その1で、次は八千頌般若経とシャンバラの話を〜みたいなことを書きましたが、八千頌般若経についての話が意外と長くなってしまったので、シャンバラはまた別の記事で書こうと思います。まぁ、シャンバラはチベット仏教の経典に出てくる理想郷ではありますが、ミラレパとはあまり関連しない話なので、話を繋げづらいというのもありますし、チベット仏教関連の話というより、地下世界やユートピアなどのテーマの記事とかで取り上げるか、あるいはシャンバラ単独の記事にするか、などとにかくまた別項でお話したいと考えています。では、今回はさっそく八千頌般若経のお話から・・・
『チベットの偉大なヨギー・ミラレパ』(おおえまさのり訳 めるくまーる社 1980年刊)
横尾忠則さんの神秘的かつサイケなブックデザインが素晴らしい!赤や黄色や金色といった配色はチベット仏教で良く使われるカラーですから、ちゃんとテーマにも寄り添ったデザインでありながら個性的な横尾色もにじみ出てる感じで愛着のわく本に仕上がってますね。中身は愛弟子のレーチュンとの受け答えでミラレパ自身が自分の人生を振り返って思い出を語る形式の伝記です。ところどころにミラレパの真理を吟じた歌も載っていて読み応えがあります。
同上、目次と奥付。奥付がマンダラになってるところが横尾テイストですね〜
ミラレパと八千頌般若経の出会い
ミラレパの人生はまさに波瀾万丈を絵に描いたようなドラマチックなもので、生きながらに天国と地獄を行ったり来たりするような起伏の激しいその人生行路は、そのまま寓話めいた教訓に満ちていて学ぶところが多いですね。ミラレパの人生行路についてはウィキペディアにもそこそこ詳しく載っているので、気になる方はそちらをお読みいただくとして、今回は、まず八千頌般若経(はっせんじゅはんにゃきょう)について少し話したいと思います。この経典に興味をもったのは、ミラレパと縁のある経典だからです。
この経典は大乗仏教の般若経(一般に「空[くう]」を説く哲学的な色合いの濃い経典類)のうちもっとも古い経典とされ、紀元前後から1世紀頃にかけて成立したものとされているようです。チベット仏教というと後期仏教(7世紀以降に成立した密教色の濃い仏教)のイメージが強いので、ちょっと意外な印象もありますが、チベット仏教の僧は原始仏教から大乗までひととおり顕教の教えも学んだうえで密教の修行に進むようですし、このような古い経典も普通に広く学ばれているのでしょうね。
ミラレパと八千頌般若経との出会いもドラマチックです。ミラレパは自分たち一家を不幸のどん底に陥れた叔父夫婦に復讐することを母に頼まれて黒魔術を習うことになるのですが、ミラレパはこの呪術師時代にその魔術によって呪殺や災害を起こし大罪を犯すことになります。この悪因の返りを恐れたミラレパは、真実の仏法に救いを求めるうち、ゾクチェン(チベット仏教最古の宗派、ニンマ派の教え)※の高名なグル、ロントン・ラガから大聖者マルパを紹介されます。しかし、あまりの悪因のためマルパの元に就いた後でもまともな仏教修行すら許されず、カルマの浄化のためにひたすら拷問めいた苦行を課せられて何年も文字通り血のにじむような試練を堪え続けることになります。
この試練もまさに地獄の苦行めいています。大きな仏塔(7層くらいのけっこう立派な塔)をミラレパひとりで作らされるというものです。もちろん、建造のための材料の運搬から全部ひとりでやらなければなりません。これだけでも心が折れそうなのに、あとちょっとで完成だ!というところで、マルパ師から完成直前の塔を「壊せ!」と命じられます。そして壊した塔の資材は元の場所にまた戻すように命令されます。しかも、それ一度ではなく、これを何度もくり返されるのですからたまったものではありません。まさに賽の河原を地でいく苦行ですね。途中で壊させるのは完成の喜びさえ奪うことが目的で、これでミラレパのカルマの浄化を短期間に一気に進めたいというマルパの慈悲のあらわれでもあるのですが、表面上は無慈悲な拷問であり、手には血豆ができ、身体中は重労働によってできた傷だらけで、ミラレパにとってみたらただただ辛く悲しい日々が続きます。こうした身体と心の極度の疲労もあって毎晩のように泣き濡れて暮らしたそうです。
マルパの妻、ダクメマは、当時の苦行時代のミラレパの一番の理解者でもあり、文句ひとつ言わずに素直にマルパの無理難題を黙々とこなして試練に耐えるミラレパの姿に同情して、影でこっそり食事の差し入れをしたり、厳しすぎる(ように見える)マルパに意見してくれたりと、愛情を注いでくれていたそうです。ただ、マルパの与える試練はイジワルでやっているのではなく※、マルパもマルパで早くミラレパがカルマを落とし終わってすぐにでも偉大な法の奥義を一刻も早く授けたいという逸る気持ちがあり、きつい試練ほど浄化が早く進むためにしていたことでした。霊的な視点から見ればダクメマの愛情は結果的にはミラレパのカルマの浄化を遅らせてしまうことにもなります。ただ、ダクメマが愛情深い人だったおかげでミラレパも試練に立ち向かってがんばれたわけですから、ダクメマの存在もまた別の視点では神の愛の現れでもあったのだと思います。
