プレドイ礼拝堂の十字架像イエス・キリストといえばなんといっても十字架上の磔刑がシンボリックなイメージとして思い浮かびます。美術の本とか教会の宗教画などに描かれた図像から想像する漠然としたイメージを誰しもが思い浮かべるのではないでしょうか。私もそうした一人でしたが、たまたまイタリアにある古い礼拝堂、プレドイの聖霊礼拝堂の壁に掛けてある磔のキリスト像を見て、とてもショックを受けたのをきっかけに、それまでのイエスのイメージが微妙に変わりました。(実際の画像は記事の最後に載せたリンク先にあります。宗教的な真面目な意図で作られたものではありますが、見た目はグロテスクなので閲覧注意です)
そんな感じで、プレドイ礼拝堂の十字架像をきかっけにイエス・キリストについて考えをめぐらせ、いろいろメモしていくうちに、ついでに記事にしてまとめてみようと思い立って書いてみました。自分自身では現在リアルに興味あるのは仏教やヒンドゥー教なのですが、最初に読んだ聖典が聖書だったせいか、書いていていろいろ思う所が多く、自分も意外とキリスト教の影響を受けて生きているんだなぁと思いました。イエスの教えを教義とした教団や組織などにはあまり関心はないのですが、今や世界の時間の基軸となっている西暦の主であるイエス・キリストとはいかなる人だったのか?という人物像や思想の部分にはとても興味があります。
宗教画の多くでは、やせ細ったイエス・キリストがイバラの冠をかぶり、十字架に手足と脇腹に杭を打たれて固定されている図が描かれますが、身体自体は杭を打たれている箇所が痛々しい程度でそれ以外はふつうに痩せた男の身体です。しかし、件のプレドイ礼拝堂のものは全身血まみれで、鞭打ちによって剥がれかけた皮膚や、深い傷口から骨が覗いているような凄惨な表現がなされています。一瞬、そのグロさに嫌悪感すら催すレベルで、俗な目で見れば猟奇趣味のような印象さえ抱きかねなく、見てはいけないものを見てしまったような気まずさで目を背けてページを閉じてしまいました。
しかし、よく考えてみれば、この凄惨なイエス像こそ当時のリアルな姿であり、よく見る宗教画に描かれている十字架上の奇麗なイエス像のほうが美化された理想像なのではないか?と思い直し、もう一度プレドイのイエス像を見てみることにしました。たしかイエスは十字架にかかる前に拷問されてたような記述があった覚えがあったので確かめてみると、磔刑の前に鞭打ちの拷問をうけていたそうです。しかも当時のローマ帝国(ユダヤ教の支配者に死刑の権限はなかったため、引き渡されたローマ帝国が刑を執行しています)ではより苦痛を与えるために目隠しをさせ、鞭には鋭く尖った動物の骨や金属などを埋め込んでいたらしいです。当時のローマ帝国でも十字架刑は残忍で重い刑罰だったようです。この時点でイエスはすでに瀕死の状態であり、ほとんどプレドイの件のイエス像に近い血まみれの状態だったと思われますし、その衰弱した身体で自分を磔にするための重い十字架を背負ってゴルゴダの丘を登っていったのですから、イエスにくだされた刑罰が想像を絶する残酷なものであることがうかがえます。
ルネッサンス美術などでよく見る奇麗なイエス像のほうであっても、さぞや磔刑の苦痛に耐えるのはスコブルしんどいだろうなぁ、と想像してたものですが、プレドイのイエス像はより具体的に当時のイエスの置かれた無慈悲な現実を突きつけられているようで胸にくるものがありました。十字架刑というのは、十字架に張付けにされたらすぐに死ねるようなものではなく、身体を支えられなくなってからじわじわと呼吸困難で窒息することで死ぬことになるので、死ぬまで2日間も苦しんでから息絶えるケースもあったといいます。およそ考えうる人間が受ける極悪な苦痛の中でもトップクラスの嫌な目にあっていながら、信念を貫き通したすごさは想像を超えるものがありますね。肉体的な痛みだけでなく、弟子に裏切られ、人類を幸福に導くために生きたその生き方自体を社会に否定されてもなお弁解も命乞いもすることもなく、自分を貶めた者に悪態をつくでもなく、こう言ったとされてます。いわく「父(神のこと)よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」(ルカ福音書23章 33〜34)
