2017年08月29日

『あるヨギの自叙伝』を読んで

ようやく念願のパラマハンサ・ヨガナンダ(1893-1952年)の主著『あるヨギの自叙伝』を手に入れて読みました!ちょうど今の自分の波長に合ったタイミングで読んでいるせいなのか、これは想像以上に面白いです!今回はこの『あるヨギの自叙伝』を読みながら思ったことや感想などを書いていこうと思います。インドの有名な聖者は自分で本を書く人は少ないようで、多くの場合、弟子達が教えをまとめた本でその人物像を想像するしかないのですが、『あるヨギの自叙伝』は聖者ヨガナンダ自身が執筆した著書であることもあり、聖者とはどんな事を思い、どんな人生を歩んでいる人なのか?という素朴な興味にひとつの応えを返してくれます。

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パラマハンサ・ヨガナンダ著『あるヨギの自叙伝』 森北出版 1983年
1946年にアメリカで出版された英語版の『Autobiography of a Yogi』の日本語訳。デザインは異なるものの、表紙に使われている眼力鋭い肖像写真は同じものが使われています。本を手に取る読者の心の内まで鋭く見透かすような神秘的な眼光が印象的ですね。


この本の序盤では、ヨガナンダはかなり小さい頃から神を知りたいという強い欲求を持って精神世界を探求していった人であることが分かります。映画スターでもなく、コミックのヒーローでもなく、いきなりこの宇宙で最強のヒーローである神≠ノ、子供の頃から最大の関心を寄せるというのは、やはり子供時代からしてタダ者ではないですね。インドはシバ神やガネーシャ神など神様のポスターやカード、または像などが日本でいえばアニメやアイドル写真のように普通に日常に溶け込んでいるようなところもあり、世界で最も神様が身近な国というイメージもありますから、もしかするとヨガナンダ少年のような子はそれほど珍しくはないのかもしれませんが、宗教や文化などのフィルターを通したある種架空の存在や何かの方便としての神ではなく、もっとリアルに実在する神を直球で求めようとする所は希有なものを感じます。かといって、いわゆる神童のようなエリート的な雰囲気の子供というのでもなく、神への探究心以外は、自分の意見を通そうと親にゴネたり学校の勉強も嫌いな、ふつうの子供っぽい感じで親しみがわきます。

第11章で、神への信仰心だけで豪華な無銭旅行に成功する少年時代の興味深い不思議な話が紹介されてます。あまりに俗世に執着が無く、神ばかりを求めているヨガナンダ少年に、現実的な兄はいつもお説教していたそうです。「何といっても先立つものは金なんだ。神様はそれからでも間に合う。長い人生には何が起こるかわからないんだぞ」といつものように粛々と説教してくる兄に、ヨガナンダ少年は躊躇無く「いいえ、何よりもまず神です。お金なんか神の奴隷にしかすぎません」と切り返します。あいかわらずの弟の返答に、業を煮やした兄はヨガナンダ少年にひとつの賭けを持ちかけます。その内容は、現在地であるインドのアーグラからブリンダバンの町まで、一銭も使わずに行って帰ってこいという課題です。お金より神が人生の最重要事なら旅費も食事も神がなんとかしてくれるはずではないか?という兄の提案です。しかも条件は厳しく、食べ物やお金を他人にねだるのも、自分たちの事情を誰かに訴えるのも禁止。しかし食事はちゃんと取らないといけない。これらの条件を守って今夜十二時までにこの家に戻ってくる事≠ニいうものです。このミッションでは、友人のジテンドラという少年がヨガナンダに付き添って旅をすることになります。ジテンドラはどちらかといえば兄のように懐疑主義的な人間で、いわば監視役ですから、旅するうえでのズルやゴマカシもききません。これはヨガナンダ兄からの本気モードの挑戦です。ヨガナンダ少年はうろたえることなくこの難易度の高いチャレンジを受け入れます。

アーグラからブリンダバンといってもピンと来ないと思うので、調べてみると、およそ70kmほど離れていて、電車で2時間少々かかる距離のようです。日本でいうと東京から伊豆くらいの距離です。結論から言うとこの兄の賭けに見事勝利する話なのですが、行く先々で起こる数々の奇跡の連続が見所です。神は奇跡を通じてその存在を人間に知らせることがよくありますが、このエピソードも、そうした具体例のひとつとして興味深いものを感じます。奇跡というと、ついつい私たちは、超常的なレアな偶発的なもののように考えがちですが、精神世界の視点から見ると、奇跡というのは、疑念とか不安などの何のノイズも入らない状態で物事が完璧にスムーズに展開する事≠フように思います。気候の変化と無関係な地下深くの完璧な状況下では、二酸化ケイ素が結晶化すると見事に六角柱状の幾何学的な形状をした水晶に育ちます。それと同じように、人間界の出来事も、悪意や不信などのノイズを限りなくゼロにした理想的な状況下では、そこで起こる出来事も完璧に理想的な展開、つまり奇跡が起こりやすくなるのだと思います。ヨガや禅など、多くの精神修行が目的とする事のひとつは、健康や精神衛生のほかに、そうした人間の肉体や心の内部のノイズをゼロに近づけることで意図的に奇跡を起こせるようになることでもあります。

そんなこんなで無事にミッションをクリアし、アーグラに帰ってきたヨガナンダ一行ですが、彼らを見て兄は仰天します。一銭も持たずに出て行ったヨガナンダが札束を抱えて帰ってきたからです。追いはぎでもしたのでは!?と不安をあらわにする兄に、不思議な奇跡が次々に起きた旅の顛末を説明すると、兄はやっと納得し、またそれまでの考えを180度改めて「私はお前が俗世の富や宝に無関心でいる理由が今やっとわかった!」と神の実在を受け入れ、友人のジテンドラと共にこの日、即座に弟ヨガナンダの弟子になったそうです。

