2019年05月19日

【音楽】アレサンドロ・アレサンドローニとノラ・オルランディ(イタリアン・レトロ・グルーヴ vol.1)

ここ最近は一頃流行った「イルマ」や「スケーマ」などの現代のラウンジ系サウンドを経て、ここ最近映画音楽の巨匠アルマンド・トロヴァヨーリ、ピエロ・ピッチオーニなどの原点を味わったりしてました。このところ、昔聞いたイルマのコンピレーションに収録されてた好みの曲が前々から気になっていて、それはアレサンドロ・アレサンドローニというちょっと風変わりな名前が印象的なミュージシャンなのですが、ここ数日彼の作品をまとまって聴きまくっていたこともあって、またしばらくぶりにイタリアン・グルーヴにハマっています。その流れで最近知ったばかりのノラ・オーランディと合わせていい感じのレトロサウンドを選んでみました。

るんるんAlessandro Alessandroni「Dialogando」
アレサンドロ・アレサンドローニ(Alessandro Alessandroni 1925-2017)はイタリアの作曲家、アレンジャー。「Dialogando」は、たしかこのブログでの最初の音楽ネタの記事でけっこう前に一度触れた曲ですが、アレサンドローニに惹かれるきっかけになった大好きな曲なので再掲します。シュールでレトロ感のあるスキャットとミニマル音楽っぽいグルーヴィーでモダンなテイストが異次元の世界に誘われるような感じで個人的に大好きな曲です。

るんるんAlessandro Alessandroni「Sweet Emotions」
アレサンドローニは口笛の名手としても有名だったそうで、同国の映画音楽の巨匠エンニオ・モリコーネのマカロニ・ウェスタンものの映画音楽の多くでアレサンドローニは口笛で参加しているようです。口笛の名手というと、ふと初代ルパン三世の音楽担当だった山下毅雄を連想しますね。ヤマタケサウンドもそういえばイタリアの映画音楽に通じるモンド感があって好きな音楽家ですが、やはりこのあたりの欧州の映画音楽の影響とかもありそうですね。ヤマタケさんは「パネルクイズアタック25」のテーマでは口笛を披露してますし、60年代のお色気サスペンスドラマ「プレイガール」のOPなどは、モロに同時代(60年代)のイタリアの映画音楽っぽいモンド感にあふれていて素敵ですね。

るんるんAlessandro Alessandroni「Sunday Theme」
るんるんAlessandro Alessandroni「Vocalese Fugue」
るんるんAlessandro Alessandroni「Numero uno」
るんるんAlessandro Alessandroni「Blue Bossa」
好きな曲はたくさんありますが、とくにいくつかアレサンドローニの秀作を選んでみました。音楽もセンスもさることながら、名前もなにげにフックのある感じで、荒俣宏がラブクラフトの名前に関して語った言葉「僕は最初にラヴクラフトという名前を聞いただけでおもしろいと思いました。やっぱり、作家というのは、読む前から魅力がなくちゃだめなんです」というのを思い出します。日本で言えば町田町蔵%Iな感じの、繰り返し感のあるユニークな名前ですよね。荒俣先生の言うように、まず名前を聞いただけで興味を惹かれてしまうインパクトがあります。

るんるんNora Orlandi「A Doppia Faccia」
るんるんNora Orlandi「Soho」
ノラ・オルランディ(1933〜)はイタリアのシンガー、作曲家、ピアニスト。主に60〜70年代の映画音楽を手がけた美人の女性音楽家です。さほど多作な音楽家でないためか、才能のわりに知る人ぞ知る感じのようですが、楽曲はシビレるくらいにお洒落でキャッチーなレトロサウンドです。イタリアン・ラウンジ・ミュージックのイメージそのものといった感じの程よいモンド感がいい感じですね。曲は2曲とも1969年の映画「二重の顔(A Doppia Faccia)」のサントラ曲。

るんるんNora Orlandi「Marcel-Deborah」
るんるんNora Orlandi「Ginevra」
こちらもノラ・オルランディの曲で、1968年の映画「デボラの甘い肉体(Ii Dolce Corpo Di Deborah)」のテーマサントラより。映画のほうはエロスな感じのカルトな作品のようで、映画のほうも機会があれば見てみたいですね。サントラの方も全体的に質が高く、近年音楽マニアからひそかに注目を集めているようで、レトロで妖しいムード感がただよっている感じが素晴らしいです。ノラ・オルランディとアレサンドロ・アレサンドローニは1954年にコーラスグループ「2+2」、「4+4」など同じグループで活動した時期があり、友人関係にあったようで、ふたりのサントラ曲を収録した『A Doppia Faccia / La Terrificante Notte Del Demonio』というレアなカップリングCDも出てますね。

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Irma Cocktail Lounge, Vol. 1 (Irma La Douce Collection) Various artists

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これはたしか昔渋谷のHMVで店員さんのポップに釣られて衝動買いした時のイルマのコンピレーションCDで、これに収録されていた曲ではじめてアレサンドロ・アレサンドローニを知りました。

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IRMAコレクション。コンピレーションはハズレがあまりなく、好みの所属アーティストも多いので、昔よく聴いてました。音楽の楽しさを教えてくれた先生みたいなレーベルですね。イタリアンラウンジ音楽は好みのジャンルなので、好みの曲やアーティストが多く、そのうちまた続編的な記事も書こうと思います。
posted by 八竹彗月 at 04:21| Comment(0) | 音楽

2019年04月06日

タイムマシンにお願い!(タイムパラドックスの世界)

時計寺山修司とタイムマシン

サディスティック・ミカバンドのヒット曲「タイムマシンにおねがい」は、タイムマシンに乗って恐竜の時代やら鹿鳴館の時代など、謎とロマンを求めて過去を旅する夢を歌った楽しい曲でしたね。タイムマシン、あるいはタイムトラベルもののSFはそういった感じで、過去の歴史的事件に立ち会ったり、未来の世界がどうなっているか見に行ったりといった空想を広げる人気のジャンルで、映画でも「バック・トゥ・ザ・フューチャー」や「バタフライ・エフェクト」など面白い作品が多いですね。日本アートシネマの傑作、寺山修司の映画「田園に死す」も、寺山独特のポエティックな時間論を主軸にした奇妙で詩的なシュルレアリスム作品でした。「過去」は固定した事実の集積で、「未来」は固まっていない無限の可能性の世界、というようなイメージが一般にあると思いますが、寺山はそこに詩的な問いかけをしています。過ぎ去った事は記憶の中にしか存在しない虚構に過ぎないのだから、過去とはつまり単なる記憶のことに過ぎず、であるから、実は過去を書き換える事は容易に可能なものである、という独特の思想を持っていました。映画「田園に死す」は、そういった思想を映像化した作品で、作中のキャラである映画批評家にこう言わせています。「人間は記憶から解放されない限り、ほんとに自由になることなんてできないんだよ」と。そして映画批評家は、主人公の「私」に次のような問題を投げかけます。「もし君がタイムマシンに乗って数百年をさかのぼり、君の三代前のおばあさんを殺したとしたら、現在の君はいなくなるか?」

ご存知、タイムマシンものには付き物の有名な「親殺しのパラドックス」(映画では親ではなくお婆さんですが)を言ってるわけですね。タイムマシンものは、そのように、無邪気に時間旅行のファンタジックな空想を楽しむだけでなく、「時間」というつかみ所の無い概念をどう認識するかという哲学的な問も含んでおり、また、そういった時間の解釈によって生じるパラドックスも興味深いものがあります。上述した「親殺しのパラドックス」が、その手のパラドックスの中で最も有名なもので、「バック・トゥ・ザ・フューチャー」しかり、タイムトラベルもののSFはそれをどう扱うかが重要なテーマになったりすることが多いですね。