マルパは仏塔作りの試練だけでなく、弟子たちのいる前でミラレパを罵倒し、暴力をふるったりもして、心を鬼にしてミラレパの浄化を早めようとします。この時期は仏教の修行は何一つさせてもらえなかったそうですから、マルパの真意を知りつつもそれに堪える日々は苦しく辛かったことでしょうね。そんな感じで、心が折れそうになりながらも、密教修行のための許可証でもある「灌頂(かんじょう)」※をマルパ師から授かりたい一心で苦行に堪えるのでしたが、当時のしきたりではグルから灌頂を授かるには相応の貢ぎ物が必要で、お金も宝物も持ってないミラレパは、ミラレパの数少ない味方であったマルパの奥さんのダクメマから瑜の珠(美しい石の珠)をもらい、それを供物として灌頂を受けようとしたそうです。しかし、マルパは理由をつけてそれを正当な貢ぎ物とは認めてくれなかったので、ある日、親に無心するとか働くとか、何らかの方法で自力で何か高価な金品などの貢ぎ物を工面しようと決意し、黙ってマルパのもとを離れて外に旅に出てしまいます。もしかしたら、灌頂のための供物を用意するという理由で、マルパからの厳しい試練を一時でも逃れたいという気持ちもあったかもしれませんね。
そうして乞食をしながらあてもなく放浪している途中で、ひとりの老人に出会います。老人はミラレパに近寄ってきて「働き盛りの若者がどうして物乞いなどしておるのかね?」と不審そうにたずねます。「まぁいい、とりあえずお前は字を読めるかね?読めるなら、わしの家に来て経典を読んでくれないかね。お礼に少しだが食べ物と少々のお金を払おう」渡りに舟とばかりにミラレパはその老人の家にいって経典を読んであげるのですが、その経典が『八千頌般若経』だったというわけです。
『大乗仏典 2 八千頌般若経 I』梶尾雄一、丹治昭義訳 昭和49年 中央公論社
『大乗仏典 3 八千頌般若経 II』梶尾雄一訳 昭和50年 中央公論社
八千頌般若経はそういったミラレパ関連の逸話から原典にも興味がわいていました。私は本の引き寄せ力が異様に強いこともあり、ほどなくして古本市で中央公論社の大乗仏典の翻訳シリーズ(全15巻)で入手できました。(私は基本的に欲しい本があってもネットなどで探して買うことは少なく、古本市などで偶然見つけたりするような出会いだけで欲しい本は十分見つかることが多いです)思ったよりも長い経典で、中央公論社版「大乗仏典」の『八千頌般若経』は2巻に別れており、最初は『八千頌般若経 I』のほう入手したため、ミラレパの話に出てくるエピソードを探しても見つからなかったのですが、ほどなくして後編の『八千頌般若経 II』も手に入り、こちらのほうの最後のほうに件のエピソード(「第三十章 サダープラルディタ菩薩」p312〜)がありました。目的はミラレパのエピソードの原典でしたが、もう一方の『八千頌般若経 I』も、なかなか興味深いことが書いてある経典で、こちらにも後ほど少し触れようと思います。
※マルパの与える試練はイジワルでやっているのではなく〜
マルパは夢や様々な現象の裏に隠された意味を読み解くという特殊な能力にも優れていて、ミラレパが運命によって定められた特別な弟子であることを予知夢に現れたナーローパ(マルパの師匠)によって事前に知らされていたそうです。自分の元に修行にやってきたミラレパはいずれ衆生を救う希望の光となるだろうことを知っていながらも、まずは魔術によって犯した悪業のカルマを浄化しなくてはならず、マルパは心を鬼にしてミラレパのカルマを落とすためにあえて冷たく接して拷問めいた試練を与えるのでした。このあたりのエピソードも、『チベットの偉大なヨギー・ミラレパ』(おおえまさのり訳 めるくまーる社 1980年刊)に具体的に詳しく書かれていますが、心と体を痛めつける厳しい仕打ちに堪えるミラレパに同情を禁じ得なくなります。あまりの辛さにミラレパが泣き出したときも、マルパは激怒し「泣いたりして私を責めようとはどういう了見だ!」とどなりつけられ、泣くことも許されないような厳しい試練に日夜堪えるミラレパなのでした。
このあたりのエピソードは本当に可哀想になってきますが、魔術による殺人とはいえ、やはり30人以上を殺害した悪業のカルマを人生の残り時間の範囲内でスピーディーにすべて浄化するには必要な試練だったのでしょうね。ミラレパの場合は、カルマの浄化だけで人生を使い切るわけにはいかず、浄化の後には修行して解脱まで達成しなくてはいけないので、マルパも心で号泣しながらも早く教えを伝授したい一心で浄化を早めるためにミラレパに厳しくあたってたのでしょう。元はと言えばミラレパ一家の財産を不当に奪って奴隷扱いした者たちへの復讐としての呪殺行為だったので、快楽殺人や保険金殺人みたいなエゴ的な動機の罪よりはカルマ的には圧倒的に軽いと思いますが、それでも殺人は大罪(しかも大量殺人)なので厳しい浄化の試練が長く必要だったのでしょうね。この試練はトータルでおよそ6年かかったようです。
※ゾクチェン(チベット仏教最古の宗派、ニンマ派の教え)〜
