2015年11月13日

スピリチュアルな随想

満月大霊界な話
死後の世界とか、霊界とか、天国と地獄とか、そういったものは人間が死を恐れるあまりに生み出した幻想であり、精神的な逃避である。と、ついこのあいだまでは思い込んでいましたが、今では、そうした世界もありえなくもない、と思えるようになってきました。というか、むしろ、そうした世界が存在するという認識のほうが俄然リアリティを感じる昨今です。エジプトやチベットには「死者の書」と呼ばれる、死後のガイドブックが古来から存在しているのはオカルト好きには周知のことですが、現代人はついついこうしたものを迷信として片付けてしまいがちです。こういった思想の背景にあるのは、死への恐れからの逃避であって、この世の真実であるなんて考えるのは幼稚だ、と。しかし、別の見方をすれば、それが真実であれ虚構であれ、人類の古い記憶、おそらく集合的無意識では誰もが「真実」として共有しているからこそ、理性ではバカバカしいと思いながらも死後の生を前提とした文化的行事、葬儀や墓地などの風習を続けているのではないでしょうか。信じてる訳じゃないけど、文化だからしかたないんだ!と理性を騙しながら。

死後に魂は残るのか否か。どちらが正しいとか間違っているとかをここで考察しようとは思っていませんし、それを論じるのはあまり意味がないように思えます。ですが、どちらが面白そうか?あるいは、どちらであってほしいか?という視点でなら明白であります。

我々は生まれ落ちてから、親や周囲の環境や学校での教育などで、いやがおうでも近代合理主義、つまり唯物論的な認識に過剰に浸されてきているので、「魂や心というのは、脳の生理的な現象である」という考えを無批判に前提としてしまっているような気がします。「死んだらそれでオシマイ」というのが事実であるかのように、死んだ事がないうちから思い込んでいます。

しかし、ためしに唯心論的な発想からそれらを再解釈してみたらどうでしょうか。まったく別の世界が見えてくる事に気づきます。現代科学では、光には粒子と波のふたつの性質が分ちがたく密接にからんでいるというのが定説です。粒子とは物質的なモノであり、波とは非物質的な現象ですが、光はそのどちらの性質も重ね合わせて内包している。それと同じように、この世界も、なにも物質的な側面から見た場合だけがリアリティではないんじゃないか?と考えてみるわけです。心、魂、意識、などと呼ばれているものは、唯物論では脳のはたらきが生み出す現象にすぎませんが、唯心論では(ブッダの思想やプラトンなどのイデア論など)むしろ心が物質を生み出したりする根源的な原理でありますから、脳を含め身体というのは、魂がこの世界を認識するためのデバイス(装置)であるという見方もできるわけです。こうした見方では、心のほうが実在するリアリティであり、物質は心が生み出す幻影であるということになります。そうなると、俄然人間の死に対する考え方も180度変わってくるでしょう。誤解の無いように強調しておきますが、この記事では唯心論が正しいということを言いたいのではなく、あくまで唯物論と拮抗するくらいの重要性が唯心論にもあるのではないか、というのが論旨です。

満月コンピュータの中の宇宙
量子力学でいう「二重スリット実験」や「量子もつれ現象」などをみるに、この世界を構成するミクロな世界では、オカルトの世界のような非合理な現象に満ちているようですし、人間の心が物理現象に影響を及ぼす「人間原理」が科学者の間で真面目に議論されている時代であることを考えれば、科学が進もうとしている方向にどうも唯心論的なものを感じざるを得なくなってきます。量子力学については私は一般向けのサイエンストピック程度の知識しかなく、安易にスピリチュアリズムの論理補強に引用するのはちょっと躊躇してしまうのですが、やはり、一般人の目から見た量子力学的な現象はSFの世界のようでワクワクしてくるのもたしかです。物理学者のフリッチョフ・カプラの著書『タオ自然学』は、一昔前にニューエイジ思想のブームで一躍脚光を浴びた本ですが、なかなかユニークな論考をしていて面白かったです。その本では、量子論の実験などからうかがえるミクロの世界の奇妙な姿を通して、禅やタオイズムなどの東洋思想で語られてきた世界観は、たんなる古代人の迷信的な神話思想ではなく、この世界の根源的な仕組みをけっこうリアルにとらえた考え方なのではないだろうか?ということを論じています。

