2017年10月17日

バベルの塔とバベルの図書館

バベルの塔について

「さあ、町と塔を建てて、その頂を天に届かせよう。そして我々は名を上げて、全地のおもてに散るのを免れよう」
旧約聖書・創世記:11章



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19世紀フランスの画家、ギュスターヴ・ドレ(1832-1883年)の描くバベルの塔の版画。頂上が雲で見えなくなってしまってる荘厳な描写が圧巻です。天に届くかのようなものすごい高さを暗示させる絶妙な表現ですね。人々が塔の周囲で嘆き悲しんでいる様子ですが、ちょうど神の技で言葉を乱され互いに意思疎通が不可能になった瞬間を描いているのでしょうね。人々は互いにコミュニケーションがとれなくなってしまい、塔の建設どころではなくなっている、という場面ですね。

塔というのは、実在の建築物として存在していながらも、もともと居住を目的とする建物というイメージは全く無く、それゆえ実用を超えた目的性が、ある種の違和感を呼び起こし、どこか見えない世界の超越的な事象を寓意的に表しているいるかのような、不思議な印象を抱かせます。そうした意味での塔というと、まさに聖書に登場するバベルの塔、あの人類の潜在意識の雲間を破ってそびえ立つかのようなバベルの塔の強烈なイメージがやはり大きく影響しているような気がします。塔全般に惹かれるところがありますが、とくにバベルの塔は、人類の共同無意識めいた未踏の場所にそびえる塔でありますから、そのような、無限に空にそびえる魔性の塔のイメージに遊ぶことはとても甘美な愉しみを感じます。

バベルの塔の最も著名なイメージはピーテル・ブリューゲルによる2枚のバベルの塔の油彩画であろうと思いますが、個人的には、もうちょっと高い塔が好みなので、ギュスターヴ・ドレやアタナシウス・キルヒャーの版画に描かれる異常に高いバベルの塔のイメージのほうにより惹かれます。神話の世界の話にでてくる塔なので、実在したかどうかはともかく、「本物のバベルの塔」というものを見た者はいないわけで、だからこそ画家にとっては想像力をかきたてるチャレンジしがいのあるテーマであるに違いありません。

バベルの塔の伝説のルーツは旧約聖書の創世記11章の序盤にあるわずか十数行程度の記述で語られる物語です。通説では、天に届くような塔を建てようとすることは、神と等しくなろうとする人間の傲慢であって、それが神の怒りにふれて民の共通の言葉を混乱させて意思の疎通ができないようにしたため、塔の建設を諦めて各地に散った、とあります。バベルの塔を象徴しているといわれるタロットカードの塔のカードでは、天の怒りを表すカミナリが塔に落ちて塔の上部にいた人々が足場を失って落下する様子が描かれているので、なんとなくバベルの塔は神の雷(いかづち)で破壊されたかのようなイメージがありますが、聖書の記述では、神が民の言葉を混乱させたことで、塔の建設を諦めたという話になっていますね。つまり神が塔を壊したわけではなく、人間側が単に塔を建造するのを途中で止めた、ということですね。神が人類の言葉を混乱させた、というところから町の名前がバラル(乱す)とバビロンをかけてバベルとなった、とのことですから、正確にはバベルというのは塔につけられた名前ではなく、塔を建てようとした町の名前なんですね。バベルという響きにも長年に渡って人類がその言葉の中に様々なイメージを練り込んできたおかげで、独特の怪し気な波動を発するユニークな単語になっているように感じます。

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タロットカードの「塔のカード」

バベルの塔の事件が起こる前には、あのノアの箱船の物語がありますから、つまりはバベルの塔建設を企てたのは大洪水を生き残ったノアの子孫ということになります。地球を飲み込む大洪水という、未曾有の危機を乗り切った人類の生き残りがこの話の主要なキャストなわけで、だからこそ、「全地のおもてに散るのを免れよう」、つまり生死を共にした絆の深い親族たちとずっといつまでも健やかに一緒に暮らせるようにと町を作ろうとしたわけですね。人情としてすごく理解できるので、そうした人間達の結束を壊すのは神のイジワルのようにもみえます。しかし、一カ所に固まって暮らしてたら、天災や事故などで人類が絶滅するリスクが高まりますから、神としては、人類の種の保存のために、各地に散らばらせていろんな環境に適応させたかったのかもしれませんね。

