2019年06月23日

【音楽】エンニオ・モリコーネ & アルマンド・トロヴァヨーリ & ピエロ・ピッチオーニ & etc...(イタリアン・レトロ・グルーヴ vol.3)

エンニオ・モリコーネ、アルマンド・トロヴァヨーリ、ピエロ・ピッチオーニといえばイタリア映画音楽を代表する三巨匠だと思いますが、それぞれに強烈な個性と才能を持った音楽家なので、単純なイメージではくくれない一筋縄でいかない奥の深さがあって探究心をくすぐります。そういうわけで、また引き続きイタリア音楽特集ということで、フェイバリットな曲を挙げながら語ってみたいと思います。

るんるんPiero Piccioni「Per noi due soli」
イタリアン・ラウンジ音楽の代表的な作曲家ピエロ・ピッチオーニ(1921-2004)の曲です。夢の世界に連れていってくれそうな濃密なレトロ感が気持ちいいですね〜

るんるんPiero Piccioni「 In Viaggio Attraverso L'Australia」
一番好きなピエロ・ピッチオーニの曲といえばこの曲です。以前にも音楽テーマの記事で紹介しましたが、イタリア特集ということでまた再掲します。改めて聴いてもやはり傑作ですね!ボサノヴァ調の映画音楽を集めたコンピレーション『Metti Una Bossa A Cena 2』で知った曲で、そのアルバムでの曲名は『Incontro All'aeroporto』で、リンク先もその曲名になってますが、この曲は1971年のイタリア映画『Bello, Onesto, Emigrato, Australia Sposerebbe Compaesana Illibata』のサントラ曲のようで、「In Viaggio Attraverso L'Australia」が正しい曲名のようです。件の「Incontro All'aeroporto」は同サントラの別の曲のタイトルでした。

fax to参考サイト
映画「Bello, onesto, emigrato Australia sposerebbe compaesana illibata」のサントラ(試聴あり)(アマゾン)


るんるんArmando Trovajoli「La Matriarca」
イタリア映画音楽の巨匠アルマンド・トロヴァヨーリ。この人も天才ですね。この曲は映画『女性上位時代(La Matriarca)』のサントラ曲。ムーディーで幻想的なレトロ感が絶品ですね。

るんるんArmando Trovajoli「L'arcidiavolo」
これも以前の記事でも触れた曲ですが、お気に入りイタリアン・ラウンジということで再掲します。ノリのいいグルーヴィーな感じで、ベースがすごくカッコイイ曲ですね〜 ありそうでなさそうな秀逸なフレーズが流石といった感じです。

るんるんArmando Trovajoli「Decisione」
お洒落でムーディーなラブソング。翻訳をかけてみると、恋する乙女の心情を歌った、とくに深い意味の無い歌詞みたいでしたが、イタリア語の情熱的な響きのせいか、ラテンな感じの個性的な雰囲気を感じる曲になってますね。

るんるんRiz Ortolani & Nino Oliviero「Donna Twist」
パンチの効いたファンキーでモンドなイカした逸品です。この曲は1963年のイタリア映画『世界女族物語(せかいじょぞくものがたり La donna nel mondo)』のサントラ曲です。これまたものすごい題名の映画ですね。イタリアの名曲を追っていくと前回触れた「マナ・マナ」の時のようなエグ味のある悪趣味っぽい映画作品のために作られたサントラ曲であるケースがよくあります。イタリア文化のひとつに「ジャッロ(Giallo)」というのがありますが、これは大衆文学や映画などのジャンルで、怪奇、エロ、犯罪、推理、などのキワモノっぽいテーマが特徴です。『サスペリア』のダリオ・アルジェントもジャッロの影響を色濃く反映した監督ですが、そうしたジャンルが一般に受け入れられている特殊な背景が、そのようなイタリアの文化の独特の個性を醸し出しているのかもしれませんね。

メモ参考サイト
「ジャッロ」とは?(ウィキペディア)

るんるんEnnio Morricone「Metti Una Sera A Cena」
イタリア映画にとどまらずハリウッド映画も多く手がけている映画音楽の帝王、エンニオ・モリコーネ(1928〜)。この曲は1969年のイタリア映画『ある夕食のテーブル』のサントラ曲です。モリコーネをはじめて聴いたのが80年代以降のハリウッド映画のサントラだったせいか、あまりイタリアン・ラウンジのテイストを連想させない音楽家の印象があったのですが、60年代あたりのモリコーネのイタリア映画音楽のサントラを聴くと、この曲のようにやはりそこはお洒落なイタリアン・ラウンジ音楽のイメージそのまんまのサウンドで、改めて新鮮な魅力を感じたりしますね。

るんるんEnnio Morricone「Sospiri Da Una Radio Lontana」
1975年のジャン=ポール・ベルモンド主演のフランス映画『恐怖に襲われた街(Peur Sur La Ville)』のサントラ曲。喘ぎ声のようなセクシーな女声が重なりあうセクシーでムーディーな曲ですね。モリコーネのイメージというと『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ』『エクソシスト2』『ニュー・シネマ・パラダイス』『アンタッチャブル』などハリウッド映画のサントラの印象が強いですが、ちゃんとイタリアン・ラウンジな感じの曲も作っていて抽き出しの多さと溢れる才能に感服します。