ゾクチェンはチベット仏教のニンマ派の教え。禅と比較されることが多いみたいです。たしかに、難しい理屈をこねるよりただひたすら瞑想によって心の本質に目覚めることを追求するようなところがある教えで、理屈より実践を重んじる禅と似ていますね。ゾクチェンというと、『チベットのモーツァルト』や『虹の階梯』などの著作で知られる中沢新一さんもチベット仏教を修行しておられましたが、彼が修行したのもニンマ派のゾクチェンだったみたいですね。
ゾクチェンは、あるがままの自らの本質に目覚めることを本旨としますが、ミラレパはこれを勘違いしてしまい「そうか、そのまんまでそもそも私は完成しているのだ!なにもしなくてもいいんだ!」と、本当になにもせずに怠惰に過ごしてしまいます。「そのままでOK!なにもしなくてもあなたは完璧よ!」的な教えって、現代のスピリチュアルにもよくありがちな教えですが、たしかにそういう真理の見方はあるものの、文字通り何もしなくてもいい、努力しなくていい、という意味に受けとってしまうと無意味な教えになってしまいますし、けっこう誰もが最初は陥りがちな部分でもあります。我々もミラレパを笑えませんね。
何もしない、何もいらない、ということを本当に悟るには、やはりその境地に到達するための何らかの努力は必要です。ミラレパの勘違いした態度に呆れたグルは、ミラレパにゾクチェンの修行は合わないようだし、私によって救われることもないだろう、ということでミラレパの生涯の師となることになる聖者マルパを紹介したのでした。このとき、マルパの名前を聴いただけでミラレパはハラハラと涙がこぼれ落ち、髪の毛は逆立ち、身体中に戦慄がはしり、無上の喜びで満たされたそうです。まさにマルパが運命的なグルであることを本能的に感じとったのでしょうね。
※密教修行のための許可証でもある「灌頂(かんじょう)」を〜
前の記事でも書きました通り、灌頂というのは密教修行を開始するための許可証のような役目の儀式です。そもそも密教自体が公にしてはいけない秘密のものであり、とくに後期仏教は厳しく掟が守られていましたが、1959年以降は政治的な問題からダライラマをはじめとした高僧たちの亡命などもあって状況が大きく変わります。チベット仏教の奥義ともいえる無上瑜伽タントラは長く修行を重ねた僧にしか教えを説くことすら禁じられていたものでしたが、チベット仏教そのものの存続の危機に立っている現在、灌頂も一般に授けられるものは授けたりしながら存続を図っているそうです。秘密を守ってチベット仏教自体が先細りに消滅してしまうよりも、多少の誤解をはらみつつも広く世界に教えを伝えて存続をはかるほうを選んだということでしょう。近年、長らく謎だった無上瑜伽タントラの秘密経典も日本語訳を見かけたりするようになったのは、そういうチベット仏教自体のスタンスの変化が大いに関係しているのでしょうね。ミラレパも灌頂の重要さについて語っていて、ちゃんとした灌頂を受けずに経典を読むことは何の意味も無いばかりか、足枷となり堕落への罠となるだけである、と指摘しています。
上のゾクチェンの追記で触れた、件の「ありのままで完璧」みたいな教えは、一見楽そうで魅力的に見えますが、全ての生けるものには仏性が宿っていることは仏教の教えでもありますね。しかし、ほとんどの生命は三毒(貪[とん。食欲、物欲、性欲などのむさぼり]瞋[じん。不快なものを嫌悪すること]痴[ち。迷い、愚か、真理に無知であること])によってその仏性に覆いがかぶさっているので、なにもしないと三毒に冒されたままの無知な状態を抜けることはできず、よって六道輪廻に捕われたまま永遠に苦の世界に生まれ続けることになります。意識的にこの三毒をコントロールして魂の本質である仏性そのままに生きる状態になるためには、例えば八正道などの修行が必要になります。この三毒はどれもエゴから出力される毒なので、細かい修行法にこだわらなくても、まずは自分の内なる利己性(エゴ)を律して、意識的に利他の実践(人助けなどの思いやりや、ゴミ拾いなどの利他的な行い)をしていくことでエゴを弱めていき仏性を少しずつ目覚めさせていくことが可能になります。まずはちょっとしたイライラとか不平不満などをコントロールするように遊び半分でもいいので毎日意識するようにしていくと、私の感覚ですと1〜3ヵ月ほどで身近な自分の生活の中で実感できる程度の良い変化がでてきます。ある程度浄化が進むと、良いカルマも悪いカルマもリターンのサイクルが早くなってきます。最近は朝のカルマが夕方頃に返ってくる場合もよくあります。このあたりのことはまだそれほど詳しくないですが、こうしたカルマ関係の法則も今後いろいろ研究してみたいですね。本格的にカルマの浄化や解脱を求める場合はその道に入って求道するほうが早く達成できるでしょうが、それには相応の覚悟が必要になりますね。まぁ、あせらずとも、そういう準備ができた人はそういう方向に自然と入っていくのでしょう。

参考サイト
サダープラルディタ菩薩の命がけの覚悟
ミラレパが老人に乞われて読んであげた仏典には、サダープラルディタ(別名を常啼[じょうたい]菩薩)の真理を求める強い覚悟が書いてありました。これがまたすさまじいインパクトのある話なので、ざっと紹介します。
