2016年09月24日

フレンチポップ集

ふと聴きたくなったレトロなフレンチポップをいくつか選んでみました。

るんるんMichèle Richard「Dou Da Dou」
ロマンチックなスキャットコーラスがムーディーで素敵です。心地よい幻想の異空間に誘(いざな)われるような曲ですね。1971年の曲のようです。60〜70年代の超レアなフレンチポップを集めた2005年発売のコンピレーション「Dou Da Dou (The Unlimited French Lost Catalogue)」で知った曲です。レアなうえに名曲揃いのコンピなのですが、中でもこの曲がとくに好きです。不思議な異世界に連れて行かれるようなムーディーな雰囲気が素晴らしい。

るんるんFrance Gall「Zozoï」
「夢見るシャンソン人形」などで知られるフランスギャルの曲です。主に活躍していたフィリップスからの移籍後の曲だからか、普通のベスト盤には収録されてないレア曲のようです。これも上記のコンピレーション「Dou Da Dou」で知った曲です。ブラジリアンな感じで、ノリノリでカッコイイです。グルーヴ感あふれる演奏とフランス・ギャルの可愛らしい声、気持ちいいナンバーですね。それにしてもZozoiってどんな意味なんでしょうか?

るんるんMaryrene「Cette Fille N Est Rien Pour Lui」
いかにも60年代のフレンチポップらしい感じの曲。シリアスな雰囲気が途中から雲が晴れたように明るい曲調に変わるところがドラマチックで面白いです。

るんるんOlivia「Les Yeux Doux」
1966年のフレンチポップ。お洒落でユーモラスな雰囲気のラブソングです。

るんるんSophie Makhno & Colin Verdier「Obsessions 68」
演劇っぽい感じの不思議な風合いの曲です。ゴダールの映画にありそうな男女の哲学的な会話が歌詞になっていますね。

るんるんCharlotte Gainsbourg「Plus Doux Avec Moi」
るんるんCharlotte Gainsbourg「Ouvertures éclair」
シャルロットとデュエットしているおやじの声はもちろん実の父、巨匠セルジュ・ゲンズブールです。セルジュ・ゲンズブールが女性シンガーをプロデュースすると決まってこのようなセクシーな掠れ声になりますが、こうした個人的な演出のこだわりを貫くところも天才らしいワガママさを感じますね。日本においてもカヒミ・カリイをはじめ、昨今ではdaokoボンジュール鈴木など、ゲンズブール節も時代を超えて引き継がれる歌唱スタイルのひとつになってきている感じがします。

るんるんJane Birkin「Yesterday Yes A Day」
ジェーン・バーキンの1978年のヒット曲。アンニュイな歌唱とアコースティック・ギターの優しく包みこむような音色に癒されます。作詞作曲はセルジュ・ゲンズブール。英語の歌詞ですが、いつものセクシーな歌唱のせいかフレンチポップにしか聴こえないところが面白いです。

るんるんPetula Clark「Dans le temps (Downtown)」
ペトゥラ・クラークの1964年の大ヒット曲「恋のダウンタウン (Downtown)」。英語バージョンが有名ですがこれはフランス語バージョンです。

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posted by イヒ太郎 at 23:19| Comment(0) | 音楽

2016年09月02日

古いブリキ缶

ちょっとした小物入れに昔のお菓子や薬などのブリキ缶などを使ったりしています。実用的な面よりは、部屋にレトロなアクセントを加えてくれる面で活躍してくれています。今回はそうした感じで現役活躍中のブリキ缶のコレクションをいくつかご紹介します。

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「馬印青色ゼンマイ」の缶。蓄音機に使われるゼンマイが入っていた缶のようです。青地に赤いペガサス(天馬)という奇妙な配色がシュール感をいっそう高めています。

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今はとりあえず柘榴石(ガーネット)の原石を入れてます。

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鉱物や化石などを飾っているキャビネットに一緒に置いてみました。

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戦前の「ホドヂン錠」のブリキ缶。虫よけの王≠ニいうキャッチコピーがありますが、以下の広告からわかるとおり、ヤブ蚊などの虫除け剤ではなく、衣類の虫除け剤のようです。

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同上の側面と中。今のところボールペン入れにしてます。

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昭和9年(1934年)の婦人倶楽部の付録の裏表紙に掲載された「ホドヂン錠」の広告。左隅にこの「ホドジン錠」の発売元が書かれていて、「金星商会」とあります。稲垣足穂的な天体ロマンな感じのカッコイイ会社名ですね。

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こちらも戦前の婦人雑誌に掲載れた「ホドヂン錠」の広告。

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ベビーパウダー「シッカロール」の缶。明治39年(1906年)に発売開始された和光堂を代表するロングセラー商品で、パッケージデザインも時代ごとに興味深い変化があってコレクター心をくすぐります。

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同上の側面。中身はそのまんまベビーパウダーを詰め替えて使用しています。

