2018年11月01日

竜宮童子と浦島太郎

異世界に迷いこんだりする話は、SF小説や漫画だけでなく、昔話でも定番のモチーフですね。フィクションの世界だけにとどまらず、江戸時代の知識人、平田篤胤(ひらたあつたね)の「仙境異聞(せんきょういぶん)」という著書では、神仙界を訪れて見聞してきたと主張する少年の話を聞き取ってまとめたもので、岩波文庫などでも読めます。私は中央公論社の「日本の名著」シリーズの平田篤胤の巻に収録されているものを少し読んでみましたが、古い文体なので読みずらく、腰を据えてかからないとなかなか内容が頭に入ってきませんね。しかし、異世界見聞録というのはすこぶる興味をそそるものには違いないので、そのうちちゃんと読破してみたいです。

メモ関連サイト
仙境異聞(ウィキペディア)

異世界といってもいろいろあり、平行宇宙のような世界や、死後の世界や霊界、イデア界、仙境、シャンバラなどの地下王国、他の惑星などの地球以外の別の天体、宇宙論などで出てくる5次元〜11次元の世界などや、SFファンタジーなどで描かれるような世界など多種多様ですが、どれもがこの日常とかけはなれた魅惑の世界で、はてしないロマンをかき立てます。以前の記事でも書いた桃源郷なども、理想郷としての異世界のひとつで、隠れ里的なたたずまいがミステリアスで惹かれるところです。日常に埋没してしまうと、こうした世界はいかにも現実逃避のように思ってしまいがちですが、小学校から中学校に上がるのもひとつの新しい世界、異世界に飛び込むようなものですし、会社に就職するのも別世界に参入する行為でもあります。今いる場所が、居心地が良かろうと悪かろうと、どっちにしてもいずれは別の世界に移行しなければならないように人生はできているように思います。好んで移行するか、状況が変わって無理にでも移行せざるをえなくなるかの違いはあっても、どっちにしろ、同じ場所に止まることを阻止しようとする何らかの力がこの世界にははたらいているような気がします。まさに、鏡の国のアリスですね。「同じ場所にとどまるためには、絶えず全力で走っていなければならない」変化することよりも、むしろ維持することのほうが大きなエネルギーを要するようにこの世はできているのかもしれません。

そうしたわけで、人生は自分で選択するにしろ、状況に迫られて選択させられるにしろ、ある時期が来ると必ず新しい世界に参入するような状況に出会いますが、フィクションや伝説などで語られる異世界の話は、そうした人生に訪れる新世界への参入を寓意的にあらわしているようにも思えてきます。

昔話で描かれる異世界というと、いろいろありますが、桃太郎の鬼ヶ島とか、浦島太郎の竜宮城などが真っ先に思い浮かびますね。ということで、無理矢理っぽいですが、今回は浦島太郎のバージョン違いみたいな感じの「竜宮童子」という民話についてちょっと語ってみたいと思います。「竜宮童子」は新潟県見附市葛巻町の石地という土地にまつわる民話ということのようですが、亀に乗って竜宮城に行くとか、姫君から帰りに不思議な贈り物を授かったりとか、浦島太郎の話を下敷きにしてそうな設定が見受けられますが、お話全体のテイストは浦島太郎とはけっこう違った味わいの話になっていて、なかなか面白いと思いました。浦島太郎も、この「竜宮童子」も、当たり前のように亀の背に乗って海中を潜って竜宮城に行き着きますが、なぜ海中で息ができるのかという理由は語られず、単なる物語上の「お約束」でそうなってるだけのようにも思いますが、水中で溺死しそこなった主人公の臨死体験としての異世界、というふうに想像すると、ちょっと別の味わいのある物語にもみえてきますね。

前置きはこのくらいにして、件の「竜宮童子」のお話をまずはご紹介します。

竜宮童子

 むかし、石地というところに、貧乏な花売りの男が住んでいた。
 毎日山を下って信濃川の沿岸の村々、町々を商って歩いたが、なにぶん温度の低い山里から来るので、良い花を持ってきたことがほとんどなかった。そのために、夕方になっても、いつも売れ残りの花が、背の籠の中でゆれていた。その残った花は、帰りの渡しのあるところまで来ると、きまってゆるやかな大川へ流すのであった。色とりどりの花々は、くるくるまわりながら、夕靄のただよう水面を音もなくすべっていった。その花のゆくえをしばらく目で追ってから、花売りはやおら腰を上げて渡しをわたるのであった。
ある日、終日花を売って渡しにさしかかった。と、朝はおだやかだった大川が増水し、氾濫していた。
「これでは、川を渡ることができやしない。はて、困ったことになったわい」
 と、ひとりごとを言っていると、ふいに足下の水の中から大亀が姿を現した。見ると、背の上に乗れという様子をするので、あやぶみながらも花売りは、その広い背に乗った。大亀は波立つ川をどこまでもすいすいと泳いでいった。花売りはびっくりして、
「どこへゆくんです」
 と聞いた。大亀は顔を前方に向けたままで、
「お前さんには話をしていないから、さぞ驚いたことでしょう。じつは、乙姫様は、いつもお前さんがお花をあげるのを大変喜ばれて、お礼をしたいからお連れするように、とおいいつけになったのですよ」
 と答えた。
 大亀は、たゆまず泳いでいった。それからとほうもない長い時が経ったと思う頃、前方に美しい城が見えてきた。それは乙姫の竜宮であった。
 乙姫の手厚いもてなしを受けて、時の経つのを忘れたが、やがて花売りは里心がついた。帰るというと、乙姫はひとりの童子を手招きした。それは青ばなを出し、よだれを垂らしている、見るからに汚い子供だった。
「お前の優しい心映えを賞(め)でて、この子をあげようと思います。だいじに養えば、お前の望みはなんなりと叶えてくれます」
 と、乙姫がいった。
「ありがとうございます。それでは私の子にして、大切にいたしましょう。ところで、この子の名はなんというのですか」
「名前は、とほう小僧といいます」
 おかしな名もあればあるものと思ったが、礼をのべて、小僧を連れて帰った。輝くばかりの美しい竜宮から、久しぶりにあばら屋に帰ってみると、それはいかにも狭くて、みすぼらしいさまが目についてしかたなかった。花売りは乙姫の言葉を思い出し、
「とほうよ、とほうよ」
 と呼んだ。あいかわらず青ばなを垂らした小童が、花売りのそばにやってきた。
「間取りを広くしたいが、すまんが変えてくれないか」
 というと、小童は目をつむって、手を三つ打った。すると、たちまち奇麗な広い屋敷になった。
「家ができたら、それに似つかわしい家具調度がのうては困る。すぐ出してくれないか」
 というと、これもぞうさもなく調えた。屋敷ができると、こんどは貧乏なことに気がついた。
「おれは金がない。すまんが金を出してくれないか」
「どれくらい出したらよいかね」
「千両(=現在の価値でおよそ1億円)も出してもらえばよいのだが」
「ああ、そんな金なら、なんのぞうさもないこと」
 といって、小童は即座に千両箱を出した。
 花売りは、大金をにぎったので、いままでの商売をやめ、その千両をもとにして金貸しになった。番頭や女中をおく身分になり、たちまち大金持ちになった。
 それから旦那づきあいが広くなり、毎日のように招かれていくようになったが、どこへゆくにも、いつも汚い小童がついていって離れなかった。小童が汚くて、いかにも体裁が悪いので、
「とほうよ。青ばなをかんではどうだい」
 というと、
「とてもかまれねえ」
 と答えた。
「それじゃあ、よだれはどうだ」
 というと、
「それもふかれねえ」
「お前の着物は、はなやよだれでどろどろに汚れている。せめて着物を新しいのに着替えてはどうだ」
「この着物もかえることはできねえ」
 と答えた。あいかわらず汚いなりで、旦那から離れる様子はなかった。旦那もすっかり困ってしまった。
 ある日のこと、旦那は小童をよんで、
「とほうよ。お前は、なにかほしいものはないか」
「おらぁ、なにも、欲しいものや食べたいものはねえ」
 といった。
 小童がそばにくると、異様な臭いがするので、日がたつにつれて我慢ができなくなった。
「ずいぶんお前の世話になった。ありがとう。だが、わしは知ってのとおり、今日ではどこへいっても旦那、旦那といわれる身分になった。お前の働きも、いちおう終わったといってもよい。ついては、このへんでお前にひまを出したいと思うが、どうだね」
「そうですか。おらぁ、いついつまでも旦那のそばにいて、ほしいものをすぐ出してあげたいと思っていたが、旦那にその気がなけりゃしかたがねえ」
 そういって、小童は屋敷を出て行った。
 やっと、小童から自由になった旦那は、庭へおりて両手を広げて深呼吸をした。それから屋敷の方へふりかえった旦那は、気を失うほどに驚いた。そこには、自慢の屋敷や蔵があとかたもなく無くなり、そのかわりに、むかしのあばら屋だけが跡に残っていた。身につけたやわらかい着物も消えて、もとのやぶれ衣に変わっていた。おどろいて小童のあとを追って飛び出したが、もうどこにもその姿は見えなかった。
(新潟県見附市葛巻町石地)