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H・G・ウェルズ著「タイムマシン」1895年の初版本のトビラ絵。ウェルズはタイムマシンというSFの画期的なアイデアを生み出しましたが、その作品でタイムマシンが行くのは80万年後(正確には紀元802701年の世界)の未来です。今でこそタイムマシンものというと、過去の歴史的事件に介入したり、未来の競馬場に行って結果を見てから馬券を買ったりなど、現実的な欲望とリンクした使い方をされるのがメインですが、ウェルズはもっと単純に、時間を行き来するということ自体のロマンを表現したかったのでしょうね。80万年後となると、ほとんど現在の常識が通用する世界ではなくなってるはずですから、未来といってもほとんど異世界ものと区別のつかない世界でしょうね。しかしながら、タイムマシンというアイデアは、SF小説だけに限らず、物理学者なども真剣に議論のテーマにするような奥の深いものですし、また時間の謎にかかわるテーマでもあるので、哲学の分野でもしばしば議論のテーマになったりしていて面白いジャンルですね。

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寺山修司監督「田園に死す」1974年 配給:ATG
現在の「私」が少年時代の過去の自分と会話するシュールなワンシーン


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同上、「田園に死す」のワンシーン。雛壇が川上から流れてくる伝説のシーン以外にも、寺山の脳内にあった幻想怪奇のポエジーが映像として出力されているようなシーンは多く、人間の潜在意識に堆積した欲望やら希望やらがカオスに入り組んだような奇妙な世界を描き出していて凄いですね。

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上のシーンのスチール写真。一見なんてことのない寒村のスナップ写真のようでいて、同時にものすごく違和感のある異世界っぽさがにじみ出ている雰囲気がイイですね〜

メモ参考サイト
「田園に死す」(ウィキペディア)



時計親殺しのパラドックス

自分が生まれる前の過去に戻って若き日の自分の親を殺害したらどうなるか?という「親殺しのパラドックス」。自分が生まれるには両親が過去のある時点で出会って子供(つまり自分)を儲ける必要がありますが、その前に親に成るはずの人物を殺してしまうと、自分は生まれないことになり、であれば生まれてない自分が存在している自体が矛盾で、親殺し自体が不可能になります。殺された親は、まだ生んでない子供によって殺されたことになり、生まれていない殺人者がなんで存在できるのか、とか、いろんな部分が破綻してくるというパラドックスで、突き詰めていけば「存在とは何か?」という純粋に哲学そのものが扱うテーマと同じような思考の深淵にいざなわれていきますね。

「親殺しのパラドックス」は、まぁ、殺しとかですと物騒ですが、意図的でなくても似たようなミスを犯す可能性はあり、例えば、両親が結婚する大きなきかっけになったイベントなどを自分が過去に戻ってしでかした何らかのアクションによって結果的に妨害してしまうとします。すると、両親が結びつく確率がガクッと減るわけですから、自分が生まれる可能性も低くなってしまいます。殺人までしでかさなくても、過去に行くという行為自体が様々な問題を引き起こします。

そうした矛盾を解決するために、未来人の超国家的な組織であるタイムパトロール隊によって常に時間旅行者は監視されており、常に矛盾が起きないように管理しているとか、あるいはもっとアカデミックな感じで多元宇宙の概念で切り抜けようとするケースなど、そのあたりのバリエーションも様々な創意工夫があって面白いところです。父親を殺したつもりが実は自分は母親の浮気で出来た子供だった、などという悪趣味なパラドックスの解決策まであったりしますが、さらには、そういったアクシデントは偶然に起こるのではなく、もともと宇宙自体に時間の矛盾を補正する何らかの力が法則的に働いていて、タイムパラドックスが起こらないようになっている、というオカルティックな解釈もありますね。一見ご都合主義な解決法のようで、実際意外と宇宙ってそういうものじゃないだろうか、と思わせるところもあり、この解釈も突き詰めて行くと面白いアイデアになりそうな種ですね。

石川喬司著「夢探偵 SF&ミステリー百科」講談社文庫(1981年)に、親殺しのパラドックスの解決法が複数紹介されていて、そのいくつかは上記のように運命の謎めいた力によって、なぜか親を殺せない状況になってしまうというものも列挙されていますが、他にユニークな例では、アルフレッド・ベスター著「マホメットを殺した男たち」で描かれたアイデアを紹介しています。それは、殺したとたんに異質な別世界に入ってしまうというものです。話しの内容は以下のようなものです。

女房の浮気にショックを受けた科学者が我を忘れて怒り狂い、過去に旅して世界の歴史ごとめちゃくちゃにしてやろうと決意して、ナポレオンやらアインシュタインやら歴史を作ってきた歴史的な有名人を片っ端から殺害して現代に戻ってくる。しかし、戻った現代でも件の女房は相変わらず普通に存在していて、今まで通り平気で浮気しているありさま。世界は自分の行為によって何の変化もしなかったが、そのかわり自分だけが存在しない幽霊のようなものになってしまっていることに気づく。彼が変えたのは世界ではなく、自分自身の運命だったのだ。というお話です。メランコリックで詩的な情緒のあるなかなかのアイデアだと思います。

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石川喬司著「夢探偵 SF&ミステリー百科」講談社文庫(1981年)

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「SFファンタジア 2・時空編」原案:福島正実 監修:小松左京 編集:石川喬司 1977年(昭和52年) 学研
ビジュアル資料満載のSF百科事典「SFファンタジア」の2巻目の表紙。この巻は時空に関するSFがテーマで、タイムマシンやタイムトラベル関連以外にも、宇宙人はヒト型なのかという考察とか、宇宙という最大に巨大な空間を舞台に繰り広げられるスペースオペラもの、またSFアートやエッシャーなどの幻想絵画の紹介など、とても興味深い編集です。


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SFファンタジア 2・時空編」原案:福島正実 監修:小松左京 編集:石川喬司 1977年(昭和52年) 学研
タイムマシンの項は上述の「夢探偵」の著者、石川喬司が担当しています。「夢探偵」と重複する文章はありますが、こちらではもっとページ数を割いて詳細にいろいろ作品紹介をしていて、図版も多く読み応え見応えがあります。多元宇宙や異次元ものにも詳しく言及していて興味深い情報が多く紹介されています。




時計ループする時間

ドラえもんからはては以前大ヒットしたゲーム「シュタインズ・ゲート」まで、アニメ、漫画、ゲームなどでも多くの娯楽作品で、そのようなタイムトラベルによるパラドックスを様々なシチュエーションで描いていて興味深いです。そういえば「ルパン三世」の1stシリーズの第13話「タイムマシンに気をつけろ」でもタイムマシンが扱われていて、「親殺しのパラドックス」に触れてますね。シナリオでは親ではなく、もっと以前のルパン三世の先祖が魔毛狂介(まもうきょうすけ)と名乗る時間旅行者によって命を狙われる、というものでしたね。

