2021年04月15日

続・古書を補修してみました

やる気が残っているうちに手を付けないと、今までの例から多分何年経ってもやらない気がするので、ついでに先日言及しました「さらに痛みのひどい本」を補修することにしました。

というわけで、今回補修するのはこの本です。

210415_book_hosyu3_01.jpg

『神話と神話学』中島悦次 著 大東出版社 昭和17年

背表紙はおろか、表紙もボロボロです。ちなみに中身は周辺がヤケてる程度で読書には支障のない許せる範囲の経年劣化です。本の内容はタイトルの通り神話の解説なのですが、宇宙創成神話の分類をはじめとした宇宙関連の神話についての章立てがメインになっていて、ちょうど宇宙にも神話にも興味がある私としては、状態が悪くても一度読んでみたい!と思わせる印象がありましたので思い切ってお迎えしました。宇宙をテーマにした神話関連の本は他にも何冊も持ってますが、他の本に書いてないレアな神話が載ってる可能性があるので、多少の重複は覚悟で好きなテーマの本は集めてます。後で追記でこの本の目次も入れようと思ってます。まだ読んでませんが、この目次を見たら、私と似たような趣向の方はグッとくると思います。

これも語ると長くなりそうなので、本の内容はひとまず置いといて、早速補修に取りかかろうと思います。中は読書に支障がないにしても、表紙も背表紙もダメージありすぎなので、読書のたびにいろいろ剥がれ落ちたりしそうな状態です。なので、とりあえずはストレス無く読書できる程度の状態には復帰させようと思います。

210415_book_hosyu3_02.jpg

表紙の厚紙もくっついていた何層もの紙が剥がれてるのでまずボンドで元の1枚の厚紙に戻します。背表紙も剥がれているのでバラけないようにボンドを塗りました。

210415_book_hosyu3_03.jpg

前回のように、背表紙を作り、これを貼って補強しておしまいにしようかと思ったものの、表紙のダメージも相当なものなので、これはボツにしました。どうしたものかと思案。表紙を別の厚紙で補強しようかとも思いましたが、難易度が高い割に上手くいっても違和感がでてきそうなので、かわりに全体をくるむカバーを作ることにしました。カバーでくるむほうが、今後のダメージ軽減や補強の替わりにもなりますし、なんといっても見た目的には今の自分の出来る範囲の方法の中では最善かと判断しました。

210415_book_hosyu3_04.jpg

では、さっそく表紙カバーの作成にはいります。手元にあるこの本もおそらくもともとあったカバーが無い状態だと思われますし、ちょうどいいかもしれませんね。今回は検索しても国会図書館などの索引にヒットするだけで、背表紙どころか表紙カバーのデザインも不明でした。なので、目の前にある本のデザインを参考に、似たようなテイストで背表紙なども創作します。

210415_book_hosyu3_05.jpg

白地では雰囲気でないので、地色も印刷しようと思いましたが、もともと色の付いた紙にプリントするほうがリアリティがあるのでは?と思いつき、けっこう昔に買ったインクジェット対応のクラフトペーパーがあったのを思い出し、それを使用することにしました。色合いも古書の焼けた感じに似てていい感じになりそう。ベージュ色のクラフトペーパーにプリントする事を考えて、文字の色味は鮮やかな朱色にしました。実際にプリントすると、いい具合に赤色が濁って落ち着きのある赤に。

210415_book_hosyu3_06.jpg

文字は先日の記事と同じ感じで、似た書体で組んでみました。ヒラギノやリュウミンなど、オープンタイプのオーソドックスな日本語フォントには異字体として旧字体もけっこう含まれているので、こういう時には重宝しますね。絵柄は原本をスキャンしてphotoshopで図柄部分の選択範囲を出して、それを作業用パスに変換、そのベクトルデータをイラレ上で文字と同じ色に変換して使用しました。

210415_book_hosyu3_07.jpg

完璧とはいかないまでも、最初の状態と比べればかなり良くなったと思います。クラフト紙を使う事でそこそこ古書っぽい雰囲気も出たので、これで良しとします。

210415_book_hosyu3_08.jpg

怪し気な古書を入れてる本棚にさして確認。さすがに本物に囲まれるとちょっと浮いてる感もありますが、一応は許せるレベルではないでしょうか。ということで、今回も前回に引き続き、古本の補修を記事にしてみました。ご閲覧ありがとうございました。


ペン同日追記

今回補修しました本、『神話と神話学』(中島悦次 著 大東出版社 昭和17年)の目次です。

210415_book_hosyu4_contents2.jpg

宇宙関連の神話の分類と解説。そそるテーマと、興味深い分類にグッときます。

210415_book_hosyu4_contents.jpg

上の画像は全ての目次です。宇宙創成神話だけでなく、太陽や月などの天体関連も充実していますね。巨人や小人の神話など、大ヒットしたアニメ『進撃の巨人』とか、身近な話題の興味を深めそうなテーマもありますね。また最後のほうにある「神聖数の話」も面白そう。ざっと見てみると、民族の違いによって神聖視される数が違ってたり、ある民族がなぜその数を神聖視するのかなどが分類考察されています。偶然とインスピレーションで出会った本ですが、なかなか面白そうな内容の本ですね。

タグ:神話 古本 補修
posted by 八竹彗月 at 16:10| Comment(0) | 古本

2021年04月14日

古書を補修してみました

本と私

昨今は本もどんどん電子化されて、キンドルとかスマホなどで手軽にどこでも読書ができるという、読書好きには夢のような時代になってきましたね。私はスマホもキンドルもまだ未経験なので、そうした時代の恩恵には与れてませんが、まぁ、急がなくてもそのうち何かのきっかけで活用するようになるでしょう。こういうものって、一定レベルの必要に迫られる何かが無いと、なかなか手に入れようというアクションに繋がらないものです。

そもそも、私は本は大好きですが、読書好きといえるほどでもなく、本そのものの存在感が好きという感じですので、電子ブックになかなか触手が動かないのも、それが理由にあるかもしれません。(とはいえ、読書が目的の本も買うので、そういう本はやはり電子ブックのほうが便利だろうなぁ、といつも思ってます)

先日も古本市で本を物色する楽しみに耽ってきましたが、古書には、そういう味のある本の存在感があり、また時代を経て残っている骨董的な楽しさもあるので、古書集めはけっこう長続きしている趣味です。古本は、下は数十円から数千万円もする稀覯本まで、とてつもなく値段の振り幅が大きく、リッチな人だけでなく普通の庶民でも手が届く趣味でありますが、高いからといって面白い本とは限らず、安いからといって価値が無いというわけでもないところが奥が深いです。ときには数十円で、数万円の相場の本が見つかる事も意外とあります。古書店もその店の専門外のジャンルは二束三文で売られている事もありますし、貴重な本でも状態が悪いと格安で入手できたりもします。まさに、人との出会いと同じですね。人は見かけによらないものですが、本の価値というのも一筋縄でいかない多様性があります。

古書談義はこのくらいにして、今回は先日手に入れた古書に、痛みのひどいものが何冊か含まれているので、そのうちの一冊を補修する過程を記事にしてみました。ここ数年くらい前から、痛んだ古書は、今回ほどではないにせよ、カバーや背表紙の補強とか、鉛筆やボールペンなどでの線引きの消去作業など、けっこうマメにやっています。今回のような大幅な手間のかかる補修は年に一回あるかないか程度ですが、やるときはやります。

古書を補修することは、次に手に渡る本の主人への配慮とか、個人でやれる文化保護とか、あるいは愛書家のフェティッシュな愉しみであるとか、いろいろ理由は思い浮かびますが、私の場合は「本に好かれるため」みたいな理由もあったりします。千と千尋ではないですが、日本の土着的な宗教観として、万物に神が宿るという思想ってありますよね。森の精霊とか、山の神とか、森羅万象にそれぞれそれを守護する精霊がセットになっていて、霊的な見えない次元で守護の対象を守ったり、禁忌に触れるような者にはバチを当てたりとか。私も、それと似たような考えを信じていて、それは、万物に守護する精霊がいるというだけでなく、そのモノ自体も魂を持っていると考えています。

機械にも心があり、書物にも「読まれたい」「大切に扱ってもらいたい」「喜んでもらいたい」と思う心があって、それに応えてあげてると、本にも好かれますし、本を守護する担当の精霊も味方になってくれます。具体的には、超レア本を格安で入手できるラッキーにたびたび出会うといった思いがけない奇跡が頻繁に起きるようになります。痛んだ本を治療したりしてることへの恩返しに違いない!と今では堅く信じるようになりました。何度も奇跡が続くと、だんだん本に対する敬意みたいな感情が芽生えてきて、図書館とか古本市とか古書店などで、本が逆さに本棚に入れられていたりするのを見ると、気になって正しい位置に戻したりとかするようになりました。そういう時は、自分の背後で本の神が気分良さそうな笑顔で満足そうに自分を見おろしているような気配を感じます。どんなものでも、人間でも動物でも植物でも、はては人工物や無機物でさえも、愛を与えれば愛を返してくれるように、この世界は出来ているのでしょうね。

