三島由紀夫については、ずっとむかしから興味は持ち続けているものの、わずかな短編とエッセイを読んだきりで、長編の代表作さえまだ未読のままです。基本、私は、よほど興味を惹かれるきっかけが無い限りあまりひとりの作家の作品を読破しようとは思わない質(タチ)ですが、なぜかむかしから興味の範疇にあることごとくに三島由紀夫の名前がチラつきまくるので、これは「いい加減にして、そろそろちゃんと三島を読みなさい!」という本の精霊からの思し召しなのではないか?と最近考えるようになってしまいました。
思えば、いまままでハマった横尾忠則、美輪明宏、澁澤龍彦、各々が美術、音楽、異端文学と異なるジャンルの表現者であるにもかかわらず三島と深い関連のある方々ですし、江戸川乱歩もまた『黒蜥蜴』を三島が戯曲化しています。またオカルト関連ではUFOもそうですね。魔術や心霊関係とは異なり、けっこうポジティブな不思議系のジャンルなので安心して浸れるので好きな『UFO』も三島と縁があります。三島はUFOサークルに加盟していたり、『美しい星』という作品を遺しているほどハマっていた時期がありました。そんな感じで、何かと今までハマった興味の端々に三島の名前が出てきます。
まぁ、三島由紀夫といえば、日本どころか歴史に名を残す世界に名だたる高名な文学者なわけですから、いろんな場面にその影響が見えてくるのはあまり特別不思議なことではないのかもしれませんが、世の中、そうでない人だって多いわけですし、そこはヘンに合理主義な固い理性で懐疑的に解釈せず、これも何かの縁と思って素直に高次元からのお導きと捉えていきたいように思ってます。
今回、そんな、真面目な三島ファンでもない私が三島を題材にした記事を書こうと思ったのは、先日古本市で購入した昭和27年の雑誌『主婦の友』がきかっけです。グラビアページの昭和レトロなファッションに身を包んだスターたちの写真が目について、絵などの参考資料のつもりで手に入れたものなのですが、後で自宅でその他のモノクロページもパラパラとめくっていたら、まだデビュー間もない三島由紀夫とそのお母さんとの対談の記事が目にとまったのでした。この記事を目当てに手に入れたわけではなく偶然でした。そうしたシンクロニシティ的なことも含めて、三島作品をちゃんと読んでみようという気分になってくる昨今なのでした。この対談の前振りにこんなコラムがあります。
初秋の目黒緑ガ丘のお住居をお訪ねすると、すぐ三島さんが出ていらした。二十四歳のときの作品『煙草』によって文壇に出、戦後派中の最も若い作家、稀に見る才人として、その独特(ユニーク)な作風を高く評価されている三島さんは、今年二十七歳、本名は平岡公威(ひらおかきみたけ)氏である。白いワイシャツの上に紺のチョッキを着た無造作な御様子で、奥へ御案内くださる態度もテキパキと小気味よい。
八畳のお座敷は床の間に山水の軸、野菊の投入れ。
『三島由紀夫氏とお母さんの対談』(『主婦の友』昭和27年12月1日発行 主婦の友社)より
文壇デビュー4年目の若干27歳の三島の語りに興味が高まりますね。三島についての通り一遍の背景などいうまでもないことだと思いますが、後に日本を代表するような大作家となっていくだけでなく、政治結社「盾の会」を設立するなど、政治的、社会的にも注目を集め、当時の世相を代表するような最期を遂げることになる人物であります。
三島の割腹自殺は、当時フォークブームの中で気鋭のシンガーソングライターだった遠藤賢治の代表的な名曲『カレーライス』でも歌われていたことも印象深いですね。『カレーライス』は、同棲していた彼女が台所でカレーライスを作っている状況を歌にした私小説的な作品ですが、カレーライスができるまでの手持ち無沙汰にギターを弄びながら見てたテレビで、ちょうど三島の自殺の報道がやっていた、という状況が描かれていて興味深い作品になっています。「誰かがお腹を切っちゃったって。ああ、とっても痛いだろうにね〜」とのんきな表現で歌われていて、三島のことよりも早くカレー出来ないかな〜とお腹をすかせているエンケンの姿が目に浮かんで来ます。そういうところが逆に、当時の一般人が最初にあの報道を目にしたときの妙なリアリティを感じるものがあってハッとさせられた曲です。
2025.8.12 追記
歌詞の中ではお腹を切っちゃった$lが誰なのかは言ってないので、最初聴いた時はは何のことかわからなかったのですが、何度か聴いてるうちに「アレッ?これってもしや三島のあの事件のことか!」と気付いてからは、自分にとって印象深く記憶に残る曲になっていきました。たんなる日常を歌った牧歌的な曲というだけでなく、歌詞が描いている場面が特定の時代の特定の日時だということが、あのくだりではっきりします。まさに時代を切り取って歌にしたような傑作ですね。命がけで真剣に訴える三島と、それをひとつのブラウン管の向こうのイベントとしてしか感じれない一般の人々とのコントラスト、そういうシラケムードの時代の空気を皮肉っているようにも思える曲です。
そして奇しくも三島事件(昭和45年[1970])の2年後に、これまた日本中を騒がせたあさま山荘事件(昭和47年[1972])が起こります。そういえば、これまた昭和の大事件、三億円事件(昭和43年[1968])も三島事件の二年前に起きた事件だったんですね。この時代、三島事件に前後して二、三年おきくらいの頻度で昭和史に残るような大事件が立て続けに起こってたことになりますね。70年代は日本がどんどん豊かになっていった時代というだけでなく、飽食の時代ゆえに怠惰な空気も蔓延していたような雰囲気で、70年代は空虚さと激動が同居したような不思議な時代でしたね。
(注)さきほど時系列を勘違いして三億円事件を三島事件の後のようなことを書いてましたので訂正しました。
追記終わり
2025.8.18 追記