「ひぐらしのなく頃に」などは、時間の概念自体を扱った独特の考察による「運命論」みたいな所が肝になっていてとても印象深い作品でした。話題になったアニメ「僕だけがいない街」「涼宮ハルヒの憂鬱」「魔法少女まどか☆マギカ」「Re:ゼロから始める異世界生活」などもそうした系列のいわゆるループものですから、ループもののSFは傑作を多く生み出しているジャンルともいえますね。「僕だけがいない街」は普通の現代日本を舞台にしていてキャラも普通にいそうなリアリティがあり、それだけにそうした普通の人が蜘蛛の巣のような時間の円環に囚われてしまうので余計に不思議感があって面白かったですね。物語は「ひぐらし」のオマージュ的な要素がよく出てくるので、とくに「ひぐらし」ファンにはニヤリとさせられるシーンが多く楽しかったです。内容はひぐらしより推理要素の比重が高く上質なミステリーになっていて、1話目からぐいぐい引き込まれてしまいました。ループするたびに、事件のヒントを少しずつ掴んでいく過程や、事件の原因になっている過去を見つけ出し、それを変える事で事件自体を回避していくところなど、スリリングでとても面白かったです。単にSF的な面白さだけでなく、人生論的なメッセージも深いものがあって、そうした部分が大いに共感をよんだことが大ヒットに繋がったのでしょうね。人と深く関わる事は、基本的に面倒なものなので、生きていくのに必要な程度だけ着かず離れずで人付き合いというものをしてしまいがちになりますが、そういう浅い関係は、自分だけでなく自分に関わった他者の運命にも浅い影響しか与えないために、結果的に運命に流される人生になりがちです。「僕だけ〜」では、まさにそういう、浅い人間関係だけで生きてきた厭世的な主人公が、受け入れがたい運命を変えるために、キーになる人物と深く関わっていく事になり、そうした主人公の「人間としての経験値」の上昇から伝わってくる人生の在り方などの哲学が、この作品を味わい深くしている部分だと思いました。

ループ系の作品は、ひぐらし以前の作品でいうと、押井守監督のいわくつきの作品「うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー」もそうですね。「ひぐらし」が2002年あたりの作品で、「うる星2」が1984年ですから、なんだかんだいっても押井守監督の先見性はさすがですね。ウィキの「ループもの」の解説では、時間のループ自体はけっこう昔からあったようですが、ひとつのジャンルとして認識されはじめたのは1987年のケン・グリムウッドの小説『リプレイ』の世界的ヒットから、ということで、そういう見地からも「うる星2」の先見性は注目したいですね。実は、私が「うる星2」を見たのは最近のことで、2、3年前にDVDではじめて見たのですが、「うる星やつら」らしからぬシュールで、メランコリックな雰囲気が印象的でした。原作者の高橋先生が不満を爆発された気持ちも理解できるところがありましたが、作品としては、そうした裏事情を抜きにすれば、うる星やつらのキャラで「ねじ式」を表現したようなアヴァンギャルドな感じの作品で、一見の価値はあると思います。

メモ参考サイト
「ループもの」(ウィキペディア)
「うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー」(ウィキペディア)



時計パラドックスの解決法

タイムパラドックスの解釈や解決の仕方などは、哲学的な思考実験そのもので、腰を据えて考えないとすぐ頭が混乱しそうな複雑な部分もありますが、またそこが楽しい部分でもありますね。タイムマシンもののSFをメインに執筆を続けた異端児、広瀬正さんの作品なども斬新な切り口で時間のパラドックスを描いていて面白かったですね。

タイムパラドックスのアイデアでとても気に入ってるのは、タイムマシンの発明に関する以下のようなパラドックスです。昔SF関連の事典かなにかで知ったのですが、本のタイトルが不明なので、ネット検索したら、同じアイデアが紹介されていたので引用します。

ある日、あなたは見知らぬ老人からタイムマシンの設計図を渡される。あなたはそれをもとにタイムマシンを発明し、大金持ちになる。やがて年老いたあなたはタイムマシンで過去へ向かい、かつての自分に設計図を渡す…。
…ちょっと待った、最初の設計図ってどこから出て来たんだ?

ニコニコ大百科「タイムパラドックス」より


これだけで見事なショートショートになりそうなアイデアですよね。最初に現われる見知らぬ老人の正体は、未来から来た自分自身だったというオチですが、さらに不思議なのは、その未来の自分が所持していたその設計図は一体どこから出てきたのか?という謎です。発明者が存在しないのに発明品だけがあるというパラドックスで、なかなか秀逸な謎です。上述の「夢探偵」によれば、J・G・マッキントッシュの短編「プレイバック」の中で似たような議論が描かれているそうで、「ベートーベンが『月光の曲』を書いた後で、誰かがそれを盗んで三週間前に戻り、それをベートーベンが曲を書く前に演奏して聞かせたとしたら、この曲をつくった者は誰ということになるか?」というパラドックスを紹介しています。タイムトラベルにはこのような様々な矛盾が生じますが、その原因はおそらく我々が認識している「時間」という概念そのものが間違っているのではないかというのも理由のひとつだと思います。一般に考えられているように、時間を1次元の線的なものと考えると、どうしても矛盾が生まれます。時間が1次元的な、過去から未来に流れる一方通行の流れであると仮定すると、過去は確定した世界ですから、もし過去の自分に会いに行けるなら、過去の時点で未来の自分に会った記憶があるはずです。なので、過去に「未来の自分に会った」という経験が無い以上、絶対に未来の自分は現在、あるいは過去の自分に会えないことになります。

そういえばさらに凄いパラドックスもありました。これは「夢探偵」で紹介されているタイムパラドックスのアイデアの中で最も奇妙だったもので、時間移動によって自分自身と交わって自分を生んだ話です。なかなかよく出来てますが、それなりにかなりのややこしさです。内容は以下の通り。

アメリカSF界の大御所、ロバート・A・ハインラインの短編「輪廻の蛇』は、これにさらに輪をかけた奇妙奇天烈マカ不思議な話である。この小説では、自分と自分がセックスして自分が生まれる。えっ、そんなバカな、と誰もが思うだろう。しかし本当にそうなるのだ。
詳しく説明すると──────捨子として孤児院で育てられた娘Aが、年頃になって男Bに誘惑され妊娠して、帝王切開で子供Cを生むが、その子供が病院からさらわれる。さらったのは時間旅行者で、彼はタイムマシンで昔に行き、その子供を孤児院の玄関に捨てる(C→A)一方、娘は帝王切開のとき半陰陽であることがわかり、女性器も子宮ももう役に立たないと判断した医者は、娘を男にしてしまう。娘が男になって六年目、時間旅行者はその男をたぶらかして七年昔に連れて行き、娘を誘惑させる(A→B×A)。そこで、A=B=Cということになる寸法だ。おわかり?

石川喬司著「夢探偵 SF&ミステリー百科」講談社文庫(1981年)p174より


とにかくタイムマシンに関する様々な矛盾や解釈は、ある意味とてもチャレンジしがいのある知的ゲームですから、無数の論説があって個人ではカバーしきれないところでもあります。そのあたりの様々な解釈のバリエーションを分類したりするのも面白い研究テーマかもしれませんし、もうそういう論説をしている作家さんもいるかもしれませんね。これから私が語ろうとしているタイムマシンに関する解釈も、もしかしたらすでに誰かが論じているような気もしますが、ざっと検索したところ、全く同じような論旨はたまたま見つからなかったのもあり、それをちょっと書いてみようと思います。

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広瀬正「広瀬正・小説全集・6 タイムマシンのつくり方」集英社文庫 1982年
ウェルズの創始したタイムマシンですが、タイムマシン(タイムトラベルも含む)ジャンルの開拓者というとハインラインということになるのでしょうか。ハインラインは読んでないので何とも言及しずらいですが、日本におけるこのジャンルの作家といえば広瀬正を抜きには語れないでしょうね。小松左京、光瀬龍、筒井康隆などSF界の巨匠が多く関わっていた日本SF創世記における重要な同人誌「宇宙塵」に寄稿した広瀬正のタイムマシンものの短編「もの」が星新一に絶賛されたことがきっかけになり、それ以降広瀬はタイムマシンもののSFばかり書くようになったそうですが、48で急逝という短い生涯だっただけに、結果的にタイムマシンものだけに取り組んだ特異な作家として日本SF史に残る事に。星新一は「結果的に彼にとって気の毒なことになったのではないかと後悔している」と後に語っていたと筒井康隆があとがきで触れてましたが、逆に、タイムマシンもの(時間もの)だけに才能を集中させたことで印象深い作家になっているともいえますし、一概に判断するのは難しいところでしょうね。