補修開始!
では、そろそろ補習・・・じゃなくて、補修を始めます!
今回補修するのは、この本。
210414_book_hosyu_01.jpg

中国の古典の中から、テーマ別に6巻で構成された「中国史談」というシリーズの中の第5巻目『妖怪仙術物語』(河出書房新社 昭和34年発行)という本です。諸星大二郎先生の影響で、前々から仙人などの道教関連の不思議な話にとても興味があったので、こういう関係の本はつい手に取ってしまいます。

今回補修するのは本そのものではなく箱のほうです。箱入りの本の「箱」の背表紙がまるっと外れており、断片も無いものもあるので、これは背表紙自体を作らないとだめだな、と判断。まずは、本の箱と似た厚みの厚紙を探します。とりあえず以前届いた厚紙の封筒の切れ端を材料にして、箱の抜けた部分にちょうどよくハマるように、背と同じ長さのものを作ります。

断っておくと、この補修作業は全くの自己流で、図書館などが行っているような正式な補修方法とは違うかもしれません。よって、この記事は本の補修のハウツーというよりは、ニコ動などの「やってみた」的な、ネタ的な視点でお読みいただければと思います。

210414_book_hosyu_02.jpg


断片だけでは背表紙にどんなデザインで文字が入っていたのか解らないので、ネットで画像検索。基本的に本のタイトルで検索しても、ふつうは表の表紙ばかり出てくるので、背表紙が必ず出てくる保証はありません。古書店のサンプル画像とかでも、背表紙の画像はあまり使いませんが、まぁ、ダメモトで検索してみます。今回は運良くヤフオクの出品画像で背表紙が解る画像が1点だけヒットしました。ヒットしなかった場合は、自分で勝手にデザインして進行するつもりでしたが、これもまた小さなラッキーですね。

210414_book_hosyu_03.jpg

イラレで背表紙のデザインを作成します。現物を見ながら、地色の色合いを調節します。モニタの色と実際に印刷される色が全く一致することはないので、まぁまぁ似てる程度の色合いで進めます。

210414_book_hosyu_04.jpg

背表紙の断片の文字と比較しながら、文字の大きさを調整。昭和34年の本なので、この時代にはDTPなど無く、文字は大きな写植機を使った写植の時代ですね。横長のこの明朝、いかにも昭和の古書といった風格を感じるレトロを感じる書体ですね。さすがに同じフォントは持ってないので、持ってるフォントで似たようなものを使い、横長に変形をかけて使用します。

210414_book_hosyu_05.jpg

A4に4つ入る大きさなので、プリントした後で近い色を選べるように微妙に色違いにした背表紙を4つ作成。

210414_book_hosyu_06.jpg

プリントした背表紙から色の似ているものを切り離し、先ほどの厚紙に糊付けして補強します。箱と接着する面は、糊をつける前に箱に合わせてみて大きさの確認。ちょうどスッポリ収まる感じで、問題なさそうです。

210414_book_hosyu_07.jpg

箱との接着部分は込み入った箇所になるので、糊やボンドよりは両面テープが良さそうだと気づき、両面テープを使用することにしました。結局同じ色合いにはなりませんでしたが、まぁ、地色が明るいほうが本棚にさしたときに見やすそうなので、そのままくっつけました。このくらいのいい加減精神≠烽ネいと、補修作業が義務感になってしまい楽しめません。なので、これでいいのだ!

後は毛羽立った部分とか、テープで接着しきれなかった部分を木工ボンドで穴埋めして、程よい締め付けの洗濯バサミで軽く圧着させて、そのまま放置。

210414_book_hosyu_08.jpg

30分ほどでボンドも乾き、完成です。こんな感じになりました。
さすがに新品同様になったりはしませんが、一応、箱が箱の役割を果たせる程度には回復したので、一応これで良しとします。

210414_book_hosyu_09.jpg

すぐ近くの本棚に入れてみて様子を確認。まぁ、いい感じではないでしょうか。
込み入った補修をした後には、ちょっとした達成感を感じますね。これからコーヒーを入れて、のんびり本棚を眺めて悦に入ろうと思います。たんなる古本の補修の記事にどこまでニーズがあるのか謎ですが、とにかく、ここまで読んでいただきありがとうございました!


ペン同日追記
落ち着いて良く見てたら誤字を発見してしまいました。「中國史談」の國≠フ部分をうっかり国≠ナ作ってしまってました。日本語的には間違ってはいないので、気にしなければそれでいいようにも思いますが、せっかくなのでやる気の残っているうちに、正しい表記に直したものをさきほどの背表紙に重ね貼りしました。

210414_book_hosyu2_01.jpg

210414_book_hosyu2_02.jpg

本棚に入れて再度確認。これで気になる点はとりあえず解決して一段落しました。まだもっとひどい痛みのある本が残っているので、後でまた気が向いたら補修しようと思います。では、これでひとまず補修の顛末の結びとさせていただきます。ご閲覧ありがとうございました。
タグ:古本 補修
posted by 八竹彗月 at 02:54| Comment(0) | 古本

2021年04月07日

神様論

神と宇宙法則

幸も不幸も、神が罪を裁いたのでも、神が罰を当てたのでもなく、宇宙の「理」、つまり、絶対的な宇宙法則によって自動的に生じる原因と結果である、という考えに最近はとても共感しています。神は実は人間に罰を与えたりしたことが一度も無いのではないか、と。罰に見えるのは、ただ因果の法則で、悪い種が不幸という芽を出しただけというような。仏教の教えとはそういった法則の解明を主体としており、キリスト教やイスラム教はその法則を神と呼んでいいるともいえるかもしれません。

聖書に、「神は愛です」(ヨハネの手紙一4章16節)という有名な言葉がありますが、最初は情緒的な比喩のような言い回しかと解釈してました。でも最近は、真理そのものを定義しただけのものであることに気付いてきました。別にポエティックな言い回しとして「神は愛です」というのではなく、それが真実であるから、そう言うしかない、という言葉であるというのが正しかろうと思います。そもそも、我々は「愛」というのを、人間的な、あるいは生物的な情緒のように誤解していますが、愛は万物すべからく通底する存在の種≠フような根源的なエネルギーではないか、思うようになりました。愛というのは、感情を表すだけの言葉ではなく、全ての感情と物質の根幹に関わる根源的なエネルギー、というのが意外と本質的なイメージのような気がします。この世界は、この世界の根源にある存在やその法則が「存在してもいいよ」と毎秒毎瞬、無限に許可を出し続けているから存在しているのではないでしょうか?

我々は、漠然と、存在しているものが存在するのは当たり前に思っていますが、本当にそうでしょうか?現代科学でも、物質に質量があるのは、当たり前ではなく、質量を与えるための粒子(ヒッグス粒子)が介在することで重さという概念が成立していることを示唆しています。それと同じように、我々の日常を成立させているすべて、電子の運動やひいては万物の根源である究極のヒモの振動が、振動しつづけていることは、何も理由のないことなのだろうか、と考えた場合、何か神としか呼べないような根源的な想像を絶する壮大な存在をうっすらと感じます。

神の定義について

最初の話題に戻って、幸も不幸も宇宙の法則が自動的に出した結果である、という話ですが、これは先に述べたように仏教の根幹にある思想でもありますが、またその他の宗教で「神」と呼ばれる超越的な存在が、人間に罰を下したり、幸福を授けたりしているという考え方も、正確ではないものの間違いではないですし、仏教の考えより劣るわけでもないと最近は感じています。私が思うのは、幸も不幸も自分が撒いた種が発芽した結果であるにせよ、もっと詳細にその結果を分析すれば、「幸福は神が与えたもので、不幸は自分のエゴが生み出したもの」という考えも意外と正解に近い気がしているという事です。

短絡的に「良い事は神のおかげ、悪い事は自分のせい」と言ってしまうと、いかにもカルト宗教のヤバい教えのように見えてしまいますが、それは、この教えを他人をコントロールするために使う組織があるせいでしょうね。あくまでも、真理というものは、自己の内面を浄化して魂の根源に回帰するためにあるものだと思います。そうした中で、体感していく宇宙的な力を人間の言葉で言い表したときに、「神」という言葉が、実は一番正確なようにも感じるのです。