るんるんEnnio Morricone「Cavallina A Cavallo」
池田満寿夫原作の1979年の日伊合作映画『エーゲ海に捧ぐ』のサントラ曲。コケティッシュな女声ボーカルがキュートな曲ですね。
posted by 八竹彗月 at 04:36| Comment(0) | 音楽

【音楽】ブルーノ・ニコライ & ピエロ・ウミリアーニ & etc...(イタリアン・レトロ・グルーヴ vol.2)

イタリア映画というと、フェデリコ・フェリーニやルキノ・ヴィスコンティ、ベルナルド・ベルトルッチ、ダリオ・アルジェントなどなど耳馴染みのある世界的な名声のある監督も多く、個性派揃いでアクの強い感じのアーティスティックな作品を作り出している国という印象があります。まさに映画王国!といった感じもありつつ、その割りにはやはりハリウッド映画に圧されて、それなりに大ヒットした作品くらいしか馴染みが無いところもありますが、そこがまたマニア心をくすぐる魅力を感じるところでもありますね。映画音楽の世界でも、巨匠、エンニオ・モリコーネをはじめとして、アルマンド・トロヴァヨーリ、ピエロ・ピッチオーニなどなど、個性派の天才揃いで、映像だけでなく、音もまたお洒落さと同時に独特の個性的な「濃さ」のある質感がまさに「イタリアっぽい」感じでハマるとクセになります。60年代あたりのイタリア映画音楽はまさに人類の至宝ともいうべき傑作がゴロゴロしており、掘れば掘るほど新鮮な驚きと感動があって楽しいです。そういった感じで、今回は前回に引き続き映画音楽を中心に魅惑のイタリア音楽の世界を語ってみようと思います。

るんるんAlessandro Alessandroni「Jeune Flirt」
前回に引き続いてアレサンドロ・アレサンドローニの名曲を。レトロ感たっぷりの、この甘〜い感じのダバダバスキャットがたまりません!お菓子の国のような楽園感覚を感じるノスタルジックなメロディが圧巻です。

るんるんAlessandro Alessandroni「Intimità」
これも絶品ですね。女声スキャットとハモンドオルガンがツボを付きまくりです。部屋の空気が一気にサイケでモンドな異世界に変容してしまうような音の魔法。素晴らしいですね〜

るんるんBruno Nicolai「Sguardi Teneri」
ブルーノ・ニコライ(1926-1991)は60〜80年代にかけてイタリアの映画音楽で活躍した作曲家。この曲は1969年のイタリア音楽『Carnal Circuit(原題:Femmine Insaziabili)』のサントラ曲。ダバダバスキャットがヴィンテージ感のあるムーディーで幻想的な雰囲気をだしていて引き込まれますね。ローマの音楽院でピアノと作曲の勉強をしていた時期にエンニオ・モリコーネと知り合ったことがきっかけで映画音楽を中心とした仕事にたずさわることとになったようです。

るんるんBruno Nicolai「I Want It All」
これもブルーノ・ニコライによる同上『Carnal Circuit』のサントラ曲です。映画は日本未公開作品なので、映画のほうは見てないですが、サントラの出来がめちゃくちゃイイので、本編を見たくなってきますね。日本でも馴染みのあるブルーノ・ニコライが音楽を手がけた映画というと1980年に公開されスキャンダラスな話題をふりまいた『カリギュラ』があります。『カリギュラ』も未見なのですが、46億円の巨費を投じた壮大なハードコアポルノ作品という、いかにもイタリアらしい濃い感じの映画のようで、機会があれば見てみたいですね。

るんるんPiero Umiliani 「L'arcangelo」
心癒される夢のような音楽ですね。ピエロ・ウミリアーニ(1926-2001)も映画音楽を多く手がけた作曲家で、この曲は映画『ミラノお色気大混戦(L'arcangelo)』のサントラ曲。映画はコメディもののようで、資料によると劇場未公開のようですが、TV放映があったみたいです。

るんるんPiero Umiliani「Mah nà mah nà」
ピエロ・ウミリアーニの最も有名な曲でもあり、イタリアン・ラウンジ音楽を代表する曲のひとつとも言える「マナ・マナ」です。一頃よくテレビのバラエティ番組のBGMなどでよく使われてたので、おそらく最も日本人に馴染みのあるピエロ・ウミリアーニの曲ではないでしょうか。キャッチーでコミカルなメロディ、おじさんの怪しい「マナマナ」のかけ声とコケティッシュな女声のスキャット、軽やかで楽し気な曲なのにやっぱり「濃い」感じなのがイタリアっぽいですね〜(いい意味で!)調べてみるとこの曲の背景もけっこう面白く、もともとはイタリア映画『フリーセックス地帯を行く〜天国か地獄か(Svezia、inferno e paradiso)』という、題名からしていかにもマイナーでモンドなカルト映画のサントラ曲のひとつとして作られた作品のようです。そのままでは埋もれてしまっていたはずの曲ですが、1970年前後にアメリカのテレビ番組「マペットショー」でこの曲が使われたことがきっかけで世界に広まったようです。「マナ・マナ」ってどういう意味なのか気になりますが、ウィキによればフランスのミュージカル『Me Noi、Me Noi(私であって私ではない)』の語感からヒントを得て造った意味の無いナンセンスな造語のようですね
posted by 八竹彗月 at 04:11| Comment(0) | 音楽