神≠ニいうと、宗教くさい印象を受け取りやすいですが、具体的には究極の真実、または宇宙的な全てを含有する大きな超越的な法則、あるいはそれ以上の定義しがたい存在でありますから、逆に神≠ニいう言葉を使ったほうが手っ取り早いのも確かです。極論すれば、科学もまた宗教とは別のアプローチで神(≒究極の真実)を知ろうとする試みであるといえるかもしれませんね。

メモ参考サイト
インド、アーグラからブリンダバンまでの地図(Google Map)

と、まぁ、上記のような自伝的なエピソードも面白いものが多いのですが、この本の他には無いユニークな価値は、とにかく不思議な能力を持った聖者がたくさん紹介されているところです。単に「そういう聖者がいるらしい」という伝聞ではなく、紹介されている人間離れした聖者たちのほとんどに直接合って教えを受けたりしているところが生々しくて凄いです。そもそも、ヨガナンダの師匠であるグルのスリ・ユクテスワ師からして超人的にスゴイ聖者なのですが、さらにユクテスワ師の先生であるラヒリ・マハサヤ、さらにその師匠である不死のヨギー、ババジと、直系の師匠たちからして想像を超えた超人揃いで、ひさびさに読書の快楽に浸れました。読みながらこの世の秘められた広大な可能性にワクワクしてきます。ヨガナンダの紹介する聖者たちの話は、どれも日常の一般的な常識を逸脱したエピソードのオンパレードなのですが、ヨガナンダ自身不思議な生涯を送った聖者なので、それらのエピソードを確信をもって語っており、深遠な説得力があって引き込まれます。前回のヨガナンダの記事で、ビートルズのレコードジャケットにヨガナンダが登場していることに触れましたが、他にも『あるヨギの自叙伝』に登場するヨガナンダの師匠ユクテスワ師や、ラヒリ・マハサヤ師、そしてババジ師も写っていて、ビートルズ、とくにジョージ・ハリスンのヨガナンダへの傾倒は並々ならぬものを感じます。

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1967年に英国で発売されたビートルズのアルバム『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』(Sgt. Pepper's Lonely Hearts Club Band)のジャケットアートに登場するヨガナンダとその師匠たち。スリ・ユクテスワ(Sri Yukteswar 1855-1936)はヨガナンダの師匠、ラヒリ・マハサヤ(Lahiri Mahasaya 1828-1895)はユクテスワの師匠、ババジ(Babaji)はラヒリ・マハサヤの師匠です。師弟の順にババジ→ラヒリ・マハサヤ→スリ・ユクテスワ→パラマハンサ・ヨガナンダ、となります。

不思議な事は、非日常なイメージがあるので、体験しない限りは信じられないと思っていた時期も私にありましたが、日常が「不思議に乏しい世界」である原因は、そもそも人間社会が日常から不思議を排除することで「この世界は(常識の枠内に収まるような)秩序だった世界なのだ」という幻想を作り上げたせいでもあります。そうしたほうが、様々な人間の集う共同体を維持するために都合がいいからそうしているだけで、そうしたあらかじめ社会から与えられた常識的思考の枠組み≠ちょっと外してみるだけで、一挙にこの世界は謎と不思議に満ちたスリリングな世界に豹変します。

この本に登場する不思議な聖者達のエピソードは、精神世界に馴染みが薄いと、にわかに信じがたいものが多いかと思いますし、精神世界に馴染みがある人でも、超常現象的な派手なものは求道の本質から外れるものとして嫌う人もいます。ですがそうした超人的な部分は一般には一番興味深い部分でもありますし、また、インパクトが強いからこそそれが求道のきっかけになったりする場合もあります。また人間の可能性の限界まで到達したヨギーとはどういう存在なのかを示すひとつの側面であるのも確かですから、そうした話を包み隠さず書き残した『あるヨギの自叙伝』は貴重な資料ともいえるような気がします。

私たちは飛行機などの交通機関の発達や、インターネットなどで、なんとなく世界の全てを知ったような気分に陥りがちですが、実際問題、遠い異国どころか、つい隣町の路地裏など、行ったことも見た事もない未踏の場所は身近にも無数にあります。ストリートビューから外れた地域はネットだけで確かめる事も不可能です。宇宙の謎どころか、地球上の謎すら未解明の事のほうが多いです。という感じで、この世界は自分の認識や常識を超えた部分のほうが圧倒的に多いのが現実です。人間は、人間に具わった肉体的な感覚器官(目、耳、鼻、口など)を通じ、その刺激を解釈する事で、この世界に一定のイメージを割り当てて解釈していますが、当然、本当のリアリティというのは、部分的に伝わってくる肉体的な刺激だけで把握する事は不可能ですから、ブッダなど、多くの賢人が言うように、人間が常識的に考えているこの世界の解釈は根本から何かを勘違いしている可能性があります。

もしも、人間の視覚が捉える波長の範囲(可視光線)が紫外線、または赤外線領域に大きくズレていたとしたら、まったく違った世界を見ることになりますし、波長の違いを「色」として捉えている脳が、そうした世界をどんな「色」で認識するのかは、全くの謎です。瞑想というのは、そうした肉体的な感覚器官に頼らずにリアリティを捉えようとする試みのひとつで、自分を宇宙そのものが持つ感覚器官のひとつとして機能させることで、宇宙に溶け込み、知性ではなく、感覚的に宇宙的リアリティを体感するものともいえるでしょう。ヨガナンダは、他の著書『人間の永遠の探求』でも、瞑想を「神を知るための最も有効な手段」であると明言しています。まぁ、そうした超越的な価値だけを目的にせずとも、瞑想は普通に精神衛生にも良いですし、頭もスッキリして気持ちいいので、習慣にして損することはないと思います。

