2020年05月29日

『OZ』ジョン・レノンが心酔した伝説のサイケ雑誌

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『OZ vol.3』1967年5月発行 編集者:リチャード・ネヴィル ロンドン OZ Publications Ink Limited

オーストラリアのシドニーで創刊された『OZ』は、やがて英国ロンドンに拠点を移しパワーアップしていき、ジョン・レノンまで巻き込む伝説のアングラフリーペーパーとなっていきます。


ジョブズの名言の元ネタになったヒッピーな雑誌『ホール・アース・カタログ(全地球カタログ)』は、日本でも『宝島』『遊』『ポパイ』などに影響を与えたという情報がwikiにありましたが、『ホール・アース・カタログ』と同時代、1970年前後に発刊されていた雑誌『OZ』も、同じくらい(あるいはそれ以上)に伝説的な雑誌として有名です。危ない内容とサイケなデザインが刺激的な雑誌で、ビートルズのメンバーでもあった稀代のミュージシャン、ジョン・レノンとそのパートナー、オノ・ヨーコも愛読者でした。


『OZ』というと日本では1980年代後半に創刊され今も続いている老舗の同名の女性向けの情報誌を連想しがちですが、ジャンルもテイストもまったく別物で、日本のOZマガジンは、その誌名が伝説のアングラ雑誌と何か関係があるのか無いのか気になる所です。『ホール・アース・カタログ』と同じく『OZ』もまたヒッピー向けの雑誌であり、その過激な内容は当時社会問題となりました。社会に悪影響を与え、またはなはだ猥褻だとして裁判沙汰になったことがあり、廃刊の危機に陥ったことが何度もありました。そのため『OZ』の大ファンだったジョン・レノンは救済募金のために「God Save Oz」という曲まで作っています。そこまで大好きか!!!という感じですが、実際に『OZ』を見ると分かる通り、現代の基準で見ても奇抜で斬新なつくりの雑誌で、ジョンが心酔するのも容易に理解出来ます。「God Save Oz」はジョンのソロアルバム『ウォンサポナタイム(Wonsaponatime)』に収録されています。


メモ参考サイト



ジョンは後に映画『エル・トポ』を見て監督のアレハンドロ・ホドロフスキーの作品に惚れ込み、同作と『ホーリー・マウンテン』の配給権を買い取るまで入れ込んだというエピソードも有名ですが、振り返ってみればホドロフスキーのテイストと雑誌『OZ』のノリとはどこか通じるところがありますね。シュールで危険で不道徳で先進的な感じや、グロさと美しさの絶妙なバランス感覚とか。こうしたテイストを非常に好んでいたジョンでしたが、自身の作風にはあまりそういうアングラ感はなくピュアな愛や平和などテーマにしていたのが面白いところですね。自分には出来ないジャンルの創造性に対する憧れみたいな、文系人間が理系の人に憧れるような、そんなひとりのミーハーなファンとして『OZ』やホドロフスキーを愛していたのでしょうか。


60〜70年代の洋雑誌はマニア心をくすぐる名雑誌が多いですね。『EROS』『AVANT GARDE』『PLEXUS』などは垂涎ですが、『OZ』はそれらの雑誌よりもアングラ臭があって、古雑誌マニアにしか通じない例えですが、日本の雑誌でいうと『AVANT GARDE』や『PLEXUS』などを『写真時代』『スタジオボイス』『遊』などに例えれば、『OZ』は『黒の手帖』とか『Jam』とか『HEAVEN』みたいな雑誌の匂いに近い感じですね。植草甚一編集の初期の『宝島』も『OZ』っぽさが濃厚にあって、初期『宝島』は『ホール・アース・カタログ』よりむしろ『OZ』に影響を受けてそうなテイストを感じますね。


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雑誌『Avant Garde』ラルフ・ギンズバーグ編集、ハーブ・ルバーリン デザイン

現在の視点で見ると、ふつうに洗練されたお洒落な雑誌、という感じですが、全裸の人文字フォントの写真「BELLES LETTRES」という企画のページが問題となり廃刊になったそうです。この雑誌だけでなく、前身となる『EROS』もわいせつ罪で有罪になったりと、波瀾万丈です。ハーブ・ルバーリンのデザインは、整理された美しさとヒネリのあるアイデアが絶妙で、タブロイド判の『U&lc』という雑誌でも気持ちいいレイアウトデザインで目を楽しませてくれます。時代に翻弄されながらも時代を超えて注目すべき雑誌を生み出したギンズバーグ&ルバーリンの仕事は、グラフィックデザインの雑誌『idea アイデア』の2008年7月号(vol.329)でもけっこうページを割いて作品と解説がありました。


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雑誌『Avant Garde』題字 ハーブ・ルバーリン

かっこいいですね〜 タイトルロゴのフォントはルバーリンによるデザインで、後にアバンギャルドゴシックとして有名になりましたね。一見フーツラに似た書体ですが、斜めのラインの角度が全て一定になっていて、文字の間隔をギチギチに詰めれるのがこのフォントの特徴です。


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フランスのエロティシズムとシュルレアリスムの雑誌『Plexus』。1966〜1970年まで全37冊発刊されました。1969年に発禁処分を受けたという情報も見かけました。現代の目で見るとエロ雑誌というよりは普通にハイセンスなアート系の雑誌だと思うのですが、当時はそのあたりの基準がけっこう厳しかったのでしょうね。


