2025年11月04日

古書を補修してみました!「エッシャー作品集」編

年末近くになると、古本市や鉱物ショーなどの心躍る即売イベントが目白押しで、師走の差し迫った緊張を緩和させてくれますね。まぁ、ここ数年は懐具合も寂しいので自転車で行ける範囲に面白そうなイベントがあれば行くという程度になってきましたが。

手に入れたい欲しい本はありますが、どうしても欲しい!というような本は最近少なくなってきました。というより、その存在さえ知らなかったような面白い本に出会えるのが古本漁りの愉悦です。「見た事の無い面白いもの」と出会う快楽が安価に得られるのも古本市の楽しさですね。

神保町の古本まつりにはここしばらく足を向けてないですが、高円寺の古書会館にはちょくちょく出かけてます。マニアが集う中央線近辺の古書店が寄り合っているだけあり、100均コーナーでさえ掘り出し物がけっこう頻繁に見つかるのが醍醐味です。今回のエッシャーの作品集※も、なんと50円でゲットしました。ダメージといえばカバーの破れくらいだったので、さっそく補修を試みる事にしたのでした。


※今回のエッシャーの作品集〜
エッシャーは子供の頃から好きな作家で、作品集も何冊かもっていて、寡作な作家なのか、ほとんどの作品集にはお馴染みの作品が重複して収録されていますね。作品を楽しむだけなら、どの本もおおかたの代表作は収録されてるはずなので一冊あれば十分なのですが、飛び抜けて好きな作家の場合は、ブックデザインや編者の違いなどでググッとくるものがあればつい手が伸びてしまいます。今回は値段も値段だったので躊躇なくゲット!しました。検索でもあまり多くはひかっからない本なので、意外とレア本の予感が。海外のオークションサイトでは1万円前後で出品されてるようですね。だからどうということはないですが、表紙デザインもいい感じですし、今回もけっこう良い掘り出し物でした。

では、補修にはいりましょう!

今回補修するのは、1962年にハインツ・モース社から出されたエッシャー作品集です。本文がドイツ語なので、ドイツの出版社でしょうか。表紙にこの作品を持ってくるセンスがなかなか面白いですね。一目でエッシャーとわかる不可能図形の建造物やメタモルフォーゼシリーズではなく、あくまでタイトル文字などとの兼ね合いでデザイン的に映える作品をチョイスしたのでしょう。見事に物体として不思議な本≠ノなっていて愛着がわきます。全64ページとコンパクトな内容ながら、基本を押さえつつも変わった作品もちゃんとチョイスしていて中身の編集もいい感じです。60〜70年代はこういう冒険心のある出版物が日本でも多かったですね。いろんな面で世界中にチャレンジ精神で活気づいてた時代だったのでしょうね〜

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『M. C. ESCHER』Heinz Moos社発行 1962年

パッと見にはとくに問題なさそうに見えますが、今回も背表紙のダメージがひどいです。

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ちなみに表紙カバーをめくってみたところ。本体の表紙も黒と黄色という怪し気な配色でイイですね。

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このようにカバーの背表紙がボロボロになってます。
カバーデザインもシンプルながら味があって素敵なので、これを補修してみようと思います。

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と、その前に気になる箇所をちょこちょこと手を入れていきます。
破れている部分に裏から紙を貼り、ボンドでくっつけました。この破れ目に貼る紙は、ハサミやカッターなどを使わずに端を手でちぎっています。理由は、カッターなどで切ると、紙の厚みで段差ができるからです。手でちぎると、段差が小さくなるので、最近こうするようになりました。
ふさいだ後は、表紙のデザインに添って黒い部分をマジックで付け足して馴染ませました。

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カバーは、背だけでなく、周囲のあちこちに破れ目があるので専用の補修テープを小さく切って補修します。

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では、さっそく背表紙の補修です。背表紙のサイズを測って同じサイズの背を作成します。
上はバラ打ちした文字。下は元の書体と似たものに変換して大きさや文字の間隔などを調整します。背の題字の書体は特徴的なセリフの形なので、オーソドックスな欧文書体のひとつであるボドニ系の書体ですね。今回はBodoni Romanを使用しています。

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と、ここまできてミスを発見。文字の向きが逆だったので修整しました。
日本語だったら縦書きは縦組文字になるのでこういう間違いはないのですが、欧文のブックデザインでは文字のベースを右向きにするか左向きにするかは決まって無いので、ミスしやすい部分ですね。たしかに本棚を改めて見てみると、洋書はこういう文字の向きが違う本が混在します。また、洋書は題字も上から下に読むように配置するかどうかも決まってないので、下から上に読むように題字が印刷されてる本も普通によくありますね。そういう見地からすると、けっこう日本の本のほうが本棚に収まったときに見やすいですよね。日本語がタテにもヨコにも書けるというフレキシブルな文字なのは、こういうところでも便利ですね。一般に日本語は世界有数の複雑な言語だとかいわれますが、こうした利便性では意外と合理的な側面もあるんだなぁ、となんとなく感じました。

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ということで修正版です。
これをプリントしてカバーの背の部分に貼ろうと思います。

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プリントしたものを切り離して、置いてみます。まぁ、問題ないですね。

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ボンドで貼って、さらに補強を兼ねて専用の補修テープを上から貼ります。

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テープを貼るのは一発勝負なのでいつも緊張します。うっかりするとヨレができたり、ナナメにズレたりするのでドキドキします。今回はまっすぐに貼れたのはいいんですが、ちょうどど真ん中ではなく若干右に平行にズレてしまいました。まぁ、実際はこれで本体をくるむので、気にしなければ気にならないところです。すこしヨレができてしまいましたが、何度か上から擦って空気を抜いて目立たなくなりました。

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完成です。白地を元のカバーの黄ばみに寄せた色味にしたほうが
もっと馴染んだかな〜というのが反省点ですが、まぁ、とくに目立った失敗は無かった(嘘だッ!)ので今回もこれで良しということにしましょう。

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確認がてら近くの本棚に入れてみました。まぁ、そんなに違和感はないと思います。

では、このたびも御清覧ありがとうございました!

posted by 八竹彗月 at 11:48| Comment(0) | 古本

2025年10月26日

マトリックスの話

「白いウサギを追え」

先日の記事で映画『マトリックス』に少し触れましたが、うろ覚えのまま書くのもアレなので、確認のためDVDを見返していたら、またひさびさにマトリックスの魅力にどっぷりハマってしまって、結局全編見てしまいました。いやはや、ほんとに面白い作品ですよね。面白いだけじゃなく、色即是空を具体的にビジュアルで表現したような、この世の真相めいたものを見せてくれてるような、哲学的な深みがあって、とても好きな作品です。仏教的な世界観を、ダイナミックで斬新なアクションを交えて表現する手腕も革命的なものを感じますね。

『マトリックス』の熱気が覚めやらぬ当時の一時期は、あのネオの弾避けムーブの物まねが流行ったりとか以外にも、現代思想系の書籍でも『マトリックス』を題材に現実とか何か?みたいな哲学的なテーマを思索した本をいろいろ見かけましたね。アクションやビジュアルだけでなく、シナリオに込められた深淵な哲学がみんなを熱狂させたのでしょう。モーフィアスがネオに赤と青のカプセルを選ばせるシーンはゾクゾクするような興奮を感じました。この世の真理を見せてやる、という人が目の前にいる高揚感を疑似体験しているような。そこに行き着くまでの前振りも秀逸で、不思議の国のアリスを匂わせる白いウサギのシークエンスとか、ことごとく全編がカッコイイというか、本当に見事な作品だと思います。

電話回線を使って現実世界とマトリックス内の世界を行き来する設定も素晴らしくイイですよね。以前ミヒャエル・エンデの『はてしない物語』についての記事を書いたとき、現実と本の中の世界を行き来するところが破綻なくスムーズに描ききってるところを絶賛しましたが、先日たまたま古本市で見つけたエンデのインタビューを含むムック本で、ちょうどそのあたりのことが書いてあって、やはりエンデ自身、本から抜け出る時のアイデアがなかなか浮かばず精神に異常を来すレベルまで悩みに悩んだシーンだったそうです。虚構と現実を行き来するというアイデアの一番の難関は、その行き来をどうやって為すのか?という部分ですから、それに成功したら作品制作における難関の7割はクリアしたようなものでしょうね。

マトリックスの電話もそんな天才的なアイデアで、現実への出口になる回線は、監視プログラムを擬人化したエージェント達が監視しているルート以外を見つけねばならないのですが、それを見つけるやりとりとかも実によかったですね。どこそこの通路の先にある廃墟のアパートの○階の部屋にある電話から出られるぞ!という連絡を受けてエージェント達から逃げてそこに向かうシーンとか。ひとつひとつのアイデアを、ちゃんとスリリングなアクションをからめて表現しているところが凄過ぎます。

あのカバーが下にカシャッとスライドする黒い携帯電話もサイバーな感じでカッコよかったですね。あの製品は、NOKIA(ノキア)というフィンランドに本社を置く電気通信機器メーカーのもののようです。こういう細かいアイテムにも気を抜かずにマトリックス感のある携帯を探しまくって選んだモデルなのでしょうね。

他に電話のシーンでは、トリニティがマトリックス世界にある電話ボックスから現実に帰ろうとするシーンもシビれるほどよかったですね。エージェントが気付いてトラックの運転手の体に入り込んでトリニティのいる電話ボックスに突進してくるスリリングなシーンで、間一髪で船に戻れたトリニティとマトリックス内で破壊された無人の電話ボックス内の受話器との対比が見事な演出でしたね。


2025/10/26 同日に追記

※モーフィアスがネオに赤と青のカプセルを選ばせるシーン〜
青い薬はただの睡眠薬なのでしょう。飲んで目覚めれば元のマトリックスの世界です。しかし、赤い薬を飲めば、マトリックスの夢から醒めて真実≠知ることになる、という選択です。このシーンは、誰しもが「もし自分だったらどちらを選ぶのだろう?」と思ったのではないでしょうか?劇中ではとくに説明はないですが、赤の薬は、おそらくマトリックスからの信号を遮断するための、神経系統に作用する薬なのかな、と想像します。日本人からすると、赤い薬と青い薬、というと、手塚治虫の『不思議なメルモ』を思い出させますよね。メルモでは、青いキャンディは1粒で10年の歳をとり、赤いキャンディは10年若返る、というものでした。マトリックスでの薬もメルモのキャンディも、本来どちらも赤でも青でも優劣とか損得はありません。
劇中でせっかく目覚めたはずのサイファーが満たされた夢のほうが貧相な現実よりマシという考えに至って、エージェントに頼んでマトリックスの夢の中に戻してもらうシーンがありましたが、そういう選択にも十分魅力があるということですね。また、メルモのキャンディも、歳をとることも若返ることも状況によってはどちらもメリットがあります。しかし、やはり冷静な視点から考えれば、現実の選択であれば、虚構の世界よりも真実の世界に魅力を感じてネオと同じように赤い薬を選ぶと思いますし、メルモのキャンディも、若さという金銭にも代え難い価値を得られる赤いキャンディのほうが欲しがる人が多いと思います。なぜなら、何もしなくても人は歳をとりますが、若返ることは物理的に困難なので。そう考えると、奇しくもメルモもマトリックスも赤と青のそれぞれの価値観も似てるところがあるなぁ、と感慨深いものを感じるのでした。

追記終わり




今頃『リローデッド』と『レボリューションズ』鑑賞


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『マトリックス』1999年、『マトリックス・リローデッド』2003年、『マトリックス・レボリューションズ』2003年
脚本・監督・製作総指揮/ウォシャウスキー兄弟 発売元/ワーナー・ホーム・ビデオ
吹き替えもネオ(キアヌ・リーブス/小山力也)、モーフィアス(ローレンス・フィッシュバーン/玄田哲章)、トリニティ(キャリー=アン・モス/日野由利加)、エージェント・スミス(ヒューゴ・ウィーヴィング/中多和宏)と、声もイメージ通りの名演でまったく違和感が無いので、せかっくなので吹き替えで視聴しました。せっかくだから〜


そんな感じで、『マトリックス』熱がぶり返していたところ、先日、古本市で、マトリックスの初期の三部作が安価だったので、二作目の『マトリックス・リローデッド』と三作目の『マトリックス・レボリューションズ』の二本を手に入れて、さっそく見てみたのでした。ほんとは週末は古本市に行こうと思ってたんですが、雨がずっと止まないので、せっかくなので鑑賞して熱も覚めやらないうちに記事にしてみようと思い立って書いてみました。せっかくだから〜せっかくだから〜

『マトリックス』は、当初から三部作の予定で作られたといった話があり、『リローデッド』もその後テレビで見た気がするんですが、やはり第1作目がうまくまとまっているだけに、二作目以降はお話的な部分では、タネがわかってしまった手品を見ているような蛇足感が否めず、お話も少し複雑になってしまってあまりハマれずにいつしか時が過ぎて2作目のストーリーは忘れかけてたところでした。ということなので、いい機会ということでン十年ぶりに三本とも立て続けに見てみました。

1作目では、この世は実はマトリックスというコンピュータ内のシミュレーションの世界だった、という部分が最大の魅力でしたから、二作目以降は主にスミスとの超絶アクションがメインの楽しみのような鑑賞になってしまった印象があります。そういえば『リローデッド』ではじめて出てくるキャラ、キーメイカー=A東アジア系の愛嬌のある風貌のイイ味の役者さんで、役所(やくどころ)もマトリックスというプログラム内に存在するハッカー的な感じでユニークでした。あらゆる場所にバックドア(コンピュータへの侵入者がシステム内に不正侵入するための入口)を作ってしまうことができる、という設定が面白いですよね。最期にネオたちを助けるために逃げ遅れて死んでしまうのが可哀想でしたが。まぁ、キーメイカーはネオたちのように人間の本体がある存在ではなく、預言者と同じように、プログラム上だけに存在する純粋なデータだけで構成された存在ですから、復旧ソフト的な存在によって蘇生できる可能性も残されているに違いない!と自分を納得させながら鑑賞しました。

スミスはコンピュータ内の秩序を維持するアンチウィルスソフト的な存在ですし、預言者≠燗艪゚いていながらも人間の直感などの非合理性を模した存在で、彼女もある種のプログラムの擬人化でしたね。こういう発想ってとてもワクワクします。

『レボリューションズ』は、AIの支配から逃れて生息していた純粋な人間が住むゼイオン≠ニいう地下世界の組織とマトリックスを維持しているAIの操る機械兵器との戦いがメインで、ゼイオンの首脳部で構成される評議会とのやりとりなど、お話的には政治的な駆け引きを中心にしたシナリオになってましたね。結局、マトリックス対ゼイオンの戦いは、勝ち負けはつかずに、ネオの働きのおかげで講和が取り決められ、ゼイオンに平和が戻った、ということでしたね。まぁ、やはりストーリー的には1作目で美味しいところを全部明かしてしまってるため、2以降はお話自体を面白くすることが難しいので、やはりアクションが見せ場になって惹き付けている面は大きいように感じました。『レボリューションズ』は、やはりあの雨の中での大量のスミスとのバトルが圧巻でしたね。

