2021年04月15日

続・古書を補修してみました

やる気が残っているうちに手を付けないと、今までの例から多分何年経ってもやらない気がするので、ついでに先日言及しました「さらに痛みのひどい本」を補修することにしました。

というわけで、今回補修するのはこの本です。

210415_book_hosyu3_01.jpg

『神話と神話学』中島悦次 著 大東出版社 昭和17年

背表紙はおろか、表紙もボロボロです。ちなみに中身は周辺がヤケてる程度で読書には支障のない許せる範囲の経年劣化です。本の内容はタイトルの通り神話の解説なのですが、宇宙創成神話の分類をはじめとした宇宙関連の神話についての章立てがメインになっていて、ちょうど宇宙にも神話にも興味がある私としては、状態が悪くても一度読んでみたい!と思わせる印象がありましたので思い切ってお迎えしました。宇宙をテーマにした神話関連の本は他にも何冊も持ってますが、他の本に書いてないレアな神話が載ってる可能性があるので、多少の重複は覚悟で好きなテーマの本は集めてます。後で追記でこの本の目次も入れようと思ってます。まだ読んでませんが、この目次を見たら、私と似たような趣向の方はグッとくると思います。

これも語ると長くなりそうなので、本の内容はひとまず置いといて、早速補修に取りかかろうと思います。中は読書に支障がないにしても、表紙も背表紙もダメージありすぎなので、読書のたびにいろいろ剥がれ落ちたりしそうな状態です。なので、とりあえずはストレス無く読書できる程度の状態には復帰させようと思います。

210415_book_hosyu3_02.jpg

表紙の厚紙もくっついていた何層もの紙が剥がれてるのでまずボンドで元の1枚の厚紙に戻します。背表紙も剥がれているのでバラけないようにボンドを塗りました。

210415_book_hosyu3_03.jpg

前回のように、背表紙を作り、これを貼って補強しておしまいにしようかと思ったものの、表紙のダメージも相当なものなので、これはボツにしました。どうしたものかと思案。表紙を別の厚紙で補強しようかとも思いましたが、難易度が高い割に上手くいっても違和感がでてきそうなので、かわりに全体をくるむカバーを作ることにしました。カバーでくるむほうが、今後のダメージ軽減や補強の替わりにもなりますし、なんといっても見た目的には今の自分の出来る範囲の方法の中では最善かと判断しました。

210415_book_hosyu3_04.jpg

では、さっそく表紙カバーの作成にはいります。手元にあるこの本もおそらくもともとあったカバーが無い状態だと思われますし、ちょうどいいかもしれませんね。今回は検索しても国会図書館などの索引にヒットするだけで、背表紙どころか表紙カバーのデザインも不明でした。なので、目の前にある本のデザインを参考に、似たようなテイストで背表紙なども創作します。

210415_book_hosyu3_05.jpg

白地では雰囲気でないので、地色も印刷しようと思いましたが、もともと色の付いた紙にプリントするほうがリアリティがあるのでは?と思いつき、けっこう昔に買ったインクジェット対応のクラフトペーパーがあったのを思い出し、それを使用することにしました。色合いも古書の焼けた感じに似てていい感じになりそう。ベージュ色のクラフトペーパーにプリントする事を考えて、文字の色味は鮮やかな朱色にしました。実際にプリントすると、いい具合に赤色が濁って落ち着きのある赤に。

210415_book_hosyu3_06.jpg

文字は先日の記事と同じ感じで、似た書体で組んでみました。ヒラギノやリュウミンなど、オープンタイプのオーソドックスな日本語フォントには異字体として旧字体もけっこう含まれているので、こういう時には重宝しますね。絵柄は原本をスキャンしてphotoshopで図柄部分の選択範囲を出して、それを作業用パスに変換、そのベクトルデータをイラレ上で文字と同じ色に変換して使用しました。

210415_book_hosyu3_07.jpg

完璧とはいかないまでも、最初の状態と比べればかなり良くなったと思います。クラフト紙を使う事でそこそこ古書っぽい雰囲気も出たので、これで良しとします。

210415_book_hosyu3_08.jpg

怪し気な古書を入れてる本棚にさして確認。さすがに本物に囲まれるとちょっと浮いてる感もありますが、一応は許せるレベルではないでしょうか。ということで、今回も前回に引き続き、古本の補修を記事にしてみました。ご閲覧ありがとうございました。