TV二重スリット実験や量子もつれ現象など、量子論の不思議な世界を解説したビデオ

科学と心の世界は、現代では切り離せない重要なテーマといっていいでしょうし、その代表的なものはAI(人工知能)の研究でしょうね。現代文明を象徴するテクノロジーの筆頭にコンピュータがありますが、人工知能の研究などはまさに機械仕掛けのホムンクルスを創造しようとするスリリングな研究だと思います。

そういえば、知の巨人、荒俣宏がかつて著書『99万年の叡智』の中で、そもそもコンピュータというのはオカルティズムそのものである、という視点からユニークな論考を繰り広げていたのを思い出します。


「なるほど、コンピュータとは数理神秘学の機械的な実現だったのか」と、筆者がはじめて納得したのは、ライプニッツの次のような説明によってであった−−−−−
「われわれヨーロッパ人は、中国の文献について十分な知識を得られたあかつきに、現代中国では忘れ去られた無数の叡智を古代文献の中に見いだせるだろう。(略)『易経』と呼ばれる書物に出てくる六十四種類の記号がそれである。実をいえば、この記号は、伏羲が発見し、その後年千年して私が再発見した二進法算術を表現したものなのである。二進法算術とは、二つの記号、たとえば0と1とですべての数を表すことのできるシステムであり、かつて私がこの方法をブーヴェ師に報告した時、師は即座に中国の易の体系が完全にそれと対応しているという事実を指摘された。この算法はただ二種類の記号を用いるだけで種々の変化(ちなみに、易とは変化を意味する)を表現できる、最も簡単な方法である(ライプニッツ著『中国自然神学論』)
つまり、コンピュータの重要な原理のひとつに加えられている二進法演算は、ライプニッツによれば、もともと易経のシステムであり、事物の変化を表すための最も明快な方法なのだ。
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荒俣宏:著『99万年の叡智・近代非理性的運動史を解く』p128より抜粋 平河出版社 1985年


たしかに、易占いでは陰陽の二種類の筮竹の組み合わせによって行いますから、二進法で世界を読み解こうとする試みそのものであり、なるほどコンピュータの原理に通底するものを感じますね。このような、コンピュータという現代科学の権化をオカルティズムの観点から論考するというのは、この本ではじめて知った切り口だったので、とても心地よい知的興奮を覚えました。後に、こうしたテーマは情報学者、西垣通が著書『秘術としてのAI思考』(1990年)や『デジタル・ナルシス』(1991年)などでも興味深く展開しており、コンピュータというものの魔術的な側面にわくわくしたものです。

さて、最近面白かった記事をひとつ。映画『マトリックス』さながらの「この宇宙は巨大なコンピュータプログラムによって制御されたバーチャルな世界の可能性がある」というSFのような宇宙シミュレーション仮説を提言する英国の学者の話です。人工知能研究の父と呼ばれるマーヴィン・ミンスキーさえその説を否定するのはかなり困難であるとの発言をしていますから、あながちSF的空想というにとどまらないアイデアだったのかもしれませんね。映画『マトリックス』では、現実と思っていた世界が実は人工的にシミュレートされたコンピュータ内のバーチャル空間だったという仰天の世界が描かれ、エンターテイメントとしてだけでなく、実際多くの思想家にも琴線に触れる発想だったようで、オカルティストだけでなく、実際に哲学者や科学者たちも真面目な議論のテーマに挙げているのは周知のとおりです。

匂い、味、触感、色、形、五感がありありとした物体のリアリティを感じていたとしても、つきつめると水槽の中の脳の思考実験のように、本物と見分けの付かない疑似体験であるかもしれない、という説がありますが、このような『マトリックス』的な世界観は、日常的な経験則からはなかなかピンとこないのもたしかで、結局は「SF的なアイデア」という認識で落ち着いてしまいがちです。しかし、こうした説(色即是空的な、五感で感じるこの世界のすべては心の迷妄が生じさせている幻影であるという考え)のルーツは『バガヴァット・ギーター』や『老子道徳経』や『般若心経』などなど紀元前数百年ほど昔からすでに「真理」として語り継がれてきた世界認識であり、人類は何か世界の根本的な仕組みの謎を直感的に気づいていたのではないか、とも思えます。