神というと、最初は、人間と無関係に存在してて、ささいな悪に過敏に反応し、最高の善のみしか受け入れない融通のきかないモンスターのようなイメージで考えがちです。それゆえに若い頃は、神を否定したがり、神からあえて決別したがる傾向もけっこうあると思います。(そういえば詩人のアントナン・アルトーの作品に現代哲学にも引用された「器官なき身体」で有名な『神の裁きと決別するため』というのがありましたね)しかし、そもそも多くの宗教や神話では、神は人間に寛容や許しを説いてるわけですから、神ご自身が寛容でないわけがありません。神は人間の何万倍も寛容だと考えた方が論理的です。美輪明宏さんが何かの著書でおっしゃってましたが、神的な存在は、べつに人間に100%良い事ばかりしなさいと無理強いしてはおらず、悪事よりも善行の比率が高ければとりあえず合格、くらいな感覚でまずは十分だと思います。

我々が人生を通じて求めてやまないのは、麗しい異性でも、お金でも、宝石でも、不動産でもなく、「幸福」です。麗しい異性、お金、宝石、不動産、その全てが満たされても、幸福でなかったら何の意味もありません。有り余る巨富がありながら、その富を使う暇もないほど仕事に追われているとか、とてつもない価値のある不動産を所持しながら、家族仲が異常に悪く、毎日諍いが堪えないとしたら、そんな生活を誰が望むでしょうか。

神は気に入らない人間にきまぐれにひどい罰を与える怪物ではなく、まったく正反対で、本当の神とは、人間の思考をフルに働かせてイメージする最高に素敵な人物よりも何億倍も素敵で、どんな聖者よりも寛容で優しく、どんなに親しい友人よりも楽しい仲間であり、どんな偉人よりも知性的であり、考えうるどんな「最高」よりも最高な存在である可能性のほうが高いと思ってます。いや存在すら超越しているので、ジョセフ・キャンベルの定義したように「存在と非存在」であり、本来思考で捉えれないところを、あえて名付けたのが「神」なのでしょう。以前グノーシス主義の記事を書いたときに引用しましたが、言葉で表現できるギリギリで神を表現していて秀逸なので、もう一度キャンベル先生の神の定義を再掲します。

超越者(神)は思考のあらゆるカテゴリーを超越している。存在と非存在−それがカテゴリーです。「神」という語は本来あらゆる思考を超えたものを意味しているはずなのに、「神」という語そのものが思考の対象になってしまっている。
さて、神は非常に多くの形で擬人化されます。神はひとりか、それとも多くの神がいるのか。それもまた思考のカテゴリーに過ぎません。あなたがそれについて語り、考えようとしているものは、そのすべてを超越しているのです。

ジョセフ・キャンベル「神話の力」飛田茂雄訳 早川書房 1992年 p123

人間のような人格はないともいえますが、それは想像をはるかに超えた究極の人格であるゆえに、人間の知力で捉えがたいからだろうと思います。神は、信じないうちは、ファンタジー的な存在のようにしか思えず、信じてる人が迷信深い愚者にしか見えないものです。しかし、何かのきかっけで神の存在をうっすらとでも信じるようになってくると、なぜか面白いほどに小さな奇跡が頻繁に起きるようになるので、より確信的に信じるようになっていきます。まさに「信じる者は救われる」の本当の意味を実感します。神を信じるというのは、
特定の教団に入信したりすることではなく、この宇宙の背後に確かに存在する人間の知性で捉えきれない壮大な何ものかの気配に関心を向ける事です。神を知ろうとすることは宗教的な好奇心というよりは、もっと根源的な、自己の本質と最も密接な鍵だろうと思います。

神と宇宙について

そもそも、この宇宙には最初から潜在的に人間を生み出せる要素が全て揃っていたから人間が誕生したのであり、ならば、この宇宙自体も人間よりも高度な「心」や「魂」が無いはずがありません。人間でさえ、どんなクリエイターも自分に無いものは表現できません。よく耳にする意見で「神は人間の心が生み出した架空の存在だ」という見方もあります。私も以前はそう考えていたものでした。しかし、人間は、無い存在を作ったのではなく、古代の高度な意識に到達した賢者たちが、宇宙の背後に存在する壮大な何かの気配を察知して、それを表現する人間世界の言葉がなかったので、「神」という概念でそれを語るしかなかった、というのが事実かな、と思っています。

人間は宇宙が生み出した宇宙存在でもありますから、その宇宙法則に従って行動すると物事がスムーズに運び、それに逆らって行動すると困難や苦しみが伴う、というのは、そういう意味では実に理にかなった考えだと理解できます。老子は、この宇宙の法則を『道(タオ)』と名付け、生き方のエッセンスを簡潔に遺しました。一見自分が得をしそうなエゴを満たすような生き方は、結局自分を破滅させるだけで、逆に自分を捨てて周囲の人や公益に貢献する生き方のほうが、結果的に自分に最大の利益をもたらす、というのは世の中をみると全くその通りに動いていますね。狭い期間だけで見ると、悪人が栄えるように見えるケースもありますが、長いスパンでは、悪人が人生に勝利するという事はまず不可能でしょう。人間世界の幸と不幸は、ほぼ9割以上は人間関係で生じますが、そういう意味では全ての人間は幸福の担い手でもあるわけです。イエスの「隣人を愛せ」というのは、隣人のためだけでなく、主に自分の幸福の絶対条件であるということなんでしょう。

幸福は常に神からしか出力されない現象であり、不幸は常にエゴ(自分本位な利己性)からのみ生じます。エゴは利己的ですが、利己性自体がマズいわけではなく、高いレベルの利己性は「神を知りたい」「困っている人を助けたい」「この世から悲しみを消したい」という高度な「欲望」となりますし、人助けが一番気持ちのいい行為だということを悟った人は、自分が気持ちよくなるために、他人を助けたりしはじめます。これは偽善ではなく、むしろ最高の善で、自分も気持ちよく、しかもそれによって他者も気持ち良くさせるので、自己犠牲の善意よりも宇宙視点では喜びの量が最大化されるので、価値が高いといえます。

神の計画について

パラマハンサ・ヨガナンダも、常に神の事を考え、瞑想によって神と対話することの重要性を指摘していましたが、こうしたことは、精神世界に免疫がないと「宗教的」というカテゴリーで片付けてしまいがちかもしれません。本質はそういうカテゴリーとかジャンルの問題ではなく、人生の根本的な価値は、まさにそこにあるし、そこにしかない、という真理を言っていたのだなぁ、ということが最近は身にしみます。たしかに神は、神の事を熱心に考え、神に好かれようとする人間に、幸福とか奇跡を与えているように一見思えます。しかし神はえこひいきするようなレベルの低い感情は無いですから、実際は悪人にでさえ聖者に与えるのと同じ量の、いいえ、万人、万物に、等しく100%の愛のエネルギーを常に与えています。ひいきに見えるものの正体は、各人が神の愛を受け取る器の大きさや、器の状態によるのだと思います。

霊的な次元では、思うことなどの心のパワーは絶大なので、神を信じるほど神との霊的なパイプが太くなるので、より神からのエネルギーが自分に入りやすくなる気がします。聖者や賢者のように、修行の末に神の愛を受け取る心の器を大きく育てた者には、たくさん愛が入るようになるし、悪人はあらかじめ生まれもって持っている器でそれなりに愛を受けとっています。器も悪人ほど手入れをしないので、底が抜けている場合もありますし、わざわざ器を手で覆って、神の愛を受け取る量を自分で減らしている場合もあります。何にせよ、神は、太陽が完璧に分け隔てなく万物を照らすように、全ての生命と非生命に完璧に100%の愛を注いでいるように思えます。

神を信じると良い事がよく起こるようになるのは、自分に関して言えばほとんど事実だと思ってます。神を信じるというのは、具体的には、聖書を勉強するとか、イエスの十字架像を拝むとか、そういう宗教っぽい行為とはあまり関係なく、一番重要なのは、全ては神が創造したものなので、好きなものだけでなく嫌いなものも含めて、全てのものに敬意をもつこと。それに加え、運命もまた神の領域なので、神を信頼していれば、神が100%の愛を注いでいる万物、つまり自分も万物に含まれるのですから、自分に因果を超えてわざわざ不幸な現象を与えるはずがない、ということを「信じる」ことも重要です。神を信じるということは、神が自分を不幸にすることは絶対に無いと確信することと同じです。確信は運命の設計図となり、やがてそれは現実に現象化します。一見不幸に見える現象も、それは自分を成長させるための「幸福の種」として現われたものである場合が100%であり、人間を苦しめるために与えたサディスティックな刑罰ではないのだと思ってます。そもそも神は愛なので、苦しみの正体というのは、「神からどれだけ離れているか」の魂的な距離感によって生じるものなのでしょう。

