2017年10月17日

バベルの塔とバベルの図書館

バベルの塔について

「さあ、町と塔を建てて、その頂を天に届かせよう。そして我々は名を上げて、全地のおもてに散るのを免れよう」
旧約聖書・創世記:11章



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19世紀フランスの画家、ギュスターヴ・ドレ(1832-1883年)の描くバベルの塔の版画。頂上が雲で見えなくなってしまってる荘厳な描写が圧巻です。天に届くかのようなものすごい高さを暗示させる絶妙な表現ですね。人々が塔の周囲で嘆き悲しんでいる様子ですが、ちょうど神の技で言葉を乱され互いに意思疎通が不可能になった瞬間を描いているのでしょうね。人々は互いにコミュニケーションがとれなくなってしまい、塔の建設どころではなくなっている、という場面ですね。

塔というのは、実在の建築物として存在していながらも、古くは宗教的な目的で建造されてきた歴史もあって、もともと居住を目的とする建物というイメージは全く無いですし、それゆえ実用を超えた目的性が、ある種の違和感を呼び起こし、どこか見えない世界の超越的な事象を寓意的に表しているいるかのような、不思議な印象を抱かせます。そうした意味での塔というと、まさに聖書に登場するバベルの塔、あの人類の潜在意識の雲間を破ってそびえ立つかのようなバベルの塔の強烈なイメージがやはり大きく影響しているような気がします。子供の頃に横山光輝原作のアニメ「バビル2世」の再放送を見てた記憶も手伝って、無限に空にそびえる魔性の塔のイメージに遊ぶことはとても甘美な愉しみでもあります。

バベルの塔の最も著名なイメージはピーテル・ブリューゲルによる2枚のバベルの塔の油彩画であろうと思いますが、個人的には、もうちょっと高い塔が好みなので、ギュスターヴ・ドレやアタナシウス・キルヒャーの版画に描かれる異常に高いバベルの塔のイメージのほうにより惹かれます。神話の世界の話にでてくる塔なので、実在したかどうかはともかく、「本物のバベルの塔」というものを見た者はいないわけで、だからこそ画家にとっては想像力をかきたてるチャレンジしがいのあるテーマであるに違いありません。

バベルの塔の伝説のルーツは旧約聖書の創世記11章の序盤にあるわずか十数行程度の記述で語られる物語です。通説では、天に届くような塔を建てようとすることは、神と等しくなろうとする人間の傲慢であって、それが神の怒りにふれて民の共通の言葉を混乱させて意思の疎通ができないようにしたため、塔の建設を諦めて各地に散った、とあります。バベルの塔を象徴しているといわれるタロットカードの塔のカードでは、天の怒りを表すカミナリが塔に落ちて塔の上部にいた人々が足場を失って落下する様子が描かれているので、なんとなくバベルの塔は神の雷(いかづち)で破壊されたかのようなイメージがありますが、聖書の記述では、神が民の言葉を混乱させたことで、塔の建設を諦めたという話になっていますね。つまり神が塔を壊したわけではなく、人間側が単に塔を建造するのを途中で止めた、ということですね。神が人類の言葉を混乱させた、というところから町の名前がバラル(乱す)とバビロンをかけてバベルとなった、とのことですから、正確にはバベルというのは塔につけられた名前ではなく、塔を建てようとした町の名前なんですね。バベルという響きにも長年に渡って人類がその言葉の中に様々なイメージを練り込んできたおかげで、独特の怪し気な波動を発するユニークな単語になっているように感じます。

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タロットカードの「塔のカード」

バベルの塔の事件が起こる前には、あのノアの箱船の物語がありますから、つまりはバベルの塔建設を企てたのは大洪水を生き残ったノアの子孫ということになります。地球を飲み込む大洪水という、未曾有の危機を乗り切った人類の生き残りがこの話の主要なキャストなわけで、だからこそ、「全地のおもてに散るのを免れよう」、つまり生死を共にした絆の深い親族たちとずっといつまでも健やかに一緒に暮らせるようにと町を作ろうとしたわけですね。人情としてすごく理解できるので、そうした人間達の結束を壊すのは神のイジワルのようにもみえます。しかし、一カ所に固まって暮らしてたら、天災や事故などで人類が絶滅するリスクが高まりますから、神としては、人類の種の保存のために、各地に散らばらせていろんな環境に適応させたかったのかもしれませんね。

そうしたことからも、私が思うに、天に届くような塔を建てようとすること自体は神的にはどうでもよくて、せっかく生き残った人類が狭い町に固まって生活しようとすることにダメ出しをしただけのようにも感じます。バベルの塔というのは傲慢の象徴というよりは、わずかに生き残った人類の結束のシンボルという印象をうけます。前代未聞の大洪水を経験している生き残りの子孫ですから、また洪水が起こっても水没しないだけの高い建物を作ろうと考えるのは傲慢どころか、普通の人間心理ともいえます。しかし神の視点で見れば、大洪水で数が激減してしまった人類が一カ所に固まって暮らすというのは生存の可能性を狭めるだけのリスキーな選択でしかなく、愛のムチで人類の言語を混乱させて人々を世界に分散させることのほうが大局的には人間のためであると考えたのかもしれません。「生めよ、増えよ、地に満ちよ」(創世記:1章)というのが当初から人間に与えられた神の指令ですから、そういう意味では一貫しているともいえます。と、まぁ、筆に任せて適当に解釈してみましたが、創世記は聖書の中でもとくに寓意に満ちた神話的な部分なので、いろいろ想像がふくらみますね。

ノアの箱船の残骸が発見されたとか、バベルの塔は実際にあった、とか夢のある仮説もいろいろあるようですが、神話の中の話だと思われていたトロイの遺跡を発掘したシュリーマンのような前例もありますし、聖書の寓話も、何らかの実話を元にしている可能性もあるかもしれませんね。

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ピーテル・ブリューゲルによるバベルの塔はふたつのバージョンが現存していて、1563年作(左)と1568年作(右)です。2作目のほうがより高く重厚感が増していて、2枚を並べてみると、作りかけだった塔が完成していく様子を時系列で眺めている感じで面白いですね。先日の「バベルの塔展」で来日したのは塔建造の完成に近づきつつある様子の2枚目のバージョンのほうです。生で見れた人がうらやましい!ブリューゲル以前のバベルの塔の図像は円錐形よりは四角い筒のような形状の教会風のデザインの塔をみかけますが、もしかするとお馴染みの螺旋状の塔の形状もブリューゲルがハシリだったのでしょうか。

バベルの塔のビジュアルイメージといえばブリューゲル。ブリューゲルのバベルの塔といえば、先日まで東京、大阪で開催されてた「バベルの塔展」ですが、行こうかな〜どうしようかな〜と思っているうちに結局行きそびれてしまいました。そのうちまた縁があれば見てみたいです。調べていくとブリューゲル以外にもバベルの塔を描いた画家はたくさんいて、けっこういい感じのものもあります。ブリューゲルの塔は、自分が想像しているバベルの塔よりも低く、もっと天を突くくらいの高さが欲しいと常々思ってたのですが、そういう絵も調べてみるとけっこうあって、そうした絵を見てると空想をかきたてられて楽しいです。

アタナシウス・キルヒャー(1601-1680)といえば、主に荒俣宏の啓蒙で日本でも広く知られるようになった17世紀のドイツ出身の奇想の博物学者ですが、そのキルヒャーの本に、ブリューゲルよりバベル度の高いバベルの塔が載っていて、とてもいい感じの雰囲気です。神話的な塔であるにもかかわらず、建築の図面のように図鑑の絵らしく真面目に描かれているので、かえって奇妙な雰囲気を醸し出してしまっているのがキルヒャー流といった感じですね。

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アタナシウス・キルヒャー著『バベルの塔』に所収されているバベルの塔の版画。(ニューヨーク公共図書館・デジタルコレクション より)

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こちらも同書に所収のものと思われるバベルの塔。
上記のと違って、こちらはブリューゲル版のバベルの塔をスタイリッシュにしたようなフォルムでお洒落ですね。1679年の作品のようですが、どことなくロシア・アヴァンギャルドのアーティスト、ウラジミール・タトリン(1885-1953)の代表的な作品、「第三インターナショナル記念塔」を思わせる雰囲気もあって、現代的なかっこよさを感じますね。


