気になっていた念願の諸星大二郎展に行ってきたので、そのノリで諸星作品への思い入れをいろいろ語ってみました。

諸星大二郎展、素晴らしかったです!以前に銀座のギャラリーで諸星大二郎展があったとき行きそびれてしまって心残りがあったこともあり、今回の展示会は是非行きたいと思ってましたので、とりあえず行けてよかったです。期間中は前期、後期と別れていて、それぞれ展示内容が変わるので2回は行きたいと思っていましたが、結局は前期を見逃してしまいました。とはいえ、展示物の質も量も満足な良質の展覧会で、「デビュー50周年」と銘打つに足る内容に感無量でした。会期中にもう1度くらい行きたいですね〜
「不安の立像」「子供の遊び」「生物都市」「夢見る機械」「生命の木」などなど、名だたる傑作の生原稿をじっくり鑑賞できる快感に酔いしれ、喜びのあまり思わずウルッときてしまいました。天才のペンの筆致を間近に感じる高揚感は印刷物からではなかなか味わえない快楽ですね。出不精なので、よほどでないとイベントには出かけないのですが、本当に来てよかったと感じました。スクリーントーンが貼られ、トレーシングペーパーに白抜き指示のはいった写植が貼られ、はみ出しをホワイトで修正し、掲載雑誌のスタンプが押され、掲載物によって書き直されたノンブルの跡など、生原稿ならではの生々しい本物≠フ味わいを堪能しました。漫画の生原稿だけでなく、直筆のカラーの絵画作品もたくさん展示されていて、細密な書き込みと筆の勢いが伝わってくるような迫力が楽しめました。諸星先生の絵って、描かれている内容以上の神秘的な思念が濃厚に塗り込められているような感じで、なんともいえないムード感があって素敵ですね。
さらに、錚々たる諸星作品を生み出すインスピレーションの元になった数々の民俗史料や美術作品もたくさん展示されていて圧巻でした。涙のような跡のあるあのトコイの仮面の現物とか、諸星先生所有のニューギニアの仮面、江戸のUFO「うつろ舟」の彩色図版入りの和本、八咫烏の掛け軸などなど、博物学的な展示物も見応えがあり、またデルヴォーの大きな油絵やブリューゲルの版画など、美術作品も興味深い作品が展示されていました。以前から気になっていたバベルの図書館をモチーフにしたエリック・デマジエールの版画の現物も見れて思わぬ収穫も多かったです。まさに異界巡りをしているような気分にさせるイベントでした。心ではずっといつまでも鑑賞していたいと思いつつも、物理的な要因で足は自然と疲れてきますので、2、3周して堪能した後に名残惜しくも出口を出て、資料的価値が高い展覧会用のカタログを購入して帰ってきました。財布に余裕があればサイン入りの絵皿なども欲しかったですね〜 東京三鷹での展示は10/10までで、次は10/23より栃木県の足利美術館での展示になるようです。北海道からはじまり長野、福岡、そして東京と巡回してきた諸星大二郎展も次の足利美術館で最後のようです。
「妖怪ハンター」の第1作目に、ヒルコと名付けられたハリガネ生物みたいなクリーチャーがでてきますが、前々からダリの「茹でたインゲン豆のある柔らかい構造物(内乱の予感)」と題された作品に描かれた奇妙な物体に似てるなぁ、と思ってました。そんなアイデアを元にパロディ的な絵を描きたいと思っていたところでしたが、展覧会に奇しくもダリの「茹でたインゲン豆の〜」の複製画が展示されており、ヒルコと件のダリの絵はたまたま似てたのではなく、ダリの絵からインスピレーションを得てヒルコが造形されたのだと知りました。どうりで似てたはずです。やはり諸星先生もダリ好きなのですね。そういえば「ど次元世界物語」など、シュルレアリスムの影響が前面に出ている作品も少なからず描いておられましたね。
ダリもそうですが、諸星先生の興味の方向は自分の好みと近いものが多く、また、逆に諸星先生の興味によって自分の好みが開拓されていったところもあり、振り返ればけっこう諸星先生には影響されてるところがあります。神話や民族学や中国の古典などはモロに諸星先生の影響で関心が芽生えたジャンルです。人生には「面白い事」が多くないと退屈であるばかりか、生きる目的もぼんやりしてしまいます。しかし「面白い事」というのは、ただ待っているだけでやってくるものではなく、自らの「面白い!」と感じる心がなければどんな事も「面白く」なりません。人生を面白くするには、能動的に「面白がり方に気付く」ことが大事なような気がします。
そういう意味でも諸星先生が作品で取り上げるいろいろなモチーフは「ああ、このジャンルってこんなに面白かったのか」とか「これってそういう見方をすると面白いのだな」という気付きがあって、自分の中の「面白い」の質と量をレベルアップさせてくれたように思います。漫画もそうですが、映画や音楽や美術など、あらゆる表現は、それ自体が自分の人生における「面白い」を発見するためのデパートみたいなものなのかもしれません。
図録も丁寧な編集をされていて、図版の見せ方も見せるべきものは大きく載せていて大胆で素晴らしく、デザインも凝りすぎず凝らなすぎずちょうどよく、あくまで図版を邪魔しないツボを心得た見事なさじ加減。これは永久保存版ですね!