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パラマハンサ・ヨガナンダ著『人間の永遠の探求』 森北出版 1998年
こちらはヨガナンダの講演集です。『あるヨギ〜』は、自伝中心なのでインパクトの強い聖者達のエピソードに圧されてヨガナンダ自身の思想は控えぎみに書かれている感じですが、こちらの講演集は、『あるヨギ〜』では語りつくせなかったヨガナンダの教えに関する話が中心になっています。瞑想の話など、実践的な内容が多く、こちらの本もなかなかに興味深く、面白いです。


『あるヨギの自叙伝』は、序盤は少年期の神を探求するヨギーへの憧れから生涯の師匠になるユクテスワ師の元での修行にはじまり、中盤では、自己の内面の霊的なレベルが上がるにつれて知り合う聖者の超人具合もエスカレートしていき、何もない空間からモノを物質化させるヨギーや、半世紀も不食で生きるお婆さんや、死者を蘇らせたり、同時に2カ所以上に偏在できる聖者など、次から次に超人的な聖者が紹介されていきます。しかも、その多くには具体的な名前と場所、また聖者の肖像写真も掲載していて、すこぶる具体的に記述されていて臨場感があります。後半ではさらに凄い展開で、自らの意志で肉体の死を迎えた師匠のユクテスワ師が蘇り、高次元の幽界での活躍を弟子のヨガナンダに語るエピソードが圧巻です。常識では信じがたい話ばかり出てきますが、この世界は私の知るちっぽけな常識程度なら楽々飛び越えるくらいには広大なものであるのは確実だと思っていますし、何より、面白くて役に立つものなら、ある意味ちまちました常識よりも価値のあるものだと思うので、私としてはヨガナンダの話を全面的に思いっきり信じようと思ってます。おそらく、もし1年ほど早くこの本に出会っていたら、私は信じなかった気がするので、ちょうど受け入れ態勢が整った時期に良いタイミングで読めて良かったです。

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(左)ラデシャム著『ババジ伝』 森北出版 1995年
『あるヨギ〜』で紹介される聖者の中でもとびきり超人的な聖者がマハーアヴァター(偉大なる神の化身)と異名をとるババジです。この本は、3世紀初頭にこの世に現われ、以来千数百年も肉体を持ったままこの現世に留まりつつ人類を導くと伝承されている謎めいた聖者ババジに関する本です。なんとも不思議な聖者ですが、けっこう写真もバンバン撮られているようで、ネットでも「Babaji」で検索すれば気さくに笑う若々しいババジの姿がたくさん見れます。まだ手に入れたばかりの本なので未読ですが、読むのが楽しみです。
(右)スワミ・スリ・ユクテスワ著『聖なる科学』 森北出版 1983年
ヨガナンダの師匠であるスリ・ユクテスワによる著書。聖書とヒンドゥー教の根本的一致を解明する本を書きなさい、というババジからの指示で書かれたとされる本で、100ページ未満の短い内容ながら、無駄な描写をいっさい省いた凝縮された内容です。精神世界からの視点で書かれた宇宙論が序盤で語られ、真理に基づいた生き方などの実践的なノウハウなどを中心に、肉食に否定的なユクテスワ自身の思想なども盛り込まれ、奥が深いながらも興味深く読ませる内容になっています。
posted by 八竹釣月 at 04:32| Comment(0) | 精神世界

2017年08月12日

【音楽】トワイライト・タイム

最近聴いてる曲からいくつか選んでみました。

るんるんScotty Stoneman「Orange Blossom Breakdown Revival」
フィドルの駆け抜けるようなスピード感が気持ちいい! スコッティ・ストーンマン(1932-1973)はアメリカのフィドラー。30人のフィドラーによる名演奏を集めたコンピレーションCD「30 Fiddler's Greatest Hits」に収録されていて知ったのですが、こういう世界もなかなかイイですね〜 曲も面白いですが、関連動画で晩年にテレビ番組で披露したこの曲のアクロバティックな演奏パフォーマンスも輪をかけて面白いですね。フィドルとはヴァイオリンの別称で、クラシックやジャズ以外の、ケルト民謡とかブルーグラスなどの土着性のある民族音楽などでヴァイオリンが使われる場合、ヴァイオリンとは呼ばずにフィドルと呼ぶのが慣習になっているようですね。


るんるんDjango Reinhardt「The World Is Waiting For The Sunrise」
ジャンゴ・ラインハルトとよく一緒に演奏していたジャズバイオリニストのステファン・グラッペリも心の声や感情や情緒がそのまま音になったような素晴らしい演奏が素敵ですね。ジャンゴの名演奏にさらに深みを与えていた感じで、その哀愁の演奏は心に染み入ります。


るんるんThe Platters「Humble Bumble Bee」
プラターズはアメリカのコーラス・グループ。ベースのグルーヴ感がたまらないですね〜 低音のドゥーワップ風のボーカルがカッコイイ! プラターズといえば、誰もが聞き覚えのある曲「オンリー・ユー」が広く知られていますが、他の曲も聴いてみたらけっこういい感じなので最近よく聴いています。


るんるんThe Platters「Smoke Gets In Your Eyes」
プラターズによるジャズのスタンダードナンバー「煙が目にしみる」の秀逸なカバーです。煙草のではなく、恋の炎から舞い立つ煙で目がしみるということで、洒落た暗喩ですね。


るんるんThe Platters「Twilight Time」
これもプラターズの1958年のヒット曲「トワイライト・タイム」です。1944年のザ・スリー・サンズ(The Three Suns)のインストゥルメンタル曲がオリジナルで、それに歌詞をつけ大ヒットしました。ザ・スリー・サンズも味があるバンドで好みです。オリジナルのほうもオルガンのレトロな響きがたまらないですね。


