2018年09月26日

1と一について。そして霊界の話など。

この前の記事(「1なる存在について」)で、数字の「1(いち)」と、「私」を表す「I(アイ)」の類似などについて考察しましたが、漢字の「一」もまた1を横に倒した感じでよく似てますね。まぁ、「ひとつ」を表す字が、短い線一本であるのはそんなに驚くようなアイデアではない気もしますが、アラビア数字だけでなく西洋ではローマ数字も「I」でタテですが、漢字では横倒しの「一」であるのも面白いなぁ、となんとなく思いました。そこになんとなく西洋と東洋の個性の違いのようなものを感じた次第です。

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西洋的な直立する1のイメージと、東洋的な漢字の一。1をキリストの立像、一をブッダの涅槃仏像でシンボリックに見立ててみたのですが、こうして並べると「聖☆おにいさん」っぽい感じがしてきますね。映画化もされるほど人気のようなのでご存知の方も多いとおもいますが、ちなみに「聖☆おにいさん」というのはキリストとブッダが現代の日本で安アパートで暮らす、というコメディ漫画です。どちらも歴史上の大聖者なので、実際はさすがに漫画のような弱点の多いキャラではないと思いますが、宗教を真正面からコメディのネタにもってくるというのはかなり新鮮で、あまり深く考えずに見れば面白いです。そういえば、聖者とは真逆に地獄の魔王様が現代日本でこれまた安アパートに住みながらファーストフード店のバイトをして生活費を稼ぐという「はたらく魔王さま!」というのもありましたね。作品の発表時期は「聖☆おにいさん」のほうが先のようですが、こちらもなかなか楽しかったです。欧州のどこかの国の言葉っぽい響きのインチキな魔界語をしゃべたりするのですが、これがまたソレっぽくて笑えます。声優さんも謎の言語を流暢に話していて、そういうところも見所でした。

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映画「聖☆おにいさん」予告編
「はたらく魔王さま!」PV

西洋的価値観とは物質主義的で個人主義的、東洋的価値観は精神主義で集団主義的、というのはけっこう漠然としたイメージとして一般にあるように思います。こういうのは、歴史の成り行きから生じた偶発的なもので意味がないと以前は思ってましたが、逆に、最近の私は思考が前よりスピリチュアルな傾向にあるので、そういうことにもけっこう意味を感じてしまいます。例えば、西洋では龍(ドラゴン)は火属性の魔性の獣ですが、東洋の龍は豊作をもたらす水属性の聖獣だったりしますし、西洋はイスラム教やキリスト教など一神教のイメージですが、東洋はヒンドゥー教や仏教や神道など多神教(仏教は厳密には神を想定せずに真理を究明する宗教なのですが、一般にはヒンドゥー教の神々を仏教の守護神に取り入れたりなど多神教的な側面があると思います)といったこともあります。また、コウモリは西洋ではドラキュラのイメージからかハロウィン御用達のモノノケみたいな扱いで、最近は東洋でもそうしたイメージが定着してますが、昔は東洋では吉祥のイメージで捉えられ、よく昔の鋳造や焼物の図案などにはコウモリが描かれたりしてます。あとはヘビも西洋では悪魔の使い、東洋は神の使いみたいな扱いの違いもみられますね。

現代でも、卍(まんじ)とハーケンクロイツなど、形が鏡対称であるだけでなく、その意味も聖なるシンボルとナチスのシンボルというように東西で正反対の意味で扱われているのも意味深です。また、弥勒(みろく=遠い未来に次のブッダとなり人々を救済するとされる菩薩のこと。菩薩とは仏教の修行者の位)は、日本語読みでの音を数字にすると三六(みろく)になりますが、3つの6といえば聖書のヨハネ黙示録で予言されている未来の偽キリスト(世の終わりに現れるキリストを騙り人類を支配する悪魔的独裁者)を暗示する数字「666」も3つの6です。ミロクに関しては、日本語以外では成立しない語呂であるところなど、ちょっとこじつけっぽく感じる強引さはありますが、偶然にもどちらも未来の人物を指している数字ですし、トンデモと簡単に片付けるのもしっくりこないところでもあります。これも東西における鏡のような意味の逆転の一例として私的にはなかなか面白いと思っています。西洋と東洋のこうしたコインの裏表のような相違点は探せばまだまだけっこうでてきそうで、いろいろ調べてみるのも楽しそうです。

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ヨハネの黙示録 日本語訳全文(Wikisource様)