ペン同日追記

今回補修しました本、『神話と神話学』(中島悦次 著 大東出版社 昭和17年)の目次です。

210415_book_hosyu4_contents2.jpg

宇宙関連の神話の分類と解説。そそるテーマと、興味深い分類にグッときます。

210415_book_hosyu4_contents.jpg

上の画像は全ての目次です。宇宙創成神話だけでなく、太陽や月などの天体関連も充実していますね。巨人や小人の神話など、大ヒットしたアニメ『進撃の巨人』とか、身近な話題の興味を深めそうなテーマもありますね。また最後のほうにある「神聖数の話」も面白そう。ざっと見てみると、民族の違いによって神聖視される数が違ってたり、ある民族がなぜその数を神聖視するのかなどが分類考察されています。偶然とインスピレーションで出会った本ですが、なかなか面白そうな内容の本ですね。

タグ:神話 古本 補修
posted by 八竹彗月 at 16:10| Comment(0) | 古本

2021年04月14日

古書を補修してみました

本と私

昨今は本もどんどん電子化されて、キンドルとかスマホなどで手軽にどこでも読書ができるという、読書好きには夢のような時代になってきましたね。私はスマホもキンドルもまだ未経験なので、そうした時代の恩恵には与れてませんが、まぁ、急がなくてもそのうち何かのきっかけで活用するようになるでしょう。こういうものって、一定レベルの必要に迫られる何かが無いと、なかなか手に入れようというアクションに繋がらないものです。

そもそも、私は本は大好きですが、読書好きといえるほどでもなく、本そのものの存在感が好きという感じですので、電子ブックになかなか触手が動かないのも、それが理由にあるかもしれません。(とはいえ、読書が目的の本も買うので、そういう本はやはり電子ブックのほうが便利だろうなぁ、といつも思ってます)

先日も古本市で本を物色する楽しみに耽ってきましたが、古書には、そういう味のある本の存在感があり、また時代を経て残っている骨董的な楽しさもあるので、古書集めはけっこう長続きしている趣味です。古本は、下は数十円から数千万円もする稀覯本まで、とてつもなく値段の振り幅が大きく、リッチな人だけでなく普通の庶民でも手が届く趣味でありますが、高いからといって面白い本とは限らず、安いからといって価値が無いというわけでもないところが奥が深いです。ときには数十円で、数万円の相場の本が見つかる事も意外とあります。古書店もその店の専門外のジャンルは二束三文で売られている事もありますし、貴重な本でも状態が悪いと格安で入手できたりもします。まさに、人との出会いと同じですね。人は見かけによらないものですが、本の価値というのも一筋縄でいかない多様性があります。

古書談義はこのくらいにして、今回は先日手に入れた古書に、痛みのひどいものが何冊か含まれているので、そのうちの一冊を補修する過程を記事にしてみました。ここ数年くらい前から、痛んだ古書は、今回ほどではないにせよ、カバーや背表紙の補強とか、鉛筆やボールペンなどでの線引きの消去作業など、けっこうマメにやっています。今回のような大幅な手間のかかる補修は年に一回あるかないか程度ですが、やるときはやります。

古書を補修することは、次に手に渡る本の主人への配慮とか、個人でやれる文化保護とか、あるいは愛書家のフェティッシュな愉しみであるとか、いろいろ理由は思い浮かびますが、私の場合は「本に好かれるため」みたいな理由もあったりします。千と千尋ではないですが、日本の土着的な宗教観として、万物に神が宿るという思想ってありますよね。森の精霊とか、山の神とか、森羅万象にそれぞれそれを守護する精霊がセットになっていて、霊的な見えない次元で守護の対象を守ったり、禁忌に触れるような者にはバチを当てたりとか。私も、それと似たような考えを信じていて、それは、万物に守護する精霊がいるというだけでなく、そのモノ自体も魂を持っていると考えています。