三島事件が日常の中にさりげなく入り込んでいて印象深いエンケンの『カレーライス』ですが、よく聴いてみるとちょっと気になった部分があったのでまた追記します。三島とは関係ないのですが、歌の中で、飼い猫もカレーライスが好きで、はやく食べたいとないているというシーンが描かれていますね。歌詞にはジャガイモ、ニンジン、玉ねぎ、と定番の材料が出てきますが、昨今では猫に玉ねぎは毒だというのは広く知られるようになってきましたね。玉ねぎに含まれる「アリルプロピルジスルフィド」という成分が、猫の赤血球を破壊し、溶血性貧血や血尿、腎障害を引き起こす原因となり、最悪の場合、死に至ることもある、ということです。しかしこの「常識」は、けっこう最近になって周知されてきたような記憶があり、エンケンの歌が発表された1970年代ではペットフード産業も黎明期のような感じで、ペットの犬猫の餌といえば、残飯を与えるのが一般的だったと思います。調べてみると、猫に玉ねぎを与えてはダメ!という知見は1960年代以降に獣医学の研究によって明らかになり、それが一般に周知されはじめるのが1980年代あたりからで、常識として定着したのは2000年代初頭になってから、という感じのようです。玉ねぎだけでなく、カレーは塩分やスパイスや油分など、猫の餌として不適当な成分が多いため、カレー自体が猫に不適当のようです。あくまで創作の中のことですから、実際に歌詞のようなことがあったかどうかは不明ですが、けっこういろんな部分に時代の反映を感じる曲ですね〜
追記終わり
まぁ、そんな感じで、三島の熱心なファンではないものの、三島の人間的な魅力も含めて何かと惹かれるところがずっとあったのでした。そうした三島の若き日の記事であり、文学でこれから身を立てて行くんだ!というピュアな時期の記事というのもまた興味深いものがありました。この記事によってますます三島への関心が高まってきましたので、これを機会に近いうちに代表的な三島作品にも少しずつ触れていこうか、と思っています。
もしかすると、熱心な三島ファンには目新しい情報ではないかもしれませんが、私にはとても面白い発見がいくつもありました。お母さんとの対談になるので、主に三島の幼少期からの家族関係がリアルに語られていて、そこがとても興味深かったです。古い雑誌の記事ですし、もし以降に何かの本に収録されてなければ埋もれたままになってしまうかもしれず、それはもったいないことでもあるので、インタビュー全文をがんばって文字起こししてみました。三島由紀夫に興味のある方にとってはなかなか面白い情報になるのではないでしょうか。以下に、インタビューを読みながら思ったことをコメントしつつご紹介していこうと思います。
(親子のはなし)三島由紀夫氏とお母さんの対談
聞く人・田村秋子さん
◉おばあさんっ子
三島 田村さんの舞台は、今度いつですか。
田村 十一月の中旬に、『龍を撫でた男』で、精神病のお医者さんの細君になりますの。とても難しい役で考えあぐんでいますとね、十八になる息子が、『いいじゃないか、お母さんを地でゆけば。』って、憎らしいことを申しますのよ。(田村さん、嬉しそうにお笑いになる。)
今日はね、三島さんのお小さい頃からのお話なぞ、いろいろ伺いにまいりました。とてもお利口だったんでしょ。
母(倭文重[しずえ]さん) いいえ、身体が弱うございましてね、自家中毒を毎年、おしまいには毎月やりました。五つのときには二時間も死んでいましたのよ、脈が止まってしまって。
三島 屏風を逆さに立てたりしたんだろう。
母 ええ、そう。
三島 僕は、しばらくお祖母さんに育てられたんです。そして、男の子と遊ぶと乱暴になっていけない、というお祖母さんの意見で、女の子とばかり遊ばされました。(笑声)お陰で、女の子って、ずいぶん意地の悪いものだ、ってことを身にしみて知りましたよ。(笑声)
母 主人がとても心配いたしました。男らしさがなくなってしまうと申しまして。
三島 おやじさんは、わざわざ鉄砲や大砲の玩具買ってきて、『射ってみなさい。』と僕に言うんです。僕射とうとすると、お祖母さんが、『そんな大きな音を立てるとつんぼになる。』と言って射たせない。(笑声)おふくろさんの言うことを聞こうとすると、お祖母さんが承知しない。おやじさんはスパルタ式で僕を鍛えようとする。愛情の三つ巴の中で、子供心にも、人の気持ちの動きというものに非常に敏感にならざるを得なかったんです。神経が、非常に過敏(ナーバス)になる───というのかな。なにしろ現実の世界では身動きがとれないでしょう。反動として、自由なのびのびした世界に憧れる。誰にも制肘(※せいちゅう。他人の行動をそばから干渉し、自由な活動を妨げること)されない、叱られない世界に憧れて、童話なんか、貪るようにして読みました。
田村 いくつくらいからお読みになりましたの。
母 五つ・・・・・でございましたね。(と三島さんへ)
三島 そう、小川未明のもの、鈴木三重吉のものなんか、おふくろさんの買ってくるセンチメンタルな童話が好きでしてね。おやじさんの買ってくる、『我らの陸海軍』なんてのは読まなかったね。しかし、冒険小説は好きだったな。『吠える密林』なんてのは、十何回か読んだし、漫画もとても好きだった。
田村 じゃ、小学校は、学習院の初等科でいらっしゃいましたのね・・・・・そこへお入りになってから、作文はお上手だったんでしょうね。
母 いいえ、それが、とてもませたことや、生意気なことばかり書くんでございますよ。小学校の綴方(つづりかた)だというのに、『椿姫』とか『彼と彼女』なんていうのを書いて・・・・・(笑声)謹厳な先生でしたから、たいへんお叱りになりましてね。
三島 『ほんとうに嫌な子だ』と言ってた。
母 ませた子だとか、女みたいな子だとか、さんざんお叱りになりましたが、私は、大人になれば自然に治ると思っておりましたから、この人には何も申しませんでした。
三島 初等科を出るとき、先生が、『君はそんなに書くことが好きなら、そっちへ行くがよろしかろう。しかし小説家になんぞならないで、文学博士になりなさい』って。(笑声)
母 中学の終わり頃から、やっと席順がよくなって、高等科を卒業するときは、恩賜の時計をいただいたのね。
三島 精工舎の安物さ。(笑声)
『三島由紀夫氏とお母さんの対談』(『主婦の友』昭和27年12月1日発行 主婦の友社)より
