2025年04月14日

お話面白寳典(熊沢蕃山、F・リスト、菊地大麓の話)

戦前の少女雑誌、少女倶楽部の付録「お話面白寳典」は、叙情画の巨匠、蕗谷虹児のモダンな表紙画と裏表紙のレトロなおかっぱ美少女が微笑むトンボ鉛筆の広告が気に入っていて、目の保養にと、目立つ場所にいつも置いていたのですが、本の中身は子供の教育に良さそうな偉人の教訓的なエピソードが中心の真面目そうな感じだったので、長らく中身のほうは全く読むことなく時間が経っていきました。

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少女倶楽部第16巻第1号付録「お話面白寳典」
表紙画・蕗谷虹児
大日本雄弁會講談社 昭和13年1月1日発行 より

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同上・裏表紙 トンボ鉛筆の広告
おかっぱ少女がかわいいですね〜

先日、どういうわけか気まぐれに本を手に取り、ずっと飾り用で眺めるだけというのもアレなので、適当に面白そうな話のネタでも見つけようかとページをめくってみました。とりあえずピピッときた熊沢蕃山(くまざわばんざん)の話を読んでみたのですが、これがまたなかなかグッとくる話だったので、勢いであらかたほとんどの話を読んでしまいました。熊沢蕃山については、まったく知らなかったので、読後にネットで調べてみましたが、やはり偉人のエピソード集に収録されているだけあって、思わず爪の垢を煎じたくなる感じの立派な方でした。気まぐれな読書をきかっけに、つくづく世の中には自分の知らない偉人がたくさんいるものだということを改めて実感したひとときでした。

ということで、なにげなく読み始めた「お話面白寳典」、あらかた読んでみましたが、やはり最初のインスピレーションで読んだ蕃山のエピソードが中でも一番自分的にはグッときた逸話でしたので、せっかくなのでこの蕃山のお話をまずご紹介しようと思います。せっかくだから〜せっかくだから〜


蕃山の苦学

 熊沢蕃山は、徳川時代の有名な学者です。
 蕃山は二十歳の時に国(故郷)を出て、近江の中江藤樹先生(なかえとうじゅ 陽明学者)のところへ弟子入りしました。
 ところがちょうどそのころ、お父さんが浪人して、母や弟妹たちといっしょに蕃山の家に身を寄せることになりましたので、ただでさえ貧しかった家の暮らしが、いよいよ貧しくなりました。
 食べるものといっては、粟(あわ)の雑炊に生味噌くらいのもので、それも三度に一度は欠くといったありさまでしたが、蕃山はそんな苦しい中にあってもよく父母に仕え、朝はまだ暗いうちに起きて、弟や妹たちといっしょに近所の山に行って木を伐り、それを売って一日の生計をたてると同時に、わずかな暇をみては一心に勉強を続けていました。ある朝、蕃山がいつものように早く起きて、山へ行く支度をしていますと、そこへ母が出てきて、「助右衛門や(すけえもん 蕃山の名前)、お前は学問をするためにこの近江の国へ来たのに、毎日ろくに勉強する時間もなく、暮らしの苦労ばかりかけて、ほんとにすまないねぇ…」と気の毒そうに言いました。
 すると蕃山は、
「いいえ、お母様、これしきの苦労は何でもございません。中江先生も『人間は本を読むばかりが学問ではない。貧乏していろいろな難儀にあうことも、かえって立派な人になる基(もとい)となるのだ」とおっしゃいます。ですから私は、毎日こうして働くことを、少しも辛いと思わないばかりか、かえってありがたいことに思っております」といって、机の上に載せてあった短冊を取ってきて母に見せました。それには、

  憂(う)きことの なおこの上に 積(つ)もかれし
    限りある身の 力ためさん

と、記してありました。
「人間の力には限りがあると申します。しかし私は、私の力がどれくらい難儀に打ち勝てるか、試してみたいと思うのです。むかし山中鹿之介という武将は、三日月に向かって『願わくば我に七難をあたえたまえ』と祈ったと申します。私もできるだけ多くの難儀にぶつかって、自分の力を試してみたいと思っております。どうかお母様も、私がどれくらい困難に打ち勝つ力があるか、ご覧になっていてください」
 蕃山はこう言って、にっこり微笑みました。そして、弟や妹たちを引き連れて、霜のおりた野道を、勇んで山へ木こりに出かけてゆくのでした。じっとその後ろ姿を見送る母の目には、熱い涙がいっぱい浮かんでいました。
 蕃山はそれから後も、いろいろな苦労や困難に出会いましたが、いつもこの歌の心をもってどんな大きな困難にも負けないで熱心に勉強を続けましたので、その苦心もようやく報われて、とうとう中江先生の塾中で一番の秀才と仰がれるようになりました。やがて先生の推薦によって、備前の池田候(備前国岡山藩主池田光政のこと)に、三千石の高禄(こうろく)で仕官する身となったのでした。

少女倶楽部第16巻第1号付録「お話面白寳典」 大日本雄弁會講談社 昭和13年1月1日発行 より

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美輪さんの「ヨイトマケの唄」とか、往年の「一杯のかけそば」とか「おしん」のようなドラマなどのような、貧しさに負けずに大成していく話は日本人の琴線にふれますね。二宮金次郎とか野口英世など昔の偉人伝もだいたい苦学のヒーローが多いイメージで、この蕃山のエピソードも典型的な昔の日本の偉人伝という感じで、心に響くものがありますね。そういった多くの偉人の伝記に出てくる苦境に対する姿勢というのは、ある種本能的といいますか、強靭な意志で苦境を乗り越えていくケースが多いイメージがあります。しかし、この蕃山の場合は師匠の教えが力となって苦境と対峙する勇気となっている感じで、いわば、本来の自分だけでは不可能に思える試練も、尊敬する師の哲学を信じてそれを自分の人生で実践することによって困難を乗り切っていくという感じですね。こうしたある種のスピリチュアリティを感じる側面も蕃山の話にグッときた部分です。

人生の真理というのは、ひとりだけで到達するには数多の苦境を乗り越えて多大な時間をかけて獲得していくしかないですが、せっかく恵まれた人の世に生きているのですから、先人や優れた同時代の賢者の教えを謙虚に学ぶほうが賢い選択でもあると思います。蕃山の場合は、そうした人生の達人として仰いだ師匠はお話にも出てきた中江藤樹(なかえとうじゅ。滋賀県[近江の国]出身の江戸時代初期の陽明学者1608-1648年)で、江戸時代という身分の格差が根強く社会に残っている時代において、身分の上下を超えた平等思想を説き、広く民衆に慕われたところから、自然に皆は彼を「近江聖人(おうみせいじん)」と讃えるようになったそうです。そうした中江を蕃山が慕うようになったきっかけもなかなか興味深いです。以下中江藤樹のウィキから引用します。


ある武士が近江国を旅していたときの話。大切な金を馬の鞍につけたまま馬を返してしまった武士は金が戻らずがっかりしていたが、そのときの馬子が金をそっくり渡すため武士のもとに戻ってきた。感謝した武士はせめて礼金を渡そうとするが馬子は受け取らない。仔細をきくと、馬子の村に住む中江藤樹の教えに導かれてのことという。そこで武士は迷わず、藤樹の弟子となった。この武士こそのちに岡山藩の家老となった熊沢蕃山であるという。



蕃山が中江の教えを素直に実践して苦難を乗り越えていく裏には、そうした実体験からくる信頼感で結びついた縁があったわけですね。そういえば、昨今でも来日する外国人旅行者が日本の良い部分として、「落とし物が盗まれることなくちゃんと戻ってくる」という話をよく目にしますね。まぁ、中には盗まれて戻って来ない場合もあるでしょうが、それなりに話題になるくらいに戻ってくるケースが多いからそういう話題にもなるのでしょう。

私も以前中野区の交通量の多い歩道のどこかに現金やカードや部屋の鍵まで重要なものばかりが入ったバッグを落としてしまうという大ポカをしてしまい、頭の中が真っ白になったことがありました。落としてそうな場所を何度も往復しても見つからず、派出所のおまわりさんに相談して、いろいろ近辺の派出所に問い合わせてもらいました。「あまり期待しないでくださいね。とりあえず数日ほど様子をみるしかないでしょうね」などと恐いことを言われましたが、結局そのバッグは親切な人が拾って最寄りの交番にその日のうちに届けてくださったようで、なんとかその日のうちに戻ってきました。しかも、その届けてくださった方は報労金を受け取る権利を辞退されたとのことで、お礼をする機会は失われてしまったのものの、その無償の善意に深く感謝した一日でした。落としたであろう場所はその交番よりけっこう離れてましたので、届けてくれた人は「落とし主はさぞ困っていることだろう」とわざわざ近いわけでもない交番までその日のうちに労を惜しまず足を運んでくださったのでしょう。その日は感動のあまり、届けていただいた方の幸福を何度も祈願したものでした。

メモ参考サイト



(2025/4/14 追記)

なんと熊沢蕃山の生涯を描いた漫画が無料公開されているのを発見!すごく面白いので必見です!


編集・備前市教育委員会、発行所・備前市、と奥付にありますので、岡山県備前市が地元の偉人を啓蒙するために企画した作品のようです。いい仕事してますね〜 けっこう細かいエピソードまで調べてあって、蕃山をより深く知ることができました。
「無料で読む」というバナーをクリックすると漫画を読めます。

ひょんなきっかけで読んだ「お話面白寳典」がきっかけで、熊沢蕃山という人を知り、その人となりに興味がわいて、なにげなく検索してたら、上記しましたとおり、熊沢蕃山の生い立ちから永眠まで、その人生をいくつものエピソードとともに丁寧に描いた漫画が無料公開されていました。100ページあまりのボリュームのある漫画でしたが一気に読んでしまいました。今回ご紹介したエピソードだけでは想像出来ないほど偉大な人であることがよくわかりましたし、蕃山に少しでも興味をもたれた方はぜひ一読をおすすめします!どことなく諸星先生の傑作『太公望伝』を彷彿とする蕃山の壮大な人生行路に感動しました。序盤は学習漫画っぽい感じで、『ブラタモリ』的なノリである親子が蕃山ゆかりの地へ赴くところからはじまりますが、蕃山と人生の師匠となる中江藤樹との出会いあたりからがぜん面白くなっていきグイグイ引き込まれていきます。

ウィキの引用で、蕃山が中江に惹かれるきかっけになった馬子のエピソードは、漫画のほうでは、蕃山自身の話ではなく、別の侍の話を蕃山が側で聞いていたことになっていますね。中江先生は、イメージしてたよりも温和でとても謙虚な人格者として描かれていて、なるほど、こんな魅力的な人に出会ったら蕃山でなくとも、ぜひともお近づきになって教えを乞いたいと思わせますね。

(追記おわり)


「お話面白寳典」は、他にも小林一茶や松尾芭蕉など俳句がらみの粋なエピソードも多く、そういう話も印象的で、また機会があれば紹介したいですが、次は蕃山のいい話の余韻を引き継いで、音楽史に残る天才ピアニスト、フランツ・リストのいい話をご紹介たいと思います。

情け深い音楽家

 フランツ・リストはハンガリーの生んだ音楽の大天才である。ある冬、片田舎の町に旅行したところ、街角に演奏会のビラが貼ってあるのを見た。
「はてな?誰の演奏会だろう、何、ベルタ・ラハーグ夫人?知らない名前だな。おやっ?リスト先生の弟子と書いてある。私はこんな女性を弟子にした覚えはない。不審な女性だな」
 リストは銀色の白髪頭を振った。
 その夜更け、リストはベルタと名乗る女音楽家の泊まっている旅館を訪ねた。
 旅館とは名ばかり、ひどい安宿であった。リストは眉をしかめてベルタの部屋に案内された。そして、びっくりした。
 ああ、何という可哀想な有様だろう、寒い冬の夜に火の気もなく、ロウソクの灯が淋しく光っている中にやつれた女が悲しそうに座っていた。その膝元に小さい兄妹が指先をハァハァと息で暖めているのである。
「どなたでしょう?」と女がおずおずと言った。
「私はリストだが・・・」その言葉に女はざっと青ざめた。それと見たリストは「いや、私はあなたに恥をかかせるために来たのではない、が、どうして私の弟子だなどと書いたのか、それを・・・・」
「ごめんなさい、先生、私は下手な音楽家なのでお客が来てくれません。すると、この子供達に食べさせるパンも買えません。悪いとは知りながら先生の名を拝借して・・・・」女はハラハラと涙を流してすすり泣いた。
「おお、そうか。けれど、勝手に私の名を書いては町の人を騙すことになる。まぁ、それはそれとして、あなたがどれだけ弾けるかちょっと聞かせてくださらんか」
 おどおどしながら女は帳場(ちょうば。旅館のフロント)にある古ピアノの前に座って恐る恐る弾きだした。
「おお、なかなか上手じゃないか。が、ちょっと直したいところがある」リストがピアノに向かって弾きだした。その美しい音色に女も子供も宿の者もうっとりと聞き惚れていた。と、リストがにこりとして、
「さぁ、これで私はあなたにピアノを教えた。もう大いばりでリストの弟子とビラに書きなさい。ああ、それから、明日の演奏会にはリスト先生も出演すると書き加えなさい。じゃあ、お休み」情け深い老音楽家はそう言ってドアのほうへ進んだ。
「先生!」と女がひざまづいて手を合わせた。
「おお、母は力強く生きよ。しかし、正しく生きよ」
 やさしく子供の頭を撫でたリストはそのふたりの手にキラキラ光る金貨を握らせて出て行った。
 女はひざまづいたままうれし泣きにむせび泣いていた。

