2026年05月14日

古書を補修してみました!「落語事典」編

やる気というのは気まぐれなものですね。創作でも仕事でも、やる気がある時は面倒なことも苦にならず、とことん凝るほうが楽しくなりますし、作品の完成度を高めることが快楽になりますが、やる気が無い時はどんな簡単なことでも面倒くさくて、ついつい怠惰な娯楽にかまけてしまいがちになりますね。スケジュールが詰まって忙しい時ほど、やるべき事以外の物事にやる気が充実しがちで、「この時間を創作に使えればすごいものが作れそうなのに!」と思うものですが、いざ時間に余裕ができると、とたんにやる気もしぼんでしまい、クリエイティブな事よりも、ゲームしたり、漫画を読んだり、映画鑑賞したりなどに逃げてしまいがちになりますね。まぁ、漫画を読んだり、映画を見たりすることも、人生を豊かにしてくれるものですし、無駄なことではないですが、何事もバランスですから、インプットばかりに時間を割いてしまうのも良くないですね。

やる気というのは、波のような性質があって、とくに「やる気を出さねば!」とがんばらなくても、そのうちしばらくすると無性にやる気が出る瞬間は訪れますが、そうした気まぐれな「待てばやってくる自然なやる気」をアテにしていては、なかなか物事は先に進みません。

ふと「やる気の出し方」について検索してみたら、いろいろノウハウがあるようで、参考になりました。中でも、使えるな、と思ったのは、「とりあえず小さな目標をクリアしていく」というものです。例えば、絵を描く気力を引き出したいなら、まず机に紙を置き、画材を用意する、みたいに、とりあえず描く気がなくてもたんたんと準備をしていく。という感じです。それでも気持ちが怠惰なままなら、まず失敗してもいいから適当な落書きをする、すごい作品を描こうなどと思わず、描きたいものを描きたいように描いてみる。デッサンも構図も気にせず、完全なリハビリのつもりで描く。と、やっているうちにだんだんエンジンがかかってきて、いつのまにか没頭している。というものです。これは、仕事ではよくそういう感じでやる気を引き出せることがあるので、やる気が無いけど、やる気を今出したい!というときに使える手ですね。

気合いは大事ですが、気合いが先走ってプレッシャーになることもよくありますね。このブログも、唐十郎さんやつげ義春さんなど、思い入れのあった方々の追悼記事を書こう書こうと思っていたのですが、ちゃんとしたものにしなければ!という意気込みがプレッシャーになり、逆に気持ちが萎縮してしまってなかなか書き出せずにタイミングを逃してしまいました。いくら個人の趣味のブログといえども、公開する限りは適当にやれない、という気持ちもありますが、あまりちゃんとしたものにしようと張り切りすぎると、結局は何もできなくなるので、ある程度のいい加減さは必要ですね。ブログも絵も仕事も、つきつめれば人生の遊び道具程度の気楽さで向き合うことも大切なことなのかもしれません。つげ義春さんの記事については、書きかけテキストをずっと寝かせたままなので、こちらもこのまえのつげ義春展の記憶が薄れないうちに書いておきたいと思っているところです。

ということで、まずは楽にできることから、こなしていこうということで、今回も本の補修をテーマに書く事にしました。記事の更新もできて、結果的にコレクションの本のコンディションも良くなるので、一石二鳥です。ということで、今回補修するのはこの本です。

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『落語事典』今村信雄著 青蛙房(せいあぼう)刊 昭和34年増補改訂版

昭和34年に刊行された『落語事典』です。カバー無しの状態で、今回も背の文字が読めないので、自作のカバーを作って包もうと思います。この本は、主に古典落語のネタのあらすじを五十音順に解説した落語事典です。落語の世界も奥が深く、古典だけでも、人情話や怪談話などバラエティ豊かですが、寿限無や頭山などのシュールでナンセンスな現代アート的な感触のお話もあり、興味が尽きないですね。まだライブで生の落語を見たことがないので、機会があれば寄席を見に行きたいものです。

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問題の背表紙。この画像だと、まったく読めないというわけでもないですが、光を直に当ててるのでこの程度に見えるだけで、実際に室内光だけだと、少し離れただけでほぼ読めない感じです。

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検索してもカバーの参考資料が全くヒットしませんでしたので、オリジナルのデザインでカバーを作ろうと思います。布張りの表紙に鶴の図柄が型圧しで入っていたので、これをトレースして飾りに使おうと思います。

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デザイン自体は、シンプルにまとめようと思うので、紙は色味のあるものが良いかな、ということで用紙はクラフトペーパーを使おうと思います。というか、普通の白い用紙以外はクラフト紙くらいしか持ってなかっただけですが。こういう用途も今後ありそうなので、ブックカバーに使う前提で、それっぽい他の用紙も少し買っておこうな、と思いました。

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簡素に必要事項だけ置いて、鶴の図柄をポイント的に配置しました。タイトルの行書体が雰囲気作り過ぎかな、と思って実際の出力では下の画像のように細めの楷書体に変更しました。しかし、今考えると、最初の行書体でも良かったかもですね。まぁ、背表紙の題字が読めるようにすることが目的なので、細かい事は目をつぶることにしましょう。(プリントし直すと紙もインクも無駄になってしまうので…)

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さっそくカバーで包んでみました。ちょっとシンプルすぎて面白味に欠ける感も否めませんね。どうせオリジナルの自作になるわけなので、杉浦康平風など、もっと自由に実験してみても良かったかも、というのが今回の反省点ですね。

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まぁ、とりあえず背の題字は分りやすくなったので、良しとしましょう!
これにて一件落着!

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ちなみに、中身は、落語のネタのあらすじを五十音順に字引できるように編集されているのがメインですが、付録的に落語家の系図や、このページのように落語のオチのパターンの解説などもあり、勉強になりそうです。

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寿限無のページ。長い名前の代名詞的なネタですが、結局寿限無≠ニ略せれるのだから、わざわざフルネームを言う必要はあるのか?という突っ込みは野暮というものなのでしょう。調べてみると、現在で異常に長い名前の人はニュージーランドに住むローレンス・ワトキンスさんで、2,253のミドルネームを持ち、ギネス世界記録「最も長い個人名」に認定されている、とのことです。フルネームを全て呼ぶには約20分かかるとのことで、寿限無のはるか斜め上をいく長さですね。画家のピカソも長い名前で有名でしたね。ちなみにピカソのフルネームは「パブロ、ディエーゴ、ホセ、フランシスコ・デ・パウラ、ホアン・ネポムセーノ、マリーア・デ・ロス・レメディオス、クリスピーン、クリスピアーノ、デ・ラ・サンティシマ・トリニダード、ルイス・イ・ピカソ」、だそうですが、それでもワトキンスさんと比べるとだいぶ短く感じてしまいますね。寿限無の魅力は、名前が長いことだけでなく、「寿限無」という略称自体の風情感というか、面白味にもありますね。逆さに読むと「無限の寿命」という感じで、縁起がいいというだけでなく、数学的なポエティックな響きがかっこいいというか。

この落語で、寿限無という名前がつく由来は、生まれた男の子が丈夫で長生きするようにと、お寺の住職に名前を付けてもらいに行くことが発端で、住職は、求めに応じていろいろな名前の候補を提案させられることになるのですが、結局候補がたくさん出過ぎて逆にどれかひとつに決めかねて、それならいっそ全部それらの名前を繋げちゃいましょう!ということで、あのように長くなった、ということです。ちなみにこの寿限無のフルネーム※は「寿限無寿限無 五劫の擦り切れ 海砂利水魚の水行末 雲来末 風来末 喰う寝る処に住む処 やぶらこうじのぶらこうじ パイポ・パイポ・パイポのシューリンガン シューリンガンのグーリンダイ グーリンダイのポンポコピーのポンポコナの長久命の長助」です。途中から擬音めいたナンセンスな名前になっていくのがイイですよね。筒井康隆の『バプリング創世記』を彷彿とするいい加減な感じも実に面白いところです。そういえば、今やお笑い界のベテラン、くりぃむしちゅーさんの旧名は、この寿限無の途中に出てくる海砂利水魚≠ナしたね。

長いネーミングというと、人名ではないですが、ダリの通称『ペルピニャン駅』という絵のフルタイトルも、なかなかに長かったですね。正式名称は「ポップ、オップ、月並派、大いに結構と題する作品の上に、反重力状態でいるダリを眺めるガラ、その画面には冬眠の隔世遺伝の状態にあるミレーの晩鐘の悩ましげな二人の人物が認められ、前方にひろがる空は、全宇宙の集中するペルピニャン駅のまさに中心で、突如としてマルトの巨大な十字架に変形するはずである。」
ダリ本人もおそらく題名を付けてすぐ忘れてしまったのではないかと思わせる長さですよね。そういえば、ここ数年くらいラノベのタイトルが急にやたら長いのが多くなってきましたが、これも不思議な流行ですね。本来、人名も作品タイトルも、短く分りやすくしないと、他人の記憶に残りづらく、セールス的にはマイナスっぽいイメージがありますが、逆にだからこそ、その長さによって着目される、ということもあるのでしょうね。

そうしたラノベの長いタイトルの流行でふと小話的なこんなネタを思いつきました。「近未来、ラノベのタイトルがどんどん長くなっていき、ついには本編の物語よりもタイトルの方が長くなってしまったのであった」という小ネタです。どこか頭山などの不条理系落語っぽいナンセンスさがあって、4コマ漫画のネタになりそうなアイデアですね。やる気がわいたら描いてみたいです。(←典型的なやらないパターン)

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奥付のページです。蛙の絵柄の扇子のデザインの検印紙が風情があってイイですね〜
現在は検印は廃止されているので、こうした部分も古書蒐集の楽しさのひとつですね。

落語は、まだそれほど詳しくないですが、私が落語に興味を持ったきかっけは、夢野久作原作、松本俊夫監督の映画『ドグラマグラ』に登場する主要キャラのひとり、正木博士役の桂枝雀の演技に惚れ込んだことでした。映画を見終わった後、気になって、あの独特の味のある演技を見せてくれた桂枝雀の本職である落語のほうもぜひ聴いてみたい!と思ったのでした。枝雀の落語も、また実に個性的で、しゃべりも上方らしく漫才のテイストを思わせるモダンさがあって、アクが強いわりに聴きやすく、一発でハマりました。落語というと、それまで古くさい芸能という固定観念があったのですが、枝雀の洗礼を受けて、まったく落語の印象が変わったのでした。

昨今、落語もじわじわとその魅力が再確認されているような感じですね。このまえアニメ版の『昭和元禄落語心中』を見ましたが、こちらも面白かったですね〜 お話も魅力的ですごく面白かったですが、声優さんも落語がテーマの作品だけあって、現代日本の声優陣のハイレベルな演技を存分に堪能できるのも魅力的な作品でした。かれこれ数年前に見たアニメで、記憶もいい具合に薄れてきたので、また見直したいです。とくに山ちゃんこと山寺宏一さんの無頼の天才落語家の初太郎役の演技がびっくりするほど素晴らしかった印象があります。山ちゃん最高ですね。山ちゃんといえば、深夜放送されたルパンシリーズ『峰不二子という女』での、銭形警部の声もとても感動しました。オリジナルの納谷悟朗さんのイメージを損なうことなく、銭形の危険な香りのする裏の顔を見事に声で演技していて、まさに日本を代表するトップクラスの天才声優であることを認識させられました。

この後、引き続きもう一冊同じように背表紙が読めない本にカバーを作ったので、そちらも近いうちに記事にしようと思います。
ということで、御清覧ありがとうございました!



