2018年09月08日

【音楽】歓喜の歌など

なんとなくふと聞きたくなった曲をとりとめもなく選んでみました。



るんるんG. Love & Special Sauce「Rodeo Clowns」
るんるんG. Love & Special Sauce「City Livin」
るんるんG. Love & Special Sauce「Numbers」
ジャジーで癒し系なヒップホップがお洒落な感じで心地いいですね〜 G・ラヴ&スペシャル・ソースは米国のヒップホップバンド。



るんるんCapiozzo & Mecco「The Howl」
カピオッツォ&メッコはドラムスのカピオッツォ(Capiozzo)、オルガンのメッコ(Mecco)、ギターのダニエル(Daniele)により2001年に結成された3人組のイタリアのバンド。レトロでダンサンブルな音が魅力です。彼らのアルバム「Whisky A Go Go」は粒揃いの傑作で愛聴してます。アルバムは全曲ヴィンテージのアナログ機器で録音したとのことです。そういったこだわりもあってか、古い映画音楽を意識したレトロな味わいにもリアリティがあって素晴らしいです。



るんるんWalter Wanderley「Caravan」
るんるんWalter Wanderly「Wave」
ワルター・ワンダレイ(1931-1986年)は、ブラジルのオルガン奏者。レトロでトロピカルなオルガンが気持ちいいですね。曲はジャズの名曲「キャラバン」と、ボサノヴァの名曲「ウェーヴ」のカバー。



るんるんLudwig van Beethoven「Symphony No.5(交響曲第5番)」
クラシック音楽の名曲、カラヤン指揮の「運命」です。この曲は楽聖ベートーベンの最高傑作といわれている作品で、「交響曲第5番 ハ短調 作品67」というのが曲の正式名称です。とくに日本では「運命」の名称で親しまれていますね。ベートーベンの弟子がベートーベンに、印象深い出だしの「ジャジャジャジャーン!」のフレーズは何を意味するのか?という問いに「運命はこのように扉を叩く」と答えたとされるエピソードからこの「運命」という通称が生まれました。しかしこのエピソードですが、調べてみると、実際はこのベートーベンの受け答えは弟子による創作であった、という見方が昨今は優勢のようですね。「運命」というタイトルはベートーベン自身による命名ではなく、また曲の本質からずれているために、日本以外では現在は「運命」という名称はあまり使われなくなっているとのことです。有名なエピソードが実は創作だった(かもしれない)というのはちょっとショックですが、しかしながら、やはり創作のエピソードだとはいえ、決定的なあのフレーズを「運命が扉を叩く音」と表現したのは秀逸です。運命という人生に立ちはだかる巨大な謎を音として表現するという発想自体はすごく面白いですね。「かまいたちの夜」とか、名探偵コナンとか、推理ものの謎解きシーンや、謎が解けたときのひらめきのシーンなどに、よくそれっぽい効果音が流れて、それがよりいっそう雰囲気を高めますが、クイズ番組などでの「考え中」の音とか、ああした「思考の状態の効果音」って昔からなんとなく好きでした。そういう嗜好もあって、「運命」もそういう延長線上で気に入ってたのかもしれません。



るんるんLudwig van Beethoven「Symphony No.9(交響曲第9番)」
「歓喜の歌」は47:44以降から。
年末によくテレビとかでよく流れてくるお馴染みのクラシック音楽の「第九」ですが、これもベートーベンの、というより人類を代表する傑作とでもいうべき鬼気迫る迫力を感じるすごい曲ですね。曲中で歌われる「歓喜の歌」がとくに印象的ですね。第九といえば、近年急逝された漫画家、土田世紀の傑作『編集王』のラストで印象深く引用されていたのを思い出します。『編集王』は、漫画業界の裏側を土田作品らしく熱くダイナミックにドラマチックに描いたとても面白い作品で、人間描写のえぐるような鋭さに感嘆しました。この作品のラストで、この漫画の重要な脇役であるマンボ好塚の回想シーンの中で、手塚治虫をイメージさせる漫画界のカリスマ的な大御所が歓喜の歌について語るシーンがあって、そのくだりを読んだ時、魂がうち震えるような感動をおぼえたのを思い出します。これがきっかけで「歓喜の歌」の歌詞の意味を知ったのですが、改めて歌詞を調べてみると、ほんとに崇高で超越的なものを描き出していてすごいですね。手塚治虫というのは少なからぬ日本人にとってはいわば「漫画」そのものを擬人化したような神がかった存在ですが、なんとなく土田先生はそうした権威に反発するタイプのように思ってたので、意外であったと同時に、偉大な先人を純粋にリスペクトする姿勢に、ますます土田世紀の凄さを感じたものです。業界の裏側をリアリズム的にドラマチックに描いていた『編集王』も、後半はだんだん神がかった不思議な描写が増えていきます。おそらく作者もかなり自己の内面に深く入り込んで描いていたんだろうなぁ、と今になって思います。まさに命を削って描いてたのでしょうね。先日『俺節』も改めて読み返してましたが、ストーリーテリングだけでなく、絵そのものの説得力の凄みに久々に圧倒されました。

メモ関連サイト
第九で歌われる「歓喜の歌」の歌詞(ウィキペディア)



るんるんJ.S. Bach「Crab Canon(蟹のカノン)」
音楽の父と呼ばれたバッハも多くの人を惹き付ける曲を数多く残した天才ですが、晩年に書かれた「蟹のカノン(Crab Canon)」という曲がまたユニークです。楽曲自体も奇麗な旋律で、普通に聴いててもイイ曲だなぁという感じなのですが、曲の仕組みが風変わりで、楽譜の最後から逆向きに音符を辿って演奏してもちゃんとした曲になるように出来ていて、さらにノーマルな演奏と逆からの演奏を同時に行ってもきれいな旋律のフーガになります。さらには、まるで回文のように始まりと終わりが交錯して永遠に演奏を続けることが可能なような仕組みにもなっているという、何重にもアイデアが仕組まれた驚くべき楽曲です。バッハの音楽というと、まるで天上界の音を聴いてるような崇高な気分にさせてくれるヒーリングなイメージがありますが、こういうトリッキーな遊び心も兼ね備えているところが天才の天才たる所以を感じます。先に紹介したベートーベンとバッハには共通点があって、ふたりとも大のコーヒー好きのようです。1日に何十杯も飲んでたそうですが、コーヒーというとどこかワイルドな味とイメージのある嗜好品なので、繊細な音楽を創造した楽聖が好んで飲んでいたというのはちょっと意外な気もします。コーヒーと天才性には何か関連があるのかどうかわかりませんが、自分もコーヒー好きなので、ちょっとあやかりたい気もします。

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【回分旋律】奇才バッハの知られざる曲が凄すぎる!! 「曲に隠されたメビウスの輪」とは?
posted by 八竹釣月 at 08:42| Comment(0) | 音楽

