2019年04月06日

タイムマシンにお願い!(タイムパラドックスの世界)

時計寺山修司とタイムマシン


サディスティック・ミカバンドのヒット曲「タイムマシンにおねがい」は、タイムマシンに乗って恐竜の時代やら鹿鳴館の時代など、謎とロマンを求めて過去を旅する夢を歌った楽しい曲でしたね。タイムマシン、あるいはタイムトラベルもののSFはそういった感じで、過去の歴史的事件に立ち会ったり、未来の世界がどうなっているか見に行ったりといった空想を広げる人気のジャンルで、映画でも「バック・トゥ・ザ・フューチャー」や「バタフライ・エフェクト」など面白い作品が多いですね。日本アートシネマの傑作、寺山修司の映画「田園に死す」も、寺山独特のポエティックな時間論を主軸にした奇妙で詩的なシュルレアリスム作品でした。「過去」は固定した事実の集積で、「未来」は固まっていない無限の可能性の世界、というようなイメージが一般にあると思いますが、寺山はそこに詩的な問いかけをしています。過ぎ去った事は記憶の中にしか存在しない虚構に過ぎないのだから、過去とはつまり単なる記憶のことに過ぎず、であるから、実は過去を書き換える事は容易に可能なものである、という独特の思想を持っていました。映画「田園に死す」は、そういった思想を映像化した作品で、作中のキャラである映画批評家にこう言わせています。「人間は記憶から解放されない限り、ほんとに自由になることなんてできないんだよ」と。そして映画批評家は、主人公の「私」に次のような問題を投げかけます。「もし君がタイムマシンに乗って数百年をさかのぼり、君の三代前のおばあさんを殺したとしたら、現在の君はいなくなるか?」


ご存知、タイムマシンものには付き物の有名な「親殺しのパラドックス」(映画では親ではなくお婆さんですが)を言ってるわけですね。タイムマシンものは、そのように、無邪気に時間旅行のファンタジックな空想を楽しむだけでなく、「時間」というつかみ所の無い概念をどう認識するかという哲学的な問も含んでおり、また、そういった時間の解釈によって生じるパラドックスも興味深いものがあります。上述した「親殺しのパラドックス」が、その手のパラドックスの中で最も有名なもので、「バック・トゥ・ザ・フューチャー」しかり、タイムトラベルもののSFはそれをどう扱うかが重要なテーマになったりすることが多いですね。


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H・G・ウェルズ著「タイムマシン」1895年の初版本のトビラ絵。ウェルズはタイムマシンというSFの画期的なアイデアを生み出しましたが、その作品でタイムマシンが行くのは80万年後(正確には紀元802701年の世界)の未来です。今でこそタイムマシンものというと、過去の歴史的事件に介入したり、未来の競馬場に行って結果を見てから馬券を買ったりなど、現実的な欲望とリンクした使い方をされるのがメインですが、ウェルズはもっと単純に、時間を行き来するということ自体のロマンを表現したかったのでしょうね。80万年後となると、ほとんど現在の常識が通用する世界ではなくなってるはずですから、未来といってもほとんど異世界ものと区別のつかない世界でしょうね。しかしながら、タイムマシンというアイデアは、SF小説だけに限らず、物理学者なども真剣に議論のテーマにするような奥の深いものですし、また時間の謎にかかわるテーマでもあるので、哲学の分野でもしばしば議論のテーマになったりしていて面白いジャンルですね。


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寺山修司監督「田園に死す」1974年 配給:ATG

現在の「私」が少年時代の過去の自分と会話するシュールなワンシーン


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同上、「田園に死す」のワンシーン。雛壇が川上から流れてくる伝説のシーン以外にも、寺山の脳内にあった幻想怪奇のポエジーが映像として出力されているようなシーンは多く、人間の潜在意識に堆積した欲望やら希望やらがカオスに入り組んだような奇妙な世界を描き出していて凄いですね。


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上のシーンのスチール写真。一見なんてことのない寒村のスナップ写真のようでいて、同時にものすごく違和感のある異世界っぽさがにじみ出ている雰囲気がイイですね〜