おおざっぱにいえば、西洋と東洋の違いの多くは、狩猟民族と農耕民族という違いがもたらす文化的な視点の相違からくるものが原因のように思いますが、それだけでは説明のつかない部分も多く、やはりどこか神秘な背景を想像したくなってきます。

で、話を戻しますと、西洋は1を縦で表し、東洋では横で表す、というところから思ったのは、西洋は1の立ってる状態(つまり立っている時は目覚めて活動している昼の象徴)から、1なる根本原因に「理性」を重視しているのではないだろうか?といったん仮定してみることでした。そうすると、漢字の横向きの一は何か?それは、寝ている状態(つまり夜の睡眠中、無意識の活動が優勢になる状態)であり、非合理性や唯物論で捉えきれない精神世界を象徴していて、東洋における1なる根本原因は「非理性」的なものに求めているのでは?ということがふと思い浮かびました。

まぁ、古代人が数字の記号の発祥にそういう意味をあらかじめ込めていたとは思いませんが、プラトンのいうようなイデア界(完全な世界のこと。この現世はイデア界の影のようなものなので不完全な世界である、という説)みたいな、超越的な見えない次元からは、そうした意味合いもあらかじめあったのではないかと思ってます。イデア的な世界にある西洋的な構造(理性、個性、男性的、な役割)と東洋的な構造(心性、全体性、女性的、な役割)が反映されているのがこの世界なので、そういう鋳型が漠然とこの世に投影されているために、理由のつかない不思議な相違点が「西洋vs東洋」に見つかるのではないでしょうか。1と一の違いも、常識的に考えれば実際は横書きの言語と縦書きの言語の違いによる単なる筆記のうえでの合理性でそうなったのだと思いますが、このように「たまたまそうなった」という事柄なのにかかわらず、そこになぜか西洋的価値観や東洋的価値観が投影されていることがシンクロニシティ的であり、そこに面白さを感じるわけです。

などと案の定話がだんだんオカルティックな方向に進んできましたが・・・以前は、人間に知覚できない世界を仮定して物事を考えるのはナンセンスだと思っていました。変われば変わるものです。まぁ、どのみちこの世界は、決定的な答えを用意していない世界であるように思います。答えを出してしまうと、それ以上考えなくてよいですから、楽ですが、それ以上の進歩も発展もなく、広がりのない世界になってしまいます。おそらく、宇宙的な視点からは、「答え」よりも「答えを見つけるための様々なアプローチを楽しむ」ことのほうが価値が高いのだと思います。松尾芭蕉が、旅の目的地よりも旅そのものに価値を見いだしたように、この宇宙も、これまでにない面白い気候の星を生み出したりとかするのが楽しくて、「絶対的に理想的な完璧な星」というのをあえて想定せずに、あらゆる可能性を試したがって無数の星々を生み出しているのではないでしょうか。そして人間もまた、何が絶対的に正しいかを知らされずに生きているのは、それを見つけ出す過程こそが宇宙的至福であるからではないでしょうか。ふと、そんな事を思いました。

唯物論の権化だと思われてきた科学も、ここ半世紀の間にもますます不思議な領域に入ってきていて、ある意味、ゲーデルの不完全性定理とか、量子力学とか、人間原理とか、ダークマターなど、現代アカデミズムのキーワード的な、ここ百年で急激に世界を変えてきた様々なそれらの概念が指し示す方向、それは唯物論の終焉、そしてこれからの新時代に向けた新たなパラダイムの誕生、を示唆しているような気がなんとなくします。カナダのチームが、スパコンの1億倍の演算能力を持つといわれている量子コンピュータの試作を完成したニュースがついこの間話題になりましたが、時代はますます加速度的に未知の領域に突き進んでいってるような、時代のジェットコースターに乗っているような気分のする昨今です。量子コンピュータが普及していくと、人工知能(AI)の研究も想像以上に進みそうでわくわくしますね。

