2020年10月03日

書痴談義(最近getした古本のレビューと雑談)

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コロナ禍の影響で出不精に拍車がかかり、またここしばらく古本市も中止が多かったので、本との新しい出会いが乏しい日々が続いてました。そういうわけで少々本に飢えていたのか、急にこの数日いろいろ本を買いこみました。もともと本関係の引き寄せ力は強いせいもあり、今回も面白そうな本がいろいろ見つかり満足な買い物ができました。こういうことを書くと「そこまで本が好きか!」と思われそうですが、読書より本そのものが好きなので、読みたい本を買うというより、いっしょに暮らしたい本を選ぶというニュアンスに近いですね。好みの雰囲気を持った本が本棚に並んでいるのを眺めるだけで恍惚とした幸福感を感じます。本に限らず鉱物とか切手とか古銭など、いろいろとモノ集めするのが好きですが、そのせいでいつも部屋は断捨離とはほど遠い状態になっています。ミニマリズムのスピリチュアルな効果はけっこうあるように思いますが、私の至福は簡素より複雑性、ミニマリズムよりバロックなところにあるので、スッキリとしたお洒落な部屋よりも澁澤龍彦の書斎のような嗜好の博物館のような空間にとても惹かれます。好みのモノというのは、いわば「幸福」というカタチのない物が物質化した存在だと思ってます。コレクターというのはある意味物体化した幸福≠コレクションする愉しみに憑かれた人なのかもしれません。

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今や本もデジタルの時代で、電子書籍はスマホほどのデバイスに数百〜数千冊の本がまるっと入ってしまう夢のガジェットです。本を読書目的で買うひとは断然電子書籍のほうが便利でしょうね。数千冊の本がほとんど場所を取らずに読書できるというのはすごいことです。私はまだ電子書籍は読んだことないですが、いずれ必要になったら欲しいですね。とくに旅行や帰省など外に長時間出る用事の時には絶対あると便利でしょうね。とはいうものの、上記でふれたように、私は読書が目的で本を買う人ではなく、本そのものの存在感を含めて好きなので、今のところはあまり強く必要性は感じていないのもたしかです。こと日本は出版大国でもあるので、電子化されてない書籍のほうが圧倒的に多く、古書市などでしか出会えない本というものもまだまだ膨大にあるというのも事実で、そうしたところも古本の魅力でしょうか。

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前置きが長くなりそうなので本題に入りますが、今回はここ数日古本市などで入手した本を紹介しながらレビューしていきたいと思います。レビューといっても買ったばかりの本なので、ほとんど読んでませんから、どういう経緯でその本を手にしたのか、だとか、どうしてその本を気に入ったのかとかの話と、あとはほぼ成り行き任せの雑感になると思います。最初から欲しい本が決まっている場合はネットで古書を検索したほうがゲット率は高いですが、漠然と「何か面白い本ないかな〜」という「気分」に応えてくれるのは古本市や古書店の実店舗ですね。雑多に集積している本の山を物色しながら思いがけない本を発見したりする宝探しの楽しさがたまりません。



el_icon.png昭和レトロ・大橋正のデザイン、イラスト

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雑誌『別冊アトリエ / カットデザインの技法』大橋正:構成・執筆 アトリエ出版社発行 1961年10月刊

大橋正(おおはしただし 1916-1998年)が全面監修していて、デザインマニュアルとしてだけでなく、一冊のビジュアル絵本としても成立していてなかなかの出来映えです。大橋正は、主に昭和30〜40年代の刊行物でよく見かける昭和を代表するグラフィックデザイナー、イラストレーター。日本の1960年代を代表するような大橋正風のテイストは、今でもお洒落に感じますね。シンプルさの中に深く根ざした情緒を感じさせる天才的なセンスに脱帽します。サクラクレパス、サクラクレヨンのパッケージデザイン、イラスト、キッコーマンや明治製菓などのデザインやイメージイラストなど、幅広く活躍されており、昭和の懐かしい広告デザインの多くによく出てくる名前ですね。この本では大橋正の作品集としても楽しめますが、創作技術もわかりやすく解説していて、まさに面白くてためになる一冊です。

