
辛いに一本足すと幸せになる

でも、あまり足しすぎると魚の骨みたいになる。
「辛いに一本足すと幸せになる」という言葉がありますね。元ネタがどこなのか気になりますが、それは置いておいて、辛いのはほんのわずかな何か一つが足りないからで、その一つを足せば簡単に幸せはやってくるんだよ、という感じの含蓄なのだろうと思います。このような漢字の造形がそのまま人生訓になっているようなものはけっこうたくさんあって、「人という字は人と人が支えあっている姿である」などは定番ぽいですが、「吐く(はく)」と「叶う(かなう)」もなかなか意味深で面白いですね。「吐」という字は、口・+・ーと分解できることから、口から出るプラスの言葉(感謝、喜び、慈悲など)とマイナスの言葉(愚痴、不平、不満など)を意味すると見ると、そこからマイナスの言葉だけ言わないようにして、プラスの言葉だけ言うように心掛けていけば望みや願いが「叶」いますよ、ということです。気づいた人に思わず座布団あげたくなりました。まぁ、漢字の成り立ちからいえば、プラスやマイナスの記号が元になっているはずはないのですが、そうした時系列を超越した意味を表現できるくらいに「文字」というものにはパワーが宿っているようにも思いますし、こうした偶然の一致めいた部分も言霊的なものを感じます。