聞き手の田村さんを存じなかったので調べてみたら、ちょうどこの記事の出る一年前に映画『自由学校』『少年期』で女優助演賞を受けており、小津安二郎の映画で知られる女優・杉村春子の演技などにも多大な影響を与えたといわれる実力派の女優のようでした。
三島の幼少期は祖母の影響で女の子とばかり遊ばされてた、ということろが興味深いですね。「お陰で、女の子ってずいぶん意地の悪いものだってことを身にしみて知りましたよ」というところが微笑ましくもあり、考えさせられもしますね。三島といえば、その同性愛者としての側面は、自身の文学にも大きく影響していると思いますが、この幼少期の育てられ方をみると、そうした嗜好の萌芽とも思えてきて複雑な思いにかられます。幼い頃に異性にある種の幻滅を体験していることは幸か不幸か少なからず人生全体に影響を及ぼすことになっていたのかもしれませんね。まぁ、結果論でいえば、それがなければ大文学者になっていたかどうかもわからないところでもあり、同性愛の美学のような表現は三島文学の象徴的な要素でもありますし、それがなければ美輪さんとの交際もなかったわけですから、ショーペンハウエルのいうような意味でもすべては起こりうるべくして起こっているようにも思えてきますね。
また、学生時代の、教師の頭を悩ますレベルの自我の主張の強い感じも、育ちのいいおぼっちゃんの我が儘さを感じると同時に、自分の美学を貫き通す以降の人生観を形作るための要素でもあるようにも思えますね。岡本太郎も、幼少期は学校の先生にも自分の主張を曲げずに主張するのでよく退学と入学を繰り返していたという逸話がありましたね。
◉母の願い
母 中学へ入りましてからも、テニスとか野球とかいうようなことはまるでいたしません。学校から帰ってくると、勉強と、本を読むことと、何かしら書くことと、それだけでした。ほんとうにやむにやまれないように、絶え間なく何か書いていました。その姿を見ておりますと、身体は弱いし、絵を描くとか文を書くとか、そういう方向にならいくらか伸びてゆけるのじゃないかしらと思いましてね、祈るような気持ちでございました。
三島 中学へ入ってからはことに、じゃんじゃん書くことのほかには楽しみがなくなったんです。ところが僕の家(うち)は、皆コチコチの役人です。ぼくのひいじいさんが大審院の部長をやって、祖父も法学士、父も法学士です。小説家というと、何か堅気でない、たいへんな悪い商売のように思っていました。その中で、おふくろさんが、唯一の支持者でした。
母 主人は、小説家になるなんて、絶対に不賛成でございますから、私、主人とこの人の間に立って、一生懸命に屏風の役をいたしました。お互いに直接風が当たらないように、と思いまして。ほんとうに痩せる思いをいたしました。この人が学校へ行ったあとで、主人がこの人の机の抽き出しを開けて調べます。すると、原稿用紙にこまめに書いてございましょう。主人はそれを片端からビリビリ破ってしまいますの。私、主人に隠れて原稿用紙を買ってきて、そっとそのあとへ入れておきました。この人は、夜になると、それにまた書きます。どこへ出すこともできませんし・・・・・せっかく書いたものを、私だけでも、せめて読んでやりたいと思いまして、主人に隠れて読みます。主人がそれを見つけて破ります。また私が買ってくる、書く、破る───ずっとこれをくり返していましたの。中学の時分・・・・・
三島 あの時分から、おふくろさんには、何から何まで読んでもらわないと、気持ちが落ち着かなかった。
母 とにかく私に読ませたがったのね。ですから、その時分から、この人と私との間には何の秘密もございません。この頃、あるの?(と三島さんへ)
三島 ないよ、何もない。
母 ちょうどこの人が十七、八、九、という、なにかにつけて非常に感じやすい頃でございましょう。もし、やけでも起こされてはたいへん、不良少年の仲間にでも入られたらどうしよう、と思いますと、ほんとうに夜も眠られない気がいたしました。
三島 具体的な見方から言うと、こんな頼りにならないおふくろさんはないですよ、全然。(笑声)ただ気持ちのうえだけですね。気持ちのうえでおふくろさんは僕をしっかり抱いていてくれる───と思うことができれば、それで安心していられるんです。
母 東大へ入りますときにも、この人は文科を熱望しましたけれども、父親だけが頑として法科を主張いたします。この人も、過程に波風を立てて私をこのうえ苦しませるのは可哀想と思ったんでございましょう。表面はおとなしく、父親の言うことを聞いて法科へ入りましたが、見ていて可哀想でございました。
三島 しかしね、今になってみれば、法学部に入ってよかったんですよ。小説の書き方と法律とは、その経過に妙なつながりがある。ことに訴訟手続きなんていうのは・・・・・これは面倒なやつなんですがね、親父さんもこれが好きだったらしい、僕も好きでした。この訴訟手続きは、小説を書く論理(ロジック)に似ていますよ。文学部を出てもしょうがなかった、小説の足しにはならない。
田村 先見の明がおありになった・・・・・
三島 いや、親父さんの明ですよ。ただし、これは結果論ですよ。
母 あのときはほんとうに嬉しかった、ほら、『花ざかりの森』を刷って、川端康成先生に本を差し上げたら、とてもお褒めのお言葉をいただいたでしょ。(と三島さんへ)
三島 そう、・・・・・あれは大蔵省(※財務省の旧名)へ入る前だったね。
母 嬉しゅうございました、そのとき。
田村 わかりますわ、よく・・・・・
母 これで一つの難関を通ってくれたと思いまして。それでも父親は、やっぱり、この人が小説家になることは絶対に許しませんでした。そして、『在学中に高文とれないような奴は、低能だぞ。貴様、高文をとれ』と厳命しましたの。この人、受けたら通りまして、法科を出るとすぐ、父親の言う通りに、大蔵省へ入りました。主人は、しめた、と思ったんですって。(笑声)
田村 大蔵省では、どんなお仕事を・・・・・
三島 大臣や課長の訓示の原稿なんか、盛んに書かされましたよ。いつか、大臣訓示の原稿を親父さんに見てもらいましたらね、『こんなセンチメンタルな訓示ってあるもんか』と言って、それこそめちゃくちゃに直してくれましたよ。親父さんは、そういう方面の文書の熟練者(ベテラン)ですからね。(お父さん梓[あずさ]氏は、農林水産局長であった。現在、数会社の重役や顧問をしておいでになる)課長の訓示の冒頭に、『代わり合いましてこの禿頭が・・・・』と書いて持っていったら、そこんとこ課長に全部削られちゃった。ご本人見事な禿頭でしたからね。(笑声)