2018年08月28日

【雑談枠】黄金郷通信 vol.2

なんとなく更新が滞ってきたので、せっかくなので雑談的に今回もとりとめなく興味の赴くままに語ります!ここのところ、月のロマンとか宇宙に関する珍奇なビジュアルなどをテーマに何か書きたいとネタを暖めているところですが、とりあえず最近気になっているテーマなどをいくつか雑多に取り上げてみました。



el_icon.pngチベットの聖者ミラレパ

チベット仏教において最も有名な聖者だといわれているのがミラレパ(1052〜1135年)だそうで、その名前だけは何かの本で出てきたためかなんとなく知っていましたが、実際どのような人物なのか調べてみると、想像以上に波瀾万丈で興味深かったです。実在した人物とは思えないほどの不思議な人生を送った聖者で、ウィキペディアをはじめ、検索するといくつかミラレパの人生をテーマにした記事がヒットしますので興味のある方は調べてみると面白いと思います。チベット仏教というと、輪廻転生によって引き継がれてきた最高指導者、ダライ・ラマとか、OSHOばりにアナーキーなチョギャム・トゥルンパなどが思い浮かびます。また「チベット死者の書」や、シャンバラ伝説など、チベット自体が神秘に満ちた不思議な地域の印象があります。チベットは現代はややこしい状況になっていますが、なんとか良い方向に改善されることを期待してやみません。

さて、ミラレパに話を戻しますが、彼はチベットの裕福な名家の生まれで何不自由の無い幼少期を過ごしたそうです。しかし、ミラレパが7歳の頃に父が病死してから運命は一転します。叔父と叔母の画策によって父の遺産を強奪され、さらにミラレパの一家は彼らの奴隷にされて悲惨な暮らしを強いられることになります。一家を奈落の底に陥れた叔父と叔母に復讐するために母はミラレパに黒魔術を学ばせます。誦咒(しょうじゅ)、厭勝(えんしょう)、霰(せん)の3つの魔術をマスターしたミラレパは、叔父と叔母だけでなく、彼らに加担して自分たちを虐待した村人35人をも呪殺してしまいます。それでも気が納まらなかったのか、天候を操る秘法によって村の全ての農作物を壊滅させてしまったそうです。実在の人物のエピソードというより、神話の話のようですね。この頃の日本は平安時代後期ですから、余計に不思議さを感じますね。でも、西洋の黒歴史、魔女狩りは、15〜18世紀と、意外にそう遠くない時代に起こってますので、それ以前のミラレパの生きていた11〜12世紀頃の世界は、想像以上に神話の世界に近い様相だったのかもしれませんね。

というわけで、復讐を完遂したミラレパでしたが、黒魔術とはいえ、そこまでの呪法をマスターしたほどなので、もともと魔術師的な素質があったのでしょう。そういえば、昔「復讐するは我にあり」という映画がありましたが、このハードボイルド風なタイトルは実は聖書の言葉(ローマ人への手紙)が元ネタのようで、「我」とは神を指しています。意味は「自ら復讐に手を染めてはならない。ただ神の怒りに任せなさい」ということのようです。精神世界の教えでは復讐というのは相手だけでなく自分にも悪いカルマを背負う愚かな行為です。「人を呪わば穴ふたつ」とはまさに至言で、人を呪って仮に相手が不幸になっても、同じくらいの不幸を自分も背負うことになります。自分で復讐しなくても、人を不幸にした者は同等の報いによって購わせられるという法則が、まるで物理法則のようにはたらくことは、多くの聖典で述べられていますし、実際自分の経験に照らしてみても、そういうはたらきがあるように感じます。なので、復讐したいくらい憎い相手なら、自分で手を下して自分までカルマを背負って苦しむよりも、すべて神(=天の法則)に任せてしまったほうが、結果的にはノーリスクで復讐が完遂するのだから、そっちのほうが得ですよ、ということですね。

しかしまぁ、ミラレパの蒙った理不尽さは、なかなか一般の人間が経験できるようなレベルを越えていますし、憎しみの動機も痛いほど解るので、ミラレパの復讐を単純に責める気にはなれないところもありますね。しかし見えない次元ではたらいているカルマ的な法則は自動的にはたらきます。後に聖人と呼ばれるほどになったミラレパですから、そうした天の法則にもうすうす気づいたのか、自分の犯した悪のカルマの報いを恐れるようになり、正しい仏法を探求するようになります。そうして出会ったのが生涯の師、マルパ師でした。

後に聖人となる人物の師匠ですから、マルパ師もそうとうな達人で、出会う前から夢の知らせでミラレパが特別な弟子であることを知っていました。ミラレパはゆくゆくは世界を照らすほどの救いの光明をもたらす人物となること、それには犯してしまった黒魔術による殺人や村の破壊などの悪業を浄化する必要があること、その浄化はマルパによって可能であること、などが夢で知らされたそうです。そういうこともあってか、ミラレパが弟子になると、ミラレパにひとりで石造りの塔を建てさせ、完成が近づくと自分でそれを壊すように命じたりと、理不尽な仕打ちを何度も続けました。苦労して石を運び、こつこつと積み重ね、仏塔を造りつづける毎日、しかし完成の一歩手前で、それを壊せと命じられる苦しみ。ミラレパは、完成の喜びさえ味わうことを許されない重労働を、何度も何度も強いられました。さらに、ミラレパを他の弟子の前で罵倒したり、公衆の前で殴り、蹴り付けたりと過酷な目に何度も合わせました。これもミラレパが積んでしまった悪業の浄化のために必要なミソギでした。多分、そういう真意があろうともミラレパにした理不尽な仕打ちのカルマをマルパ師は背負うことになるはずです。しかし、神から託された弟子をちゃんと解脱せるのが自分の使命であることも承知しているので、覚悟の上で心を鬼にしていたのでしょうね。

悪行の浄化のためとはいえ、あまりの厳しい虐待にマルパ師の元から逃げ出したりもしますが、結局最後までマルパ師の元で厳しい修行に耐えて最終奥義を授けられます。師の元を離れた後、ミラレパは人里離れた洞窟で苦行に励み、とうとう最終的な悟りの境地に至ったといわれています。ミラレパの伝記をけっこう端折って紹介しましたが、ほかにも興味深いエピソードが多いので、興味のある方は調べてみると面白いと思います。

メモ関連サイト
ミラレパ(ウィキペディア)



el_icon.pngカバラの動画

カバラと聞くと、どうしてもマニアックな秘教的オカルト思想をイメージしてしまいがちなのですが、「ブネイ・バルーフ カバラ教育研究所」という組織が数年前からYoutubeなどにアップしている動画をたまたま見ていたら、意外に精神世界全般に通じる普遍的な教えが根底にある思想であることを知り、がぜん興味を持ちました。たしかにカバラというとゲマトリア(数秘術)に代表されるようなオカルト要素に惹かれるところではありますが、もともとカバラの母体であるユダヤ教自体が、歴史的にキリスト教と通底するところがあるだけに、カバラもまた万人の心に響くものを根底に持った思想なのだなぁ、と感じました。ブネイ・バルーフ カバラ教育研究所は、イスラエルを拠点としたカバラの啓蒙を目的とした非営利組織だそうです。ユダヤ教とかカバラというと日本人に馴染みの薄いところがあって、それゆえに神秘な匂いがたまらないところがありますね。

