2016年06月22日

キモノ・ファンタジア(その八)

戦前の婦人雑誌の綴じ込みカラーページをいくつか選んでみました。当時の独特な印刷の風合いがノスタルジックな着物美人をご堪能ください。

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「一揃(ひとそろい)三十圓(えん)の初秋向和洋服の流行」全図

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「一揃(ひとそろい)三十圓(えん)の初秋向和洋服の流行」右半分

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「一揃(ひとそろい)三十圓(えん)の初秋向和洋服の流行」左半分

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「大懸賞商品 越後十日町 ちぢまぬ明石」

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「初夏の流行オンパレード」

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「私の好きな新春のお支度」

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「春の帯姿」
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2016年06月17日

謎の賢者 老子とタオイズム

三日月道教と仙人

道教というとあまり日本には馴染みが無いですが、仙人の伝説の根底にある民間信仰や思想でもあり、また筮竹占いや四柱推命などの占いなども源流は道教のようで、道教的なるものに触れる機会は意外にあったりしますね。中国文化の根底にある重要な思想が儒教と道教のふたつらしいのですが、孔子の教えを基盤とする儒教と較べて、老子を始祖とする道教は、どこか妖しげでミステリアスな印象をうけます。またそこが惹かれるポイントでもあります。道教は、老子の思想を母体にしつつも、シンプルを極めた老子の教えとは真逆の、バロック的な魔術体系と発展していったのがユニークだなぁと思います。道教では不思議な魔法を駆使する東洋のスーパーマン、仙人が数多く登場し、それぞれに信仰を集めているようです。カンフー映画の傑作、ジャッキーチェンの『酔拳』でも中国の有名な8人の仙人になぞらえた8つの拳法を駆使して戦うアクションがユニークでした。老子の教え自体は禅の教えに似た感じで、教えの中にはどこにも仙人もキョンシーも出て来ないですし、紀元前に成立した聖典とは思えないほど神話色が薄く、哲学のテイストに近い触感があるのですが、それが2千年以上の歴史の中で民間信仰や土着の神話などが入り交じって現在のような不思議テイスト満載の壮大でバロックな思想体系に発展していったのでしょう。老子とその思想を受け継いだ荘子をあわせた老荘思想(道家)と、仙人が跋扈する道教とは歴史的には繋がりがありますが、思想的には別ものになってしまってるという感じです。アカデミックにはもっと厳密な定義があるのだと思いますが、以下そうした元祖老荘思想と発展系の道教をひっくるめたニュアンスでタオイズムという言葉を使っていきます。

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以上「TAO MAGIC -THE SECRET LANGUAGE OF DIAGRAMS & CALLIGRAPHY-」(Laszlo Legeza著 Thames & Hudson刊 1975年)より
道教の呪術や占いなどに使われる護符を大胆に構成したページを並べてみました。オカルティックな妖しい雰囲気だけでなく、カリグラフィとしてのグラフィックな観点からの面白さも感じます。そもそも漢字自体がグラフィックな魅力のある文字ですが、そうした土壌から発生した文字と絵の境界があいまいな感じがユニークです。


道教に関心が芽生えたのは、昔諸星大二郎の漫画などを読んでて、仙人という東洋的な超人思想に惹かれたのがきかっけでした。諸星大二郎の中国を題材にした漫画でしばしば登場する思想で、思いつくだけでも「桃源記」「諸怪志異」「無面目」「太公望伝」など、錚々たる傑作の背景にあるのが道教思想です。現在の中国は共産主義体制のため宗教色の濃い思想は政治的な理由で歓迎されない空気があり、道教も仏教もさかんではなくなっているようですが、かなり民衆に根付いた文化でもあり、民間の行事や風習に根強く道教の影響が見え隠れしています。仙道(仙人になるためのノウハウ)は台湾では現在でも息づいているようで、実際に仙人と呼んでも差し支えないような不思議な法術を使う道士(道教の魔術を使う達人)が存在しているようです。日本では高藤聡一郎が仙道(仙人になる修行体系)の啓蒙において重要な人物でしたが、ここ20年ほど現在の足取りが不明のようです。現代の仙人と呼ばれていた人だけに今頃は仙道を極めて仙境に遊んでいるような気がしてなりません。

