つれづれなるままに
人間関係のストレスがほぼ消滅する方法として「バカ」「嫌なやつ」「嘘つき」の3種の人間と縁を切ると良い、というポストを何気なく見ていたSNSで目にしました。自分もかつて、まさにソレを実践していたことがあるので、いろいろ思い出したりしながら自分なりに思うところがあったので記事にしてみました。
件のSNSのポストは、「わざわざ気の合わない嫌なやつとつきあう時間があったら、気の合うまともな人間との交流に時間を割いた方が断然人生が豊かで楽しいものになりますよ」という内容のもので、一見たしかにその通り!と思うようなことではありますが・・・・・これは、短いスパンではたしかに正しいです。嫌な人間を排除するとたしかに一時期は平安を得られます。
このような生き方をすでに実践したことのある方は、もう分ってると思いますが、そう人生は単純ではありません。人間関係をコスパで割り切る考えは意外な落とし穴に足を取られがちです。この手法は、自分のエゴの機嫌をとる方法であり、本当に自分の幸福に行き着く方法ではないので、(※)嫌なやつを人生から排除したところで根本的な解決になることは少なく、ほどなくすると「同系統の嫌な奴」が必ず現れて自分を悩ますことになります。
おそらく、そうなる理由は、本来嫌な事を自分にしてくる人は、すでに運命的に決められた自分の人生ゲームの初期配置の人なのであり、その人自身が単純に悪人というわけではないからです。その人との接触を無理に避けても、嫌な事をする役割が別の身近な人にバトンタッチされるだけなので、嫌な事をする担当者が変わるだけで、嫌な事自体は引き続き確定で起きることになるわけです。
嫌な人間とは縁を切る、というやり方を単純に続けていくと、じょじょに本当に自分の人生にとって真に有益な人や親友と思ってた人などがその嫌なやつ≠フ役割を担当することになっていきます。人生の課題として嫌な人というのは現れる法則があるので、そういう人を安易に排除すると、今つきあいのある持ち駒≠フ中から誰かが嫌な人の役割を担当することになるからです。
また、気をつけないといけないのは、そのような排除系のやり方を続けていくうちに、知らず知らずに他者を取捨選択する傲慢さが育っていきがちで、それによって自分が他者から「つき合いづらい面倒くさい人」「いつ自分も排除されるか分らない怖い人」と思われていき、いつのまにか自分が排除される側の人間になっていく危険性まであります。少なくとも私の場合はそうでした。
大勢の人がいる職場などで仕事をしている人は、そういった嫌な人の役割交換が複雑になるので、なかなかこういう運命のシステムに気づきにくいですが、他人と接触する機会の少ない生活をしている人は、役割交換の発生が分りやすいので、けっこうリアルにこの法則を実感として感じると思います。
そもそも、その「バカ」「嫌なやつ」「嘘つき」というのは、別の誰かから見た自分自身でもあります。自分もまた誰かに知らず知らずか意図的かにかかわらず迷惑をかけてきたわけですし、誰にも迷惑をかけていない人間はこの世には一人も存在しません。(※)キリストのような超聖人(※)ですら、世界のどこかで宗教的イデオロギーの違いで起こる紛争のたびに諸悪の根源であるかのように遡上に乗せられています。マザーテレサのような度を超えた慈愛によって人類に希望をもたらした聖者でさえ、様々な非難にさらされて叩かれている(※)のもたまに目にします。
だからといって、現にそれで苦しんでいる最中の場合は、冷静に対処できるケースばかりではないでしょうし、排除系な対応も、緊急処置的には仕方ない場合もあるかと思います。それで上手くいってもいかなくても、それもまた人生の貴重な経験となりますし、どんな選択も決して無駄になることはないですから。
かなり昔、ネット黎明期の頃に、煩悩にまかせて巡回していた とあるアダルト系の掲示板にあったある匿名ネットユーザーの書き込みを今でも鮮明に覚えています。いわく「この世に全ての人から好かれる人間は存在しない。なぜなら、全ての人間から好かれるような人間≠ェ嫌いな人間というのが必ず存在するからだ」(※)というものです。著名人の名言の引用なのか、ご本人の人生から生まれた言葉なのかわかりませんが、とても胸を突く言葉でした。マザーテレサでさえ叩く人がいるわけですから、自分も他者から見ればすくいようのないバカで邪悪な人間に映っている可能性だって確実にあると思って間違いないでしょう。自分もまた他の誰かにとっての「バカ」「嫌なやつ」「嘘つき」であるというのはほとんど事実で、逆に、そうでない人間のほうがかなりのレアな存在なのではないでしょうか。
社会生活を送る限り、どんなに注意して生きていても、(意図的でなくても知らず知らずに)他者に迷惑をかけることを避ける事は不可能です。ゆえに、他者の失敗や落ち度や欠点に対して出来うる限り自分も寛容でなければならないのだと戒めています。まぁ、なかなか言うほど簡単ではないですが、聖書の言葉にあるように、自分の落ち度が神に許されるための条件は同じような他者の落ち度を許すことで達成されます。これは、自分の経験に照らしても腑に落ちることがたくさんあるので、この世を操る高次元の世界では、そういう法則が働いているのは確実なのだと思っています。
