2015年09月06日

時計

【タイム・マシン】 時計のこと。
筒井康隆『乱調文学大辞典』1972年 講談社


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辞典のパロディというとアンブローズ・ビアスの『悪魔の辞典』が筆頭だと思いますが、『悪魔の辞典』は"真面目に"皮肉で言葉を解釈しているのに対し、筒井康隆の『乱調文学大辞典』のほうは不真面目というか、ナンセンス加減が素晴らしく、付録の『あなたも流行作家になれる』を含め大好きな作品のひとつです。辞典という本そのものの存在のパロディで、今では似たようなコンセプトの本もいろいろありますが、これを凌ぐ作品はなかなかないように思います。一歩間違えるとテキトーなサブカル本っぽくなりがちなコンセプトでありながらもそうなっていないのは、深みのあるナンセンスともいうべき筒井康隆の天性のさじ加減によるものでしょう。深い教養や知性やシュルレアリスム的な感性を匂わせつつもハチャメチャなナンセンス感を失わないバランス感覚が流石です。意味の解説文の長さはランダムで、一言の場合や数十行の解説が続く場合もあり、リズム感のある構成になっていて、普通に最初から小説を読むようなノリで読めてしまいます。短いセンテンスで解説されたものの中から以下に適当にピックアップしてみます。

【アウトサイダー】 密造の清涼飲料水。

【太宰治】 (1)太宰府を治める人。(2)作家の名。

【ツタンカーメン】 エジプトのラーメン。


こういうのだけだと一発ギャグっぽいですが、たとえばアルベール・カミュの『異邦人』を解説した以下の項目のようにワザと見当違いの方向から論評するような凝った項目もたくさんあります。

【異邦人】 フランスの作家アルベール・カミュの小説。一種の犯罪小説であるが、評判ほどの傑作ではない。むしろ失敗作であろう。太陽が黄色かったから人を殺したというのは、殺害の動機としてあまりに薄弱である上、伏線らしいものも見当たらない。裁判のシーンも迫力がない。本筋とあまり関係ない部分が饒舌で、いささか退屈する。だが何よりも、新しい殺人のアイデアやトリックがひとつもないのが決定的な失敗であるといわれている。

あの文学史に輝く『異邦人』を無理矢理推理小説として解釈するという天才的なアイデアの論評ですね。そんな中で、私が最もインパクトを感じたのは最初に引用した「タイム・マシン」の項目でした。たしかに、いわれてみれば時を計る機械であり、「時間」というものを物体化した装置に違いありません。時計というマシーンは、外部の世界の時間と限りなく同じ速さで進むタイムマシンと言えるのかもしれません。一見肩すかしのような筒井康隆の解釈ですが、よく考えてみると、時計というのはタイム・マシンを発明してしまうくらいに偉大な人類の発明であるように思えてきます。

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70年代の置き時計。ゼンマイ式ですが可動音が気になるので止まったままにしてあります。時計としてでななく、部屋にレトロ感を醸し出すための置物と化しています。

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懐中時計のコレクション。ちゃんとした骨董ではなく、『古の時計』のシリーズで、アンティーク懐中時計のレプリカです。一応普通に動くので実際に使う事も可能です。

一昔前に『ゾウの時間ネズミの時間』という本が話題になりましたが、何気なく当たり前に思っている時間というものも、種が違えば身体の大きさなどによって肉体のエネルギー消費量が異なるため体感する時間の速度や長さは変化するという新鮮な視点に、生物学的な相対性理論とでもいうような不思議な印象をもったものです。そもそも時間を感じる主体はそれぞれの「私」ですから、もしも時計がなかったら、楽しい時は速く流れ、退屈な時間は遅く流れる、という主観的時間しか存在しません。同じ人類でさえ、人によってその時の気分で時間の尺度が変化しているために、主観的時間は他人と共有することはできないということになります。上司が得意になって部下に武勇伝を語っている状況でいえば、上司の主観時間は速く流れてますが、いつもの長話を聞かされる部下の主観時間は遅く感じているようなものです。主観のうえでは時間の長さは一致しませんから、上司と部下の流れる時間を外部のシステムによって一律に定義するのが時計です。