2019年06月15日

タイムマシンにお願い!・その2(タイムマシン関連の雑記)

先のタイムマシン関連の記事の補足的な感じで、タイムマシンに関する余談をあれこれ語ってみたいと思います。

190615-TM-icon.pngタイムマシンのある生活

タイムマシンという夢のマシーンに憧れるのは、それがあれば人生をもっとパーフェクトなものにできるのではないだろうか?という願望でもあるでしょうね。昨日に戻ってあの会社での失敗を取り消したいとか、未来に行ってこれから起こる事業の失策などがあれば回避したい。あるいは、過去のアクシデントで壊してしまった骨董の花瓶が壊れる前に戻って破壊を回避させたいとか、未来に起こる災害や事件を知ってあらかじめ対策をたてておきたい、など。たしかにタイムマシンがあれば、理想の人生、はては人類永遠の夢である戦争の無い世界すら可能になるかもしれませんね。

しかし、本当にタイムマシンが実現して、それこそ自動車に毛の生えたような日常的な乗物になっている時代が来たとしたら、本当に私たちは幸福になれるのか?と考えると、それもそれで疑問に思えてきます。過去は修正がきかないからこそ私たちは「今」にベストを尽くそうとするのですし、未来が不確かでも、それでも何かを信じてチャレンジするからこそ成功の達成感もあるわけです。タイムマシンがあれば、誰もが失敗することのない人生を送る事ができるかもしれませんが、失敗した経験が無いということは、本当に幸せなのだろうか?とも思えてきます。失敗が無いということは、成功しかない人生ということになりますが、失敗が存在しない世界は成功という概念も無い世界です。欠乏感がなければ学ぼうとする気力や動機を自発的に保たねば成長できませんから、心が幼いままで一生を終えてしまう可能性もあります。ヴィヴェーカーナンダの名言に「失敗は人生の美であり、それがなかったならば、どこに人生の詩があるだろうか」「幸福よりも一層多くを教えてくれるものは不幸である。富よりも一層多くを学ばせてくれるのは貧乏である。また、内面の火をかきたててくれるのは、賞賛よりも攻撃である」という言葉がありますが、まさしくこの世は、人も歴史も、まるで物理法則のように例外無く、幸と不幸が波のように繰り返すようになっていますから、幸福のみを求めるという不可能状態を夢見るよりは、不幸からいかに学び成長できるかということに着目していったほうが、結果的には人生を幸福なものにしていくことになるのかもしれませんね。

とはいうものの・・・視点を変えてみれば、タイムマシンが当たり前に存在する世界には、そういう世界なりの苦労があるでしょうし、実際は意外と問題なくうまくやっていくのかもしれないなぁ、とも同時に思います。洗濯板で家族の服を洗っていた時代に「洗濯機なんて普及したら人間が怠惰になってしまう」と心配したり、PCが普及しだした時代に「コンピュータに仕事を奪われてしまう」と懸念したりするようなもので、実際は洗濯機によって楽になった分、別のところに時間を配分したり、生活の質を高めれるわけですし、コンピュータ社会なりの新しい仕事(プログラマやオペレーターなど)がたくさん生まれました。そのうえコンピュータによって仕事の効率が上がったり利便性が高まったりするメリットのほうがあたったりしたわけで、タイムマシンも変に心配しなくても、あったらあったなりに上手く運用しながら意外と大した不都合無くやっていけるのかもしれませんね。いくら過去や未来を書き換えることが可能になろうとも、人間の喜びや苦しみは物質的な問題ではなく心の問題ですから、タイムマシンがある時代には、そういう時代なりの心の問題がありそうですし、そういう時代なりの苦労や試練もでてくるのでしょう。

タイムマシンよりは実現の可能性の高い、来るべき未来のテクノロジーの筆頭にクローン技術やAI(人工知能)がありますが、これらも似たような問題がありますね。どちらも実現すれば人の幸福に多大な貢献をしてくれそうな技術ですが、同時に倫理的な面などで懸念や不安がささやかれているのもご存知の通りです。クローンもAIも、つきつめれば「人間に限りなく近い新しい存在の人権などをどう考えるか」などの複雑な問いを含んだところがあって、なかなか明確な答えが出しづらい問題です。クローン技術は最終的には人間の複製をも可能にするはずですし、AIも最終的には人間と同等の知能や感情、はては人格まで持ったコンピュータに行き着きます。そうなれば、単に倫理だけの問題ではなくなり、そういった存在を社会的にどう扱うべきか、という法整備などが必要になりますから、人間社会にとってだけでなく、個人個人にとっても、革命的な意識改革が必要になってきそうですね。