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日本を代表する伝説のアングラ雑誌『Heaven』。佐内順一郎(高杉弾)編集、羽良多平吉デザイン。羽良多さんのデザインは妖しくて神秘的で、それでいてどこか聖なる感じも漂わせていて、テクニックだけでは到達できない深淵なものを感じさせてくれて大好きです。


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初期の『宝島』。1974〜1976年頃。この時代は植草甚一責任編集をうたっていて、フォークやら大麻やらオカルトやらと、当時の先鋭的な若者文化をすくいあげて編集していて面白いです。


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『宝島』1975年12月号 JICC(ジック)出版局発行 より

イラストレーターのクレジットがないので詳細不明ですが、当時の著名なアングラコミック作家、ロバート・クラム(Robert Crumb 1943~)を彷彿とするヒッピーな感じのタッチがヤバげなアシッド感があってドキドキします。


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『Free Press (underground and alternative publications 1965-1975)』表紙 Jean-François Bizot 編 Universe刊 2006年

ヒッピー、サイケ文化真っ最中の1965〜1975年に発刊された欧米のアングラフリーペーパーを縦横無尽に紹介する本。文章ページは巻末のインデックス的なページのみで、ほとんどカラー図版で1ページに1つ大きく当時の雑誌の図版をほぼ原寸で掲載していて迫力がある編集です。日本の図鑑系の編集はなぜか良い紙を使っていながら文章情報主体で図版が小さかったりモノクロ図版主体だったりする感じのものが多い印象がありますが、図鑑系は図版が主体のこんな編集が一番ありがたいですね。


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同上『Free Press (underground and alternative publications 1965-1975)』の『OZ』紹介ページ。アングラ誌とは思えないアーティスティックな凝ったビジュアルに一瞬で惹かれました。表紙を見るだけでもグッとくる感じで、ジョン・レノンを心酔させたのもうなづける個性的かつ時代を反映したセンスに惹かれます。他にも『International Times』『Baeb』『Ink』『Other Scenes』『The Seed』『Fifth Estate』『Avatar』『Actuel』などなど、とくに日本ではあまり目にする機会の無い刺激的なビジュアルのフリーペーパーが多数紹介されていて面白いです。


『OZ』は自分にとっても、たまたま持っていた当時のヒッピー向けミニコミ誌などを集めた洋書『Free Press』などで片鱗を知るくらいで、いつか本物をコレクションしたいとずっと思っていた憧れの雑誌でしたが・・・・なんと!!伝説の雑誌『OZ』がネットで全号無料公開されているという情報が!!


英語版のウィキペディアで『OZ』の情報を調べてたら、最後のほうに「デジタルコレクション」という項目があり、そこには「2014年、ウーロンゴン大学図書館は、リチャード・ネヴィルと共同で、Oz Sydney誌とOz London誌のデジタルコピーの完全なセットをオープンアクセスで提供しました。」という記述がありました。「えっ!?嘘!?」と半信半疑でウーロンゴン大学図書館を検索すると、ありました!『OZ』全号のスキャンデータだけでなく、付録のポスターなど、付属アイテムも収録されていて、至れり尽くせりの豪華版です。


この企画には『OZ』に実際に関わった中心的な編集者であるリチャード・ネヴィル氏が全面協力しているので、そうした細かい所まで提供できているのでしょうね。しかしまぁ、オーストラリアの名門公立大学の図書館で、裁判沙汰にもなったアブナイ雑誌が無料公開されているというのが素晴らしいですね〜 日本の大学ではなかなかできない類いのサービスかもしれません。まぁ、アングラ誌といえどもジョン・レノンに曲を作らせてしまうほどの雑誌でもあるので、そうした歴史的芸術的な価値を鑑みて公開されているのでしょう。著名人を心酔させたアングラ雑誌というと、そういえば戦後のSM雑誌『奇譚クラブ』に連載されていた沼正三の『家畜人ヤプー』に三島由紀夫が惚れ込んで、単行本の出版に自ら奔走したという話を思い出しますね。政治的には右翼的な見方をされる三島が、日本人が徹底して卑下される近未来を描いた怪作『家畜人ヤプー』を絶賛する所が面白いですね。どこかジョン・レノンが『OZ』を評価するのと重なる感じがします。天才はイデオロギーなどの些細な表層では判断せず、作品そのものを見通す目を持っているのでしょうね。


デジタルデータだけでなく、実物も機会があれば手に入れたいものですが、上述したとおりいつもお上から睨まれていた雑誌だったためか現存が僅少のようで、現物の入手は困難らしく、古書相場では一冊数万円くらいの価値で取り引きされているともいわれているようです。念のために世界的なオークションサイト「ebay」で『OZ』の相場を調べてみると、日本円換算で数千円〜数万円の間で出品されてました。そんな雑誌がスキャンデータとはいえ無料で合法的に見れるわけですから良い時代になったものです。


メモ参考サイト

(※アドレスが変更されていたためリンクを更新しました。2021/12/14更新)

憧れのサイケな雑誌「OZ」の全容が無料で見れるというのはスゴイ!!!まさに宝の山!