時計タイムトラベルによる宇宙への影響について

前述の親殺しや、あるいはタイムマシンの発明者を発明する前の過去に戻って殺すとか、タイムマシンが存在するだけで重大なパラドックスが生じると思われるわけですが、往々にしてパラドックスというのは、そもそも前提となる根本が間違っているから起こるのであり、パラドックスが生じるのは、時間を過去に遡ったり、未来に進めたりという行為自体が不可能であることの証拠である、という見方もあると思います。そこで、ここでは、それがなぜ不可能なのか、についての話しをしたいと思います。

スピリチュアルな解釈では、時間は「今ここ」にしか存在せず、過去も未来もエゴの妄想(仏教では迷いともいいますね)であって、そんなものは元々無い、という考えがあり、これはおそらく実際にもそれが真実に近いであろうと私も思います。過去とか未来というのは人間が物事の「変化」を随時脳に記憶させることで生じる架空の概念で、実際には過去の世界とか未来の世界というのは存在せず、ただ脳が物事を認識したり分類したりするときに便利だから一時的に採用している人間独自の「解釈」なのでしょう。しかしその解釈を採択してしまうとタイムパラドックスをこれ以上論じてもつまらないですから、少し別の側面から考えてみようと思います。

仮にタイムマシンが存在するとして、それを使って自分が過去や未来に行ったりできるとすると、タイムマシンで行った先の過去や未来では、その時点での宇宙の総質量は、自分と乗ってきたタイムマシンの分だけ増えることになります。単純に考えて、過去の自分に会う(会うと矛盾が生じるので、遠くから観察する、でもいいですが)その時点の宇宙は、余分な自分の質量分だけ多いことになります。タイムマシンが存在する時代なら、自分だけが使えるわけではないでしょうから、過去の歴史的瞬間などでは、とくに未来からの見物客がたくさん来そうですし、そうなると、クレオパトラや楊貴妃がどのくらいの美人だったか生で見たい人は多いでしょうし、戦争の真実を調査したい歴史家や、生物の進化などの調査など、なにかと特定の時期には未来からの来訪が増えて、宇宙の総質量がその時々で増えたり減ったりとすることになります。

宇宙全体の質量が必ずしも厳密に保存されるかどうかは分かりませんが、宇宙をひとつの閉鎖された箱庭のようなものだとすれば、宇宙を構成する物質が人間の都合で増えたり減ったりするのは、おかしいような気もします。宇宙全体からすれば、地球上の人類すべてがある歴史的な事件のあった過去の地点に観光に行ったとしても、海水に墨汁を一滴垂らしても海は黒くならないように、時間移動で生じる宇宙総量の変化は物理的な量としてはほとんどゼロみたいなものかもしれませんが、ゼロでない限りはやはり変化してしまうには違いありません。そうした物理的な矛盾を許容するように宇宙はできているのかどうか、というのがひとつの疑問です。

もうひとつは、時間移動に伴う空間移動の問題です。タイムトラベルによる時間を遡るというイメージが、単に地球上の人間のスケール感だけで解釈している場合が多いですが、実際はガリレオの時代のクリスマスと、去年のクリスマスにおける地球の位置は、太陽系においてはほとんど同じですが、太陽系ごと銀河系を回っているので、銀河系での位置はまったく別の空間になっています。また銀河系もグレートアトラクターと呼ばれる重力場に秒速1000キロものスピードで引き寄せられているそうなので、時間をちょっと移動するだけでも空間的にはまったく別の場所にかなりとんでもなく複雑に移動することになります。

つまり、例えば時間を5分遡るということは、宇宙全体まるごと5分巻き戻すのと同じといえます。5分前に時間を遡るイメージだけだと簡単そうですが、5分前の時間に存在していた同じ空間に行くということは、宇宙スケールでの大事件になるはずなので、そう考えると、一般的な時間の解釈で考えてもタイムトラベルは不可能そうに思えてきます。バタフライ・エフェクト(バタフライ効果)は、蝶の羽ばたきという微細な現象も、巡り巡っては地球の裏側で起こる竜巻などの気象の原因にもなるうるという、カオス理論でいうカオス運動の予測不可能生の例え話ですが、そもそもこの宇宙は細部に至るまで宇宙にとって不必要なパーツは存在せず、全てが宇宙の何らかの構成要素なのですから、どんな些細な物質やエネルギーも何らかの大きな現象の要因になる可能性はあるのではないでしょうか。そういう意味でも、たとえ5分だけでも時間を戻すということは、その5分間で生じた宇宙の全物質とそのエネルギーの状態を変えなくてはならず、わずかな時間旅行も宇宙規模の大事(おおごと)になるのではないかと思います。

タイムトラベルの科学的な推論のひとつに、ブラックホールの強烈な重力場における時間の伸縮を利用したタイムトラベル的なものなど、相対性理論などの現代物理学の成果を利用したものがありますが、宇宙まるごと巻き戻して過去に戻るということはさすがにどんな方法も皆無でしょうから、仮にそうした現代科学的な方法で時間を移動できても、それで行く「過去」や「未来」は、いわゆる本当の過去や未来ではなさそうな気がしますね。

メモ参考サイト
「グレートアトラクター」(ウィキペディア)
「バタフライ効果」(ウィキペディア)



時計でも可能性を信じたい

とはいうものの、それは個人的な人生の短い経験や学習によって育んだ経験則のような、多分に固定観念を含む常識をもとにした思考ですから、実際の宇宙はもっと融通の利いた自由な世界かもしれません。不可能を論じるだけでは面白くないので、また別の視点で考えてみますと、この宇宙は、物理的存在として捉えられる部分以外にも、さまざまな次元で存在していると思われるので、以前の記事などでも何度か言及したように、何か全く新しいパラダイムの登場によって、意外と簡単に時間旅行が可能になる可能性も十分あるとも思っています。

人間の脳が「時間移動」のアイデアを捻出することが可能であるから、人間はそうした概念で遊べるわけですし、宇宙は人間に時間旅行に関する思考を許しているから人間はそういう考えを持てるともいえると思います。人間も宇宙に組み込まれた存在である以上、真に無意味な事を考える事も不可能であると思うので、人間が時間について考えたり時間旅行について思考するのも何らかの可能性や意味のあることなのかもしれません。もしかしたら、意外な何か突破口があって、それを発見する事でタイムマシンも意外とあっさり実現してしまうこともありそうな気もしています。実際にタイムマシンが存在する世界が訪れたら、そういう時代では、タイムパラドックスもすでにあっけなく解決されてるでしょう。未来人は「なんで昔の人は時間移動でパラドックスが生じるなんていう誤解をしてたんだろう」と思うのかもしれませんね。

まぁ、タイムマシンの製造が可能か不可能かなど、突き詰めれば「わからない」という答えにしかならないわけですから、それなら「可能性」を信じる方がロマンもあって楽しいのはたしかです。実際に、それについて真剣に考えた人が漫画や映画などタイムトラベルものの傑作を生み出してきたのですし、そうした作品で涙したり、勇気をもらったりする人もたくさんいるわけで、そう考えると、それはそれで、実際にタイムマシンを作ること以上に価値のある事なのかもしれません。
posted by 八竹彗月 at 13:13| Comment(0) | 雑記