しかし、多分、それらの技術も、かつて産業の機械化やコンピュータなどの先進技術が当初は漠然とした不安をもって迎えられていたようなもので、普及して一般化してしまえば、そういったものが当たり前に存在する社会なりのシステムに安定していくのでしょうし、意外と上手くやっていけてしまいそうでもあります。



190615-TM-icon.png時間停止と加速剤

日常的な時間から逸脱した世界のロマンというと、「時を止めた世界」というのも興味深いものがあります。これもSF漫画などでたまに見かけるモチーフですね。そういえば昭和のアニメに「ポールのミラクル大作戦」という作品がありましたが、その作品では異世界に行くための入り口を開くための段取りとして、時間停止の描写が演出されていてユニークでしたね。

最近はアダルト動画でも「時間を止めた世界でエッチなことをする」といったタイプのジャンルが流行ってるようで、こういうドラえもん的な道具でエロ的な世界を描く作品というのは、どこか少年時代のドキドキするようなエロティシズムがあります。しかし実際に時間が止まるわけではないので、そういう系のビデオに出演する女優さんは、カメラが回っている間は瞬きが出来ないためにかなり大変みたいですね。エロの世界でも裏では見えない努力によって支えられているんだなぁ、と感心してしまいます。少年漫画でも、昔ジャンプだったかチャンピオンだったかの読み切り作品で似たような「時間が止まった世界でエロいいたずらをする」的なエッチな作品を読んだ記憶がありますが、そうしたものがヒントになって出来たジャンルなのかもしれないですね。

止まった時間モノは、自分以外、あるいは自分と特定のキャラ(時間を止めれる能力者など)以外の世界の時間の流れが止まる、という設定のものですが、実際に時間が止まった世界を考えるといろいろ破綻する部分が多く、タイムマシンものよりもそれらしい理屈を考えるのが大変そうなジャンルでもあります。エロ系の話の場合は適当に、単純に自分以外の全てが止まった世界、ということで済ませてますが、時間が止まるということは、光も進まなくなるので暗闇になりますし、分子の動きまで止まりますからモノに触れば鬼のように冷たいでしょう。時の止まった世界で、女子の胸を触ってもダイヤモンドより硬いはずですし、そもそも空気との摩擦もものすごいものになりそうですから、歩くどころか、ちょっとの身動きも大変そうです。空気の振動も無いので音も聞こえないでしょうから相当に寂しい世界でしょうね。時間が停止した世界というと、ビデオを一時停止したような、静止画のような単純な世界ではなく、上記のような寒く、暗く、音も色も無い、退屈と苦痛だけしか無いような、まるで地獄のような世界でしょうから、実際には時を止めてみても良い所はほとんどなさそうですね。

H・G・ウェルズのアイデア「加速剤」は、そうした不都合を緩和するアイデアで、自分の身体能力の全てを異常に加速させる薬を飲むことで、筋肉だけでなく思考も加速するため、周囲の時間が遅く流れているように感じるようになる、という架空の薬です。この加速の程度によっては、ほとんど周囲の世界の時間が止まった状態になるのですが、主人公視点でもわずかづつ時間は流れるため、光の問題などはクリアできますし、話にもそれなりにリアリティを持たせれる良いアイデアだと思いました。ただ、やはり他者の肉体の反応や物理現象も遅くなるので、人間の体に触ってもカチカチに固いんでしょうね。

加速剤はSFの世界にしか存在しない架空の薬ですが、LSDなどの幻覚を誘発する系の麻薬は、視覚的な混乱だけでなく時間の感覚も歪んでくるらしいので、そういう意味では実在する「時間を操る薬」のようなところがありますね。違法な薬物ですし、余計なリスクは抱えたくないので、まぁ試す機会は無いと思いますが。依存性はほとんど無く、むしろアルコール依存の治療薬として使われていた薬みたいですが、とりあえず現代では、仮にチャンスがあっても「君子危うきに近寄らず」というのが一番ですね。

LSDは1950年代前後に本格的な研究がはじまった新しい薬だったため、60年代半ばくらいまでは法整備が整っていなかったようで、アメリカを中心とした当時のアーティストやヒッピーなどの間でLSDによるトリップ体験をテーマにしたアートや音楽などの分野でサイケデリックなサブカルチャーが流行りました。画家の横尾忠則さんも若い頃にアメリカでLSDを体験していたそうで、そういうエッセイを昔読んだ覚えがあります。数人で友人の部屋でLSDを服用してとんでもないリアルな幻覚を見たそうで、尿意をもよおしてトイレのドアを開けたら、いきなりドアの向こうがナイアガラの滝になっていてびっくりした、というようなエピソードを読んだ記憶があります。60年代のレコードジャケットやポスターなど、サイケデリックアートは60年代のサブカルチャーの代表みたいなところもあり、そういったアートで表現されてるような原色がチカチカするめくるめく虹の世界が実際に見えるというのは楽しそうでもあり、また恐そうでもありますね。