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写実的なタッチをどんどん簡素化していく過程を描いています。シンプルを極めながらも暖かみのある情緒性を失わない大橋正の卓越したセンスを感じますね。

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童話全集のデザインと「長靴を履いた猫」の挿絵。大胆でシンプルかつ味わい深いイラストですね。

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宇野亜喜良のイラストレーションの紹介ページ。右ページのような耽美なタッチはいかにも宇野テイストですが、左ページは初期のものなのか、いわゆる宇野テイストではないタッチの絵で新鮮ですね。



el_icon.pngアメリカのレトロで可愛いミニ絵本

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ミニ絵本『ROCK-A-BYE BABY and other Nuresery Rhymes』 Mary Jane Chase:イラスト A RAND McNALLY社発行 1956年刊

アメリカのレトロな小さな絵本シリーズ「Junior Elf Books」の中の一冊。絵柄のレトロでキュートな感じがたまりませんね。鮮やかな色使いにもかかわらず優しく落ち着いた雰囲気や、ノスタルジックで可愛いトビラのデザインなど、ちょうど創作絵本のアイデアを考えてたところだったので、とても勉強になります。内容はマザーグースの子守唄やロバート・ルイス・スティーブンソンのナーサリーライム(童謡)を集めたポエム集です。

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表紙裏の見返し部分のイラスト。リスと赤ちゃんというファンタジックな図ですが、誰がこんな木の高所に赤ちゃんをくくり付けたのか、このまま放置しておいて大丈夫なのか、とか、現実的ないらぬ想像をしてしまいました。

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トビラページのデザインがめちゃくちゃ可愛い!まさに赤ちゃんの誕生というのは大宇宙の壮大な仕組みの結晶であり、つまり神からの授かり物なのでしょうね。

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中身のページ。こんな感じの可愛らしいタッチと色合いのイラストがずっと続きます。



el_icon.png昭和30年代の楽園

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毛利フジオ画集『ビー玉の街』毛利フジオ:著 グラフィック社:発行 2003年刊

昭和30年代というと、映画化されたことでも話題になった西岸良平原作の『三丁目の夕日』の世界が思い浮かびますね。60年以上も続いた昭和という一時代は、長かったゆえに初期と中期と後期で、同じ昭和でもテイストが全然違うのですが、現代において、『三丁目の夕日』が描く昭和30年代というのは、昭和を代表するイメージとしてなんとなく定着しているような気がしますね。昭和30〜40年代は、まだどこか垢抜けない感じの初々しい時代で、その後のインベーダーゲームやテクノポリスな感じの昭和50年代に行き着く切り替えポイントのような、古き時代を引きずる最後の時代といえるのかもしれません。まぁ、そんな感じの昭和30年代というレトロな異世界をテーマにノスタルジー溢れる筆致で描き出した画集が毛利フジオ画集『ビー玉の街』です。毛利さんは昭和30年生まれで、実際に昭和30年代はリアルなものというよりは、すでに懐かしい過ぎ去った時代として存在していて、同時代でないからこそ描ける理想郷としての昭和を見事に描き出しています。画面には当時の日本にありそうな街並や人物が生き生きと描かれていますが、どこか異世界めいた印象があり、そこがまた最大の魅力になっています。まさに昭和30年代の絵本や看板絵にありそうなこってりした写実的なタッチで描かれる昭和の桃源郷といった感じですが、どこかつげ義春さんや逆柱いみりさんの絵のような、不思議な異世界っぽさを醸し出していて、絵を見ているとそんな世界にトリップしそうなムードがたまらないです。画集の真ん中辺りにある商店街の街路を描いた見開きいっぱいの作品などは、まるでバルテュスの1933年の傑作『街路』を彷彿とするシュール感があっていいですね。バルテュスの影響が色濃い片山健の初期作品を思い出しました。

メモ参考リンク
バルテュス『街路』1933年(「Wiki Art」より)



el_icon.png澁澤龍彦の少女コレクション

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雑誌『芸術生活 特集・少女コレクション』1972年9月号 芸術生活社:発行