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こちらは紙箱製の「シッカロール」。上の缶とほとんど同じデザインに見えますが、よく見ると婦人の髪型が微妙に異なっています。下記のサイトによればこちらの紙箱は戦前のもので、上のブリキ缶は戦後(昭和20頃)みたいですね。

参考サイト
メモシッカロールの歴史(NTTコム「ニッポン・ロングセラー考 vol.88」)

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森永ミルクキャラメルのお馴染みの伝統的な黄色のデザインですが、ブリキ缶バージョンはちょっと珍しいような気がします。商標登録の文字が逆読みなので戦前のものでしょうね。調べてみたら森永ミルクキャラメルの歴史は明治時代にまで遡るそうで、思ったより古くからある歴史のある商品なんですね〜

参考サイト
メモ森永ミルクキャラメルの歴史

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明治の粉ミルクの缶。少女の絵柄が可愛い。絵の少女の持っているのも同じ缶で、その缶にも同じ少女が描かれ、無限の入れ子構造を想像させます。そうしたちょっとした不思議感も見所です。

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アールデコなデザインの「ビクトリヤ」のブリキ缶。文字が右から左への逆読みでアールデコというと昭和10年前後あたりのものでしょうか。「保温腰衣附」とありますが、どんな商品が入っていたのかちょっと見当がつきません。「ビクトリヤ」というと昔の婦人雑誌の広告で、布製のナプキンなど生理用品の広告を見たことがあるので、そういう系の何らかの婦人用のエチケット用品のたぐいが入っていたのかもしれません。

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同上の側面。凝ったデザインがいい味出してます。

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森永のクッキー詰め合わせ「クララ」の缶。

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同上。側面。

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こちらも薔薇をあしらった砂糖の缶です。

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「NAPOLEON」というブランドのレコード針のケース。

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インド製の固形水彩絵の具セットのようです。フタに描かれたモンドな感じの「見ざる聞かざる言わざる」のイラストが雰囲気だしています。「見ざる聞かざる言わざる」というと、日光東照宮などで知られる「見ザル、聞かザル、言わザル」の「三猿」が思い浮かびます。「見ざる聞かざる言わざる」は、語呂が良いこともあって、いかにも日本発祥だと思い込んでましたが、古代エジプトやアンコールワット遺跡にも見られるモチーフのようで、意外にも外国から伝わったものだそうです。なぜインドの雑貨にこのモチーフが使われているのか気になって調べてみたのですが、いい勉強になりました。
posted by イヒ太郎 at 05:16| Comment(0) | コレクション

2016年08月26日

【音楽】サイケデリックとカントリーな60〜70年代

最近知ったミュージシャンとか、聞き返してみたくなった曲などを交えて、60〜70年代の好みの洋楽を集めてみました。

るんるんDonovan「Sunshine Superman」
るんるんDonovan「Mellow, Yellow」
るんるんDonovan「Season of the Witch」
ドノヴァンは英国スコットランドのシンガーソングライター。耳に心地いいキャッチーなメロディと、サイケでパラダイスな雰囲気がたまりません。たまに聞き返したくなるミュージシャンです。

るんるんThe Sapphires「Oh So Soon」
るんるんThe Sapphires「How Could I Say Goodbye」
ザ・サファイアーズは60年代のアメリカの男女3人組のコーラスグループ。夢の世界に誘うような気持ちいいコーラスですね〜

るんるんCressida「Goodbye Post Office Tower Goodbye」
るんるんCressida「Time For Bed」
クレシダは70年代英国のプログレロックバンド。個性的なサウンドながらも実験的になりすぎずメロディアスで聴きやすい、絶妙なさじ加減が素晴らしい。2枚のアルバムを残して解散しましたが、2枚ともなかなかの名品です。

るんるんC.W. McCall「Black Bear Road」
るんるんC.W. McCall「Lewis and Clark」
バンジョーの速弾きが気持ちいいですね。C・W・マッコールは大ヒット曲「コンボイ」で知られるアメリカのミュージシャン。ジャンル的にはカントリーミュージックの人ですが、泥臭さはあまりなく、飄々とした渋みが素敵です。

るんるんJefferson「Montage [From How Sweet It Is]」
るんるんJefferson「City Girl」
るんるんJefferson「Give A Little Love」
エモーショナルでメロディアスな気持ちいいポップスですね。ジェファーソンは元The Rockin' Berries のジェフ・タートン( Geoff Turton )のソロ活動での別名のようです。


るんるんJay & The Americans「No, I Don't Know Her」
るんるんJay & The Americans「She'll Be Young Forever」
ムーディーで気持ちいい曲ですね〜 ジェイ&ザ・アメリカンズは、60年代アメリカのロックグループ。

るんるんJerry Wallace「Lovers of the World」
「う〜んマンダム」のアノ曲。歌詞も夢と希望に満ちた素晴らしい曲です。チャールズ・ブロンソンを起用した例のCMは70年代を象徴するCMですね。ちなみにCMディレクターは映画監督として活躍する前の大林宣彦。90年代にはみうらじゅん&田口トモロヲのユニット、ブロンソンズがそれらしい嘘和訳でこの歌をカバーして話題になりましたね。
メモ「1970’S〜1980’S Music called Time machine 洋楽タイムマシーン」様による和訳

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1956年発行のアメリカの知育絵本『Whizzer』の表紙
タグ:音楽 洋楽
posted by イヒ太郎 at 04:53| Comment(0) | 音楽

2016年08月22日

宇宙旅行の夢 (2) 火星人襲来!