結局は、慈悲や愛でしか、人はより良く変わることはできないのだと思います。排除の考えも、緊急措置としては全然アリだと思ってますし、現に起きている困難が、逃げたり戦ったりすることで即座に克服する事が可能ならするべきですし、それも適切である場合もあるかもしれません。しかし、究極的には、この世に純粋100%な真の悪人は存在しない(どんな悪人も親や親友はいたりする)ので、できる限り明確な悪意でない限りは慈悲のある対応を心掛けたいと思っています。まぁ、こういう立派そうなことを無自覚に公言すると、「お前、かっこいいこと言ってるが、その覚悟が本物かどうか見せてみろ」と運命の神によって、そういう覚悟を試すようなちょうどいい試練がしばらくすると高確率でやってきたりしますから、こうした発言をするのも最近はけっこう勇気が入るようになりました。まぁ、しかし、腹にもない事を公言するのでない限り、そうした試練も、理想の魂に成長するためにいずれはチャレンジしなければならない類いのものですから、必要以上に恐れる事もないのでしょう。
では、排除系でないやり方でどう解決すればいいのか、が抜けていたので追記します。詳しくはまた下の方で書いてますが、まずかいつまんで結論から記しておきます。
嫌なやつというのは、現在自分が持っている欠点や課題が現象化したものなので、課題がクリアした段階で、そういう人は現れなくなくなるか、嫌な人が嫌じゃなくなるような変化が起きます。どういう課題が現象化しているのか、は冷静にその嫌な人≠観察すれば容易に気付きます。気付けない場合は、「私が乗り越えるべき課題を教えてください」という願いを持ち続けていると、なにかの拍子に世界がいろんなやり方で教えてくれます。まぁ、この世の不幸の全ての原因はカルマの問題もありますが、ほとんどはエゴ(利己性)から来るので、分らない場合はひたすら人の役に立つことや人に喜ばれる事をして善行を積んでいるうちに勝手に解決してしまうことが多いです。(私の場合はそうでした)
※嫌なやつを人生から排除したところで、一時は平安を得られますが〜
これは、とくに20〜30代の若いうちは、けっこうそういう排除系のやり方でそこそこ長い期間(1〜2年くらい?)は平安を得られます。その成功体験でついつい同じやり方を続けていくと、40代くらいから痛い目にあうことのほうが多くなっていきます。経験則からのいい加減な持論ですが、これは多分、若さというのは宇宙的にはそのままで天然の「善」であり、ゆえに多少の悪に世界が目をつぶってくれることがあるせいかな、と思ってます。歳をとってくると、そういった、もともと若いという価値だけで得られている徳のポイントのようなもの、RPGゲームで言う「運」のパラメータは歳と共に減っていき、中年からはそういう状態で物事に対処することになるので、歳をとるごとに霊的な法則がモロに運命に反映されるようになる気がします。
基本的に良い事をすれば良い事があり、悪いことをすれば不幸が起こるという法則は確実にこの世にあり、適切なタイミングでそれらのカルマの芽が出て現象として現れます。カルマは自然に消える事はないので、悪いカルマは芽を出す前に、善行によって人生のポイントカードに「徳」というスタンプをできるだけたくさん溜めておくことで、大難を小難に抑えたりなどの効果があります。古本市に出かけるとき、途中の道にあきらかに自分に拾わせたいかのように落ちてるゴミがいくつか目につくことがあります。そういうゴミは拾うと良い具合に徳のポイントが溜まるボーナスのゴミなので、「お?あそこにボーナスポイントが落ちている!」という感じで、喜んで拾って家に持ちかえって棄てるようにしています。実際に、そういう日は良い掘り出し物に出会う確率が非常に高くなる実感があります。この徳ポイント≠ヘ、実際にどういうシチュエーションで使われるかは自分で決められるものではなく、天の力が最適な割り振りをしてくれてる感じがします。おそらくレベルの高い修行者になると、徳ポイントの割り振りも自分の意志で出来るようになるのかもしれませんね。(2026/3/29 追記)本筋とは関係ないですが、昨今は店のレジもどんどんセルフサービス化が進んでいて、ポイントカードにスタンプ、という光景もだんだん見なくなりましたね〜(追記おわり)
※誰にも迷惑をかけていない人間はこの世には一人も存在しません。
バブルの時期には70年代のフォークが「暗い、重い、野暮ったい」というネガティブなイメージが蔓延してました。特有の当時のベルボトムなどのファッションや無精なロングヘアなどがよく漫画などでもネタ的に蔑まれていた時期がありました。当時はけっこうなへそ曲がりだった私は、そういう風潮に逆らってみたくなり、逆にそのダサいフォークとはどういうものだったのだろう?と気になって、70年代フォークを聴き漁った時期がありました。70年代のそういう文化は自分よりも年上の兄貴世代の文化であり、かつ地方住みだったせいで、よく知らない世界でしたが、実際にフォークを聴いてみたらそれは想像以上に奥の深い情熱的で創造的な世界であまりの面白さに復刻CDを買いあさり、しばらくフォーク三昧の日々が続いたのを思い出します。あがた森魚、遠藤賢司、友川かずき、斉藤哲夫、吉田拓郎、三上寛、などなど、素晴らしいアーティストを多数知ることができて、おかげで大いなる収穫がありました。また前置きが長くなりましたが、そんな中で出会ったのが泉谷しげるの音楽で、あの熱いメッセージと強面の外見とは裏腹な底知れない優しさがにじみ出る楽曲の数々に心酔したものでした。泉谷しげるの印象的な発言の中で、今でも鮮明に覚えているのは、うろ覚えですがこんな言葉でした。「人間なんてものはどう生きようが他人に迷惑をかけてしまうもんだ。それを気にしてやりたいことにいちいち臆病になってたら何もできやしねぇよ。むしろ波風立ててやるつもりでチャレンジしやがれ」みたいな感じの言葉だったと思います。まぁ、ある意味極端ではありますが、何事にも臆病になってしまう当時の自分にはとても励まされたエールでした。