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赤瀬川原平著『櫻画報激動の千二百五十日』青林堂 1974年
なんともシュールな「バベルの青林堂」。件の「アカイ、アカイ、アサヒ、アサヒ」のアレで、朝日ジャーナルの回収騒動を起こしたことで知られる赤瀬川原平の初期の代表的な仕事のひとつ『櫻画報』をまとめた作品集からのヒトコマです。朝日ジャーナルの連載が打ち切りになった後に漫画雑誌「ガロ」に発表の場を移したことをユーモラスに表現しています。ガロの出版社、青林堂といえば作家に原稿料を払えないほど厳しい経営状態が慢性的に続いていたのは有名で、朝日ジャーナルでの問題のコピーをもじって「アカイ、アカイ、アカジ、アカジ」と書き入れていますね。茶化すだけでなく、掲載の場をつくってくれた青林堂をバベルの塔のような立派すぎる社屋で描き、あからさまにヨイショしてるのが原平さんらしくて笑えます。この後、青林堂の経営はさらに厳しくなり、80年代には材木屋の二階に間借りして編集を続けたのはもはや伝説的な語りぐさになりました。とはいえ、原稿料が出ないかわりに作家の作品に編集が一切手を入れないという独自のシステムにより、自由な表現の場を求める有名無名の錚々たる作家達を惹き付け続け、日本のアンダーグラウンドカルチャーの重要な育成機関になっていたので、とくに漫画文化の躍進を裏で支えていたのはガロのような雑誌だったのかもしれません。

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ちなみにこの本、昔古書店で手に入れたもので、原平さんのサイン入りです。家宝ものですね。哲学的空想とシニカルなユーモアあふれる独自の表現で日本の戦後芸術に影響を与えてきた原平さんでしたが、生活そのものを芸術として遊ぶような、人生を楽しむセンスも今も学ぶ所が多いです。

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ロジェ・カイヨワ著『文学の思い上がり その社会的責任』中央公論社 1959年
原題は『Babel, orgueil, confusion, et ruine de la littérature(バベル、誇り、混迷、文学の荒廃)』で、バベルの塔のことについて書いてある本ではなく、辛辣な戦後文学の批評がテーマです。単純に装丁に使われている原題からのBABELの文字がかっこよかったので入手しました。束に金色のインクが塗られていてお洒落な本です。中身は超辛口の文芸批評ですが、フランス人批評家らしい知的な語り口が絶妙に刺々しさをオブラートに包み込んでいる感じのポエティックな文体で、勉強になりそうな本です。



メモ参考サイト
「バベルの塔、教訓と絵画集」(のぶなが様のサイトより)
いろいろなバベルの塔を紹介されています。

ブリューゲル以前のバベルの塔。15世紀の画家、マイスター・デ・ミュンヘン・レジェンダ・アウレア(Meister der Münchner Legenda Aurea)の作。
ブリューゲル以前のバベルの塔は宗教色が濃い感じで、塔の形状も教会っぽいゴシック様式ですね。神が怒りだすほど高い塔に見えないですが、そんなところも愛嬌があって微笑ましい図像です。この高さで神罰がくだるなら、現代ではマンションや団地でさえ普通にこれより高いですから、東京都庁とかサンシャイン60とか、かなりけしからん建物ということになりそうです。

ルーカス・ヴァン・レッケンボル (Lucas van Valckenborch 1535-1597)のバベルの塔。1594年作(ウィキペディア・コモンズ)
ブリューゲルのバベルの塔の建設がさらに進んだ感じの雰囲気で、だいぶ完成に近づいてきてる様子ですね。

トビアス・ヴェルハヒト(Tobias Verhaecht 1561-1631)作のバベルの塔。
コロッセオを積み上げたようなスタイリッシュなローマ様式の建築がいいですね。天に向かって増殖していく塔の階層構造がかっこいい!

ポール・ゴセリン(Paul Gosselin 1961- )によるバベルの塔。
現代のベルギーの画家による2011年の作品。昆虫の巣みたいな感じですね。たしかに、ブリューゲル系のバベルの塔を完成させると、仕上がりはこんな感じになるでしょうね。こうして見ると、やはりバベルの塔は未完成だから美しいものなのかもしれません。

イラクの螺旋の塔、マルウィヤ・ミナレット(ウィキペディア・コモンズ)
イラクの至宝と評される螺旋式の塔、マルウィヤ・ミナレット(Malwiya Minaret)もバベル感のある神秘的な塔ですね。852年に建造されたこのミステリアスな塔は、螺旋状に天に伸びる形状が神話的でぐっときます。調べてみると、そもそもドレやブリューゲルをはじめとした西洋人の描くバベルの塔のイメージは、まさにこのマルウィヤ・ミナレットがモデルになっているそうで、言われてみるとさもありなんといった感じですね。




バベルの図書館について

バベルの塔は、もしも神様のダメ出しが無かったとしたら、無限に天に向かって建造されていったのかもしれませんね。バベルというと、以前の塔をテーマにした記事でも触れたホルヘ・ルイス・ボルヘス『バベルの図書館』が思い起こされます。バベルの塔の全ての階に本棚を設置して無限の本を収納していくというのはビブリオマニアの甘美な空想ですが、ボルヘスの想像した図書館は、そういう判りやすい構造ではなく、塔というより宇宙そのものを図書館に見立てたような突拍子も無いアイデアです。寺山修司を心酔させた南米文学を代表する巨匠だけあって、その哲学的で深遠な作品は読む者を思考の迷宮に誘いこみます。

その宇宙(他の人々はそれを図書館とよぶ)は、中央に巨大な換気孔がつき、非常に低い手摺(てすり)をめぐらした不定数の、おそらく無数の六角形の回廊から成っている。どの六角形からも、はてしなく上下の階がみえる。回廊の配置は不変である。一辺につき五段の長い棚が二十段、二辺を除くすべての辺をおおっている。その高さ、すなわち各階の高さは、ふつうの図書館の本棚の高さをほとんどこえていない。棚のない一辺はせまいホールに通じ、それは最初の及び他のすべてのものと同じもう一つの回廊に通じる。(p55)

言いかえれば、あらゆる言語で、およそ表現しうるものはすべてである。そこにはあらゆるものがある。未来の詳細な歴史、大天使の自伝、図書館の信ずべきカタログ、何千という偽のカタログ、これらのカタログの虚偽性の論証、王たちのグノーシス派の福音書、この福音書の注釈、きみの死の真実の記述、それぞれの本のすべての言語による翻訳、すべての本の中でのあらゆる本の書きかえ。(p58)

ボルヘス『バベルの図書館』より

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(ホルヘ・ルイス・ボルヘス著 篠田一士訳『伝奇集』所収 集英社 1984年)


ボルヘスの「バベルの図書館」は、六角形が基本構造になっています。6という数字は数学的にもユニークな数字で、自然数で最初の完全数でもあります。完全数とは自分自身を除いた全ての約数の和がそれ自身と等しくなる数のことです。6の場合は、約数が1、2、3で、それらを全て足すと1+2+3=6となり、それ自身と等しくなります。また六角形というのは自然界では蜂の巣などにも見られる頑丈な構造(ハニカム構造)で、工業的にも有用なものですし、亀の甲羅や雪の結晶や水晶の結晶など、自然界の様々な場面で六角形が姿を現します。おそらく、そうした暗示もバベルの図書館の構造にはあるような気がします。

図書館のイメージとしては蜂の巣のような感じで同階層の前後左右に無限に連なり、また上下にも階段を通じて無限に空間を埋め尽くしているという感じで、前述したとおり「バベルの」というわりには「塔」のイメージとはほど遠い建造物といったイメージです。どことなく映画『CUBE』の部屋の構造(こちらは六角形ではなく立方体ですが)にも通じるようなところがありますね。上下左右に無限に部屋が連なっているということは、すべての空間がこの六角形の部屋で埋め尽くされているということであり、これはボルヘスも最初に「その宇宙」と言っているように、まさに別世界のもうひとつの風変わりな宇宙そのものです。その宇宙ではたくさんの本が書架に並んだ無数の六角形の部屋だけで宇宙の全ての空間を満たしているという異様な世界です。