『レボリューションズ』は、ゼイオンとマトリックス側の機械兵器との戦いが主軸ですが、ゼイオン側の兵器が、大きめのロボットに乗って操作する感じで、『サクラ大戦』の光武≠彷彿とするどこか可愛い感じのメカでしたね。『マトリックス』は監督の好きな日本アニメ『攻殻機動隊』や『AKIRA』の影響が強いということなので、あのメカは光武というより、攻殻機動隊のタチコマのイメージでしょうか。そういえば、マトリックスのバーチャルな世界に自分の意識を同期させるための、あの首の裏にあるプラグの差し込み口、あのアイデアも『攻殻機動隊 Ghost in the Shell』にありましたね。

とにかく、ようやくこれで、『マトリックス』三部作をコンプリートしたか、という満足感に浸っていたら、なんと三部作以降も続編が作られてたのを今さらながら知りました。『レボリューションズ』から時を空けて18年後の2021年に『マトリックス・レザレクションズ』が公開されてたんですね。さらに、現在『マトリックス』の5作目も企画されてるようです。あまり間をあけると役者も歳をとるわけですし、監督もパッション的な部分を含めいろいろと難しい部分が増えていきそうですが、作るからには良作になってほしいですね。

2025/10/28 追記

※東アジア系の愛嬌のある風貌のイイ味の役者さん〜
東アジア系のいい感じの役者というと、これも『リローデッド』以降に登場する預言者の護衛役のイケメン、丸サングラスと白いカンフー着をまとった拳法の達人セラフ≠煦象的でしたね。中華風の内装の狭い室内で初対面のネオの力を測るためにカンフーバトルをはじめるシーンがかっこよかったですね。セラフの中の人は、台湾出身の武術家、俳優のコリン・チョウで、18歳のときにあのサモ・ハン・キンポーに見出されて多数の香港映画に出演するようになったそうです。映画同様、実際の腕前も達人っぽいですね。調べてみたら『リローデッド』出演時は36歳だったようですね。

追記終わり


配役の変更の話、キャラクターの話

『マトリックス』といえばキアヌ・リーブスのネオ!のイメージが完全定着してますが、調べていたら、最初は主人公役はウィル・スミスに打診された、というのを知って驚きました。ウィル・スミスはスケジュールの都合がつかなかったためにキアヌになったようなのですね。これも神の采配なのか、結果論ですが、キアヌでよかった!と時を超えてホッとしています。つり目型のサングラスに漆黒のシルクのロングコートのあのキアヌの姿って、自分的には、往年のシーナ&ザ・ロケッツの鮎川誠さんとダブって見えていて、そういうビジュアル的な親近感も『マトリックス』の魅力の一端でもありました。

そういえば、『マトリックス』で救世主を予言する謎めいたキーパーソン、預言者≠ニ呼ばれる女性、オラクル(グロリア・フォスター)ですが、『レボリューションズ』では別の役者さん(メアリー・アリス)に変更になっていて、アレッ?と思いました。物語内では「オラクルが削除コードによって消されそうになったことが原因で、その復旧のためのデータの更新による影響で容貌が変わった」という、それなりの理由づけはされてましたが、こちらも調べてみたら元の役者さんは後に他界されていたようで、そういう物理的な理由で役が引き継げなかったみたいでした。アメリカ生まれだそうですが、インド系の風貌の神秘的な印象で、謎めいた預言者そのものっぽいリアリティを感じさせてくれて好きだっただけに残念です。

役の変更といえば、未見の4作目『レザレクションズ』では、なんとこのシリーズの重要キャラであるモーフィアス役や、影の主役、エージェント・スミス役まで変更になってるそうですね。自分の中では、ローレンス・フィッシュバーンのモーフィアスこそがモーフィアスですし、ヒューゴ・ウィーヴィングのエージェント・スミスこそがスミスなので、残念な部分です。スミスはヒューゴのスケジュールがどうしても合わなかったことが理由なようで仕方ないですが、モーフィアス役の変更はなんかあいまいな理由でしっくりこないですね。やはり人間関係的な裏の事情があったのでしょうか。『レザレクション』作品自体のレビューも賛否が別れていましたが、私としては特別な事情が無い限りはしばらくスルーすることにします。

※ヒューゴのスケジュールがどうしても合わなかったことが理由〜
『レザレクションズ』の依頼がくる前に受けていた演劇の仕事と重なってしまったようです。ヒューゴ自身もスミス役には思い入れが強く、どうにかして引き受けたかったそうで、8週間もの日程調整をしたそうですが、それでも調整がつかずに泣く泣く断念したとのことです。ネオとスミスは、ルパンと銭形くらいに作品の根幹にかかわる密接なキャラだけに残念でならないですね。

『リローデッド』以降も特撮アクションは目を見張る面白さがありますが、僭越ながら、やはりあまり多くの枝葉は付け加えずに第1作だけでスッキリ終わりにしたほうがより伝説の映画っぽくなった気がしますね。しかし、1作目の『マトリックス』はストーリーやアクションにとどまらず、登場する数々のキャラの魅力もハンパないですから、あの愛おしいキャラの活躍がもっと見たい!と思うのは人情でしょうね。蛇足とわかっていながらも続編を見たいと思う多くの客と、それに答える制作側、ある意味、こういう革新的な大ヒット作の宿命のようなものなのかもしれないですね。まぁ、『マトリックス』の場合は、もっと複雑で、監督のウォシャウスキー兄弟も性転換してウォシャウスキー姉妹になってたりとか、『レザレクション』では、コンビを解消して姉のラナが単独で監督、脚本、製作を務めてるようで、『レザレクション』製作のきかっけも、個人的なトラウマの解消のような感じの内面的な理由も大きいとのことです。続編製作も単純に興行的な理由だけでないようで複雑ですね。前作までは妹のリリーがアクション的な部分のアイデアで支えていたようで、彼女が抜けたことで観念的な要素が強まった、というレビューもありました。まぁ、そこは好みの問題でもあるので、見てみないと善し悪しは判断つかない部分だと思います。

キャラの魅力という意味でも、とにかく1作目は完璧でしたね。ネオ、トリニティ、モーフィアスという主要キャラはいうにおよばず、モーフィアスが船長を務めるネブカデネザル号のオペレーターのタンク(マーカス・チョン)も個性的な風貌もあって大好きなキャラです。1作目しか出て来ないのが残念です。他にもトレーニングプログラムに赤い服の美女を紛れ込ませてネオにサービスする小柄で陽気なマウス、姉御キャラのスウィッチ、絵に描いたような悪人顔のサイファー、そしてネオと双璧を為す『マトリックス』のもうひとりの主役、エージェント・スミス!漫画に出てきそうなハッキリした個性と風貌を持ったキャラが多いのもマトリックスの魅力ですね。大勢のキャラが活躍する話というのは、漫画でも描き分けが大変ですが、実写でも同様で、演技だけでなく顔やスタイルなどのビジュアルも印象に残るはっきりした個性があったほうが物語を把握しやすくなり、またキャラに感情移入しやすくなる分、物語に没入しやすくなるので、キャスティングってかなり重要な要素ですよね。

また、キャラの名前も「リンク」や「マウス」などのIT感のあるネーミングや、「トレインマン」「キーメイカー」などの記号的な名前など、どれも『マトリックス』の世界観によく馴染んでいて、よく考えられてるなぁ、と感心しますね。主要キャラの「モーフィアス」、これも意味はわからないながら、語感が人間につける名前っぽくなく、ミステリアスな響きで演者のフィッシュバーンの個性も相俟って大好きなんですが、いい機会なので、モーフィアスってどんな意味なのか調べてみました。「モーフィアス」は、ギリシャ神話の「夢の神モルペウス」に由来する言葉で、この神の名前はギリシャ語の「形作るもの」からきている、とのこと。「夢の神」、なるほど、マトリックスという夢の中に現れ、主人公をその夢から現実世界に連れ戻すキーマンにふさわしいネーミングですね。同じく主要キャラであるトリニティはキリスト教の「父と子と精霊」の三位一体を指す言葉ですが、どことなく物語の軸となるネオとモーフィアスとトリニティ自身の三人を意味しているようにも思えますし、ネオを愛によって蘇生させる場面をキリスト教的に象徴しているようでもありますね。そういえば、主人公自体が人間をAIの支配から救い出す救世主キリストの暗喩を匂わしていましたから、なかなかにうまいネーミングだと思いました。



ファッション、カンフーバトル、カタカナ風のマトリックス・コード≠フグラフィックの話

そういったいろんな面でも『マトリックス』1作目は隅から隅まで完璧な作品になっていて素晴らしいですね。きちっと着こなしたスーツで主人公たちを追いつめて行くエージェント達、モーフィアスを救出するために厳重な警備のビルにトリニティとふたりで黒のファッションに身を包んで乗り込むスタイリッシュなバトル、こういうあたりの演出も天才的でしたね。現実的な整合性を考えすぎると、エージェントがスーツでは激しい動きに不適応では?とか、一瞬の油断が命取りになるような危険なバトルに、動きづらいロングコートに視界を制限するサングラスで乗り込むという設定は大丈夫か?とか、つまらない細部に気を取られがちになりそうですが、あくまで映画なので見た目のかっこよさを最優先するという英断は大成功してると思いました。そもそもマトリックスの中の世界は自分の能力の可能性は自分で設定できるわけですし、あの黒ずくめのファッションも、漫画のヒーローものでよくある一般人が変身して外見がカッコ良く変わる、という漫画的な面白さへのオマージュ的なものなのでしょう。

グラフィック的なアイデアも飛び抜けてましたね。衝撃だったのは、ときおりネブカデネザル号内のモニタに写し出されるマトリックスを構成するプログラムのコードが縦書きのカタカナ(なぜか鏡像のカタカナ)みたいな文字であるところです。マトリックスは世界そのものをコンピュータの仮想空間内にシミュレーションするわけですから、現代のプログラムのような英語基本の1バイト文字より、日本語のような2バイト文字なら文字数が増える分、一気に組み合わせの数が膨大になるので、現実と寸分も違わない複雑な世界をまるごとシミュレーションする未来のコンピュータ言語には、英語より情報量の多い2バイト文字が必要なのだろうな、と思わせる説得力がありますね。しかも、そのカタカナ風のコードが、横書きではなく、縦に雨のように降り注ぐアイデアが素晴らしいです。

そのように、それなりに説得力のある理屈であのような縦に流れるカタカナのプログラムになっていたりしてるのでしょうし、そういうところにも感心させられました。黒い画面に、このカタカナっぽい黄緑色のコードが雨降りのようにモニタ上を縦に流れるビジュアルというのは、以降の近未来っぽさ≠フ典型的なイメージとなって浸透しましたね。この緑色のコードのフォントは、サイモン・ホワイトリーによるデザインとのことで、日本出身の妻の存在がインスピレーションのきっかけになったそうです。流れる文字列は寿司など日本食のレシピを参考にしているらしいですね。序盤のトリニティのアクションも押井守の攻殻機動隊からインスパイアされているのは有名な話ですが、バトルシーンの多くが香港映画を思わせるカンフーのワイヤーアクションを多用していたりなど、アジア人が馴染みやすい絵作りなところも愛着がわく作品ですよね。

日本のゲームも、一番強い武器はなぜか銃ではなく剣だったりしますし、香港映画を見てても、素手の拳法が銃より強そうに思えてきます。多分それは、現実的な破壊力より、見た目にインパクトのある攻撃である拳法や剣術のほうが絵的に映えるということなのでしょうね。どこか銃って、指で引き金をひくだけで距離をとった敵さえも楽して倒せるズルい武器というイメージがありますね。なにかのセリフにありましたが、「飛び道具とは卑怯なり!」という感じですね。心や肉体の鍛錬と関係なく攻撃力を持つ銃というのは、映画や漫画などのビジュアル的なバトルにおいては、面白味を出しにくいところがありますよね。ジャッキー・チェンの映画などで銃が簡単に使えてしまうと、カンフーの達人のおじいちゃんから教わる厳しい修行で強くなっていくという主人公の成長過程が必要なくなってしまいますからね。そういえば漫画の『バキ』でも、主人公バキの親父、範馬勇次郎は世界を破壊しそうなレベルの超人ですが、基本素手ですね。月をも破壊した『暗殺教室』のコロ先生も基本は超人化した肉体が武器のステゴロのバトルでしたね。やはり、フィクションにおけるバトルでは、素手が一番ビジュアルなインパクトがあるということなのでしょう。


メモ参考サイト


2025/10/26 同日に追記

※距離をとった敵さえも楽して倒せるズルい武器〜
『バイオハザード4』の主人公、レオンが、背後から銃口をつきつけるエイダの銃を蹴り上げ逆にナイフで背後をとりながら「接近戦ではナイフの方が速い。覚えておけ」という名シーンがありましたね。他の作品でも同じセリフを見た記憶があるなぁ、と思い出したのは、こちらも大好きなゲーム『クロス探偵物語』でのワンシーンでした。第5話の「紺碧の記憶」のラストに近いシーンで、黒須剣がスタンガンを、ルパンそっくりの井上刑事がワルサーp38の銃口を犯人に向けて威嚇するシーンがありましたが、ここでナイフを手にした犯人は不敵な笑みを浮かべて「接近戦で一番有利なのがナイフだってことを知らねえようだな」とうそぶく印象的なシーンがあったのを思い出しました。バイオ4は2005年、クロスは1998年が初出ですが、おそらくそれ以前にもあったミリタリー系マニアの常識のような知識っぽいですよね。
まぁ、それは置いといて、それまで銃の描写といえば、ピストル、ライフル、ショットガン、などのアバウトな描き分けだったものが、ルパン三世では、それぞれのキャラごとに所持する銃がワルサーだとかマグナムだとか、細かく設定されたことは画期的でしたね。特定の固有のブランドやメーカー名を出すやり方はハードボイルドものの文法的なところがありますが、そうしたところからもカッコよさがにじみ出てきてよかったですね。ルパンでのオリジナルの武器である五エ門の「斬鉄剣」ですが、このソードアクションもシビれるほどかっこよかったですね。とくに1stルパンの五エ門初登場の回で、次元が五エ門に向かってピストルを連写するシーン、発射された銃弾をことごとく剣で弾き返し、地面に落ちた銃弾が時間差でパカッとふたつに割れるシーンは子供心に鳥肌がたったものです。銃は剣より強い武器であるという先入観をくつがえす爽快感がそこにはあって、そこにグッときましたね。まさにフィクションならではの醍醐味を体現した名シーンでした。

