「ちょうどいい」の名言について
ネットでよく見かけるお釈迦様の言葉だとされる名言「今のあなたにちょうどいい」。今の環境も、今の親、兄弟、友人、同僚、上司、などの全ての人間関係も今のあなたにちょうどよい、そして幸運も不幸も病気も死も何もかも、すべては今のあなたにちょうど良い時にちょうどよく起きているのである。という意味で引用される名言で、どこかで目にしたり耳にしたことがある人も多かろうと思います。アクシデントもラッキーも、偶然に起こる事などこの宇宙には一切なく、すべては過去の生き方などで撒いた種が正確無比な物理現象と同じように現象として発芽し現われているだけである、というのは仏教の基本概念ですから、今が不服であれば未来を良くするために今の自分のあり方を省みることによって、良い因果の種を撒くことが最善なのでしょう。何の不満もなく一生を過ごせる人は皆無ですから、不満な状況が現われた時にいかなる心持ちでその状況に向き合えば良いか、というガイドラインを自分の中に明確に持っていることはけっこう生きる上で助けに成ります。
私も、思い通りにいかないことや、嫌な事が起きるたびに、この言葉を思い出して気持ちを落ち着かせてきたので、けっこうお世話になっているありがたい教えです。「もっと自分は評価されてもいいはずだ」「もっと自分に合った理想的な人と出会えないものか」など、「もっと○○○だったらいいのに!」という気持ちというのはついつい考えてしまいがちです。しかし、実際には自分のレベルに釣り合った現実が展開しているだけなので、目の前の環境をレベルアップさせるには、環境に不平を言うのではなく、まず自分自身のレベル上げをすべきだということなのでしょう。
「そんなこと言ってもこうなったのはあいつのせいではないか!」とか「もっと環境が良ければ成功したはずだ!」と、エゴは主張しますし、どうにかして今の不満を自分以外の責任にしたがりますが、仮に自分の落ち度が見当たらなくても他者や環境に責任転嫁して状況が変わる事はありません。ゆえに、まずは変えれる可能性が最も高い手近な「自分」を変えていくことが、実は最速で現実を変化させる最善手なのだというのは、スピリチュアルうんぬんを脇に置いておいても、とても合理的な推論でもあると思います。
この名言の出典を調べてみると・・・
ということで「ちょうどいい」の名言の話に戻りますが、この名言をはじめて知ったのは数年前で、Youtubeに上がっていた斎藤ひとりさんの音声動画からだったと思います。ここ数年仏教にはけっこう関心が高まっていて、仏教関連の本が増えてきたこともあり、このお気に入りの名言の出典が知りたくなり、もし持ってる本に記述があれば原典を参照してみたいと思いまして、さっそくこの名言のルーツをネットで調べてみました。
漠然と、もしかして以前のヴォルテールやマザーテレサやオーウェルやジョブズの名言(注1)を調べた時のように、ネット民の誰かが創作した名言だったりして、という疑惑がありましたが・・・・。いろいろ検索してみると、またしてもこの名言の出典も漠然としたものでした。唯一それらしい情報としては「大蔵経」(注2)がソースだというものが出てきますが、この「大蔵経」というのは仏教の特定の経典を指すものではなく、「全ての経典」という意味です。ちなみに、大正13年から昭和9年まで10年を費やして編纂した漢訳仏典の総集『大正新脩大蔵経』(注3)は全100巻で、1ページあたり17字詰め29行3段組みで各巻平均1000ページというとんでもない量です。「大蔵経」がソースだと言うのはほとんど「仏教がソースです」と言ってるのと同じ事で、出典を示すなら具体的に「理趣経」とか「華厳経」などという個別の経典名がわからないとと調べようがない感じですね。