天才の生み出す作品というのは、その作品がただ面白いだけでなく、しばしば時代を先取りする先見性が垣間見えるものです。諸星作品もまたそういうところがあり、例えば「夢見る機械」(1974年)、これはこの世界が実は人間ソックリなロボットが人間のフリをして生活しているだけの見せかけの世界であり、実際の人間は地下の施設にあるカプセルの中で、悩みも苦しみもない理想の「夢」を見続けるだけの存在だった、というショッキングな「事実」を知ることになる少年の話ですが、この設定は1999年に世界的にヒットしたハリウッド映画「マトリックス」の世界観とほぼ同じですね。社会生活している人間はAIの生み出すバーチャルな幻影で、本物の人間は薄暗い施設でカプセルの中で眠っている、という世界観がマトリックスで、私も大好きな映画で何度も見ましたが、それでふと諸星作品との類似に気付いた次第でした。「マトリックス」という世界を熱狂させた傑作と似通ったアイデアを25年前に発想していた諸星先生の先見性もスゴイですよね。
また諸星作品の珠玉の傑作のひとつ「暗黒神話」(1976年)にも先見的なアイデアがあります。この作品は主人公の武が、自らの出生の秘密を確かめるために日本全国を行脚する壮大な物語です。主人公は全国各地で謎の一端が明らかになるたびに身体の一部に奇妙な傷、聖痕があらわれます。最終的には8つの聖痕があらわれるのですが、その並びはオリオン座の星の配置と同じになります。これも、1983年に連載が開始され全国一大ブームとなった「北斗の拳」の主人公ケンシロウの胸の傷を彷彿とします。ケンシロウのケンシロウたる最大の特徴は、婚約者ユリアを奪った南斗聖拳の使い手シンによって付けられた北斗七星の配置の7つの傷です。北斗神拳の伝承者であるケンシロウへの当てつけで北斗七星の並びになるように傷をつけられたわけですね。漫画において、キャラを識別するユニークな特徴というのは重要な要素ですので、星座の形を模した身体の傷というユニークなアイデアに感服したものです。しかしそれも諸星先生が7年も前に同じアイデアを思いついていたのを知って、余計に神秘なものを感じた次第です。
諸星大二郎コレクション。「暗黒神話完全版」も欲しいところですね〜