TV動画
カバリストはどんな意識状態に到達したのか?(ブネイ・バルーフ カバラ教育研究所)
オプションで日本語訳の字幕を表示できます。

いろいろ興味深い動画があがっていましたが、例えば上記の動画では、人間は特有の脳のトリックによって、心の内側で生じるさまざまな現象を、あたかも「外側」で起きている事象のように錯覚しているのだ、というユニークな見解を解説していて面白いです。内側と外側という境界はただ脳の都合でそう認識しているだけで、本来違いは無い、という立場は、ヒンドゥー教や仏教ではお馴染みの思想ですが、カバラでも同じ視点にたっているところが興味深いですね。

メモ関連サイト
カバラ(ウィキペディア)

ブネイ・バルーフ カバラ教育研究所日本語版公式サイト



el_icon.pngヴィンテージでオリエンタルなファッション写真・孫郡(Sun Jun)

孫郡(Sun Jun)は、ファッション写真に伝統的な中国美術の要素を取り入れたヴィンテージ感漂うユニークな作風で注目されている写真家です。漢詩の世界のようなオリエンタルなポエジーを感じる写真がとてもユニークです。モダンなファッションと風流な東洋的レトロ感が絶妙で、とくに、何もない空間を大胆に作る禅庭を思わせる東洋的な美意識が心地いいですね。孫郡は7歳の時から中国画を学び始めたそうで、そうした素養が実に見事にファッション写真というある意味ミスマッチな分野で発揮されたというところも面白いですね。

以前、中国人ファッションデザイナー、ヴィヴィアン・タムの『China Chic』という本(ファッションの写真集というよりは、彼女のイマジネーションの源流をコレクションしたような、古今の中国文化をビジュアル的に構成したイメージブックという体裁)に感銘を受けて、現代の中国人クリエイターに関心を持ちはじめていたのですが、そうした中で孫郡の作品を見つけ、さらに関心が深まりました。

メモ関連サイト
孫郡(Sun Jun)の作品(中国語のブログ「The FEMIN」様より)

孫郡(Sun Jun)の作品(google画像検索結果)



el_icon.png偶然という名の必然・シンクロニシティについて

アメリカといえば、フリーメーソンが建国にかかわっていた、とか、ドル紙幣にまつわる都市伝説とか、UFOや超能力の研究を国家機関が行っていたとか、歴史の浅い新しい国という割には、いろいろと不思議ネタに事欠かない底知れない魅力に満ちた国でもあります。そうしたネタのひとつにアメリカ大統領、リンカーンとケネディの不思議な共通点の話があり、子供の頃に読んだオカルト系の本に載っていたせいで、とても印象深く記憶にあります。アメリカ本国では案の定オカルト系の本でよく取り上げられていた題材のようで、検索してみると、かなりたくさんの一致点があるみたいで、ひさびさにびっくりしました。代表的な一致点というと以下のようなものがあります。

リンカーンとケネディ

 ジョン=ケネディ大統領とリンカーン大統領は、共通点がある。
(1) リンカーンが大統領に選ばれたのは1860年、ケネディが選ばれたのは百年後の1960年。
(2) ふたりの大統領のあとをついだのはどちらもジョンソンという名前の人。生まれた年は、これまたちょうど百年違い。
(3) 暗殺者の生まれた年も百年違い。リンカーンの暗殺者は1839年、ケネディの暗殺者は1939年生まれ。
(4) リンカーンの秘書の名はケネディ、ケネディの秘書の名はリンカーンといった。
 これらの事実は、偶然だろうか・・・・。

「超科学ミステリー」斎藤守弘著 学研 昭和49年(1974年)刊 p137より


メモ関連サイト
リンカーン大統領とケネディ大統領の共通点(ウィキペディア)
けっこうありますね。私は上記の4つ程度しか知らなかったので、思ってた以上に共通項が多くてびっくりしました。

歴史に名を残すような人物は、それだけ世界に影響を与えている人物でもありますから、シンクロニシティめいた現象が起こりやすいといえます。シンクロニシティとは、ある種、見えない次元を支配している法則のひとつで、この世がたんなる物質同士の反応だけで存在している世界ではない事を人間に知らせてくれます。アメリカ大統領のような影響力の大きい人物であれば、なおさら霊的次元での影響も大きいはずで、だからこそシンクロニシティという形で解りやすくこの世に投影されやすいのだろうと察します。

日本でいえば、天皇陛下や総理大臣なども影響力が大きいですから、探せばいろいろとシンクロニシティ的なものが見つかりそうですね。そういえば、皇室にまつわる不思議なシンクロニシティの話が一時期話題になった時がありましたね。雅子様と紀子様は共に皇室に嫁いだことで日本中で話題になりましたが、このおふたりには偶然にしては出来すぎたあるシンクロニシティがありました。それは、おふたりの名前に関するもので、ご存知の方も多いと思いますが、ご結婚前のフルネーム、小和田雅子(おわだまさこ)、川嶋紀子(かわしまきこ)を一字づつとばして交互に読むと、お互いの名前に一致するというものです。

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天皇の家系は神話の時代まで遡ることができますし、三種の神器というモロに神話のアイテムを引き継ぐことで継承していくわけですから、この目に見える世界だけでなく、霊的な影響力も相当なように感じます。そうした霊的なパワーを継承していく選ばれた家系に入っていく人も、民間人とはいえ、高い次元では、前もって決まっていた方々だったのかもしれませんね。

シンクロニシティの興味深い事例として印象的なのは、1950年代にアメリカのある教会で起きた奇妙な事件です。昔、南山宏さんのコラムかなにかで読んだ記憶があるのですが、以前「トリビアの泉」というテレビ番組で紹介されたこともあるみたいなので、ご存知の方も多いと思います。この事件は当時の有名なニュース雑誌『LIFE』にも載ったそうで、信憑性も高そうです。その事件とは、「1950年3月1日、ウエスト・サイド・バプティスト教会において午後7時25分、ガス漏れによる事故で教会が爆発し全壊した」というものです。爆発した時間帯には、ちょうど聖歌隊のメンバー15人が全員集まって練習する予定であったにかかわらず、奇跡的に全員が£x刻したために難を逃れたのでした。しかも、遅刻の理由は15人それぞれに別々の理由(宿題が終わらないので遅れた、とかラジオ番組に夢中になって忘れていた、とか)というのも実に神がかった奇跡です。