『芸術生活』は1970年代に刊行されていたアート情報誌で、けっこう変わったマニアックな特集が組まれることが多く面白い雑誌です。この号は「少女コレクション」と銘打った妖し気な特集を組んでますが、タイトル名で察しの通り、澁澤龍彦が特集を監修していて見応えがあります。少女という儚く美しい存在を蝶のようにコレクションできるとしたらどんなに甘美であろうか、という怪し気な空想を絶妙に言語化して考察してみせる澁澤の有名な短編『少女コレクション序説』がありますが、まさにその短編でなされた概念を澁澤好みの美術作品をいくつも並べて行くことでビジュアルに顕在化させていく「見る少女論」のような構成になっています。

トビラは四谷シモンの関節人形というのも澁澤テイスト全開で期待をそそります。巻頭グラビア「少女コレクション」では、ポール・デルヴォー、レオノール・フィニ、ドロテア・タニング、金子國義、ハンス・ベルメール、ポール・ヴンダーリッヒなど、澁澤の偏愛する画家たちの少女をテーマにした作品が展示されていき圧巻です。バルテュスの「ギターのレッスン」と「夢見るテレーズ」(雑誌では「ギターの練習」と「夢」になってます)もちゃんとチョイスしているところが抜け目なくて流石です。とくにこの時代では珍しく「ギターのレッスン」がカラー図版なのが素晴らしいですね。

後半のモノクロページでは、上述の『少女コレクション序説』が収録されていて、この文章には二点の解説図版が挿入されており、うち一点はトワイヤンの『くつろぎ (Relache 1943) 』(キャプションにはなぜかエルンスト『魅惑の国』と誤表記になってます)ですが、もうひとつは、なんとあの澁澤コレクションの危なさランキングでも上位を誇るヴィンテージフォト『交差する二人の少女』が3段組み文章の一段半、105X55mmとそこそこ大きめに掲載されてます。現在でも澁澤関係のムックでも見れる写真ではあるので超レアというわけではないですが、これが載ってるとちょっと得した気分になります。

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四谷シモンの人形をあしらったトビラの妖しいデザインがたまりません!グラビアの内容は上記本文でも言及しているデルヴォーやバルテュスなど有名どころからドロテア・タニングやヴンダーリッヒなどのちょっとマニアックな作家まで一貫した澁澤色のチョイスで染め上げられていてムードがあります。

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特集のラストのモノクロ4ページは以降の少女論に決定的な影響を与えることとなった小論『少女コレクション序説』が掲載されています。



el_icon.pngシュルレアリスムの俳句

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『超現実と俳句』鶴岡善久:著 沖積舎:発行 平成10年(1998年)刊

俳句や短歌は詩集以上にほとんど読んでないですが、シュルレアリスム的な俳句というと寺山修司の歌集「田園に死す」が思い浮かびます。歌集「田園に死す」は、短歌という難しそうなジャンルへの苦手意識をふっとばすものすごいパワーがあって、一瞬で引き込まれたのを思い出します。「大工町 寺町米町 仏町 老母買ふ町 あらずやつばめよ」とか「地平線縫ひ閉ぢむため 針箱に姉がかくしておきし絹針」とか「生命線 ひそかにかへむために わが抽出しにある 一本の釘」などなど情念とロマンと幻想の入り交じった怪奇な東北幻想に満ちた虚構性の高い歌の数々に衝撃をうけました。短歌とか俳句って、なんとなく現実に体験した美しい情景や思いをどれだけリアルに言葉を選んでアウトプットするかという芸術だと思い込んでいたので、寺山のように現実ではなく空想を歌にするという手法を叩き付けられ、思ってる以上に短歌って自由なものなのだな、と感嘆したものでした。

寺山修司は、やはり映画から興味をもちましたが、そのあまりに自分の性癖と相性のいい作風にぞっこんにハマり、寺山修司と名のつく本に手当り次第に手を出していった時期があります。そうした中で、寺山の詩集や歌集などを手にしたのですが、今になって思えば、詩や短歌というハードルの高そうな、どこをどう楽しむものなのか分らなかったジャンルの楽しみ方を寺山に教えてもらったような気がします。