機械にも心があり、書物にも「読まれたい」「大切に扱ってもらいたい」「喜んでもらいたい」と思う心があって、それに応えてあげてると、本にも好かれますし、本を守護する担当の精霊も味方になってくれます。具体的には、超レア本を格安で入手できるラッキーにたびたび出会うといった思いがけない奇跡が頻繁に起きるようになります。痛んだ本を治療したりしてることへの恩返しに違いない!と今では堅く信じるようになりました。何度も奇跡が続くと、だんだん本に対する敬意みたいな感情が芽生えてきて、図書館とか古本市とか古書店などで、本が逆さに本棚に入れられていたりするのを見ると、気になって正しい位置に戻したりとかするようになりました。そういう時は、自分の背後で本の神が気分良さそうな笑顔で満足そうに自分を見おろしているような気配を感じます。どんなものでも、人間でも動物でも植物でも、はては人工物や無機物でさえも、愛を与えれば愛を返してくれるように、この世界は出来ているのでしょうね。

補修開始!
では、そろそろ補習・・・じゃなくて、補修を始めます!
今回補修するのは、この本。
210414_book_hosyu_01.jpg

中国の古典の中から、テーマ別に6巻で構成された「中国史談」というシリーズの中の第5巻目『妖怪仙術物語』(河出書房新社 昭和34年発行)という本です。諸星大二郎先生の影響で、前々から仙人などの道教関連の不思議な話にとても興味があったので、こういう関係の本はつい手に取ってしまいます。

今回補修するのは本そのものではなく箱のほうです。箱入りの本の「箱」の背表紙がまるっと外れており、断片も無いものもあるので、これは背表紙自体を作らないとだめだな、と判断。まずは、本の箱と似た厚みの厚紙を探します。とりあえず以前届いた厚紙の封筒の切れ端を材料にして、箱の抜けた部分にちょうどよくハマるように、背と同じ長さのものを作ります。

断っておくと、この補修作業は全くの自己流で、図書館などが行っているような正式な補修方法とは違うかもしれません。よって、この記事は本の補修のハウツーというよりは、ニコ動などの「やってみた」的な、ネタ的な視点でお読みいただければと思います。

210414_book_hosyu_02.jpg


断片だけでは背表紙にどんなデザインで文字が入っていたのか解らないので、ネットで画像検索。基本的に本のタイトルで検索しても、ふつうは表の表紙ばかり出てくるので、背表紙が必ず出てくる保証はありません。古書店のサンプル画像とかでも、背表紙の画像はあまり使いませんが、まぁ、ダメモトで検索してみます。今回は運良くヤフオクの出品画像で背表紙が解る画像が1点だけヒットしました。ヒットしなかった場合は、自分で勝手にデザインして進行するつもりでしたが、これもまた小さなラッキーですね。

210414_book_hosyu_03.jpg

イラレで背表紙のデザインを作成します。現物を見ながら、地色の色合いを調節します。モニタの色と実際に印刷される色が全く一致することはないので、まぁまぁ似てる程度の色合いで進めます。

210414_book_hosyu_04.jpg

背表紙の断片の文字と比較しながら、文字の大きさを調整。昭和34年の本なので、この時代にはDTPなど無く、文字は大きな写植機を使った写植の時代ですね。横長のこの明朝、いかにも昭和の古書といった風格を感じるレトロを感じる書体ですね。さすがに同じフォントは持ってないので、持ってるフォントで似たようなものを使い、横長に変形をかけて使用します。

210414_book_hosyu_05.jpg

A4に4つ入る大きさなので、プリントした後で近い色を選べるように微妙に色違いにした背表紙を4つ作成。

210414_book_hosyu_06.jpg

プリントした背表紙から色の似ているものを切り離し、先ほどの厚紙に糊付けして補強します。箱と接着する面は、糊をつける前に箱に合わせてみて大きさの確認。ちょうどスッポリ収まる感じで、問題なさそうです。

210414_book_hosyu_07.jpg

箱との接着部分は込み入った箇所になるので、糊やボンドよりは両面テープが良さそうだと気づき、両面テープを使用することにしました。結局同じ色合いにはなりませんでしたが、まぁ、地色が明るいほうが本棚にさしたときに見やすそうなので、そのままくっつけました。このくらいのいい加減精神≠烽ネいと、補修作業が義務感になってしまい楽しめません。なので、これでいいのだ!

