2019年01月29日

昭和少女スター図鑑

190129_card_Puromaido.jpg

昭和初期の少女スターというと、何度か記事でもご紹介した松島トモ子ちゃんが個人的な思い入れもあってか代表格っぽいイメージがありますが、他にも魅力的な方も多く、自前のプロマイドコレクションの中から適当に独特の昭和な可愛らしさのある少女スターを何人か選んでみました。昭和30年(1955年)頃の「なかよし」付録のプロマイドを中心に、「平凡」や「少女クラブ」の付録プロマイドや出所不明のカードなどを交えてご紹介します。

カードの裏面にスターの住所が番地まで当たり前のように書かれてますが、およそ65年ほど前の住所であり現在は住んでおられない(そもそも彼女たちは当時未成年者なので保護者の住所)と思うので、オリジナルを尊重してそのままにしました。昔の人はこういうものを参照してファンレターなどを送ってたのでしょうね。



かわいい小鳩くるみ

190129_card_kobato1.jpg
ロリロリで可愛いですね。20代には大ヒットしたアニメ「アタックNo.1」の主人公、鮎原こずえ役の声優をされてたようですね。現在は児童文学や翻訳のお仕事をされているようです。

190129_card_kobato2.jpg

190129_card_kobato3.jpg

190129_card_kobato4.jpg



かわいい小林節子

190129_card_kobayashi.jpg
知的で上品なお嬢様っぽい雰囲気が素敵ですね。この子のプロマイドはこれしか持ってないのですが、いろいろ集めてみたいですね。調べてみると、この後フジテレビのアナウンサーとして活躍されていたようで、逸見政孝さんと同期だったそうです。



かわいい近藤圭子

190129_card_kondou1.jpg
不思議なムードをもった可愛さがありますね。童謡歌手として活躍されていたようで、絶頂期は「明星」などの雑誌に美空ひばりと並んで頻繁にグラビアを飾っていたそうです。

190129_card_kondou2.jpg

190129_card_kondou3.jpg

メモ関連サイト
近藤圭子(ウィキペディア)



かわいい渡辺典子

190129_card_wata1.jpg
なんとなく小鳩くるみちゃんぽい雰囲気ですね。彼女は童謡歌手として近藤圭子と共に人気だったそうです。世代によっては角川映画で有名な同名の女優のほうが頭に浮かんできてしまうと思いますが、まぁ、いかにも同姓同名が多そうな普通っぽい名前なので仕方ないですね。ウィキペディアでも、「曖昧さ回避」で同姓同名の6人の著名人が出てきました。

190129_card_wata2.jpg

190129_card_wata3.jpg

メモ関連サイト
渡辺典子(ウィキペディア)



かわいい浅丘ルリ子

190129_card_asa1.jpg
現代的なシャープな顔立ちの美少女ですね。ご存知のように、この後言わずと知れた大女優と成長していきます。浅丘ルリ子といえば、私の場合、横尾忠則が浅丘ルリ子のヌードを妄想で描いた初期の傑作「浅丘ルリ子 裸体姿之図」が思い浮かんでしまいます。

190129_card_asa2.jpg

190129_card_asa3.jpg

メモ関連サイト
浅丘ルリ子(ウィキペディア)

横尾忠則「浅丘ルリ子 裸体姿之図」(Google画像検索)



かわいい鰐淵晴子

190129_card_wani1.jpg
西洋人とのハーフでバイオリン、バレー、ピアノなど幼少から多芸でハイソな感じが独特のオーラをもった鰐淵晴子ちゃん。松島トモ子ちゃんといっしょに昭和20〜30年代の少女雑誌でよく見かけますね。

190129_card_wani2.jpg

メモ関連サイト
鰐淵晴子(ウィキペディア)



かわいい美空ひばり

190129_card_hibari.jpg
美空ひばりといえば石原裕次郎と同じく昭和という時代を象徴するカリスマでしたね。この写真は、見た感じ13〜15歳あたりのものでしょうか。6歳から舞台に立ってたとの事で、すでに落ち着いた貫禄があります。
posted by 八竹彗月 at 14:13| Comment(2) | コレクション

2019年01月18日

聖書と原罪

何かと慌ただしいような、そうでもないような感じで新年がはじまりました。すっかり開けきってしまいましたが、今年もよろしくお願いします!今回の記事は、この前部屋の整理などをしてたらふと聖書の原罪についてひらめくことがあったので、忘れないうちにメモ替わりに文章を書いているうちにいろいろ話がふくらんできたので単発記事としてアップしてみました。