そうしたことからも、私が思うに、天に届くような塔を建てようとすること自体は神的にはどうでもよくて、せっかく生き残った人類が狭い町に固まって生活しようとすることにダメ出しをしただけのようにも感じます。バベルの塔というのは傲慢の象徴というよりは、わずかに生き残った人類の結束のシンボルという印象をうけます。前代未聞の大洪水を経験している生き残りの子孫ですから、また洪水が起こっても水没しないだけの高い建物を作ろうと考えるのは傲慢どころか、普通の人間心理ともいえます。しかし神の視点で見れば、大洪水で数が激減してしまった人類が一カ所に固まって暮らすというのは生存の可能性を狭めるだけのリスキーな選択でしかなく、愛のムチで人類の言語を混乱させて人々を世界に分散させることのほうが大局的には人間のためであると考えたのかもしれません。「生めよ、増えよ、地に満ちよ」(創世記:1章)というのが当初から人間に与えられた神の指令ですから、そういう意味では一貫しているともいえます。と、まぁ、筆に任せて適当に解釈してみましたが、創世記は聖書の中でもとくに寓意に満ちた神話的な部分なので、いろいろ想像がふくらみますね。

ノアの箱船の残骸が発見されたとか、バベルの塔は実際にあった、とか夢のある仮説もいろいろあるようですが、神話の中の話だと思われていたトロイの遺跡を発掘したシュリーマンのような前例もありますし、聖書の寓話も、何らかの実話を元にしている可能性もあるかもしれませんね。

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ピーテル・ブリューゲルによるバベルの塔はふたつのバージョンが現存していて、1563年作(左)と1568年作(右)です。2作目のほうがより高く重厚感が増していて、2枚を並べてみると、作りかけだった塔が完成していく様子を時系列で眺めている感じで面白いですね。先日の「バベルの塔展」で来日したのは塔建造の完成に近づきつつある様子の2枚目のバージョンのほうです。生で見れた人がうらやましい!ブリューゲル以前のバベルの塔の図像は円錐形よりは四角い筒のような形状の教会風のデザインの塔をみかけますが、もしかするとお馴染みの螺旋状の塔の形状もブリューゲルがハシリだったのでしょうか。

バベルの塔のビジュアルイメージといえばブリューゲル。ブリューゲルのバベルの塔といえば、先日まで東京、大阪で開催されてた「バベルの塔展」ですが、行こうかな〜どうしようかな〜と思っているうちに結局行きそびれてしまいました。そのうちまた縁があれば見てみたいです。調べていくとブリューゲル以外にもバベルの塔を描いた画家はたくさんいて、けっこういい感じのものもあります。ブリューゲルの塔は、自分が想像しているバベルの塔よりも低く、もっと天を突くくらいの高さが欲しいと常々思ってたのですが、そういう絵も調べてみるとけっこうあって、そうした絵を見てると空想をかきたてられて楽しいです。

アタナシウス・キルヒャー(1601-1680)といえば、主に荒俣宏の啓蒙で日本でも広く知られるようになった17世紀のドイツ出身の奇想の博物学者ですが、そのキルヒャーの本に、ブリューゲルよりバベル度の高いバベルの塔が載っていて、とてもいい感じの雰囲気です。神話的な塔であるにもかかわらず、建築の図面のように図鑑の絵らしく真面目に描かれているので、かえって奇妙な雰囲気を醸し出してしまっているのがキルヒャー流といった感じですね。

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アタナシウス・キルヒャー著『バベルの塔』に所収されているバベルの塔の版画。(ニューヨーク公共図書館・デジタルコレクション より)

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こちらも同書に所収のものと思われるバベルの塔。
上記のと違って、こちらはブリューゲル版のバベルの塔をスタイリッシュにしたようなフォルムでお洒落ですね。1679年の作品のようですが、どことなくロシア・アヴァンギャルドのアーティスト、ウラジミール・タトリン(1885-1953)の代表的な作品、「第三インターナショナル記念塔」を思わせる雰囲気もあって、現代的なかっこよさを感じますね。