三日月関落陰(かんらくいん)

オカルトでは幽体離脱などの特殊な状態で霊的な世界に参入する話はよくありますが、道教の秘術である「関落陰(かんらくいん)」と呼ばれる術はもっと変わっていて、目覚めている状態の普通のクリアな意識を保ったまま霊界に行くことができるとされる摩訶不思議な秘術です。この術を使いこなす道師が台湾に何人か居るらしく、道士は希望者を自在に霊界に送り込みます。目的は主に開運のためで、希望者を霊界にある自分の魂と対応している『魂の家』に行かせて、そこにある不具合を修正することで現実の自分の運勢を好転させるというわけです。『魂の家』にある特定のアイテムが破損してたり汚れていたりすると、実際の人生でそれに対応するアクシデントや不運に見舞われるので、そうした部分を確認して修正するために霊界に行く、ということのようです。私も一度体験してみたいものです。詳細は具道士著「光の中へ―中国道教に伝わる異次元旅行」という本にも書かれていますが、ネットでも「関落陰」で検索すると、詳しい内容や実際の体験記などもヒットしますので興味がある方は調べてみてください。

三日月老子

UMAてんこもりの幻獣の博物誌『山海経』とか、仙人になるためのノウハウを詳しく記した『抱朴子』など、中国の古典には不思議な書物がたくさんあり、興味が尽きませんが、仙人思想のルーツである謎の賢者、老子の思想が書かれた『道徳経』も、そうした古典の中では基本中の基本であり、スピリチュアルの聖典であり、精神世界の法則を知るための貴重な教えに満ちたまさしく賢者の書といった感じの素晴らしい書物で、とても好きな本です。老子・・・生没年不詳どころか実在する人物なのかどうかも曖昧、というのもミステリアスで惹かれます。司馬遷の『史記』では孔子が老子を訪ねて教えを請うという場面が書かれており、紀元前6世紀の人物とされてますが、研究によっては孔子よりも後世の人物であるという説もあり、まだよくわかってないようです。『道徳経』は実に奥深い深遠な思想をシンプルに説いていますが、これほどの思想を持った人物であり、また後世の宗教や思想哲学に多大な影響を与えていながら、功名心がまるでないところがカッコよすぎます。

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清朝時代に刊行された絵の教本、芥子園画譜に描かれた老子の図。司馬遷の『史記』によると、老子は晩年に隠遁を決意し周の国を出ようとしますが、関所の守衛であった尹喜(いんき)によって足を止められ、傑出した賢者がこのまま俗世から姿を消してしまうのを惜しみ、その思想を本に残して欲しいと懇願します。そうして書かれたのが『道徳経』上下二巻であり、その後の老子の足取りを知る者は誰もいない、と書かれています。周を立ち去るときに老子は青い水牛に乗って現れたという伝説があり、老子を描いた絵画の多くが牛にまたがっている老賢者の図であるのはそうした逸話がモチーフになっているようです。

三日月道(タオ)

老子の思想を一言で言うと「道(タオ)の思想」ということだと思います。「道(タオ)」とは全ての根源であり、宇宙万物を貫く法則であり、宇宙そのものでもあり、それらを超えたものでもあり、本来名付けようもないものである、というとらえどころのない、しかし超越的な概念を意味しています。これはこの世界の究極の存在を指しているのですが、ざっくり言えば、多くの宗教が「神」と呼ぶ概念と同じ対象を意味しているのだと思います。「神」と言われると、なんとなく高潔な人格の威厳のある人間っぽい形のイメージを持ってしまいますが、「道」という人間のイメージでない、連続した流れのような流動的なものに神的な概念を例えるのが老子らしさを感じます。道(Road)のイメージというと、出発点もなく到達点もない、ただ流れ行くのみ、という感じで、まさに「無為自然」を説いた老子らしい比喩だなぁと感服します。この道(タオ)の法則を理解して、これに逆らわずに生きることが人間にとってもっとも幸福な生き方である、というのが根底にある思想です。