るんるんThe Clovers「Love Potion No. 9」
アメリカのコーラス・グループ、ザ・クローバーズの代表曲、「ラブポーションNo.9」、1959年につくられたヒット曲です。メロディがすごくかっこいいですよね。歌詞もナンセンスなコメディ調でおもしろいです。主人公は占い師のジプシー、マダム・ルースに恋の悩みを相談し、怪し気な9番目の媚薬≠もらいます。その松ヤニみたいな臭いのする真っ黒い液体を鼻をつまんで飲んでみると、目に入る者全てにキスをしまくるようになって、しまいにおまわりさんにもキスをしてしまいます。警官は怒ってその9番目の媚薬≠フ入った瓶を叩き割ってしまう、という内容です。


るんるんElvis Presley「Surrender」
ラテン音楽っぽいノリがかっこいいですね。出だしが「シークレット・エージェント・マン」っぽいサスペンスな雰囲気で引き込まれます。(ちなみにプレスリーの「サレンダー」のほうが先に作られています)プレスリーは食わず嫌いであまり聴いてなかったんですが、やはり彼の歌唱は人を惹き付けるパワーがあって、聴くほどにクセになりますね。後で調べてわかったんですが、この曲は、あの有名なイタリア民謡『帰れソレントへ』を英語詞でポップな感じにアレンジした作品のようですね。


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タグ:音楽 洋楽
posted by 八竹釣月 at 04:58| Comment(0) | 音楽

2017年08月11日

納涼!日本の夏、着物美人

戦前の婦人雑誌のスクラップ帳より、涼し気な夏の和服女性の画像を選んでみました。

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汗いつぱいになつていらつしやつたお客様に、直ぐに、氷を扇風機をと、大騒ぎしておもてなしするよりも、見たゞけでも涼しさうなお客間に、お通しゝて、暫時お待たせする方が、どんなにおよろしいでせう。

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「レート白粉(おしろい)」の広告。楽しそうな満面の笑みがイイですね〜

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アレカヤシの爽やかなトロピカル感と和服の取り合わせがエキゾチックでお洒落な雰囲気ですね。

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戦前の広告とは思えない力強く大胆で現代的なグラフィックデザインですね。

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縁側と団扇。ザ・日本の夏!といった感じですね。

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海からお帰りの皆様のクリームです!

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『先日の、お花の會には、お見えになりませんやうでしたが、どうか遊ばしまして?』主人は、巧みに話題を作つて、お客様に暑さを忘れさせます。お客様のお話を、妨げないやうに、何氣なく扇いで上げるのも、主人の優しい心遣ひです。

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水まきをする熱海芳枝(女優、歌手)。
タグ:着物 古本
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2017年08月02日

日本雛形理論と地図のロマン

◆日本雛形理論

地図帳を眺めていて、「オーストラリアと四国ってにてるなぁ」とか「ニュージーランドって日本列島に似てるなぁ」と思った人は多いと思います。こうした考えは昔の人にもあったようで、明治時代あたりに、そうした地形の類似を考察したユニークな『日本雛形理論』というオカルティックな仮説が登場しました。『日本雛形理論』とは、日本列島の形は世界の全ての陸地の縮図になっているという思想で、実際にけっこう類似点は多く、偶然だとか思い込みとかで退けるのはもったいないくらいにワクワクする面白い仮説です。霊界旅行で有名な日本のスウェデンボルグ、出口王仁三郎(でぐち おにさぶろう)が唱えたことで一躍有名になりましたが、それ以前から世界と日本の地形の類似を指摘した仮説は明治時代初期から存在していたようで、明治2年に発行された作者不詳の奇書『神典図説(しんてんずせつ)』にも、日本と世界の対応図が描かれていたようです。世界の陸地の全容がある程度はっきりしてくるのが16世紀頃ですから、もっと前の時期にこのような発見をする人がいてもおかしくない気がしますが、日本は長い間鎖国してたので、黒船によって世界と対峙せざるをえなくなってきてからやっと日本以外の世界の有り様というものに関心が向いたというのもあるかもしれませんね。

日出(ひ いづ)る国の日の本(ひのもと)は、全く世界の雛形ぞ。神倭磐余(かむやまといわれ)の君(きみ)※が大和(やまと)なる、火々真(ほほま)の岡に登り坐(まし)、蜻蛉(あきつ)の臀嘗(となめ)せる国と、詔(のら)せ給ふも理(ことわり)や。我(わが)九州は阿弗利加(アフリカ)に、北海道は北米に。台湾島は南米に、四国の嶋は豪州(オーストラリア)に、我(わが)本州は広くして、欧亜大陸其儘(そのまま)の、地形を止(や)むるも千早振(ちはやふる)、神代(かみよ)の古き昔より、深き神誓(ちか)いの在(いま)すなり。

※神倭磐余の君=神武天皇

『いろは神歌』出口王仁三郎 大正7年(1918年)


この『いろは神歌』にも歌われているように、王仁三郎の日本雛形理論では台湾を南米大陸と照応させています。台湾は明治28年(1895年)から昭和20年(1945年)までの間は日本が統治してましたから、そうした時代的な背景もあって、ちょうどうまくこの理論が成立している感じですね。各パーツの照応にはいくつかバリエーションがあって、南米を北海道に当ててたり、また別の説では淡路島を南米に当てているケースもあるようですが、やはり王仁三郎の雛形説が一番しっくりハマっている印象があります。

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これは通常の世界地図です。この地球上の主な陸地に、雛形理論が成立した時代に日本の一部だった台湾を含めて当てはめてみると以下のようになります。

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この説をはじめて知ったときはけっこう似てるのに驚きました。四国とオーストラリアの類似はかなりのそっくりさんですね。本州も複雑な地形ながら、意外に一致点は多く、アラビア半島と紀伊半島、インドは静岡あたり、インドシナ半島は伊豆半島に対応しているのがわかります。九州や台湾が共に南の暖かい地域に割り当てられている所や、北米と北海道も形状だけでなく、共に新しい開拓地という歴史的な意味合いまでも通底したものがあって意味深なものを感じます。