宇宙ロマンな感じの古本などを紹介しつつ、またアレコレと雑談していこうと思います。今回は人間にとって身近なお隣の惑星、火星を主に語っていこうと思います。

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『宇宙旅行』小学館 昭和47年(1972年) イラスト:中島章作
宇宙関連のイラストは80年代にはエアブラシによる表現が主流になり、写真のような臨場感のある表現が可能になっていきますが、私はむしろこの時代の筆の味わいのあるタッチで描かれる宇宙のほうがレトロフューチャーな感じで好みです。


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同上。 「小惑星ヒダルゴから見た土星」
土星、かっこいいですね。


参考サイト
TVもしも土星が地球の近くを通り過ぎたら
土星さんが自分の公転軌道を周回するのを止めて、突然地球に向かってやってきたらどう見えるかをシミュレーションした面白い実験動画です。土星の重力の影響とか細かいことは抜きに、土星という巨大な惑星が地球を横切るとどう見えるかというシュールな絵面を楽しむためのものでしょうね。土星の近くを廻っている衛星ミマスから見える土星もなかなか壮大で、これは単なる空想でなく、実際にその場ではありうる景色でしょうから、ますます宇宙旅行の夢は膨らみます。

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同上。 「月世界基地の風景」
この本の発行はアポロ計画での有人月面着陸から3年後の時代ですが、人類初の月面着陸という前代未聞の偉業の興奮がまだ冷めやらないといった時代の空気を感じるイラストですね。


考えてみれば、地球上で唯一人間だけが「宇宙への好奇心」を持つ特異な生物であります。宇宙の謎、人生の謎、形而上学的なものへの関心など、自分や自己の属する種の存続にかかわる知恵とはかけ離れた知識に関する興味を人間だけが持つのは何故か?なぜ人間だけが余計な£m識を求め無駄な″D奇心に突き動かされるのでしょうか? 単純に考えれば生物界では抜きん出た巨大な頭脳がそれを可能にしているわけですが、ここでは他の視点から少し考察してみます。

人間はなぜ無駄な知識を求めるのか? その合理的な理由のひとつには、「生命を脅かす天敵から逃れる」ことと「食料の安定的な確保」という、地球上の全ての生物に共通する最大の難関をほぼクリアできたのが人間だけだからで、それゆえに「すでに重大事項は解決してしまったために余計な文化を発展させる余裕が生まれた」という解釈もあるかと思います。しかし、私はもっと別の理由があるように思っています。

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映画「地球は青かった」広告 『映画情報』国際情報社 昭和37年(1962年)より
ソ連の宇宙船スプートニク1号による地球の周回に成功したのはこの雑誌の発行年の前年で、この時代(1962年)はまだアメリカのアームストロングによる月面着陸より7年前ですから、ガガーリンはまさに前人未到の宇宙へ繰り出した英雄そのものなのでしょう。


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同上。映画「地球は青かった」のレビュー記事。

宇宙への好奇心というのは余計な≠烽フではなく、もし人類にとってとても重要なものであるとしたら、どういう見方ができるでしょうか。人間活動は今や地球の生態系さえ影響を与えるレベルにありますから、別の見方をすれば、「地球という母体から生じた人間という自らの器官によって、地球は自己管理のシステムを構築している」ような気がします。人間の思考や行動は、地球という意識体にとっての意図的な誘導でもあるように思います。宇宙への好奇心もまた、そうした地球意識にとっての関心事なのかもしれません。

とはいえ、宇宙開発は、軍事的利用価値や、気象衛星、カーナビなどのような生活の利便の拡大という側面もありますし、宇宙への好奇心が人間社会に全く寄与しないとは思いません。むしろ古来から人間は宇宙を、航海ではコンパス代わりに、農業では暦のかわりに、政治では予言書のかわりに、とさまざまな用途で利用してきました。そうした意味では、宇宙への好奇心はそもそも余計な≠烽フであるという前提が間違っているという指摘もあると思います。しかし、人間の宇宙への好奇心の一番の理由はそんな微視的なエゴイスティックな価値ではなく、「私という存在が生じた原因は何か?」という謎に対するひとつの有効なアプローチであるから、といえると思います。突き詰めれば、最終的には、その答えを握っているのは宇宙であり、宇宙を知ることなしに本当の意味で自分を知ることも出来ないことに本能的に気づいているからこそ、人は宇宙という究極の謎に魅せられ続けているのではないかと感じます。なぜなら、我々人間は、肉体も精神もすべてこの宇宙にある素材で構成された宇宙存在でありますから、宇宙を知ることは最終的には己を知ることに繋がります。人間は地球の器官であると同時に宇宙の器官でもありますから、もっとマクロな視点では、人間存在は宇宙が宇宙自身を知ろうとする欲求により生じた器官であるともいえます。

