢を見ていることを自覚している夢)とはまた違った変わったタイプの夢である。夢の中の自分は、むしろこっち(夢の中)のほうを現実だと思っているので、荘子の夢とちょっと似ている。
夢の中で見ている車窓からの景色は、現実と変わらないリアルな景色だったように思う。たしかに夢の中では、現実とまったく変わらない程度にリアルな景色であったように感じていたのはたしかであるが、覚醒した後の意識では夢の世界の情報がだいぶ省かれてしまうせいか、起きてから思い起こす夢の景色は、なんだかぼんやりしているようにも思える。しかし、夢の中でははっきり見えてたような意識があったので、おそらく夢を見ている最中は現実と寸分違わない光景を見てたのではなかろうか?そもそも記憶というのはそういうもので、実際に旅行などで目にしたリアルな景色さえ、いったん時間を置いて記憶として再生した場合は、ぼんやりした曖昧なものになるのだから、夢でもそれは同様なのかもしれない。
夢の中に場面を戻すと、私は依然電車に揺られながら窓の外を眺めている。夕暮れの街並みが窓の外で夕陽に照らされながら過ぎ去っていくのをぼんやり眺めている。そうしていると、ふとあることに気付いた。「世界には昼と夜がある。光と闇だ。そして、昼の世界でも、光に当たっていない面は暗い。暗い部分は色調、というか色域が明るい場所よりも当然狭い。これは何でか?科学的な解釈ではなく、もっと根源的な意味でだ。つまり、この宇宙の創造主にとって、それがどんな意味を持つのか、だ。」私は何か、この宇宙に横たわる底知れない謎が、今まさに解明されていくような、すばらしい予感をうっすらと感じている。「そうだ。この世界に光と闇が存在する理由。そして、光の世界にも必ず影をワンセットで存在させている理由。」物理的な意味で考えても意味は無い。物理というのは、すでに出来上がった世界の仕組みを説明する概念にすぎない。ここで考えるべきものは、その物理の法則以前の問題≠セ。なぜ、この世界の物理を創造主がそのようにしたか?ということだ。言っておくが、私は宗教の話をしたいわけじゃない。創造主と言ったのは、つまり宇宙が発生する以前に、この宇宙の設計図を描いた者、という意味だ。こう書くと、擬人化した神が図面を紙に描いているようなイメージを想起させてしまいかねないが、わかりやすく言えばそういうことなのだ。科学の目指すのも結局は神の解明、つまりこの世界がこのように存在している究極の理由≠ネのである。
・・・話が逸れたので、元に戻そう。この世界に光と闇が存在する理由(わけ)をズバリ言おう、それは、描写のコストを抑えるため≠ナある。この世界は常に、目に見えているように、肌で感じているように、観察者(つまり私たち)によって計算されて描画されている。観察者のいない光はただのエネルギーであり、実際に光って≠「るわけではない。光っているように見えるのは、そのエネルギーの一部の波長を光として認識する我々のセンサーによってであり、脳がそれを光として解釈しているわけだ。我々にとって光は、この宇宙に物体を存在させるための媒介だ。我々の発生以前にも物体自体はあったが、存在≠ヘしていなかった。我々は宇宙にとって、物体を認識することで存在のリアリティを強固にするのが仕事なのである。しかし、個人の認識可能な範囲であっても、その認知するすべてを把握していたら大変なので、物体が光に当たってない部分は影を創る事にしたのだ。また地球という規模では太陽光に当たっていない部分を夜にすることで、ここでも大幅に計算を省くことができる。
夢の中の電車に揺られている私は、そんな宇宙の仕組み≠ノ関する空想をしていた。

電車に乗ってる夢ということで、往年のサウンドノベル『最終電車』っぽい感じの挿絵をつくってみました。『最終電車』は、異世界に運ばれていってしまうような最終電車の独特の情緒感が序盤中盤あたりうまく表現されていて、後半は超展開してしまうものの、雰囲気は出ていて面白かったです。
