「どろろ」という作品は、名前だけはずっと知ってましたが、そのタイトルの不気味な響きに、「何かドロドロした人間関係を描いたおどろおどろしい時代劇作品」といった先入観をもってしまって、ずっとスルーしてきました。秋田書店サンデーコミックス版の単行本表紙のイメージがそんな感じで、当時はどろろの筆文字のロゴデザインだけで恐いイメージがありましたし、不覚ながら傑作のニオイを嗅ぎ取れませんでした。その後だいぶ時が経ってからPS2のゲーム「どろろ」をプレイしたのがきっかけで、「どろろってこんなに面白い作品だったのか!」と衝撃を受けたのを思い出します。原作では48の部位のうち16カ所を取り戻したところで未完になっているようですが、ゲームではその後ちゃんと48の部位奪還をコンプリートするまでオリジナルシナリオで補完されており、自分の中では今までプレイしたゲームのベスト10には必ず上位に入れたい作品になりました。まぁ、そんなにたくさんゲームはやってるわけではないので、他人には役に立たないベスト10になりそうですが。ゲーム版も、どろろの可愛い声や百鬼丸のシブい声、声優さんの演技も完璧にハマっていて完成度がとても高い作品になってましたね。どろろの「ほげたら攻撃」とか変なアイデアも満載の面白い作品でした。ゲーム版の設定では、百鬼丸が取り戻す48の部位のうち7つは肉体器官ではなくチャクラ(霊的な次元の身体に具わっているとされる身体各所に点在するエネルギースポット)が割り当てられている所もマニアックでニヤリとさせられる部分です。またしばらくぶりにプレイしてみたいです。ゲーム版の設定では百鬼丸は、肉体部位のみならずチャクラまで鬼神に奪われた状態から鬼神を倒さざるを得ないわけですから、初期のバトルは唯一最初から持っていたもの、つまり己の「魂」のみを武器にして運命を切り開いていくような感じだったのでしょうね。壮絶というかなんというか、フィクションとはいえここまで過酷な条件が設定された主人公は他に類例がないですね。

PS2「どろろ」オープニングムービー(YouTube)
ゲーム版「どろろ」のオープニング。個人的にこれほど期待感を高めてくれたオープニングムービーは珍しかったです。百鬼丸の解剖図らしき図解が怪し気に出てきますが、これはおそらく百鬼丸の育ての親、寿海が、百鬼丸に付けるための義手義足などを作るために作成した設計図みたいなものでしょうね。他、チャクラの図など、東洋オカルティズムを彷彿とするビジュアルが好みのツボを突かれる神秘的な導入で、「これは絶対面白い作品のはず!」と確信させてくれる秀逸なムービーでした。前半は地獄堂の鬼神に父である醍醐景光(だいごかげみつ)によって生贄に捧げられた芋虫状態の布にくるまった百鬼丸と、それを見下ろす48体の鬼神。炎をまといながら迫り来る無数の馬上の鎧武者の映像も意味ありげですが、これは1969年にアニメ化された「どろろと百鬼丸」のテーマ曲の歌詞にある「燃える鎧に燃える馬」を映像化したものだといわれてますね。このムービーではどろろはそんなに可愛く表現されてないように思えるかもしれませんが、本編ではチョコマカ動くアクションや大谷育江さんの可愛らしい声が絶妙にマッチしててとてもかわいいです。

『どろろ』PlayStation2 制作・セガ 2004年
こんな面白い作品があったのか!と衝撃を受けたゲーム版の「どろろ」です。ロードが重いとか多少の欠点はありますが、それを凌ぐクオリティのため全部許せてしまいます。そういえば、「どろろ」というネーミングセンス、インパクトがすごい響きですが、由来は当時は幼児だった息子さんの手塚眞氏が「泥棒」を「どろろう」と舌足らずに発音したことがネーミングのきかっけになっているというエピソードを「どろろ」の単行本のあとがきかなにかで読んだような記憶があります。念のために調べてみると、wikiにもそのあたりのエピソードが紹介されていますが、少々事情は複雑みたいで、そういう説はたしかにあるものの細部が異なる複数の説を手塚先生自身が残しており、手塚眞氏も先生の生前そのあたりを聞きそびれていたとのことで詳細は永遠の謎らしいですね。
ゲームに感動した勢いで原作を読んだりしましたし、モノクロ時代のアニメ「どろろと百鬼丸」も見ましたが、やはり最初に出会ったのがゲーム版だったせいか、ゲーム版どろろが個人的には一番好きだったりします。今回のリメイクは、その思い入れのあるゲーム版に匹敵しそうなくらいの完成度があって、スタッフのどろろという作品に対する並々ならぬリスペクトを感じます。身体部位の欠損という設定は、現代ではとくに倫理的に神経質な目もある中で、ギリギリなものがありますが、漫画、アニメという日本の現代文化を先導して牽引してきた偉人、手塚治虫の作品ということもあり、そのあたりは誤解されることなくリメイク放映が叶ったのかもしれませんね。