メモ関連サイト
「トリビアの泉」で紹介された教会ガス爆発事件で起きた奇跡の内容(「日本発ニュース」様)

偶然で片付けてしまうのは簡単ですが、この宇宙は多くの科学者が考えているように、厳密になんらかの法則に支配されているはずで、そういう意味では「偶然」は存在しないともいえます。人間世界で起こる社会現象も、目線を変えれば宇宙で起きている物理現象のひとつでもありますから、一見人間的で物理法則とは無関係に思われている怒りや友情や恋愛などの感情や、人間関係で起こる様々な出来事なども、すべてその背後にはまだ解明されていない次元での見えない法則が影響しているように思います。奇跡を偶然と片付けるのもひとつの見方ではありますが、「起こりうる最も理想的な成り行き」を奇跡と呼ぶわけで、聖典などでいわれているのは、主にそういう「偶然」をいかに「偶然」として片付けずに、むしろ積極的に人生に活用していくべきかを語っており、そういうところが精神世界に惹かれるところでもありますね。

シンクロニシティについて考察していくと、「偶然とか何か?」という問題が気になってきますし、数学で扱う偶然「確率論」にも興味がわいてきます。数学で扱う「偶然」も、「モンティホール問題」などを筆頭にけっこう面白いものが多く、いずれ項を改めて記事にしたいと思います。
posted by 八竹釣月 at 23:58| Comment(0) | 雑記

2018年07月31日

1なる存在について(「辛いに一本足すと幸せになる」の話の続き)

先日の記事「言霊遊戯、あるいは幸、叶、鏡の話」の続きです。

先日考察した「辛いに一本足すと幸せになる」の話ですが、では幸せになるために辛いに足す一本は、具体的に何を指すのか?というところがなんとなく気になって考えてました。まぁ、「家族」とか「友達」とか「趣味」など、人それぞれ十人十色なんだろうし、万人に共通したものではないのかも、とぼんやり思ってましたが、ふと、あれ?この一本は実は万人に共通する一本なんじゃないか?と思いつきました。「一」とは「1」ですが、「1(いち)」にそっくりな英語の「I(アイ)」───この自分という存在は世界にただ一人ですから、I(アイ)と1(いち)が似た形の文字であることには、意味深なものを感じます。話を戻しますと、つまり辛いに足す一本とは、自分自身のことで、意味する所は「本当の自分自身=I(アイ)≠見つけること」なのではないか、ということです。「見つける」という言い回しですと、モラトリアム的な「自分探し」めいたニュアンスが出てきそうなので「本当の自分に成る≠アと」と言い換えたほうが正確かもしれません。

本当の自分に成る、というのは、なにも悟りとか解脱などの究極のものだけではなく、夢中になれる趣味を見つけたりとか、天職を見つける、など、人生を無上の至福で彩るような生き方を見つけること、そういう理想の状態、そういう人生を生きる自分こそ「本当の自分」であるはずです。なぜそれが本当といえるのかというと、人間は宇宙の進化の結果生まれてきた生命ですから、宇宙をつらぬく絶対的な法則、正しい成り行きに則った行為や体験には、それが正しく、本物であることを示すシグナルとして、至福感をもたらすように出来ている(と私は思っています)からです。つまり、もっとも幸せを感じるような時とは、もっとも自分らしく生きている時のことであろうと思います。

宇宙は、自分が生み出した生命(人間)を、わざわざ苦しませる理由はない気がします。なぜなら、人間もまた宇宙の一部ですから、人間の苦しみは宇宙にとっても苦しみのはずだからです。むしろ、宇宙からすれば、幸福に自由に、人生を喜びで満たすような生き方を人間にしてほしいと思っているような気がします。宇宙に考える心や感情があるというのは何も突飛なことではなく、人間に心があるということは、宇宙には心を生み出す素材が揃っていたからですし、その素材で心≠組み立てるシステムと段取りさえもあらかじめあったということです。親にある物が子に遺伝するわけですから、宇宙に心があるからこそ、人間にも心があるのではないでしょうか。冷静に考えてみれば、むしろ宇宙のほうが人間よりも複雑な仕組みと構造をもっているのですから、人間よりも高機能で精妙な心をもっていると考えた方が論理的なようにも思います。おそらく数多(あまた)の宗教は、お伽噺のような空想から生まれたのではなく、むしろかような考えと遠からぬ思想が根底にあって、宇宙を統べる超越的な存在、つまり神の存在に気づいたのではないか、とふと思いました。

とにかく、人生は無限の可能性が秘められているのですから、本来なんでも望んでいいし、どんな夢を追いかけてもいいわけです。自分に最大限の自由を与える生き方こそ誰しもが求める生き方ですが、自分の自由と他者や社会との折り合いが上手い具合につくような状況をつくるには、エゴの自分を捨てて、意識の奥にある魂で感じる本当の自分になるしかありません。多くの聖典や賢者のいうように、本当の自分(I=アイ)を覚醒させるには、自他を越えて愛(I=アイ=愛)を実践していくことが大事なのだと思います。I(アイ)は「自分」であり、また「愛」であり、そして唯一無二の「1(イチ)」です。カバラ(ユダヤ教神秘主義)では数の隠された意味や性質を探る「数秘術(ゲマトリア)」という秘術がありますが、それによれば1は唯一の神を表す神聖な数字でもあります。魔術師、アグリッパが1の神聖性について書いた興味深い一文を以下に紹介します。

それゆえ、1は高みなる神を示し、神は1であり、限りないものと思え、しかも自身で限りないものを作り、それらは彼自身の中に含まれている。それゆえ一つの神がいて、一つの神の一つの世界、一つの世界の一つの太陽、また世界における一羽の不死鳥、蜜蜂の中の一匹の王、畜牛の群れの中の一頭の指導者、獣の群れの中の一頭の支配者、一羽に従う鶴、そして多くの他の動物も単一性をあがめる。
───アグリッパ(16世紀の魔術師)


『数秘術 数の神秘と魅惑』ジョン・キング著 好田順治訳 青土社 1998年 p87より


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魔術師アグリッパ ( Henry Cornelius Agrippa Von Nettesheim 1486-1535)
16世紀ルネサンス期ドイツの魔術師、人文主義者、神学者、法律家、軍人、医師。以前の記事「エンデと神秘主義」でも触れましたが、アグリッパというと、太陽系惑星を魔方陣に対比させた惑星魔方陣が思い浮かびますね。