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これだけは知っておきたい、量子コンピュータの基礎と現状(FUJITSU JOURNAL様)
従来のコンピュータでは膨大な時間がかっていた巡回セールスマン問題のような指数関数的に増える莫大な組み合わせの中から正解を見つけていくような問題も、従来のコンピュータとは根本的な演算方式が異なる量子コンピュータなら一瞬で答えを出せるようですね。まさに夢のマシーンで、これが実用化できればおそらく人間並みの人工知能も夢ではなくなる気もします。ですが逆に気がかりな面もでてきますね。現代の最速のスパコンさえも子供の玩具以下に成り下がるくらいに爆速の量子コンピュータが実用化したら、クレジットカードなどのセキュリティ関連の暗号とかも簡単に解析できてしまうかもしれません。素数を生成したり、ある数列が素数であるかどうかを判定する方法など、素数に関する多くの問題はまだちゃんと解明されていないために、セキュリティに関する暗号処理には桁数の多い素数が使われているという話を聞いた事があります。これも莫大な演算を一瞬でやってしまう量子コンピュータを使えば、そういう素数式の暗号も破られる危険性がありますから、現在の緻密に構成されたITシステムも根本から構築しなおす時代が来ているのかもしれないですね。(ちなみに確認がてらウィキの「素数」のページを読んでみましたが、素数に関する問題は完全に解明されてはいないものの、現在ではけっこう使えるアルゴリズムもいろいろ存在するようで興味深かったです。素数は、虚数とか無理数などの、あからさまにとっつきにくい感じの数ではなく、むしろフィボナッチ数よりも単純そうで、一見したところ何の変哲も無さそうな初歩的な数っぽく見える数でありながら、世界の天才たちもがその解明に未だに難儀させられているというのは、どこかこの世界のパラドクス的な構造が垣間見えるような気がして興味をそそります。素数もそうですが、かつてピタゴラスが示唆していたように、そもそも「数」というもの自体に神秘な秘密が隠されているのかもしれませんね。身近なようで謎めいている「数」というものに底知れない不思議な魅力を感じる昨今です。)

そういう時代の空気もあって、「非合理性の価値」というものに目覚めてきているのかもしれません。そうしたわけで、イデア界とか霊界的な概念も、空想や、何かの哲学的な寓意とかではなく、リアルにそういう世界はありうるんじゃないか?と考えるようになってきました。医師など、人の死に立ち会う機会が一般人より比較的多い職業だと思いますが、人の死を実際に何度も見ているうちに死後の世界を信じざるを得なくなったという話も洋の東西を違わずよく耳にします。未読ですが、アメリカの外科医エベン・アレグザンダーが自分自身の臨死体験を契機に死後の世界を確信したというレポートで話題になり全米ベストセラーになった「プルーフ・オブ・ヘヴン」という本(テレビ番組「アンビリーバボー!」でも紹介されたそうです)とか、日本でも、医師である矢作直樹氏の死後の世界肯定論が有名みたいですね。

私も、先日古本屋で臨死体験とか死後の世界関係の本が安価でたくさん入荷していたので面白そうな本をいくつか買って読んでたのですが、けっこう具体的に死後の世界を肯定していて興味深かったです。臨死体験の中には、夢などの脳のはたらきでは説明できない状況もあるようで、そうした話もまた項を改めて記事に書いてみようと想ってます。実際に、現在亡命中のチベット仏教の最高指導者ダライ・ラマ14世は輪廻転生の生き証人で、最高指導者の位であるダライ・ラマの称号は世襲ではなく、生まれ変わりを探して即位させるという摩訶不思議な伝統を守ってきました。あと最近では中国の奥地にあるといわれている「生まれ変わりの村」(中国の奥地に、前世をハッキリ覚えている人がやたら多い村があるらしい)の話も耳にしますね。輪廻転生したら死後に霊界に行く必要がなさそうに思えるので、輪廻転生と死後の世界とは別のジャンルみたいにみえますが、霊界の住人も魂の修行のためにまた現世に戻って生まれてくるという説もオカルト界隈ではよく聞きます。まぁ、神秘な次元の話なので真相はなかなか掴めないですし、はっきりしたところがわからないからこそ、その謎自体に魅力を感じる、という面もありますね。

