2017年09月03日

関口野薔薇 ヨガナンダに師事した日本人

よく出向く古本市に散歩がてらぶらりと出かけ、心地よい古い紙の匂いの立ち籠める本棚を順繰りに眺めていると、なにやらピピピ!とアンテナが合図してくる本が目に入りました。この日はすでに関心のあるテーマの安価でレアな本をいくつか見つけてカゴに入れていて、なんだかこの日は面白そうな本が集中して見つかる古本の特異点みたいな日のような予感がしていただけに、このピピピ!には何かありそうだ、とわくわくしてきました。

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『─運命の謎解く─ 宇宙と人生』、『─精神力、神通力─ 霊術秘書』、『─神の国の奥義─ 魂の本性』
伊東一著 昭和37年(1962年)不二学会発行
怪し気なオーラがたまらないです。


アンテナが合図してきたのは、黒に近い紺色の背表紙が数冊ならんでいる本棚の一角でした。濃紺の背表紙には『─運命の謎解く─ 宇宙と人生』、『─精神力、神通力─ 霊術秘書』、『─神の国の奥義─ 魂の本性』という、なにやら怪し気なオーラを放つ一連の本で、それらの著者は伊東一という聞いた事の無い著者のものでした。後にネットで調べても、いくつかの著書が国会図書館に所蔵されている記録があるだけで、詳細が全く不明の謎の著者です。ざっとページをめくってみると内容的には精神世界の研究者らしい人物で、オカルトから宗教まで幅広く精神世界にかかわりながら人間の究極の幸福とはいかなるものなのかを探求した昭和のスピリチュアリストという感じです。書名的には『宇宙と人生』に惹かれたので、もし1冊だけ手に入れるならコレかな、とカゴに入れるも、『霊術秘書』の、どことなくネクロノミコン的な怪し気な響きも捨てがたく、ええい!これもコレクションとして押さえておこう!とついついそちらもカゴに。残るは『魂の本性』という本ですが・・・いくらなんでも全く正体不明の著者の本を3冊も購入するのはいかがなものか!と理性がささやきます。

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『霊術秘書』のトビラと目次。いかにも奇書っぽい感じがそそりますね〜

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著者の伊東一氏の近影。なんとなく昭和の校長先生風というか、宮武外骨っぽい剛胆な雰囲気ですね。一体何ものなのでしょう。気になります。

まぁ、精神世界の本に限らず、だいたいひとりの著者の思想は他の著書でも変わらないものなので、2冊もあれば十分な気がしてたのですが、それでも何かひっかかって、『魂の本性』を手にとり、ページをなにげなくめくっていたら、なんとここ最近ハマっている聖者ヨガナンダの名前が!!ヨガナンダに関する記述は、著者の伊東一本人のものではなく、昭和のヨギーとして知る人ぞ知る関口野薔薇が雑誌『心霊文化』(昭和35年1月3日発行)に寄稿した文章の引用でした。

この本の発行は昭和37年、つまり1962年で、ヨガナンダの主著『あるヨギの自叙伝』のはじめての日本語訳が『ヨガ行者の一生 聖者ヨガナンダの自叙伝』という題名で関書院から出版されるのが昭和34年(1959年)です。まだヨガ自体もマイナーだった時代に、ヨガナンダの自叙伝が発売されて間もない当時の日本で、ヨガナンダの本はどのように受け止められ、またどう当時の日本に影響を与えていたのかを知る興味深い記事です。ヨガナンダがマイブームの自分にとっては、小気味いいシンクロニシティです。この古本市に来たのもむしろこの本をゲットするための伏線だったような気がしてきます。

後で調べてみると、関口野薔薇(1888〜1967年)は、米国カリフォルニアに在住して実際にパラマハンサ・ヨガナンダに師事しヨガを学んだことのある神秘思想家のようです。生前のヨガナンダを身近に知る日本人が書いたヨガナンダに関する記事ということですから、これはなかなか貴重な記事なのではないでしょうか。以下、伊東一著『魂の本性』より該当の関口野薔薇の文章を抜き出してご紹介します。