なんかヤバイ人の考えるトンデモ宇宙論みたいなうさん臭さを感じないでもありませんが、まぁ、夢の中というのはそもそもトンデモな世界なので、このくらいトンデモなほうが逆に夢らしい自由奔放さがあって面白いのではないでしょうか。理性の束縛から自由になった思考だからこそ、ときおり意外な収穫もあるのが夢の世界の面白さです。
ついでなので、夢の中で考えた奇妙な宇宙論の話をすこし考察していこうと思います。宇宙が現実に今のようになっている意図というのは検証しようのない領分ですから、夢の中で考えている理屈はまったく科学的ではないですが、どことなく「もしかしたら?」と思わせるアイデアでもあると思います。例えば、宇宙のほとんどの部分が闇である理由を考えてみますと、あまりに多くを光にさらすような宇宙では、(あくまで人間視点ですが)それらを存在させるための計算が膨大になりすぎるためとも考えられます。実際に我々がスパコンなどで宇宙をシミュレーションする場合と同じ理屈で、神が神コンピュータでこの宇宙をシミュレーションしていると仮定すると、似たような視点で解釈できると思います。
そういえば有名なホラーゲーム『サイレントヒル』では、発売当時はハードがPS1だったため、広いマップを頻繁に移動する時のCPUの描画処理の負担を軽減するために、街全体が霧に覆われているという革命的ともいえる秀逸なアイデアを用い、主人公の狭い視界(20〜30m四方くらい)より遠い景色は霧で真っ白にしてましたね。これによって、いちいち遠景を描画する必要がなくなり、かつ、視界が不明瞭であるためにホラー独特の怖さの演出にもなり、一石二鳥の天才的なアイデアだと感服したものでした。これもよく考えてみれば、そのシステムも含めてとても哲学的な示唆を感じます。つまり、この宇宙はサイレントヒルの街のように、真理へ到達するための道はどれも霧で曇っていて、どの道が近道なのか、あるいは遠回りなのか、またどの道が真理へたどり着けない袋小路になっているのか、などが解らないようになっている。というような。ヒットするゲームや映画などの娯楽には、真理をほのめかす要素が必ず含まれているものだと感じます。人間が面白いと感じるストーリーは古代から伝わる神話の構造に意図せず似てしまうという『神話の法則』の話もよく知られていますね。
夢の宇宙論の話にしても、サイレントヒルのシステムのように、この宇宙も、宇宙そのものを存続させるためのエネルギーなり、システム的な運用コストを抑えたりするようなはたらきがメタ的な部分であるのではないだろうか?というのが今回の夢で考えた仮説の主旨です。
つまりこの宇宙は、法則によって勝手に自動運転しているのでなく、そういう法則がそういうふうに運用されるのは、創造主が毎瞬そのように宇宙を維持するための念(のようなもの)を入れているからである可能性、また、物体などの存在しているもの≠ヘ、我々目線ではそれが存在しつづけるのは慣性というか惰性というか、ただそのままになっているだけのように見えますが、もし創造主が存在させるための念を常に発しているから、存在が許されて存在しつづけられているのだとしたら・・・。そういう可能性を考えると、存在しているものを存在させている間中、常に創造主側では労力が発生しているわけですから、労力をできるだけ軽減する仕組みが、この宇宙には同時に存在していてもおかしくはない、ということです。
夢の宇宙論の話に戻りますが、光の性質以外にも、この世界を神コンピュータが描画するために計算を楽にするような仕組みはいろいろあることに気付きます。例えば自然界の至る所に見られるこの世のフラクタル構造も、計算を楽にするための神のアイデアといえなくもありません。フラクタル幾何学を使えば任意の形状を無限に反復して増殖させることで、単純な図形からものすごく複雑な図形を生成することができます。フラクタル幾何学の概念を利用したCGでは、不定形の雲や岩や山などの地形を比較的簡単にリアルに再現することができます。(フラクタル幾何学の次元の概念も1.2次元だとか2.3次元など、線・1次元と面・2次元と立体・3次元の間にも無数の微妙な次元があって面白いですね)
