今回テーマは落款(らっかん)ですが、これは書道の作品によくある隅っこに捺されている赤いハンコのことです。これがまた奥が深くて、たんに作家の名前を入れたハンコだけでなく、画面に独特の調和を醸し出すために身分、干支、年号、季節などさまざまな意匠を凝らしたハンコを押すような慣習が元の末期(1300年代頃)に生まれたようです。こうした、単なる署名の意味を超えて画面の調和を出すために作品の一部として積極的に捺す落款の文化が生まれました。この中国美術の慣習が日本にも伝わり、平安時代あたりから日本の書画人も落款を署するようになっていきます。

郎 世寧『白鷹』(部分)清朝
空間の中央に風雅に留まっている白鷹を囲むように絶妙なバランスで配置された落款が美しいです。絵師の郎世寧(ろうせいねい)とは清朝の宮廷画家として皇帝に使えていたイタリア人、ジュゼッペ・カスティリオーネ(Giuseppe Castiglione)の中国名です。その西洋画の技法を中国画に取り込んだ魅力的な作品の数々は目をみはる素晴らしさがあります。
ただ、やはり日本では落款はあくまで署名捺印の意味合いが強く、あまり落款を主体にした作品は見かけないので、私も落款はたんに署名的な意味合いでみていました。しかし中国美術をいろいろ調べていくと、落款そのものが主体になっているような作品があることを知り、その面白さに惹き付けられているところです。ハンコを見せるために作られたような作品など、ある意味すごく前衛的なのですが、それらが700年以上も前の作品であったりすることに心地よい衝撃を受けました。落款の面白さは、印が捺されることで生まれる空間の美学にあります。何も描かれていない空間の広がりを印を捺すことでより「空間」を強く認識させたりするところは、手塚治虫が何も音がしない無音の空間に「シーン」とあえて擬音≠入れることでより無音であることを意識させたことを連想しました。落款によって調和した空間の風流な雰囲気はとても心惹かれるものがあります。

趙 孟頫『鵲華秋色図』(部分)1295年
趙 孟頫(ちょう もうふ 1254-1322年)は、南宋から元にかけての政治家、文人(書家、画家)。Wikiにこの作品の全図があります。まさにハンコ楽園な感じの逸品。どこか淋しげな風景なのに大量に捺された落款のリズム感によってパラダイスな雰囲気を醸し出しています。落款の不思議な魔力を感じさせる作品です。

仇英『水仙蠟梅』1547年
仇英(きゅうえい 1494年頃〜1552年)は明の時代の画家。図柄自体はいたって普通の水仙の絵なのに、落款が捺されることで風流で味わい深い楽しいリズム感が生まれ、実に美しい空間の調和を引き出しています。落款そのものに美意識を反映させるノリが実に面白いですね。

文徴明『湘君湘夫人図』
文徴明(ぶんちょうめい 1470-1559年)は中国明時代の中期に活躍した画家。上記の仇英と並び、明代の代表的な絵師のひとり。あえて広く贅沢に空かした空間が周囲に捺された落款によって際立っていますね。様々なデザインの落款が楽しめるユニークな作品です。
(2017/6/12 追記)
ついこの前、中国美術の解説書を読んでいたら、上記のような落款だらけの作品の多くは作者本人だけが捺したものではなく、作品を収蔵する蒐集家や管理組織が捺しているものだ、という説明がありました。コレクションのオーナーが捺す収蔵印や、権力者や著名人などが作品を鑑賞したことを記す鑑賞印などがあり、作品が作者の手を離れてからも、蒐集者が変わるごとに捺されていったので長い年月を経て結果的にあれだけハンコだらけな画面になっていったらしいです。作品そのものに躊躇無くハンコを捺していくというのは今ではありえませんが、当時の感覚では蔵書印を捺すような気軽なノリだったのでしょうね。昔の中国人のそうした独特の慣習によって出来上がった作品は、現代の視点で見ると、ハンコアートとともいうべきユニークなものとなっていて面白いですね。作者の手を離れたところでも随時落款が捺されて作品が変化していった中国画の在り方は、かつて寺山修司やロラン・バルトなどのいっていたような、作品は作者だけで作るものではなく、読者との共同作業で生成されていく、といった考え方を彷彿とします。
(追記終わり)
と、そうした落款への興味が深まるにつれ、いつしか自分専用の落款が欲しくなってきました。しかし、ハンコ専門店に作ってもらうと、けっこういい出費になってしまうようなので、とりあえず自作でなんとかできないものか、と早速自作ハンコの情報を検索してみました。すると消しゴムで作るハンコがいくつもヒットしました。一番手軽なのは消しゴムハンコのようですが、消しゴムは素材としてかなり脆く、また消しゴム同士をくっつけたままにしておいたり、プラスチックケースに入れっぱなしにしておくと、接地面が溶け出してくっ付いてしまったりなど、けっこうデリケートなので気の進まない素材であるのがひっかかったので、他に良さげなものは無いかとさらに調べていくと、版画用のゴム板でスタンプを自作している方のブログを見つけ、制作の手軽さにくわえ、保管も気を使わなさそうな感じだったので、さっそく参考にさせていただきながら試行錯誤してみました。