一番好きな諸星作品を選ぶというのは、諸星ファンには難問ですが、個人的に「マッドメン」(1975〜1982年)はトップ争いの有力候補です。タイトルの禍々しい響きや、顔まで入墨の入った主人公コドワの面妖なビジュアルのインパクトで、実際に手に取るまで時間がかかった作品でしたが、実際に読んでみると序盤からグイグイ引き込ませる見事なストーリーテリングで、一気に読んでしまいました。パプア・ニューギニアの土着神話と聖書の逸話や日本の古事記との共通点などを交え、当時の現代思想で脚光を浴びていたレヴィ・ストロースなどの構造主義の手法を取り入れたシナリオがスリリングで、文明とは何か?を考えさせられる傑作です。三種の神器を使った「呪的逃走」のシーンなど、投げつけるアイテムは厳密に神話と同じでなくても似てればOKみたいなところは、まさに構造主義的で興味深い場面でしたね。「鳥が森へ帰る時」では、ノアの方舟(はこぶね)をモチーフにしたユニークな切口が斬新で面白かったです。細野晴臣さんも諸星ファンで、YMO時代に「The Madmen」(※)という曲を作ってますね。諸星先生を特集したムックでも諸星大二郎を熱く語る細野さんのインタビューがあり、興味深かったです。
※「The Madmen」
YMO時代の細野さんの作った楽曲。マッドメンの正しいつづりは「Mudmen」ですが、wikiによると当初の誤植によりMadのままになっているようですね。漫画のほうのマッドメンもタイトル表記はカタカナなので初見ではつい「狂人(Madmen)」の意味で受け取ってしまいますが、マッドはMAD(狂う)ではなくMUD(泥)であり、パプア・ニューギニアのアサロ族の民俗文化で、先祖の霊を表す仮面をつけ身体中に泥を塗った扮装をした男を指す言葉のようです。作中ではマッドメンたちは祖先の霊として描かれ、主人公コドワを導いたり助けたりして、最初は不気味な印象がありますが、読み進めていくうちにピュアで可愛げのある存在に思えてきます。
私が諸星大二郎に関心を持ったきっかけは、いくつかありますが一番影響されたのは以前からファンだった筒井康隆が選者となった徳間文庫の「日本SFベスト集成'73」に、諸星大二郎の短編「不安の立像」がチョイスされていたことでした。(選集のメインはSF短編小説ですが、十数編の中に2本ほど漫画作品も選ばれています)「不安の立像」はなんともいえない謎めいたムード感のあるホラー短編ですが、クリーチャーの造形で怖がらせる感じではなく、黒装束の謎めいた「あいつ」の正体は最後まで不明のままなのが想像力を刺激します。人間の心の中にある「不安感」を視覚化したような独特の不思議なムード感に感銘を受けたのを思い出します。「筒井康隆が選んだ作家」ということでさらに「諸星大二郎はスゴイ人かもしれない」という思いが確信に変わったような感じでした。
徳間文庫の「日本SFベスト集成」シリーズで何度か選者を務めた筒井氏ですが、一度のみならず「生物都市」など諸星作品を何度も選んでいた筒井氏ですから、氏にとっても諸星大二郎氏は印象深い作家であるように推察します。(ちなみにこの選集で筒井氏はますむらひろし先生の初期のブラックな短編もチョイスしていて、そちらも印象深かったです)そういえば筒井氏の作品に「アフリカの血」という短編があり、これはアフリカ人の血をひくハーフの青年が都会の生活に馴染めずに葛藤する話ですが、青年が悩んで落ち込んでいるとどこからともなく空中にアフリカの仮面があらわれ、青年に道を示すような助言をするシーンがあります。この作品は筒井氏自身が自作を漫画で描いてもいて、件のシーンは大いなる仮面≠ェコドワに助言をする「マッドメン」のシーンを彷彿とさせます。最初見たときはてっきり筒井氏が諸星作品に影響を受けて描いたのかな、と思いましたが、「アフリカの血」の原作自体は1968年の単行本に収録され、それを自身で漫画化したのは1974年の「暗黒世界のオデッセイ」に収録されており、それらはマッドメン(1975年〜)の連載がはじまる前のことです。ということは、憶測ですがもしかしたら諸星先生が「マッドメン」を描くにあたって「アフリカの血」に幾ばくかの影響を受けてた可能性もあるかもしれませんね。
「マッドメン」で描かれる野生の思想の心地よさは、我々が捨ててきてしまった原初の人間たちの生命力への憧憬のように感じます。何か内面の奥底から語りかけてくる神の声に耳を傾けなさいというメッセージのような。現代文明の視点で未開≠ニされている世界を舞台にした話って、どこか惹かれるところがありますね。「未開」とか「発展途上」という言葉は、西洋的な視点で見た科学技術や合理主義の立場からの見方であって、どこか文化に優劣をつけているような居心地の悪さがある言葉です。「マッドメン」などの、いわゆる未開社会≠舞台にした物語がうったえてくるメッセージの力強さは、むしろ現代の科学文明が失ってしまったものは何なのかを浮き彫りにしていくような含蓄があって味わい深いですね。
「マッドメン」ではそうした野生の世界の舞台をパプア・ニューギニアに置いて物語が展開していきますが、アフリカをテーマにしたいくつかの作品、「ダオナン」「ラスト・マジック」(「子供の世界」集英社 1984年 に収録の短編)などもまた、ユニークで奥深い野生の思想が興味深く語られてとても面白いですね。「ダオナン」では、砂漠でやっと見つけた獲物を追っている主人公の青年ダオナンが、宇宙人と仲良しになる話で、ユーモラスな展開ながら宇宙人は最後は白人によって射殺されてしまうという可哀想な話です。宇宙人の造形も、ヒト型でないのが本物っぽい感じでよかったですね。「子供の遊び」にでてきた不定形の不気味な生き物を彷彿とする奇怪な造形の宇宙人ですが、興奮するとカニみたいに泡をふいたりして、読み進むうちに可愛く思えてきます。こういう宇宙人のような、見た事も無い生物も本当にいそうな感じに表現してしまえるのも流石ですね。