スウェデンボルグや出口王仁三郎など霊界を見聞してきたオカルティストもいますし、チャネリング系で支持者の多いシルバーバーチの霊界通信でも、けっこう詳細に霊界の様子を語っていて興味深いです。上記で少し触れた聖書の黙示録ですが、聖書というのはひとつのまとまった教典ではなく、作者の異なる複数の文書を編纂した書物です。この聖書の編纂時には外された文書もたくさんあり、そうした文書類は聖書外典という扱いで現在でも翻訳された本もあるので読む事ができます。その外典の中に、「パウロの黙示録」という奇妙な文書があります。4〜5世紀につくられたとされるこの文書は、むかし学生時代に図書館でたまたま手にして読んだことがあります。ヨハネ以外にも黙示録があったのか、ということにチラリと興味を惹かれて読んでみたのですが、その内容がなんとスウェデンボルグばりの霊界見聞記のような感じで、とても衝撃をうけたのを思い出します。秘密の文書を読んでいるような妙なスリルを感じながらページをめくっていた当時を久しぶりに思い出しました。多分大きめの図書館には聖書外典の翻訳本は置いてると思うので、機会があれば興味のある方は読んでみてください。まぁ、なんというか古今東西を問わず、生きている間に霊界を見て来た人というのは少なからずいるのだなぁ、と感慨深く思ったものです。とはいえ、こうした話は結局のところ「信じるか信じないかはあなた次第です」という世界ではありますが、意外とこの世界は、直感が「面白そう」と感じた事を選ぶと結果的には正しかったりするような世界だと私は思っています。

そういう感じで、ここのところは、そんな霊界的な場所の存在もあるような気がしています。霊界の話は、シュタイナーやスウェデンボルグ等、神秘学的な興味もありますが、プラトンのイデア論や、チベットやエジプトの「死者の書」など、人文学としても興味の尽きないテーマであります。

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こっち関係の本もだんだん集まってきました。まだ読破してないですが、霊界だけでなく、地下王国の伝説とか、理想郷伝説など、別世界のイメージにとても惹かれるところがあります。世間では、そういう場所は「無い」とするのが常識みたいな空気がありますが、そもそも正解の見つかっていない未知の物事ですから、「無いかもしれない」よりも「あったらいいな」の方に価値を置いています。

地底世界のロマンにからめてシャンバラ伝説の記事を下書きしてるところだったのですが、ふと1と一について考えてたら筆がノってしまいました。霊界や死後の世界などの別次元の世界の話は、ルドルフ・シュタイナーの話などとからめて、これもまたいずれ掘り下げて考察してみたいテーマです。
posted by 八竹彗月 at 13:58| Comment(0) | 精神世界

2018年09月08日

【音楽】歓喜の歌など

なんとなくふと聞きたくなった曲をとりとめもなく選んでみました。



るんるんG. Love & Special Sauce「Rodeo Clowns」
るんるんG. Love & Special Sauce「City Livin」
るんるんG. Love & Special Sauce「Numbers」
ジャジーで癒し系なヒップホップがお洒落な感じで心地いいですね〜 G・ラヴ&スペシャル・ソースは米国のヒップホップバンド。



るんるんCapiozzo & Mecco「The Howl」
カピオッツォ&メッコはドラムスのカピオッツォ(Capiozzo)、オルガンのメッコ(Mecco)、ギターのダニエル(Daniele)により2001年に結成された3人組のイタリアのバンド。レトロでダンサンブルな音が魅力です。彼らのアルバム「Whisky A Go Go」は粒揃いの傑作で愛聴してます。アルバムは全曲ヴィンテージのアナログ機器で録音したとのことです。そういったこだわりもあってか、古い映画音楽を意識したレトロな味わいにもリアリティがあって素晴らしいです。



るんるんWalter Wanderley「Caravan」
るんるんWalter Wanderly「Wave」
ワルター・ワンダレイ(1931-1986年)は、ブラジルのオルガン奏者。レトロでトロピカルなオルガンが気持ちいいですね。曲はジャズの名曲「キャラバン」と、ボサノヴァの名曲「ウェーヴ」のカバー。



るんるんLudwig van Beethoven「Symphony No.5(交響曲第5番)」
クラシック音楽の名曲、カラヤン指揮の「運命」です。この曲は楽聖ベートーベンの最高傑作といわれている作品で、「交響曲第5番 ハ短調 作品67」というのが曲の正式名称です。とくに日本では「運命」の名称で親しまれていますね。ベートーベンの弟子がベートーベンに、印象深い出だしの「ジャジャジャジャーン!」のフレーズは何を意味するのか?という問いに「運命はこのように扉を叩く」と答えたとされるエピソードからこの「運命」という通称が生まれました。しかしこのエピソードですが、調べてみると、実際はこのベートーベンの受け答えは弟子による創作であった、という見方が昨今は優勢のようですね。「運命」というタイトルはベートーベン自身による命名ではなく、また曲の本質からずれているために、日本以外では現在は「運命」という名称はあまり使われなくなっているとのことです。有名なエピソードが実は創作だった(かもしれない)というのはちょっとショックですが、しかしながら、やはり創作のエピソードだとはいえ、決定的なあのフレーズを「運命が扉を叩く音」と表現したのは秀逸です。運命という人生に立ちはだかる巨大な謎を音として表現するという発想自体はすごく面白いですね。「かまいたちの夜」とか、名探偵コナンとか、推理ものの謎解きシーンや、謎が解けたときのひらめきのシーンなどに、よくそれっぽい効果音が流れて、それがよりいっそう雰囲気を高めますが、クイズ番組などでの「考え中」の音とか、ああした「思考の状態の効果音」って昔からなんとなく好きでした。そういう嗜好もあって、「運命」もそういう延長線上で気に入ってたのかもしれません。