(2016/5/15 追記)

※寿限無のフルネームは〜

フルネームの中にいろいろと不可思議な単語が頻出していて楽しいものの、それらに何か意味があるのか気になって調べてみたら、意外に興味深いものだったので追記します。まず最初の出だしの「寿限無」は文字通り限りない寿命を意味しています。
次の「五劫の擦り切れ」が奥が深いのですが、意味は無限に近い悠久の時間を意味していて、劫(こう)とはインド哲学でひとつの宇宙の寿命を意味するカルパ(kalpa)という単位を漢字であらわしたものです。天女の水浴びによってできたさざ波が近くの岩をわずかに削るのですが、その岩がそれで擦れて全部消えるくらいの時間が五劫、つまり宇宙の一生が五回繰り返されるくらいの気の遠くなるような長い時間だということです。
「海砂利水魚」は海の砂利や水中の魚のように限りなく大量にあることを意味しているようです。
「水行末雲来末風来末」水、雲、風など、来る時も去る時も果てしない無限に繰り返される自然現象を指していて、これもそうした無限の自由を意味する縁起のいい言葉、ということのようです。
「喰う寝る処に住む処」これはそのまま、食べるに困らず、住居にも困らない、人間の社会生活の基盤が安定していること。
「やぶらこうじのぶらこうじ」このあたりから、だんだん名前のバリエーションを考えるのが面倒くさくなってきていい加減な単語を並べたてる、という感じのナンセンス的な笑いなのかな、と最初は思ってたのですが、さにあらず、やぶらこうじ≠ヘ藪柑子(やぶこうじ)という生命力豊かな縁起のいい木の名前からきてるようでした。つづくぶらこうじ≠フ部分は今も諸説あるようですが、藪柑子が小道に沿ってたくさんの赤い実をブラブラと実らせている様子を表現しているとも言われているみたいです。
「パイポ・パイポ・パイポのシューリンガン、シューリンガンのグーリンダイ、グーリンダイのポンポコピーのポンポコナ」
ここにも意味があるようで、パイポは古代中国にあったとされる架空の国、シューリンガンはその国の王様の名前、グーリンダイはその妃で、彼らの間に生まれた子供がポンポコピーとポンポコナだということです。このポンポコピーとポンポコナはたいへん長生きしたということで、ここも長寿の御利益にあやかった名前になっているみたいですね。まさか、この部分までちゃんと由来のある縁起のいい名前をもってきてるとは新鮮な驚きを感じたのですが・・・・このパイポ王国やその王様グーリンダイや子供のポンポコピーなど、実際には何が出典なのか気になってさらに調べたところ、このパイポがどうのというくだりの意味は、噺家がこの演目の噺の中で語る架空の設定で、実際の中国の古典などにあるちゃんとした設定ではないようですね。つまり、やはり最初の直感のとおり、言葉のリズムで笑いを誘うことが主旨のくだりであり、パイポ国などの設定は寿限無のストーリーの中だけで語られるもので、このお話の中だけの架空の設定のようでした。この部分は、まさに筒井康隆の『バプリング創世記』みたいなノリで、テキトーな意味の無い擬音ぽい言葉を並べて笑いを誘う部分なようです。
「長久命の長助」は、文字どおりの、寿限無と同様に長い命を意味する名前です。

(追記終わり)

posted by 八竹彗月 at 17:46| Comment(0) | 古本

2026年05月01日

古書を補修してみました!「人智学研究」編

今回も本の背表紙の文字が読めない問題を解決する回です。本を売る場合は表紙のコンディションが一番気になる部分だと思いますが、たんに本を所有する一般人にとっては、本は読書する以外のほとんどの時間を本棚で過ごすため、背表紙のコンディションこそが最も重要になってきますね。

本の背表紙というのは、読書の時には手のひらに当たるので擦れますし、本棚に入れてあっても、直射日光を避けていてもなんらかの明かりに常時触れている箇所ですから、紫外線からのダメージでゆっくり退色していくのは避けられないところです。なので、本のパーツの中では背表紙は最もダメージを受ける箇所ですね。で、ありながら、背表紙は本棚に並べたときには探す時には重要なインデックスになりますから、本の所有者にとっては最も重要な部分といっても過言ではないでしょう。

で、今回も背表紙の読めないタイトルをどうにかする問題にまたまた挑戦することにしたのでした。ブログのネタにするつもりがなければ最初の段取りから写真を撮ったりしないわけなので、毎回記録を残してはいませんが、けっこういい感じに修繕できた時には、「写真とっておけばよかった!」と思うこともよくあります。なので、最近はブログネタにするしないにかかわらず、手の込んだ補修をする場合は、なるたけ記録しておくようになりました。本の補修も最初は面倒臭かったですが、やってるうちに意外と楽しくなってきますね。問題が解決したときの達成感も気持ちいいものです。

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『人智学研究』第1号 1980年(昭和55年)11月15日発行 人智学出版社
先だって同社から発行されていた『シュタイナー研究』(1〜4号)の後継的な雑誌のようです。この『人智学研究』は3号まで出て休刊のようですね。

というわけで、今回は先日古本市で手に入れた『人智学研究』という、オカルト系の雑誌の背表紙を修復することにしました。人智学とは、オカルト界の巨星、ルドルフ・シュタイナーの提唱した思想のことで、霊的真理を科学的に探究し実践するための理論のようなものです。クロウリーとかブラバツキーなどほとんどのオカルティストはオカルトの世界への没入度が高すぎるためか、あまり一般社会への影響を感じることは少なくマニアの界隈で崇拝されるような存在ですが、シュタイナーの場合は、教育や農業や芸術などの、一般社会との接点のある思想を展開していったためか、比較的合理主義者からも一目置かれる人物であるところもユニークですよね。どことなく文学だけでなく農業、科学、音楽と越境したスタイルで自己探究をした宮沢賢治的な視点を連想するクロスオーバーな思想が魅力ですね。

とはいえ、そこはやはりオカルト界の巨人だけあって、常識的な範囲に収まる思想ではなく、けっこうぶっとんだ部分もある思想でもあり、かつ、難解なところもあるので、なかなか全体像のつかみづらい人物でもあります。まぁ、そういう謎めいたところや、つかみどころのなさこそ、人間の魅力的な部分でもありますから、逆にそういうところに惹かれるわけであります。

そうした意味でも、この雑誌は、人智学出版社という、総本山的な会社から出ているということもあり、内容も秘儀的なものから文学や科学からの視点での論評など、なかなかマニアックでそそる記事が多く、興味深いものを感じたのでした。

と、中身の話はこれくらいにして、さっそく補修に入りましょう!

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前述のとおり、背表紙はこのように題字が読めません。元の状態が不明なので憶測ですが、日焼けのせいだけじゃなく、どうも題字の色使いも読み辛さの原因になってそうですね。

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背表紙のオリジナルデザインを知ろうと検索してみたものの、結局背表紙のコンディションが良いものがヒットしなかったので、あまりオリジナルにこだわらずにアレンジして進めようかと思います。

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表紙から裏表紙まで全体にかかるようなパターンが敷いてあるので、その位置の調整などのテンプレとして、一応背表紙をスキャンしました。

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テンプレの上に文字を置いて、オリジナルと同じようにタイトルを入れてみました。やはり、元のオリジナルを踏襲するよりも、読みやすさを優先して自分用にアレンジしたデザインにしようかな、と思案。

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左端がオリジナルに近いパターン。これでは、あまり視認性が良く無いので、右からに順にいろいろ試行錯誤したものを並べてます。そうしながら読みやすいデザインを思案しています。途中で、シンプルすぎてそっけないものを感じたので、出版社名や発行年などの要素を付け足してます。最終的に、右端のようなデザインで決定。

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さっそくプリントアウトして切り出しました。

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背表紙に木工ボンドを塗って、まんべんなく平にならして・・・・

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こんな感じになりました。おお!意外と良い感じでは!?

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ただ貼っただけでは汚れがついたり剥がれたりするかもしれないので、補強のために絵本用の補修専用テープをかぶせて貼りました。

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完了!まぁ、とりあえず背表紙の題字も読めるようになりましたし、デザインも少しアレンジしたものの、オリジナルのニュアンスはそれなりに出ていると思います。

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近くの本棚に入れて確認。そんなに違和感ないですね。
たまたまチベット仏教関連の本が並んでる棚で確認しましたが、またチベット仏教関連の記事も書きたいですね〜

ということで、今回は『人智学研究』の第1号の背表紙を補修しました。3号まであるようなので、うまく安価に見つかれば同じデータを流用できるので次は楽に補修できますね。・・・というか、補修する前提で言ってますが、コンディションが良ければ補修はいらないですよね(笑)

そういうことで、今回も御清覧ありがとうございました!


posted by 八竹彗月 at 04:01| Comment(0) | 古本

2026年03月27日

人生遊園地(運≠ノついて)

つれづれなるままに

人間関係のストレスがほぼ消滅する方法として「バカ」「嫌なやつ」「嘘つき」の3種の人間と縁を切ると良い、というポストを何気なく見ていたSNSで目にしました。自分もかつて、まさにソレを実践していたことがあるので、いろいろ思い出したりしながら自分なりに思うところがあったので記事にしてみました。

件のSNSのポストは、「わざわざ気の合わない嫌なやつとつきあう時間があったら、気の合うまともな人間との交流に時間を割いた方が断然人生が豊かで楽しいものになりますよ」という内容のもので、一見たしかにその通り!と思うようなことではありますが・・・・・これは、短いスパンではたしかに正しいです。嫌な人間を排除するとたしかに一時期は平安を得られます。