想像してみると、上の階層に行きすぎれば登山のように酸素が薄くなりそうですし、ものすごく下の階層では気圧もものすごいことになってしまわないだろうか、とか心配になってきます。まぁ、こういう宇宙であれば、「そもそもどこから酸素が供給されているのか?」などといった疑問も含めて、こういう宇宙なりの都合に合わせた物理法則がありそうですし、全ての空間における気圧やら重力やらの設定値は一定に保たれてるのかもしれません。しかし、本を収めるための部屋しか存在しないような宇宙では、本を書くにしても、読むにしても、この本だらけの部屋について以外のことは経験できないはずですし、読書体験を生かすための外の世界もありません。空の青さや広さという概念すら想像で補うしかない状態では、物語というのが成立しがたく、そもそも本に書かれた内容を理解するための最低限の素養や人生経験が無い状態での読書とは何か?とか、考えだすと思考の迷宮に入り込むような感じです。ボルヘスはあえてそういう切り口では書いていないため、逆にそういう諸々の思考実験を楽しめる余地があり、そうした所もこの作品の魅力なのかもしれません。

まぁ、この図書館のイメージは、そのように物理的な実在としてヤボなつっこみをいれても意味はなく、それは書物フェチの妄想する観念の遊戯としての世界ですから、ボルヘスといっしょにこの異様な図書館に入り込んで、思う存分に夢の迷宮世界に遊び、その官能の世界に浸りきるのが正しい読者の在り方ではありますね。

ところで映画『CUBE』では、上下左右に無限に連なった立方体に登場人物たちはいつのまにか閉じ込められていた、という設定でしたが、「バベルの図書館」でも同様に、この話に登場する語り手や司書たちといった登場人物は、入り口も出口も無い「バベルの図書館」という壮大な閉鎖世界にどうやって入り込んだのか?という肝心な部分の詳細をあえてぼかしているために、カフカや安部公房などの作品に通底するような不条理な感覚がありますね。

しかし、よく思い起こしてみれば、私たちもまた、「バベルの図書館」を徘徊する司書達と同じように、この宇宙にあるこの世界に、理由も目的も知らされないままに産み落とされて、いつのまにか存在しているわけですし、『CUBE』の登場人物たちが自分たちのいる立方体の部屋について何の情報も持たないまま置き去りにされているのと同じように、この宇宙はどういう仕組みで何のために機能している世界なのかを知らない状態で私たちは生きています。そういう意味ではボルヘスやカフカなどをはじめとした文学や映画などの不条理劇は、単に不条理な物語というよりは、我々の現実の実存をそのままリアルに写し出している鏡のような世界でもあります。「バベルの図書館」は、人生や宇宙の謎を図書館に収蔵された書物に例えて、自らが生まれ落ちたこの世界の謎を読み解こうとする人類の営みを寓意的に象徴しているのかもしれませんね。


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映画『CUBE』ヴィンチェンゾ・ナタリ(Vincenzo Natali)監督 1997年 カナダ
低予算作品ながら抜群に面白い発想とシナリオが人気を呼んだ『CUBE』、後年いくつかの類似作品が作られましたが、やはり原点であるこの作品を凌ぐことはできませんでしたね。無限に連なる立方体の部屋に閉じ込められた7人の登場人物による脱出劇です。素数などの数学的要素がカギになってるあたりもツボでした。


メモ参考サイト
バベルの図書館の図解「草子ブックガイド 早稲田文学編 第6回」(玉川重機様)(PDF版)
ボルヘスの「バベルの図書館」を漫画家の玉川重機さんが絵で丁寧にビジュアルに説明されています。たしかに文章だけでバベルの図書館の構造をイメージするのはけっこう難しいので、こうした噛み砕いた解説はとても参考になりますね。

「バベルの図書館」の構造(pastel-gras様のブログ「集積---イメージ・ことば」より)
記事によりますと「バベルの図書館」が収録されている短編集『伝奇集』は初版の1944年版と後の1956年版とでは図書館の構造に関する重要な部分に加筆修正がされているという興味深い指摘がされています。最初のアイデアでは、「バベルの図書館」はバベルの塔のイメージをそのまま象徴する感じで上下に無限に伸びる塔ような構造だったみたいですね。

「バベルの図書館」のビジュアルイメージ(Googleイメージ検索)
ボルヘスの夢想した図書館は、具体的にどういう構造で、どういう見た目なのかというのは、ボルヘスファンでかつ絵心のある人ならチャレンジしたくなるテーマですね。案の定、多くの絵師により様々なビジュアルイメージが作り出されているようで、見ているといっそう空想に拍車がかかりそうです。

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「バベルの図書館」を再現したサイト(ジョナサン・バジル様)
web上で「バベルの図書館」を仮想体験できる風変わりなサイト。作成したのはニューヨークの作家ジョナサン・バジル(Jonathan Basile)氏。アクセスして「Browse」をクリックすると図書館に入り込めます。原作に書かれている設定どおりに、六角形の部屋の壁に本棚が設置されており、すべての本は410ページで構成されています。使い方をいまいち理解していないのですが、任意の書架をクイックすると本棚が正面に現われるので、適当な本をさらにクリックすると中身が閲覧できます。文字列はランダムに生成されるようなので、意味のある文章が出てくるまで本を物色してたら人生が終わってしまいそうです。

「バベルの図書館」の蔵書数は?(「巨大数研究 Wiki」様)
我々の宇宙の広大さと物質のバリエーションに較べたら、六角形の部屋が重なってるだけの単調な「バベルの図書館」という名の宇宙は、さほど驚愕するにあたらない世界のように思ってしまいますが、「バベルの図書館」の蔵書数を実際に計算すると、上記サイト様の計算によれば、その蔵書を全て収める図書館を作るためには、どうやら現在観測可能な我々の宇宙を軽く上回る程度に広大な敷地を必要とするようですね〜

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塔のロマン
posted by 八竹釣月 at 11:16| Comment(0) | 古本

2017年09月26日

古本散策日記

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先週から古本市などで手に入れた本を適当にご紹介します。適度に離れた距離に古書会館があり、毎週のように近隣の古書店が複数参加しての古本市を開催していて、散歩がてらいい気分転換になっていますが、だいたいソコで良さげなものが見つかるので最近はあまり遠出して古本市に出かけることは無くて、近場の古本市や古書店に行く事が多いですね。古書会館で催される古本市は、デパートなどで開催される古本市より場所代が安いためか、平均してかなり安価で売られているのも魅力です。古書会館に足を運ぶようなマニア濃度が高そうな客層を意識してか、安いだけでなく、レア度もそれなりに高いものをよく目にします。今回ご紹介するのは、とくにレアなものではないですが、こうして集めた本をあらためて見てみると、最近自分の関心のあるテーマが何なのかが客観的に確認できて面白いです。




中国の好色美術『春宮画』の魅力

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『YUN YU , ÉSSAI SUR L'ÉROTISME ET L'AMOUR DANS LA CHINE ANCIENNE』Nagel社 1969年

世界の好色美術を紹介する大型美術本のシリーズの中の一冊で、これは中国の好色美術をテーマにした画集です。シリーズには、中国のほかにインド、アラビア、ローマ、ギリシャ、アフリカ、そして日本の春画を紹介した本も出ています。世界の好色美術の中でもここ最近は中国の春画が気に入っていて、そうした本もすでに何冊も持っているのですが、まだ見た事の無い図版がいくつも紹介されてたのでゲットしました。

フランス語の本なのでフランスで出版された本かと思いきや、スイスのジュネーブにある出版社から出されたもののようです。スイスはドイツ語、フランス語、イタリア語、ロマンシュ語の4つを公用語とする国ですが、6割以上はドイツ語で他は少数派みたいですね。

日本の、主に江戸期に流行った好色絵画を一般に春画と呼びますが、この言葉も元は桃山時代に中国から伝わった春宮秘戯図(春宮画)が語源だという説があります。日本の春画は庶民文化が花開いた江戸時代に作られたために、庶民の性生活がモチーフになっているものが多いですが、中国の春宮画は宮廷生活を背景にしたブルジョワ感ただよう華美なものが中心で、そうした違いも見てて楽しいです。春宮画に限らず、中国美術に頻出するモチーフ、芭蕉の木、主に太湖石などの奇石、幾何パターンの中華模様などがエキゾチックなパラダイス感を醸し出していてなんともいえない魅力があります。