ウーロンゴン大学図書館は、OZの中心的な編集者だったリチャード・ネヴィル氏と共同で2014年からこのサービスを提供しているとのこと。感謝感激であります。研究目的の利用のために公開されていて、商用利用は不可です。権利の範囲については当該ページにてご確認ください。


(※アドレスが変更されていたためリンクを更新しました。2021/12/14更新)

ロンドン版に引き継がれる前の元祖『OZ』(1963〜1969年 )の全容も無料公開されています。素晴らしすぎる!ロンドン版と比べると地味な見た目ですが、伝説の雑誌の全容という意味では見過ごせない魅力があります。







『OZ』は最初はオーストラリアのシドニーで、1963年のエイプリルフールに悪ノリして発行されたものが最初でした。痛烈な社会風刺や政治家や公務員など公的な人物への風刺など政治的に過激な内容だったみたいで、シドニー版も早くも第三号で裁判で有罪に。その後雑誌の中心人物だったリチャード・ネヴィルらが1966年2月にロンドンに渡ったことにより、1967年初頭から『OZ』は英国ロンドンで発行されることになります。モノクロ主体だったシドニー版からうってかわり、ロンドン版は地下出版物でありながらイメージ豊かなイラストやサイケデリックなカラーの印刷が話題を呼び英国でも瞬く間に広く認知されることになります。しかしあいかわらず過激な内容のために何度も強制捜査が入りついにロンドン版も猥褻物と見なされてまたもや裁判に。この裁判によって廃刊の危機に陥ったことで、先に触れたジョン・レノンとオノ・ヨーコが動いて曲を発表し、大きな注目を浴びることになるわけです。


こういった、お上に楯突いてでも自分を通す反骨の出版人というと、宮武外骨もそんなイメージの人ですね。『滑稽新聞』『スコブル』『ハート』など数々の珍奇な出版物で知られる明治期の異色の出版人、宮武外骨(1967-1955)も、政治やマスコミなど巨大権力の腐敗を容赦なくパロディにして批判し、何度も投獄されています。戦後もGHQに目をつけられ検閲や発行停止処分をたびたび受けていたそうで、とにかく権力から常に睨まれている反骨の人というイメージですが、実際に外骨のつくった『滑稽新聞』などを見てると、ユーモア精神に満ちあふれていて、明治時代の『ビックリハウス』みたいなノリで面白く、常にお上と戦っている豪快でデンジャラスなイメージはあまり感じません。まぁ、そこまでの覚悟で作っているから時代を超えた面白さがにじみ出てくるという側面もあるのかもしれませんね。外骨という名前も、自身の創作物にピッタリ合ったインパクトのある、一度聞いたら忘れがたい名前ですが、これがペンネームではなく本名というのもかっこいいですね。役所などで自分の名前を署名するたび「本名でお願いします」と言われて辟易した外骨は「是本名也(これ本名なり)」と彫った印鑑を作ったそうで、そのようなどこまで本気でどこまでが冗談なのか判然としない生き方が外骨という人の魅力ですね。


メモ参考サイト


世間が外骨を本名だと信じてくれないので作った「是本名也(これ本名なり)」の印鑑が見れます。米津玄師さん、最初は絶対芸名だと思ってたら実は本名だったり、世の中にはペンネームにしか見えない本名の人というのは意外といる気がしますが、こんな印鑑を作ってしまうのは外骨さんくらいでしょうね。


反骨というと反射的にかっこいいイメージがあったりしますが、ものの善悪というのはけっこう微妙で、時代とかイデオロギーとか社会の漠然とした空気に左右されるものでもあります。ネヴィルや外骨の主張に客観的な正しさや正義があったのかどうかは当時の状況をよく鑑みて判断しないと解らない部分もあります。まぁ、しかし、そうした思想的な部分よりも、私的にはビジュアル表現や編集技法などの表現者としてのクリエイティビティのほうに興味がありますし、そっちの側面で彼らに興味があります。


思想的なものは難しい、というか、客観的な正解のない場合が多いので、面白い表現というのは、しばしば世間の良識を超えたものである場合も多く、そうした表現が誰かを傷つけてしまうこともよくあります。誰もが納得するような表現は存在せず、かといってあまりに神経質になると何も表現できなくなってしまいます。かように表現の問題というのは正解を求めようとするととたんに八方ふさがりになって迷宮に迷いこんでしまう難しい問題でもあります。だからこそ、あんまり真剣に考えずにノリでやってしまって、後は成り行きにまかすのが、一見いい加減にみえるものの、とりあえずの最善であるようにも思えます。


なんというか、社会の問題の多くはバランスの問題で、重要な問題ほどどちらが正しいかというのは容易に判断できる簡単なものは無く、そもそも世界というのはそういうふうに出来ていて、単純な正解がでないようになっているのでしょう。神の目線では、人間たちが協力してより良い考えを四苦八苦して出させる過程が重要で、具体的にどういう答えを出すかはあまり重要ではないのでしょうね。


ネヴィルも外骨も、思想的な視点で解釈すると、言いたいことを世間やお上に抑えつけられながらも戦い続けて来た苦悩と反骨の人という印象で捉えがちですが、編集者、表現者としての視点で見ると、穏便な日常を犠牲にし、権力に楯突いてでもどうしても表現したいものがある、というのはよく考えてみるとある意味とても幸福なことでもあるようにも思います。人生をかけてでも訴えたいものがある表現者というのはそう多くはないですし、そういうものがあるというのは、彼らにとって編集というのは、ただ生活のための仕事としてではなく、どこか天から授かった使命というか宿命というか、そんな部類のものであったのでしょうね。そう考えると、彼らの戦いも、苦労を相殺するくらいの創造する快楽があったから続けてこれたのでしょうね。
posted by 八竹彗月 at 13:31| Comment(0) | 芸術