「ゴム板はんこの作りかた。」(「実録ハンコ修行@はざまの庵」様のブログより)

気分が醒めないうちに近所の百均で材料調達。デザインカッターはあったのですが、肝心のゴム板が版画用ではなく家具の振動防止用などに使う普通の天然ゴムを固めた板でとりあえずチャレンジ。しかしやはり柔らかく弾力があるせいで上手く削れません。まだ消しゴムは試してませんが、おそらくコレよりは素直に消しゴムに彫ったほうが細密に削れそうです。

というわけで、次の日に版画用ゴム板を近場を探しまわって見つけてきました。はがきサイズで一枚60円でした。さっそく版画用ゴム板で自作落款にチャレンジ!細かいチマチマした作業が性に合っているのかどうか、思ったより楽しくて、ひとつ完成するたびに別の絵面でチャレンジしたくなります。参考にさせていただいたゴム板マスターの方に較べると稚拙さが気になるところですが、まぁ落款はキッチリしたものより、ある程度アバウトというか稚拙さがあったほうが味わいがあるそうなので、ゴム板ハンコの初チャレンジとしては落款はちょうどいいテーマだったのかもしれません。右上は「桃源郷」を篆書体で彫ったもの。左下は「福」の異字体をふたつ彫ったものです。上の「福」はなんとなく「福」を感じさせる書体ですが、下の道教のお札にありそうな記号っぽい文字も「福」の異字体のひとつです。書のモチーフのひとつに「百福図」という「福」の異字体を百種類書いた作品がありますが、そこからふたつ選びました。

百福とは?(「東京書道教育会」様)

道教の護符のデザインも好みなので、「仙術入門」という妖し気な本に載っていた「諸願成就して富貴になり幸運をつかむことができる霊符」を彫ってみました。

田口真堂「仙術入門」大陸書房 1973年 より

彫ってもそのままではスタンプしずらいので取っ手をつけることにしました。百均で角材を調達して適当なサイズに切り落とします。切り口が雑なので、見栄えを良くすると同時に手に馴染みやすくするため、サンドペーパーで角を丸く削ります。彫ったゴム板と接着剤でくっ付けて完成。

落款は篆書体でつくるとソレっぽいです。押し入れの奥に死蔵していた篆書体辞典が役に立つ日がやっと来ました。

『篆書体字典』マール社 1988年

百均のデザインカッター(上)より細かい彫りが出来るのか気になって、オルファの安めのデザイナーズナイフ[216BSY](下)も使ってみました。刃の角度はどちらも30度ですがオルファのほうは刃の胴の部分が細い分、多少細かい作業が楽になりました。ある程度熟達してくれば別かもしれませんが、今のところは百均のデザインカッターでもそれほど不満は感じませんでした。落款は、本来は象牙とか石の印材に彫るもので、そうした材質の風合いもまた味ですから、いずれは石でチャレンジしてみたいです。