「道」が語りうるものであれば、それは不変の「道」ではない。「名」が名付けうるものであれば、それは不変の「名」ではない。天と地が出現したのは「無名(=名付けえないもの)」からであった。「有名(=名付けうるもの)」は、万物の母にすぎない。まことに「永遠に欲望から解放されているもののみが『妙(=隠された本質)』をみることができ、決して欲望から解放されないものは、『徼[きょう](=その結果)』だけしかみることができない」のだ。この二つは同じもの(=鋳型)から出てくるが、それにもかかわらず名を異にする。この同じものを、(われわれは)「玄(=神秘)」と呼ぶ。(いやむしろ)「玄」よりもいっそう見えにくいもの(というべきであろう。それは)、あらゆる「妙」が出てくる門である。

老子『道徳経』第一章



仏教を母体に生まれた禅の基本思想に「不立文字」、つまり真理を文字に現すことはできないという考えがありますが、この老子の「道」の定義もまた究極の真理には呼ぶべき名前が無く、名付けようがない究極の概念を便宜上「道」と呼んでいるということが述べられます。覚醒してない人間には本質は見えず、ただ本質が映し出す影を見て「これぞリアリティだ」と思い込んでいるのだ、ということも述べてますね。老子の教えは「道」という文字からはじまる上巻と、「徳」という文字からはじまる下巻のみで、全81章、トータルわずか5000文字という、贅肉をそぎ落としたシンプルなものです。この書には老子は正式な名前もつけなかったので、上下巻の最初の文字を拾って「道徳経」と呼んでいるのですが、この深遠なる賢者の書にタイトルを付けないという所、思想の奥深さだけでなく、作者老子の究極に執着心の無い様子は、口先だけの思想家なのではなく、まさしくその思想通りに生きたのであろう証のようにも思えます。

言葉は内にひそんでいる意味を損なうものだ。ひとたび口に出すと、すべては常にすぐいくらか違ってくる、いくらかすり替えられ、いくらか愚かしくなる。

ヘルマン・ヘッセ『シッダールタ』


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幸運の護符。道蔵より。

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不思議な書体で書かれた宋の時代の護符。文字や記号が秘教的な法則で集合しつつひとつの絵柄となっている感じが面白いです。道蔵より。

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「変化の図」。宋時代の道教の経典「道蔵」に収められている護符。

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頭脳を生き生きとさせる護符。道蔵より。

クセのない飲みやすい日本酒に「上善如水(じょうぜんみずのごとし)」という銘柄がありますが、これは「道徳経」第8章の出だしの「上善若水(=最上の善とは水のようなものだ)」からとったものだそうです。また、慣用表現に、晩年になって成功することを「大器晩成」といいますが、これも「道徳経」第41章が出典です。なにげに老子が現代にも息づいていて面白いです。「天網(てんもう)恢恢(かいかい)疎(そ)にして漏(も)らさず」というのも「道徳経」第73章からの言葉で、これもまた含蓄のある凄い言葉ですね。「天の網は広くて大きい。目は粗いが、逃すことはない」という意味で、一見アバウトなようで寸分の隙もないのが天の法則だ、ということを言っています。これはまさに慧眼ですね。ふとジョセフ・キャンベルの以下の言葉を思い出します。

ショーペンハウエルは「個人の運命における意図らしきものについて」というすばらしい論文の中で、人が高齢に達して人生を振り返ってみると、そこには、まるで小説家が意図的に構成したかのように、一貫した筋道や計画があったように見えることがある、と指摘しています。生起した当座は偶然でほとんど意味が無いと思われていた出来事が、一貫したプロットの構成に不可欠の要素になってしまっている。すると、そのプロットを考え出したのはだれか。ショーペンハウエルは、夢がその人自身の−自分では意識できない−ある一面によって作られるのと同じように、人の一生もその人の内なる意志によって作られるのではないか、と言っています。ちょうど、偶然としか思われない形で出会った人が、のちに私の人生を構成する主要な働きをすることがよくあるように、私が知らず知らずのうちに他人の人生を動かしたり、それに意味を与えたりすることもあるのでしょう。あらゆるものがひとつの大きなシンフォニーのようにいっしょに働き、あらゆる要素が無意識のうちに、他のあらゆる要素の構成に役立っている。そしてショーペンハウエルは結論として、われわれの人生は、たったひとりの人間が見ているひとつの巨大な夢のさまざまな様相のようなものであり、その夢のなかに登場するものもすべてまた夢を見るから、あらゆるものは他のあらゆるものと結びついており、それらがひとつの生命の意志、すなわち、自然の内なる宇宙意志によって動かされているのだ、と言っています。