メモ参考サイト





時計親殺しのパラドックス


自分が生まれる前の過去に戻って若き日の自分の親を殺害したらどうなるか?という「親殺しのパラドックス」。自分が生まれるには両親が過去のある時点で出会って子供(つまり自分)を儲ける必要がありますが、その前に親に成るはずの人物を殺してしまうと、自分は生まれないことになり、であれば生まれてない自分が存在している自体が矛盾で、親殺し自体が不可能になります。殺された親は、まだ生んでない子供によって殺されたことになり、生まれていない殺人者がなんで存在できるのか、とか、いろんな部分が破綻してくるというパラドックスで、突き詰めていけば「存在とは何か?」という純粋に哲学そのものが扱うテーマと同じような思考の深淵にいざなわれていきますね。


「親殺しのパラドックス」は、まぁ、殺しとかですと物騒ですが、意図的でなくても似たようなミスを犯す可能性はあり、例えば、両親が結婚する大きなきかっけになったイベントなどを自分が過去に戻ってしでかした何らかのアクションによって結果的に妨害してしまうとします。すると、両親が結びつく確率がガクッと減るわけですから、自分が生まれる可能性も低くなってしまいます。「バック・トゥ・ザ・フューチャー」にまさにそういう展開があって、両親の出会いを意図せず邪魔してしまうことで自分自身の存在の可能性が低くなり、写真の中の自分が消えかかっていくシーンは見事なアイデアの演出でしたね。そういう感じで、殺人までしでかさなくても、過去に行くという行為自体が様々な問題を引き起こします。


そうした矛盾を解決するために、SFなどのフィクションの中での時間旅行では、未来人の超国家的な組織であるタイムパトロール隊によって常に時間旅行者は監視されており、常に矛盾が起きないように管理しているとか、あるいはもっとアカデミックな感じで多元宇宙の概念で切り抜けようとするケースなど、そのあたりのバリエーションも様々な創意工夫があって面白いところです。時間を遡って自分が生まれる前の父親を殺したつもりが自分にはとくに何の変化もなく、変だなと思っていたら実は自分は母親の浮気で出来た子供だった、などという悪趣味なパラドックスの解決策まであったりしますが、さらには、そういったアクシデントは偶然に起こるのではなく、もともと宇宙自体に時間の矛盾を補正する何らかの力が法則的に働いていて、タイムパラドックスが起こらないようになっている、というオカルティックな解釈もありますね。一見ご都合主義な解決法のようで、実際意外と宇宙ってそういうものじゃないだろうか、と思わせるところもあり、この解釈も突き詰めて行くと面白いアイデアになりそうな種ですね。


石川喬司著「夢探偵 SF&ミステリー百科」講談社文庫(1981年)に、親殺しのパラドックスの解決法が複数紹介されていて、そのいくつかは上記のように運命の謎めいた力によって、なぜか親を殺せない状況になってしまうというものも列挙されていますが、他にユニークな例では、アルフレッド・ベスター著「マホメットを殺した男たち」で描かれたアイデアを紹介しています。それは、殺したとたんに異質な別世界に入ってしまうというものです。話しの内容は以下のようなものです。


女房の浮気にショックを受けた科学者が我を忘れて怒り狂い、過去に旅して世界の歴史ごとめちゃくちゃにしてやろうと決意して、ナポレオンやらアインシュタインやら歴史を作ってきた歴史的な有名人を片っ端から殺害して現代に戻ってくる。しかし、戻った現代でも件の女房は相変わらず普通に存在していて、今まで通り平気で浮気しているありさま。世界は自分の行為によって何の変化もしなかったが、そのかわり自分だけが存在しない幽霊のようなものになってしまっていることに気づく。彼が変えたのは世界ではなく、自分自身の運命だったのだ。というお話です。メランコリックで詩的な情緒のあるなかなかのアイデアだと思います。


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石川喬司著「夢探偵 SF&ミステリー百科」講談社文庫(1981年)


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「SFファンタジア 2・時空編」原案:福島正実 監修:小松左京 編集:石川喬司 1977年(昭和52年) 学研

ビジュアル資料満載のSF百科事典「SFファンタジア」の2巻目の表紙。この巻は時空に関するSFがテーマで、タイムマシンやタイムトラベル関連以外にも、宇宙人はヒト型なのかという考察とか、宇宙という最大に巨大な空間を舞台に繰り広げられるスペースオペラもの、またSFアートやエッシャーなどの幻想絵画の紹介など、とても興味深い編集です。