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『ちえあそび』講談社の一年生文庫(4) 1951年 発行:大日本雄弁会講談社

なんとなく私たちはこの「外部で定義された時間」のほうにリアリティを持つように馴らされてますが、実際に時間を感じるのはそれぞれの「私」、世界にひとりしかいない存在が感じとっているだけにほかならないのですから、時計で計られる時間のほうが何かの方便であるという見方もまたリアルなもののように思います。実際に充実した毎日を送っている人ほど見た目も若々しいというのは普通に皆が共通して認識しているわけで、楽しく過ごす時間が多い人ほど時間は実際に速く流れているために、そうでない人よりも相対的に少ない時間しか経っていない、とも考えれますね。時間とは何か?の定義でよく言われるのは「変化」だ、ということですが、そういう意味で言っても、主観時間は個人個人で流れる速度が異なり、それによる肉体的(物理的)な変化の違いがあきらかであるなら、主観的時間をいわゆる「時間」として扱うことにもそれなりの正当性はありそうに思います。

将来、この「主観的時間」を正確に計れる時計が発明されたらスゴイだろうなぁ、と妄想します。そうなれば、同じ70歳の人がふたりいても、主観時間はまったく異なるということもありえるでしょう。実際に歳をとればとるほど、それまでにどう生きてきたかによって能力だけでなく見た目も相当に差がでますから、たとえば、一律に定年を決めるのではなく、主観時間で換算した年齢で分けたほうがより合理的です。

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『暮らしの手帖』第90号 1967年 発行:暮らしの手帖社
ゴージャスなヨーロッパの置き時計。華美な装飾が幻惑的ですね。実用よりも装飾を楽しむ美術品みたいなノリですが、そうした本末転倒な感じが実に貴族的で優雅ですね。


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『Advertising Clocks』Michael Bruner 発行:Schiffer 1995年
広告用のノベルティ、店頭用などの目的で作られた時計のコレクションを集めた本『Advertising Clocks』に収録されている時計の一部。すべてアメリカの古いアンティークコレクション。広告目的の時計のため、インパクトのある印象的なデザインの時計が多いです。


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『時計』今井龍雄 発行:保育社 1972年
耽美な感じの表紙が素敵!


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同上。文庫サイズの図鑑ながら図版を大胆に構成してあり見応えがあります。(上)日本の古い置き時計。同じ過剰装飾でも西洋のノリとは別の東洋ならではのバロックな味わいがありますね。(下)シャンデリア時計とランプ時計。消しゴム付き鉛筆、ラジカセ、カメラ付き携帯、などなど別々の物をくっつけたがるのは伝統的に人間の性(サガ)なのでしょうか。

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『時から時計へ』平凡社カラー新書11 吉田光邦著 平凡社 1975年
江戸時代の時計。キテレツ大百科な感じの逸品揃いで、可動音などもさぞや異次元に誘われるようなイイ感じの響きなのでしょうね。個人的に、真鍮と木とガラスという素材の組み合わせに異常に惹かれるものがあるので、こういう時計にはゾクゾクします。


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『時計』WORLD COLOR BOOKS ケネス・アリエット著 主婦と生活社 1973年
17世紀頃の仕掛時計。グリフォンやユニコーンといった幻獣のモチーフが不思議感があってぐっときます。話は逸れますがグリフォンにユニコーンというと、諸星大二郎の漫画『ユニコーン狩り』を思い出してしまいます。日本の日常的で生活感のある舞台でユニコーンを現出させる諸星先生の魔法のようなアイデアが斬新な短編でした。



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時計を作るには、いかに正確な周期を持つものをどのように利用するかという発想が出発点ですから、太陽という天然の周期システムが着目されたのは自然な成り行きだったのでしょう。そういえば推理小説などでしばしば言及され、以前名探偵コナンなどでも触れていたような気がしますが、アナログ時計を使って方角を知る有名な方法がありますね。こうした太陽とのマクロな事象とシンクロするところなどは、古(いにしえ)の日時計を連想させ、時計というものにどこかマジカルな存在感を感じさせます。
posted by 八竹釣月 at 13:04| Comment(2) | 古本