『三島由紀夫氏とお母さんの対談』(『主婦の友』昭和27年12月1日発行 主婦の友社)より
ここから中学生時代の話になっていきますが、この時分から、小説の執筆に夢中になっている様子が語られてますね。こういう、なにもかも忘れて没頭できる趣味、それが小説であれ、絵であれ、漫画であれ、音楽であれ、なんであってもそういう趣味を早い時期に見つけられた人は幸運だと思います。むかし2chのスレッドなどで、「私は無趣味なので何か趣味を持ちたいのですが、何を趣味にしたらいいですか?」みたいな相談をいくつも見かけた記憶があります。世の中には、自分が何をしたら楽しいと感じれるのか、を知らない人もいる、という事実に衝撃を受けたことを思い出します。自分の至福が何なのかを知っているということは決して当たり前のことなのではなく、それだけで、実はそれはとても恵まれた幸せなことなのでしょうね。
誰に見せるわけでもない作品も、母にだけは読んでもらっていた、というところも興味深いですね。これは小説だけでなく、ビジネス的な重要な判断なども、自分の奥さんや子供など、身内の近しい人に意見を求めるパターンはよく耳にしますし、おそらくそれは一般的なことだと思います。嘘偽りも、お世辞も必要のない、一番信頼がおける人の意見が本人にとって一番優先すべき意見ですからね。それが間違っていようと、それ以外の意見が正しいかどうかも、結果が出る前は等しく「わからない」のですから、数多の「わからない」意見の中からの選択では、やはり、自分が信用している人の意見をチョイスするのは自然なことなのでしょう。
また、頑固者の父親との対立と葛藤が語られてますが、これも関心をひかれますね。昭和の時代は、人生における怖いものの代名詞として『地震、カミナリ、火事、親父』という言葉があったくらい、父親というのは一家の大黒柱であるにとどまらず、絶対的で恐ろしい存在でした。現代では父親の威厳は家族を萎縮させるだけの「封建的」な悪習ということで一蹴され、過去の否定すべきもののようなイメージになってしまった感がありますが、まぁ、これも時代で移り変わる常識≠ニいうだけで、今の時代は今の時代なりの家族像がある、ということなのかもしれませんね。こういうことに正解は無いので、どのような時代になっても、一長一短という感じになるのだと思います。そして、三島の家庭も、たまたま親父の暴君ぶりのおかげで、逆に三島は作家になりたいという決意を強固にしているわけですから、何が功を奏するのかは、百人百様で、誰にも予測出来ないことなのでしょう。
◉すべった長靴
母 あの頃は、ほんとうに見ていて可哀想でなりませんでした。お勤めを終えて帰ってくると、朝になれば、睡眠不足の足を踏みしめて、家(うち)を駆け出して役所へ行くんです。
三島 自分で好んで、睡眠不足になったんだから、しょうがないさ。
母 あなたが、夜中に電燈つけて書いているでしょう。それがお父様に見つかって、『とんでもない奴だ』とおっしゃって、私、何度怒鳴られたしれないの。あなたには言わなかったけれど・・・・・。そんな状態が、二ヵ月余りつづきましてね、この人もとうとうたまりかねたのでしょう。父親に、どうか大蔵省をやめさせてほしい、小説家で身を立てさせてほしいと、繰り返し繰り返し頼んだのですけれど、主人は『馬鹿なこと言うな、絶対に許さん』と頑として受け付けませんの。それから私が叱られました。『貴様、俺の味方をして、二人力を合わせてせがれを口説くのが女房であり、母である。それを、向こうの味方になるということがあるかッ』と言って・・・・・何度もぶたれましたの。こんなごたごたが半年ばかり心の中でずいぶん戦っておりました。
三島 僕も、ずいぶん反抗した。あの頃は・・・・・
母 主人は、何とかしてこの人を役人に引き止めておく方法を、役所の人といろいろ相談したんですって。(笑声)ところが、どんな方法をとっても、この人が、志をひるがえさないのを見て、とうとう、この人を勘当するところまで決心してしまったんです。そうしたら、ちょうどその頃、あなたがすべったのね。(と三島さんへ)
三島 え?何?ああ、長靴。(三島さん苦笑)
母 ええ、雨の降る日でした。この人、長靴をはいて役所に出かけていったんです。ところが渋谷の駅で、フォームから線路へ滑り落ちたんですって。電車が来なかったから、落ちただけですみましたけれど・・・・・
田村 じゃ、立ちながら居眠りを・・・・・
三島 したのかもしれませんね、自分じゃ分らないけれども、ふらふらッとして・・・・・
母 明らかに睡眠不足のせいでございますわ。夜帰ってきたこの人から、その話を、主人も私も聞きました。その翌朝、この人と私が主人に呼ばれまして、主人が申しました。『ここまできては、もう理論闘争ではない。命の問題だ。俺は無条件降伏する。今日からは、全力を尽くしてお前を助けてやる。なる以上は一流の小説家になれ。これだけ俺が踏みつけ叩きつけても、なおかつ突き破って作家になろうとするなら、あるいはものになるかも知れぬ』と申してくれました。ほんとうにそのときは・・・・・私・・・・・
三島 嬉しかったな、実に嬉しかった。(田村さん、目をうるませて、じっと聞いておいでになる)家(うち)はみんな、ちょっぴり皮肉屋だから、泣きはしなかったけれど、ね。(とお母さんへ)
母 ええ・・・・・大蔵省へ勤めたのは八ヵ月でしたね。
三島 そう。僕七つの頃から、詩なんか書いてたでしょう。もしあのとき、ちやほやされて、新聞雑誌に出されたりしていたら、ふやけて駄目になっていたろうと思いますよ。
田村 お父様の意志の強さを、三島さん、受け継いでいらっしゃいますのね。ちゃんと・・・・・
母 そうかもしれません。なにしろ両方で、がんばり通しでございました。
