2019年02月28日

どろろん、どろろん、どろろ論

「どろろ」のリメイクアニメ、評判どおりスコブル面白いですね!毎回ワクワクドキドキスコスコブルブルな感じで、先のストーリーは分かっていながらも強く惹き付けられるその世界観、さすが漫画の神様による神作品だけのことはあります。設定も内容もあまりに深過ぎて少年雑誌での連載当時はウケが悪く、打ち切りになったというのは有名な話ですが、振り返って俯瞰すれば「どろろ」は未完の作品でありながらも手塚作品の中でも、他の傑作に退けを取らない傑作と断じても過言ではないでしょう。だからこそ、ゲームや実写映画や今回のリメイクなど、時を超えて何度も日の目を見る事になったのだと思います。

「どろろ」という作品は、名前だけはずっと知ってましたが、そのタイトルの不気味な響きに、「何かドロドロした人間関係を描いたおどろおどろしい時代劇作品」といった先入観をもってしまって、ずっとスルーしてきました。秋田書店サンデーコミックス版の単行本表紙のイメージがそんな感じで、当時はどろろの筆文字のロゴデザインだけで恐いイメージがありましたし、不覚ながら傑作のニオイを嗅ぎ取れませんでした。その後だいぶ時が経ってからPS2のゲーム「どろろ」をプレイしたのがきっかけで、「どろろってこんなに面白い作品だったのか!」と衝撃を受けたのを思い出します。原作では48の部位のうち16カ所を取り戻したところで未完になっているようですが、ゲームではその後ちゃんと48の部位奪還をコンプリートするまでオリジナルシナリオで補完されており、自分の中では今までプレイしたゲームのベスト10には必ず上位に入れたい作品になりました。まぁ、そんなにたくさんゲームはやってるわけではないので、他人には役に立たないベスト10になりそうですが。ゲーム版も、どろろの可愛い声や百鬼丸のシブい声、声優さんの演技も完璧にハマっていて完成度がとても高い作品になってましたね。どろろの「ほげたら攻撃」とか変なアイデアも満載の面白い作品でした。ゲーム版の設定では、百鬼丸が取り戻す48の部位のうち7つは肉体器官ではなくチャクラ(霊的な次元の身体に具わっているとされる身体各所に点在するエネルギースポット)が割り当てられている所もマニアックでニヤリとさせられる部分です。またしばらくぶりにプレイしてみたいです。ゲーム版の設定では百鬼丸は、肉体部位のみならずチャクラまで鬼神に奪われた状態から鬼神を倒さざるを得ないわけですから、初期のバトルは唯一最初から持っていたもの、つまり己の「魂」のみを武器にして運命を切り開いていくような感じだったのでしょうね。壮絶というかなんというか、フィクションとはいえここまで過酷な条件が設定された主人公は他に類例がないですね。

メモ関連サイト
PS2「どろろ」オープニングムービー(YouTube)
ゲーム版「どろろ」のオープニング。個人的にこれほど期待感を高めてくれたオープニングムービーは珍しかったです。百鬼丸の解剖図らしき図解が怪し気に出てきますが、これはおそらく百鬼丸の育ての親、寿海が、百鬼丸に付けるための義手義足などを作るために作成した設計図みたいなものでしょうね。他、チャクラの図など、東洋オカルティズムを彷彿とするビジュアルが好みのツボを突かれる神秘的な導入で、「これは絶対面白い作品のはず!」と確信させてくれる秀逸なムービーでした。前半は地獄堂の鬼神に父である醍醐景光(だいごかげみつ)によって生贄に捧げられた芋虫状態の布にくるまった百鬼丸と、それを見下ろす48体の鬼神。炎をまといながら迫り来る無数の馬上の鎧武者の映像も意味ありげですが、これは1969年にアニメ化された「どろろと百鬼丸」のテーマ曲の歌詞にある「燃える鎧に燃える馬」を映像化したものだといわれてますね。このムービーではどろろはそんなに可愛く表現されてないように思えるかもしれませんが、本編ではチョコマカ動くアクションや大谷育江さんの可愛らしい声が絶妙にマッチしててとてもかわいいです。