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「火星人の饗宴」
『別冊 笑の泉 世界艶笑怪奇読本』笑の泉社 昭和33年(1958年)より
この時代は月どころかまだソ連のスプートニク1号の打ち上げの3年前ですから、宇宙が完全なる未知の世界だった頃ですね。まぁ、今も宇宙に関しては謎だらけですが。この記事では、当時はまだまだ未知の惑星であった火星の様子を想像力豊かに描写したイラストで紹介しています。この雑誌はあくまで娯楽雑誌ですから、当然科学的な考察に基づいたものではありませんが、このようなSF的好奇心にまかせて描かれたうさん臭い記事のほうがむしろ読んでてワクワクしますね。


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以下、パノラマイラストが続きますが、そこに描かれている火星人はトビラの文章によれば、17、8世紀頃に西洋人が想像した様々な火星人の姿をイラストにしたものだそうです。画面中央のステージに見えるタコ形宇宙人は古典的ながら典型的な火星人のイメージですね。火星人=タコ形、というイメージはすでに広く定着していて、吉田戦車さんの『火星田マチ子』『火星ルンバ』もタコ形火星人が活躍するギャグ漫画として思い出されます。火星人=タコ形のイメージのルーツはSFの父、H・G・ウェルズの作品『宇宙戦争』のようです。タコ形はウェルズの独創ではなく、当時の天文学の成果を元にした推論から来ているようですね。

参考サイト
メモ火星人=タコ形のイメージの源流を解説したページ(国立科学博物館)

宇宙人の侵略を描いた古典的SFというだけでなく、後にオーソン・ウェルズのラジオ番組でこの小説を放送したところ、本当に火星人が地球に侵略してきたと勘違いした大衆がパニックに陥ったという事件もあり、そうした諸々の経緯がH・G・ウェルズの想像した火星人のイメージが強烈に人類の共同幻想として定着した所以なのでしょう。

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上記のイラストの部分。

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宇宙人というより、ヒエロニムス・ボスの描いた地獄の悪魔たちのような寓意的な姿の宇宙人。左下の小さい宇宙人は妖精風というか、ピクミンっぽくて可愛いですね。

以下に、タコ形宇宙人のイメージの元になったとされるH・G・ウェルズ著『宇宙戦争』の中で、火星人の特徴を説明している箇所を引用してみました。たしかに、この描写通りに挿絵を描くとしたらタコっぽい感じになるのもうなずけますね。

火星人どもはとうてい考えもおよばない、この世のものとはとうてい思われないしろものだった。直径が四フィート(=約1.2メートル)もある、でかいまんまるい胴体──むしろ、頭──をしていて、そのそれぞれの胴体の正面に顔がついていた。顔には鼻の穴がなく──実際、火星人はなんら嗅覚を持たないらしかった。しかし、一対のたいへん大きな黒い目があって、すぐその下に肉ぶとのくちばしのようなものがあった。この頭または胴体といったもの──わたしにはとうていなんというべきかわからないが──の後ろは、ぴんと張った太鼓の皮のような一枚板になっていて、あとで解剖して耳だとわかったが、地球の濃密な大気のなかではほとんど役にたたなかったにちがいない。口のまわりには、十六本の細長いほとんど鞭のような触手がひと群れになって生えていて、それぞれ八本づつのふたつの束になって並んでいた。それらの束は、あの著名な解剖学者ハウズ教授によって、以後、適切にも手≠ニ命名された。わたしがはじめて火星人を見たとき、彼らはその手を使ってある程度楽々と動きまわれるものと想像していい理由があった。
(略)
人間から見ると不思議に思えるかも知らないが、われわれのからだで大きな部分を占めている複雑な消化器官は、火星人には存在しなかった。彼らは頭であり──常に頭だけだった。内蔵というものはまるでないのである。(p173~174)

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『宇宙戦争』H・G・ウェルズ 井上勇:訳 創元推理文庫 1969年


上記の「火星人の饗宴」のトビラの画像中にある文章にオカルト界の巨人、スウェデンボルグの名前があがっていて、記事に微妙にマニアックなこだわりが感じられますね。エマニュエル・スウェデンボルグ(1688〜1772年)は、生前はダビンチと並び称されるほどの天才的な学者として尊敬を集めていましたが、死後に発見された『霊界日記』によって、その後の評価はガラリと変わり、学者としての功績よりはオカルティストとして周知され、賛否の別れる奇人めいた印象がついてまわることに。しかし、彼の霊界探訪はそれまでのオカルティズムになかった斬新な視点で描かれており、その思想的な背景を含めて、その後のオカルティズム、主に心霊主義に決定的な影響を与えました。丹羽哲郎の霊界の概念もほぼスウェデンボルグの見聞した霊界の構造を元にしてますし、ほぼ全てのオカルト関係で言及される霊界の概念はスウェデンボルグの霊界見聞記の影響下にあるように感じます。また、メジャーなところでは、彼の思想は後年ヘレン・ケラーの心の支えとして彼女にかなりの影響を与えました。いろんな意味でただ者でない人物でしたが、ここでは画像の文章で触れられている、スウェデンボルグが「火星人に会った」とされる内容について、少し説明したいと思います。