ジョセフ・キャンベル

『神話の力』ジョセフ・キャンベル、ビル・モイヤーズ 飛田茂雄訳 早川書房 1992年  p398〜399 


意味が無いような偶然の出来事も、振り返ってみると重要な意味を持つ出来事だったりすることは誰しもが思い当たると思います。私たちは一方通行の1次元的な時間軸を想定して人生を見ようとするから、それらを「偶然」と認識しているだけなのかもしれません。無時間的な「天」の視点で見通せば、実は全ての出来事には偶然は無いのでしょう。それは、この世界は決定論的な世界である、という事を短絡的に意味するわけではなく、ただ「出来事には全て隠された意味がある」という事のように思います。カルロス・カスタネダの本で、ドンファンと呼ばれるインディアンのシャーマンが全ての出来事を見えない世界からの啓示として受け取るくだりが出てきますが、こうした一見迷信的とも思える思考こそが実は真相を捉える発想なのではないかと感じます。この宇宙は、まだ解明されていないにせよ、ある種の法則が全てを支配している事は明白です。そうでなければ物理学は成立しません。であれば、本来、「偶然に」何かが起こるという発想は正しくなく、カオス理論のような感じで「答え」を解明するための現実的な手段が存在しないために分からないだけ、とも言えます。

「道徳経」には、その「道徳」の名前の通りに、倫理を説いた章もありますが、上記のようなスピリチュアル的な不思議な箴言を述べている章もいくつかあります。その中で特に私が惹かれたのは第47章の以下の言葉です。

戸口から(一歩も)出ないで、天下のすべてを知り、窓の外を覗くこともしないで、天の道すべて知る。出てゆくことが遠くなればなるほど、知ることはいっそう少なくなる。それゆえに、聖人は出かけていかないでも知り、見ないでもその名をはっきりいい、何の行動もしないで(万事を)成し遂げる。

老子『道徳経』第四十七章


仙人伝説のルーツになった賢者らしい不思議な味わいの箴言です。まさに行動不要論者ともいうべき境地ですね。外に出ずに世界の真実を知り、見聞すること無しに全てを知り、全てを得る。ヘタに行動することは叡智を曇らす。といった内容で、普通の常識とは真逆のパラドキシカルな言葉です。何もしなくても全てが思いのままになる、というのはすごく気が楽になる思想ですね。ただし、この境地は老子も言及しているように「聖人」について書かれた話です。ジョセフ・マーフィーなどの近年のニューソート系の思想やバシャールなどの思想にも通じる超楽観論ですが、この理屈を理屈通りに作用させるためには、その理屈に疑念を持たずに実践できるかどうかにかかってるように思えます。科学的な思考方法に慣れきっている私たちは、宇宙の内側の銀河の片隅に存在するものすごくちっぽけな存在として自己を認識しますが、神秘学的には、「宇宙は自分の外側に広がっているのではなく、自分の内側に宇宙がある」と考えます。これはインドの古い哲学や仏教思想にもある考え方で、近年ではダグラス・ハーディングが「頭のない方法」という実践的な実験を通してその理論を体験するユニークなノウハウを公開しています。