また前置きが長くなってきましたが、つまり短歌とシュルレアリスムというものには寺山修司を通じて、上記のように多少の関心がもともとありましたので、そうした部分でアンテナにひっかかった本が『超現実と俳句』であったわけです。シュルレアリスムというとダリやマグリットなどの絵画美術のイメージが一般にありますが、実際は映画や音楽や文学などあらゆる表現やジャンルを通じて実践された総合的な概念の芸術運動です。提唱者のブルトンをはじめ、エリュアールやアラゴンなど詩人のシュルレアリストも多数参加しており、そういう意味では前衛芸術であるシュルレアリスムと、俳句という日本独自のポエムとは、一見ミスマッチなようでいて、意外と相性がいいのかもしれませんね。俳句は一見保守的な芸術のようにみえて、実際は山頭火のように575にさえ縛られないダダイズムな精神さえ感じる自由律俳句というのもあったりして奥が深いです。

俳句は、ただでさえ鑑賞に一定の素養を必要とするところがあるので、さらに前衛俳句ともなればさらにハードルが高くなりそうですが、本書では様々な現代の歌人をとりあげながら丁寧に解説しているので、こうしたジャンルの鑑賞の手助けになってくれるかもしれませんね。(まだ買ったばかりでほとんど未読なので曖昧な言い方になっています 笑)

気合いを入れて最初から読むのもいいですが、普通にパラパラと斜め読みしてるだけでも珍奇な俳句が目に飛び込んでくるので楽しいです。ピンときた句をいくつかピックアップしてみます。



騒ぐネオン空中にああ女学生の脚 (鈴木六林男)

信号変わるたびの絢爛蟹股少女 (鈴木六林男)

前の世に見し朧夜の朧の背 (平井照敏)

蜥蜴の眼三億年を溜めてゐる (平井照敏)

空中の血管に春あふれだす (平井照敏)

空間や眼に燈(ひ)をともす春の魚 (河原枇杷男)

狐見てくればこの世はきつね色 (藤田湘子)

三日月へメスが裂きゆく白い疵 (赤尾兜子)

日蝕の地へ押し出さる犬の肋 (赤尾兜子)



本書には総勢20人の歌人を章立てで紹介、解説しています。他にもたくさん面白い句が満載で、あとでじっくり鑑賞してみたいと思います。



el_icon.pngパンツは正義!マルセル・マルリエの絵本とバレエ団「ローザス」の話

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改訂版「ファランドールえほん」シリーズ 絵:マルセル・マルリエ ブックローン出版 昭和59年
詳細はあまりよくわかりませんがざっと調べたところ、「ファランドールえほん」シリーズは、ベルギーのカスタマン社が上梓していた絵本シリーズを、1980年代にブックローン社が翻訳して日本に紹介したシリーズのようです。全30巻のうち15〜30巻がマルセル・マルリエのマルチーヌシリーズで、1〜14巻はマルセル・マルリエだけでなく複数の絵師が参加しています。数十カ国で翻訳された絵本らしいですが、日本では訪問販売でセットで売られていた絵本のようです。この絵本シリーズはマルセル・マルリエについて調べているうちに知ったものです。そういえばブックローンといえば、私も子供の頃に百科事典と地球儀を訪問販売で親に買ってもらった思い出があります。おぼろな記憶では、当時のセールスマンの方も、押し付けがましい強引なタイプではなく、とても謙虚で誠実な印象の方で、親もそういうところが会社自体の安心感につながって購入を決断したようでした。


マルセル・マルリエ(Marcel Marlier 1930-2011)はベルギーのイラストレーター。欧州ではかなり著名な絵本画家だったそうですね。本書はシリーズ60作におよぶマルリエの代表作『マルチーヌ』から厳選された作品をブックローン社が翻訳出版したものです。写実的なタッチながら、絶妙に漫画的な個性的なデフォルメが素晴らしく、少年少女の可愛らしい表現は絶品ですね。時代を反映してか、ワカメちゃんばりにミニスカ少女がパンチラしていて、大きなお友だちも喜びそうなナイスな逸品と化しています。画像にある『マルチーヌ どうぶつえんへ』と『もりのジャンルとソフィ』などはパンツ率が高い作品です。現代では大人の事情が増えてきてなかなかこういう表現は抑制されるような状況ですね。異論も多かろうと存じますが藤子不二雄御大のしずかちゃんや魔美ちゃんの表現みたいに、純粋に少女のパンチラというのは可愛いものだと思います。またパブロ・ピカソがその才能に感服し「20世紀最後の巨匠」と讃えた画家バルテュスも、パンチラの美を表現した『夢見るテレーズ』などのいくつもの傑作を生み出したことで有名ですね。必ずしも芸術と称すれば全て免罪されるとは思いませんが、芸術が社会に対して本当に価値あるものであり続けるには、極力自由な表現を許容する覚悟も必要なのだろうとは思います。しかしそのあたりの許容する度合いの線引きは人によって千差万別ですから、なかなか答えの出ない悩ましい問題でもあります。

