2018年11月01日

竜宮童子と浦島太郎

異世界に迷いこんだりする話は、SF小説や漫画だけでなく、昔話でも定番のモチーフですね。フィクションの世界だけにとどまらず、江戸時代の知識人、平田篤胤(ひらたあつたね)の「仙境異聞(せんきょういぶん)」という著書では、神仙界を訪れて見聞してきたと主張する少年の話を聞き取ってまとめたもので、岩波文庫などでも読めます。私は中央公論社の「日本の名著」シリーズの平田篤胤の巻に収録されているものを少し読んでみましたが、古い文体なので読みずらく、腰を据えてかからないとなかなか内容が頭に入ってきませんね。しかし、異世界見聞録というのはすこぶる興味をそそるものには違いないので、そのうちちゃんと読破してみたいです。

メモ関連サイト
仙境異聞(ウィキペディア)

異世界といってもいろいろあり、平行宇宙のような世界や、死後の世界や霊界、イデア界、仙境、シャンバラなどの地下王国、他の惑星などの地球以外の別の天体、宇宙論などで出てくる5次元〜11次元の世界などや、SFファンタジーなどで描かれるような世界など多種多様ですが、どれもがこの日常とかけはなれた魅惑の世界で、はてしないロマンをかき立てます。以前の記事でも書いた桃源郷なども、理想郷としての異世界のひとつで、隠れ里的なたたずまいがミステリアスで惹かれるところです。日常に埋没してしまうと、こうした世界はいかにも現実逃避のように思ってしまいがちですが、小学校から中学校に上がるのもひとつの新しい世界、異世界に飛び込むようなものですし、会社に就職するのも別世界に参入する行為でもあります。今いる場所が、居心地が良かろうと悪かろうと、どっちにしてもいずれは別の世界に移行しなければならないように人生はできているように思います。好んで移行するか、状況が変わって無理にでも移行せざるをえなくなるかの違いはあっても、どっちにしろ、同じ場所に止まることを阻止しようとする何らかの力がこの世界にははたらいているような気がします。まさに、鏡の国のアリスですね。「同じ場所にとどまるためには、絶えず全力で走っていなければならない」変化することよりも、むしろ維持することのほうが大きなエネルギーを要するようにこの世はできているのかもしれません。

そうしたわけで、人生は自分で選択するにしろ、状況に迫られて選択させられるにしろ、ある時期が来ると必ず新しい世界に参入するような状況に出会いますが、フィクションや伝説などで語られる異世界の話は、そうした人生に訪れる新世界への参入を寓意的にあらわしているようにも思えてきます。

昔話で描かれる異世界というと、いろいろありますが、桃太郎の鬼ヶ島とか、浦島太郎の竜宮城などが真っ先に思い浮かびますね。ということで、無理矢理っぽいですが、今回は浦島太郎のバージョン違いみたいな感じの「竜宮童子」という民話についてちょっと語ってみたいと思います。「竜宮童子」は新潟県見附市葛巻町の石地という土地にまつわる民話ということのようですが、亀に乗って竜宮城に行くとか、姫君から帰りに不思議な贈り物を授かったりとか、浦島太郎の話を下敷きにしてそうな設定が見受けられますが、お話全体のテイストは浦島太郎とはけっこう違った味わいの話になっていて、なかなか面白いと思いました。浦島太郎も、この「竜宮童子」も、当たり前のように亀の背に乗って海中を潜って竜宮城に行き着きますが、なぜ海中で息ができるのかという理由は語られず、単なる物語上の「お約束」でそうなってるだけのようにも思いますが、水中で溺死しそこなった主人公の臨死体験としての異世界、というふうに想像すると、ちょっと別の味わいのある物語にもみえてきますね。