汝の敵を愛せイエスの有名な言葉に「汝の敵を愛せ」(マタイによる福音書第五章、ルカによる福音書第六章)というものがありますが、それをひとつの哲学として口にするだけではなく、イエスの磔刑に至るまでの言動は、口だけでなくそれを自分自身でその思想を実践してみせたことが大きな意味を持っているように感じます。イエスは出来もしない理想論を口にしていたのではなく、実践可能な生ける哲学を伝えていたということが素晴らしいところですね。
当時のユダヤ教の常識からすると、イエスの存在は神の存在を軽視する思想的異端者であり社会秩序を乱す異常者と映ったのでしょう。新しい価値観というのは、ガリレオの例のように、常に社会的に激しい軋轢を生じるものです。時代を俯瞰できる我々の目には正邪がはっきりして見えますが、当時の社会において、イエスの価値観を正当に評価できるほど柔軟な思考ができる人間は少数派だったでしょう。イエスを裁いた者たちを非難するのは簡単ですが、ではあの時代に自分はイエスの味方になれたのか?と聞かれれば、答えに窮してしまうのもたしかです。
さて、自分を苦しめる者にさえも哀れんで神に許しを乞うイエスの心情とはどのようなものだったのか?おそらく、たんにお人好しで許しを乞うてあげてるのではなく、イエスを苦しめているその彼らのカルマ的な罪は尋常ではないはずなので、それがわかっているイエスは自身が取りなしをしない限り彼らが死後に大変な目にあうであろうことがありありとわかったのでしょう。解脱した聖者、つまり精神が限りなく神に近づいた者をヒドイ目にあわせるというのは霊的な視点では最凶最悪の大罪(聖者を殺すというのは、人類が幸福になるための機会を奪う事になるため)ということになるでしょうから、イエスは彼らが負うことになる罪の報いを知って哀れんだのでしょう。イエス自身がとんでもない拷問にさらされていながら、拷問している相手をどうにか助けたいと思えるくらいなのですから、その罪の報いはそれほど凄まじいということなのかもしれません。真に悟りを得た聖者は現在過去未来、全ての人間のカルマが見通せる、という説も仏教で言及されてたりするので、イエスも相手が清算すべきカルマの重さが大変なことになっているのが手に取るようにわかるために慈悲の心で神に取りなしてあげたのではないかと想像します。
そういえば、仏教にも「慈悲の瞑想」というものがあり、「私を嫌っている生命が幸せでありますように」と、自分を嫌う人間すら許す心を培うための祈りの瞑想がありますね。エゴが特別強い人だけではなく、普通に誰しもが、意識的に訓練しない限り、敵を愛すとか許すとかいう境地にはなかなか至れません。そもそもこの世は、魂がそういう境地に至るための訓練施設だと思われるので、イラッとくるたびにイラッとする自分に気付き、そうして自分を成長させる機会を作ってくれたイラッとさせた相手に感謝する、ということを繰り返すことで、ちょっとづつ魂を成長させていくゲームを私たちはプレイしているんだと思います。
なんで敵を許すことが大事なのか?というと、許したほうが自分自身の心が楽になるからであり、相手を恨むよりも単純に許す方が得だからに他なりません。魂の本質は自分と他人という境が無いので、誰かを否定することは、自分の中の何かを否定しているので、それが自分自身に不幸という形で人生に反映されてしまいます。まぁ、憎しみや怒りをいだいているよりも、すっきりと許してしまえれば楽だろうな、とは誰しも思う部分だとは思いますが、実際に嫌な目にあった時に即座に許せるかというとなかなか難しいものです。エゴは自分を尊重してくれない事が大嫌いなので、自分を軽んじる相手を許したがりません。「許すのは損だ!仕返しするべきだし、それが無理ならせめて怒り、憎むことでしかこのイライラは解消できないではないか!」というのがエゴの声ですが、これに従って物事が好転することはほとんどありません。