この作品も個人的にトップ3に入る傑作なのですが、この作品との出会いも昔の職場でたまたま隣の席になった人の薦めによって手に取ったものです。タイトルからして「太公望伝」という、どことなくパッと見に固い印象のある作品名なので彼の薦めがなければ興味がわかずに読まなかったかもしれません。振り返ってみれば、諸星作品とは自らの興味で進んで出逢ったものではなく、外的な導きで「おい、これ読んどけ!」的な見えない力によって引き合わされていたようにも思えてきます。
「太公望伝」は、タイトルが偉人の伝記ものっぽい教育漫画風のイメージがあって、あまり期待せずに読んだ作品ですが、予想を裏切り、とても感銘を受けました。それまでは初期のSF、ホラーな短編などの印象で、才気溢れる作家だとは認識していましたが、「太公望伝」はそういった要素の他に道教思想の奥深い部分や崇高な人生哲学まで描き出していて、いやはやなんてすごい作品を描く人なんだろう!と驚いたものです。
太公望という人物は紀元前11世紀ごろの古代中国・周の軍師で、後に斉の始祖とのこと。本名は呂尚(りょしょう)という人で、川(中国陝西省中央部を流れる川、渭水)で釣りをしていたところ、周の文王に見いだされ「あなたこそ先の君主太公≠フ望んでいた賢者だ!」と感激したということから「太公望」と呼ばれるようになったようです。太公望と呼ばれるようになってからは色々と手柄を立てて歴史に名を残しましたが、文王に出会う以前の経歴はあまり分っておらず、実態がつかめない人物のようです。その歴史に刻まれていない太公望になる前の呂尚の半生を想像力豊かに描いたのが諸星先生の「太公望伝」となります。
あとがきで先生も指摘しておられますが、史実に忠実になりすぎないように太公望の生きていた時代ではないエピソードも任意に取り入れて描かれているそうです。それでも、先生いわく「少し堅苦しくなってしまった」とのことですが、私はとくに堅苦しさはまったく感じませんでした。後の太公望、呂尚が渭水(いすい)という川で龍を釣り上げるシーンは魂がうち震えるような感動をおぼえます。あれは「生命の木」の「ぱらいそさいぐだ!」に匹敵する名シーンですね。ラストが龍を釣り上げたあの川(渭水)で文王に見いだされるシーンで締めるところも情緒があってシビれました。
この作品は『無面目・太公望伝』(平成1年 潮出版)で読んだのですが、もう一作の「無面目」も負けず劣らずの傑作ですね。「無面目」は、混沌の神で、天窮山の頂上で天地開闢の頃からずっと思索を続けているために、五感を必要としなくなり目鼻口耳などが無いのっぺらぼうの姿です。あるふたりの仙人が、天地創造の秘密について議論になり、天地創造の時代から瞑想を続けている無面目という神に聞けば疑問も解けるだろうと会いに行く。といったところから話がはじまり、壮大なスケールの物語が動き始めます。こちらも大好きな作品です。


諸星作品ベスト10みたいなことも書こうかと思いましたが、基本ほとんどの作品が好きなので順位が付けづらいということもあり、好みの作品を思いつくままにランダムに取り上げてコメントを付ける感じにしてみました。

「妖怪ハンター」シリーズの主人公、異端の考古学者である稗田礼二郎は、諸星作品を代表する象徴的なキャラクターでもありますね。名前は『古事記』暗誦者の稗田阿礼から採られたそうで、キャラのネーミングも意味付けがされているところも凝ってますね。たしかに稗田は事件の当事者として登場することは稀で、ほとんどは傍観者として事件に関わっていて、なんとなく楳図かずお先生の「おろち」の雰囲気に共通したものを感じます。このシリーズは日本民族学がベースになっているエピソードが中心で、第1話のヒルコの話は映画にもなりましたね。他には、とくに東北の隠れキリシタン伝説をテーマにした「生命の木」は、呉智英氏も絶賛した珠玉の名品として名高く、自分にとってもとても印象深い作品です。