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『どろろ』PlayStation2 制作・セガ 2004年
こんな面白い作品があったのか!と衝撃を受けたゲーム版の「どろろ」です。ロードが重いとか多少の欠点はありますが、それを凌ぐクオリティのため全部許せてしまいます。そういえば、「どろろ」というネーミングセンス、インパクトがすごい響きですが、由来は当時は幼児だった息子さんの手塚眞氏が「泥棒」を「どろろう」と舌足らずに発音したことがネーミングのきかっけになっているというエピソードを「どろろ」の単行本のあとがきかなにかで読んだような記憶があります。念のために調べてみると、wikiにもそのあたりのエピソードが紹介されていますが、少々事情は複雑みたいで、そういう説はたしかにあるものの細部が異なる複数の説を手塚先生自身が残しており、手塚眞氏も先生の生前そのあたりを聞きそびれていたとのことで詳細は永遠の謎らしいですね。


ゲームに感動した勢いで原作を読んだりしましたし、モノクロ時代のアニメ「どろろと百鬼丸」も見ましたが、やはり最初に出会ったのがゲーム版だったせいか、ゲーム版どろろが個人的には一番好きだったりします。今回のリメイクは、その思い入れのあるゲーム版に匹敵しそうなくらいの完成度があって、スタッフのどろろという作品に対する並々ならぬリスペクトを感じます。身体部位の欠損という設定は、現代ではとくに倫理的に神経質な目もある中で、ギリギリなものがありますが、漫画、アニメという日本の現代文化を先導して牽引してきた偉人、手塚治虫の作品ということもあり、そのあたりは誤解されることなくリメイク放映が叶ったのかもしれませんね。

この作品の奇抜な所は、なんといっても主人公が鬼神に身体中の部位を奪われたマイナス状態からスタートし、全身の部位を奪還するまでを骨子にしている物語であることですね。目的を全部達成した暁にはスーパーマンになったりするわけではなく、多分ありふれた健常な人間になるだけに思えますが、そういうところも哲学的な深いものを感じます。誰しもが普通に当たり前に思っているような状態こそが、実はこの世で最も貴く幸福な状態なのだ。という御大手塚治虫による深遠なメッセージのようにも受け取れます。

また、ゲームにもなったくらいで、よく考えてみると、48の部位を取り戻す旅と戦い、というのはゲームシナリオとしても絶妙で、最初からゲームのために考案した設定であるようにも思えるほどゲーム性のあるアイデアですね。物語の骨子が見てて分かりやすいそういう所もこの作品の魅力なのでしょう。次から次へと強い敵が出てきて戦う、という少年漫画にあちがちな繰り返しパターンに、どろろの場合はきちんと終始一貫した根拠と理屈が最初から与えられているために、そういったパターン化したマンネリ感を感じずに楽しめるようになっているところも感服する部分です。

そういえば、「どろろ」の主人公はどちらかというとどろろではなく百鬼丸のほうだと思いますが、これも「天才バカボン」の主人公がバカボンではなくパパのほうであるのと何か通じるものを感じてしまいます。こういった、なにげない部分で定石に肩すかしをくらわせている所も天才の発想みたいなものを感じてしまいますね。

マイナスの状態からの主人公が、ゼロの状態を目指して戦い、成長していく話というと、「アシュラ」もそうでしたね。以前ジョージ秋山の問題作「アシュラ」が40年ぶりに映画化されて日の目を見ることになり、ちょっとした話題になったことが思い起こされます。主人公アシュラもまたマイナスからゼロを目指すような話で、あまりの飢餓の時代のために親に捨てられ人間の言葉も常識も愛情も何も持たずに成長してしまったアシュラが人間の心を取り戻すまでをドラマチックに描いた傑作でした。人肉を喰らってでも生き延びることだけが最大の行動原理になってしまったアシュラですが、彼もまた、普通に人間社会で、人に必要とされ、人を愛し愛されるような平凡な人並みの人生の出発点に行き着くことこそが彼にとっての目標でありました。

百鬼丸とアシュラ、彼らの生き様は、マイナスからの出発という過酷な宿命を生きる可哀想な運命として捉えがちではありますが、そんな彼らに深く共感する私たちもまた、もしかしたら百鬼丸たちと同じ部類の、失ったものを見つけ出す旅を続けている仲間なのではないだろうか?と、ふとそんなことを思いました。前述したように、彼らの姿は、私たちに「当たり前こそが有り難い」という真実に気づかせてくれます。毎日食べ物があるというのは有り難い。蛇口をひねるだけで清潔な水がこんなに簡単に得られるのは有り難い。アニメを見たりゲームをしたりネットを楽しめる目があることが有り難い。たとえ何人でも自分を気にかけてくれる人がいること自体が有り難い。身の回りにある便利な機械や道具は、全てどこかの誰かが苦心して作ってくれたから今ここにあるわけで、着ている服から何からほとんどのものは自分以外の誰かのおかげさまで、楽をして過ごせているのだということにふと気づくと、感謝の心というのは無理に儀礼的にひねり出さずとも、いつでも自然に湧いて出てくる状態のほうが本来の真実の人間の在り方なのではないだろうか、と、そんなことを考えさせられました。