田村 私、三島さんとお母様の御様子を拝見していて、うらやましいと思いますのよ。親友のような、姉弟(きょうだい)のような・・・・・思うことをどんどん言い合っていらして。私、自分ひとりで息子を育てておりまして、いったい息子が何を考えているのか、私にはとても考えきれないことがございます。
母 ほんとうにお察しいたしますわ。私も、田村さんの今おっしゃったと同じような気味の悪い気持ちがしたことがございました。そのとき私、どんなに馬鹿な母親と言われてもいい、ただ無茶苦茶に可愛がっていればいい───そう思いました。品物を買ってやるとか、背中をさすってやるとかいう具体的なことではなくて、気持ちのうえで一生懸命可愛がりましたの。理屈言っても駄目でございますもの。
田村 私ね、子供に対して、父親の役目もしなくちゃいけないという気があるものですから、猫可愛がりをする一方に、変に厳しすぎるところがあって、子供が言いたいと思っていることを言わせないような傾向がありますの。私の愛情には、チョットとげがあるんですよ。
三島 巧みな表現だな、実に。とげがある・・・・・
田村 いくら自分の子供でも、立ち入っていい限度がありましょうが、私にはまだそれがわきまえられませんの。私とてもやきもちやきなものですから、おっとりしていられないんです。子供のことは何から何まで、洗いざらい聞いておきたいと思いましてね。それを聞いておかないと、とても寂しくって・・・・・
母 私も、やはりそういうところがございまして、そのたびに、ちょっと寂しくなりましたわ。
田村 子供が大人になるにつれて、母親にとっては、楽しみよりも、寂しいと思うことが多くなりますのね。私はだんだん辛くなります。
母 ほんとうに辛くなりますね。子供の頃が一番楽しゅうございますわ。
『三島由紀夫氏とお母さんの対談』(『主婦の友』昭和27年12月1日発行 主婦の友社)より
父親の君主ぶりと対照的に、母親の聖母のような優しさと愛情は、まさにエディプスコンプレックスの典型例を見てるようで、ほんとうに三島由紀夫という人は、生い立ちや家庭環境に至るまで、作家になるべくしてなった人なんだなぁ、と感慨深い思いにかられます。「進撃の巨人」に出てくる世界を覆う巨大な壁のように、三島の父親は自分の人生に立ちはだかる巨大な壁になっていますが、そうした子供心に難攻不落のように思えた壁が、何があっても諦めないという信念によってようやく崩れ、作家で身を立てる許しを得る場面は、読んでるこちらもグッときますね。
いくら言っても作家になりたいという夢を否定してきた父が、とうとう折れて「俺は無条件降伏する。今日からは、全力を尽くしてお前を助けてやる。なる以上は一流の小説家になれ!」と言葉をかけるシーン、ほんとにドラマチックですね〜 武田鉄矢の『母に捧げるバラード』にも母が上京を許してくれるくだりで、そういう似たような一節がありましたね。とにかく、大作家の人生というのは、小説の中だけでなく、人生そのものが文学なのだなぁ、とへんに納得してしまいました。
神話学者のジョセフ・キャンベルは著書や対談などでしばしば「自分の人生における至福を追求しなさい」と言及してますが、まさにその通りですね。我を張ってばかりでは生きていけないですし、社会との折り合いをつけるための謙虚さはとても重要ですが、自分の至福を否定するようなことは絶対受け入れてはいけない、ということでしょう。
キャンベルは対談集『神話の力』の中で、偶然いきつけのレストランで近くの席で食事をしていたある家族の父が好き嫌いを言う息子に説教している場面を目にした時の経験を書いています。父親は息子に大きな声で叱りつけるので母親が仲裁しますが、父親は逆に言い返してこういいます。「お前はこの子に好きなことだけさせて人生を渡らせるつもりか!好きなことばかりしていたら生きていけないぞ!この俺を見ろ!今まで一度だってやりたいことをやったことなんてないんだぞ!」喧噪を側できいていたキャンベルはこう見解を述べています。
無上の喜びを追求したことのない人間。世間的には成功を収めるかもしれないが、まぁ考えてごらんなさい───何という人生でしょう?自分のやりたいことを一度もやれない人生に、いったいどんな値打ちがあるでしょう。私はいつも学生たちに言います。きみたちの体と心が欲するところへ行きなさいって。これはと思ったら、そこにとどまって、だれの干渉も許すんじゃないってね。
『神話の力』ジョセフ・キャンベル、ジョン・モイヤーズ著 飛田茂雄訳 早川書房 1992年 p214より
まさに三島の父親のエピソードと重なるような話ですね。三島の件のエピソードを読みながら、ふと、ジョセフ・キャンベルが語ったこの話を思い出しました。けっこうよく言う子供を躾る親の言葉として「好きなことばかりしてるとロクな大人になれないぞ!」というのがありますが、ある意味正しく、ある意味間違っていますよね。「したいことをするのはいいことなのか?悪いことなのか?」は、誰もが子供の頃に一度は悩む人生の問題ですね。したいこと≠ェ公益に反すること、犯罪とまでいかなくても、人を確実に傷つけるようなことなり、社会に悪影響を与えるようなことがしたいこと≠ネら、自分のためにもならないので止めたほうがいいに違いないですが、小説でも絵でも漫画でも、自分の一生をかけて取り組んでみたい課題を見つけたなら、誰がなんといおうとその内面の正当な衝動に従いたいものです。それによってたとえ失敗したとしても、自分で選んだ道なら悔いは無いはずですからね。キャンベルは、そうした将来を決めあぐねている悩み多き若者に対してこのような言葉でエールを送っています。
男子のプレップスクールで教えていたとき、将来なにになろうかと迷っている少年たちと、よく話をしました。彼らは私のところへやってきて聞くんです。「ぼくにこれができるでしょうか。あれができるのでしょうか。ぼくは作家になれるでしょうか?」
私は答えます。「それは私にはわからない。きみは、だれも相手にしてくれない失意の十年に耐えられるかね。それともきみは、最初の一発でベストセラーをものにするつもりかな。どんなことがあろうと、ほんとうにやりたいことをやり続ける根性がもしあるなら、がんばってやってみたまえ」