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(上)芭蕉の木が南国っぽい情緒を醸し出していて不思議な楽園感覚がありますね。(下)西洋にもこうした歪み絵(アナモルフィックアート)の伝統がありますが、中国でもこういう絵が描かれてたんですね。

メモ参考サイト
現代の美術家によるアナモルフィックアート(「ラビトーク!」様)




かな草書に憧れて

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『書体字典 かな編』野ばら社 1965年

かな草書の勉強に、と思って手に入れました。同じ字でも書家によって崩し方は実に多様ですね。バランスを良くするためや、リズム感をつけるため、また次に続く文字と繋げやすくするために、例えば「も」だったら「毛」だけでなく「母」を崩した「も」を使う場合もあり、とても感覚的で奥が深いです。現行の仮名の変わりに、変体仮名を使ったりすると玄人っぽくてかっこいいですよね。




仙人の性生活

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『世界性学全集13 東洋性典集』性問題研究会編 河出書房新社 1958年

世界の性学(Sexlogy)を集めたシリーズの13巻目。他の巻はフロイトをはじめとした西洋の性学で東洋の文献を紹介しているのはこの巻のみです。古本市の書架でこの本をパラパラとめくってたら、老子がこう言ったとか、彭祖(ほうそ。荘子などに登場する超長寿の仙人)がああ言ったなどという文が出てくるので、てっきり中国の房中術関係の文献集かな、とおもってゲットしたのですが、収録されている文献は主に江戸期に日本で書かれたもので、中国の房中術(道教の性技術)や養生術(道教の健康法)関連の古典を編纂したり解説した本を紹介しているものでした。まぁ、当たらずとも遠からずで、けっこう興味深い文献が多く紹介されていて面白いです。

中国の性学、とくに道教系の、仙術に関するテクニックに房中術というのがあって、かつて諸星大二郎の短編『桃源記』にも言及がありましたが、これは大まかに言うとセックス健康法みたいなものです。仙人になるための性行為という視点なので、いわばセックスで超人になる術という、壮大なロマンを感じるテクニックが開発されていてすごいです。仙人というと眉唾なイメージで捉えられがちですが、古代中国の房中術は、古代インドのタントラと並んで、現代の西洋でもエナジーオーガズムとかマルティプルオーガズムなどに取り込まれ、性テクニックを超えた、ある種の覚醒を伴うスピリチュアルな側面もある性の技術として見直されてきてます。よくオナ禁すると健康や運勢にものすごい効果があるという俗説をネットで見かけることがありますが、古代中国の仙人が行っていたのもそれと似ていて、男性であれば、とくに40歳を越えたら1滴も精液を漏らしてはいけない、とされています。仙人のセックスは一言でいうと「接して漏らさず」で、これは、性交しても精液を漏らすべからず、という意味です。むしろ、精を出すのではなく、男性器の精管から女性の生命エネルギーを吸い取るような術もあるようで、まさに仙人というのは東洋の魔術師のような存在ですね。

この男女の性生活における正しい方法は、きわめて容易でありながら、人はその方法を知らない。その方法とは、一夜に十人の女と関係しても、一回も(精液を)漏らさないだけである。これができるようになると正しい性生活の方法は卒業である。以上述べたことの他に薬餌(やくじ)をたやさず使うようにするのである。そうすれば気力は盛んになり知恵は日々発達していくであろう。しかもこの方法は神仙になる術にほかならないのである。

『東洋性典集』 医心方巻第二八(房内) p20


このような「接して漏らさず」的な言及は中国の房中術の根幹にある教えのようで、他の文献でもたびたび言及されていますね。上記の引用は『東洋性典集』に収録されている日本最古の医書、『医心方』からの抜粋です。982年に書かれたもので、著者は鍼博士丹波宿禰康頼(はりはかせたにはのすくねやすより)、康頼は中国からの帰化人のようです。隋、唐の膨大な医学書を編纂した本のようで、仙人になるための健康法や性技術などが書かれていて、なかなか興味深い文献です。黄帝(紀元前2500年頃に中国を統一した皇帝)が彭祖素女などの仙人に教えを請う中で、様々な性技術や健康法などが解説されていくような部分もあり、読物としても面白いです。他にも呪術的なノリに満ちた東洋性学の面白い文献をたくさん紹介してあるので、また何か発見があれば追々ご紹介していこうと思います。

メモ参考サイト
マルチプル・オーガズム開発法(◆i880BAKAok様)
仙道やタントラなどの秘術を取り入れつつ現代風にアレンジした異次元の性感を得るためのノウハウ。エロも正しく極めれば悟りのような覚醒の境地に誘う有効な術になりそうですね。この手の内容の本は古書相場が高騰していて入手しずらいこともあり、こうした情報が手軽に得られるのはありがたいことです。このサイトは未翻訳の洋書からの翻訳のようなので、ここでしか読めない情報が盛りだくさんで凄いです。運営者様に感謝ですね。




オカルト界の巨星、ルドルフ・シュタイナー

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『シュタイナー思想入門』西川隆範著 白馬書房 1987年 

ルドルフ・シュタイナーといえば、西洋のオカルティストの中でもつとに有名な重要人物で、オカルティズムという、どこか日陰のイメージのあるジャンルを飛び越え、教育思想など実践的なアプローチでも有名で、現実教育に霊性を育むことの重要性をうったえ、今もその教育方針を実践する学校も存在していますね。精神面を重視した学校というと、一般には宗教系の学校が多いですが、教条主義を超えて自由に霊性を伸ばす教育を目指したシュタイナーの思想は注目すべきものがあります。

この本は、教育思想ではなく、シュタイナー本来の独特の神秘思想を解説する内容になっています。シュタイナーの神秘思想は、けっこう難解なので、かみくだいた内容の本が欲しかったところだったので入手しました。シュタイナーだけでなく、現近代のオカルティストは、グルジェフにしろ、ブラヴァッキー夫人にしろ、難解な思想を持った人物が多い印象があります。シュタイナーの「アカシャ年代記」の思想など、人間の霊性の進化を土星や金星などの遊星に当てはめて解釈しているのですが、遊星と人間の精神を結びつけることにどういう意味があるのか、とか、とまどうところがあったので、そのあたりを理解したかったのが手に入れた理由です。グルジェフも同じく惑星を関連づけたオカルト思想を唱えたりしてましたが、こういうのはやはり何か、高い精神のレベルで見えてくるような特殊な世界観なのでしょうね。

メモ参考サイト
シュタイナー教育(ウィキペディア)




基本から覚えるヨガ

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『一億人のヨーガ』番場一雄著 人文書院 1988年

ヨガナンダの影響で、インド思想にハマってきているというのもあり、インドといえばやはりヨガを押さえておくべきだろうということでゲット。基本的なところから解説している感じの本で、健康法としてのヨガだけでなく、インド思想の中で捉える本質的な、ヨガとは何ぞやみたいな部分の解説も興味深いです。番場一雄先生はNHKの教育番組でもヨガの講師として出演していたみたいで、YouTubeなどで当時の番組の一部が見れます。

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人体におけるチャクラの位置

この本はヨガの一般書として書かれているので、オカルティックな側面は詳しく書かれていませんが、人間の身体は肉体だけでなく、霊的なボディが幾層も重なっているという思想がヨガにはあります。肉体の他に幽体(アストラル・ボディ)やコーザル体など、いくつかの霊的な身体を纏っているという考えがあります。これは中国の仙道にも同じ思想はありますし、西洋の神秘学でもルドルフ・シュタイナーなど何人か同様の指摘をする神秘家がいます。霊的なボディには霊的な器官が具わっており、よく耳にするチャクラというのもそうした霊的な身体器官です。最近そのチャクラを活性化することに興味がわいてきてるので、そうしたこともあって基本からヨガを知ろうと思った次第です。




古代ローマの驚異!