「日本伝説集」武田静澄著 現代教養文庫 723 社会思想社 1971年刊


「とほう小僧」の「とほう」という響きもなにやら怪し気で、意味が何なのか気になりますね。「途方」からきてるのでしょうか。それはそれとして、竜宮城が出てくる昔話というと「浦島太郎」が有名ですが、この「竜宮童子」のお話もまた違った味わいの面白い民話ですね。竜宮に住む乙姫というのは、竜神の化身でしょうね。意にかなった人間を招いては盛大な歓待をする点が「浦島太郎」と共通してます。また先に触れたように亀の使いによって竜宮城に行くというのも同じ設定ですし、ラストに主人公が何らかの禁忌を犯してしまって元の状態に戻ってしまうというのも共通した部分です。しかし、「浦島太郎」の場合は、「開けてはならぬ」というタブーを犯すことで「竜宮城で歓待されていた膨大な時間」が身に降り掛かり一気に白髪の老人になってしまう、という理不尽なもので、禁忌を犯す動機もちょっとした好奇心であり、そもそも「開けてはいけないと」いう意味不明で迷惑な玉手箱を土産によこす乙姫様は何の魂胆があったのか、など、なんかモヤモヤする読後感のお話ですが、「竜宮童子」のほうは、もっとわかりやすく「いくら恩人でも、汚くて醜い小僧につきまとわれるのは世間体が悪くてカッコ悪いから」というエゴイスティックな動機で、福を授ける小僧を手放してしまうという人間臭いわかりやすいストーリーが魅力です。大企業の令嬢と結婚して逆玉の輿に乗るために、長くつき合ってきた恋人を振ってしまう男、みたいな、昔のドラマとかでよくあるエゴイスティックなジレンマを彷彿とするところがあって、どこか普遍的な、人間の心の弱さを描いていて考えさせられる昔話ですね。

始終鼻水やよだれを垂らしながら異臭を放つ汚い着物を着た子供が富をもたらすという所も意味深ですね。小僧の汚さは富を得るためのある種のリスクという見方もできますし、まさにそのような「富を授けてくれるのはいいが、汚いなりでつきまとわれるのは不快だ」という主人公のジレンマが物語のキモです。しかし、単に話を面白くするだけの理由でこの小さな福の神のなりが汚いのかといえば、それだけでもなさそうな気もします。以前「トイレの神様」という歌がヒットしましたが、この曲の影響なのかどうかその後のスピリチュアル界隈で「トイレ掃除をすると金運が上がる」的な話がよく挙がるようになりましたね。トイレ掃除を嫌がらずにするとお金持ちになるとか美人になるとか、なんらかの現世的な御利益があるということですが、まぁおそらくは、元は子供をしつけるうえでの方便が起源になってる話のような気がしますが、このトイレの神様の正体はインド神話に出てくる火の神、アグニを起源とする密教の神様、烏枢沙摩明王(ウスサマ明王)であるという説など、どんどんそれっぽい話になってきていて、もしかしたら単に子供をしつけるための方便ではなく、実際に御利益のあるものなのかも?という気分にさせてくれます。

なぜにトイレ掃除が金運と関係あるのか?という理由についても、ユニークな説がありますね。それによれば、人が住む前の新しい家には、人より先にまず神々が訪れてきて、担当する部屋をそれぞれ決めて守護するのだそうです。最初に来た神は応接室、次に来た神は玄関、という感じでどんどん居心地のよさげな部屋が埋まっていきます。最後に訪れる神にはトイレしか残ってないのでそこに住むことになった、という話です。神々の来る順番は、それぞれの神様が授けようとしている福の詰まった袋の大きさに依存しており、袋が大きいほど重いので家に到着するのが遅くなり、一番たくさんの福を持ってくる神が最後になってしまいます。その神こそがトイレの神様だ、ということです。だからトイレを清潔に保っている家は、トイレの神様が喜ばれて住む者に富をもたらすという話です。なんだかイイ話ですし、ただの作り話を超えたものを感じるところがあります。「竜宮童子」が小汚い子供である理由も、家の中で最も汚れやすいトイレと金運が密接にかかわっている事と、どこか繋がった価値観を感じます。もしかしたらとほう小僧≠ェ臭くて汚いのは、願いを叶えてあげるために関わってきた無数の人間の穢れた欲望を一身に引き受けているために汚れているだけで、彼自身の汚さではないのかもしれませんね。

とほう小僧≠ェ主人公の男について離れない理由は、ある種の嫌がらせみたいなもので、前述したように、異臭のする薄汚れた小僧の存在を我慢することが、もたらされた富を維持するための条件になっているのではないか、と最初は考えて読んでましたが、改めて物語を読み返していたら、さらに別の部分に気づきました。汚さを我慢するのが富を維持する何らかの条件になっているのは確かだと思いますが、とほう小僧自身はそういう条件を念頭にして動いているわけではない、ということです。つまり、真相は、とほう小僧には何の魂胆もなくて、単に主人公の男を実はけっこう気に入っているからベッタリと付いて来るだけ、という単純なものなのではないか、ということです。なぜなら、もし嫌がらせで付きまとうなら、これほど面倒くさいことはありませんし、そこまで熱心に他人の不幸のために腐心し努力するような小僧であるなら、なぜその当人の願いを何でも叶えてあげようとするのか、という矛盾がうまれます。もっというなら、小僧が男に付いて離れないのは、男を「好きになろうとして」いたからなのかもしれませんね。好ましいと思う人間だからこそ、願いを叶えてやろうとする熱意も生まれてきます。小僧にとっても、嫌な人間に奉仕するよりも、好ましい人間に奉仕したいはずです。だから、もしかすると一生の付き合いになるかもしれない男を少しでも好きになろうとして、男から離れなかったのではないでしょうか。乙姫様も、一瞬で豪邸を出現させたりするほどの魔力を持った有能で貴重な眷属であるとほう小僧≠奉公に差し出すわけですから、とくに意地悪な下心はないはずです。しかし、そうしたとほう小僧のいじらしい想いが結果的に主人公の悩みの種になり、破局を迎えた、ということなのでしょうね。

まぁそんなこんなで、とほう小僧が去ってしまうと、立派な屋敷も何もかもが元の貧しい状態に還ってしまいますが、このあたりは、怪談話によくある、美人の幽霊と逢い引きする男の話の結末などでもお馴染みの現象ですね。逢い引きしていたはずの立派な屋敷が、じつはあばら屋だった、というアレです。「竜宮童子」のお話の場合は、この世の栄華も夢幻のように儚いものだ、というような教訓も込められてそうですね。どこか杜子春の話も彷彿とする諸行無常を感じますね。

醜い外見ながら、あらゆる望みを叶える神通力を持ったとほう小僧≠ナすが、かれは他者の望みを叶えることを楽しみとしているようなそぶりで、自分自身はとくに欲しいものはない、といった無欲さもユニークなところです。ある意味、典型的な聖人、聖者の類型にあてはまるところがあるのもとほう小僧≠フ面白い特徴ですね。ふと永井豪の問題作「オモライくん」や秋山ジョージの「アシュラ」などを思い出します。これらの漫画作品は疎まれる側の人間の視点を通してこの世の真実を描き出した傑作ですが、オモライくんもアシュラもある意味聖者のような存在でもあるような気がしますね。

インドの偉大な聖者として有名なラマナ・マハルシは、残された写真や映像を見ても、どれもパンツ一丁で外をうろうろしてるフリーダムな姿をみせていて、偉大な精神を持っている者ほど、俗世間の価値に執着しないんだろうな〜と、へんに感心したものです。有名になると、高い車に乗ったり、豪邸に住んだりしはじめる聖者もたまにいますが、有名になろうが贅沢に無関心のラマナ・マハルシは本物の聖者の風格を感じます。絶対的な心の平安と至福を得たと言うのに、他に何が必要だというのか、といわんばかりのパンツ一丁の姿に、心底憧れる境地に自分がいるのかどうか、というのも自分の精神のレベルを計るいいテストになりますね。

自由気ままに外をうろうろ歩く天然≠チぽい感じの聖者といえば、そういえば日本にもそんな風情の人物がいましたね。幕末から明治にかけての宮城県に実在した、福の神のように慕われた仙台四郎という人物のことです。知的障害があり、会話能力は低かったそうですが、他人に危害をくわえることはなく、子供好きでいつも機嫌が良く、愛嬌のある風貌をしていたこともあって誰からも好かれていたそうです。市中を気ままに徘徊するのが四郎の毎日でしたが、不思議な事に四郎が立ち寄った店はなぜか繁盛し、客の入りが良くなったそうで、そうした噂が広まるにつれ、福の神のように扱われるようになったようです。四郎の死後も、彼の写真を飾ると商売繁盛の御利益があるとされ、大正時代には、ちょっとした民間信仰のように崇められる存在になっていったとのことです。