百鬼丸やアシュラの目線で現代を見るなら、この世はそのまんま天国のような夢の世界にみえるのかもしれません。毎日空腹を感じることのないほど食べ物が満ちあふれている時点で、百鬼丸やアシュラの時代では考えられないような楽園に違いありません。百鬼丸たちが身体の部位や人間性など、私たちにとってはあって当たり前だと思っていたものを取り戻そうと奮闘しているように、私たちも同様に当たり前でなければならないもの、つまり「感謝」すべきものに感謝する心を失っていて、それを取り戻す人生という旅をしているように思えてきます。相田みつをさんの言葉「奪い合えば足らぬ。分け合えば余る」というのを見たとき、衝撃でした。まさに、奪い合えばこの世は地獄になり、分け合えばこの世はそのまま一瞬にして天国にもなるという極意。テクノロジーの発展だけが天国の条件なのではなく、むしろどのような時代であっても、人と人が分かち合って喜びあえるような世界こそが天国であるのかもしれませんね。
posted by 八竹彗月 at 02:02| Comment(0) | 雑記

2019年02月27日

ネット空間のシミュラークル

ネットに流布されている有名ないくつかの名言の出所を調べていくうちに、なんか面白くなってきてテンションがあがってきました。書いていたらなんとなく筆が乗ってきたので、今回の記事はかつてネット空間に跋扈していた懐かしい都市伝説や最近見かける怪しい名言などをテーマに勢いで書いてみました。

喫茶店911の都市伝説「Q33NYC」

911事件のショックが世界を覆っていた当時、とある興味深い話が世界中を飛び回ったことがあります。911、つまりアメリカ同時多発テロ事件ではさまざまな都市伝説が発生しましたが、事件から間もない時期にメールなどを通じて世界中に拡散されていた「Q33NYC」の噂は、私も最初は驚きました。当時からけっこう騒がれた都市伝説なのでご存知かと思いますが、「Q33NYC」とは、ツインタワーを崩壊させたテロリストが乗っていた航空機の機種番号で、これを「Wingdings」というフォント(絵文字記号のフォント)で、変換するとテロ事件の予言が現われる!といったものです。つまり何年も前からこのテロは事前にシナリオができていたのだ、という都市伝説ですが、後にさらに拡散されていく中で、「Q33NYC」は機種番号ではなく、ビルに突撃した飛行機の経路を示す『クイーンズ区の33番通りニューヨークシティー』を意味している、というふうに変化していきました。件の飛行機の機首番号はQ33NYCではありませんし、飛行機の経路も実際は噂とは全く違った経路になっていることがほどなくしてあきらかになり、騒動も急速に下火になっていきました。噂が発生して間もない当時、日本ではこの噂の真偽を確かめている記事がどこにもなかったので、海外のフォーラムなどを翻訳かけながら調べた覚えがあります。うすうす思っていたとおり、あの「Q33NYC」の噂は全くのデマであると説明している海外のブログがあって、個人的には「な〜んだ」ということで決着しました。この頃から、なんでも一応調べてみるのは大事だなぁ、と感じたものでした。

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「Q33NYC」をWingdingsという絵文字フォントで変換すると、いわくありげな絵文字が羅列されます。「33」が便せん2枚に置き換わりますが、二つ並ぶとたしかにツインタワーに見えますね。左から見ると、飛行機がツインタワーに向かって悲惨な結果(ドクロ)になる、という感じの並びの後にダビデの星とグッドを示す手首、というのが意味深です。まぁ、そうなるように組んでから逆算したのが「Q33NYC」というのが真相なのでしょう。しかし、単純にそれで片付けるのもモヤモヤしたところがあります。それは、このフォントで「USA」を置き換えると以下のようになるという事実です。
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「USA」という単語をWingdingsで変換すると、今度は十字架と流血とピースサインという意味ありげな不気味な並びになります。十字架はキリスト教の国を意味するのか、あるいは墓標を意味するのか。「キリスト教に血が流れし後に平和がくる」というメッセージであるとか、それらしい解釈もあるようですが、意図的でないにせよ、Wingdingsというフォントには何かタロットカードのような占術的な意味合いのツールとして使えそうな不思議なものを感じますね。このことと関連して連想するのは「イルミナティ・カード」と呼ばれる不思議なカードです。ここ数年よくオカルト系のサイトで話題になっていますが、このカードの予言もまたミステリアスで興味深いものを感じますね。