2019年04月05日

【音楽】マルイ月トゥスヰート

桜の季節、ということで、最近よく聞いている細野さんの曲とか、なんとなくふと聞きたくなった懐かしのメロディなど、日本の曲をいくつか選んでみました。

るんるん細野晴臣「悲しみのラッキースター」
細野さんの作詞作曲のロマンチックなポップソング。細野さんのソロバージョンはアルバム「HoSoNoVa」からの曲ですが、先頃発表された細野さんのアルバム「Vu Jà Dé」では気鋭のシンガー青葉市子さんとのデュオが収録されていて、こちらも絶品! 最近アルバム「Vu Jà Dé」はよく聴いてます。

るんるんDip in the Pool「マルイ月トゥスヰート」
dip in the pool(ディップ・イン・ザ・プール)はファッションモデルの甲田益也子ボーカル、キーボードの木村達司作詞作曲、による主に80〜90年代に活躍したユニット。代表的な曲「Retinae」など、モダンなフレンチポップ風の都会的でファッショナブルな楽曲が話題を呼んだユニットです。「マルイ月トゥスヰート」は中でも好きな曲で、日本語の響きを生かしたお洒落で不思議な音空間が気持ちいいです。このPVも大好きで、月の神秘的な映像とクラシカルな自動車でのドライブ風景、様々に変わる甲田さんのファッション、背景の富士山や海など、絵に描いたようなパラダイス感がとても素敵ですね。

るんるんほたる日和「東京組曲」
ほたる日和(ほたるびより)は、早川厚史、渡辺啓太郎によるユニット。 この曲は、夢を抱いて東京に上京する青年の不安と期待の入り交じった複雑な感情を歌った歌で、自分もかつてそういうひとりだっただけに、とても共感しました。こうした東京への夢を歌った曲というと、他に美輪明宏の「東京」とか、長渕剛の「しゃぼん玉」なども名曲ですね。

るんるん鈴木ヒロミツ「愛に野菊を」
70年代の刑事ドラマ「明日の刑事」の主題歌。荘厳なコーラスと魂を感じる鈴木ヒロミツのボーカルが泣かせる名曲ですね。鈴木ヒロミツといえば、役者としても活躍しましたが、骨太ロックバンド「ザ・モップス」のボーカルとしてもイイ味出してましたね。吉田拓郎の名曲「たどり着いたらいつも雨降り」のロックなカバーなど、元祖サンボマスターともいうべき魂のこもった鈴木ヒロミツの力強いボーカルにシビれます。たまたまネットを徘徊してたら、この吉田拓郎の名曲「たどり着いたらいつも雨降り」は、もともと鈴木ヒロミツのバンド、モップスのために提供した曲らしく、最初は甘いラブソングだったものを男臭い歌詞に書き直した作品だと拓郎さん本人が語ってますね。

るんるん町田義人「戦士の休息」
角川映画黄金期の傑作「野生の証明」の主題歌。薬師丸ひろ子のデビュー作としても有名ですが、元自衛隊の特殊工作隊員(架空の部隊)だった高倉健がたったひとりでたくさんの戦車や戦闘ヘリに立ち向かうラストのスケール感が圧巻で、脂がのっていた全盛期の角川映画らしい作品でしたね。なんとなく「ひぐらしのなく頃に」のクライマックス、特殊部隊と主人公チームが戦うシーンを彷彿としますが、野生の証明のオマージュ的なものもあるのか気になる所です。まぁ、それは置いといて曲ですが、この主題歌もまた琴線に触れる泣ける名曲ですね。映画は1978年の公開のようで、歌詞も、まだこの頃は男臭いマンダムな男がカッコイイとされていた時代を反映している感じで、眠っていた男の本能をくすぐるところがあり、惹かれますね。

るんるんスピッツ「ロビンソン」
いつまでも色あせない名曲ですね。My Little Loverの名曲「NOW AND THEN〜失われた時を求めて〜」と合わせてときおり聴きたくなる曲のひとつです。夢とロマンと、ちょっぴり切ない感じや、ノスタルジックなムード感を、キャッチーで素直なアレンジで聴かせてくれるバランス感など、とても完成度の高い作品ですね。「ロビンソン」という曲名は、有名な例の無人島漂流記の小説の主人公「ロビンソン・クルーソー」からきているという話を昔聞いた覚えがあるのですが、念のため調べてみると、草野マサムネさんがタイに行った時に印象深かった「ロビンソン百貨店」が由来で深い意味は無いというのが真相らしいようですね。音楽に限らず、名作ってけっこうそういった深い意味のない思いつきの部分が結果的に印象深いものになっている事がよくありますね。そういえば、バンド名の「スピッツ」も、最初は女の子バンドみたいなネーミングだなと思ってたのですが、ついでに調べてみたら実際はそうした可愛い子犬の名前以外に、ドイツ語で「尖っている」「辛辣な」という意味の単語だということも意識したものだそうで、そもそも最初はパンクバンドだったらしく、バンド名のほうはけっこう深い意味があるようですね。

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タグ:音楽 邦楽
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2019年03月02日

「無限」のふしぎ

1大きな数の不思議

どんなに大きな数も、それにたった1を足す事でもっと大きな数ができてしまう。数は人類にとってなくてはならないツールで、科学や経済など日常生活に密着してどこまでもかかわり合いのあるものですが、もっとも大きい数とか、もっとも小さい数は何か、という簡単な問いを投げかけるだけで、具体的な明瞭さを一気に失ってしまうのが「数」の謎めいたところでもあり面白い所でもあります。



2「でかい物を食う話くらべ」の話

そういった関連で思い出すのは、落語めいた小話、「でかい物を食う話くらべ」です。内容は以下のようなものです。

「いかに大きなものを食ったか」
というホラで競い合う村人たちがいた。
あるものは「家」を食ったといい、あるものは「山」を食ったといい、
村人たちのホラはしだいに大きくなっていくが、
ある男の食ったものがいちばん大きいということで決着がつき、
最後にその男は、寺の和尚と勝負をすることとなった。
寺に出向いた男は、和尚に先手をうって必勝のホラを言い放つ。
「おれは『暗闇』を食った」
しかし、即座に切り返した和尚の一言に敗北する。

「そういうおまえを、わしゃ食った」


これはネットで複数流布されているバージョンですが、念のために出典を検索してみると、昭和40年代に発行されてブームになったクイズの本「頭の体操」シリーズの第2集の問43に収録されているものが元ネタらしい、というところまで判明しました。この本は昔読んでいたのですが、そういえばそんな問題があった気がします。「頭の体操」がオリジナルなのかもしれませんが、しかし、どこか落語の「頭山(あたまやま)」にテイストが似てる所もあるので、もしかするとこの問題自体に落語などの別の出典がありそうな感じもします。どんなに最大のモノを考え、それを「食った」と言っても、次に「そういうおまえを、わしゃ食った」と答えるだけで勝ってしまう、後手でのみで必勝の、反則っぽい荒技ですが、これは前述した数の性質と似てますよね。どんなに大きな数を言っても、それが「無量大数」であろうが、次の人が「その数にわしゃ1足した」と言うだけで勝ってしまうような感じです。このユニークな詭弁じみた話は、数の問題というより、ルイス・キャロル風な論理学っぽい味わいもあって好きな話です。

メモ関連サイト
でかい物を食う話くらべ(「めもめもーめもblog」様より)
「でかい物を食う話くらべ」の頭の体操オリジナルバージョンを引用なさっています。話の大筋は同じですが、村人の言い合うでかい物の具体的なバリエーションがいくつか出てきます。「この地球を団子に見立てて、餡子をまぶして食べた」など、発想のシュールさがたまりません。でかい物を食うホラ話大会、さぞや盛り上がっていたのだろうな、と想像すると頬が緩みます。