仙人や異世界や物の怪の話など、怪異譚を集成した中国の古典「聊齋志異」を意識して描かれた連作短編集。道教の呪術の達人、五行先生と、ひょんなことから五行先生の養子兼、弟子みたいな感じで同行することになる阿鬼(あき)との旅を中心に古代中国の仙人や道士たちが跋扈する世界を舞台に興味深いエピソードが展開していきます。「エコエコアザラク』(古賀新一著)のような西洋魔術のノリとはまた別の、アジア的な魔術の世界の雰囲気が独特で楽しくて好きな作品です。

酒と隠遁を愛した中国の文人、陶淵明(365〜427年)の詩「桃花源記」をベースに、彼の他の著作からのエピソードや「抱朴子」の呪術的な道教思想を盛り込み、ミステリアスな寓意譚に仕上げた傑作で、とても好きな作品です。陶淵明の「桃花源記」は現在でもよく使われる「桃源郷」の言葉の元になった詩です。桃源郷というとアジア版の楽園のイメージですが、元になった詩で描かれているのは質素な村です。現代で桃源郷と聞くと美とエロスの饗宴「酒池肉林」のイメージがありますよね。当時の中国は戦乱続きだったため、理想郷のイメージは贅沢な豊かさよりも、争いの無い自由で平和な世界ということになるのでしょうね。

都庁の地震研究所に勤める平凡な公務員の主人公は、ある日原因不明の目の疾患に見舞われる。その日を境に、なぜか高額の給料が振り込まれはじめるが、とくに疑問も抱かず、これラッキー!と豪遊を楽しむのだったが、その目の煩いは地震防止の生贄を識別するためのものだった。というお話。現代の都庁の地下では、古代から受け継がれてきた地鎮のための神への生贄の儀式が行われていたという設定がドキドキしますね。「グラップラー刃牙」(板垣恵介・作)でも東京ドームの地下に密かに格闘技場が作られていたという設定がありましたし、「R.O.D」(倉田英之・作)では神保町の神田古書センタービルの地階にトトブックスという超稀覯本を扱う古書店が存在する設定がありましたね。こうした実在する有名な場所に謎の施設が存在するという設定ってワクワクしますね。

同時期にジャンプに連載されていたコンタロウ先生のギャグ漫画「1・2のアッホ!!」で、半人半獣、おじさんのスフィンクスのような姿の「開明獣」が野球の解説者の役で出てきたりしてて、この元ネタが諸星先生の「孔子暗黒伝」であることから興味がわいて読んだ覚えがあります。「孔子暗黒伝」に登場する印象深いサブキャラ「開明獣」ですが、元ネタは中国の古典「山海経」に描かれている幻獣、瑞獣です。「孔子暗黒伝」はなかなか濃いシナリオで、読むのに気合いが要りますが、とても深い内容で感銘をうけました。ソクラテス、ブッダとほぼ同時代に生きていたと思われる賢者、老子は、水牛にまたがって周の国を去る前に関所の番人に懇願されて「道徳経」上下二巻を著したといわれてますが、周を去った後の足取りは謎です。「孔子暗黒伝」では、老子が周を去ったのはインドで不世出の賢者、ブッダに会うためだったというエピソードが描かれていて、とても面白い解釈だなぁと感服しました。こうした、実際の出来事や歴史的な事実をもとにして、本当っぽいフィクションを練り上げる手法って大好きで、そういう系統では「漱石事件簿」(古山寛、ほんまりう)も印象深い作品でした。夏目漱石の生きていた時代背景を舞台に、史実では言及されていない有名人たちとの邂逅が描かれていて、事実と虚構の境目を歩いているような不思議で楽しい気分を味わえました。