とんち話で有名な一休さんもアニメのような感じの人ではなく、かなりフリーダムで破天荒な禅宗の僧侶だったようですが、仙台四郎のユニークなところは、禅などの宗教とも無関係の、いわゆる一般人であるところですね。人間、人生において何が最も大事な能力か?といえば、知性でも経済力でも腕力でもなく、それは「人に好かれる能力」だと思います。これがあるだけで、誰もその人を放っておきませんから、何かあれば誰かが助けてくれるので貧乏にもなりませんし、もめ事に遭遇することも少ないはずです。天才と言われた哲学者や文学者など知性的な著名人でも自殺する人はいますから、教養があることや頭が切れることが人を必ずしも幸福にするとは限らないのでしょう。そういう意味でも、仙台四郎は天性の好かれる才能≠もっていた人であり、生まれつきの聖者だったのでしょうね。ロシア民話の「イワンの馬鹿」も、まさにそうした真理を描いていて興味深いですね。頭がいいとか、お洒落であるとか、スタイルがいいとか、お金持ちだとか、そういう属性は、この世的なエゴ的な部分で凄く惹かれる属性ですが、自分の見栄だけでそれらの属性をひけらかす人には誰もついていきませんし、それらの属性が人を幸せにするのは、結局のところ、その属性によって他人を幸せにできたときだけです。この世では、自分が幸せになるためには、まず他者を幸せにする能力を磨かねばならないのでしょうね。

メモ関連サイト
仙台四郎(ウィキペディア)

とほう小僧≠焉Aなんでも願いを叶えてくれるわりには、「ハナをかめ」「よだれを垂らすな」「服を着替えろ」という自分に対する要求には断固として従いません。とほう小僧≠ノとっては、自分の生き方の自由を制限されることは絶対に受け入れないということでしょう。そして、その自由こそが、とほう小僧≠フ魔法の源泉でもあるように思います。この世は、目に見える物質に頼った世界なので、価値観というのもどうしても物質的なものになりがちで、見た目の善し悪しで人を判断してしまうことが多々あります。聖書では小さき者(世間的にとるに足らない者とされている人たち)こそ神の視点では偉大な人間なのである、というパラドックス的な真理を述べていますが、これは高次元の世界からみた価値観ですね。

だれでもこの幼な子をわたしの名のゆえに受けいれる者は、わたしを受けいれるのである。そしてわたしを受けいれる者は、わたしをおつかわしになったかたを受けいれるのである。あなたがたみんなの中でいちばん小さい者こそ、大きいのである。

聖書 ルカによる福音書 第9章 48節


私たちが食べ物を与えているのは飢えたキリストなのです。衣服を着せてあげるのは裸のキリスト、宿を与えてあげるのは家のないキリストなのです。(略)これまでそうだったように、今日でも、キリストが同胞のところへやってきても、人々は気づきません。キリストは、貧しき人々の腐った身体のうちに顕われます。(略)そしていまここに、私やあなたの前にキリストは姿を現します。ところがいつも私たちは見過ごしてしまうのです。
───マザー・テレサ

「20世紀の神秘思想家たち」アン・バンクロフト著 吉福伸逸訳 平河出版社 1984年


聖書といえば、有名な「信じる者は救われる」という言葉も誤解されがちですね。この言葉もこの世的に解釈すると、いかにもずるい人に簡単に騙されてしまいそうな危うい価値観に見えてしまいますが、宗教やスピリチュアルや神秘学など、精神世界では「疑い」からは何も得られない世界で、まずは信じないとはじまらないところがあります。神も、神を信じない人間には恩寵を授けたくても授けるルートが「疑い」によって遮断されているために、それができません。だから信じないと救いようがないために「信じる者は救われる」というわけです。けっこうこの言葉は「救うか救わないかを神が自分への信仰心を基準にしてえり好みしている」というような意味で誤読されがちですが、救うかどうかを決定しているのは神ではなく人間の側にあるわけです。太陽はえり好みすることなく万人に光を与えますが、わざわざ建物の影に隠れたり、地下に潜ってしまったりする人間にはせっかくの光も届きません。

怪し気な宗教団体が、こうした高次元の理屈をこの世的な次元で解釈して金儲けに利用したりして信者から搾取するための理屈にしているケースもよくあるので、危ういといえば実際危うい面もある教えですが、リスク無しに得られるものは何もないというのもこの世の法則のひとつです。信じることはリスクが伴いますが、疑うことよりも得られるものは大きいのもたしかです。オリンピックレベルのトップアスリートの世界では、実力的な部分はギリギリまで均衡しているために、最後にモノをいうのは自分の勝利を信じるメンタル力だったりするという話を聞きますし、そういった意味でも、信じるということは、リアルに現実を変革するパワーがあるのは事実だと思います。

信じる力というと、この前DVDでなにげなく第1話を見返していていたらついつい全話通してまた鑑賞してしまった往年の名作ドラマ「スクール・ウォーズ」を思い出します。実話を元に脚色した熱血スポ根モノの物語で、校内暴力の吹き荒れる問題校の弱小ラグビー部が、わずか数年で万年最下位から全国優勝を勝ち取るという奇跡を描いています。その奇跡を成し遂げれた最大の理由は、主人公の滝沢先生が自身の信念「信じ、待ち、許してやること」を教育の場で貫いたことによるものでした。現代社会において、こうした「信じる事」とか「愛する事」というのは、どこか面映い言葉になってしまているせいか、私もそうした言葉をなかなか素直に受け取れずに、昔はひねくれてあえてそういう言葉に反抗してたような気がします。しかし、「信じる」「愛する」というのは、とてもプリミティブでもあり、またパワフルなものでもある、人間の幸福に直結したとても重要な精神でもあります。「信じたからって叶うものではない」などという、ペシミスティックな考えって誰しも多少あると思いますが、宝くじも買わないと当たらないように、まず信じないと奇跡は起こりません。

武田鉄矢さんがかつてヒット曲「贈る言葉」で「信じられぬと嘆くよりも、人を信じて傷つくほうがいい」と歌っていましたが、それなども昔は「まさに正直者が馬鹿を見るような、役に立たないどころか有害な理想論だな」と馬鹿にしていたものでした。しかし、今考えると、やっぱりそれは真実を歌ってるのではないか、と気づかされます。信じると裏切られたときにダメージが大きいので、信じない、疑う、というのをデフォルトで生きるというのをやってた時が私もかつてありましたが、そんな時期ほどよく裏切られて傷つく経験が多かったような気がします。信じない人生ではなく信じる人生を生きようと決意すると、不思議と、実際は「人を信じて傷つく」という経験は減っていきます。世界は自分の心を反映する性質があるので、人や世界に不信感を持っていると、なぜか他人から信用されなかったり、物事がうまくいかなかったりします。逆に、人や世界を心から信頼するようにすると、ラッキーな事が頻繁に起こるようになりますし、物事がうまくいくように変化してきます。以前は、「祈り」というのを、ただの気休めくらいにしか思っておらず、何の意味もパワーもないと思ってましたが、実は、これほど現実を変革する威力のある行為はない、と最近思うようになりました。祈りとは、人や世界がより良くなることを信頼する″s為ですから、現実世界では一見無力なように見えても、見えない世界ではものすごいパワーで影響を与えているように感じます。祈りについては、また別の機会にもっと掘り下げて書いてみたいです。

話が逸れてきたので「竜宮童子」に話を戻しますが、調べてみると、類似の民話は熊本にもあるみたいですね。「まんが日本昔ばなし〜データベース〜」様によと、アニメ「日本昔ばなし」でも92話(1976年10月30日放映)「はなたれ小僧さま」というタイトルで放映されたようです。「はなたれ小僧さま」のほうの主人公は花売りではなく薪売りのおじいさんという設定で、売れ残りの薪を竜神を祀る祠の前の川に、竜神様使ってください、と薪を流したことで洟垂れ小僧をゲットする流れになっていますね。

メモ関連サイト
はなたれ小僧さま(「まんが日本昔ばなし〜データベース〜」様のサイトより)


竜宮童子(ウィキペディア)
ここを読むと、どうやら薪売りのおじいさんのバージョンのほうがオーソドックスな「竜宮童子」のシナリオみたいですね。もしかしたら花売りバージョンは、浦島太郎の物語の影響を受けながら派生したものなのかもしれないですね。

ちょっと上記でも触れた浦島太郎ですが、最後にちょっとしたお遊びで、自分なりにあの物語のモヤモヤした部分を想像で補ったショートストーリーを考えてみました。亀を助けてくれた恩人の浦島太郎に、乙姫様はなぜ最後の最後であんな理不尽な仕打ちをしようとしたのか、という謎に対する説明としては、けっこうイケてるのではないか、と思いますがいかがでしょうか。浦島太郎視点だと見えてこなかった事実が、乙姫様視点で読み解くと、すべて合点がいきます。