※キリストのような超聖人ですら〜
宗教が原因で争いが起こる時点で、それは宗教の本質とは関係のないものであるように思います。宗教の目的は元来は、人々を人生の様々な呪縛から自由にしてより良く生きることの手助けをするものです。政治がマクロな視点で環境を整えることで人々を幸福にしようとするシステムであるのに対して、宗教はある面では個人の生き方というミクロの視点から人生を見直す事で、結果的に世界が良くなっていくことを目指す幸福実現のシステムだと思います。宗教戦争とは単純化すれば「俺たちの信じる神のほうが本物で、お前らの宗教は邪教だ!」と互いに幸福実現の手法の違いで対立する愚かな争いだと思います。幸福というゴールが大事であって、そこに至る段取りの違いはどうでもいいはずです。どのような宗教も言葉を変えて「寛容さ」を説いているはずで、争いに発展する時点で自分の信じる教義で説かれているはずの「寛容さ」が実践できてないことになります。(逆に、他者への寛容を説いていない宗教はまがいものだと思います)ラーマクリシュナやヨガナンダなど本物の聖者のほとんどは、万教一致の思想を持っています。同じ料理をスプーンで食べようが箸で食べようが同じ味であるのといっしょです。教義の違いで対立する愚かしさは、我ら凡人でも悟らずとも察しが付くように思いますが、これもそういう争いの渦中にいる間はなかなか自分では気付けないものなのでしょう。これも仏教でいう煩悩のひとつ「執着」による迷いの為せる技なのでしょうか。(2026/3/29 追記)しかし、よく考えてみれば、真面目に信仰しているがゆえに、大切にしている自分の宗教と対立したり否定する側とは、現実的にうまくやっていくのはなかなか大変なハードルであろうことも、理解出来なくもないですし、外野が言うほど簡単でもないのでしょう。これもまた軽々に答えを出すことが難しい人類の課題のひとつですね。(追記おわり)
※マザーテレサのような度を超えた慈愛によって〜
世間に広く知れ渡っている大聖者としての側面は周知ですが、批判的な情報もそこそこ見かけますね。ウィキペディアでも「マザー・テレサに対する批判」という独立した項目で解説があったので、ざっと目を通してみました。これも、批判の多くがけっこう少数の個人的主観が元になっていたり、背景に宗教の違いによるイデオロギー的な対立からくる偏見ともとれるものもあり、一概に全てが客観的事実に基づく批判のようには思えない、という印象です。もちろん、私はマザーの考えに心酔しているところがあるので、けっこうひいき目に見ていると思います。人間なのだから、欠点も失敗もあって当たり前と思ってますし、マザーの黒い噂も中にはいくつか事実もあるのでしょう。かといって、マザーが築き上げてきた行いは全てインチキだったのか、というと、そんなわけはありません。
かつてサイババがブームになったとき、ブームに水を注すように、「サイババのビブーティ(手のひらからどこからともなく出現する聖なる灰のこと)は手品である」とか、数々のサイババの奇跡をトリック説で解釈するバッシングがありました。サイババが本当にそういう奇跡を発現してたのか、あるいは手品だったのかは正直私もわかりません。しかし、サイババが実際に孤児や病人などのために私財を投じて尽力していたことはまぎれもない事実で、サイババの奇跡の真偽などよりもむしろそっちのほうが重要なことだと思ってます。キリストでさえ無実の罪で処刑されているのですから、サイババの疑惑の真偽も軽々にジャッジしたくない気持ちがあります。
なるべく人の欠点を見て絶望するより、人の美点から学ぶようにしたいと思う昨今です。ここでも何度か引用している聖書のルカ福音書からの言葉ですが、「人を裁くな。そうすれば、自分も裁かれることがないであろう。また人を罪に定めるな。そうすれば、自分も罪に定められることがないであろう。赦してやれ。そうすれば、自分も赦されるであろう」という聖句があります。私も何かあると、ついつい人を心の中で裁いたりしがちな欠点だらけの未熟者なので、よくこの言葉を思い出しては自戒する日々です。
※「この世に全ての人から好かれる人間は存在しない。なぜなら、全ての人間から好かれるような人間≠ェ嫌いな人間というのが必ず存在するからである」
こういう言葉がアダルト系の下世話な掲示板に唐突に書かれていたりするのが面白いですよね。美しい蓮の花が濁った泥の中から水面に顔を出して花を咲かせるような、この世の奥深さの一端を感じた思い出です。蓮の花といえば、寅さんの映画のテーマ曲にもありましたね。「ドブに落ちても根のある奴は、いつかは蓮(はちす)の花と咲く」の一節は、どんな人生でも真面目に誠実に生きてる人は、いつか必ず蓮の花が咲くような幸福に巡り会えるのだ、という希望を感じて、聴くたびに勇気づけられ、ものすごく琴線に触れるものがあります。亡き父が大好きだった映画だったこともあって、寅さんのテーマは聴くたび自然と涙腺が緩みます。調べると、男はつらいよのテーマ曲は、全部で5番まであるようで、たしかに影法師≠ェなんとかというバージョンも聴いた事があるので、2番3番くらいあるんだろうな、とは思ってましたが、5番まであったんですね〜