本聖書の思い出

欧米の文化はキリスト教の思想が根底にあるので、聖書を一通り読んでおいたほうがハリウッド映画や文学、アニメなど、向こうの文化をより楽しめるよ、といった話を学校の先生だったか誰か忘れましたが、子供の頃どこかで聞いていたこともあって、中学生くらいの時期に聖書をよく読んでいました。欧米人ならだれでも知ってるような超ベストセラー本なわけですから、多分読めば面白かろう、という軽いノリで読んでみたのはいいですが・・・・しかし、世界宗教の聖典だけあって子供には薬が効きすぎたようでした。「原罪」に落ち込み、「十戒」に憂鬱になったりと、心の救いどころか、何か恐ろしい圧迫感や束縛感を感じつつ、それを否定すると地獄に堕ちるのではないか、神に罰せられるのではないか、という恐怖感に囚われた思い出があります。聖書に書いてある禁則事項の中には、「脳内で女性を犯しても実際に淫行したのと同じ罪!」とか「オナニーも罪!」とかあるので、思春期の少年には厳しすぎる内容です。なんとなく性に抑圧的な環境で育ったこともあって、さらに自ら禁欲的な思想まで取り入れたものですから、心の奥では逆に余計にエロに対する興味を増大させていた気がします。抑圧されるほどに、ますます性的な空想が極上のパラダイス的な魅力をもって誘惑してくる感じでしたが、そういう妄想をしている自分に罪悪感や嫌悪感もあったりして、それなりに若者らしい悩みに苦しんでいたのだなぁ、と他人事のように思い出が蘇ります。大人になるにつれて、そういう聖書の思想を背景にした社会に生きているはずの西洋人も、十戒を守って生きてるような人はほとんどいなさそうな事がわかってきて、気が楽になりました。何ごとも、イイカゲンくらいが加減がいい、つまり「いい加減」なのかもしれませんね。

聖書に限ったことではないですが、この世界は必ず2面性を持って存在しているので、醤油も調味料として使うと美味しいですが、ガブ飲みしたら毒と同じで死んでしまうように、聖書も心の成熟度とかいろいろな条件によっては毒にも薬にもなるのだということを学びました。ヘッセの小説とかは、そうしたキリスト教的な思想が文化的な背景としてあらかじめ存在している西洋人の苦悩が描かれていて、個人的にとても思い入れのある小説「デミアン」も、そうしたキリスト教的な環境からの抑圧と解放を描いていて、すごく共感したものです。なるほど思い返してみれば、もし先に聖書を読んで、さらにその聖書の世界観に暗澹たる圧迫感を感じることがなければ、ヘッセの作品から受ける印象も浅いものになったでしょうから、振り返ってみれば、聖書を読むという経験はなんだかんだいっても役に立ったには違いありません。陰謀論系のオカルト本も聖書が元ネタになってるものが多く、鬼塚五十一などの666関係の陰謀論とか、超古代文明関係の話とか、なにかと妖しい話題にも聖書はよく出てくるので、そういう話のネタ元としての興味からヨハネの黙示録を読んだりなどもしました。

一冊の読物として見ると、旧約聖書は序盤はエデンの園とかノアの洪水とかバベルの塔など有名なイベントが次々と目白押しなのでそれなりに面白いのですが、ヨシュア記とか歴代志上など旧約聖書全般に「ベニヤミンの生んだ者は長子はベラ、その次はアシベル、第三はアハラ、第四はノハ、第五はラパ。ベラの子らはアダル、ゲラ、アビウデ、アビシュア、ナアマン、アホア、ゲラ、シフパム、ヒラム。(歴代志上 第8章)」みたいな感じで誰それが誰を生んだとか家系図的な記述がえんえんと続くスコブル退屈な文章も多く、そのせいで旧約はあまりちゃんと読んでませんでした。こうした聖書の「○○○が○○○を生んだ」的な記述がしつこく繰り返されるノリをパロったのが筒井康隆の「バブリング創世記」で、内容は「ドンドンはドンドコの父なり。ドンドンの子ドンドコ、ドンドコドンを生み、ドンドコドン、ドコドンドンとドンタカタを生む。ドンタカタ、ドカタンタンを生めり。」という感じでえんえんとへんてこな家系の愉快な響きの名前が語られるユニークで実験的な短編小説です。さすがナンセンス文学の巨匠筒井康隆ですね。これも聖書のしつこい家系の記述を先に知ってないと面白さも半減しますから、やはり聖書はとりあえず読んでおくと何かと後々役に立つ本といえます。