頭山(あたまやま)(ウィキペディア)



35億年ボタンの話

いまだにネットで根強く議論が堪えない「5億年ボタン」の話ですが、今回のテーマに直接関係あるわけではないですが、5億という「大きい数つながり」というアバウトな理由で少し語ってみたいと思います。この話の内容は100万円を得るために自分以外何もない異世界で5億年過ごす話です。詳しい内容は以下のリンク先を見ていただくとして、私は絶対このボタンを「押さない派」です。「押す派」もけっこういる印象があって、そちらの理屈もまぁ理解できるので、これはどのあたりを損得で捉えるのかで受け止め方も違ってくるのでしょうね。

たしかに、いくら5億年といえども、仮にそれが10億年でも10兆年であっても、有限である限り必ず終わりが来ます。異世界で送った時間の記憶は消されるので、どんなに長い年月であろうと「今」に戻った瞬間には覚えてないのでゼロと一緒と捉えられなくもありません。今の自分が感知できないような次元でもその5億年はたしかに自分が過ごすしかないのですが、その「今の自分が感知できない自分の体験」を自分の体験と捉えるかどうかという含みをどう解釈するかで意見が二分するのでしょうね。一般には私のように「押さない派」が多いのではないかという漠然とした印象はありますし、作品でもボタンを押す事をある種の「失敗」として描いているので、素直に受け取れば、100万円と引き換えに5億年という時間を無駄に過ごさざるを得ない経験は避けたいという感想が多くなりそうではあります。ただ、「押す派」が一定数存在すること自体とても興味深いですし、そういう側面から「5億年ボタン」を見直すと、また別の解釈が見つかったりして、心地よいい知的な面白さあります。

前述のように、意見が二分する原因は、異世界での自分の経験≠燻ゥ分の経験と見なすかどうかにあると思いますが、そのあたりは「ツブアンマン」や「ガンツ」などに通じる自己同一性をどう解釈するかの哲学的な問題になっていくので、面白そうではありますが、ここでは割愛しようと思います。

過去記事「5億年ボタン」

メモ関連サイト
5億年ボタン(YouTube)
出典は週刊SPA!で連載されていた菅原そうたのCGマンガ作品『みんなのトニオちゃん』に登場するエピソードのひとつがこの作品で、正式なエピソード名は「アルバイト(BUTTON)」。「5億年ボタン」はネット上での俗称です。


ツブアンマン(「ガジェット通信」様)

GANTZ(ガンツ)あらすじ(ウィキペディア)



4無限ホテルの話

また数の話に戻しますが、永遠に果てなく数は続くので、最大の具体的な数を決定するのは不可能だというのは自明ですね。最大の数を決定するのは不可能ですが、さりとてあるはずの「その先」を扱えないのはモヤモヤした不達成感があるため、無限に続く数の果て、あるいはその集積を表す概念として無限大(∞)が考案されたのでしょう。これは「最大の数」を意味する概念をあらわしてるので、一般に数ではない(いくつかの数論で限定的に数として扱われる場合もあるようですが)とされていますが、この無限大という概念もまた魔物じみてミステリアスなところが興味を惹かれます。いつも使っていて馴染みのあるはずの「数」も、ふと「そもそも数って何だろう?」と考えたとたんにつかみ所のない迷宮に誘(いざな)われますが、それはまるで神の概念のようで深遠なものを感じます。数学はピタゴラスを例に出すまでもなく、昔は神の創造したこの宇宙を読み解くツールとして考えられたりもしてましたし、神秘主義の観点からも関心があるのですが、それは別の機会に論じてみようと思います。

閑話休題、無限を扱った話で面白かったのは、「無限ホテル」の話です。たしかこれも上記の「頭の体操」にも出題されたことがあったような記憶があるのですが、この話のオリジナルは有名な大数学者ヒルベルトによって考案された集合論に関するパラドックスのようです。自己流で物語風に噛み砕いて紹介しますと以下のような内容になります。

ある国の観光地に、客室が無限にあるホテルがありました。そこに部屋を借りようと客がひとりやってきますが、運悪くホテルは満室でした。もう日は暮れて外はどしゃぶりであったため、無下に断るのも可哀想に思ったフロント係は、ふといいアイデアを思いつきます。「少々お待ちください。多分お部屋をご用意できるかもしれません!」といってフロントは急いで全客室にアナウンスしました。「お客様の皆様にお願い申し上げます。大変申し訳ありませんが、お部屋の移動をお願い致します。1号室にいたお客様は2号室へ、2号室のお客様は3号室へ、3号室のお客様は4号室へ、皆さん全員ひとつ後の部屋番号の部屋にお移りください」

移動は一斉にスムーズに行われ、わずかな時間で移動は完了し、そして1号室に空きができました。後から来た件の客は無事に空いた1号室に入り、またホテルは満室になりましたとさ。


という話です。実に不思議な話ですが、無限には始まりは想定できても最後の数が不確定で幽霊みたいに実在しそうで実在しないような性質を元来内包しているためにこんな奇妙な事が起こってしまうのでしょう。そんな無限を扱うこうしたパラドックスは興味が尽きない面白みがあります。実はこの満室の無限ホテル、客が複数であっても同じようにして宿泊させることが可能で、仮に3人なら1号室の客を4号室に、2号室の客を5号室に、というように自室の部屋番号に3をプラスした部屋に移動させれば、1〜3号室に空きができるので、そこに泊めればよいわけです。また、無限の来客をさらに宿泊させることも原理的に可能で、その場合は、まず全員に廊下に出てもらってから全ての客を奇数の部屋に移動させるようにすれば偶数の部屋がまるごと空き部屋になるので、さらに無限の人数の客を新たに泊めることも可能になるという具合です。これは、無限の数では奇数も偶数も無限になることから起こるパラドックスです。

このように、無限というのは普通の数と違った妙な性質があるので、数学だけに留まらず、哲学的な思索にも大きく影響を与えている概念です。1、2、3・・・という馴染みのある数も、極限では数らしくないふるまいをしだすのが奇妙で、そこがまた面白いですね。この無限ホテルの話、いかにも数学上の思考実験の中にしか存在しない架空の話のように思ってしまいがちで、私も最初はトリッキーでシュールな現象が数学的には有りになってしまう面白さに惹かれたものです。まぁ、現実には無限の客室のホテルなど存在しないわけですから、数学的なSFみたいな印象もある話ではあります。

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ヒルベルトの無限ホテルのパラドックス(ウィキペディア)

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5宇宙・人間・数

では、無限という概念はリアルな世界には存在しないものなのか?といえばそうでもなく、「宇宙」の存在などは(まだ全容が解明されていないにせよ)おそらく無限の性質を持ち合わせている可能性が高いと思われます。いつものように、これはいわゆる学問的な考察ではないですが、空想を広げて解釈していくのも一興ですので続けます。宇宙のはじまりは諸説あるものの通常はビッグバン仮説によって説明されますが、宇宙の終わりについてはさまざまな説があり、ビッグバンのような決定的な指針になる説はまだ確定してないのが現状だと思います。これも、数のアナロジーで言えば、自然数の場合は始まりは明確で0から(場合によって1から)はじまりますが、最終的な終わりの数については無限に続くために不定であります。これも、まるで宇宙のそれ(始まりがあって終わりが不明な感じ)と似ていて、まさに数は宇宙の性質を隠し持った道具のように見えてきます。