歌詞は星野哲郎さんで、他にも「三百六十五歩のマーチ」「兄弟舟」「昔の名前で出ています」「自動車ショー歌」などなど昭和の屈指の名曲の数々を世に送り出した方なんですね。このような深い歌詞は、テクニックだけでは書けるものではないはずと思い、星野氏がどういう人物像なのか気になってウィキペディアを覗いてみました。やはり案の定で、星野氏は若い頃に腎臓結核を煩い、4年にわたる闘病生活の経験があったようで、やはり人並み以上のご苦労をされてたみたいですね。自身の性格は大変に温和な方だったようで、なかにし礼氏によれば、声を荒げた所を見た事が無く、後輩にも親切だったそうです。だからあのような多くの人の心を優しく包み込むような素晴らしい詩が書けたんだな、と納得でした。ちなみに、「銀河鉄道999」の主人公、星野鉄郎と一字違いのよく似た名前なので、名付けに何かオマージュ的な意味で関係があるのかな、と思って調べたら、漫画のほうの鉄郎は、星から星へ鉄道で旅する主人公ということで名付けられたようで、こちらは関係ないようでした。

参考サイト
「2:6:2の法則」の話
少し話が逸れますが、俗にいう262の法則、というのを聞いたことがあると思います。働きアリを観察すると、集団の2割が勤勉に働き、6割は平均的な普通の働きをし、残り2割はあまり働かずによくサボる、というものです。この集団からサボり癖のある怠け者の2割を排除すると、すごい能率の良い集団ができそうに思いますが、実際には、怠け者を排除しても、残りの8割の集団の中から怠け者になるアリが現れはじめ、結局全体でまた2割の怠け者のいる集団になっていく、というものです。とても興味深い法則ですよね。262の法則は、イタリアの経済学者パレートが提唱した「パレートの法則(80:20の法則)」から派生したもので、生物の組織や集団がなぜか自然発生的に凡庸な8割と有能な2割で構成されていく現象のことです。ここからさらに細かく分類していくと、非凡な2割、凡庸な6割、無能な2割、のような割合で集団が形勢されるとされる262の法則という概念がうまれたようですね。生物界の集団形勢において、このような偏りが自然発生的に生じるというのは、とても興味深く、なにか人間社会における事象にもいろいろな示唆を感じるところです。
以前よく言われた似たようなジャンルの不思議な生物学的な現象で『百匹目の猿』というのがありましたよね。内容をかいつまむと、以下のような不思議な現象です。これは、ニホンザルの集団を観察していたある学者が、ある日一匹のサルが餌として与えていたイモを近くの海岸の海水で洗って食べているのを発見することから話ははじまります。このイモ洗いを覚えたサルは、洗うことによってドロが落ちて雑味がとれるだけでなく、海水の塩分で味もよくなることに気づき、毎回イモを洗うようになります。それを見ていた他のサルも次第にイモ洗いをマネするようになり、いつしかその集団のサル全体がイモを洗うようになります。そして、ここからが面白いのですが、この現象をはじめて紹介した生物学者のライアル・ワトソンは、同行動を取る猿の数がある一定の数をを超えたときその行動が群れ全体に広がり、さらに場所を遠く隔てた交流のない猿の群れでも突然この行動が一気に見られるようになったと記しています。
イモ洗いをするサルの頭数が一定の数を超えたとたんに、そのサルの集団と交流を持たない遠く離れたニホンザルの集団にも何故かイモ洗いの習慣がまるでテレパシーのように伝播した、ということから、この閾値をワトソンは仮に100匹として、説明しました。99匹のサルがイモを洗うまでは、自然な成り行きですが、100匹目のサルがイモを洗ったとたんに近隣の群れ全体にその習慣が伝播した、ということです。そういうことで俗にこの現象が『百匹目の猿』と言われるようになり、一時期は科学系の雑誌やマスコミなどでもしばしば引用されて、生物の不思議の典型的なエピソードとして有名になっていきました。つまりは、生物は個としてふるまっているようでいて、実際は種としての意志に従って生きている、ということを暗に主張しているのでしょうね。(※)
しかし、これはウィキペディアなどにも書かれているように、後にそのユニークなニホンザルの観察の根拠となる記録そのものが存在しないことが判明していき、次第にワトソンの作り話ということで現在は決着しています。この話もけっこう示唆を感じる面白い話だったので、デマだと知ったときはちょっとショックでしたね〜
そんなことがあったので、先の「262の法則」も、それなりにミステリアスな生物界の法則なので、これも事実なのかどうか気になって調べてみました。幸いにこっちの262の法則のほうは明らかなデマとは違うようでホッとしました。ただし、厳密に研究された自然法則というわけではなく、役に立つ経験則という程度のもののようですね。この法則の根拠としてよく挙げられる働きアリの集団での観察は、北海道大学で長谷川英佑氏らにより2012年頃に実際に行われていたようで、「どのコロニーでも約2割のアリは怠け者」「怠け者だけ抽出すると、怠け者集団の2割は怠けたままだが、残りのアリが働くようになる」「働き者の2割だけ抽出した場合も、なぜかその中から怠け者が新たに発生する」といった興味深い結果になったようです。比率は厳密に262になるわけではなく、必ず再現性のある傾向というわけでもないらしいですが、ほぼほぼそういう法則は現実の生物界にありそうで、この世の謎とロマンを感じる話ですね。