運命とビギナーズラック怒りなどの負の感情も、一時状況を良くしてくれる場合がありますが、それはパチンコのビギナーズラックみたいなものです。角を立てないように大人しく振る舞っている人が、度重なる理不尽な仕打ちにキレて怒ったりして、周囲がびっくりして一時期はまわりが気を使って自分に優しくなるような場合があります。そして、これに味をしめてしまって、気に入らない状況を変えるためにしばしば意図的にキレて怒ったりしていくようになりがちなのですが、そうすると次第に周囲に疎まれて孤立していくことになります。最初は正当な怒りでも、怒る機会が増えると、怒る沸点がだんだん低くなっていくものですし、またそういう状態ではもう怒りに加速度がついて自動運転してる状態なので、自分自身怒りの沸点が低くなっていることに半分気づいていながらなかなか歯止めがきかなくなっていきます。どうせ途中でセーブするのは難しい感情なので、最初から負の感情は消すことを目標にしたほうがよさそうに思います。
イエスの言葉「右の頬を打たれたら左の頬を差し出しなさい」というものがありますが、これも要点はそういうことで、いじめられることに甘んじなさいということではなく、相手の悪意に対してさえ興奮せずに冷静でありなさいということだろうと思います。実際に、右の頬をなぐったら左の頬を差し出す人がいたら、また左頬をなぐられるというよりは、相手は何が起こったのかわからず混乱してビビるのではないかと思います。精神年齢が低い相手なら、その落ち着きの原因がわからず、もしや自分よりも数段格上の格闘技の達人なんじゃなかろうか?とか勘ぐると思いますし、精神年齢が高い相手なら、その冷静さにショックを受け自分が暴力という卑劣な手段に訴えたことの未熟さと恥ずかしさにいたたまれなくなるのではないでしょうか。まぁ、実際に左の頬を差し出しなさいというよりは、そのくらいに状況に冷静でありなさいということでしょうね。
以前の記事(後半部分)にも書きましたが、このイエスの言葉は、本当は人間というのは悪意に対してさえ怒らない≠ニいう選択ができるほど高度な存在なのだ、という事を訴えたかったのだと思います。
そいえば、先日ネットで話題のパチンコ漫画「連ちゃんパパ」の試し読み部分だけ読みましたが、噂通りユニークな作品で、人間がどんどん闇に飲まれていく様をひょうひょうと当たり前のように描いていく感じが逆に怖さを感じました。この作品で描かれてるように、パチンコで身を持ち崩す人はたいていがビギナーズラックを経験していて、パチンコは楽に儲けれるゲームだという強烈な刷り込みを最初に経験することで中毒化していくのですが、酒、タバコなどと同じように中毒になってから止めるのは難しいものです。私も昔パチンコは10回くらいやってみましたが、たしかにどういうわけか最初は出るんですよね面白いくらいに。投資も数百円程度で2、3回は打ち止めまでいきました。でもまぁ、こんな調子で出ていたらパチンコ屋さん側が絶対儲かるわけなかろうと思いましたし、まさにビギナーズラックだと思ってそれきりやってません。10回程度しかやってませんが、それでも打ち止めで儲けた分は数回の負けでスッてしまい、トータルでは差し引きゼロくらいな所で止めたような気がします。ギャンブルはトータルでは必ず客が負けることになっているゲームですから、長く遊ぶほど確実に損します。人間というものは、面白いとか美味しいと思ったものを適度なところで止めるという自制心をあまり持ち合わせていないものなので、プロのギャンブラーを目指すならいいですが、そうでなければリスキーな遊びだと思います。エックハルト・トールは、怒りや憎しみなどの、人間の負の感情も、そういったギャンブルの快楽みたいなある種の依存症のようなものだと喝破してましたが、まさにその通りだと思います。
許した方がいいと頭では思っていても、事と次第によってはすぐには許せないような出来事もあるでしょうし、できないのなら無理に許そうと努力する必要もないと思います。どのみちいずれは全ての憎しみを捨て去ったほうが何より自分の幸福にとって最大のメリットがありますから、ちょっとづつ小さな「イラッ」というのを克服していく所からはじめるのが良いのでしょうね。実際に、これを続けていくと現実世界に変化が起こります。ちょっとしたイラつく相手の言動を心の中で許していくだけで、不思議なことに相手の言動がだんだんと柔らかく親切な感じになっていくので、毎日がその分だけちょっとづつ幸せになっていきます。こうした現象を経験するたびに、やはり人生は目に見えない部分で何かの法則がはたらいているという実感があり、イエスやブッダなど聖者の言葉の真実性が自分の体験の中で検証されていってるような感覚があります。