ある日たまたま公園のベンチの隣に座ったホームレスの中年男にタバコを1本あげたことから彼の奇妙な身の上話がはじまる、といった出だしで、物語は近親相姦妄想などが入り交じったフェティッシュで不気味でダークなお話です。こういう、ひょんなことから知り合った他人から、思わぬ話を聞くという設定もワクワクしますね。そういえば大好きな乱歩の短編「押絵と旅する男」も、たまたま電車に乗り合わせた男から聞いた話という設定でしたね。世界には自分の狭い見聞では計り知れない不思議な事があるはずで、そういう話というのは、自分のいつもの閉じた日常で関わっているいつもの人よりは、偶然出会った一期一会の他人の口から得られるのかもしれませんね。この漫画では、ホームレスの男の回想シーンで少年の頃に父の書斎で医学図鑑に載っている女性器の図版を盗み見ているところを父に見つかり引っ叩かれるシーンがありますが、その書斎の本棚に納められている本が背表紙まできちんと描かれているため、当時の諸星先生の趣味嗜好がうかがわれてとても興味深いです。判別できる本だけでも「聞け小人物よ(W・ライヒ)」「彼方(ユイスマンス)」「黒死館殺人事件(小栗虫太郎)」「サド選集(澁澤龍彦)」「ロートレアモン詩集」「未開人の性生活(マリノフスキー)」など、なかなかユニークな本ばかりで流石は諸星先生ですね。他にも「肉色の誕生」という短編でも錬金術師の本棚に納められているのは「ネクロノミコン」「失楽園(ミルトン)」「ヴェールを脱いだイシス(ブラヴァツキー夫人)」「子宮論(パラケルスス)」「化学の結婚(ヨハン・ヴァレンティン・アンドレーエ)」「高等魔術の教義と儀式(エリファス・レヴィ)」「四運動の理論(シャルル・フーリエ)」などの錚々たる奇書珍書、またユイスマンスの「さかしま」が逆さまに本棚に入れられていたりなど、細かすぎるユーモアにニンマリしてしまいます。こういう作者の趣味が背景の描き込みの中に何気なく現れている感じの表現も好きです。

この作品は、迷子になったときの心細さや不安感を実に巧みに表現していて印象深い作品です。平凡で真面目な中年サラリーマンの主人公が東京駅での乗り換えのタイミングでふとした気まぐれからいつもの通勤ルートを外れて八重洲地下街をぶらつこうと思い立ったことがきっかけで迷子になってしまう、というものです。焦れば焦るほど目的地から遠ざかっていく様子を描いた独特の不条理感がユニークな逸品。駅の中の迷宮をえんえんとさまよっている中で、主人公は駅の中でホームレス生活をしている男と出会います。彼もまた主人公と同様に迷子になり、かれこれ1ヵ月も閉じ込められているとのこと。この男は物語に深みを与えてる重要なキャラで、彼は社会心理学における「制度的行動」という概念を引用しながら、自分たちが置かれた状況を説明してくれます。いろいろな物語でしばしば現れるこうした解説者の役割をする蘊蓄を語るキャラってけっこう好きです。主人公がこの作品のように凡庸であったり、または脳筋的なドンキホーテ型なキャラである場合、本人が置かれている複雑な状況をスマートに解釈してしまうとキャラが崩れてしまうので、蘊蓄を語る別のキャラをうまく絡ませる必要がでてくるんでしょうね。利用者の数も半端無い東京の鉄道施設においては、めまぐるしく随時拡張されていくためか、とくに酔っぱらいや怪し気な人物が跋扈する夜の構内は、まるでかつて香港に存在した建築「九龍城」を思わせる怪奇な迷宮に思えることもありますね。この作品のように、とはいかないまでも、普段利用しているルートを外れて適当に歩いていると迷子になりそうでもあります。そうした感覚をこの作品はうまく表現しでいますよね。迷いはじめると底なし沼のようにどんどん目的地から遠ざかっていく感じが不気味で、駅自体が人を飲み込んで生きている魔物のように思えてくる秀逸な作品です。
※前に書いた文章は、記憶を頼りに適当に書いてしまたっため、作品の舞台をうっかり新宿駅と勘違いしたレビューになっていたことに気づき、書き直しました。「夢みる機械」に新宿駅が出てくるのでそれと記憶が混ざってしまったようです。(2021/10/11加筆)

おんぼろの宇宙船が故障する前に緊急避難で着陸した惑星。その惑星の住人はみな無表情なため、外来者である主人公にとって、その星の住人は感情が読めずにとても奇妙に感じます。見た目は同じ人間ですが、ひとつ違うのは、頭の側に幾何学的な図形が常に浮かんでいることです。その星の人間は「感情」というものは内面ではなく、外側に図形として投影されているのでした。感情が変化すると、表情ではなく、その図形が変化するというわけです。感情を図形であらわすというアイデアがとてもユニークで好きな作品です。宇宙船で変な星に流れついたりする話もイイですよね。宇宙ものも味わい深い短編をいくつか描かれていて、どれも興味深いです。冴えないサラリーマンが遠方の惑星に左遷される話「商社の赤い花」も、宇宙を舞台にしたSFという感じがまったくしない生活感のある小市民的な展開が面白かったですね。
諸星作品は思い入れのあるものが多いので、もしかしたらおいおい他の作品の寸評も追加していくかもしれません。

「栞と紙魚子」のファンアート描いてみました。