話は少し逸れますが、奇しくも同じベルギー出身のダンサーにしてバレエ団「ローザス」を主催する女性、アンヌ・テレサ・ドゥ・ケースマイケルも、まさにパンチラ芸術ともいえる前衛舞踏の演出で知られ、日本でも椎名林檎が東京事変のPVでケースマイケルの影響を強く受けた演出をしていたりしていたのが想起されます。ケースマイケルの場合は、狭い倫理観に捕われずに女性としての魅力を自律的に表現するという、フェミニズムの観点からパンチラを作品にあえて組み込んでいるという評論もありますね。けっこう昔にNHKの教育テレビで放映された『ダンスの世紀』シリーズで少しだけ紹介されたローザスの作品「ホップラ!」に衝撃を受けたのがローザスを知るきっかけで、『ホップラ!』の全編を見たいとずっと思ってましたが、しばらくたってDVDが出ていることを発見し、ようやく作品の全貌を知ることができてうれしかったのを覚えています。『ホップラ!』はローザスのパンチラ舞踏の傑作で、これを見るとパンチラは単にエロというだけでなく、美であり芸術であるのだ、という発見があります。ちなみにアマゾンで今でも普通に購入できるので、関心のある方にはお薦めです。

メモ参考リンク
マルセル・マルリエの絵本の紹介(オランダの童話作家ニッキ・ブリンガさんのサイト『Past Time Books』より)
欧州で出版されたマルセル・マルリエの絵本が5冊ほど紹介されています。とくに2冊目に紹介されている「martine embelit son jardin」がチャーミングで素敵ですね。

ローザス『ホップラ!』 アンヌ・テレサ・ドゥ・ケースマイケル:演出・振り付け
パンチラ芸術の白眉。お洒落でかっこいいですね〜 全編は52分ですが、この動画はプロモーション用に編集された3分ほどのトレーラーです。以前にローザスの日本公演『Drumming』を観覧したことがありますが、とても素晴らしい舞台でした。また見たいですね。



el_icon.pngアッジェの路地裏探検

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雑誌『アサヒカメラ 大特集・アッジェ再発見』1978年4月号 朝日新聞社:発行 

『アサヒカメラ』といえば先頃突然の休刊の発表にSNSなどで話題になってましたね。大正15年に創刊し今年で94年目を迎える老舗のカメラ雑誌だったそうで、いつも書店に並んでいて当たり前みたいな雑誌が消えていくのは一抹の寂しさを感じざるを得ませんね。今やスマホにも高画質なカメラが付いている時代ですから、カメラ専門誌というジャンルのニーズも年々減ってきてたのでしょうね。この手のカメラ雑誌では毎回後ろのほうのページで読者からの投稿写真コーナーがあって、入選作の順位がつけられたりしていて、こういうアマチュアカメラマンの写真も逆にプロにはないアマチュアならではの斬新な視点の作品もよく見られたりしてカメラ雑誌のページをめくる愉しみのひとつでした。

今回の本はその『アサヒカメラ』の1978年4月号で、特集のアッジェの路地裏をテーマにした写真群にグッときたので、のちのち何かの資料にも役立つかもということでゲットしました。他にも巻頭グラビアの藤原新也さんの中国の農村の暮らしをトリミングしたメリハリの利いた写真も良かったです。

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アッジェは街路にある屋敷の大きな扉の前にちょこんと立っている美少女の写真が有名で、よく写真の歴史などをテーマにしたアンソロジー写真集などでお馴染みですが、他の作品はあまり知りませんでした。本書では大特集と謳ってるだけあってアッジェのモノクロ写真を40作品ほど掲載していて見応えがありました。どれも大きく載せていて、横写真は見開き1作品、縦写真は片ページに一作品という、写真集ノリのレイアウトがうれしいです。特集のアッジェの作品はどれも街路や路地裏を写したもので、件の少女の写真のような演出のあるのはその1点くらいで、他は情緒のある路地の写真がほとんどです。

