またスピリチュアルブームの火付け役になったといわれるロンダ・バーンの「ザ・シークレット」やヒックス夫妻の「引き寄せの法則」シリーズなどで有名になった「引き寄せ」ですが、これの直接の源流は19世紀半ばに米国で興ったキリスト教を再解釈した新しい思想運動「ニューソート」だとされています。ニューソートはジョセフ・マーフィーやジェームズ・アレン、ニール・ドナルド・ウォルシュ、ナポレオン・ヒルや中村天風などの成功哲学や自己啓発的な思想や戦後の新興宗教の多くに影響を与えた思想運動です。思想の特徴は、端的に言えばいわゆるポジティブ・シンキングの薦めであり、その理由は「この世界は思考が現実化するようになっている」からだとするものです。ゆえに、ネガティブな考えはネガティブな現実を引き寄せるので、「こうなったら嫌だな、心配だな」と考えるかわりに「こんなこといいな、できたらいいな」とドラえもんの歌のような思考法のほうがより豊かな人生を引き寄せることができますよ、という思想です。
しかし、そういった「思考は現実化する」という思想もまた、ニューソート運動で突然出てきた新しい発想なのではなく、これもヴェーダーンタ哲学や仏教にも見られる古くからある考えです。キリスト教の場合、イエス・キリストの十字架に見られる悲壮なイメージや、十戒やノアの洪水やソドムとゴモラのような厳しい神のイメージ、また「人間は生まれたときからすでに罪人である」とする原罪などの印象で、一般にあるイメージですと、なにかと重苦しい部分がある宗教ですから、もっとポジティブに聖書を解釈していくことで、キリスト教をもっと明るい気持ちで信仰できるものにしたいという想いがニューソート思想になっていったのではないか、と想像します。ニューソート思想は、うさん臭いとか科学的でないとか、現代では何かと揚げ足をとられて批判されたりする場合も散見しますが、考え方自体は良いものですし、信じることからはじまる精神世界と、疑うことからはじまる科学とでは、根本的にスタート地点や視点が異なるので、こうした思想は、正しいかどうかというよりは、自分にとって有益かどうかで判断するしかないものだろうと思います。いわゆるアスリートの実践しているイメージトレーニングというのは良い結果をイメージするポジティブシンキング的な行為ですし、効果も実証されているわけで、スポーツに限らず物事をポジティブに受け取る考え方というのは、普通に人生にも良い影響があると思います。
そういえば、あのマザー・テレサの名言としてネットでよく見かける言葉「思考に気をつけなさい、それはいつか言葉になるから。言葉に気をつけなさい、それはいつか行動になるから。行動に気をつけなさい、それはいつか習慣になるから。習慣に気をつけなさい、それはいつか性格になるから。性格に気をつけなさい、それはいつか運命になるから。」というのがありますね。これも思考というのが単なる脳内のささいな現象なのではなく、結果的に人生に起こる現実そのものを造っていく材料になっているのだから気をつけなさいという意味で、「思考は現実化する」的な共通する考えですが、なんかこの言葉を知った当初から語彙の雰囲気が感覚的にマザー・テレサっぽくないテイストではあるなぁ、と思ってたので、一体この言葉はマザーがどこで発言した言葉なのか、この機会に調べてみると、案の定というべきか、この言葉がマザーのものであると流布されているのは日本くらいのようで、その言葉の出典は不明瞭なもののようです。前にも記事にしたヴォルテールの名言みたいに、この名言もまたグッときた言葉を反射的に拡散する傾向のあるネット特有の現象が生んだ名言なのかもしれませんね。まぁ、言葉自体は含蓄がありますし、内容もブッダの教えに通じるものがあり、誰の言葉かは置いといて、名言には違いないですが。

マザー・テレサじゃなかった?! 名言「思考に気をつけなさい…」の謎(ブログ「Blue Eli ニューヨーク便り」様より)
ニューソート思想のもっとも著名な人物といえばジョセフ・マーフィーだと思いますが、その著書が多くの人に感銘を与える反面、「思考した通りに現実が造られる」という神秘的な思想がストレートに語られるので、精神世界に馴染みのない人にはうさん臭く思われる部分も多いかもしれませんね。多くの人は教育を通じて科学的思考で世界や自分を捉えますから、自分は宇宙の片隅のちっぽけな部品のひとつという認識になりがちですが、精神世界の考え方は全く逆で、自分の心こそが宇宙を作り出している根本原理であるという考え方があるので、非常にポジティブに人生や物事に対処できるようになれるメリットがあります。
