2016年10月14日

もののけ姫と動物神

唐突ですが、一番好きな宮崎駿作品は「千と千尋の神隠し」です。しかし、この項ではべつに「千と千尋の神隠し」を論じたいわけではなく、「千と千尋の神隠し」の次に好きな「もののけ姫」について書いてみたいと思います。「もののけ姫」の面白いところは、神がイノシシやオオカミという物理的な存在として動物の姿で描かれるユニークさです。人間よりもヒエラルキーの高い聖なる動物としてイノシシやオオカミなどが描かれていて、見ているうちに、そうした概念を共有している古代社会にある種のユートピア的なものを感じます。あの世界では、イノシシやオオカミなど野生の動物が神になったりする世界ですから、つまりはちょっと森に入れば聖なる存在に物理的に出会える可能性があるわけで、そうしたところが「もののけ姫」に惹かれるところですね。

ところで、人気のブログのジャンルに「海外の反応」というのがありますが、それ系のとあるブログで、世界各国の外国人による宮崎駿作品への感想が紹介されていました。そこに「もののけ姫」についての気になる興味深いコメントがひとつありました。

「もののけ姫」のクライマックスでは、森の主であるシシ神を殺しその首を狩るというシーンがでてきますが、その気になったコメントは、この「神殺し」についてのコメントです。「なぜ神を殺すのか?」というものですが、たしかに、あれは日本人の目からも普通にショッキングなシーンであり、だからこそあの作品の力強いメッセージが生きてくるのだと思いますが、たしかに、いったいどのような宗教観から神殺しという発想がでてくるのか?というのは、とくに外国人からは興味のある部分なのだろうな、と感じました。

「もののけ姫」での神殺しは、人間と神を対立構造ととらえたうえで、文明と神話、あるいは科学と宗教との相克を象徴しているような印象で、いかにもリベラリストの宮崎駿監督らしい切り口です。神殺しは、主人公の本意ではなく、鉄を作る村を治めるエボシの意志であり、それを後押ししているのは天朝、つまり国家権力であります。国家による神話世界の破壊が神殺しであり、宮崎監督は、あくまで神殺しを否定的に描いているようにみえます。ここで殺される神は、一神教の神ではなく、ひとつの森を治める八百万の神々のうちの一柱でしょうから、西洋的な視点からは精霊、自然霊に類する存在が近いのかもしれませんね。

神は崇高な存在ですから、ついつい「神殺し」は絶対的な悪なのだ、という条件反射的な思い込みが現代人にはあり、私も、そうした部分にはなんの疑問もなく、「もののけ姫」での宮崎監督の神殺しの意味付け(神殺し=聖なる存在への冒涜、というような)に、納得してしまっていたのですが、今日たまたま読んでいた岡本太郎の「日本の伝統」という評論文に、ハッとするような考えが述べられていて、「神殺し」の意味、神を殺すとはどういうことなのか?を、もう一度考え直してみたくなったのが、この記事を書くきっかけになりました。以下、該当部分を引用します。

 狩猟民族にとっては、獲物は激烈な闘争の相手であり、敵です。ところが彼らはそれを糧にして生きているのです。獲物がないということはただちに飢であり、死を意味します。彼らは全存在をそれにゆだね、かけている。だからこそ獲物は彼らにとってまた神聖な存在、つまり神なのです。
 彼らの生存をおびやかし、直接危害をあたえる凶暴な動物か、あるいはそれをとって食べなければ生活できない、つまりそういう危機をはらんだものこそ、宗教的に神聖視されるのです。
 彼らはつねに犯すべからざる神を殺す。逆にいえば犯すゆえにこそ、それはまた神なのです。
 ちょっと今日の常識では分かりにくいかもしれません。だがじじつ、考えてごらんなさい。ぜったいに犯されることのない、そんな心配もないものならば、おそれることも大事にすることも、したがって神聖もへったくれもありません。犯されるという前提、その危機のうえにあるから、犯してはいけないものとして神聖な存在があるのです。
 しかもさらに原始社会では、それを食うということはもっとも神聖な儀式なのです。

岡本太郎「日本の伝統」(『日本教養全集 15』 角川書店 昭和50年[1975年])P209より


殺されるゆえに神聖なのだ。ということですが、ユニークで、しかもとても合点のいく考えですね。人間の、というより生きとし生けるもの全てが背負っている業のようなものを感じます。獲物は食べられるためにいったんは殺されますが、食べられることで別の生命として生きることになります。食べ物は、食べる前は他者≠ナすが、食べたとたんに、かつて他者≠ナあったモノが自分そのもの≠ノなります。食べ物とは、未来の自分の血肉であり自分そのものなのだなぁ、と思うと、食卓に並ぶ食べ物も、縁あって出会った神聖な客人のような気がしてきます。

そういえばアメリカ先住民、インディアンの神話でも、バッファローは獲物であり同時に神でもある神聖な動物として描かれますね。『神話の力』のなかでジョセフ・キャンベルはバッファローにまつわるインディアンの神話を紹介したあとに、その意味を興味深く解説しています。

動物に対するインディアンの関係は、動物に対する私たちの関係とは対照的です。私たちは動物を、より低い生物と見なしています。聖書には、私たち人間が支配者だと書いてあります。さっきも言ったように、狩猟民族のあいだでは、動物はいろいろな意味で人間よりまさっています。あるポーニー・インディアンからこう言われたことがあります───「万物の始まりにおいて、知恵と知識は動物と共にあった。創造神ティワラ、つまり<天上の一者>は、人間に直接語りかけることはなく、ある種の動物を遣わし、『私は動物を通して自分を表す』むねを人類に告げさせた。だから、人間はそれを動物から、そして、星や太陽や月からも、学ばなくてはならない」と。

ジョセフ・キャンベル、ビル・モイヤーズ著『神話の力』(飛田茂雄訳 1992年 早川書房) p152より


殺されて食べられる側にいる豚や鳥などの動物は、たしかに私自身、ともすれば彼らを殺すという罪悪感を払拭したいがために弱肉強食という自然観で自分を納得させ、「弱い存在」として見ようとするクセが知らず知らずについていたように思います。しかし、そういった彼らを見下すような考えに立たつよりも、古代人やインディアンの考えのように、神聖なる存在としての動物、という視点のほうが、より調和的な思想のような気がしてきます。そもそも「弱さ」というものを劣った属性として考えてしまうことも先入観でしかなく、かつて「美しさとは弱さです」と太宰治がいったように、弱さ、儚さ、脆さ、というのは美≠際立たせる属性でもあります。ジョセフ・キャンベルの引用したポーニー・インディアンの言葉はとても奥深いですね。偉い学者や先生の言うことばかりではなく、犬や猫や雲や風など森羅万象が人を導く教師であるという考えは、途方もなく謙虚で、しかも壮大な、究極の思想だと感じます。そういう視点で物事をみれる心の状態こそが悟りのような境地なのかもしれないですね。
posted by 八竹釣月 at 18:51| Comment(0) | 精神世界
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: