2023年01月30日

放浪画家、山下清との一夜

放浪画家の山下清画伯については、ドラマ化されたことでも有名でご存知の方も多いでしょう。私は芸術に興味はあるものの、以前は主にダリやデルヴォーなどのシュルレアリスムをはじめとした異端の美術ばかりに興味を惹かれていたので、山下清やルソーのような素朴でピュアな美術はあまり興味がなく、大ヒットしたドラマのほうもほとんど見てませんでした。そうした中、先日の古本市で何万冊もの本の中から、お坊さんが著者らしい仏教関係のエッセイ本をなにげなく手に取ってページをパラパラめくっていたら著者が山下清と会った時のエピソードを数ページだけ紹介していた部分が目にとまり、数行読んだだけでハッとさせられる内容でしたので思わずgetしてしまいました。その本は『道〈みち〉─本当の幸福とは何であるか─』(高田好胤 徳間書店 昭和45年)というものです。

あとでウィキで調べてみると、著者の高田好胤(たかだこういん 1924年[大正13年] - 1998年[平成10年])とは、法相宗の僧で、分かりやすい法話により「話の面白いお坊さん」、「究極の語りのエンタテイナー」とも呼ばれ、薬師寺の再生に生涯をささげた、とありました。

古本市で出会った件の本に紹介されていた著者と山下清との邂逅のエピソードを読むと、著者の好胤と山下清が出会ったのは一晩限りだったようです。しかしとても興味深い内容です。著者は出会った人を一瞬で魅了する山下清の人間力の一側面を見事にすくいあげて紹介しています。エピソードはわずか数ページですが、さすが山下清画伯、ドラマ化されるだけあって、絵の魅力だけでなく、人としての魅力がハンパない人物なのだなぁ〜と感心させられました。絵画作品のほうもちゃんと見てみたくなりましたし、ドラマのほうもこれを機会に全話みたくなってしまいました。

素朴さ、純粋さというものは誰の中にもある───ということを考えるとき、私は例の放浪の画家といわれている山下清さんのことを思い浮かべるのです。私とはわずか一夜のつきあいでしたが、そのときむしろ私のほうが教えられ、一種の感動をおぼえましたので、その一夜の模様を書いてみたいと思います。もう数年前になりますが、ある日の夕方、私が寺へ帰りますと、寺の世話をしてくれているお婆ちゃんが、「新館のほうにルンペンみたいな人が来てはりますのや」といいます。事情を聞きますと私の懇意にしている新聞記者の青山君がつれて来たのだそうで、「この名刺を渡したらわかってくれるはずだ」といって名刺をおいていったというので、それを見ますと「流浪の画家山下清をおつれしました」というようなことが書いてあります。「お婆ちゃん、その人、有名な人やで」「有名かなんか知らんけど、汚くて気持ち悪うて」と、お婆ちゃんはいうのですが、私が行ってみましたら、まぎれもなく写真などでよく知っている山下清さんがおりました。

(『道〈みち〉─本当の幸福とは何であるか─』高田好胤 徳間書店 昭和45年 p114-116)

その時の山下清は絣(かすり)の着物を着ていたそうです。山下は好胤をずっと「おじさん、おじさん」と呼ぶので、歳を聞いてみると山下のほうがひとつ年上でした。あんたのほうが年上だよと教えても、おじさん呼びが気に入ってしまったようで、別れるまで好胤のことをずっとおじさんと呼んでいたそうです。見てくれはホームレス風の身なりながらすでに全国的に有名な放浪画家だった山下清、どことなく以前記事にも書いた「竜宮童子」の昔話を彷彿としました。竜宮童子もまた洟をたらした汚い身なりながら、あらゆる富を望むままに出現させることができる神通力を持った子供でしたね。人は見かけで判断してはいけないという教訓をそのまま生きた山下清という人物になんともいえない魅力を感じます。

そういえば、またフト思い出しましたが、ここ最近漫画家の土田世紀先生が気になって、いろいろ読んでいた中に、『同じ月を見ている』という作品があります。この作品がちょうど今回の山下清を彷彿とさせる主人公が活躍する物語で、素朴で正直でピュアすぎるゆえに世間の汚い部分をうまくすり抜けて生きる要領がつかめずいろんな苦境に巻き込まれていく話です。山下清を思わせるピュアな天才画家の波瀾万丈の物語でとても感動しました。ストーリーの流れ的には土田版『愛と誠』みたいな印象もあり、土田先生の心酔している作家、宮沢賢治のニクイ引用など、読み応えがありました。映画化もされたようですが、いずれ機会があれば見たいですね〜

「外は外なのか?」というようなことを山下清さんはいきなり聞いてきます。どういう意味かよくわからないながらも、「そうや、外は外や。外には塀も何もあらへんのや」と私が答えますと、部屋の隅の何か盛り上がっている座布団を指し、「あ、あれがぼくのリュックサックだ」という。座布団でリュックサックを隠しているのだというのです。「なんでそんなことをするのや。あんたのリュックサックなら、おそらく汚いもんやろうから、誰も盗みはせん。それをあんなふうに隠しておくと、かえって何ぞ大事なもんでも入ってるんやないかということで、中を探そうという気持ちになるやないか」と私はいい、さらにこういったのです。「大体、あんたが人を疑うから、人があんたを疑うんや。そう思わへんか?」「そ、そうだね。ぼ、ぼくが疑うから人がまたぼくを疑うんだね」そういって非常に素直に相づちを打つのです。それからいろいろな話をして、四、五十分たったころだと思うのですが、彼は突然、福島県の平(たいら)の駅で盗難にあったことがあるといいました。そして、それを見ていたある人が、「油断したらだめよ」と教えてくれたということです。そのことを思い出して彼はこういうのです。「ゆ、油断してはいけないということと、ひ、人を疑ってはいけないということは、た、大変むずかしいね」私はそれを聞いてはっと思いました。彼は私のいうことを聞いて、私の忠告がすっと自分の心の中に入ったと思うのです。ところが、何年か前に平駅で聞いた忠告もすっと素直に入っていた。そこで心の中で私の忠告が前の忠告にポンとぶつかった。普通ならそこで「だ、だけど、おじさん………」と反論してくるわけですが、山下清さんはふたつの忠告の矛盾を「大変むずかしいね」と表現しました。私はそのとき、人を信じることのむずかしさということを山下清さんから逆に教えられたように思いました。

(『道〈みち〉─本当の幸福とは何であるか─』高田好胤 徳間書店 昭和45年 p116-118)

矛盾したことを言ってくる他人に、混乱して腹を立てたり、矛盾を指摘して皮肉を返したりせず、「大変むずかしいね」と返すのが素敵ですね。今は答えがわからなくても、その矛盾の中に矛盾を超えた真理があるかもしれない。矛盾がなくなるようないい答えがあるのかもしれない。という気持ちが「大変むずかしいね」の言葉の奥にあるような気がしてきます。そのような山下清に対し、下手に言い訳じみたことを言わず素直に脱帽してみせる好胤の潔さもあいまって、微笑ましいエピソードですね。

調べてみると、著者の高田好胤は話術にも長けていたそうで、人間国宝にも認定された落語会の巨匠、3代目桂米朝もその話術を参考にしていたようです。米朝と好胤は懇意な付き合いもあったようで、そのあたりの逸話もウィキに書かれていて面白かったです。好胤の宝物であった床の間の掛け軸がいたく気に入ってしまった米朝は、好胤にゆずってくれと懇願するも「誰であっても譲れない」とかたくなに断ったそうです。米朝はそこで「本来無一物。これが僧のあるべき姿では」とたたみかけたところ、さしもの好胤も返答に困ってしまい、しぶしぶ譲渡に応じたとのこと。本来無一物(ほんらいむいちもつ)とは、仏教用語で「事物はすべて本来 空 (くう) であるから、執着すべきものは何一つない」という意味です。さすが落語界の大家、洒落た返しですね。好胤さんほどの人でもモノへの執着というものがまだあったのだなぁ、と考えさせられるエピソードです。それほどに執着という煩悩を滅するというのは本職のお坊さんでも難しい課題であるということでしょう。