メモ関連サイト
ニコニコ文学劇場 「バブリング創世記」 -筒井康隆- 読み手:ゆっくり
本だと字面だけで読む気が失せてしまうような威力があるのでちゃんと読んだ事はなかったのですが、こうして改めて音声で聴くとばかばかしくも妙にリズム感のある繰り返しのフレーズがツボにハマって吹き出してしまいました。聖書を茶化すというバチ当たりなノリもいかにも筒井節な感じですね。キリスト教だけでなく、そういえば仏式の葬式を茶化したブラックな漫画も描いてましたね。そこに下手に真面目な批判や風刺が込められていたりすると、ややもすると冒涜と受け取られかねないネタですが、筒井康隆の場合、ただ「面白そうだったからやった」的なノリでこういうものを書くので「筒井康隆なら仕方ない」ということになってしまう所も面白いです。こういう作品は、ちょっとでも元ネタを見下すような感じとか、批判的な風刺の匂いがすると興醒めになるのですが、絶妙にそうならないところが筒井康隆の天才性ですね。

というわけで、旧約聖書はそんなに熟読していないのですが、後半のエレミア書、エゼキエル書などの箴言集的なものは今読み返すと仏教哲学にも通じる事を言っていたりなど、なかなか含蓄があります。新約聖書はイエス・キリストを主人公にした聖典なので、基本的にイエスの人生や思想が語られる内容になっており、読みやすいです。また、旧約聖書の時代背景と較べると、旧約よりも悲壮感が無く、父なる神様も旧約の時の恐く厳しい感じでなく、比較的優しい神様になっているので馴染みやすいですね。神様が時代や民族によってキャラが微妙に変化していくのは、神様自体に問題があるのではなく、感じとる人間の側のフィルターの違いが神の違いになっているのだと思います。旧約聖書の神は人間の罪に怒って洪水を起こしたり実の子供を生贄に求めたりなど、どこか近付き難い恐い神のようなイメージがありますし、十戒のように、厳格な規則を人間に求めるスパルタ教師のような側面がありますが、こういう神の性質は、当時のイスラエル民族の置かれた厳しい環境を反映したものなのでしょうね。

現代の日本社会の有り様と聖書の時代とはかなりのギャップがあるのも確かで、書いてある事を真面目に受け取りすぎると最初に書いたようにいらぬ不安感や罪悪感を背負いかねないところもあり、キリスト教というのは世界的な宗教の割にはけっこう上級者向けの宗教のように個人的には感じてます。冷静に聖書を読めるようになったのは哲学や神話学や神秘学やスピリチュアルの教えなど、精神世界全般に興味を持って俯瞰してみるようになってからでしたね。どんな宗教でもそうですが、直感的というか感覚的に不安感や罪悪感や恐怖感を感じるようなものは、自分の肌に合ってないか、まだその教えを理解できる時期ではないか、あるいはカルト宗教などの間違った教義であるかのどれかです。基本的に、その教えを聞いて心が軽くなったり、人生を能動的に自由に生きれるようにしてくれるようなものこそがその人にとって一番必要な教えだと思います。人間に対する神の願いは一言でいえば「幸せでありなさい!」という事で、すべての教えはそのための技法にすぎません。宗教は元来、人を自由にし、幸せに導く技法でありますから、そうでないものはその宗教が間違っているか、自分の解釈が間違っているかのどちらかだろうと思います。



本原罪のはなし

キリスト教の基本的な概念で「原罪」というのがありますが、昔の私がそうだったように、これもキリスト教にネガティブな印象を持ってしまう原因にもなっているような気がします。私は別にクリスチャンでもないですし、特定の宗教の信者でもないのですが、神について興味を持ち「神とは?」という問題を研究していくと、そうした「原罪」をはじめとして、世界的にメジャーな宗教であるキリスト教もけっこう誤解して自分勝手なイメージで解釈している部分が多いことに気づいてきます。「原罪」というと、一般的に定義すれば、聖書の創世記に登場する人類最初のカップル、アダムとイブが神に背いた罪のことで、人間はすべてこのアダムとイブから受け継がれた罪(原罪)を生まれた時から皆背負っているのだ、という概念です。聞いただけで憂鬱になってくる概念ですよね。ジョセフ・キャンベルは生前日本を訪れた時の印象を「原罪を持たない国」と羨ましそうに語っていましたね。その言葉からは、それほどこの原罪というキリスト教の概念は欧米人には多かれ少なかれ潜在的に刻み込まれたトラウマ的なものであるように感じました。キャンベル先生の著書を読んでるとキリスト教に批判的な記述がしばしば出てきますが、それはおそらく、ヘッセやユングなども感じていたような、そうした西洋人の聖書的なトラウマが影響してる面もあるのかな、と思いました。キャンベル先生が神話の研究に魅入られたのは、聖書の価値観とは違った視点から語られる神話の神々の中に、そういった抑圧から解放してくれるような救いを求めていたからなのかもしれませんね。