※やはり、フィクションにおけるバトルでは、素手が一番ビジュアルなインパクトがある〜
何にでも例外はあるので、素手や剣などの見た目が派手なバトルだけが優れているというわけでもないかもなぁ、とフト例外をいくつか思い出したので追記します。思い入れのある大好きなゲーム『FF10』ですが、このゲームでも主人公の武器は剣で、味方側パーティにももうひとり剣を使うアーロンがいて、やはり剣はゲーム内の武器の定番を感じますが、この作品で最も衝撃をうけたバトルアクションは、以前にも何度か言及しました、隠し召還獣のアニマの攻撃モーションです。通常、攻撃のアクションは剣にしろ拳にしろ、なんらかの敵との接触を伴うビジュアルになるはずですが、アニマの場合は身体を鎖で拘束されてる姿から察するとおり、自由に身動き出来ないという珍しい召還獣です。なので、その攻撃も片目から発する衝撃波によるもので、カコン!という金属音と共に距離のある敵になぜか目に見えない強烈な攻撃が入る、というサイキック感のあるユニークでカッコイイものでした。こういう演出もあるんだなぁ〜と、すごく感心したのを思い出します。銃のように、弾丸みたいな物理的な部分が無いのもミステリアス感があって秀逸な攻撃エフェクトでしたね。また、同じような物理的な接触無しで攻撃するカッコイイアクションというと、車田正美の『リングにかけろ』の世界大会編で登場するフランス代表の五つ子、ベルばら≠ホりの耽美な容姿のバロア兄弟によるカマイタチ<pンチです。これは個人的にリンかけの中で一番好きな技です。フックのモーションで周囲の空気にカマイタチを人為的に起こし、それを相手にぶつける技なのですが、見た目はパンチの届かない距離にいる相手にナイフで切りつけたような攻撃が入るので、すごく不思議感のある見た目にもカッコイイ技で大好きでした。ボクシングという、パンチを当てて相手を倒す競技において、物理的な接触無しで魔法のような攻撃をしてくるビジュアルなバトルにとても感動したのを思い出します。とくに、世界大会編あたりまでは、トンデモとはいえ一応カマイタチであるとかコークスクリューであるとか、それなりに理屈のある技なので、けっこうワクワクしながら読んでました。後半の必殺技はそういう理屈もなくなっていったのがちょっと残念でしたね。

追記終わり


アニメ版、ゲーム版など、メディアミックスの話

大ヒット作だけあって、映画だけでなく、いろいろとメディアミックス展開していて、ファンには嬉しいことでもあると思いますが、私の趣向性はその世界観をきれいに描ききった1本(『ルパン三世』をはじめ多くは第1作目がソレになりますが)を見てしまうと、その他のバリエーションにはさほど食指が動かなくなる傾向があります。『マトリックス』も、1作目のインパクトと感動が大き過ぎたせいもあり、その他の派生的なコンテンツには興味がわかなくて、今回記事にしたように、2作目以降を見たのはほんの先日のことです。やはり1作目のクオリティと比べてしまうと正直2作目以降は前作を超えたとは言いがたいですが、付随する細かな裏設定や世界観の広がりと、アイデア溢れる壮快なアクションシーンの作り込みは素晴らしいものがあり、見て損をしたということはなかったですね。まぁ、続編とか外伝のような話は、前作以上の期待をして見るものではなく、あくまでファンがその世界観に長く浸っていたいという欲求を叶えるためのコンテンツなのだと割り切って見るのが正解なのでしょう。そういう意味では『リローデッド』『レボリューションズ』は、期待以上のものだったといえるかもしれません。こうして『マトリックス』の記事を書いているうちに、マトリックス熱が高まってきていて、あまり興味がなかった『レザレクションズ』も、見たい気持ちが徐々にわいてきました。

他には、アニメ版の『アニマトリックス』も未見ですが、これはマトリックスの世界観を元にした9つのオムニバスということで、それぞれ個別の短編ストーリーみたいですね。ウィキペディアで概要を見てみると、マトリックスが出来た原因となる時代背景をテーマにした人間対機械の争いを描いた物語や、マトリックス内に存在する東京を舞台にしたサイドストーリーなど、けっこうそそる内容のものがいくつかあって、こちらもいずれ見てみたいですね。

あとはゲーム版も出てたようで、それは『エンター・ザ・マトリックス』というPS2のソフトがあるようです。時間軸は1作目と2作目の間の話で、ネオやトリニティなどの本筋でのキャラではなく、『リローデッド』に登場するロゴス号の船長、ナイオビが主人公のようです。素直にネオ達を主人公にしてくれたほうが購買欲をそそられるのに、と思いますが、多くのファンも同じ気持ちだったからこそ、あまり話題に登らない作品になっているのでしょうね。しかし、レビューを見ると、賛否はあるものの、映画マトリックス独特の世界観や個性的なアクションなどが再現されていてけっこう面白いという評価もちらほらありました。難易度的にはそこそこ高めで、歯ごたえのあるもののようですが、肌に合えばけっこう楽しめる作品のようですね。押入れからPS2を引っ張り出してきてセッティングするのが面倒ですが、今のところプレミアもついてないようで、安価に入手できるタイミングですし、ちょうどいい買い時であるかもしれませんね。ちょっと迷うところです。

という感じで、最近『マトリックス』の2作目『リローデッド』、3作目『レボリューションズ』を立て続けに見た勢いで『マトリックス』の記事を書いてみました。語りたいことがたくさんあってキリがなくなりそうなのでこのあたりで一端筆を置こうと思います。『マトリックス』といえば、個人的には1作目で語られる深遠な哲学の部分が一番衝撃を受けた部分です。そのあたりのことも後々追記するか別項で記事にするかもしれません。それでは、御清覧ありがとうございました!

posted by 八竹彗月 at 09:20| Comment(0) | 映画

2025年09月30日

漫画等のあるあるシーンの話など・その2

あるあるなお約束とパロディ

前回の記事『漫画等のあるあるシーンの話など』で、むかしの漫画などのあるあるシーンの例として、「腹パンチで失神」「森の中に屍体を埋める」などを挙げましたが、こうしたお約束は、マンネリ的なものを感じるものの、うまくハマると水戸黄門の印籠のような、物語上の小気味いいリズム感を出してくれたりもしますね。要は使い方次第なのですが、不条理を笑いどころにするナンセンス系のギャグ漫画では、そういうネタをメタ的にパロって笑いにするものもあって面白いですよね。相原コージ、和田ラジヲ、吉田戦車、中川ホメオパシー、鴨川つばめ、などなどの先生方による、そういった系の作品はとても好みです。

パロディやナンセンスというのは、突き詰めればシュルレアリスムやコンセプチュアルアートのような側面もあり、例えば赤瀬川原平のレアな短編漫画『お座敷』や『おざ式』はどちらもつげ義春の『ねじ式』のパロディですが、同時に、漫画という表現自体に向けられたメタフィクション的な面白味もあり、安易なパロディ漫画になっていないところに底知れない創造性を感じて感服したものでした。

そういうナンセンスな笑いは、元になる定番的な作品なりお約束表現という土台があってこそ成立するもので、結局はこの世には不要な物事などひとつも存在しないのだ、というどこか哲学的な真理をふと感じたりするところです。

※赤瀬川原平のレアな短編漫画『お座敷』や『おざ式』〜
私が読んだのは、『お座敷』は『マンガ黄金時代 ’60年代傑作集』(文春文庫 1986年)、『おざ式』は『ガロ20年史 木造モルタルの王国』(青林堂 1984年)です。近年、どちらも収録されている『赤瀬川原平全漫画』(2015年 河出書房新社)が刊行されましたが、ちょっと値段が高めだったので少し待ってから古本で買おうとしたら、逆に高騰してしまって定価の倍以上のプレミアになってしまいました。このことから、マニア向けっぽい本は、結果的には発売時期に定価で買うのが一番安上がりなのだ、という教訓を得たのでした。

※メタフィクション的な面白味〜
メタフィクション的な漫画といえば、こち亀でもたまにコマ枠を乗り越えたり壊したりなどのメタ的な表現が出てきますが、こういう表現を見るとすごくワクワクしたのを思い出します。こういう表現の正確な元祖はわかりませんが、現代漫画の基本的なフォーマットを完成させた偉人、手塚治虫がすでにそのフォーマットを壊すようなメタ表現もしていましたね。ヒョウタンツギやオムカエデゴンスなどのキャラは、物語中に脈絡なく登場するシュールなキャラですが、これは、シリアスすぎる場の空気をいったん和ますという、メタ的な役割で登場するのみで、お話にはまったく絡んで来ない謎めいたキャラです。また、コマ枠を乗り越えたり、コマ枠を引きちぎって振り回したりなどのメタ表現も『百物語』などでやってた記憶がありますね。そういえば、手塚の実験的な短編アニメ『おんぼろフィルム』はそうしたメタ的なユーモア(キャラがフィルムの汚れに気付いて拭いたり、フイルムの枠を乗り越えたりなど)が主題となった素晴らしいアイデアの作品でしたね。メタフィクションとは、オリジナルの世界観に対するある種の異世界的な表現であり、それは平行宇宙的なものをおぼろげに感じさせるところがありますね。そうしたところも惹かれる理由なのかもしれません。推理小説でも、数十人の容疑者が全員犯人だった、とか、小説を読んでいる読者自身が犯人だった、とか突拍子も無いアイデアの作品がありますが、そういう物語自体に仕掛けがある作品って興味を引かれますね。最近気になっている日本三大奇書のひとつ中井英夫の『虚無への供物』は、メタフィクション的な手法の推理小説らしいのですが、未読なのでそのうち読破したいですね。

※この世には不要な物事などひとつも存在しないのだ〜
それは、『デスクリムゾン』や『四八(仮)』などの有名なアレなゲームが、アレなおかげでゲーム史に残る独特な存在となっているように、稚拙さや不完全さも、時として人を魅了するアドバンテージにすらなりうるということを示唆しているような気がします。そうしたゲームではバグですらネタとして魅力的なポイントになってたりして面白いですね。アニメでは『チャージマン研!』がそんな作品ですね。映画でも一頃エド・ウッドがそうした意味でブームになったりしましたね。未見ですが『死霊の盆踊り』というタイトルのインパクトだけのランキングがあれば優勝しそうな作品がありましたね。こうした作品の魅力は、笑ってもらうことを意図していない表現だからこそ笑える、という天然≠ネ部分もあるでしょうが、総じて人々の記憶に残るこうした天然な面白さをもつ表現は、いずれも根底には表現に対する何らかの生真面目さ≠ェあるような気がします。だからこそ、不満より先に愛着というか愛しさというか、とりあえず寄り添って楽しもう、という気分にさせる魔力があるのかもしれませんね。

気を抜くと話がどんどん横道に逸れそうなので、今回のテーマ、漫画などのあるあるシーンの続きに入ろうと思います。


あるあるシーンあれこれ

あるあるシーンで、前に書いた記事の後も、思い出したらメモしていたのですが、そのメモを中心にいくつかピックアップしたいと思います。

バーキャラが必殺技の名前を叫ぶ
必殺技や魔球などの名前をわざわざ叫ぶ演出、格闘系やスポ根系のアクションものでよく見る表現ですが、こと日本ではもはやあるあるすぎて疑問にも思わなくなっている気がします。しかし、冷静に考えてみると、叫ぶ必要がないどころか、叫ぶことは(集中力が分散するとか、力が入らないとかの)デメリットしかないわけで、現実世界ではありえない表現ですよね。海外では、まれにそういう表現があるものの、多くは日本のそういうサブカルチャーに影響を受けた作品が主で、技の名前を叫ぶというのは日本独特の演出のようです。こういう表現の正確なルーツは不明ですが、XのAIに聞いてみたら、おおよそ1970年代頃の格闘漫画や特撮ヒーローものが原点らしいです。いわれてみれば、『仮面ライダー』とか『デビルマン』などで技名を叫ぶ演出が頻出していた気がしますね。文化的な背景としては、歌舞伎や能における「名乗り」の文化の影響も遠因としてあるかもしれないとのことです。
技を叫ぶ現実的なメリットは皆無ですが、「技名を何度もアピールすることで読者の記憶に残る」「キャラの個性を際立たせる」などのフィクションとしてのメリットはあり、そのメリットはリアリティに忠実であるよりも大きいから日本ではいつしか定番の演出となっていったのでしょうね。

※叫ぶことは(集中力が分散するとか、力が入らないとかの)デメリットしかない〜
車田正美の初期のヒット作『リングにかけろ』の主要キャラのひとりに、30〜40代にしか見えないおそろしくフケ顔の中学生、志那虎一城がいます。最初は寡黙でシブいキャラでしたが、次第に気さくな人間味のあるキャラになっていくので、巻が進むほど好きになっていくキャラです。彼は幼少期に右腕を親父の狂気じみたスパルタ特訓(扇風機の羽を刃物に換えた超危険なマシンを使ったトンデモ訓練)のせいで壊してしまい、それ以来左腕一本で戦うとんでもないハンデをかかえたボクサーとなっていくのですが、そのハンデを乗り越えるために、左腕だけで戦えるために猛特訓し、0.3秒の間に3発のストレートを繰り出す必殺技「ローリングサンダー」を身につけます。この技も繰り出すときに名前を叫ぶのですが、0.3秒の間に技名を叫んでいるのだろうか、と読みながらいつも空想してました。0.3秒の間に聞き取るのも容易でないくらいの早口で「ローリングサンダー!」と叫んでるのを想像すると、技だけでなく、叫びのほうもかなりの難易度を感じる必殺ブローだなぁ、と思ったものでした。ローリングサンダーの進化系である「スペシャルローリングサンダー」は、さらに短い0.1秒間に5発のストレートパンチを人体の5つの急所に打ち込む超人的な技ですが、こちらの叫びは前の技より0.2秒減りつつ文字数はスペシャル≠ェ入る分、4文字増えてるので、おそらく志那虎の技名の叫びは本人以外は聞き取れない速さに違いありません。まぁ、そういった意地悪な解釈はネタ的に面白いのでしてみましたが、実際の技名の叫びは志那虎の心の声なのだ、みたいな解釈もできますし、どちらかといえばそっちが真相ということでいいのかもしれませんね。

バー対戦相手はなぜか一人ずつの法則
『デビルマン』でも『仮面ライダー』でも、多くのヒーローものでは敵の基地にはたくさんの魔物が控えているにもかかわらず、かならず敵はヒーローを気遣ってか、一人ずつしか現れないという法則。格闘系やスポ根系などアクションものの多くに共通する法則ですね。これはエヴァやワンパンマンなど、現代のヒーローものでもほぼ踏襲されている法則ですよね。
戦隊ヒーローものですら、敵は一人の場合が多く(『サクラ大戦』『ゴレンジャー』等)味方側は数人で戦ってるのに敵はあくまで一回の戦闘にはひとりしか出て来ない場合がよくありますね。毎回戦隊ヒーローは敵一体に手間取るレベルなのだから、敵が複数で一気に攻撃されたらスグ負けるのでは?と、子供心に何度かわき上がった疑問でしたが、「まぁ、そこはつっこんじゃいけない部分なのだろう」ということも子供心にわきまえながら見ていたのでした。ヒーローの勝利で終わらなくてはならないのがヒーローものの大前提とはいえ、敵側がひとりずつしか出せない合理的な理由があいまいなのが子供でもちょっと疑問を感じる部分ではありました。こうした敵がひとりづつ出てくる不思議なルールに合理的な理屈が付加できれば新境地が生まれそうなジャンルでもありますね。