メモ参考サイト
ダグラス・ハーディングが開発した自己探求の方法

そのような感じで、老子の言葉も、何かの比喩や寓意でこの言葉を語ったのではなく、言葉通りの意味で言ったのだろうと、私は考えています。おそらく老子は「宇宙は自分の内側に存在する」という視点でモノを見れることができたからこそ、あえて「外」に出て行かなくても世界の全てを知ることは可能なのだ、ということを言っていたのだろうと推測します。西洋的な超人思想は人間の能力にプラスαのオプションを付加していく発想で、たとえば西洋魔術では天使の召還などで見えない世界からのパワーを利用する術がありますが、老子をはじめとする中国の神仙思想はむしろ現状の人間にあらかじめ備わっている様々な機能が元来備わっている超人性を阻害しているという立場から、存在の根源、「無」や「空」などに向かうために、余分な機能を引き算していってたどり着く境地を目指そうとしますね。そうした引き算の発想が、「何もしないで万事を成し遂げる」という究極の賢者の姿を描写しているように思います。これは仏教にも通じる発想ですね。仏教思想においては、人間は元来超人(=仏)だが、環境から学習していく思い込みなどで超人性(=仏性)に多層の覆いがかかってしまっているという前提で、環境や体験によって堆積してきた不純物や塵を取り除くことで自己の根源、つまり本来の自分に回帰することを目標とする宗教思想といえると思います。

三日月芸術と道(タオ)

音楽や絵画など芸術的な文化では、よく「個性が大事」であるかのような思い込みがあって、「オリジナル信仰」みたいなものを感じますが、実際に偉大な作品を残した芸術家のほとんどは、あまり「個性」とか「オリジナリティ」ということに縛られず、むしろ積極的に感銘を受けた他者の作品を模倣したりして自分のものに昇華しているように見受けられます。逆に「個性」に意識的にこだわっている作家は、「個性的な表現に見えそうなパターン」というのを踏襲してしまいがちで、個性を目指すあまりに逆に没個性的になってしまうということがしばしばあるように感じます。丸尾末広はガロのインタビューで自身の漫画の作風を「パクリの集大成です」とおっしゃっていて、その発言にはおそらく謙遜もあるでしょうが、個性派と思われるような作家ほど丸尾氏のように、表現者自身は「個性」に頓着していないケースはよくあり、また、個性に頓着しないほど、実際の作品は個性的になっていくものなのだ、と感じます。つまるところ、鑑賞者が作品に対していだく印象としては「個性的」と感じるのはまったくもって自由だと思うのですが、作り手側は「個性」というものに縛られないほうがよいのかもしれません。

『漫画の描き方』のようなまんが入門書のパロディで、竹熊健太郎と相原コージの共著『サルでも描けるまんが教室』、通称『サルまん』という面白い作品がありましたが、この本の中で、読者の質問に応える読者ページをパロったページがあり、そこに面白いQ&Aがありました。今その本が手元にないのでうろ覚えで申し訳ないのですが、こんな感じのQ&Aだったと思います。「Q・漫画はオリジナリティが大事だということですが、やはり誰も見た事ないような斬新なアイデアが必要なのでしょうか?」という感じの質問に「A・誰も見た事ないものを描いても誰も理解してくれません。」みたいな回答だったと思います。「新しい」というのは必ずしも「面白い」とは限らない、ということですが、これは読んだ当時は、座右の銘にしたいくらいすごく感銘を受けてしまった考えでした。つまり、漫画は(とくにアマチュアであるなら)自分の関心のある描きたいテーマで描けば良いのであり、それが「新しい」のだろうか、とか「オリジナリティ」があるだろうか、などという部分は気にする必要はないのだ、ということだと思いました。突き詰めれば、変に計算づくで描くのではなく、本気で好きなものを楽しんで描いたものこそ、他者の視点からは個性的に感じるものなのだろう、と思います。誰しも自分という存在は唯一無二ですから、「自分らしさ」という、最初から持っている個性が、己の至福を表現することで発現し、まがい物ではない「新しさ」が生じるのでしょう。こうしたことも、考えようによってはとても老子的なものを感じます。個性的であろうとするなら、むしろ個性に執着しないことで、結果的にとても個性的なものになる、といったような。反逆のブッダと呼ばれたOSHO(和尚)ことバグワン・シュリ・ラジニーシも、芸術的創造行為の本質について興味深いことを言っています。