さらに調べていくと、この「ちょうどいい」の名言の出所は斎藤ひとりさんの思想に影響を与えたといわれる小林正観さんの著書に出てくる言葉だという情報がありました。著書の中で小林さんはこの名言をお釈迦様の言葉の引用であるとし、そこに出典が「大蔵経」であると書いてあるようです。ソースが「大蔵経」というのは漠然としすぎているため、小林さんの創作ではないか?という意見も見受けられましたが、小林正観さんはもうだいぶ前に他界されておられるために確認も難しい状態ですね。小林さんの本は数冊持ってますが、そう言われてみればこの「ちょうどいい」の話も書いてあったような・・・小林正観さんは、斎藤ひとりさんと同様に、ユーモラスで分りやすく、それなりにロジカルに精神世界を語っておられたので、説得力もあり面白いですね。
寺山修司もよく著書で意図的にありもしない名言を創作することで有名でしたが、小林さんの「ちょうどいい」の名言ももしかしたら創作の可能性もありますね。あるいは意図的な創作ではなく、昔読んだ経典の中の言葉が印象に残っていたものの具体的な出典を忘れてしまい、うろ覚えで書いたということも考えられますね。まぁ、真相はどうあれ実際に自分の人生に役立っているのはたしかですし、もしかしたら仏典のどこかに似た言葉がある可能性もなきにしもあらず(注4)ですから、細かいことは気にせず、とりあえずは詳細が判明するまでは「ちょうどいい」はお釈迦様というより小林正観さんの名言として役立てていけばいいのかもしれませんね。実際に役立っていますし、多分自分にとって今後もお世話になる言葉になっていくように思います。
「ちょうどいい」の個人的な実用例
一見人生は、そんなにちょうどいい事ばかり起きているようには見えませんが、立ち止まってよく考えてみると、「ああ、やはりちょうどいい事以外はなにひとつ人生には起きないものなのだ」という事が理解できます。良い事なら受け入れやすいですが、嫌な事が起こると、「ちっともちょうどよくない!」と思いがちですよね。嫌な事が起こると、なんで私だけがこんな目に!と思う事はあると思います。そして嫌な事というのは、必ずしも因果関係がはっきりしている事ばかりではないですから、最初はタイミング悪く降り掛かった災難にしか見えないこともよくあります。
例えば、自転車で走ってるときなど、正面からこちらへ向かってくる人に道を開けようと退くと、同時に相手も同じ方向に避けたりして、それが何度か続くと、あたかも自分が相手の行く手を阻んでいるかのようなバツの悪い状態になることって誰しも覚えがあると思います。たいていはお互いに分って≠「るので照れ笑いなどを浮かべながら会釈してすれ違うような展開になると思うのですが、たまに「邪魔するな!」とばかりに怒る人もいます。私の場合、そういう人に出会ったのはまだ一度だけなので、一般的にもちょっとレアな出来事なのかもしれません。
避ける方向がタイミング悪く一致してしまうのはたまに起きることで、仕方の無い事ですし、どちらが悪いという事でもないように普通は思います。そういうことに怒る人というのが理解できず、理不尽な目に合ったという思いで、けっこうその後も嫌な気分を引きずってしまうものです。目に見える現象だけを見ると理不尽な事ですが、しかしその後ろに何かの因果がなければそういう現象は起きないはずなので、その原因を考えていくと、過去に自分も同じような理不尽な怒りを他人に向けて相手を嫌な気持ちにさせた過去の記憶が蘇ってきました。「ああ、もしかしてあの時に相手が感じた不条理な思いを今度は私が体験することになったのか」と納得したものです。状況として過去を反省するための状況が整ったために、因果の理(ことわり)が作動し、ちょうどよく起きた事象なのだと思います。まさにこれは過去を清算するためのちょうどいい出来事が起こったということでしょう。理不尽に怒る相手は、実は過去の自分自身だったわけです。