参考サイト
「百匹目の猿」一時いろんなところで重宝されたサイエンストピックでしたが、後年作り話ということが発覚しました。有名なサブリミナルの映画館の実験にしても同様で、当時もてはやされたまことしやかな「嘘のようなほんとの話」が時を経るごとに次々に「嘘のようなやっぱり嘘の話」になっていくことも多そうですね。あと、脳の8割近くは未使用説(サイレントエリア説)とか。まぁ、逆に、研究が進んで、やっぱりデマでなく本当だった、とひっくり返るケースもあり、世の中、結局は学問といえども人間同士の知識の共有を土台にしているだけで、なんら絶対的な真理である確証はないわけで、何が正しいのか、というのはいつも暫定的なものであり、なかなか決定的には定まらないものなのでしょうね。「百匹目の猿」については、似たような説は、ルパート・シェルドレイクなども唱えていて、このあたりのニューサイエンスというか、ニューエイジ思想は、事実かどうかは別として、けっこう示唆を感じる興味深いものがあり、一概にトンデモ論として捨てきれない魅力があるのもたしかです。科学的にアレでも、SF漫画のネタなどに利用するなら今でも十分化ける価値のある面白い説だと思います。
そういえば、以前の記事でちょっと紹介した「ユニバース25」の話ですが、これも最近、実験者のカルフーンによって期待の結果がでるようにコントロールされた信憑性に疑いのある実験だった、みたいな批判が出てるようです。しかし、一方、けっこう客観性を意識して行われた意味のある実験であった、という擁護の意見もありますね。このユニークなマウスを使った実験とよく似た実験で、「バイオスフィア2」という、ドーム内につくられた閉鎖環境に8人の男女が2年間暮らすという実験も興味深いですね。つげ義春の『右舷の窓』や、荒木飛呂彦の『バージニアによろしく』などのSF短編を思わせる、ディストピア感あふれる危なそうな実験ですが、案の定、いろいろトラブルが起きて2年を待たずに実験は中止されます。やはり人工的に自然≠完全にシミュレーションするのは人間の手に余る難易度のようですね。また、閉ざされた世界で少人数で暮らすというのは、生物としてけっこうストレスがありそうです。2013年にアメリカで放映されたドラマ「アンダー・ザ・ドーム』は、突如ある町全体が透明な巨大ドームに覆われてしまうという、まさに上記のような閉鎖空間で暮らさざるをえなくなった人間達の暗部を描いていましたね。最後まで見てないので、どういうオチなのか気になるところです。
(2026/4/16 追記)
※実際は種としての意志に従って生きている、ということを暗に主張しているのでしょうね〜
ライアル・ワトソンが、この後にセンセーショナルなトピックとしてもてはやされることになる百匹目の猿現象を紹介した本『生命潮流』の原本が出版されたのが1979年。百匹目の猿現象の初出自体は、その三年前に刊行されたローレンス・ブレアの『超・自然学』の序文でワトソンが同様の現象を紹介しています。『超・自然学』も和訳が平河出版社から刊行されていて、当の序文も確認しましたが、けっこうもっともらしく紹介していて、たんにワトソンがホラ話を紹介しているとも思えず、もしかしたら、別の論文なり書籍なりで見かけたものを情報元を誤認して紹介しただけの可能性もゼロではないのかなぁ、などとフト思いました。
ブレアの『超・自然学』は、ワトソンの著作よりもオカルトよりな内容ですが、けっこう面白く好きな本です。『超・自然学』の原著が出版されたのが1976年で、この年は当時オックスフォード大学の講師をやっていたリチャード・ドーキンスの著書『利己的遺伝子』が刊行された年でもあります。利己的遺伝子説とは、ざっくりいうと、いわゆる、ヒトを含めて、全ての生物は個体としての意志で動いているように表面上は見えていても、実際は遺伝子の命令で動いているマリオネットにすぎない、という見地を生物学的に論証したものです。この説も世界を席巻し、科学だけでなく、広く「生命とは?」という議論が盛り上がる契機となりました。この説にはそうした問題提起が含まれているところもあり、それまでの知見を覆すような革命的な視点をもたらしたことで『利己的遺伝子』という言葉もちょっとした流行語になりましたね。
『利己的遺伝子』も、百匹目の猿≠フ概念に通底するような、個を超えた生命の在り方を示唆する説ですから、この時代にはあらかじめ百匹目の猿≠ェ大衆に信じられるような下地があったのでしょう。と、いうより、ワトソンがはじめて百匹目の猿′サ象を紹介した年と、ドーキンスの『利己的遺伝子』が刊行された年は同じ年ですね。片方は作り話と断じられてはいますが、同じような思想が同時期に現れて世間を賑わすということ自体、ある意味、そうした状況自体がどこかワトソンの百匹目の猿′サ象と似た側面を持っていて、安易にワトソンのホラ話と切り捨てるのも早計なのかな〜などと、思う昨今です。
(追記おわり)
忍辱は気持ちいい(?)