自然界を見ると、生物の寿命は数百年も生きる貝(ホンビノスガイ)とか、250年ほど生きると言われるゾウガメなどもいれば、一年の寿命のハツカネズや、わずか一日で寿命が尽きるカゲロウの成虫などさまざまです。ということは、以前話題になった『ゾウの時間ネズミの時間』で言及されているように、それぞれの生物が体感している「時間」は、おそらく人間が感じるような早さでは流れてなくて、寿命の短い生物にとっての時間は速く流れ、寿命の長い生物の時間は遅く流れているのかもしれません。そうして見ると、ネズミが見る人間は、まるで加速剤を服用したSFの主人公のように超スローに動いているように見えてるのかもしれませんね。

そんな感じで、加速剤を使えば時間がゆっくり進む世界を体験できますが、逆に自分が加速するのではなく、ひとつの街全体の時間が遅く進む世界を描いた作品もありましたね。タイムマシンものばかり書き続けた時に憑かれた作家″L瀬正の短編、「化石の街」という作品がそれです。アメリカの片田舎に住む26歳の青年が主人公で、休日に趣味の写生をするために遠出して立ち寄ったある町の様子がおかしい事に気づきます。町の人がみんな蝋人形のように凍り付いたように固まっていているのです。何か伝染病のようなものがこの町に蔓延しているのか、などと青年は不安になりますが、次の日またその町に来てみると、昨日と同じ場所にいた人がわずかにポーズが変わっていることに気づきます。実は、この町は、街ごと時間が異常に遅延しているようで、24時間で1秒程度しか時間が進まない町なのでした。という感じの内容です。主人公の青年が書き残した遺書という体裁の短編で、映画「ブレア・ウィッチ・プロジェクト」みたいなドキュメンタリー風なノリで書かれていて、不思議な味わいのある面白い作品です。広瀬正著『タイムマシンの作り方』(集英社文庫)にも収録されていますが、タイムマシン系のアンソロジーにもよくチョイスされる作品です。

メモ関連サイト
時間停止(ニコニコ大百科)
時間停止の能力を持ったアニメなどのキャラの紹介が列挙されていますが、時間停止って思ったより意外とたくさんの作品で重宝されているんですね。

ゾウの時間・ネズミの時間 本川 達雄 氏 - こだわりアカデミー (「at home」様のサイトより)
90年代初頭に話題になった『ゾウの時間ネズミの時間』の著者であり、生物学者の本川達雄氏への興味深いインタビュー。ネズミとゾウはどちらも心臓は一生のうちに15億回打って止まるようです。しかしネズミは短命でゾウは長寿です。これは、鼓動の速度が異なるせいで、ネズミは一回の鼓動が0.1秒であるのに対しゾウは3秒とのこと。人間の尺度で感じる時間だけが唯一の時間ではなく、生物ごとにそれぞれ独自の時計を持っているのだ、といった話を筆頭に、とても興味深いテーマを語っていて勉強になります。

ポールのミラクル大作戦 第1話「よみがえったベルト・サタン」(YouTubeのTatsunokoChannel様より)
タツノコプロの公式チャンネルで公開されている懐かしの昭和アニメ「ポールのミラクル大作戦」です。この作品では異世界に参入する前段として時間停止を扱っています。9:03あたりから時間停止の描写がありますが、時間が停止した世界をモノトーンの版画のようなタッチで表現していて、とても秀逸な演出ですね。時間が止まった世界は、上述したようにビデオの一時停止のような単純な世界ではなく、原子の運動も止まった凍てつく状態でしょうし、光の運動さえも停止した暗黒の世界だと思うので、まさにこのアニメの凍てついたような冷たさのある時間停止の演出には妙なリアリティを感じます。時間停止した世界でオカルトハンマーなる魔法のハンマーで適当な場所を叩くと異世界の扉が開く、という段取りなのですが、この異世界への扉の紋様も雰囲気がありますね。どことなくFF10の「試練の間」のスフィアを置く場所にある不思議な「印」のデザインを連想させる感じで、いかにも不思議な世界にありそうな感じがグッときます。



190615-TM-icon.png時の旅人・サンジェルマン伯爵とジョン・タイター

タイムマシンの製造は不可能であることの根拠のひとつに、「歴史上タイムマシンが訪れたという記録がない」というものがあります。タイムマシンが時間を自在に移動できるなら、すでに過去のいろいろな時点に未来人が来てるはずで、未来人が歴史的な大事件に調査に訪れたり、歴史上の人物に会見したりした記録がたくさん残っていてもおかしくないはずです。なのに、それらしき記憶が全く無いということは、そもそもタイムマシンの製造は不可能で、どんな遠い未来においても作られることはないのではないか、という推論があります。これは、至極真っ当な指摘ですが、本当に未来人が過去に干渉した証拠は皆無なのかというと、意外とそうでもなく、真偽が不確かながらも、オーパーツ的なものとか、それらしい痕跡がいくつか発見されているのも事実です。

