
どんなに大きな数も、それにたった1を足す事でもっと大きな数ができてしまう。数は人類にとってなくてはならないツールで、科学や経済など日常生活に密着してどこまでもかかわり合いのあるものですが、もっとも大きい数とか、もっとも小さい数は何か、という簡単な問いを投げかけるだけで、具体的な明瞭さを一気に失ってしまうのが「数」の謎めいたところでもあり面白い所でもあります。

そういった関連で思い出すのは、落語めいた小話、「でかい物を食う話くらべ」です。内容は以下のようなものです。
「いかに大きなものを食ったか」
というホラで競い合う村人たちがいた。
あるものは「家」を食ったといい、あるものは「山」を食ったといい、
村人たちのホラはしだいに大きくなっていくが、
ある男の食ったものがいちばん大きいということで決着がつき、
最後にその男は、寺の和尚と勝負をすることとなった。
寺に出向いた男は、和尚に先手をうって必勝のホラを言い放つ。
「おれは『暗闇』を食った」
しかし、即座に切り返した和尚の一言に敗北する。
「そういうおまえを、わしゃ食った」
これはネットで複数流布されているバージョンですが、念のために出典を検索してみると、昭和40年代に発行されてブームになったクイズの本「頭の体操」シリーズの第2集の問43に収録されているものが元ネタらしい、というところまで判明しました。この本は昔読んでいたのですが、そういえばそんな問題があった気がします。「頭の体操」がオリジナルなのかもしれませんが、しかし、どこか落語の「頭山(あたまやま)」にテイストが似てる所もあるので、もしかするとこの問題自体に落語などの別の出典がありそうな感じもします。どんなに最大のモノを考え、それを「食った」と言っても、次に「そういうおまえを、わしゃ食った」と答えるだけで勝ってしまう、後手でのみで必勝の、反則っぽい荒技ですが、これは前述した数の性質と似てますよね。どんなに大きな数を言っても、それが「無量大数」であろうが、次の人が「その数にわしゃ1足した」と言うだけで勝ってしまうような感じです。このユニークな詭弁じみた話は、数の問題というより、ルイス・キャロル風な論理学っぽい味わいもあって好きな話です。

でかい物を食う話くらべ(「めもめもーめもblog」様より)
「でかい物を食う話くらべ」の頭の体操オリジナルバージョンを引用なさっています。話の大筋は同じですが、村人の言い合うでかい物の具体的なバリエーションがいくつか出てきます。「この地球を団子に見立てて、餡子をまぶして食べた」など、発想のシュールさがたまりません。でかい物を食うホラ話大会、さぞや盛り上がっていたのだろうな、と想像すると頬が緩みます。
頭山(あたまやま)(ウィキペディア)

いまだにネットで根強く議論が堪えない「5億年ボタン」の話ですが、今回のテーマに直接関係あるわけではないですが、5億という「大きい数つながり」というアバウトな理由で少し語ってみたいと思います。この話の内容は100万円を得るために自分以外何もない異世界で5億年過ごす話です。詳しい内容は以下のリンク先を見ていただくとして、私は絶対このボタンを「押さない派」です。「押す派」もけっこういる印象があって、そちらの理屈もまぁ理解できるので、これはどのあたりを損得で捉えるのかで受け止め方も違ってくるのでしょうね。
たしかに、いくら5億年といえども、仮にそれが10億年でも10兆年であっても、有限である限り必ず終わりが来ます。異世界で送った時間の記憶は消されるので、どんなに長い年月であろうと「今」に戻った瞬間には覚えてないのでゼロと一緒と捉えられなくもありません。今の自分が感知できないような次元でもその5億年はたしかに自分が過ごすしかないのですが、その「今の自分が感知できない自分の体験」を自分の体験と捉えるかどうかという含みをどう解釈するかで意見が二分するのでしょうね。一般には私のように「押さない派」が多いのではないかという漠然とした印象はありますし、作品でもボタンを押す事をある種の「失敗」として描いているので、素直に受け取れば、100万円と引き換えに5億年という時間を無駄に過ごさざるを得ない経験は避けたいという感想が多くなりそうではあります。ただ、「押す派」が一定数存在すること自体とても興味深いですし、そういう側面から「5億年ボタン」を見直すと、また別の解釈が見つかったりして、心地よいい知的な面白さあります。
前述のように、意見が二分する原因は、異世界での自分の経験≠燻ゥ分の経験と見なすかどうかにあると思いますが、そのあたりは「ツブアンマン」や「ガンツ」などに通じる自己同一性をどう解釈するかの哲学的な問題になっていくので、面白そうではありますが、ここでは割愛しようと思います。
過去記事「5億年ボタン」

5億年ボタン(YouTube)
出典は週刊SPA!で連載されていた菅原そうたのCGマンガ作品『みんなのトニオちゃん』に登場するエピソードのひとつがこの作品で、正式なエピソード名は「アルバイト(BUTTON)」。「5億年ボタン」はネット上での俗称です。
ツブアンマン(「ガジェット通信」様)
GANTZ(ガンツ)あらすじ(ウィキペディア)