「聖者ヨガナンダの自叙伝」を称揚す
関口野薔薇

 筆者の恩師ヨガナンダ先生の自叙伝(英文)が米国で出版されたのは1946年の事であった。その後の十年間に、この書はフランス、オランダ、スウェーデン、ドイツ、ベンガリ、アラビア、イタリア、ギリシャ、スペイン、ヒンディの十カ国語に翻訳されて、欧州各国はもちろん、東洋諸国、オーストラリア及び南米の人々にも愛読されるようになったが、いずれの国でもこの書はベストセラーとして売れ行きつつあるのである。
 その後ポルトガル語の訳本が出来、次いでアイスランド語のものが出版され、1959年(昭和34年)になってはじめて、日本語訳が京都の関書院から発売されるようになった。米国版を第一として数えると、日本版は第14番目にあたる。世界の宗教思想を己が国に取り入れる事において、日本はいささか遅れをとった形だが、これも近き将来には必ずベストセラーのひとつとして数えられるに至るであろう。そのわけを筆者が説明する必要はない。日本にも心の目の明いた人々が多くいる事だから、それらの人たちがこの書の尊さを民衆に紹介してくださるであろう。
 禅仏教を奉ずる日本の人たちは、ヨガをユウガと発音して呼んでいる。しかしこれはヨガ(Yoga)と呼ぶ方が正しいので、その意味は「神と人を結ぶ道」、または「聖(きよ)き彼岸に至る道」ということである。そしてこの聖き道を日々歩みつつある人、彼岸を指して人生の渡舟場(わたしば)を渡り行きつつある人々を、インドではヨギ(yogi)と呼ぶのである。

 どうした間違いか知らぬが、日本の識者の中にもヨガとは「角兵衛獅子(かくべえじし=新潟発祥の郷土芸能、大道芸の一種)」の真似をしたり、または「カルワザ師」のような芸当をする事だと心得ている者があるらしい。「ヨガナンダの自叙伝」(=「あるヨギの自叙伝」)の日本語訳が各地の書店に現われると間もなく、ある日本の有識者が米国のヨガ教団の本部に手紙を出し、「ヨガナンダの自叙伝はヨガ行法の初伝と思われるが、我々は初伝でなく、奥伝としての行法を勉強したいのである」と書送っている。彼らは「角兵衛獅子」のような絵の入った書物を「ヨガの奥伝」だと思っているらしい。
 また「この書には、クリヤ・ヨガの必要性を論じながら、実際上の行法を教えていない。その行法を一日も早く教えて欲しい」という意味の手紙を、本部に送った者もある。
 あるいは「ダヤ先生のそばで直接勉強をしたいと思うが米国に行く機会がないので、何卒今後よろしく手紙をもってご交際をお願い申し上げます」と教団総理のダヤ女史に宛てて手紙を出した青年もある。
 かつて映画スターの京マチ子さんが米国を訪れたとき、ロスアンゼルス在住、日本人の野遊会に彼女を招待したことがあった。すると日本人の大多数は彼女を取り囲み、我れ先にと争いながらマチ子さんの前に進み出で、所持せる手帳や扇子にその署名を懇請した。その数幾百人か数えきれぬほど多数なので、マチ子さんは困り果てて、ついにどこかに姿を隠してしまった。
 それとこれとは相似たことだが、一日に五分間もゆっくり休む暇のない大多忙のダヤ総理に向かって「書面をもってご交際を乞う」とは、非常識も甚だしいものである。人の立場も考えず、自分の身分も顧みないでこれは日本人の悪い癖だが……目上の人に署名を求めたり、「手紙をくれ」と呼びかける事は失礼千万な行為である。もちろん、ダヤ先生は常にニッコリ微笑していて、決してお怒りになるような人ではないけれども……。

 さて、筆者の過去70年の生活において、筆者は何万巻の書物を読んだか、その数を数える事はできない。最近は一年に少なくとも4、5百冊ずつの本を読んでいる。そしてこの読書の結論として筆者のいいたいことは、この「聖者ヨガナンダの自叙伝」こそが、筆者の読んだ書物の中で第一位の優良書であるということである。
 キリスト教信者が同教の聖書を、そして仏教徒が仏教の経典を(例えば大無量寿経とか、法華経の如来寿量品とかいう経巻を)いくら読んでも飽きないように、万教一体を信ずる筆者は、このヨガナンダ先生の書かれた自叙伝を、いくら読んでも飽く事なく、この書の中から日々夜々に「心の糧」を頂戴しているのである。
 そのゆえにこそ、今日の分派宗教に満足せずして、真理を万教の中に求めようとしている求道者に対し筆者はこの「ヨガナンダの自叙伝」を三読・七誦せられるようにお勧めしてやまないのである。
「この書はヨガの初伝だ」などと呼ぶのは何というタワゴトであろう。この書は二度や三度読んだだけで判るような単純な本ではない。かつお節やスルメではないけれども、噛めば噛むほど味の出てくる。思想上の妙書なのである。繰り返して読めば、その読むたびに、書物の中から新しい真理を教えられるのである。