『神話の力』ジョセフ・キャンベル、ジョン・モイヤーズ著 飛田茂雄訳 早川書房 1992年 p217より
「自分の至福を追求しなさい」という言葉はジョセフ・キャンベルの哲学を代表する言葉ですが、キャンベルは、インド哲学を勉強している過程でそのような考えに至ったそうです。「自分が正しいのかどうかなど自分にはわからない。だが、自分の喜びがどこにあるかなら、よくわかっている。だったら、この喜びに素直に従ってみよう。そうすれば、それが私のほんとうの意識も存在もその喜びが運んで来てくれるだろうから」というひらめきと確信が降りてきて、そして実際自分の人生はそのようになった、と語っています。この考え方にはハッとしましたし、非常に影響をうけました。
以前記事にした
「竜宮童子」の記事で触れた童話でも、なんでも願いを叶えてくれる竜宮の使いであるとほう小僧≠ヘ、自分自身に向けられた要求には全く応じません。自分の汚い身なりを注意されても、鼻水をふいてさっぱりしなさいと要求しても、絶対に聞き入れません。ご主人様を幸せにしてあげるためには何でも願いを叶えてあげるのに、自分の生き様に対する要求は頑として受け付けないとほう小僧=Bその理由は、おそらく、自分の自由を守るためかもしれませんし、それが結果的にご主人様の幸福を担保する要素でもある、ということでしょう。なぜなら、常に自分につきまとってくるとほう小僧≠フ汚い身なりが世間体が悪いため恥ずかしくなり、しばらく暇を出して小僧と別れることにしますが、そうしたとたんに、小僧の力で叶えられていた屋敷も衣服もお金もみんな消えてしまったからです。いろいろな教訓が読み取れる興味深い童話だと思います。
閑話休題。ところで、三島の対談ですが、ずっと自分の夢を否定してきた父を単純に毒親として憎むのではなく、むしろ、下手に小さい頃に自分の小説をチヤホヤと褒められて育ったていたら、逆に作家としての成長が阻害されてただろう、と冷静に分析していて、若干27歳とは思えぬ大人な意見ですね。まぁ、後から考えれば、というやつで、リアルタイムで父と対峙していた時分には、もっと複雑な思いがあったでしょうが、岩をも通す信念があったればこそ、絶対的な障害であった父が、今度は逆に最も心強い味方になるという、理想的な結末に落ち着いたのでしょうね。
それにしてもこの対談、読みながら思ったのですが、聞き手の田村さんを含めて、みんな言葉が上品ですね〜 後に三島と交流を持つことになる美輪明宏さんも、常々「言葉は心を映す鏡。親しき仲にも礼儀をもちましょう」「親子でさえもタメ口はよくありません」などなど、常日頃の美しい言葉遣いこそが宝石に勝るアクセサリーなのだという信念のもとに語られてますが、こういう昔の人の対談記事などを読んでると、言葉遣いが上品な人たちの会話を聞いてるだけで、その場そのものが優雅な空気に包まれているような錯覚をおぼえますね。自分も肝に銘じていきたいものです。
◉母の青春と息子
田村 三島さんの作品は、お読みになりますの。
母 全部読んでおります。『禁色』『愛の渇き』『仮面の告白』なども全部、この人は真っ先に私に見せまして、批評をもとめます。性の問題や、未亡人の愛情生活なぞ扱っていますから、初めは嫌な気持ちがいたしました。『我が子がこんなことを書いて・・・・・』と思いまして・・・・・
三島 文学は、人間の美しい面も、汚い面も、追求して書くんだから仕方ないさ。
母 この頃では、親子の関係を捨てた冷静な気持ちでなければ批評なんてできないと思いましてね。まず煙草を一服つけて、気を落ち着けてから読みはじめます。そうすると、すっと頭に入って、批評もできますの。別にそれを信ずるわけでもないでしょうけれど、何か私の批評を聞くと安心するらしゅうございますわね。
田村 お母様のおっしゃることが、三島さんにとっては一番ありがたい、純粋な批評だろうと思いますわ。私、子供のしてくれる批評を一番信用します。くさされて癪にさわることがありますけれど、やはりいいと思っております。本人を一番よく知っている人の批評というのは、怖いものでございますわ。
母 お子様は、やはり演劇の方へお進みになりますの。
田村 もし芝居をやりたいと言えば、やらせます。でもまだ決まりませんの。
三島 田村さんご自身は、どういうところから演劇にお入りになったんですか。
田村 私の父が、新聞の演芸記者でございましてね、大正の頃ののんきな時代ですから、二、三日、どこかの舞台を借りて、文士劇をやったんです。それが大変いい気持ちだったというので、私にもそのいい気分を味わわせてやりたいと思ったんですって。それで、神田高女を卒業した十九の年に、初めて文士劇の舞台に立ちました。『大尉の娘』なんですよ。それが病みつきで。そのとき、井上正夫さんが本気で教えてくださいました。芝居をいい加減にするならやめろとおっしゃって。私、ほんとうに真剣になって、毎日ワーワー泣きながら稽古したんです。三島さんに伺いたいんですけどね、男の子って、いったいいくつになったら大人になりますの。
三島 社会的の大人になるのは二十五ですね。
田村 そうでございますか。この頃の子供は、私が考えてるよりも、ずっと大人なんですね。この間、私のところへ、見ず知らずの戦争未亡人がいらして、『自分に再婚の話があるけれども、私の一人の子供に相談したところ、もしお母さんが再婚すれば、ピストルで殺すと言います』という相談なんですよ。息子にその話をして、『あんただったらどうする?』と言うと、『馬鹿だな、どうして再婚がいけないんだ』と、素直な表情で言うんでございますよ。
三島 そうですね。田村さんのことでも、新聞などでいろいろ言ってますけれども、僕は何も申し上げないな。僕が、田村さんのことをいいと思っても、田村さん一向にありがたくはないし、よくないと言ったって、しょうがないし───私的(プライベート)なことを、傍(はた)からとやかく言うのは、日本人の一番いけない癖だと思いますね。
田村 ええ、私も、日本の文化の一番低級な面だと思います。
三島 田村さんのお仕事のうえにいい結果となって出てくれば、新しいお幸せが加わるわけでしょうから・・・・・
田村 三島さんは、お嫁さんにはどういう方をお選びになりますの?