るんるんLudwig van Beethoven「Symphony No.9(交響曲第9番)」
「歓喜の歌」は47:44以降から。
年末によくテレビとかでよく流れてくるお馴染みのクラシック音楽の「第九」ですが、これもベートーベンの、というより人類を代表する傑作とでもいうべき鬼気迫る迫力を感じるすごい曲ですね。曲中で歌われる「歓喜の歌」がとくに印象的ですね。第九といえば、近年急逝された漫画家、土田世紀の傑作『編集王』のラストで印象深く引用されていたのを思い出します。『編集王』は、漫画業界の裏側を土田作品らしく熱くダイナミックにドラマチックに描いたとても面白い作品で、人間描写のえぐるような鋭さに感嘆しました。この作品のラストで、この漫画の重要な脇役であるマンボ好塚の回想シーンの中で、手塚治虫をイメージさせる漫画界のカリスマ的な大御所が歓喜の歌について語るシーンがあって、そのくだりを読んだ時、魂がうち震えるような感動をおぼえたのを思い出します。これがきっかけで「歓喜の歌」の歌詞の意味を知ったのですが、改めて歌詞を調べてみると、ほんとに崇高で超越的なものを描き出していてすごいですね。手塚治虫という人は少なからぬ日本人にとってはいわば「漫画」そのものを擬人化したような神がかった存在ですが、なんとなく土田先生はそうした権威に反発するタイプのように思ってたので、意外であったと同時に、偉大な先人を純粋にリスペクトする姿勢に、ますます土田世紀の凄さを感じたものです。業界の裏側をリアリズム的にドラマチックに描いていた『編集王』も、後半はだんだん神がかった不思議な描写が増えていきます。おそらく作者もかなり自己の内面に深く入り込んで描いていたんだろうなぁ、と今になって思います。まさに命を削って描いてたのでしょうね。先日『俺節』も改めて読み返してましたが、ストーリーテリングだけでなく、絵そのものの説得力の凄みに久々に圧倒されました。

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第九で歌われる「歓喜の歌」の歌詞(ウィキペディア)



るんるんJ.S. Bach「Crab Canon(蟹のカノン)」
音楽の父と呼ばれたバッハも多くの人を惹き付ける曲を数多く残した天才ですが、晩年に書かれた「蟹のカノン(Crab Canon)」という曲がまたユニークです。楽曲自体も奇麗な旋律で、普通に聴いててもイイ曲だなぁという感じなのですが、曲の仕組みが風変わりで、楽譜の最後から逆向きに音符を辿って演奏してもちゃんとした曲になるように出来ていて、さらにノーマルな演奏と逆からの演奏を同時に行ってもきれいな旋律のフーガになります。さらには、まるで回文のように始まりと終わりが交錯して永遠に演奏を続けることが可能なような仕組みにもなっているという、何重にもアイデアが仕組まれた驚くべき楽曲です。バッハの音楽というと、まるで天上界の音を聴いてるような崇高な気分にさせてくれるヒーリングなイメージがありますが、こういうトリッキーな遊び心も兼ね備えているところが天才の天才たる所以を感じます。先に紹介したベートーベンとバッハには共通点があって、ふたりとも大のコーヒー好きのようです。1日に何十杯も飲んでたそうですが、コーヒーというとどこかワイルドな味とイメージのある嗜好品なので、繊細な音楽を創造した楽聖が好んで飲んでいたというのはちょっと意外な気もします。コーヒーと天才性には何か関連があるのかどうかわかりませんが、自分もコーヒー好きなので、ちょっとあやかりたい気もします。

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【回分旋律】奇才バッハの知られざる曲が凄すぎる!! 「曲に隠されたメビウスの輪」とは?
posted by 八竹彗月 at 08:42| Comment(0) | 音楽