そういった逸話の代表格というと、不死の人とか、時の旅人とか言われたサンジェルマン伯爵が有名ですね。彼が食事をしているところを見た人はないないとか、何十年たってもいつも40代前の精悍な風貌で全く歳をとらなかったとか、様々な分野の専門知識があり、音楽、絵画にも熟達した芸術家でもあり、錬金術にも通じていてときおり人前でその秘術を披露したとか、かなり謎めいた人物であったようです。ルイ15世、ルイ16世をはじめ、1700年代の社交界において実際に彼と面識を持った貴族や識者、著名人は多く、不死者かどうか別にして、サンジェルマン伯爵なる人物が実在したのはたしかなようですね。

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サンジェルマン伯爵の肖像画

同時代の哲学者ヴォルテールはサンジェルマン伯爵を「決して死ぬことがなく、すべてを知っている人物」と評したとのことで、当時の知識人からも、その超人的な博識ぶりは本物だったのでしょう。また、過去の歴史的事件をさも実際に立ち会ってきたかのように話したりしていたことから、不老不死というよりは、彼はタイムトラベラーなのではないか、とまで言われるようになります。不老不死とかタイムトラベラーとか、一般にはトンデモなオカルト系のイメージがありますから、このサンジェルマン伯爵の超人的なエピソードのほとんどは彼のホラ話なのでは、という見解もあり、たしかに常識で考えれば、そっちのほうが理性が納得する解釈で、オカルト関係に寛容なコリン・ウィルソンでも彼をペテン師のような感じに捉えているみたいです。しかし、ホラ話であるという証拠もなく、ただのホラ吹きにしては上流社会のマナーに通じていたり、博学だったり、裕福な生活をしてたりしていたようで、タイムトラベラーかどうか別にしても、そうとうに超人的な人物で、かつ私生活が謎に包まれたミステリアスな人物であったのは事実みたいですね。個人的に思うに、タイムトラベラー説は置いとくとしても、ただ者ではなさそうですし、それなりに別の面白い真相がありそうな気もします。

そういえば諸星大二郎の傑作『暗黒神話』の中では、武内宿禰(たけうちのすくね。4世紀前半頃、景行・成務・仲哀・応神・仁徳の五朝にわたって朝廷に仕えていたとされる伝説上の人物)の正体はサンジェルマン伯爵だった、というユニークな仮説を描いていて面白かったですね。

サンジェルマン伯爵の生まれは通説では1700年前後といわれていて、主なエピソードも18世紀ヨーロッパにおけるものがメインですが、マリーアントワネットの処刑も前もって知っていたかのように予言めいた忠告を残していたとか、はては聖書のヨハネ福音書に書かれているカナの婚礼のイベントに立ち会ったとか、古代の出来事も体験談のように話していたそうです。また、サンジェルマンは1784年2月27日にリューマチと鬱病を煩い死去したという記録がドイツのエッカーフェーデ教会の戸籍簿に記録されているとのことですが、その翌年にはドイツのヴィルヘルムスバートで開かれた秘密結社の集会に出ていたという記録や、さらに死後7年後の1791年にはアントワネット王妃の侍女アデマール夫人と会って話もしたようで、生前の彼を知っている夫人は幽霊が現われたのかと驚いたほどその人物の容姿はサンジェルマン伯爵と瓜二つだったようです。彼女は伯爵の葬儀にも参列していたそうなので、見間違いとも断言しがたく、また彼は自身をサンジェルマン本人を名乗っていたようなので、これも不思議なエピソードです。

他には、ナポレオンと会ってたとか、第二次大戦中にチャーチル首相に会い、ヒトラー戦の助言をしていたとか、謎めいた噂も多いですね。こうした逸話を、サンジェルマン伝説に尾ひれがついて広まったデマ話と片付けるのは容易ですが、ヨガナンダの本に出てくるヨガナンダの師匠の師匠のそのまた師匠であるヨガマスター、ババジも似たような不老不死の神人として書かれてますし、サンジェルマンのような達人(アデプト)がこの世に一人や二人くらいいてもらったほうが楽しい世界になりそうです。

そういえば、タイムトラベルもののヒット作、「シュタインズ・ゲート」に、件のサンジェルマン伯爵の現代版であるタイムトラベル界のニュースター、ジョン・タイターが何度か言及されていましたね。「シュタインズ・ゲート」におけるタイムトラベルの理屈は、ほぼこのジョン・タイターによる時間理論を元にしたもので、タイターの言及している「世界線」などの解釈はなかなかユニークで興味深いものを感じます。ジョン・タイターは、2000年にインターネット上に現われ、自称2036年からやってきた未来人を名乗り、その書き込み内容がそれなりにリアリティのある理論や設定であったために、一躍世界的な有名人になっていったようです。未来人を名乗っているだけに、未来に起こりうる歴史的な事件などを予言したりもしていますが、予言内容を見ると、中国の宇宙進出とか当たってる予言も少しありますが、ほとんどはハズレてるので、こちらはやはり本物の未来人と見るには少し条件が足りない感じがします。まぁ、実際、それらしいネタをネットに投下して楽しんだ愉快犯というのが常識的な見方だとは思います。しかし、時間旅行の理論や、タイムマシンの構造など、なかなかそれらしい感じではありましたし、予言が外れる事も「世界線のズレ」による影響という解釈によって、それなりに説明に整合性を付けてる所が芸が細かく、また、ネットから消える最後まで野暮なネタバレをしないまま去ってくれたおかげで、完全否定もまた出来ないままロマンの余地を残してくれた感じではありますね。

