2017年05月04日

ヨガナンダとヴィヴェーカーナンダ ─インドと世界を繋いだ聖者─

耳映画『永遠のヨギー』

パラマハンサ・ヨガナンダといえば、スティーブ・ジョブズが自身のiPadにダウンロードして唯一入れていた「あるヨギの自叙伝」の著者として話題になり、2014年には伝記映画も作られました。過去にもビートルズの「サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド(Sgt. Pepper's Lonely Hearts Club Band)」のジャケットアートにも登場していたみたいです。かのアルバムは、ビートルズの4人が、彼らが思い入れのある沢山の著名人によって取り囲まれている賑やかなジャケットですが、右上のボブ・ディランのすぐ左下にたしかにヨガナンダがいます。

どういうわけか、最近ヨガナンダのことが凄く気になっていたところ、ヨガナンダの伝記映画「永遠のヨギー」がタイミング良く近所のレンタルショップに置いてあったので、早速鑑賞してみました。ネットのレビューでの評価はあまり高い作品ではなく、たしかに構成が散漫な印象はありましたが、ヨガナンダという人物に興味がある人は楽しめると思いました。個人的には思ったより楽しく見れました。やはりというべきか、ヨガナンダの最も有名な著書「あるヨギの自叙伝」に関する話題が多く盛り込まれていますが、まだ私は未読なので、ますます「あるヨギの自叙伝」を読んでみたい衝動にかられます。けっこう高い本なので、なかなか踏ん切りがつきませんが、必要な本ならそのうち何かの縁で手に入るでしょう。映画の中で、元ビートルズのメンバー、ジョージ・ハリスンのインタビュー映像があり、昔を振り返って彼はこう言っています。「ヨガナンダの本(「あるヨギの自叙伝」)に出会わなかったら今の人生は無い。くたばっていたか、最低の人間になっていたはず。不毛な人生にならずにすんだし人生に意味を与えてくれた」

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パラマハンサ・ヨガナンダ(Paramahansa Yogananda 1893〜1952年)
本名ムクンド・ラール・ゴーシュ(Mukunda Lal Ghosh)、1914年にインドの由緒あるスワミ僧団における儀式において「ヨガナンダ」の名前を授かり、1935年にグルであるスリ・ユクテスワから「パラマハンサ」の称号を授かります。「パラマハンサ」は、天駆ける霊的な白鳥≠ニいう意味の、偉大な霊のひらめきを持った聖者に与えられる尊称、「ヨガナンダ」はヨガ+アナンダ、ヨーガによる至福≠ニいう意味のようです。


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ポピュラーミュージックの金字塔、ビートルズの名盤「サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド」のジャケットの一部。右上のあたりにヨガナンダがおります。ビートルズのアルバムのジャケットアートはデザイン性だけでなく、その思想を反映してたり、いろいろと深読みを誘う話題性のある秀逸なものがいくつもありますが、これなどもその代表的な一枚ですね。ヨガナンダの右上には昨年ノーベル文学賞を受賞したことでも話題になったフォークのカリスマ、ボブ・ディランがいます。ヨガナンダのちょうど真下にいるのはルイス・キャロルですね。他にもエドガー・アラン・ポーやアレイスター・クロウリー、チャップリン、マリリン・モンロー、H・G・ウェルズなど、ビートルズ自身の精神の旅を象徴する人物がコラージュされていて面白いです。ジャケットの左下のほうには日本の福助人形まで居てニヤリとさせられました。アルバムの音楽性自体もこのジャケットアートの影響でとても思い入れがあります。幻覚性麻薬LSDを歌っているのでは?と騒動になったあの名曲「Lucy In The Sky With Diamonds 」をはじめ、キャッチーさとマニアックさが混交した永遠の名盤です。テーマ性やトータリティを逸脱したごった煮感覚のバラエティ豊かな楽曲が詰め込まれたアルバムになっていて、ジャケットアートのテイストとよくマッチして馴染んでいます。統一感が無いことがメタ的な統一感になっている感じの素晴らしい逸品です。ヨガナンダをはじめ数人のインド聖者がジャケットに紛れ込んでいますが、収録曲にもインドの楽器シタールを用いたエスニックな曲「Within You Without You」があります。