 最後にもう一言付け加えておきたいことは、ある人々が「クリヤ・ヨガの行法を教えて欲しい」とか言って、教団の本部に手紙を出している事についてである。そうした不謹慎は止めて欲しいものである。筆者がその著書「原始基督教学」の中にハッキリ書いてある通り、およそ世界的大宗教には顕密の両側面があり、その密教に属する部分は万人に公開すべきものではなく、特殊の選ばれたる人にのみ授くべき秘密の法なのである。
 筆者の知れる日系第二世に、ハリウッドの教会でクリヤ・ヨガの瞑想法を習得したが、後にこれを我欲のために乱用したため、ついに悪霊の憑依を受けて、半狂人と化した人がある。なんでも自分の心が潔くならぬ間は、決してクリヤの伝授などを懇請すべきではない。
 まず自らの心の態度を改めよ。心の態度が整ったなら、神は必ずその人にクリヤ・ヨガの行法を授けたまうであろう。
 中里介山の小説に見る机龍之介(=小説『大菩薩峠』に登場する残忍で無鉄砲な剣士)に、正宗の名刀を与えたらどうなるであろうか。吉川英治の宮本武蔵でさえも、正宗の名刀を腰に帯びる資格はない人間である。「絶対に人を切らぬ」と心の誓いが出来た人にのみ、天下の名刀を持たすべきである。
 クリヤ・ヨガを修得すれば、他人の活殺が自由自在にできる。人を助ける事はするが、人を殺すことはせぬと心に誓いを立てた人にのみ、聖師はクリヤの行法を授けるのである。

 インドのことわざに、「弟子のあるところ、必ずそこに師が現われる」とある。「師のあるところ、そこに弟子達が集まる」と、インドでは言わないのである。
 大師は常にいますのである。大師は時間と空間を越えて永遠に、また普遍的に生きていたまうのである。まず自らの心を清めて、聖なる法(のり)の実践者となるべくまた真実なる弟子となるべく我が魂の目的とその置き場とを確立せよ。必ず読者の師が(誰かが)諸君の面前に姿を示して、クリヤ・ヨガの行法を授ずくる日がくるであろう。
 ある日本人は自分の修行のために真理を求むるのでなく、他人の師匠となり、自ら知らざる癖に人に教えようとして真理を求めている。こうした安価な教師が(または教師志願者が)日本に多いことは、これ日本宗教界の癌とでもいうべきであろう。
 インドのことわざに「牛の尾となるはよし。されど狐の頭となるなかれ」という言葉があるが、ヨガの行者は狐の頭となることを自禁せねばならない。

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伊東一著『神の国の奥義 魂の本性』 不二学会 1962年(昭和37年) p86〜90より引用


たしかに私も『あるヨギの自叙伝』を読みながら「ところでクリヤ・ヨガってどんなヨガなの!?」という疑問はありましたが、『あるヨギ〜』の中で述べられているのは、クリヤ・ヨガは不死のヨギー、ババジ直伝のヨガの奥義で、数あるヨガの修行の中ではダントツに強力に悟りに導く秘法ということですが、そのかわり伝授するには伝授される側の準備が整っていないと効果が無いとも書かれています。関口野薔薇も書いているように、普通にヨガや瞑想などで精神鍛錬して一定のレベルに到達し、自らに受け入れる準備が整えば、おのずとクリヤ・ヨガが伝授されるチャンスが巡ってくるのでしょうし、あれこれと詮索する部分ではないのでしょうね。

気がついたら、当の著者である伊東一についてほとんど触れずじまいの記事になってしまいましたが、読んでいくうちに、なにか面白い発見があれば、いずれ項を改めてご紹介したいと思います。

この本に限らず、昭和初期〜中期あたりの時期に書かれた精神世界の本は、まだジャンルとして超マイナーだっただけに、聞いたことも無い著者の妖し気なインパクトのある面白そうな本がまだまだけっこう埋もれていそうです。実は、そういった系の本も何冊か集まってきたので、いずれ機会があればご紹介しようと思います。
posted by 八竹彗月 at 10:38| Comment(0) | 精神世界
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