スウェデンボルグは霊界探訪の人というイメージが強いですが、実は太陽系のほとんどの惑星にも行き来していて、その見聞録も残しています。太陽系惑星のほとんどには地球人と同等以上に進化した精神や文明を持つ住人がいるという彼の話は、一見現代の天文学の基礎的な常識からも外れたもので、反射的に否定してしまいがちですが、よく読んでみると、スウェデンボルグは霊的なレベルにある階層に存在する惑星での体験を記しているのであり、物理的な実在としての惑星を見聞してきたとは一言も書いていません。例えば、火星の「霊」と交流したということを書いているので、いわば、神秘主義の視点で見た宇宙論であります。

火星の霊たちは我々の太陽系の諸々の地球から着ている霊たちの間で最良の者たちである。(略)火星に住む者たちの言葉は我々の地球に住む者の言葉とは異なっており、すなわち、それは調子の高いものではなくて、ほとんど無音であって、内的な聴覚と視覚へ近道をして入り込み、それでそれはさらに完全で、さらに思考の観念に満ちており、かくて霊と天使との言葉にさらに近づいているのである。その言葉の情愛そのものもまた彼らにあってはその顔に表され、その思考は目に表されている。なぜなら思いと言葉とは、また情愛と顔とは、彼らにあってはひとつのものとして働くからである。彼らは考えることと言うことが異なることを、また欲することと顔に表現することとが異なることを極悪のことと考えている。彼らは偽善とは何であるかを知らず、偽りの口実と詐欺との何であるかも知らない。
「火星の地球または遊星、その霊たちと住民」p68〜70より引用

『宇宙間の諸地球』エマニュエル・スウェデンボルグ著 柳瀬芳意訳 静思社刊 昭和33年(1958年)


霊的な視点でみた火星の状況をスウェデンボルグは描き出していますが、にわかには信じがたい内容でもあります。しかしながら、真偽を抜きにすれば、なかなか含蓄に富んだ面白い内容だと思います。現代では、少なくとも太陽系には地球人と同等の知性を持った生物はいないと考えるのが常識になっていますが、もしかしたら、この宇宙は我々の認識できる宇宙だけでなく、人間の五感では感知できない異次元の宇宙も多数重なりあって存在しているのかもしれません。そうした階層の異なった次元にある宇宙では、普通に火星人も金星人も暮らしているのではないでしょうか。いきなり話がぶっ飛んできましたが、まぁ、オカルトを含め精神世界は真偽をあれこれ考えるものではなく、信じるかどうかだけが意味を持つ世界なので、信じたほうが人生が面白くなるなら信じてみたいような気もします。

自分の目で確かめたこと、体験したことだけしか信じない、としてしまうと、この世界はとたんにマッチ箱のような小さい世界になってしまいますし、そもそも自分の見聞を軸にするにしても、それが必ずしも真実を解釈しているとは限りません。思うに、この世界の真実を探求する場合、人間に染み付いた思考法、「正しいか?間違っているか?」という考え方が根本的におかしいのではないか?という気がします。正しいことを求めるのは良いことのように信じられていますが、真理を探究するために人間が手にしている「言葉」や「数学」などのツールが、思っているほど完全な道具ではないことが現代のアカデミックな成果でもあきらかになってきていますし、おそらく、人間は合理主義的発想で究極の真理に到達することは不可能なように感じます。神秘主義は、合理主義では掴みきれないこの世の真理をなんとか掴もうとする非合理的な手段でありますが、非理性的なロジックを多分に含むので、扱いが難しいツールでもあります。しかし、実は人間社会は、合理的な秩序だけでなりたっているものではなく、例えば恋愛感情などは音楽や映画など娯楽芸術の主要なテーマですが、恋愛ほど非合理な感情はありません。人を好きになることは、予測も計算もできないオカルト的な現象です。また、性に対する文化も、生物としての人間にとって最高に興味深いものであるにもかかわらず、今だに社会は性≠どのように扱ってよいのか試行錯誤しているのが現状です。性や恋愛はしばしば秩序ある社会システムから逸脱するものですが、排除することもできない重要なものでもあります。