また、この世界の物体を構成する元素もすべて原子と電子の組み合わせであり、超弦理論ではそれを構成するものも究極にはとても小さなヒモであるとされていますね。小さなヒモの振動の程度によって多様な素粒子を演じているだけで、根源的にはたったひとつの何かが怪人20面相のように、さまざまな仮面を付けて別々の粒子のように振る舞っているということで、これも実際に科学が行き着いた考えです。ビッグバン仮説も、そうした「この世界は根源的にはひとつであった」という、紀元前のインド哲学、ウパニシャッドでも描かれた世界観を科学的に解釈した説ともいえるように思えます。この世界は、シンプルな何かが、ある法則によって複雑な見た目を演じている、というのは、宗教家だけでなく、科学者でさえ抱いている直感でありましょう。
産業革命の時代には、世界を機械に例えた仮説が説得力をもって現われましたし、新しい発見や発明があるたびに我々はその宇宙観をアップデートしてきました。コンピュータが登場すると、世界をコンピュータに例えた仮説が様々に現われましたし、ホログラフィックの概念も宇宙論の仮説(『ホロン革命』アーサー・ケストラー著など)として引用されたりしました。こうした現代の技術革新と宇宙観のアナロジーは、たんなる思想的な流行というだけでなく、そこには時代の推進力によってアップデートされた一定の真理が含有されていると思っています。今回の「夜や影や闇は、情報量を省く宇宙の仕組みである」説も、コンピュータグラフィックの概念から類推されるSF的なアイデアですが、宇宙そのものが超コンピュータによって生成されたバーチャルイメージであるという仮説もあるくらいですから、もしかすると意外といい線いってる部分もちょっとあるかもしれませんね。そういうわけで、今回は夢の中で思いついた妙な宇宙論について記事にしてみました。
量子の世界も波であったりもつれであったり、およそ科学的でないという向きもありますが、霧の向こうは存在するのかしないのかすら観測出来ないサイレント・ヒルの主人公はまさにその世界にいて、私もあの主人公に無意識にシンパシーを感じてるんだなと思った次第です。楽しいお話、ありがとうございました。長文、失礼いたしましたm(_ _)m
今はゲーム自体あまりやってないのですが、サイレントヒルは1〜4までむかしプレイしました。精神に来る感じのホラーで陰鬱なところがあるものの、ハンス・ベルメールの人形をモチーフにしたようなクリーチャーとか、別の妙な次元(裏世界)に迷いこんだときの、同じ景色が鉄錆に覆われた異常な景色に変化するところなど、とても芸術的なところがあって惹かれました。2がとくに好きですが、3のゲームとしての完成度の高さや、4の「裏窓」や「マルコビッチの穴」などを彷彿とする異世界感の秀逸な表現など、いずれもシナリオやグラフィックの本気度が高くて鬼気迫るものを感じるシリーズですね。と、サイレントヒルの面白さについて書いてたら長くなりすぎたので、いずれ雑談的な記事でもっといろいろ書いてみようと思います。
量子論、わたしも数学的に納得するレベルでは理解してませんが、一般に知られている量子もつれやシュレディンガーの猫で有名な観測問題など、どこか禅問答の世界のようなパラドキシカルな感じにすごく惹かれます。科学もこのまま進歩すればオカルト的な領分まで一定の知見をもたらすのではないか、と期待がふくらみますね。量子論の一番興味深いところは、観測問題のような、人間の思考とか感情のようなものが物理的に影響を与えるかのように見える世界観です。このあたりは、いろいろ思考を深めていくと面白い世界ですね。
サイレントヒルシリーズは、クリーチャーの設定も、バイオのゾンビと違って、精神を病んだ誰かの心の闇が実体化したものという感じなので、よりサイコな怖さというか、心の有り様が物理的に影響を与える世界ということで、量子論が量子のミクロな世界だけでなく、巨視的な我々の日常にまで浸食した世界のようでもありますね。