それから、私は山下清さんにある雑誌を見せてやりましたが、雑誌のグラビアを眺めながら彼はこんなことをいうのです。ここに勲章をつけている人といない人がいるけれども、勲章をつけていないほうが大変偉そうに見える。勲章をつけているほうが偉いはずなのに、なぜそう見えるのだろうか、という疑問なのです。誰のことをいっているのだろうと私がその雑誌をのぞいてみますと、勲章のないのは大正天皇で、勲章をつけているのは山県有朋(やまがたありとも)でした。私たちは勲章をつければ偉いという見せかけの権威を信用しがちですが、純真な心で見れば本当に偉いのは誰かということがわかるものです。勲章だけにかぎりません、むやみに金バッジをつけたがる人、名誉職につきたがる人───中身の無い者ほど外側を飾ろうとしているのだということだろうと思います。

(『道〈みち〉─本当の幸福とは何であるか─』高田好胤 徳間書店 昭和45年 p118-119)

これなども山下清がタダ者ではないことをうかがわせるエピソードですね。勲章をつけて雑誌の写真に載っていた山県有朋(1838-1922)はウィキによると、最終階級・称号は元帥陸軍大将。位階勲等功級爵位は従一位大勲位功一級公爵。内務卿(第9代)、内務大臣(初代)、内閣総理大臣(第3・9代)、司法大臣(第7代)、枢密院議長(第5・9・11代)、陸軍第一軍司令官、貴族院議員、陸軍参謀総長(第5代)を歴任した、とあり、写真を見ても髭をたくわえていてお札の肖像になってもおかしくない立派な風貌をしています。しかし山下清は勲章のない人(大正天皇)のほうが位が上だと一瞬で見抜いています。山下には見えているものの奥まで見通す勘が鋭かったのでしょう。あらためて山下のちぎり絵の作品など見てみますと、その表現の中に、ものの本質を見る霊眼のようなものを感じますね。

それから寝る段になって、「あんた、明日はどこへ行くのや?」と聞いてみましたら、「あ、明日のことは、わ、わからないね」私はその言葉で胸を突かれたような気がして、青山君と顔を見合わせていますと、「お、おじさん、ぼ、ぼく、へんなことをいったのかな?」「いや、明日のことはわからない、というようなことはよほど悟った人でないといえることではない。あんたは偉いことをいう人やと感心しているのや」「そうですね」と青山君も表情をひきしめていいました。すると、「あ、明日のことはわからない、ということが本当にわかっていえる人は、な、何人の中に何人ぐらいいるだろうな?」と彼のたまわくです。まったくおそれ入って、青山君と顔を見合わせてばかりいました。

(『道〈みち〉─本当の幸福とは何であるか─』高田好胤 徳間書店 昭和45年 p121-122)

「明日のことはわからない」、ある意味、そんなに感心するほどスゴイ言葉なのか?と一瞬思いがちになりますが、たいていはこういう場合、本当にまだ予定がたってなくても、その場で適当にどこそこに行くかもしれません、と言うか、あるいは、「どうしようかな〜、どこに行こうかな〜」と考えこんだりしそうで、「わからん」と即答するのも、わからないことに引け目を感じず、わからないという心に自信を持っていないと言えない言葉だなぁ、と、時間差で感心してしまいました。さらに、その回答に感心する言葉に増長するでもなく、「明日のことはわからない、ということが本当にわかっていえる人は、何人の中に何人ぐらいいるだろう?」と、ラーマクリシュナばりの深遠な言葉をサラリと返すところもすごいですね。かっこつけようとして言ってるのではなく、そういう言葉が自然にスッと出てきた感じなのでしょうね。

「明日のことはわからない」。言葉のうえではなんの変哲もない平凡な言葉にみえますが、この言葉は漂泊を人生の住処にした山下清が言うと特別な意味がでてきますよね。私たちは、明日のことがわからないから不安になったり心配したりすることが多いものですが、山下清にとってはむしろ明日のことは明日にまかせて、今は今を生きていれば良いのだ、といった悟りのようなものがありそうに思えてきます。「明日のことはわからない」というのは、スケジュールとか時間に縛られない自由の中で芸術を生み出してきた山下だからこそ出てくる彼にとっては至極当然の反応だったのでしょう。続けて放った「明日のことはわからない、ということが本当にわかっていえる人は〜」の言葉は、まさしく、そうした境地、つまり明日の予定など立てずに自由に人生を旅する自分のような人間の仲間はこの世にいったい何人くらいいるんだろうな、という素朴な疑問だったのかもしれません。

精神薄弱と私たちはいいますが、私は山下清さんとすごした一夜の経験で、むしろ私たちのほうが障害者なのではあるまいか、としばしば考え込みました。知識の程度は劣っているかもしれないが、心という点に関してははるかに山下清のほうが健康で清浄です。たった一夜ではありましたが、山下清さんと過ごしてみて、私は人間の善意というものに自信を持つことができたように思います。しかし、山下さんが「ぼくは能力が弱いだろう、だから………」ということをいったときには私は叱りました。「ばかなことをいうものではない。あなたが絵を描けば多くの人が大変感動するやないか。私が絵を描いても歌をうたっても、どれだけの感動を人に与えることができるか。君のように素晴らしい能力に恵まれている人なんか、そうざらにあるものではない。能力が弱いなんて、そんなことをいったらバチがあたる。もったいない。お母さんに申し訳ないよ」そんな私の言葉を、彼は、「うん、うん」とうなずきながら素直に聞いてくれたのです。

(『道〈みち〉─本当の幸福とは何であるか─』高田好胤 徳間書店 昭和45年 p123-124)

この部分では、半世紀前に書かれた本なので、現代の倫理基準では配慮が足りないように思える言葉もいくつか出てきますが、そうした部分は真意をくみとって読んでいただければと思います。聖書の一句にも「あなたがたみんなの中でいちばん小さい者こそ、大きいのである(ルカによる福音書 第9章 48節)」とありますが、まさに真理ですね。この聖句は、みんなが軽んじている者ほど実は霊的にはみなより偉大なのだ、という意味だけでなく、最も軽んじられている人の中にいる神を見いだし、慈しむことのできる人間であれ、ということでもあると思います。山下清の弱音に対して、馬鹿を言うな!あなたほど才能に恵まれている果報者などそうそういないではないか!と鼓舞する好胤もまたカッコイイですね。人々に愛された放浪の画家、山下清は1971年(昭和46年)7月12日、脳出血のためわずか49歳という短い生涯を閉じましたが、この高田好胤和尚の一喝は山下にとっても忘れられない宝物になったのではないではないかと感じます。


メモ参考リンク


posted by 八竹彗月 at 06:41| Comment(0) | 芸術

2022年10月18日

【音楽】なんとなく聴きたくなった60〜80年代の曲

気になる曲やふと聴きたくなった60〜80年代あたりの曲をチョイスしました。気ままに選んでいますが、結果的に何曲か反戦歌もはいっています。とくに世相を意識したわけではないですが、やはり考えさせれるものがあります。

相田みつをさんの言葉にもありますが、「奪い合えば足りぬ。分け合えば余る」というのがこの世の真理なのだと思います。奪い合う地獄から、分け合う天国にしていくのが人間に与えられた地球からの使命なのではないか?と思う今日この頃。言うほど簡単なものではないですが、結局は世界はそんなおおげさなものではなく、実際には私やあなたなど、ひとりひとりのリアルな人間が構成しているわけでもあり、だからこそ、自分を成長させていくことが、遠回りなようでいて実は一番確実な平和への道なのかもしれません。

ジョン・レノンが音楽を通して平和を訴えたのはそういう意味もあったのだろうと思います。まずは友達関係とか家族とか恋人とか、そういうひとりひとりの身近な小さなところを平和にしていくことが、結果的に世界平和に繋がるのだ、という思想はジョンだけでなく、あのマザー・テレサもしばしば言及していましたね。昔はジョンの歌う平和も、しょせんブルジョワジーのお遊びなんだろうな、くらいにしか思いませんでしたが、今思うに、実はそうではなく、あれほどの影響力のある存在に上り詰めた彼だからこそ、その影響力を人類規模の幸福のために行使するのが自分の使命だと考えてのことだったように思えてしかたありません。