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ユジェーヌ・アッジェ『扉』(ルアンのオー・ド・ロベク街)
この写真はアッジェの代名詞のように有名ですね。


大自然の壮大な風景というのも気分が昂揚して気持ちいいものですが、路地裏のような狭くてごちゃごちゃした空間というのもまた無性に惹かれる場所ですね。諸星大二郎の短編に、いつもは通らない路地裏に入ってしまったせいで、異世界に迷いこんでしまう話がありましたが、路地って、そういうミステリアスな情緒がありますよね。アニメ映画『バケモノの子』も、主人公の少年が退屈な毎日から抜け出る異世界へのルートになったのが路地でしたね。かように路地というのは、不思議な世界への通路になっているんじゃないか、という空想をかきたてるところがあり、路地の写真というのはそういう魅力があって惹かれますね。

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(右)つげ義春の漫画に出てきそうな古びれた家屋。今にも李さん一家が二階の窓からひょっこり顔をのぞかせてきそうな雰囲気です。(左)がらくたのように鍋や絵画が雑多に並んだ路地。夢の中の風景のような不思議な魅力に満ちた情景ですね。

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骨董店のショーウインドウ。藤子不二雄『ブラック商会・変奇郎』の骨董店を彷彿とする怪し気なムードがイイですね。過去を写すカメラとか効き耳人形とか平気で置いてありそうな雑然とした感じがそそります。

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ルパン三世の1stシリーズに出てきそうな味のある路地ですね。

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狭い路地って、通り抜けた先に異界に迷いこんでしまいそうな不思議なムードがあります。

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少女たちが馬跳びをする昭和感満点の光景。こちらは投稿アマチュア写真コンテストの中の写真です。この作品はこの号での3位に入賞しています。



el_icon.pngエキゾチック・ジャパン!

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『日本人の生活全集5 日本人の習俗・迷信』今野圓輔:著 岩崎書店:発行 昭和37年(1962年)刊


この「日本人の生活全集」シリーズは全10巻で、本書の他に『日本人の食事』とか『日本人の服装』『日本人の一生』『日本の子供達』『日本の女性』などどれも興味をそそるコンテンツで、いずれコンプしたいものです。本書は中でも変な画像に出会えそうな「迷信」をテーマにしているので期待をそそります。ページをめくっていくと期待に違わずなかなか珍妙で怪し気な写真が満載で思わずゲットしてしまいした。占いとか宗教って霊的な見えない世界を扱うジャンルでもあるので、一歩間違えるととたんに妖しくいかがわしいイメージを持たれることもままありますが、またそういう所が魅力でもありますね。寺山修司の著書の装丁や寺山の劇団、天井桟敷の演劇ポスターなどのデザインで知られるグラフィックデザイナー、粟津潔さんのデザインは、占術の古書によくある人相画や印鑑でたくさんの名字が捺された奇怪なイメージなどが印象的で、私自身そういう魔術的なイメージに惹かれるところがあります。というか、粟津さんの影響でそういうものに興味をもったのかもしれません。実際、占い目的ではなく奇妙なデザインのコレクションとして古い占術の本や道教の霊符の載っている本などは少しずつ集めている最中です。本書にもそうした怪し気な呪術で使うアイテムや、日本各地の奇妙な風習を写した変な写真がたくさん掲載されていて、なかなか面白い掘り出しものでした。

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昭和20年代、敗戦後の混乱期にお助け爺さん≠ニ呼ばれた老人が、剣をかざして「エイッ!」とばかりに女性に気合いを入れ病魔を退散させているところ。万病を治す不思議な力を持っているということで有名になり、一日に1万円(今でいう十数万円くらい)を突破する繁盛ぶりだったようです。もともとは夜鳴きそばの屋台を引いていた人だそうですが、万病を治癒する霊力(?)を得て一躍成功者となったお助け爺さん、しかし昭和30年代になるとパッタリと人気は途絶え噂も聴かなくなったそうです。ああ無情。