人は基本的に面倒くさがりやなので、便利なネット空間であっても不確かな言葉についてちょっと検索してみる、ということをあまりしないことがほとんどなので、911の例のように意図的でなくてもいつのまにかウソやデマが拡散しやすくなっている面があると思いますね。そのあたりは、私も同様なので、記事を書くときなどはなるべくできる範囲で事実確認のできるものはするようにしています。しかし、それも限度がありますし、事実かどうかを判断するのも自分の主観的なものでしかないですから、あまり気にしても仕方ない部分でもあります。とりあえずは自分にできる無理のない範囲で気をつけていればOKくらいに考えています。

ネット空間が特殊なのは、リアル空間が主に発話によるコミュニケーションが主体であるのに対し、ネットのそれは書き言葉を主体としたコミュニケーションであるからで、そうした違いによってリアルではなかなか起こりえないことが起こりやすくなったり、その逆もあったりしますね。たとえば、ネット上で拡散していく誰かの名言などは、拡散されていくうちに出典があいまいになっていき、言葉だけが一人歩きするような事がしばしば見受けられます。リアルでは流言飛語も自然な伝播力にまかせているだけなのでそれほど強力な拡散力はないですが、ネットは一瞬で世界中に拡散することもあります。

そういう例でいえば、ネットでよくまことしやかに流行していく「名言」のたぐいも、調べていくと、どこにも出典が見当たらないものであったりする事もよくあるので、そういうものも注意していかないとついうっかり騙されてしまいがちですね。まぁ、そういうたぐいはさほど害のあるものではないですし、誰かがデマであることに気づいていく中で自ずと軌道修正されていくのもネット空間であり、そういう伝言ゲームのような言葉の変遷を客観的にウォッチングしてみるのも面白いです。某さんの言葉だと流布しているものが、実はその某さんのものではなかったことがわかったり、さらに、実はやっぱり某さんのものだった!という証拠が見つかったり、など、ややこしい事例も少なからずあったりして、そういうのを観察するたびに、物事の真偽というのはなかなか見極めがたいものなのだなぁ、と実感します。

喫茶店ヴォルテールの名言?

ネットでよく目につくその類いの例では、ヴォルテールの名言とされている「私はあなたの意見には反対だ、だがあなたがそれを主張する権利は命をかけて守る」というのがありますね。この言葉を私が最初に聞いたのはかなり昔で、10年くらい前にニュース系の某掲示板で名無しさん同志が議論していた中で出てきたのがこの言葉でした。一目でなかなかイイ言葉だな〜と惚れ込んでしまう「ザ・名言」という感じの言葉で、案の定その後ネットで良く見る名言の定番となっていきますが、そんなイイ言葉を発するヴォルテールさんとはどんな人なのか?とか、その名言の出典となっている本を読んでみたい、とか気になって調べていくと、そもそもあの名言はヴォルテールの言葉ではないという情報も出てきて驚きました。定番のネット百科事典、ウィキペディアによれば、件の名言はヴォルテール自身の著作には存在しないようで、別の作家の本の中に引用されているヴォルテール関係の記述の中で出てくる言葉のようです。しかもそれはヴォルテールの言葉として書かれているわけでもない、といった興味深い情報が載っていました。詳細は実際にウィキを見ていただくとして、件のヴォルテールの名言は本当に彼が言った言葉かどうかはかなりグレーなもののようですね。

まぁ、出典が怪しいというのは置いといて、言葉自体に罪はないですし、やはり含蓄のある言葉は人生の指針になったりしますし、上手く活用していきたいものです。おおざっぱに解釈すれば、「他人の意見が自分と異なっていても寛容であれ」ということで、それを「命を賭けて」などのドラマチックな装飾によって人を魅了するポエティックな箴言になっているのがこの言葉です。しかし、「私はあなたの意見には反対だ、だがあなたがそれを主張する権利は命をかけて守る」、ある種の理想ではあるものの、これはあからさまにパラドキシカルな構造をもった言葉なので、現実にはそういったポリシーで生きるのはいろいろ問題がでてきそうにも思います。まともに実践すると「敵に塩を送る」ようなリスクを自らわざわざ背負い込むような理屈でもありますから、とてつもなく絶妙なバランス感覚の中でしか実践の難しい態度のようにも感じますね。