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『Marvels of Ancient Rome』Giacomo Lauro画 Regione Lazio発行 1992年

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イタリアで発行された『古代ローマの驚異』と題するジャコモ・ラウロ(1584-1637年)というイタリア人画家による版画集の復刻です。絶妙にパースやデッサンが狂っているところが逆にシュール感を増していて、キルヒャーの版画を見てるような怪しい雰囲気がたまりません。詳細はわかりませんが、おそらく普通に古代ローマの文化を想像力豊かに描いたものなのでしょうが、当時の時代の空気なのか、ジョルジオ・デ・キリコの絵に出てきそうな怪し気な雰囲気をただよわせているのがイイですね。ネットで詳細を調べていたら、なんとこの画集の1641年発行の当時のオリジナルらしきものが高解像度でアップされてましたのでリンクを貼っておきます。古代ローマの不思議世界をご堪能あれ。

メモ参考サイト
『Marvels of Ancient Rome』Giacomo Lauro(ハーバード美術館提供)
posted by 八竹釣月 at 22:05| Comment(0) | 古本

2017年09月03日

関口野薔薇 ヨガナンダに師事した日本人

よく出向く古本市に散歩がてらぶらりと出かけ、心地よい古い紙の匂いの立ち籠める本棚を順繰りに眺めていると、なにやらピピピ!とアンテナが合図してくる本が目に入りました。この日はすでに関心のあるテーマの安価でレアな本をいくつか見つけてカゴに入れていて、なんだかこの日は面白そうな本が集中して見つかる古本の特異点みたいな日のような予感がしていただけに、このピピピ!には何かありそうだ、とわくわくしてきました。

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『─運命の謎解く─ 宇宙と人生』、『─精神力、神通力─ 霊術秘書』、『─神の国の奥義─ 魂の本性』
伊東一著 昭和37年(1962年)不二学会発行
怪し気なオーラがたまらないです。


アンテナが合図してきたのは、黒に近い紺色の背表紙が数冊ならんでいる本棚の一角でした。濃紺の背表紙には『─運命の謎解く─ 宇宙と人生』、『─精神力、神通力─ 霊術秘書』、『─神の国の奥義─ 魂の本性』という、なにやら怪し気なオーラを放つ一連の本で、それらの著者は伊東一という聞いた事の無い著者のものでした。後にネットで調べても、いくつかの著書が国会図書館に所蔵されている記録があるだけで、詳細が全く不明の謎の著者です。ざっとページをめくってみると内容的には精神世界の研究者らしい人物で、オカルトから宗教まで幅広く精神世界にかかわりながら人間の究極の幸福とはいかなるものなのかを探求した昭和のスピリチュアリストという感じです。書名的には『宇宙と人生』に惹かれたので、もし1冊だけ手に入れるならコレかな、とカゴに入れるも、『霊術秘書』の、どことなくネクロノミコン的な怪し気な響きも捨てがたく、ええい!これもコレクションとして押さえておこう!とついついそちらもカゴに。残るは『魂の本性』という本ですが・・・いくらなんでも全く正体不明の著者の本を3冊も購入するのはいかがなものか!と理性がささやきます。

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『霊術秘書』のトビラと目次。いかにも奇書っぽい感じがそそりますね〜

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著者の伊東一氏の近影。なんとなく昭和の校長先生風というか、宮武外骨っぽい剛胆な雰囲気ですね。一体何ものなのでしょう。気になります。

まぁ、精神世界の本に限らず、だいたいひとりの著者の思想は他の著書でも変わらないものなので、2冊もあれば十分な気がしてたのですが、それでも何かひっかかって、『魂の本性』を手にとり、ページをなにげなくめくっていたら、なんとここ最近ハマっている聖者ヨガナンダの名前が!!ヨガナンダに関する記述は、著者の伊東一本人のものではなく、昭和のヨギーとして知る人ぞ知る関口野薔薇が雑誌『心霊文化』(昭和35年1月3日発行)に寄稿した文章の引用でした。

この本の発行は昭和37年、つまり1962年で、ヨガナンダの主著『あるヨギの自叙伝』のはじめての日本語訳が『ヨガ行者の一生 聖者ヨガナンダの自叙伝』という題名で関書院から出版されるのが昭和34年(1959年)です。まだヨガ自体もマイナーだった時代に、ヨガナンダの自叙伝が発売されて間もない当時の日本で、ヨガナンダの本はどのように受け止められ、またどう当時の日本に影響を与えていたのかを知る興味深い記事です。ヨガナンダがマイブームの自分にとっては、小気味いいシンクロニシティです。この古本市に来たのもむしろこの本をゲットするための伏線だったような気がしてきます。

後で調べてみると、関口野薔薇(1888〜1967年)は、米国カリフォルニアに在住して実際にパラマハンサ・ヨガナンダに師事しヨガを学んだことのある神秘思想家のようです。生前のヨガナンダを身近に知る日本人が書いたヨガナンダに関する記事ということですから、これはなかなか貴重な記事なのではないでしょうか。以下、伊東一著『魂の本性』より該当の関口野薔薇の文章を抜き出してご紹介します。

「聖者ヨガナンダの自叙伝」を称揚す
関口野薔薇

 筆者の恩師ヨガナンダ先生の自叙伝(英文)が米国で出版されたのは1946年の事であった。その後の十年間に、この書はフランス、オランダ、スウェーデン、ドイツ、ベンガリ、アラビア、イタリア、ギリシャ、スペイン、ヒンディの十カ国語に翻訳されて、欧州各国はもちろん、東洋諸国、オーストラリア及び南米の人々にも愛読されるようになったが、いずれの国でもこの書はベストセラーとして売れ行きつつあるのである。
 その後ポルトガル語の訳本が出来、次いでアイスランド語のものが出版され、1959年(昭和34年)になってはじめて、日本語訳が京都の関書院から発売されるようになった。米国版を第一として数えると、日本版は第14番目にあたる。世界の宗教思想を己が国に取り入れる事において、日本はいささか遅れをとった形だが、これも近き将来には必ずベストセラーのひとつとして数えられるに至るであろう。そのわけを筆者が説明する必要はない。日本にも心の目の明いた人々が多くいる事だから、それらの人たちがこの書の尊さを民衆に紹介してくださるであろう。
 禅仏教を奉ずる日本の人たちは、ヨガをユウガと発音して呼んでいる。しかしこれはヨガ(Yoga)と呼ぶ方が正しいので、その意味は「神と人を結ぶ道」、または「聖(きよ)き彼岸に至る道」ということである。そしてこの聖き道を日々歩みつつある人、彼岸を指して人生の渡舟場(わたしば)を渡り行きつつある人々を、インドではヨギ(yogi)と呼ぶのである。

 どうした間違いか知らぬが、日本の識者の中にもヨガとは「角兵衛獅子(かくべえじし=新潟発祥の郷土芸能、大道芸の一種)」の真似をしたり、または「カルワザ師」のような芸当をする事だと心得ている者があるらしい。「ヨガナンダの自叙伝」(=「あるヨギの自叙伝」)の日本語訳が各地の書店に現われると間もなく、ある日本の有識者が米国のヨガ教団の本部に手紙を出し、「ヨガナンダの自叙伝はヨガ行法の初伝と思われるが、我々は初伝でなく、奥伝としての行法を勉強したいのである」と書送っている。彼らは「角兵衛獅子」のような絵の入った書物を「ヨガの奥伝」だと思っているらしい。
 また「この書には、クリヤ・ヨガの必要性を論じながら、実際上の行法を教えていない。その行法を一日も早く教えて欲しい」という意味の手紙を、本部に送った者もある。
 あるいは「ダヤ先生のそばで直接勉強をしたいと思うが米国に行く機会がないので、何卒今後よろしく手紙をもってご交際をお願い申し上げます」と教団総理のダヤ女史に宛てて手紙を出した青年もある。
 かつて映画スターの京マチ子さんが米国を訪れたとき、ロスアンゼルス在住、日本人の野遊会に彼女を招待したことがあった。すると日本人の大多数は彼女を取り囲み、我れ先にと争いながらマチ子さんの前に進み出で、所持せる手帳や扇子にその署名を懇請した。その数幾百人か数えきれぬほど多数なので、マチ子さんは困り果てて、ついにどこかに姿を隠してしまった。
 それとこれとは相似たことだが、一日に五分間もゆっくり休む暇のない大多忙のダヤ総理に向かって「書面をもってご交際を乞う」とは、非常識も甚だしいものである。人の立場も考えず、自分の身分も顧みないでこれは日本人の悪い癖だが……目上の人に署名を求めたり、「手紙をくれ」と呼びかける事は失礼千万な行為である。もちろん、ダヤ先生は常にニッコリ微笑していて、決してお怒りになるような人ではないけれども……。