前置きはこのくらいにして、件の「竜宮童子」のお話をまずはご紹介します。

竜宮童子

 むかし、石地というところに、貧乏な花売りの男が住んでいた。
 毎日山を下って信濃川の沿岸の村々、町々を商って歩いたが、なにぶん温度の低い山里から来るので、良い花を持ってきたことがほとんどなかった。そのために、夕方になっても、いつも売れ残りの花が、背の籠の中でゆれていた。その残った花は、帰りの渡しのあるところまで来ると、きまってゆるやかな大川へ流すのであった。色とりどりの花々は、くるくるまわりながら、夕靄のただよう水面を音もなくすべっていった。その花のゆくえをしばらく目で追ってから、花売りはやおら腰を上げて渡しをわたるのであった。
ある日、終日花を売って渡しにさしかかった。と、朝はおだやかだった大川が増水し、氾濫していた。
「これでは、川を渡ることができやしない。はて、困ったことになったわい」
 と、ひとりごとを言っていると、ふいに足下の水の中から大亀が姿を現した。見ると、背の上に乗れという様子をするので、あやぶみながらも花売りは、その広い背に乗った。大亀は波立つ川をどこまでもすいすいと泳いでいった。花売りはびっくりして、
「どこへゆくんです」
 と聞いた。大亀は顔を前方に向けたままで、
「お前さんには話をしていないから、さぞ驚いたことでしょう。じつは、乙姫様は、いつもお前さんがお花をあげるのを大変喜ばれて、お礼をしたいからお連れするように、とおいいつけになったのですよ」
 と答えた。
 大亀は、たゆまず泳いでいった。それからとほうもない長い時が経ったと思う頃、前方に美しい城が見えてきた。それは乙姫の竜宮であった。
 乙姫の手厚いもてなしを受けて、時の経つのを忘れたが、やがて花売りは里心がついた。帰るというと、乙姫はひとりの童子を手招きした。それは青ばなを出し、よだれを垂らしている、見るからに汚い子供だった。
「お前の優しい心映えを賞(め)でて、この子をあげようと思います。だいじに養えば、お前の望みはなんなりと叶えてくれます」
 と、乙姫がいった。
「ありがとうございます。それでは私の子にして、大切にいたしましょう。ところで、この子の名はなんというのですか」
「名前は、とほう小僧といいます」
 おかしな名もあればあるものと思ったが、礼をのべて、小僧を連れて帰った。輝くばかりの美しい竜宮から、久しぶりにあばら屋に帰ってみると、それはいかにも狭くて、みすぼらしいさまが目についてしかたなかった。花売りは乙姫の言葉を思い出し、
「とほうよ、とほうよ」
 と呼んだ。あいかわらず青ばなを垂らした小童が、花売りのそばにやってきた。
「間取りを広くしたいが、すまんが変えてくれないか」
 というと、小童は目をつむって、手を三つ打った。すると、たちまち奇麗な広い屋敷になった。
「家ができたら、それに似つかわしい家具調度がのうては困る。すぐ出してくれないか」
 というと、これもぞうさもなく調えた。屋敷ができると、こんどは貧乏なことに気がついた。
「おれは金がない。すまんが金を出してくれないか」
「どれくらい出したらよいかね」
「千両(=現在の価値でおよそ1億円)も出してもらえばよいのだが」
「ああ、そんな金なら、なんのぞうさもないこと」
 といって、小童は即座に千両箱を出した。
 花売りは、大金をにぎったので、いままでの商売をやめ、その千両をもとにして金貸しになった。番頭や女中をおく身分になり、たちまち大金持ちになった。
 それから旦那づきあいが広くなり、毎日のように招かれていくようになったが、どこへゆくにも、いつも汚い小童がついていって離れなかった。小童が汚くて、いかにも体裁が悪いので、
「とほうよ。青ばなをかんではどうだい」
 というと、
「とてもかまれねえ」
 と答えた。
「それじゃあ、よだれはどうだ」
 というと、
「それもふかれねえ」
「お前の着物は、はなやよだれでどろどろに汚れている。せめて着物を新しいのに着替えてはどうだ」
「この着物もかえることはできねえ」
 と答えた。あいかわらず汚いなりで、旦那から離れる様子はなかった。旦那もすっかり困ってしまった。
 ある日のこと、旦那は小童をよんで、
「とほうよ。お前は、なにかほしいものはないか」
「おらぁ、なにも、欲しいものや食べたいものはねえ」
 といった。
 小童がそばにくると、異様な臭いがするので、日がたつにつれて我慢ができなくなった。
「ずいぶんお前の世話になった。ありがとう。だが、わしは知ってのとおり、今日ではどこへいっても旦那、旦那といわれる身分になった。お前の働きも、いちおう終わったといってもよい。ついては、このへんでお前にひまを出したいと思うが、どうだね」
「そうですか。おらぁ、いついつまでも旦那のそばにいて、ほしいものをすぐ出してあげたいと思っていたが、旦那にその気がなけりゃしかたがねえ」
 そういって、小童は屋敷を出て行った。
 やっと、小童から自由になった旦那は、庭へおりて両手を広げて深呼吸をした。それから屋敷の方へふりかえった旦那は、気を失うほどに驚いた。そこには、自慢の屋敷や蔵があとかたもなく無くなり、そのかわりに、むかしのあばら屋だけが跡に残っていた。身につけたやわらかい着物も消えて、もとのやぶれ衣に変わっていた。おどろいて小童のあとを追って飛び出したが、もうどこにもその姿は見えなかった。
(新潟県見附市葛巻町石地)