また数の話に戻しますが、永遠に果てなく数は続くので、最大の具体的な数を決定するのは不可能だというのは自明ですね。最大の数を決定するのは不可能ですが、さりとてあるはずの「その先」を扱えないのはモヤモヤした不達成感があるため、無限に続く数の果て、あるいはその集積を表す概念として無限大(∞)が考案されたのでしょう。これは「最大の数」を意味する概念をあらわしてるので、一般に数ではない(いくつかの数論で限定的に数として扱われる場合もあるようですが)とされていますが、この無限大という概念もまた魔物じみてミステリアスなところが興味を惹かれます。いつも使っていて馴染みのあるはずの「数」も、ふと「そもそも数って何だろう?」と考えたとたんにつかみ所のない迷宮に誘(いざな)われますが、それはまるで神の概念のようで深遠なものを感じます。数学はピタゴラスを例に出すまでもなく、昔は神の創造したこの宇宙を読み解くツールとして考えられたりもしてましたし、神秘主義の観点からも関心があるのですが、それは別の機会に論じてみようと思います。
閑話休題、無限を扱った話で面白かったのは、「無限ホテル」の話です。たしかこれも上記の「頭の体操」にも出題されたことがあったような記憶があるのですが、この話のオリジナルは有名な大数学者ヒルベルトによって考案された集合論に関するパラドックスのようです。自己流で物語風に噛み砕いて紹介しますと以下のような内容になります。
ある国の観光地に、客室が無限にあるホテルがありました。そこに部屋を借りようと客がひとりやってきますが、運悪くホテルは満室でした。もう日は暮れて外はどしゃぶりであったため、無下に断るのも可哀想に思ったフロント係は、ふといいアイデアを思いつきます。「少々お待ちください。多分お部屋をご用意できるかもしれません!」といってフロントは急いで全客室にアナウンスしました。「お客様の皆様にお願い申し上げます。大変申し訳ありませんが、お部屋の移動をお願い致します。1号室にいたお客様は2号室へ、2号室のお客様は3号室へ、3号室のお客様は4号室へ、皆さん全員ひとつ後の部屋番号の部屋にお移りください」
移動は一斉にスムーズに行われ、わずかな時間で移動は完了し、そして1号室に空きができました。後から来た件の客は無事に空いた1号室に入り、またホテルは満室になりましたとさ。
という話です。実に不思議な話ですが、無限には始まりは想定できても最後の数が不確定で幽霊みたいに実在しそうで実在しないような性質を元来内包しているためにこんな奇妙な事が起こってしまうのでしょう。そんな無限を扱うこうしたパラドックスは興味が尽きない面白みがあります。実はこの満室の無限ホテル、客が複数であっても同じようにして宿泊させることが可能で、仮に3人なら1号室の客を4号室に、2号室の客を5号室に、というように自室の部屋番号に3をプラスした部屋に移動させれば、1〜3号室に空きができるので、そこに泊めればよいわけです。また、無限の来客をさらに宿泊させることも原理的に可能で、その場合は、まず全員に廊下に出てもらってから全ての客を奇数の部屋に移動させるようにすれば偶数の部屋がまるごと空き部屋になるので、さらに無限の人数の客を新たに泊めることも可能になるという具合です。これは、無限の数では奇数も偶数も無限になることから起こるパラドックスです。
このように、無限というのは普通の数と違った妙な性質があるので、数学だけに留まらず、哲学的な思索にも大きく影響を与えている概念です。1、2、3・・・という馴染みのある数も、極限では数らしくないふるまいをしだすのが奇妙で、そこがまた面白いですね。この無限ホテルの話、いかにも数学上の思考実験の中にしか存在しない架空の話のように思ってしまいがちで、私も最初はトリッキーでシュールな現象が数学的には有りになってしまう面白さに惹かれたものです。まぁ、現実には無限の客室のホテルなど存在しないわけですから、数学的なSFみたいな印象もある話ではあります。

ヒルベルトの無限ホテルのパラドックス(ウィキペディア)