バーボス、あるいは準ボス級の敵が女性だった場合は、露出の多いビキニタイプのコスである
『タイムボカンシリーズ』(ドロンジョ様など)、『サクラ大戦』(殺女、2の水狐など)『ファイナルファンタジーX』(ユウナレスカ)等でみられる、強敵が女性キャラの場合、強いキャラほど露出も過度になるという法則。とくにゲーム作品に多い印象がありますね。
男性ボスでも、けっこうむかしから大男の筋肉キャラはザコである場合が多く、ラスボス級はスタイルのいい美男子であるケースが多いですよね。これは70年代の漫画『愛と誠』などでも見られるけっこうむかしから根付いた日本独特のお約束設定ですね。思うに、日本人は強さの度合いを美で象徴するような感性がどこかにあるのかもしれませんね。深堀して考察していくと面白いネタになりそうです。
女性の場合はそもそも格闘系においてはビジュアル的に強そうに表現するのが難しいのもあり、女性ボスの場合は、物理的な強さよりも、魔性のような魔法系の強さをイメージさせる方向でああなっている、という見方もできますね。まぁ、実際のところはセクシーさで男性視聴者を惹き付ける演出ということなのでしょう。
ほかに考えられるのは、味方側のキャラは露出度を上げる合理的なシチュエーションをつくるのに困難な場合に、敵側なら逆に、露出度を高めやすいというのもありそうです。また、露出が高いコスによって、敵のアンモラルな反社会性を際出させて悪のレッテルを貼るイメージ的な誘導というメリットがあることも理由のひとつにあるのかもしれませんね。しかし、昨今はポリコレ的な風潮もあって、こうした演出は歓迎されないムードもでてきたことにより、昨今の作品では露出は抑えめな方向に流れているようですね。これも近いうちにあるあるではなくなってきそうなあるあるネタですね。

バー貧乏な主人公の強敵(ライバル)は金持ち
これもけっこうあるあるではないでしょうか。『巨人の星』(川崎のぼる、梶原一騎)の星飛雄馬と花形満(みつる)、『リングにかけろ』(車田正美)の高嶺竜児と剣崎順、『ガラスの仮面』(美内すずえ)の北島マヤと姫川亜弓などがそういうタイプの昭和の代表的な作品だと思いますが、他に何かないか調べてみると、『スラムダンク』『デスノート』『ハイキュー!!』『僕のヒーローアカデミア』など、昨今でもそういう設定の作品はけっこうあるようですね。
ありがちな設定ではあるものの、こうした設定は、努力と才能、社会構造や地位の格差などの対立構造をわかりやすくして物語の流れを明確にする効果もありますし、国民的作品、ドラえもんも典型的な作品ですよね。世界的なヒット作、ハリーポッターもそういう設定ですし、貧乏な主人公が努力して、才能にあぐらをかいている金持ちを打ち負かす、というストーリーは普遍的な娯楽性をもっているのでしょう。
実際に、世の中は圧倒的多数の持たざる者と、ごくわずかの持てる者で構成されてるわけですから、金持ちを主人公にするよりもマーケット的な意味でもそれは王道でしょう。また、よく考えてみれば、貧乏か金持ちかにかかわらず、我々はすべて、真理を知らない愚者として生まれ出て、やがて人生と苦闘しながら真実にたどり着こうとする旅人なのですから、そういう意味ではすべての人間は象徴的な意味で英雄神話の中の主人公といえるでしょう。ヒーローたちの苦闘に共感するのは、そうした潜在意識に眠っていた根源的な使命を思い出すからなのかもしれないですね。

バー遅刻しそうな主人公が走って登校する途中で美形の異性とぶつかり恋が芽生える
これはむかしからさんざんギャグ漫画でパロディにされてきた有名すぎるあるあるですね。たしか『サルまん』でも解説がありましたね。そういうシチュエーションを描いた最初の頃の作品は70年代頃の初期の少女漫画なのだろうなぁ、という推測が頭をよぎります。遅刻ダッシュしてる主人公が焼きたてのトーストをくわえていると完璧なシチュエーションですね。
ついでにこれもAIに聞いてみたところ、意外な回答で面白かったです。こうしたシーンは、想像するほどあるある≠ネわけではなく、「遅刻」「曲がり角での衝突」「美形異性との恋の芽生え」という設定が全部揃った作品は『はいからさんが通る』で有名な大和和紀さんの作品『セントラルパークにて』(1972年, 週刊少女フレンド第21号掲載)のみが全ての条件を満たしているだけで、他はどれかが抜けているケースのようでした。
つまり、70年代あたりの少女漫画の部分的な記憶が複合されてできあがったあるある<Vーンのようですね。英語圏でもこの日本特有のあるある表現は知られているようで、「Crash-Into Hello」(衝突でこんにちは)と呼ばれているそうです。英語圏でも有名になった理由はTV版『新世紀エヴァンゲリオン』(1996年)の最終話でこのお約束シーンのパロディ的表現(遅刻ダッシュする綾波レイがシンジとぶつかるシーン)があり、それがきっかけのようですね。


マンデラ効果とマトリックス

部分的な記憶が複合されてできあがった、ありえないあるある<Vーンといえば、アニメ『巨人の星』のOPが有名ですね。OPの歌の部分で、「思い込んだら〜」の歌詞にあわせて主人公の飛雄馬が地ならしのための重そうな手引きのローラーを引いている、というシーンを記憶している方も多いと思います。しかし実際のそのシーンでは飛雄馬は雪山を走っているだけであり、そもそもOPにローラー自体が登場していない、というのが事実である、ということが一時話題になりました。
さらに、ローラーを引いている飛雄馬の絵と歌詞に引きずられてあの重そうなローラーはコンダラ=i重いコンダラ)という名前であるという誤認が広まった、という形でも流布されていた都市伝説ですね。
しかし、実際は飛雄馬がローラーを引く場面はOPアニメのどこにも無かったわけで、それがけっこう多くの人に共通して誤解されていたのは面白い現象ですね。私も当然のように飛雄馬がローラーを引いてるシーンを思い浮かべてましたが、こうした事実と異なる記憶を多くの人が共有している現象は通称「マンデラ効果」とも呼ばれているそうで、なかなかに興味深い現象ですね。

マンデラ効果とは、事実と異なる記憶を不特定多数の人が共有している現象を指すインターネットスラング、またはその原因を超常現象や何らかの陰謀として解釈する都市伝説または陰謀論の総称で、名前の由来は、当時存命中であったネルソン・マンデラについて1980年代に獄中死していたという記憶を持つ物が大勢現れたという現象からきているそうです。マンデラ効果の興味深い例がウィキペディアにたくさん挙げられてますが、たしかに自分も記憶違いしているものもいくつかあって、ドキリとさせられました。奇しくも、先に挙げたあるあるシーンの「遅刻する食パン少女」もマンデラ効果の一例に挙げられていますね。つくづく人間の記憶はアテにならないものだと痛感します。

ウィキにも指摘されてるように、マンデラ効果を心理的な記憶錯誤という見地だけでなく、前世や平行世界などの別次元の記憶が流入したために起きた錯誤であるというファンタジックな解釈もあるようで、それはそれで面白い観点ですね。そういえば映画『マトリックス』で、似たような記憶の錯誤の一例であるデジャヴ(既視感)≠フ面白い解釈がありましたね。主人公のネオは廊下を通り過ぎる猫が体を震わせる行動をするのを二回連続して見かけ、ネオは、これはいわゆるデジャヴだ、とつぶやきますが、マトリックスの事情を把握しているトリニティがその現象の正体を説明します。いわく、デジャヴというのはマトリックスに何らかの異常があった場合に起きる兆候だと。デジャヴというのは、仮想世界をシミュレートしているマトリックス(世界そのものをシミュレーションしている超コンピュータ的なもの)にプログラムの変更などを加えた場合に起きる現象で、つまりこの場合は、彼らを捜索している追っ手による仕業であるため、危険が迫っている兆候でもある、ということでしたね。

これは実に見事に現実世界と映画の中の世界を結びつける秀逸なシーンでした。このような何気ないシーンの積み重ねにより、マトリックスとは映画の中だけのフィクションではなく、実は自分がここにこうしている現実というのも本当はマトリックスが生み出した幻影なんじゃなかろうか!?という不気味な気分に何度も襲われます。現実と思っていたものはコンピュータ内のシミュレーションだった、というのがこの作品の興味深い世界観ですが、仏教の空≠フ思想を表現しているようにも受け取れるところがあって、何度見ても引き込まれますね。確認のために久しぶりにDVDを引っ張り出してきて鑑賞しましたが、マトリックスという作品は、近未来SFのような体裁をとった仏教的世界のビジュアル化のような側面も心惹かれる所以なのかもしれないなぁ、と思ったのでした。

実際に、この宇宙そのものも超コンピュータ的なものが生み出しているホログラム的な実体の無い世界なのかもしれない、といった「シミュレーション仮説」が哲学者や物理学者といったアカデミックな立場から主張されている現代においては、デジャヴやマンデラ効果のようなものも、単に脳科学的な現象にとどまらず、突き詰めて行くと宇宙の本質に迫る意外な足がかりになるかもしれませんね。


メモ参考サイト





個人的なマンデラ効果的なものの話など

ほかにマンデラ効果的なもので思いつくのは、都市伝説界隈では、実際は放映されてないドラえもんのエピソード『タレント』がありますね。これもストーリーもそこそこ詳しく語られており、実際にむかし見たと思い込んでる人が意外と多いようで謎めいていますね。断片的な情報をまとめて、いっぽんのドラえもんのエピソードとして映像化した動画を作った人もいて、YouTubeかなにかで何年か前に見たことありますが、なかなか奇妙なテイストの動画で、異世界の番組を見てるような不思議な気分にさせられました。

ドラえもんといえば、私も、『ドラえもん』か『ど根性ガエル』か忘れましたが、夕方頃になにげなく見ていたTVアニメで、こんなお話を見た記憶があります。その作品の登場人物たちは、夜中に肝試しがてら友達グループと小学校に忍び込み、学校の基礎の部分に入り込み真っ暗な中を懐中電灯の灯りを頼りに先に進んで行くのですが、ほどなく足下にマンホールのようなものを発見します。そのふたを開けると地底世界に通じるはしごのようなものがあった。というエピソードです。地下では、現実の街とそっくりの街があり、ただ、地上の街との違いは人っ子一人いない無人だというところです。無人の理由は、戦時中に空襲を逃れるために作られた地下施設だから、という理屈が述べられていた気もしますが、それにしては、地下の街は昔の街並ではなく現在≠フ街とまったく同じで、商店でも普通に商品が並べられていた記憶があります。

後にそういう幼少期の記憶を頼りに検索してみても、めぼしい情報には行き当たらず、これも複数の似たようなシチュエーションの漫画などが混ぜ合わさってできたマンデラ効果的な記憶の誤認のようなものなのかもなぁ、と自分を納得させるしかありませんでした。でも、もしかしたら、子供時代の柔軟な脳が垣間みた異世界の記憶だったりして!と想像すると、ちょっとわくわくするものを感じますね。

閑話休題。今回は、この前の記事で書いた漫画などのあるあるネタを引き続き考察してみましたが、こうした定番の表現は、後にパロディにされたり、オマージュ的に新しい価値を付加されて楽しまれたりしながら、楽しい思い出が世代を超えて引き継がれていくものでもあろうか、と思います。人が面白いと感じる物語には神話の構造を踏襲した一定の骨組みが存在すると言われてますし、斬新すぎる物語は共感を得られ辛い面があります。「型があるから型破り。型が無ければ形無しだ」という言葉がありますが、まさに、先立つ型≠ェなければパロディもオマージュも成立しません。パロディにしろオマージュにしろ、作家がそれを取り上げたくなるほどの魅力や、ネタ元を多くの人が気付けるほど広まった表現であることが前提ですから、人々が飽き飽きするくらいに繰り返された定型のパターンというものも、次の時代の格好の遊び場となって親しまれていくものなのでしょう。ダダイズムもパンクも先んずる伝統表現があってこそ、それを壊して先に進もうという表現が生まれる余地があるわけで、伝統の無いところには前衛表現は存在できません。そう考えていると、この世には何一つ無駄な物など無いのだ、ということをいろんな意味でしみじみ実感しますね。

※「型があるから型破り。型が無ければ形無しだ」〜
自分は立川談志が言っていたという記憶があるのですが、十八代目中村勘三郎の言葉としても知られているようです。調べてみると、中村勘三郎によって知られるようになったこの名言の出所は、無着成恭(むちゃくせいきょう 禅宗の僧侶 1927-2023)がTBSラジオ「全国こども電話相談室」で「型破りと形無しの違いはなんですか?」という質問に対して答えた時の発言をたまたま聞いていた中村が感銘を受けたことがきかっけで以後中村の座右の銘になったそうです。立川談志の場合は、弟子の立川談春のエッセイ『赤めだか』でこの言葉に触れられているところから知られるようになったようで、談志さんの場合は無着との関連は不明でした。さらに無着のこの言葉のルーツは千利休の訓をまとめた『利休道歌』の「規矩作法 守り尽くして破るとも離るるとても本を忘るな」の一節、守破離(しゅはり)の思想を表現した言葉だそうです。
これとよく似た名言に、デーモン閣下の「常識は破ってもかまわないが、非常識であってはならない」という言葉も有名ですね。これは閣下のオリジナルなのかどうか気になってざっと調べたところ、初出は閣下自身の著書『我は求め訴えたり』のようで、ここから広まった言葉のようです。デーモン閣下は今年(2025年)で10万62歳とのことですが、さすが途方も無い長い人生を生き抜いた達人らしい箴言です。調べてみたら、だいたい10万年前というと人類の直接の祖先であるホモサピエンスがアフリカで発生した時期のようです。(正確にはホモサピエンスは約20万年前にアフリカで発生して、日本には約7〜6万年前に到着した、とされているようです)閣下が自分の年齢を1億とか100万とかではなく、10万ちょっとの数値に設定していることも、思い付きのでたらめでなくて、けっこうちゃんとした考古学的な裏付けのある数値っぽくて、そこになんとも奥ゆかしい知性をさりげなく感じるところです。