メモ参考サイト
「サージェント・ペパーズ〜」のパロディジャケットアートいろいろ(「〜♪今日も音楽日和☆〜」様のブログより)
案の定たくさん真似されてるようですね。たしかに、「サージェント・ペパーズ〜」は、パロディ心みたいなものをくすぐる面白いデザインですから、私も機会があればパロってみたいです。そういえば、前々からYMOのアルバム『増殖』のジャケットアートは、まさに「サージェント・ペパーズ〜」のオマージュなのではないか?とずっと思っているのですが、どうなのでしょうね。

というわけで、ヨガナンダの記事をヨガナンダの本一冊も読んでないのに書いているわけですが、映画のほうで、おおまかに彼の人生や世界に与えた影響などを知ることができましたので、映画を見て思ったことなどを中心に話を拡げていこうと思います。ヨーガを世界に広めた偉人にしては、日本では今ではあまり話題になってませんし、映画のほうも気づいた時にはロードショーも終わっていて、DVDで見るしかない状況でした。日本は神道仏教の国ですが、なんとなく無神論の国というイメージも同様に根強く、宗教的な偉人の扱いに不慣れなところも、インドの精神文化がいまひとつムーブメントとして盛り上がらない原因のひとつなのかもしれません。日本人のインド感といえばカレーとヨーガですが、ヨーガも一般認識としては健康のための特殊な体操というイメージだと思います。実際のヨーガはかなり宗教色が濃いですし、そもそも体操のようなヨーガはヨーガのほんの一部で、宗教思想や奉仕活動や祭儀舞踏など、幅広い宗教活動の実践を指す言葉です。

メモ参考サイト
映画『永遠のヨギー』公式サイト



耳ヨガナンダとヴィヴェーカーナンダ

ヨガナンダは、古(いにしえ)からのインド文化の結晶ともいえるヨーガをアメリカをはじめ世界に広く普及させた人物として知られています。ヨガナンダ本人が自らの野望でヨーガを広めに西洋に渡ったというのではなく、グルから「お前の人生の使命はヨーガを世界に広める事じゃ!」と言われ、その自分の宿命に殉じた人生だったようです。当時の西洋社会ではインド人といえば蛇使い≠ネどの怪し気なイメージで見られる事が多かったそうで、様々な差別的な扱いに堪えながら、ヨーガの啓蒙に邁進していたヨガナンダですが、本音ではインドで子供たちを教育する事業に専念したかったようなことが映画では描かれてました。今世界の人がヨーガを知り、実践することが可能なのは、ヨガナンダの努力のたまものでもありますから、結果的にはグルが命じるままに使命を全うしたことは本望であったことでしょうね。

インドの精神文化は途方もなく古い時代から受け継がれてきただけあって、聖者たちも個性派揃いで面白いです。悟りを得た人は、凡人からすれば超人のように考えがちですし、また逆に、覚者というのは、清廉潔白で俗世間の楽しみに関心が無く、感情の無い正論しか言わないつまらない人間、というふうなマイナスのイメージもあると思います。しかし、悟るというのは、自分や世界のありのままを知り体感する経験ですから、実際には、より完璧に人間らしくなる、ともいえます。喜怒哀楽が無くなるのが賢者ではなく、喜怒哀楽を適切に表現できるようになるのが賢者のような気がします。そうした境地に至るためのノウハウを人類が共有するために精神世界の文化があるように感じます。

我々はなぜか「やりたいことを、やるべきときに無心にやる」というのがなかなかできませんし、「人助けしたいが、世間から偽善者と思われたら嫌だな」などと善行さえも、余計な思考が邪魔をしてきます。覚者は、そうした「余分な抵抗」をクリアした人であるので、より充実した人生を送りやすくなります。ヨガナンダも、ヨーガを世界に啓蒙するという途方も無い使命に臆する事無くチャレンジし続けられたのは、まさに、そのヨーガでの精神鍛錬によって到達した強い意志のおかげなのでしょう。

またヨガナンダのユニークなところは、テレポーテーションの話や、不死のヨギーの話など、いわゆるオカルティックな話に肯定的なところです。意外に聖者といわれる人たちは、UFOとか超能力などの話に関心がありません。むしろ、修行の妨げにしかならない邪魔なものとして退ける傾向がありますが、ヨガナンダはけっこうそうした不思議な話に寛容で、そうしたところも親しみがわいてきます。ヨガナンダ自身、自分の死期を予言して、予言した日に亡くなったそうですし、しかもその遺体も死後20日経過してもまったく腐敗する様子がなく、まるで生きているかのように生気に満ちていたそうです。最期まで精神世界のカリスマらしい神秘な人ですね。