人をさばくな。そうすれば、自分もさばかれることがないであろう。
また人を罪に定めるな。そうすれば、自分も罪に定められることがないであろう。
ゆるしてやれ。そうすれば、自分もゆるされるであろう。
ルカによる福音書 第6章 37節 (Wikisourceより)
悪魔の誘惑仏教では完全に悟った人間に現われるとされる6つの神通力「六神通」について言及していますが、このレベルでは分身や壁や塀や山までもすり抜けたりできる「神足通」や、人の心や思考を見通す「他心通」など、完全に解脱した人間はほとんど超人のようになるとされてるようです。イエスは悪魔に3つの誘惑をされるシーンがあり、それは「お前が神の子なら、この石にパンになれと命じてみろ」「俺様(悪魔)にひざまずくならこの世の栄華を与えよう」「お前が神の子ならここ(宮廷の頂上)から下に飛び降りてみよ。神が助けてくれるだろうから」という3つですが、イエスはことごとく全てを拒否します。お釈迦様の逸話にも悪魔の誘惑のシーンがありますが、完全な解脱にリーチがかかった状態になると、こういう悪魔の誘惑と戦うという最終ステージがあるんでしょうね。
悪魔の3つの誘惑を退けたイエスでしたが、これはイエスがそうした神通力が無いから悪魔の問いから逃げたわけではなく、そういう超能力的な力を使って我欲のためにこの世の物理や秩序を変化させるのは聖者の域にある人間にとっては相当のタブーだからなのかもしれません。イエスは聖書の別の箇所では「全く疑うことなくこの山に動けと命じたならばその通りになるであろう」といったことも述べてますから、イエスにはすでに絶大な神通力が具わっていたのではないかと想像します。そもそも弟子のユダが自分を裏切って裁判官に引き渡すことさえ前日にすでに予言していましたね。いつでも現実を自分の都合のいいように変えれるような、そういう力がありながらも、あえてそういう力は使わず十字架の運命から逃げようとしなかったということだと思います。ソクラテスも、イエスと同じように愚かな裁判によって死刑になり、ソクラテスのような賢者が死んでしまうのは惜しいと牢屋番の男が牢の中に鍵を投げ入れて逃がそうとしますが、それを拒否して自ら毒杯をあおって死んだとされる話が有名ですね。理想の人生を送ることのほうが命よりも大事だったのでしょう。普通に考えれば、人間誰しも死を逃れたいと思うのは責められるものではないし、もっと融通のきいた利口な生き方をするのもアリなんじゃないかなぁ、と思ったりもしますが、イエスやソクラテスがもし利口な人間≠セったら歴史に残っていたかどうかはわかりません。人類を導くようなスケールの霊的な指導者の生き方というのはそもそもそういうものなのかもしれませんね。
イエスの神通力については、手で触れただけで病を治したりする話などがありますが、とくに印象的なのはパンを無尽蔵に増やす奇跡の話ですね。イエスはお腹をすかせたひもじい人々のために5個のパンと魚2匹に祈りを唱えて増やし、5千人の人々の腹を満たしたというアノ逸話です。他人を救うためなら惜しみなくその絶大な神通力を使うような方なのですね。しかし、自分の運命から逃げるためには一切その力を使うことが無かったというところが、カッコイイというか、崇高な美学を感じます。一体なぜ自分のために神通力を使わないのか、本当の意味はわかりませんが、ほとんどの人間は神通力はないですから、自分の試練に立ち向かう時にはもって生まれた己の力のみで闇を切り開いていかねばなりません。イエスも、神通力で困難をなんとかしていたら、後世の迷える子羊達に何の教訓もならず手本にもなりませんから、あえて「疑わず100%信じることができればお前達も私と同じようにどんな苦難に立ち向かうことができるんだよ」という事例を見せたかったのかもしれませんね。