サダープラルディタは、当時遠く東方に居られるという誰もが尊敬する有名な大士であったダルモードガタ菩薩に謁見しようと旅に出ます。ダルモードガタから貴重な真理の教えを授かるために相応の供物を用意しようとしますが、かといって対価となる価値のあるものなど何も持っていなかったため、しばし思案しますが、持てる物といったらこの自分の身体しかないのだから、この自分の身体を売って金銭を得て、それを対価に教えを乞おうと決心します。そして街中で大声で「私を買ってくれませんか!?人間を買いませんか!?」と とんでもない物乞いをはじめます。
そのときサダープラルディタ菩薩大士は市場の中央にいて、くりかえし声をはりあげて大声で叫んだのである。
『どなたか人間を欲しい方はいませんか?どなたか人間を欲しい方はいませんか?どなたか人間を買いたいと思いませんか?』
『大乗仏典 3 八千頌般若経 II』梶山雄一、丹治昭義 訳 中央公論社 昭和50年 p330
これを聞いていた悪魔たちは、サダープラルディタが無事に真理の教えを得て大衆を教化し、皆が目ざめてしまったら、魔神たちの攻撃が人間に利かなくなり、魔物たちの居場所さえ追われることになるだろうと恐れ、サダープラルディタを邪魔してやろうと、道ゆく人々がサダープラルディタの声が聞こえないようにしてしまいました。そんな事情を知らないサダープラルディタは、道の真ん中でどんなに一生懸命叫んでもみんなスルーして通り過ぎてしまうので悲しみに暮れ号泣※するのでした。
天上界でちょうどそのような人間界の様子を見ていた神々の帝王シャクラ(インドラ神のこと)は、サダープラルディタの覚悟を試そう※と、若者の姿に変身して彼の前に現れます。
人間の若者の姿をしたインドラ神はサダープラルディタの前に現れ話しかけます。「私はこれから祖先の慰霊の儀式をしたいと思ってますが、それには人間の心臓、血液、骨、髄が必要です。あなたにお金を払えばそれらをいただけますか?」と、とんでもないことを要求します。サダープラルディタはその言葉に怯むどころか、お金を得るためにちょうど良い買い手が見つかった!と喜び、さっそく自分の身体に刃物を当てて血をしたたらせながら自分の肉を削ぎ始めます。痛々しいどころか、心臓を取ってしまったら死んでしまうのでは!?と心配になります。このあたり超展開すぎますよね。サダープラルディタは観音菩薩の前世の姿でもあるそうですが、たしかに真理に対する覚悟のレベルも段違いなものを感じます。
そのとき、ある豪商の娘が、上の方、高層づくりの邸宅の屋上にいた。サダープラルディタ菩薩大士が(刃物を)腕に突き刺し、血をほとばしらせ、太ももの肉をそいだのち、骨を断ち切るために壁の土台に近づくのを見て、彼女はつぎのように考えたのである。
『いったい、どういうわけで、あの良家の子は自分で自分にあのような責め苦を加えるのでしょう。私はあの良家の子のところへ行って尋ねてみよう』と。
『大乗仏典 3 八千頌般若経 II』梶山雄一、丹治昭義 訳 中央公論社 昭和50年 p333
そこに通りがかったひとりの娘がそれを見て大変驚き、「あなた何をしてるの!馬鹿なことはやめてください!」と彼女はサダープラルディタにその凄惨な行為を止めさそうとします。理由を聞けば高名なダルモードガタ大士の有り難い教えを授かるための供物を得るためだというので、それなら私が親に頼んで替わりに貢ぎ物を用意しますから、私たちにもいっしょに教えを授からせてください、ですから、どうか自分を傷つけるのは止めてください!と懇願します。娘は裕福な家の生まれで、相応の宝物を用意してくれたので、めでたくふたりはダルモードガタの素晴らしい教えを拝聴することができました※、というエピソードです。
このサダープラルディタの真理のためなら血も肉も骨も、さらには心臓さえ捧げようとする壮絶なエピソードにショックを受けたミラレパは、そのエピソードに自分を重ね合わせ、サダープラルディタに比べたら私の試練などとるに足らない小さなものなのではないか、と考えを改め、マルパの元に戻ってまた浄化の試練を受ける決心を固めたのでした。
まぁ、たしかにサダープラルディタの覚悟と比べたらこの世の大概の試練はなんてことのない小さなものなのかもしれませんが・・・サダープラルディタの覚悟は凡人からしたら異次元すぎる覚悟で、さすがは観音菩薩の前世の姿というか、ふつうは自分と比べようとすら思わないレベルですが、サダープラルディタと自分を比べて勇気づけられてしまうミラレパの精神も後に大聖者となる方だけあってそうとうにハイレベルですね。
※悲しみに暮れ号泣するのでした〜
サダープラルディタは常啼[じょうたい]菩薩というだけあって、情にもろいというか、涙腺が弱いようで、感情が高ぶるとすぐ泣いてしまう性格だったみたいです。そこから常啼菩薩と呼ばれるようになった、ということです。このエピソード中でも、序盤でダルモードガタに会いに行く途中で道に迷うと泣いたり、物乞いをスルーされると泣いたり、など、何度も号泣するシーンがでてきます。我々は自分が不幸な時に泣いたりしますが、サダープラルディタのようなハイレベルな修行者が泣くのは、他者の苦しみに共感してのもので、人間はおろか虫や動物までみんな苦しみにもがいていることを思うと悲しくて悲しくてたまらない、だから泣いているのだそうです。そういえば往年のドラマ、スクールウォーズの主人公の先生も「泣き虫先生」と呼ばれてましたね。万年最下位のラグビー部をわずか数年で全国優勝に導いた教師の奮闘を描いた実話を元にした名作ドラマでしたが、泣き虫先生が泣くときも、自分の不幸に泣くというよりは、生徒を上手く導いてやれない自分の至らなさに泣くわけで、そのような、他者のために泣ける人間って魅力的で惹き付けられるものがありますね。そういう人に自分も一歩でも近づきたいものです。