このような生き方をすでに実践したことのある方は、もう分ってると思いますが、そう人生は単純ではありません。人間関係をコスパで割り切る考えは意外な落とし穴に足を取られがちです。この手法は、自分のエゴの機嫌をとる方法であり、本当に自分の幸福に行き着く方法ではないので、(※)嫌なやつを人生から排除したところで根本的な解決になることは少なく、ほどなくすると「同系統の嫌な奴」が必ず現れて自分を悩ますことになります。

おそらく、そうなる理由は、本来嫌な事を自分にしてくる人は、すでに運命的に決められた自分の人生ゲームの初期配置の人なのであり、その人自身が単純に悪人というわけではないからです。その人との接触を無理に避けても、嫌な事をする役割が別の身近な人にバトンタッチされるだけなので、嫌な事をする担当者が変わるだけで、嫌な事自体は引き続き確定で起きることになるわけです。

嫌な人間とは縁を切る、というやり方を単純に続けていくと、じょじょに本当に自分の人生にとって真に有益な人や親友と思ってた人などがその嫌なやつ≠フ役割を担当することになっていきます。人生の課題として嫌な人というのは現れる法則があるので、そういう人を安易に排除すると、今つきあいのある持ち駒≠フ中から誰かが嫌な人の役割を担当することになるからです。

また、気をつけないといけないのは、そのような排除系のやり方を続けていくうちに、知らず知らずに他者を取捨選択する傲慢さが育っていきがちで、それによって自分が他者から「つき合いづらい面倒くさい人」「いつ自分も排除されるか分らない怖い人」と思われていき、いつのまにか自分が排除される側の人間になっていく危険性まであります。少なくとも私の場合はそうでした。

大勢の人がいる職場などで仕事をしている人は、そういった嫌な人の役割交換が複雑になるので、なかなかこういう運命のシステムに気づきにくいですが、他人と接触する機会の少ない生活をしている人は、役割交換の発生が分りやすいので、けっこうリアルにこの法則を実感として感じると思います。

そもそも、その「バカ」「嫌なやつ」「嘘つき」というのは、別の誰かから見た自分自身でもあります。自分もまた誰かに知らず知らずか意図的かにかかわらず迷惑をかけてきたわけですし、誰にも迷惑をかけていない人間はこの世には一人も存在しません。(※)キリストのような超聖人(※)ですら、世界のどこかで宗教的イデオロギーの違いで起こる紛争のたびに諸悪の根源であるかのように遡上に乗せられています。マザーテレサのような度を超えた慈愛によって人類に希望をもたらした聖者でさえ、様々な非難にさらされて叩かれている(※)のもたまに目にします。

だからといって、現にそれで苦しんでいる最中の場合は、冷静に対処できるケースばかりではないでしょうし、排除系な対応も、緊急処置的には仕方ない場合もあるかと思います。それで上手くいってもいかなくても、それもまた人生の貴重な経験となりますし、どんな選択も決して無駄になることはないですから。

かなり昔、ネット黎明期の頃に、煩悩にまかせて巡回していた とあるアダルト系の掲示板にあったある匿名ネットユーザーの書き込みを今でも鮮明に覚えています。いわく「この世に全ての人から好かれる人間は存在しない。なぜなら、全ての人間から好かれるような人間≠ェ嫌いな人間というのが必ず存在するからだ」(※)というものです。著名人の名言の引用なのか、ご本人の人生から生まれた言葉なのかわかりませんが、とても胸を突く言葉でした。マザーテレサでさえ叩く人がいるわけですから、自分も他者から見ればすくいようのないバカで邪悪な人間に映っている可能性だって確実にあると思って間違いないでしょう。自分もまた他の誰かにとっての「バカ」「嫌なやつ」「嘘つき」であるというのはほとんど事実で、逆に、そうでない人間のほうがかなりのレアな存在なのではないでしょうか。

社会生活を送る限り、どんなに注意して生きていても、(意図的でなくても知らず知らずに)他者に迷惑をかけることを避ける事は不可能です。ゆえに、他者の失敗や落ち度や欠点に対して出来うる限り自分も寛容でなければならないのだと戒めています。まぁ、なかなか言うほど簡単ではないですが、聖書の言葉にあるように、自分の落ち度が神に許されるための条件は同じような他者の落ち度を許すことで達成されます。これは、自分の経験に照らしても腑に落ちることがたくさんあるので、この世を操る高次元の世界では、そういう法則が働いているのは確実なのだと思っています。

結局は、慈悲や愛でしか、人はより良く変わることはできないのだと思います。排除の考えも、緊急措置としては全然アリだと思ってますし、現に起きている困難が、逃げたり戦ったりすることで即座に克服する事が可能ならするべきですし、それも適切である場合もあるかもしれません。しかし、究極的には、この世に純粋100%な真の悪人は存在しない(どんな悪人も親や親友はいたりする)ので、できる限り明確な悪意でない限りは慈悲のある対応を心掛けたいと思っています。まぁ、こういう立派そうなことを無自覚に公言すると、「お前、かっこいいこと言ってるが、その覚悟が本物かどうか見せてみろ」と運命の神によって、そういう覚悟を試すようなちょうどいい試練がしばらくすると高確率でやってきたりしますから、こうした発言をするのも最近はけっこう勇気が入るようになりました。まぁ、しかし、腹にもない事を公言するのでない限り、そうした試練も、理想の魂に成長するためにいずれはチャレンジしなければならない類いのものですから、必要以上に恐れる事もないのでしょう。

では、排除系でないやり方でどう解決すればいいのか、が抜けていたので追記します。詳しくはまた下の方で書いてますが、まずかいつまんで結論から記しておきます。
嫌なやつというのは、現在自分が持っている欠点や課題が現象化したものなので、課題がクリアした段階で、そういう人は現れなくなくなるか、嫌な人が嫌じゃなくなるような変化が起きます。どういう課題が現象化しているのか、は冷静にその嫌な人≠観察すれば容易に気付きます。気付けない場合は、「私が乗り越えるべき課題を教えてください」という願いを持ち続けていると、なにかの拍子に世界がいろんなやり方で教えてくれます。まぁ、この世の不幸の全ての原因はカルマの問題もありますが、ほとんどはエゴ(利己性)から来るので、分らない場合はひたすら人の役に立つことや人に喜ばれる事をして善行を積んでいるうちに勝手に解決してしまうことが多いです。(私の場合はそうでした)


※嫌なやつを人生から排除したところで、一時は平安を得られますが〜
これは、とくに20〜30代の若いうちは、けっこうそういう排除系のやり方でそこそこ長い期間(1〜2年くらい?)は平安を得られます。その成功体験でついつい同じやり方を続けていくと、40代くらいから痛い目にあうことのほうが多くなっていきます。経験則からのいい加減な持論ですが、これは多分、若さというのは宇宙的にはそのままで天然の「善」であり、ゆえに多少の悪に世界が目をつぶってくれることがあるせいかな、と思ってます。歳をとってくると、そういった、もともと若いという価値だけで得られている徳のポイントのようなもの、RPGゲームで言う「運」のパラメータは歳と共に減っていき、中年からはそういう状態で物事に対処することになるので、歳をとるごとに霊的な法則がモロに運命に反映されるようになる気がします。

基本的に良い事をすれば良い事があり、悪いことをすれば不幸が起こるという法則は確実にこの世にあり、適切なタイミングでそれらのカルマの芽が出て現象として現れます。カルマは自然に消える事はないので、悪いカルマは芽を出す前に、善行によって人生のポイントカードに「徳」というスタンプをできるだけたくさん溜めておくことで、大難を小難に抑えたりなどの効果があります。古本市に出かけるとき、途中の道にあきらかに自分に拾わせたいかのように落ちてるゴミがいくつか目につくことがあります。そういうゴミは拾うと良い具合に徳のポイントが溜まるボーナスのゴミなので、「お?あそこにボーナスポイントが落ちている!」という感じで、喜んで拾って家に持ちかえって棄てるようにしています。実際に、そういう日は良い掘り出し物に出会う確率が非常に高くなる実感があります。この徳ポイント≠ヘ、実際にどういうシチュエーションで使われるかは自分で決められるものではなく、天の力が最適な割り振りをしてくれてる感じがします。おそらくレベルの高い修行者になると、徳ポイントの割り振りも自分の意志で出来るようになるのかもしれませんね。(2026/3/29 追記)本筋とは関係ないですが、昨今は店のレジもどんどんセルフサービス化が進んでいて、ポイントカードにスタンプ、という光景もだんだん見なくなりましたね〜(追記おわり)

※誰にも迷惑をかけていない人間はこの世には一人も存在しません。
バブルの時期には70年代のフォークが「暗い、重い、野暮ったい」というネガティブなイメージが蔓延してました。特有の当時のベルボトムなどのファッションや無精なロングヘアなどがよく漫画などでもネタ的に蔑まれていた時期がありました。当時はけっこうなへそ曲がりだった私は、そういう風潮に逆らってみたくなり、逆にそのダサいフォークとはどういうものだったのだろう?と気になって、70年代フォークを聴き漁った時期がありました。70年代のそういう文化は自分よりも年上の兄貴世代の文化であり、かつ地方住みだったせいで、よく知らない世界でしたが、実際にフォークを聴いてみたらそれは想像以上に奥の深い情熱的で創造的な世界であまりの面白さに復刻CDを買いあさり、しばらくフォーク三昧の日々が続いたのを思い出します。あがた森魚、遠藤賢司、友川かずき、斉藤哲夫、吉田拓郎、三上寛、などなど、素晴らしいアーティストを多数知ることができて、おかげで大いなる収穫がありました。また前置きが長くなりましたが、そんな中で出会ったのが泉谷しげるの音楽で、あの熱いメッセージと強面の外見とは裏腹な底知れない優しさがにじみ出る楽曲の数々に心酔したものでした。泉谷しげるの印象的な発言の中で、今でも鮮明に覚えているのは、うろ覚えですがこんな言葉でした。「人間なんてものはどう生きようが他人に迷惑をかけてしまうもんだ。それを気にしてやりたいことにいちいち臆病になってたら何もできやしねぇよ。むしろ波風立ててやるつもりでチャレンジしやがれ」みたいな感じの言葉だったと思います。まぁ、ある意味極端ではありますが、何事にも臆病になってしまう当時の自分にはとても励まされたエールでした。