前置きからのつながりでド定番の名曲から。「イマジン」といえば、もはや学校の音楽の教科書に載ってしまうくらいの古典になってしまったことで、あまりその意味をまじめに吟味しずらい「いまさら感」もありますが、やはりその純粋でストレートなメッセージは永遠に普遍的な真理を含んだものだと再確認させられます。平和とか反戦とかいうとどうしても左翼的なイデオロギー色を感じてしまうところもありますが、ジョンが訴えたかったのは、そんな右とか左とかのレベルの平和ではなく、そんな小賢しいイデオロギーなど考えたこともなかった子供のように無邪気にすべての生命が愛し合う世界を実現することであり、そうした世界を迎えるための一粒の種を撒くことがジョンが音楽を通してやりたかったことなのじゃないだろうか、と思えてきます。
ヨーコのせいでジョンが政治的になってしまい、ビートルズ時代のような無垢な芸術性を失ってしまったと嘆くファンもいたようですが、前置きでも書いた通り、ジョンが平和運動をはじめたのは使命感のようなものであり、それは、愛する子供達にそういう平和な未来で過ごして欲しいという親としての愛情もあったのかもしれませんね。
「マインド・ゲーム」のほうは、ジョンの詩人としての飛び抜けた才能と哲学的なメッセージが見事に結実した傑作ですね。私たちは、いつも心の中で何かと争っているけど、それが究極的には戦争の種になっているんじゃないのかい?ということを暗に示唆している感じで、深い精神性を感じる曲です。「真実を探すのは聖杯を探すくらい難しいなんて人は言うかもしれないけど、きみは知ってたはずじゃないか、愛≠アそが答えだってことを」

メモ参考サイト



名曲「この素晴らしき世界」のロックなカバー。たくさんのアーティストがカバーしていて、レゲエ風やボサノヴァ風など様々なバリエーションを聴き比べるのも楽しいですが、中でもアメリカのバンド、クラークスによる勢いのあるこのロックアレンジが好みです。

オリジナルバージョンのサッチモの「この素晴らしき世界」です。
───青い空、白い雲。街を見れば、友達同士がやぁ調子はどうだい?≠ネんて握手しているよ。照れくさいから愛してるよ≠ヘ心の中で言いながらね。そう、ぼくは思うんだ。ああ、なんてこの世界は素晴らしいんだ!と。───といった感じのハートフルな歌詞が胸を打ちます。春の午後の陽射しのような牧歌的な平和な世界を歌っていますが、作詞作曲のジョージ・ダグラスがベトナム戦争を嘆いて、平和な世界を夢みて理想の世界を書いたのがこの歌だそうです。悲観的な空気が蔓延する時代だったからこそ、明るい未来を願う気持ちが生み出した名曲でもあったんですね。

メモ参考サイト



マイク・オールドフィールドといえばホラー映画の金字塔「エクソシスト」のテーマ曲にもなった「チューブラーベルズ」によって世界的に知られるプログレ系のミュージシャンですね。私も子供の頃に親戚のおねえさんが持っていた映画音楽をセレクトしたオムニバスに「チューブラーベルズ」が入っていたのを聴いたのが初めてでした。映画は未見でしたが、美しくミステリアスな独特の旋律が気になって、映画のほうも無性に気になってテレビ放映された「エクソシスト」をドキドキしながら見た覚えがあります。他にはどんな音楽を作る人なのだろう?という興味で「クライシス(Crises)」というアルバムを買った覚えがあります。その中でこの2曲がいたく気に入って、それ以来たまに聴きたくなるフェイバリットソングとなりました。2曲ともボーカルはマギー・ライリー(Maggie Reilly)。素朴で素直な歌唱がアーティスティックに作り込んだ曲とうまく馴染んで耳に心地いいですね。



出だしのカッティングギターがカッコイイですね〜 スリー・ピーセズはトランペット奏者、リンカーン・ロスを中心に結成されたソウル系のジャズグループ。



「The April Fools」はときおり聴きたくなる大好きなお気に入り曲のひとつです。邦題は「幸せはパリで」で、これは同名の映画のサントラとして作られた曲です。天才的メロディーメーカー、バート・バカラックの屈指の名曲のひとつですね。パーシーフェイス・オーケストラのバージョンを最初に聴いて惚れ込んでしまった曲ですが、このディオンヌ・ワーウィックのバージョンも素敵ですね。そういえば、YMOの高橋幸宏さんのソロアルバムで「薔薇色の明日」が一番好きですが、このアルバムにこの曲を歌うユキヒロさんのカバーが収録されてます。こちらも絶品です。

バカラックとディオンヌ・ワーウィックの最強コンビによる70年代の大ヒット曲、邦題は「恋よ、さようなら」です。バカラックがハル・デヴィッドと共にミュージカル『プロミセス・プロミセス』用に書いた曲のようですね。歌詞の内容は、「恋は苦しい、だから恋をしないと決めたのに、恋をしないというのもまたそれはそれで苦しい。」という感じの思春期にありがちな乙女心を歌っていますが、まぁ、恋に限らず、人生は不条理の連続で、後になって思うと、苦しみというのは、それを乗り越え、同じ苦しみにもがく他者に共感出来る心を育ててくれる魂の糧でもあります。とある禅師も言っていたように、苦しみに対しては、下手に逃げようとしたり恐れたりせずに、人生において避けることのできない必然的な要素であることを理解して、あえて諦観して苦しみと正面から向き合うと、意外と思ったほど苦しくなかったりする、という話だった気がしますが、これは体験上本当だと思います。苦しみの7割8割は実際に苦しみを体験する前の脳内の想像が生み出す不安や恐怖であり、苦しいと思っていた実際の事柄自体は(苦しいことは苦しくとも)意外とそんなでもない場合が多いですね。件の禅師は誰だったか調べてみたら、あの一休さんでした。「有漏路(うろじ)より 無漏路(むろじ)へ帰る 一休み 雨ふらば降れ 風ふかば吹け」という一休さんの句があります。人生というのは生と死の狭間の休憩所であり、また、迷いの世界から迷いのない悟りの世界へ向かう旅路である。そして苦しみというのは苦しみを乗り越えれる自分を造るために人生に必然的に起こるテストのようなものだ。逃げずに苦しみが来るなら来るにまかせておけ、それは思うほどたいしたことじゃない。といった意味です。

こちらもディオンヌ・ワーウィックのお気に入り曲で、邦題は「あなたに祈りをこめて」です。この曲もバカラックとハル・デヴィッドのコンビの作品で、1967年にディオンヌ・ワーウィックにより録音されて大ヒットしたようです。アレサ・フランクリンもカバーしていて、アレサのバージョンはR&Bテイストのソウルフルな感じですね。アレサの他にもいろんなアーティストにカバーされていますが、中でもお気に入りなのはエキゾチカの筆頭、マーティン・デニーによるカバー(アルバム「Exotic Love」に収録)で、レトロでサイケなモンド感あふれるインスト曲です。
歌詞は、一日中いつでも恋人への想いを抱いて生活している女性の気持ちを歌った、ある意味ありふれた恋愛の詩のようですが、実は、この主人公の女性の想い人はベトナム戦争で出兵した男性で、彼の無事を祈っているという裏設定(注)があるようです。軽い歌詞のようで意外と重い、というか深いですね〜

(注)wikiによると音楽ライターのセレーヌ・ドミニクによるバカラックの研究本『Burt Bacharach Song by Song(英語、ペーパーバック、2003年刊) 』に書かれている逸話のようです。

これもディオンヌ・ワーウィックの代表曲のひとつ、ハル・デヴィッド作詞、バート・バカラック作曲の名曲です。メランコリックでしっとりしたムーディーな曲ですね。



「You're No Good」、すごくカッコイイ曲ですね〜 1963年の曲で何人ものアーティストにカバーされている名曲のようで、最初に聴いたのは別のシンガーのバージョンでしたが、このディー・ディー・ワーウィックのバージョンが一番カッコイイですね。クリント・バラード・ジュニアによって書かれた曲で、調べてみると、この曲を最初に歌ったのが彼女のようです。ディー・ディー・ワーウィックはアメリカのソウルシンガーで、ワーウィックの名前にもしやと思って調べてみると、案の定、あの名シンガー、ディオンヌ・ワーウィックの妹とのことでした。しかもホイットニー・ヒューストンの従妹でもあるようで、一見恵まれた幸福な環境のように思えますが、実際はホイットニー・ヒューストンとはプライベートな部分で根深い確執があったようです。また、持病の糖尿病によって健康を害していたこともあり姉のディオンヌに看取られて66歳で亡くなっています。(ちなみに姉のディオンヌ・ワーウィックは2022年現在81歳でご健在です)彼女の深みのある歌唱の背景には、たしかに深みを与えるだけの人生の苦悩があったようです。