2020年05月18日

【雑談】黄金郷通信 vol.4

興味の赴くままに書き溜めていた記事が増えてきたので、適度に切り上げてこのあたりでざっと推敲してアップしてみました。ステイホームな時期、お暇潰しにでもなれば幸いです。



el_icon.png『人面類似集』宮武外骨

宮武外骨といえば、歯に衣着せぬ過激な社会風刺により常に国に目をつけられ何度も投獄されたというエピソードのインパクトからか、昨今は明治時代の反骨のジャーナリストというイメージで語られることが多い印象がありますが、代表的な『滑稽新聞』など外骨の実際の出版物からは、そんな正義感に満ちた熱いジャーナリスト魂のようなものよりも、時代を超えた天才的なユーモアのセンスに圧倒されます。外骨はジャーナリストというより面白いことならなんでもまかせとけ!的な面白博士のような、ある種トリックスター的な神話化した存在感が自分の中ではあります。今回取り上げる『人面類似集』も、そんな外骨の奇書のひとつで、ユーモア精神と子供のような好奇心、それを出版物という形に整形して表現する天才的な編集力に感服します。

つげ義春ファンならピンとくると思いますが、この本はつげさんの短編『魚石』で言及されていて、私もソレで覚えていた本です。外骨のこともこのつげさんの漫画で初めて知りました。『魚石』もとても好きな短編です。この作品の中で、主人公はコレクションしていた大切な古書を、古書店を開業した友人に頼まれ「飾りとして」客寄せの非売品として貸すのですが、友人は約束を破って借りた本を客にほとんど売ってしまいます。当然ふたりの関係がぎくしゃくしていくのですが、ある日、その友人が謝罪替わりに「魚石」という珍しい石を主人公にプレゼントするというお話です。主人公が書架の飾り用に渡した古書の中に宮武外骨の『人面類似集』が出てくるのですが、「外骨」という奇抜な作家名、「人面類似集」という怪しすぎるタイトルのインパクトがすごくてずっと記憶の片隅に残っていました。

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つげ義春1979年の作品『魚石』のひとコマ。『つげ義春選集』小学館 1986年
大切なコレクションをそれほど親しくもない友人に台無しにされる切ないシーン、自分も古書好きなので主人公の気持ちが解りすぎて胸に迫るものがあります。この『魚石』という作品を描いたのがきっかけで水石に興味を持ったつげさんは後に代表作となる傑作『無能の人』を描くことになったそうです。そういう意味でも『魚石』はつげ作品の中でもけっこう重要な作品といえそうですね。そういえば、藤子不二雄「ブラック商会変奇郎」の第16話「夢の船旅」にもスネ夫系の友人に大切な手塚治虫の初期作品の絶版初版本コレクションをだまし取られる可哀想すぎるシーンがあったのを思い出します。「魚石」の主人公同様に、命の次に大事な手塚コレクションをユスり取られる満賀くんのシーンも切なすぎるシーンでしたね。


『人面類似集』、古書店や古書市で見かけたことも一度も無い奇書で、どんな本なのか気になっていました。古書市などでは外骨の本はとんでもないプレミアが付いてることが多いので、見つけても指をくわえて見てることしかできないと思いますが。しかし、ふと考えると、かなり昔の本なので、権利が消えている可能性があります。国会図書館のデジタルアーカイブとかにあるかもしれないと思い立って検索してみると、なんと、ありました!!

メモ参考サイト
宮武外骨『人面類似集』(「国立国会図書館デジタルコレクション」より)
ページごとにJPEGでも保存できますが、全ページPDFで一括でダウンロードもできます。PDFはきちんと目次も打ち込んであり、至れり尽くせりです。念願の『人面類似集』の全貌が分かって感動です!奥付の発行者名が「半狂堂主人 (宮武)外骨」とクレジットされています。本の隅々にまでサービス精神が行き渡ってるところが、親切心というより一種のギャグとしてやってそうな悪戯心を感じるのも外骨流という感じでしょうか。

PDFで全ページ一括ダウンロードしてざっと目を通しましたが、これは想像以上に面白い本ですね〜 タイトルの通り、中身は人面に類似した魚とか植物とか、はては人魚や人面瘡などの妖怪モノノケのたぐいまで取り上げて縦横無尽に解説していく珍本です。図版が多いのも魅力で、古書相場の高騰している昭和の子供向け妖怪図鑑のノリにも似たワクワクドキドキのB級図鑑な感じにシビレます。『滑稽新聞』などの社会風刺系だけでなく、こうした純粋に編集者としての超個性的な手腕も見事で、なみなみならぬ才能を感じますね。今後も外骨の代表的な雑誌『スコブル』や『ハート』のデジタル公開も期待したいところです。

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宮武外骨『人面類似集』表紙 昭和6年(「国立国会図書館デジタルコレクション」)

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宮武外骨『人面類似集』昭和6年(「国立国会図書館デジタルコレクション」)より
日本髪を結った人魚、インパクトのあるシュールなビジュアルですね〜