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巨大な天狗の面を興味深気に見つめる子供達。シュールな絵面がたまらないですね。

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栃木県古峯神社の天上から吊り下げられた巨大な天狗の2種の面。典型的な天狗のイメージは右の大天狗ですが、左の河童のような天狗は烏天狗というようです。別名小天狗とも呼ばれ、その名の通り大天狗の子分という位置づけですが、実はこの烏天狗のほうが歴史は古く、大天狗はその後に現われたものだということです。

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昭和29年6月に東京都新宿の路傍で撮られた一枚のようです。いかにもザ・占い師!といった風情がイイですね〜 キャプションには「思いあまった迷える子羊たちは、こうして生きる指針を求めては、易者に手の平を見せる。現代学校教育のどこかに欠陥があることを思わせずにはおかない」と辛口のコメントをしています。まぁ、この本が発刊された時代は高度経済成長のまっただ中の時代ですから、今よりも人々の思考は唯物論的なところはあったでしょうね。今でも占いというと一定のうさん臭さはありますが、細木数子さんとかゲッターズ飯田さんなどブームになったりしてますし、現代は占いもうまく社会に溶け込んでそうな印象もあります。科学的でないことは全て存在しないというわけではないですから、占いも単に思い込みなどの心理学的な解釈だけで片付けられるものではなく、何かの見えない次元ではたらいている宇宙の法則をすくいあげて解釈しているようにも思います。真実がどうなのかは置いといて、そう考えていたほうが世の中面白くなりそうなのはたしかだと思ってます。

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お月見をする着物少女たち。漁村の子供達とありますが、というとこの背景は海岸でしょうか。風情がありますね〜

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(左上)呪術に使われる人型の形代や祈祷文の書かれた紙や護符など。(右上)江戸時代から続く正月の縁起物「宝船」作りに忙しい歳末の神官たち。(左下)人魚のミイラ。ムーなどでお馴染みの画像ですね。「もちろん実物ではない」と夢もロマンもないキャプションがついてます。こういうものを見るたび、真実というのは必ずしも人を幸せにするとは限らないという気分になりますね。(右下)背中にたくさん茶碗を貼付けたおじさんのシュールな写真。昭和27年12月に撮影されたもので珍妙な民間療法を受けている様子を写したもののようです。東京のマッサージ師が考案した療法だそうで、紙片に火をつけて茶碗に入れ、患部に押し付ける。火が消えると吸着し、シコリが治るというもののようです。

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全国各地のお守りの写真。いろいろな種類のお守りが並ぶと、お守りの標本めいた面白さがありますね。お守りというと、2012年にアイドルグループ「でんぱ組」によるユニークなUSBメモリのCM「オマモリー」をふと思い出しました。アンチウイルスソフトやセキュリティソフトの老舗シマンテックの発売するお守り型のUEBメモリのCMなんですが、日本の歴史的な文化の側面とテクノな現代の日本を上手い具合にアレンジした完成度の高いビデオアートのようなCMで、今でもたまに見たくなる映像です。しかし裏では、神を冒涜している!といった理由で神社関係者から大ブーイングがあったようで、けっこう大変だったとか。神社が民間企業の商品に営利目的の祈祷を施すのは神社界ではタブーらしく、また商品の内容も、ブラック見積もりの隠蔽や不倫情事の隠し事の隠蔽などを幇助するかのような表現が反発を買ったようです。私はビデオ作品として単純に面白がって見てましたが、いわれてみればたしかに神社関係者には笑えない内容なのかもしれませんね。CM自体は、映像作品としては秀逸で、ウイルス役の黒子が様々なパターンでセキュリティの矢に射られる演出とか、八百万のゴッドパワーの象徴がアニメ風の萌え画像だったりなど、寸分の隙もなくユニークなアイデアのみで構成されていてとても楽しいです。

メモ参考リンク
ノートンのUSBメモリ「オマモリー」CM



el_icon.pngブッダの弟子たちの含蓄のある詩句集

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『仏弟子の告白(テーラガーター)』中村元:訳 岩波文庫 1982年刊
『尼僧の告白(テーリーガーター)』中村元:訳 岩波文庫 1982年刊