そういう意味でも私に理不尽な怒りを向けた見知らぬ彼は実はただの嫌な人ではなく、霊的な深いレベルでは私の人生の教師を臨時に受け持ってくれた非常勤講師であったのかもしれません。嫌な事が起きるたびに、そうすぐに納得できるものではないですが、なんにせよネガティブな思いをずっと引きずるよりも少しでも早く気分を冷静にするテクニックとして活用できるなら、そういう利点だでけも「ちょうどいい」の言葉は価値があると思ってます。合理主義的に考えれば、「ちょうどいい」というのは真理というより気持ちを落ち着かせるための技法と捉えれるかもしれませんし、べつにそう考えても間違いではないと思いますが、理性を超えたさらに深いレベルでは、意外とそれが真理であるようにも思えてくる昨今です。
(注1)
ヴォルテールの名言とされている言葉「私はあなたの意見に反対だ。しかしあなたがそれを主張する権利を私は命を賭けて守る」は、その男気あふれるカッコ良い言葉のせいか、だいたい10年ほど前からネットでかなり広く引用されている印象ですが、実際はヴォルテールの言葉ではないようです。
マザーテレサの名言とされている言葉「思考に気をつけなさい。それはいつか言葉になるから。言葉に気をつけなさい。それはいつか行動になるから。行動に気をつけなさい。それはいつか習慣になるから。習慣に気をつけなさい。それはいつか性格になるから。性格に気をつけなさい。それはいつか運命になるから。」。これもよくネットで見かける名言ですが、これもマザーの言葉であるという明確なソースは不明です。マザーテレサは、こういった詩的なリズムで真理を表現するような技巧的な言い回しをあまり使わず、素朴にストレートな言い方をすることのほうが多いですし、多分ネット民の創作か以下のリンク先の考察にあるように別の偉人の言葉なのかもしれませんね。
オーウェルの名言とされている言葉「ジャーナリズムとは報じられたくない事を報じることだ。それ以外のものは広報に過ぎない」も出典は不明でオーウェルのものではない可能性が高いようです。
ジョブズの名言とされている言葉「私は、ビジネスの世界で、成功の頂点に君臨した。他の人の目には、私の人生は、成功の典型的な縮図に見えるだろう。」からはじまる最後の言葉≠ニされるものも、文章に事実誤認の箇所が多く、現在はジョブズのものではなくネット民の創作であることが判明しています。
ヴォルテールの名言とされてきた文言(ウィキペディア)
マザー・テレサじゃなかった⁈ 名言「思考に気をつけなさい…」の謎(ブログ『Blue Eli ニューヨーク便り』様より)
ジョージ・オーウェルの言葉じゃない? 「ジャーナリズムとは報じられたくない事を報じることだ。それ以外のものは広報に過ぎない」(ブログ『pelicanmemo』様より)
スティーブ・ジョブズの最後の言葉の裏にある噂と真実(「リーダーズ・ダイジェスト」の英文記事)
件の「最後の言葉」は出典が不明で、ジョブズの家族やアップル社も認めていない。その引用の全ては非公式のSNSアカウントやブログのみでまともな根拠のあるソースが存在しない、といった内容が記事には書かれています。
名言関係についての感想は過去記事でも少し書いているのでよろしければどうぞ。
・スティーブ・ジョブズの名言について(記事『【雑談】黄金郷通信 vol.4』の後半)
・ヴォルテールとオーウェルの名言について(記事『ネット空間のシミュラークル』の後半)
・マザーテレサの名言について(記事『「引き寄せ」について』の中盤あたり)
(注2)
大蔵経とは?(コトバンク)
(注3)
大正新脩大蔵経(Wikiwand)
(注4)
丁度よい(「光華女子学園」様)
これも正確な出典は不明なものの、お寺の会報にこの言葉が掲載されたこともあるということは、仏典のどこかに実際に書かれてる言葉の可能性もありますね。ただ執筆したのは住職の奥様とのことで、実際に仏典を参照したものなのか、一般書からの孫引きなのかは不明です。
2020年12月22日
「今のあなたにちょうどいい」の話
posted by 八竹彗月 at 20:43| Comment(0)
| 精神世界