後は毛羽立った部分とか、テープで接着しきれなかった部分を木工ボンドで穴埋めして、程よい締め付けの洗濯バサミで軽く圧着させて、そのまま放置。

210414_book_hosyu_08.jpg

30分ほどでボンドも乾き、完成です。こんな感じになりました。
さすがに新品同様になったりはしませんが、一応、箱が箱の役割を果たせる程度には回復したので、一応これで良しとします。

210414_book_hosyu_09.jpg

すぐ近くの本棚に入れてみて様子を確認。まぁ、いい感じではないでしょうか。
込み入った補修をした後には、ちょっとした達成感を感じますね。これからコーヒーを入れて、のんびり本棚を眺めて悦に入ろうと思います。たんなる古本の補修の記事にどこまでニーズがあるのか謎ですが、とにかく、ここまで読んでいただきありがとうございました!


ペン同日追記
落ち着いて良く見てたら誤字を発見してしまいました。「中國史談」の國≠フ部分をうっかり国≠ナ作ってしまってました。日本語的には間違ってはいないので、気にしなければそれでいいようにも思いますが、せっかくなのでやる気の残っているうちに、正しい表記に直したものをさきほどの背表紙に重ね貼りしました。

210414_book_hosyu2_01.jpg

210414_book_hosyu2_02.jpg

本棚に入れて再度確認。これで気になる点はとりあえず解決して一段落しました。まだもっとひどい痛みのある本が残っているので、後でまた気が向いたら補修しようと思います。では、これでひとまず補修の顛末の結びとさせていただきます。ご閲覧ありがとうございました。
タグ:古本 補修
posted by 八竹彗月 at 02:54| Comment(0) | 古本

2021年04月07日

神様論

神と宇宙法則

幸も不幸も、神が罪を裁いたのでも、神が罰を当てたのでもなく、宇宙の「理」、つまり、絶対的な宇宙法則によって自動的に生じる原因と結果である、という考えに最近はとても共感しています。神は実は人間に罰を与えたりしたことが一度も無いのではないか、と。罰に見えるのは、ただ因果の法則で、悪い種が不幸という芽を出しただけというような。仏教の教えとはそういった法則の解明を主体としており、キリスト教やイスラム教はその法則を神と呼んでいいるともいえるかもしれません。

聖書に、「神は愛です」(ヨハネの手紙一4章16節)という有名な言葉がありますが、最初は情緒的な比喩のような言い回しかと解釈してました。でも最近は、真理そのものを定義しただけのものであることに気付いてきました。別にポエティックな言い回しとして「神は愛です」というのではなく、それが真実であるから、そう言うしかない、という言葉であるというのが正しかろうと思います。そもそも、我々は「愛」というのを、人間的な、あるいは生物的な情緒のように誤解していますが、愛は万物すべからく通底する存在の種≠フような根源的なエネルギーではないか、思うようになりました。愛というのは、感情を表すだけの言葉ではなく、全ての感情と物質の根幹に関わる根源的なエネルギー、というのが意外と本質的なイメージのような気がします。この世界は、この世界の根源にある存在やその法則が「存在してもいいよ」と毎秒毎瞬、無限に許可を出し続けているから存在しているのではないでしょうか?

我々は、漠然と、存在しているものが存在するのは当たり前に思っていますが、本当にそうでしょうか?現代科学でも、物質に質量があるのは、当たり前ではなく、質量を与えるための粒子(ヒッグス粒子)が介在することで重さという概念が成立していることを示唆しています。それと同じように、我々の日常を成立させているすべて、電子の運動やひいては万物の根源である究極のヒモの振動が、振動しつづけていることは、何も理由のないことなのだろうか、と考えた場合、何か神としか呼べないような根源的な想像を絶する壮大な存在をうっすらと感じます。