病人を治癒したという奇跡は、なんとなくありそうな感じがしますが、このパンを数千倍に増やすという、とてつもない奇跡は、私たちの常識からするといかにもフィクションっぽくて、後世に神格化されたイエス像のような印象をもってしまいがちです。しかしながら新約聖書の四つの福音書全てに記述があるイエスの奇跡はこの事例だけということもあり、当時の人々にとっても信じられないような飛び抜けて印象深いエピソードであったということも考えられます。イエス・キリストといえば、人類史から俯瞰すればキングオブ聖者のような存在ですから、完全に解脱した人間の潜在力を示す事実としてのエピソードであると信じたいところです。ヒンドゥー教でも、ヨガナンダの本で一躍知られる事になった不死のヨギー、ババジのエピソードでは、目の前に一瞬で黄金の巨大な宮殿を物質化させてしまう話など、とてつもない話がちょくちょく出てきますので、最近は聖書の奇跡もほとんどは実際に起きたことではないかと思うようになりました。般若心経の教えのようにこの世の物質的な側面は心の迷妄が生み出した幻影なのだとすれば、物質を増やしたり、あるいは消したり、など本来は自在に操れる類いのものなのかもしれません。
奇跡と科学についての雑感他にもイエスが水の上を歩く奇跡もありましたね。使途たちはそのあまりの不思議さに、目の前の現象が信じられず怯えてしまうほどでしたが、使徒ペテロがイエスに、自分も水の上を歩けるように奇跡を与えてくださいと頼むと、ペテロまで水面を歩けるようにしてしまいます。水面を歩いている途中で急な風が吹いてきたためペテロが水中に沈んでしまわないか怖じ気ずくと同時に、足が水の中に沈みかけたのでイエスに助けを求めました。イエスは急いで手を伸ばしてペテロを助けますが、イエスは「なぜ疑ったのか?」とペテロに問いかけます。つまりペテロが水面を歩いたのはイエスの魔法だったのではなく、水面を歩けるはずだとペテロ自身が100%信じていたから可能になったのでしょうね。この世界の物理現象は、見た目は絶対的な法則に従っているように見えますが、量子論のようなミクロの世界では電子(素粒子)の振る舞いが(二重スリット実験のように)観測の仕方によって粒子(物質)だったり波(非物質)だったりすることが検証されているともいいます。この広大な宇宙も、全て素粒子など何らかの最小単位(量子)の集まりで構成されているわけですから、量子の性質も、この我々の日常、とくに運命とか偶然とか、人間には太刀打ちできなそうなこの世の側面を読み解く鍵になってそうな空想がふくらみます。
分子は複数の原子で出来ていて、原子は原子核と電子で出来ていて、原子核は陽子と中性子から出来ていて、陽子はクォーク(素粒子の一種)が集まってできています。(水分子は10の-7乗cm、クォークに至っては10の-16乗cm)素粒子はクォークやニュートリノなど名前だけはよく聞くなんか小さい粒のようなイメージのアレですが、さすがに小さ過ぎて、カミオカンデのような巨大水槽に溜めた3000トンの大量の水分子でも宇宙から降り注ぐ大量のニュートリノがごくたま〜に衝突する程度(小さ過ぎてほとんどが地球ごとすり抜けてしまうため)です。それを検出したことで小柴教授は2002年にノーベル賞を受賞しましたが、欧州原子核研究機構(CERN)やカミオカンデなど、ミクロの世界になるほど検出する装置が巨大になっていくのが面白いです。またクォークなどの素粒子の存在まで発見していく最前線の人間の科学力も驚異的なものを感じますね。クォークを構成する物質としてさらに小さいプレオンという仮想上の粒子も考えられているみたいですが、科学が進むほど小さい粒子が発見されていく様は、まるで宇宙の広さが天文学の進歩と比例して大きくなっているのと似ていて、我々の存在は、無限小と無限大の中間で「有限という仮想現実」を生きているような錯覚に陥ります。
いろは歌とキリストそういえば、一説に空海が作者だといわれてきた「いろは歌」にはキリストの磔刑を表す言葉が隠されているという有名なオカルトネタがありますね。「いろは歌」自体が日本語の仮名47文字を全て一回づつ使って意味のある和歌になっているという超絶技工の言葉遊びで、さすが書の達人でもある空海の底知れぬ才能をうかがわせるものを感じたものです。念のために調べてみたら、いろは歌が空海の作だというのは俗説で、学術的には作者不詳というのが現在の定説になっているみたいですね。