現代社会が、とくに共産主義国でなくても、宗教やオカルトなどの精神文化を忌避する傾向があるのは、それが非合理的な世界を扱う文化であるからです。非合理ゆえに、なかなか合理主義の手法では管理が難しい。精神世界は、例えば仏教では「悟り」の体験を通して、日常的意識を逸脱した精神状態を体験し、その意識状態から世界を再解釈する重要性を指摘しますが、これも別の角度から見れば、オルダス・ハクスリーティモシー・リアリーなど、ヒッピーカルチャーで流行したドラッグによる「ハイ」になる体験、インディアンの呪術的儀式で用いられる幻覚作用のあるサボテン(ペヨーテ)の服用なども、同様に人をそうした非日常≠ヨ誘うことでこの世の真理を知ろうとする試みのひとつです。しかし、秩序ある社会はそうした拡大された意識を管理する手段がないため、社会の構成員はできるだけ目覚めて欲しくない≠ヘずであり、ゆえに覚者≠嫌う傾向があるように思います。そもそも覚者と単なるアウトローは凡人の目からは外面的に区別がつきませんから、社会にうまく取り込むのはかなりやっかいであると思われます。

LSDなどの麻薬による意識の覚醒は60〜70年代のアメリカのヒッピー文化、ニューエイジ運動などでは「インスタント禅」などと呼ばれていましたが、精神修行をともなわずに一気に薬で意識を覚醒させても、悟りどころか薬物依存体質になってしまって自己破壊に繋がりかねません。薬物という物質頼りで精神世界の真実に近づくのには危険が伴うでしょう。映画『ルーシー』でも薬物による悟りをSFチックに興味深く描いてましたが、やはり薬に頼るのではなくヨーガなり瞑想なりで自力で脳内麻薬を分泌させるのが自然ですしベストな気がしますね。そういえばそのような社会と精神世界の対立構造については、社会学者の宮台真司さんが講釈をしていた動画をたまたま見て面白かったのでちょっとご紹介します。

近代社会では麻薬を禁止しました。これはいくつかのファクターがある中でおそらく重要な事は、我々の感覚が開かれすぎると、精妙に出来上がった社会の複雑なシステムのかみ合いと両立しないわけです。逆に言えば、もし社会が原初的な段階にあって、もっと単純であれば、我々がもしトランス状態になって感覚が開かれて、あらかじめフォーマットの中に書かれていないようなふるまいをしたとしても、それは社会が受け止める事ができるわけですよね。これほど左様に、我々の社会は科学的かとは全く別の、社会からの要求として、我々の感覚が「あらかじめ予想可能な範囲の中で生じなければいけない」という、ある種の要求からして、超常現象は「ない」どころか、超常体験なるものも「存在しない」、シンクロニシティも体験することなどありえないと、されています。体験として生じうるそうしたものについて、我々の社会は事実上封印してしまっている。しかし、封印したとしても、体験は起こってきてしまうワケです。シンクロニシティを体験してしまったり、ある人間たちがある手順でフック(きっかけ)を用意すると神の声が聞こえちゃったりするし、ある浮遊という現象を体験しちゃったりするんです。

(超常現象の否定や、麻薬の禁忌などは)体験の領域が広がりすぎないように(社会が)封印した。
しかし、単にそれが「無い」という話になっていると、ちょっとしたときにソレを体験するわけですよ。そうすると、それがフックとして「効きすぎて」ね、絶対性を信じ込んでしまったり、超越性を信じ込んでしまったりすることがあるような気がするんです。

宮台真司・談

TV動画「超常体験が絶対性や超越性を信じるきっかけになる」より


オカルトや宗教などひっくるめて、精神世界的なもの、超常現象などは現代社会の一般通念では嘘、勘違い、空想、ファンタジーという扱いであり、社会の一般常識としては「真実ではない」としているように感じますが、社会学者の宮台真司氏はその理由について上記のような解釈をしています。近代社会がオカルトを否定したがるのは、麻薬を禁じている理由と似ていて、我々の感覚が開かれすぎると、精妙に出来上がった社会の複雑なシステムのかみ合いと両立しないから、というものです。もし社会が原初的な段階にあって、もっと単純であれば、シャーマンが神の声を聞いたと主張しても、それを受け止める土壌が社会にあるのですが、現代の科学を基本とした合理主義というか、理性的なシステムの中では、そうした非合理性は否定してしまったほうが物事がスムースに運ぶということであります。そういう意味では、私たちの「体験の領域」は、知らず知らずのうちに社会システムの制約の中で許容された範囲に限定されているということになります。体験の領域が広がりすぎると理性では収集がつかなくなるのであり、理性によって構築された社会においては、それは最大のタブーになる、というのが宮台氏の説ですが、なかなかの慧眼だと感服しました。

彼自身指摘しているように、だからといって神秘体験に執着しすぎて妄信すると、社会との軋轢を生じたり、精神的に疲弊したりしますから、バランスは必要ですね。とはいうものの、そのバランスとやらも、客観的にジャッジしてくれるモノサシがあるわけではないので、結局自分のさじ加減でしかありません。なので、やはりそうしたものを信じるかどうかというのは最終的には己の直感的な判断になります。個人的には、その場合たいていは面白そうだとか、楽しそうだとか感じる選択肢を選んでおけば間違いないように思います。なぜなら、楽しくなさそうな方を選んだらハズした場合に後悔しますが、楽しそうなものを選んでハズしても自分を納得させやすいからです。