「日本伝説集」武田静澄著 現代教養文庫 723 社会思想社 1971年刊


「とほう小僧」の「とほう」という響きもなにやら怪し気で、意味が何なのか気になりますね。「途方」からきてるのでしょうか。それはそれとして、竜宮城が出てくる昔話というと「浦島太郎」が有名ですが、この「竜宮童子」のお話もまた違った味わいの面白い民話ですね。竜宮に住む乙姫というのは、竜神の化身でしょうね。意にかなった人間を招いては盛大な歓待をする点が「浦島太郎」と共通してます。また先に触れたように亀の使いによって竜宮城に行くというのも同じ設定ですし、ラストに主人公が何らかの禁忌を犯してしまって元の状態に戻ってしまうというのも共通した部分です。しかし、「浦島太郎」の場合は、「開けてはならぬ」というタブーを犯すことで「竜宮城で歓待されていた膨大な時間」が身に降り掛かり一気に白髪の老人になってしまう、という理不尽なもので、禁忌を犯す動機もちょっとした好奇心であり、そもそも「開けてはいけないと」いう意味不明で迷惑な玉手箱を土産によこす乙姫様は何の魂胆があったのか、など、なんかモヤモヤする読後感のお話ですが、「竜宮童子」のほうは、もっとわかりやすく「いくら恩人でも、汚くて醜い小僧につきまとわれるのは世間体が悪くてカッコ悪いから」というエゴイスティックな動機で、福を授ける小僧を手放してしまうという人間臭いわかりやすいストーリーが魅力です。大企業の令嬢と結婚して逆玉の輿に乗るために、長くつき合ってきた恋人を振ってしまう男、みたいな、昔のドラマとかでよくあるエゴイスティックなジレンマを彷彿とするところがあって、どこか普遍的な、人間の心の弱さを描いていて考えさせられる昔話ですね。

始終鼻水やよだれを垂らしながら異臭を放つ汚い着物を着た子供が富をもたらすという所も意味深ですね。小僧の汚さは富を得るためのある種のリスクという見方もできますし、まさにそのような「富を授けてくれるのはいいが、汚いなりでつきまとわれるのは不快だ」という主人公のジレンマが物語のキモです。しかし、単に話を面白くするだけの理由でこの小さな福の神のなりが汚いのかといえば、それだけでもなさそうな気もします。以前「トイレの神様」という歌がヒットしましたが、この曲の影響なのかどうかその後のスピリチュアル界隈で「トイレ掃除をすると金運が上がる」的な話がよく挙がるようになりましたね。トイレ掃除を嫌がらずにするとお金持ちになるとか美人になるとか、なんらかの現世的な御利益があるということですが、まぁおそらくは、元は子供をしつけるうえでの方便が起源になってる話のような気がしますが、このトイレの神様の正体はインド神話に出てくる火の神、アグニを起源とする密教の神様、烏枢沙摩明王(ウスサマ明王)であるという説など、どんどんそれっぽい話になってきていて、もしかしたら単に子供をしつけるための方便ではなく、実際に御利益のあるものなのかも?という気分にさせてくれます。