考えてみれば、タイターがいなければ「シュタインズ・ゲート」も無かったわけですから、彼は少なくとも日本のゲームやアニメなどのサブカルチャーにはそれなりの影響を与えたわけです。サンジェルマンのほうは、数ある不思議な逸話のほとんどは多少尾ひれがついていると思うものの、かなり謎めいた怪人物には違いなさそうではあります。タイムトラベラーかどうかわかりませんが、魔術師的な能力はかなりのレベルだったのではないかと推察します。

サンジェルマンもタイターも冷静に考えればタイムトラベラーと断定するには疑問の余地がありますが、完全否定することを少し躊躇せざるをえないくらいには「それっぽさ」があって、もしも正体が単なる詐話師であったにせよ、彼らの言動がこの世界をちょっと面白い愉快なものにしてくれているのは確かですから、そう考えると、ある意味人々に夢を与えて社会貢献している立派な人たちのようにも思えてきますね。

メモ関連サイト
サンジェルマン伯爵(ウィキペディア)

ジョン・タイター(ウィキペディア)
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2019年06月02日

とあるおばあちゃんの詩についてのエッセイ

「この世の人生というは、魂の修行の場である」というスピリチュアルな考えがありますね。最初聞いたときは根拠の無い宗教的な適当な方便、くらいにしか思ってませんでしたが、考えれば考えるほど、意外と人生とは本当にそういうものなのではなかろうか、と思う事がしばしばあります。いくつになっても天真爛漫で豪快なイメージのファッションデザイナー、山本寛斎氏も、かつて伊集院光さんのラジオ番組で「人生は表面がどう見えようとも、いい時悪い時、山谷(やま たに)はみんなあります。右肩上がりでズーッといい事づくめ、なんてことはないですよ」とおっしゃっていたのが印象に残ってます。「でも世の中にはそんな人もいるんじゃないですか?」という質問に対しても「いいや、これは断言できます」と確信をもって否定しています。

地球上にいる人類の総数は国連などの統計によれば現在推定75億人ということですが、なんとなく、私たちは、75億人もの人間がいるなら相当数の「幸福だけの人生」を過ごしている人がいてもおかしくないのではないか?という漠然とした推測をしてしまいがちです。しかし、自分の周囲を振り返ってもそういう人はいませんし、有名人など「この人なら不幸は経験してないはずだ」と目星をつけても、よく調べてみるとけっこう深刻な悩みを抱えていたりするものです。そういえば私も、昔働いていた職場の経理のお姐さんに「あんた、悩みなんて無いでしょ?」と目が合うとよく言われてました。私の場合、深刻な悩みにもがいている時ほど、他人にはひょうひょうと悩み無く生きているように見えてるようです。誰しも他人の悩みなどほとんど無関心なのが普通なので、悩んでいるのは自分だけ、みたいな気分に陥りがちですが、ポジティブを絵に描いたような山本寛斎さんのような人でさえ不幸や悩みがあるんですから、おそらく悩み無く生きている人はほぼ皆無でしょう。ブッダも言ったように、人間の悩みは人間関係やお金などの表面的なものだけでなく、人間すべからく逃れざる「苦」、つまり生老病死と無関係に人生を過ごすことはできないわけです。

まぁ、とにかく、人生は、そういう世界でいかに幸福に過ごす事ができるか、ということにチャレンジし続けるゲームのようなものなのでしょう。ゲームに勝つにはゲームの仕組みを理解しないと話になりませんが、幸いな事にキリストやブッダや老子などの数々の賢者がヒントをたくさん遺してくださってますし、また、自分自身の半生そのものが最大のヒントですから、そこから自分なりの解答を見つけ出していくのもゲームの醍醐味なのかもしれませんね。今回は、そうした人生ゲームの終盤に差し掛かったとある女性が書いたとされる、ある一編の何とも言えない味わいのある詩を取り上げたいと思います。

もう一度生きられたら

次の人生ではもっと誤りを犯したい。リラックスしたい。柔軟に生きたい。この人生よりも愚か者でありたい。ものごとを生真面目にとらないようにしよう。もっとチャンスを手に入れよう。もっともっと山に登り、もっともっと川で泳ごう。アイスクリームを今よりたくさん食べて、豆類は少なくしよう。きっと現実でのトラブルは多くなるだろうが、不安や思い過ごしは少なくなるに違いない。