 さて、筆者の過去70年の生活において、筆者は何万巻の書物を読んだか、その数を数える事はできない。最近は一年に少なくとも4、5百冊ずつの本を読んでいる。そしてこの読書の結論として筆者のいいたいことは、この「聖者ヨガナンダの自叙伝」こそが、筆者の読んだ書物の中で第一位の優良書であるということである。
 キリスト教信者が同教の聖書を、そして仏教徒が仏教の経典を(例えば大無量寿経とか、法華経の如来寿量品とかいう経巻を)いくら読んでも飽きないように、万教一体を信ずる筆者は、このヨガナンダ先生の書かれた自叙伝を、いくら読んでも飽く事なく、この書の中から日々夜々に「心の糧」を頂戴しているのである。
 そのゆえにこそ、今日の分派宗教に満足せずして、真理を万教の中に求めようとしている求道者に対し筆者はこの「ヨガナンダの自叙伝」を三読・七誦せられるようにお勧めしてやまないのである。
「この書はヨガの初伝だ」などと呼ぶのは何というタワゴトであろう。この書は二度や三度読んだだけで判るような単純な本ではない。かつお節やスルメではないけれども、噛めば噛むほど味の出てくる。思想上の妙書なのである。繰り返して読めば、その読むたびに、書物の中から新しい真理を教えられるのである。

 最後にもう一言付け加えておきたいことは、ある人々が「クリヤ・ヨガの行法を教えて欲しい」とか言って、教団の本部に手紙を出している事についてである。そうした不謹慎は止めて欲しいものである。筆者がその著書「原始基督教学」の中にハッキリ書いてある通り、およそ世界的大宗教には顕密の両側面があり、その密教に属する部分は万人に公開すべきものではなく、特殊の選ばれたる人にのみ授くべき秘密の法なのである。
 筆者の知れる日系第二世に、ハリウッドの教会でクリヤ・ヨガの瞑想法を習得したが、後にこれを我欲のために乱用したため、ついに悪霊の憑依を受けて、半狂人と化した人がある。なんでも自分の心が潔くならぬ間は、決してクリヤの伝授などを懇請すべきではない。
 まず自らの心の態度を改めよ。心の態度が整ったなら、神は必ずその人にクリヤ・ヨガの行法を授けたまうであろう。
 中里介山の小説に見る机龍之介(=小説『大菩薩峠』に登場する残忍で無鉄砲な剣士)に、正宗の名刀を与えたらどうなるであろうか。吉川英治の宮本武蔵でさえも、正宗の名刀を腰に帯びる資格はない人間である。「絶対に人を切らぬ」と心の誓いが出来た人にのみ、天下の名刀を持たすべきである。
 クリヤ・ヨガを修得すれば、他人の活殺が自由自在にできる。人を助ける事はするが、人を殺すことはせぬと心に誓いを立てた人にのみ、聖師はクリヤの行法を授けるのである。

 インドのことわざに、「弟子のあるところ、必ずそこに師が現われる」とある。「師のあるところ、そこに弟子達が集まる」と、インドでは言わないのである。
 大師は常にいますのである。大師は時間と空間を越えて永遠に、また普遍的に生きていたまうのである。まず自らの心を清めて、聖なる法(のり)の実践者となるべくまた真実なる弟子となるべく我が魂の目的とその置き場とを確立せよ。必ず読者の師が(誰かが)諸君の面前に姿を示して、クリヤ・ヨガの行法を授ずくる日がくるであろう。
 ある日本人は自分の修行のために真理を求むるのでなく、他人の師匠となり、自ら知らざる癖に人に教えようとして真理を求めている。こうした安価な教師が(または教師志願者が)日本に多いことは、これ日本宗教界の癌とでもいうべきであろう。
 インドのことわざに「牛の尾となるはよし。されど狐の頭となるなかれ」という言葉があるが、ヨガの行者は狐の頭となることを自禁せねばならない。

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伊東一著『神の国の奥義 魂の本性』 不二学会 1962年(昭和37年) p86〜90より引用


たしかに私も『あるヨギの自叙伝』を読みながら「ところでクリヤ・ヨガってどんなヨガなの!?」という疑問はありましたが、『あるヨギ〜』の中で述べられているのは、クリヤ・ヨガは不死のヨギー、ババジ直伝のヨガの奥義で、数あるヨガの修行の中ではダントツに強力に悟りに導く秘法ということですが、そのかわり伝授するには伝授される側の準備が整っていないと効果が無いとも書かれています。関口野薔薇も書いているように、普通にヨガや瞑想などで精神鍛錬して一定のレベルに到達し、自らに受け入れる準備が整えば、おのずとクリヤ・ヨガが伝授されるチャンスが巡ってくるのでしょうし、あれこれと詮索する部分ではないのでしょうね。

気がついたら、当の著者である伊東一についてほとんど触れずじまいの記事になってしまいましたが、読んでいくうちに、なにか面白い発見があれば、いずれ項を改めてご紹介したいと思います。

この本に限らず、昭和初期〜中期あたりの時期に書かれた精神世界の本は、まだジャンルとして超マイナーだっただけに、聞いたことも無い著者の妖し気なインパクトのある面白そうな本がまだまだけっこう埋もれていそうです。実は、そういった系の本も何冊か集まってきたので、いずれ機会があればご紹介しようと思います。
posted by 八竹釣月 at 10:38| Comment(0) | 精神世界

2017年08月29日

『あるヨギの自叙伝』を読んで

ようやく念願のパラマハンサ・ヨガナンダ(1893-1952年)の主著『あるヨギの自叙伝』を手に入れて読みました!ちょうど今の自分の波長に合ったタイミングで読んでいるせいなのか、これは想像以上に面白いです!今回はこの『あるヨギの自叙伝』を読みながら思ったことや感想などを書いていこうと思います。インドの有名な聖者は自分で本を書く人は少ないようで、多くの場合、弟子達が教えをまとめた本でその人物像を想像するしかないのですが、『あるヨギの自叙伝』は聖者ヨガナンダ自身が執筆した著書であることもあり、聖者とはどんな事を思い、どんな人生を歩んでいる人なのか?という素朴な興味にひとつの応えを返してくれます。

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パラマハンサ・ヨガナンダ著『あるヨギの自叙伝』 森北出版 1983年
1946年にアメリカで出版された英語版の『Autobiography of a Yogi』の日本語訳。デザインは異なるものの、表紙に使われている眼力鋭い肖像写真は同じものが使われています。本を手に取る読者の心の内まで鋭く見透かすような神秘的な眼光が印象的ですね。


この本の序盤では、ヨガナンダはかなり小さい頃から神を知りたいという強い欲求を持って精神世界を探求していった人であることが分かります。映画スターでもなく、コミックのヒーローでもなく、いきなりこの宇宙で最強のヒーローである神≠ノ、子供の頃から最大の関心を寄せるというのは、やはり子供時代からしてタダ者ではないですね。インドはシバ神やガネーシャ神など神様のポスターやカード、または像などが日本でいえばアニメやアイドル写真のように普通に日常に溶け込んでいるようなところもあり、世界で最も神様が身近な国というイメージもありますから、もしかするとヨガナンダ少年のような子はそれほど珍しくはないのかもしれませんが、宗教や文化などのフィルターを通したある種架空の存在や何かの方便としての神ではなく、もっとリアルに実在する神を直球で求めようとする所は希有なものを感じます。かといって、いわゆる神童のようなエリート的な雰囲気の子供というのでもなく、神への探究心以外は、自分の意見を通そうと親にゴネたり学校の勉強も嫌いな、ふつうの子供っぽい感じで親しみがわきます。