私家版浦島太郎異説
八竹釣月作

仲間の亀を助けてくれたお礼にと浦島太郎を竜宮に招いたものの、あまりにいい気になって長居する浦島太郎に、いいかげんうんざりしてきた乙姫様だった。しかし招待しておきながら帰れともいえず、乙姫様のイライラは日に日につのっていった。いつしか手厚い歓待に慣れきってしまった浦島は、すっかり客人の礼儀まで忘れてしまっていた。選りすぐりの美人の人魚をはべらせてはセクハラ三昧、忠実な可愛い部下(マグロ)をどうしても刺身で喰わせろと無理を言ってくることもたびたびであった。あきれることに、浦島太郎がようやく帰る気になったのは、招待してから40年以上もたったある日のことだった。乙姫様は、顔では笑いながらも、心の中ではずうずうしく居座り続けていた浦島太郎に、もう亀を助けてくれた恩どころか、賠償請求でもしたいくらいに立腹していた。そこで、乙姫はひらめいた。竜宮では時の流れが止まった異世界であるが、現世では時間は止まることなく流れている。そこで、この竜宮での時間分を現世で購わせるための氣≠封じ込めた玉手箱を、上手いこと言ってはぐらかしながら浦島に土産に持たせて帰らせたのだ。そう、玉手箱は褒美などではなく、竜神の化身であらせられる姫様の厚意に甘え、何十年もタダで他人様の城で贅沢三昧しまくるという、はなはだ常軌を逸した非礼に対する罰≠ネのだった。そうとは知らず、満足そうにニコニコ手を振って亀に乗って海上に昇ってゆく浦島を眺め、乙姫様は満面の笑みで見送るのであった。その笑みは、穀潰しがいなくなった安堵だけでなく、これから浦島が開けるであろう玉手箱によって迎えるはずの結末に対するものなのであった。邪魔者は去り、竜宮城には何十年かぶりにようやく平安が戻ったのであった。 
───完───


メモ関連サイト
浦島太郎(ウィキペディア)
posted by 八竹釣月 at 15:22| Comment(0) | 精神世界

2018年09月26日

1と一について。そして霊界の話など。

この前の記事(「1なる存在について」)で、数字の「1(いち)」と、「私」を表す「I(アイ)」の類似などについて考察しましたが、漢字の「一」もまた1を横に倒した感じでよく似てますね。まぁ、「ひとつ」を表す字が、短い線一本であるのはそんなに驚くようなアイデアではない気もしますが、アラビア数字だけでなく西洋ではローマ数字も「I」でタテですが、漢字では横倒しの「一」であるのも面白いなぁ、となんとなく思いました。そこになんとなく西洋と東洋の個性の違いのようなものを感じた次第です。

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西洋的な直立する1のイメージと、東洋的な漢字の一。1をキリストの立像、一をブッダの涅槃仏像でシンボリックに見立ててみたのですが、こうして並べると「聖☆おにいさん」っぽい感じがしてきますね。映画化もされるほど人気のようなのでご存知の方も多いとおもいますが、ちなみに「聖☆おにいさん」というのはキリストとブッダが現代の日本で安アパートで暮らす、というコメディ漫画です。どちらも歴史上の大聖者なので、実際はさすがに漫画のような弱点の多いキャラではないと思いますが、宗教を真正面からコメディのネタにもってくるというのはかなり新鮮で、あまり深く考えずに見れば面白いです。そういえば、聖者とは真逆に地獄の魔王様が現代日本でこれまた安アパートに住みながらファーストフード店のバイトをして生活費を稼ぐという「はたらく魔王さま!」というのもありましたね。作品の発表時期は「聖☆おにいさん」のほうが先のようですが、こちらもなかなか楽しかったです。欧州のどこかの国の言葉っぽい響きのインチキな魔界語をしゃべたりするのですが、これがまたソレっぽくて笑えます。声優さんも謎の言語を流暢に話していて、そういうところも見所でした。

メモ関連サイト
映画「聖☆おにいさん」予告編
「はたらく魔王さま!」PV

西洋的価値観とは物質主義的で個人主義的、東洋的価値観は精神主義で集団主義的、というのはけっこう漠然としたイメージとして一般にあるように思います。こういうのは、歴史の成り行きから生じた偶発的なもので意味がないと以前は思ってましたが、逆に、最近の私は思考が前よりスピリチュアルな傾向にあるので、そういうことにもけっこう意味を感じてしまいます。例えば、西洋では龍(ドラゴン)は火属性の魔性の獣ですが、東洋の龍は豊作をもたらす水属性の聖獣だったりしますし、西洋はイスラム教やキリスト教など一神教のイメージですが、東洋はヒンドゥー教や仏教や神道など多神教(仏教は厳密には神を想定せずに真理を究明する宗教なのですが、一般にはヒンドゥー教の神々を仏教の守護神に取り入れたりなど多神教的な側面があると思います)といったこともあります。また、コウモリは西洋ではドラキュラのイメージからかハロウィン御用達のモノノケみたいな扱いで、最近は東洋でもそうしたイメージが定着してますが、昔は東洋では吉祥のイメージで捉えられ、よく昔の鋳造や焼物の図案などにはコウモリが描かれたりしてます。あとはヘビも西洋では悪魔の使い、東洋は神の使いみたいな扱いの違いもみられますね。

現代でも、卍(まんじ)とハーケンクロイツなど、形が鏡対称であるだけでなく、その意味も聖なるシンボルとナチスのシンボルというように東西で正反対の意味で扱われているのも意味深です。また、弥勒(みろく=遠い未来に次のブッダとなり人々を救済するとされる菩薩のこと。菩薩とは仏教の修行者の位)は、日本語読みでの音を数字にすると三六(みろく)になりますが、3つの6といえば聖書のヨハネ黙示録で予言されている未来の偽キリスト(世の終わりに現れるキリストを騙り人類を支配する悪魔的独裁者)を暗示する数字「666」も3つの6です。ミロクに関しては、日本語以外では成立しない語呂であるところなど、ちょっとこじつけっぽく感じる強引さはありますが、偶然にもどちらも未来の人物を指している数字ですし、トンデモと簡単に片付けるのもしっくりこないところでもあります。これも東西における鏡のような意味の逆転の一例として私的にはなかなか面白いと思っています。西洋と東洋のこうしたコインの裏表のような相違点は探せばまだまだけっこうでてきそうで、いろいろ調べてみるのも楽しそうです。

メモ関連サイト
ヨハネの黙示録 日本語訳全文(Wikisource様)

おおざっぱにいえば、西洋と東洋の違いの多くは、狩猟民族と農耕民族という違いがもたらす文化的な視点の相違からくるものが原因のように思いますが、それだけでは説明のつかない部分も多く、やはりどこか神秘な背景を想像したくなってきます。

で、話を戻しますと、西洋は1を縦で表し、東洋では横で表す、というところから思ったのは、西洋は1の立ってる状態(つまり立っている時は目覚めて活動している昼の象徴)から、1なる根本原因に「理性」を重視しているのではないだろうか?といったん仮定してみることでした。そうすると、漢字の横向きの一は何か?それは、寝ている状態(つまり夜の睡眠中、無意識の活動が優勢になる状態)であり、非合理性や唯物論で捉えきれない精神世界を象徴していて、東洋における1なる根本原因は「非理性」的なものに求めているのでは?ということがふと思い浮かびました。

まぁ、古代人が数字の記号の発祥にそういう意味をあらかじめ込めていたとは思いませんが、プラトンのいうようなイデア界(完全な世界のこと。この現世はイデア界の影のようなものなので不完全な世界である、という説)みたいな、超越的な見えない次元からは、そうした意味合いもあらかじめあったのではないかと思ってます。イデア的な世界にある西洋的な構造(理性、個性、男性的、な役割)と東洋的な構造(心性、全体性、女性的、な役割)が反映されているのがこの世界なので、そういう鋳型が漠然とこの世に投影されているために、理由のつかない不思議な相違点が「西洋vs東洋」に見つかるのではないでしょうか。1と一の違いも、常識的に考えれば実際は横書きの言語と縦書きの言語の違いによる単なる筆記のうえでの合理性でそうなったのだと思いますが、このように「たまたまそうなった」という事柄なのにかかわらず、そこになぜか西洋的価値観や東洋的価値観が投影されていることがシンクロニシティ的であり、そこに面白さを感じるわけです。

などと案の定話がだんだんオカルティックな方向に進んできましたが・・・以前は、人間に知覚できない世界を仮定して物事を考えるのはナンセンスだと思っていました。変われば変わるものです。まぁ、どのみちこの世界は、決定的な答えを用意していない世界であるように思います。答えを出してしまうと、それ以上考えなくてよいですから、楽ですが、それ以上の進歩も発展もなく、広がりのない世界になってしまいます。おそらく、宇宙的な視点からは、「答え」よりも「答えを見つけるための様々なアプローチを楽しむ」ことのほうが価値が高いのだと思います。松尾芭蕉が、旅の目的地よりも旅そのものに価値を見いだしたように、この宇宙も、これまでにない面白い気候の星を生み出したりとかするのが楽しくて、「絶対的に理想的な完璧な星」というのをあえて想定せずに、あらゆる可能性を試したがって無数の星々を生み出しているのではないでしょうか。そして人間もまた、何が絶対的に正しいかを知らされずに生きているのは、それを見つけ出す過程こそが宇宙的至福であるからではないでしょうか。ふと、そんな事を思いました。