少女倶楽部第16巻第1号付録「お話面白寳典」 大日本雄弁會講談社 昭和13年1月1日発行 より

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天才というと、その道では達人でも偏屈で人格に難のある人物像を漠然とイメージしてしまいますが、リストは人格も素晴らしく立派だったそうで、上記の粋なエピソードはウィキにもちょっと触れてありました。このエピソードにはいくつかバリエーションがあるようで、検索してみると、リストを偽るピアニストは、上記の貧しい女性の場合のほかに、リストの弟子を騙って一稼ぎしようとする音楽家くずれの男のバージョンも散見します。内容的にけっこうプライベートな逸話なので、正確な記録がなく、口伝えで広まっていくうちに細部が変化していったのかもしれませんが、遠からず似たようなことは実際にあったんでしょうね。

メモ参考サイト
フランツ・リスト(1811-1886)は超絶的な技巧を持つ当時最高のピアニストで「ピアノの魔術師」と呼ばれ、どんな曲でも初見で弾きこなした。その技巧と音楽性からピアニストとして活躍した時代には「指が6本あるのではないか」という噂がまともに信じられていた。彼の死後、彼を超えるピアニストは現れないだろうと言われている。(ウィキペディアより)



次は、明治大正にかけて活躍した数学者、菊池大麓(きくちだいろく。1855-1917年)のエピソードです。この方は裕福な生まれの名門の出で、男爵の位をもつ秀才です。苦学生ということでもなく、二度にわたって英国留学をしたりと、華やかなエリート街道を歩み、ウィキには東京帝国大学(東京大学の前身)理科大学長・総長、文部次官・大臣、学習院長、京都帝国大学(京都大学の前身)総長、帝国学士院院長、貴族院議員、枢密顧問官を歴任した、とあり、きらびやかな人生です。このエピソードでは、菊地本人のいい話というよりは、留学先のイギリス人に関するいい話で、イギリスの印象がちょっと変わりました。


首席あらそい

 世界的な数学者として、名声をあげた菊池大麓男爵は、若い時に英国のケンブリッジ大学に学びました。その学業の成績は素晴らしく、幾百の英国学生を圧倒して、いつも首席を占めていました。
 ところが、いつも大麓と首席を争って、惜しくも二番になったのは、ブラウンという学生でした。ブラウンは、「他国の留学生に首席を占められるのは、わが大英国の恥である!」といって、いっそう馬力をかけて、ぜひとも大麓を追い越そうと、必死になって勉強を続けました。
 すると、たまたま大麓は、病気になって入院し、長い間、学校を休むことになりました。ほかの学生たちはたいへん喜んで、かわるがわるブラウンに向かって、「おい、ブラウン君、いい機会だ、今度こそ君が首席になれるぞ。ぼくたちは申し合わせて、大麓にノートを貸さないことにしたから、君はぜひしっかり勉強してくれ」と、言いました。
 ブラウンはそれを聞くと、むっとして顔色を変えました。
「よしてくれ!君たちはそれでも英国の学生か!病気につけこんで首席をとるなんて、そんなあさましいことができるものか!『不正の勝ちはまことの勝ちにあらず』だ!ぼくには英国人としての誇りがある。その誇りを犠牲にしてまでも、首席を占めようとは思っていない!」
 ブラウンが、きっぱりそう言うと、さすがに学生たちは、恥ずかしそうに黙ってしまいました。
 ブラウンは、それからというもの、折々大麓を病院に見舞うとともに、欠席してからのノートを、毎日ちゃんときれいに写して、大麓の病床へ送り届けました。そのうちに大麓の病気は全快しました。そして学期試験を受けますと、やっぱり首席でありました。ブラウンは、「ああ、これでぼくは英国人としての誇りを傷つけずに済んだ」と言って、自分が二番であったことを喜んだのでありました。このブラウンのことは、大麓も長く心を離れなくて、後に世界的な学者として名声を馳せてからも、
「わたしの学生時代の益友は、十指を屈するほどあるが、その中でブラウン君の『不正の勝ちは、まことの勝ちにあらず』という金言にもとづく高潔な英国魂ほど、わたしを深く感動させたものはない」と、常に物語っていたそうであります。

少女倶楽部第16巻第1号付録「お話面白寳典」 大日本雄弁會講談社 昭和13年1月1日発行 より

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ブラウンのかっこよさにシビれるエピソードですね。まさに英国紳士のイメージ通りの本物の紳士を感じます。人種も文化も違う異国の地で、ブラウンのようなフェアネス精神をもった高潔な人に一目置かれた大麓はさぞや心強かったことでしょうね。他国での生活ではこういう人との出会いでその国の印象もだいぶ変わってくるでしょうし、また相手からはひとりの日本人ではなく、自分もまた日本人のイメージそのものとして受け取られているのでしょう。こういうエピソードを読むと、ひとりひとりがその国の大使でもあるということを感じますね。

以前日本レスリング史上初のオリンピックメダリスト、内藤克俊(ないとう かつとし、1895年2月25日 - 1969年9月27日)選手の話を紹介したことがありましたが、上記の大麓とブラウンの友情の話は、内藤選手とライバルの米国人のリード選手との友情の話を彷彿としました。こういう、国境を越えた友情ってグッときますね。

ということで、今回は戦前の少女雑誌「少女倶楽部」の付録、「お話面白寳典」から個人的にぐっときたお話を3つ選んでご紹介しました。ご清覧ありがとうございました。


メモ参考サイト



posted by 八竹彗月 at 03:10| Comment(0) | 古本

2025年03月06日

チベット仏教とミラレパの話(その2)八千頌般若経

その1で、次は八千頌般若経とシャンバラの話を〜みたいなことを書きましたが、八千頌般若経についての話が意外と長くなってしまったので、シャンバラはまた別の記事で書こうと思います。まぁ、シャンバラはチベット仏教の経典に出てくる理想郷ではありますが、ミラレパとはあまり関連しない話なので、話を繋げづらいというのもありますし、チベット仏教関連の話というより、地下世界やユートピアなどのテーマの記事とかで取り上げるか、あるいはシャンバラ単独の記事にするか、などとにかくまた別項でお話したいと考えています。では、今回はさっそく八千頌般若経のお話から・・・

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『チベットの偉大なヨギー・ミラレパ』(おおえまさのり訳 めるくまーる社 1980年刊)
横尾忠則さんの神秘的かつサイケなブックデザインが素晴らしい!赤や黄色や金色といった配色はチベット仏教で良く使われるカラーですから、ちゃんとテーマにも寄り添ったデザインでありながら個性的な横尾色もにじみ出てる感じで愛着のわく本に仕上がってますね。中身は愛弟子のレーチュンとの受け答えでミラレパ自身が自分の人生を振り返って思い出を語る形式の伝記です。ところどころにミラレパの真理を吟じた歌も載っていて読み応えがあります。

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同上、目次と奥付。奥付がマンダラになってるところが横尾テイストですね〜


ミラレパと八千頌般若経の出会い

ミラレパの人生はまさに波瀾万丈を絵に描いたようなドラマチックなもので、生きながらに天国と地獄を行ったり来たりするような起伏の激しいその人生行路は、そのまま寓話めいた教訓に満ちていて学ぶところが多いですね。ミラレパの人生行路についてはウィキペディアにもそこそこ詳しく載っているので、気になる方はそちらをお読みいただくとして、今回は、まず八千頌般若経(はっせんじゅはんにゃきょう)について少し話したいと思います。この経典に興味をもったのは、ミラレパと縁のある経典だからです。

この経典は大乗仏教の般若経(一般に「空[くう]」を説く哲学的な色合いの濃い経典類)のうちもっとも古い経典とされ、紀元前後から1世紀頃にかけて成立したものとされているようです。チベット仏教というと後期仏教(7世紀以降に成立した密教色の濃い仏教)のイメージが強いので、ちょっと意外な印象もありますが、チベット仏教の僧は原始仏教から大乗までひととおり顕教の教えも学んだうえで密教の修行に進むようですし、このような古い経典も普通に広く学ばれているのでしょうね。

ミラレパと八千頌般若経との出会いもドラマチックです。ミラレパは自分たち一家を不幸のどん底に陥れた叔父夫婦に復讐することを母に頼まれて黒魔術を習うことになるのですが、ミラレパはこの呪術師時代にその魔術によって呪殺や災害を起こし大罪を犯すことになります。この悪因の返りを恐れたミラレパは、真実の仏法に救いを求めるうち、ゾクチェン(チベット仏教最古の宗派、ニンマ派の教え)の高名なグル、ロントン・ラガから大聖者マルパを紹介されます。しかし、あまりの悪因のためマルパの元に就いた後でもまともな仏教修行すら許されず、カルマの浄化のためにひたすら拷問めいた苦行を課せられて何年も文字通り血のにじむような試練を堪え続けることになります。

この試練もまさに地獄の苦行めいています。大きな仏塔(7層くらいのけっこう立派な塔)をミラレパひとりで作らされるというものです。もちろん、建造のための材料の運搬から全部ひとりでやらなければなりません。これだけでも心が折れそうなのに、あとちょっとで完成だ!というところで、マルパ師から完成直前の塔を「壊せ!」と命じられます。そして壊した塔の資材は元の場所にまた戻すように命令されます。しかも、それ一度ではなく、これを何度もくり返されるのですからたまったものではありません。まさに賽の河原を地でいく苦行ですね。途中で壊させるのは完成の喜びさえ奪うことが目的で、これでミラレパのカルマの浄化を短期間に一気に進めたいというマルパの慈悲のあらわれでもあるのですが、表面上は無慈悲な拷問であり、手には血豆ができ、身体中は重労働によってできた傷だらけで、ミラレパにとってみたらただただ辛く悲しい日々が続きます。こうした身体と心の極度の疲労もあって毎晩のように泣き濡れて暮らしたそうです。

マルパの妻、ダクメマは、当時の苦行時代のミラレパの一番の理解者でもあり、文句ひとつ言わずに素直にマルパの無理難題を黙々とこなして試練に耐えるミラレパの姿に同情して、影でこっそり食事の差し入れをしたり、厳しすぎる(ように見える)マルパに意見してくれたりと、愛情を注いでくれていたそうです。ただ、マルパの与える試練はイジワルでやっているのではなく、マルパもマルパで早くミラレパがカルマを落とし終わってすぐにでも偉大な法の奥義を一刻も早く授けたいという逸る気持ちがあり、きつい試練ほど浄化が早く進むためにしていたことでした。霊的な視点から見ればダクメマの愛情は結果的にはミラレパのカルマの浄化を遅らせてしまうことにもなります。ただ、ダクメマが愛情深い人だったおかげでミラレパも試練に立ち向かってがんばれたわけですから、ダクメマの存在もまた別の視点では神の愛の現れでもあったのだと思います。

マルパは仏塔作りの試練だけでなく、弟子たちのいる前でミラレパを罵倒し、暴力をふるったりもして、心を鬼にしてミラレパの浄化を早めようとします。この時期は仏教の修行は何一つさせてもらえなかったそうですから、マルパの真意を知りつつもそれに堪える日々は苦しく辛かったことでしょうね。そんな感じで、心が折れそうになりながらも、密教修行のための許可証でもある「灌頂(かんじょう)」をマルパ師から授かりたい一心で苦行に堪えるのでしたが、当時のしきたりではグルから灌頂を授かるには相応の貢ぎ物が必要で、お金も宝物も持ってないミラレパは、ミラレパの数少ない味方であったマルパの奥さんのダクメマから瑜の珠(美しい石の珠)をもらい、それを供物として灌頂を受けようとしたそうです。しかし、マルパは理由をつけてそれを正当な貢ぎ物とは認めてくれなかったので、ある日、親に無心するとか働くとか、何らかの方法で自力で何か高価な金品などの貢ぎ物を工面しようと決意し、黙ってマルパのもとを離れて外に旅に出てしまいます。もしかしたら、灌頂のための供物を用意するという理由で、マルパからの厳しい試練を一時でも逃れたいという気持ちもあったかもしれませんね。

そうして乞食をしながらあてもなく放浪している途中で、ひとりの老人に出会います。老人はミラレパに近寄ってきて「働き盛りの若者がどうして物乞いなどしておるのかね?」と不審そうにたずねます。「まぁいい、とりあえずお前は字を読めるかね?読めるなら、わしの家に来て経典を読んでくれないかね。お礼に少しだが食べ物と少々のお金を払おう」渡りに舟とばかりにミラレパはその老人の家にいって経典を読んであげるのですが、その経典が『八千頌般若経』だったというわけです。

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『大乗仏典 2 八千頌般若経 I』梶尾雄一、丹治昭義訳 昭和49年 中央公論社
『大乗仏典 3 八千頌般若経 II』梶尾雄一訳 昭和50年 中央公論社