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宮武外骨『人面類似集』昭和6年(「国立国会図書館デジタルコレクション」)より
「笑う花」人面の花が咲く怪奇な盆栽の絵。笑いながら落花すると書いてありますが、ホラーですね〜 江戸時代、文化6年(1910年)に発行された本が出典のようです。怪しいうわさ話を集めた「耳袋」も江戸時代の本ですが、昔の日本人も都市伝説めいた怪しい話が大好きだったようで、人間の好奇心とか遊び心って時代を超えて変わらぬものなのでしょうね。




el_icon.png植物の心

奇麗に咲いた花に蜂の音を聴かせると花は自らの蜜を甘くしようとすることが分かった、というユニークな記事が目にとまり、読んでみました。なかなか興味深い話ですね。オカルト界隈では昔から「植物にも意識がある」というファンタジックな仮説があって、その仮説を証明するユニークな実験なども読んだ事があります。たしかに面白いのですが、この手の実験を書いた本がトンデモ本として扱われたりもしてたので、なんとなく眉唾の域を出ないものなのだろうな、と漠然と思っていました。いい機会なので少し検索してみると昨今では「植物には意識がある」と主張する学者もそれなりにいて、真剣に議論されているテーマでもあるようですね。

この蜂の音を聴かせると花は蜜を甘くするという実験はテルアビブ大学の研究チームによるものだそうで、コンピュータによって生成された蜜蜂の音の周波数(0.2〜0.5キロヘルツ)を花に聴かせると三分以内にもともと12〜17%だった蜜の糖度が20%まで増加したということです。これより高い周波数や低い周波数では反応しなかったようなので、明らかに蜂の音にピンポイントに反応しているみたいですね。多くの花が凹状のボウル型なのは、そうした「音」を聴きやすくするための集音機の役目があるのではないか、と記事では指摘しています。

この実験からは、植物にもやはり意識というか、心のようなものがあるのではないか?というロマンチックな空想がひろがりますね。醒めた解釈をすれば、進化の過程で獲得した生理的な反応という見方もできますが、では人間の心も、そういう意味では植物よりも多少複雑な生理的反応であるとも言おうとすれば言えますから、つまりは「心」とか「意識」というものをどう解釈するかの問題ともいえそうです。この場合も、花が蜂の音で蜜を甘くするという反応は、ある種の、原始的な「心」の有り様なのではないか、と考えてもよさそうに思えます。いや、まだ解明されてないだけで、もしかしたら、植物には想像以上に複雑な「心」をもっている可能性もあるかもしれません。人間の獲得した科学という知恵の領域内では、植物はあたかも動物より下等な構造で心など持ちようが無さそうに解釈されがちですが、植物は動物が発生するずっと以前から地球上に存在してきたわけなので、その長い種の歴史の中で、動物以上に進化した何かを獲得している可能性も十分あるのではないでしょうか。

以前に読んだ盆栽の本に面白い事が書いてあったのを思い出します。

草花や樹木を育ててゆく人の心は、朝な夕な一挙手一投足、植物に同化され、また植物の方も培養する人に同化して、まったく両者の呼吸がぴったり合ってこそはじめて完全に育て上げれるものであります。
このようにしてこそ、一枚の葉、一輪の花の貴さがわかり、愛らしさが増して、非常に意味深く感じられるものです。
水のかけ方、肥料のあたえ方も植物の要求を自然に了解することができてこそよく発育させることができ、その人自身の希望にそって仕立てあげることもできるようになるのです。

『盆栽の仕立て方』坂東澄夫著 金園社 1972年


盆栽の育成はかなりデリケートで、ある程度の園芸の知識と根気がないとうまく育てるのは難しく、難易度の高い趣味ですが、最終的には技術や知識だけでなく、植物の気持ちを察してあげれるくらいの「愛情」も重要なのでしょう。植物に「心」があると信じるかどうか、というよりも、「心」があるとひとまず仮定してつき合わない限り、植物も応えてくれないものなのかもしれません。

メモ参考サイト
花はハチの音が聞こえると、一時的に「蜜を甘くしよう」とがんばることが判明(「ナゾロジー」様より)

植物に「意識」はあるのか?(「Gigazine」様より)



el_icon.pngジョージ秋山「アシュラ」

2012年にアニメ映画として公開されたことで注目を集めることになった往年の問題作「アシュラ」。『週刊少年マガジン』掲載時には、物語の序盤からいきなりカニバリズム(人肉食)の描写が生々しく描かれたりなど当時はかなり物議をかもしたそうで、神奈川県では有害図書指定され未成年への販売を禁止するという社会問題へと発展したようです。そうした事情は後で知ったのですが、知らないまでも「アシュラ」というタイトルと、おどろおどろしい主人公の人相が恐ろしかったからなのか、とくに関心を持つ事なく時は過ぎていきました。

2012年にアニメ映画化されますが、どういう気持ちの変化か、あるいはうまく宣伝にのせられたからなのか、無性に見たくなって映画館で鑑賞した覚えがあります。予想通りにヘビーな内容ではありましたが、同時に深く考えさせられる部分も多く、たんに残虐描写を面白がるような作品ではなく、けっこう宗教的というか、ちゃんとした真っ当なメッセージが根底にある作品で、とても感銘を受けました。主人公アシュラは飢餓の極限の中を生きている役なので、声優の野沢雅子さんは声に命を吹き込むために仕事中は常に空腹状態を維持するようにしていたという裏話がありましたね。超ベテラン声優でも一切手を抜かないことに感動しましたが、逆に一作一作に全力で取り組んできたからこそ常にその声でファンを魅了し続けて来れたのでしょうね。ベテランといわれている声優さんは、長年の慣れやテクニックだけで声を当てているのではなく、意外と裏では新人顔負けの努力を常に惜しまずに取り組んでおられるのかもしれないなぁ、などと、プロの凄みを感じました。

