2015年03月14日

映画『LUCY/ルーシー』を見て思ったこと

使われていない脳、NIGHT HEAD
人間は脳の機能を10%しか使えていない、という説はよく聞きますが、じゃあ残り90%は何のために機能して(機能しないで)いるんだろうという疑問が湧きます。よくある俗説のひとつに「脳の眠った領域には超能力めいた未知の能力が秘められている」というものがあります。これをテーマにしたドラマというとすぐ思い浮かぶのは『NIGHT HEAD』ですね。当初深夜ドラマとして放映されましたが飯田譲治の優れた脚本の魅力と、人気の美形俳優の話題性もあって絶大な人気を博し、映画、小説などメディアミックス展開され一大ブームになりました。豊川悦司と武田真治演じるイケメンなサイキック兄弟の数奇な運命を描くSFサスペンスで、タイトルの『NIGHT HEAD』は、脳の使用されていない眠った領域を意味しています。哲学的というか、衒学的な要素があって、そういうところが自分の娯楽のツボであり、好みのポイントなので、とても面白かった印象があります。

科学的には根拠が薄いようですが
『NIGHT HEAD』の場合は「人間の脳は30%しか使っていない」という説を採用していますが、まぁ、10%か30%かは些細な問題で、つまりは、人間は脳のほとんどの領域を使えていない、ということが言いたいのでしょう。この有名な俗説には、実はたいした根拠があるわけではなく、一説には、1998年にアメリカのCMで商品のコピーに使われたことが発祥であるという見解もあります。しかし、『NIGHT HEAD』は1992年10月から放映されたドラマであり、『NIGHT HEAD』放映当時でもすでに知られていた説ですから、この俗説はもっと前からあったはずです。おそらく、もっとも古いものは19世紀の脳研究の成果にルーツがあるようで、「サイレントエリア説」というもののようです。いわゆる「科学的」には「脳はほとんど使われていない説」は誤り、ということのようです。しかし!私は、個人的な信条として、使われていない脳の領域に秘められたロマンを採択したいです。脳科学も宇宙論と同様にあまりに未知の部分が大きい学問でありますから、現在定説となっている概念も絶対的な真理ではありえません。実生活に支障のない概念であれば、自分を楽しくしてくれそうな概念のほうが有益かもしれません。科学的であるかどうかよりも、「面白い」に貢献してくれるなら、科学でもオカルトでも自分にとっては等価な概念にすぎません。むしろ、絵や音楽など、創作にかかわる人間なら、合理性と同じくらいに非合理性も味方にしておきたいものだ、と岡本太郎の「今日の芸術」を読みながら思った今日この頃です。

映画『LUCY/ルーシー』
このユニークな脳の俗説を映画にした感じの『LUCY/ルーシー』という作品を先日見ました。(予告編のリンク)去年話題になったそうで、私は今頃知ったわけですが、興味深いテーマだったので、とても関心を惹かれて勢いで見てみました。ざっと一言でいうと、『マトリックス』と『キル・ビル』を足したような作品ですが、芸術的な完成度ではどちらにも到達できていない印象です。しかし、それが逆に気楽に鑑賞できる敷居の低さにもなっていて、気負わずに楽しめます。とても面白い作品でした。アクション映画としては物足りなさが残りますが、根本的なテーマ「人間が脳の未使用領域をフルに使ったらどうなる?」という部分を、衒学的なウンチクを含めて、なにげにちゃんと掘り下げて描いているので最後まで飽きさせません。昨今のスピリチュアル的な思想や仏教や神秘学的な概念などを上手く盛り込んでいて、いわば「悟り」の映像化を試みた作品といえるかもしれません。そうしたテーマを、恋愛や仕事に疲弊し、人生の探求の旅に出る苦悩多き若者、みたいな正攻法で描くのではなく、麻薬の運び屋に仕立てられてしまった不良娘(スカーレット・ヨハンソン)と、人目をはばからずに拳銃撃ちまくる無鉄砲すぎる怪しいアジア系マフィア組織との攻防という、B級アクションの定番みたいな設定で描いてみせるところが斬新です。そして、この、精神世界とB級アクションの絶妙なコンビネーションが特異な持ち味となってヒットに繋がったのでしょうね。脳が覚醒していくたびに、覚醒度が「30%」「40%」・・・などカウントされていく演出も面白かったです。悟りを、修行ではなくドラッグで手軽に実現してしまおう、という発想は1960年代後半にアメリカで起こったヒッピーを母体として生まれたニューエイジやビートニクなどにもありましたね。映画的な派手さがあるので、ドラッグで悟ってしまう主人公という設定も娯楽としてはアリだと思いますが、実際は、精神的な成長や学習を経ないままの素の状態でいきなり薬物で無理矢理覚醒させてしまうと、世間の麻薬中毒者のように普通に廃人になってしまいそうな気もしますね〜 