また、インド哲学の真髄であるヴェーダーンタ哲学の不二一元論では、究極には、内なる本来の自己(真我=アートマン)は、宇宙の根本原理(神=ブラフマン)と同一である、と説いていて、不二一元論とは、一言でいうと、すべては究極にはひとつであるという教えです。宇宙論の有名な仮説「ビッグバン」では、宇宙のはじまりは、微小・高温・高密度の「時空特異点」が爆発して出来た、とされていて、この爆発により時間と空間が生じたということですが、「すべての元は、ひとつ≠フ何かだった」という意味では、なにやら通底する真理を感じます。ヴェーダ聖典(=紀元前1000年〜500年に編纂されたインドの宗教文書の総称)の重要な聖典のひとつにウパニシャッドがありますが、これにも「この宇宙は有のみであった。唯一にして、第二のものはなかった」「太初において、アートマンはこの宇宙であり、唯一であった」「この一切万有は実にブラフマンである」との記述がありますが、紀元前の太古の時代にすでに宇宙の本質を直感的に見抜いていたかのような知見に驚きます。

明智(みょうち=分別のある賢明な知恵)とは、(アートマンとブラフマンとは)同一であるという理解であり、無明(むみょう=迷いによる無知の状態)とは、(アートマンとブラフマンとは)異なっているという理解である、と天啓聖典は宣言している。それゆえに、聖典においては、明智があらゆる努力を尽くして教示されている。

『ウパデーシャ・サーハスリー』シャンカラ著 前田専学訳 岩波文庫 p21より 


ともあれ、インド哲学によれば、人間と宇宙は真理に目覚めた目でみると究極には同一の存在であるということですが、言葉を換えれば宇宙と同等の潜在力を人間は持っているということでもあります。宇宙というのは最大にして究極の謎ですし、真偽を即座に確かめることは困難です。しかしまぁ、悪い事には懐疑的でいいと思いますが、良い事には過剰に懐疑的であるのは損なので、とりあえずは聖典の示す世界観を信じて、宇宙規模の可能性の大風呂敷を拡げたマインドで自由にこの世を渡ってゆきたいものだと思う昨今です。
posted by 八竹釣月 at 06:01| Comment(0) | 精神世界

2018年07月23日

言霊遊戯、あるいは幸、叶、鏡の話

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辛いに一本足すと幸せになる

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でも、あまり足しすぎると魚の骨みたいになる。

「辛いに一本足すと幸せになる」という言葉がありますね。元ネタがどこなのか気になりますが、それは置いておいて、辛いのはほんのわずかな何か一つが足りないからで、その一つを足せば簡単に幸せはやってくるんだよ、という感じの含蓄なのだろうと思います。このような漢字の造形がそのまま人生訓になっているようなものはけっこうたくさんあって、「人という字は人と人が支えあっている姿である」などは定番ぽいですが、「吐く(はく)」と「叶う(かなう)」もなかなか意味深で面白いですね。「吐」という字は、口・+・ーと分解できることから、口から出るプラスの言葉(感謝、喜び、慈悲など)とマイナスの言葉(愚痴、不平、不満など)を意味すると見ると、そこからマイナスの言葉だけ言わないようにして、プラスの言葉だけ言うように心掛けていけば望みや願いが「叶」いますよ、ということです。気づいた人に思わず座布団あげたくなりました。まぁ、漢字の成り立ちからいえば、プラスやマイナスの記号が元になっているはずはないのですが、そうした時系列を超越した意味を表現できるくらいに「文字」というものにはパワーが宿っているようにも思いますし、こうした偶然の一致めいた部分も言霊的なものを感じます。

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話を戻して「辛いに一本足すと幸せになる」ですが、上記のように、今が辛くてもほんの少しのきっかけが一つあれば変われるんだよ!というポジティブなメッセージを表しているのはたしかだと思いますが、逆に、「幸せも、ほんのちょっとした何か一つによって支えられている危ういものなのですよ」という意味も読み取れます。どんなに仲のいい友達同士でも、何の気なしに口に出したほんのささいな言葉で相手をひどく傷つけてしまうことがあります、永い友情がそこであっけなく壊れてしまったりとか、多かれ少なかれ誰でも心当たりがある経験だと思います。幸せは、失ってから気づくことがしばしばありますが、できれば失う前に気づいておきたいものです。

多くの場合、幸せは、いつも「当たり前」だと思っているような所に潜んでいて、その「当たり前」に対する感謝の心を失っていくに従って運勢は下降するように感じます。ネット通販で家にいながらにして買い物ができるのは夏の暑い中(冬の寒い中)運んでくれる運送業の方がいるからですし、いつでもスーパーで食べ物を買えるのはそういう豊かな国を築いてくれたご先祖様たちがいるからです。水道の蛇口をひねるだけで清潔な水が出てくることも、決して当たり前ではなく、世界的に見ても希有な状況です。江戸時代だったら殿様レベルじゃないとなかなか口にできなかったアイスクリームも、今では普通に庶民が誰でも食べれるような時代になってますし、世界中の美味しい果物が近所のスーパーで安価に買えることも考えてみればすごいことです。扇風機すらなかった昔の時代からすればエアコンも魔法の道具です。他にもスマホや飛行機や新幹線やテレビやパソコンやゲームや漫画など、夢のような機械と娯楽に満ちたこの世界、昔の人から見たら現代はびっくるするほどパラダイスなのではないかと感じます。

本当は、感謝してもしきれないくらいの状況がいつでも整っているのが今なのですが、人間の性(サガ)というべきか、どんな快適さにも慣れてしまって、すぐにそれを「当たり前」と思ってしまいます。それどころか、人間は、足りないもの、欠落しているもの、不満なものを見つけるのが得意中の得意です。人間はデフォルトの状態だけで生きていると、不幸になるプロフェッショナルにはすぐなれますが、幸福になることにはアマチュアのままです。

嫌な物事に執着する習慣が続きすぎると、重度にこじれてしまって、ネガティブ性の中に安息してしまう環境ができていきます。怒ったり批判したりするために嫌いな人や嫌な行為を見つけようとしたりしはじめて、あえて自ら進んで毎日をイライラしながら過ごす事になります。冷静に考えれば、楽しいことや面白いことを捨ててまで嫌いな事に注目するなど馬鹿げているようにも思えますが、私の過去の経験からも、そういう状態になると負の感情に浸っていることがある種の快楽になっていくので、自分では気づきにくくなってしまっています。そういう状態であることに気づいたら一刻も早く意識的に抜け出そうという方向に気持ちを切り替えることが必要ですね。