実際のヴォルテールは他人の異論にそれほど寛容な人ではなかったようで、論敵を監獄送りにしたりなど、ほとんど言論封殺まがいのこともしていたという記事もありました。まぁ理想と現実は違ういうことで、人間らしいといえば人間らしい所ですね。この世はなんとなく、約束するとそれを破らざるを得ない状況が待っていたりしますし、何かの理想を掲げたとたんにその理想に反する行動をとらざるを得ないような試練が必ず来るような所がありますね。「お前はその理想を言葉だけでなく、行動で示せるのか?」という天からの試験のようなものなのかもしれません。そういう意味では、約束を破らない人間になるには、極力約束などしないことでしょうし、何度も約束しなくてもいいくらいに信頼される人間になるように精進するというのも良い目標かもしれませんね。

話を戻しますと、そもそも議論というのは異なる意見同士の戦いですから、最近はできるだけ議論自体を避けるようになりました。むかしは議論好きだったのですが、議論というのは勝っても負けてもろくな結果にならないので、少なくとも自分には向かないものなのだと思うようにしています。これに関する言葉で、ネットに司馬遼太郎の「龍馬がゆく」からの引用で、まさに我が意を得たりという言葉を見かけました。以下引用。

竜馬は議論しない。議論などは、よほど重大なときでないかぎり、してはならぬといいきかせている。もし議論に勝ったとせよ、相手の名誉をうばうだけのことである。通常、人間は議論に負けても自分の所論や生き方は変えぬ生きものだし、負けたあと持つのは負けた恨みだけである。

司馬遼太郎「龍馬がゆく」


同じような言葉を、たしかヴォルテールの「寛容論」でも読んだ記憶があるのですが、今その本は手元にないため未確認です。いずれ本を入手したら確認して追記するかもしれません。どちらかというと、同じヴォルテールなら、こちらのような言葉のほうが個人的にはしっくりきます。そうなんです。人は議論ごときでは持論を曲げませんし、その意見がアイデンティティの根幹にかかわるポリシーのようなものならなおさらです。なので、無駄に議論をするのは不幸を招くだけで、思うほどの収穫はないというのが経験上の実感です。議論になるのは「自分が正しい」と思いたがるエゴの心なので、議論をしないように心掛けるだけで、けっこうスピリチュアルな訓練になります。本当に正しいのは喧嘩にならないような状況を作れる言葉であって、自分の主張を押し通す言葉はいくら正しいように思っていても、高い次元で俯瞰すれば間違っているのでしょうね。世の中、いろいろあるので全く議論しなくて済むのかといえば、そうでないケースもありますが、どちらにせよ必要以上の議論は控えるようにしたいものです。

他にも、最近よくネットで見かけるようになった名言、辛辣な文明批評を含んだSF「1984」の作者、ジョージ・オーウェルの言葉とされる言葉。いわく「ジャーナリズムとは報じられたくない事を報じることだ。それ以外のものは広報に過ぎない」ですが、これも出典を検索してみるとはっきりした情報が見当たらず、出所の怪しい名言のようですね。もともとは英語圏で流布していた言葉らしく、日本語訳されて日本でも拡散されていった、というのが経緯のようです。こうなると、いつも座右の銘にしているようなあの言葉もその言葉ももしかしたら?などと気になってきますが、全て完璧に事実を把握するなんてことは誰しも不可能ですから、そんなこんなも含めて寛容の精神で気楽に楽しくネット空間で遊ぶのが吉なのでしょう。

メモ関連サイト
ヴォルテールの名言とされてきた文言(ウィキペディア)

ヴォルテールは嘘つき?仏歴史家が明かす寛容論の真実(「アゴラ」様より)

坂本龍馬が教える人望を失わないための法則(「JB PRESS」様のサイトより)

ジョージ・オーウェルの言葉じゃない? 「ジャーナリズムとは〜」(「pelicanmem」様のブログより)
posted by 八竹彗月 at 11:18| Comment(0) | 雑記