八千頌般若経はそういったミラレパ関連の逸話から原典にも興味がわいていました。私は本の引き寄せ力が異様に強いこともあり、ほどなくして古本市で中央公論社の大乗仏典の翻訳シリーズ(全15巻)で入手できました。(私は基本的に欲しい本があってもネットなどで探して買うことは少なく、古本市などで偶然見つけたりするような出会いだけで欲しい本は十分見つかることが多いです)思ったよりも長い経典で、中央公論社版「大乗仏典」の『八千頌般若経』は2巻に別れており、最初は『八千頌般若経 I』のほう入手したため、ミラレパの話に出てくるエピソードを探しても見つからなかったのですが、ほどなくして後編の『八千頌般若経 II』も手に入り、こちらのほうの最後のほうに件のエピソード(「第三十章 サダープラルディタ菩薩」p312〜)がありました。目的はミラレパのエピソードの原典でしたが、もう一方の『八千頌般若経 I』も、なかなか興味深いことが書いてある経典で、こちらにも後ほど少し触れようと思います。

※マルパの与える試練はイジワルでやっているのではなく〜
マルパは夢や様々な現象の裏に隠された意味を読み解くという特殊な能力にも優れていて、ミラレパが運命によって定められた特別な弟子であることを予知夢に現れたナーローパ(マルパの師匠)によって事前に知らされていたそうです。自分の元に修行にやってきたミラレパはいずれ衆生を救う希望の光となるだろうことを知っていながらも、まずは魔術によって犯した悪業のカルマを浄化しなくてはならず、マルパは心を鬼にしてミラレパのカルマを落とすためにあえて冷たく接して拷問めいた試練を与えるのでした。このあたりのエピソードも、『チベットの偉大なヨギー・ミラレパ』(おおえまさのり訳 めるくまーる社 1980年刊)に具体的に詳しく書かれていますが、心と体を痛めつける厳しい仕打ちに堪えるミラレパに同情を禁じ得なくなります。あまりの辛さにミラレパが泣き出したときも、マルパは激怒し「泣いたりして私を責めようとはどういう了見だ!」とどなりつけられ、泣くことも許されないような厳しい試練に日夜堪えるミラレパなのでした。

このあたりのエピソードは本当に可哀想になってきますが、魔術による殺人とはいえ、やはり30人以上を殺害した悪業のカルマを人生の残り時間の範囲内でスピーディーにすべて浄化するには必要な試練だったのでしょうね。ミラレパの場合は、カルマの浄化だけで人生を使い切るわけにはいかず、浄化の後には修行して解脱まで達成しなくてはいけないので、マルパも心で号泣しながらも早く教えを伝授したい一心で浄化を早めるためにミラレパに厳しくあたってたのでしょう。元はと言えばミラレパ一家の財産を不当に奪って奴隷扱いした者たちへの復讐としての呪殺行為だったので、快楽殺人や保険金殺人みたいなエゴ的な動機の罪よりはカルマ的には圧倒的に軽いと思いますが、それでも殺人は大罪(しかも大量殺人)なので厳しい浄化の試練が長く必要だったのでしょうね。この試練はトータルでおよそ6年かかったようです。

※ゾクチェン(チベット仏教最古の宗派、ニンマ派の教え)〜
ゾクチェンはチベット仏教のニンマ派の教え。禅と比較されることが多いみたいです。たしかに、難しい理屈をこねるよりただひたすら瞑想によって心の本質に目覚めることを追求するようなところがある教えで、理屈より実践を重んじる禅と似ていますね。ゾクチェンというと、『チベットのモーツァルト』や『虹の階梯』などの著作で知られる中沢新一さんもチベット仏教を修行しておられましたが、彼が修行したのもニンマ派のゾクチェンだったみたいですね。

ゾクチェンは、あるがままの自らの本質に目覚めることを本旨としますが、ミラレパはこれを勘違いしてしまい「そうか、そのまんまでそもそも私は完成しているのだ!なにもしなくてもいいんだ!」と、本当になにもせずに怠惰に過ごしてしまいます。「そのままでOK!なにもしなくてもあなたは完璧よ!」的な教えって、現代のスピリチュアルにもよくありがちな教えですが、たしかにそういう真理の見方はあるものの、文字通り何もしなくてもいい、努力しなくていい、という意味に受けとってしまうと無意味な教えになってしまいますし、けっこう誰もが最初は陥りがちな部分でもあります。我々もミラレパを笑えませんね。

何もしない、何もいらない、ということを本当に悟るには、やはりその境地に到達するための何らかの努力は必要です。ミラレパの勘違いした態度に呆れたグルは、ミラレパにゾクチェンの修行は合わないようだし、私によって救われることもないだろう、ということでミラレパの生涯の師となることになる聖者マルパを紹介したのでした。このとき、マルパの名前を聴いただけでミラレパはハラハラと涙がこぼれ落ち、髪の毛は逆立ち、身体中に戦慄がはしり、無上の喜びで満たされたそうです。まさにマルパが運命的なグルであることを本能的に感じとったのでしょうね。


※密教修行のための許可証でもある「灌頂(かんじょう)」を〜
前の記事でも書きました通り、灌頂というのは密教修行を開始するための許可証のような役目の儀式です。そもそも密教自体が公にしてはいけない秘密のものであり、とくに後期仏教は厳しく掟が守られていましたが、1959年以降は政治的な問題からダライラマをはじめとした高僧たちの亡命などもあって状況が大きく変わります。チベット仏教の奥義ともいえる無上瑜伽タントラは長く修行を重ねた僧にしか教えを説くことすら禁じられていたものでしたが、チベット仏教そのものの存続の危機に立っている現在、灌頂も一般に授けられるものは授けたりしながら存続を図っているそうです。秘密を守ってチベット仏教自体が先細りに消滅してしまうよりも、多少の誤解をはらみつつも広く世界に教えを伝えて存続をはかるほうを選んだということでしょう。近年、長らく謎だった無上瑜伽タントラの秘密経典も日本語訳を見かけたりするようになったのは、そういうチベット仏教自体のスタンスの変化が大いに関係しているのでしょうね。ミラレパも灌頂の重要さについて語っていて、ちゃんとした灌頂を受けずに経典を読むことは何の意味も無いばかりか、足枷となり堕落への罠となるだけである、と指摘しています。

上のゾクチェンの追記で触れた、件の「ありのままで完璧」みたいな教えは、一見楽そうで魅力的に見えますが、全ての生けるものには仏性が宿っていることは仏教の教えでもありますね。しかし、ほとんどの生命は三毒(貪[とん。食欲、物欲、性欲などのむさぼり]瞋[じん。不快なものを嫌悪すること]痴[ち。迷い、愚か、真理に無知であること])によってその仏性に覆いがかぶさっているので、なにもしないと三毒に冒されたままの無知な状態を抜けることはできず、よって六道輪廻に捕われたまま永遠に苦の世界に生まれ続けることになります。意識的にこの三毒をコントロールして魂の本質である仏性そのままに生きる状態になるためには、例えば八正道などの修行が必要になります。この三毒はどれもエゴから出力される毒なので、細かい修行法にこだわらなくても、まずは自分の内なる利己性(エゴ)を律して、意識的に利他の実践(人助けなどの思いやりや、ゴミ拾いなどの利他的な行い)をしていくことでエゴを弱めていき仏性を少しずつ目覚めさせていくことが可能になります。まずはちょっとしたイライラとか不平不満などをコントロールするように遊び半分でもいいので毎日意識するようにしていくと、私の感覚ですと1〜3ヵ月ほどで身近な自分の生活の中で実感できる程度の良い変化がでてきます。ある程度浄化が進むと、良いカルマも悪いカルマもリターンのサイクルが早くなってきます。最近は朝のカルマが夕方頃に返ってくる場合もよくあります。このあたりのことはまだそれほど詳しくないですが、こうしたカルマ関係の法則も今後いろいろ研究してみたいですね。本格的にカルマの浄化や解脱を求める場合はその道に入って求道するほうが早く達成できるでしょうが、それには相応の覚悟が必要になりますね。まぁ、あせらずとも、そういう準備ができた人はそういう方向に自然と入っていくのでしょう。



サダープラルディタ菩薩の命がけの覚悟

ミラレパが老人に乞われて読んであげた仏典には、サダープラルディタ(別名を常啼[じょうたい]菩薩)の真理を求める強い覚悟が書いてありました。これがまたすさまじいインパクトのある話なので、ざっと紹介します。

サダープラルディタは、当時遠く東方に居られるという誰もが尊敬する有名な大士であったダルモードガタ菩薩に謁見しようと旅に出ます。ダルモードガタから貴重な真理の教えを授かるために相応の供物を用意しようとしますが、かといって対価となる価値のあるものなど何も持っていなかったため、しばし思案しますが、持てる物といったらこの自分の身体しかないのだから、この自分の身体を売って金銭を得て、それを対価に教えを乞おうと決心します。そして街中で大声で「私を買ってくれませんか!?人間を買いませんか!?」と とんでもない物乞いをはじめます。

そのときサダープラルディタ菩薩大士は市場の中央にいて、くりかえし声をはりあげて大声で叫んだのである。
『どなたか人間を欲しい方はいませんか?どなたか人間を欲しい方はいませんか?どなたか人間を買いたいと思いませんか?』

『大乗仏典 3 八千頌般若経 II』梶山雄一、丹治昭義 訳 中央公論社 昭和50年 p330

これを聞いていた悪魔たちは、サダープラルディタが無事に真理の教えを得て大衆を教化し、皆が目ざめてしまったら、魔神たちの攻撃が人間に利かなくなり、魔物たちの居場所さえ追われることになるだろうと恐れ、サダープラルディタを邪魔してやろうと、道ゆく人々がサダープラルディタの声が聞こえないようにしてしまいました。そんな事情を知らないサダープラルディタは、道の真ん中でどんなに一生懸命叫んでもみんなスルーして通り過ぎてしまうので悲しみに暮れ号泣するのでした。

天上界でちょうどそのような人間界の様子を見ていた神々の帝王シャクラ(インドラ神のこと)は、サダープラルディタの覚悟を試そうと、若者の姿に変身して彼の前に現れます。

人間の若者の姿をしたインドラ神はサダープラルディタの前に現れ話しかけます。「私はこれから祖先の慰霊の儀式をしたいと思ってますが、それには人間の心臓、血液、骨、髄が必要です。あなたにお金を払えばそれらをいただけますか?」と、とんでもないことを要求します。サダープラルディタはその言葉に怯むどころか、お金を得るためにちょうど良い買い手が見つかった!と喜び、さっそく自分の身体に刃物を当てて血をしたたらせながら自分の肉を削ぎ始めます。痛々しいどころか、心臓を取ってしまったら死んでしまうのでは!?と心配になります。このあたり超展開すぎますよね。サダープラルディタは観音菩薩の前世の姿でもあるそうですが、たしかに真理に対する覚悟のレベルも段違いなものを感じます。

そのとき、ある豪商の娘が、上の方、高層づくりの邸宅の屋上にいた。サダープラルディタ菩薩大士が(刃物を)腕に突き刺し、血をほとばしらせ、太ももの肉をそいだのち、骨を断ち切るために壁の土台に近づくのを見て、彼女はつぎのように考えたのである。
『いったい、どういうわけで、あの良家の子は自分で自分にあのような責め苦を加えるのでしょう。私はあの良家の子のところへ行って尋ねてみよう』と。

『大乗仏典 3 八千頌般若経 II』梶山雄一、丹治昭義 訳 中央公論社 昭和50年 p333

そこに通りがかったひとりの娘がそれを見て大変驚き、「あなた何をしてるの!馬鹿なことはやめてください!」と彼女はサダープラルディタにその凄惨な行為を止めさそうとします。理由を聞けば高名なダルモードガタ大士の有り難い教えを授かるための供物を得るためだというので、それなら私が親に頼んで替わりに貢ぎ物を用意しますから、私たちにもいっしょに教えを授からせてください、ですから、どうか自分を傷つけるのは止めてください!と懇願します。娘は裕福な家の生まれで、相応の宝物を用意してくれたので、めでたくふたりはダルモードガタの素晴らしい教えを拝聴することができました、というエピソードです。

このサダープラルディタの真理のためなら血も肉も骨も、さらには心臓さえ捧げようとする壮絶なエピソードにショックを受けたミラレパは、そのエピソードに自分を重ね合わせ、サダープラルディタに比べたら私の試練などとるに足らない小さなものなのではないか、と考えを改め、マルパの元に戻ってまた浄化の試練を受ける決心を固めたのでした。

まぁ、たしかにサダープラルディタの覚悟と比べたらこの世の大概の試練はなんてことのない小さなものなのかもしれませんが・・・サダープラルディタの覚悟は凡人からしたら異次元すぎる覚悟で、さすがは観音菩薩の前世の姿というか、ふつうは自分と比べようとすら思わないレベルですが、サダープラルディタと自分を比べて勇気づけられてしまうミラレパの精神も後に大聖者となる方だけあってそうとうにハイレベルですね。