原作は未読のままだったのですが、どうもネットで無料で全話読めるらしいという話を目にしたので、検索してみると、いくつかの漫画サイト(もちろん合法に運営されています)で無料公開されていました。広告収入を作者に還元する形で無料で読めるようになっているようです。映画では端折られたエピソードもけっこうあるので、さらに奥深い世界観を堪能できました。残酷な描写も多いですし、グロいシーンもてんこ盛りですが、食べるものが無いという極限状況の中で生きる人間たちの心の有り様を実に巧みに描いていて、いろいろな事を考えさせてくれる傑作です。

母恋しさを作中の紅一点キャラ、若狭(わかさ)に投影するアシュラですが、実の母は自分を殺して喰らおうとしたのも事実であり許しがたい、といった母へのアンビバレンツな感情に苦しみます。母の胸に飛び込んで思いっきり甘えたい!という本能の叫びと、自分を殺そうとした母親を許せるものか!という激しい葛藤、そうしたヘビーな問題が何度もアシュラを苦しめますが、そうした親に対する葛藤と愛憎のイメージはふと手塚治虫の「どろろ」の百鬼丸と重なります。悪鬼の生贄に生まれたばかりの百鬼丸を捧げる事で、見返りに天下を取ろうとした鬼畜な父親。百鬼丸は生まれた時からそのせいで身体のほとんどの部位を欠損しているという設定です。飢餓と殺戮が蔓延する暗黒時代を舞台にしているところも「アシュラ」を連想するところがありますね。どちらも同時代の作品ですし、「どろろ」や「アシュラ」ほどではないにしろ70年代前後の漫画は、けっこう重いテーマのものが多いイメージはありますね。同時期に後に「がきデカ」で日本中に知られることになる山上たつひこ氏も「光る風」という、近未来の日本における統制国家の陰謀を描いた異色の作品を描いていてましたね。調べてみると、「アシュラ」は週刊少年マガジンに1970〜1971年の連載、「どろろ」は週刊少年サンデーで1967〜1968年の連載ですから、「どろろ」のほうが先のようですね。さすが漫画の神様、先見の明といった感じでしょうか。

この時代はヒットした歌謡曲も「時には母のない子のように」(1969年 寺山修司作詞、カルメンマキ歌)など、重い感じの歌が流行ったりしていて、いろいろと濃い時代ですね。他に70年前後のアニメや漫画では「あしたのジョー(アニメは1970〜1971年放映)」とか「アパッチ野球軍(アニメは1971〜1972年放映)」とか面白い作品でしたが、そういえばこれらの作品も背景に貧困や差別などを赤裸々に描いていて、いかにも70年代っぽさのある作品でしたね。ウィキに70年代アニメの一覧がありましたが見てみると懐かしの名作ぞろいで感慨深いです。漠然と重い暗いという印象の70年代文化ですが、「天才バカボン」とか「ど根性ガエル」とか陽気な作品もヒットしてますし、暗い時代というのも多分に先入観のある見方なのかもしれません。

以下に「アシュラ」の無料公開サイトのリンクを貼っておきますが、他にもジョージ秋山の問題作「銭ゲバ」も全話無料公開されていて、こちらもすごかったです。お金しか信じない通称「銭ゲバ」と呼ばれる主人公の波乱の人生を描いた怪作で、この作品も人間存在の闇を描く事で読者に人生のあり方について考えさせられる内容です。あいかわらずヘビーな内容ですが、ミステリー仕立てなので、案外読みやすいですね。とはいえ、人間の暗部を正面から直球で描いている超ヘビーな物語なので、直感的に「読みたい!」という気にならない人は無理して読まないほうがよさそうです。

メモ参考サイト
ジョージ秋山「アシュラ」全巻無料 (漫画サイト『タチヨミ』様)

ジョージ秋山「アシュラ」全巻無料 (漫画サイト『スキマ』様)

(過去記事)「映画『アシュラ』を鑑賞」
以前映画館で『アシュラ』を鑑賞した時の感想です。

日本のテレビアニメ作品一覧 (1970年代)(ウィキペディア)



el_icon.pngスティーブ・ジョブズ「最後の言葉」について

スティーブ・ジョブズ(1955-2011)、アップル社創業者としてだけでなく、ある意味世界を変えたカリスマとして、死後10年足らずでもはや神格化された感もある人物ですね。禅やヨガなどに傾倒していた事でも知られ、自身のipadに唯一入れていた本がパラマハンサ・ヨガナンダの主著『あるヨギの自叙伝』であったというエピソードもあり、単に利益を追求するだけの経営者としてではなく、より良く人生を生きようと苦闘してきた一人の人間としての一面に惹かれるものがあります。私自身、はじめて触れたコンピュータがマッキントッシュで、いまだにパソコンはマック以外は使ったことがないので、思い入れというよりは、長い付き合いの友人みたいな感じで、その生みの親であるジョブズについても、なんとなく気になる人物でありました。スマートで男前で天才的な実業家、黒のタートルネックとジーンズという定番のファッションも、ミニマル的というか禅な感じというか、自身の思想を見える形で具体化したようにも見えます。傍目には典型的な成功者ですが、複雑な生い立ちを持った人で、人並み以上の苦労をしてきた人でもあったようですね。