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赤瀬川原平著『櫻画報激動の千二百五十日』青林堂 1974年
なんともシュールな「バベルの青林堂」。件の「アカイ、アカイ、アサヒ、アサヒ」のアレで、朝日ジャーナルの回収騒動を起こしたことで知られる赤瀬川原平の初期の代表的な仕事のひとつ『櫻画報』をまとめた作品集からのヒトコマです。朝日ジャーナルの連載が打ち切りになった後に漫画雑誌「ガロ」に発表の場を移したことをユーモラスに表現しています。ガロの出版社、青林堂といえば作家に原稿料を払えないほど厳しい経営状態が慢性的に続いていたのは有名で、朝日ジャーナルでの問題のコピーをもじって「アカイ、アカイ、アカジ、アカジ」と書き入れていますね。茶化すだけでなく、掲載の場をつくってくれた青林堂をバベルの塔のような立派すぎる社屋で描き、あからさまにヨイショしてるのが原平さんらしくて笑えます。この後、青林堂の経営はさらに厳しくなり、80年代には材木屋の二階に間借りして編集を続けたのはもはや伝説的な語りぐさになりました。とはいえ、原稿料が出ないかわりに作家の作品に編集が一切手を入れないという独自のシステムにより、自由な表現の場を求める有名無名の錚々たる作家達を惹き付け続け、日本のアンダーグラウンドカルチャーの重要な育成機関になっていたので、とくに漫画文化の躍進を裏で支えていたのはガロのような雑誌だったのかもしれません。

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ちなみにこの本、昔古書店で手に入れたもので、原平さんのサイン入りです。家宝ものですね。哲学的空想とシニカルなユーモアあふれる独自の表現で日本の戦後芸術に影響を与えてきた原平さんでしたが、生活そのものを芸術として遊ぶような、人生を楽しむセンスも今も学ぶ所が多いです。

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ロジェ・カイヨワ著『文学の思い上がり その社会的責任』中央公論社 1959年
原題は『Babel, orgueil, confusion, et ruine de la littérature(バベル、誇り、混迷、文学の荒廃)』で、バベルの塔のことについて書いてある本ではなく、辛辣な戦後文学の批評がテーマです。単純に装丁に使われている原題からのBABELの文字がかっこよかったので入手しました。束に金色のインクが塗られていてお洒落な本です。中身は超辛口の文芸批評ですが、フランス人批評家らしい知的な語り口が絶妙に刺々しさをオブラートに包み込んでいる感じのポエティックな文体で、勉強になりそうな本です。



メモ参考サイト
「バベルの塔、教訓と絵画集」(のぶなが様のサイトより)
いろいろなバベルの塔を紹介されています。

ブリューゲル以前のバベルの塔。15世紀の画家、マイスター・デ・ミュンヘン・レジェンダ・アウレア(Meister der Münchner Legenda Aurea)の作。
ブリューゲル以前のバベルの塔は宗教色が濃い感じで、塔の形状も教会っぽいゴシック様式ですね。神が怒りだすほど高い塔に見えないですが、そんなところも愛嬌があって微笑ましい図像です。この高さで神罰がくだるなら、現代ではマンションや団地でさえ普通にこれより高いですから、東京都庁とかサンシャイン60とか、かなりけしからん建物ということになりそうです。

ルーカス・ヴァン・レッケンボル (Lucas van Valckenborch 1535-1597)のバベルの塔。1594年作(ウィキペディア・コモンズ)
ブリューゲルのバベルの塔の建設がさらに進んだ感じの雰囲気で、だいぶ完成に近づいてきてる様子ですね。

トビアス・ヴェルハヒト(Tobias Verhaecht 1561-1631)作のバベルの塔。
コロッセオを積み上げたようなスタイリッシュなローマ様式の建築がいいですね。天に向かって増殖していく塔の階層構造がかっこいい!

ポール・ゴセリン(Paul Gosselin 1961- )によるバベルの塔。
現代のベルギーの画家による2011年の作品。昆虫の巣みたいな感じですね。たしかに、ブリューゲル系のバベルの塔を完成させると、仕上がりはこんな感じになるでしょうね。こうして見ると、やはりバベルの塔は未完成だから美しいものなのかもしれません。

イラクの螺旋の塔、マルウィヤ・ミナレット(ウィキペディア・コモンズ)
イラクの至宝と評される螺旋式の塔、マルウィヤ・ミナレット(Malwiya Minaret)もバベル感のある神秘的な塔ですね。852年に建造されたこのミステリアスな塔は、螺旋状に天に伸びる形状が神話的でぐっときます。調べてみると、そもそもドレやブリューゲルをはじめとした西洋人の描くバベルの塔のイメージは、まさにこのマルウィヤ・ミナレットがモデルになっているそうで、言われてみるとさもありなんといった感じですね。




バベルの図書館について

バベルの塔は、もしも神様のダメ出しが無かったとしたら、無限に天に向かって建造されていったのかもしれませんね。バベルというと、以前の塔をテーマにした記事でも触れたホルヘ・ルイス・ボルヘス『バベルの図書館』が思い起こされます。バベルの塔の全ての階に本棚を設置して無限の本を収納していくというのはビブリオマニアの甘美な空想ですが、ボルヘスの想像した図書館は、そういう判りやすい構造ではなく、塔というより宇宙そのものを図書館に見立てたような突拍子も無いアイデアです。寺山修司を心酔させた南米文学を代表する巨匠だけあって、その哲学的で深遠な作品は読む者を思考の迷宮に誘いこみます。