引き続きディー・ディー・ワーウィックの曲です。エモーショナルで気持ちいい曲ですね〜





邦題は「愛の歴史」。ミシェル・フーゲンはフランスの歌手兼作曲家。日本のコーラスグループ、サーカスによる70年代のヒット曲「Mr.サマータイム」はこの曲の日本語カバーです。原田知世もオリジナルのフランス語歌詞をアルバム「Egg Shell」の中でアヴァンギャルドなアレンジでカバーしてましたね。



ジプシー・キングスによるイーグルスの名曲「ホテル・カリフォルニア」のフラメンコなカバー。「ホテル・カリフォルニア」は名曲だけあってカバーも多いですが、このジプシー・キングスのカバーも情熱的でエモーショナルな感じがイイですね〜 ボブ・マーリーのレゲエな感じのカバーも好きです。



レトロな癒しの異空間が広がるような感じの気持ちいい曲ですね。ウラジミールコスマはルーマニアの作曲家、指揮者、ヴァイオリニスト。



陽気なラテンのノリが気持ちいいですね。イーディ・ゴーメは、アメリカのポップス・シンガー。邦題は「恋はボサノバ」、1963年に大ヒットしたようです。

(2022/10/19追記)
イーディー・ゴーメといえばこの曲を忘れてました。ラテンな感じのカッコイイ曲ですね。この曲はブラジルのジャルマ・フェヘイラ(Djalma Ferreira)が1959年に作曲したボサノヴァ「Recado」の英語カバーで、日本でも80年代にCMに使われたりしたようで、聞き覚えのある方も多いと思います。

イーディー・ゴーメの「The Gift」の元になった曲「Recado」は、ブラジルのギタリスト、ラウリンド・アルメイダ(Laurindo Almeida)もカバーしていて、こちらもジャンゴ・ラインハルト感のある気持ちいい逸品です。そして、この曲の出だしのモンド感のあるいい感じのフレーズ!このフレーズはヒップホップグループ、サウンド・プロバイダーズの「Place To Be」(2006年)という曲(下記リンク参照)のサンプリングのネタ元ですね。この曲もすごく好きな曲です。

上記、ラウリンド・アルメイダの「Recado」カバー曲からサンプリングしたフレーズをお洒落にアレンジしててかっこいいですね。サウンド・プロバイダーズは好きなグループで、彼らの出した三枚のアルバム全てCDで持ってますが、2006年以降は活動を休止しているのか新作の噂を聞きません。気になりますね〜 ちなみに曲は2006年のサードアルバム「True Indeed」に収録されています。
(追記おわり)



ボブ・ディランの『ノッキン・オン・ヘヴンズ・ドア』です。昔深夜テレビで遠藤ミチロウさんがギター一本でこの歌をオリジナルの日本語歌詞にアレンジして熱唱してたのがきっかけで原曲が気になり、ボブ・ディランの原曲が収録されているアルバム(映画『ビリー・ザ・キッド/21才の生涯』のサントラ)を買った覚えがあります。ミチロウさんバージョンはヘビーな暗黒パンクな感じの歌詞にアレンジしてましたが、ボブ・ディランの原曲のほうの歌詞はベトナム戦争を憂う反戦歌です。ミチロウさんが『ノッキン・オン・ヘヴンズ・ドア』を熱唱していた件の深夜番組は90年代初頭の『詩人ナイト』と銘打った特番(テレ朝だったかフジだったか失念)で、どこから見つけてきたのかキャラの濃い素人詩人達が自作の詩を魂を込めて朗読し、それをミチロウさんをはじめリポーターの東海林のり子さんなど数人の審査員が評価をくだして最後に優勝者を決める、という感じの番組でした。出演した素人詩人の中にはドリアン助川率いる結成したばかりで無名だった時期の「叫ぶ詩人の会」もいてインパクトのある番組でした。



以前にもチョイスしましたが、反戦歌繋がりでサイモン&ガーファンクルの『スカボロー・フェア』です。反戦歌といえば、この曲も印象深いですね。といってもイデオロギー色を前面に出さずにポエティックに表現しているので、難しいことを考えずとも雰囲気に浸れる名曲ですね。美しい旋律のイギリスの伝統民謡をベースに、ポール・サイモンの反戦の詩が輪唱のように重なるところが奥深いです。この曲もベトナム戦争への憂いを歌っていて「すでに目的を忘れた戦争のために兵士たちは戦う」というような厭世的な反戦の詩も魅力的ですが、ベースになっている民謡の詩も不思議なテイストでユニークですね。遠くにいる恋人に「針を使わずに縫い目の無いシャツを作って欲しい」と不可能なことを注文するような歌詞、それに続けて「パセリ、セージ、ローズマリー、タイム」と、ハーブの名前を呪文のように羅列する奇妙な構成が謎めいています。できないことをかつての恋人に頼むくだりは、もう心が離れてしまって恋人に戻ることは無理だということを遠回しに伝えているのでしょうか。ハーブの羅列は、魔除けの意味があり、強い香りを嫌う魔物を祓うためのもの、という説もあるようです。

タグ:音楽 洋楽
posted by 八竹彗月 at 11:17| Comment(0) | 音楽

2022年08月13日

螢石・魅惑の立方体

蛍石(ほたるいし)の名前の由来は加熱すると発光し、割れてはじける様子がまるで蛍のようだということのようです。また常温でも稀に紫外線を当てると発光するものもあり、これは不純物として含んだ希土類元素によるものです。紫外線で蛍光する石というと蛍石以外にもアダム鉱、カルサイト、玉滴石、オパール、石膏、ベニト石、ジルコン、などがあり、こうした蛍光鉱物にブラックライトを当てると光ります。蛍光とかの面白い性質をもったものも鉱物の魅力のひとつですね。

蛍石の英名はFluorite(フローライト)で、これは蛍石が製鉄などで鉱石を流動化する溶剤として使われてきたために「流れる」を意味するラテン語「fluo」が由来になっている名称のようです。そういう点では和名の蛍石のほうがロマンチックで情緒を感じる名前で、この石の魅力をいっそう引き立てているようにも感じますね。

そういえば、ゲーム『街』での「馬肉」についてのTIPSで、「(馬肉は)色が桜色なので、桜肉ともいう。ちなみに、猪の肉のことを牡丹(ぼたん)、鹿の肉のことを紅葉(もみじ)ともいう。生臭い肉に花の名前を付けるなんて・・・日本語って美しい。」※1というものがあったのを思い出します。無機物である鉱物にも、蛍石をはじめ、天青石とか銀星石や孔雀石などポエティックな和名が付けられているものがあり、こういう名前の魅力もまた鉱物に惹かれるきっかけになったりしますね。

※1 「馬肉」についてのTIPS
このTIPSが出てくるのはゲーム『街』の馬部編のバッドエンドのテキストです。たしか盗品の宝石の換金のために馬部が三次の替わりにヤクザに大阪に連れていかれて、そのままその資金で大阪で馬肉料理店を開業して成功するというエンドだった気がします。このバッドエンドのBGMがなぜか「かまいたちの夜」の香山さんのテーマなのも笑えます。

ということで、今回は鉱物コレクションの中から蛍石の一部を適当に選んで撮った写真を並べてみました。



220813_Fluorite.pngミントグリーンの涼し気な蛍石

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複雑にからみあったキューブの集合体。まさに自然の生み出すアートですね。


220813_Fluorite.pngレモンイエローの可愛い蛍石

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モロッコ産。レモンイエローの蛍石とピンクの重晶石とのコンビネーションが可愛いです。



220813_Fluorite.pngブルーグリーンの端正な蛍石

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中国産。蛍石の立方体の結晶がきれいに出ています。



220813_Fluorite.png透明感のある淡い緑の蛍石

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鉱物の結晶は、眺めていると異世界の造形物のように見えてきて、SF的な空想がふくらみます。




posted by 八竹彗月 at 03:59| Comment(0) | 鉱物

2022年07月31日

「ひぐらしのなく頃に」の話

先日「ひぐらしのなく頃に」の外伝、漫画「蛍火の灯る頃に」を読んだ勢いで、ひぐらし熱がぶりかえしてきたので、今回は筆に任せてひぐらし関連の話を綴ってみようと思います。

220731_higu.png「ひぐらしのなく頃に」

竜騎士07さんの出世作「ひぐらしのなく頃に」。今も根強い人気作品ですが、最初はコミケで細々と売られていたノベルゲームが、あれよあれよという間に全国的なヒット作品へと成長していく様は、ジャパニーズドリーム的な華やかさを感じますね。ひぐらしの成功は、日本の同人、一般のマニア層のレベルが商業作品に匹敵するレベルに到達したことの証左ですね。その後間もなくして2chの書き込みが映画(電車男)やCD(のま猫)や漫画(師匠シリーズ)になったりする時代になり、今やネット発祥のヒット曲や漫画なども珍しくなくなった感があります。