メモ参考サイト
ジョブズが唯一iPad2にダウンロードした電子書籍 ヨガナンダの数奇な人生とは?(「ハピズム」様より)

ヨガナンダは1920年頃ヨガを世界に広める旅に出ましたが、遡ること30年前にも、ヨーガをはじめとしたインドの精神文化を西洋にもたらしたもうひとりの先人、ヴィヴェーカーナンダがいます。彼もそうした東洋と西洋の架け橋として活躍した聖者として忘れる事はできません。ヴィヴェーカーナンダは神の化身と呼ばれた大聖者ラーマクリシュナの主要な弟子のひとりとして知られるインドの偉大な宗教家です。ヨーガ思想の啓蒙に尽力し、西洋に最初にヨガを持ち込んだ近代の聖者です。若い頃は西洋の学問を貪欲に学んだインテリで、神や宗教に懐疑的な考えをもっていましたが、ラーマクリシュナとの運命的な出会いによって熱心な弟子となってきました。このあたりの逸話も興味深いものがあります。wikiにも詳しく書かれていますので、興味のある方は読んでみてください。ヴィヴェーカーナンダがけっこう日本を評価しているような記述もあって、なんとなく嬉しくなりました。

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ヴィヴェーカーナンダ(Swami Vivekananda 1863〜1902年)は、大聖者ラーマクリシュナの主要な弟子のひとりとして知られた聖者です。ラーマクリシュナは彼に会った時に「どうして君は私をこんなに永い間待たせたのですか!」と泣いて喜んだという逸話があります。ラーマクリシュナいわく、彼ヴィヴェーカーナンダとは、いわゆる前世からの旧知の関係だったようです。聖者同士の邂逅だけあって、なんとも興味深く不思議な出会いです。

メモ参考サイト
ヴィヴェーカーナンダ(ウィキペディア)



耳ヴェーダーンタ哲学とは?

ヴィヴェーカーナンダが世界に啓蒙したのは、ヨガの思想で中心になっているヴェーダーンタ哲学と呼ばれる宗教思想で、紀元前数百年まで遡るインド哲学のエッセンスともいえる思想です。これはエックハルト・トールなどの現代のスピリチュアルの教えにも影響を与えている精神世界の重要な概念で、こうした思想を学ぶこともヨーガのひとつです。思索によって悟りを目指すヨーガをジュニャーナ・ヨーガといいます。有名な聖者ラマナ・マハルシはこのジュニャーナ・ヨーガによって悟りを得たといわれています。悟りを得られるレベルの思索というのは、概念を知識として理解するというレベルを越えて、概念を体験として実感するレベルにまでもっていかなくてはならないので、結局は日々の精神修行や身体の健康など、トータルな修練が必要になるでしょうね。

ヴィヴェーカーナンダが世界に啓蒙したヴェーダーンタ哲学の教えは、現代のスピリチュアル思想の主流になっているワンネス(全てはひとつであるという思想)の概念の源流です。インド思想によれば、自分の内面の究極には神がいて、この内部の神をアートマンといいます。また、自分の外側の世界、果てしなく宇宙にまで広がる全ての世界は、そのすべてが神の身体であり神自身が表現された存在で、これをブラフマンといいます。そして、ヴェーダーンタ哲学では、このアートマンとブラフマンは究極には全く同じであると言っています。つまりこの世界、この宇宙は、ただひとつの究極の実在(=神)だけが存在するのみで、他の一切は幻である、という考えです。神だけが存在している世界に私≠ェいるのですから、当然私≠ヘ究極的には神であるということになります。つまり、あなたもまた神なのです。一見突飛に思えますが、冷静に考えてみると、合理的な思索を突き詰めた末に見えて来る理論だというのが理解できます。