マーフィーの本では、たしかに、人間の思考がまるで魔法か何かのように、人生を創造していく万能薬のような描かれ方をしている面もあるので、免疫のない合理主義的な精神の人はそうした考えを受け付けないようなところもあるでしょうね。しかし、科学の視点からみても、ダークマターの問題など、この宇宙は物質として認識できる部分よりも、人間には知覚不能な何かが大方を締めているような世界であることが指摘されているように、スピリチュアルや神秘学のような、科学的思考では捉えられない理性で捉えきれない思想体系も、実はけっこう真理に近いところにあるものなのではないかと思います。私たちは、教育などによって、物事の正しさを「科学的かどうか」という基準でジャッジしがちなので、こうしたスピリチュアルな思想は科学的ではないために「正しくない」と判断しがちですが、精神世界、つまり神や霊や魂などの世界は少なくとも現時点での科学のモノサシの通用する世界ではありません。科学とスピリチュアルのどちらが正しいかということではなく、双方はこの宇宙を読み解くコインの裏表のような存在なのではないか、と考えています。ブッダはその悟りによって、人の人生は偶然に起こるものではなく、それなりにキッチリとした法則に則って全ての事態が生じるということを発見しましたが、それは、ある意味、「運命の科学」というものだろうと思います。
かようにニューソートで主軸となる引き寄せ的な概念やポジティブシンキング思想の源流もかなり古くからある考えで、原始仏教にもそのような記述があります。また、キリスト教の聖典である聖書にさえ言及している記述がみられます。こうした思考や心が現実を生み出す原因になっているという思想は、そういう思想を受け入れて信じることで実際に機能しだすので、疑う限りは「それ見たことか、やっぱり思考は現実化しない!」という「疑ったほうが正しい」と思われるような現実を引き寄せます。しかしこれはこれで詭弁ぽい言い方ですが「思考した通りの現実を体験する」という意味ではちゃんと思考が現実化しているわけです。認証バイアスという言葉がありますが、それは信じる側にも疑う側にも同時に当てはまる概念ですし、そもそもが全ての人間は何らかのバイアスを通してしか物事を判断できないようになっています。ということは、この宇宙に意志があるなら(当然あると思っていますが)最初から人間に「バイアスのかかっていない正しい認識」みたいなものを求めていない気がします。絶対的な正しい認識に意味があるなら、宇宙としてはそういう天才が一人存在するだけで間に合うからです。人間が何十億人もいて、それぞれにバイアス(というかバリエーションというべきか)があることのほうが、正解がひとつしかない世界よりも豊穣で面白い、だから明確な正解が存在しないような世界にしているのでしょう。ラーマクリシュナがいったように、この宇宙は神の遊戯そのものであるのかもしれません。
以下、仏典のひとつ「ウダーナヴァルガ(感興のことば)」と、新約聖書のマルコ福音書から引き寄せ的な思想を述べている該当部分をそれぞれ引用してみます。
ひとは「われはこれこれのものである」と考えるそのとおりのものとなる。それと異なったものになることは、ありえない。
──────ゴータマ・ブッダ
中村元訳『ブッダの真理のことば 感興のことば』岩波文庫
(p288 感興のことば 第32章・33節より)
よく聞いておくがよい。だれでもこの山に、動き出して、海の中にはいれと言い、その言ったことは必ず成ると、心に疑わないで信じるなら、そのとおりに成るであろう。
そこで、あなたがたに言うが、なんでも祈り求めることは、すでにかなえられたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになるであろう。
──────イエス・キリスト
新約聖書 マルコによる福音書 第11章より (Wikisourceより)
ブッダの言葉は、明快に自分の人生は自分の思考がシナリオとなって現実を創造していくという法則を指摘していますね。ゆえにシナリオが邪悪だったり過剰に懐疑的だと人生も苦しいものとして現われてきてしまいます。実際に自分の過去を振り返ると、ブッダなどの聖者が言っていたことは、道徳的な理想論を言っていたわけではなく、ただこの世界を動かしている見えない法則をそのまま指摘していただけなのだ、という実感がします。マルコ福音書のイエスの言葉も興味深いですね。完全に「信じる」ことが可能なら、人間には山をも動かす潜在力があるのだ、という力強い言葉です。