こうした負の感情にあえて浸ろうとする心のはたらきをエックハルト・トールは「ペイン・ボディ」と名付けました。また20世紀ロシアの高名なオカルティスト、グルジェフは似たようなそういう心のはたらきを「緩衝器」と呼んでましたね。さらに数年前にブームになったハワイのスピリチュアルメソッド「ホ・オポノポノ」の中心人物であるヒューレン博士は同様のはたらきを「記憶(いわゆる通常の意味の記憶のことではなく、潜在意識に堆積した不純物を指す言葉)」と呼んで、件の4つの言葉「ありがとう、ごめんなさい、許してください、愛しています」で記憶≠クリーニングする手法を提唱しました。「ペイン・ボディ」「緩衝器」「記憶」はそれぞれ微妙に定義は異なりますが、おおまかには精神の解放にブレーキをかけている心のはたらきを指していることは共通していると思います。これらの心の機能は仏教ではさらに詳細に分析されていますね。肉体だけでなく、心のはたらきも、大部分は無自覚的に自動ではたらいているので、なかなかそうした自分の制御を離れた心の挙動は自覚しづらいですし、そもそもこの自動機能さえ「自己」と同一視しがちなので厄介です。しかしいったん自覚できてしまえばそうした「ペイン・ボディ」的なはたらきに対して意識的に「かかわらない」ようにすることも可能になります。「ペイン・ボディ」と「私の本質(魂、意識、心の根源)」は別物である、という視点に立って、「ペイン・ボディ」の誘惑(ペイン・ボディは、自己否定、諦観、不可能性などのネガティブな感情がエサになっているので、いつもそういうマイナスの感情を引き出そうとしてきます)を何度かスルーしていると、そのうちコツがつかめてきます。

閑話休題。「当たり前」と思っているものほど実は「有り難い」という話題に戻しますが、この私のこの身体も、よく考えてみれば、「人間なのだから人間の身体を私が持っているのは当たり前」だと思っていますね。でも、心臓ひとつ意識的に動かしているわけではなく、爪や髪が伸びるのも、怪我の傷を塞いでくれるのも自分の意志でやってるわけではありません。自分の身体さえ、99%以上は自動運転されていて、「自分」がコントロールしているのは脳のほんの一部を使って身体の一部、手足を操ったり、目や耳で外部の刺激に反応してみたり、あとは悩んだり喜んだりする「思考」を弄んでいるだけです。ヨガのマスターでもない限り、多くの人々は身体のわずかな部分しかコントロールできてないのですから、身体もまたこの世に生れ出るために用意された神様からの授かり物なのではないか?と思えてきます。よくスピリチュアルな思想の多くでは「自分を愛せ」といいますが、これはなにも自己中心的になれということではなく、自分と思い込んでいるものの9割以上は実際は自分の所有物ではなく超越的な存在からの授かり物なのだから大事に扱いなさい、という意味もあるように思います。

そういえば、この前何かの機会で知った「おお!」と思った言葉があります。ご存知の方も多いと思いますがそれについて少し語ってみようと思います。うろ覚えですが「かがみ(鏡)≠見ればが(我)≠ェ映る。我を無くして鏡を見ればかみ(神)≠ェ映る」という感じの言葉です。「かがみ(鏡)」という3音節の名詞の真ん中には「が(我)」があります。また、その「が(我)」を取り払ってみると「かみ(神)」が残ります。なかなか上手くできてるなぁと感心しました。

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身だしなみを確認するために日常覗いてる鏡には「我」である肉体の自分の顔がただ映っているだけですが、我を取り払った魂の境地で自分の顔を見れば、そこに映るのは自分であって自分ではないもの、自分だとばかり思っていた神からの有り難い授かり物である宝物のような身体が映っていることに気づくのでしょう。そういえば鏡をご神体にしている神社は多いですし、そもそも古事記に描かれる三種の神器のひとつは鏡です。合わせ鏡にすると一挙に万華鏡のような無限の空間が生まれるのも不思議な性質です。鏡の中の世界は、この現実世界とまったく同じに見えるのに、鏡の中には実際には何もない、という所も、般若心経の色即是空、空即是色を物質化したかのような含蓄を感じます。もしかすると鏡というのは、目に見えない次元ではスゴイ役割をしてる霊的物体なのかもしれませんね。

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「鏡の国のアリス」 ジョン・テニエル画 1871年

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合わせ鏡の中の迷宮
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2018年07月21日

【雑談枠】黄金郷通信 vol.1

ひとつのテーマで記事にするほどまとめきれていないものが次から次に湧いてくるのですが、そのまま寝かせてそのうち忘却してしまう、というパターンに陥る事が多いです。誰の言葉だったか、「怠け者ほど完璧主義者である」というような事を聞いた事がありますが、たしかにちゃんとしたものを書こうと張り切りすぎると「間違いの無いように、しっかりした構成で・・・」と自分への注文が多くなっていって、そのうち書くのが面倒くさくなり、そのうち忘れてしまうか、あるいはどうでもよくなってしまいます。

何ごともほどほどに気楽さが必要なのでしょう。ある程度アバウトに対処していったほうが長続きするし、気を張って取り組んだときよりも、意外に良いものになったりします。このブログも、書きたい事自体は山ほどあるのですが、どこから手を付けていいかわからなくなり、結局何も書かないで過ごしてしまう、という悪循環にしばしば陥ったりするので、そういうのを払拭するためにも、今回から、月一くらいを目標に、まとめきれなかったテーマを中心に、忘備録を兼ねてその月にたまってきた小ネタを雑多にご紹介しながら自由におしゃべりしていく雑談風の不定期記事を「黄金郷通信」と題して開始しようと思い立ちました。長く語りたいテーマがあるときは、いつもの感じでその都度ワンテーマの記事をあげていこうと考えています。

では、まずはじめはこんなネタから。





el_icon.png三浦梅園・神秘の宇宙マンダラ

マンダラ的な幾何学的で神秘な感じの図形に惹かれるところがあって、密教のマンダラのほかにも、錬金術の文献に出てくる宇宙創成図とか、儀式魔術で使われる魔法円とか、風水に用いられる方位図など、神秘感のある円形の模式図のようなものにぞくぞくしたりします。先日の古本市で、いつものように本棚を物色していて、それまで聞いた事の無かった江戸後期の哲学者、三浦梅園(みうらばいえん)の本を手に取ったのは、そうした嗜好が引き寄せたものなのか、その本を開くと、これまた不思議で神秘なオーラをびんびん感じるマンダラ的な図形がいくつも載っていて、それがきっかけで著者三浦梅園なる人物に俄然興味が湧くことになったのでした。少し前にも平田篤胤の古事記の神々の世界を神秘な模式図で表現したものや、山片蟠桃(やまがたばんとう)の奇妙な宇宙図などを知ったばかりだったので、日本の古典にもいろいろと面白い精神の探求者がいるものだなぁ、と感じました。つくづく感じるのは、この世の中とは、いつも何かに好奇心とか興味を持っていれば、世界は面白そうなモノをいつも小出しで与えてくれるような感じがしますね。一度に全部この世の真理を欲しがるとファウスト博士のように悪魔の罠に引っかかってしまうと思いますし、こうして小出しにされるほうがひとつひとつをじっくり楽しめるのでちょうどいいのかもしれません。