※悲しみに暮れ号泣するのでした〜
サダープラルディタは常啼[じょうたい]菩薩というだけあって、情にもろいというか、涙腺が弱いようで、感情が高ぶるとすぐ泣いてしまう性格だったみたいです。そこから常啼菩薩と呼ばれるようになった、ということです。このエピソード中でも、序盤でダルモードガタに会いに行く途中で道に迷うと泣いたり、物乞いをスルーされると泣いたり、など、何度も号泣するシーンがでてきます。我々は自分が不幸な時に泣いたりしますが、サダープラルディタのようなハイレベルな修行者が泣くのは、他者の苦しみに共感してのもので、人間はおろか虫や動物までみんな苦しみにもがいていることを思うと悲しくて悲しくてたまらない、だから泣いているのだそうです。そういえば往年のドラマ、スクールウォーズの主人公の先生も「泣き虫先生」と呼ばれてましたね。万年最下位のラグビー部をわずか数年で全国優勝に導いた教師の奮闘を描いた実話を元にした名作ドラマでしたが、泣き虫先生が泣くときも、自分の不幸に泣くというよりは、生徒を上手く導いてやれない自分の至らなさに泣くわけで、そのような、他者のために泣ける人間って魅力的で惹き付けられるものがありますね。そういう人に自分も一歩でも近づきたいものです。

※神々の帝王シャクラ(インドラ神のこと)は、サダープラルディタの覚悟を試そうと〜
そういえばインドラ神は先の記事で触れたようにお釈迦様の前世のウサギを試そうと年老いた老僧に変身したこともありましたね。インドラ神に限らず、天上の神々がしばしばこうして人間の覚悟を試そうとする話がありますが、ウサギの話でも今回のサダープラルディタの話でも、けっこうシャレにならない試練が多いイメージですね。まぁ、試す相手がお釈迦様や菩薩レベルの上級者なので、一般人ではクリアが難しそうな相応のハイレベルな試練になってしまうのかもしれませんが。

※めでたくふたりはダルモードガタの素晴らしい教えを拝聴することができました〜
めでたくダルドーモガタの教えを受けることができたサダープラルディタですが、その前段で布施を得るために身体のあちこちを刃物でズタズタに裂いていましたよね。そこのところを書き漏らしていましたので追記します。サダープラルディタは激痛に堪えながら血まみれでダルドーモガタの教えを受けたわけではありません。前段の道ばたで布施を乞うシーンで、先祖供養のための儀式に人間の血肉を求めていた若者はインドラ神の化けた姿だったわけですが、自らの身体に躊躇無く刃物を突き立てたサダープラルディタの覚悟に感服して若者は「ははは!すまんすまん!実はインドラ神でした!」と正体を明かします。凡人ならここで「なんというイジワルをするんですか!この傷ついた身体をどうしてくれるんです!」とキレそうになるところですが(いや、そもそも凡人は自分を斬りつけてでも教えを乞おうとは思わないでしょうが)正体を現したインドラ神は血まみれのサダープラルディタの身体を見てさすがにやりすぎたかな〜と心配になるのでした。しかしサダープラルディタはそんな落ち込んだ顔のインドラ神を逆に気遣い、「こんな傷だらけの身体になってしまいましたが、責任をとって元通りに治してくれなどとあなたを責めるつもりはありませんよ」と寛大な言葉をかけます。そして次のような宣言をします。「この私の真理を求める覚悟が本物であることは遠くで見ておられる悟りを得られた如来方にも証明されましたし、まさに、その揺るぎないこの信念によって、私のこの身体はもとどおりになるでしょう!」するとその瞬間に完全な悟りを得たブッダたちの神通力がサダープラルディタの身体を元通りにして、さらに無病息災の完全な身体にしてくれたのでした。

すると、その瞬間、その刹那、その一瞬に、ブッダの威神力の助けにより、サダープラルディタ菩薩大士の(宗教的)志願が清浄であることによって、彼の身体はもとどおりになり、しかも無病息災となった。
そのとき、神々の主シャクラ(インドラ神のこと)と邪悪な魔はきまりが悪くなり、サダープラルディタ菩薩大士に答えるための(能弁の)叡智を得ないままに、そこで消え失せたのである。

『大乗仏典 3 八千頌般若経 II』梶山雄一、丹治昭義 訳 中央公論社 昭和50年 p337



魔はなぜ邪魔をするのか?

サダープラルディタがダルモードガタへの供物の工面のために金銭を得るために身体を売ろうとするシーンで、悪魔たちがサダープラルディタの声が道ゆく人の耳に聞こえないようにしますが、ここまであからさまでなくとも、私たちの日常でも何か覚悟を決めると、しばしばそれを邪魔するようなシチュエーションと対峙することになるケースってよくありますね。約束をすると、それを守ることが難しくなるような出来事が起こったり、目標を決めたとたんに、それを達成することのハードルが高くなってしまうような事態になったり。八千頌般若経にも、そんな「魔による邪魔」についてお釈迦様が解説するエピソードがあって、なかなか興味深かったです。といいますか、最後のほうの章にでてくるサダープラルディタの話も、いかに魔の誘惑に打ち勝って正しい道を選んで進むべきなのか、という教訓を学ぶためのエピソードでもあり、この魔による邪魔については経典のはじめのほうから何度も出てきます。真理を求める修行者にとって魔の誘惑とどう対峙するかというのは普遍的な問題であるということでしょうね。

中央公論社版『八千頌般若経』の1巻目のほうにも、そのまんま「魔はなぜ邪魔をするか」という章があります。
そこでは、お釈迦様の高弟のひとりで、笑顔を絶やさず誰とも争うことが無いことから「無争第一」と呼ばれたスプーティが、お釈迦様との質疑の中で、魔に対する見解を尋ねます。いわく「世尊(せそん。お釈迦様の敬称)よ、この世界ではなぜ魔は人が真理の知恵の完成を邪魔するのでしょうか?なぜ魔はそんなにも懸命に、人が真理を理解し学び話し説いたりすることに対して邪魔することに精を出すのでしょうか?」お釈迦様はその問いにこう答えます。「世界の無数の悩める人々が煩悩を断つことが可能なのは如来(にょらい。最高の悟りを得た解脱者)の教えがあるからである。煩悩を断った人々に対しては、邪悪な魔は弱点につけいれない。つけいれないと魔は苦しみ、落胆し、悲しみの槍に突き刺されるのである。だから、人が真理に目覚めるための努力をしようとすると魔物たちはあれこれと邪魔立てに精を出すのである」

時代が新しくなっていくとともに、こうした魔のはたらきは、自らの内なるエゴのはたらきとして解釈されるようになっていきますが、八千頌般若経は紀元元年〜1世紀に成立した大乗仏典の中では最も古いものとされているように、けっこう寓意的な説き方が多い印象がありますね。でも、もしかしたら、逆に現在のように魔は実在する霊的な何ものかではなく、自分の内にあるエゴのはたらきである、という考えだけに捕われるのもまた合理主義のバイアスのかかった思い込みのようにも思えてきます。

魔は内なる存在なのか、外にいる存在なのか、そういえば、現代科学も真理に近づくほどそうした二律背反をはらんだどちらともいえない、あるいはどちらでもあるような奇妙な世界に突入する傾向ってありますよね。
量子力学は、物質の最小の構成要素には波と粒子の二重性が現れることを証明しましたが、これはとりもなおさず、存在するものの最小の構成要素はすべて波(非物質)でもあり粒子(物質)でもあるということです。物質だと思われていたものの実体は、物質と物質でないものが不可分になった謎めいた何かなのでしょう。まるで般若心経ですね。この世は実体がなく空であり、空であるから実体として見えているともいえる、物質的な現象の本質は実体がないということである。我々現代人は、近代合理主義の物質偏重教育によって、心さえも脳という物質の生み出す機械的な現象であるかのような錯覚を共有させられていますが、仏教の「大乗起信論」にあるように、むしろ心が先にあって、心のはたらきこそが物質を生み出している根本原理である、というような考えも意外と「存在」の本質を突いたひとつの解答なのではないか、という気持ちにかられます。さらにいえば、どちらが先か、ではなく、どちらも正解というか、この世は「波/心」と「粒子/物質」がシュレディンガーの猫のように不可分に重ね合わさっているのかもしれませんね。

魔の話しに戻しますと、魔は内なる自分のエゴともいえるし、お伽噺やオカルトにあるように霊的な実体として存在しているのかもしれません。どちらかが本当ということではなく、また、どちらも本当だというのもつかみ所の無い答えになってしまいますが・・・・多分、それらは次元というか、階層の違いなのでしょう。心のレベルに応じて真理は様々な見え方をするものです。ミラレパもチベットの各地を旅しながら人々に救いの教えを広めていっただけでなく、各地の先々で人々に悪さをはたらく霊的な魔物に対してもこんこんと説教して仏教に改心させたりもしてたそうです。人を救うだけでなく、魔物さえ説得して善霊に変えて救うとは、段違いの大聖者ですよね。


メモ参考サイト
量子力学では粒子が「波」として記述される一方で、光や電波のような電磁波(波としての性質をもちろん示す)にもまた粒子としての特徴も示されている(光量子仮説)。一般に観測に際しては、粒子性と波動性は同時には現れず、粒子的な振る舞いをみた場合には波動的な性質は失われ、逆に波動的な振る舞いをみる場合には粒子的な性質は失われている。(ウィキペディアより)


悪魔はスルー推奨

70年代後半にウイリアム・フリードキン監督の映画「エクソシスト」の大ヒットが後押しして世に出たある本があります。それは『悪魔の人質』(マラカイ・マーチン著 大熊栄訳 集英社 1980年)という本で、実際に悪魔払いを経験した数人のカトリックの神父に元神父の著者がインタビューをして、悪魔払いをしたときの経験を語ってもらったものを本にしたものです。昔古本屋で安く売ってたので、興味本位に買って読んでみたのですが、実話だけあってすごいインパクトで、「うわぁ!悪魔ってホラー映画の中だけのファンタジックな怪物だと思ってたけど、もしかしたらほんとにいるのかも!」と思ったものでした。まぁ、読んで愉快になれるような類いの本ではないですが、気になって本棚を探しても見つからず、捨てたか売ったかあるいは無くしたかしてしまったようです。近くに置いておいても変なバイブレーションを出してそうなので買い直そうとまでは思いませんが、アマゾンなどではいつのまにかすごいプレミア価格になっていて二度びっくりです。悪魔とのやりとりがすごくリアリティがあったのと、巻末に実際の悪魔払いのカトリック式のマニュアルが付録についてた気もしますので、資料的な意味でも確保しておいてもよかったかな〜と考えがブレてきます。

まぁ、何を言いたいのかというと、この本で実際に神父たちが戦った悪魔というのが、本当に悪魔っぽいというか、「ああ、やっぱり悪魔というのは興味本位で近づいちゃ絶対ダメなやつのようだ・・・」と心底思わされたことです。悪魔は自分の心の中に住んでいる、というのもあると思いますが、外側の世界にもけっこういたりするんじゃなかろうか、という一例として思い出したのがこの本だったわけです。悪魔は霊的な存在なので、せっかく取り憑いた犠牲者の身体から追い払おうとするエクソシストに必死に抵抗しますが、その抵抗の仕方がまさに悪魔っぽいリアリティがあるのです。映画のように知らない言語を話したり、恐ろしい声や、年老いた母親の悲しそうな声などで心を揺さぶってきます。(そもそも件の映画は実話を下敷きにしています)また、自分の心の奥にしまってある誰にも知られたくない秘密をネタに悪魔払いの儀式を止めさそうとしたりします。(例えば思春期の頃の隠しておきたい性的な経験とか)悪魔という言葉も手垢にまみれてきた現代、一昔前に自分の子供に悪魔と名付けようとした親が話題になりましたが、件の本に出てくる実際の悪魔は子供に名付けたくなるような可愛いイメージは全くなくて、善とか愛とかいう心のよき部分が全く欠落した寒々しい性格をしていて、そうした悪魔のキャラ描写に背筋が凍った記憶があります。悪魔を祓うには、ただ聖書の神の言葉をぶつけるだけでは意味が無く、エクソシスト本人が心の奥まで清らかでないと、ちょっとした心の弱みをナイフのような鋭さでザクザク刺してきます。なので、エクソシストは一ヵ月以上前から教会で毎日祈りを続け身も心も清めねばなりません。本に紹介された神父の幾人かは、悪魔払いの後遺症で精神を壊してしまった人もいたりして、映画のようなヒロイックなかっこいい仕事じゃないことを痛感させられました。もう十年以上前に読んだきりですが、また読み直したいような、二度と読み返したくないような、そんな本です。

なんか変な方向に話しが逸れてしまいましたが、つまり、魔というのは、霊的な存在なので、心がある程度清らかな人には見えもしないし、魔もそういう人にはかかわることもできないので、こちらから興味を持って突っ込んでいかない限り必要以上に怖がる存在でもないです。臆病な人や、不安や疑心暗鬼など、ネガティブな心のバイブレーションでそういう魔的な霊は寄ってくるので、気をつけたいものです。また、例えば心霊スポットのようなところにわざわざ出かけていったり、ホラー映画ばかり鑑賞したりなどが習慣化すると、魔的なものを呼び寄せるだけでなく、経験上、運勢もダダ下がりしますのでお好きな方はほどほどにするのが吉です。むかしはダリオ・アルジェントの大ファンで、よく何度も彼の作品を見てたものですが、なんか見るたび運がガガーッと下がる不思議な気分に襲われ、実際に見た後はアクシデントや変な出来事が起きやすくなってました。数年前あたりから精神世界に興味をもっていくうち、やはりネガティブな娯楽は運勢に良くないんだろうな、というのが実感として感じるようになってきたので、J・P・ウィトキンの写真集とかアルジェントのレアなDVDなどヤバそうなものはけっこう手放しました。