ごらんの通り、私は時を日についで、賢く清らかに生きている大衆の一人だ。ああ、自分だけの時がもてていたなら。もし、もう一度生きてそうすることができたら、たっぷり自由な時を持つことだろう。つまり、他のことは何も試みまい。毎日あくせくと生きて多年を過ごす代わりに、ひとつ、またひとつと、ただそういう瞬間のみを。私は、温度計や魔法瓶や、レインコートや、パラシュートを持たずには、どこへも行かない人間だった。もし、もう一度それができたら、私は身軽に旅することだろう。

もう一度生きることができたら、まだ早春のうちにはだしで出かけよう。そして、晩秋になっても、大自然の中にとどまっていよう。もっとダンスをしに行こう。メリーゴーランドにもっと乗ろう。ひな菊をもっとたくさん摘もう。

ナディーヌ・ステア 85歳



作者の名前はナディーヌ・ステア(Nadine Stair)。アメリカ・ケンタッキー州・ルーイヴィル在住の女性で、彼女が85歳の時に書いたとされるこの詩は、多くの人に感銘を与え、多くの本や雑誌に引用され、またネットでもこの詩の引用をよく見かけます。引き寄せブームの火付け役になった『ザ・シークレット』に登場したことでも知られるジャック・キャンフィールドの著書『こころのチキンスープ』(原著は1993年刊)にも紹介されてますし、ニューエイジのスピリチュアルリーダー、ラム・ダスの著書『覚醒への旅』(原著は1978年刊)にも引用が見られ、また先日ネットでも見かけたりして、ここのところよくこの詩を見るので、ちょっと気になっていたこともあって今回記事にしてみました。

数々の本に引用される名詩の作者であるナディーヌ・ステアなる女性ですが、その素性が気になって調べてみたら意外な事が分かりました。英語版のウィキによれば、この女性、まことしやかに住所まで示されていながらも、実は実在する人物かどうかもわかっていないようです。この詩の出所を辿っていくと、あの南米文学の巨匠、ホルヘ・ルイス・ボルヘスに行き当たるようですが、ボルヘスの創作した詩ということではなく、アメリカの漫画家ドン・ヘロルド(Don Herold)の『私はもっとひな菊を摘もうと思う(I'd Pick More Daisies)』というタイトルの1935年に書かれた詩がオリジナルのようです。その詩をボルヘスがどこかのテキストに引用したようで、それがボルヘスの作として誤って拡散されていったみたいですね。そして、さらにそれがどういう経緯か、ナディーヌ・ステアなる老女の詩という改変が為されて主に北米で最も一般的に知られるバージョンに育っていったようです。先日のヴォルテールの話ではないですが、これもまた伝言ゲームみたいな面白い流れですね。

ちなみにドン・ヘロルドの詩は1953年のリーダース・ダイジェストにも改訂版を公開しているようです。オリジナルの詩は男性の視点で書かれてるので、どこか人生訓めいた重さがあるためか、さほど知られてなかったようですが、その後改変されて拡散された老女ナディーヌ・ステアのバージョンでは、女性目線のロマンチックな情緒が加味されているため、多くの人の心をつかんでいたのでしょうね。詳細は以下のウィキを参照してください。

まぁ、そういった細かい経緯はどうあれ、作品自体は味わい深い良い詩であるのはたしかで、人生をよりよく生きるにはどうしたら良いのか、という人類共通の問題を、ブッダなどの賢者目線ではなく、一般の普通のおばあちゃん目線で語っているところが、親しみ深く心に染み込んでくる所以でしょうね。

人生という劇場では、「自分」というひとりの主観劇を一本だけしか見る事はできませんから、充実した人生を送った人でも、後悔、というよりは「もしあの時こうしていたらどうだったろう?」とか、いろいろと「あり得たはずの別の人生」を想像してしまうのかもしれません。「次の人生ではもっと誤りを犯したい」という最初の一句が胸に刺さります。死後の世界があるにしろ、この自分という個体の人生は一度きりですし、何かの行為がどういう結果を招くのかは未知の世界なので、無難に生きようとしがちですが、慎重になりすぎてしまうと冒険の無い単調なものになってしまいますし、本当に人生というのは正解の無いドラマだなぁ、と感じます。しかし、どうも運命を支配している法則は、リスクを背負ってでも冒険する者に多くを与えるようになっているようにも感じます。人生の最後に後悔するのは、失敗した経験ではなく、やろうと思っていながらチャレンジしなかった事である、という話がありますね。スティーブ・ジョブズの名言に「ハングリーであれ。愚かであれ。(Stay hungry, stay foolish)」というのがありますが、まさに人間はハングリーな状態こそがアイデアや行動力を発揮しやすくなるところがあり、人生においてはチャレンジする事のリスクを勘定して臆病になってしまうような賢さよりも、見切り発車できる愚かさのほうが大切なのかもしれませんね。

関連サイト
ナディーヌ・ステアの有名な詩の出所について(wiki 英語)
posted by 八竹彗月 at 07:06| Comment(0) | 雑記