その思想や奇行などのエピソードはユニークなものが多く、知れば知るたび興味深い人だなぁと感心します。中でも、あの名言「ハングリーであれ!愚か者であれ!(Stay hungry, Stay foolish)」で印象的な2005年の米スタンフォード大学での卒業式におけるスピーチは、胸に突き刺さります。この名言自体はジョブズのオリジナルではなく、ジョブズが若い頃に愛読していたヒッピー向けのアングラ雑誌『ホール・アース・カタログ』の最終号に掲げられた言葉で、スピーチの締めくくりにそれを引用したのですが、今ではもはやジョブズの名言という感じで、彼の思想を上手く一言で現している上手い言葉だと思います。スピーチ自体も改めて聴いてみても、最初から最後まで人生の重要な秘密を凝縮して話していてすごいですね。「他人の意見によって自分の内なる声をかき消してしまわぬように。あなたの心、直感に従う勇気を持ちなさい」というくだりもぐっときます。話の内容は一言で言えば、誰しも自分の人生は自分が主役だということで、自分の人生の主役たれ!という生き方を会場の卒業生に向けて奨めています。客観的視点を知るためには他人の意見を聞く謙虚さももちろん大事ですが、人生を左右する問題は結局は自分自身で答えを出すしかない、ということなのでしょう。人生には目に見えない起承転結があり、今やっていることが今だけしか意味の無い「点」にしか見えなくても、それはいずれ未来に起きる重要な転換期に役に立ったりするかもしれない。それによって「点」と「点」は繋がり「線」になっていく。だから、今心が求めている事をないがしろにするなよ、というようなショーペンハウエル的な考えにも人生の真理のようなものを感じますね。

メモ参考サイト
スティーブ・ジョブス スタンフォード大学卒業式辞 日本語字幕版(YouTubeより)
濃密な内容で、最初から最後まで面白く、学ぶところの多い素晴らしいスピーチですね〜 どこかアラン・ワッツにも通じるような、前向きでスピリチュアリティのある人生訓に感銘を受けました。

スピーチでは、一年前に診断された膵臓癌に冒されていることを告白しながらも、手術も成功して未来の希望を語っていましたが、この3年後には癌の転移が見つかり年々病状は深刻なものになっていったようです。一説には東洋文化に傾倒していたジョブズは、西洋医学に不信感をもっており、菜食、鍼治療などの民間療法で完治をはかろうとしていたことが適切な治療を遅らし病状を悪化させてしまったともいわれてますね。そして世界を変えた男、スティーブ・ジョブズは2011年10月5日に膵臓腫瘍の転移が原因で56歳の若さで永眠します。

死後も自伝が世界的ベストセラーになったり映画が作られたりと、その大きな喪失感を埋めるかのごとくジョブズにまつわるたくさんの思い出が語られていきましたが、ある日「スティーブ・ジョブズの最後の言葉( Last Words Spoken by Steve Jobs )」と題される興味深い文章が2015年あたりにSNSでシェアされ、瞬く間に世界各国で翻訳され、日本でも動画サイトや自己啓発やスピリチュアル系のブログなどで和訳が掲載されました。私は最近この話を知ったのですが、なかなかに含蓄のある「ジョブズの最後の言葉」に感銘をうけたりしました。その内容は「私はビジネスの世界で世界の頂点に達した。他人には私の人生は成功者の典型に思えるかもしれない。しかし仕事以外では喜びの少ない人生だった」といった、人生を悔恨するような語りからはじまる話ですが、スタンフォード大のスピーチにみられるような、人生の希望やアドバイスのようなことも語っています。

しかし、ちょっと気になるところがある「最後の言葉」でもあります。「最後の言葉」では、ジョブズは自分の人生を、富を追いかけて大事なもの(夢や愛など)をおろそかにしてしまった、と後悔している内容なのですが、ジョブズの成功への原動力はスタンフォード大でのスピーチで語っているように、富よりは創造する快楽であるような印象がありましたし、ジョブズにとって仕事そのものが創造行為であり、仕事を深く愛していた人ですから、「富を追いかけるのに夢中で本当に大事なものを置き忘れてしまった人生」というニュアンスの言葉を発するというのは違和感を感じなくもありません。この世ではお金はあればあるほど生活は便利に快適になっていきますし、善行をするにもたくさんのお金があるほど多くの人を助けることもできるわけで、全く富に執着しないことがスピリチュアルな生き方だとは思いません。富は富自体を目的として追いかけるものではなく、人生の至福を追求していくうちに結果的についてくるものであると考えるほうが、なんとなくジョブズらしいイメージがあります。

「最後の言葉」の話の総体としては、ジョブズは自分の人生を失敗だったと後悔していて、私のような富の追求は人間を歪ませるから、生きるのに十分なお金を稼いだらもうビジネスに執着し過ぎるのは止めて、芸術とか人との関係とか若い頃からの夢など、富以外の心の豊かさ、つまり「体験」を求めた方が良い。といった事を主張しています。お金は死後にまで持っていけるものじゃない。持っていけるのは愛に満ちた思い出だけだ。物質的なものは無くしてもまたいつでも見つける事が出来るが、人生は一度無くしたら二度と見つける事はできない。命はひとつしかないからだ。と。たしかに、うなづける部分が多い、というか、話自体はすべてその通りといった感じですが、ただ一点、これがジョブズの言葉かというとおかしい点が多いのも事実です。東洋医学に傾倒しすぎて死期を早めてしまったほどスピリチュアリティが染み付いたジョブズが、そんなに富に執着していたとは思えないところがありますし、スタンフォード大のスピーチでは自分の人生を後悔どころかポジティブに肯定しています。失敗も多かったが、その失敗から多くを学んだんだ、ということを言ってたジョブズが、最期になって急に自己否定にはしるというのはしっくりきません。