一昔前の懐疑論者なら疑似科学だ!とこき下ろされてきたような説、たとえば多元宇宙論なども、昨今は正当な仮説としてアカデミックな議論の俎上に載せられてきてますし、ロボット開発の現状をはじめ、この間までSFの世界で描写されてきた夢のテクノロジーが次々に実用化されていく現代、どんな突拍子もない「事実」が解明されようとも不思議ではないような気がします。

ヘンリー・フォードの名言に「できると思っても できないと思っても いずれも正しい 」というのがありましたが、まさにそのとおりですね。そして、人類の発展はそのふたつの思考傾向の人たちのうち前者「できると思って取り組む人」たちが作ってきました。達成できると強く信じて前進する人の前だけに、世界はその神秘のベールを脱いで真実を見せてくれるものなのだと思います。

満月唯心論的世界
近代の覚者ラマナ・マハルシは、「この宇宙には真我だけがある」と喝破しました。自分の内面の奥深くを覗き込むとそこは宇宙と繋がっている。アートマン(真我、内宇宙)とブラフマン(神、宇宙)は本質的に同じものである。これは『バガヴァット・ギーター』をはじめとするインド古来からある思想でありますが、マハルシは自ら悟りに到達することで、インド古来から伝わる聖典に書かれていたことが真実であることを体験したといわれています。真我というのは心のはたらきの発生源、魂の根源、意識の源みたいなイメージでしょうか。ふだんは思考によって脳内には「言葉」がうずまいていて気づきにくいですが、瞑想などで心を無にする、つまり脳から言語的な思考を無くした状態で感じる「命そのもの」のような感じ、「存在」そのものを感じているような状態です。これが真我で、自分が普段生活して見たり感じたり触れたりしている世界は、この真我が投影されたもので、この世界や宇宙というのはもともとは己の内側にあるものが投射されたものであり、本質的には自分も他人も内も外もなく、すべては究極的にはひとつの宇宙的な意識の様々なあらわれである。というのが、古来から幾人もの覚者や聖典が言及しているこの世の真相です。

色形、音、香り、味、触れられるもの、ないし概念という六種の対象は心とは別には存在しない。
この教えの意味するところは何か。一切の現象はみな心から起こるもの、すなわち、真実を知らない心の妄念から生ずるものである。

世間の一切の認識対象は、すべてこれ全ての人間の根源的無知にもとづく迷いの心のはたらきによって現象化しているのである。それゆえ、現象は、鏡の中に現れる影像と同じく何ら実体のあるものではなく、ただ心が現出させているだけの虚妄である。というのは、心がはたらきをおこすと種々の現象が生じ、心がはたらきを止めれば、種々の現象もまた消滅するからである。

『大乗起信論』抜粋 馬鳴菩薩造 


一切のものは無明(むみょう。真理を知らず無知な状態)から生ずる。それゆえに、この世界は非存在である。

『ウパデーシャ・サーハスリー』シャンカラ:著 前田専学:訳 [1・韻文編・第17章(二〇)より抜粋]


この世においては、物理的現象には実体がないのであり、実体がないからこそ、物理的現象であり得るのである。

この世においては、すべての実在するものには実体がないという特性がある。

『般若心経』抜粋 三蔵法師玄奘 中村元:訳


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『ウパデーシャ・サーハスリー』は、インド最大の哲人と呼ばれたヒンドゥー教の哲学者、シャンカラ(700〜750年)による説話集。インド神話から続くアドヴァイタ(不二一元論)のエッセンスを語っています。現代でも精神世界をリードしている人物は、インド出身者が圧倒的に多い気がしますが、仏教以前から連綿と続く精神文化の厚みを知ると、それも納得できる気がします。『大乗起信論』は、5〜6世紀頃に成立した短い教典ですが、大乗仏教のエッセンスが凝縮された重要なもので、人生の歩き方を深遠に解説していて味わい深いです。『般若心経』は、大乗仏教の神髄をわずか300文字程度で吟じた言わずと知れた仏教史上最も親しまれている経典で、原典のサンスクリットを現在知られている漢文に訳したのはあの西遊記でお馴染みの三蔵法師というところも親しみ深いものがありますね。