四国とオーストラリア、九州とアフリカはとくに似てますよね。ユーラシア大陸と照応しているのは本州で、その最大の湖である琵琶湖の位置がカスピ海の位置に近くにあります。ほかに、富士山とエベレスト山、伊勢神宮とメッカ、世界最多人口を抱える中華人民共和国は日本最大の人口を抱える都市、東京の位置と重なります。形の一致だけでなく、宗教的な聖地や、人口などまで一致点があり、なかなか神秘なロマンを感じさせます。コジツケと呼ぶには出来すぎているようにも感じますし、理性では根拠のない珍説だと否定しますが、本能的にそれだけではない何かを感じます。オカルト界隈で有名な説といううさん臭さが邪魔して真剣な議論にならない珍説ということになってますが、コジツケというには同じようなノリでコジツケ出来る国は他にあまり見当たらないですし、個人的には何か見えない世界からの霊妙な意志を感じます。出口王仁三郎はまた「日本で起こる事件は世界でも起こる。(逆もあり)」という国家規模の趨勢も対応していると説いたことも知られていますね。

突っ込みどころを探せば「完全に一致してるわけじゃない」「似てない部分は無視している」などいくらでもでてきますが、人間の親子でさえ双子のように似てるわけじゃないですから、このレベルで似てるなら十分に何かの意味=Aつまり超越的な次元での寓意を感じてしまいますね。このような日本を特別視したモノの見方をするのは、そのつもりがなくても自民族の優越性を自慢してるような居心地の悪さを感じる面もありますが、また一方で「自分や自分の属している国が特別であってはおかしい」という無意識的な考えも根拠のない固定観念にすぎません。

日本人に限らない話ではありますが、日本人はとくに、ポジティブな情報よりもネガティブな情報を信じるようなところがあり、都合のいい話より都合の悪い話のほうが信憑性があると考えがちなところがあるように思います。しかし、都合の悪いことも都合のいいこともどちらも存在してるのがこの世界ですから、都合がいい話なら普通にラッキーということで楽しめばいいいのかな、とも思います。

マジックショーを見ても、その不思議さを純粋に楽しむより、まずは種明かしにこだわるような国民性なので、何度もマジックブームがおこってもいつも短命で終わってなかなか定着しないのは、種明かしにこだわりすぎるなど、マジックの楽しみ方がよくわかっていないからかもしれません。このような国民性は、16世紀に日本に初めてキリスト教を伝えたことで知られるフランシスコ・ザビエルの書簡でも指摘されていて面白いです。

日本人はどの国民より何ごとでも道理に従おうとします。日本人はいつも相手の話に聞き耳を立て、しつこいほど質問するので、私たちと論じ合うときも、仲間同士で語り合うときも、話は全く切りがありません。(p89)

『ザビエルの見た日本』ピーター・ミルワード著 松本たま訳 講談社学術文庫 1998年


ザビエルは宣教師ですから、当然神についての質問も日本人からたくさんうけます。神が完全に善なる存在ならなぜこの世に悪があるのか?とか、なぜ悪魔を創ったのか?いくら生前に罪をおかしたとはいえ、なぜ地獄というものまで作って永遠に魂を責め続けるのか?慈悲の心がない神なのか?などと、懐疑主義的に直球で問題の核心を突いてくる日本人に、「悪魔ももとは善いものとして創造されたが、その過失のために悪者になり、そのために永遠の罰と責め苦にさらされているのだ」などと教条主義的な苦しい受け答えに終始しています。

日本人は、この万物の創造主である神は善いものか悪いものか、また、それは善悪双方の根源であるかないかについていろいろ質問しました。私たちは、創造主である神は一人おられるだけで、それは至高の善であり、悪はみじんも混じっていないと答えました。
日本人はこの答えに満足しませんでした。悪魔は生来悪者で、人類の敵だと彼らは考えていて、もし神が善だとすれば、それほど悪いものを創造するはずはないと言いました。この主張に対して私たちは、悪魔ももとは善いものとして創造されたが、その過失のために悪者になり、そのために永遠の罰と責め苦にさらされているのだと答えました。これに対して日本人は、人間をそれほど厳しく罰する神はあわれみ深い者ではないと反論しました───では神が、私たちが教えたような方法で人類を創造したとしたら、神はいったいどういうわけで神を礼拝するために人間を世界に送り出しておきながら人間が悪魔に誘われたり苦しめられたりするのを許したのか。神が善なら、神はどうして人間をこれほど弱くて、罪に傾きやすくて、すべての悪を逃れることができない者にしたのか。そしてまた、神がこれほど恐ろしい責め苦を永遠に耐え忍ばなければならない者に対して何のあわれみも持たずに地獄という牢獄を創造したとすれば、それでも神は善だと言えるか。(p87〜88)

『ザビエルの見た日本』ピーター・ミルワード著 松本たま訳 講談社学術文庫 1998年


当時の日本人はキリスト教的な宗教観は全くの未知のものであったはずですが、かなり的確な指摘をしていますね。日本は仏教というロジカルな宗教を先に受け入れていたせいか、神学的な内容にも論理的に反駁していて、このあたりのやりとりは小気味いいです。この時代のキリスト教者の神観はかなり教条主義的で融通がきかないところがあるのがザビエルの書簡集を読んでいても感じますね。まぁ、ザビエルの所属するイエズス会という組織自体が、「教皇の精鋭部隊」とも呼ばれ、世界中への伝道活動を積極的に行うアクティブな団体でしたから、一般のクリスチャンの考えよりもそうとうに原理主義的な傾向があったのかもしれません。こうしたある意味屁理屈で矛盾を解釈する部分にはヨーロッパ人でさえ不信感をもっていましたし、異文化圏の日本ではなおさらだったのでしょう。