唯物論の権化だと思われてきた科学も、ここ半世紀の間にもますます不思議な領域に入ってきていて、ある意味、ゲーデルの不完全性定理とか、量子力学とか、人間原理とか、ダークマターなど、現代アカデミズムのキーワード的な、ここ百年で急激に世界を変えてきた様々なそれらの概念が指し示す方向、それは唯物論の終焉、そしてこれからの新時代に向けた新たなパラダイムの誕生、を示唆しているような気がなんとなくします。カナダのチームが、スパコンの1億倍の演算能力を持つといわれている量子コンピュータの試作を完成したニュースがついこの間話題になりましたが、時代はますます加速度的に未知の領域に突き進んでいってるような、時代のジェットコースターに乗っているような気分のする昨今です。量子コンピュータが普及していくと、人工知能(AI)の研究も想像以上に進みそうでわくわくしますね。

メモ関連サイト
これだけは知っておきたい、量子コンピュータの基礎と現状(FUJITSU JOURNAL様)
従来のコンピュータでは膨大な時間がかっていた巡回セールスマン問題のような指数関数的に増える莫大な組み合わせの中から正解を見つけていくような問題も、従来のコンピュータとは根本的な演算方式が異なる量子コンピュータなら一瞬で答えを出せるようですね。まさに夢のマシーンで、これが実用化できればおそらく人間並みの人工知能も夢ではなくなる気もします。ですが逆に気がかりな面もでてきますね。現代の最速のスパコンさえも子供の玩具以下に成り下がるくらいに爆速の量子コンピュータが実用化したら、クレジットカードなどのセキュリティ関連の暗号とかも簡単に解析できてしまうかもしれません。素数を生成したり、ある数列が素数であるかどうかを判定する方法など、素数に関する多くの問題はまだちゃんと解明されていないために、セキュリティに関する暗号処理には桁数の多い素数が使われているという話を聞いた事があります。これも莫大な演算を一瞬でやってしまう量子コンピュータを使えば、そういう素数式の暗号も破られる危険性がありますから、現在の緻密に構成されたITシステムも根本から構築しなおす時代が来ているのかもしれないですね。(ちなみに確認がてらウィキの「素数」のページを読んでみましたが、素数に関する問題は完全に解明されてはいないものの、現在ではけっこう使えるアルゴリズムもいろいろ存在するようで興味深かったです。素数は、虚数とか無理数などの、あからさまにとっつきにくい感じの数ではなく、むしろフィボナッチ数よりも単純そうで、一見したところ何の変哲も無さそうな初歩的な数っぽく見える数でありながら、世界の天才たちもがその解明に未だに難儀させられているというのは、どこかこの世界のパラドクス的な構造が垣間見えるような気がして興味をそそります。素数もそうですが、かつてピタゴラスが示唆していたように、そもそも「数」というもの自体に神秘な秘密が隠されているのかもしれませんね。身近なようで謎めいている「数」というものに底知れない不思議な魅力を感じる昨今です。)

そういう時代の空気もあって、「非合理性の価値」というものに目覚めてきているのかもしれません。そうしたわけで、イデア界とか霊界的な概念も、空想や、何かの哲学的な寓意とかではなく、リアルにそういう世界はありうるんじゃないか?と考えるようになってきました。医師など、人の死に立ち会う機会が一般人より比較的多い職業だと思いますが、人の死を実際に何度も見ているうちに死後の世界を信じざるを得なくなったという話も洋の東西を違わずよく耳にします。未読ですが、アメリカの外科医エベン・アレグザンダーが自分自身の臨死体験を契機に死後の世界を確信したというレポートで話題になり全米ベストセラーになった「プルーフ・オブ・ヘヴン」という本(テレビ番組「アンビリーバボー!」でも紹介されたそうです)とか、日本でも、医師である矢作直樹氏の死後の世界肯定論が有名みたいですね。

私も、先日古本屋で臨死体験とか死後の世界関係の本が安価でたくさん入荷していたので面白そうな本をいくつか買って読んでたのですが、けっこう具体的に死後の世界を肯定していて興味深かったです。臨死体験の中には、夢などの脳のはたらきでは説明できない状況もあるようで、そうした話もまた項を改めて記事に書いてみようと想ってます。実際に、現在亡命中のチベット仏教の最高指導者ダライ・ラマ14世は輪廻転生の生き証人で、最高指導者の位であるダライ・ラマの称号は世襲ではなく、生まれ変わりを探して即位させるという摩訶不思議な伝統を守ってきました。あと最近では中国の奥地にあるといわれている「生まれ変わりの村」(中国の奥地に、前世をハッキリ覚えている人がやたら多い村があるらしい)の話も耳にしますね。輪廻転生したら死後に霊界に行く必要がなさそうに思えるので、輪廻転生と死後の世界とは別のジャンルみたいにみえますが、霊界の住人も魂の修行のためにまた現世に戻って生まれてくるという説もオカルト界隈ではよく聞きます。まぁ、神秘な次元の話なので真相はなかなか掴めないですし、はっきりしたところがわからないからこそ、その謎自体に魅力を感じる、という面もありますね。

スウェデンボルグや出口王仁三郎など霊界を見聞してきたオカルティストもいますし、チャネリング系で支持者の多いシルバーバーチの霊界通信でも、けっこう詳細に霊界の様子を語っていて興味深いです。上記で少し触れた聖書の黙示録ですが、聖書というのはひとつのまとまった教典ではなく、作者の異なる複数の文書を編纂した書物です。この聖書の編纂時には外された文書もたくさんあり、そうした文書類は聖書外典という扱いで現在でも翻訳された本もあるので読む事ができます。その外典の中に、「パウロの黙示録」という奇妙な文書があります。4〜5世紀につくられたとされるこの文書は、むかし学生時代に図書館でたまたま手にして読んだことがあります。ヨハネ以外にも黙示録があったのか、ということにチラリと興味を惹かれて読んでみたのですが、その内容がなんとスウェデンボルグばりの霊界見聞記のような感じで、とても衝撃をうけたのを思い出します。秘密の文書を読んでいるよう妙なスリルを感じながらページをめくっていた当時を久しぶりに思い出しました。多分大きめの図書館には聖書外典の翻訳本は置いてると思うので、機会があれば興味のある方は読んでみてください。まぁ、なんというか古今東西を問わず、生きている間に霊界を見て来た人というのは少なからずいるのだなぁ、と感慨深く思ったものです。とはいえ、こうした話は結局のところ「信じるか信じないかはあなた次第です」という世界ではありますが、意外とこの世界は、直感が「面白そう」と感じた事を選ぶと結果的には正しかったりするような世界だと私は思っています。

そういう感じで、ここのところは、そんな霊界的な場所の存在もあるような気がしています。霊界の話は、シュタイナーやスウェデンボルグ等、神秘学的な興味もありますが、プラトンのイデア論や、チベットやエジプトの「死者の書」など、人文学としても興味の尽きないテーマであります。

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こっち関係の本もだんだん集まってきました。まだ読破してないですが、霊界だけでなく、地下王国の伝説とか、理想郷伝説など、別世界のイメージにとても惹かれるところがあります。世間では、そういう場所は「無い」とするのが常識みたいな空気がありますが、そもそも正解の見つかっていない未知の物事ですから、「無いかもしれない」よりも「あったないいな」の方に価値を置いています。

地底世界のロマンにからめてシャンバラ伝説の記事を下書きしてるところだったのですが、ふと1と一について考えてたら筆がノってしまいました。霊界や死後の世界などの別次元の世界の話は、ルドルフ・シュタイナーの話などとからめて、これもまたいずれ掘り下げて考察してみたいテーマです。
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2018年09月08日

【音楽】歓喜の歌など

なんとなくふと聞きたくなった曲をとりとめもなく選んでみました。



るんるんG. Love & Special Sauce「Rodeo Clowns」
るんるんG. Love & Special Sauce「City Livin」
るんるんG. Love & Special Sauce「Numbers」
ジャジーで癒し系なヒップホップがお洒落な感じで心地いいですね〜 G・ラヴ&スペシャル・ソースは米国のヒップホップバンド。



るんるんCapiozzo & Mecco「The Howl」
カピオッツォ&メッコはドラムスのカピオッツォ(Capiozzo)、オルガンのメッコ(Mecco)、ギターのダニエル(Daniele)により2001年に結成された3人組のイタリアのバンド。レトロでダンサンブルな音が魅力です。彼らのアルバム「Whisky A Go Go」は粒揃いの傑作で愛聴してます。アルバムは全曲ヴィンテージのアナログ機器で録音したとのことです。そういったこだわりもあってか、古い映画音楽を意識したレトロな味わいにもリアリティがあって素晴らしいです。



るんるんWalter Wanderley「Caravan」
るんるんWalter Wanderly「Wave」
ワルター・ワンダレイ(1931-1986年)は、ブラジルのオルガン奏者。レトロでトロピカルなオルガンが気持ちいいですね。曲はジャズの名曲「キャラバン」と、ボサノヴァの名曲「ウェーヴ」のカバー。