芸術家が芸術家であるのは、彼が創造が"起こる"のを許す限りにおいてであって、彼が創造行為を"する"わけじゃない。もし彼が創造するとしたら、彼はクリエイターではない。彼はモノを制作しているかもしれない。が、クリエイターではない。彼は技術屋ではあるかもしれない。が、芸術家ではない。

例えば、何か詩をつくるのに、完全に詩学の法則にのっとってつくることもできる。その中にはひとつの過ちもないかもしれない。だが、それは詩ではあるまい。文法は完璧かもしれない。リズムも、韻律も、すべてOKだ。しかし、それはちょうど死体のようなものだろう。何もかも完璧だ。が、その身体は死んでいる。その中には何の魂もない。

(略)

創造するというのは「しないこと」だ。多くの事が"起こる"が、そこには誰も"する"者がいない。

バグワン・シュリ・ラジニーシ(OSHO)著『TAO 永遠の大河』第3巻 p186〜188
めるくまーる社 1980年



こういうことは、なかなか言葉で表現しずらい概念なのですが、さすがOSHO、上手く言葉で語っていて、さすがだなぁ、と感心します。なんとなく納得させられる言葉です。ちなみに、彼の言っている「クリエイター」というのは、多分、職種として創作活動を生業にしている人という意味以外に、創造主(神)のこともダブらせて表現しているのだと思います。一流の漫画家は、自身の創作を語る時、しばしば「キャラクターが勝手に動くので、いつのまにか作品ができあがってしまう」というような事を言います。生前赤塚不二夫がギャグ漫画を描く時はオチを先に考えずに描く、とどこかで話していたのを思い出します。それは、自分でも予想できないようなオチじゃないと本当に面白いギャグ漫画にならないからだ。というのが理由で、たしかにオチが先にあると、ラストのオチに向かって予定調和でストーリーを進行させることになるので、ストーリーの過程にワクワクするような緊張感がなくなってしまうということはあるかもしれません。赤塚不二夫にとって、オチは描いてるうちにどこかから「降りてくる」ものであり、「考え」て創るものではなかったのでしょうね。

傑出した作品ほどその創作行為においては作者の制御を離れている。優れた作品ほど、作者のコントロールを逸脱している。まさに作品が、考えることなしに創られていく。哲学者のウィトゲンシュタインも「頭で考えなくても、ペンが勝手に考える」というような事を言っていましたし、画家の横尾忠則も「芸術は考えるより、考えないことの凄さがある」と言っています。優れた創造行為は主に直感的なところでなされており、歴史を塗り替えるような偉大な発明や発見にも直感、インスピレーションが深くかかわっています。剣道の達人は脳の神経回路が反応するスピードよりも速く剣が反応するといいますが、これも優れた武道家は考えるよりも速く反応しているということなのだろうと察します。上記のOSHOの言葉の出典はもともとOSHOが老子についてえんえんと語っている本なので、ついでにOSHO流の道(タオ)の解釈も引用してみます。

<道TAO>とは全体性のことだ。全体性と完璧は違う。それは常に不完全だ。なぜならば、それが常に生きているからだ。完成というのは常に死んでいる。何であれ完璧になったら死んでいる。どうして生きられる? どうしてそれが完璧になってまだ生きる事なんかできる?何も生きる必要がない。それは他の部分を否定してしまっている。そして、生というのは反対同士の緊張を反対同士の出会いを通じて存在するものなのだ。もし反対のものを拒絶すれば、あなたは完璧にはなれる。が、トータルではあるまい。あなたは何か逃している。

バグワン・シュリ・ラジニーシ(OSHO)著『TAO 永遠の大河』第1巻 p60
めるくまーる社 1980年


全体性については、ヘルマン・ヘッセの『デミアン』でも、物事を狭い視点で善悪で振り分けて恣意的に悪とされてるだけの片方をないがしろにしている現代社会をデミアンが批判するシーンがありましたね。