※キリストのような超聖人ですら〜
宗教が原因で争いが起こる時点で、それは宗教の本質とは関係のないものであるように思います。宗教の目的は元来は、人々を人生の様々な呪縛から自由にしてより良く生きることの手助けをするものです。政治がマクロな視点で環境を整えることで人々を幸福にしようとするシステムであるのに対して、宗教はある面では個人の生き方というミクロの視点から人生を見直す事で、結果的に世界が良くなっていくことを目指す幸福実現のシステムだと思います。宗教戦争とは単純化すれば「俺たちの信じる神のほうが本物で、お前らの宗教は邪教だ!」と互いに幸福実現の手法の違いで対立する愚かな争いだと思います。幸福というゴールが大事であって、そこに至る段取りの違いはどうでもいいはずです。どのような宗教も言葉を変えて「寛容さ」を説いているはずで、争いに発展する時点で自分の信じる教義で説かれているはずの「寛容さ」が実践できてないことになります。(逆に、他者への寛容を説いていない宗教はまがいものだと思います)ラーマクリシュナやヨガナンダなど本物の聖者のほとんどは、万教一致の思想を持っています。同じ料理をスプーンで食べようが箸で食べようが同じ味であるのといっしょです。教義の違いで対立する愚かしさは、我ら凡人でも悟らずとも察しが付くように思いますが、これもそういう争いの渦中にいる間はなかなか自分では気付けないものなのでしょう。これも仏教でいう煩悩のひとつ「執着」による迷いの為せる技なのでしょうか。(2026/3/29 追記)しかし、よく考えてみれば、真面目に信仰しているがゆえに、大切にしている自分の宗教と対立したり否定する側とは、現実的にうまくやっていくのはなかなか大変なハードルであろうことも、理解出来なくもないですし、外野が言うほど簡単でもないのでしょう。これもまた軽々に答えを出すことが難しい人類の課題のひとつですね。(追記おわり)

※マザーテレサのような度を超えた慈愛によって〜
世間に広く知れ渡っている大聖者としての側面は周知ですが、批判的な情報もそこそこ見かけますね。ウィキペディアでも「マザー・テレサに対する批判」という独立した項目で解説があったので、ざっと目を通してみました。これも、批判の多くがけっこう少数の個人的主観が元になっていたり、背景に宗教の違いによるイデオロギー的な対立からくる偏見ともとれるものもあり、一概に全てが客観的事実に基づく批判のようには思えない、という印象です。もちろん、私はマザーの考えに心酔しているところがあるので、けっこうひいき目に見ていると思います。人間なのだから、欠点も失敗もあって当たり前と思ってますし、マザーの黒い噂も中にはいくつか事実もあるのでしょう。かといって、マザーが築き上げてきた行いは全てインチキだったのか、というと、そんなわけはありません。

かつてサイババがブームになったとき、ブームに水を注すように、「サイババのビブーティ(手のひらからどこからともなく出現する聖なる灰のこと)は手品である」とか、数々のサイババの奇跡をトリック説で解釈するバッシングがありました。サイババが本当にそういう奇跡を発現してたのか、あるいは手品だったのかは正直私もわかりません。しかし、サイババが実際に孤児や病人などのために私財を投じて尽力していたことはまぎれもない事実で、サイババの奇跡の真偽などよりもむしろそっちのほうが重要なことだと思ってます。キリストでさえ無実の罪で処刑されているのですから、サイババの疑惑の真偽も軽々にジャッジしたくない気持ちがあります。

なるべく人の欠点を見て絶望するより、人の美点から学ぶようにしたいと思う昨今です。ここでも何度か引用している聖書のルカ福音書からの言葉ですが、「人を裁くな。そうすれば、自分も裁かれることがないであろう。また人を罪に定めるな。そうすれば、自分も罪に定められることがないであろう。赦してやれ。そうすれば、自分も赦されるであろう」という聖句があります。私も何かあると、ついつい人を心の中で裁いたりしがちな欠点だらけの未熟者なので、よくこの言葉を思い出しては自戒する日々です。

※「この世に全ての人から好かれる人間は存在しない。なぜなら、全ての人間から好かれるような人間≠ェ嫌いな人間というのが必ず存在するからである」
こういう言葉がアダルト系の下世話な掲示板に唐突に書かれていたりするのが面白いですよね。美しい蓮の花が濁った泥の中から水面に顔を出して花を咲かせるような、この世の奥深さの一端を感じた思い出です。蓮の花といえば、寅さんの映画のテーマ曲にもありましたね。「ドブに落ちても根のある奴は、いつかは蓮(はちす)の花と咲く」の一節は、どんな人生でも真面目に誠実に生きてる人は、いつか必ず蓮の花が咲くような幸福に巡り会えるのだ、という希望を感じて、聴くたびに勇気づけられ、ものすごく琴線に触れるものがあります。亡き父が大好きだった映画だったこともあって、寅さんのテーマは聴くたび自然と涙腺が緩みます。調べると、男はつらいよのテーマ曲は、全部で5番まであるようで、たしかに影法師≠ェなんとかというバージョンも聴いた事があるので、2番3番くらいあるんだろうな、とは思ってましたが、5番まであったんですね〜 

歌詞は星野哲郎さんで、他にも「三百六十五歩のマーチ」「兄弟舟」「昔の名前で出ています」「自動車ショー歌」などなど昭和の屈指の名曲の数々を世に送り出した方なんですね。このような深い歌詞は、テクニックだけでは書けるものではないはずと思い、星野氏がどういう人物像なのか気になってウィキペディアを覗いてみました。やはり案の定で、星野氏は若い頃に腎臓結核を煩い、4年にわたる闘病生活の経験があったようで、やはり人並み以上のご苦労をされてたみたいですね。自身の性格は大変に温和な方だったようで、なかにし礼氏によれば、声を荒げた所を見た事が無く、後輩にも親切だったそうです。だからあのような多くの人の心を優しく包み込むような素晴らしい詩が書けたんだな、と納得でした。ちなみに、「銀河鉄道999」の主人公、星野鉄郎と一字違いのよく似た名前なので、名付けに何かオマージュ的な意味で関係があるのかな、と思って調べたら、漫画のほうの鉄郎は、星から星へ鉄道で旅する主人公ということで名付けられたようで、こちらは関係ないようでした。


メモ参考サイト




「2:6:2の法則」の話

少し話が逸れますが、俗にいう262の法則、というのを聞いたことがあると思います。働きアリを観察すると、集団の2割が勤勉に働き、6割は平均的な普通の働きをし、残り2割はあまり働かずによくサボる、というものです。この集団からサボり癖のある怠け者の2割を排除すると、すごい能率の良い集団ができそうに思いますが、実際には、怠け者を排除しても、残りの8割の集団の中から怠け者になるアリが現れはじめ、結局全体でまた2割の怠け者のいる集団になっていく、というものです。とても興味深い法則ですよね。262の法則は、イタリアの経済学者パレートが提唱した「パレートの法則(80:20の法則)」から派生したもので、生物の組織や集団がなぜか自然発生的に凡庸な8割と有能な2割で構成されていく現象のことです。ここからさらに細かく分類していくと、非凡な2割、凡庸な6割、無能な2割、のような割合で集団が形勢されるとされる262の法則という概念がうまれたようですね。生物界の集団形勢において、このような偏りが自然発生的に生じるというのは、とても興味深く、なにか人間社会における事象にもいろいろな示唆を感じるところです。

以前よく言われた似たようなジャンルの不思議な生物学的な現象で『百匹目の猿』というのがありましたよね。内容をかいつまむと、以下のような不思議な現象です。これは、ニホンザルの集団を観察していたある学者が、ある日一匹のサルが餌として与えていたイモを近くの海岸の海水で洗って食べているのを発見することから話ははじまります。このイモ洗いを覚えたサルは、洗うことによってドロが落ちて雑味がとれるだけでなく、海水の塩分で味もよくなることに気づき、毎回イモを洗うようになります。それを見ていた他のサルも次第にイモ洗いをマネするようになり、いつしかその集団のサル全体がイモを洗うようになります。そして、ここからが面白いのですが、この現象をはじめて紹介した生物学者のライアル・ワトソンは、同行動を取る猿の数がある一定の数をを超えたときその行動が群れ全体に広がり、さらに場所を遠く隔てた交流のない猿の群れでも突然この行動が一気に見られるようになったと記しています。

イモ洗いをするサルの頭数が一定の数を超えたとたんに、そのサルの集団と交流を持たない遠く離れたニホンザルの集団にも何故かイモ洗いの習慣がまるでテレパシーのように伝播した、ということから、この閾値をワトソンは仮に100匹として、説明しました。99匹のサルがイモを洗うまでは、自然な成り行きですが、100匹目のサルがイモを洗ったとたんに近隣の群れ全体にその習慣が伝播した、ということです。そういうことで俗にこの現象が『百匹目の猿』と言われるようになり、一時期は科学系の雑誌やマスコミなどでもしばしば引用されて、生物の不思議の典型的なエピソードとして有名になっていきました。つまりは、生物は個としてふるまっているようでいて、実際は種としての意志に従って生きている、ということを暗に主張しているのでしょうね。(※)

しかし、これはウィキペディアなどにも書かれているように、後にそのユニークなニホンザルの観察の根拠となる記録そのものが存在しないことが判明していき、次第にワトソンの作り話ということで現在は決着しています。この話もけっこう示唆を感じる面白い話だったので、デマだと知ったときはちょっとショックでしたね〜

そんなことがあったので、先の「262の法則」も、それなりにミステリアスな生物界の法則なので、これも事実なのかどうか気になって調べてみました。幸いにこっちの262の法則のほうは明らかなデマとは違うようでホッとしました。ただし、厳密に研究された自然法則というわけではなく、役に立つ経験則という程度のもののようですね。この法則の根拠としてよく挙げられる働きアリの集団での観察は、北海道大学で長谷川英佑氏らにより2012年頃に実際に行われていたようで、「どのコロニーでも約2割のアリは怠け者」「怠け者だけ抽出すると、怠け者集団の2割は怠けたままだが、残りのアリが働くようになる」「働き者の2割だけ抽出した場合も、なぜかその中から怠け者が新たに発生する」といった興味深い結果になったようです。比率は厳密に262になるわけではなく、必ず再現性のある傾向というわけでもないらしいですが、ほぼほぼそういう法則は現実の生物界にありそうで、この世の謎とロマンを感じる話ですね。