ルーシー・イン・ザ・スカイ・ウィズ・ダイヤモンド
映画『LUCY/ルーシー』の主人公、スカーレット・ヨハンソンの役名はルーシーで、映画の中に象徴的に何度か登場する原人の描写でわかるように、これは1974年にエチオピアで発見された318万年前のアウストラロピテクスの化石に付けられた名前です。原人のルーシーが人間の物質的なルーツであるなら、スカーレット・ヨハンソン演じるルーシーは精神を完全に目覚めさせた最初の人類という寓意が込められているのでしょう。エチオピアで貴重な人類の祖先の化石を発見した調査隊は当時流行っていたビートルズの曲『ルーシー・イン・ザ・スカイ・ウィズ・ダイヤモンド』から原人の愛称をとりました。この曲は、「タンジェリンの木とマーマレードの空」だの「万華鏡の目をした女の子」だのとサイケでシュールな歌詞で、しかも曲名の頭文字を並べると幻覚作用のある麻薬、LSD(Lucy in the Sky with Diamonds)になることから、当時から物議を醸しラジオで放送禁止になったりと騒動になったため、曲を作ったジョン・レノンは「単なる偶然だ」と弁明しました。ジョンの息子ジュリアンが描いた絵が発想の元になったとジョンは説明しましたが、本当の所は本人のみぞ知るという感じですね。なぜこの曲について細かく言及したかというと、「人類のルーツである原人」の名前を持つ主人公が「麻薬」によって脳が覚醒するという設定まで、単なる客寄せの設定ではなく、物語的にも意味のある一貫した寓意を感じたからです。

脳と宇宙
宇宙に関する謎は数多く、「ダークマター(暗黒物質)」「ダークエネルギー(暗黒エネルギー)」もそういった謎の中でもとりわけ重大で根本的な謎です。この未だに解明されてない謎の物質とエネルギーが宇宙のほとんどを司っているようで、wikiには「2003年から、宇宙背景放射を観測するWMAP衛星の観測によって、宇宙全体の物質エネルギーのうち、74%が暗黒エネルギー、22%が暗黒物質で、人類が見知ることが出来る物質の大半を占めていると思われる水素やヘリウムは4%ぐらいしかないことが分かってきている。」とありました。つまり、宇宙のほとんどの領域は正体不明の物質とエネルギーで満ち満ちているというわけですね。最近よくネットで見かける「ネズミの脳内にある神経細胞と宇宙生成のシミュレーション」を比較した興味深い画像があります。こうした脳と宇宙のアナロジカルな関係と、脳内の未解明の領域としていわれている俗説とよくにた比率の一致(10%程度の既知と、90%以上の謎の領域)をからめて類推すると、神秘学でよく言われている「人体と宇宙の対応」も、あながち眉唾なものではない気がしてきます。西洋魔術でよく見る図像「生命の木(セフィロト)」や、ヒンドゥー教のヨーガで言われる「チャクラ」など、洋の東西を問わず、古くから自らの内面と宇宙とは相互に対応しているという概念が存在しており、そうした人類の深層意識にある直感と昨今の科学的に解明されていく世界のリアリティとの類似も手伝い、「無限の力を秘めた潜在意識」に対する空想を刺激してやみません。人間が知覚できる可視領域は、電磁波のごくわずかな領域にすぎませんし、可聴域も犬以下であるということは、つまり人間はこの世界を客観的にありのままに知覚することはできていないことを意味します。あくまで人間に備わった感覚器官がもたらす刺激に反応しているだけで、世界そのままのリアリティを感じているわけではなく、人間の知覚や認識の領域を超えた概念は、全くの謎です。