第11章で、神への信仰心だけで豪華な無銭旅行に成功する少年時代の興味深い不思議な話が紹介されてます。あまりに俗世に執着が無く、神ばかりを求めているヨガナンダ少年に、現実的な兄はいつもお説教していたそうです。「何といっても先立つものは金なんだ。神様はそれからでも間に合う。長い人生には何が起こるかわからないんだぞ」といつものように粛々と説教してくる兄に、ヨガナンダ少年は躊躇無く「いいえ、何よりもまず神です。お金なんか神の奴隷にしかすぎません」と切り返します。あいかわらずの弟の返答に、業を煮やした兄はヨガナンダ少年にひとつの賭けを持ちかけます。その内容は、現在地であるインドのアーグラからブリンダバンの町まで、一銭も使わずに行って帰ってこいという課題です。お金より神が人生の最重要事なら旅費も食事も神がなんとかしてくれるはずではないか?という兄の提案です。しかも条件は厳しく、食べ物やお金を他人にねだるのも、自分たちの事情を誰かに訴えるのも禁止。しかし食事はちゃんと取らないといけない。これらの条件を守って今夜十二時までにこの家に戻ってくる事≠ニいうものです。このミッションでは、友人のジテンドラという少年がヨガナンダに付き添って旅をすることになります。ジテンドラはどちらかといえば兄のように懐疑主義的な人間で、いわば監視役ですから、旅するうえでのズルやゴマカシもききません。これはヨガナンダ兄からの本気モードの挑戦です。ヨガナンダ少年はうろたえることなくこの難易度の高いチャレンジを受け入れます。

アーグラからブリンダバンといってもピンと来ないと思うので、調べてみると、およそ70kmほど離れていて、電車で2時間少々かかる距離のようです。日本でいうと東京から伊豆くらいの距離です。結論から言うとこの兄の賭けに見事勝利する話なのですが、行く先々で起こる数々の奇跡の連続が見所です。神は奇跡を通じてその存在を人間に知らせることがよくありますが、このエピソードも、そうした具体例のひとつとして興味深いものを感じます。奇跡というと、ついつい私たちは、超常的なレアな偶発的なもののように考えがちですが、精神世界の視点から見ると、奇跡というのは、疑念とか不安などの何のノイズも入らない状態で物事が完璧にスムーズに展開する事≠フように思います。気候の変化と無関係な地下深くの完璧な状況下では、二酸化ケイ素が結晶化すると見事に六角柱状の幾何学的な形状をした水晶に育ちます。それと同じように、人間界の出来事も、悪意や不信などのノイズを限りなくゼロにした理想的な状況下では、そこで起こる出来事も完璧に理想的な展開、つまり奇跡が起こりやすくなるのだと思います。ヨガや禅など、多くの精神修行が目的とする事のひとつは、健康や精神衛生のほかに、そうした人間の肉体や心の内部のノイズをゼロに近づけることで意図的に奇跡を起こせるようになることでもあります。

そんなこんなで無事にミッションをクリアし、アーグラに帰ってきたヨガナンダ一行ですが、彼らを見て兄は仰天します。一銭も持たずに出て行ったヨガナンダが札束を抱えて帰ってきたからです。追いはぎでもしたのでは!?と不安をあらわにする兄に、不思議な奇跡が次々に起きた旅の顛末を説明すると、兄はやっと納得し、またそれまでの考えを180度改めて「私はお前が俗世の富や宝に無関心でいる理由が今やっとわかった!」と神の実在を受け入れ、友人のジテンドラと共にこの日、即座に弟ヨガナンダの弟子になったそうです。

神≠ニいうと、宗教くさい印象を受け取りやすいですが、具体的には究極の真実、または宇宙的な全てを含有する大きな超越的な法則、あるいはそれ以上の定義しがたい存在でありますから、逆に神≠ニいう言葉を使ったほうが手っ取り早いのも確かです。極論すれば、科学もまた宗教とは別のアプローチで神(≒究極の真実)を知ろうとする試みであるといえるかもしれませんね。

メモ参考サイト
インド、アーグラからブリンダバンまでの地図(Google Map)

と、まぁ、上記のような自伝的なエピソードも面白いものが多いのですが、この本の他には無いユニークな価値は、とにかく不思議な能力を持った聖者がたくさん紹介されているところです。単に「そういう聖者がいるらしい」という伝聞ではなく、紹介されている人間離れした聖者たちのほとんどに直接合って教えを受けたりしているところが生々しくて凄いです。そもそも、ヨガナンダの師匠であるグルのスリ・ユクテスワ師からして超人的にスゴイ聖者なのですが、さらにユクテスワ師の先生であるラヒリ・マハサヤ、さらにその師匠である不死のヨギー、ババジと、直系の師匠たちからして想像を超えた超人揃いで、ひさびさに読書の快楽に浸れました。読みながらこの世の秘められた広大な可能性にワクワクしてきます。ヨガナンダの紹介する聖者たちの話は、どれも日常の一般的な常識を逸脱したエピソードのオンパレードなのですが、ヨガナンダ自身不思議な生涯を送った聖者なので、それらのエピソードを確信をもって語っており、深遠な説得力があって引き込まれます。前回のヨガナンダの記事で、ビートルズのレコードジャケットにヨガナンダが登場していることに触れましたが、他にも『あるヨギの自叙伝』に登場するヨガナンダの師匠ユクテスワ師や、ラヒリ・マハサヤ師、そしてババジ師も写っていて、ビートルズ、とくにジョージ・ハリスンのヨガナンダへの傾倒は並々ならぬものを感じます。

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1967年に英国で発売されたビートルズのアルバム『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』(Sgt. Pepper's Lonely Hearts Club Band)のジャケットアートに登場するヨガナンダとその師匠たち。スリ・ユクテスワ(Sri Yukteswar 1855-1936)はヨガナンダの師匠、ラヒリ・マハサヤ(Lahiri Mahasaya 1828-1895)はユクテスワの師匠、ババジ(Babaji)はラヒリ・マハサヤの師匠です。師弟の順にババジ→ラヒリ・マハサヤ→スリ・ユクテスワ→パラマハンサ・ヨガナンダ、となります。

不思議な事は、非日常なイメージがあるので、体験しない限りは信じられないと思っていた時期も私にありましたが、日常が「不思議に乏しい世界」である原因は、そもそも人間社会が日常から不思議を排除することで「この世界は(常識の枠内に収まるような)秩序だった世界なのだ」という幻想を作り上げたせいでもあります。そうしたほうが、様々な人間の集う共同体を維持するために都合がいいからそうしているだけで、そうしたあらかじめ社会から与えられた常識的思考の枠組み≠ちょっと外してみるだけで、一挙にこの世界は謎と不思議に満ちたスリリングな世界に豹変します。

この本に登場する不思議な聖者達のエピソードは、精神世界に馴染みが薄いと、にわかに信じがたいものが多いかと思いますし、精神世界に馴染みがある人でも、超常現象的な派手なものは求道の本質から外れるものとして嫌う人もいます。ですがそうした超人的な部分は一般には一番興味深い部分でもありますし、また、インパクトが強いからこそそれが求道のきっかけになったりする場合もあります。また人間の可能性の限界まで到達したヨギーとはどういう存在なのかを示すひとつの側面であるのも確かですから、そうした話を包み隠さず書き残した『あるヨギの自叙伝』は貴重な資料ともいえるような気がします。

私たちは飛行機などの交通機関の発達や、インターネットなどで、なんとなく世界の全てを知ったような気分に陥りがちですが、実際問題、遠い異国どころか、つい隣町の路地裏など、行ったことも見た事もない未踏の場所は身近にも無数にあります。ストリートビューから外れた地域はネットだけで確かめる事も不可能です。宇宙の謎どころか、地球上の謎すら未解明の事のほうが多いです。という感じで、この世界は自分の認識や常識を超えた部分のほうが圧倒的に多いのが現実です。人間は、人間に具わった肉体的な感覚器官(目、耳、鼻、口など)を通じ、その刺激を解釈する事で、この世界に一定のイメージを割り当てて解釈していますが、当然、本当のリアリティというのは、部分的に伝わってくる肉体的な刺激だけで把握する事は不可能ですから、ブッダなど、多くの賢人が言うように、人間が常識的に考えているこの世界の解釈は根本から何かを勘違いしている可能性があります。