そうしたような世界の真相を知識としてでなく、ありありとした実感として体験することが「悟り」と呼ばれてきたのだと思います。言葉を超えたものを含む究極の意識は言葉であらわせないので、どうしても体験によって個人個人が主観的に納得していく以外に方法がないため、たとえば禅ではひたすら座禅によって真理を体感しようとします。ブッダやキリストなどの偉大な聖者は持続する悟りを得ていたと思いますが、瞬間的な悟り体験は、目的を達成したときや願いが叶った瞬間に感じる絶頂気分などでけっこう知らず知らず多くの人が体験したりしてるもので、「至高体験」とか「エピファニー」とかいわれています。最近ではそうした瞬間的な悟り体験は「一瞥」などと呼ばれているようですね。

日常的な自我意識の状態では、宇宙と自分は別個のモノとしてつい認識しがちですが、実際は自分もまた宇宙に内包された要素です。宇宙を知るには、まず、その宇宙を知ろうとしている主体である「自分」、という身近な小宇宙を知るところがカギであるのは間違いないでしょう。瞑想で「心を無にする」ことが推奨されるのは、言語による思考が本質的なリアリティを感じることを邪魔するからです。言語での思考は、自動的に言語で表現できる範囲にまで世界を狭めてしまいます。宇宙的な真理は、言語で表現できる面だけでなく、非言語的な莫大な領域をも含んでいますから、仏教、とりわけ禅などの思想では心を「無」にすることをまず推奨しているのだと思います。また、言葉の正体は対応する対象を指し示す記号であって、対象そのものではありませんから、言葉では本質をありのままに捉えることは原理的に不可能であるともいえますね。部屋は何もない空間があることによって家具を置く事が可能になりますし、コップは何も詰まっていない空の状態だからこそ飲み物を入れる事が可能になっているように、座禅や瞑想の目的は、言語でイッパイになった心をいったん空っぽにすることで、存在そのもののリアリティが実感として身体に満たされる余地を作り出すことにあるのでしょう。

宇宙はひとつなのに、人間全ての内面がそれぞれ宇宙を抱え込んでいるというのは矛盾しないか?という疑問も最初はありましたが、これは、自分と他人という区別をしている心が生み出す「迷いの心」のひとつのあらわれであります。本質的には個は存在せず命は別な高次の世界では連続的に繋がっている、というスピリチュアリズム的考えは仏教をはじめ古くからありますし、心理学の大家ユングも集合的無意識の理論で示唆していますね。(※ユングの場合は、正確には個人の無意識の領域には人類普遍に共通した「型」のようなものがある、という意味ですが、個人があらかじめ個を超越したパーツを持って存在しているという意味では通じるものがあると思います)

数々のいにしえの聖典が真理として語る「この世界は幻だ」という命題は、ともすれば人間のこれまでの営みを否定しているかのようなネガティブな、虚無的な世界観として感じるかもしれません。しかし、実際はそうではありません。「この世界は幻だ」というのは、角度を変えてじっくり考えてみれば、これほど救いと希望に満ちた概念もないでしょう。我々はついつい、「この世界は自分の意思とは関係なくあらかじめ存在する」とか、「運命はある程度は自分で舵をとることが可能であっても外部的な要因が常に不確定要素としてはたらく」という考えを知らず知らずのうちに人生の力学的ルールとして採用しがちです。運命は予測がつかないきまぐれなものなのだ、と。逆に聖典がいうように「この世界は幻である」というのを人生のルールとして採用してみたとしたらどうなるでしょうか。おのずと、その幻を生み出している主体は「私の心」ということになります。つまり、不幸は、「私の心」にそれを生じさせている原因があるのだから、それを解消すれば自動的に現実から不幸が"幻のように"消えてしまうことになります。幸福もまた、思わぬ奇跡、偶然のラッキーで起こるのではなく、自分の中に良い事が起こる原因があるから芽を出したわけです。つまり、幸も不幸も偶然に起こるハプニングではないということで、不幸は自分で消せるし、幸福は自力で作れるものだ、ということを聖典は伝えようとしているのだと思います。「この世界は幻だ」という命題の本質は、つまり「この世界を作っているのは"私の心"である」ということであり、人間は宇宙の創造原理そのものである、ということを指摘しているわけです。