なぜにトイレ掃除が金運と関係あるのか?という理由についても、ユニークな説がありますね。それによれば、人が住む前の新しい家には、人より先にまず神々が訪れてきて、担当する部屋をそれぞれ決めて守護するのだそうです。最初に来た神は応接室、次に来た神は玄関、という感じでどんどん居心地のよさげな部屋が埋まっていきます。最後に訪れる神にはトイレしか残ってないのでそこに住むことになった、という話です。神々の来る順番は、それぞれの神様が授けようとしている福の詰まった袋の大きさに依存しており、袋が大きいほど重いので家に到着するのが遅くなり、一番たくさんの福を持ってくる神が最後になってしまいます。その神こそがトイレの神様だ、ということです。だからトイレを清潔に保っている家は、トイレの神様が喜ばれて住む者に富をもたらすという話です。なんだかイイ話ですし、ただの作り話を超えたものを感じるところがあります。「竜宮童子」が小汚い子供である理由も、家の中で最も汚れやすいトイレと金運が密接にかかわっている事と、どこか繋がった価値観を感じます。もしかしたらとほう小僧≠ェ臭くて汚いのは、願いを叶えてあげるために関わってきた無数の人間の穢れた欲望を一身に引き受けているために汚れているだけで、彼自身の汚さではないのかもしれませんね。

とほう小僧≠ェ主人公の男について離れない理由は、ある種の嫌がらせみたいなもので、前述したように、異臭のする薄汚れた小僧の存在を我慢することが、もたらされた富を維持するための条件になっているのではないか、と最初は考えて読んでましたが、改めて物語を読み返していたら、さらに別の部分に気づきました。汚さを我慢するのが富を維持する何らかの条件になっているのは確かだと思いますが、とほう小僧自身はそういう条件を念頭にして動いているわけではない、ということです。つまり、真相は、とほう小僧には何の魂胆もなくて、単に主人公の男を実はけっこう気に入っているからベッタリと付いて来るだけ、という単純なものなのではないか、ということです。なぜなら、もし嫌がらせで付きまとうなら、これほど面倒くさいことはありませんし、そこまで熱心に他人の不幸のために腐心し努力するような小僧であるなら、なぜその当人の願いを何でも叶えてあげようとするのか、という矛盾がうまれます。もっというなら、小僧が男に付いて離れないのは、男を「好きになろうとして」いたからなのかもしれませんね。好ましいと思う人間だからこそ、願いを叶えてやろうとする熱意も生まれてきます。小僧にとっても、嫌な人間に奉仕するよりも、好ましい人間に奉仕したいはずです。だから、もしかすると一生の付き合いになるかもしれない男を少しでも好きになろうとして、男から離れなかったのではないでしょうか。乙姫様も、一瞬で豪邸を出現させたりするほどの魔力を持った有能で貴重な眷属であるとほう小僧≠奉公に差し出すわけですから、とくに意地悪な下心はないはずです。しかし、そうしたとほう小僧のいじらしい想いが結果的に主人公の悩みの種になり、破局を迎えた、ということなのでしょうね。

まぁそんなこんなで、とほう小僧が去ってしまうと、立派な屋敷も何もかもが元の貧しい状態に還ってしまいますが、このあたりは、怪談話によくある、美人の幽霊と逢い引きする男の話の結末などでもお馴染みの現象ですね。逢い引きしていたはずの立派な屋敷が、じつはあばら屋だった、というアレです。「竜宮童子」のお話の場合は、この世の栄華も夢幻のように儚いものだ、というような教訓も込められてそうですね。どこか杜子春の話も彷彿とする諸行無常を感じますね。

醜い外見ながら、あらゆる望みを叶える神通力を持ったとほう小僧≠ナすが、かれは他者の望みを叶えることを楽しみとしているようなそぶりで、自分自身はとくに欲しいものはない、といった無欲さもユニークなところです。ある意味、典型的な聖人、聖者の類型にあてはまるところがあるのもとほう小僧≠フ面白い特徴ですね。ふと永井豪の問題作「オモライくん」や秋山ジョージの「アシュラ」などを思い出します。これらの漫画作品は疎まれる側の人間の視点を通してこの世の真実を描き出した傑作ですが、オモライくんもアシュラもある意味聖者のような存在でもあるような気がしますね。