メモ参考サイト
「百匹目の猿」一時いろんなところで重宝されたサイエンストピックでしたが、後年作り話ということが発覚しました。有名なサブリミナルの映画館の実験にしても同様で、当時もてはやされたまことしやかな「嘘のようなほんとの話」が時を経るごとに次々に「嘘のようなやっぱり嘘の話」になっていくことも多そうですね。あと、脳の8割近くは未使用説(サイレントエリア説)とか。まぁ、逆に、研究が進んで、やっぱりデマでなく本当だった、とひっくり返るケースもあり、世の中、結局は学問といえども人間同士の知識の共有を土台にしているだけで、なんら絶対的な真理である確証はないわけで、何が正しいのか、というのはいつも暫定的なものであり、なかなか決定的には定まらないものなのでしょうね。「百匹目の猿」については、似たような説は、ルパート・シェルドレイクなども唱えていて、このあたりのニューサイエンスというか、ニューエイジ思想は、事実かどうかは別として、けっこう示唆を感じる興味深いものがあり、一概にトンデモ論として捨てきれない魅力があるのもたしかです。科学的にアレでも、SF漫画のネタなどに利用するなら今でも十分化ける価値のある面白い説だと思います。

そういえば、以前の記事でちょっと紹介した「ユニバース25」の話ですが、これも最近、実験者のカルフーンによって期待の結果がでるようにコントロールされた信憑性に疑いのある実験だった、みたいな批判が出てるようです。しかし、一方、けっこう客観性を意識して行われた意味のある実験であった、という擁護の意見もありますね。このユニークなマウスを使った実験とよく似た実験で、「バイオスフィア2」という、ドーム内につくられた閉鎖環境に8人の男女が2年間暮らすという実験も興味深いですね。つげ義春の『右舷の窓』や、荒木飛呂彦の『バージニアによろしく』などのSF短編を思わせる、ディストピア感あふれる危なそうな実験ですが、案の定、いろいろトラブルが起きて2年を待たずに実験は中止されます。やはり人工的に自然≠完全にシミュレーションするのは人間の手に余る難易度のようですね。また、閉ざされた世界で少人数で暮らすというのは、生物としてけっこうストレスがありそうです。2013年にアメリカで放映されたドラマ「アンダー・ザ・ドーム』は、突如ある町全体が透明な巨大ドームに覆われてしまうという、まさに上記のような閉鎖空間で暮らさざるをえなくなった人間達の暗部を描いていましたね。最後まで見てないので、どういうオチなのか気になるところです。




(2026/4/16 追記)
※実際は種としての意志に従って生きている、ということを暗に主張しているのでしょうね〜
ライアル・ワトソンが、この後にセンセーショナルなトピックとしてもてはやされることになる百匹目の猿現象を紹介した本『生命潮流』の原本が出版されたのが1979年。百匹目の猿現象の初出自体は、その三年前に刊行されたローレンス・ブレアの『超・自然学』の序文でワトソンが同様の現象を紹介しています。『超・自然学』も和訳が平河出版社から刊行されていて、当の序文も確認しましたが、けっこうもっともらしく紹介していて、たんにワトソンがホラ話を紹介しているとも思えず、もしかしたら、別の論文なり書籍なりで見かけたものを情報元を誤認して紹介しただけの可能性もゼロではないのかなぁ、などとフト思いました。

ブレアの『超・自然学』は、ワトソンの著作よりもオカルトよりな内容ですが、けっこう面白く好きな本です。『超・自然学』の原著が出版されたのが1976年で、この年は当時オックスフォード大学の講師をやっていたリチャード・ドーキンスの著書『利己的遺伝子』が刊行された年でもあります。利己的遺伝子説とは、ざっくりいうと、いわゆる、ヒトを含めて、全ての生物は個体としての意志で動いているように表面上は見えていても、実際は遺伝子の命令で動いているマリオネットにすぎない、という見地を生物学的に論証したものです。この説も世界を席巻し、科学だけでなく、広く「生命とは?」という議論が盛り上がる契機となりました。この説にはそうした問題提起が含まれているところもあり、それまでの知見を覆すような革命的な視点をもたらしたことで『利己的遺伝子』という言葉もちょっとした流行語になりましたね。

『利己的遺伝子』も、百匹目の猿≠フ概念に通底するような、個を超えた生命の在り方を示唆する説ですから、この時代にはあらかじめ百匹目の猿≠ェ大衆に信じられるような下地があったのでしょう。と、いうより、ワトソンがはじめて百匹目の猿′サ象を紹介した年と、ドーキンスの『利己的遺伝子』が刊行された年は同じ年ですね。片方は作り話と断じられてはいますが、同じような思想が同時期に現れて世間を賑わすということ自体、ある意味、そうした状況自体がどこかワトソンの百匹目の猿′サ象と似た側面を持っていて、安易にワトソンのホラ話と切り捨てるのも早計なのかな〜などと、思う昨今です。
(追記おわり)


忍辱は気持ちいい(?)

話が横道に逸れましたが、そういう感じで、最初に言及しました「人間関係から嫌なやつを排除していけば人生ラクになる」という話も、262の法則よろしく、排除しても排除した人間と似たような欠点をもった人が新たにあらわれるか、あるいは、今まで仲のよかった人が先に排除した人と似た傾向を現しはじめるかして、結局問題は解決しないということを言いたかったのでした。もちろん、これも私の経験則でしかありませんが、同様の体験をして納得されてる方も意外と多いのではないか、と確信しています。精神世界の教えでも、似たような教えがありますよね。

人生は魂の修行の場なので、自分の魂の生長を促す試練が人生には必ず用意されていて、それをひとつひとつクリアしていくのが人生の目的である。というような教えです。人生に現れる「嫌な人」というのは、現象としては他人として現れますが、霊的視点から嫌な人というのは自分の今世で為すべき課題や克服すべき欠点が外界に投影された現象でもあります。怠惰を克服すべき人には、あからさまに怠惰によって約束を破って自分の予定を狂わしてくるような人が現れたりします。ちょうど今私がそんな感じで、いい機会なので熊沢蕃山よろしく良い忍辱修行と思って「怒らず」「腐らず」心乱されることなく冷静に、という境地を保つように心がけているところです。面白い事に、そうした「嫌な事」を忍辱(にんにく)≠オながら瞑想すると、ある瞬間、フワーッと爽快な気分が急にやってきます。忍辱とは我慢とは全く別の概念で、苦難に耐える修行というよりは、魂の強靭化のための技法を試す良いチャンスという意識で向き合うと、なぜか歓喜のバイブレーションに包まれていきますね。嫌だけど我慢する、という意識だと辛いだけですが、魂の生長のためのトレーニングという意識であえて嫌な事に向き合う意識で瞑想すると清涼感のある爽やかなエクスタシーを感じます。不思議ですね〜

仏教の「空」の教えは、哲学的に理性的に追求しても意味がなく、慈悲や忍辱などの実践によって超感覚的に知らされる≠謔、なものだ、という話をききますが、なんとなくその意味の一端がわかりかけたような気がしました。ちょうど、私は今ちょっとした逆境の渦中にいるのですが、これも、そうした中でも心を平安に保つための試練、いや、ご褒美なのかも?と受け止めて、嵐が過ぎるまでいかに健やかに過ごせるかのレクリエーションだと思って小さな苦難を楽しもうと思っています。

人生に現れる嫌な人、嫌な事というのは、霊的には克服すべき自分の魂の汚れが現象化しているだけであり、嫌な人として現れているその人もまた自分の内面にある何かの現象化です。その人を嫌うことは、自分を嫌うことでもあり、その人を排除したり、逃げたりしても意味がないのでしょう。嫌な人が現れるということ自体が、何か自分の過去の悪いカルマが現象化している証拠なので、この試練にどう対処するかで未来が変化します。逃げれば、魂のテストに不合格ということなので、テストに合格するまで何度でも同じ傾向の人が自分の生活圏内に現れてしまいます。テストに合格すれば、クリアした人に同じテストをしても意味がないので、同じ系統の嫌な人というのは次からなぜか現れなくなる可能性が高いです。最近は実感として納得する説です。

人生のテストは、嫌な事に怒りや悲しみや憎しみで反応した場合は不合格とされて、何度も同じようなタイプの嫌な事が起きるようになっています。嫌な事に冷静に淡々と対応できた場合はギリギリ合格ですが、プラマイゼロの成績なので、未来への影響はとくに無しです。ベストなのは、嫌な事に慈悲や許しや愛で反応した場合で、この場合はカルマが清算されるだけでなく、逆に良いカルマも自動的に積むことになり、そういう場合は実感として以後あきらかな何らかの幸福が訪れることになります。ジャンプの漫画のように、憎むべき敵だった奴が無二の親友に変化するような感じでしょうか。今回のチャレンジでもなるべく自分もそういう境地を目指して魂を向上させていきたいと思っています。


そして後日

と、前段まで書いてきて、調子のいい事を言っておいて実際には雲行きの怪しい展開に決着していったのでは、格好がつかないし、恥ずかしいな、と思って、一応の成り行きが落ち着いてから投稿しようと、この記事の投稿も少しの間寝かせてました。逆の成り行きだったら、余計に落ち込みそうでもあったので。誤解の無いように言いますと、こうした話は信念の無い話を書いているつもりはなく、実際に思う所を書いていますが、書く事によって自分を鼓舞している面もあります。また、そうした自分の都合だけでなく、いくら精神世界な内容の記事でも、自分なりに正確性を担保したいという理由もありました。一応は、これを読んだ誰かひとりでも役に立つ記事にもしたかったので。

ということで、前段から少し間を置いてまたこれを書いているところですが、ちょうど先頃、数日前に記事を書いている最中に起きていた懸案が、一段落しそうな感じになってきたので、また追記しています。

結果からいうと、やはり記事に書いた理想のとおり、いや、それ以上の理想的な展開が急にあって、自分でも驚いている最中です。この件で、よけいに見えない世界ではたらいている天の法則≠ヘ確実にあるんだな〜と確信が深まりました。やはり運勢にポジティブな展開をもたらすのに最も有効なのは「愛」だと確信しました。愛とは恋愛ドラマのような情緒的な表現のことではなく、言葉を換えれば「秩序」とか「真理」とか「信頼」みたいなニュアンスを純粋化させたような意味合いです。

悪しき状況に、腐らず、憎まず、恐れずをできるだけ維持して、不安がらず(※)に、とりあえず結果を意識しすぎずに、自分の出来る範囲で可能なことを黙々とやる。というのを心掛けていたら、どうやら天が味方をしてくださったようで、すごい理想以上の展開になり、まだ興奮が覚めやらぬ状態です。重要なポイントは、「感情」で、嫌な出来事があっても、「ああ嫌だな」と少し思ったり考えたりする程度に、脳で情報を扱う程度なら大きな悪影響はないようですが、その嫌な情報や出来事を「嫌悪、怒り、憎悪、不安」などの感情を伴って処理してしまうと、けっこうダイレクトにそれに応じた現実が現象化しやすいので、嫌な事象に極力感情で反応しないようにしました。