満月神様のかくれんぼ遊び
アラン・ワッツ(1915〜1973年。禅の教えを取り込んだニューエイジ思想の精神的指導者、哲学者、著述家)などは、とてもユニークかつ説得力のあるロジックで、人間は死ぬ事はないし死ねない存在であるということに言及していて興味深いです。彼は死後に体験するユニークなビジョンを語っています。「"寝ることなしに目が覚める"とはいったいどういう事なのだろうか?それは生まれたときの事だ」とワッツは言います。つまり、死というのは文字通り「眠り」であり、眠りはいずれ「別の命」としてどこかで目覚める(誕生する)ことになる。と言っています。質量保存の法則のアナロジーとして唯心論的に魂を発想していけば、たしかに、ひとつの魂が身体が死ぬたびにこの宇宙からまったく消えてしまうと考えるより、ワッツの言うように、死はただ別の目覚めを体験する通過点に過ぎない、というのは一理あると思いますし、とてもユニークで、そして希望に満ちた思想だと思います。

神様はかくれんぼをするのが好きだ。でも、神様の他には、誰もこの世には存在しないから、自分自身としか遊べない。だから、神様はかくれんぼする時には、君や私や、世界のあらゆる人々、あらゆる動物やあらゆる植物、あらゆる岩、あらゆる星になったふりをする。そうやって、簡単にゲームが終わらないように、神様は楽しんでいるのさ。

どうして、神様は、ときどきこわーい人たちのかっこうで隠れたり、ひどい病気や痛みに苦しむ人たちのふりをするんだろう。と君は訊くかもしれないね。実を言うと、彼はそういうことを自分にしているのであって、他の誰かにしているわけじゃない、と言うことをまず、覚えておかなければならない。

それから、君が楽しめるほとんどの全部のお話には、良い人たちと同じくらいに、悪い人たちが出てこなくちゃいけない。なぜなら、それは、物語のスリルというのは、良い人たちが、どうやって悪い人たちを正してゆくのかを見つけ出すことにあるからなのさ。

神様は隠れるときには、君や私のふりをするときに、すごくうまくやるから、自分がどこに、どうやって最初に隠れたかを思い出すのに長い時間がかかる。でも、そこがおもしろいところなんだ。神様はそれをやりたかったのさ。だって、簡単にかくれんぼが見つかれば、遊びがすべてだいなしになるからね。

私たちは変装して自分が自分でないふりをしている神さまだということに気づくのが、君や私にとってこんなにもむずかしいのはそのためなんだよ。でも、この遊びがうんと長くつづいたなら、やがて私たちはみんな目を覚まして、もうふりをするのをやめるだろう。

私たちは、ただひとつの<自己>なんだと気づくからね。そう、そこにあるすべての物である神さま、いつまでも生きつづける、あの神さまなんだと言うことを思い出すんだ。

アラン・ワッツ『タブーの書』竹淵智子訳 めるくまーる社 1991年
(原著は1966年発表の『The Book on The Taboo against knowing who you are』PDF英語版



満月至高体験と宇宙意識
悟りとは具体的にどういう体験なのか?というのはとても気になることです。「不立文字(ふりゅうもんじ)」(真理は言葉であらわせないことの意)というのも事実ですが、幾多の聖典の存在は、ある程度は言葉によるナビゲーションも可能であることの証左でもあります。悟り体験の興味深い記述で思い浮かぶのは、精神世界のユニークな思想家ケン・ウィルバーの『無境界』という著書の序盤にある、100年前に書かれたリチャード・モーリス・バック著の『宇宙意識』からの引用です。それは、人生に突然起こった至高体験を記した記述で、臨場感あふれるとても興味深い描写がされています。