2025/10/18 追記
また別の「あるある」なパターンを思い出したので追記します。

バー冥土の土産に秘密をペラペラしゃべる敵
敵の奇異なたくらみの謎を追っているうちに敵の軍勢に捕らえられた主人公(あるいは味方のキャラ)が、死の瀬戸際に「せめてお前の目的を教えてくれ!」と頼むと、「フハハハ。どうせもうじきあの世に行くお前に冥土の土産に教えてやろう」と、素直に教えてくれるベタな場面ってけっこうありますよね。さっさとトドメを刺せば敵側はミッションコンプリートなのに、この冥土の土産を話すことが味方の形勢を立て直す時間稼ぎになってしまって返り討ちにされるところまでがお約束です。なので、この冥土の土産≠ニいうセリフが出た時点で主人公の生存フラグが立ったようなものですから、逆に安心してしまうシチュエーションですね。このセリフが主人公(か味方キャラ)以外に発せられた場合はけっこうそのまま本当に冥土の土産になってしまうパターンもありますが。検索してたらちょうどピクシブ百科事典でも記事になってました。


まぁ、面白いストーリーというのは、何らかの奇跡的な展開があるものですから、現実的に考えるといろいろ破綻している部分があって当然だろうと思います。今回の記事のような「あるある」な部分もネタ的なものですので、実際にこういう「あるある」は避けるべきとか、無くすべきとは全く思ってません。
自分がハマった作品も、多くはいわゆる中二病%Iな要素が多分に含まれていますし。物語の現実的な整合性を考えすぎるとこじんまりした躍動感のないものになりがちですからね。破綻した部分を補ってあまりある面白さ≠ェあれば全然問題ないと思ってます。
車田正美の『リングにかけろ』は少年時代にハマって全巻揃えて繰り返し読んでましたが、これなども、ボクシング漫画でありながら、話の中盤あたりから、いつのまにか体重による階級が無くなり、試合もテンカウントではなく必殺技がきれいに決まったら勝ち!みたいなノリになっていきます。うわべだけ見るとトンデモですが、ジャンプのガキ大将・本宮ひろ志御大がリンかけの後書きで言っていたように、ちまちましたボクシングの公式ルールを無視して必殺技が飛び交うバトルに突入してからが車田漫画の本領発揮という感じで、このふっきれ具合が、後の『聖闘士星矢』の大ヒットに繋がっていったのでしょう。(車田漫画は、後期の必殺技バトル系も好きですが、それ以前に描いていた『スケ番あらし』などの人情ものもイイですね。スケ番やリンかけの初期の頃のタッチもイイ味があって、線に暖かい情緒がこもっていて好きなんですよね〜)
また、『愛と誠』『侍ジャイアンツ』『巨人の星』『空手バカ一代』『あしたのジョー』など数々のヒット作で知られる漫画黄金期の巨人、梶原一騎も細部をつっつけば破綻も多いですが、それを圧倒する豪快で大胆で胸躍るようなドラマの魅力が全編にほとばしっていて、細かい部分の破綻より、次の展開のほうが気になってページをめくらされる感じでした。物語というのは、そういった作品ににじみ出てくる作者の熱量に共感することこそが醍醐味なのでしょうね。

追記終わり
posted by 八竹彗月 at 19:16| Comment(0) | 漫画

2025年08月27日

古書を補修してみました!「秋元文庫」編

中高生くらいの少年少女ものの小説のジャンルを昔はジュブナイル(Juvenile)とか呼んでましたが、もうこの呼び方もすっかり昭和感を匂わす単語になりましたね。今でいうライトノベルですが、集英社のコバルト文庫シリーズがそうしたラノベ的なジャンルのハシリでしたね。コバルト文庫は垢抜けて洒落た雰囲気がありましたが、秋元文庫は黄色地に赤文字というやぼったいベタな色使いの背表紙のイメージだけでなく、中身もコバルト文庫の層よりも濃いめの作家や物語が多かったような印象がありますね。コバルト文庫と秋元文庫は、例えれば少年マガジンコミックスの落ち着いたオーソドックス感に対する少年チャンピオンコミックスのケバケバしい見世物小屋感のような、そういう印象を伴って思いだされます。そして、私は後者のどことなくいかがわしい感じに惹かれます。

漫画の描き方≠ニいうジャンルそのもののパロディのようなギャグ漫画の傑作、相原コージと竹熊健太郎の『サルまん(サルでも描ける漫画教室)』も、発行元が小学館であるにもかかわらず初版は秋田書店のチャンピオンコミックスのデザインを真似た装丁になっていて、「わかってるな〜」とウケたものですが、やはり何か大人の事情があったのか、現在のデザインは別のオリジナルなデザインに変更になってますね。

チャンピオンコミックスの赤青黄色の三原色がチカチカするようなデザインは、洗練とはほど遠いやぼったさがあるものの、そこが逆に1950〜70年代に隆盛した貸本漫画を彷彿とする少年期のワクワク感を封じ込めたようなパッションがあって、少年コミックの中では一番ノスタルジックな高揚感を感じるデザインであります。ブックデザインって、洗練されたスタイリッシュなデザインだけが必ずしも良いとは限らないところがあり、やはりデザインの善し悪しというのは、最終的には、読者の思い入れを受け止めれる器を感じれるかどうか、なのかもしれません。つまり、小説でいえば、面白い物語には行間の余白にただよう心地よいオーラが充満しているように、ブックデザインも同様に、良い本には読者の想いを受け止めて包み込むような余白≠ェあるのでしょう。

今回取り上げる秋元文庫もそうしたチャンピオンコミックスのノリに通じるワクワクを感じる文庫シリーズです。子供の頃に夢中になって読んだ眉村卓などのジュブナイルSFが気になっていたところ、先日古本市で秋元文庫のジュブナイルSFをいくつか安価で見つけたのでした。眉村卓をはじめ小松左京、筒井康隆、星新一は、漫画から小説への読書の橋渡しをしてくれたような作家で、とくに数ページから十数ページほどで完結するショートショートは、飽きっぽくても読めてしまう手軽さがあってハマりました。

では、そろそろ本題の補修にはいります。
古本市では秋元文庫の眉村卓『天才はつくられる』、福島正実の『悪夢の呼ぶ声』『真昼の侵入者』の三冊を入手しました。1冊100円と安価に手に入ってホクホクですが、安価なりにダメージもあって、今回も三冊全部背表紙の題字が読めない状態でした。幸いにもダメージらしいダメージは背表紙だけで、他は経年並みの許せる範囲でしたので、今回の補修は背表紙だけ作って貼付けることにしました。

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秋元文庫といえば黄色に赤文字の目を引く背表紙!なのですが、ご覧のとおり、以前の補修記事にも書いたように、黄色も赤も光に弱い色なので、経年で見事に退色しています。ここまで退色するということは、直射日光を長時間モロに浴びていたのでしょうね。表紙自体は破れも退色もさほどないのが救いです。

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とりあえず眉村卓の『天才はつくられる』から補修していきます。眉村卓のSFジュブナイルは角川文庫版ともけっこうダブるのですが、どちらも味わいがあるので、両方のバージョンで集めたいと思ってます。

手始めに、カバーの折り目の劣化をアマゾンで購入した本の補修専用のテープで補強します。このテープは1本3cm×5mで500円ほどです。補修対象の本より高額なテープですが、これをケチってセロテープなどで補修すると数年で劣化して変色して余計に本にダメージが入ってしまいます。専用のテープは劣化や伸縮にも強いので後々の保存を考えれば必要な投資でしょう。裏表紙のソデも取れてたので似たような厚みの紙でソデを付けました。

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さっそく背表紙の作成に入ります。すでに持っている手持ちの秋元文庫の背をスキャンして、トレースしやすいように黄色を白く飛ばしました。通しロゴのトレースや定型の文字要素を似たような書体でテンプレを作っていきます。

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ということで三冊分の背表紙が完成。これを後でそれぞれの背表紙の厚みに切り離して使用します。

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プリントアウトして、切り離します。

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背の部分に乗せて位置を合わせ、木工ボンドで貼付けました。この表紙絵もそうですが、秋元文庫のジュブナイルSFは依光隆(よりみつたかし)のイラストでおなじみですよね。写実系ながら描き込みすぎないタッチで、物語の雰囲気を邪魔しない余白≠フある画風は、挿絵としてとても秀逸でしたね。調べてみたら2012年(平成24年)に86歳で逝去されたとのこと。ご冥福をお祈りします。

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補強のためにさらに上から補修テープを貼って上下のはみ出しをカッターで切りました。

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同様に三冊とも背表紙を貼付けて完成です!
けっこうイイ感じに復活しました。やっぱり黄色がチカチカするような背表紙じゃないと秋元文庫らしくないですよね〜

ちなみにこの『天才はつくられる』は、眉村卓らしいワクワクする展開のお話で、図書委員の主人公が図書室で、注文台帳にない「学習教程」という題名の謎めいた本がまぎれていることに気づき、その本を偶然読んでしまうというというのが発端です。もう序盤からワクワクしてきますよね。実はその本は超能力を獲得するための教科書だった、というお話で、発行所の表記もなく、定価も書いてなく、さらに奥付も見当たらない謎めいた「学習教程」。その目次には「超能力の基本概念」「テレパシーの修得」「透視力への応用」「念力の初歩と練習教程」と怪し気な項目が並んでいます。主人公はその本を読むことですんなりテレパシーを獲得してしまいますが、時期を同じくして主人公の周囲に異変が起こりはじめる、という感じでストーリーが進んでいきます。

眉村卓のジュブナイルSFはこの話にせよ、有名な「ねらわれた学園」(映画は別ものですが)にせよ、学園という身近な舞台で自分と同じくらいの年頃の学生が何かの小さな異変をきっかけに大きな陰謀に巻き込まれて行く、というノリのお話がいくつかあって、どれもドキドキしながら読んだ記憶が蘇ります。眉村卓の学園SFで他に好きな作品は「まぼろしのペンフレンド」「なぞの転校生」「閉ざされた時間割」「つくられた明日」などで、どれもタイトルだけで読みたくなってくる作品ばかりですよね。これらの作品は序盤から中盤にかけてのスリル感が素晴らしく、夢中になって何度も読み返した思い出があります。

これらの作品は少年もののSFなので、異変の正体をあまり難解なものにはできないためか、大概はラスボスは未来人とか宇宙人とかなので、後半に行くほど面白さは失速してしまうのですが、これは眉村卓に限ったことではなく、ほとんどの少年向けSFに共通した課題だと思います。しかし、私は映画でもなんでも、オチがどうかというよりも、序盤から中盤にかけての、まだタネが明かされてない状況でのお話の謎めき加減に無性にワクワクする性分なので、途中経過が面白ければ必ずしもオチに凝らなくてもあまり気にしません。筒井康隆の初期のジュブナイルものや短編などはまさにそんな感じですよね。筒井作品にはオチすら無いものがけっこうあって、その分、途中経過がとんでもなく面白い作品が多く、物語は必ずしも起承転結に縛られる必要は無いんだ!ということを筒井作品で教えられた気がします。

今回補修した福島正実の二冊は、まだ未読で、こちらも後で読むのが楽しみです。福島正実といえば、SF黎明期において活躍した日本SF界の父のような存在というのは知られてますが、ジュブナイルのSFショートショートくらいしか読んでないので詳しいことは存じませんでした。そこで福島正実のウィキを見ていたら、なんと義弟(妹の夫)がこれまた黎明期のSF作家のひとりである内田庶(うちだちかし)ということでびっくりしました。私生活でもSFに縁のある人だったんですね。

閑話休題。だんだん補修の話から逸れてきたのでこのあたりで筆を置こうと思います。

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↑今回補修した本をせっかくなので眉村卓や他の秋元文庫などを入れている本棚に並べてみました。せっかくだから〜せっかくだから〜

よく見ると『天才はつくられる』が二冊ありますね。すでに持ってたことに後で気付きました。同じ本が二冊や三冊ダブるのは古本好きのあるあるですよね。一定以上の蔵書があると、持ってる本なのかどうか記憶が追いつきませんね。
では、そんなわけで、今回は秋元文庫の補修でした。
御清覧ありがとうございました!


posted by 八竹彗月 at 04:29| Comment(0) | 古本

2025年08月11日

三島由紀夫(27歳)とお母さんの対談の記事を肴に語る回

三島由紀夫については、ずっとむかしから興味は持ち続けているものの、わずかな短編とエッセイを読んだきりで、長編の代表作さえまだ未読のままです。基本、私は、よほど興味を惹かれるきっかけが無い限りあまりひとりの作家の作品を読破しようとは思わない質(タチ)ですが、なぜかむかしから興味の範疇にあることごとくに三島由紀夫の名前がチラつきまくるので、これは「いい加減にして、そろそろちゃんと三島を読みなさい!」という本の精霊からの思し召しなのではないか?と最近考えるようになってしまいました。

思えば、いまままでハマった横尾忠則、美輪明宏、澁澤龍彦、各々が美術、音楽、異端文学と異なるジャンルの表現者であるにもかかわらず三島と深い関連のある方々ですし、江戸川乱歩もまた『黒蜥蜴』を三島が戯曲化しています。またオカルト関連ではUFOもそうですね。魔術や心霊関係とは異なり、けっこうポジティブな不思議系のジャンルなので安心して浸れるので好きな『UFO』も三島と縁があります。三島はUFOサークルに加盟していたり、『美しい星』という作品を遺しているほどハマっていた時期がありました。そんな感じで、何かと今までハマった興味の端々に三島の名前が出てきます。

まぁ、三島由紀夫といえば、日本どころか歴史に名を残す世界に名だたる高名な文学者なわけですから、いろんな場面にその影響が見えてくるのはあまり特別不思議なことではないのかもしれませんが、世の中、そうでない人だって多いわけですし、そこはヘンに合理主義な固い理性で懐疑的に解釈せず、これも何かの縁と思って素直に高次元からのお導きと捉えていきたいように思ってます。


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今回、そんな、真面目な三島ファンでもない私が三島を題材にした記事を書こうと思ったのは、先日古本市で購入した昭和27年の雑誌『主婦の友』がきかっけです。グラビアページの昭和レトロなファッションに身を包んだスターたちの写真が目について、絵などの参考資料のつもりで手に入れたものなのですが、後で自宅でその他のモノクロページもパラパラとめくっていたら、まだデビュー間もない三島由紀夫とそのお母さんとの対談の記事が目にとまったのでした。この記事を目当てに手に入れたわけではなく偶然でした。そうしたシンクロニシティ的なことも含めて、三島作品をちゃんと読んでみようという気分になってくる昨今なのでした。この対談の前振りにこんなコラムがあります。