他にもっと具体的な次のような方法も組み合わせたのも効果を引き出せたのかな、と思っています。引き寄せの法則(※)などにも通じる効果の高い方法で、次のようなものです。理想的な結果に落ち着いた未来に、その時に自分が感じるであろう「安堵感」を今擬似的に再現して、その安堵感(「ああ〜よかった〜安心した〜」というような気分≠味わう感じ)に浸るようにすると、理想の未来へのパイプが太くなり、現実がそっちの方向に流れやすくなるような感覚があり、今そうなりつつあります。これは実体験に照らしてもけっこう効果が高いもので、何度も仕事や人間関係で再現性の高い手法でしたので、超おすすめです。この手法も、無理して長時間気分に浸るように頑張らなくても効果はあります。1回につき1分程度を目安に、できそうな機会を見つけて一日数回程度やってみるだけでかなりの効果がありました。

ということで、とりあえず件の個人的な案件の成り行きが順調な未来に路線が切り替わった感触を感じてきたので勢いで加筆しましたが、ただ、まだすべて決着してるわけでもないので、用心のために、浮かれすぎることなく、確実な決着を確かめ、現象が固まるまで、もう少し様子をみてから、この記事にそれを追記しつつ投稿しようかな、と考えています。結果が出る前に下手に気を抜くのも気をつけないといけないポイントで、思わぬアクシデントを避けるためにも、現象が固まるまで気を緩めないようにしようと思います。

──────────────────────────そしてさらに後日

どうやら、ほぼ現象は確定してきて、多分上述の件はこのまま上手くいきそうな感じなので、思い切ってこの記事をアップすることにしました。運という見えない法則は、まだ科学的にはあまり解明されてないですが、人生において運≠ルど重要な鍵を握っているものはありません。思い返せば、私はけっこう幼少期から、運とは何か、についてあれこれ思いを巡らしてたような気がします。精神世界に興味を持ったのも、この運≠ニいうものの正体や、その具体的な法則が知りたかったからです。そういう意味では仏教はけっこう掘り下げて運について探究している宗教なので、そういうところに惹かれているのもあるのでしょうね。ということで、運≠ノついては、まだまだいろいろ語りたいところではありますが、また長くなってきたので、項を改めていずれ記事にしたいと思います。御清覧ありがとうございました!


※悪しき状況に、腐らず、憎まず、恐れずをできるだけ維持して、不安がらず〜
不運の渦中にいると、どうしても「もっと嫌な展開になるのでは?」など、不安に襲われがちです。しかし、そこがクセモノで、不安は不安を呼び込み、運も悪くし、余計に心配した通りの未来を招いてしまう力が動き出してしまいます。「不安になるな」、というのは言うが易しで、実際には「そうは言っても・・・」という気持ちは私もよく理解できるところです。私が、そういう不安に襲われそうになった時に実践しているのは、「運命は人間の意志でどうこうなるものではない。ゆえに、運命の成り行きの主導権は神様の領分である。で、あるなら、無限の愛と慈悲そのものである神様が自分が望まない運命をお与えになるはずがない!」という神様への100%の信頼を念じることです。「神を100%信じる!」をマントラにするのがおすすめです。神は万物の親のような存在ですから、子供の切実な思いを無視されることはありませんし、聖書の「信じる者は救われる」の言葉の通り、信じないと神と自分とのパイプが繋がりません。

おまじないのようにも思えるかもしれませんが、神を信じるということは、確実に運気を良くする実感があります。最初は半信半疑でも実際に効果があるので理屈は分らなくても信じるようになりました。神を信じるということは、幸福の出所であり、幸福の根源である神との信頼回復の行為でもあるのかな、と思っています。神は信じる者を裏切る事はできないし、しないので、必ず守ってくれます。神というと宗教っぽく感じられて違和感を感じる方もいると思いますが、運という領分は神や精霊などの見えない次元で具体的に動いている存在が担当しているので、理屈はどうあれとりあえず素直に信じてそうした高次元の力を借りないとどうにもなりません。まずやってみてから、結果が伴わなければ信じなければ良いだけなのですから。スマホだって多くの人は動作のプログラム的な理屈を理解せずに使ってるはずで、それと同じに、理屈で分らなくても効果があることならやってみても損ではないし、むしろこれほど有益なことはないと思っています。

今回の件でも、そういう確信をより深めた次第です。神を信じる、といっても、特定の宗教に入信する必要はありません。私も既製の宗教の信者じゃないですし。むしろ宗教団体に入ってしまうと神よりも団体内の人間関係や組織運営の雑務に呑み込まれて純粋な信仰の支障になる場合もあります。ひたすら神を好きになる、という気持でいるだけで十分人生に良い変化があります。神とは何なのか?神とはどういう存在なのか?は、神に意識を向ける生活を続けていくうちに神の方からなんらかの手段で自然に教えてくれます。たまたま読んだ本だとか、誰からとの会話からとか、あるいは美しい夕焼けに感動していると突然インスピレーションとして答えがやってくるとか。「神様、あなたはどういうお方なのですか?」と問い続けていると、さまざまな方法で神は答えを示してくださいます。神への熱烈な愛によって悟るタイプのヨガをバクティ・ヨガといいますが、大聖者ラーマクリシュナはこのバクティ・ヨガによって悟りを得ています。このあたりの話はまた別項で記事にして語りたいと考えてます。

※引き寄せの法則〜
一頃スピリチュアルな界隈で大ブームになりましたね。きっかけは世界的にベストセラーになったロンダ・バーン著『ザ・シークレット』やヒックス夫妻の『引き寄せの法則』でしょうか。引き寄せの概念自体は、もっと前からジョセフ・マーフィーや、日本では中村天風などの思想にもあり、源流を遡ればニューソート思想や17〜18世紀の神秘家スウェデンボルグまで遡るようです。引き寄せは、ブームがすごかったせいで、いい加減な本もたくさん出て、いわゆる「スピ系」なる揶揄する言葉も生まれましたね。一般にはおまじない程度の眉唾な話とも受け取られがちな引き寄せ≠ナすが、普通に聖書や仏教の聖典でも引き寄せ的な力がこの世界にはたらいている事に言及してますから、私はかなり信じています。実際に何度もこの法則を意識的に活用して窮地を救われたり効果を実感しているので。いろんなメッソッドが本などで言われてますが、メソッド的に捉えるとたいした効果は出ないし、出所の怪しいメソッドに縛られるのも面倒でもあるので、私の場合は、怒り憎しみなどのマイナスの感情を極力制限して精神のノイズを減らし、普通に可能な範囲で善行を積んで身近な運を良くしていくのを基本にしています。具体的な事例に対処する時は文中にあるような上記の方法が私的には効果が高かったです。ブームの火付け役の『ザ・シークレット』はお金だの車だのと、やたら物欲を叶える的な下世話な部分もありますが、まぁ、このくらい敷居を下げたから多くの人が重い腰を上げて半信半疑でも実践したわけで、そこにとどまって願望成就だけに熱中するのでなければ、間口としては全然アリだと思っています。そこをきっかけに、人生を運任せにせず、運を活用するという視点が持てたなら十分でしょうね。

2026/3/28 追記

記事を読み返していて、この文章だと、何もしていなくてもスピリチュアルな方法だけで物事が解決したかのような誤解をうみかねないかな、と思いまして、そのあたりの説明のために追記します。

もちろん、上述したような心や思考の持ち方は、物事の成り行きにかなりの影響を与えるというのは確信してますが、現実に対しては現実のアプローチももちろん大事です。七つの大罪のひとつに怠惰≠ェあるように、神的な存在は怠惰なものには、とくには罰を与えるまではしないですが、味方もしてくれません。かといって、過剰な努力も求めていません。「自分で可能な範囲で無理せずやれることはやる、行動できることには行動する」というのが基本です。そのうえで、その後のどうなるかわからない成り行きに神的な力が加勢してくれる、というニュアンスです。一言で言えば「人事を尽くして天命を待つ」ということです。

自分がそうした運を采配出来る神側の立場になったと仮定すれば理解できますが、自分が神だったら何もアクションを起こさない怠惰なものと、状況を好転させるための何らかの一応の努力をしているものがいたら、どちらに加勢しますか?といえば、当然後者でしょう。

そもそもこの世は、失敗や不幸を経験するためにあり、幸福はモチベーションを維持する為の神様からのご褒美のようなものです。幸福の追求は大事ですが、それよりも、この世ですべきメインの事項は、失敗をしたり不幸を体験することで、そこから不幸な他者への同情心を学び、他者の失敗を赦せる心を獲得することです。この世はそういうことを学ぶための学校なので、逆境においては、そこから必要な学びを得ることが必要です。学ぶ事を学び、経験すべき事を経験したら課題はクリアされるので、そこから先は神の領分です。クリアした生徒には、ちゃんと理想的な成り行きを約束してくれます。神への信頼、神を信じるというのは、この人事を尽くした後の神の采配を信頼する≠ニいうことで、闇雲に神様を信じなさいという意味ではありません。

今回の件で、勉強になったことは、「罪を憎んで人を憎まず」の意味がよく理解できたことですね。嫌な事は、多くの場合、人が運んでくるので、しばしば私たちは、嫌な人が嫌な事を持ってやって来た≠謔、に錯覚してしまいがちになるのですが、実際は、嫌な事をする人は、自分の試練のために人生の各所に配置されたそういう役割の人≠ノすぎません。ゆえに「人を憎まず」なんですね。また「罪を憎んで人を憎まず」の罪の意味も、その嫌な人が犯した罪のことを言ってるではなく、嫌な出来事を現象化させる元になった自分の罪のことを指しているのだな、と理解できました。他者を憎んでもまた余計なカルマを自分が背負うことになるだけですから、嫌な目に遭うようなカルマを持った自分の罪を憎め、ということでしょうか。

今回も、懸案をもたらした迷惑な人の役割だった人が、解決の展開に入ったとたんに現在は信用にたる頼れる人に急に変化していきました。ほんとうに不思議な一件でした。今回の件で運≠ニいう不思議で、重要きまわりないものに、いっそう関心がわきました。この記事がわずかでも似たような逆境に苦しんでいる誰かの役に立ってくれますように祈りまして、いったん筆を置こうと思います。