もしも、人間の視覚が捉える波長の範囲(可視光線)が紫外線、または赤外線領域に大きくズレていたとしたら、まったく違った世界を見ることになりますし、波長の違いを「色」として捉えている脳が、そうした世界をどんな「色」で認識するのかは、全くの謎です。瞑想というのは、そうした肉体的な感覚器官に頼らずにリアリティを捉えようとする試みのひとつで、自分を宇宙そのものが持つ感覚器官のひとつとして機能させることで、宇宙に溶け込み、知性ではなく、感覚的に宇宙的リアリティを体感するものともいえるでしょう。ヨガナンダは、他の著書『人間の永遠の探求』でも、瞑想を「神を知るための最も有効な手段」であると明言しています。まぁ、そうした超越的な価値だけを目的にせずとも、瞑想は普通に精神衛生にも良いですし、頭もスッキリして気持ちいいので、習慣にして損することはないと思います。

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パラマハンサ・ヨガナンダ著『人間の永遠の探求』 森北出版 1998年
こちらはヨガナンダの講演集です。『あるヨギ〜』は、自伝中心なのでインパクトの強い聖者達のエピソードに圧されてヨガナンダ自身の思想は控えぎみに書かれている感じですが、こちらの講演集は、『あるヨギ〜』では語りつくせなかったヨガナンダの教えに関する話が中心になっています。瞑想の話など、実践的な内容が多く、こちらの本もなかなかに興味深く、面白いです。


『あるヨギの自叙伝』は、序盤は少年期の神を探求するヨギーへの憧れから生涯の師匠になるユクテスワ師の元での修行にはじまり、中盤では、自己の内面の霊的なレベルが上がるにつれて知り合う聖者の超人具合もエスカレートしていき、何もない空間からモノを物質化させるヨギーや、半世紀も不食で生きるお婆さんや、死者を蘇らせたり、同時に2カ所以上に偏在できる聖者など、次から次に超人的な聖者が紹介されていきます。しかも、その多くには具体的な名前と場所、また聖者の肖像写真も掲載していて、すこぶる具体的に記述されていて臨場感があります。後半ではさらに凄い展開で、自らの意志で肉体の死を迎えた師匠のユクテスワ師が蘇り、高次元の幽界での活躍を弟子のヨガナンダに語るエピソードが圧巻です。常識では信じがたい話ばかり出てきますが、この世界は私の知るちっぽけな常識程度なら楽々飛び越えるくらいには広大なものであるのは確実だと思っていますし、何より、面白くて役に立つものなら、ある意味ちまちました常識よりも価値のあるものだと思うので、私としてはヨガナンダの話を全面的に思いっきり信じようと思ってます。おそらく、もし1年ほど早くこの本に出会っていたら、私は信じなかった気がするので、ちょうど受け入れ態勢が整った時期に良いタイミングで読めて良かったです。

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(左)ラデシャム著『ババジ伝』 森北出版 1995年
『あるヨギ〜』で紹介される聖者の中でもとびきり超人的な聖者がマハーアヴァター(偉大なる神の化身)と異名をとるババジです。この本は、3世紀初頭にこの世に現われ、以来千数百年も肉体を持ったままこの現世に留まりつつ人類を導くと伝承されている謎めいた聖者ババジに関する本です。なんとも不思議な聖者ですが、けっこう写真もバンバン撮られているようで、ネットでも「Babaji」で検索すれば気さくに笑う若々しいババジの姿がたくさん見れます。まだ手に入れたばかりの本なので未読ですが、読むのが楽しみです。
(右)スワミ・スリ・ユクテスワ著『聖なる科学』 森北出版 1983年
ヨガナンダの師匠であるスリ・ユクテスワによる著書。聖書とヒンドゥー教の根本的一致を解明する本を書きなさい、というババジからの指示で書かれたとされる本で、100ページ未満の短い内容ながら、無駄な描写をいっさい省いた凝縮された内容です。精神世界からの視点で書かれた宇宙論が序盤で語られ、真理に基づいた生き方などの実践的なノウハウなどを中心に、肉食に否定的なユクテスワ自身の思想なども盛り込まれ、奥が深いながらも興味深く読ませる内容になっています。
posted by 八竹釣月 at 04:32| Comment(0) | 精神世界

2017年08月12日

【音楽】トワイライト・タイム

最近聴いてる曲からいくつか選んでみました。

るんるんScotty Stoneman「Orange Blossom Breakdown Revival」
フィドルの駆け抜けるようなスピード感が気持ちいい! スコッティ・ストーンマン(1932-1973)はアメリカのフィドラー。30人のフィドラーによる名演奏を集めたコンピレーションCD「30 Fiddler's Greatest Hits」に収録されていて知ったのですが、こういう世界もなかなかイイですね〜 曲も面白いですが、関連動画で晩年にテレビ番組で披露したこの曲のアクロバティックな演奏パフォーマンスも輪をかけて面白いですね。フィドルとはヴァイオリンの別称で、クラシックやジャズ以外の、ケルト民謡とかブルーグラスなどの土着性のある民族音楽などでヴァイオリンが使われる場合、ヴァイオリンとは呼ばずにフィドルと呼ぶのが慣習になっているようですね。


るんるんDjango Reinhardt「The World Is Waiting For The Sunrise」
ジャンゴ・ラインハルトとよく一緒に演奏していたジャズバイオリニストのステファン・グラッペリも心の声や感情や情緒がそのまま音になったような素晴らしい演奏が素敵ですね。ジャンゴの名演奏にさらに深みを与えていた感じで、その哀愁の演奏は心に染み入ります。


るんるんThe Platters「Humble Bumble Bee」
プラターズはアメリカのコーラス・グループ。ベースのグルーヴ感がたまらないですね〜 低音のドゥーワップ風のボーカルがカッコイイ! プラターズといえば、誰もが聞き覚えのある曲「オンリー・ユー」が広く知られていますが、他の曲も聴いてみたらけっこういい感じなので最近よく聴いています。


るんるんThe Platters「Smoke Gets In Your Eyes」
プラターズによるジャズのスタンダードナンバー「煙が目にしみる」の秀逸なカバーです。煙草のではなく、恋の炎から舞い立つ煙で目がしみるということで、洒落た暗喩ですね。


るんるんThe Platters「Twilight Time」
これもプラターズの1958年のヒット曲「トワイライト・タイム」です。1944年のザ・スリー・サンズ(The Three Suns)のインストゥルメンタル曲がオリジナルで、それに歌詞をつけ大ヒットしました。ザ・スリー・サンズも味があるバンドで好みです。オリジナルのほうもオルガンのレトロな響きがたまらないですね。


るんるんThe Clovers「Love Potion No. 9」
アメリカのコーラス・グループ、ザ・クローバーズの代表曲、「ラブポーションNo.9」、1959年につくられたヒット曲です。メロディがすごくかっこいいですよね。歌詞もナンセンスなコメディ調でおもしろいです。主人公は占い師のジプシー、マダム・ルースに恋の悩みを相談し、怪し気な9番目の媚薬≠もらいます。その松ヤニみたいな臭いのする真っ黒い液体を鼻をつまんで飲んでみると、目に入る者全てにキスをしまくるようになって、しまいにおまわりさんにもキスをしてしまいます。警官は怒ってその9番目の媚薬≠フ入った瓶を叩き割ってしまう、という内容です。


るんるんElvis Presley「Surrender」
ラテン音楽っぽいノリがかっこいいですね。出だしが「シークレット・エージェント・マン」っぽいサスペンスな雰囲気で引き込まれます。(ちなみにプレスリーの「サレンダー」のほうが先に作られています)プレスリーは食わず嫌いであまり聴いてなかったんですが、やはり彼の歌唱は人を惹き付けるパワーがあって、聴くほどにクセになりますね。後で調べてわかったんですが、この曲は、あの有名なイタリア民謡『帰れソレントへ』を英語詞でポップな感じにアレンジした作品のようですね。


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posted by 八竹釣月 at 04:58| Comment(0) | 音楽