客観的と思ってるモノも自分の主観の内側で、そう定義しているだけで、「本当の客観」は自分には解りません。自分が体験する人生の内側にしか山水草木も他人も宇宙も無いわけです。人間が自分という器を越えて存在できない以上、客観的世界は、どこまでいっても主観的世界の内部の虚構ともいえるわけで、で、あるなら、自分の人生には、自分の頭で考えたり自分の目で見たり自分の耳で聞いたりするような世界以外は、リアルな現実世界であると証明することは不可能です。そうした世界観をそのまま突き詰めて行くと、必然的にヴェーダーンタ哲学の指摘する世界像そのものと合致します。人間という主体を通じて世界のリアリティを解釈しようとすると、むしろこうした世界観は容易に疑うことができませんし、科学とは別のアプローチでもって真実を指摘しているようにも思えます。

こうした考えは、必然的に仏教にも影響を与え受け継がれていきます。やがて仏教は世親の唯識論など複雑な思索哲学へと発展していきますが、禅の誕生により、思想の解釈よりブッダの悟りそのものに主眼を置いたシンプルで実践的教えが生まれました。「あれこれ考えるな、ただ座れ」というところまで教えを単純化していきましたが、それはそれで、シンプルすぎるゆえの難解さもあり、そうした歴代の偉大な精神世界の覚者たちの様々な啓蒙のアプローチの足跡もまた興味深いものがあります。


以下、ヴェーダーンタ哲学についてヴィヴェーカーナンダが言及している言葉をいくつか抜粋しました。

満月ヴェーダーンタは、我々の真の本性は無限であるという。しかるに我々は、己のカルマ(業、因縁)によって制限している。───その鉄鎖を断ち切って自由になれ! 神そのものとなれ!

満月ヴェーダーンタはいう。────我々はみな心の奥で自分の弱点を知っている。───しかし気にするな。───弱点は思い出した所であまり役に立たない。弱さに対する治療法は、弱さを案ずることではなく、強さについて、すでにあなたに内在している強さについて考える事だ。小さな事に目もくれるな、すべてを神と見て進め、神の中に全てを包め。やさしさは、そこから湧き水のようにわいてくる。進め、全てに向かって。未来は君たちのものだ。

満月ヴェーダーンタは何を教えようとしているか、───それは、「世界の神聖化」である。人間が人間を放棄して神になることだ。世界を神聖化することだ。


ヴィヴェーカーナンダ





耳瞑想について

ジュニャーナ・ヨーガは、思索を深めていきながらやがて思索そのものを越える瞑想のようなものだと思います。一般に思索を極めていく瞑想よりは、思索を止めて思考しない瞑想のほうがメジャーだと思います。これら瞑想というのは、禅や仙道など、ほかの精神世界の修行でもスタンダードなものなので、以前から下手の横好きでたまにやったりするんですが、本当は毎日習慣的に続けたほうが理想でしょう。人間は、生まれ落ちてからずっと寝てる以外は始終何かを思考しているので、「何も考えない」という時間を、たとえ1分でも設けることを嫌がります。ためしに、やってみると解りますが、たとえ1分でも何か考えれる時間を考えない≠ニいう無意味そうな事のために費やすことに、漠然とした拒否感を感じると思います。まずは、この拒否感と闘いつつ、考えない時間をつくる習慣を作っていくしかありません。実際は考えない事というのは、考える事以上のものすごい威力を持ったものです。

「人間は考える葦である」という言葉の通り、人間は考えることで地球の頂点に立つ種となりましたが、同時にこの考える能力は他の生命には無い類いの苦しみを人間にもたらしました。人間は毎日6万回思考すると言われますが、その9割はただ漫然とした無意味な思考です。無意味ならまだマシで、不安や後悔や嫉妬や憎悪など、人間に苦痛をもたらす原因のほとんどは、こうした惰性的な思考から発生しています。思考というのは、仕事や勉強などをしている時など、思考すべき目的があって、意識的に思考する場合は有用で、まさにジュニャーナ・ヨーガなどは思考を突き詰めることで思考の枠を超えるヨーガですが、それ以外の漫然とした惰性的な思考はむしろ不幸を自ら生み出す装置になっています。なので、思考しない無思考状態を生み出す瞑想の技術を会得することは、人生においてかなり役に立つテクニックになるでしょう。数分でも無思考状態に浸ってると、頭がだんだんすっきりしてきて、実感として周囲の空間から目に見えない爽やかな感じの精神的な栄養が注入されるような感覚があります。