神の定義について

最初の話題に戻って、幸も不幸も宇宙の法則が自動的に出した結果である、という話ですが、これは先に述べたように仏教の根幹にある思想でもありますが、またその他の宗教で「神」と呼ばれる超越的な存在が、人間に罰を下したり、幸福を授けたりしているという考え方も、正確ではないものの間違いではないですし、仏教の考えより劣るわけでもないと最近は感じています。私が思うのは、幸も不幸も自分が撒いた種が発芽した結果であるにせよ、もっと詳細にその結果を分析すれば、「幸福は神が与えたもので、不幸は自分のエゴが生み出したもの」という考えも意外と正解に近い気がしているという事です。

短絡的に「良い事は神のおかげ、悪い事は自分のせい」と言ってしまうと、いかにもカルト宗教のヤバい教えのように見えてしまいますが、それは、この教えを他人をコントロールするために使う組織があるせいでしょうね。あくまでも、真理というものは、自己の内面を浄化して魂の根源に回帰するためにあるものだと思います。そうした中で、体感していく宇宙的な力を人間の言葉で言い表したときに、「神」という言葉が、実は一番正確なようにも感じるのです。

神というと、最初は、人間と無関係に存在してて、ささいな悪に過敏に反応し、最高の善のみしか受け入れない融通のきかないモンスターのようなイメージで考えがちです。それゆえに若い頃は、神を否定したがり、神からあえて決別したがる傾向もけっこうあると思います。(そういえば詩人のアントナン・アルトーの作品に現代哲学にも引用された「器官なき身体」で有名な『神の裁きと決別するため』というのがありましたね)しかし、そもそも多くの宗教や神話では、神は人間に寛容や許しを説いてるわけですから、神ご自身が寛容でないわけがありません。神は人間の何万倍も寛容だと考えた方が論理的です。美輪明宏さんが何かの著書でおっしゃってましたが、神的な存在は、べつに人間に100%良い事ばかりしなさいと無理強いしてはおらず、悪事よりも善行の比率が高ければとりあえず合格、くらいな感覚でまずは十分だと思います。

我々が人生を通じて求めてやまないのは、麗しい異性でも、お金でも、宝石でも、不動産でもなく、「幸福」です。麗しい異性、お金、宝石、不動産、その全てが満たされても、幸福でなかったら何の意味もありません。有り余る巨富がありながら、その富を使う暇もないほど仕事に追われているとか、とてつもない価値のある不動産を所持しながら、家族仲が異常に悪く、毎日諍いが堪えないとしたら、そんな生活を誰が望むでしょうか。

神は気に入らない人間にきまぐれにひどい罰を与える怪物ではなく、まったく正反対で、本当の神とは、人間の思考をフルに働かせてイメージする最高に素敵な人物よりも何億倍も素敵で、どんな聖者よりも寛容で優しく、どんなに親しい友人よりも楽しい仲間であり、どんな偉人よりも知性的であり、考えうるどんな「最高」よりも最高な存在である可能性のほうが高いと思ってます。いや存在すら超越しているので、ジョセフ・キャンベルの定義したように「存在と非存在」であり、本来思考で捉えれないところを、あえて名付けたのが「神」なのでしょう。以前グノーシス主義の記事を書いたときに引用しましたが、言葉で表現できるギリギリで神を表現していて秀逸なので、もう一度キャンベル先生の神の定義を再掲します。

超越者(神)は思考のあらゆるカテゴリーを超越している。存在と非存在−それがカテゴリーです。「神」という語は本来あらゆる思考を超えたものを意味しているはずなのに、「神」という語そのものが思考の対象になってしまっている。
さて、神は非常に多くの形で擬人化されます。神はひとりか、それとも多くの神がいるのか。それもまた思考のカテゴリーに過ぎません。あなたがそれについて語り、考えようとしているものは、そのすべてを超越しているのです。

ジョセフ・キャンベル「神話の力」飛田茂雄訳 早川書房 1992年 p123

人間のような人格はないともいえますが、それは想像をはるかに超えた究極の人格であるゆえに、人間の知力で捉えがたいからだろうと思います。神は、信じないうちは、ファンタジー的な存在のようにしか思えず、信じてる人が迷信深い愚者にしか見えないものです。しかし、何かのきかっけで神の存在をうっすらとでも信じるようになってくると、なぜか面白いほどに小さな奇跡が頻繁に起きるようになるので、より確信的に信じるようになっていきます。まさに「信じる者は救われる」の本当の意味を実感します。神を信じるというのは、
特定の教団に入信したりすることではなく、この宇宙の背後に確かに存在する人間の知性で捉えきれない壮大な何ものかの気配に関心を向ける事です。神を知ろうとすることは宗教的な好奇心というよりは、もっと根源的な、自己の本質と最も密接な鍵だろうと思います。