この作品の奇抜な所は、なんといっても主人公が鬼神に身体中の部位を奪われたマイナス状態からスタートし、全身の部位を奪還するまでを骨子にしている物語であることですね。目的を全部達成した暁にはスーパーマンになったりするわけではなく、多分ありふれた健常な人間になるだけに思えますが、そういうところも哲学的な深いものを感じます。誰しもが普通に当たり前に思っているような状態こそが、実はこの世で最も貴く幸福な状態なのだ。という御大手塚治虫による深遠なメッセージのようにも受け取れます。
また、ゲームにもなったくらいで、よく考えてみると、48の部位を取り戻す旅と戦い、というのはゲームシナリオとしても絶妙で、最初からゲームのために考案した設定であるようにも思えるほどゲーム性のあるアイデアですね。物語の骨子が見てて分かりやすいそういう所もこの作品の魅力なのでしょう。次から次へと強い敵が出てきて戦う、という少年漫画にあちがちな繰り返しパターンに、どろろの場合はきちんと終始一貫した根拠と理屈が最初から与えられているために、そういったパターン化したマンネリ感を感じずに楽しめるようになっているところも感服する部分です。
そういえば、「どろろ」の主人公はどちらかというとどろろではなく百鬼丸のほうだと思いますが、これも「天才バカボン」の主人公がバカボンではなくパパのほうであるのと何か通じるものを感じてしまいます。こういった、なにげない部分で定石に肩すかしをくらわせている所も天才の発想みたいなものを感じてしまいますね。
マイナスの状態からの主人公が、ゼロの状態を目指して戦い、成長していく話というと、「アシュラ」もそうでしたね。以前ジョージ秋山の問題作「アシュラ」が40年ぶりに映画化されて日の目を見ることになり、ちょっとした話題になったことが思い起こされます。主人公アシュラもまたマイナスからゼロを目指すような話で、あまりの飢餓の時代のために親に捨てられ人間の言葉も常識も愛情も何も持たずに成長してしまったアシュラが人間の心を取り戻すまでをドラマチックに描いた傑作でした。人肉を喰らってでも生き延びることだけが最大の行動原理になってしまったアシュラですが、彼もまた、普通に人間社会で、人に必要とされ、人を愛し愛されるような平凡な人並みの人生の出発点に行き着くことこそが彼にとっての目標でありました。
百鬼丸とアシュラ、彼らの生き様は、マイナスからの出発という過酷な宿命を生きる可哀想な運命として捉えがちではありますが、そんな彼らに深く共感する私たちもまた、もしかしたら百鬼丸たちと同じ部類の、失ったものを見つけ出す旅を続けている仲間なのではないだろうか?と、ふとそんなことを思いました。前述したように、彼らの姿は、私たちに「当たり前こそが有り難い」という真実に気づかせてくれます。毎日食べ物があるというのは有り難い。蛇口をひねるだけで清潔な水がこんなに簡単に得られるのは有り難い。アニメを見たりゲームをしたりネットを楽しめる目があることが有り難い。たとえ何人でも自分を気にかけてくれる人がいること自体が有り難い。身の回りにある便利な機械や道具は、全てどこかの誰かが苦心して作ってくれたから今ここにあるわけで、着ている服から何からほとんどのものは自分以外の誰かのおかげさまで、楽をして過ごせているのだということにふと気づくと、感謝の心というのは無理に儀礼的にひねり出さずとも、いつでも自然に湧いて出てくる状態のほうが本来の真実の人間の在り方なのではないだろうか、と、そんなことを考えさせられました。
百鬼丸やアシュラの目線で現代を見るなら、この世はそのまんま天国のような夢の世界にみえるのかもしれません。毎日空腹を感じることのないほど食べ物が満ちあふれている時点で、百鬼丸やアシュラの時代では考えられないような楽園に違いありません。百鬼丸たちが身体の部位や人間性など、私たちにとってはあって当たり前だと思っていたものを取り戻そうと奮闘しているように、私たちも同様に当たり前でなければならないもの、つまり「感謝」すべきものに感謝する心を失っていて、それを取り戻す人生という旅をしているように思えてきます。相田みつをさんの言葉「奪い合えば足らぬ。分け合えば余る」というのを見たとき、衝撃でした。まさに、奪い合えばこの世は地獄になり、分け合えばこの世はそのまま一瞬にして天国にもなるという極意。テクノロジーの発展だけが天国の条件なのではなく、むしろどのような時代であっても、人と人が分かち合って喜びあえるような世界こそが天国であるのかもしれませんね。