世界のリアリティに関する雑感
例えば数学的な4次元以上の空間は、3次元の我々にはリアルに脳内に描くことが不可能なために、3次元以上の高次元の物体を把握するためには、3次元以下の空間に翻訳した影や展開図といった婉曲な概念で認識していくしかありません。突き詰めると、科学というのは、人間の理性が共有できる概念の総体のようなもので、オカルティズムの側から解釈すれば、科学は意識の覚醒度合いに左右されない知識体系であり、「悟っていてもいなくても納得できうる万人に共有可能な概念」と言い換えることができると思います。意識状態が普段と違う状態でないと把握できない概念、つまり悟りなどの特殊な意識状態では、科学的でない解釈や概念が頻出します。つまりオカルティズムは理性で捉えられる概念を超えているため、本当の意味で理解するためには、意識状態そのものを自覚的に変容させる必要があります。まさにそのことがオカルティズムに対する誤解の原因にもなっているように感じます。一例として、古代インドから連綿と続く宗教的な真理に「アートマン(真我、自分の本質、内在する神)は、本来ブラフマン(宇宙を存在させ動かす最高原理、神)と同一である」という考えがあります。最近ネットでもよく目にするようになった現代のインドの覚者ラマナ・マハルシ(1879〜1950年)が悟った境地もまさにソレであったようです。自分と宇宙が同一であるなどという概念は、普段の日常的な意識では、納得できる解釈が不可能ですから、これを現代の脳科学や心理学などで解釈し、「嘘」か「誤謬」であるかのように判定しがちです。しかし、よく考えてみれば、私たちの身体は宇宙にある物質でできており、宇宙と「私」というものは別種の存在ではありません。人間は人間単独で生きることはできず、常に食べ物を外界から取り入れ、空気を必要とし、人間以外のあらゆるものによって生かされていますし、それは人間に限らず、全てのものが他の何かを存在させるために機能しています。真の意味で、この宇宙には「個体」というものは存在せず、なにか境界があるように思えるのは、「皮膚の内側だけが自分」とか考えてる脳内の線引きにすぎないように思えます。皮膚の内側にいる自分でさえ、心臓ひとつ意識的に制御できず、まさに意識の外にある潜在的な脳の機能に頼らざるを得ないわけです。デカルトは我思うこと(思考)に立脚したものを明瞭なリアリティへの出発点としましたが、禅などの瞑想修行を伴う宗教では、思考は心のかなり浅いレベルの機能であることを喝破していて、むしろ思考を止める意識状態からがようやく目覚めた意識への出発点と捉えているのがユニークです。思考(理性)によって真理に到達しようとするのが科学であると仮定すると、思考を離れてしまうと、もはや学問(科学)として検証することが不可能です。しばしばオカルトや宗教は、非科学的であることを理由に軽んじられますが、そもそもが非合理な領域を把握するツールなので、どちらが正しいというものは究極的にはない気がします。相対性理論の双子のパラドクスとか、量子論の有名な二重スリット問題など、素人目にはオカルトにしか見えませんが、そのように科学もこの世界のリアリティに近づくほどオカルトめいてくるように感じます。この私たちが生きている世界は、退屈どころか、実は想像している以上に、とんでもなくユニークで面白い世界なのかもしれません。
posted by 八竹彗月 at 05:39| Comment(0) | 映画
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