インドの偉大な聖者として有名なラマナ・マハルシは、残された写真や映像を見ても、どれもパンツ一丁で外をうろうろしてるフリーダムな姿をみせていて、偉大な精神を持っている者ほど、俗世間の価値に執着しないんだろうな〜と、へんに感心したものです。有名になると、高い車に乗ったり、豪邸に住んだりしはじめる聖者もたまにいますが、有名になろうが贅沢に無関心のラマナ・マハルシは本物の聖者の風格を感じます。絶対的な心の平安と至福を得たと言うのに、他に何が必要だというのか、といわんばかりのパンツ一丁の姿に、心底憧れる境地に自分がいるのかどうか、というのも自分の精神のレベルを計るいいテストになりますね。

自由気ままに外をうろうろ歩く天然≠チぽい感じの聖者といえば、そういえば日本にもそんな風情の人物がいましたね。幕末から明治にかけての宮城県に実在した、福の神のように慕われた仙台四郎という人物のことです。知的障害があり、会話能力は低かったそうですが、他人に危害をくわえることはなく、子供好きでいつも機嫌が良く、愛嬌のある風貌をしていたこともあって誰からも好かれていたそうです。市中を気ままに徘徊するのが四郎の毎日でしたが、不思議な事に四郎が立ち寄った店はなぜか繁盛し、客の入りが良くなったそうで、そうした噂が広まるにつれ、福の神のように扱われるようになったようです。四郎の死後も、彼の写真を飾ると商売繁盛の御利益があるとされ、大正時代には、ちょっとした民間信仰のように崇められる存在になっていったとのことです。

とんち話で有名な一休さんもアニメのような感じの人ではなく、かなりフリーダムで破天荒な禅宗の僧侶だったようですが、仙台四郎のユニークなところは、禅などの宗教とも無関係の、いわゆる一般人であるところですね。人間、人生において何が最も大事な能力か?といえば、知性でも経済力でも腕力でもなく、それは「人に好かれる能力」だと思います。これがあるだけで、誰もその人を放っておきませんから、何かあれば誰かが助けてくれるので貧乏にもなりませんし、もめ事に遭遇することも少ないはずです。天才と言われた哲学者や文学者など知性的な著名人でも自殺する人はいますから、教養があることや頭が切れることが人を必ずしも幸福にするとは限らないのでしょう。そういう意味でも、仙台四郎は天性の好かれる才能≠もっていた人であり、生まれつきの聖者だったのでしょうね。ロシア民話の「イワンの馬鹿」も、まさにそうした真理を描いていて興味深いですね。頭がいいとか、お洒落であるとか、スタイルがいいとか、お金持ちだとか、そういう属性は、この世的なエゴ的な部分で凄く惹かれる属性ですが、自分の見栄だけでそれらの属性をひけらかす人には誰もついていきませんし、それらの属性が人を幸せにするのは、結局のところ、その属性によって他人を幸せにできたときだけです。この世では、自分が幸せになるためには、まず他者を幸せにする能力を磨かねばならないのでしょうね。

メモ関連サイト
仙台四郎(ウィキペディア)

とほう小僧≠焉Aなんでも願いを叶えてくれるわりには、「ハナをかめ」「よだれを垂らすな」「服を着替えろ」という自分に対する要求には断固として従いません。とほう小僧≠ノとっては、自分の生き方の自由を制限されることは絶対に受け入れないということでしょう。そして、その自由こそが、とほう小僧≠フ魔法の源泉でもあるように思います。この世は、目に見える物質に頼った世界なので、価値観というのもどうしても物質的なものになりがちで、見た目の善し悪しで人を判断してしまうことが多々あります。聖書では小さき者(世間的にとるに足らない者とされている人たち)こそ神の視点では偉大な人間なのである、というパラドックス的な真理を述べていますが、これは高次元の世界からみた価値観ですね。

だれでもこの幼な子をわたしの名のゆえに受けいれる者は、わたしを受けいれるのである。そしてわたしを受けいれる者は、わたしをおつかわしになったかたを受けいれるのである。あなたがたみんなの中でいちばん小さい者こそ、大きいのである。

