2017年04月25日

インド・天竺と呼ばれた国

耳東洋哲学の巨匠、中村元
般若心経の唯心論的な世界観に惹かれて仏教関係をいろいろ調べていくと、日本の仏教というのはほとんど中国を経由した大乗仏教がメインであることに気づきます。では、中国のフィルターがかかっていない生の仏教とはどういうものか?が気になって調べていくと、必然的に中村元(なかむら はじめ)に行き着きます。中村元先生は中国を経由した教典ではなく、インドの現地語の教典を直で翻訳し、日本の東洋哲学研究を大きく前進させたことで知られる偉大な学者です。ネットの動画で動いている中村先生を拝見して、想像してたような学者然とした頑固そうな感じではなく、気さくで優しそうな笑顔の似合う方で、より興味がでてきました。

TV参考サイト
仏教の本質 哲学者「中村元」(YouTube)

仏教の母体になっているバラモン教やヒンドゥー教の思想のひとつにヴェーダーンタ哲学というものがありますが、これは現代のスピリチュアルで流行っているアドヴァイタ(不二一元論。いわゆるワンネス的な思想)のルーツということもあって、たまたま『ヴェーダーンタ哲学の発展』(昭和30年[1955年] 岩波書店)という本を手に入れたのですが、この本の著者が中村元で、それで遅まきながら知った感じでした。そして、仏教の興味から、仏教の母体になっているインド思想に興味がわき、『バガヴァットギーター』などをはじめ、バラモン教、ヒンドゥー教などのインド文化に関心がわいているところです。

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インド関係の本。

耳天竺と呼ばれた国、インド
そんなこんなで、自分の中で興味が高まっている最中のインドですが、インドって知れば知るほど奥が深いですね〜 錬金術が化学を発展させたように、神を論理的に証明するという熱意が哲学を生んだように、この現代の現実世界を支配している合理主義も、元はと言えば精神世界に行き着きます。そして精神世界を突き詰めて行くとインドにたどり着きます。インドといえば、かつてサイババブームがありましたが、悟りを開いた聖者の伝説が数多くある国で、インド政府も聖者認定などをしていたりとか、インドの聖者というのも一種の国策っぽい所があるようで、それゆえインチキ臭い聖者も多いようですが、また本物も多く、現代世界においてもスピリチュアルリーダーはインド出身者が圧倒的に多いのも事実です。そういえば先日70年間も断食していたヨガの行者がニュースになりましたね。インド政府が確認のために2週間ほど監視したところ、たしかに何も食べずに生活していることが証明されたそうです。この前俳優の榎木孝明さんが1ヵ月の不食チャレンジに成功した話が話題になってましたが、さすがインド、こちらは70年です。さすが神秘の国ですね〜 ビートルズも横尾さんもインドに惹かれた気持ちが最近よくわかるようになりました。

メモ参考サイト
70年断食のインド ヨガ聖者、科学者も仰天(AFPニュース)

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インドグッズその1。一度見たら忘れられない象さんの顔を持つ神様、ガネーシャのカレンダー。富と智慧をもたらす神様として人気です。なぜ象の顔をしているかというと理由があって、ガネーシャはシヴァ(父)とパールヴァティ(母)の子というエリートな血をひく神様ですが、シヴァが自分の子供だというのを知らずに首をはねたところ奥さんに激しく怒られ、たまたま通りがかった象の首をもぎ取って急いで付け替えたことから象の顔になったようです。なんともアンパンマン的なユニークな逸話ですね。ガネーシャもアンパンマンも「頭」というアイデンティティの中枢を入れ替えても何もなかったように記憶や意志など心の機能まで受け継がれる所に哲学的な空想がふくらみますが、そういえば以前ネットで話題を呼んだ「ツブアンマン」というアンパンマンのパロディ漫画がそうした問題をテーマにしていて、その鋭い考察とユーモアに感服したのを思い出しました。

ガネーシャといえばこの間「夢をかなえるゾウ」というユニークでスピリチュアルな小説がドラマ化され面白かったですね。冴えないサラリーマンのアパートに突然ゾウの顔をして関西弁をしゃべるガネーシャ神が現れ、主人公に成功哲学を説いていくユーモラスな物語でした。