「ひぐらしのなく頃に」出題編となる前半の数編は、連続怪死事件の謎を追うミステリーもののようなシナリオであることや、当時の「正解率1%」などの煽り文句での宣伝もあって、推理ものという前提で作品を手に取り、謎解きに真面目に取り組みながらストーリーを追っていた人も多かったせいか、解決編での展開に当時はかなり賛否両論あった気がします。私は細かい整合性よりも面白ければそれが正義だと思ってますので、むしろあの展開でいっそうひぐらしが好きになりました。前半はホラー展開する場面が多いですが、後半の解決編では、村のラスボスお魎を説き伏せて村が一丸となって沙都子を救出するシーンなど、ぐっとくる熱いシーンが多くなっていき、登場キャラたちの魅力が増していく快感に浸っているうちに、あれだけ超長編だと思ってたひぐらしがあっという間に終わってしまい、読後はしばらく雛見沢村が自分のもうひとつの故郷になってしまったかのような郷愁を感じたのでした。

ストーリーが寒村の秘められた風習、みたいな民族学的な雰囲気があり、諸星大二郎ファンの私としてはそういう面でも惹き込まれました。日本から取り残されたいわくありげな寒村で起きる奇妙な事件、という伝奇ロマンな雰囲気はとても好みです。気になるのは、ホラー的な緊張した空気を和らげるためか、「部活」のシーンがかなり冗長に描かれるところくらいでしょうか。まぁ、そうしたおちゃらけ展開から一気に空気が変わる緩急具合もまたひぐらしの魅力でもありますから、作品的には必要な要素なのでしょう。すっかり今ではグロい描写や痛そうなシーンなどは苦手になってしまって、猟奇的なシーンは飛ばしながら見るようになってしまいましたが、作品自体は魅力的なので今でもたまに好きな編をアニメや実況動画などで繰り返し見たりもします。陰鬱で怖い場面の多い出題編とうってかわって解決編の「ひぐらしのなく頃に・解」では爽快なシーンが増えていくので、そうした部分も魅力が尽きないですね。

実は本編よりも外伝的な漫画「ひぐらしのなく頃に 宵越し編」のほうを先に読んでいて、それがきっかけで本編に興味をもってPS2版の「ひぐらしのなく頃に・祭・カケラ遊び」をプレイしました。その後アニメ版も見て、ますますその作品世界にどっぷりとハマることになりました。原作での最後のエピソード「祭囃し編」はゲーム版では少し違った展開をする「澪尽し編」になっていますが、個人的にはラストエピソードは原作かアニメ版のほうが好みです。ひぐらし関連の音楽もいい曲が多く、個人的にはアニメ版の「ひぐらしのなく頃に・解」のED曲「対象a」がとても好きです。

続編、というかキャラも舞台も一新した別作品「うみねこのなく頃に」も大好きで、推理が論理学的なややこしさがあるもののキャラがみんな魅力的なのでグイグイ惹き込まれます。ひぐらしよりもさらに濃い世界観が展開されて面白かったです。縁寿と真理亞のエピソードが印象深く好きです。魔法とはどういうものか?というのを正面から描いているところがいいですね。うみねこで描かれる魔法は、アニメの魔女っ子のような万能のファンタジックなものではなく、魔法には魔法なりの法則があり、物理法則と同じように力の発動には条件や縛りがあるものとして描いており、これはほぼ実際の魔術と同じでリアル感がありました。縁寿が学園生活でつらい目に遭いながら霊的な存在である七杭の姉妹を心の拠り所にして交流し、やがて決裂するエピソードでは、霊的な世界の法則がリアルに描かれていてわくわくしました。


220731_higu.png茶風林さんと声優の話

ひぐらしキャラでは大石刑事が一番好きということもあり、一番好きなエピソードは「暇潰し編」です。圭一が雛見沢村に引っ越してくる以前の番外編的なエピソードなので、登場する部活メンバーは梨花ちゃんのみです。物語はベテラン刑事の大石と公安の新人警察官だった頃の赤坂がメインで活躍するオヤジ回で、ダム推進派の政治家の孫の誘拐をめぐる事件をベースに、しっかりまとまった構成になっていて、とても好きなエピソードです。梨花ちゃんが赤坂にむかって未来に起こる数々の事件を予言をするシーンは圧巻でしたね。大石が赤坂を怒鳴りつけて発奮させるラストのシーンもシビれました。「暇潰し編」では他の出題編と比べてグロい残酷表現がほとんどないので、そういう点でも安心して楽しめるのも魅力です。麻雀はやったことがないので、麻雀のシーンは理解不能なセリフが多かったです。しかし麻雀シーンは能條純一先生の「哭きの竜」をパロった展開ということもあって、麻雀を知らなくても能條節でクールに豹変する赤坂がけっこう面白かったです。

アニメやゲーム版で大石に声を当てている声優、茶風林さんもこの作品の影響もあって大好きになりました。滝口順平さんや雨森雅司さんや野沢那智さんなど、異世界の住人のような非日常感のある、それでいてどこか懐かしく、奥深いヒーリング感のある独特の声質の声優さんが大好きです。茶風林さんもそうした芸術的な声の持ち主ですね。(調べてみると学生時代に滝口順平さんの歌舞伎の演目を収録したカセットテープを手本に滑舌を訓練していたそうです。声の感じが似てるのはそういうことだったのか!と合点がいきました。滝口さんご本人とも縁が深かったようで、生前から役の引き継ぎもあったようです)

茶風林さんはコナンの目暮警部とかちびまる子ちゃんの永沢くんとか、ワキを固める個性的な役に声を当てているイメージの方ですが、ひぐらしはかなり長丁場のストーリーなので、茶風林さんの大石の演技もたっぷり贅沢に聴けて楽しめます。大石刑事の演技によって、茶風林さんが単に個性的な声の声優さんというだけではなく、そうとうに高度な演技力をもつ実力派であることに気付かされました。ちなみに茶風林の芸名の由来はチャップリンからだそうですね。茶、風、林、と、当て字の漢字もいい具合に千利休的な風情があって、当て字の完成度も「エドガー・アラン・ポー/江戸川乱歩」レベルの完璧さを感じます。

昨今なぜか盛り上がっているFF10のワッカの声の中井和哉さんもいい声してますね。中井さんは「サムライチャンプルー」でファンになりました。個人的に理想のカッコイイ声の代表格のような感じです。声優関連では、なぜか可愛い少女声よりも、味のある渋いオヤジ声に惹かれるところがあります。

なんだかさほど詳しいわけでもないのに声優談義に話が逸れそうになってきましたが、つまり声優の方々に関心が芽生えたきっかけが「ひぐらしのなく頃に」だったのでした。大石役の茶風林さんをはじめ、魅音詩音の二役を演じきったゆきのさつきさん、鷹野役の伊藤美紀さんの素晴らしい声の演技にはどぎもを抜かれました。(そういえばゆきのさつきさんはゲーム「街」で、ゲーマー刑事の桂馬のパートナー役、麻生しおりさん役で出演されてるというのを知って、さらに「街」の再プレイが楽しくなりました)

閑話休題、話を戻しまして、先にも触れたひぐらしにハマるきかっけになった外伝作品である漫画版の「宵越し編」ですが、この作品は雛見沢大災害後のその後を描いたミステリーもので、昭和ではなく平成が舞台です。登場人物はいつもの部活メンバーではなく、この作品ではじめて登場する数人のキャラが物語を動かしていきます。唯一登場する部活メンバーは魅音で、大人になった魅音がサブ的な役回りで彼らを手助けしていく感じです。芥川龍之介の「薮の中」をモチーフにした作品というだけあって、不思議な余韻のある作品になっています。


220731_higu.png「僕だけがいない街」とひぐらし

「僕だけがいない街」(三部けい 2012年 KADOKAWA)、こちらはアニメ版のほうを見ました。主人公の藤沼悟の職業は漫画家。漫画では喰えないために宅配ピザ屋でバイトをしている。というのが序盤です。しかし彼にもひとつ凡庸でない特殊能力があり、それは避けるべきアクシデントが起こる直前の世界に何度もタイムスリップしてしまうというもの。自分で「再上映(リバイバル)」と呼んでいるこの能力、戻った時間の世界でアクシデントの原因を取り除くことが可能になるので、一見とても便利で良さげですが、自分の意志とは関係なく発動する能力なので、実際にはたいして便利ではないようです。逆に、リバイバルによってアクシデントを回避することで、かえって自分に別のマイナスな状況を引き起こすことが多く、主人公・悟はあまりこの能力が備わっている事を快く思っていません。