よく、人間は、自分の力ではどしょうもないことに悩んだりするものです。急いでいる時に踏切が降りてヤキモキする事が昔はありましたが、よく考えると、ヤキモキしようがしまいが同じ時間で遮断機は上がります。であれば、ヤキモキもイライラもしなくていい、と気付きます。入学試験の結果も、結果発表までは考えても悩んでも結果は変わらないので、悩むだけ嫌な時間が増えるだけ損です。何が言いたいかというと、こういう「考えても意味の無いこと」や「自分の力の及ばないもの」は、すべて霊的な次元の領分なので、ここで一番効力を発揮するのは運命を信じる力です。「人事を尽くして天命を待つ」という言葉がありますが、まさに真理で、自分の手が届く範囲のことは精一杯やって、その後の結果は神の裁量に全部お任せする、というのが、もっとも最善の結果を招くのでしょう。実際に、自分の経験に照らしても、そういう法則があるのはリアルに実感します。この物質世界に人間として存在していること自体、魂の未熟さを払拭するために修行している存在であるという考えに共感します。ならば人生、いつも理想通りにできないことは仕方ないですし、人事を尽くす時点で出来てないとか、人事を尽くしても天命に任せず、うだうだと悩んでしまうのも、未熟さゆえであります。まぁ、この世界、生けるもの全ての目的というのは、そういう未熟な魂が集まって、助け合いながら、失敗を許しあい、お互いの未熟な部分を補いあって、みんなで力を合わせてちょっとづつこの地上を天国にしていこうという、壮大な神のプロジェクトなのかもしれませんね。

posted by 八竹彗月 at 15:26| Comment(0) | 精神世界

2021年03月28日

映画『ファウスト』(ヤン・シュヴァンクマイエル)を鑑賞

シュヴァンクマイエルとファウストについての雑感

ヤン・シュヴァンクマイエルの才能は底知れないですね。クレイアニメの映像作家という枠だけで語りたくない、芸術家として語るのもまだ足りない、もっと自分の根源的な部分と結びついた愛着を勝手ながら感じています。「ああ、自分はこういう表現がしたかったんだ」「こういうものが見たかったんだ」というものを次々に具体化して見せてくれる心地よさがあります。デーモニッシュでグロテスクな、少々ショッキングなモチーフを愛用しつつも、ホラーというのとは違った、自分の潜在意識の奥底にある善悪とか美醜とか、まだ近代的な人間の価値観が定まっていないような人間の根源的な心象風景のようなものを感じ、不思議な郷愁感を感じるところがありますね。

初期の短編作品でハマってしまって、断片的にコレクションしてましたが、そうした中でDVD BOX『ヤン・シュヴァンクマイエル コンプリート・ボックス』が発売され、躊躇無くポチッたものでした。私の性分として、買ってしまうと満足してしまってそのまま何年も寝かせてしまうことがよくあります。本もけっこう積読率が高いのですが、このシュヴァンクマイエルのBOXもそうで、まだ全部は見てません。一体いつ頃購入したのか気になって購入履歴をチェックしてみたらなんと2008年でした。

ファウストというと実際に15世紀頃にドイツに実在していた魔術師ですが、ゲーテの有名な作品だけでなく、クリストファー・マーロウによる劇作など、なにかと表現のテーマに取り上げられることの多い題材だったようですね。教会の影響力の強かった時代において、悪魔と契約する魔術師ファウストを、単なるアウトローとしてだけでなく、叡智を求める探求者として肯定的ともとれる描かれ方をしたファウスト譚の流行は、キリスト教的な常識が支配する社会に新たな価値観をもたらし、ヨーロッパの自我の芽生えとして評価されてもいる、と解説に書かれてました。なるほど、西洋人の視点からすると、ファウストというのは、そうした意味もあるんですね。

私も、実在の魔術師ファウストのほうは、オカルト文献やドイツ文学者金森誠也さんの著書『霊界の研究』(PHP文庫 2008年)などで概要を知ってたので、いずれはゲーテの作品のほうも読んでみたいと思ってたところでした。なんどか古本市でも旧仮名遣いのゲーテの『ファウスト』を見かけて買おうかどうか何度か迷ったことがあるのですが、どうせ買っても積読だろう、となぜか毎回スルーしていたのでした。(ちなみに『霊界の研究』は、タイトルのスピっぽさとは逆に、スウェデンボルグからプラトンやカントなどの考えた霊界的な異世界にも多く言及されていて、読み応えがありました)

そういえば、手塚治虫も『ネオ・ファウスト』という作品を描いてますね。こちらもまだ未読ですが、wikiでは『ゲーテの『ファウスト』を題材に、舞台を高度経済成長期の日本に置き換えたオリジナルストーリーである』とのことで、奇しくもこれからレビューするシュヴァンクマイエルの『ファウスト』と似た切口で現代との関連性の中でファウスト譚を再構築しているような感じみたいで、今度は手塚版ファウストも読んでみたいですね。

あと、思い出すのは江戸川乱歩の少年探偵団をモチーフに、少年を少女に置き換えた推理ゲーム『御神楽少女探偵団』にも、劇場を舞台にした事件(たしか「太白星」というエピソード)で、ゲーテのファウストが取り上げられていましたね。まぁ、とにかく、難しそうだけど、そのうち読んでみたい気になる古典のひとつがゲーテの『ファウスト』でしたので、いきなり原作を読むより、ファウストを題材にした映画などで耐性をつけてからゆっくりチャレンジしようか、ということで、シュヴァンクマイエルの『ファウスト』を見てみることにしたのでした。



210328_Faust _02.jpg
シュヴァンクマイエル大好きではあるんですが、アートシネマというのは鑑賞するときに気合いが要ります。まぁ、アートシネマか大衆娯楽映画かという線引きなど本当はどうでもいいことなのかもしれませんね。結局、自分にとって面白いかどうかだけが大事なので。宮崎駿監督の名言「大事な事っていうのはたいてい面倒くさい」というのがありましたが、鑑賞する側にもいえて、自分の肥やしになるような良い映画ほど気軽に鑑賞させてくれない所がありますね。当てはまらない作品も、もちろんありますが。

シュヴァンクマイエルの『ファウスト』

2008年からずっと寝かせていたDVDがやっと再生されることとなったわけですが、ということはこれを今日見たということは、奇しくも13年目。なんともはや、この西洋的な縁起の悪さもファウストの鑑賞という意味では逆にちょうどいいというか、ふさわしいタイミングっぽくもありますね。(ちなみに個人的には、13の数字にいちいち不吉を感じるのはストレスなので、13は日本では十三(とみ)、つまり富だッ!景気のいい数字だッ!≠ニ自己暗示っぽい定義をしています)

ということでいよいよ『ファウスト』のレビューに入りますが、結論からいいますと「面白い!すごい!」という感じでした。とくに爽快なシーンとか、感涙するようなシーンがあるわけではないのですが、映画を見てる間中、ずっと自分の心の中を覗いているような、神話の世界に入り込んだような、シュヴァンクマイエルの魔法にかけられてずっと夢を見ているような不思議な感覚に襲われました。真面目にストーリーを追おうと思って見ると難解に感じてしまいそうになりますが、シュヴァンクマイエル作品というのは、基本的に、その世界観に身を委ねて映像の魔法に酔いしれることが面白さのメインなので、次々と繰り出されるアイデアの奔流を目で追いながら、ひたすら感心しつづけているうちにあっという間にエンディングを迎えてしまいました。確かめると1時間37分の作品ということですが、こういう系の実験映画で時間を忘れるほど引き込まれてしまうということは、「やはり自分はシュヴァンクマイエル大好きなのだ」と再確認できたようでちょっと嬉しくなりました。(そのわりにまだBOX全部制覇してないという)

まず最初に現代のプラハの街が映され、「あれ?これファウスト≠セったはずでは??」という軽いジャブをくらいました。「ああ、そうか、ファウスト譚を現代に置き換えて再解釈する系の感じね」と、なんとなくタネがわかったつもりになり、それほど期待する事も無く、でもあのシュヴァンクマイエルなのだから、とりあえず見ておいて時間の無駄にはならないだろう、というくらいの気持ちで見始めました。しかし、それは甘かった。天才の表現力というものを侮っていた。これは傑作といっていいレベルの作品だったのでした。