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 初秋の目黒緑ガ丘のお住居をお訪ねすると、すぐ三島さんが出ていらした。二十四歳のときの作品『煙草』によって文壇に出、戦後派中の最も若い作家、稀に見る才人として、その独特(ユニーク)な作風を高く評価されている三島さんは、今年二十七歳、本名は平岡公威(ひらおかきみたけ)氏である。白いワイシャツの上に紺のチョッキを着た無造作な御様子で、奥へ御案内くださる態度もテキパキと小気味よい。
 八畳のお座敷は床の間に山水の軸、野菊の投入れ。

『三島由紀夫氏とお母さんの対談』(『主婦の友』昭和27年12月1日発行 主婦の友社)より


文壇デビュー4年目の若干27歳の三島の語りに興味が高まりますね。三島についての通り一遍の背景などいうまでもないことだと思いますが、後に日本を代表するような大作家となっていくだけでなく、政治結社「盾の会」を設立するなど、政治的、社会的にも注目を集め、当時の世相を代表するような最期を遂げることになる人物であります。

三島の割腹自殺は、当時フォークブームの中で気鋭のシンガーソングライターだった遠藤賢治の代表的な名曲『カレーライス』でも歌われていたことも印象深いですね。『カレーライス』は、同棲していた彼女が台所でカレーライスを作っている状況を歌にした私小説的な作品ですが、カレーライスができるまでの手持ち無沙汰にギターを弄びながら見てたテレビで、ちょうど三島の自殺の報道がやっていた、という状況が描かれていて興味深い作品になっています。「誰かがお腹を切っちゃったって。ああ、とっても痛いだろうにね〜」とのんきな表現で歌われていて、三島のことよりも早くカレー出来ないかな〜とお腹をすかせているエンケンの姿が目に浮かんで来ます。そういうところが逆に、当時の一般人が最初にあの報道を目にしたときの妙なリアリティを感じるものがあってハッとさせられた曲です。

2025.8.12 追記


歌詞の中ではお腹を切っちゃった$lが誰なのかは言ってないので、最初聴いた時はは何のことかわからなかったのですが、何度か聴いてるうちに「アレッ?これってもしや三島のあの事件のことか!」と気付いてからは、自分にとって印象深く記憶に残る曲になっていきました。たんなる日常を歌った牧歌的な曲というだけでなく、歌詞が描いている場面が特定の時代の特定の日時だということが、あのくだりではっきりします。まさに時代を切り取って歌にしたような傑作ですね。命がけで真剣に訴える三島と、それをひとつのブラウン管の向こうのイベントとしてしか感じれない一般の人々とのコントラスト、そういうシラケムードの時代の空気を皮肉っているようにも思える曲です。

そして奇しくも三島事件(昭和45年[1970])の2年後に、これまた日本中を騒がせたあさま山荘事件(昭和47年[1972])が起こります。そういえば、これまた昭和の大事件、三億円事件(昭和43年[1968])も三島事件の二年前に起きた事件だったんですね。この時代、三島事件に前後して二、三年おきくらいの頻度で昭和史に残るような大事件が立て続けに起こってたことになりますね。70年代は日本がどんどん豊かになっていった時代というだけでなく、飽食の時代ゆえに怠惰な空気も蔓延していたような雰囲気で、70年代は空虚さと激動が同居したような不思議な時代でしたね。

(注)さきほど時系列を勘違いして三億円事件を三島事件の後のようなことを書いてましたので訂正しました。

追記終わり


2025.8.18 追記

三島事件が日常の中にさりげなく入り込んでいて印象深いエンケンの『カレーライス』ですが、よく聴いてみるとちょっと気になった部分があったのでまた追記します。三島とは関係ないのですが、歌の中で、飼い猫もカレーライスが好きで、はやく食べたいとないているというシーンが描かれていますね。歌詞にはジャガイモ、ニンジン、玉ねぎ、と定番の材料が出てきますが、昨今では猫に玉ねぎは毒だというのは広く知られるようになってきましたね。玉ねぎに含まれる「アリルプロピルジスルフィド」という成分が、猫の赤血球を破壊し、溶血性貧血や血尿、腎障害を引き起こす原因となり、最悪の場合、死に至ることもある、ということです。しかしこの「常識」は、けっこう最近になって周知されてきたような記憶があり、エンケンの歌が発表された1970年代ではペットフード産業も黎明期のような感じで、ペットの犬猫の餌といえば、残飯を与えるのが一般的だったと思います。調べてみると、猫に玉ねぎを与えてはダメ!という知見は1960年代以降に獣医学の研究によって明らかになり、それが一般に周知されはじめるのが1980年代あたりからで、常識として定着したのは2000年代初頭になってから、という感じのようです。玉ねぎだけでなく、カレーは塩分やスパイスや油分など、猫の餌として不適当な成分が多いため、カレー自体が猫に不適当のようです。あくまで創作の中のことですから、実際に歌詞のようなことがあったかどうかは不明ですが、けっこういろんな部分に時代の反映を感じる曲ですね〜

追記終わり


まぁ、そんな感じで、三島の熱心なファンではないものの、三島の人間的な魅力も含めて何かと惹かれるところがずっとあったのでした。そうした三島の若き日の記事であり、文学でこれから身を立てて行くんだ!というピュアな時期の記事というのもまた興味深いものがありました。この記事によってますます三島への関心が高まってきましたので、これを機会に近いうちに代表的な三島作品にも少しずつ触れていこうか、と思っています。

もしかすると、熱心な三島ファンには目新しい情報ではないかもしれませんが、私にはとても面白い発見がいくつもありました。お母さんとの対談になるので、主に三島の幼少期からの家族関係がリアルに語られていて、そこがとても興味深かったです。古い雑誌の記事ですし、もし以降に何かの本に収録されてなければ埋もれたままになってしまうかもしれず、それはもったいないことでもあるので、インタビュー全文をがんばって文字起こししてみました。三島由紀夫に興味のある方にとってはなかなか面白い情報になるのではないでしょうか。以下に、インタビューを読みながら思ったことをコメントしつつご紹介していこうと思います。



(親子のはなし)三島由紀夫氏とお母さんの対談
聞く人・田村秋子さん

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◉おばあさんっ子

三島 田村さんの舞台は、今度いつですか。
田村 十一月の中旬に、『龍を撫でた男』で、精神病のお医者さんの細君になりますの。とても難しい役で考えあぐんでいますとね、十八になる息子が、『いいじゃないか、お母さんを地でゆけば。』って、憎らしいことを申しますのよ。(田村さん、嬉しそうにお笑いになる。)
 今日はね、三島さんのお小さい頃からのお話なぞ、いろいろ伺いにまいりました。とてもお利口だったんでしょ。
母(倭文重[しずえ]さん) いいえ、身体が弱うございましてね、自家中毒を毎年、おしまいには毎月やりました。五つのときには二時間も死んでいましたのよ、脈が止まってしまって。
三島 屏風を逆さに立てたりしたんだろう。
 ええ、そう。
三島 僕は、しばらくお祖母さんに育てられたんです。そして、男の子と遊ぶと乱暴になっていけない、というお祖母さんの意見で、女の子とばかり遊ばされました。(笑声)お陰で、女の子って、ずいぶん意地の悪いものだ、ってことを身にしみて知りましたよ。(笑声)
 主人がとても心配いたしました。男らしさがなくなってしまうと申しまして。
三島 おやじさんは、わざわざ鉄砲や大砲の玩具買ってきて、『射ってみなさい。』と僕に言うんです。僕射とうとすると、お祖母さんが、『そんな大きな音を立てるとつんぼになる。』と言って射たせない。(笑声)おふくろさんの言うことを聞こうとすると、お祖母さんが承知しない。おやじさんはスパルタ式で僕を鍛えようとする。愛情の三つ巴の中で、子供心にも、人の気持ちの動きというものに非常に敏感にならざるを得なかったんです。神経が、非常に過敏(ナーバス)になる───というのかな。なにしろ現実の世界では身動きがとれないでしょう。反動として、自由なのびのびした世界に憧れる。誰にも制肘(※せいちゅう。他人の行動をそばから干渉し、自由な活動を妨げること)されない、叱られない世界に憧れて、童話なんか、貪るようにして読みました。
田村 いくつくらいからお読みになりましたの。
 五つ・・・・・でございましたね。(と三島さんへ)
三島 そう、小川未明のもの、鈴木三重吉のものなんか、おふくろさんの買ってくるセンチメンタルな童話が好きでしてね。おやじさんの買ってくる、『我らの陸海軍』なんてのは読まなかったね。しかし、冒険小説は好きだったな。『吠える密林』なんてのは、十何回か読んだし、漫画もとても好きだった。
田村 じゃ、小学校は、学習院の初等科でいらっしゃいましたのね・・・・・そこへお入りになってから、作文はお上手だったんでしょうね。
 いいえ、それが、とてもませたことや、生意気なことばかり書くんでございますよ。小学校の綴方(つづりかた)だというのに、『椿姫』とか『彼と彼女』なんていうのを書いて・・・・・(笑声)謹厳な先生でしたから、たいへんお叱りになりましてね。
三島 『ほんとうに嫌な子だ』と言ってた。
 ませた子だとか、女みたいな子だとか、さんざんお叱りになりましたが、私は、大人になれば自然に治ると思っておりましたから、この人には何も申しませんでした。
三島 初等科を出るとき、先生が、『君はそんなに書くことが好きなら、そっちへ行くがよろしかろう。しかし小説家になんぞならないで、文学博士になりなさい』って。(笑声)
 中学の終わり頃から、やっと席順がよくなって、高等科を卒業するときは、恩賜の時計をいただいたのね。
三島 精工舎の安物さ。(笑声)

『三島由紀夫氏とお母さんの対談』(『主婦の友』昭和27年12月1日発行 主婦の友社)より


聞き手の田村さんを存じなかったので調べてみたら、ちょうどこの記事の出る一年前に映画『自由学校』『少年期』で女優助演賞を受けており、小津安二郎の映画で知られる女優・杉村春子の演技などにも多大な影響を与えたといわれる実力派の女優のようでした。

三島の幼少期は祖母の影響で女の子とばかり遊ばされてた、ということろが興味深いですね。「お陰で、女の子ってずいぶん意地の悪いものだってことを身にしみて知りましたよ」というところが微笑ましくもあり、考えさせられもしますね。三島といえば、その同性愛者としての側面は、自身の文学にも大きく影響していると思いますが、この幼少期の育てられ方をみると、そうした嗜好の萌芽とも思えてきて複雑な思いにかられます。幼い頃に異性にある種の幻滅を体験していることは幸か不幸か少なからず人生全体に影響を及ぼすことになっていたのかもしれませんね。まぁ、結果論でいえば、それがなければ大文学者になっていたかどうかもわからないところでもあり、同性愛の美学のような表現は三島文学の象徴的な要素でもありますし、それがなければ美輪さんとの交際もなかったわけですから、ショーペンハウエルのいうような意味でもすべては起こりうるべくして起こっているようにも思えてきますね。

また、学生時代の、教師の頭を悩ますレベルの自我の主張の強い感じも、育ちのいいおぼっちゃんの我が儘さを感じると同時に、自分の美学を貫き通す以降の人生観を形作るための要素でもあるようにも思えますね。岡本太郎も、幼少期は学校の先生にも自分の主張を曲げずに主張するのでよく退学と入学を繰り返していたという逸話がありましたね。



◉母の願い

 中学へ入りましてからも、テニスとか野球とかいうようなことはまるでいたしません。学校から帰ってくると、勉強と、本を読むことと、何かしら書くことと、それだけでした。ほんとうにやむにやまれないように、絶え間なく何か書いていました。その姿を見ておりますと、身体は弱いし、絵を描くとか文を書くとか、そういう方向にならいくらか伸びてゆけるのじゃないかしらと思いましてね、祈るような気持ちでございました。
三島 中学へ入ってからはことに、じゃんじゃん書くことのほかには楽しみがなくなったんです。ところが僕の家(うち)は、皆コチコチの役人です。ぼくのひいじいさんが大審院の部長をやって、祖父も法学士、父も法学士です。小説家というと、何か堅気でない、たいへんな悪い商売のように思っていました。その中で、おふくろさんが、唯一の支持者でした。
 主人は、小説家になるなんて、絶対に不賛成でございますから、私、主人とこの人の間に立って、一生懸命に屏風の役をいたしました。お互いに直接風が当たらないように、と思いまして。ほんとうに痩せる思いをいたしました。この人が学校へ行ったあとで、主人がこの人の机の抽き出しを開けて調べます。すると、原稿用紙にこまめに書いてございましょう。主人はそれを片端からビリビリ破ってしまいますの。私、主人に隠れて原稿用紙を買ってきて、そっとそのあとへ入れておきました。この人は、夜になると、それにまた書きます。どこへ出すこともできませんし・・・・・せっかく書いたものを、私だけでも、せめて読んでやりたいと思いまして、主人に隠れて読みます。主人がそれを見つけて破ります。また私が買ってくる、書く、破る───ずっとこれをくり返していましたの。中学の時分・・・・・
三島 あの時分から、おふくろさんには、何から何まで読んでもらわないと、気持ちが落ち着かなかった。
 とにかく私に読ませたがったのね。ですから、その時分から、この人と私との間には何の秘密もございません。この頃、あるの?(と三島さんへ)
三島 ないよ、何もない。
 ちょうどこの人が十七、八、九、という、なにかにつけて非常に感じやすい頃でございましょう。もし、やけでも起こされてはたいへん、不良少年の仲間にでも入られたらどうしよう、と思いますと、ほんとうに夜も眠られない気がいたしました。
三島 具体的な見方から言うと、こんな頼りにならないおふくろさんはないですよ、全然。(笑声)ただ気持ちのうえだけですね。気持ちのうえでおふくろさんは僕をしっかり抱いていてくれる───と思うことができれば、それで安心していられるんです。
 東大へ入りますときにも、この人は文科を熱望しましたけれども、父親だけが頑として法科を主張いたします。この人も、過程に波風を立てて私をこのうえ苦しませるのは可哀想と思ったんでございましょう。表面はおとなしく、父親の言うことを聞いて法科へ入りましたが、見ていて可哀想でございました。
三島 しかしね、今になってみれば、法学部に入ってよかったんですよ。小説の書き方と法律とは、その経過に妙なつながりがある。ことに訴訟手続きなんていうのは・・・・・これは面倒なやつなんですがね、親父さんもこれが好きだったらしい、僕も好きでした。この訴訟手続きは、小説を書く論理(ロジック)に似ていますよ。文学部を出てもしょうがなかった、小説の足しにはならない。
田村 先見の明がおありになった・・・・・
三島 いや、親父さんの明ですよ。ただし、これは結果論ですよ。
 あのときはほんとうに嬉しかった、ほら、『花ざかりの森』を刷って、川端康成先生に本を差し上げたら、とてもお褒めのお言葉をいただいたでしょ。(と三島さんへ)
三島 そう、・・・・・あれは大蔵省(※財務省の旧名)へ入る前だったね。
 嬉しゅうございました、そのとき。
田村 わかりますわ、よく・・・・・
 これで一つの難関を通ってくれたと思いまして。それでも父親は、やっぱり、この人が小説家になることは絶対に許しませんでした。そして、『在学中に高文とれないような奴は、低能だぞ。貴様、高文をとれ』と厳命しましたの。この人、受けたら通りまして、法科を出るとすぐ、父親の言う通りに、大蔵省へ入りました。主人は、しめた、と思ったんですって。(笑声)
田村 大蔵省では、どんなお仕事を・・・・・
三島 大臣や課長の訓示の原稿なんか、盛んに書かされましたよ。いつか、大臣訓示の原稿を親父さんに見てもらいましたらね、『こんなセンチメンタルな訓示ってあるもんか』と言って、それこそめちゃくちゃに直してくれましたよ。親父さんは、そういう方面の文書の熟練者(ベテラン)ですからね。(お父さん梓[あずさ]氏は、農林水産局長であった。現在、数会社の重役や顧問をしておいでになる)課長の訓示の冒頭に、『代わり合いましてこの禿頭が・・・・』と書いて持っていったら、そこんとこ課長に全部削られちゃった。ご本人見事な禿頭でしたからね。(笑声)