その宇宙(他の人々はそれを図書館とよぶ)は、中央に巨大な換気孔がつき、非常に低い手摺(てすり)をめぐらした不定数の、おそらく無数の六角形の回廊から成っている。どの六角形からも、はてしなく上下の階がみえる。回廊の配置は不変である。一辺につき五段の長い棚が二十段、二辺を除くすべての辺をおおっている。その高さ、すなわち各階の高さは、ふつうの図書館の本棚の高さをほとんどこえていない。棚のない一辺はせまいホールに通じ、それは最初の及び他のすべてのものと同じもう一つの回廊に通じる。(p55)

言いかえれば、あらゆる言語で、およそ表現しうるものはすべてである。そこにはあらゆるものがある。未来の詳細な歴史、大天使の自伝、図書館の信ずべきカタログ、何千という偽のカタログ、これらのカタログの虚偽性の論証、王たちのグノーシス派の福音書、この福音書の注釈、きみの死の真実の記述、それぞれの本のすべての言語による翻訳、すべての本の中でのあらゆる本の書きかえ。(p58)

ボルヘス『バベルの図書館』より

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(ホルヘ・ルイス・ボルヘス著 篠田一士訳『伝奇集』所収 集英社 1984年)


ボルヘスの「バベルの図書館」は、六角形が基本構造になっています。6という数字は数学的にもユニークな数字で、自然数で最初の完全数でもあります。完全数とは自分自身を除いた全ての約数の和がそれ自身と等しくなる数のことです。6の場合は、約数が1、2、3で、それらを全て足すと1+2+3=6となり、それ自身と等しくなります。また六角形というのは自然界では蜂の巣などにも見られる頑丈な構造(ハニカム構造)で、工業的にも有用なものですし、亀の甲羅や雪の結晶や水晶の結晶など、自然界の様々な場面で六角形が姿を現します。おそらく、そうした暗示もバベルの図書館の構造にはあるような気がします。

図書館のイメージとしては蜂の巣のような感じで同階層の前後左右に無限に連なり、また上下にも階段を通じて無限に空間を埋め尽くしているという感じで、前述したとおり「バベルの」というわりには「塔」のイメージとはほど遠い建造物といったイメージです。どことなく映画『CUBE』の部屋の構造(こちらは六角形ではなく立方体ですが)にも通じるようなところがありますね。上下左右に無限に部屋が連なっているということは、すべての空間がこの六角形の部屋で埋め尽くされているということであり、これはボルヘスも最初に「その宇宙」と言っているように、まさに別世界のもうひとつの風変わりな宇宙そのものです。その宇宙ではたくさんの本が書架に並んだ無数の六角形の部屋だけで宇宙の全ての空間を満たしているという異様な世界です。

想像してみると、上の階層に行きすぎれば登山のように酸素が薄くなりそうですし、ものすごく下の階層では気圧もものすごいことになってしまわないだろうか、とか心配になってきます。まぁ、こういう宇宙であれば、「そもそもどこから酸素が供給されているのか?」などといった疑問も含めて、こういう宇宙なりの都合に合わせた物理法則がありそうですし、全ての空間における気圧やら重力やらの設定値は一定に保たれてるのかもしれません。しかし、本を収めるための部屋しか存在しないような宇宙では、本を書くにしても、読むにしても、この本だらけの部屋について以外のことは経験できないはずですし、読書体験を生かすための外の世界もありません。空の青さや広さという概念すら想像で補うしかない状態では、物語というのが成立しがたく、そもそも本に書かれた内容を理解するための最低限の素養や人生経験が無い状態での読書とは何か?とか、考えだすと思考の迷宮に入り込むような感じです。ボルヘスはあえてそういう切り口では書いていないため、逆にそういう諸々の思考実験を楽しめる余地があり、そうした所もこの作品の魅力なのかもしれません。

まぁ、この図書館のイメージは、そのように物理的な実在としてヤボなつっこみをいれても意味はなく、それは書物フェチの妄想する観念の遊戯としての世界ですから、ボルヘスといっしょにこの異様な図書館に入り込んで、思う存分に夢の迷宮世界に遊び、その官能の世界に浸りきるのが正しい読者の在り方ではありますね。