るんるんLudwig van Beethoven「Symphony No.5(交響曲第5番)」
クラシック音楽の名曲、カラヤン指揮の「運命」です。この曲は楽聖ベートーベンの最高傑作といわれている作品で、「交響曲第5番 ハ短調 作品67」というのが曲の正式名称です。とくに日本では「運命」の名称で親しまれていますね。ベートーベンの弟子がベートーベンに、印象深い出だしの「ジャジャジャジャーン!」のフレーズは何を意味するのか?という問いに「運命はこのように扉を叩く」と答えたとされるエピソードからこの「運命」という通称が生まれました。しかしこのエピソードですが、調べてみると、実際はこのベートーベンの受け答えは弟子による創作であった、という見方が昨今は優勢のようですね。「運命」というタイトルはベートーベン自身による命名ではなく、また曲の本質からずれているために、日本以外では現在は「運命」という名称はあまり使われなくなっているとのことです。有名なエピソードが実は創作だった(かもしれない)というのはちょっとショックですが、しかしながら、やはり創作のエピソードだとはいえ、決定的なあのフレーズを「運命が扉を叩く音」と表現したのは秀逸です。運命という人生に立ちはだかる巨大な謎を音として表現するという発想自体はすごく面白いですね。「かまいたちの夜」とか、名探偵コナンとか、推理ものの謎解きシーンや、謎が解けたときのひらめきのシーンなどに、よくそれっぽい効果音が流れて、それがよりいっそう雰囲気を高めますが、クイズ番組などでの「考え中」の音とか、ああした「思考の状態の効果音」って昔からなんとなく好きでした。そういう嗜好もあって、「運命」もそういう延長線上で気に入ってたのかもしれません。



るんるんLudwig van Beethoven「Symphony No.9(交響曲第9番)」
「歓喜の歌」は47:44以降から。
年末によくテレビとかでよく流れてくるお馴染みのクラシック音楽の「第九」ですが、これもベートーベンの、というより人類を代表する傑作とでもいうべき鬼気迫る迫力を感じるすごい曲ですね。曲中で歌われる「歓喜の歌」がとくに印象的ですね。第九といえば、近年急逝された漫画家、土田世紀の傑作『編集王』のラストで印象深く引用されていたのを思い出します。『編集王』は、漫画業界の裏側を土田作品らしく熱くダイナミックにドラマチックに描いたとても面白い作品で、人間描写のえぐるような鋭さに感嘆しました。この作品のラストで、この漫画の重要な脇役であるマンボ好塚の回想シーンの中で、手塚治虫をイメージさせる漫画界のカリスマ的な大御所が歓喜の歌について語るシーンがあって、そのくだりを読んだ時、魂がうち震えるような感動をおぼえたのを思い出します。これがきっかけで「歓喜の歌」の歌詞の意味を知ったのですが、改めて歌詞を調べてみると、ほんとに崇高で超越的なものを描き出していてすごいですね。手塚治虫という人は少なからぬ日本人にとってはいわば「漫画」そのものを擬人化したような神がかった存在ですが、なんとなく土田先生はそうした権威に反発するタイプのように思ってたので、意外であったと同時に、偉大な先人を純粋にリスペクトする姿勢に、ますます土田世紀の凄さを感じたものです。業界の裏側をリアリズム的にドラマチックに描いていた『編集王』も、後半はだんだん神がかった不思議な描写が増えていきます。おそらく作者もかなり自己の内面に深く入り込んで描いていたんだろうなぁ、と今になって思います。まさに命を削って描いてたのでしょうね。先日『俺節』も改めて読み返してましたが、ストーリーテリングだけでなく、絵そのものの説得力の凄みに久々に圧倒されました。

メモ関連サイト
第九で歌われる「歓喜の歌」の歌詞(ウィキペディア)



るんるんJ.S. Bach「Crab Canon(蟹のカノン)」
音楽の父と呼ばれたバッハも多くの人を惹き付ける曲を数多く残した天才ですが、晩年に書かれた「蟹のカノン(Crab Canon)」という曲がまたユニークです。楽曲自体も奇麗な旋律で、普通に聴いててもイイ曲だなぁという感じなのですが、曲の仕組みが風変わりで、楽譜の最後から逆向きに音符を辿って演奏してもちゃんとした曲になるように出来ていて、さらにノーマルな演奏と逆からの演奏を同時に行ってもきれいな旋律のフーガになります。さらには、まるで回文のように始まりと終わりが交錯して永遠に演奏を続けることが可能なような仕組みにもなっているという、何重にもアイデアが仕組まれた驚くべき楽曲です。バッハの音楽というと、まるで天上界の音を聴いてるような崇高な気分にさせてくれるヒーリングなイメージがありますが、こういうトリッキーな遊び心も兼ね備えているところが天才の天才たる所以を感じます。先に紹介したベートーベンとバッハには共通点があって、ふたりとも大のコーヒー好きのようです。1日に何十杯も飲んでたそうですが、コーヒーというとどこかワイルドな味とイメージのある嗜好品なので、繊細な音楽を創造した楽聖が好んで飲んでいたというのはちょっと意外な気もします。コーヒーと天才性には何か関連があるのかどうかわかりませんが、自分もコーヒー好きなので、ちょっとあやかりたい気もします。

メモ関連サイト
【回分旋律】奇才バッハの知られざる曲が凄すぎる!! 「曲に隠されたメビウスの輪」とは?
posted by 八竹釣月 at 08:42| Comment(0) | 音楽

2018年08月28日

【雑談枠】黄金郷通信 vol.2

なんとなく更新が滞ってきたので、せっかくなので雑談的に今回もとりとめなく興味の赴くままに語ります!ここのところ、月のロマンとか宇宙に関する珍奇なビジュアルなどをテーマに何か書きたいとネタを暖めているところですが、とりあえず最近気になっているテーマなどをいくつか雑多に取り上げてみました。



el_icon.pngチベットの聖者ミラレパ

チベット仏教において最も有名な聖者だといわれているのがミラレパ(1052〜1135年)だそうで、その名前だけは何かの本で出てきたためかなんとなく知っていましたが、実際どのような人物なのか調べてみると、想像以上に波瀾万丈で興味深かったです。実在した人物とは思えないほどの不思議な人生を送った聖者で、ウィキペディアをはじめ、検索するといくつかミラレパの人生をテーマにした記事がヒットしますので興味のある方は調べてみると面白いと思います。チベット仏教というと、輪廻転生によって引き継がれてきた最高指導者、ダライ・ラマとか、OSHOばりにアナーキーなチョギャム・トゥルンパなどが思い浮かびます。また「チベット死者の書」や、シャンバラ伝説など、チベット自体が神秘に満ちた不思議な地域の印象があります。チベットは現代はややこしい状況になっていますが、なんとか良い方向に改善されることを期待してやみません。

さて、ミラレパに話を戻しますが、彼はチベットの裕福な名家の生まれで何不自由の無い幼少期を過ごしたそうです。しかし、ミラレパが7歳の頃に父が病死してから運命は一転します。叔父と叔母の画策によって父の遺産を強奪され、さらにミラレパの一家は彼らの奴隷にされて悲惨な暮らしを強いられることになります。一家を奈落の底に陥れた叔父と叔母に復讐するために母はミラレパに黒魔術を学ばせます。誦咒(しょうじゅ)、厭勝(えんしょう)、霰(せん)の3つの魔術をマスターしたミラレパは、叔父と叔母だけでなく、彼らに加担して自分たちを虐待した村人35人をも呪殺してしまいます。それでも気が納まらなかったのか、天候を操る秘法によって村の全ての農作物を壊滅させてしまったそうです。実在の人物のエピソードというより、神話の話のようですね。この頃の日本は平安時代後期ですから、余計に不思議さを感じますね。でも、西洋の黒歴史、魔女狩りは、15〜18世紀と、意外にそう遠くない時代に起こってますので、それ以前のミラレパの生きていた11〜12世紀頃の世界は、想像以上に神話の世界に近い様相だったのかもしれませんね。

というわけで、復讐を完遂したミラレパでしたが、黒魔術とはいえ、そこまでの呪法をマスターしたほどなので、もともと魔術師的な素質があったのでしょう。そういえば、昔「復讐するは我にあり」という映画がありましたが、このハードボイルド風なタイトルは実は聖書の言葉(ローマ人への手紙)が元ネタのようで、「我」とは神を指しています。意味は「自ら復讐に手を染めてはならない。ただ神の怒りに任せなさい」ということのようです。精神世界の教えでは復讐というのは相手だけでなく自分にも悪いカルマを背負う愚かな行為です。「人を呪わば穴ふたつ」とはまさに至言で、人を呪って仮に相手が不幸になっても、同じくらいの不幸を自分も背負うことになります。自分で復讐しなくても、人を不幸にした者は同等の報いによって購わせられるという法則が、まるで物理法則のようにはたらくことは、多くの聖典で述べられていますし、実際自分の経験に照らしてみても、そういうはたらきがあるように感じます。なので、復讐したいくらい憎い相手なら、自分で手を下して自分までカルマを背負って苦しむよりも、すべて神(=天の法則)に任せてしまったほうが、結果的にはノーリスクで復讐が完遂するのだから、そっちのほうが得ですよ、ということですね。