私は日本を訪れたときの経験を決して忘れないでしょう。原罪による堕落も、エデンの園もまるで聞いたことのない国です。神道の聖典のひとつに、自然の営みが悪しきものであるはずはない、と書いてあるのです。あらゆる自然な衝動は矯正するものではなく、昇華すべきものである、美化すべきものである。自然の美と、自然との協力とに対するすばらしい関心がありますから、日本の庭園のいくつかでは、どこで自然が終わって人工が始まっているのかわからない。これはすごい体験でしたよ。
──────ジョセフ・キャンベル

ジョセフ・キャンベル、ビル・モイヤーズ著『神話の力』(飛田茂雄訳 1992年 早川書房) p65より



と、まぁ、人を救い、人を幸せにするのが宗教のはずなのに、なんで原罪などというトラウマ的な概念で人を縛るのか?という部分で、キリスト教をはじめとする宗教全般への懐疑心を持つ人も多いように思います。かつては私もそうでしたので、多分、そのような考えを持つ人はけっこういそうな気がします。この間、この原罪の概念についてふとひらめいたことがあったので、この記事を書こうと思ったのですが、その考えとは「そもそもこの原罪というのは、いわゆる人間を罪人として定義することが本義ではないのではないか?」とうことでした。ニュアンス的には、「罪」というよりは「不完全」という意味ではなかろうか、ということです。人間はもともと神(あるいは宇宙≠ナもいいですが)と繋がっているのが自然な状態であるはずなのに、すべての人間は神を知らない状態で生まれてくる。この人間の置かれた不完全な状態を言い表したのが「原罪」という概念なのではないか、というようなことが頭に浮かんできました。

あらゆる宗教は、なんらかの方法で神との絆を回復しようとする試みであるともいえると思います。宇宙138億年の歴史の結晶として人間が誕生したわけですが、その宇宙の子である人間は宇宙について無知であることと似ています。神秘家のグルジェフも、人間はそのままの状態ではただ環境に自動的に反応しているだけの機械にすぎない、と言っていましたね。人間は能動的に「目覚める」努力をしない限りは眠ったまま生まれて眠ったまま死んでいくだけである、というのがグルジェフの思想でしたが、たしかに人間というのはそういう存在なのかもしれません。神を知り、神と共にいる、という「本来の状態」に、なんらかの方法で回帰するためのノウハウを提供しているのが宗教や神秘主義やスピリチュアル思想などの精神世界なのだと思います。

人間以外の動物は、善悪の概念を持たないゆえに罪を犯す事はあり得ません。ライオンがシマウマを殺すのは自然が認めた生きるための行為であって悪ではないですし、蜘蛛が自らの作った粘着質の網の罠にかかった蝶を食べるのも罪ではありません。ライオンも蜘蛛も善悪という基準で生きてませんから、悪意で他者を殺すことは原理的に不可能です。同じように、植物も、石も、山も罪を犯しません。ただ人間だけが善悪を知っているために罪を犯してしまいます。これが聖書の創世記にある「善悪を知る木」の実を食べたアダムとイブの寓意であるように思いました。

では、なぜ人間は「善悪を知る」存在であるのか?善悪を知らなければ罪を犯す事はないですし、もっと自由に生きれたはずです。善悪を知るというのは神の罰なのでしょうか?いや多分、それこそが神の恩寵でもあるように思います。なぜなら、動物は善悪を知らないゆえに罪を犯したくても犯せない存在ですが、自分の不完全性についても知らないので、神を知ることもできません。つまり、動物は悪い生き方ができないかわりに、より良く生きるという生き方もできないわけです。動物は愚かな存在だといいたいわけではなく、むしろ赤ちゃんのように無垢な存在だということです。無垢でありますが、それ以上にも以下にもなれない。人間は悪によって動物以下の心性に堕ちる事もありますが、善を行うことで動物の無垢な心性よりも高次の心性を獲得することも可能な存在です。聖書が神の姿に似せて人間を造った、と記述しているのは、まさに、「万物の中で、人間だけが神と似たような存在になれる特権を与えられた」ことを示唆しているのではないか、ということです。

神は自分のかたちに人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し、男と女に創造された。

聖書 創世記 第1章


人間だけが、少なくとも地球上の生物の中では唯一宇宙を知ろうとする生物として存在していますし、人間だけが神の存在に気づくことが可能で、さらには神に限りなく近づくことも原則的に可能な状態にあるわけです。そう考えると、かつて抱いていたような、人間を原罪という窮屈な檻に閉じ込めて罪悪感を植え付けようとしているかのような陰鬱なイメージとは真逆の、非常にポジティブなメッセージを読み取る事ができます。そして、この解釈のほうがインドのヴェーダーンタ哲学から最近のスピリチュアル思想まで共通して現われてくる考えに近いものがありますし、意外とこれが真相に近いような気もしている昨今です。
posted by 八竹彗月 at 07:23| Comment(0) | 精神世界