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三浦梅園「神物剖析図一合」

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三浦梅園「天地象質成之図」

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三浦梅園「経緯剖対図」

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三浦梅園「気物相吐粲立図」

三浦梅園(1723-1789)は大分県出身の江戸時代の思想家。中央から離れ地元でもくもくと深遠な思索を深めていきましたが、それでもその人望や卓越した知性は評判だったみたいで、幾人もの藩主から招聘の声がかかるほどでしたが、それらを全て断り自分の道をひたすら歩み続けました。梅園のユニークなその独自の哲学は「条理学」と名付けられ、マンダラめいた不思議な図は、中国の陰陽思想をベースに神や宇宙万物の相関関係を表しています。そのあまりに独特な哲学は、個性的すぎるゆえに他者が理解するには難解きわまるものであったようで、梅園の名が世に知られ認められるのは死後百年以上後の時代でした。明治の終わり頃に熱心な梅園研究者が現れたおかげで梅園の哲学に日が当たり、徐々に認められるようになったようです。

メモ関連サイト
三浦梅園(ウィキペディア)

三浦梅園の謎を解く
梅園哲学の代表作「玄語」の全8巻完全公開を含む貴重な資料が充実した梅園研究サイト。すごい!




el_icon.pngバシャール・宇宙人とスピリチュアル

別世界とのコンタクトの手段というと、死者の霊を呼び出す口寄せやこっくりさんなどの降霊術や、天使や悪魔を召還する西洋魔術などがありますが、80年代あたりに新たな異世界との交流テクニックとして「チャネリング」というものがブームになりました。チャネリングで呼び出す異世界の住人は天使とか宇宙人が多い印象がありますが、当時はうさん臭く思っていたものでした。今もチャネリングなるものを信じているのか?というと微妙で、やはり天使や宇宙人という存在があまりに非日常すぎて、なかなか実感として伝わってこないというのが正直なところです。ですが安易に否定するにはもったいない面白いものなので、チャネリングした宇宙人が実在するのかどうかよりも、「宇宙人が語った」という部分は「チャネリング現象の基本設定」として留保しつつ、語った内容自体を楽しんだりしています。

チャネリングといえばバシャールが有名ですね。バシャールは、ダリル・アンカ氏がコンタクトしている宇宙人の名前で、オリオン座の方向にある地球よりも300年進んだ文明を持つ惑星「エササニ」に住んでいるそうです。こうした「設定」的な部分に注視すると、SF的で信じがたい面もありますが、バシャールが語ったとされる言葉自体はとても示唆にとんだ発言が多く、宇宙人うんぬんは置いておいて、毛色の変わったスピリチュアルリーダーの言葉として人生の参考にするのがよいのかな、と思います。バシャールの言葉のユニークな点は、どんな質問にもポジティブな返しをすることです。究極のプラス思考の見本のような、そのポジティブ発想の抽き出しの多さに最初はあっけにとられ、そしていつのまにか気持ちが軽く楽になっていくのを感じます。バシャールのチャネリングの様子はネットに動画がいくつもあがっていますが、本で読んだイメージ通りのハイテンションさで、パフォーマンスとして地味になりがちなチャネリング界においてバシャールが長年頂点に君臨しているのは、そうした派手さも理由のひとつにあるのかもしれませんね。

バシャール哲学は、一言で言うと「ワクワクしなさい」というメッセージです。動画などを見てると、バシャールはよくexcitementという単語を頻繁に使っていますが、これが「ワクワク」と訳され、バシャールといいえばワクワク、みたいな感じになったようですね。科学者のミチオ・カク氏も言っていたように、宇宙人が人類よりもはるかに永い期間文明を維持できた生命体であるなら、怒り、悩み、苦しみ、不安などの精神的な問題をすでに解決している可能性があるので、宇宙人がバシャールのようなテンションの高い超ポジティブなキャラであることには、なんとなく説得力を感じたりもします。

皆さんの「自分は誰か」という存在の表現、波動が「ワクワク」です。(略)それが皆さんを導いてゆく信号になります。ですから、自分の歩むべき道を歩むことは、本当は簡単なのです。(略)皆さんの文明では、何千年もの間、本来の自然な自分に抵抗したり、否定したりしてきました。ワクワクするものは抑圧しなければいけない、と学んできたのです。なぜなら、皆さんは「人生というのは辛いものなのだ」と年上の人から教えられてきたからです。(略)「ワクワク」というのは、自分が本当にやりたいことをやっている、やりたいことを知っている、もしくは、非常に内なる穏やかさ、心の平和がある、ということです。(略)自分がワクワクすることを始めるとき、二つのことが起こります。第一に、非常に素晴らしい偶然が次々に起こります。常に魔法のように、あるべき所に、あるべき時に、あるべきことが起こります。そして第二に、自分のやることが、努力なしに進むようになります。「自分自身が誰か」を示すことを自然にやっているからです。
p96-97

まず最初に、「すべての状況は中立である」ということです。どんな状況も、最初から否定的だったり、肯定的だったり、意味を持ったりはしていません。(略)起きているのは「中立」なことなのに、それに意識的に、潜在意識的に、無意識的に意味を与えます。中立な状況に肯定的な意味を与えれば、そこからは肯定的な結果しか引き出すことができません。中立な状況に否定的な意味を与えれば、そこからは否定的な結果しか得ることができません。いつも言っているように、これは哲学ではないのです。単なる物理学、力学なのです。(略)「現実」は、それ自体が意識や意志をもっているわけではありません。あなたがそれに選択を与えなければ、現実が勝手に変わっていくことはないのです。(略)「私がなにも知らないうちに、こういうことが起きてしまった」ということは、本当はありえません。人生は「降り掛かってくる」ものではないのです。人生は、必ず、あなたを通して出てきます。
p154-155

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『BASHAR 2 宇宙存在バシャールが語る進化への道』バシャール(宇宙存在)、ダリル・アンカ(チャネラー)著 VOICE発行 1989年


宇宙人が地球人にスピリチュアルなメッセージを送るという話は、UFO搭乗記で有名なジョージ・アダムスキーのあたりから定着した定番の設定ですね。アダムスキーも宇宙人から聞いた話という設定でけっこうイイ話を書いてるんですが、いわゆる「アダムスキー型UFO」を写した写真が模型を写したトリック写真の疑いが濃厚であることから、UFO搭乗記の内容も宇宙人のスピリチュアルなイイ話もひっくるめて全否定されてしまってる感じです。ちょっと可哀想でもありますが、まぁ、最終的には語り手の信用が受け手の印象を大きく左右しますから、よほど興味を惹く問題でない限り「これは嘘だけど、こっちは本当ですよ」という細かい区別はしないのが人間ですし、仕方ない部分もあるでしょうね。アダムスキーが宇宙人から授かった哲学を著した「宇宙哲学」などの本を読みましたが、けっこうタメになる深い話もあって、とかくアダムスキーはUFO詐話師っぽいイメージが定着してしまってるだけに意外な驚きがありました。