このやっかいな能力によって結果的に母親殺しの冤罪をかけられてしまうハメになるのですが、主人公は自分の潔白の証明のために結局はまたリバイバルの力を借りることになります。無駄のないスリリングな展開で飽きさせず、犯人探しの謎解きのミステリー要素が秀逸で面白かったです。また、友情あり、恋愛あり、そして人生とは何か?という深いテーマまで感じさせる素晴らしい作品でした。傷つくのを恐れて人と深く関わろうとせず、いつも付かず離れずの浅い人間関係だけで生きてきた主人公が、事件をきっかけに人や社会と正面から深くかかわらざるをえなくなり、それによって得難い人生の価値を見いだしていきます。事件が真相に近づくのと歩調を合わせて、主人公自身も人間的に成長していく感じがよかったですね。

この作品は「ひぐらしのなく頃に」のオマージュがいくつも散りばめられており、それを探すのももうひとつの楽しみです。「ひぐらしのなく頃に」でで描かれたいくつかのシーン、クラスメートを家庭内暴力から救うために児童相談所に相談するとか、廃棄されたバスが子供たちの秘密基地的に使われるところなどは、「祟殺し編」や「皆殺し編」を思わせるシチュエーションですね。「僕だけがいない街」は、主人公の名前が悟で、その母親が佐知子ですが、「ひぐらしのなく頃に」の沙都子と悟史を連想させる名前ですね。ヒロインの雛月加代も雛見沢村の「雛」つながりを匂わせます。ループ的な仕掛けもひぐらし感がありますね。全体的に見ればオリジナルの部分がメインで展開していきますし、本筋は謎解きミステリーなので、シナリオの感じはいうほど似てるわけではなく、逆にあえてそういうひぐらしオマージュに気付かせて楽しませるのを意図してるようにもみえます。そもそもひぐらしも「かまいたちの夜」のオマージュ(フリーのカメラマンの美樹本/富竹など)がありますし。

全体の雰囲気は、ひぐらしよりも「テセウスの船」(東元俊哉 2017年 講談社)のような雰囲気ですね。「テセウスの船」も過去を修正することによって運命を変えようとする話で、こちらもとても面白かったですね。

メモ参考サイト


220731_higu.png「ひぐらしのなく頃に」と数字の謎

「ひぐらしのなく頃に」はいろいろと語りたいことが多い作品ですが、ここで焦点を当てて話してみたいのは、この作品におけるアナグラム的な仕掛け、主に「数字」に関する部分です。雛見沢症候群の研究者だった高野一二三(ひふみ)、その研究を引き継ぐことになる鷹野三四(みよ)、三四の本名は田無美代子ですが、尊敬する一二三の研究を継ぐものとして、123の後を続けて34を名乗るという設定や、その研究の末に開発した雛見沢症候群を強制的に発症させる劇薬「H173」もH(雛見沢の頭文字)と173(ひなみ)の組み合わせだったりなど、数字の語呂を意識したネーミングがちらほら現われるのに気づきます。そうした事を考えながらひぐらしを振り返って見ていたら、他にもいくつか気になる数字に関する仕掛けが気になったので、忘備録代わりに記事にしてみました。

まず、鷹野三四と富竹ジロウとの関係ですが、数字にすると34(三四)と26(ジロウ)です。富竹の想い人、鷹野三四(34)は、本名のほうは美代子なので345(みよこ)とすると、つまり富竹の2と6の間にスッポリ収まる数字(23456)になります。高野一二三(123)を次ぐ者としての偽名34と、富竹と相性のよさげな本名の345。三四は悪魔のような存在でしたが、素顔の美代子は夢見がちな無垢な存在でありました。鷹野が34のままだと富竹の26との間に5という隙間ができてしまいますが、美代子(245)ならキッチリ収まるというところが意味深なものを感じます。三四には五(悟)が足りないわけですね。

あとは部活のメインメンバーのひとり沙都子と悟史です。数字にすると沙都子(さとこ、3と5)、悟史(さとし、3と4)です。妹の方が数字が大きいのは、皆殺し編で、「あなたを守ろうとした悟史の強さを知り、それを受け継いで強くなりなさい」という梨花の説得で沙都子は「鉄平が雛見沢に戻ってくると沙都子が壊れる」という頑丈な運命の袋小路≠フひとつを打ち砕くことになります。結果的に沙都子は悟史の精神を受け継ぐ可能性を秘めたキャラなので「+1」なのかな、となんとなく思いました。

沙都子の兄、悟史ですが、フルネームは北条悟史です。悟史(3と4)、足すと7で、北にある7というと、北斗七星が思い浮かびます。古代中国では北斗七星は北極星を守護する星座ですから、影から見守ってる感じの悟史のキャラを象徴しているようにもみえます。悟史がいなければ詩音の活躍は良くも悪くも物語に影響を与えなかったでしょうし、悟史のバットは初回の鬼隠し編から強烈なキーアイテムとして登場します。出番は少ないもの、悟史はけっこう物語をささえる重要キャラですね。

物語の最大のキーパーソンは鷹野三四ですが、この三四(34)という数字はけっこう重要なものであるのか、至る所に見つかりますね。例えば、沙都子と詩音は惨劇に至るほどの最悪のペアだったものが、最後は実の姉妹以上の絆で結びつきます。沙都子と詩音、頭の数字を並べると3(沙)と4(詩)です。主要キャラである園崎姉妹も魅音と詩音で3(魅)と4(詩)です。そして、鷹野とは別の視点でキーパーソンな悟史はそのまんま(悟史=3と4)です。3+4=7ですが、7というと主人公の圭一以上にひぐらしのシンボリックなキャラである竜宮レナ(07)、また作者も竜騎士07氏、そしてサークル名も07th Expansionと、7はひぐらしだけでなく、作者の創作活動全般において重要な数字であり、7を分解した3と4が作中に頻出するのは偶然ではないのでしょう。

作者が意図していたかどうかは別にして、傑作というのは往々にして偶然も味方に付けるパワーがあるものですし、そのような意図しないシンクロまで含めて「作品」であるように思ってます。

数字以外にも園崎の「園」はカコミ部分が身体を覆う皮膚の暗喩でその中に臓器が入っている文字で「崎」は「裂き」で、腹を「裂く」綿流しの儀式を司る家系であることを示しているとか、園崎家の直系の名前には「鬼」の付く字が使われるとか、御三家のひとつ公由家の名字は「鬼」を分解した文字(鬼=ハ+ム+由)であるとか、古手家の「古」という字は「占」という字に羽入(鬼)が交わって角が加わり「古」という字になったとか、パズル的な細かい設定があり、そうした細部へのこだわりも印象深い世界観を構築してますね。先に意味を考えてから名付けたのか、名付けてからその意味に気付いたのか気になりますが、創作って往々にして、作者自身にも見えなかった伏線に後々気付くという現象がよく起きますから、後者の可能性もありそうですね。


220731_higu.png「蛍火の灯る頃に」と「蜜の島」

「ひぐらしのなく頃に」は大ヒットしただけあって、映画、アニメ、漫画などメディアミックス展開して、外伝的な作品や後継的な作品も多数ありますが、後継作品にはグロ表現がさらにキツくなったりしてるらしいというのもあり、シリーズ新作の「業」と「卒」もちょっと気になっていますが、まだ未見です。本編以外で触れたことがあるのは先の「宵越し編」くらいでした。そんな中、先日読んだ漫画「蛍火の灯る頃に」はなかなか面白い作品でした。

漫画「蛍火の灯る頃に」(竜騎士07・作、小池ノクト・画)を読もうと思ったのはひぐらし関連からの興味ではなく、別の小池ノクトさんの作品、「蜜の島」に感銘を受けたことがきかっけです。「蜜の島」がとても面白かったので、小池さんの他の作品への興味から「蛍火の〜」を手に取りました。「蜜の島」は戦後間もない日本を舞台に、隔絶した謎の島で起こる猟奇事件をめぐる伝奇ミステリーです。事件の謎解きや島の真相などを全4巻で無駄なくまとめあげていて、後半は若干急ぎ足のような感はあるものの、全体としてかなり良質な作品に仕上がっています。諸星大二郎の妖怪ハンターやマッドメンが好きな人はハマるのではないでしょうか。