瞑想する感覚がある程度わかってくると、思考と感情は切り離せることに気づきます。嫌な事があると、つい私たちは「嫌な事」という情報とセットで「嫌な感情」を自動的に発生させてしまい、「嫌な事は常に嫌な気分になるものだ」という条件反射を無意識に作り上げています。しかし、これらは情報処理と感情の発露を無意識に同時に行うからそうなるだけで、意識していれば嫌な事が起こっても、その事実を情報として脳で処理するだけにして、イライラする感情を切り離す、という芸当が出来るようになってきます。

また、逆に、漠然としたネガティブな感情が先に発生して、その感情に見合うような嫌な記憶を脳が捜し出して来て、あたかも、その嫌な記憶がイライラさせているかのように自分を錯覚させることもあります。体調が悪い時、病気の時、転んだりして痛みを感じた時など、不快な感情が起きている状態に、しばしば脳は嫌な記憶を捜し出して来ます。脳は、多分善かれと思って、嫌な感情だけをひとりぼっちにさせないように、嫌な記憶という遊び相手を探してくるのでしょう。この仕組み(感情と情報は別のもの)に気づけば、後は自分の意志で湧いてくる感情を受け入れるか受け入れないかを決めれるようになります。私はこのテクニックを覚えたおかげでだいぶ楽になりましたので、瞑想の習慣の無い人は気が向いたらぜひチャレンジしてほしいと思います。習慣づけていないとつい忘れがちになる瞑想ですが、何かを呆然と待ってる時間など、瞑想の時間はけっこういくらでも作れますし、ぜひ習慣にしていきたいものです。レディ・ガガのメンターとして一躍話題を集めたアメリカの有名なインド出身のスピリチュアルリーダーであるディーパック・チョプラ氏は、毎日朝晩30分づつの瞑想を習慣にしているそうですが、私も出来ればそのくらい長い時間の瞑想ができるようになりたいものです。



耳「右の頬を打たれたら左の頬を差し出せ」についての考察

話は少しそれますが、聖書の有名な言葉で「右の頬を打たれたら左の頬を差し出せ」というものがありますね。これって、最初聞いたときは、とんでもない妄言だと思ったものです。暴力を受け入れるのは、悪をつけあがらせるだけで、何の意味もないと思ってました。しかし、この言葉の真意はそういうことではなく、悪意を甘んじて受け入れなさいという意味ではないことに気づきます。暴力を受けたら反撃せずに受け入れなさいという単純な意味ではないのです。暴力をふるわれたら、どんな生物でも逃げるか反撃するかのふたつしか選択肢はありませんし、人間もそれは同じだ、と我々は思い込んでいます。しかし、イエスはそこに第三の選択肢「むしろ左の頬を差し出す」という突拍子も無い選択を提案し、そのような行為の自由さえ人間にはあるのだ。ということをいいたかったのだと推測します。つまり、人間は心の鍛錬によって怒りなどのネガティブな感情を制御することが可能であり、その境地では、他者からの悪意に対して脊髄反射のような反応ではなく、どのような状況でも無限の行動の自由があるのだ、という人間の可能性を示唆しているのではないか、ということです。噛み砕いて言えば、「右の頬を打たれたら、逃げてもいいし、殴り返してもいい。だが、それだけでなく、逆に左の頬を差し出すという意表をつく一手もあるよ」ということだろうと思います。まさにイエスの提言は、あらゆる生物の中で人間にしか取れない行動の一例を示し、人間はとてつもなく自由な存在であることを示したかったのでしょう。

原始仏教の教典『ダンマパダ』の中でブッダは、「実にこの世においては、怨みに報いるために怨みをもって行動したならば、ついに怨みが止むことがない。怨みを捨ててこそ止む。これは永遠の真理である。」と断言していて、ここでも、悪意に対して取るべき行動に恨みや怒りをもって対応すべきでないことが説かれています。この教えもよく吟味してみると、ブッダも反撃を禁じているのではなく、あらゆる物事に冷静に対処せよ、ということを言っているのでしょう。不動明王などの憤怒する仏もおりますから、怒りもまた人を正道に向かわせるためのアプローチのひとつとして正しく用いるなら、必ずしも怒りそのものが禁じ手なわけではないことをうかがわせますね。