聖書 ルカによる福音書 第9章 48節


私たちが食べ物を与えているのは飢えたキリストなのです。衣服を着せてあげるのは裸のキリスト、宿を与えてあげるのは家のないキリストなのです。(略)これまでそうだったように、今日でも、キリストが同胞のところへやってきても、人々は気づきません。キリストは、貧しき人々の腐った身体のうちに顕われます。(略)そしていまここに、私やあなたの前にキリストは姿を現します。ところがいつも私たちは見過ごしてしまうのです。
───マザー・テレサ

「20世紀の神秘思想家たち」アン・バンクロフト著 吉福伸逸訳 平河出版社 1984年


聖書といえば、有名な「信じる者は救われる」という言葉も誤解されがちですね。この言葉もこの世的に解釈すると、いかにもずるい人に簡単に騙されてしまいそうな危うい価値観に見えてしまいますが、宗教やスピリチュアルや神秘学など、精神世界では「疑い」からは何も得られない世界で、まずは信じないとはじまらないところがあります。神も、神を信じない人間には恩寵を授けたくても授けるルートが「疑い」によって遮断されているために、それができません。だから信じないと救いようがないために「信じる者は救われる」というわけです。けっこうこの言葉は「救うか救わないかを神が自分への信仰心を基準にしてえり好みしている」というような意味で誤読されがちですが、救うかどうかを決定しているのは神ではなく人間の側にあるわけです。太陽はえり好みすることなく万人に光を与えますが、わざわざ建物の影に隠れたり、地下に潜ってしまったりする人間にはせっかくの光も届きません。

怪し気な宗教団体が、こうした高次元の理屈をこの世的な次元で解釈して金儲けに利用したりして信者から搾取するための理屈にしているケースもよくあるので、危ういといえば実際危うい面もある教えですが、リスク無しに得られるものは何もないというのもこの世の法則のひとつです。信じることはリスクが伴いますが、疑うことよりも得られるものは大きいのもたしかです。オリンピックレベルのトップアスリートの世界では、実力的な部分はギリギリまで均衡しているために、最後にモノをいうのは自分の勝利を信じるメンタル力だったりするという話を聞きますし、そういった意味でも、信じるということは、リアルに現実を変革するパワーがあるのは事実だと思います。

信じる力というと、この前DVDでなにげなく第1話を見返していていたらついつい全話通してまた鑑賞してしまった往年の名作ドラマ「スクール・ウォーズ」を思い出します。実話を元に脚色した熱血スポ根モノの物語で、校内暴力の吹き荒れる問題校の弱小ラグビー部が、わずか数年で万年最下位から全国優勝を勝ち取るという奇跡を描いています。その奇跡を成し遂げれた最大の理由は、主人公の滝沢先生が自身の信念「信じ、待ち、許してやること」を教育の場で貫いたことによるものでした。現代社会において、こうした「信じる事」とか「愛する事」というのは、どこか面映い言葉になってしまているせいか、私もそうした言葉をなかなか素直に受け取れずに、昔はひねくれてあえてそういう言葉に反抗してたような気がします。しかし、「信じる」「愛する」というのは、とてもプリミティブでもあり、またパワフルなものでもある、人間の幸福に直結したとても重要な精神でもあります。「信じたからって叶うものではない」などという、ペシミスティックな考えって誰しも多少あると思いますが、宝くじも買わないと当たらないように、まず信じないと奇跡は起こりません。

武田鉄矢さんがかつてヒット曲「贈る言葉」で「信じられぬと嘆くよりも、人を信じて傷つくほうがいい」と歌っていましたが、それなども昔は「まさに正直者が馬鹿を見るような、役に立たないどころか有害な理想論だな」と馬鹿にしていたものでした。しかし、今考えると、やっぱりそれは真実を歌ってるのではないか、と気づかされます。信じると裏切られたときにダメージが大きいので、信じない、疑う、というのをデフォルトで生きるというのをやってた時が私もかつてありましたが、そんな時期ほどよく裏切られて傷つく経験が多かったような気がします。信じない人生ではなく信じる人生を生きようと決意すると、不思議と、実際は「人を信じて傷つく」という経験は減っていきます。世界は自分の心を反映する性質があるので、人や世界に不信感を持っていると、なぜか他人から信用されなかったり、物事がうまくいかなかったりします。逆に、人や世界を心から信頼するようにすると、ラッキーな事が頻繁に起こるようになりますし、物事がうまくいくように変化してきます。以前は、「祈り」というのを、ただの気休めくらいにしか思っておらず、何の意味もパワーもないと思ってましたが、実は、これほど現実を変革する威力のある行為はない、と最近思うようになりました。祈りとは、人や世界がより良くなることを信頼する″s為ですから、現実世界では一見無力なように見えても、見えない世界ではものすごいパワーで影響を与えているように感じます。祈りについては、また別の機会にもっと掘り下げて書いてみたいです。