※アマゾンなどではいつのまにかすごいプレミア価格〜
ネットでの相場は「日本の古本屋」では、現在のところ¥3000〜¥10000くらいのようで、定価の3〜10倍ほどのプレミアですね。これはとりあえず今は買う必要はないという本の神からの合図でしょう。どうやら2016年に同名の映画『悪魔の人質』(マーティ・ストーカー監督)で、件の本の作者、マラカイ・マーチン神父の自伝的なドキュメンタリー作品が公開されてたそうで、そうした影響なのでしょうか。面白そうではありますが、悪魔より天使に興味を向けた方が運勢はよくなりそうなので、悪魔関係はとりあえずスルーしておこうと思います。天使も調べてみるとけっこう奥が深くて、そのうち考えがまとまったら記事にしてみたいですね。天使はボルヘスのスウェデンボルグに関するエッセイで面白い見解を述べてましたし、臨死体験で光る玉のような姿の天使を見た人のエピソードなど、こちらもなかなか興味深いです。

※自分の心の奥にしまってある誰にも知られたくない秘密〜
悪魔払いはカトリック教会の正式な役割として黎明期から存在していた古い伝統でもあったみたいですね。イエス・キリストも聖書の中で悪魔払いをするシーンが描かれているくらいで、エクソシスト(祓魔師[ふつまし])の存在は教会的には別に変わった役職ではないと昔から考えられてきたようですね。現代では、悪魔憑きというと、真っ先に精神疾患を疑いますが、エクソシストもそのあたりはちゃんと対象者が本物の悪魔憑きなのか精神病なのかはかなり厳しくチェック(例えば、本人の知らない言語や、知らないはずの情報を話すとか、精神疾患で説明出来ない症状の有無など)され、それでも悪魔憑きの疑いが拭えない場合にやっと悪魔払いの許可が教会からおりるようです。ただ、エクソシストの役職は、第二バチカン公会議(1962〜1965年)以降には廃止され、現在は存在してないようです。



メモ参考サイト


ミラレパの教え

最後に悪魔の話で締めるのもアレなので、ミラレパの教えについての話で締めようと思います。

謙虚でおだやかであれ。その身をぼろで被い、衣食についての苦しみを捨てよ。世俗的名声を得ることの一切の思いを放棄し、身の苦行と心の煩いを堪えよ。このように体験から知恵を得よ。おまえたちの修学と苦行が正しい道に向かって導かれるためには、心にこれらの訓戒を保持することが必要である。
『チベットの偉大なヨギー・ミラレパ』(おおえまさのり訳 めるくまーる社 1980年刊)p331

これは、死期が近づいた晩年に弟子に向かって話した最後の訓戒の中の一節です。ストイックな行者らしい言葉ですね。しかし、そうしたストイックな厳しさの中に自然に行間からにじみ出てくるような包み込むような愛情に溢れているのもミラレパに惹かれる部分です。

ミラレパの人生は、やはり序盤の試練に耐え続ける苦行時代の話がドラマチックで印象深いですが、それだけに試練がやっと終わった瞬間の歓喜の様子は読んでる自分も嬉しくなってきます。

ミラレパはマルパからの試練を堪えていく中で、奥さんのダクメマや兄弟子たちに助けられたり慰められたりして励みにしていきますが、マルパからすればミラレパをかばうことはミラレパ自身のカルマの浄化を遅らせるだけなので彼らを厳しく叱責します。とくに、ダクメマがマルパの手紙を捏造して兄弟子のゴクパからミラレパに灌頂と奥義の伝授をさせてしまったことがマルパの逆鱗にふれました。灌頂も奥義の伝授も正当なグルからのものでなければ無意味だからです。ミラレパは激しく怒られている恩人たちを目にして深く絶望し、このまま生きていても、自分を哀れんで助けてくれようとした親愛なるダクメマや兄弟子たちにまで迷惑をかけ、さらなる悪業を積みつづけるだけだ。いっそここで私のようなものは死んでしまったほうが皆のためなのかもしれない、と自殺を決心します。

「私の数多の悪行のために、わたし自身が苦しむばかりか、わたしはあなた(兄弟子のゴクパのこと)や尊母(ダクメマのこと)までわたしの面倒に巻き込んでしまいました。わたしはもはやこの生涯に法(おしえ)を得るという一切の望みを失ってしまいました。日々わたしは、次から次に大罪を積み重ねてゆくばかりです。今はもうこの命を断った方がよほどましでございます。
わたしがあなたにお願いしたいことは、あなたの慈悲によってわたしの次の世での誕生が十分に恵まれた人の間にもたらされ、真理を得る機会を持つことができるようあなた(ゴクパ)が尽力してくださることでございます」

『チベットの偉大なヨギー・ミラレパ』(おおえまさのり訳 めるくまーる社 1980年刊) p143

この死を覚悟するまでの絶望が最後の浄化のスイッチになったのか、マルパはこのときミラレパの浄化が完了したことをすぐさま察知して、ミラレパに急に優しく接します。厳しく辛い6年にわたる試練がようやく終わったのでした。さぁ、おまえに偉大なるタントラの教えを授けよう。とミラレパを盛大な歓迎の主客にした宴席で試練に耐え抜いたミラレパをマルパやその家族や弟子たちみんなで讃えるのでした。マルパの見解では、もし兄弟子やダクメマがミラレパの手助けをしなければ、試練が終わったのと同時に一気に解脱するはずだったそうですが、彼らの同情によって犯した過ちによってミラレパには多少のカルマが残存してしまったので、今後も多少の修行は必要となったそうです。とはいえ、ダクメマらの愛情によってギリギリ精神の安定を保って試練に耐え続けていたわけなので、全ては大いなる宇宙的な見地からはなるべくしてなっていたのでしょうね。もともとストイックな行者タイプだったミラレパはその後一生を家ももたず財産も着衣がわりの布一枚しかもたずひたすら瞑想と修行に明け暮れます。托鉢に修行時間を削られるのまで惜しんで、そのへんに生えている雑草(刺草)を水で煮て食事にしていたため、身体はガリガリで、草ばかり食べていたので肌の色も次第に緑色になってしまったそうです。

ミラレパを描いた絵の多くで白い布を一枚まとった緑色の肌のやせた行者のかっこうをしている理由はそういうエピソードからきているようですね。ミラレパの絵はしばしば耳に手を当てているポーズで描かれますが、これは自然の声から霊感を得ている姿であるとか、ゾクチェンの「ロンデ」の瞑想法を意味しているのだとか、いくつか説があるようです。

ミラレパは厳しい試練を耐えた末にマルパからタントラの奥義を伝授され、その後マルパの元を離れて瞑想修行の旅に出て各地を放浪します。前の記事でふれたように、晩年は仏教学者ゲシェ・ツァプアに怨みを買い、彼に毒を盛られたことで亡くなりますが、聖者に毒を盛るというのはこの上ない大罪ですから、その報いがどうなるかは解脱したミラレパにはリアルに分るので、毒の激痛を味わってる最中にもかかわらず、被害者でありながら加害者のゲシェを憐れみます。このあたり、イエス・キリストが凄惨なむち打ちの刑を受けてる最中に、苦痛に苦しんで恨み言いうでもなく、逆にむち打ちの執行者の罪の報いを哀れんで神に彼らを許してくださるように懇願するシーンを彷彿としますね。

ミラレパの底知れぬ慈悲に衝撃を受けたゲシェはすべての財産を喜捨しようとしますが「わたしは生涯一度として家も財産も所有しなかった。それが今、臨終の床にあって世俗の財を持ってどうなるというのか。そんなことより、お前は以後は法(ダルマ)を犯すことのないように自らを律しなさい。お前のこのたびの罪については、それによってお前が苦しまないようにわたしが深く祈願してあげよう」と彼(ゲシェ)の一切の罪が自分の中で消滅しますように、と祈りの歌をうたうのでした。ゲシェの全財産の布施はミラレパは受け取られなかったので弟子たちが譲り受けてその後のミラレパの葬儀費用などにあてたそうです。ゲシェはその後の一生をミラレパの帰依にささげました。

キリストにしろミラレパにしろ、この異次元レベルの慈悲深さがまさに大聖者ですね。真理に近づくほど自他の区別がなくなっていくので、自分を害する者さえ縁あって自分の人生に参加している親愛なる客人でもあるのでしょう。またそれは自分自身が別の姿で自分に何かを教えようとしている姿でもあるのでしょうね。本来解脱した聖者には不幸が起こるカルマは全くなくなるはずですが、多くの聖者は解脱した後も十字架にかかったり癌になったりなど、客観的には不幸に見える晩年を過ごしてるように見えます。おそらく、これは、聖者が身をもって教える実体的な最後の教えを遺すためかもしれないですし、また、自分のカルマは全部清算し終わったので、残る人生で弟子や周囲の人々やはては人類が負っているカルマを自分の残りの人生を使って少しでも消化してあげようという慈悲心によるものなのかもしれません。解脱に近づくほど、自分の安楽よりも他者を苦しみから救いたいという利他心のほうが強くなるので、そうした聖者の晩年というのは、自分の人生を最大限利用してすこしでも後の人類が幸福であってほしいという宇宙的な親心が反映されたものなのかもしれませんね。


独居せよ、さすれば友を見出そう
最も低い地を得よ、さすれば最勝の地に達しよう
ゆっくりと進め、さすれば直ちに達しよう
世俗の目標のすべてを放棄せよ、さすれば至高の目標に達しよう

秘密の道(密教)を行くなら、一番の近道を見出そう
空性を識るなら、哀れ(慈悲心)が心に生じよう
自他の相違を失くすなら、他を利益(りやく)するに叶っていよう
他を利益するに功を収めるなら、わたしに出会おう
そしてわたしを見つけて、ブッダフッド(仏性、悟りの境地)を得よう

わたしに、ブッダに、弟子たちに金剛兄弟(兄弟弟子)
自他を区別することなく。熱烈に祈るよう

『チベットの偉大なヨギー・ミラレパ』(おおえまさのり訳 めるくまーる社 1980年刊)p333-334


※晩年は仏教学者ゲシェ・ツァプアに怨みを買い〜
偉い学者であるわたしにおじぎを返さなかったからというのがミラレパを憎むきっかけで、そんな無礼なミラレパが自分よりもみんなに愛され尊敬されているのでさらに怒りと嫉妬心が燃え上がり、殺意にまでエスカレートしてしまったようです。ミラレパを毒殺しようと、自分の愛人に毒入り凝乳を二度差し入れさせますが、一度目は拒まれます。しかし二度目に女が毒入り凝乳を持ってきた時にはミラレパはすべて看破したうえで、毒をあおります。それは、愛人がミラレパ毒殺に成功したら宝玉をプレゼントし、さらに結婚もしてあげようとゲシェが約束をかわしていたことすら見抜いていたので、自分が毒をあおらねばこの女が宝玉も結婚も手に入れられず悲しませることになるから、というハイレベルすぎる慈悲心によってでした。「このことの報酬にお前はちゃんと宝玉を手に入れられたかな?」とミラレパは女に尋ねますが、それを聞いて女は何もかもお見通しであったことを確信し、自分の罪を深く後悔しミラレパの手にした凝乳を奪い返して自分の死をもって購おうとします。ミラレパはそれを思いとどまらさせ、ゲシェと女がこの悪行によって後々カルマの報いで幸福から切り離された人生を送ることになることを憐れみ、自分の命とひきかえに彼らの人生を救済するため、あえて毒入り凝乳を飲み干すのでした。



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チベット関連の本がいつの間にか増えていきます。チベット仏教はここのところ関心があるので、また何かテーマを見つけて記事にするかもしれません。
posted by 八竹彗月 at 20:20| Comment(0) | 精神世界

2025年02月16日

チベット仏教とミラレパの話(その1)

チベットの偉大なヨギー・ミラレパ

ミラレパ(チベット仏教の聖者 1052年 - 1135年)といえば、チベット仏教における最も有名な聖者ですね。チベット仏教への興味が嵩じて、ミラレパのことがずっと気になっていたところ、古本市で前々から欲しいと思っていた『チベットの偉大なヨギー・ミラレパ』(おおえまさのり訳 めるくまーる社 1980年刊)を見つけ、早速買って読んでみました。あたりまえですがウィキペディアより詳しいミラレパのエピソードが満載で感銘を受けました。本のカバーも豪華で、横尾忠則さんの神秘的でサイケな、往年の革命的コメディドラマ『ムー』のOPを思わせる蛍光色を駆使したカバーデザインがイイですね。蛍光色の使い方がどことなく羽良多平吉テイストなので、最初羽良多さんのデザインかな?と思いましたが、当時は横尾さんもインドに熱中してた時代なので、考えてみればこういうノリのデザインも70〜80年代の横尾テイストですよね。普通は簡素にデータだけ並べるだけの奥付までチベット密教の曼荼羅に模してデザインされていたりと、横尾さんのノリノリのテンションがうかがわれて愛着のわく本になっています。本の判型もシングルレコードのような正方形の変形版ということもあり、本フェチ的にもぐっとくる本です。