話を戻して「辛いに一本足すと幸せになる」ですが、上記のように、今が辛くてもほんの少しのきっかけが一つあれば変われるんだよ!というポジティブなメッセージを表しているのはたしかだと思いますが、逆に、「幸せも、ほんのちょっとした何か一つによって支えられている危ういものなのですよ」という意味も読み取れます。どんなに仲のいい友達同士でも、何の気なしに口に出したほんのささいな言葉で相手をひどく傷つけてしまうことがあります、永い友情がそこであっけなく壊れてしまったりとか、多かれ少なかれ誰でも心当たりがある経験だと思います。幸せは、失ってから気づくことがしばしばありますが、できれば失う前に気づいておきたいものです。
多くの場合、幸せは、いつも「当たり前」だと思っているような所に潜んでいて、その「当たり前」に対する感謝の心を失っていくに従って運勢は下降するように感じます。ネット通販で家にいながらにして買い物ができるのは夏の暑い中(冬の寒い中)運んでくれる運送業の方がいるからですし、いつでもスーパーで食べ物を買えるのはそういう豊かな国を築いてくれたご先祖様たちがいるからです。水道の蛇口をひねるだけで清潔な水が出てくることも、決して当たり前ではなく、世界的に見ても希有な状況です。江戸時代だったら殿様レベルじゃないとなかなか口にできなかったアイスクリームも、今では普通に庶民が誰でも食べれるような時代になってますし、世界中の美味しい果物が近所のスーパーで安価に買えることも考えてみればすごいことです。扇風機すらなかった昔の時代からすればエアコンも魔法の道具です。他にもスマホや飛行機や新幹線やテレビやパソコンやゲームや漫画など、夢のような機械と娯楽に満ちたこの世界、昔の人から見たら現代はびっくるするほどパラダイスなのではないかと感じます。
本当は、感謝してもしきれないくらいの状況がいつでも整っているのが今なのですが、人間の性(サガ)というべきか、どんな快適さにも慣れてしまって、すぐにそれを「当たり前」と思ってしまいます。それどころか、人間は、足りないもの、欠落しているもの、不満なものを見つけるのが得意中の得意です。人間はデフォルトの状態だけで生きていると、不幸になるプロフェッショナルにはすぐなれますが、幸福になることにはアマチュアのままです。
嫌な物事に執着する習慣が続きすぎると、重度にこじれてしまって、ネガティブ性の中に安息してしまう環境ができていきます。怒ったり批判したりするために嫌いな人や嫌な行為を見つけようとしたりしはじめて、あえて自ら進んで毎日をイライラしながら過ごす事になります。冷静に考えれば、楽しいことや面白いことを捨ててまで嫌いな事に注目するなど馬鹿げているようにも思えますが、私の過去の経験からも、そういう状態になると負の感情に浸っていることがある種の快楽になっていくので、自分では気づきにくくなってしまっています。そういう状態であることに気づいたら一刻も早く意識的に抜け出そうという方向に気持ちを切り替えることが必要ですね。
こうした負の感情にあえて浸ろうとする心のはたらきをエックハルト・トールは「ペイン・ボディ」と名付けました。また20世紀ロシアの高名なオカルティスト、グルジェフは似たようなそういう心のはたらきを「緩衝器」と呼んでましたね。さらに数年前にブームになったハワイのスピリチュアルメソッド「ホ・オポノポノ」の中心人物であるヒューレン博士は同様のはたらきを「記憶(いわゆる通常の意味の記憶のことではなく、潜在意識に堆積した不純物を指す言葉)」と呼んで、件の4つの言葉「ありがとう、ごめんなさい、許してください、愛しています」で記憶≠クリーニングする手法を提唱しました。「ペイン・ボディ」「緩衝器」「記憶」はそれぞれ微妙に定義は異なりますが、おおまかには精神の解放にブレーキをかけている心のはたらきを指していることは共通していると思います。これらの心の機能は仏教ではさらに詳細に分析されていますね。肉体だけでなく、心のはたらきも、大部分は無自覚的に自動ではたらいているので、なかなかそうした自分の制御を離れた心の挙動は自覚しづらいですし、そもそもこの自動機能さえ「自己」と同一視しがちなので厄介です。しかしいったん自覚できてしまえばそうした「ペイン・ボディ」的なはたらきに対して意識的に「かかわらない」ようにすることも可能になります。「ペイン・ボディ」と「私の本質(魂、意識、心の根源)」は別物である、という視点に立って、「ペイン・ボディ」の誘惑(ペイン・ボディは、自己否定、諦観、不可能性などのネガティブな感情がエサになっているので、いつもそういうマイナスの感情を引き出そうとしてきます)を何度かスルーしていると、そのうちコツがつかめてきます。
閑話休題。「当たり前」と思っているものほど実は「有り難い」という話題に戻しますが、この私のこの身体も、よく考えてみれば、「人間なのだから人間の身体を私が持っているのは当たり前」だと思っていますね。でも、心臓ひとつ意識的に動かしているわけではなく、爪や髪が伸びるのも、怪我の傷を塞いでくれるのも自分の意志でやってるわけではありません。自分の身体さえ、99%以上は自動運転されていて、「自分」がコントロールしているのは脳のほんの一部を使って身体の一部、手足を操ったり、目や耳で外部の刺激に反応してみたり、あとは悩んだり喜んだりする「思考」を弄んでいるだけです。ヨガのマスターでもない限り、多くの人々は身体のわずかな部分しかコントロールできてないのですから、身体もまたこの世に生れ出るために用意された神様からの授かり物なのではないか?と思えてきます。よくスピリチュアルな思想の多くでは「自分を愛せ」といいますが、これはなにも自己中心的になれということではなく、自分と思い込んでいるものの9割以上は実際は自分の所有物ではなく超越的な存在からの授かり物なのだから大事に扱いなさい、という意味もあるように思います。
そういえば、この前何かの機会で知った「おお!」と思った言葉があります。ご存知の方も多いと思いますがそれについて少し語ってみようと思います。うろ覚えですが「かがみ(鏡)≠見ればが(我)≠ェ映る。我を無くして鏡を見ればかみ(神)≠ェ映る」という感じの言葉です。「かがみ(鏡)」という3音節の名詞の真ん中には「が(我)」があります。また、その「が(我)」を取り払ってみると「かみ(神)」が残ります。なかなか上手くできてるなぁと感心しました。

身だしなみを確認するために日常覗いてる鏡には「我」である肉体の自分の顔がただ映っているだけですが、我を取り払った魂の境地で自分の顔を見れば、そこに映るのは自分であって自分ではないもの、自分だとばかり思っていた神からの有り難い授かり物である宝物のような身体が映っていることに気づくのでしょう。そういえば鏡をご神体にしている神社は多いですし、そもそも古事記に描かれる三種の神器のひとつは鏡です。合わせ鏡にすると一挙に万華鏡のような無限の空間が生まれるのも不思議な性質です。鏡の中の世界は、この現実世界とまったく同じに見えるのに、鏡の中には実際には何もない、という所も、般若心経の色即是空、空即是色を物質化したかのような含蓄を感じます。もしかすると鏡というのは、目に見えない次元ではスゴイ役割をしてる霊的物体なのかもしれませんね。

「鏡の国のアリス」 ジョン・テニエル画 1871年

合わせ鏡の中の迷宮