※神々の帝王シャクラ(インドラ神のこと)は、サダープラルディタの覚悟を試そうと〜
そういえばインドラ神は先の記事で触れたようにお釈迦様の前世のウサギを試そうと年老いた老僧に変身したこともありましたね。インドラ神に限らず、天上の神々がしばしばこうして人間の覚悟を試そうとする話がありますが、ウサギの話でも今回のサダープラルディタの話でも、けっこうシャレにならない試練が多いイメージですね。まぁ、試す相手がお釈迦様や菩薩レベルの上級者なので、一般人ではクリアが難しそうな相応のハイレベルな試練になってしまうのかもしれませんが。
※めでたくふたりはダルモードガタの素晴らしい教えを拝聴することができました〜
めでたくダルドーモガタの教えを受けることができたサダープラルディタですが、その前段で布施を得るために身体のあちこちを刃物でズタズタに裂いていましたよね。そこのところを書き漏らしていましたので追記します。サダープラルディタは激痛に堪えながら血まみれでダルドーモガタの教えを受けたわけではありません。前段の道ばたで布施を乞うシーンで、先祖供養のための儀式に人間の血肉を求めていた若者はインドラ神の化けた姿だったわけですが、自らの身体に躊躇無く刃物を突き立てたサダープラルディタの覚悟に感服して若者は「ははは!すまんすまん!実はインドラ神でした!」と正体を明かします。凡人ならここで「なんというイジワルをするんですか!この傷ついた身体をどうしてくれるんです!」とキレそうになるところですが(いや、そもそも凡人は自分を斬りつけてでも教えを乞おうとは思わないでしょうが)正体を現したインドラ神は血まみれのサダープラルディタの身体を見てさすがにやりすぎたかな〜と心配になるのでした。しかしサダープラルディタはそんな落ち込んだ顔のインドラ神を逆に気遣い、「こんな傷だらけの身体になってしまいましたが、責任をとって元通りに治してくれなどとあなたを責めるつもりはありませんよ」と寛大な言葉をかけます。そして次のような宣言をします。「この私の真理を求める覚悟が本物であることは遠くで見ておられる悟りを得られた如来方にも証明されましたし、まさに、その揺るぎないこの信念によって、私のこの身体はもとどおりになるでしょう!」するとその瞬間に完全な悟りを得たブッダたちの神通力がサダープラルディタの身体を元通りにして、さらに無病息災の完全な身体にしてくれたのでした。
すると、その瞬間、その刹那、その一瞬に、ブッダの威神力の助けにより、サダープラルディタ菩薩大士の(宗教的)志願が清浄であることによって、彼の身体はもとどおりになり、しかも無病息災となった。
そのとき、神々の主シャクラ(インドラ神のこと)と邪悪な魔はきまりが悪くなり、サダープラルディタ菩薩大士に答えるための(能弁の)叡智を得ないままに、そこで消え失せたのである。
『大乗仏典 3 八千頌般若経 II』梶山雄一、丹治昭義 訳 中央公論社 昭和50年 p337
魔はなぜ邪魔をするのか?
サダープラルディタがダルモードガタへの供物の工面のために金銭を得るために身体を売ろうとするシーンで、悪魔たちがサダープラルディタの声が道ゆく人の耳に聞こえないようにしますが、ここまであからさまでなくとも、私たちの日常でも何か覚悟を決めると、しばしばそれを邪魔するようなシチュエーションと対峙することになるケースってよくありますね。約束をすると、それを守ることが難しくなるような出来事が起こったり、目標を決めたとたんに、それを達成することのハードルが高くなってしまうような事態になったり。八千頌般若経にも、そんな「魔による邪魔」についてお釈迦様が解説するエピソードがあって、なかなか興味深かったです。といいますか、最後のほうの章にでてくるサダープラルディタの話も、いかに魔の誘惑に打ち勝って正しい道を選んで進むべきなのか、という教訓を学ぶためのエピソードでもあり、この魔による邪魔については経典のはじめのほうから何度も出てきます。真理を求める修行者にとって魔の誘惑とどう対峙するかというのは普遍的な問題であるということでしょうね。
中央公論社版『八千頌般若経』の1巻目のほうにも、そのまんま「魔はなぜ邪魔をするか」という章があります。
そこでは、お釈迦様の高弟のひとりで、笑顔を絶やさず誰とも争うことが無いことから「無争第一」と呼ばれたスプーティが、お釈迦様との質疑の中で、魔に対する見解を尋ねます。いわく「世尊(せそん。お釈迦様の敬称)よ、この世界ではなぜ魔は人が真理の知恵の完成を邪魔するのでしょうか?なぜ魔はそんなにも懸命に、人が真理を理解し学び話し説いたりすることに対して邪魔することに精を出すのでしょうか?」お釈迦様はその問いにこう答えます。「世界の無数の悩める人々が煩悩を断つことが可能なのは如来(にょらい。最高の悟りを得た解脱者)の教えがあるからである。煩悩を断った人々に対しては、邪悪な魔は弱点につけいれない。つけいれないと魔は苦しみ、落胆し、悲しみの槍に突き刺されるのである。だから、人が真理に目覚めるための努力をしようとすると魔物たちはあれこれと邪魔立てに精を出すのである」