ザビエルは日本人を、合理主義者で知識欲が旺盛、好奇心に満ち、どの国民よりも盗みを嫌う民族であると絶賛していますが、布教の内容は正直いただけない印象があります。キリスト教自体を知らない当時の日本人の先祖は、当然生前に洗礼をしていないわけですが、そうしたご先祖様はザビエル的には皆地獄で永遠の責め苦に苛まれていると断じています。そして、その地獄にいる先祖を救う方法も皆無であるとしてるので、そうとう当時の日本人は困惑したみたいです。ザビエルの論法だと、そもそもイエス・キリストの生まれる前の世界では、すべての人類は死んだら地獄のみへの一方通行でひとりも天国には行けないということになります。こうした昔のキリスト教の情緒的な善悪二元論的な解釈は整合性を著しく欠くもので、ニーチェは厳しく批判していましたし、ヘルマン・ヘッセやユングもキリスト教的な抑圧にあるヨーロッパの解放を東洋思想に求めました。近年は、ジョセフ・マーフィーをはじめとするニューソート思想で再解釈されたキリスト教や、パラマハンサ・ヨガナンダなどヒンドゥー教の聖者によるキリスト教の解釈などの影響で、昔の教条主義的な解釈をされたキリスト教だけがキリスト教の本質ではないことが認知され、新たな価値を持ってきたように思います。

話が横道にそれましたが、『日本雛形理論』に話を戻しますと、こうした仮説はなにかとイデオロギー的に解釈されることが多く、実際にそういう面もなきにしもあらずですが、ふつうにこのユニークな偶然の一致は面白いと思いました。なんというか、見えない世界からの精妙な影響力のようなものの一端を垣間みているような感じで好奇心をくすぐる説です。

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今度は逆に世界の陸地を使って日本列島っぽく組み合わせてみました。

「日本雛形理論」で検索すると、全国各地と世界各国との詳細な対応を解説したサイトなどもヒットしますので、興味のある方は調べてみると面白いです。

メモ参考サイト
日本雛形理論(ニコニコ大百科)



◆世界のミニチュアとしての地図

『日本雛形理論』の面白さは、日本という国自体が縮小された世界、つまり世界地図の役割をしているという入れ子構造にあると思います。日本の国土そのものが地球の地図になっているというところがこの仮説の魅力ですね。そもそも地図自体がロマンあふれる魅力的なものですから、世界を新聞紙くらいの大きさに縮めて携帯できるようにしてしまった地図という存在は、その実用性を超えてコレクションの対象にもなっている事もうなづけるところです。

想像力の冒険王! テーブルの上のアメリカ大陸を一日二往復目 目で走破しても
息切れしない私は 魂の車輪の直径を
メートル法ではかりながら
「癌の谷」をいくつも越え捨ててきた

『ロング・グッドバイ』(抜粋) 寺山修司



大好きな詩、寺山修司の『ロング・グッドバイ』の序盤に出てくる描写ですが、「地図」という言葉を全く使わずに地図を拡げたテーブルを描いています。逆に、地図という言葉を省いたからこそ、サボテンと荒野が続く広大なアメリカ大陸をテーブルの上に幻出させる言葉の魔術が成功しているともいえますね。

学生時代など、なにげなく地図帳を開いて「エロマンガ島」とか「スケベニンゲン」の位置を確かめたりした方も多いと思います。そういうのもまた地図の愉しみのひとつですね。

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江戸時代初期に描かれた世界地図の屏風絵。北海道がまるまる消えているのがミステリアスです。

地図というもの自体が、現実の空間を二次元的に縮尺したミニチュア世界ですから、それ自体で胸のときめくロマンチシズムを感じるのは前述したとおりです。技術が未熟だった過去の時代につくられた不正確な古地図などは、正確な今の地図よりも、当時の時代の技術力や世界に対する好奇心や憧れまでもが封じ込められていて、格別の味わいがありますね。未踏の地は、誰も情報として存在が未確認であるために、事実上存在しない土地ということになっているのもミステリアスなムードがあります。江戸時代の古地図に、北海道がまるで存在しないかのように消えているものがいくつもありますが、こうしたものもなかなか不思議な感じがします。北海道の場合は、存在自体は昔から知られていましたが、19世紀初頭に日本の管轄下となった新しい地なので、それ以前の地図ではそうした政治的な理由で消えてるのでしょうね。イデオロギーによって無い事になっている土地というのも不思議な感じがします。

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「ヨーロッパの新しい平野と完全な地図 (New Plain and Exact Map of Europe)」 17世紀
ニコラス・ビッシャー(nicolaes visscher)による地図を元にした、ヨアン・ブラウ(Joan Blaeu)による英語版の地図。欧州の地図にも北海道が消えてるものが複数あります。


メモ参考サイト
江戸時代の世界地図(google画像検索結果)

初期の世界地図(ウィキペディア)

また、数年前の都市伝説ブームで話題になった杉沢村などの地図に載っていない村≠フ話も興味を惹かれますね。本来リアル世界と一対一対応しているはずの地図という案内板に無い場所というのは、異世界っぽい幻想をかきたててとてもミステリアスです。隣町の路地裏など、我々にとって足を踏み入れていない未知の場所は身近にも無数にありますから、地図というのは、目的地にたどり着くために必須の頼りになる案内役です。案内役ですから、嘘つきでは困りますので、地図はいつも正直で正確であることが求められます。こと近年では地図情報の更新は頻繁に行われるようになってきたので、いつしか地図に載っている情報は正しくて当たり前のように思い込んでいるフシが我々にはあります。そういう意味では、地図上の世界もまたリアル世界に影響を及ぼすもうひとつの世界でもあります。そこにあるはずの場所が載ってなかったり、無いはずの場所が載ってたりすると、とたんに平凡な日常に異次元の扉が開いてしまったような不可思議な違和感を感じるのだと思います。地図に無い街の話は杉沢村の都市伝説が流行るよりもずっと前にSF界の鬼才、P・K・ディックが短編小説で披露していたのを思い出します。以下に、その原作を幻想小説研究家だった時代の若き日の荒俣宏が短くリライトした逸品を引用します。