まず、この作品の主人公は、毎日をただ生きることだけに追われる、とくに刮目すべきところがない冴えない中年男です。と、同時に悪魔に魂を売って宇宙の真理を知ろうとするファウスト博士そのものでもあり、また人間ですらないマリオネットでもあります。舞台は雑踏の行き交う現代のプラハの街であり、同時に怪し気な地下劇場でもあり、同時に地平線が見渡せる平原でもあります。「夢と現実が交錯する」みたいな表現方法ってありますが、この作品ではさらに度を超して、夢であると同時に現実であり、その境界も区別もない、混沌とした描き方をしています。それでいて、現実と虚構がきちんと映像的にアナロジカルに結びつけれてているので、言うほどややこしい感じは受けません。むしろ、そういう見せ方をするからこそ、シュヴァンクマイエルのニヒリスティックでありながらもどこか本質を突いた哲学が作品を通して訴えかけてくるところがあります。

起きている出来事が、地下劇場の舞台の上の出来事だったと思えば、いつのまにか現実の街中で起きている最中の出来事に変わっていたりと、まるで夢の中で起きている出来事のような描き方がとても面白いです。もしかしたら、人生そのものも、ひとつの演劇のようなものなのかもしれない、いや、そうではなく、ひとつの演劇を実際の自分の人生だと勘違いして生きている自分自身に向けた皮肉がこの作品のメッセージなのではないか?などといろいろ考えさせられました。

中年男のファウスト博士が究極の知恵を得るために召還する悪魔、メフィストフェレスはその召還者たる中年男と同一の顔で出てくるところも意味深で良いですね。ドッペルゲンガーを意味しているのか?とか、悪魔は自分自身の心に潜んでいるということの暗喩なのか?とか、いろいろ解釈はあると思いますが、私はこれはシュヴァンクマイエル監督の哲学的な皮肉なのではないか、と思いました。究極の秘密を尋ねる相手が自分自身であるという。まぁ、結局、本当の秘密というのは、自分とは何者なのか?という謎の背後に隠れているものなのでしょう。

この作品では、人間と人形(マリオネット)が入れ替わりながら話が進んでいきます。マリオネットを操る傀儡師(くぐつし。人形を操る人の意)の手が何度も映るのですが、結局傀儡師自身は最後まで裏方のまま姿を見せずに終わります。これも実に面白いですね。マリオネットを操っている傀儡師は、運命とか、神の暗喩なのでしょう。人形も人の手で作られたものではなく、どこからともなく地の果てから転がってやってくる不可解な物体として描かれてますし、傀儡師もマリオネットを操ったり、雷の効果音をブリキ板を震わせて鳴らしたりしてますが、手だけしか出てこないので、実体のない異次元の存在のような雰囲気を醸し出しています。

210328_Faust _01.jpg
シュヴァンクマイエル作品の惹かれるところというのは、東欧独特の「心象風景がそのまま物体化したかのような街の色」を上手く表現していて、遠い神話の世界にリアルに没入していく非現実感を体験させてくれるところですね。

寺山修司と市街劇

主人公の中年男は、自分の退屈な日常から、街中で手にした奇妙な地図に案内されて、不思議な地下劇場に迷いこみ、いつのまにかファウスト博士そのものになっていきますが、このくだりの流れは、寺山修司の代表的な前衛劇『ノック』『人力飛行機ソロモン』などの「市街劇」のアイデアを思わせますね。市街劇とは、文字通り劇場ではなく普通の市街でそのまま行う演劇スタイルで、街の空き地や銭湯の湯船の中で突然劇が行われるという前衛的な表現です。市街劇『ノック』では、地図を手渡された客は、地図を頼りに、アパートの一室や公園など、市街のあちこちで起こる演劇≠ニいう名のハプニングを体験するというユニークなものだったようです。寺山いわく、市街劇とは、演劇を劇場という名の牢獄から解放するための試みであり、また、我々の日常生きているこの生活の場こそ人生という演劇の舞台そのものではないか?というのが市街劇の哲学的背景です。1975年4月19日午後3時から4月20日午後9時にかけて、30時間市街劇『ノック』が上演されますが、観客にとっては演劇には違いないものの、関係のない一般市民にとってはわけがわからない異常な状態でもあり、案の定、市民からの苦情がきて警察が介入する事態になったようです。まぁ、そうしたハプニングも含めて寺山修司の武勇伝のようなところがありますが、突拍子も無いアイデアを思いつくだけでなく、実行してしまう行動力も手伝って伝説化してしまった感がありますね。

『ファウスト』でも、地下劇場の人形劇で悪魔を呼び出す呪文と追い払う呪文を交互に唱えるファウストの助手役の人形のせいで、舞台と、劇場の外の市街を往復する悪魔の描写や、中年男が野外カフェでテーブルに穴を開けて、穴から出るワインを飲む場面など、現実と演劇的な状況が交錯してる感じが寺山修司の市街劇っぽい風情で楽しかったです。

あと、唐突なお色気担当のバレエダンサーの集団もユニークですね。とくに意味は無いけどセクシー感が欲しい!という感じで挿入されてるような雰囲気がたまりません。こういう計算外のようなシュールシーンもシュヴァンクマイエル作品の好きなところで、『オテサーネク』でも、アパートの階段で意味なく少女のパンチラシーンがあったのを思い出します。意味は無いけど、じゃあ、あのシーンを削ってもいいのかと言われれば、けっこう印象深く、シュヴァンクマイエル監督のフェチっぽいエロスの感覚というのがああいったシーンで独特の味わいを醸し出しているので、絶対必要なシーンでもありますね。

210328_Faust _03.jpg
せっかくなので孔雀の羽とか、近くに置いてあるものをいろいろ並べて撮ってみました。そういえば寺山修司も実験映像を集大成したボックス『寺山修司実験映像ワールド』がVHS版で出て、その後DVDでも再発されましたね。もしやこれも絶版か?と気になって検索してみたら現在では全4巻で単品でも買えるようでほっとしました。アートシネマといえど日本アートシネマの代表格のような人ですから、さすがにちゃんと今でもニーズがあるのでしょうね。

人形と人間

シュヴァンクマイエル作品は、短編作品時代のクレイアニメで一気に知られるようになりましたし、粘土の人形という意味では、今回のマリオネットも、シュヴァンクマイエルらしいアイテムといってもいいのでしょう。粘土のアニメーションとしての人形は、人間に似せて、人間にできない動きや変化を表現させるのが主目的ですが、今回のマリオネットは、民芸品のようなアルカイックな造形の人形を用い、あえてリアルでないことによって、人間に似せるのではなく、人間そのものの暗喩として機能させているような表現でしたね。人間であったのが、いつのまにか人形になっていたり、人形かと思っていると、かぶりものの中は人間が入っていたり、など、特撮とか前衛とか、そういうのとはニュアンスが違う、動物がしゃべったり、人間と神々が普通に交流するような世界、寓話や神話の世界のような、霊的な存在と物質的な存在の境界の無いような、不思議な世界観を映画という形で見事に構築していて、本当に唯一無二の才能だなぁと感心しました。

この映画の秀逸なアイデアは、奇妙な地図に案内されて行った先に、奇妙な人形劇の劇場があるという、ミステリー的というか、パズル的な仕掛けですね。地図に案内されて迷いこんだ主人公は、いつしかアイデンティティを失って、替わりにファウストを演じる役者だと思い込んでいき、いつしか、もはや役者でもなく、ファウストそのものだと信じ込んでしまうという流れも、なかなか不思議なムード感でよかったですね。

この怪しい劇場の雰囲気で連想するのは、『世にも奇妙な物語』でも映像化された諸星大二郎の短編『復讐クラブ』の地下映写室や、少女だけが集う森の中の学校を舞台にしたロリータで幻想的な映画『エコール』に描かれる、地下の演芸場で行われる少女のバレエ発表会、それに、ヘルマン・ヘッセの神秘的な寓意譚『荒野の狼』で言及される「魔術劇場」などです。それらはどれも自分の嗜好性にかなりの影響を受けた作家や作品ですが、そうした今までの嗜好の総集編的なニュアンスもこの『ファウスト』にはあって、それで引き込まれたところもあるのだと思います。

210328_Faust _04.jpg
ヤン・シュヴァンクマイエルのコレクション。シュヴァンクマイエル全アイテムをコンプリートしてるわけではないですが、大好きなアーティストであることには違いありません。他にも絵本などの翻訳などもいろいろ出ていて、マニアックな作風ながらも意外と日本人受けする作家というイメージもありますね。私はコレクター気質はあると自分で思ってますが、コンプリート欲のようなものは希薄で、全集なども全巻揃えたいという欲求はあまりありません。欲しい巻だけ揃えるという感じのコレクターですが、それってコレクターというより単なる普通のお買い物なのでは?と自問自答する今日この頃。
posted by 八竹彗月 at 18:01| Comment(0) | 映画