しかしまぁ、ミラレパの蒙った理不尽さは、なかなか一般の人間が経験できるようなレベルを越えていますし、憎しみの動機も痛いほど解るので、ミラレパの復讐を単純に責める気にはなれないところもありますね。しかし見えない次元ではたらいているカルマ的な法則は自動的にはたらきます。後に聖人と呼ばれるほどになったミラレパですから、そうした天の法則にもうすうす気づいたのか、自分の犯した悪のカルマの報いを恐れるようになり、正しい仏法を探求するようになります。そうして出会ったのが生涯の師、マルパ師でした。

後に聖人となる人物の師匠ですから、マルパ師もそうとうな達人で、出会う前から夢の知らせでミラレパが特別な弟子であることを知っていました。ミラレパはゆくゆくは世界を照らすほどの救いの光明をもたらす人物となること、それには犯してしまった黒魔術による殺人や村の破壊などの悪業を浄化する必要があること、その浄化はマルパによって可能であること、などが夢で知らされたそうです。そういうこともあってか、ミラレパが弟子になると、ミラレパにひとりで石造りの塔を建てさせ、完成が近づくと自分でそれを壊すように命じたりと、理不尽な仕打ちを何度も続けました。苦労して石を運び、こつこつと積み重ね、仏塔を造りつづける毎日、しかし完成の一歩手前で、それを壊せと命じられる苦しみ。ミラレパは、完成の喜びさえ味わうことを許されない重労働を、何度も何度も強いられました。さらに、ミラレパを他の弟子の前で罵倒したり、公衆の前で殴り、蹴り付けたりと過酷な目に何度も合わせました。これもミラレパが積んでしまった悪業の浄化のために必要なミソギでした。多分、そういう真意があろうともミラレパにした理不尽な仕打ちのカルマをマルパ師は背負うことになるはずです。しかし、神から託された弟子をちゃんと解脱せるのが自分の使命であることも承知しているので、覚悟の上で心を鬼にしていたのでしょうね。

悪行の浄化のためとはいえ、あまりの厳しい虐待にマルパ師の元から逃げ出したりもしますが、結局最後までマルパ師の元で厳しい修行に耐えて最終奥義を授けられます。師の元を離れた後、ミラレパは人里離れた洞窟で苦行に励み、とうとう最終的な悟りの境地に至ったといわれています。ミラレパの伝記をけっこう端折って紹介しましたが、ほかにも興味深いエピソードが多いので、興味のある方は調べてみると面白いと思います。

メモ関連サイト
ミラレパ(ウィキペディア)



el_icon.pngカバラの動画

カバラと聞くと、どうしてもマニアックな秘教的オカルト思想をイメージしてしまいがちなのですが、「ブネイ・バルーフ カバラ教育研究所」という組織が数年前からYoutubeなどにアップしている動画をたまたま見ていたら、意外に精神世界全般に通じる普遍的な教えが根底にある思想であることを知り、がぜん興味を持ちました。たしかにカバラというとゲマトリア(数秘術)に代表されるようなオカルト要素に惹かれるところではありますが、もともとカバラの母体であるユダヤ教自体が、歴史的にキリスト教と通底するところがあるだけに、カバラもまた万人の心に響くものを根底に持った思想なのだなぁ、と感じました。ブネイ・バルーフ カバラ教育研究所は、イスラエルを拠点としたカバラの啓蒙を目的とした非営利組織だそうです。ユダヤ教とかカバラというと日本人に馴染みの薄いところがあって、それゆえに神秘な匂いがたまらないところがありますね。

TV動画
カバリストはどんな意識状態に到達したのか?(ブネイ・バルーフ カバラ教育研究所)
オプションで日本語訳の字幕を表示できます。

いろいろ興味深い動画があがっていましたが、例えば上記の動画では、人間は特有の脳のトリックによって、心の内側で生じるさまざまな現象を、あたかも「外側」で起きている事象のように錯覚しているのだ、というユニークな見解を解説していて面白いです。内側と外側という境界はただ脳の都合でそう認識しているだけで、本来違いは無い、という立場は、ヒンドゥー教や仏教ではお馴染みの思想ですが、カバラでも同じ視点にたっているところが興味深いですね。

メモ関連サイト
カバラ(ウィキペディア)

ブネイ・バルーフ カバラ教育研究所日本語版公式サイト



el_icon.pngヴィンテージでオリエンタルなファッション写真・孫郡(Sun Jun)

孫郡(Sun Jun)は、ファッション写真に伝統的な中国美術の要素を取り入れたヴィンテージ感漂うユニークな作風で注目されている写真家です。漢詩の世界のようなオリエンタルなポエジーを感じる写真がとてもユニークです。モダンなファッションと風流な東洋的レトロ感が絶妙で、とくに、何もない空間を大胆に作る禅庭を思わせる東洋的な美意識が心地いいですね。孫郡は7歳の時から中国画を学び始めたそうで、そうした素養が実に見事にファッション写真というある意味ミスマッチな分野で発揮されたというところも面白いですね。

以前、中国人ファッションデザイナー、ヴィヴィアン・タムの『China Chic』という本(ファッションの写真集というよりは、彼女のイマジネーションの源流をコレクションしたような、古今の中国文化をビジュアル的に構成したイメージブックという体裁)に感銘を受けて、現代の中国人クリエイターに関心を持ちはじめていたのですが、そうした中で孫郡の作品を見つけ、さらに関心が深まりました。

メモ関連サイト
孫郡(Sun Jun)の作品(中国語のブログ「The FEMIN」様より)

孫郡(Sun Jun)の作品(google画像検索結果)



el_icon.png偶然という名の必然・シンクロニシティについて

アメリカといえば、フリーメーソンが建国にかかわっていた、とか、ドル紙幣にまつわる都市伝説とか、UFOや超能力の研究を国家機関が行っていたとか、歴史の浅い新しい国という割には、いろいろと不思議ネタに事欠かない底知れない魅力に満ちた国でもあります。そうしたネタのひとつにアメリカ大統領、リンカーンとケネディの不思議な共通点の話があり、子供の頃に読んだオカルト系の本に載っていたせいで、とても印象深く記憶にあります。アメリカ本国では案の定オカルト系の本でよく取り上げられていた題材のようで、検索してみると、かなりたくさんの一致点があるみたいで、ひさびさにびっくりしました。代表的な一致点というと以下のようなものがあります。

リンカーンとケネディ

 ジョン=ケネディ大統領とリンカーン大統領は、共通点がある。
(1) リンカーンが大統領に選ばれたのは1860年、ケネディが選ばれたのは百年後の1960年。
(2) ふたりの大統領のあとをついだのはどちらもジョンソンという名前の人。生まれた年は、これまたちょうど百年違い。
(3) 暗殺者の生まれた年も百年違い。リンカーンの暗殺者は1839年、ケネディの暗殺者は1939年生まれ。
(4) リンカーンの秘書の名はケネディ、ケネディの秘書の名はリンカーンといった。
 これらの事実は、偶然だろうか・・・・。

「超科学ミステリー」斎藤守弘著 学研 昭和49年(1974年)刊 p137より


メモ関連サイト
リンカーン大統領とケネディ大統領の共通点(ウィキペディア)
けっこうありますね。私は上記の4つ程度しか知らなかったので、思ってた以上に共通項が多くてびっくりしました。

歴史に名を残すような人物は、それだけ世界に影響を与えている人物でもありますから、シンクロニシティめいた現象が起こりやすいといえます。シンクロニシティとは、ある種、見えない次元を支配している法則のひとつで、この世がたんなる物質同士の反応だけで存在している世界ではない事を人間に知らせてくれます。アメリカ大統領のような影響力の大きい人物であれば、なおさら霊的次元での影響も大きいはずで、だからこそシンクロニシティという形で解りやすくこの世に投影されやすいのだろうと察します。

日本でいえば、天皇陛下や総理大臣なども影響力が大きいですから、探せばいろいろとシンクロニシティ的なものが見つかりそうですね。そういえば、皇室にまつわる不思議なシンクロニシティの話が一時期話題になった時がありましたね。雅子様と紀子様は共に皇室に嫁いだことで日本中で話題になりましたが、このおふたりには偶然にしては出来すぎたあるシンクロニシティがありました。それは、おふたりの名前に関するもので、ご存知の方も多いと思いますが、ご結婚前のフルネーム、小和田雅子(おわだまさこ)、川嶋紀子(かわしまきこ)を一字づつとばして交互に読むと、お互いの名前に一致するというものです。

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天皇の家系は神話の時代まで遡ることができますし、三種の神器というモロに神話のアイテムを引き継ぐことで継承していくわけですから、この目に見える世界だけでなく、霊的な影響力も相当なように感じます。そうした霊的なパワーを継承していく選ばれた家系に入っていく人も、民間人とはいえ、高い次元では、前もって決まっていた方々だったのかもしれませんね。