地図にない町
P・ディック原作

スペード「そんな駅ありませんよ!」

 その小男は、窓口へ五ドル札を差し出した。
「切符を一枚。メイコン・ハイツ行きのを。」
「メイコン・ハイツ?」
駅員は、驚いて路線図を調べた。
「お客さん、そんな駅はありませんよ。」
「ない? 冗談きついな。私はメイコン・ハイツに住んでいるんだぞ。」
「ないものはないんです。ほら、この路線図を見てください。ありもしない駅の切符なんか、おいてあるわけないでしょう?」
「そんなバカな! 私はもう半年もこのB電車を利用しているんだ。」
 小男は路線図をひきよせると、熱心にそれを調べだした。ふいに小男の姿がパッと消えた。路線図だけがパタンと床に落ちた。
 駅員は驚きで息が詰まりそうになった。
 数分後、駅員はまたあのことばを聞いた。
「切符を一枚。メイコン・ハイツ行きのを。」
 さっきの男だった。駅員は青くなった。が、今度は男を事務室のなかにひっぱりこんだ。
 すると、その男はむくれだした。
「切符を一枚買うのになんだって手間をとらせるんだ。なぜいつものように売ってくれない!?」
 助役のペインがとんできて、男に言った。
「あなたはホントに、いつもこのB電車を利用なさっているんですか?この路線には、メイコン・ハイツという駅はないんですがね。」
「イヤになるなあ。きみたちは自分の鉄道のこともよく知らないのか! この駅からちょうど49分のところがメイコン・ハイツだ。人口は5000ぐらいかな。私は二年ほど前から、その町に住んでいるんだ。」
おかしいな。その町は地図にもないし、市町村名簿にものっていませんよ。私たちは…。」
 ペインはことばをとぎらせた。目の前で、男の姿は吹き消すように消えてしまったのだ。

スペード四次元の停車場

電車は殺風景な平野を走っていた。ところどころ丘があり、ハイウェイにそって走る車が見え、電柱が次々に現れては消えていく。
 ペインはまた腕時計を見た。乗ってから41分すぎていた。彼はメイコン・ハイツというところがあるかどうか、確かめにきたのだ。
 太陽がちょうど地平線に沈んで、夕暮れが平野をつつみはじめた。
 あの男のいった49分にあと1分、50秒、40秒…。ペインは緊張し、息を殺した。
 そのとき彼は、平野の上に半透明の煙幕のようなものが横に長くたなびいているのを見た。
 なんだろう? かすみにしては変だ。
 急にブレーキの音がし、電車が停止した。
 ペインの向かい側にすわっていた背広の男が立ち上がってドアのほうへ行き、電車から地上へ飛び降りた。
 男は足早に野原を横切っていき、あの煙幕のようなもののほうへ歩いていった。
 男のからだが宙に浮いた。彼は地上から30センチほどのところを歩いていた。それがだんだん高くなり、地上1メートルの高さになった。やがてその姿は煙幕の中に消えてしまった。
 ペインはあわてておりようとしたが、もう電車はスピードをあげていた。
 彼は車掌室のほうへスッとんでいった。
「おい、今の停車はどういうわけだ?」
「え? あそこにはいつも止まりますが…!?」
「バカをいえ。あんなところに駅はない!」
「B電車はメイコン・ハイツにはいつも停車します。きょうも平常どおり、時刻表どおりです。」
 車掌が差し出した時刻表をペインは見た。
 ウソではなかった。メイコン・ハイツ駅は、確かにそれに出ていた。
 夕闇の中で、あの巨大な煙幕のようなものは、急速に形を整えていた。一つの町が生まれつつあるようにも見えた。

スペード「過去」がひっくり返った!

 翌朝、ペインは恋人のローラが住んでいるアパートにやってきた。
「どうだった? わかったかい?」
と、ペインはせきこんでたずねた。彼はローラに、メイコン・ハイツという名について、図書館で古い記録を調べてもらったのだ。
「わかったわ。七年前に、郊外に新しく三つの住宅地を開発する計画がたったの。ところが三つのうち決まったのは二つで、一つはとりやめになったのね。それがメイコン・ハイツよ。たった一票差で議会で認められなかったのよ。」
「そうだったのか───。」
 ペインは考えこんだ。メイコン・ハイツはあと一票で承認されるところだったのだ。つまりそのときの空間と時間の流れはきわめて不安定だった。その時期がすぎたあと、まだ完全にかたまっていなかった過去に変化が生じたのだ!

 ペインはまた電車に乗って、メイコン・ハイツへ急いだ。
 彼の予感はあたった。駅におりると、午後の日差しをあびてきらきら輝くメイコン・ハイツの町があった。24時間前にはただの荒れ地だったところに、商店街が、スーパーが、銀行が、そして住宅がたちならんでいた。
 ごくふつうの人々が、町を歩き、買い物をし、喫茶店やスナックで楽しそうに話していた。
 ペインは、女の子のひとりにきいてみた。
「どれくらいこの町に住んでいるの?」
「そうね、もう二年になるかしら。」
 青ざめた顔で彼は町をながめた。信じられなかった。だが、町はまちがいなく実在していた。
 ふいに、彼はすべてを理解した。
《過去が変化すると、現在もその影響を受け、変わってしまうことになる。そうだ、このメイコン・ハイツは広がっているのだ。丘の向こうへの、自分の町の中へもこの町の人たちははいりこんでいるのだ! 自分の町も今、変化しつつあるのだ!》
《すると、恋人のローラはまだそこにいるだろうか? 自分の生活に変化はないだろうか?》
 彼は恐怖にとらわれた。もう、メイコン・ハイツどころではなかった。彼はタクシーをつかまえ、自分の町へ向かってぶっとばした。
 町なみが矢のようにすぎていく。やがて自分の町へはいってきた。彼は町を見回した。
《大きなデパート。あれは前にはなかったぞ。あれ、ここにあった肉市場はどうしたんだ!?》
 すべてのものが変わりつつあった。
 心臓が破裂しそうだった。彼はタクシーをおり、恋人のローラのアパートへかけこんだ。
「ローラ、きみは大丈夫か!」
 彼は絶叫した。台所からローラが目をまるくしてとびだしてきた。
「まあ、ジミーが目をさましたじゃない!」
「ジミー? い、いったいだれだ、それは?」
「あら、あなた、私たちの子ども忘れちゃったの?」
 ローラはそういって、かたわらのベッドに寝ている赤ん坊を見て、にっこり笑った。(完)