2021年02月28日

光と宇宙のはなし

はじめに神は天と地とを創造された。
地は形なく、むなしく、やみが淵のおもてにあり、神の霊が水のおもてをおおっていた。
神は「光あれ」と言われた。すると光があった。
神はその光を見て、良しとされた。神はその光とやみとを分けられた。
神は光を昼と名づけ、やみを夜と名づけられた。夕となり、また朝となった。第一日である。

旧約聖書 創世記 第1章(wikisourceより)



今回はもっとも身近で最も不思議な「光」について話してみようと思います。普段から光の神秘について思いめぐらす機会がちょくちょくあったので、いろいろ書きたかったので記事にしてみました。最も有名な宇宙創成の神話というと上に挙げた旧約聖書の創世記ですが、宇宙創造の最初に「光」をもってくるのが意味深ですね。森羅万象を読み解く古代中国の学問「易経」も、「当たるも八卦、当たらぬも八卦」で知られる八卦の元となる陰陽が元になってますから、やはり光と闇という根本概念が万象を生成する元になっていると考えたのでしょうね。神話の時代だけでなく、現代科学でも光は宇宙の解明の大きな鍵になる重要な物理現象であり、かつ物理的な実体でもあります。現代社会を支えているコンピュータは0と1の膨大な組み合わせで動作する二進法マシンですが、二進法自体のルーツは古代中国の「易経」の概念にあるというライプニッツの論文を荒俣宏さんが著書(「99万年の叡智」平河出版社)で紹介していたのを思い出します。そんな感じで、いつも身近にある光ですが、同時に謎めいていて不思議な魅力も感じます。



光のふしぎ

光の速度は人間の生活の範囲だとほとんどゼロ秒に思えるほどの高速で、そもそも光というものに、伝わるための速度が存在していることすらふだんは気付きません。子供の頃は、光というのはたんなる自然現象で、たき火とか電灯とか、何かの化学反応によって生じる現象であって、光は無限の速さで伝達されるものと思ってました。後に学校や本などで、光はそれ自体が光子という物理的な実在で、重さを持たず、そのスピードは有限(秒速約30万km)らしいということを知り、とても不思議な気分になったのを思い出します。また一般には、光速はこの宇宙における最高速度といわれてますが、無限の可能性を秘めた宇宙にもスピードの上限があるというのは、どこかミステリアスなものを感じます。

相対性理論という人類の知のパラダイムシフトは人類全体における衝撃的な革命をもたらしたと思います。光速を宇宙のスピードの上限とすることは、同時に、時間や空間などの「当たり前」に思っていた定常的に扱っていた概念が粘土細工のようにグニャグニャと歪むものであることを証明することになりました。そうした科学のもたらした新しい知見によって、よりいっそう「この世界の真相はいったいどうなっているんだろう?」という問いに魅力を感じていきます。

日常生活のスケールを超えた領域では、マクロな世界もミクロな世界も、いままで生きてきた中で培ってきた常識がひっくりかえることがしばしばです。太陽が東から昇ってやがて西に沈み、夜がきて朝が来る、といった当たり前の一日も、視点を変えれば、果てしなく広い宇宙の片隅の銀河系の端っこの太陽系の第3惑星だけに起きる非常にレアな現象でもあります。

視点を変えると常識がひっくり返ってしまう感じといえば、昔テレビかなにかで聞いた、とある思考実験を思い出します。それはアインシュタインが子供の頃に空想したとされる思考実験です。いわく「もしも自分がとほうもなく大きな巨人だったとして、ある日の正午に地球の赤道上に立ち、自転と反対方向に自転と同じ速度で歩き続けたとしたら、巨人にとって世界はどう見えるだろう?」というもしもの世界≠ナす。この場合、巨人が体験する世界は、「太陽は頭上に静止したまま動かず永遠に昼のまま」というもので、巨人はその歩みを続ける限りとてもシュールな現象を体験することになります。いわばセルフ白夜という感じでしょうか。このアインシュタインの思考実験を聞いたとき、日常のスケールをちょっと逸脱するだけで、当たり前だとか、常識だと思っていたことがいとも簡単にひっくり返るのだなぁ、と感慨にふけったものでした。

そのように、この世界に生まれ落ちて生活しているうちに自然と体感していく当たり前の現象、光とか重力とか、そういうものも、「では、それは具体的にどういうものなのか?どういう仕組みで存在しているのか?」と考えたとたんに巨大な謎としてたちはだかってきます。といいますか、よく考えてみれば、この世界のほとんどの部分は謎でできており、人間がわかっているものはごくわずかであります。人間は、人間社会という、人間だけに通用する小さなコロニーの中で人間同士のコミュニケーションだけうまくこなせていれば、とりあえず生きていけるようなシステムを造り上げたおかげで、そうした謎に興味を持たずとも生きていけるようになりました。しかしまた逆に、そうした謎に興味をもてば古今東西の賢者の思想をネットや本などで知ることができるようにもなりました。世界はある意味「打ち出の小槌」で、求める心があればちゃんと応えて出してくれるような仕組みになっているのでしょう。



光は遅い?

光は1秒間に地球を7周半するほどの高速なので、地球上にいる限り、光の伝達速度を考慮する必要がほとんどありません。地球上の、砂漠とか海の上などの、何の障害物も無い場所で身長180cmの人が見渡せる距離は約4.8km、そのままぐるりと360°周囲を見渡す場合、その範囲の面積は約81km2です。つまりこれは地球の表面積(約5億1千万km2)の約600万分の1程度しか人間は把握できないことになります。実際の日常では、建物や山の起伏などさまざまな障害物がありますし、そもそも現代人の一日はほとんど建物の中で過ごすことが多いわけですから、地球の600万分の1どころか、もっともっと狭い世界を生きていることになりますね。ちなみに東京スカイツリー第二展望台(高さ450m)から見渡せるのは地球の約2万5千分の1の範囲になります。このような人間のスケール感ですと、地球を1秒で7周半もする光は、体感ではゼロ秒に近い感じで、ほぼ瞬間的に伝達するとんでもない高速なものといえますね。

しかし、その光も宇宙という舞台ではときに亀のように遅く感じます。宇宙には地球より大きな星は無数にあり、例えば木星は地球の体積の千倍以上(1,321倍)で、直径は11倍です。木星の直径を光が横切るには0.48秒もかかり、赤道を一周するのに約1.5秒もかかります。太陽系最大の星はもちろん太陽で、ケタ違いに大きな星であり、直径は木星の10倍もあります。太陽を光が一周するのに約14秒ほどかかります。光が太陽の直径を横切る場合には4.6秒かかるので、太陽の脇を光が通過するだけで4.6秒もかかるということですね。とてつもない大きさです。

210228-hikari2_01.jpg

しかし宇宙という大舞台では上には上がいます。現在観測できている星の中でもっとも大きいとされる「はくちょう座V1489星」は、直径が太陽の1650倍(22億9792万2千km)で、この星を仮に太陽系の太陽の位置に置くと、木星と土星の軌道の間あたりがこの恒星の表面になるくらいのとんでもない大きさです。「はくちょう座V1489星」を直径1mの大きなバランスボールに例えると、太陽は直径0.6ミリの砂粒のような大きさになります。だいたいボールペンの先っちょの玉くらいですね。(ちなみにこの比率でいくと地球の直径はベビーパウダーの粒子ひとつ分よりも小さくなり、約5.5マイクロメートル、ミリ換算で約0.0055ミリとなり、肉眼では見えないサイズになってしまいます)この巨大な星の直径を光が横切るには2時間8分ほどかかります。光が星ひとつ横切るのに、映画まるまる1本分鑑賞するくらいの時間を要するというのがとてつもないですよね。

210228-hikari2_02.jpg
この図は惑星同士の距離というより各惑星の軌道までの距離感です。各惑星は軌道上のどこかにいることになりますから、太陽の反対側に来る場合もありますし、そうなると実際はもっともっと離れていることになりますね。

210228-hikari2_03.jpg

ついでに、地球の大きさを直径1cmのパチンコ玉だと見立てて計算してみました。その場合は太陽は直径約1.1mの両手で抱えるくらいの大きなバランスボールくらいになり、その比率のままはくちょう座V1489星≠ノ当てはめると直径1.8km(甲子園球場を約10個並べたのと同じくらいの直径)の超巨大なボールとなります。ほとんど街ひとつがすっぽり収まるほどの直径の球体とパチンコ玉との比較を考えるとあまりの非現実的なサイズ感に頭がクラクラしてきますね。不動産屋さんの店先の物件紹介の貼紙とかにある「駅から徒歩○○分」というのは「80m=徒歩1分」という計算らしいですが、これでいくと1.8kmのはくちょう座V1489星≠ノ見立てた球の脇(直径)を歩いて横切るだけで20分以上かかる計算になります。そんな比較で想像してみると、宇宙の壮大さの片鱗をわずかながらでも実感できますね。