後悔度の高いのは「正しそう」な方を選んでハズした場合です。「正しいと信じてたのに!」という怒りに似た裏切られた気分を味わうことになります。正しい事というのは判断が難しいですし、今自分が考えていることは正しいのかどうかすら断言するのは困難です。しかし、楽しいかどうかはリアルな実感として感じるものですから「自分は今楽しいかどうか?」に疑問の余地はありません。ゆえに、楽しい方を常に選ぶ、というのはけっこう賢い選択法だと思います。正しさは自分だけの領分では決定しずらく、だいたいは複数の他者が決めるものです。しかし、楽しさは自分が主体的に感じる絶対的な体験なので、間違いはありません。私は正しい。というテーゼは危ういですが、私は今楽しい。という感覚は誰も否定できない真理です。正しさを基準にするから争いが起こるのであって、もしも楽しい≠基準にする社会があれば、けっこう平和にまとまるのではないか?と最近思います。正しさがぶつかり合うと戦争になりますが、楽しさがぶつかり合うとお祭りになります。実に平和的であります。

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武田雅哉著『桃源郷の機械学』(作品社 1995)より。中国の幼き天才オカルティスト、江希帳(こうきちょう)による火星人の想像図。1916年に刊行された齢10歳の江希帳の著書『大千図説』という奇書では易学などの中華思想を母体にした摩訶不思議な大宇宙の構造を図版を交えて考察しているようで、とても面白そうです。江希帳は三歳で文章を綴り、五歳で経書(儒教の文献)に注釈をしたという逸話のある神童で、そのような才気溢れる幼い頭脳が垣間みた異次元の宇宙図鑑が『大千図説』だということで、とても興味深いものがあります。独自の切り口で中国文化を研究されている武田雅哉先生の『桃源郷の機械学』には、火星以外にも聞いた事もない奇妙な惑星や宇宙人の図版が多く紹介されていて凄く面白いです。また、まだ未読ですが、河出文庫『中国怪談集』(中野美代子、武田雅哉編)でもこの奇書が紹介されているようなのでそのうち読んでみたいです。

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『科学大観』第19号 原子力・宇宙旅行特集 昭和34年(1959年) 世界文化社
火星に向かうブリキのおもちゃのようなケバケバしい宇宙船がレトロフューチャーな感じでイイですね。


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同上。「火星人の宇宙訪問」と題するユニークな記事があったのでご紹介します。火星を舞台にしたSF小説というと、ついH・G・ウェルズの『宇宙戦争』が真っ先に思い浮かんできますが、実はその前にドイツの天文学者ラスウィッチなる人物が火星探検をテーマにした空想小説を書いていたという興味深い記事です。面白い記事なので関心のある方はぜひクリックして読んでみてください。



天文系ソフト

ペンStellarium
「Stellarium」というフリーソフトがあるのを最近知りました。PC上で美麗な星空をシミュレーションできる無料のオープンソースプラネタリウム。ウィンドウズやマックなど様々なプラットフォームに対応したソフトです。私の環境では古いバージョンのものしか動作させれないのでアレですが、無料とは思えないほど充実したアプリなので、使いこなせると楽しそうですね。

ペンGoogle Earth
お馴染みグーグルアースですが、地球のほかにも月や火星もグリグリ動かせるようになっていて、仮想の宇宙旅行が楽しめます。オカルト好きの方などは、日夜、月や火星の人工物っぽい謎の地形を探索しておられる方も世界中にいるようで、それもそれで楽しみ方のひとつだと思います。私もついでにグーグルアースで見つけた火星の面白い地形をいくつか並べてみます。

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とてもアートな雰囲気の地形があったのでスクリーンショットをとってみました。シュルレアリスムの画家イヴ・タンギーの絵画のような雰囲気が面白い。

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なんか蟻地獄っぽいものが並んでいる妙な地形を発見。巨大な穴っぽいこの黒い部分は何なのでしょうね。

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中央あたりに、水が流れた跡のようなシミが見えます。何らかの液体が地中から染み出てきたように見えますが、これも謎めいてますね。
posted by イヒ太郎 at 22:19| Comment(0) | 宇宙

2016年08月10日

宇宙旅行の夢 (1)

宇宙ロマンな本がたまってきたので、宇宙旅行をテーマに何回かシリーズ的に記事を書こうと思います。『世界画報』は国際的な時事ニュースを豊富な写真や図解で紹介するA4判サイズのグラフ誌で、古本市などではよく見かける部類の雑誌です。安価に出回っているワリには面白い写真も多く編集もユニークで、なによりディスプレイ映えするいい感じの表紙が多く、つい手に取ってしまいます。

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『世界画報 PICTORIAL WORLD』第27巻 第2号 国際情報社 1958年(昭和33年)