るんるんJai Ganesh Jai Ganesh Jai Ganesh Deva
インド音楽もすごく個性的で、聴いてると神話の世界にトリップしそうな感じで独特の心地よさがあります。とくにこのガネーシャ神を讃える曲が好きで、最近よく聴いてます。

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インドグッズその2。破壊と舞踏の神、シヴァの像。ヒンドゥー教の三大神の一柱。ブラフマーが世界を創造し、ヴィシュヌが世界を維持し、シヴァが世界を破壊します。新しい世界を造るためには古い世界はいったん壊されて無に帰さなくてはならないからであり、破壊といってもそこにはネガティブな意味合いはなく、ただ宇宙の三つの様相のうちのひとつを担当しているという感じだと思います。破壊神という恐ろしげな側面がありながらも人気の高い神様で、紀元前2000年以上も前から崇拝されていたらしく、今日知られている神々の中で最も古い神であるという説もあるようです。

耳昨日も明日も同じである!
最近知ったのですが、インドの公用語ヒンディー語では「昨日」と「明日」が同じ言葉だということです。まさに文化の違いを如実に感じると同時に、言葉の奥に横たわる深遠な哲学さえ感じさせてくれます。英語や日本語では区別しているので、当然「なぜ区別しないのか?」と疑問に思いますが、区別しない文化では区別しないのが当たり前で、この場合は文法や文脈などで十分理解できる仕組みのようです。例えば日本語では順番をあらわすのに「○○番目」という言い方をしますが、英語にはこの「○○番目」という概念がありませんし、英語ではお湯も水も「water」ですし、また英語では兄と弟、姉と妹を区別しませんが、それで困る事は無いのと同じ事だろうと思います。このあたりは言語学的に考察すると面白そうですね。言葉とその対象物は基本的には1対1対応しているという建前で言語体系(ランガージュ)が成り立ってますが、実際には民族や文化によって「何をひとかたまりの概念として認識するか」が微妙に異なるので、上記のような細部の食い違いが起こるのでしょうし、それこそが異文化の魅力でもあります。

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google翻訳にかけてみたら、やはり同じ単語に翻訳されました。

ヒンディー語で「昨日」と「明日」を区別しないというのも背景にある文化が影響しているのでしょうね。インドでは時間というのは「今」が最大の起点で、明日や昨日というのは「今」からの隔たり具合がどちらも1日分であり、似たようなものなのかもしれないですね。スピリチュアル宗主国だけあって、インド的には、時間は過去から未来に流れる1次元的なものではなく、「今」という中心点に自分がいて、そこから同心円状に広がっているのが過去や未来なのでしょうか。時間の概念については、私も前々から興味があって、相対性理論での時間の伸び縮みとかワクワクしたものですが、いつも行き着く考えは「我々が考えている時間≠ニいうのは本当に1次元的なものなのか?」ということでした。「過去は変えられなくて未来は無限の可能性がある、というのは慣れた概念だが、その逆、過去は自由に変えられるが未来は固定している、というのもアリな考えなのではないか?」という寺山修司っぽい空想など、いろいろな時間の在り方を考えるのは楽しいです。そもそも時間というのはただ我々が社会環境から類推した仮定の概念であって、環境が違えば時間の概念もまるっきり変わるはずだ、というのは漠然と思っていたことなのですが、このインドの「昨日」と「明日」が同じ言葉という事実は、そうした考えに何らかの示唆を感じる面白い発見でした。

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インドグッズその3。多分ヒンディー語のアルファベットを覚えるための児童用の教育ポスターだと思います。何かインドっぽいものが無いかと部屋を探してたら出てきました。多分アジア系雑貨店で昔手に入れたものだと思います。こういう普通のものまで神秘の香りがしてしまうところもインドの面白さですね。

本当は、最近気になっているインドの聖者、パラマハンサ・ヨガナンダやラーマクリシュナなどについて書こうかな、と思って書きはじめたのですが、そこに至るまでのインドへの傾倒について書いていたら長くなってしまったので、そのあたりはまた項を改めて書いてみようと思います。そんな感じでインドが気になっている昨今、最近の食事はカレーの頻度がすこぶる高くなっております。カレーといえば、一度本格的にナンを主食にして食べてみたいと思っているのですが、本場のインド人はほとんどナンは食べないという話をネットで見かけました。とにかく、ナンとも謎多き国で興味が尽きないですね。
posted by 八竹釣月 at 03:09| Comment(0) | 精神世界