三島 丸い顔の人が好きなんです、僕が長いから。(笑声)才知が表に出なくて、ぼーっとしていて、それで要所要所はちゃんと気がつく人・・・・・そんなのいないかな。(笑声)時期は、僕が四十になったら。
田村 お母様はどうお考えになりますの?
母 本人にさえ気に入れば・・・・・ただ私、とても可愛がられて育ったお嬢さんがいいと思いますわ。
田村 私もそう思いますの。そういうお嬢さんが、息子のお嫁さんならいいなと思います。三島さんの『夏子の冒険』の映画は、いつ封切りになりますの?
三島 お正月らしいですね。
田村 結末が幸福な結婚をすることに変えられたそうですけれど、作者としてどうお感じになります?そういう場合は。
三島 小説と映画とは別物ですから、僕には関係ありませんが、それもいいでしょうね。
田村 最後にひとつ、三島さんに恋人は?
母 それがあるらしいんですの。(三島さん、黙して語らず、微笑。遠くに郊外電車の音───)
『三島由紀夫氏とお母さんの対談』(『主婦の友』昭和27年12月1日発行 主婦の友社)より
プライベートなことを、ハタからとやかく言うのは、日本人の一番いけない癖だという三島に田村さんは「まったく日本人の一番低級なところね!」と同意しときながら、すぐに「どんな嫁が欲しいの?」「恋人はいるの?」と直球なプライベートな質問を続けざまにしてしまってますが、そこがなんともお茶目で可愛らしいですね〜 まぁ、昭和27年の雑誌のインタビューということはまだテレビ放送も開始してない時期で、雑誌媒体の影響力が大きかった時代ですから、けっこう緊張もあったのでしょう。インタビュアーとして自分が関わるからには最終的に面白い記事にしたいという思いもあるでしょうし、田村さんの好奇心というよりは読者を代弁した質問ということなのでしょう。
ちなみに、三島自身は結婚は40歳くらいだろうと言ってますが、実際には33歳で20歳のご令嬢、平岡瑤子(旧姓・杉山瑤子)さんと結婚します。お子さんは男の子と女の子のふたりを授かったようですね。
インタビューの後半では、ちょうど自作の『夏子の冒険』が映画化されて封切り間近な時期のようで、田村さんは、あなたの原作は映画ではラストシーンが変えられてしまってるけど、それについてついてどう思うか、と三島に尋ねていて、ここも興味深いですね。昨今でもしばしば原作を改変しまくった映画やドラマが炎上したりして話題にのぼることがありますが、完璧主義者で芸術至上主義のイメージのある三島由紀夫が「まぁいいんじゃないですか。小説と映画は別ものなんで僕は関係ないし」と意外な反応をみせているのが興味深かったです。自分のコントロールが利かない映画にまで責任はもてないし、というのはその通りだと思いますが、「まぁいいんじゃないですか」というのは本音なのか、諦めなのか。まぁ、さすがに公開間近な映画興行にマイナスの影響を原作者たる自分が与えるわけにはいかないでしょうし、忸怩たる思いを抑えて答えた言葉なのかもしれませんね。自分の作品に手を入れられても平気な作家はほとんどいないでしょうから。
改変といえば、スティーブン・キングは原作を大幅に改変したキューブリックの『シャイニング』の映画化に憤慨し、結局自分が原作に忠実な脚本を書き下ろしてドラマ化した、という話は有名ですね。他にはミヒャエル・エンデが『はてしない物語』の映画化(『ネバー・エンディング・ストーリー』)に激怒した話など思い出します。エンデの場合は無断で脚本を改変されたり、原作使用料も相場よりかなり安いギャラしか支払われなかったそうで、心中(しんちゅう)を察するにあまりある感じですね。
キューブリックとキングの場合などは、共に地位の確立したビッグネーム同士なので、プライド的にどちらも一歩も引けない感じでよけいにこじれそうですよね。ハリウッドだけでなく日本でもどこでも、全国公開規模の映画製作は膨大なお金と人と時間と労力がいる一大プロジェクトなので、どうしても興行的に成功しなければならないというプレッシャーの中で製作が進行するわけで、映画の黎明期ならいざ知らず、現代ではとくにマーケティングなどに左右されて、冒険や実験がしづらい状況になりがちですし、原作通りに運べないそういったいろいろ現実的な理由もあるのでしょうね。改変問題にも、作品ごとにそれぞれ百様のさまざまな原因と理由があるでしょうから、難しい問題ですね。

参考サイト
改変はどうして起こるか?を検索してたら上記のサイトが目に止まって読んでみたのですが、けっこう誰もが想像してた理由に近い感じの理由のようで、現場を知る方の生の意見が興味深かったです。キャラの性別が改変されるパターン、やはり先にキャスティングありきが原因なんでしょうね。この前の実写ブラックジャックのドクターキリコ問題とかもまぁ、そうした大人のしがらみが遠からぬ原因なんでしょうね。
個人的に印象深く記憶に残っている改変といえば、大林宣彦監督の『ねらわれた学園』(1981年)です。薬師丸ひろ子主演で話題になりましたが、原作の主人公は男子生徒です。ユーミンの主題歌がすごくグッときて友達と一緒に映画館で見たような気がするんですが、これは、キャラもストーリーもかなり改変されていて、当時から眉村卓のSFをよく読んでた私は子供心にけっこうショックでした。おかげでしばらく大林監督が嫌いになってしまいましたが、その後の尾道三部作や『異人たちとの夏』などで徐々に考えも変わっていき、今ではお馴染みのあのクライマックスの大げさなお祭り的なエフェクトにも微笑ましく癒されるような境地で見れるようになりました。