神と宇宙について

そもそも、この宇宙には最初から潜在的に人間を生み出せる要素が全て揃っていたから人間が誕生したのであり、ならば、この宇宙自体も人間よりも高度な「心」や「魂」が無いはずがありません。人間でさえ、どんなクリエイターも自分に無いものは表現できません。よく耳にする意見で「神は人間の心が生み出した架空の存在だ」という見方もあります。私も以前はそう考えていたものでした。しかし、人間は、無い存在を作ったのではなく、古代の高度な意識に到達した賢者たちが、宇宙の背後に存在する壮大な何かの気配を察知して、それを表現する人間世界の言葉がなかったので、「神」という概念でそれを語るしかなかった、というのが事実かな、と思っています。

人間は宇宙が生み出した宇宙存在でもありますから、その宇宙法則に従って行動すると物事がスムーズに運び、それに逆らって行動すると困難や苦しみが伴う、というのは、そういう意味では実に理にかなった考えだと理解できます。老子は、この宇宙の法則を『道(タオ)』と名付け、生き方のエッセンスを簡潔に遺しました。一見自分が得をしそうなエゴを満たすような生き方は、結局自分を破滅させるだけで、逆に自分を捨てて周囲の人や公益に貢献する生き方のほうが、結果的に自分に最大の利益をもたらす、というのは世の中をみると全くその通りに動いていますね。狭い期間だけで見ると、悪人が栄えるように見えるケースもありますが、長いスパンでは、悪人が人生に勝利するという事はまず不可能でしょう。人間世界の幸と不幸は、ほぼ9割以上は人間関係で生じますが、そういう意味では全ての人間は幸福の担い手でもあるわけです。イエスの「隣人を愛せ」というのは、隣人のためだけでなく、主に自分の幸福の絶対条件であるということなんでしょう。

幸福は常に神からしか出力されない現象であり、不幸は常にエゴ(自分本位な利己性)からのみ生じます。エゴは利己的ですが、利己性自体がマズいわけではなく、高いレベルの利己性は「神を知りたい」「困っている人を助けたい」「この世から悲しみを消したい」という高度な「欲望」となりますし、人助けが一番気持ちのいい行為だということを悟った人は、自分が気持ちよくなるために、他人を助けたりしはじめます。これは偽善ではなく、むしろ最高の善で、自分も気持ちよく、しかもそれによって他者も気持ち良くさせるので、自己犠牲の善意よりも宇宙視点では喜びの量が最大化されるので、価値が高いといえます。

神の計画について

パラマハンサ・ヨガナンダも、常に神の事を考え、瞑想によって神と対話することの重要性を指摘していましたが、こうしたことは、精神世界に免疫がないと「宗教的」というカテゴリーで片付けてしまいがちかもしれません。本質はそういうカテゴリーとかジャンルの問題ではなく、人生の根本的な価値は、まさにそこにあるし、そこにしかない、という真理を言っていたのだなぁ、ということが最近は身にしみます。たしかに神は、神の事を熱心に考え、神に好かれようとする人間に、幸福とか奇跡を与えているように一見思えます。しかし神はえこひいきするようなレベルの低い感情は無いですから、実際は悪人にでさえ聖者に与えるのと同じ量の、いいえ、万人、万物に、等しく100%の愛のエネルギーを常に与えています。ひいきに見えるものの正体は、各人が神の愛を受け取る器の大きさや、器の状態によるのだと思います。