気がつくと、わたしは炎のような雲に包まれていた。一瞬、火事かと思った。どこか近くが大火事になっているのかと思ったのだ。ところが、つぎの瞬間、燃えているのは自分の内側であることに気づいた。その直後、えもいわれぬ知的な光明をともなった極度の高揚感、歓喜の絶頂がやってきた。そして、宇宙が死せる物質によって構成されているのではなく、一つの「生ける」存在であることを知った。単にそう考えたわけではない。わたしは自らの永遠の生命を自覚した。永遠に生きるという確信をもったのではなく、自分に永遠の生命があることを自覚したのだ。さらに、人類すべてが不死であることを知った。あらゆる物事が協力しあいながら、互いのためによかれと思って働いていること、あらゆる世界の根本原理が、いわゆる愛であること。そして、長期的に見れば、誰もが幸福になることは絶対に確実であること。宇宙の秩序とはそういうものであることを知ったのだ。−−−−−−−−R.M.バック

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ケン・ウィルバー『無境界』吉福伸逸訳 平河出版社 1986年


「スターウォーズ」のシナリオに多大な影響を与えたことで知られる神話学者ジョセフ・キャンベルも、『神話の力』の中で、自身の至高体験を語っていましたし、現代のスピリチュアルリーダーであるエックハルト・トールもその著書や講演で、上記のような体験によく似た、人生の転換点になる突然の至高体験を経験していることを語っていますね。また、日本人でもそうした体験をした有名人は意外に多く、合気道の開祖である偉大な武道家、植芝盛平も大正14年の42歳の年に「突如大地が鳴動し黄金の光に全身が包まれ宇宙と一体化する」という神秘的な体験をしたと、著書で語っています。独特の健康法、肥田式強健術の創始者である肥田春充も似たような体験をしていますし、双葉山や宇野千代や東郷平八郎などなど錚々たる著名人から師と仰がれた哲人、中村天風もヨガの修行中に神秘的な悟りを得ています。共通しているのは、「その瞬間」は自分という意識が消えて、自他の境がなくなり、周囲の全て、宇宙との一体感をありありと感じ、全てを許し、全てを包み込む無限の愛情に満たされるということです。

こうした悟りの世界から見えて来るのは、この世界には、普段の日常的な意識ではとらえられない未知のパラダイスが広がっているのだろうな、というロマンです。そもそも、人間がこの世界を認識するための主要なツールである目は電磁波のうちのほんの一部、可視光線だけしかとらえられませんし、耳も20Hz〜15000Hz程度までの可聴域を外れた音は聴こえません、また嗅覚も犬に劣りますし、寿命は樹木に劣ります。人間は、この肉体というデバイスを通した世界しか認識できませんので、宇宙の本質的なリアリティを日常的な意識の中で五感だけで把握するのは不可能なのはあきらかです。

理性的なアプローチには物理的な限界が存在するのは自明であるからこそ、唯心論的な視点から直感的に真理を探ろうとする宗教やスピリチュアリズムなどの精神世界からのアプローチにはとても興味をそそられます。人間もまた宇宙の一部で、この身体も、もともと宇宙に存在していた物質で出来ていることは確かなことですから、自分と言う個体としてではなく、個を超越した視点に意識を拡張していけば、宇宙的な観点からみた役割がみえてくるかもしれません。具体的には、アラン・ワッツも言及しているように、宇宙自身が、自分自身を知るための感覚器官として人間を生じさせた、という考えです。地球を一個の生命体として見なす「ガイア仮説」を拡張していけば、究極には宇宙そのものもひとつの生命ともいえると思います。宇宙に心があるからこそ、心を持った生物、人間を生み出せたのではないでしょうか。もしかすると宇宙は人間の脳を通して感じたり考えたりしているのかもしれません。悟りというのは、この宇宙的な意識と共振する体験であろうと思います。だからこそ、悟りの体験をした賢者の多くは「宇宙と一体になった」という感覚を語っているのだと思います。悟りとは、なにも宗教などの文化形態だけの専売特許ではなく、率直に、この一度きりの人生の中で絶対的な真実を知りたいという根源的な欲求、つまり人類共通の目標なのかもしれません。
posted by 八竹彗月 at 14:01| Comment(0) | 精神世界
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