話が横道に逸れましたが、そういう感じで、最初に言及しました「人間関係から嫌なやつを排除していけば人生ラクになる」という話も、262の法則よろしく、排除しても排除した人間と似たような欠点をもった人が新たにあらわれるか、あるいは、今まで仲のよかった人が先に排除した人と似た傾向を現しはじめるかして、結局問題は解決しないということを言いたかったのでした。もちろん、これも私の経験則でしかありませんが、同様の体験をして納得されてる方も意外と多いのではないか、と確信しています。精神世界の教えでも、似たような教えがありますよね。
人生は魂の修行の場なので、自分の魂の生長を促す試練が人生には必ず用意されていて、それをひとつひとつクリアしていくのが人生の目的である。というような教えです。人生に現れる「嫌な人」というのは、現象としては他人として現れますが、霊的視点から嫌な人というのは自分の今世で為すべき課題や克服すべき欠点が外界に投影された現象でもあります。怠惰を克服すべき人には、あからさまに怠惰によって約束を破って自分の予定を狂わしてくるような人が現れたりします。ちょうど今私がそんな感じで、いい機会なので熊沢蕃山よろしく良い忍辱修行と思って「怒らず」「腐らず」心乱されることなく冷静に、という境地を保つように心がけているところです。面白い事に、そうした「嫌な事」を忍辱(にんにく)≠オながら瞑想すると、ある瞬間、フワーッと爽快な気分が急にやってきます。忍辱とは我慢とは全く別の概念で、苦難に耐える修行というよりは、魂の強靭化のための技法を試す良いチャンスという意識で向き合うと、なぜか歓喜のバイブレーションに包まれていきますね。嫌だけど我慢する、という意識だと辛いだけですが、魂の生長のためのトレーニングという意識であえて嫌な事に向き合う意識で瞑想すると清涼感のある爽やかなエクスタシーを感じます。不思議ですね〜
仏教の「空」の教えは、哲学的に理性的に追求しても意味がなく、慈悲や忍辱などの実践によって超感覚的に知らされる≠謔、なものだ、という話をききますが、なんとなくその意味の一端がわかりかけたような気がしました。ちょうど、私は今ちょっとした逆境の渦中にいるのですが、これも、そうした中でも心を平安に保つための試練、いや、ご褒美なのかも?と受け止めて、嵐が過ぎるまでいかに健やかに過ごせるかのレクリエーションだと思って小さな苦難を楽しもうと思っています。
人生に現れる嫌な人、嫌な事というのは、霊的には克服すべき自分の魂の汚れが現象化しているだけであり、嫌な人として現れているその人もまた自分の内面にある何かの現象化です。その人を嫌うことは、自分を嫌うことでもあり、その人を排除したり、逃げたりしても意味がないのでしょう。嫌な人が現れるということ自体が、何か自分の過去の悪いカルマが現象化している証拠なので、この試練にどう対処するかで未来が変化します。逃げれば、魂のテストに不合格ということなので、テストに合格するまで何度でも同じ傾向の人が自分の生活圏内に現れてしまいます。テストに合格すれば、クリアした人に同じテストをしても意味がないので、同じ系統の嫌な人というのは次からなぜか現れなくなる可能性が高いです。最近は実感として納得する説です。
人生のテストは、嫌な事に怒りや悲しみや憎しみで反応した場合は不合格とされて、何度も同じようなタイプの嫌な事が起きるようになっています。嫌な事に冷静に淡々と対応できた場合はギリギリ合格ですが、プラマイゼロの成績なので、未来への影響はとくに無しです。ベストなのは、嫌な事に慈悲や許しや愛で反応した場合で、この場合はカルマが清算されるだけでなく、逆に良いカルマも自動的に積むことになり、そういう場合は実感として以後あきらかな何らかの幸福が訪れることになります。ジャンプの漫画のように、憎むべき敵だった奴が無二の親友に変化するような感じでしょうか。今回のチャレンジでもなるべく自分もそういう境地を目指して魂を向上させていきたいと思っています。
そして後日
と、前段まで書いてきて、調子のいい事を言っておいて実際には雲行きの怪しい展開に決着していったのでは、格好がつかないし、恥ずかしいな、と思って、一応の成り行きが落ち着いてから投稿しようと、この記事の投稿も少しの間寝かせてました。逆の成り行きだったら、余計に落ち込みそうでもあったので。誤解の無いように言いますと、こうした話は信念の無い話を書いているつもりはなく、実際に思う所を書いていますが、書く事によって自分を鼓舞している面もあります。また、そうした自分の都合だけでなく、いくら精神世界な内容の記事でも、自分なりに正確性を担保したいという理由もありました。一応は、これを読んだ誰かひとりでも役に立つ記事にもしたかったので。
ということで、前段から少し間を置いてまたこれを書いているところですが、ちょうど先頃、数日前に記事を書いている最中に起きていた懸案が、一段落しそうな感じになってきたので、また追記しています。
結果からいうと、やはり記事に書いた理想のとおり、いや、それ以上の理想的な展開が急にあって、自分でも驚いている最中です。この件で、よけいに見えない世界ではたらいている天の法則≠ヘ確実にあるんだな〜と確信が深まりました。やはり運勢にポジティブな展開をもたらすのに最も有効なのは「愛」だと確信しました。愛とは恋愛ドラマのような情緒的な表現のことではなく、言葉を換えれば「秩序」とか「真理」とか「信頼」みたいなニュアンスを純粋化させたような意味合いです。
悪しき状況に、腐らず、憎まず、恐れずをできるだけ維持して、不安がらず(※)に、とりあえず結果を意識しすぎずに、自分の出来る範囲で可能なことを黙々とやる。というのを心掛けていたら、どうやら天が味方をしてくださったようで、すごい理想以上の展開になり、まだ興奮が覚めやらぬ状態です。重要なポイントは、「感情」で、嫌な出来事があっても、「ああ嫌だな」と少し思ったり考えたりする程度に、脳で情報を扱う程度なら大きな悪影響はないようですが、その嫌な情報や出来事を「嫌悪、怒り、憎悪、不安」などの感情を伴って処理してしまうと、けっこうダイレクトにそれに応じた現実が現象化しやすいので、嫌な事象に極力感情で反応しないようにしました。