一般にチベット仏教の有名人というと、ダライラマ14世ということになると思いますが、ミラレパは多少チベット仏教に興味を持ち始めてくるとまずはじめに目に入ってくる聖者の名前でしょうね。チベット仏教は、仏教は仏教でも日本で馴染みのある仏教のイメージとは毛色の違った個性があって、またそこが魅力的な部分でもあります。

チベット仏教は、仏教伝来以前からあった土着のボン教などの呪術的な信仰と混ざり合ったことで、アニミズム的な妖しさがただよう部分もあり、日本の仏教界では邪教っぽく扱われた時代もあったそうですが、インドで仏教が廃れる寸前のインドの後期仏教がほぼそのままの形で受け継がれているのがチベット仏教ということもあり、仏教研究においては貴重な経典も多く残されているチベット仏教の重要性はますます注目されてきつつあるように感じます。

私がチベット仏教に興味をもつきっかけになったのは、ユートピア願望の延長線上にあった地下の楽園シャンバラ%`説を知ったことでした。シャンバラは、オカルト界の巨星、マダム・ブラバツキーが紹介したことでオカルト界隈で有名になり一般にも知られることとなりました。むかし横尾忠則さんのリトグラフ作品でインドやシャンバラをテーマにした神秘的な連作を雑誌で見たことが萌芽となった気がします。上記で触れたミラレパの伝記の装丁が横尾さんですが、ちょうど横尾さんがシャンバラの版画を発表していたのと近い時期なので、そういう関連で引き受けた仕事だったのかもしれないですね。シャンバラについてはとくにミラレパとは関係ないので後で触れるとして、まずミラレパやシャンバラの土台になっているチベット仏教について少し話したいと思います。

チベット仏教には大きくゲルク派、ニンマ派、サキャ派、カギュ派の4つの流派がありますが、ミラレパはその中でも密教修行に重点を置いた実践派のカギュ派の聖者です。(ダライラマ14世はゲルク派で、法王を戴いているだけあってゲルク派は4つの中では一番大きな宗派です)以前にミラレパの生涯に少し触れた記事にも書きましたが、仏教修行を始める前のミラレパはかなり強力な魔術を使う妖術師でもあり、当時にその魔術で犯した大罪(敵の田畑に雹の雨を降らせて作物を全滅させたりとか、怨みのある村人を30人以上を呪術で殺したりなど)のカルマを清算するために師匠のマルパから凄惨な苦行を与えられて尋常じゃない苦行を何年も堪えます。その末に過去の大罪のカルマをすべて清算し、悟りを得て解脱を果たしたといわれています。ミラレパの法術はすさまじく強力で、空を飛んだり、獣に変身したり、まさに漫画の魔法使いのような術を思うままに駆使出来たそうで、おとぎの世界の住人めいてますね。

しかし、ミラレパが実在した聖者であることは間違いなく、ミラレパの師匠マルパはカギュ派の創始者であり、ミラレパも高名な弟子(レーチュンやガムポパなど)を育てていて、その弟子のはたらきもあってカギュ派の隆盛にも寄与したみたいなので、ミラレパは架空の神話上の人物ではなく、実在した聖者であるのは確実だろうと思います。またミラレパは真理の教えを自作の歌で吟ずることでも知られ、チベットに伝わる彼の歌は『ミラレパの十万歌』という本でも知ることができます。この本はまだ持ってないので、他の本に断片的に紹介されている歌くらいしか知りませんが、実践派の行者らしく、難しい言い回しはなく、ラーマクリシュナのような感じで真理を直感的に伝える才能に優れている印象がありますね。この本もいずれ入手したいです。

現代の合理主義的な頭ではミラレパの法術も後世に語り伝えられてくうちに神話化していったのだろうと理性を納得させたくなりますが、そもそもチベットはチベット仏教の長であるダライラマ自体が世襲ではなく転生によって受け継がれてきましたし、そのような不思議が当たり前に存在していた国でしたから、ミラレパの数々の不思議な逸話もほとんど事実そのままなのではないか、と今では思ってます。現代は科学のモノサシに当てはまらない事象は存在してはいけないような空気が蔓延しているようなところがありますが、昔の時代、人々の多くが不思議を許容している時代には不思議は日常として存在しているものだったのではないか、と思う昨今です。

ミラレパという名前は「ミラという姓の綿の衣(レ)を着た行者(パ)」からきているように、人家から離れた寒い高地のチベットの山奥で年中 綿の布一枚をまとっただけの姿でひたすら修行を続けていたことからミラレパと呼ばれるようになった、ということです。弟子を教えたり人と会ったりする時のために礼儀として布をまとっていただけで、実際の修行中は布さえまとわずに全裸で瞑想したりもしてたそうですね。インドやアフリカならまだしも、寒いチベットで裸で過ごせるというだけで、その類い稀な行者であることがうかがわれます。チベット仏教の密教修行はヨガを取り入れた実践的なもので、そうした行のおかげで意識的に体温を上げて寒さに堪えることができたともいわれていますね。そういえばヨガナンダの「あるヨギの自叙伝」にも、ヨガナンダ自身が寒い時にヨガの行法で寒さを凌いだ逸話がありましたね。

※寒いチベットで〜
調べてみると、チベットはイメージしていたような極寒の高地というわけでもなく、寒暖の差は激しいものの、極寒というほどではないようです。かといって普通の人が裸で年中暮らせるほど温暖でもないようです。


メモ参考サイト
ガムポパはレーチュンと双璧を為すミラレパの2大弟子のひとりで、チベット仏教4大宗派のひとつカギュ派の実質的な設立者。

ボン教とは、仏教伝来以前にあったチベットの土着宗教のこと。


密教について

仏教の歴史は大きく分けて3つの区分があり、原始仏教、大乗仏教、後期仏教です。原始仏教(初期仏教、上座仏教、小乗仏教、テーラワーダとも呼ばれる)は、お釈迦様の教えがほぼ原型のまま伝えられている初期の経典に添ったもので、まず無明の中に居る自らを救済するため悟って真理に目覚めることを重視します。次に興った大乗仏教はお釈迦様の入滅後800年くらい後の時代(1世紀後半〜2世紀)のインドで起こった新興の仏教解釈(仏教の教えの本質は、個人の悟りだけを重視するのではなく広く衆生を救うべきものであるはずだ、という考え)で、日本の仏教は主にこの大乗の教えが中国を経由して伝わってきたものです。(密教も初期、中期、後期がありますが、日本の真言宗などのほとんどの密教は中期密教です)

後期仏教は主に密教が主体になる仏教で、チベットやネパールなどごく一部の仏教国だけに伝わりましたが、本家のインドではヒンドゥーやイスラムとの勢力争いに負けて廃れてしまいました。後期仏教でよく指摘される性的ヨーガなどを取り入れた過激な行法や、善悪二元の迷いから抜け出すためにあえて一般に不道徳とされる言動も肯定されたりする経典は、一般常識を超えた言及も多いところから誤解が多いものになっていますが、こうした教えは修行僧によって高度な境地で理解される性質のもので、俗な精神状態では分らないものであり、こと後期仏教は密教色が濃いので、一般に向けた教えではないことを押さえておかないと誤解されやすいですね。

真理には一般常識を超えた部分があるのはおかしなことではなく、禅の教えにも「仏に逢うては仏を殺し、祖に逢うては祖を殺せ」(臨済録)という有名な言葉があるように、ある程度修行が進んだ高度な段階では、善悪すらも固定観念であるためにそれを壊すような教えが出てきます。しかし、それは高いレベルに達した修行僧だからこそ意味のある教えであって、俗世間に暮らしている一般人には毒になるような危うい部分もあり、取り扱いに注意が必要なもので、とくに密教はそれが顕著ですね。

インド後期仏教は、かなり過激な密教思想とその実践にあり、地下鉄サリン事件で悪名を轟かせた某教団がテロの口実に使っていたのもそうした密教経典でした。そのくらい思想的に危険なものであたっために、インド仏教を熱心に取り入れてきた中国でさえも後期仏教は取り入れることを敬遠していて、中国経由の大乗仏教を主体とする日本では馴染みの薄いものになってしまっているという面があるようです。

チベット仏教で用いられているインド後期仏教の密教経典は、主要ないくつかは日本でも松長有慶氏(1929-2023 高野山真言宗の僧侶、仏教学者)の翻訳をはじめとした和訳の経典も出ており、少し読んでみましたが、噂以上にヤバヤバな内容で、仰天しました。まぁ、だからこそ顕教(けんきょう。公にされている教え)でなく密教(一般的でない秘密の教え)なのですが。

密教経典はそもそもかなり修行が進んで準備が整った修行僧向けの経典なので、一般人がいきなり読んでも誤解をうむだけで害にしかならないのでしょうね。四則演算を習っている小学生にゲーデルの不完全性定理を説いても混乱するのと同じで、真理も、悟った境地では唯一のものであるにせよ、そこに至らない俗な了見の中では、真理はあたかも玉ねぎの皮を剥くような感じで段階的に見えてくる多層の構造があるように思います。

メモ参考サイト



無上瑜伽タントラ

一般人が読むと、過激過ぎて魔導書にか見えない後期仏教ですが、チベット仏教では、後期仏教の密教経典(秘密集会タントラ、時輪タントラ、ヘーヴァジュラ・タントラなど)を「無上瑜伽タントラ」(瑜伽[ゆが]とはヨーガのこと)と呼んでとても尊重しています。密教経典の多くは俗人が読むと悪魔の教えにしか見えないアンモラルな教えが多いですが、チベットの大聖者、ミラレパはこうした後期密教の教えによって解脱を果たしていますし、その師匠の聖者マルパも無上瑜伽タントラのひとつで性ヨガの実践を伴うヘーヴァジュラ・タントラ≠成就(※不正確なので追記参照してください)することで解脱を果たしています。また、歴代のダライラマも当然この無上瑜伽タントラを修行してきてるわけですし、ちゃんとした師匠の指導の元で正しく実践したならば一生のうちに解脱を果たすことができるくらいパワーのある教えなのだと思います。

性ヨガは効果が絶大であるかわりに一歩間違うと堕落と紙一重の危険な側面もあるので、現代のチベット仏教では性的な修行は禁止し、そうした部分は観想(イメージ的な瞑想)のみで行うようになっているようです。また密教修行のほとんどに通じるのは、厳しい戒律を守り、しかるべき高僧のグルからの灌頂(かんじょう。キリスト教の洗礼に似た感じの儀式)が必須であり、経典のみを読んでも理解することは不可能な世界のようです。

この灌頂とか洗礼というのは、現代人からは迷信っぽい行為のように映ってしまいがちなところもありますが、こういうところが精神世界の奥深いところでもありますね。悟りや神の世界は、最終的な段階では個人の努力だけではどうにもならない部分があり、神や高位の存在からの祝福、つまり上位存在からの助けが必要となるみたいで、ゆえに密教では灌頂、キリスト教では洗礼というものが存在していて、想像している以上にそれはけっこう重要な意味をもっているのだと感じます。そういえば浄土真宗の本尊である阿弥陀仏信仰も、自力で悟り自力で涅槃に到達するのは人間には不可能であるゆえに宇宙最大のパワーを体現している阿弥陀如来(阿弥陀仏)にひたすら頼って助けてもらう、ということを重視していますね。

ミラレパの晩年は、まさに大聖者を体現した最期でした。ゲシェ・ツァプア(ゲシェは学者を意味する言葉)という僧侶がミラレパが自分よりも民衆に尊敬されているのが許せなくて、その嫉妬心が嵩じて彼はミラレパを殺そうと毒入りの凝乳(こごり。ぎょうにゅう。牛乳などを菌や酸などで凝固させた物のこと。チーズのようなもの)を差し入れたそうですが、ミラレパはその魂胆を完全に見抜いた上であえてその毒入り凝乳を食べて、自分の命と引き換えに彼を救おうとして亡くなっています。ゲシェはそのミラレパのあまりに寛大なとほうもない慈悲心に心を打たれ、深く自らの罪を悔い、心を入れ替えてその後の一生をミラレパへの帰依にささげたといいます。

ミラレパはそれほどに高度で完全な菩提心を成就していたレベルだったわけで、そうした逸話からも、無上瑜伽タントラの経典が、字面だけでイメージするような邪悪なものではない証明でもあるのかな、と感じます。合気道の世界でも、開祖・植芝盛平の愛弟子であった塩田剛三の有名な言葉がありますね。いわく『合気道で最高の奥義は、自分を殺しにやってきた相手と友達になることだ』。キリストも「敵を愛せ」という言葉がありますし、原始仏教の慈悲の瞑想でも自分を害する人の幸福を祈る瞑想がありますね。敵というのは、ユング的には自己の内面にある自分の好ましくない性質が投影された人やモノなどのことですから、敵がいるという時点で自分の中に克服すべき欠点が存在していることの証左であります。ゆえに、あらゆる聖典は言葉を尽くして「敵を愛せ」、つまり、自分の中から敵を無くせといっているのでしょう。敵を許すというのは、敵を甘やかすためにするわけではなく、むしろ自分の幸福のために最も確実で有効な手段であるからにほかならないのでしょうね。