2019年02月21日

【音楽】郷愁の60年代ミュージックフェア

深夜のコーヒーブレイクに合いそうな60年代前後のパラダイスな感じの洋楽のレトロサウンドを選んでみました。



るんるんMel Torme「Puttin' On The Ritz」
るんるんKenny Ball and his Jazzmen「Puttin' on the Ritz」
「Puttin' on the Ritz(踊るリッツの夜)」は、たまに無性に聴きたくなる曲のひとつです。80年代にTACOが歌って大ヒットしましたが、元は1930年に作られたミュージカルの楽曲だそうで、TACOの曲はそのカバーです。私もTACOのカバーで知ったクチですが、この曲もいろいろなアーティストがカバーしていて、とくに大好きなのはメル・トーメの超シブいカバーです。またインストではケニー・ボールのハイテンポでグルーヴィーなジャズアレンジも大プッシュです!「踊るリッツの夜」は、陽気な中に何かミステリアスな雰囲気があって惹かれますね。メロディは全然違いますが「ホテル・カルフォルニア」に通じる不思議な余韻がたまりません。歌詞自体は、「憂鬱な気分で何をしたらいいか迷っているなら、いっそのこと思いっきりお洒落してリッツ(英国にある超高級ホテル)でパーッと遊びまくろうぜ!」という感じで、とくに妖しいものではないのですが、やはりTACOのPVの怪し気な印象の影響でしょうか。



るんるんDamita Jo「I'll Save The Last Dance For You」
邦題は「ラストダンスは私に」です。越路吹雪のカバーなどで日本でもお馴染みの懐メロですね。オリジナルはドリフターズ(全員集合のほうではなく、米国のコーラスグループのほう)の楽曲で、リンク先はダミタ・ジョーによるカバーです。越路吹雪のイメージで、てっきりエディット・ピアフとかのシャンソンがオリジナルかとずっと思ってましたが、ドリフターズのオリジナルを聴くと当たり前ですがちゃんと60sアメリカ音楽っぽくて逆に新鮮です。



るんるんThe Three Suns「A Summer Place」
るんるんThe Ventures「A Summer Place」
1940〜60年代に活躍した米国のバンド、ザ・スリー・サンズによる、映画「避暑地の出来事(A Summer Place)」のテーマ曲のカバーです。お馴染みの映画音楽の定番曲で、心地いい郷愁感に浸れる名曲ですが、映画のほうは未見です。パーシー・フェイス・オーケストラのバージョンが有名ですが、スリー・サンズのヴィンテージ感あふれるアレンジもなかなかに雰囲気あって素敵です。ベンチャーズのカバーもトロピカル感がハマっていてこちらもイカス!



るんるんJulie London「Evenin'」
るんるんJulie London「You'd Be So Nice To Come Home To」
ジュリー・ロンドン(1926-2000)は米国の女優、シンガー。「You'd Be So Nice To Come Home To(帰ってくれれば嬉しいわ)」や「クライ・ミー・ア・リヴァー」などが主なヒット曲ですが、お気に入りのアルバム「Send for Me」に収録されている「Evenin'」など、モンド感のあるセクシーな感じの曲も素敵ですね。



るんるんSkeeter Davis「Dear Heart」
るんるんSkeeter Davis「Fly Me To The Moon (In Other Words)」
スキータ・デイヴィスといえば永遠の名曲「The End of The World(この世の果てまで)」のイメージですが、たまたまスタンダード曲のカバー集を聴いてたらこちらもけっこういい感じでグッときました。フランス・ギャルの歌唱のようなあどけない感じの少女っぽさがあって可愛いですね。



るんるんThe Four Lads「Grandfather's Clock」
ザ・フォア・ラッズは1950〜60年代に活躍した4人組のカナダのコーラスグループ。曲は童謡としても親しまれている「大きな古時計」です。オリジナルは米国のヘンリー・クレイ・ワークが作詞作曲した1876年の大ヒット曲だそうで、そういえば平井堅のカバーでもこの前ヒットしてましたね。といいつつ、平井バージョンがヒットしたのは2002年のようですから、もう17年も前になるんですね。時の経つの早過ぎ!日本でも馴染みの曲ですが、日本語バージョンは原曲といくつか相違点があり、とくに印象的なのは曲中の百歳のおじいさんは原曲では90歳です。たしかに「百年休まずにチクタクチクタク」の部分は「90 years without slumbering,Tick, tock, tick, tock,」と歌ってますね。wikiよると、これは単純に日本語で訳した場合に百年のほうが曲に乗せやすいからという理由のようです。たしかに「90年休まずに〜」では語呂が悪いですね。

メモ関連サイト
「大きな古時計」英語&日本語歌詞

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画・ケイ・スミス(Kay Lovelace Smith 1923~) 60年代の米国の絵本「Beginner's Bookshelf」第1巻より
posted by 八竹彗月 at 02:46| Comment(0) | 音楽