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SFファンタジア 2・時空編」原案:福島正実 監修:小松左京 編集:石川喬司 1977年(昭和52年) 学研

タイムマシンの項は上述の「夢探偵」の著者、石川喬司が担当しています。「夢探偵」と重複する文章はありますが、こちらではもっとページ数を割いて詳細にいろいろ作品紹介をしていて、図版も多く読み応え見応えがあります。多元宇宙や異次元ものにも詳しく言及していて興味深い情報が多く紹介されています。




時計ループする時間


ドラえもんからはては以前大ヒットしたゲーム「シュタインズ・ゲート」まで、アニメ、漫画、ゲームなどでも多くの娯楽作品で、そのようなタイムトラベルによるパラドックスを様々なシチュエーションで描いていて興味深いです。そういえば「ルパン三世」の1stシリーズの第13話「タイムマシンに気をつけろ」でもタイムマシンが扱われていて、「親殺しのパラドックス」に触れてますね。シナリオでは親ではなく、もっと以前のルパン三世の先祖が魔毛狂介(まもうきょうすけ)と名乗る時間旅行者によって命を狙われる、というものでしたね。


「ひぐらしのなく頃に」などは、時間の概念自体を扱った独特の考察による「運命論」みたいな所が肝になっていてとても印象深い作品でした。話題になったアニメ「僕だけがいない街」「涼宮ハルヒの憂鬱」「魔法少女まどか☆マギカ」「Re:ゼロから始める異世界生活」などもそうした系列のいわゆるループものですから、ループもののSFは傑作を多く生み出しているジャンルともいえますね。「僕だけがいない街」は普通の現代日本を舞台にしていてキャラも普通にいそうなリアリティがあり、それだけにそうした普通の人が蜘蛛の巣のような時間の円環に囚われてしまうので余計に不思議感があって面白かったですね。物語は「ひぐらし」のオマージュ的な要素がよく出てくるので、とくに「ひぐらし」ファンにはニヤリとさせられるシーンが多く楽しかったです。内容はひぐらしより推理要素の比重が高く上質なミステリーになっていて、1話目からぐいぐい引き込まれてしまいました。ループするたびに、事件のヒントを少しずつ掴んでいく過程や、事件の原因になっている過去を見つけ出し、それを変える事で事件自体を回避していくところなど、スリリングでとても面白かったです。単にSF的な面白さだけでなく、人生論的なメッセージも深いものがあって、そうした部分が大いに共感をよんだことが大ヒットに繋がったのでしょうね。人と深く関わる事は、基本的に面倒なものなので、生きていくのに必要な程度だけ着かず離れずで人付き合いというものをしてしまいがちになりますが、そういう浅い関係は、自分だけでなく自分に関わった他者の運命にも浅い影響しか与えないために、結果的に運命に流される人生になりがちです。「僕だけ〜」では、まさにそういう、浅い人間関係だけで生きてきた厭世的な主人公が、受け入れがたい運命を変えるために、キーになる人物と深く関わっていく事になり、そうした主人公の「人間としての経験値」の上昇から伝わってくる人生の在り方などの哲学が、この作品を味わい深くしている部分だと思いました。


ループ系の作品は、ひぐらし以前の作品でいうと、押井守監督のいわくつきの作品「うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー」もそうですね。「ひぐらし」が2002年あたりの作品で、「うる星2」が1984年ですから、なんだかんだいっても押井守監督の先見性はさすがですね。ウィキの「ループもの」の解説では、時間のループ自体はけっこう昔からあったようですが、ひとつのジャンルとして認識されはじめたのは1987年のケン・グリムウッドの小説『リプレイ』の世界的ヒットから、ということで、そういう見地からも「うる星2」の先見性は注目したいですね。実は、私が「うる星2」を見たのは最近のことで、2、3年前にDVDではじめて見たのですが、「うる星やつら」らしからぬシュールで、メランコリックな雰囲気が印象的でした。原作者の高橋先生が不満を爆発された気持ちも理解できるところがありましたが、作品としては、そうした裏事情を抜きにすれば、うる星やつらのキャラで「ねじ式」を表現したようなアヴァンギャルドな感じの作品で、一見の価値はあると思います。