その技巧をこらしたいろは歌にさらに仕掛けがあるというのは、子供の頃オカルト関連の本で読んだときびっくりした思い出があります。いろは歌を7文字づつ飛ばして読むと「とかなくてしす(罪無くて死す)」と読めるというアレです。(「とか」は「とが=咎」つまり「罪」のこと)これは罪も無いのに十字架上で死んだイエス・キリストをさすものだということのようです。さすがに賛否のある説のようで、はっきりしたことはわかってないようですが、本当だとすれば面白いですね。
いろは歌 作者不詳
いろはにほへと ちりぬるを
わかよたれそ つねならむ
うゐのおくやま けふこえて
あさきゆめみし ゑひもせす
色は匂へど 散りぬるを
我が世誰ぞ 常ならん
有為の奥山 今日超えて
浅き夢見し 酔ひもぜず
無実の罪で死んだのはキリストだけじゃないので、イエス・キリストではなく別の人物を指しているのでは?という声や、そもそもが冤罪で死刑になった人物が作者でいろは歌はその人の辞世の句だった、という説もあるみたいですが、7文字づつ飛ばすという「7」といういかにも聖書的な数字によって仕掛けが施されているところなど、イエスと結びつけるのはそんなに変ではないようにも思えます。アカデミックに考えれば、キリスト教の日本伝来はザビエルによる布教(16世紀)というのが定説なので、いろは歌が成立したとされる年代(およそ11世紀)の当時の日本にキリストの教えを知る者がいたのか?とか、もやもやした所があるのもたしかです。しかし、いろは歌を作るほどの高度な文学的素養がある人物なのですから、作者は一般人よりも権力者や知識人と交流する機会があるような人物と考えてもよさそうです。例えば中国は唐の時代7世紀にはキリスト教が伝来していたそうなので、中国経由などでキリスト教の概要を知った知識人が日本にいた可能性もゼロではないように個人的には思います。

意外と日本ってそういったキリストとの繋がりを示唆するオカルトネタは多く、イスラエルの失われた10支族、日ユ同祖説とか、青森のキリストの墓とか、東北の民謡「ナニャドラヤ」は実はヘブライ語の歌だったとか、童謡「かごめかごめ」の謎とか、伝統紋様の籠目(カゴメ)と六芒星(ダビデの星)の関係など、ロマンをかき立てる謎ネタが多いですね。そうした日本のオカルト的な側面から見ると、いろは歌にキリストの磔刑を暗示するギミックが仕掛けられていたとする説も「もしかしたら」と思わせるロマンを感じます。
この手のキリスト教関連のミステリーで個人的にとても好きなのは、諸星大二郎先生の傑作短編『生命の木』ですね。たしか阿部寛さんが稗田礼次郎役で映画にもなった気がしますが、映画は未見です。むかし、漫画評論の先駆者である呉智英氏がこの作品をいたく絶賛していたのも印象的でした。内容は、東北地方に伝わる隠れキリシタンが残した文書「世界開始の科の御伝え(せかいかいしのとがのおつたえ)」をめぐって、東北のとある寒村で起こった奇妙な殺人事件の謎に、異端の考古学者であり主人公の稗田礼次郎が追っていくというお話です。隠れキリシタンの文書「世界開始の科の御伝え」は、エデンの園のアダムとイブを描いた聖書の創世記を下敷きにした世界観なのですが、当時禁じられた宗教だっただけに、おそらく伝聞とか記憶違いなどが重なって、結果的に珍妙な話になっているところがとてもツボです。聖書ではアダムとイブはエデンの園の禁断の木2本(善悪を知る木と生命の木)のうち、ヘビにそそのかされて善悪を知る木の実だけ食べることになっていますが、「世界開始の科の御伝え」では、アダムとイブの他に「じゅすへる」という3人目の人間が出てきます。アダムとイブが善悪を知る木の実を食べるところまでは聖書と同じですが、じゅすへる≠ヘ生命の木の実のほうを食べてしまいます。この改変された部分がキーになっていて、短編漫画とは思えないあの有名な壮大なクライマックスを迎えます。もしも未読の方がいらしたらアレなので詳細は書けませんが、民族学などのアカデミックなネタをモチーフに極上の娯楽作品に料理してしまう腕前には感服するばかりですし、その一級の表現力がいまだ衰えず現役であるというのもすごすぎますね。