話が逸れましたが、「蛍火の灯る頃に」はそうした経緯で手に取ったわけです。「蛍火の灯る頃に」は、過疎化した村に、祖母の葬式で帰省した主人公とその親族がまきこまれる怪異を描いた物語です。こちらも宵越し編と同じように、時代は平成で、部活メンバーではなく新規のキャラがメインのお話になります。舞台は雛見沢村ではなく平坂村となってます。民族学とか日本神話に興味のある人はこの村の名前でピンとくると思いますが・・・・まぁ、だいたい予想通りです。しかし、そのあたりのネタは早い段階で解明されて、サバイバルのスリルがメインになってきますのでそれ自体はとくに問題はありません。

序盤で描かれる二つの太陽の異変など、思わせぶりなツカミの秀逸なアイデアはさすが竜騎士さんだなぁ、とうならされます。こういう印象的なツカミがあると一気に物語に惹き込まれますね。作り手の視点で考えると、ミステリーものにおいては往々にして序盤は状況説明やキャラ紹介といった地味なシーンが続きがちになるので、そこを退屈させないようにするためのインパクトのあるツカミを最初のほうにもってくるのはかなり重要な要素だと感じました。

キャラも新規ということもあり、途中までひぐらしとの関連はなさそうに思っていると、登場人物たちをサポートする役回りであの鷹野三四さんがいいタイミングで現れます。お子様ランチの国旗がはいった蒐集箱とか、ひぐらしファンをニヤリとさせるシーンがところどころ出てきます。寒村の怪し気な風習や伝説に目が無い鷹野さん、雛見沢村の次に目をつけたのが今回の村だったのでしょう。

一癖も二癖もありそうな親族が田舎に集結する話というと「うみねこのなく頃に」を思い出しますが、ああいった感じの話にはならず、こちらは霧に覆われ異界と化した村で鬼≠ゥら逃げながら食料を確保するサバイバルがテーマになっています。章のつなぎに実用的なサバイバル術を解説するコラムが挿入されていて、そうした雑学もいい感じに物語と相乗効果でサバイバルのリアル感を高めていてよかったです。

孤立した空間で複数の人間が集まる場面では、必ずワガママを言い出す人物が出てきて状況をかき乱したりするのは定番ですね。大変な状況のときにかぎって面倒くさいことを言い出したりするキャラが必ず現れるというアレです。現実では迷惑千万ですが、物語においては話をややこしくさせるキャラがいないと話に起伏ができないのでしかたありません。しかしまぁ、こういう極限状況に自分が置かれたら、冷静を保っていられるのかどうかは、そうなってみないとわからないもので、あながちそういう面倒くさい人間に自分がならないとも限りませんね。そのようなシーンを読んでいると、自分だったら利他的に振る舞えるのか、それとも利己的に振る舞ってしまうのだろうか、とふと考えてしまいます。

この作品の舞台は霧の村ということで、サイレント・ヒルやスティーブン・キングの「ミスト」などを彷彿とさせる雰囲気がありますね。この村の真相を暴き、村から脱出するのが主人公たちの主なミッションで、謎解き的な要素もサスペンスを盛り上げていて面白かったです。こういう都市伝説的なミステリーの独特の異世界感ってドキドキしつつも、この世界とは違う別の世界というのはどこか冒険譚のようなワクワク感もあって興味を惹かれますね。いわくありげな村の謎というと奇しくも「蜜の島」もそういうところがある物語です。後から考えてみると、偶然だと思いますが「蜜の島」(2013年刊)での島の謎と、「蛍火〜」(2016年刊)の平坂村の謎とは日本神話関連の共通したモチーフが見受けられます。「蛍火〜」のほうは絵は小池さんですが原作は竜騎士さんで別ですし、多分たまたまかぶったのでしょう。作品を手に取った順序になんとなく個人的にシンクロニシティを感じました。


posted by 八竹彗月 at 16:17| Comment(0) | ゲーム

2022年06月10日

カタリ派の話など

220610_yunomi.pngカタリ派の話など

なにげなく中村元先生の動画を見ていたら、「キリスト教の原罪の概念に相当するのは仏教では無明(真理を知らない愚かな状態のこと)≠ナある」という指摘をしていて、なるほど!と思いました。たしかに仏教の無明も生まれながらにして人間が抱えている克服すべき課題ですよね。しかしながら当然そのニュアンスの違いや微妙な意味の違いはあるわけで、中村先生は続けて、そこに東西の「罪」の概念の違いを話されてました。「殺すなかれ」という教えは東西を問わずほとんどの宗教に通じる教えですが、西洋の宗教における「殺すなかれ」の戒めは主に人間を殺してはいけないという意味で受けとられているのに対して、東洋では鳥や獣など、果ては草木や大地まで、その「殺してはならないもの」の範囲が広いと指摘しています。東西の宗教、つまり仏教とキリスト教を指して対比していることは明白ですが、たしかに、そういう部分はありますね。だからといって、東洋の考えの方が優れているという話にはならず、動物保護思想のあり方などを見ると、西洋の方が進んでいたりする面もあり、単純に優劣をつけないところが中村先生的でいいなぁ、と思いました。たしかに、よく論争のネタになる動物愛護問題、とくに捕鯨問題とか、双方に言い分はあるにせよ、西洋人が人間のみに憐れみを感じるとはいえない側面も多々ありますね。東西にかかわらず人類に共通して万物に対する慈悲心というものはちゃんとあって、そのうえで、その慈悲の表現に東西の文化の違いが出てくる、というようなニュアンスで話されていて、そういう視点もまた仏教的なものを感じました。

西洋にも人間以外に動物一般の殺生も禁じていた宗派があり、中村先生は一例として「カタリ派」を挙げていました。なんとなく名前は覚えていたものの、どんな宗教なのか知らなかったので、いい機会なので調べてみました。するとけっこう面白い思想を持った集団だったみたいで、がぜん興味がわいてきました。カタリ派とは、10世紀頃にヨーロッパで広まっていたキリスト教色を帯びた宗教運動です。思想的にはキリスト教(新約聖書)を聖典とした思想集団ですが、その解釈は独自のもので、同時代にカトリック教会に異端と認定されていたグノーシス主義と通じる傾向もみられることから、カタリ派もまた異端思想としてカトリック教会から厳しく批判され、やがてグノーシス主義と同じように弾圧されて歴史から消されていきます。グノーシス主義もそうですが、カタリ派もまた歴史から消された思想なので、残っている文献は主にかれらを糾弾する側が記述したものばかりで、現在では彼らがその時代にどのように生活して社会の中でどのようなふるまいをしていたか、などの側面は、当然、偏見によって否定的に記述された姿でしか知ることはできないようです。グノーシス主義もカタリ派も、ある意味、当時の腐敗しきってしまっていた教会への不満に対するカウンターカルチャーとして生まれたようなところもあると思われますし、事実、カタリ派の司祭らはカトリックよりも禁欲的な生活をしていたようです。カタリ派は、カトリック教会における権威主義や幼児の洗礼、三位一体説、免罪符などに否定的だったこともあり、当時の教会としては苦々しい存在だったのだろうな、と察します。

異端審問も狂気じみたところもあったようで、中村先生が言及していたエピソードによると、カタリ派と疑わしき人が捕らえられたら生きているニワトリを持ってきて彼に殺させようとしたようです、もし殺せたら「彼は正統なクリスチャンだ」として解放されましたが、もし殺せなかったり、可哀想だと殺すことに躊躇したりしたら「お前は異端のカタリ派だな!」ということになって火あぶりの刑に処せられた、ということがあったそうです。なんともムチャクチャですが、当時の教会の腐敗はそこまでひどかったということでしょう。