メモ参考サイト






時計パラドックスの解決法


タイムパラドックスの解釈や解決の仕方などは、哲学的な思考実験そのもので、腰を据えて考えないとすぐ頭が混乱しそうな複雑な部分もありますが、またそこが楽しい部分でもありますね。タイムマシンもののSFをメインに執筆を続けた異端児、広瀬正さんの作品なども斬新な切り口で時間のパラドックスを描いていて面白かったですね。


タイムパラドックスのアイデアでとても気に入ってるのは、タイムマシンの発明に関する以下のようなパラドックスです。昔SF関連の事典かなにかで知ったのですが、本のタイトルが不明なので、ネット検索したら、同じアイデアが紹介されていたので引用します。


ある日、あなたは見知らぬ老人からタイムマシンの設計図を渡される。あなたはそれをもとにタイムマシンを発明し、大金持ちになる。やがて年老いたあなたはタイムマシンで過去へ向かい、かつての自分に設計図を渡す…。
…ちょっと待った、最初の設計図ってどこから出て来たんだ?

ニコニコ大百科「タイムパラドックス」より


これだけで見事なショートショートになりそうなアイデアですよね。最初に現われる見知らぬ老人の正体は、未来から来た自分自身だったというオチですが、さらに不思議なのは、その未来の自分が所持していたその設計図は一体どこから出てきたのか?という謎です。発明者が存在しないのに発明品だけがあるというパラドックスで、なかなか秀逸な謎です。上述の「夢探偵」によれば、J・G・マッキントッシュの短編「プレイバック」の中で似たような議論が描かれているそうで、「ベートーベンが『月光の曲』を書いた後で、誰かがそれを盗んで三週間前に戻り、それをベートーベンが曲を書く前に演奏して聞かせたとしたら、この曲をつくった者は誰ということになるか?」というパラドックスを紹介しています。タイムトラベルにはこのような様々な矛盾が生じますが、その原因はおそらく我々が認識している「時間」という概念そのものが間違っているのではないかというのも理由のひとつだと思います。一般に考えられているように、時間を1次元の線的なものと考えると、どうしても矛盾が生まれます。時間が1次元的な、過去から未来に流れる一方通行の流れであると仮定すると、過去は確定した世界ですから、もし過去の自分に会いに行けるなら、過去の時点で未来の自分に会った記憶があるはずです。なので、過去に「未来の自分に会った」という経験が無い以上、絶対に未来の自分は現在、あるいは過去の自分に会えないことになります。


そういえばさらに凄いパラドックスもありました。これは「夢探偵」で紹介されているタイムパラドックスのアイデアの中で最も奇妙だったもので、時間移動によって自分自身と交わって自分を生んだ話です。なかなかよく出来てますが、それなりにかなりのややこしさです。内容は以下の通り。


アメリカSF界の大御所、ロバート・A・ハインラインの短編「輪廻の蛇』は、これにさらに輪をかけた奇妙奇天烈マカ不思議な話である。この小説では、自分と自分がセックスして自分が生まれる。えっ、そんなバカな、と誰もが思うだろう。しかし本当にそうなるのだ。
詳しく説明すると──────捨子として孤児院で育てられた娘Aが、年頃になって男Bに誘惑され妊娠して、帝王切開で子供Cを生むが、その子供が病院からさらわれる。さらったのは時間旅行者で、彼はタイムマシンで昔に行き、その子供を孤児院の玄関に捨てる(C→A)一方、娘は帝王切開のとき半陰陽であることがわかり、女性器も子宮ももう役に立たないと判断した医者は、娘を男にしてしまう。娘が男になって六年目、時間旅行者はその男をたぶらかして七年昔に連れて行き、娘を誘惑させる(A→B×A)。そこで、A=B=Cということになる寸法だ。おわかり?