また数は自然数だけでなく、マイナスの数を含んだ「整数」や、さらに分数を含む「有理数」、さらに「実数」「虚数」「複素数」などに拡張されていきましたが、例えば整数は「ビッグバン以前の宇宙」を示唆しているような気もしますし、虚数の存在などは宇宙の多元構造を示唆しているようにも思えてきます。ピタゴラスがかつてそう感じていたように、数はそのまま宇宙のアナロジーになっているのではないか、というおぼろげながらも確信めいた感覚を感じます。

フラクタル幾何学は無限の反復計算を前提とした理論ですが、自然の造形の謎を読み解く最も有効な理論でもあります。最も有名なフラクタルであるマンデルブロ集合などを見てると、単純な式の無限の反復計算がこんなにも豊穣で、植物や動物の体内器官を思わせるような有機的な造形を生み出せるという事実は、この世界の究極の本質は有限なるものではなく、無限なるものなのではないかというインスピレーションを感じます。この無限に複雑な造形を生み出していく脅威の図形であるマンデルブロ集合は、無限を体現しながらも、その全体は有限の範囲に収まっていることも意味深なものを感じます。そういうふうに有限に収束するようにしている式だからそうなっているわけではありますが、これは、宇宙や人間など、有限なようで無限な存在の寓意もなんとなく感じますね。この世界は有限と無限が重なりあって同時にどちらも正解であるような。量子論めいたアナロジーでいえば、自分の力を有限に過小評価しても、それは真実だし、自分には無限の力が潜んでいると信じても、それも真実だろうと思います。自動車王フォードの名言「出来ると思っても出来ないと思ってもどちらも正しい」というのはそういう意味だと思います。どうせどちらも真実なら、無限の可能性を自分に見つけ出したほうが断然有益であろうと思います。

そう考えてみると無限ホテルは、数学上の問題にとどまらず、また一般世間にとってもただの浮世離れした思考実験というだけではなく、我々の日常の世界にも通じる何らかの真理を感じとることもできるように思えてくるのです。たとえば、この世の富は有限のようにみんな思ってしまいがちで、それによって富の奪い合いが起こり、最終的にそれが戦争の原因になったりすることもあるわけです。しかし、本当に富は有限なのか?といえば、決してそうではないと思います。

ほとんど一文無しだったある女性がいました。彼女は無職であるばかりでなく、母親を亡くし、夫との離婚なども重なり失意のどん底でしたが、時間だけは有り余っていたため、昔から暖めていた空想の物語を執筆しようと思い立ち、夢中で書き上げたその作品は奇跡的な大ベストセラーとなり、出版史上最も多くの報酬を得た作家とまでいわれるほどになりました。女性の名はJ・K・ローリング、あのハリーポッターシリーズの作者です。何もない状態から巨万の富を得ることになったターニングポイントは、彼女の脳内にあったアイデアを現実世界にアウトプットしたことです。

彼女の例は特殊な例のようで、そうではなく、世の中の富はみなすべて最初は人間の脳内にあっただけのアイデアを外に出力したものです。自分が座っている椅子も、最初は誰かの脳内に設計デザインのアイデアがあって、それを具体的に工場などで物体化させたわけですし、それが販売されることで設計者や生産者や販売者や運送社に富が配分されていくわけです。脳内にあるアイデアという形のない思考も、それが世に出て人に必要とされれば、とたんに富という形をとることができるのですから、ある意味誰でもゼロから無限を生み出す魔術師であるといえると思います。富は誰かから奪わなくても、自ら生み出すことができる類いのもので、そうしたチャンスはどのような時代であっても無限にあります。富はいつでも自分の内側から無限に生み出すことができる可能性があり、人間は最初からそういうふうに出来ている。人間も宇宙の雛形のようなものなので、無限の性質を持っており、人間は無限ホテルのように、いくらでも無限にアイデアも富も愛も出力できる、まるで宇宙のような存在なのだろうと思います。自分の能力の限界というのは自分で勝手に決めているもので、本当の限界ではなく、一度自分の能力は無限であるという真実を素直に受け入れれば、それが自分の人生に法則としてはたらきはじめるものなのかもしれません。

メモ関連サイト
J・K・ローリング(ウィキペディア)

マンデルブロ集合をどんどんズームしていく動画 Sapphires - Mandelbrot Fractal Zoom (Maths Townさんの作品)(YouTube)

フラクタル幾何学の代表的な図形、マンデルブロ集合の一部を無限に拡大していく動画です。マンデルブロ集合は、シンプルな数式を何度も反復して計算する事で複素平面上に現われる奇妙な図形です。この動画でも分かるように、かなり複雑で自然界の造形を思わせる生物っぽいフォルムが何度となく現われてくるのがスゴイです。拡大が進むにつれて、元の全体図と同じ形をしたミニチュアのマンデルブロ集合も図形のあちこちにちょこちょこ現われてきて、子供や孫みたいな感じで何か可愛いです。こういう所も、自然界の秘密を訴えかけているような気がして興味深いものを感じます。

マンデルブロ集合(ウィキペディア)
posted by 八竹彗月 at 03:28| Comment(0) | 数学

2019年02月28日

どろろん、どろろん、どろろ論

「どろろ」のリメイクアニメ、評判どおりスコブル面白いですね!毎回ワクワクドキドキスコスコブルブルな感じで、先のストーリーは分かっていながらも強く惹き付けられるその世界観、さすが漫画の神様による神作品だけのことはあります。設定も内容もあまりに深過ぎて少年雑誌での連載当時はウケが悪く、打ち切りになったというのは有名な話ですが、振り返って俯瞰すれば「どろろ」は未完の作品でありながらも手塚作品の中でも、他の傑作に退けを取らない傑作と断じても過言ではないでしょう。だからこそ、ゲームや実写映画や今回のリメイクなど、時を超えて何度も日の目を見る事になったのだと思います。

「どろろ」という作品は、名前だけはずっと知ってましたが、そのタイトルの不気味な響きに、「何かドロドロした人間関係を描いたおどろおどろしい時代劇作品」といった先入観をもってしまって、ずっとスルーしてきました。秋田書店サンデーコミックス版の単行本表紙のイメージがそんな感じで、当時はどろろの筆文字のロゴデザインだけで恐いイメージがありましたし、不覚ながら傑作のニオイを嗅ぎ取れませんでした。その後だいぶ時が経ってからPS2のゲーム「どろろ」をプレイしたのがきっかけで、「どろろってこんなに面白い作品だったのか!」と衝撃を受けたのを思い出します。原作では48の部位のうち16カ所を取り戻したところで未完になっているようですが、ゲームではその後ちゃんと48の部位奪還をコンプリートするまでオリジナルシナリオで補完されており、自分の中では今までプレイしたゲームのベスト10には必ず上位に入れたい作品になりました。まぁ、そんなにたくさんゲームはやってるわけではないので、他人には役に立たないベスト10になりそうですが。ゲーム版も、どろろの可愛い声や百鬼丸のシブい声、声優さんの演技も完璧にハマっていて完成度がとても高い作品になってましたね。どろろの「ほげたら攻撃」とか変なアイデアも満載の面白い作品でした。ゲーム版の設定では、百鬼丸が取り戻す48の部位のうち7つは肉体器官ではなくチャクラ(霊的な次元の身体に具わっているとされる身体各所に点在するエネルギースポット)が割り当てられている所もマニアックでニヤリとさせられる部分です。またしばらくぶりにプレイしてみたいです。ゲーム版の設定では百鬼丸は、肉体部位のみならずチャクラまで鬼神に奪われた状態から鬼神を倒さざるを得ないわけですから、初期のバトルは唯一最初から持っていたもの、つまり己の「魂」のみを武器にして運命を切り開いていくような感じだったのでしょうね。壮絶というかなんというか、フィクションとはいえここまで過酷な条件が設定された主人公は他に類例がないですね。