シンクロニシティの興味深い事例として印象的なのは、1950年代にアメリカのある教会で起きた奇妙な事件です。昔、南山宏さんのコラムかなにかで読んだ記憶があるのですが、以前「トリビアの泉」というテレビ番組で紹介されたこともあるみたいなので、ご存知の方も多いと思います。この事件は当時の有名なニュース雑誌『LIFE』にも載ったそうで、信憑性も高そうです。その事件とは、「1950年3月1日、ウエスト・サイド・バプティスト教会において午後7時25分、ガス漏れによる事故で教会が爆発し全壊した」というものです。爆発した時間帯には、ちょうど聖歌隊のメンバー15人が全員集まって練習する予定であったにかかわらず、奇跡的に全員が£x刻したために難を逃れたのでした。しかも、遅刻の理由は15人それぞれに別々の理由(宿題が終わらないので遅れた、とかラジオ番組に夢中になって忘れていた、とか)というのも実に神がかった奇跡です。

メモ関連サイト
「トリビアの泉」で紹介された教会ガス爆発事件で起きた奇跡の内容(「日本発ニュース」様)

偶然で片付けてしまうのは簡単ですが、この宇宙は多くの科学者が考えているように、厳密になんらかの法則に支配されているはずで、そういう意味では「偶然」は存在しないともいえます。人間世界で起こる社会現象も、目線を変えれば宇宙で起きている物理現象のひとつでもありますから、一見人間的で物理法則とは無関係に思われている怒りや友情や恋愛などの感情や、人間関係で起こる様々な出来事なども、すべてその背後にはまだ解明されていない次元での見えない法則が影響しているように思います。奇跡を偶然と片付けるのもひとつの見方ではありますが、「起こりうる最も理想的な成り行き」を奇跡と呼ぶわけで、聖典などでいわれているのは、主にそういう「偶然」をいかに「偶然」として片付けずに、むしろ積極的に人生に活用していくべきかを語っており、そういうところが精神世界に惹かれるところでもありますね。

シンクロニシティについて考察していくと、「偶然とか何か?」という問題が気になってきますし、数学で扱う偶然「確率論」にも興味がわいてきます。数学で扱う「偶然」も、「モンティホール問題」などを筆頭にけっこう面白いものが多く、いずれ項を改めて記事にしたいと思います。
posted by 八竹釣月 at 23:58| Comment(0) | 雑記

2018年07月31日

1なる存在について(「辛いに一本足すと幸せになる」の話の続き)

先日の記事「言霊遊戯、あるいは幸、叶、鏡の話」の続きです。

先日考察した「辛いに一本足すと幸せになる」の話ですが、では幸せになるために辛いに足す一本は、具体的に何を指すのか?というところがなんとなく気になって考えてました。まぁ、「家族」とか「友達」とか「趣味」など、人それぞれ十人十色なんだろうし、万人に共通したものではないのかも、とぼんやり思ってましたが、ふと、あれ?この一本は実は万人に共通する一本なんじゃないか?と思いつきました。「一」とは「1」ですが、「1(いち)」にそっくりな英語の「I(アイ)」───この自分という存在は世界にただ一人ですから、I(アイ)と1(いち)が似た形の文字であることには、意味深なものを感じます。話を戻しますと、つまり辛いに足す一本とは、自分自身のことで、意味する所は「本当の自分自身=I(アイ)≠見つけること」なのではないか、ということです。「見つける」という言い回しですと、モラトリアム的な「自分探し」めいたニュアンスが出てきそうなので「本当の自分に成る≠アと」と言い換えたほうが正確かもしれません。

本当の自分に成る、というのは、なにも悟りとか解脱などの究極のものだけではなく、夢中になれる趣味を見つけたりとか、天職を見つける、など、人生を無上の至福で彩るような生き方を見つけること、そういう理想の状態、そういう人生を生きる自分こそ「本当の自分」であるはずです。なぜそれが本当といえるのかというと、人間は宇宙の進化の結果生まれてきた生命ですから、宇宙をつらぬく絶対的な法則、正しい成り行きに則った行為や体験には、それが正しく、本物であることを示すシグナルとして、至福感をもたらすように出来ている(と私は思っています)からです。つまり、もっとも幸せを感じるような時とは、もっとも自分らしく生きている時のことであろうと思います。

宇宙は、自分が生み出した生命(人間)を、わざわざ苦しませる理由はない気がします。なぜなら、人間もまた宇宙の一部ですから、人間の苦しみは宇宙にとっても苦しみのはずだからです。むしろ、宇宙からすれば、幸福に自由に、人生を喜びで満たすような生き方を人間にしてほしいと思っているような気がします。宇宙に考える心や感情があるというのは何も突飛なことではなく、人間に心があるということは、宇宙には心を生み出す素材が揃っていたからですし、その素材で心≠組み立てるシステムと段取りさえもあらかじめあったということです。親にある物が子に遺伝するわけですから、宇宙に心があるからこそ、人間にも心があるのではないでしょうか。冷静に考えてみれば、むしろ宇宙のほうが人間よりも複雑な仕組みと構造をもっているのですから、人間よりも高機能で精妙な心をもっていると考えた方が論理的なようにも思います。おそらく数多(あまた)の宗教は、お伽噺のような空想から生まれたのではなく、むしろかような考えと遠からぬ思想が根底にあって、宇宙を統べる超越的な存在、つまり神の存在に気づいたのではないか、とふと思いました。

とにかく、人生は無限の可能性が秘められているのですから、本来なんでも望んでいいし、どんな夢を追いかけてもいいわけです。自分に最大限の自由を与える生き方こそ誰しもが求める生き方ですが、自分の自由と他者や社会との折り合いが上手い具合につくような状況をつくるには、エゴの自分を捨てて、意識の奥にある魂で感じる本当の自分になるしかありません。多くの聖典や賢者のいうように、本当の自分(I=アイ)を覚醒させるには、自他を越えて愛(I=アイ=愛)を実践していくことが大事なのだと思います。I(アイ)は「自分」であり、また「愛」であり、そして唯一無二の「1(イチ)」です。カバラ(ユダヤ教神秘主義)では数の隠された意味や性質を探る「数秘術(ゲマトリア)」という秘術がありますが、それによれば1は唯一の神を表す神聖な数字でもあります。魔術師、アグリッパが1の神聖性について書いた興味深い一文を以下に紹介します。

それゆえ、1は高みなる神を示し、神は1であり、限りないものと思え、しかも自身で限りないものを作り、それらは彼自身の中に含まれている。それゆえ一つの神がいて、一つの神の一つの世界、一つの世界の一つの太陽、また世界における一羽の不死鳥、蜜蜂の中の一匹の王、畜牛の群れの中の一頭の指導者、獣の群れの中の一頭の支配者、一羽に従う鶴、そして多くの他の動物も単一性をあがめる。
───アグリッパ(16世紀の魔術師)


『数秘術 数の神秘と魅惑』ジョン・キング著 好田順治訳 青土社 1998年 p87より


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魔術師アグリッパ ( Henry Cornelius Agrippa Von Nettesheim 1486-1535)
16世紀ルネサンス期ドイツの魔術師、人文主義者、神学者、法律家、軍人、医師。以前の記事「エンデと神秘主義」でも触れましたが、アグリッパというと、太陽系惑星を魔方陣に対比させた惑星魔方陣が思い浮かびますね。


また、インド哲学の真髄であるヴェーダーンタ哲学の不二一元論では、究極には、内なる本来の自己(真我=アートマン)は、宇宙の根本原理(神=ブラフマン)と同一である、と説いていて、不二一元論とは、一言でいうと、すべては究極にはひとつであるという教えです。宇宙論の有名な仮説「ビッグバン」では、宇宙のはじまりは、微小・高温・高密度の「時空特異点」が爆発して出来た、とされていて、この爆発により時間と空間が生じたということですが、「すべての元は、ひとつ≠フ何かだった」という意味では、なにやら通底する真理を感じます。ヴェーダ聖典(=紀元前1000年〜500年に編纂されたインドの宗教文書の総称)の重要な聖典のひとつにウパニシャッドがありますが、これにも「この宇宙は有のみであった。唯一にして、第二のものはなかった」「太初において、アートマンはこの宇宙であり、唯一であった」「この一切万有は実にブラフマンである」との記述がありますが、紀元前の太古の時代にすでに宇宙の本質を直感的に見抜いていたかのような知見に驚きます。

明智(みょうち=分別のある賢明な知恵)とは、(アートマンとブラフマンとは)同一であるという理解であり、無明(むみょう=迷いによる無知の状態)とは、(アートマンとブラフマンとは)異なっているという理解である、と天啓聖典は宣言している。それゆえに、聖典においては、明智があらゆる努力を尽くして教示されている。

『ウパデーシャ・サーハスリー』シャンカラ著 前田専学訳 岩波文庫 p21より 


ともあれ、インド哲学によれば、人間と宇宙は真理に目覚めた目でみると究極には同一の存在であるということですが、言葉を換えれば宇宙と同等の潜在力を人間は持っているということでもあります。宇宙というのは最大にして究極の謎ですし、真偽を即座に確かめることは困難です。しかしまぁ、悪い事には懐疑的でいいと思いますが、良い事には過剰に懐疑的であるのは損なので、とりあえずは聖典の示す世界観を信じて、宇宙規模の可能性の大風呂敷を拡げたマインドで自由にこの世を渡ってゆきたいものだと思う昨今です。
posted by 八竹釣月 at 06:01| Comment(0) | 精神世界