『三島由紀夫氏とお母さんの対談』(『主婦の友』昭和27年12月1日発行 主婦の友社)より

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ここから中学生時代の話になっていきますが、この時分から、小説の執筆に夢中になっている様子が語られてますね。こういう、なにもかも忘れて没頭できる趣味、それが小説であれ、絵であれ、漫画であれ、音楽であれ、なんであってもそういう趣味を早い時期に見つけられた人は幸運だと思います。むかし2chのスレッドなどで、「私は無趣味なので何か趣味を持ちたいのですが、何を趣味にしたらいいですか?」みたいな相談をいくつも見かけた記憶があります。世の中には、自分が何をしたら楽しいと感じれるのか、を知らない人もいる、という事実に衝撃を受けたことを思い出します。自分の至福が何なのかを知っているということは決して当たり前のことなのではなく、それだけで、実はそれはとても恵まれた幸せなことなのでしょうね。

誰に見せるわけでもない作品も、母にだけは読んでもらっていた、というところも興味深いですね。これは小説だけでなく、ビジネス的な重要な判断なども、自分の奥さんや子供など、身内の近しい人に意見を求めるパターンはよく耳にしますし、おそらくそれは一般的なことだと思います。嘘偽りも、お世辞も必要のない、一番信頼がおける人の意見が本人にとって一番優先すべき意見ですからね。それが間違っていようと、それ以外の意見が正しいかどうかも、結果が出る前は等しく「わからない」のですから、数多の「わからない」意見の中からの選択では、やはり、自分が信用している人の意見をチョイスするのは自然なことなのでしょう。

また、頑固者の父親との対立と葛藤が語られてますが、これも関心をひかれますね。昭和の時代は、人生における怖いものの代名詞として『地震、カミナリ、火事、親父』という言葉があったくらい、父親というのは一家の大黒柱であるにとどまらず、絶対的で恐ろしい存在でした。現代では父親の威厳は家族を萎縮させるだけの「封建的」な悪習ということで一蹴され、過去の否定すべきもののようなイメージになってしまった感がありますが、まぁ、これも時代で移り変わる常識≠ニいうだけで、今の時代は今の時代なりの家族像がある、ということなのかもしれませんね。こういうことに正解は無いので、どのような時代になっても、一長一短という感じになるのだと思います。そして、三島の家庭も、たまたま親父の暴君ぶりのおかげで、逆に三島は作家になりたいという決意を強固にしているわけですから、何が功を奏するのかは、百人百様で、誰にも予測出来ないことなのでしょう。


◉すべった長靴

 あの頃は、ほんとうに見ていて可哀想でなりませんでした。お勤めを終えて帰ってくると、朝になれば、睡眠不足の足を踏みしめて、家(うち)を駆け出して役所へ行くんです。
三島 自分で好んで、睡眠不足になったんだから、しょうがないさ。
 あなたが、夜中に電燈つけて書いているでしょう。それがお父様に見つかって、『とんでもない奴だ』とおっしゃって、私、何度怒鳴られたしれないの。あなたには言わなかったけれど・・・・・。そんな状態が、二ヵ月余りつづきましてね、この人もとうとうたまりかねたのでしょう。父親に、どうか大蔵省をやめさせてほしい、小説家で身を立てさせてほしいと、繰り返し繰り返し頼んだのですけれど、主人は『馬鹿なこと言うな、絶対に許さん』と頑として受け付けませんの。それから私が叱られました。『貴様、俺の味方をして、二人力を合わせてせがれを口説くのが女房であり、母である。それを、向こうの味方になるということがあるかッ』と言って・・・・・何度もぶたれましたの。こんなごたごたが半年ばかり心の中でずいぶん戦っておりました。
三島 僕も、ずいぶん反抗した。あの頃は・・・・・
 主人は、何とかしてこの人を役人に引き止めておく方法を、役所の人といろいろ相談したんですって。(笑声)ところが、どんな方法をとっても、この人が、志をひるがえさないのを見て、とうとう、この人を勘当するところまで決心してしまったんです。そうしたら、ちょうどその頃、あなたがすべったのね。(と三島さんへ)
三島 え?何?ああ、長靴。(三島さん苦笑)
 ええ、雨の降る日でした。この人、長靴をはいて役所に出かけていったんです。ところが渋谷の駅で、フォームから線路へ滑り落ちたんですって。電車が来なかったから、落ちただけですみましたけれど・・・・・
田村 じゃ、立ちながら居眠りを・・・・・
三島 したのかもしれませんね、自分じゃ分らないけれども、ふらふらッとして・・・・・
 明らかに睡眠不足のせいでございますわ。夜帰ってきたこの人から、その話を、主人も私も聞きました。その翌朝、この人と私が主人に呼ばれまして、主人が申しました。『ここまできては、もう理論闘争ではない。命の問題だ。俺は無条件降伏する。今日からは、全力を尽くしてお前を助けてやる。なる以上は一流の小説家になれ。これだけ俺が踏みつけ叩きつけても、なおかつ突き破って作家になろうとするなら、あるいはものになるかも知れぬ』と申してくれました。ほんとうにそのときは・・・・・私・・・・・
三島 嬉しかったな、実に嬉しかった。(田村さん、目をうるませて、じっと聞いておいでになる)家(うち)はみんな、ちょっぴり皮肉屋だから、泣きはしなかったけれど、ね。(とお母さんへ)
 ええ・・・・・大蔵省へ勤めたのは八ヵ月でしたね。
三島 そう。僕七つの頃から、詩なんか書いてたでしょう。もしあのとき、ちやほやされて、新聞雑誌に出されたりしていたら、ふやけて駄目になっていたろうと思いますよ。
田村 お父様の意志の強さを、三島さん、受け継いでいらっしゃいますのね。ちゃんと・・・・・
 そうかもしれません。なにしろ両方で、がんばり通しでございました。
田村 私、三島さんとお母様の御様子を拝見していて、うらやましいと思いますのよ。親友のような、姉弟(きょうだい)のような・・・・・思うことをどんどん言い合っていらして。私、自分ひとりで息子を育てておりまして、いったい息子が何を考えているのか、私にはとても考えきれないことがございます。
 ほんとうにお察しいたしますわ。私も、田村さんの今おっしゃったと同じような気味の悪い気持ちがしたことがございました。そのとき私、どんなに馬鹿な母親と言われてもいい、ただ無茶苦茶に可愛がっていればいい───そう思いました。品物を買ってやるとか、背中をさすってやるとかいう具体的なことではなくて、気持ちのうえで一生懸命可愛がりましたの。理屈言っても駄目でございますもの。
田村 私ね、子供に対して、父親の役目もしなくちゃいけないという気があるものですから、猫可愛がりをする一方に、変に厳しすぎるところがあって、子供が言いたいと思っていることを言わせないような傾向がありますの。私の愛情には、チョットとげがあるんですよ。
三島 巧みな表現だな、実に。とげがある・・・・・
田村 いくら自分の子供でも、立ち入っていい限度がありましょうが、私にはまだそれがわきまえられませんの。私とてもやきもちやきなものですから、おっとりしていられないんです。子供のことは何から何まで、洗いざらい聞いておきたいと思いましてね。それを聞いておかないと、とても寂しくって・・・・・
 私も、やはりそういうところがございまして、そのたびに、ちょっと寂しくなりましたわ。
田村 子供が大人になるにつれて、母親にとっては、楽しみよりも、寂しいと思うことが多くなりますのね。私はだんだん辛くなります。
 ほんとうに辛くなりますね。子供の頃が一番楽しゅうございますわ。

『三島由紀夫氏とお母さんの対談』(『主婦の友』昭和27年12月1日発行 主婦の友社)より

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父親の君主ぶりと対照的に、母親の聖母のような優しさと愛情は、まさにエディプスコンプレックスの典型例を見てるようで、ほんとうに三島由紀夫という人は、生い立ちや家庭環境に至るまで、作家になるべくしてなった人なんだなぁ、と感慨深い思いにかられます。「進撃の巨人」に出てくる世界を覆う巨大な壁のように、三島の父親は自分の人生に立ちはだかる巨大な壁になっていますが、そうした子供心に難攻不落のように思えた壁が、何があっても諦めないという信念によってようやく崩れ、作家で身を立てる許しを得る場面は、読んでるこちらもグッときますね。

いくら言っても作家になりたいという夢を否定してきた父が、とうとう折れて「俺は無条件降伏する。今日からは、全力を尽くしてお前を助けてやる。なる以上は一流の小説家になれ!」と言葉をかけるシーン、ほんとにドラマチックですね〜 武田鉄矢の『母に捧げるバラード』にも母が上京を許してくれるくだりで、そういう似たような一節がありましたね。とにかく、大作家の人生というのは、小説の中だけでなく、人生そのものが文学なのだなぁ、とへんに納得してしまいました。

神話学者のジョセフ・キャンベルは著書や対談などでしばしば「自分の人生における至福を追求しなさい」と言及してますが、まさにその通りですね。我を張ってばかりでは生きていけないですし、社会との折り合いをつけるための謙虚さはとても重要ですが、自分の至福を否定するようなことは絶対受け入れてはいけない、ということでしょう。

キャンベルは対談集『神話の力』の中で、偶然いきつけのレストランで近くの席で食事をしていたある家族の父が好き嫌いを言う息子に説教している場面を目にした時の経験を書いています。父親は息子に大きな声で叱りつけるので母親が仲裁しますが、父親は逆に言い返してこういいます。「お前はこの子に好きなことだけさせて人生を渡らせるつもりか!好きなことばかりしていたら生きていけないぞ!この俺を見ろ!今まで一度だってやりたいことをやったことなんてないんだぞ!」喧噪を側できいていたキャンベルはこう見解を述べています。


 無上の喜びを追求したことのない人間。世間的には成功を収めるかもしれないが、まぁ考えてごらんなさい───何という人生でしょう?自分のやりたいことを一度もやれない人生に、いったいどんな値打ちがあるでしょう。私はいつも学生たちに言います。きみたちの体と心が欲するところへ行きなさいって。これはと思ったら、そこにとどまって、だれの干渉も許すんじゃないってね。

『神話の力』ジョセフ・キャンベル、ジョン・モイヤーズ著 飛田茂雄訳 早川書房 1992年 p214より


まさに三島の父親のエピソードと重なるような話ですね。三島の件のエピソードを読みながら、ふと、ジョセフ・キャンベルが語ったこの話を思い出しました。けっこうよく言う子供を躾る親の言葉として「好きなことばかりしてるとロクな大人になれないぞ!」というのがありますが、ある意味正しく、ある意味間違っていますよね。「したいことをするのはいいことなのか?悪いことなのか?」は、誰もが子供の頃に一度は悩む人生の問題ですね。したいこと≠ェ公益に反すること、犯罪とまでいかなくても、人を確実に傷つけるようなことなり、社会に悪影響を与えるようなことがしたいこと≠ネら、自分のためにもならないので止めたほうがいいに違いないですが、小説でも絵でも漫画でも、自分の一生をかけて取り組んでみたい課題を見つけたなら、誰がなんといおうとその内面の正当な衝動に従いたいものです。それによってたとえ失敗したとしても、自分で選んだ道なら悔いは無いはずですからね。キャンベルは、そうした将来を決めあぐねている悩み多き若者に対してこのような言葉でエールを送っています。

 男子のプレップスクールで教えていたとき、将来なにになろうかと迷っている少年たちと、よく話をしました。彼らは私のところへやってきて聞くんです。「ぼくにこれができるでしょうか。あれができるのでしょうか。ぼくは作家になれるでしょうか?」
 私は答えます。「それは私にはわからない。きみは、だれも相手にしてくれない失意の十年に耐えられるかね。それともきみは、最初の一発でベストセラーをものにするつもりかな。どんなことがあろうと、ほんとうにやりたいことをやり続ける根性がもしあるなら、がんばってやってみたまえ」

『神話の力』ジョセフ・キャンベル、ジョン・モイヤーズ著 飛田茂雄訳 早川書房 1992年 p217より

「自分の至福を追求しなさい」という言葉はジョセフ・キャンベルの哲学を代表する言葉ですが、キャンベルは、インド哲学を勉強している過程でそのような考えに至ったそうです。「自分が正しいのかどうかなど自分にはわからない。だが、自分の喜びがどこにあるかなら、よくわかっている。だったら、この喜びに素直に従ってみよう。そうすれば、それが私のほんとうの意識も存在もその喜びが運んで来てくれるだろうから」というひらめきと確信が降りてきて、そして実際自分の人生はそのようになった、と語っています。この考え方にはハッとしましたし、非常に影響をうけました。

以前記事にした「竜宮童子」の記事で触れた童話でも、なんでも願いを叶えてくれる竜宮の使いであるとほう小僧≠ヘ、自分自身に向けられた要求には全く応じません。自分の汚い身なりを注意されても、鼻水をふいてさっぱりしなさいと要求しても、絶対に聞き入れません。ご主人様を幸せにしてあげるためには何でも願いを叶えてあげるのに、自分の生き様に対する要求は頑として受け付けないとほう小僧=Bその理由は、おそらく、自分の自由を守るためかもしれませんし、それが結果的にご主人様の幸福を担保する要素でもある、ということでしょう。なぜなら、常に自分につきまとってくるとほう小僧≠フ汚い身なりが世間体が悪いため恥ずかしくなり、しばらく暇を出して小僧と別れることにしますが、そうしたとたんに、小僧の力で叶えられていた屋敷も衣服もお金もみんな消えてしまったからです。いろいろな教訓が読み取れる興味深い童話だと思います。