イエスと共に処刑されたふたりの罪人について当時十字架にかけられて処刑されたのはイエスのほかに二人いて、聖書ではイエスを真ん中に、左右に一人づつ十字架にかかった囚人が描写されています。片方の罪人が、「もしお前が神の子なら自分で自分を救い出し、ついでに俺も助けだしてくれよ」と悪態をつきますが、もう片方の罪人はそれをたしなめて「この期に及んでもお前は神を恐れないのか。俺たちは悪行の報いとしてこうして罰を受けているが、この方(イエス)はそうではない。」と助け舟を出し、さらに「あなたが天国に帰られたときは私のことを思い出してください」とチャッカリとおねだりします。イエスはそれに答えて「真の言葉として言おう。今日お前は私と共に天国にいるであろう」と天国行きを約束します。罪人の言葉とはいえ、肉体と精神の極限の苦難の中でかけられた優しい言葉にさすがのイエスも心に染み入ったのかもしれませんね。終わりよければ全て良しという感じか、罪人であっても最期の瞬間に悔い改めて改心すれば、ほぼ地獄行き確定の魂であっても一気に天国行きにチェンジできてしまうのも、意味深いところだと思います。逆にずっと努力を積み重ねてきても、肝心な所で悪に手を出してしまえば全て御破算なのも、よく芸能人のスキャンダル等の報道でも見かけるこの世のシビアな現実ですね。
死後の世界と魂の重さを量る話について霊界探訪で知られるスウェデンボルグの見て来た天国と地獄の話では、死後の魂を天国と地獄に振り分けるのは閻魔大王のような裁判官によるものではなく、死後はたんに自分の魂が好む集落に各々惹き付けられて行って暮らすだけだといいますね。生前に他人に親切にしていた人は、そういう心の波長の人が集まっている集落に引きつけられ、互いに互いを尊重して生きる人ばかりの村で暮らすことになり、それがまさに天国であるというわけです。また、生前に人を騙したり悪事を好き好んでしてきた利己的な魂は、似たようなそういう荒い波長の魂ばかりがいる集落に落ち着くことになるので、そういう場所は必然的に騙し騙され不信と犯罪が日常の世界になるので、まさに地獄というわけです。心の有り様、心の波長のようなものは、霊界においてはいわゆるラジオの周波数とか、磁力のような感じで、同じ周波数を発する魂の所に磁石のように引きつけられるような感じなのかもしれませんね。霊界は精神の有り様で周囲の環境が決まるところがあり、現世のように善人と悪人が同じ空間に共存するような状況にはならないようです。(逆に現世では肉体という物質の鎧をまとっているために、波長の異なる魂が交流できるようになっているということです)ゆえにあの世では善人は天国のような暮らしができるものの、嫌な出来事や悪人に遭遇する機会も激減するため、不幸な人を助けたり、嫌なことをする人を許したりなどの、魂を成長させる出来事もめったに起こらなくなり、それゆえにいつしか単調な毎日に飽きて来て、また現世に戻って魂を向上させてより高い霊界を目指す、みたいなこともあるようですね。
霊界についてはこの世では検証のしようのない世界ですから、見て来たといわれる人の話を信じるかどうかという話になってきますし、仮に自分が臨死体験などでそういう世界を見たとしても、錯覚とか幻覚とか夢とか、いろいろそれらしい理性的な反駁に抗えるだけの説得力があるのかどうか、ということになります。今のところは、どっちにせよ存在を肯定するも否定するにも根拠に乏しいのはいっしょですから、霊界のような場所があると考えても間違いとは誰も断言できないわけです。魂にも物理的な重さがあるという俗説もあり、モンロー研究所などの幽体離脱実験など、人間に肉体以外にそのような霊体もあるなら、霊体でしか認識できない相応の世界があってもよさそうです。
そういえば以前の記事で触れた聖書の外典(旧約新約の聖書正典に含まれていない文書)に、「パウロの黙示録」という興味深い文書があります。イエスの十二使徒のひとりであるパウロが天使の案内で死後の世界を見聞するという内容で、スウェデンボルグの霊界探訪やチベット死者の書などを彷彿とする興味深い文書です。高校生くらいの頃だったか、公民館の図書室で聖書の外典を収録した本を見つけ、「黙示録」というオカルト界隈でよく出てくる単語に興味を惹かれて読んでみたのですが、中身が霊界旅行のような話なのでびっくりした思い出があります。ただ霊界の描写そのものは宗教的な寓意が込められていて、死後の世界の話によく出てくる走馬灯のようなものなど興味深い描写も多いですが、やはり善悪がどのくらいの厳しさでジャッジされるのかが明確ではないので、読んでいてあまり楽しい気分にはなりません。