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『世界の恐怖怪談』荒俣宏、武内孝夫著 学研 1977年


時空の歪みという壮大なテーマをごく普通の一般人の目線で描いていて、異世界に迷いこむリアルさを感じる傑作だと思います。たった一票差で議会の承認を得られなかったメイコン・ハイツという存在しないはずの住宅地に迷いこんでしまった男の話ですが、一票差で町そのものが生まれるかどうかが決まるなどのギリギリの決断をしているようなバランスの悪い♂゚去はとても不安定で、ちょっとしたきっかけがあると、もう片方の可能性で成立して分岐していた世界に迷いこんでしまう事がある、というようなことを匂わせる描写がとてもユニークで面白いです。何か次元を超えたあるショックが生じるとその影響で、不安定な時空のある箇所は、線路が切り替わるように、可能性の高い近隣の平行世界の時間線に接触したり融合したりする場合がある、という感じでしょうか。未見ですが、先頃米国でドラマ化された「もしも第二次大戦でナチスと日本の同盟国が勝利していたら?」という平行世界を描いた『高い城の男』もそういえばディックの作品でしたね。どちらも、あり得た可能性のあるもしもの世界≠描いた作品ですね。

2004年に2ちゃんねるの書き込みが元で広まったといわれるネット発祥の都市伝説「きさらぎ駅」の話も存在しない駅の話でしたね。それ以前の2002年にサウンドノベルゲームの『最終電車』でも似たようなシナリオで異世界に列車ごと迷いこんでしまった不思議な話がありましたが、電車とかバスとか飛行機や船など、乗物系の不思議話は独特のムードがあって面白いです。スティーブン・キング原作の映画『ランゴリアーズ』は飛行機ごと異次元に迷いこんでしまった話で、独特の時間≠フ解釈がとても面白かったですね。

乗物とは見方を変えれば動く密室≠ンたいなものですから、「もしかしたら意図しない目的地に連れていかれるかもしれない」という空想が入り込む余地があるのかもしれません。そうしたところが、何かの拍子に別世界に通じてしまいそうな、不思議な感覚を誘うのでしょうね。

メモ参考サイト
きさらぎ駅とは?(ピクシブ百科事典)

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かつてオーパーツではないかと騒がれた「ピリ・レイスの地図」 1513年

地図のミステリーというと、オーパーツで有名なピリ・レイスの地図がありますね。1513年に作成されたこの地図には、当時まだ発見されてされていなかった南極大陸(1820年に発見)が描かれている!ということで話題になりましたが、「南極に見える部分は実際は南米大陸なのではないか?」という懐疑的な主張も説得力があるために、今ではあまり取り上げられることも少なくなりました。理性的に解釈すれば、懐疑派の言うことのほうが合理的かつ論理的ですから、一般にはこのピリ・レイス地図はオーパーツではないということで決着してしまってるかのような雰囲気ですが、オーパーツである可能性もゼロではないですし、不定形の羊皮紙に宝島の地図のようにデコラティブに描かれた風情も相まって、未だにそこはかとない神秘な雰囲気を醸し出していて素敵な地図だと思います。

メモ参考サイト
ピリ・レイスの地図(ウィキペディア)

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カボチャ型にぐにゃりと歪んだ地球に描かれた世界地図。その北極点に結んだロープで地球を軽々とつまんで持ち上げる神の右手がなんとも神秘的でイイですね〜 よく見ると右上の端っこにサツマイモみたいな形にひしゃげた日本が描かれてますね。これは1602年にウィリアム・キップ(William Kip)によって作られた、わずか8センチほどの直径に描かれたオカルティックな世界図の版画です。世界に二つしか現存しない非常にレアな地図で、イングランドのアマーシャム(Amersham)という町に在住するS・イスラー(S.Isler)氏と大英博物館のみが所蔵している地図のようです。書き込まれている碑文のほとんどはヘブライ語の「エホバ」を除いてラテン語で書かれています。

こちらのオカルティックな味わいのレアな世界地図も南極大陸発見以前に作られたものですが、ふつうに南極が描かれています。調べてみると、すでにプトレマイオスが南極の存在を2世紀頃に予言していて、ずっと想像上の仮説のままではありましたが、南極に大陸が実在する可能性はずっといわれ続けてきたようです。この図の南極は実際よりもすごく巨大に描かれてますが、「北半球の陸地とバランスをとるようにそれに匹敵する面積の陸地が南の果てにあるのではないか?」という仮説に則ったもののようです。この当時考えられていた南極大陸の存在って、ほとんどムー大陸とかアトランティス大陸とかと同じくらいにミステリアスな存在だったのでしょうね。ちなみに地図上に描かれた南極大陸に横断して書いてある「TERRA AUSTRALIS INCOGNITA」というラテン語の文は「南の未知の土地」という意味です。

メモ参考サイト
メガラニカ(ウィキペディア)
メガラニカとは、かつて想像されていた仮説上の南極大陸の名前です。

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posted by 八竹釣月 at 04:40| Comment(0) | 精神世界