また、「なんでも祈り求めることは、すでにかなえられたと信じなさい」などは、そのまんま引き寄せの法則などで言及される願望実現の重要なコツで、「欲しいモノがあるなら、すでにそれを手に入れた後の気分を味わいなさい」ということです。よく神社では願い事をするのではなくただ神様に感謝を捧げなさいということがいわれてますが、これも神様に願い事をするな、という単純な意味ではなく、「願い方」の法則をいったものだと思います。つまり、何かを願うということは、その時点では「まだその願いが叶っていない」ということですが、神様はなぜかその「願いが叶っていない状態」を叶えようとします。神様に願いを叶えて欲しい場合は、叶っていないうちから「すでに願いは叶いました。ありがとうございます!」という「感謝の気持ち」を伝えることで、「願いが叶っている状態」を叶えてくれるようになります。
神的な存在は、上位の存在ほど人間のエゴ的な思考のレベルにある言語的な思考にはあまり反応しない性質がある気がします。霊的な存在は高次のレベルほど言語的な思考よりも感情とか気分とか気持ちとか、そういう情緒的な感覚のほうに反応しやすいように思います。それゆえに聖書の言葉のように「すでにかなえられたと信じなさい」ということなのでしょう。これには、神は願うまでもなく人が何を願っているか、何を欲しているかくらいはお見通しでありますから、もしその人に必要なものなのであれば、願うまでもなく神が叶えてくださるのだ、という「信じる気持ち」に敏感に神的な存在が反応するのだと思います。
これは実際にすごく役に立つノウハウで、タイトな締め切りの仕事の時も、仕事をはじめる前に「すでに余裕をもって締め切りに間に合い、仕事を終えた自分」が味わうであろうホッとした気持ちを数分くらい瞑想すると、何故かその通りになります。これは何度もありました。また、物事が普通に考えるとダメな方向に行きそうなときも、「なぜかすべて理想どおりに事がすすんでくれて良かった!」と未来の自分が感じている気持ちを瞑想すると、そういう方向に現実が動きやすくなるため、事態が好転しやすいです。
後は、願いが叶ったらちゃんと神様なり守護してくれた霊的な存在なりのはたらきに感謝するのを忘れないですると、なぜか奇跡の起こる頻度は増します。これは、なにも無理矢理神仏を信心しなさいということを言いたいのではなく、奇跡が起こったのは自分のパワーのおかげだ、という傲慢な気持ちを消すために必要な儀式だと考えると分かりやすいです。これはおそらく幸福とか奇跡というのは、利他的な心や信じる心に反応する性質をもっているからだと思います。まぁ、とにかくスピリチュアルにしろ引き寄せにしろ、正しいかどうかとか、信じる信じないを迷うようなものではなく、とりあえず自分の人生で実践してみて身をもって判断するべきものが精神世界なので、興味があれば実践してみるのが一番ですね。
最近思うのは、「ニューソート」とか「ヴェーダーンタ」とか、あるいは「キリスト教」だとか「仏教」だとか、「構造主義」だとか「現象学」だとか、我々は特定の思想に名前を付けて安心してしまって本質から離れがちになっていないだろうか、という自戒があります。概念に名称のラベルを貼って論評の対象にしてアレコレ議論していく過程で、当初は世界を貫く何らかの真理を指ししめす概念に便宜的に「ヴェーダーンタ」などの名前を付けてきただけのはずなのに、いつのまにか、あらかじめ名付けられている無数の思想の項目のひとつであるかのような錯覚をしてしまってはいないだろうか、と。自分と関係のない、何か、本棚の中の適当な一冊を指し示しているだけのような、たくさんのジャンルの中のひとつのような矮小化した概念に貶めている部分があるのではなかろうか、ということにフト気づくとき、巧妙に張り巡らされたこの世界のマーヤー(幻影、迷い)が可視化されたような感じがしてきます。本来、自分の人生の中で実践することで検証していけば自ずと答えは出るはずの、それだけのシンプルなものなのに、気を緩めると、瞑想も八正道も隣人愛も実践することなく、ただ頭の中だけでそれらの思想を解釈してジャッジしようとしがちなところがあるので、自分も気をつけたいところです。