他にもっと具体的な次のような方法も組み合わせたのも効果を引き出せたのかな、と思っています。引き寄せの法則(※)などにも通じる効果の高い方法で、次のようなものです。理想的な結果に落ち着いた未来に、その時に自分が感じるであろう「安堵感」を今擬似的に再現して、その安堵感(「ああ〜よかった〜安心した〜」というような気分≠味わう感じ)に浸るようにすると、理想の未来へのパイプが太くなり、現実がそっちの方向に流れやすくなるような感覚があり、今そうなりつつあります。これは実体験に照らしてもけっこう効果が高いもので、何度も仕事や人間関係で再現性の高い手法でしたので、超おすすめです。この手法も、無理して長時間気分に浸るように頑張らなくても効果はあります。1回につき1分程度を目安に、できそうな機会を見つけて一日数回程度やってみるだけでかなりの効果がありました。
ということで、とりあえず件の個人的な案件の成り行きが順調な未来に路線が切り替わった感触を感じてきたので勢いで加筆しましたが、ただ、まだすべて決着してるわけでもないので、用心のために、浮かれすぎることなく、確実な決着を確かめ、現象が固まるまで、もう少し様子をみてから、この記事にそれを追記しつつ投稿しようかな、と考えています。結果が出る前に下手に気を抜くのも気をつけないといけないポイントで、思わぬアクシデントを避けるためにも、現象が固まるまで気を緩めないようにしようと思います。
──────────────────────────そしてさらに後日
どうやら、ほぼ現象は確定してきて、多分上述の件はこのまま上手くいきそうな感じなので、思い切ってこの記事をアップすることにしました。運という見えない法則は、まだ科学的にはあまり解明されてないですが、人生において運≠ルど重要な鍵を握っているものはありません。思い返せば、私はけっこう幼少期から、運とは何か、についてあれこれ思いを巡らしてたような気がします。精神世界に興味を持ったのも、この運≠ニいうものの正体や、その具体的な法則が知りたかったからです。そういう意味では仏教はけっこう掘り下げて運について探究している宗教なので、そういうところに惹かれているのもあるのでしょうね。ということで、運≠ノついては、まだまだいろいろ語りたいところではありますが、また長くなってきたので、項を改めていずれ記事にしたいと思います。御清覧ありがとうございました!
※悪しき状況に、腐らず、憎まず、恐れずをできるだけ維持して、不安がらず〜
不運の渦中にいると、どうしても「もっと嫌な展開になるのでは?」など、不安に襲われがちです。しかし、そこがクセモノで、不安は不安を呼び込み、運も悪くし、余計に心配した通りの未来を招いてしまう力が動き出してしまいます。「不安になるな」、というのは言うが易しで、実際には「そうは言っても・・・」という気持ちは私もよく理解できるところです。私が、そういう不安に襲われそうになった時に実践しているのは、「運命は人間の意志でどうこうなるものではない。ゆえに、運命の成り行きの主導権は神様の領分である。で、あるなら、無限の愛と慈悲そのものである神様が自分が望まない運命をお与えになるはずがない!」という神様への100%の信頼を念じることです。「神を100%信じる!」をマントラにするのがおすすめです。神は万物の親のような存在ですから、子供の切実な思いを無視されることはありませんし、聖書の「信じる者は救われる」の言葉の通り、信じないと神と自分とのパイプが繋がりません。
おまじないのようにも思えるかもしれませんが、神を信じるということは、確実に運気を良くする実感があります。最初は半信半疑でも実際に効果があるので理屈は分らなくても信じるようになりました。神を信じるということは、幸福の出所であり、幸福の根源である神との信頼回復の行為でもあるのかな、と思っています。神は信じる者を裏切る事はできないし、しないので、必ず守ってくれます。神というと宗教っぽく感じられて違和感を感じる方もいると思いますが、運という領分は神や精霊などの見えない次元で具体的に動いている存在が担当しているので、理屈はどうあれとりあえず素直に信じてそうした高次元の力を借りないとどうにもなりません。まずやってみてから、結果が伴わなければ信じなければ良いだけなのですから。スマホだって多くの人は動作のプログラム的な理屈を理解せずに使ってるはずで、それと同じに、理屈で分らなくても効果があることならやってみても損ではないし、むしろこれほど有益なことはないと思っています。
今回の件でも、そういう確信をより深めた次第です。神を信じる、といっても、特定の宗教に入信する必要はありません。私も既製の宗教の信者じゃないですし。むしろ宗教団体に入ってしまうと神よりも団体内の人間関係や組織運営の雑務に呑み込まれて純粋な信仰の支障になる場合もあります。ひたすら神を好きになる、という気持でいるだけで十分人生に良い変化があります。神とは何なのか?神とはどういう存在なのか?は、神に意識を向ける生活を続けていくうちに神の方からなんらかの手段で自然に教えてくれます。たまたま読んだ本だとか、誰からとの会話からとか、あるいは美しい夕焼けに感動していると突然インスピレーションとして答えがやってくるとか。「神様、あなたはどういうお方なのですか?」と問い続けていると、さまざまな方法で神は答えを示してくださいます。神への熱烈な愛によって悟るタイプのヨガをバクティ・ヨガといいますが、大聖者ラーマクリシュナはこのバクティ・ヨガによって悟りを得ています。このあたりの話はまた別項で記事にして語りたいと考えてます。
※引き寄せの法則〜