では、無限という概念はリアルな世界には存在しないものなのか?といえばそうでもなく、「宇宙」の存在などは(まだ全容が解明されていないにせよ)おそらく無限の性質を持ち合わせている可能性が高いと思われます。いつものように、これはいわゆる学問的な考察ではないですが、空想を広げて解釈していくのも一興ですので続けます。宇宙のはじまりは諸説あるものの通常はビッグバン仮説によって説明されますが、宇宙の終わりについてはさまざまな説があり、ビッグバンのような決定的な指針になる説はまだ確定してないのが現状だと思います。これも、数のアナロジーで言えば、自然数の場合は始まりは明確で0から(場合によって1から)はじまりますが、最終的な終わりの数については無限に続くために不定であります。これも、まるで宇宙のそれ(始まりがあって終わりが不明な感じ)と似ていて、まさに数は宇宙の性質を隠し持った道具のように見えてきます。
また数は自然数だけでなく、マイナスの数を含んだ「整数」や、さらに分数を含む「有理数」、さらに「実数」「虚数」「複素数」などに拡張されていきましたが、例えば整数は「ビッグバン以前の宇宙」を示唆しているような気もしますし、虚数の存在などは宇宙の多元構造を示唆しているようにも思えてきます。ピタゴラスがかつてそう感じていたように、数はそのまま宇宙のアナロジーになっているのではないか、というおぼろげながらも確信めいた感覚を感じます。
フラクタル幾何学は無限の反復計算を前提とした理論ですが、自然の造形の謎を読み解く最も有効な理論でもあります。最も有名なフラクタルであるマンデルブロ集合などを見てると、単純な式の無限の反復計算がこんなにも豊穣で、植物や動物の体内器官を思わせるような有機的な造形を生み出せるという事実は、この世界の究極の本質は有限なるものではなく、無限なるものなのではないかというインスピレーションを感じます。この無限に複雑な造形を生み出していく脅威の図形であるマンデルブロ集合は、無限を体現しながらも、その全体は有限の範囲に収まっていることも意味深なものを感じます。そういうふうに有限に収束するようにしている式だからそうなっているわけではありますが、これは、宇宙や人間など、有限なようで無限な存在の寓意もなんとなく感じますね。この世界は有限と無限が重なりあって同時にどちらも正解であるような。量子論めいたアナロジーでいえば、自分の力を有限に過小評価しても、それは真実だし、自分には無限の力が潜んでいると信じても、それも真実だろうと思います。自動車王フォードの名言「出来ると思っても出来ないと思ってもどちらも正しい」というのはそういう意味だと思います。どうせどちらも真実なら、無限の可能性を自分に見つけ出したほうが断然有益であろうと思います。
そう考えてみると無限ホテルは、数学上の問題にとどまらず、また一般世間にとってもただの浮世離れした思考実験というだけではなく、我々の日常の世界にも通じる何らかの真理を感じとることもできるように思えてくるのです。たとえば、この世の富は有限のようにみんな思ってしまいがちで、それによって富の奪い合いが起こり、最終的にそれが戦争の原因になったりすることもあるわけです。しかし、本当に富は有限なのか?といえば、決してそうではないと思います。
ほとんど一文無しだったある女性がいました。彼女は無職であるばかりでなく、母親を亡くし、夫との離婚なども重なり失意のどん底でしたが、時間だけは有り余っていたため、昔から暖めていた空想の物語を執筆しようと思い立ち、夢中で書き上げたその作品は奇跡的な大ベストセラーとなり、出版史上最も多くの報酬を得た作家とまでいわれるほどになりました。女性の名はJ・K・ローリング、あのハリーポッターシリーズの作者です。何もない状態から巨万の富を得ることになったターニングポイントは、彼女の脳内にあったアイデアを現実世界にアウトプットしたことです。
彼女の例は特殊な例のようで、そうではなく、世の中の富はみなすべて最初は人間の脳内にあっただけのアイデアを外に出力したものです。自分が座っている椅子も、最初は誰かの脳内に設計デザインのアイデアがあって、それを具体的に工場などで物体化させたわけですし、それが販売されることで設計者や生産者や販売者や運送社に富が配分されていくわけです。脳内にあるアイデアという形のない思考も、それが世に出て人に必要とされれば、とたんに富という形をとることができるのですから、ある意味誰でもゼロから無限を生み出す魔術師であるといえると思います。富は誰かから奪わなくても、自ら生み出すことができる類いのもので、そうしたチャンスはどのような時代であっても無限にあります。富はいつでも自分の内側から無限に生み出すことができる可能性があり、人間は最初からそういうふうに出来ている。人間も宇宙の雛形のようなものなので、無限の性質を持っており、人間は無限ホテルのように、いくらでも無限にアイデアも富も愛も出力できる、まるで宇宙のような存在なのだろうと思います。自分の能力の限界というのは自分で勝手に決めているもので、本当の限界ではなく、一度自分の能力は無限であるという真実を素直に受け入れれば、それが自分の人生に法則としてはたらきはじめるものなのかもしれません。

J・K・ローリング(ウィキペディア)
マンデルブロ集合をどんどんズームしていく動画 Sapphires - Mandelbrot Fractal Zoom (Maths Townさんの作品)(YouTube)
フラクタル幾何学の代表的な図形、マンデルブロ集合の一部を無限に拡大していく動画です。マンデルブロ集合は、シンプルな数式を何度も反復して計算する事で複素平面上に現われる奇妙な図形です。この動画でも分かるように、かなり複雑で自然界の造形を思わせる生物っぽいフォルムが何度となく現われてくるのがスゴイです。拡大が進むにつれて、元の全体図と同じ形をしたミニチュアのマンデルブロ集合も図形のあちこちにちょこちょこ現われてきて、子供や孫みたいな感じで何か可愛いです。こういう所も、自然界の秘密を訴えかけているような気がして興味深いものを感じます。
マンデルブロ集合(ウィキペディア)