宇宙は星の無い空間のほうが圧倒的に多いのに、光が星一つ分を通過するのに2時間以上かかるというのを考えると、宇宙を把握するモノサシになっている光がいかにゆっくりなのかがわかりますね。太陽系に最も近い恒星、ケンタウルス座α星まで光の速度で4年以上かかるので、現在の科学の常識では恒星間旅行など永遠の夢物語です。ブラックホールのような時空の歪みを利用する航法など、恒星間探索のいろいろな仮説がありますが、どれも非常識なコストがかかる非現実的なものです。恒星間を行き来するような宇宙時代は必ずしも夢物語だとは思いませんが、恒星間探査を可能にするのは、相対性理論が発見された時のような、常識が180度ひっくりかえるくらいのパラダイムシフトが物理学やテクノロジーの分野で起きることが必要でしょうね。

情報のみの伝達に限っても、光速のリミッターがこの宇宙にはたらいているので、ケンタウルス座α星のようなご近所と連絡をとるのにも4年もかかりますが、もし量子もつれのようなテレポーテーションまがいのチート的な手段が情報伝達に転用できるような革新的な発見があればどんなに遠い星同士でも瞬間的な情報伝達が可能になるかもしれませんね。量子論自体が当時天才の代名詞でもあったアインシュタインさえ首を傾げたほどに不思議な理論でしたが、現在では量子コンピュータも近い将来実用段階に入りそうな感じで、量子論はそのくらい現実に即した影響力をもつリアルなものになってきました。いまだに量子論はどこか現実離れした不思議な理論のように扱われる機会が多いですが、そうした不思議な仕組みが素粒子レベルのミクロの世界では常識なわけで、他にもそうした理論的な抜け道がこの宇宙には意外とたくさん用意されているような気がしますね。そうした新しい手段によって、銀河同士で会話できるようなレベルの瞬間的な情報伝達が発見されたら、この宇宙がいっそう楽しい場所となることでしょう。



光のドップラー効果

ドップラー効果というと、救急車などのサイレンの音が、近づいてくる時と遠ざかる時とでは音の高さが変わってしまうアノ現象のことで、これは音の伝達速度が秒速約340mと遅い事によって人間に知覚可能な変化として認識されます。光もまたこれと似た現象が起こり、光速に近づくほど進行方向の景色は青に、遠ざかる景色は赤の方向にズレることになりますが、光は音速の10万倍のスピードで伝達するので、人間の日常生活ではその変化はほとんどゼロに近い微々たる変化になるので気付きません。もっと巨大な場、宇宙に目を向けるとこの現象は「赤方偏移(せきほうへんい)」という現象によっても確認されており、これは天体の観測で遠い星ほど速く遠ざかるために星が赤っぽく見える現象です。

光のドップラー効果について思い出すのは著名な天文学者、カール・セーガン(1934-1996)が、1980年に制作した『コスモス(COSMOS)』という宇宙を興味深く解説する全13回シリーズのドキュメンタリー番組です。日本でも放送され、これによってカール・セーガンの名前が日本でも一般に広く知れ渡る事になりました。20億円の巨費を投じて制作されたようですが、この番組の第8回目の『時間と空間の旅』の内容が、光のドップラー効果を説明するために、ユニークな思考実験を映像化していたのがすごく印象に残っています。その映像を見たとき、この世界にはこんな不思議な仕組みが裏ではたらいているのか!とすごくワクワクした感動を思い出します。

その映像というのは、もしも光の速度が時速60kmほどだったら世界はどう見えるか?をシミュレーションしたビデオです。光速が時速60kmほどと仮定すると、スクーターで走っただけで容易に光速に近づいてしまうため、普通の日常生活にモロに相対性理論の効果があらわれますが、それがこの映像の面白いところです。

TV動画
Carl Sagan - Cosmos - Traveling - Speed of Light (Youtube)

映像は、カール・セーガン自身による解説の後、広場で数人の同世代の友達と遊んでいた主人公の少年がスクーターで村を一周して、また元の広場に戻ってくる、といったシンプルな内容ですが、なにしろ光速がスクーターの最高時速とそう変わらない世界の話なので、奇妙な現象がいろいろ起こりまくるのが面白いです。

光に近い速度のバイクに乗っている少年は、他の人から見ると押しつぶされたように横幅が縮んで見え、さらに光のドップラー効果で青く見えるとか、バイクから見る景色は光速に近づくと虹色になって前方に固まって見えるとか、不思議の国にでも迷いこんだかのようなサイケな情景が次々にあらわれます。バイクでちょっと散歩しただけなのに、広場に戻ると自分の弟が相対性理論のウラシマ効果でよぼよぼの老人になってしまい、広場にいた同世代の友達は皆他界してしまって広場はガランとしている、というオチで、小さな村をバイクで一周しただけで何十年もの時間のズレを生じてしまうところがまさに「世にも奇妙な物語」な感じです。光というものの奇妙な性質をわかりやすく視覚的に表現していてとても秀逸なビデオですね。

光速に近づくと世界はどう見えるのか?」を手軽に体験可能なムービーが公開中(GIGAZINE様)

こちらは2018年にベルギーの大学で作られたビデオを紹介しています。光速が時速20kmの世界でボートに乗ったときに見える景色のシミュレーションです。360°ムービーになっており、再生中もマウスで任意の方向に画面を動かすことができます。光速に近づくにつれて周囲の風景は歪みはじめ、色合いも光のドップラー効果でサイケな感じに変化していきます。実際に日常では経験することのない光速の世界も、あえて日常レベルのスケールに落とし込むことで、その奇妙な性質を実感させてくれるこうした映像は、ちゃんとした科学的な理論を背景にして作られているだけに、より不思議感があって面白いですね。

210228-hikari_01.jpg
『ライフ・サイエンス・ライブラリー 時間の測定』サミュエル・A・ハウトスミット、ロバート・クレイボーン著 小野健一監修 タイム・ライフ・ブックス発行 昭和50年刊
ライフの科学図鑑シリーズはユニークな図版が多くて楽しいですね。これは時間をテーマにした巻で、上図は「相対性に破れたスパイ作戦」と題されたユニークな絵物語の一枚です。物語の内容は、原発への爆破テロを企てたスパイが相対性理論に無知だたっために計画が頓挫してしまうというストーリーです。絵は、光速の4分の3の速度(秒速22万キロ)で走る「相対性特急列車」に乗り込んだ主人公のスパイが、車窓から外にいる仲間の見張りの男を見た時の様子を描いた挿絵です。見張りの男はたしか小太りのはずだったのに、なぜかほっそりしています。というより、あきらかに横に圧縮されたような不自然な姿です。これは光速に近いスピードで走る列車から外を見ているせいで景色が横に収縮して見える「ローレンツ収縮」といわれるものを絵にしたものです。モノを見るということは、モノに当たった光の反射を見ていることと同じですが、観測する人が光速に近い運動をしている状態では、光が当たって目に映るまでの光の動きもズレてくるのでこうした現象が起きます。こういう絵って、頭で空想した幻想画とはまた別の、シュールな味わいがあって大好きです。見た目はキテレツでも理論上はありえるというところが面白いですよね。


210228-hikari_02.jpg

210228-hikari_03.jpg
上図下図とも『ガモフ全集1 不思議の国のトムキンス』ジョージ・ガモフ著 伏見康治訳 白揚社 1950年
光速がものすごくゆっくりな世界で起こる奇妙な光景を描いた絵。一般的な自転車を最速でこいでも時速30kmほどだということなので、自転車で走るだけでローレンツ収縮が起こるということは、この絵の世界は光速が時速30〜40kmくらいのようですね。これらの挿絵は第1話の「のろい町」(呪いではなく遅いほうののろい≠ナす)の挿絵です。この架空の世界でも、光速は最高速度なので、タクシーだろうが電車だろうがみんな自転車と同じくらいのスピードしか出ません。街角のおまわりさんもスピード違反を注視する必要もないためいつもヒマそうにしています。




光の時代

そういえばアインシュタインが第三次世界大戦はどうなるかについて問われて「第三次世界大戦についてはわかりませんが、第四次大戦ならわかります。石と棍棒でしょう」と答えた、という話がありますね。原爆や水爆といった、一発で都市をまるごと壊滅させるような兵器が存在するようになった現代において、もしまた世界規模の大戦が起きれば人類そのものの文明すらほとんど壊滅してしまい、その次の第四次世界大戦では、兵器工場どころか文明すら消え去った世界なので原始的な武器、つまり石と棍棒で争うような原始的な戦争になるだろうという皮肉なブラックジョークですね。最終戦争後の世界というと、北斗の拳もそういう感じでしたし、FF10の舞台、スピラもそういえば最終戦争後の世界を舞台にした世界観で、高度に発達した科学文明そのものが破壊された後の、原始的な文明に退行した世界を描いていたのを彷彿としますね。私たちの世界がそういう世界にならないためにも、これからは心の教育などが重要でしょうし、精神の豊かさを育むような社会へとシフトしていかなければ、人類自体がそのエゴによって消滅してしまうかもしれませんね。