話がまた逸れましたが、ともあれ、密教教典は好奇心程度で読むものではなく、一生の時間を解脱のための修行に全部費やす覚悟を持って、戒律や灌頂などのしかるべき段取りの元に読むものなのでしょう。

※想像している以上にそれはけっこう重要な意味〜
ふと「ひぐらしのなく頃に」の「皆殺し編」で沙都子が叔父から解放されるシーンを思い出します。沙都子を叔父からの虐待から救い出すために圭一たちは村の重鎮である大ボスの園崎お魎を説得することに成功します。こうして沙都子を救う外堀の準備は全部整った状況になるという奇跡的なシチュエーションにまでたどり着きますが、ここでさらなる難関が待ち構えています。沙都子が自ら児童相談所の担当者に助けを求めないと相談所も動きようがないのですが、沙都子は叔父の虐待に堪え抜くことで蒸発した兄が戻ってくると信じているため、助けを求めるアクションを意地でも取りません。沙都子を救う最期のトリガーは沙都子自身が握っているのに、それができないというジレンマを描いているシーンですが、まさに、神的な存在からの助けというのも、そういう構造になってるんだろうなぁ、とフト思ったのでした。神は、困っている人を勝手に助けてくれる存在ではなく、ちゃんと自分の領分での自分の役割をこなすことで神の助けや祝福を受けるスイッチがONになるのでしょう。「ひぐらし」のケースでは、沙都子自身が「助けて!」の一言を言うか言わないかが救いへのトリガーになっていますが、逆にいえば、人間の領分で神が人間に求めているのは、「助けて!」の一言を伝える程度のそんなわずかな勇気と覚悟だけで、人並み以上の大層な条件を求めているわけではない、ということですね。「人事を尽くして天命を待つ」というのは、まさにそうした天の法則を適確に表現した言葉だと思います。

※ミラレパのあまりに寛大なとほうもない慈悲心〜
自分を殺そうとした者の穢れた心を救うために自分の命を投げ出すほどの境地、大聖者と呼ばれるレベルの人だけあってすさまじい覚悟と慈悲心です。ソクラテスが毒杯をあおって死んだ逸話を彷彿としますね。そういえば映画化もされたジョージ秋山の問題作『アシュラ』にも似たようなシーンがありましたね。大地も飢えているような飢餓の時代に生まれ落ちた主人公アシュラは親にも捨てられ自力で生きるしかない状況で人を殺し人肉を喰らって生き延びますが、そのかわり人の心を失っていて言葉ももたぬ獣同然の荒廃した毎日を生存本能だけで生きていました。それを憐れんだ放浪の修行僧が自分を殺して喰らおうと近づいてきたアシュラに人の道を教えるために自ら自分の腕を切り落としてアシュラに差し出すという鬼気迫るシーンがあります。すごくショックをうけたのと同時に、他者を導くために自分の腕を切り落とすという凄まじい覚悟の慈悲心の描写に心を打たれたのを思い出します。イエス・キリストも「右の頬を打たれたなら、左の頬も差し出せ」といっていますが、こうした聖者の人生をたんなるイイ話で終わらせず、同じレベルは無理にしても、道は遠くても自分の人生でも1ミリ程度でも実践していきたいものです。いきなり聖者の境地の寛大さは無理なので、とりあえず嫌なことがあっても最初のうちは「エゴの言いなりにはならないぞ!意地でも他者を憎むものか!」と心でファイティングポーズをとりながらエゴと格闘するようにしています。まぁ、運命は基本的に寛大なものですから、乗り越えられない試練は無いようにできている、と信じて、少しずつでもすべきことをしていくしかないですね。

2025/2/20追記
その師匠の聖者マルパも無上瑜伽タントラのひとつで性ヨガの実践を伴うヘーヴァジュラ・タントラ≠成就することで〜
マルパは師匠のナロパからヴァジラヤーナ(金剛乗。広く密教を指す言葉ですが、狭義には性ヨーガを含む後期密教、タントラ密教を指す言葉)のほとんどを伝授され、その天才的な資質でそのすべてを成就したといわれていますので、ヘーヴァジュラだけで解脱したわけではないかもしれないので訂正します。マルパは愛弟子ミラレパにマハームドラー、ヘーヴァジュラ、などの密教の奥義を全て伝授したということです。

メモ参考サイト



チョギャム・トゥルンパと慈悲について

解脱とは、六道輪廻から脱した涅槃の境地で、顕教の実践では何万回も生まれ変わりしながらやっとたどり着く最高の境地です。お釈迦様も何度も生まれ変わって最後の人生(つまり釈迦族の王子としての人生)においてやっと解脱したとされてますので、一度の人生で解脱することはありえないほど稀なことなのでしょう。逆に言えば、一生のうちに解脱できた聖者も、実は何度も人生を修行に費やし功徳を積み上げてきた数多の過去世が背景にあるのでしょうね。

密教は、即身成仏という言葉があるくらいで、今の人生の残り時間だけでスピーディーに解脱してしまおうという仏教のチート技です。ミラレパの自伝にも書いてありましたが、その修行もかなりの覚悟と勇気と努力と根気が必要とされるものばかりで、安楽に人生を過ごしたいという思いが強いうちはハードルが高い世界だと思いました。そもそも修行者が解脱をそこまで切に求める理由は、自分個人の安楽と平安のためではなく、「解脱しないと真の意味で生きとし生けるものをこの苦に満ちた世界から救うことは不可能だから」という強烈な利他的な願望であり、そういう理由でなければ解脱のための最終スイッチである上位存在からの祝福も得られないようにも思います。仏教が慈悲≠繰り返し説く理由は実はそういうことなのかもしれませんね。慈悲は、なにも皆が慈悲を持てば世界は平和になるんだ!という道徳論で説いているわけではなく、そもそも最高レベルの慈悲が無いことには悟りも解脱もないからなのでしょう。

チベット仏教の西洋への啓蒙に大きく貢献したチョギャム・トゥルンパ(1939-1987年)の言葉に慈悲≠実に見事に説明した言葉がありますね。何度かブログでも紹介していますが、また引用します。

本当の慈悲はエゴにとって無慈悲だ。エゴに何の考慮も払わない。慈悲は方向をもたない、いわば環境としてある寛容さだ。エゴを知ること、それが仏教の基礎だ。投影したイメージと戦う必要がないこと、その洞察が般若だ。
───『タントラへの道』チョギャム・トゥルンパ

慈悲を実践している意識があるうちはまだまだで、最終段階の慈悲は、空気のように当たり前に、それが慈悲という自覚もないままに反射的に出てくるようなもので、その境地が仏教の目標とする心の状態なのでしょう。本当の慈悲はエゴにとっては無慈悲だ、という洞察も面白い視点ですね。人間は肉体をまとっているがゆえに「個」の自覚が強く育ってしまいがちで、ゆえに「私」という意識が強過ぎて、それがあらゆる不幸の原因になってしまってます。

この世を生きていくうえで、まったくエゴがゼロの状態というのもいろいろ不都合が出そうではありますが、心配しなくてもエゴは必要以上に肥大した状態にほとんどの人間は置かれているので、自覚的に必要最小限に弱めていかないと、幸福な状態を維持するのは困難になってしまいます。ゆえに、慈悲を実践していくうえで、意識的に「エゴにとって無慈悲」になることが必要だ、ということでしょうね。けっこう好きな言葉なので、紙に書いて目につくところに貼って自戒するようにしています。まぁ、エゴをコントロールすることは、あらゆる精神修行の大きな目的のひとつなだけあって、エゴを制御するのはなかなか大変です。エゴというのはやっかいで、エゴに従ったほうが幸せであるかのような嘘でエゴの滅尽に取り組むことに抵抗してきますが、それでもあきらめず七転び八起きしながら、日常の中で起きるあらゆるエゴを刺激する出来事の中でちょっとづつ心を訓練していくしかないですね。

※お釈迦様も何度も生まれ変わって〜
仏教の経典の中には『ジャータカ』と呼ばれるお釈迦様の前世について書かれた物語があります。手塚治虫の『ブッダ』の序盤で描かれている老賢者とウサギの感動的な寓話もジャータカに書かれたお釈迦様の前世のひとつで、手塚治虫の『ブッダ』の中で私が最も好きなエピソードです。仏典のオリジナルではウサギがお釈迦様の前世として書かれています。

空腹の老僧を助けるために森の動物たちが食べ物を布施するシーンがあり、カワウソは魚を、山犬は農夫が食べ残した肉を、サルはマンゴーを老僧に与えますが、手塚治虫の『ブッダ』(手元にないのでうろ覚えですが)では、出てくるウサギ以外の動物や動物が持ってくる食べ物も原典とは違ってた記憶があります。たしかウサギだけは老僧に布施するための食べ物が何も見つけることができなかったために、意を決して薪を拾い集めそれに火をつけてそこに飛び込み、焼けた自分の肉を老僧に布施しようとする話でした。漫画では、ウサギが悲壮な覚悟で自らを供物として焼かれる場面に驚いた老僧が、焼け死んだウサギを天に掲げて深く悲しみ、その尊い自己犠牲に涙するというエモーショナルな場面が描かれていたと思います。

オリジナルのジャータカでは、漫画とはちょっとニュアンスが違っていて、ウサギは食べ物が見つからなかったから自分を布施しようとしたのではなく、自分にできる最上のものを布施するには自らを供物として差し出すしかない!という覚悟が最初からあってのことで、むしろ自らの命を布施することを最高の名誉として進んで火の中に飛び込む話になっています。老僧は実はインドラ神(帝釈天のこと)の変身した仮の姿であり、ウサギが飛び込んだ火も、ウサギの覚悟を試すために法力で起こした偽の火であったために火に焼かれることはなく、それに驚いたウサギは安堵するどころか、せっかくの布施を台無しにしたインドラ神に「あなたが何度私を試そうとも私の覚悟は揺るぎませんよ!」と叱りつける話になっています。こうしてみると、手塚治虫による改変は、思い返せば実に秀逸であることがわかりますね。オリジナルの話では、お釈迦様の前世だけあってウサギの精神レベルが高過ぎて、仏教の素養が多少なりともなければなかなか共感の難しい話になってしまってますが、漫画ではウサギを通して至高の無償の愛を見事に分りやすく表現していると思います。

ジャータカによると、僧への供物を持っていった他の動物もお釈迦様の愛弟子の前世の姿であり、サルはシャーリプトラ、カワウソはアーナンダ、山犬はモッガラーナだった、という話になっています。お釈迦様の前世のウサギの話は手塚漫画の影響で原典がずっと気になっていましたが、『原始仏典二 ブッダの前世』(講談社 昭和60年)という本を偶然古本市で見つけることができました。お釈迦様の前世譚、ジャータカの原典は全部で500編以上あるそうですが、この本では、その中から14編をピックアップして翻訳してあります。アカデミックな研究では、お釈迦様が歴史の中で神格化していく過程でインドに古来からある民話などが混じって成立していった寓話的なエピソードという解釈のようですが、真相はともあれ、お釈迦様の前世、なかなか興味深いものがありますね。

【2025/2/17 追記】
上記のお釈迦様の前世がウサギだった時の話ですが、そもそもジャータカは似たような話がけっこう重複して存在しているもののようで、まだ詳しく調べてないので断言できないですが、手塚バージョンに近い話も原典にある可能性もありそうです。とりあえずそういうエクスキューズのために追記しました。

また、件のウサギの話で言い忘れた部分があります。ウサギの勇気と類い稀な慈悲心に感服したインドラ神は、「賢きウサギよ、あなたの徳が永遠に世に知れ渡りますように」と近くの山をヒョイともぎ取ってゾウキンのように絞り、その山の絞り汁で月の表面にウサギの姿を描たそうです。月を見るたび徳の高いウサギの栄誉が人の世に永遠に讃えられるようにした、ということです。それが月にウサギの模様がある理由だ、ということですが、なかなかユニークな逸話ですよね〜
【追記おわり】


まだまだチベット仏教とミラレパについて語りたいことがありますが、意外と筆がのってしまって、思いのほか長くなってきたので、このあたりで一端区切ろうと思います。次の記事あたりで、シャンバラの話とか、ミラレパがマルパから与えられた苦行に屈しそうになったときに励みになったとされる大乗仏教の経典『八千頌般若経』について話したいと思います。では、御清覧ありがとうございました!

posted by 八竹彗月 at 16:26| Comment(0) | 精神世界

2025年01月27日

【音楽】最近聴いている曲特集(ノンジャンル)

お洒落なラウンジ系から演歌まで、今回もとくにテーマは無く、最近聴いている音楽を節操なく取り上げてながらいろいろと思いつくまま語ってみました。



クアンティックによるニーナ・シモンの名曲「フィーリング・グッド」のスタイリッシュなカバーです。ものすごくカッコイイですよね〜 ニーナ・シモン(1933-2003)は近年でも多くのミュージシャンに見直され聴き次がれている天才シンガーですが、私がニーナ・シモンを聴くようになったきかっけは人形師の四谷シモンにハマっていたときに、名前の由来が彼が当時住んでいた四谷と、自身の大ファンだったニーナ・シモンを足したものだというエピソードを知ったことでした。それで無性にどんな音楽なのか気になってベスト盤を買って聴いた覚えがあります。四谷シモンの人形から想像する耽美で神秘的な音楽をイメージしてたんですが、そういうイメージとは真逆のどっしりと大地を踏みしめて唄っているような骨太のソウルフルな歌唱に最初は面食らいながらも、聴くたびに魂の奥まで響くようなその奥深い情緒性にハマっていったのを思い出します。