石川喬司著「夢探偵 SF&ミステリー百科」講談社文庫(1981年)p174より


とにかくタイムマシンに関する様々な矛盾や解釈は、ある意味とてもチャレンジしがいのある知的ゲームですから、無数の論説があって個人ではカバーしきれないところでもあります。そのあたりの様々な解釈のバリエーションを分類したりするのも面白い研究テーマかもしれませんし、もうそういう論説をしている作家さんもいるかもしれませんね。これから私が語ろうとしているタイムマシンに関する解釈も、もしかしたらすでに誰かが論じているような気もしますが、ざっと検索したところ、全く同じような論旨はたまたま見つからなかったのもあり、それをちょっと書いてみようと思います。


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広瀬正「広瀬正・小説全集・6 タイムマシンのつくり方」集英社文庫 1982年

ウェルズの創始したタイムマシンですが、タイムマシン(タイムトラベルも含む)ジャンルの開拓者というとハインラインということになるのでしょうか。ハインラインは読んでないので何とも言及しずらいですが、日本におけるこのジャンルの作家といえば広瀬正を抜きには語れないでしょうね。小松左京、光瀬龍、筒井康隆などSF界の巨匠が多く関わっていた日本SF創世記における重要な同人誌「宇宙塵」に寄稿した広瀬正のタイムマシンものの短編「もの」が星新一に絶賛されたことがきっかけになり、それ以降広瀬はタイムマシンもののSFばかり書くようになったそうですが、48で急逝という短い生涯だっただけに、結果的にタイムマシンものだけに取り組んだ特異な作家として日本SF史に残る事に。星新一は「結果的に彼にとって気の毒なことになったのではないかと後悔している」と後に語っていたと筒井康隆があとがきで触れてましたが、逆に、タイムマシンもの(時間もの)だけに才能を集中させたことで印象深い作家になっているともいえますし、一概に判断するのは難しいところでしょうね。




時計タイムトラベルによる宇宙への影響について


前述の親殺しや、あるいはタイムマシンの発明者を発明する前の過去に戻って殺すとか、タイムマシンが存在するだけで重大なパラドックスが生じると思われるわけですが、往々にしてパラドックスというのは、そもそも前提となる根本が間違っているから起こるのであり、パラドックスが生じるのは、時間を過去に遡ったり、未来に進めたりという行為自体が不可能であることの証拠である、という見方もあると思います。そこで、ここでは、それがなぜ不可能なのか、についての話しをしたいと思います。


スピリチュアルな解釈では、時間は「今ここ」にしか存在せず、過去も未来もエゴの妄想(仏教では迷いともいいますね)であって、そんなものは元々無い、という考えがあり、これはおそらく実際にもそれが真実に近いであろうと私も思います。過去とか未来というのは人間が物事の「変化」を随時脳に記憶させることで生じる架空の概念で、実際には過去の世界とか未来の世界というのは存在せず、ただ脳が物事を認識したり分類したりするときに便利だから一時的に採用している人間独自の「解釈」なのでしょう。しかしその解釈を採択してしまうとタイムパラドックスをこれ以上論じてもつまらないですから、少し別の側面から考えてみようと思います。


仮にタイムマシンが存在するとして、それを使って自分が過去や未来に行ったりできるとすると、タイムマシンで行った先の過去や未来では、その時点での宇宙の総質量は、自分と乗ってきたタイムマシンの分だけ増えることになります。単純に考えて、過去の自分に会う(会うと矛盾が生じるので、遠くから観察する、でもいいですが)その時点の宇宙は、余分な自分の質量分だけ多いことになります。タイムマシンが存在する時代なら、自分だけが使えるわけではないでしょうから、過去の歴史的瞬間などでは、とくに未来からの見物客がたくさん来そうですし、そうなると、クレオパトラや楊貴妃がどのくらいの美人だったか生で見たい人は多いでしょうし、戦争の真実を調査したい歴史家や、生物の進化などの調査など、なにかと特定の時期には未来からの来訪が増えて、宇宙の総質量がその時々で増えたり減ったりとすることになります。


宇宙全体の質量が必ずしも厳密に保存されるかどうかは分かりませんが、宇宙をひとつの閉鎖された箱庭のようなものだとすれば、宇宙を構成する物質が人間の都合で増えたり減ったりするのは、おかしいような気もします。宇宙全体からすれば、地球上の人類すべてがある歴史的な事件のあった過去の地点に観光に行ったとしても、海水に墨汁を一滴垂らしても海は黒くならないように、時間移動で生じる宇宙総量の変化は物理的な量としてはほとんどゼロみたいなものかもしれませんが、ゼロでない限りはやはり変化してしまうには違いありません。そうした物理的な矛盾を許容するように宇宙はできているのかどうか、というのがひとつの疑問です。


