先日考察した「辛いに一本足すと幸せになる」の話ですが、では幸せになるために辛いに足す一本は、具体的に何を指すのか?というところがなんとなく気になって考えてました。まぁ、「家族」とか「友達」とか「趣味」など、人それぞれ十人十色なんだろうし、万人に共通したものではないのかも、とぼんやり思ってましたが、ふと、あれ?この一本は実は万人に共通する一本なんじゃないか?と思いつきました。「一」とは「1」ですが、「1(いち)」にそっくりな英語の「I(アイ)」───この自分という存在は世界にただ一人ですから、I(アイ)と1(いち)が似た形の文字であることには、意味深なものを感じます。話を戻しますと、つまり辛いに足す一本とは、自分自身のことで、意味する所は「本当の自分自身=I(アイ)≠見つけること」なのではないか、ということです。「見つける」という言い回しですと、モラトリアム的な「自分探し」めいたニュアンスが出てきそうなので「本当の自分に成る≠アと」と言い換えたほうが正確かもしれません。
本当の自分に成る、というのは、なにも悟りとか解脱などの究極のものだけではなく、夢中になれる趣味を見つけたりとか、天職を見つける、など、人生を無上の至福で彩るような生き方を見つけること、そういう理想の状態、そういう人生を生きる自分こそ「本当の自分」であるはずです。なぜそれが本当といえるのかというと、人間は宇宙の進化の結果生まれてきた生命ですから、宇宙をつらぬく絶対的な法則、正しい成り行きに則った行為や体験には、それが正しく、本物であることを示すシグナルとして、至福感をもたらすように出来ている(と私は思っています)からです。つまり、もっとも幸せを感じるような時とは、もっとも自分らしく生きている時のことであろうと思います。
宇宙は、自分が生み出した生命(人間)を、わざわざ苦しませる理由はない気がします。なぜなら、人間もまた宇宙の一部ですから、人間の苦しみは宇宙にとっても苦しみのはずだからです。むしろ、宇宙からすれば、幸福に自由に、人生を喜びで満たすような生き方を人間にしてほしいと思っているような気がします。宇宙に考える心や感情があるというのは何も突飛なことではなく、人間に心があるということは、宇宙には心を生み出す素材が揃っていたからですし、その素材で心≠組み立てるシステムと段取りさえもあらかじめあったということです。親にある物が子に遺伝するわけですから、宇宙に心があるからこそ、人間にも心があるのではないでしょうか。冷静に考えてみれば、むしろ宇宙のほうが人間よりも複雑な仕組みと構造をもっているのですから、人間よりも高機能で精妙な心をもっていると考えた方が論理的なようにも思います。おそらく数多(あまた)の宗教は、お伽噺のような空想から生まれたのではなく、むしろかような考えと遠からぬ思想が根底にあって、宇宙を統べる超越的な存在、つまり神の存在に気づいたのではないか、とふと思いました。
とにかく、人生は無限の可能性が秘められているのですから、本来なんでも望んでいいし、どんな夢を追いかけてもいいわけです。自分に最大限の自由を与える生き方こそ誰しもが求める生き方ですが、自分の自由と他者や社会との折り合いが上手い具合につくような状況をつくるには、エゴの自分を捨てて、意識の奥にある魂で感じる本当の自分になるしかありません。多くの聖典や賢者のいうように、本当の自分(I=アイ)を覚醒させるには、自他を越えて愛(I=アイ=愛)を実践していくことが大事なのだと思います。I(アイ)は「自分」であり、また「愛」であり、そして唯一無二の「1(イチ)」です。カバラ(ユダヤ教神秘主義)では数の隠された意味や性質を探る「数秘術(ゲマトリア)」という秘術がありますが、それによれば1は唯一の神を表す神聖な数字でもあります。魔術師、アグリッパが1の神聖性について書いた興味深い一文を以下に紹介します。
それゆえ、1は高みなる神を示し、神は1であり、限りないものと思え、しかも自身で限りないものを作り、それらは彼自身の中に含まれている。それゆえ一つの神がいて、一つの神の一つの世界、一つの世界の一つの太陽、また世界における一羽の不死鳥、蜜蜂の中の一匹の王、畜牛の群れの中の一頭の指導者、獣の群れの中の一頭の支配者、一羽に従う鶴、そして多くの他の動物も単一性をあがめる。───アグリッパ(16世紀の魔術師)
『数秘術 数の神秘と魅惑』ジョン・キング著 好田順治訳 青土社 1998年 p87より
魔術師アグリッパ ( Henry Cornelius Agrippa Von Nettesheim 1486-1535)
16世紀ルネサンス期ドイツの魔術師、人文主義者、神学者、法律家、軍人、医師。以前の記事「エンデと神秘主義」でも触れましたが、アグリッパというと、太陽系惑星を魔方陣に対比させた惑星魔方陣が思い浮かびますね。
また、インド哲学の真髄であるヴェーダーンタ哲学の不二一元論では、究極には、内なる本来の自己(真我=アートマン)は、宇宙の根本原理(神=ブラフマン)と同一である、と説いていて、不二一元論とは、一言でいうと、すべては究極にはひとつであるという教えです。宇宙論の有名な仮説「ビッグバン」では、宇宙のはじまりは、微小・高温・高密度の「時空特異点」が爆発して出来た、とされていて、この爆発により時間と空間が生じたということですが、「すべての元は、ひとつ≠フ何かだった」という意味では、なにやら通底する真理を感じます。ヴェーダ聖典(=紀元前1000年〜500年に編纂されたインドの宗教文書の総称)の重要な聖典のひとつにウパニシャッドがありますが、これにも「この宇宙は有のみであった。唯一にして、第二のものはなかった」「太初において、アートマンはこの宇宙であり、唯一であった」「この一切万有は実にブラフマンである」との記述がありますが、紀元前の太古の時代にすでに宇宙の本質を直感的に見抜いていたかのような知見に驚きます。
明智(みょうち=分別のある賢明な知恵)とは、(アートマンとブラフマンとは)同一であるという理解であり、無明(むみょう=迷いによる無知の状態)とは、(アートマンとブラフマンとは)異なっているという理解である、と天啓聖典は宣言している。それゆえに、聖典においては、明智があらゆる努力を尽くして教示されている。
『ウパデーシャ・サーハスリー』シャンカラ著 前田専学訳 岩波文庫 p21より
ともあれ、インド哲学によれば、人間と宇宙は真理に目覚めた目でみると究極には同一の存在であるということですが、言葉を換えれば宇宙と同等の潜在力を人間は持っているということでもあります。宇宙というのは最大にして究極の謎ですし、真偽を即座に確かめることは困難です。しかしまぁ、悪い事には懐疑的でいいと思いますが、良い事には過剰に懐疑的であるのは損なので、とりあえずは聖典の示す世界観を信じて、宇宙規模の可能性の大風呂敷を拡げたマインドで自由にこの世を渡ってゆきたいものだと思う昨今です。