カバーしているクアンティックのほうも好きなアーティストで、過去の記事でも何度か取り上げましたが、クアンティックは英国のミュージシャンであるウィリアム・ホランドのメインのプロジェクト名です。他にもザ・リンプ・ツインズ、フラワリング・インフェルノ、オンダトロピカなどの様々な名義で曲を発表しているようですね。電子楽器を使用したダンサンブルでお洒落なアレンジながらもソウルフルな味わいが心地よく香るところがクアンティックの持ち味ですね。クアンティックはソロアルバムも良いですが、ソウル・シンガーのスパンキー・ウィルソンとのコラボアルバム「 I'm Thankful」は衝撃的なかっこよさで、これでいっぺんでクアンティックのファンになったのを思い出します。

こちらはオリジナルのニーナ・シモンの「フィーリング・グッド」です。クアンティックのカバーも好きですが、オリジナルもやはりシビれますね。ニーナ・シモンは、四谷シモンが心酔したのも頷ける、その歌声だけで聴く者の涙腺を刺激する稀代の天才ソウルシンガーですね。



実験的なテイストも残しつつメロディアスでお洒落な感じが絶妙でいいですね〜 クラブ・デ・ベルーガは2002年にドイツで結成されたニュージャズ、ラウンジ音楽のグループ。以前に「It's a beautiful day」を取り上げた気がするんですが、その曲で気にかけるようになったバンドです。あらためていくつかのアルバムを聴いていると、想像以上に多芸で才覚を感じるグループだったので、最近ハマりかけています。ニュージャズと(Nu Jazz)とは1990年代以降のジャズと電子音楽を組み合わせたジャンルのようです。ニュージャズとかアーバンジャズとかアシッドジャズとか似たような音楽を指す用語が昨今多いですが、ジャンルがどんどん細分化されていくところも日本の年末の恒例番組、紅白歌合戦みたいに好きな音楽の世代間格差が広がりすぎているのと通じるような、現代文化の特徴が顕在化している部分でもあるように思えてきます。全世代に通じる娯楽が無くなっていく寂しさという面もありますが、逆に、それだけバラエティ豊富な幸福の様々な形が選べる良い時代ともいえますね。


耳に残るミステリアスなメロディーがいいですね。ジョジョ・エフェクトはボーカルのアン・シュネルを中心にスタイリッシィなニュー・ジャズ、スウィング、ラテン系の曲を発表しつづけているドイツのエレクトリック・ラウンジのプロジェクト。上記のクラブ・デ・ベルーガの中心メンバーがプロデューサーのようで、たしかに曲の感じはクラブ・デ・ベルーガ風ですね。


しびれるほどかっこいいJBのファンクですが、「セックス・マシーン」や「ホットパンツ」などのように、かっこいい曲ほど歌詞に凝らないところがまた逆に絶妙なセンスを感じます。「金ならあるぜ!でもって俺はさらに愛が欲しいんだ!」と、ものすごく軽薄な歌詞ですが、へんに飾らず単刀直入で本能にストレートなところがまたJBらしくてカッコイイですね。歌詞単独では身も蓋もないですが、音楽に乗るととたんにむちゃくちゃカッコよく聞こえてくるのがまさにマジックですね。


以前の記事にも取り上げた気がしますが、ふと思い出しては聞き返したくなる曲なので気にせずピックアップしました。Tレックスといえば、「ゲット・イット・オン」や「20センチュリー・ボーイ」や「テレグラム・サム」などなど数多くのヒット曲がありますが、私はこの曲が一番好きです。歌詞はシンプルなラブソング風のようでいて、連呼するタイトルの「メタル・グルー」(金属道師?)の謎めいたシュールな響きのサイケ感や、パラダイス感のあるメロディが気分を高揚させてくれます。曲を作ったマーク・ボランの言葉によると、このメタル・グルー≠ニいうのは造語で¥@教的な文脈ではなく、あくまで彼自身の信じるところのあらゆる神的存在≠フことを指しているということのようです。そういうマーク・ボラン的な文脈で考えてみると、古い神話時代の神は、当時の人間の文化である土器や木造建築などになぞらえて土や木属性に特有なアナログ的なおおらかさと暖かみがありつつも何をするかわからない理不尽さをもった神であるのに対して、コンピュータや鉄筋の高層ビルが支配する現代の神は金属性、デジタルで合理的でムダがないけれど冷たく孤独で融通が利かない感じの、まさしくメタルの神≠ノ見えたのかもしれませんね。そうした延長線上で考えてみると、これから迎えようとしている、精神性が見直されつつあるアクエリアスの時代の神は目に見えないものの価値こそ本物である、という意味で神的存在も風属性のイメージになるのかもしれませんね。

メモ参考サイト



1968年に発表されたユーモラスさとかっこよさの絶妙なファンキーなジャズです。ドン・セベスキー(Donald John Sebesky 1937-2023)はアメリカの音楽家。作曲家、編曲家、指揮者、ジャズ・トロンボーン奏者であり、ピアノ、電子楽器、オルガン、アコーディオン、クラリネットなど様々な楽器の器用な奏者でもあったそうです。


シルヴィーニャ(Sylvinha Araújo 1951-2008)はブラジルの女性シンガー。ムーディーでキュートでレトロなスキャットがいいですね〜 60年代あたりのボサノヴァやイタリア映画音楽などで扱われるスキャットは大好物で、聴いてるだけで不思議な異世界に迷いこんだような心地いい不思議感覚に包まれます。そのうち好きなスキャット系の音楽を紹介していくだけの記事も書いてみたいですね。


若くして逝去された天才漫画家、土田世紀先生の作品を最近読み返していたところ、なにげなくウィキを見てたら、土田先生は新沼謙治の大ファンだと書いてあったので、急に新沼謙治が気になり、新沼謙治をはじめ八代亜紀や森進一など有名なレジェンドたちの演歌を中心に聴くようになりました。中でも、今回取り上げた「おもいで岬」は、土田先生が『俺節』で主人公に唄わせた名曲で最近ヘビーローテーションしています。新沼謙治というとヒット曲「嫁に来ないか」のイメージしかなかったんですが、この曲は彼のデビュー曲のようで、演歌特有の重さ暗さの無い、初々しさと爽やかな情緒性が心地いい名曲です。生まれた故郷の思い出の岬の春夏秋冬が歌詞になっていて、わずか数分の中に何十年の思い出がつまった岬の周囲で起きる人間模様や美しい景色を鮮やかに描き出ししています。天才作詞家、阿久悠(1937-2007)が新沼の才能に惚れ込んで作ったこの見事な詩を、デビューしたてのピュアな演歌青年、新沼謙治が邪心無く歌い上げる感じはまさに土田世紀の代表作『俺節』な感じですね。

阿久悠は生前に「感動する話は長い短いではない。3分の歌も2時間の映画も感動の密度は同じである」との言葉を残したそうですが、まさに名曲の歌詞ってそういうところがありますよね。泉谷しげるの「春夏秋冬」とかもそうですね。洋楽でもヒッチコックの映画「知りすぎていた男」の作中でドリス・デイが歌い上げる「ケ・セラ・セラ」もたった2分弱である女性の半生をドラマチックに歌い上げる壮大でロマンチックな歌でしたね。少女時代の思い出からはじまり、いつしか結婚して子供ができて、かつて自分が親に言われたようなことを今度は自分が子供に言うようになる、という壮大な物語が歌詞ですが、何十年もの時間をわずか2分の中に無理なく封じ込めていて、これも音楽という芸術の生み出すマジックのひとつなのでしょうね。新沼謙治に話を戻して、そういえば異色の曲「ちぎれたペンダント」のような西城秀樹感のある情熱的なポップソングもいいですね。調べたらこの曲もヒット曲の「嫁に来ないか」も「ヘッドライト」も阿久悠の作詞のようなので、新沼謙治にとっての恩師のような存在だったのでしょうね。『阿久悠を唄う』というアルバムも出しているようなので、いずれ聴いてみたいですね。

今回「おもいで岬」を取り上げましたが、岬つながりで山本コータローの「岬めぐり」も大好きな曲で合わせてよく聴きます。また吉田拓郎が森進一に提供した名曲「襟裳岬」も傑作ですよね。演歌には独特のメロディやアレンジ、コブシなどの独特の歌唱など、日本人の情緒を刺激するところがあって、泥臭さはあるものの、そこが魅力でもあり、浸ってみると意外と気持ちいいジャンルでもありますね。



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2025年01月21日

古書を補修してみました! 「講談社の絵本」編

去年のクリスマス頃に補修した絵本の写真が出てきたので、ついでにまた補修の記事を書こうと思います。今回は古本好きなら何度も目にしたことがあるであろう講談社の絵本の補修です。『講談社の絵本』シリーズは戦前から続いており、何度か復刻版も出ているので、ご存知の方も多いと思います。

講談社の昔の社名「大日本雄弁会講談社」といういかつい名前がいいですね。この厳めしさがまた昭和初期のレトロな響きがあってグッとくるところです。なんでこんな長い社名だったのかというと、創業者の野間清治が雑誌『雄弁』を発行するために1909年に最初に設立した「大日本雄弁会」と、その2年後に『講談倶楽部』の発行のために設立した「講談社」のふたつを1925年に合体したことによるみたいです。で、その後1963年に社名を現在の講談社に改め現在に至るという流れのようです。

『講談社の絵本』シリーズは、伝記もの、図鑑もの、童謡、昔話などバラエティに富んだラインナップで、「国際こども図書館」の記載によると、1936年12月に創刊してから1944年3月まで続き、全203冊発行されたようですね。個人的な好みでは、図鑑ものと童謡のジャンルが好きで、私が集めているのはほぼそのふたつのジャンルがメインです。理由はそのふたつのジャンルが最も時代を反映していて異世界的なレトロ感を感じるからです。初期のものは、『幼女の友』のイラストなどでも知られる大好きな絵師、金子茂二先生も参加しているのも魅力です。講談社の絵本184巻目の『デンキノチカラ』は金子先生の傑作のひとつですね。国会図書館のサーチでは講談社の絵本全203冊のうち、29冊に金子先生の絵が載ってるようなので、気長に集めていきたいです。

メモ参考リンク

話がだんだん逸れてきたので、補修の話に戻ります。補修するのはこの2冊。『たのしい動物園』と『世界のふしぎ』です。動物園は見慣れない変わった動物がたくさん集結したある種の楽園っぽさが魅力で、惹かれるテーマです。『世界のふしぎ』は、ブロッケン現象や幻日などの奇妙でレアな自然現象や、世界の奇習、ピラミッドやラフレシアなど、世界珍百景的な内容で面白いです。

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見ての通り、表紙にけっこうダメージがあります。でも個人的にはこの程度のダメージだけならあまり気にしないところなんですが・・・

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また背表紙が取れてしまっています。そうです、今回も背表紙問題です。本棚に入れたときに何の本かわからないと後で見つけづらくなるため、背表紙のダメージは見過ごせないところです。ここに背表紙を作って張付けるのが今回のミッションになります。

実は、買った当初はこの背の部分に布のガムテープで補強がしてあったんですが、さすがに見栄えが悪すぎるので丁寧に剥がしました。

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『講談社の絵本』シリーズはすでに何冊か持ってるので、背表紙のデザインはそれで確認できますが、発行年代によって微妙にデザインが変わっています。文字も、初期の発行のものは「絵本」が「繪本」になってたりとか。でも、そのあたりはあまり気にせずに進めます。あくまで背表紙が背表紙の役割をしてくれればいいので、オリジナルに忠実なデザインに、というのはオマケ的な感じで、雰囲気が出てればOKというノリで進めていきます。

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背表紙には、題字とシリーズ名のほかに、このシリーズ通しての巻数のナンバリングも入っています。ネットでナンバーを調べようかと思ってたところ、絵本をパラパラめくってたら最後のページに全巻の紹介があって、そこにタイトルとナンバーも書いてありました。「国際こども図書館」の記述では全203冊ということですが、500番代以上の数字が並んでますね。まぁ、細かいことは置いておいて、補修作業にはいりましょう。

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初期のデザインを踏襲してそれっぽい感じに背表紙を作成しました。

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プリントアウトした紙を切り離して、さっそく背に貼付けようと思います。

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木工ボンドで貼付けました。

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さらにその上から補修用の透明テープをかぶせて補強して出来上がり!
出来立てなので経年の色落ちもなく背だけ見れば新品っぽい感じなので、他の同じシリーズの絵本と並べると浮きまくってますが、それはしょうがないことですね。まぁ、とりあえずこれで良しとしましょう。

というわけで、今回は『講談社の絵本』背表紙の補修でした。
ご清覧ありがとうございました!






タグ:絵本 古本 補修
posted by 八竹彗月 at 04:53| Comment(0) | 古本