ということで、念のために「最後の言葉」が本物なのかどうかちょっと検索して調べてみました。まぁ、晩年に考えが変わることもありえない話ではないですが、ちょっと真相が知りたくなる話ではあります。結論からいうと、案の定、あの「最後の言葉」はジョブズのものだとする証拠は全く無いようで、また言葉の内容からもフェイクである可能性が大きいようです。

和訳が載っているサイトを含め、英語圏のサイトでも、あの言葉の出典が明確に書かれているページは見つかりませんでした。おさわがせな感じではありますが、まぁ、話の内容は良い事言っているので微妙な気分になりますね。「最後の言葉」を考えた人、普通に自分の言葉として発するよりジョブズの言葉として発信したほうが拡散力がありますから、ちょっと魔が差したのでしょうか。私もいろいろと過ちの多い人間なので、他者の不注意にあれこれ言えたものではないですし、人間心理としては理解できなくもないです。承認欲求は誰しもありますし、それが手軽に満たせるゆえにSNSがものすごいたくさんのひとに利用されてるわけですからね。とはいえ、UFO搭乗記とかUMA発見のようなフェイクは安心して楽しめる所がありますが、実在の人物を騙るのは事と次第によっては関係者に迷惑がかかることもありますし、後々リスキーな事になりそうなので自分自身のためにも慎んだ方が賢明でしょうね。

難しいのは、世の中意図せず他人に迷惑をかけてしまうことはもう必然的にあるもので、この「最後の言葉」も、作者が意図的に拡散したとも限らず、もしかしたら何かの文芸関係のサークルなどの少数の仲間内で閲覧するだけの掲示板みたいな所になにげなく投稿したなりきり系≠フ文章を、閲覧者の誰かが気に入って外部に拡散してしまった、というような可能性もなきにしもあらずということです。最初から誰にも悪意はないのに結果的に大事(おおごと)になってしまうパターンというのも世の中よくあるものなので、事実関係が明確でないものは出来るだけ寛容でありたいと自戒を込めて思います。

「最後の言葉」は、ジョブズが病院のベッドで人工呼吸器に繋がれた状態で語っている(書いている?)ような内容なのですが、実際は、ジョブズが亡くなったのは自宅で家族に看取られた中ですし、人工呼吸器もつけていなかったようです。こうした状況証拠からも件の文章はフェイクでほぼ確定でしょう。動画サイトで、「最後の言葉」をジョブズ本人ぽい口調で英語で話している動画もありますが、生命維持装置に繋がれて発話するのは不可能なので声真似でしょう。実際に遺された意識が無くなる直前の最後の言葉は家族や親族も聴いていて、それは「Oh wow、oh wow、oh wow」という声だったようで、何か意味のある言葉ではなかったそうです。

このwowがどういうニュアンスで発せられたかはわかりませんが、ルーベンスの絵画のような、たくさんの天使がまばゆい光の中で迎えに来ているような情景を見て感嘆していたのかもしれませんね。仕事には頑固で敵も多かった人なので、対人関係などは後悔もあったでしょうが、努力も人一倍した人ですし、世界中の人々の生活スタイルを変えて便利な世の中にしたりと大きな結果も残したわけで、この世を去る間際には「私は自分に出来うる最良の人生を歩んだ」という自負は確実にあったのではないかと想像します。そういえばジョブズの訃報が世界中を駆け巡っていた頃、SNSで実にうまいことを言う人がいましたね。

「世界を変えた3つのリンゴがある。ひとつはアダムのリンゴ。もうひとつはニュートンのリンゴ。三つめがジョブズの齧られたリンゴだ」


メモ参考サイト
スティーブ・ジョブズの実際の最後の言葉は「Oh,Wow」(ウィキペディアより)

「スティーブ・ジョブズ最後の言葉」への疑問 長坂尚登様(言論プラットフォーム「アゴラ」より)

スティーブ・ジョブズの最後の言葉の裏にある噂と真実(「リーダーズ・ダイジェスト」の英文記事)
世界最大の定期刊行雑誌「リーダーズ・ダイジェスト」のサイトでもこの話題が取り上げられていました。予想以上に大事(おおごと)に発展してるようですね。件の「最後の言葉」はよくできているが出典が不明で、ジョブズの家族やアップル社も認めていない。その引用の全ては非公式のSNSアカウントやブログのみでまともな根拠のあるソースが存在しない、といった内容が記事には書かれています。

全地球カタログ(ウィキペディア)
ジョブズのスタンフォード大でのスピーチを締めくくる名言「ハングリーであれ。愚かであれ」は、1970年代前後にアメリカで発刊されていたヒッピー向けの雑誌『全地球カタログ(ホール・アース・カタログ)』の最終号の裏表紙に掲げられた言葉であると本人もスピーチの中で言っていますが、今ではもうジョブズの名言という感じで定着してますね。
posted by 八竹彗月 at 08:58| Comment(2) | 雑記