追記おわり

(2026/3/29 追記)
理想的な急展開を迎えたタイミングについて追記しておこうと思います。よく精神世界の教えでは、望みを成就させるための一通りの現実的、精神的な段取りを済ませたら、後は手放す≠ニいうことを言いますね。仏教でいう執着から離れる(出離。離欲)≠ニいうことだと思いますが、今回の件も、急展開する前日に、もう1年近く件の案件が全く進展する気配がないので、完全に解決を諦めて、全く別の手段でコツコツ進めていこうと180度の方向転換を考えていたところでした。今思えば、その諦めが、ちょうど良く執着を手放した≠ニいう条件に合致したのかな、と思っています。比べるのもおこがましいですが、ラーマクリシュナも今世で神に出会う望みは絶たれたという完全な絶望のすぐ後に悟っていますし、ミラレパも今世で解脱する望みはもう叶わない、という絶望の際に立たされたとたんに過去の重いカルマが完全に清算された、という逸話が想起されました。やはりやることをやったらあとは完全に結果への期待すら手放すということが物事の成就の最後のスイッチになっているんだなぁ、ということが今回の件でけっこう実感できました。(追記おわり)

posted by 八竹彗月 at 08:36| Comment(0) | 精神世界

2026年03月17日

古書を補修してみました!「粟津潔・デザイン夜講」編

今月はいつになく何かと忙しいですが、それでも合間をぬって息抜きにつげ義春展に出かけたり、古本市に行ってきたりしました。仕事だけでなく、周囲の様々な心配事が一気に湧いてきてる感じで、これも運命的な何かが動き出している兆しなのかな、などと思ったり。せっかく隙を見てつげ義春展に行ってきたので、その記事を書こうと思ったのですが、ある程度テンションを高めてから書きたいので、今回はまた補修の記事でも書きつつ気分を盛り上げていこうと思います。

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粟津潔『デザイン夜講』筑摩書房 昭和49年8月初版
装丁ももちろん粟津潔によるもの。
ご覧の通り全体の周囲に汚れやシミが目立ちます。今回はそれを解消するのが目的です。

今回の補修は、先日の古本市で見つけた『デザイン夜講』という本で、著者はグラフィック・デザイナーの粟津潔(1929-2009年)です。粟津潔といえば、個人的なイメージでは60〜70年代のアングラ演劇のポスターやATG等の映画ポスター、寺山修司の本の装丁など、なにかと異端のニオイのするデザインが思い浮かびます。名字の刻まれた三文判の印鑑がたくさん捺されたデザインや占いの人相図や指紋など、怪し気な素材を駆使してデザインされる独特の異世界的なムードは70年代のサブカルチャーの象徴的なイメージとして根強いのではないか、と感じています。

いい機会なので調べてみると、その一方で、そうしたアングラ系以外では、大阪万博をはじめ、けっこう国際的なプロジェクトでも手腕を発揮しており、思ってたよりもメジャーな舞台でも活躍したデザイン界の重鎮のようでした。1990年に紫綬褒章受章。2000年、勲四等旭日小綬章受章などの受賞歴があり、日本を代表するグラフィック・デザイナーのひとりといっても過言ではないようですね。

メモ参考サイト

今回この本を入手したのは、寺山修司のビジュアルイメージの一端を担ってきた粟津潔というデザイナーへの興味もありましたが、なんといっても決めては粟津潔ご本人のサイン入り!という点でした。通常著者のサインは表紙を開いたときの見返し部分か、最初のトビラ部分の空きスペースに書くのが一般的ですが、この本は、見返しは見開きに全面写真が敷かれており、トビラも怪し気な模様で埋め尽くされていて白地のスペースが無いため、目次の次に来る7ページ目の簡素なサブ的なトビラに当のサインがあります。すぐには分りづらいところにサインがあるので、もしかしたら安価の理由も古書店の店主さんがサインを見逃したせいなのかもしれませんね。なんにせよ、粟津潔のサイン入り本が300円という値札だったので、直筆サインの価値だけでもモトはとれるな、と踏んで購入したのでした。

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芸能人などサインを書くのが日常の人は、読めないレベルで崩した字のサインの場合が多いイメージですが、サインをもらう側の立場からすればこういう感じで普通に読めるサインのほうがありがたいですよね。このような自著へのサインなら予想がつきますが、色紙のサインだったりしたら読めないサインは誰のものか判別不能ですからね。

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と、いうことで、さっそくカバーの汚れをとる作業に入ります。カバーの黄色い紙は画用紙のような質感のマットな紙で、カバーで一般的なよくあるPPコート加工されたものではないため、汚れがつきやすく、水を吸い込むので水や洗剤系での汚れ落としができません。なので、まずはとりあえず消しゴムで汚れをざっと落としました。


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背のあたりに点々とシミが付いています。これは繊維に食い込んだ汚れのため、消しゴムでは落ちません。紙が白地なら漂白剤で落ちるタイプの汚れですが、この紙に漂白剤をつけると汚れだけでなく地の黄色も白くなってしまうため、別の方法で目立たなくすることにします。

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困った時のアクリル絵具です。これで地色に近い黄色を作り、シミの上に塗ってシミを目立たなくしていきます。

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白と黄色を混ぜて地色に似せた色合いの絵具でシミをひとつひとつ消したところ。
シミが前ほど目立たなくなりました。

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他に汚れが付着している箇所をひとつづつ塗りつぶしていったところ。
明らかな目立つ汚れはなくなりました。

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このまま終わってもいいのですが、今後汚れが付着するのを防ぐためA4のOPP袋を2枚使ってカバー全体を包みました。デザイン的な意図としては、デコボコしたワイルドな画用紙風の紙(ワトソン紙?)の質感が、街角に貼られた小劇場のチラシのようなカバーデザインの野性味によく合っていて、テカテカしたOPPで表面保護をするのはちょっと邪道な気もしますが、ここは汚れからの保護のほうを優先しようと思います。

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クリーニングしたカバーで本体を包んだところ。

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裏表紙はOPP袋のつなぎ目がありますが、思ったほど目立たない感じになりました。このくらいなら許容範囲でしょう。

中身はこれから読もうと思いますが、パラパラとページをめくっていると、デザインの話を中心に、小松左京との対談やら、粟津のふたりの親友、松本俊夫と寺山修司に関する評論など、面白そうなエッセイが散見され、意外と読み応えがありそうな本のようで、サインに釣られてgetしたものの、良い収穫でした。

粟津潔といえば、しばしば粟津のデザインで扱われる印鑑や指紋や人相図などの呪術的なエレメントが印象的ですが、こうしたイマージュへのこだわりについて言及している話もあって興味深かったです。

印鑑や活字、指紋などの押しの仕事から、シミへの興味の変化には数年かかっている。それからさらに、表現イメージの変化が起こり、方位とか人相図、家系図、それに地図や海図などの美しさにひかれるのは、それからのちのちのことであったような気がする。p200

粟津潔『デザイン夜講』筑摩書房 昭和49年8月

これは、思潮社版の「マルドロールの歌」(ロートレアモン著 栗田勇訳 1965年)の装丁について話す中で言及される興味深い話です。粟津潔は自分の唇に墨を塗って紙に写した拓本を拡大し表紙のメインビジュアルとして使用するという、デザイナーというよりほとんど前衛芸術家のような奇抜な発想のデザインを試みますが、その話題について書かれた「装丁のこと」というエッセイの中で言及されてました。件の自分の唇の拓本を装丁に使うという非凡な発想は、どうも指紋とか印鑑などの「押し」のデザインにこだわってた時期にうまれたアイデアだったみたいで、そうした創造の舞台裏についての話ってとても刺激になります。


私は大学に行かなかったので、いつも他人より知識面で遅れているのではないかと思っていた。事実そうであったから、少年時代には「街は偉大な教師」であり、青年期は、「劇場であり映画館であり、書物であり、印刷物が私の教師」になることになった。p189

学ぶということは本来自己主体的なもので、本人次第の感受の仕方や在り方であると思う。どんな事物からでも、本来教わる事ができるはずで、それへの関心や情動がはたらくのが先決だろう。私は父がいなかったから、父から教えられた事もなく、学校もろくに行かなかったので、そこで学んだ憶えがないが、教わるということは、多分、事物や事柄や、人間や環境、歴史や伝説について、どこまで主観的、客観的に質問しつづけることができるかだと思う。大いなる質問こそ、大いなる学問であるのだろう。p191

粟津潔『デザイン夜講』筑摩書房 昭和49年8月


これは、粟津が1960年代の半ば頃に武蔵野美術大学商業デザイン学科(現・視覚伝達デザイン学科)助教授に就任、学生へのデザイン教育に携わっていた時期の思い出や「人にモノを教える」ということについての難しさを述べたエッセイの中で言及されていた文章ですが、「街は偉大な教師」だとか「大いなる質問こそ大いなる学問である」などの言い回しなど、とても寺山修司な感じの詩的で哲学的な視点を感じる文章で面白いですね。

粟津がはじめて寺山と出会ったのは昭和36年の春とのこと。大江健三郎の『飼育』が大島渚によって映画化されたとき、ロケ地の群馬の山奥に宣伝用のポスターの打ち合わせのために来ていた粟津は、映画の取材か何かの用事で来ていた寺山とはじめて出会ったそうです。以後粟津が手がけた寺山関係の仕事は、歌集『田園に死す』(白玉書房 1965年)、長編詩『地獄篇』(思潮社 1970年)、『ドキュメンタリー家出』(ノーベル書房 1969年)などの装丁や、戯曲『犬神』のドイツ公演のための舞台美術とポスターなどがあります。寺山への論評を読むに、気の合う友人というよりは、ピリピリした表現者としてのとしてのライバル意識が伝わってきますが、他の文章から感じる隠そうともしない粟津の寺山節から察するに、6歳年下の寺山の飛び抜けた才気に心酔している自分への照れ隠し的な意味合いのようにも感じました。寺山の逝去は1983年ですから、この本の発行年はまだ寺山は存命なので、そういう点からも、忌憚なく意見を戦わせながら互いの才能を認め合う関係だったのかな、という雰囲気を感じました。

ということで、今回の補修は粟津潔著『デザイン夜講』の表紙カバーのクリーニングでした。
御清覧ありがとうございました!