時代が新しくなっていくとともに、こうした魔のはたらきは、自らの内なるエゴのはたらきとして解釈されるようになっていきますが、八千頌般若経は紀元元年〜1世紀に成立した大乗仏典の中では最も古いものとされているように、けっこう寓意的な説き方が多い印象がありますね。でも、もしかしたら、逆に現在のように魔は実在する霊的な何ものかではなく、自分の内にあるエゴのはたらきである、という考えだけに捕われるのもまた合理主義のバイアスのかかった思い込みのようにも思えてきます。
魔は内なる存在なのか、外にいる存在なのか、そういえば、現代科学も真理に近づくほどそうした二律背反をはらんだどちらともいえない、あるいはどちらでもあるような奇妙な世界に突入する傾向ってありますよね。
量子力学は、物質の最小の構成要素には波と粒子の二重性が現れることを証明しましたが、これはとりもなおさず、存在するものの最小の構成要素はすべて波(非物質)でもあり粒子(物質)でもあるということです。物質だと思われていたものの実体は、物質と物質でないものが不可分になった謎めいた何かなのでしょう。まるで般若心経ですね。この世は実体がなく空であり、空であるから実体として見えているともいえる、物質的な現象の本質は実体がないということである。我々現代人は、近代合理主義の物質偏重教育によって、心さえも脳という物質の生み出す機械的な現象であるかのような錯覚を共有させられていますが、仏教の「大乗起信論」にあるように、むしろ心が先にあって、心のはたらきこそが物質を生み出している根本原理である、というような考えも意外と「存在」の本質を突いたひとつの解答なのではないか、という気持ちにかられます。さらにいえば、どちらが先か、ではなく、どちらも正解というか、この世は「波/心」と「粒子/物質」がシュレディンガーの猫のように不可分に重ね合わさっているのかもしれませんね。
魔の話しに戻しますと、魔は内なる自分のエゴともいえるし、お伽噺やオカルトにあるように霊的な実体として存在しているのかもしれません。どちらかが本当ということではなく、また、どちらも本当だというのもつかみ所の無い答えになってしまいますが・・・・多分、それらは次元というか、階層の違いなのでしょう。心のレベルに応じて真理は様々な見え方をするものです。ミラレパもチベットの各地を旅しながら人々に救いの教えを広めていっただけでなく、各地の先々で人々に悪さをはたらく霊的な魔物に対してもこんこんと説教して仏教に改心させたりもしてたそうです。人を救うだけでなく、魔物さえ説得して善霊に変えて救うとは、段違いの大聖者ですよね。

参考サイト
量子力学では粒子が「波」として記述される一方で、光や電波のような電磁波(波としての性質をもちろん示す)にもまた粒子としての特徴も示されている(光量子仮説)。一般に観測に際しては、粒子性と波動性は同時には現れず、粒子的な振る舞いをみた場合には波動的な性質は失われ、逆に波動的な振る舞いをみる場合には粒子的な性質は失われている。(ウィキペディアより)
悪魔はスルー推奨
70年代後半にウイリアム・フリードキン監督の映画「エクソシスト」の大ヒットが後押しして世に出たある本があります。それは『悪魔の人質』(マラカイ・マーチン著 大熊栄訳 集英社 1980年)という本で、実際に悪魔払いを経験した数人のカトリックの神父に元神父の著者がインタビューをして、悪魔払いをしたときの経験を語ってもらったものを本にしたものです。昔古本屋で安く売ってたので、興味本位に買って読んでみたのですが、実話だけあってすごいインパクトで、「うわぁ!悪魔ってホラー映画の中だけのファンタジックな怪物だと思ってたけど、もしかしたらほんとにいるのかも!」と思ったものでした。まぁ、読んで愉快になれるような類いの本ではないですが、気になって本棚を探しても見つからず、捨てたか売ったかあるいは無くしたかしてしまったようです。近くに置いておいても変なバイブレーションを出してそうなので買い直そうとまでは思いませんが、アマゾンなどではいつのまにかすごいプレミア価格※になっていて二度びっくりです。悪魔とのやりとりがすごくリアリティがあったのと、巻末に実際の悪魔払いのカトリック式のマニュアルが付録についてた気もしますので、資料的な意味でも確保しておいてもよかったかな〜と考えがブレてきます。