もうひとつは、時間移動に伴う空間移動の問題です。タイムトラベルによる時間を遡るというイメージが、単に地球上の人間のスケール感だけで解釈している場合が多いですが、実際はガリレオの時代のクリスマスと、去年のクリスマスにおける地球の位置は、太陽系においてはほとんど同じですが、太陽系ごと天の川銀河の隅を回っているので、銀河系での位置はまったく別の空間になっています。また天の川銀河もグレートアトラクターと呼ばれる重力場に秒速1000キロものスピードで引き寄せられているそうなので、時間をちょっと移動するだけでも空間的にはまったく別の場所にかなりとんでもなく複雑に移動することになります。


つまり、例えば時間を5分遡るということは、宇宙全体まるごと5分巻き戻すのと同じといえます。5分前に時間を遡るイメージだけだと簡単そうですが、5分前の時間に存在していた同じ空間に行くということは、宇宙スケールでの大事件になるはずなので、そう考えると、一般的な時間の解釈で考えてもタイムトラベルは不可能そうに思えてきます。バタフライ・エフェクト(バタフライ効果)は、蝶の羽ばたきという微細な現象も、巡り巡っては地球の裏側で起こる竜巻などの気象の原因にもなるうるという、カオス理論でいうカオス運動の予測不可能生の例え話ですが、そもそもこの宇宙は細部に至るまで宇宙にとって不必要なパーツは存在せず、全てが宇宙の何らかの構成要素なのですから、どんな些細な物質やエネルギーも何らかの大きな現象の要因になる可能性はあるのではないでしょうか。そういう意味でも、たとえ5分だけでも時間を戻すということは、その5分間で生じた宇宙の全物質とそのエネルギーの状態を変えなくてはならず、わずかな時間旅行も宇宙規模の大事(おおごと)になるのではないかと思います。


タイムトラベルの科学的な推論のひとつに、ブラックホールの強烈な重力場における時間の伸縮を利用したタイムトラベル的なものなど、相対性理論などの現代物理学の成果を利用したものがありますが、宇宙まるごと巻き戻して過去に戻るということはさすがにどんな方法も皆無でしょうから、仮にそうした現代科学的な方法で時間を移動できても、それで行く「過去」や「未来」は、いわゆる本当の過去や未来ではなさそうな気がしますね。


メモ参考サイト






時計でも可能性を信じたい


とはいうものの、それは個人的な人生の短い経験や学習によって育んだ経験則のような、多分に固定観念を含む常識をもとにした思考ですから、実際の宇宙はもっと融通の利いた自由な世界かもしれません。不可能を論じるだけでは面白くないので、また別の視点で考えてみますと、この宇宙は、物理的存在として捉えられる部分以外にも、さまざまな次元で存在していると思われるので、以前の記事などでも何度か言及したように、何か全く新しいパラダイムの登場によって、意外と簡単に時間旅行が可能になる可能性も十分あるとも思っています。


人間の脳が「時間移動」のアイデアを捻出することが可能であるから、人間はそうした概念で遊べるわけですし、宇宙は人間に時間旅行に関する思考を許しているから人間はそういう考えを持てるともいえると思います。人間も宇宙に組み込まれた存在である以上、真に無意味な事を考える事も不可能であると思うので、人間が時間について考えたり時間旅行について思考するのも何らかの可能性や意味のあることなのかもしれません。もしかしたら、意外な何か突破口があって、それを発見する事でタイムマシンも意外とあっさり実現してしまうこともありそうな気もしています。実際にタイムマシンが存在する世界が訪れたら、そういう時代では、タイムパラドックスもすでにあっけなく解決されてるでしょう。未来人は「なんで昔の人は時間移動でパラドックスが生じるなんていう誤解をしてたんだろう」と思うのかもしれませんね。


まぁ、タイムマシンの製造が可能か不可能かなど、突き詰めれば「わからない」という答えにしかならないわけですから、それなら「可能性」を信じる方がロマンもあって楽しいのはたしかです。実際に、それについて真剣に考えた人が漫画や映画などタイムトラベルものの傑作を生み出してきたのですし、そうした作品で涙したり、勇気をもらったりする人もたくさんいるわけで、そう考えると、それはそれで、実際にタイムマシンを作ること以上に価値のある事なのかもしれません。
posted by 八竹彗月 at 13:13| Comment(0) | 雑記
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