2026/3/18 追記)


今回は粟津潔の本のカバーを補修しましたが、ついでに

以下、蔵書の中から粟津デザインの本をいくつか挙げたいと思います。


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(左)『地獄篇』寺山修司著 粟津潔デザイン 思潮社 1983年
(右)『粟津潔デザイン図絵』粟津潔 青幻舎 2006年

寺山修司の長編詩『地獄篇』のカバーは、粟津の手書きで紙にビッシリ書かれた寺山の詩『地獄篇』の抜粋が地紋のように背景に敷かれています。粟津潔のデザインのユニークなところは、こういう前衛的な手法と呪術的な情念のようなものが同居しているところですね。中身の寺山の詩も、タイトルはおどろおどろしいですが、寺山らしいアングラ遊園地といった感じのシュールで情念的なオモチャ箱のような詩集です。右は粟津潔の初期の作品集『粟津潔デザイン図絵』で、オリジナルは田畑書店から1970年に刊行され、この青幻舎版はその復刻版です。こちらも70年代当時のアングラでサイケな空気感が猥雑に濃密に詰め込まれた粟津のデザインとアートの作品集で、とてもスゴイ内容です。


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『粟津潔デザイン図絵』より。印鑑のモチーフは粟津潔デザインのシンボリックなイメージですよね。呪術的シュルレアリスムとでもいった感じの粟津独特のセンスに彩られたビジュアルがこれでもかと詰め込まれた作品集です。ページをめくる楽しさに満ちた傑作。序盤に載っているレアな18ページの粟津の漫画「因果説話・すてたろう」も見所ですね。


メモ参考サイト
1970年刊行の田畑書店版の復刻本。私のもってるのはこちらの復刻版のほうです。出版社の青幻舎さんのサイトに数ページサンプルが載ってましたので気になる方はぜひご覧ください。こういう感じのサイケでアヴァンギャルドな462ページの作品集になっています。元の田畑書店版は古書店のサイトにいくつか画像があったので確認しましたが、オリジナルは赤い箱入りの装丁で、こちらもまた怪し気なオーラがあって素敵ですね〜。『粟津潔デザイン図絵』は、分厚い辞典のような存在感のある本で、中身は本業のグラフィックデザインの仕事から、アート作品、などが縦横無尽にカットアップされたまるで一冊の実験映画のような本。造本から中身のアーティスティックなグラフィック構成は、講談社から刊行された横尾忠則の『横尾忠則全集』を思わせますが、調べてみると発行年は田畑書店刊行の『粟津潔デザイン図絵』のほうが1年早いですね。横尾さんも当時は画家ではなく粟津潔と同じ同業のグラフィックデザイナーでしたし、当時の横尾さんもけっこう粟津潔の影響を受けてたのかもしれないですね。


松本俊夫との親交も今回補修した『デザイン夜講』に書かれてましたが、そういえば松本俊夫のBOXのデザインも粟津テイストだったな、と思い出して引っ張り出してきました。『松本俊夫全劇映画』。クレジットを見ると、やはり粟津デザインでした。この地層のような、あるいは瑪瑙のような波打つ線のパターンも特徴的な粟津デザインらしさを醸し出していますね。このボックスは、松本俊夫の長編映画をすべて収録したセットで、大好きな『ドグラマグラ』と『薔薇の葬列』を目当てに購入しました。気になって中古価格を検索してみると、定価の2〜4倍のプレミアが!当時定価で買っておいて正解だったようです。こういうマニアックな商品は定価が多少高めでも、買い逃すともっと高額に化けてしまうので、好きな作家のものは思い切って買うしかないですね〜

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『松本俊夫全劇映画』2004年 販売元 エスピーオー

(追記終わり)
posted by 八竹彗月 at 05:41| Comment(0) | 古本

2026年03月11日

古書を補修してみました!「夢の軌跡」編

先日、百均の古本市でまたいろいろと10数冊購入しました。古本市も古書店も、多くの場合とくに目当ての本があって行くところではなく、その場で面白そうな本との一期一会を楽しむイベントなので、今回も適当に1、2冊程度なにかピンとくる本があれば買おうと思って出かけたはずが、意外とぐっと来る本が多く、つい買い込んでしまいました。とはいえ一冊百円なので、財布の痛みは無いものの、溜まる一方の本の山をどうするかを考えなくてはいけないフェーズに入ってきつつあります。

それはそれとして、今回もちょっと手間のかかる補修をしたので、せっかくなので記事にしてみることにしました。せっかくだから〜せっかくだから〜

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『セリ・シュルレアリスム=2 夢の軌跡』アンドレ・ブルトン著 山中散生、清岡卓行、小梅永二編 国文社 1970年3月10日初版発行


今回補修するのは国文社刊行のシュルレアリスム叢書、『セリ・シュルレアリスム』シリーズの2巻目、アンドレ・ブルトン著の『夢の軌跡』です。画像のように、カバー無しの状態です。まぁ、そういった欠点が無ければなかなか百円では手に入らない本ですし、内容も錚々たるシュルレアリストたちやオカルティスト、詩人などの夢をテーマにした文章と絵をブルトンが監修しているというもので、なかなか興味深いものを感じたのでお迎えしました。

また、奥付を見ると、初版本であることが判明!個人的には初版本マニアなわけではないですが、初版本には、その本が「はじめて世間に流通した時」に思いを馳せる気持ちよさがありますね。本が情報目当てであるなら、版を重ねた本のほうがその都度誤字の訂正や加筆があったりする可能性もあるので、むしろ新しいほうが良いですが、古書マニアはそういう合理的な価値観よりもロマンを優先するところがあります。また、中身が変わらなくても、版を重ねる程度に人気のある本のカバーデザインは定期的にリニューアルされる傾向があるので、そういう意味でも初版本は愛着がわきやすいですね。

ちょうど現在、SNSで三島由紀夫の新潮文庫の初期のカバーデザインを懐かしがるポストが話題になってましたが、それと同じように、デザインの善し悪しというよりも、初版のデザインというのは懐かしい「思い出」と共に記憶に刷り込まれているため、どんなに良いデザインにリニューアルされても、リニューアルされること自体を快く思わない層は一定数存在します。デザインでも政治でも、万人に受け入れられるということは、なかなか難しいものなのでしょうね。

今回の『夢の軌跡』は、カバー無しでしたが、だからこそ安価に手に入れられたわけですし、最初はあまり気にせず「中身が読めればまぁ、いいか」と思ってました。しかし、よく見ると今回も背表紙の字がかすれて読めないということに気付きました。布クロス張りのハードカバーに不透明インクを捺して印字してあるので、何回も触ったりしてると以下の画像のようにすぐインクが剥がれて読めなくなってしまいます。読書のときには背表紙に手のひらが当たってよくこすれるのでダメージが蓄積しやすい部分です。通常はカバーのお陰で表紙はダメージが入りにくい部分ですが、カバー無しだとモロにそういう部分にダメージがいきますね。カバーありでも、カバーデザインが箔押しなどの擦れに弱い印刷の場合はよくインクがはがれるので、大事にしたい本は事前に対策しておかないと後々後悔しますね。

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うっすらと「夢の・・・」あたりが判読できる程度です。まぁ、これも、「フホホホ!ブログのネタにこの本でもどうじゃ!」という感じで、本の精霊に導かれた本なのでしょう。こういう場合、いつもだと背表紙だけ作って貼付ければすぐ済むのですが、今回は布地なので、難易度が高そう、ということで、背表紙は下手にいじらずにカバーを作って包むことにしました。

後から考えれば、いつぞやのように、布クロスの上から印字したアイロンプリント用紙で転写という手もあったな、と気がついたのですが、もうカバーを作っちゃった後なので、また今度似たようなダメージの本があったら試してみようと思います。でもよく考えたら、そのそも今回は黒の布クロスなので、インクジェットのインクでのアイロン転写は不可能(黒地に転写しても不透明インクでないために読めない)ですから、どのみちカバー作成が今回はベストな選択だったような気もしますね。

と、いうことで、元のカバーデザインを参考にしようと検索してみると、1970年代と比較的近年の発行ということもあり、そこそこ普及しているシリーズでもあるのか、けっこうたくさん検索にひかっかりました。

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当初は、似た感じでデザインしようとはじめたのですが・・・・

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(上)イラレでバラ打ちした文字要素を本のサイズに合わせたカバーに置いたところ。
(中)文字の書体や大きさを調整。背景を黒にしたのはとくに意味はありません。
(下)実際の色味に似せていきます。

しかし、カバーにレイアウトされているエルンストのペン画っぽい挿画の高解像度の画像がなければあまり本物に似せれないので、今回は原本のデザインに似せるのは諦めて、オリジナルのデザインで作る事にしました。

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ということで、こんな感じのカバーにしてみました。背表紙だけはオリジナルに近い感じにしてあります。挿画は適当にハンス・ベルメールの版画を引用しました。表紙も地色や挿画は異なるものの、文字の大きさや書体やそれぞれのエレメントの配置自体はおおよそオリジナルに寄せてみました。左のソデに表紙挿画のクレジット、右ソデにはオリジナルデザインのサムネールを配置しました。

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A4プリンターなので、カバー全体が入りません。なので、「表紙」「裏表紙」「左右ソデ」の3つのパーツに分けて印刷して、あとで貼り合わせます。左右ソデの上に模様の入ったオビがありますが、これは余白を有効利用して自分用の栞にするためのもったいない精神≠フあらわれですので今回の話と関係のあるものではありません。

カバー自作をしてると思うのは、なんでもコンパクトが一番!みたいな価値観は、この場合は当てはまらないなぁ、ということですね。まさに、大は小を兼ねる、という金言どおり、プリンターもスキャナーも予算が許すならA3対応のものを導入すべきと痛感します。(ちなみにスキャナーはエプソンのA3まで対応の大きなものを持ってますが、古い型のものなので非常に重く、引っ越し時は大変でした。スキャナーは20年以上前の型ですが現役で今も快調です。プリンターほど使用頻度は多くないですし、消耗する部品もないためかけっこう長持ちで助かります)

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プリントアウトしました。下はそれの使用部分を切り抜いたもの。上の栞はついでに作成したもので、あとで読書のときに使う用のものです。

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幅広の補修テープでそれぞれのパーツを貼付けます。
表紙とソデには幅を半分にしたもので繋げ、背表紙部分はそのままの幅で貼付けて補強しました。
大きな紙に印刷できればこういうつなぎ目無しで作れるので、初期投資ってほんとに重要ですね。まぁ、とはいっても売り物を作っているわけでもなし、自分の利便性が主目的なので、細かい事はあまり考えないことにしましょう。

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で、張り合わせてこんな感じになりました。これで本体を包もうなか、と思ったのですが・・・

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マット紙と補修テープの光沢とのつなぎが思いのほか目立つので、さらにA4のOPP袋を左右に入れることにしました。紙の汚れも防げるので一石二鳥です。

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自作カバーで包んでみました。テープの跡が多少気になるものの、背表紙が読める状態にするのがそもそもの目的なので、これで良しということにします。

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きちんと背表紙が読める状態になりました!

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ちょっと手間がかかりましたが、おかげで本棚に入れてもすぐ判別できるようになりました。これにて一件落着です!
ということで、今回はアンドレ・ブルトン著『夢の軌跡』に自作のカバーを作って背表紙問題を解決する回でした。御清覧ありがとうございました。





posted by 八竹彗月 at 07:21| Comment(0) | 古本