東洋思想研究の第一人者、中村元先生の翻訳ということで目について手に取った本で、手に取って実際に斜め読みしてみると、なかなか深いことを端的に箇条書きのように書いてあり、けっこう読みやすい文体でもあったので、getしました。どちらも仏陀に帰依して修行をしている弟子の言葉を格言のような感じで詩句として短く表現している文章がずっと続く感じで、どのページから読んでもよさげなとっつきやすさがあります。

本書の中の一節、「この世で食物や飲料を多く所有している人は、たとえ悪い事を行っていても、愚かな人々から尊敬される」(『仏弟子の告白』p47)など、今の社会でもどこか思い当たるニュースがいくつも想起されるような普遍的な知見も多く、人間って本質的なところは大昔から変わってないのだろうなぁ、と考えさせられます。一見昔の時代より現代のほうが何かと進化しているかのような錯覚に陥りますが、進化しているように見えるモノは全て一握りの天才や優秀な技術者によって整えられたブラックボックスであり、冷静に自らの日常を観察してみると、我々はただ仕組みも分らずボタンを押したりマウスをクリックして出力されたものを享受しているだけで、こんなことだけなら縄文人でもそういう環境があれば容易に適応できるような程度のことを日々我々は行っているだけなのではないだろうか、とふと感じます。着ている服さえほとんどの人はどこかの工場で他人が作ったものを着ているわけで、むしろ服も食事もほとんど自分たちでなんとかしていたであろう古代の人類のほうが、人生を主体的に捉えている分、心は充実してたのかもしれません。ともあれ、社会の仕組みがいくら変化しようとも、人間の中身、つまり心は、容易には変化しないし、進化もしないものなのでしょうね。

またこんな一節もあります。「以前になすべきことを後でしようと欲する人は、幸せな境地から没落して、あとで後悔する」(『仏弟子の告白』p68)これも身につまされる痛い一言ですね。いわゆる「明日から本気出す」というアレですね。「明日から本気出す」という人が本当に次の日本気出したという話はあまり聞きません。そもそも明日本当にやれる人は別に明日に伸ばさずに今日出来る人でもあるので、最初から「明日から本気出す」とはならないですよね。そもそも明日という日は永遠に来ることのない虚構であって、人間が行動できるのは「今」という時間の中だけに限定されています。スティーブ・ジョブズの言葉で「もし今日が自分の人生最後の日だとしたら、今日やる予定のことを私は本当にやりたいだろうか?」というのがありましたが、多分それは何かの比喩などではなく、まさに「今」という時の本質って、実はいつでも毎瞬毎瞬そういう質の「時」なのだと思います。「今」しか人間は生きて行動できないのですから、やるべきことは常に「今」やれる人間になりたいものです。小中高とずっと夏休みの宿題を最終日近くまで手を付けれなかった私が言うのもなんですが。

ともあれ、こういう本って、適当にめくったページに、ちょうど今の自分が必要としているアドバイスなどが書かれていたりすることが多いですよね。何気なくめくったページにまさに今欲しかった言葉が書かれているという経験をした人は意外に多いように思います。きっと世界というのは、因果を超越した次元でも働いている力があって、そういう力が世界をそういう仕組みで動かしているのでしょう。

まぁ、ある意味、世界の全ては無数のヒントに満ちていて、サイモン&ガーファンクルの『サウンド・オブ・サイレンス』の歌詞のように、神の言葉は聖典だけに書かれているのではなく、地下鉄の壁やアパートの壁に書かれた落書きなど、とるに足らないと思い込んでいる日常の中のそこかしこに現われていたりするもののように思います。まさにポーの『盗まれた手紙』のように、目の前にあるありふれたものこそ誰も気づかない大切なメッセージが潜んでいるのでしょう。チェスタトンの有名な言葉に「木の葉を隠すなら森の中」というのがありますが、まさに神は真理へのヒントを、ヒマラヤの奥地や未踏の秘境などではなく、ありふれた日常にたくさん隠していて、人間がそれを見つけるのを物陰から除いて謎を解いてくれるのをわくわくしながら待っているのかもしれませんね。
posted by 八竹彗月 at 16:08| Comment(4) | 古本