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PS2「どろろ」オープニングムービー(YouTube)
ゲーム版「どろろ」のオープニング。個人的にこれほど期待感を高めてくれたオープニングムービーは珍しかったです。百鬼丸の解剖図らしき図解が怪し気に出てきますが、これはおそらく百鬼丸の育ての親、寿海が、百鬼丸に付けるための義手義足などを作るために作成した設計図みたいなものでしょうね。他、チャクラの図など、東洋オカルティズムを彷彿とするビジュアルが好みのツボを突かれる神秘的な導入で、「これは絶対面白い作品のはず!」と確信させてくれる秀逸なムービーでした。前半は地獄堂の鬼神に父である醍醐景光(だいごかげみつ)によって生贄に捧げられた芋虫状態の布にくるまった百鬼丸と、それを見下ろす48体の鬼神。炎をまといながら迫り来る無数の馬上の鎧武者の映像も意味ありげですが、これは1969年にアニメ化された「どろろと百鬼丸」のテーマ曲の歌詞にある「燃える鎧に燃える馬」を映像化したものだといわれてますね。このムービーではどろろはそんなに可愛く表現されてないように思えるかもしれませんが、本編ではチョコマカ動くアクションや大谷育江さんの可愛らしい声が絶妙にマッチしててとてもかわいいです。

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『どろろ』PlayStation2 制作・セガ 2004年
こんな面白い作品があったのか!と衝撃を受けたゲーム版の「どろろ」です。ロードが重いとか多少の欠点はありますが、それを凌ぐクオリティのため全部許せてしまいます。そういえば、「どろろ」というネーミングセンス、インパクトがすごい響きですが、由来は当時は幼児だった息子さんの手塚眞氏が「泥棒」を「どろろう」と舌足らずに発音したことがネーミングのきかっけになっているというエピソードを「どろろ」の単行本のあとがきかなにかで読んだような記憶があります。念のために調べてみると、wikiにもそのあたりのエピソードが紹介されていますが、少々事情は複雑みたいで、そういう説はたしかにあるものの細部が異なる複数の説を手塚先生自身が残しており、手塚眞氏も先生の生前そのあたりを聞きそびれていたとのことで詳細は永遠の謎らしいですね。


ゲームに感動した勢いで原作を読んだりしましたし、モノクロ時代のアニメ「どろろと百鬼丸」も見ましたが、やはり最初に出会ったのがゲーム版だったせいか、ゲーム版どろろが個人的には一番好きだったりします。今回のリメイクは、その思い入れのあるゲーム版に匹敵しそうなくらいの完成度があって、スタッフのどろろという作品に対する並々ならぬリスペクトを感じます。身体部位の欠損という設定は、現代ではとくに倫理的に神経質な目もある中で、ギリギリなものがありますが、漫画、アニメという日本の現代文化を先導して牽引してきた偉人、手塚治虫の作品ということもあり、そのあたりは誤解されることなくリメイク放映が叶ったのかもしれませんね。

この作品の奇抜な所は、なんといっても主人公が鬼神に身体中の部位を奪われたマイナス状態からスタートし、全身の部位を奪還するまでを骨子にしている物語であることですね。目的を全部達成した暁にはスーパーマンになったりするわけではなく、多分ありふれた健常な人間になるだけに思えますが、そういうところも哲学的な深いものを感じます。誰しもが普通に当たり前に思っているような状態こそが、実はこの世で最も貴く幸福な状態なのだ。という御大手塚治虫による深遠なメッセージのようにも受け取れます。

また、ゲームにもなったくらいで、よく考えてみると、48の部位を取り戻す旅と戦い、というのはゲームシナリオとしても絶妙で、最初からゲームのために考案した設定であるようにも思えるほどゲーム性のあるアイデアですね。物語の骨子が見てて分かりやすいそういう所もこの作品の魅力なのでしょう。次から次へと強い敵が出てきて戦う、という少年漫画にあちがちな繰り返しパターンに、どろろの場合はきちんと終始一貫した根拠と理屈が最初から与えられているために、そういったパターン化したマンネリ感を感じずに楽しめるようになっているところも感服する部分です。

そういえば、「どろろ」の主人公はどちらかというとどろろではなく百鬼丸のほうだと思いますが、これも「天才バカボン」の主人公がバカボンではなくパパのほうであるのと何か通じるものを感じてしまいます。こういった、なにげない部分で定石に肩すかしをくらわせている所も天才の発想みたいなものを感じてしまいますね。

マイナスの状態からの主人公が、ゼロの状態を目指して戦い、成長していく話というと、「アシュラ」もそうでしたね。以前ジョージ秋山の問題作「アシュラ」が40年ぶりに映画化されて日の目を見ることになり、ちょっとした話題になったことが思い起こされます。主人公アシュラもまたマイナスからゼロを目指すような話で、あまりの飢餓の時代のために親に捨てられ人間の言葉も常識も愛情も何も持たずに成長してしまったアシュラが人間の心を取り戻すまでをドラマチックに描いた傑作でした。人肉を喰らってでも生き延びることだけが最大の行動原理になってしまったアシュラですが、彼もまた、普通に人間社会で、人に必要とされ、人を愛し愛されるような平凡な人並みの人生の出発点に行き着くことこそが彼にとっての目標でありました。

百鬼丸とアシュラ、彼らの生き様は、マイナスからの出発という過酷な宿命を生きる可哀想な運命として捉えがちではありますが、そんな彼らに深く共感する私たちもまた、もしかしたら百鬼丸たちと同じ部類の、失ったものを見つけ出す旅を続けている仲間なのではないだろうか?と、ふとそんなことを思いました。前述したように、彼らの姿は、私たちに「当たり前こそが有り難い」という真実に気づかせてくれます。毎日食べ物があるというのは有り難い。蛇口をひねるだけで清潔な水がこんなに簡単に得られるのは有り難い。アニメを見たりゲームをしたりネットを楽しめる目があることが有り難い。たとえ何人でも自分を気にかけてくれる人がいること自体が有り難い。身の回りにある便利な機械や道具は、全てどこかの誰かが苦心して作ってくれたから今ここにあるわけで、着ている服から何からほとんどのものは自分以外の誰かのおかげさまで、楽をして過ごせているのだということにふと気づくと、感謝の心というのは無理に儀礼的にひねり出さずとも、いつでも自然に湧いて出てくる状態のほうが本来の真実の人間の在り方なのではないだろうか、と、そんなことを考えさせられました。

百鬼丸やアシュラの目線で現代を見るなら、この世はそのまんま天国のような夢の世界にみえるのかもしれません。毎日空腹を感じることのないほど食べ物が満ちあふれている時点で、百鬼丸やアシュラの時代では考えられないような楽園に違いありません。百鬼丸たちが身体の部位や人間性など、私たちにとってはあって当たり前だと思っていたものを取り戻そうと奮闘しているように、私たちも同様に当たり前でなければならないもの、つまり「感謝」すべきものに感謝する心を失っていて、それを取り戻す人生という旅をしているように思えてきます。相田みつをさんの言葉「奪い合えば足らぬ。分け合えば余る」というのを見たとき、衝撃でした。まさに、奪い合えばこの世は地獄になり、分け合えばこの世はそのまま一瞬にして天国にもなるという極意。テクノロジーの発展だけが天国の条件なのではなく、むしろどのような時代であっても、人と人が分かち合って喜びあえるような世界こそが天国であるのかもしれませんね。
posted by 八竹彗月 at 02:02| Comment(0) | 雑記