ところで映画『CUBE』では、上下左右に無限に連なった立方体に登場人物たちはいつのまにか閉じ込められていた、という設定でしたが、「バベルの図書館」でも同様に、この話に登場する語り手や司書たちといった登場人物は、入り口も出口も無い「バベルの図書館」という壮大な閉鎖世界にどうやって入り込んだのか?という肝心な部分の詳細をあえてぼかしているために、カフカや安部公房などの作品に通底するような不条理な感覚がありますね。

しかし、よく思い起こしてみれば、私たちもまた、「バベルの図書館」を徘徊する司書達と同じように、この宇宙にあるこの世界に、理由も目的も知らされないままに産み落とされて、いつのまにか存在しているわけですし、『CUBE』の登場人物たちが自分たちのいる立方体の部屋について何の情報も持たないまま置き去りにされているのと同じように、この宇宙はどういう仕組みで何のために機能している世界なのかを知らない状態で私たちは生きています。そういう意味ではボルヘスやカフカなどをはじめとした文学や映画などの不条理劇は、単に不条理な物語というよりは、我々の現実の実存をそのままリアルに写し出している鏡のような世界でもあります。「バベルの図書館」は、人生や宇宙の謎を図書館に収蔵された書物に例えて、自らが生まれ落ちたこの世界の謎を読み解こうとする人類の営みを寓意的に象徴しているのかもしれませんね。


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映画『CUBE』ヴィンチェンゾ・ナタリ(Vincenzo Natali)監督 1997年 カナダ
低予算作品ながら抜群に面白い発想とシナリオが人気を呼んだ『CUBE』、後年いくつかの類似作品が作られましたが、やはり原点であるこの作品を凌ぐことはできませんでしたね。無限に連なる立方体の部屋に閉じ込められた7人の登場人物による脱出劇です。素数などの数学的要素がカギになってるあたりもツボでした。


メモ参考サイト
バベルの図書館の図解「草子ブックガイド 早稲田文学編 第6回」(玉川重機様)(PDF版)
ボルヘスの「バベルの図書館」を漫画家の玉川重機さんが絵で丁寧にビジュアルに説明されています。たしかに文章だけでバベルの図書館の構造をイメージするのはけっこう難しいので、こうした噛み砕いた解説はとても参考になりますね。

「バベルの図書館」の構造(pastel-gras様のブログ「集積---イメージ・ことば」より)
記事によりますと「バベルの図書館」が収録されている短編集『伝奇集』は初版の1944年版と後の1956年版とでは図書館の構造に関する重要な部分に加筆修正がされているという興味深い指摘がされています。最初のアイデアでは、「バベルの図書館」はバベルの塔のイメージをそのまま象徴する感じで上下に無限に伸びる塔ような構造だったみたいですね。

「バベルの図書館」のビジュアルイメージ(Googleイメージ検索)
ボルヘスの夢想した図書館は、具体的にどういう構造で、どういう見た目なのかというのは、ボルヘスファンでかつ絵心のある人ならチャレンジしたくなるテーマですね。案の定、多くの絵師により様々なビジュアルイメージが作り出されているようで、見ているといっそう空想に拍車がかかりそうです。

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「バベルの図書館」を再現したサイト(ジョナサン・バジル様)
web上で「バベルの図書館」を仮想体験できる風変わりなサイト。作成したのはニューヨークの作家ジョナサン・バジル(Jonathan Basile)氏。アクセスして「Browse」をクリックすると図書館に入り込めます。原作に書かれている設定どおりに、六角形の部屋の壁に本棚が設置されており、すべての本は410ページで構成されています。使い方をいまいち理解していないのですが、任意の書架をクイックすると本棚が正面に現われるので、適当な本をさらにクリックすると中身が閲覧できます。文字列はランダムに生成されるようなので、意味のある文章が出てくるまで本を物色してたら人生が終わってしまいそうです。

「バベルの図書館」の蔵書数は?(「巨大数研究 Wiki」様)
我々の宇宙の広大さと物質のバリエーションに較べたら、六角形の部屋が重なってるだけの単調な「バベルの図書館」という名の宇宙は、さほど驚愕するにあたらない世界のように思ってしまいますが、「バベルの図書館」の蔵書数を実際に計算すると、上記サイト様の計算によれば、その蔵書を全て収める図書館を作るためには、どうやら現在観測可能な我々の宇宙を軽く上回る程度に広大な敷地を必要とするようですね〜

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塔のロマン
posted by 八竹彗月 at 11:16| Comment(0) | 古本
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