一頃スピリチュアルな界隈で大ブームになりましたね。きっかけは世界的にベストセラーになったロンダ・バーン著『ザ・シークレット』やヒックス夫妻の『引き寄せの法則』でしょうか。引き寄せの概念自体は、もっと前からジョセフ・マーフィーや、日本では中村天風などの思想にもあり、源流を遡ればニューソート思想や17〜18世紀の神秘家スウェデンボルグまで遡るようです。引き寄せは、ブームがすごかったせいで、いい加減な本もたくさん出て、いわゆる「スピ系」なる揶揄する言葉も生まれましたね。一般にはおまじない程度の眉唾な話とも受け取られがちな引き寄せ≠ナすが、普通に聖書や仏教の聖典でも引き寄せ的な力がこの世界にはたらいている事に言及してますから、私はかなり信じています。実際に何度もこの法則を意識的に活用して窮地を救われたり効果を実感しているので。いろんなメッソッドが本などで言われてますが、メソッド的に捉えるとたいした効果は出ないし、出所の怪しいメソッドに縛られるのも面倒でもあるので、私の場合は、怒り憎しみなどのマイナスの感情を極力制限して精神のノイズを減らし、普通に可能な範囲で善行を積んで身近な運を良くしていくのを基本にしています。具体的な事例に対処する時は文中にあるような上記の方法が私的には効果が高かったです。ブームの火付け役の『ザ・シークレット』はお金だの車だのと、やたら物欲を叶える的な下世話な部分もありますが、まぁ、このくらい敷居を下げたから多くの人が重い腰を上げて半信半疑でも実践したわけで、そこにとどまって願望成就だけに熱中するのでなければ、間口としては全然アリだと思っています。そこをきっかけに、人生を運任せにせず、運を活用するという視点が持てたなら十分でしょうね。
2026/3/28 追記
記事を読み返していて、この文章だと、何もしていなくてもスピリチュアルな方法だけで物事が解決したかのような誤解をうみかねないかな、と思いまして、そのあたりの説明のために追記します。
もちろん、上述したような心や思考の持ち方は、物事の成り行きにかなりの影響を与えるというのは確信してますが、現実に対しては現実のアプローチももちろん大事です。七つの大罪のひとつに怠惰≠ェあるように、神的な存在は怠惰なものには、とくには罰を与えるまではしないですが、味方もしてくれません。かといって、過剰な努力も求めていません。「自分で可能な範囲で無理せずやれることはやる、行動できることには行動する」というのが基本です。そのうえで、その後のどうなるかわからない成り行きに神的な力が加勢してくれる、というニュアンスです。一言で言えば「人事を尽くして天命を待つ」ということです。
自分がそうした運を采配出来る神側の立場になったと仮定すれば理解できますが、自分が神だったら何もアクションを起こさない怠惰なものと、状況を好転させるための何らかの一応の努力をしているものがいたら、どちらに加勢しますか?といえば、当然後者でしょう。
そもそもこの世は、失敗や不幸を経験するためにあり、幸福はモチベーションを維持する為の神様からのご褒美のようなものです。幸福の追求は大事ですが、それよりも、この世ですべきメインの事項は、失敗をしたり不幸を体験することで、そこから不幸な他者への同情心を学び、他者の失敗を赦せる心を獲得することです。この世はそういうことを学ぶための学校なので、逆境においては、そこから必要な学びを得ることが必要です。学ぶ事を学び、経験すべき事を経験したら課題はクリアされるので、そこから先は神の領分です。クリアした生徒には、ちゃんと理想的な成り行きを約束してくれます。神への信頼、神を信じるというのは、この人事を尽くした後の神の采配を信頼する≠ニいうことで、闇雲に神様を信じなさいという意味ではありません。
今回の件で、勉強になったことは、「罪を憎んで人を憎まず」の意味がよく理解できたことですね。嫌な事は、多くの場合、人が運んでくるので、しばしば私たちは、嫌な人が嫌な事を持ってやって来た≠謔、に錯覚してしまいがちになるのですが、実際は、嫌な事をする人は、自分の試練のために人生の各所に配置されたそういう役割の人≠ノすぎません。ゆえに「人を憎まず」なんですね。また「罪を憎んで人を憎まず」の罪の意味も、その嫌な人が犯した罪のことを言ってるではなく、嫌な出来事を現象化させる元になった自分の罪のことを指しているのだな、と理解できました。他者を憎んでもまた余計なカルマを自分が背負うことになるだけですから、嫌な目に遭うようなカルマを持った自分の罪を憎め、ということでしょうか。
今回も、懸案をもたらした迷惑な人の役割だった人が、解決の展開に入ったとたんに現在は信用にたる頼れる人に急に変化していきました。ほんとうに不思議な一件でした。今回の件で運≠ニいう不思議で、重要きまわりないものに、いっそう関心がわきました。この記事がわずかでも似たような逆境に苦しんでいる誰かの役に立ってくれますように祈りまして、いったん筆を置こうと思います。
追記おわり
(2026/3/29 追記)
理想的な急展開を迎えたタイミングについて追記しておこうと思います。よく精神世界の教えでは、望みを成就させるための一通りの現実的、精神的な段取りを済ませたら、後は手放す≠ニいうことを言いますね。仏教でいう執着から離れる(出離。離欲)≠ニいうことだと思いますが、今回の件も、急展開する前日に、もう1年近く件の案件が全く進展する気配がないので、完全に解決を諦めて、全く別の手段でコツコツ進めていこうと180度の方向転換を考えていたところでした。今思えば、その諦めが、ちょうど良く執着を手放した≠ニいう条件に合致したのかな、と思っています。比べるのもおこがましいですが、ラーマクリシュナも今世で神に出会う望みは絶たれたという完全な絶望のすぐ後に悟っていますし、ミラレパも今世で解脱する望みはもう叶わない、という絶望の際に立たされたとたんに過去の重いカルマが完全に清算された、という逸話が想起されました。やはりやることをやったらあとは完全に結果への期待すら手放すということが物事の成就の最後のスイッチになっているんだなぁ、ということが今回の件でけっこう実感できました。(追記おわり)