占星術の世界でも、70年代あたりから「アクエリアスの時代」つまり水瓶座のことですが、それまでの魚座が支配していた物質偏重のエゴイズムな世界から、水瓶座が支配する時代に移り変わることで、精神面に重点を置いた協調的な自然主義の世界観にシフトしていくだろうといった説が話題になったことがありましたね。アメリカのコーラスグループ、フィフス・ディメンション(The Fifth Dimension)の60年代後期のヒット曲『輝く星座』は、原題は『Aquarius(アクエリアス)』で、まさにこの占星術の予言、水瓶座の時代をテーマに、悲しみの時代の終わりと幸福な時代の訪れを歌ったスピリチュアルな歌詞のファンタジックな曲でしたね。

フィフス・ディメンション『輝く星座(Aquarius)』(Youtube検索結果)

約2160年ごとに支配する星座が変わるということですが、占星術的には現代がそのターニングポイントになるという説が広く流布されているようです。アセンションとか、次元上昇とか、最近では風の時代などという似たようなファンタジックな説を目にする事がありますが、まぁ、そっち系はあまり深入りしないでおこうと思ってます。それを信じる信じないというより、そういう話題に関心が集中するほど、この世界が精神性に目覚める世界になってほしいという願望のあらわれでしょうね。そういう願いに似た気持ちがそういった説に投影されて流布されているのだろうな、と感じます。

人類の文明は、生物としての生存にかかわる大きな問題、衣食住をかなりの程度まで安定的に享受できるようなレベルまで進んできましたし、そういう面では物質的にはもうかなりのレベルで満たされているといえるでしょう。だからこそ、これからの時代は、人類最大の目標である「幸福」という心の問題に真剣に目を向けるべきなのかな、と感じます。

政府が発表して話題になった「ムーンショット目標」では、労働やコミュニケーションなどの人生にのしかかるいろいろな義務から解放された理想の未来のビジョンを示していて興味深いです。どこまで本気か気になるものの、実現すればそれこそアクエリアスの時代にふさわしく革命的な意識改革が起こるでしょうね。どこかマトリックスの世界を思わせるSFっぽい目標ですが、2050年までに実現させることを目標にしてたりと、わりとリアルな感触もあって、ちょっと期待してしまいます。

このまま人類が破滅的な戦争をすることなく、科学技術を発展させつづけていけば、AIやロボットの進化によって生きるための労働から解放されたり、より自由でチャレンジしがいのある人生を過ごせるようになるかもしれませんし、そうしたテクノロジーの進歩は宇宙開発へも当然向けられるでしょう。そうなればいずれは光速に近い推進力のロケットも実現できるかもしれませんし、そうした未来では、光のドップラー効果をはじめとする相対性理論でいわれてきた奇妙な現象が、ロケット開発におけるリアルな現実の課題になっていくのでしょう。さらに技術が進めば、光の速度でさえ恒星間を行き来するには遅過ぎますから、そうした未来ではワープ航法のようなチート的な技術も可能になっていくかもしれませんね。

人間社会は、ある意味宇宙の縮図のような面もありますし、生きるための労働にしても、一生懸命働くという以外にも、宝くじとか株とかいろいろとチートが存在しているのがこの世界ですから、宇宙にもそのような、光速の呪縛を突破できるような様々な仕掛けや抜け道がありそうに思う昨今です。



メモ参考サイト
はくちょう座V1489星(ウィキペディア)
はくちょう座V1489星は、地球から見てはくちょう座の方向に約5250光年離れた位置にある赤色超巨星。2012年時点で観測されている恒星の中では最も直径の大きな恒星。それまで最大の恒星とされていた「たて座UY星」は、再計測の結果以前より半分近く直径が短いことが判明したため1位の座を奪われたそうです。なんというか、半分近く短くなるほど誤差が出てたというところも驚きです。宇宙が相手となると、誤差のレベルも驚異的に壮大ですね。

近い恒星の一覧(ウィキペディア)

直径の大きい恒星の一覧(ウィキペディア)

地上から見渡せる距離や範囲の計算機(ke!isan様)

【PDF】「なぜ光の速さを超えられないのか―わかりやすい速度の合成則の導出―」近藤良彦、西川哲夫 國學院大學人間開発学研究 第9号〔平成30年2月〕

【PDF】「光の正体を探ろう!〜量子の世界への招待〜」(北海道大学大学院情報科学研究科光エレクトロニクス研究室小川和久、松岡史晃)
量子論の概論や量子コンピュータについてイラストをふんだんに使って解りやすく解説していて勉強になります。『量子コンピュータが得意なこと』と題する章に、組み合わせ爆発などの計算量が膨大な問題を例に、4GHzでCPUが動作するパソコンだと20兆年近くかかる計算を量子コンピュータは1.75 × 10^−8秒(0.0000000199秒)で算出してしまうようなことが書かれてますね。今のパソコンでおよそ20兆年(宇宙の歴史138億年の約1449倍!)かかる計算をほとんどゼロ秒で答えを出してしまうって、まるでリアルHAL9000(映画『2001年宇宙の旅』に登場する万能コンピュータ)の世界ですね〜 ただ、速いかわりに精度が落ちるとか、計算にも得意不得意があるようで、量子コンピュータが実用化しても現行のコンピュータが無くなることはないという話も聞きますね。とはいえスパコンの1億倍以上のスピードで計算するといわれるかつてない機械仕掛けの頭脳、量子コンピュータが実用化されるようになったらいろいろな常識もひっくり返って、社会や人間の意識自体にとてつもない変化が起こるでしょうね。

コスモス (テレビ番組)(ウィキペディア)

「ムーンショット目標1 2050年までに、人が身体、脳、空間、時間の制約から解放された社会を実現」(内閣府サイト)

【PDF】「太陽系の大きさを体感する」(JAXA)
なかなか実感のつかめない宇宙や星のサイズ感ですが、身近なモノや場所におきかえて類推するれば宇宙のイメージを具体的に実感できたりするので楽しいですね。このPDFでは、太陽系のスケール感を実感するための興味深い比較をいろいろ紹介していて面白いです。惑星同士の距離感も、漠然と等間隔に並んでいる様をイメージしがちですが、実際は水金地火までは太陽の近くに密集していて、そこから木星までは一気に過疎化して距離が遠くになります。そうした距離感の感覚を広場などで実際に惑星に見立てたボールを使って縮尺どおりの軌道の位置に置き、惑星間を歩いて実感してみる実験などが紹介されており興味深いです。

【動画】「Bill Nye Demonstrates Distance Between Planets」 (Youtube)
上のPDFと同じような実験を実際に行っている海外の動画。直径1mのボールを太陽に見立て、サイクリングコースの出発点に置き、その縮尺にそった大きさの惑星を縮尺どおりの軌道の距離に置いて、自転車でその惑星同士の距離感を実感してみる実験動画。火星までは次々に通過していきますが、それ以降がやたら遠くなります。自転車乗りの人がユーモラスで楽しいです。音楽やメーターなどの演出も凝っていて面白いですね。大宇宙とか銀河系などのスケール感からすれば太陽系はちっぽけに感じますが、こうして見ると地球のスケール感からすればとほうもない壮大さですね。それと同時に、天王星とか海王星などのそんなにも遠くにある小さな惑星まであの大きさの太陽がその重力でつなぎ止めているというところも感慨深いです。

「もしも月が1ピクセルしかなかったとしたら・・・太陽系の退屈で正確な地図」(Josh Worthさん制作のサイト)
グラフィックデザイナーのJosh Worthさんが作成した興味深いサイト。月がモニタ上の1ピクセルとした場合の太陽系惑星の大きさと距離感をシミュレーションしています。画面を右スクロールしていくとお馴染みの惑星が現われてきますが、こうして実際にマウスを動かしながら体験してみると、頭で想像している以上に惑星同士の距離が遠いことにびっくりしますね。アンドロメダ銀河と我々の天の川銀河が遠い将来衝突するが、星同士がぶつかる可能性はほぼ無いという話がありますが、たしかに、太陽系がこれだけスカスカで、しかも一番近い恒星まで4光年以上と、さらにとてつもなく離れているのを知ると、実感として納得できますね。
posted by 八竹彗月 at 17:43| Comment(0) | 宇宙