とかくUFOや宇宙人の話は、肯定派には肯定的なデータや目撃談などがたくさん目につくのでますます肯定的になっていくというのはありますね。いわゆる確証バイアスというもので、肯定派の妄信ぶりを揶揄する時にしばしば権威主義的に使われる言葉のイメージがありますが、確証バイアスはなにも肯定派だけに当てはまるものではなく、懐疑的な人には懐疑的な側面がいくつも見えてくるのでより否定的になっていくわけですから、懐疑派にも当然確証バイアスはあるわけです。「あなたの意見は空論(または詭弁、極論)だ!」と言う代わりに「それは確証バイアスといって云々」と言えば反射的な反発をかわしつつ優位に立てるということもあって重宝されてるような印象があります。しかしながら、確証バイアスはそもそも人間の認知システムの根幹にあるはたらきなので、確証バイアスに無関係な人間など存在しないともいえます。何が真実か?を突き詰めていくと、結局「わからない」のでありますから、引いて見れば、議論というのは多くの場合、異なる思い込み同士の水掛け論みたいなものなのでしょうね。まぁ、現状のような、UFOとか宇宙人の存在が確定していない世界だからこそ、謎めいていて楽しいのかもしれません。

そういえば宗教家の五井昌久(1916-1980)も宇宙人とコンタクトしていた話を著作や講演でよくしていますね。五井昌久氏は街中でたまに見かける「世界人類が平和でありますように」の看板でも知られる白光真宏会(びゃっこうしんこうかい)という教団の開祖です。宗教団体には興味はないのですが、宇宙人とか守護霊などの話をよくするのでお話は面白いです。ですが、それが逆に宗教家としてはうさん臭く思われてしまう部分でもあると思います。調べてみて驚いたのは、合気道の開祖、植芝盛平(うえしばもりへい 1883-1969)との親交があった事で、互いに深い信頼を寄せていたようです。そういう話を知ると、意外にすごい人なのかもしれない、と思い直しています。植芝盛平も、武道だけでなく、宇宙と合一するという悟りのような神秘体験をしている人で、銃弾を避けたとか、部屋にいながら外から来る訪問者の気配や服装がわかったりとか、不思議な逸話がたくさんありますが、そういう心身合一した達人が本物と認めている人物なら、少なくともタダ者ではなさそうなので、最近ちょっと気になっています。




el_icon.pngボリス・インドリコフの不思議な絵

いつものようにピンタレストで画像蒐集をしていたら、とても琴線を触れてくる絵が目についたので調べてみました。それはボリス・インドリコフという画家の絵でした。シュルレアリスムとアールヌーヴォーが融合したような独特の世界観をエルンスト・フックス風の幻想神話な感じの画風で描きあげた感じで、優雅かつ奇妙、華麗でグロテスク、天国のような地獄のような、言葉で言い表すと捉えどころがないのですが、その作品を一目見れば、明瞭な世界観をもって作品を生み出していることがわかると思います。未来的なアンティーク感、とでもいいますか、そんな不思議なテイストがたまりませんね。

「アーティストは(この世界とは別の)平行宇宙の創造者であり、また(絵を描く事は)そこにたどり着くための儀式の一種です。絵を描く事というのは私にとって瞑想のようなものです。私たちは芸術という言語を使って神と話すのです。」

「絵画──それは平行世界への扉です。そこはすべてのものが異なる世界です。別の法則、別の線や形が存在しています。」

「これは私の世界だ。私は多分そこから来たのだ、そしていずれそこに還っていくだろう。」

────────ボリス・インドリコフ



ボリス・インドリコフ(Boris Indrikov / Борис Индриков)は1967年生まれのシュルレアリスム画家。ロシア、レニングラード生まれ。モスクワ在住。エディトリアル・デザイナー、イラストレーターの仕事を経て、2002年頃から本格的にアーティスト活動を開始、現在に至る。

メモ関連サイト
ボリス・インドリコフの作品(本人の公式サイト)

オンラインのアートギャラリーサイト、Saatchi Art(サッチーアート)内のボリス・インドリコフの紹介ページ。

ボリス・インドリコフの作品(google画像検索ページ)




el_icon.png幸福とは?「メキシコ人の漁師の話」と「花咲くいろは」

メキシコ人の漁師の話というのがネットで何度か話題になっているみたいで、読んでみるとたしかに考えさせられる話で面白かったです。青い鳥的な幸福論を土台にして、今に満足する能力≠フ有る人、無い人のふたつの視点でテンポよく会話が進み、落語のような洒落たオチで締めていて、シナリオ的にも見事なショートストーリーになっていますね。

メモ関連サイト
『億万長者』メキシコ人の漁師の話(「わーど わーるど」様)

今置かれている自分の環境、状況を肯定する大切さが教訓として読み取れますが、コンサルタント側の主張も、狂言回しのように「頭のいい愚か者」ぽく描かれているものの、こちらの視点もよく考えてみると、漁師と同様に幸福の在り方としては間違ってはいないように思いました。漁師の生き方もネガティブな側面から解釈すれば「チャレンジしない言い訳」とも取れますし、まさに、それぞれの視点で見た幸福の在り方なのだろうと思います。がむしゃらにいろいろチャレンジしながら波瀾万丈に生きる充実した幸福もアリでしょうし、自分の置かれた環境に満足し今あるものに至福を見いだす生き方もまた幸福の在り方です。アクティブな人にはコンサルタントの言うような生き方が人生を充実させそうですし、あくせくしないでのんびりと生きたい人には漁師の生き方のほうがくつろげそうです。どちらが正しいか、というよりも、どちらが自分に合っているか、という視点でこの話は受け取ったほうがいいのかもしれないですね。

この話を読んでいて、ふと先日夢中で最後まで見てしまったアニメ『花咲くいろは』に登場する押しの強いキャラ、経営コンサルタントの祟子(たかこ)さんを彷彿としました。舞台となる旅館、喜翆荘(きっすいそう)の経営不振を解決するために女将の息子であり旅館の番頭でもある縁(えにし)が、大学時代のガールフレンドで経営コンサルタントの祟子(たかこ)さんに問題の解決を依頼するのですが、旅館の風情や客層を無視したトンチンカンで大胆な改革案(和服の仲居さんたちにキャバレーのホステスみたいな露出の多い派手な衣装を着させるなど)で余計に混乱を招いてしまう、といったエピソードが中盤に描かれています。まさにメキシコ人の漁師の話に出てくるコンサルタントを思わせるノリがあり、ふと連想してしまいました。

このアニメもまた、登場する様々なキャラがそれぞれの目線で感じる「幸福のカタチ」を表現していて、大げさな事件が起こったりするような派手さはない作品ですが、人間描写が巧みで飽きずに一気に見れました。のんびりした田舎の温泉街を舞台に旅館に住み込みで働く主人公少女の精神的な成長を丁寧に描いた物語で、とても面白かったです。

メモ関連サイト
『花咲くいろは』公式サイト
posted by 八竹釣月 at 05:27| Comment(0) | 雑記