人間社会では、学校などで知識を学ぶ習慣は永い時間をかけて訓練されますが、感情のコントロールを訓練する機会はほとんど無いのが現状です。とくに、怒りや不安などの苦しみをもたらす感情をコントロールしていくことは、人生においてとても重要なことですから、瞑想はそういう意味でもとても役に立つ技術であるように感じます。



耳ヴィヴェーカーナンダの言葉

インド関係の古書を読んでいたら、ヴィヴェーカーナンダの深い言葉が目にとまり、感動したので、最後にいくつかご紹介したいと思います。

満月あなたは存在する一切である。目醒めて立ち上がれ。おお、強いものよ、この眠りはあなたにふさわしくない。目醒めて立ち上がれ。このままではあなたに似つかわしくないではないか。あなたは弱くてみじめだと思うな。至上万能なるものよ、目覚めよ、そして立ち上がれ。あなた自身の本性をあらわせ。

満月決して「否、ノー」というな。決して「私は出来ない」というな。あなたは無限なのだから。あなたは何でも出来る。あらゆることがあなたにとっては可能である。あなたは全能なのだ。

満月完成は得られようとしているのではない。あなたはすでに完全である。あなたはその場で偉大である。小さな事を考えて人を批判するな。神そのものである自分に気付け。あなたの心を覆っている迷信を駆逐せよ。

満月神はあなたの享楽する富の中にもある。神はあなたの心の中におきる欲望の中にもある。神はあなたが欲望を満たすために買う品物のなかにもある。

満月我々はあらゆるものを、神自身で覆わなければならない。いつわりの楽天主義によるのでもなく、我々の目を悪に対してふさぐのでもなく、あらゆるものの中に神を見なければならないのである。

満月石や木は決して法則を破る事はない。しかしいつまでたっても石は石であり、木は木のままである。ただ人間だけが、束縛や法則を乗り越えて、運命と戦って、これに打ち勝つ力を恵まれているのである。

満月我々不死なる、永久に純粋なる、完全なる霊を、小さき心や、小さき身体だと考えるな。これこそ一切の無知のもと───一切の利己心の母体である。人間はたとえ見かけが弱くとも、すべて光栄ある不滅の児である。これが真理である。

満月諸君が欲するすべてを持て!ただ真理を知れ、それを実現せよ!諸君の存在の全ての部分に神があることを知れ。世界はたちまちにして天国と変わるだろう。

満月幸福よりも一層多くを教えてくれるものは不幸である。富よりも一層多くを学ばせてくれるのは貧乏である。また、内面の火をかきたててくれるのは、賞賛よりも攻撃である。

満月あなたが世界中探しまわっていた相手、神殿で泣きつつ訴えた相手、雲に包まれて一切の神秘中の神秘として見えなかった相手、───真理、神はあなた自身であり、あなたの中にいる。

満月私は生まれる事のない、死ぬ事の無い、浄福にあふれる永遠なる大霊である。このことを昼も夜も思え。それがあなたの生命の一部となり、分子となるまで思え!あなたの行動のすべては、この思想の力によって拡大され、変質され、神聖化される。

満月我々がかくありたいと願うものは、何でも我々自身でそれを為す力をもっている。今我々の前にあるところのものは、すべて我々自身の過去の行動の結果として現われたものである。我々が将来なりたいと願うものは何でも、現在によって創りだすことが出来る。

満月失敗を恐れるな。闘いによって得られるものでなければ、持つに値しないものだ。失敗は人生の美であり、それがなかったならば、どこに人生の詩があるだろうか。理想を千回も振りかざせ。そして千回失敗しても、もう一度企てよ。

満月世界の歴史は自己を信じた少数の人たちの手によってつくられた。あなたたちは何でも出来る。失敗するのは、無限の力をあらわす努力が足りないからである。個人でも国家でも、自信を失えば死が来る。まずあなたたち自身を信ぜよ。神であることを信ぜよ。

満月自己をこの小さい肉体の中に閉じ込めるな。私は宇宙である。一切者であるあの無限なるものが、自分であるといえるまでになれ。あなたには死はなく、病もなく、不幸もない。あなたは不死、不滅なる、永遠で完全な霊そのものである。あなたは無限の青空のように大きいのだ。


内垣日親著『超人世界・ヨーガの大聖ラーマクリシュナとその弟子たち」ベーダンタ文庫 1973年 より
posted by 八竹釣月 at 09:11| Comment(0) | 精神世界