霊的な次元では、思うことなどの心のパワーは絶大なので、神を信じるほど神との霊的なパイプが太くなるので、より神からのエネルギーが自分に入りやすくなる気がします。聖者や賢者のように、修行の末に神の愛を受け取る心の器を大きく育てた者には、たくさん愛が入るようになるし、悪人はあらかじめ生まれもって持っている器でそれなりに愛を受けとっています。器も悪人ほど手入れをしないので、底が抜けている場合もありますし、わざわざ器を手で覆って、神の愛を受け取る量を自分で減らしている場合もあります。何にせよ、神は、太陽が完璧に分け隔てなく万物を照らすように、全ての生命と非生命に完璧に100%の愛を注いでいるように思えます。

神を信じると良い事がよく起こるようになるのは、自分に関して言えばほとんど事実だと思ってます。神を信じるというのは、具体的には、聖書を勉強するとか、イエスの十字架像を拝むとか、そういう宗教っぽい行為とはあまり関係なく、自分が存在しているこの世界と調和し、この世界に貢献する事だと思います。

神はこの宇宙の創造主だという定義は、しばしば「宇宙の創造は物理的な仕組みで起こったことで神とは関係ない」という反論もあり私もそう思っていた時期もありましたが、そういうことではなく、ただ定義としてこの宇宙を創造した何らかの力や仕組みの発生源を仮に「神」と呼んでいるだけで、ある意味科学によって開明しようとしている宇宙の謎も、神とは何か?の探究なのではないか、と思うようになりました。神と宇宙はほぼ同じ意味ともいえますが、神というと宗教的な擬人化したイメージに捕われますし、宇宙というと感情の無い無機質な物理現象に拘束された自動装置のようなイメージに捕われがちです。神を言葉と思考で捉えるのは限界がありますね。それゆえ過去の賢者たちは真理は言葉の外にあると何度も言ってきたのでしょう。神は思考の対象ではなく、人生の体験の中で直に感じとる生きた存在です。

全ては神が創造したものなので、好きなものだけでなく嫌いなものも含めて、全てのものに敬意をもつこと。それに加え、運命もまた神の領域なので、神を信頼していれば、神が100%の愛を注いでいる万物、つまり自分も万物に含まれるのですから、自分に因果を超えてわざわざ不幸な現象を与えるはずがない、ということを「信じる」ことも重要です。神を信じるということは、神が自分を不幸にすることは絶対に無いと確信することと同じです。確信は運命の設計図となり、やがてそれは現実に現象化します。一見不幸に見える現象も、それは自分を成長させるための「幸福の種」として現われたものである場合が100%であり、人間を苦しめるために与えたサディスティックな刑罰ではないのだと思ってます。そもそも神は愛なので、苦しみの正体というのは、「神からどれだけ離れているか」の魂的な距離感によって生じるものなのでしょう。

よく、人間は、自分の力ではどしょうもないことに悩んだりするものです。急いでいる時に踏切が降りてヤキモキする事が昔はありましたが、よく考えると、ヤキモキしようがしまいが同じ時間で遮断機は上がります。であれば、ヤキモキもイライラもしなくていい、と気付きます。入学試験の結果も、結果発表までは考えても悩んでも結果は変わらないので、悩むだけ嫌な時間が増えるだけ損です。何が言いたいかというと、こういう「考えても意味の無いこと」や「自分の力の及ばないもの」は、すべて霊的な次元の領分なので、ここで一番効力を発揮するのは運命を信じる力です。「人事を尽くして天命を待つ」という言葉がありますが、まさに真理で、自分の手が届く範囲のことは精一杯やって、その後の結果は神の裁量に全部お任せする、というのが、もっとも最善の結果を招くのでしょう。実際に、自分の経験に照らしても、そういう法則があるのはリアルに実感します。この物質世界に人間として存在していること自体、魂の未熟さを払拭するために修行している存在であるという考えに共感します。ならば人生、いつも理想通りにできないことは仕方ないですし、人事を尽くす時点で出来てないとか、人事を尽くしても天命に任せず、うだうだと悩んでしまうのも、未熟さゆえであります。まぁ、この世界、生けるもの全ての目的というのは、そういう未熟な魂が集まって、助け合いながら、失敗を許しあい、お互いの未熟な部分を補いあって、みんなで力を合わせてちょっとづつこの地上を天国にしていこうという、壮大な神のプロジェクトなのかもしれませんね。

posted by 八竹彗月 at 15:26| Comment(0) | 精神世界