生前の行いを監視していた天使の報告によって裁かれて天国や地獄に割り振られるような描写があるのですが、寓意的というか、宗教的なものを感じる死後の世界です。そういう意味ではスウェデンボルグの見聞したという霊界の記録のほうが科学者らしい客観性を感じるところがありますね。(スウェデンボルグは当時は科学や技術に秀でた功績があり普通に社会から尊敬を集めていた人物で、ダビンチに匹敵する天才と呼ばれていました)ネットで検索すればパウロの黙示録を取り上げている記事もそこそこあるみたいなので、興味がある方は調べてみると面白いと思います。
魂の重さの話ですが、20世紀の初頭、アメリカの医師ダンカン・マクドゥーガル博士によって魂の重さを量った実験があったという話がありますね。オカルト系の話で出てくる有名なエピソードで、息を引き取る前の患者の体重が、死亡と同時に21グラム減ったというアノ実験です。この実験は有名ではありますが、実験は4人しか行われておらず、うち一人は検証準備が整わないうちに死亡したため実質3人しか検証されていないようです。その中で一番体重が減ったケースが21グラムということですから、たしかに興味深い面はあるものの、わずか三例のデータですので、この重さ自体にあまり確実性はないように思われます。博士は人間だけでなく、犬15匹による実験も行いましたが、犬の場合は死後に体重が減少するような結果は得られなかったそうです。実験の異質性もあって同じような実験は以後ほとんど行われることはなく、マウスによる実験もあったそうですが、これも一定の結果が得られることはなく、マクドゥーガル博士が検出した21グラムが本当に魂の重さだったのかどうかは素直に私も疑問に思う所です。魂とか心など、そういう部分は物理的な次元では検出の難しいものだろうと思いますし、最初から物理的な量を持ってなさそうにも思えます。質量がないものは実体もない、つまり存在しない。とはならないのがこの世の面白いところで、身近な例では「光」がソレです。光は質量がゼロですが、光が存在しないと思う人は誰もいないように、魂も質量はなくても光のようにこの世界で重要な役割を果たしていそうな気がします。

参考リンク
慈悲の瞑想(ウィキペディア)六神通(ウィキペディア)プレドイの聖霊礼拝堂(ウィキペディア イタリア語)件の十字架像の写真もあります。引きの写真なので傷口などの細かいディティールははっきり写ってません。ショッキングな画像が苦手な方は以下のリンクではなく、こちらを参照してみてください。
【閲覧注意!】聖霊の礼拝堂、プレドイ(推定1455)のイエスの磔の像(tumblr S:Bさんのページ) その1 その2 その3 その4 その5件のリアルなイエス像の部分アップの画像。実際のイエスの肉体は当時はここまで悲惨な状態だったのかもしれませんね。よくキリスト教では、イエスの十字架の解釈は、全人類の罪を購うものであるとしていて、以前は「いや、それは風呂敷拡げすぎだろう」と思って聞いてましたが、プレドイのイエス像を見てると、「たしかに、この最悪の状態で信念を貫いたパワーというのは、全人類を救うに足りるほどの底知れないものに違いない」と思わせる説得力があります。イエスは、ソクラテスやブッダや老子など、イエスよりも数百年も前に高度な霊的レベルに到達した数々の賢者たちを差し置き、西暦という今や世界の時を牛耳る暦の基準になっている人物ですが、これはほとんど「人類史上最も偉大な人物」という人類による評価そのものだと思います。思想自体は他の賢者のほうが学ぶところがありますが、人間存在の強さとか、困難と戦う無限の力など、実践的な人生の手本としてはイエスの生き様はやはりトップクラスの輝きがありますね。荒野の誘惑(ウィキペディア)
キリストの磔刑(ウィキペディア)諸星大二郎の作品「生命の木」(ウィキペディア)量子ってなあに?(文部科学省)PDF『魂の重さを測った人』リエゾンセンター センター長 教授 宗像惠(近畿大学中央図書館報 No.43, 2012)魂の重さを量ったダンカン・マクドゥーガル博士の前代未聞の実験の詳細がうかがえる興味深い論文。