閑話休題。ところで、三島の対談ですが、ずっと自分の夢を否定してきた父を単純に毒親として憎むのではなく、むしろ、下手に小さい頃に自分の小説をチヤホヤと褒められて育ったていたら、逆に作家としての成長が阻害されてただろう、と冷静に分析していて、若干27歳とは思えぬ大人な意見ですね。まぁ、後から考えれば、というやつで、リアルタイムで父と対峙していた時分には、もっと複雑な思いがあったでしょうが、岩をも通す信念があったればこそ、絶対的な障害であった父が、今度は逆に最も心強い味方になるという、理想的な結末に落ち着いたのでしょうね。

それにしてもこの対談、読みながら思ったのですが、聞き手の田村さんを含めて、みんな言葉が上品ですね〜 後に三島と交流を持つことになる美輪明宏さんも、常々「言葉は心を映す鏡。親しき仲にも礼儀をもちましょう」「親子でさえもタメ口はよくありません」などなど、常日頃の美しい言葉遣いこそが宝石に勝るアクセサリーなのだという信念のもとに語られてますが、こういう昔の人の対談記事などを読んでると、言葉遣いが上品な人たちの会話を聞いてるだけで、その場そのものが優雅な空気に包まれているような錯覚をおぼえますね。自分も肝に銘じていきたいものです。



◉母の青春と息子

田村 三島さんの作品は、お読みになりますの。
 全部読んでおります。『禁色』『愛の渇き』『仮面の告白』なども全部、この人は真っ先に私に見せまして、批評をもとめます。性の問題や、未亡人の愛情生活なぞ扱っていますから、初めは嫌な気持ちがいたしました。『我が子がこんなことを書いて・・・・・』と思いまして・・・・・
三島 文学は、人間の美しい面も、汚い面も、追求して書くんだから仕方ないさ。
 この頃では、親子の関係を捨てた冷静な気持ちでなければ批評なんてできないと思いましてね。まず煙草を一服つけて、気を落ち着けてから読みはじめます。そうすると、すっと頭に入って、批評もできますの。別にそれを信ずるわけでもないでしょうけれど、何か私の批評を聞くと安心するらしゅうございますわね。
田村 お母様のおっしゃることが、三島さんにとっては一番ありがたい、純粋な批評だろうと思いますわ。私、子供のしてくれる批評を一番信用します。くさされて癪にさわることがありますけれど、やはりいいと思っております。本人を一番よく知っている人の批評というのは、怖いものでございますわ。
 お子様は、やはり演劇の方へお進みになりますの。
田村 もし芝居をやりたいと言えば、やらせます。でもまだ決まりませんの。
三島 田村さんご自身は、どういうところから演劇にお入りになったんですか。
田村 私の父が、新聞の演芸記者でございましてね、大正の頃ののんきな時代ですから、二、三日、どこかの舞台を借りて、文士劇をやったんです。それが大変いい気持ちだったというので、私にもそのいい気分を味わわせてやりたいと思ったんですって。それで、神田高女を卒業した十九の年に、初めて文士劇の舞台に立ちました。『大尉の娘』なんですよ。それが病みつきで。そのとき、井上正夫さんが本気で教えてくださいました。芝居をいい加減にするならやめろとおっしゃって。私、ほんとうに真剣になって、毎日ワーワー泣きながら稽古したんです。三島さんに伺いたいんですけどね、男の子って、いったいいくつになったら大人になりますの。
三島 社会的の大人になるのは二十五ですね。
田村 そうでございますか。この頃の子供は、私が考えてるよりも、ずっと大人なんですね。この間、私のところへ、見ず知らずの戦争未亡人がいらして、『自分に再婚の話があるけれども、私の一人の子供に相談したところ、もしお母さんが再婚すれば、ピストルで殺すと言います』という相談なんですよ。息子にその話をして、『あんただったらどうする?』と言うと、『馬鹿だな、どうして再婚がいけないんだ』と、素直な表情で言うんでございますよ。
三島 そうですね。田村さんのことでも、新聞などでいろいろ言ってますけれども、僕は何も申し上げないな。僕が、田村さんのことをいいと思っても、田村さん一向にありがたくはないし、よくないと言ったって、しょうがないし───私的(プライベート)なことを、傍(はた)からとやかく言うのは、日本人の一番いけない癖だと思いますね。
田村 ええ、私も、日本の文化の一番低級な面だと思います。
三島 田村さんのお仕事のうえにいい結果となって出てくれば、新しいお幸せが加わるわけでしょうから・・・・・
田村 三島さんは、お嫁さんにはどういう方をお選びになりますの?
三島 丸い顔の人が好きなんです、僕が長いから。(笑声)才知が表に出なくて、ぼーっとしていて、それで要所要所はちゃんと気がつく人・・・・・そんなのいないかな。(笑声)時期は、僕が四十になったら。
田村 お母様はどうお考えになりますの?
 本人にさえ気に入れば・・・・・ただ私、とても可愛がられて育ったお嬢さんがいいと思いますわ。
田村 私もそう思いますの。そういうお嬢さんが、息子のお嫁さんならいいなと思います。三島さんの『夏子の冒険』の映画は、いつ封切りになりますの?
三島 お正月らしいですね。
田村 結末が幸福な結婚をすることに変えられたそうですけれど、作者としてどうお感じになります?そういう場合は。
三島 小説と映画とは別物ですから、僕には関係ありませんが、それもいいでしょうね。
田村 最後にひとつ、三島さんに恋人は?
 それがあるらしいんですの。(三島さん、黙して語らず、微笑。遠くに郊外電車の音───)

『三島由紀夫氏とお母さんの対談』(『主婦の友』昭和27年12月1日発行 主婦の友社)より

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プライベートなことを、ハタからとやかく言うのは、日本人の一番いけない癖だという三島に田村さんは「まったく日本人の一番低級なところね!」と同意しときながら、すぐに「どんな嫁が欲しいの?」「恋人はいるの?」と直球なプライベートな質問を続けざまにしてしまってますが、そこがなんともお茶目で可愛らしいですね〜 まぁ、昭和27年の雑誌のインタビューということはまだテレビ放送も開始してない時期で、雑誌媒体の影響力が大きかった時代ですから、けっこう緊張もあったのでしょう。インタビュアーとして自分が関わるからには最終的に面白い記事にしたいという思いもあるでしょうし、田村さんの好奇心というよりは読者を代弁した質問ということなのでしょう。

ちなみに、三島自身は結婚は40歳くらいだろうと言ってますが、実際には33歳で20歳のご令嬢、平岡瑤子(旧姓・杉山瑤子)さんと結婚します。お子さんは男の子と女の子のふたりを授かったようですね。

インタビューの後半では、ちょうど自作の『夏子の冒険』が映画化されて封切り間近な時期のようで、田村さんは、あなたの原作は映画ではラストシーンが変えられてしまってるけど、それについてついてどう思うか、と三島に尋ねていて、ここも興味深いですね。昨今でもしばしば原作を改変しまくった映画やドラマが炎上したりして話題にのぼることがありますが、完璧主義者で芸術至上主義のイメージのある三島由紀夫が「まぁいいんじゃないですか。小説と映画は別ものなんで僕は関係ないし」と意外な反応をみせているのが興味深かったです。自分のコントロールが利かない映画にまで責任はもてないし、というのはその通りだと思いますが、「まぁいいんじゃないですか」というのは本音なのか、諦めなのか。まぁ、さすがに公開間近な映画興行にマイナスの影響を原作者たる自分が与えるわけにはいかないでしょうし、忸怩たる思いを抑えて答えた言葉なのかもしれませんね。自分の作品に手を入れられても平気な作家はほとんどいないでしょうから。

改変といえば、スティーブン・キングは原作を大幅に改変したキューブリックの『シャイニング』の映画化に憤慨し、結局自分が原作に忠実な脚本を書き下ろしてドラマ化した、という話は有名ですね。他にはミヒャエル・エンデが『はてしない物語』の映画化(『ネバー・エンディング・ストーリー』)に激怒した話など思い出します。エンデの場合は無断で脚本を改変されたり、原作使用料も相場よりかなり安いギャラしか支払われなかったそうで、心中(しんちゅう)を察するにあまりある感じですね。

キューブリックとキングの場合などは、共に地位の確立したビッグネーム同士なので、プライド的にどちらも一歩も引けない感じでよけいにこじれそうですよね。ハリウッドだけでなく日本でもどこでも、全国公開規模の映画製作は膨大なお金と人と時間と労力がいる一大プロジェクトなので、どうしても興行的に成功しなければならないというプレッシャーの中で製作が進行するわけで、映画の黎明期ならいざ知らず、現代ではとくにマーケティングなどに左右されて、冒険や実験がしづらい状況になりがちですし、原作通りに運べないそういったいろいろ現実的な理由もあるのでしょうね。改変問題にも、作品ごとにそれぞれ百様のさまざまな原因と理由があるでしょうから、難しい問題ですね。


メモ参考サイト

改変はどうして起こるか?を検索してたら上記のサイトが目に止まって読んでみたのですが、けっこう誰もが想像してた理由に近い感じの理由のようで、現場を知る方の生の意見が興味深かったです。キャラの性別が改変されるパターン、やはり先にキャスティングありきが原因なんでしょうね。この前の実写ブラックジャックのドクターキリコ問題とかもまぁ、そうした大人のしがらみが遠からぬ原因なんでしょうね。

個人的に印象深く記憶に残っている改変といえば、大林宣彦監督の『ねらわれた学園』(1981年)です。薬師丸ひろ子主演で話題になりましたが、原作の主人公は男子生徒です。ユーミンの主題歌がすごくグッときて友達と一緒に映画館で見たような気がするんですが、これは、キャラもストーリーもかなり改変されていて、当時から眉村卓のSFをよく読んでた私は子供心にけっこうショックでした。おかげでしばらく大林監督が嫌いになってしまいましたが、その後の尾道三部作や『異人たちとの夏』などで徐々に考えも変わっていき、今ではお馴染みのあのクライマックスの大げさなお祭り的なエフェクトにも微笑ましく癒されるような境地で見れるようになりました。

大林作品というと、コメディのようなホラーのようなシュールで変な作品『HOUSE』は、ある意味尾道三部作以上にもっとも大林節を感じる映画でしたね。むかし見たきりなので、ストーリーもほとんど覚えてないですが、ビジュアル的にすごく大林感全開の映画だった記憶があります。なんかサイケでシュールでナンセンスなよくわからない作品というイメージだけが記憶に残ってます。この映画、どうも近年は欧米でアートムービー的な意味で注目を集めているようで、久しぶりにもう一度見てみたいですね。


『HOUSE』は2009年頃から欧米で再発見されてコアな人気を集めているという。近年ではアメリカニューヨーク近代美術館(MoMA)でも紹介され、2012年12月にMoMAで開催された日本映画特集「アートシアターギルドと日本のアンダーグラウンド映画 1960〜1984年」に大林が招かれ、大林作品がオープニング上映された。ニューヨークの単館系の劇場でもよく上映されるという。



この『HOUSE』、個人的にこの映画は、ゴダイゴのテーマ曲がものすごく好きというのもあって、ずっと記憶に残っていました。ゴダイゴがインストのテーマ曲を演奏してるんですが、これがまたゴダイゴ感のまったくない不思議な曲なのです。曲の序盤はオルゴールのようなノスタルジックなピアノの出だしで、中盤がゴブリンやマイクオールドフィールド風のノリのいいプログレ感のある場末のサーカス劇場っぽい感じ、そして終盤の狂気を感じるアヴァンギャルドなピアノのフレーズで締めるところがグッときました。ゴダイゴというと、『銀河鉄道999』『ガンダーラ』『モンキー・マジック』『ビューティフル・ネーム』などのヒット曲の影響で、タケカワさんの優しい包容力のある声と、エモーショナルでキャッチーなメロディのバンドというイメージがありますが、このハウスのテーマはそういうイメージからはすごく異質で衝撃を受けた思い出があります。ゴダイゴはシングルのヒット曲くらいしか聴いてないので、こういう系統の曲ももっと他に作っているなら、深堀してみたいアーティストですね。




なんか気がついたら改変問題についての雑談が長くなってしまいましたね。とにかく、原作者からしたら、改変されても面白い映画になったのだからまぁいいか、と簡単に割り切れるものではないのでしょうし、苦しいものはあるでしょうね。まぁ、映画化されるような作品をものにしたからそういう悩みも出てくるのですから、ある意味ぜいたくな悩みというところもあるでしょう。しかし意外とそういう悩みほど実存に関わる深刻な悩みでもあるので、当事者になるとけっこう苦しいだろうと想像します。あの三島もそういう問題と若い頃から対峙してたんだなぁ、というところが興味深いものがあったので、いろいろ考えていたら長くなってしまいました。

創作も自由に表現できるのは同人誌くらいで、原作小説自体が出版社とのやりとりの中で作っていくわけですから、商業ベースでの創作は、映画化以前に原作を発表するまでの時点でも、多少の妥協はついてくるはずで、結局はそれは乗り越えていかないとならない人生の試練のひとつなのでしょう。

ビッグネームになったらなったでそのような改変問題とか以外にもいろいろと大物なりの気苦労もあるでしょうから、人生というのは、どんな境遇になろうがブッダのいうように「苦」からは逃れられないようにできているんだなぁ、と思いました。このあらゆる人の人生に立ちはだかる「苦」とどう向き合って、乗り越え、克服していくか、というのが万人に課せられた幸福へ至る試練なのでしょう。

自分の過去を振り返って思うのは、一般の仕事でも、質を上げるにはこだわりは大事ですが、こだわっていいのは自分の領分にある仕事だけで、そうしないと必ず他人とぶつかってしまいますね。手を離れた後まで自分でコントロールしようとすると結局相手だけでなく、自分も嫌な思いをするだけで、何の得にもなりません。自分の領分でベストを尽くしたら、あとは手を離れた時点で、次のバトンを受け取った人を信頼してまかせることが肝要なように思います。「自分の仕事に後から手を入れるな!」と思うのは人情ですが、相手も相手の領分でベストを尽くした末に手を入れてるわけなので、信頼するしかないと思ってます。最初は手を入れて欲しくないところに手を入れられるようなことが何度か起きますが、ぐっとこらえて、相手を信頼し、相手の立場を認めて納得しようと努力していると、しばらくすると急にそういうことが減っていき、とんとん拍子に仕事が進むことのほうが多くなっていきます。お互いに相手への信頼感を深めていくことによって、ちょっとづつ互いの波長があっていき、それで、仕事上も互いに求めていることが一致しだすのでしょうね。

ということで、いつものようにまた話がどんどん逸れてしまいましたが、三島由紀夫とお母さんのインタビューを肴にあれこれ思いついたことを語ってみました。インタビューの中で、映画での原作改変のくだりで話題に上がっている三島原作の『夏子の冒険』ですが、この作品は三島文学の中では異色の軽快で楽しい青春小説のようで、こちらも興味を引かれますね。機会をみて読んでみたいです。
というわけで、御清覧ありがとうございました!

posted by 八竹彗月 at 21:15| Comment(0) | 古本