話が逸れてきたので「竜宮童子」に話を戻しますが、調べてみると、類似の民話は熊本にもあるみたいですね。「まんが日本昔ばなし〜データベース〜」様によと、アニメ「日本昔ばなし」でも92話(1976年10月30日放映)「はなたれ小僧さま」というタイトルで放映されたようです。「はなたれ小僧さま」のほうの主人公は花売りではなく薪売りのおじいさんという設定で、売れ残りの薪を竜神を祀る祠の前の川に、竜神様使ってください、と薪を流したことで洟垂れ小僧をゲットする流れになっていますね。

メモ関連サイト
はなたれ小僧さま(「まんが日本昔ばなし〜データベース〜」様のサイトより)


竜宮童子(ウィキペディア)
ここを読むと、どうやら薪売りのおじいさんのバージョンのほうがオーソドックスな「竜宮童子」のシナリオみたいですね。もしかしたら花売りバージョンは、浦島太郎の物語の影響を受けながら派生したものなのかもしれないですね。

ちょっと上記でも触れた浦島太郎ですが、最後にちょっとしたお遊びで、自分なりにあの物語のモヤモヤした部分を想像で補ったショートストーリーを考えてみました。亀を助けてくれた恩人の浦島太郎に、乙姫様はなぜ最後の最後であんな理不尽な仕打ちをしようとしたのか、という謎に対する説明としては、けっこうイケてるのではないか、と思いますがいかがでしょうか。浦島太郎視点だと見えてこなかった事実が、乙姫様視点で読み解くと、すべて合点がいきます。

私家版浦島太郎異説
八竹釣月作

仲間の亀を助けてくれたお礼にと浦島太郎を竜宮に招いたものの、あまりにいい気になって長居する浦島太郎に、いいかげんうんざりしてきた乙姫様だった。しかし招待しておきながら帰れともいえず、乙姫様のイライラは日に日につのっていった。いつしか手厚い歓待に慣れきってしまった浦島は、すっかり客人の礼儀まで忘れてしまっていた。選りすぐりの美人の人魚をはべらせてはセクハラ三昧、忠実な可愛い部下(マグロ)をどうしても刺身で喰わせろと無理を言ってくることもたびたびであった。あきれることに、浦島太郎がようやく帰る気になったのは、招待してから40年以上もたったある日のことだった。乙姫様は、顔では笑いながらも、心の中ではずうずうしく居座り続けていた浦島太郎に、もう亀を助けてくれた恩どころか、賠償請求でもしたいくらいに立腹していた。そこで、乙姫はひらめいた。竜宮では時の流れが止まった異世界であるが、現世では時間は止まることなく流れている。そこで、この竜宮での時間分を現世で購わせるための氣≠封じ込めた玉手箱を、上手いこと言ってはぐらかしながら浦島に土産に持たせて帰らせたのだ。そう、玉手箱は褒美などではなく、竜神の化身であらせられる姫様の厚意に甘え、何十年もタダで他人様の城で贅沢三昧しまくるという、はなはだ常軌を逸した非礼に対する罰≠ネのだった。そうとは知らず、満足そうにニコニコ手を振って亀に乗って海上に昇ってゆく浦島を眺め、乙姫様は満面の笑みで見送るのであった。その笑みは、穀潰しがいなくなった安堵だけでなく、これから浦島が開けるであろう玉手箱によって迎えるはずの結末に対するものなのであった。邪魔者は去り、竜宮城には何十年かぶりにようやく平安が戻ったのであった。 
───完───


メモ関連サイト
浦島太郎(ウィキペディア)
posted by 八竹彗月 at 15:22| Comment(0) | 精神世界
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