今回ご紹介する『世界画報』は、表紙のインパクトで選んだものですが、中身でも宇宙関連の記事があり、そちらもいっしょにご紹介していこうと思います。まずこの号の発行年は1958年というところに注目していただきたいです。宇宙旅行をテーマにした記事で、月面探索計画の記事などがありますが、この時代にはまだ人類は月へはおろか地球外にさえ抜け出てはいません。(人工衛星の打ち上げには前年、1957年にソ連のスプートニク1号、2号が成功しています)この年、1958年はちょうどアメリカ航空宇宙局(NASA)が設立した年です。この3年後にソ連のガガーリンが「地球は青かった」と言い、11年後にやっと米国のニール・アームストロングが月面に一歩を踏み出します。そうした時系列をふまえて見ていただくと、より面白みがあると思います。

米ソの宇宙開発競争は、冷戦の軍事的な緊張がもたらした功罪の「功」の面の代表的なものだと思います。両国はその互いへの軍事的脅威を言い訳にできたために、莫大な予算を必要とする宇宙開発という人類のロマンを前進させる原動力になっていました。振り返ってみれば、ネガティブな印象で語られることの多い冷戦時代も、人類史的には必要な段取りだったのかもしれませんね。

人類が初めて宇宙空間に出たのは、およそ半世紀前。1961年4月11日、世界初の有人宇宙飛行としてボストーク1号に単身搭乗したソビエト連邦の宇宙飛行士ガガーリンは、「地球は青かった」という宇宙から地球を見た感動を伝える名言でよく知られています。正確には、ガガーリンはそのような表現では語っていないそうですが、まぁ、おおむね地球が青く見えたことが印象的であったことは事実のようですね。

次いでアメリカも人類初の有人月面着陸計画(アポロ計画)を威信をかけて遂行します。1969年7月20日にアポロ11号がついに月面に着陸。人類がはじめて地球外天体へ踏み出した記念碑的な偉業でした。「これは一人の人間にとっては小さな一歩だが、人類にとっては偉大な飛躍である。」船長のニール・アームストロングの有名な言葉ですが、まさにそのとおりですね。

オカルト好きには有名な「実は人類はまだ月に行ってはいない」とするアポロ計画陰謀論がありますが、ウィキペディアにアポロ陰謀論への反論が詳細に載っていて、それを読む限りは陰謀論は分が悪いように感じました。アポロ陰謀論は1977年のSF映画「サテリコン1」によって拡散したという印象がありますが、ウィキを見てみると、アポロ11号の着陸から早くも翌年1970年に我が国の作家、草川隆が『アポロは月へ行かなかった』というSF小説を書いているようですね。誇らしいような、そうでもないような、複雑なものを感じます。しかし、作家としては、かなりの先見の妙というべき着目だと思います。

迷信や宗教やオカルトなどを揶揄する時に、かつて「人類が月に行くような時代に」という言い回しがよくありましたが、それほどまでに、人類が月に行ったというニュースは社会にとって衝撃的で印象深いものだったのでしょう。人類は宇宙に出たことによって、「地球上の生命という意味での家族意識」のようなものに実感として目覚めた部分はあるのではないか、と推察します。

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「宇宙旅行へもう一歩 1」(『世界画報 PICTORIAL WORLD』第27巻 第2号より)
米ソ科学者の想像した宇宙旅行の夢をイラストでビジュアルに紹介していく記事。

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「宇宙旅行へもう一歩 2」(『世界画報 PICTORIAL WORLD』第27巻 第3号より)

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宇宙船の丸い窓から見える地球。のっぺりした不気味な緑色の地球の図。地球を実際に人が外から見たことのない時代に描かれた想像上の地球という意味で見ると味わい深いですね。キャプションには「青白く輝く地球」とあるので、地球が外からは青く見えるとありますが、この記事の書かれる前年、1957年にソ連が人工衛星の打ち上げに成功しているので、地球が外からどう見えるのかは宇宙の最新情報として既知であったのでしょうね。メインの大きなイラストも、真っ赤なロケットが妖しく、不思議な気分になりますね。

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記事からも読み取れるように、この当時の宇宙開発はすでにソ連が米国よりも一歩進んでいました。アメリカの焦りに似た宇宙への情熱が見て取れますね。

当時米ソともに尋常でないほどの莫大な資金を宇宙開発につぎ込んでますが、もし冷戦がなかったら目に見えるうま味に乏しいバクチのような宇宙開発など議会の通過も難しいでしょうし、そもそも国民の納得も得られなかったのではないでしょうか。あの時代だからこそ出来たことなのでしょう。後から考えると歴史というのは実に精妙に動いているものだと感じます。

人類が地球という檻を抜け出してはじめて宇宙に出て、そこから地球を振り返ったとき、争いが絶えない牢獄だとばかり思っていた地球が、実は、そこでしか我々は生きることができない、かけがえのない楽園だったことにガガーリンやアームストロングたちの目を通して我々もリアリティをもって気づいたように思います。宇宙へ踏み出した一歩は、科学文明の飛躍の一歩であると同時に、人間精神のパラダイムシフトでもあったのだろう、と感じます。
タグ:宇宙 古本
posted by イヒ太郎 at 06:35| Comment(0) | 宇宙