まぁ、何を言いたいのかというと、この本で実際に神父たちが戦った悪魔というのが、本当に悪魔っぽいというか、「ああ、やっぱり悪魔というのは興味本位で近づいちゃ絶対ダメなやつのようだ・・・」と心底思わされたことです。悪魔は自分の心の中に住んでいる、というのもあると思いますが、外側の世界にもけっこういたりするんじゃなかろうか、という一例として思い出したのがこの本だったわけです。悪魔は霊的な存在なので、せっかく取り憑いた犠牲者の身体から追い払おうとするエクソシストに必死に抵抗しますが、その抵抗の仕方がまさに悪魔っぽいリアリティがあるのです。映画のように知らない言語を話したり、恐ろしい声や、年老いた母親の悲しそうな声などで心を揺さぶってきます。(そもそも件の映画は実話を下敷きにしています)また、自分の心の奥にしまってある誰にも知られたくない秘密※をネタに悪魔払いの儀式を止めさそうとしたりします。(例えば思春期の頃の隠しておきたい性的な経験とか)悪魔という言葉も手垢にまみれてきた現代、一昔前に自分の子供に悪魔と名付けようとした親が話題になりましたが、件の本に出てくる実際の悪魔は子供に名付けたくなるような可愛いイメージは全くなくて、善とか愛とかいう心のよき部分が全く欠落した寒々しい性格をしていて、そうした悪魔のキャラ描写に背筋が凍った記憶があります。悪魔を祓うには、ただ聖書の神の言葉をぶつけるだけでは意味が無く、エクソシスト本人が心の奥まで清らかでないと、ちょっとした心の弱みをナイフのような鋭さでザクザク刺してきます。なので、エクソシストは一ヵ月以上前から教会で毎日祈りを続け身も心も清めねばなりません。本に紹介された神父の幾人かは、悪魔払いの後遺症で精神を壊してしまった人もいたりして、映画のようなヒロイックなかっこいい仕事じゃないことを痛感させられました。もう十年以上前に読んだきりですが、また読み直したいような、二度と読み返したくないような、そんな本です。
なんか変な方向に話しが逸れてしまいましたが、つまり、魔というのは、霊的な存在なので、心がある程度清らかな人には見えもしないし、魔もそういう人にはかかわることもできないので、こちらから興味を持って突っ込んでいかない限り必要以上に怖がる存在でもないです。臆病な人や、不安や疑心暗鬼など、ネガティブな心のバイブレーションでそういう魔的な霊は寄ってくるので、気をつけたいものです。また、例えば心霊スポットのようなところにわざわざ出かけていったり、ホラー映画ばかり鑑賞したりなどが習慣化すると、魔的なものを呼び寄せるだけでなく、経験上、運勢もダダ下がりしますのでお好きな方はほどほどにするのが吉です。むかしはダリオ・アルジェントの大ファンで、よく何度も彼の作品を見てたものですが、なんか見るたび運がガガーッと下がる不思議な気分に襲われ、実際に見た後はアクシデントや変な出来事が起きやすくなってました。数年前あたりから精神世界に興味をもっていくうち、やはりネガティブな娯楽は運勢に良くないんだろうな、というのが実感として感じるようになってきたので、J・P・ウィトキンの写真集とかアルジェントのレアなDVDなどヤバそうなものはけっこう手放しました。
※アマゾンなどではいつのまにかすごいプレミア価格〜
ネットでの相場は「日本の古本屋」では、現在のところ¥3000〜¥10000くらいのようで、定価の3〜10倍ほどのプレミアですね。これはとりあえず今は買う必要はないという本の神からの合図でしょう。どうやら2016年に同名の映画『悪魔の人質』(マーティ・ストーカー監督)で、件の本の作者、マラカイ・マーチン神父の自伝的なドキュメンタリー作品が公開されてたそうで、そうした影響なのでしょうか。面白そうではありますが、悪魔より天使に興味を向けた方が運勢はよくなりそうなので、悪魔関係はとりあえずスルーしておこうと思います。天使も調べてみるとけっこう奥が深くて、そのうち考えがまとまったら記事にしてみたいですね。天使はボルヘスのスウェデンボルグに関するエッセイで面白い見解を述べてましたし、臨死体験で光る玉のような姿の天使を見た人のエピソードなど、こちらもなかなか興味深いです。
※自分の心の奥にしまってある誰にも知られたくない秘密〜
悪魔払いはカトリック教会の正式な役割として黎明期から存在していた古い伝統でもあったみたいですね。イエス・キリストも聖書の中で悪魔払いをするシーンが描かれているくらいで、エクソシスト(祓魔師[ふつまし])の存在は教会的には別に変わった役職ではないと昔から考えられてきたようですね。現代では、悪魔憑きというと、真っ先に精神疾患を疑いますが、エクソシストもそのあたりはちゃんと対象者が本物の悪魔憑きなのか精神病なのかはかなり厳しくチェック(例えば、本人の知らない言語や、知らないはずの情報を話すとか、精神疾患で説明出来ない症状の有無など)され、それでも悪魔憑きの疑いが拭えない場合にやっと悪魔払いの許可が教会からおりるようです。ただ、エクソシストの役職は、第二バチカン公会議(1962〜1965年)以降には廃止され、現在は存在してないようです。

参考サイト
これは、死期が近づいた晩年に弟子に向かって話した最後の訓戒の中の一節です。ストイックな行者らしい言葉ですね。しかし、そうしたストイックな厳しさの中に自然に行間からにじみ出てくるような包み込むような愛情に溢れているのもミラレパに惹かれる部分です。
ミラレパの人生は、やはり序盤の試練に耐え続ける苦行時代の話がドラマチックで印象深いですが、それだけに試練がやっと終わった瞬間の歓喜の様子は読んでる自分も嬉しくなってきます。