ヨーロッパの黒歴史として有名な魔女狩りはこの500年後くらいに起きますから、魔女狩りをおこすような心の闇は下地としてけっこう前からあったんでしょうね。こうした宗教思想の闇の歴史は現代でも尾をひいていて、「宗教は人を幸福にするどころかむしろ不幸にするものだ」という宗教不信の理由のひとつとしてよく挙げられますね。実際は、当時のカトリックがイエスの教えを逸脱して腐敗した権威主義に堕落してしまったのが原因であり、それはもはや宗教でもキリスト教でもないものだと思います。クリスチャンであったり司祭であったりするだけでイエスの教えをちゃんと体現できるというわけではないですし、中村先生ご自身も、多少の謙遜もあるのだと思いますが、自分自身何十年たっても仏教の教えの通りに自らを律するのは難しいし理想にはほど遠い(注)とおっしゃってます。信仰のあるなしに関わらず、立派な人は立派ですし、そうでない人はそうでないのだと思います。結局、理想の自分なり、幸福な人生なりを求めて生きようとする時に、宗教が助けになるならば信仰すれば良いし、そうでないなら、別のもの、哲学でも、科学でも、映画でもなんでも、役に立ちそうに思えるものを取り入れていけば良いのだと思います。

(注)仏教の教えの通りに自らを律するのは難しい〜
仏教をはじめとする東洋哲学研究の第一人者であった中村元(1912〜1999)ですが、仏教をただ学問の対象として研究していただけでなく、ブッダに対する尊敬の念も深く、学者であると同時に真の宗教者でもあったことをうかがわせるエピソードも多いですね。中村先生のお人柄を感じさせる有名なエピソードに、『仏教語大辞典』の原稿紛失事件があります。中村先生が20年の歳月をかけて執筆した2〜3万枚ともいわれる膨大な原稿を、あろうことかそれを受け取った出版社が紛失してしまったそうです。大量の原稿が入った箱をゴミと勘違いして捨ててしまったようで、激怒されてもおかしくないこの失策に対し、中村先生は「怒って原稿が出てくるわけでもないでしょう」と冷静に対処し出版社のその大失態を許したそうです。とはいえ、1ヵ月近くはショックで呆然とした日々だったそうですが、気を取り直しその後さらに8年かけて一からまた原稿を書きおろし、完成すると「やり直したおかげで前よりずっといいものになりました」とおっしゃったそうです。まさにブッダの境地をみるようなエピソードで、仏教は学問の対象であるだけでなく、自らも仏教の教えを体現しておられたのでしょうね。

メモ参考サイト

220610_yunomi.png慈悲

あらゆる不幸の原因は利己主義、つまり我(エゴ)にある、というのが仏教の根本にある洞察で、そのエゴの活躍を制御するために慈悲を意識するような教えを説いています。チベット仏教の僧であったチョギャム・トゥルンパは「慈悲とは方向性を持たない、いわば環境としてある寛大さだ」と説明していましたね。完成された慈悲は、それが慈悲を実践しているのだという自覚もなく、環境や事態に対する当然の自分の反射的反応であるように自然に出てくるものとして慈悲があるような、そういう寛容であることが自然で当たり前であるような心の境地が「慈悲」なのでしょうね。

よくネットで目にするお釈迦様の逸話にこういうのがありますね。雑阿含経が出典のエピソードのようですが、あらすじはこんな感じです。
仏教に批判的なある若者がブッダのところにやってきて散々罵詈雑言をあびせたところ、何も反論せず最後まで黙って聞いていました。若者の悪口が一段落するとブッダはこう言います。「悪口を言われて悪口で返し、怒りには怒りで報いたとすれば、それは与えられたものを受け取ったということだ。しかし、その逆に、それをなんとも思わなかったとしたら、それは受け取らなかったということだ。私が受け取らなかったもの(若者の悪口、怒り)は、与えたもの(若者)の元に返るしかない」

イエスの「右の頬を打たれたら左の頬を差し出せ」を思わせるエピソードで、ある意味、暴力を超解釈で我慢しなさいとも誤解されがちなイエスの言葉に対し、このブッダの話は、件のイエスの話の上手な解説にもなっていると思います。悪口に怒るというのは、何の訓練もされていない凡人には当たり前の自然な反応に思えますが、怒りの反応になるのは、そこに我があるからです。我をゼロにするのは困難ですが、思いやりとか慈悲というのは我を制御して我を超えた隣人への共感から生まれる心ですから、我はできるだけ弱めにコントロールしていくのが精神の安定に繋がりそうです。

魔女狩りは、「私の信じているものが正しくて、相手の信じているものは間違いである」という心が引き起こしていますし、あらゆる争いも根本は相手に対する不信と「自分は正しい」というエゴであり、あらゆる不幸な事態は、自分と異なる意見を持つものへの寛容さが足りないところから来ます。要は、昔の名作ドラマ「スクール・ウォーズ」で主人公の滝沢先生の恩師が言っていた「(相手を)信じ、待ち、許してやること」を本当に実践できれば、人生の問題も、世界の問題も一気に解決するでしょう。まぁ、ある意味、そういうことは言われなくても誰でも頭では分っていることではありますが、またしかし、それを実践するのはなかなか難しいものです。だからこの世界から争いが消えず、よって不幸も消えないのでしょう。これは人類に等しく割り当てられた神様からの課題なのでしょうね。


220610_yunomi.png人生の侘び寂びについて

OSHOも言及してましたが、ある意味この宇宙は、完璧でない状態こそが完璧である、というような精妙な真理に基づいて動いているような気がします。もし宇宙が完璧なものしか生み出さないものなら、人間を苦悩する存在として生み出さなかったでしょう。しかし、完璧なものというのは、そこで「終わっている」ので、次がありませんし、変化もしません。なぜなら完璧なのですから。逆に考えると、終わっていて変化もしないものというのは、それゆえにメタ的には完璧でないともいえます。人間の尺度だと完全は不完全よりも高度なもののように感じてしまいますが、宇宙的には微妙に不完全なものが完全を目指して変化していくその動的な姿のほうが完璧性が高いのかもしれません。

よく日本の陶芸では、シンメトリーであるとか、ムラの無く釉薬(うわぐすり)を塗ったりすることを嫌い、あえていびつな形の器にムラのある塗り方をするのが美しいとされているところがあり、子供の頃はそういう美意識がわからず混乱したものです。しかし、そういった味わいを分ってくると、そうしたいびつさの中に見えてくる美になんともいえない心地よさを感じるものです。それは大量生産では敵わない、個性≠愛でる視点であり、たんにいびつなのではなく、熟達した不完全さともいうべき高次元の美を垣間みることの愉悦でもあるわけです。そういった言語化しずらい感覚を千利休は侘び寂び≠ニ呼んだわけですが、こうした微妙な美のあり方も、どこか宇宙的なものを感じてしまう昨今です。

何の障害もない安全で安定した人生を望むのは人情ではありますが、では仮にそういう人生を歩めたとして、はたして人生の最期の時に、何ひとつ問題が起きなかった自分の人生というものに果たして満足できるのだろうか?と想像すると、なんだかそうでもない気がしてきます。人生もまた優れた陶芸作品のように、絶妙ないびつさが味わいを出してくれるような、そんなもののように思います。失敗は避けたい嫌な経験ですが、しかし失敗こそが心を強くし成長させてくれる糧でもあります。魅力的な人というのは、苦労知らずの道を歩んで来た人ではなく、往々にして多くの失敗を経験して乗り越えてきた人だったりします。失敗とか不幸というのは、魂がレベルアップするために通過しなければならないただの要素であって、必要以上に恐れたり嘆いたり避けたりするものでもないのかもしれません。

苦悩の真っ最中にそれを喜ぶというのは難しいことですが、しかしそれでも、我々が苦悩するのは、最初から苦悩しない存在であるよりも幸福なのかもしれません。自分の人生で苦悩があるのは嫌がるものですが、映画や漫画などでは人気の面白い作品ほど主人公は不幸を体験し苦悩していて、それゆえに、そうした境遇から抜け出る爽快感もあるのだと思います。よく目にするオカルティックな思想では、我々は生まれてくる前に自分の人生の設計図を自分で書いて、それを元にチャレンジする内容を決めてから、そのチャレンジに向いた親を選んで生まれてくる、というのがありますね。霊界は精神が優先する世界なので、周囲は自分と似た者が集まりやすく、願いも叶いやすいようで、なかなか骨のあるチャレンジがしにくいらしく、そうした環境で何百年も過ごしていると、また下界(この世)に生まれて不幸、つまり「苦(ドゥッカ。思うようにいかないこと)」を体験したいと思うようになるということです。まぁ、こういう考えはそれこそ信じるも信じないもあなた次第、みたいな世界ですが、この世に「苦」がある理由というのは、何かの不完全性なのではなく、宇宙的な、あるいは神的な視点では、とてつもない何かのメリットがあるから存在しているようにも思えてきます。


メモ参考サイト
posted by 八竹彗月 at 06:28| Comment(0) | 精神世界