大林作品というと、コメディのようなホラーのようなシュールで変な作品『HOUSE』は、ある意味尾道三部作以上にもっとも大林節を感じる映画でしたね。むかし見たきりなので、ストーリーもほとんど覚えてないですが、ビジュアル的にすごく大林感全開の映画だった記憶があります。なんかサイケでシュールでナンセンスなよくわからない作品というイメージだけが記憶に残ってます。この映画、どうも近年は欧米でアートムービー的な意味で注目を集めているようで、久しぶりにもう一度見てみたいですね。
『HOUSE』は2009年頃から欧米で再発見されてコアな人気を集めているという。近年ではアメリカニューヨーク近代美術館(MoMA)でも紹介され、2012年12月にMoMAで開催された日本映画特集「アートシアターギルドと日本のアンダーグラウンド映画 1960〜1984年」に大林が招かれ、大林作品がオープニング上映された。ニューヨークの単館系の劇場でもよく上映されるという。
この『HOUSE』、個人的にこの映画は、ゴダイゴのテーマ曲がものすごく好きというのもあって、ずっと記憶に残っていました。ゴダイゴがインストのテーマ曲を演奏してるんですが、これがまたゴダイゴ感のまったくない不思議な曲なのです。曲の序盤はオルゴールのようなノスタルジックなピアノの出だしで、中盤がゴブリンやマイクオールドフィールド風のノリのいいプログレ感のある場末のサーカス劇場っぽい感じ、そして終盤の狂気を感じるアヴァンギャルドなピアノのフレーズで締めるところがグッときました。ゴダイゴというと、『銀河鉄道999』『ガンダーラ』『モンキー・マジック』『ビューティフル・ネーム』などのヒット曲の影響で、タケカワさんの優しい包容力のある声と、エモーショナルでキャッチーなメロディのバンドというイメージがありますが、このハウスのテーマはそういうイメージからはすごく異質で衝撃を受けた思い出があります。ゴダイゴはシングルのヒット曲くらいしか聴いてないので、こういう系統の曲ももっと他に作っているなら、深堀してみたいアーティストですね。
なんか気がついたら改変問題についての雑談が長くなってしまいましたね。とにかく、原作者からしたら、改変されても面白い映画になったのだからまぁいいか、と簡単に割り切れるものではないのでしょうし、苦しいものはあるでしょうね。まぁ、映画化されるような作品をものにしたからそういう悩みも出てくるのですから、ある意味ぜいたくな悩みというところもあるでしょう。しかし意外とそういう悩みほど実存に関わる深刻な悩みでもあるので、当事者になるとけっこう苦しいだろうと想像します。あの三島もそういう問題と若い頃から対峙してたんだなぁ、というところが興味深いものがあったので、いろいろ考えていたら長くなってしまいました。
創作も自由に表現できるのは同人誌くらいで、原作小説自体が出版社とのやりとりの中で作っていくわけですから、商業ベースでの創作は、映画化以前に原作を発表するまでの時点でも、多少の妥協はついてくるはずで、結局はそれは乗り越えていかないとならない人生の試練のひとつなのでしょう。
ビッグネームになったらなったでそのような改変問題とか以外にもいろいろと大物なりの気苦労もあるでしょうから、人生というのは、どんな境遇になろうがブッダのいうように「苦」からは逃れられないようにできているんだなぁ、と思いました。このあらゆる人の人生に立ちはだかる「苦」とどう向き合って、乗り越え、克服していくか、というのが万人に課せられた幸福へ至る試練なのでしょう。
自分の過去を振り返って思うのは、一般の仕事でも、質を上げるにはこだわりは大事ですが、こだわっていいのは自分の領分にある仕事だけで、そうしないと必ず他人とぶつかってしまいますね。手を離れた後まで自分でコントロールしようとすると結局相手だけでなく、自分も嫌な思いをするだけで、何の得にもなりません。自分の領分でベストを尽くしたら、あとは手を離れた時点で、次のバトンを受け取った人を信頼してまかせることが肝要なように思います。「自分の仕事に後から手を入れるな!」と思うのは人情ですが、相手も相手の領分でベストを尽くした末に手を入れてるわけなので、信頼するしかないと思ってます。最初は手を入れて欲しくないところに手を入れられるようなことが何度か起きますが、ぐっとこらえて、相手を信頼し、相手の立場を認めて納得しようと努力していると、しばらくすると急にそういうことが減っていき、とんとん拍子に仕事が進むことのほうが多くなっていきます。お互いに相手への信頼感を深めていくことによって、ちょっとづつ互いの波長があっていき、それで、仕事上も互いに求めていることが一致しだすのでしょうね。
ということで、いつものようにまた話がどんどん逸れてしまいましたが、三島由紀夫とお母さんのインタビューを肴にあれこれ思いついたことを語ってみました。インタビューの中で、映画での原作改変のくだりで話題に上がっている三島原作の『夏子の冒険』ですが、この作品は三島文学の中では異色の軽快で楽しい青春小説のようで、こちらも興味を引かれますね。機会をみて読んでみたいです。
というわけで、御清覧ありがとうございました!