ミラレパはマルパからの試練を堪えていく中で、奥さんのダクメマや兄弟子たちに助けられたり慰められたりして励みにしていきますが、マルパからすればミラレパをかばうことはミラレパ自身のカルマの浄化を遅らせるだけなので彼らを厳しく叱責します。とくに、ダクメマがマルパの手紙を捏造して兄弟子のゴクパからミラレパに灌頂と奥義の伝授をさせてしまったことがマルパの逆鱗にふれました。灌頂も奥義の伝授も正当なグルからのものでなければ無意味だからです。ミラレパは激しく怒られている恩人たちを目にして深く絶望し、このまま生きていても、自分を哀れんで助けてくれようとした親愛なるダクメマや兄弟子たちにまで迷惑をかけ、さらなる悪業を積みつづけるだけだ。いっそここで私のようなものは死んでしまったほうが皆のためなのかもしれない、と自殺を決心します。
この死を覚悟するまでの絶望が最後の浄化のスイッチになったのか、マルパはこのときミラレパの浄化が完了したことをすぐさま察知して、ミラレパに急に優しく接します。厳しく辛い6年にわたる試練がようやく終わったのでした。さぁ、おまえに偉大なるタントラの教えを授けよう。とミラレパを盛大な歓迎の主客にした宴席で試練に耐え抜いたミラレパをマルパやその家族や弟子たちみんなで讃えるのでした。マルパの見解では、もし兄弟子やダクメマがミラレパの手助けをしなければ、試練が終わったのと同時に一気に解脱するはずだったそうですが、彼らの同情によって犯した過ちによってミラレパには多少のカルマが残存してしまったので、今後も多少の修行は必要となったそうです。とはいえ、ダクメマらの愛情によってギリギリ精神の安定を保って試練に耐え続けていたわけなので、全ては大いなる宇宙的な見地からはなるべくしてなっていたのでしょうね。もともとストイックな行者タイプだったミラレパはその後一生を家ももたず財産も着衣がわりの布一枚しかもたずひたすら瞑想と修行に明け暮れます。托鉢に修行時間を削られるのまで惜しんで、そのへんに生えている雑草(刺草)を水で煮て食事にしていたため、身体はガリガリで、草ばかり食べていたので肌の色も次第に緑色になってしまったそうです。
ミラレパを描いた絵の多くで白い布を一枚まとった緑色の肌のやせた行者のかっこうをしている理由はそういうエピソードからきているようですね。ミラレパの絵はしばしば耳に手を当てているポーズで描かれますが、これは自然の声から霊感を得ている姿であるとか、ゾクチェンの「ロンデ」の瞑想法を意味しているのだとか、いくつか説があるようです。
ミラレパは厳しい試練を耐えた末にマルパからタントラの奥義を伝授され、その後マルパの元を離れて瞑想修行の旅に出て各地を放浪します。前の記事でふれたように、晩年は仏教学者ゲシェ・ツァプアに怨み※を買い、彼に毒を盛られたことで亡くなりますが、聖者に毒を盛るというのはこの上ない大罪ですから、その報いがどうなるかは解脱したミラレパにはリアルに分るので、毒の激痛を味わってる最中にもかかわらず、被害者でありながら加害者のゲシェを憐れみます。このあたり、イエス・キリストが凄惨なむち打ちの刑を受けてる最中に、苦痛に苦しんで恨み言いうでもなく、逆にむち打ちの執行者の罪の報いを哀れんで神に彼らを許してくださるように懇願するシーンを彷彿としますね。
ミラレパの底知れぬ慈悲に衝撃を受けたゲシェはすべての財産を喜捨しようとしますが「わたしは生涯一度として家も財産も所有しなかった。それが今、臨終の床にあって世俗の財を持ってどうなるというのか。そんなことより、お前は以後は法(ダルマ)を犯すことのないように自らを律しなさい。お前のこのたびの罪については、それによってお前が苦しまないようにわたしが深く祈願してあげよう」と彼(ゲシェ)の一切の罪が自分の中で消滅しますように、と祈りの歌をうたうのでした。ゲシェの全財産の布施はミラレパは受け取られなかったので弟子たちが譲り受けてその後のミラレパの葬儀費用などにあてたそうです。ゲシェはその後の一生をミラレパの帰依にささげました。
キリストにしろミラレパにしろ、この異次元レベルの慈悲深さがまさに大聖者ですね。真理に近づくほど自他の区別がなくなっていくので、自分を害する者さえ縁あって自分の人生に参加している親愛なる客人でもあるのでしょう。またそれは自分自身が別の姿で自分に何かを教えようとしている姿でもあるのでしょうね。本来解脱した聖者には不幸が起こるカルマは全くなくなるはずですが、多くの聖者は解脱した後も十字架にかかったり癌になったりなど、客観的には不幸に見える晩年を過ごしてるように見えます。おそらく、これは、聖者が身をもって教える実体的な最後の教えを遺すためかもしれないですし、また、自分のカルマは全部清算し終わったので、残る人生で弟子や周囲の人々やはては人類が負っているカルマを自分の残りの人生を使って少しでも消化してあげようという慈悲心によるものなのかもしれません。解脱に近づくほど、自分の安楽よりも他者を苦しみから救いたいという利他心のほうが強くなるので、そうした聖者の晩年というのは、自分の人生を最大限利用してすこしでも後の人類が幸福であってほしいという宇宙的な親心が反映されたものなのかもしれませんね。