つまり、今の話は、キリスト教の欠点が一番はっきり出てきている点の一つなんだ。問題は、旧約にしろ新約にしろ、このキリスト教の神は、全体として見た場合、大したものに違いないけれども、やはり、本来そうであるべきものになっていないという点にある。神は、善であり、上品さであり、父であり、美であり、高いものでもあれば、センチメンタルなものでもある。それはそれで、いっこうにかまわない。でも、世界というものは、もっとほかのものからもできている。ところが、そういったものは、すべて、あっさり悪魔のせいにされてしまい、この部分の全部、つまり世界のまるまる半分は、黙殺され、隠されているんだ。

ヘルマン・ヘッセ『デミアン』 p208

中央公論社「世界の文学37 ヘッセ」1963年 より


これは単純にキリスト教を批判をしているのではなく、人間を抑圧する古い観念や慣習をヨーロッパ人的な視点でキリスト教になぞらえて批判しているのだと思います。善と悪、心と身体、光と闇、幸福と不幸、喜びと悲しみ・・・二元論的な世界観は得てしてその片方だけを珍重し、もう片方をないがしろにしがちです。世界はどちらも含んだトータルなものなので、片方のみを追い求めすぎると、結果的には逆効果になるケースはよくあることです。デミアンは「善」ばかりに価値を置くのではなく、善悪をひっくるめた価値、つまり全体性に意識を向けて、その全体的な視点からもう一度我々の価値観を見直すべきだ、と言っているのだと思います。ついつい私たちは幸福のみがエンドレスで続く人生を求めてしまいますが、不幸という反対の状況を経験することがなければ、それが幸福であることに気づくことができません。病気になってはじめて健康であることの有り難さを実感するのが人間です。全ての人間の人生は、幸福と不幸が必ずセットになって繰り返されますが、これは、神の罰でも原罪でもなく、むしろ恩寵であり、幸福感を存分に楽しむために不幸が必要であるからなのかもしれません。

老子の教えにはじめて触れたときは、自分もそうでしたが、あまりに無欲すぎる思想で、何も持たないことの充足感というものにピンときませんでした。それゆえ、あまり思想的に惹かれることもなかったのですが、老子の人間像を史実をまじえながら想像力豊かに描ききった真崎守の漫画『老子』(古典コミックシリーズ 徳間書店)を読んで、がぜん興味がわき、「無為自然」というものの価値というものが少しわかったような気がしました。なぜ無為であるのか、といえば、それは環境や運命の自然な流れ、つまり道(タオ)に逆らわない最善のスタンスであるからで、そうして道(タオ)と波長を合わして生きることが、下手に欲望を満たすためにあくせく努力するよりも、よほど幸福に人生を送ることができるのだ、ということだろうと思います。無執着に達することで、逆にすべてを得る、ということですが、これはお金などの物質的なモノに対するだけの執着の事ではなく、アイデンティティのような、「自分をこうだと規定している心理的なモノ」への執着も捨てる、というところまで含みます。

三日月パラドックスの深遠

日常でもよく経験すると思いますが、欲しい欲しいと思っていたものなどが、欲しいと強烈に思っている時には手に入らなくて、すっかり忘れてどうでもよくなったときに不意に手に入ることがよくあると思います。そういうとき、ふと道(タオ)の深遠なるはたらきを感じたりしてニヤリとしてしまいます。タオイズムでも仏教でも「無執着」ということを推奨していますが、それはただ「欲しがるな」ということを単純に言っているのではなく、むしろ欲しいものを手に入れる最も最善最速の方法が「欲しいモノへの執着を捨てる」ということかと思います。この辺りのノウハウは昨今のスピリチュアルでも言及されている「引き寄せの法則」と同じで、絶妙なコツがあり、簡単なようで意外にさじ加減はデリケートです。無執着というのは、欲しいモノを欲しいと思わないようにすることではなく、欲しいモノが手に入っても手に入らなくてもかまわないが、手に入ったら入ったでそれは幸せな事だろう、という感じのニュアンスを意味しているように思います。欲があってもかまわないけれど、欲に囚われない、というのが大事なのかもしれません。

聖人と呼ばれる人の多くは無欲ですが、私はそのことを今までなんとなく、聖人はこの世を達観して、この世的な価値に興味がなくなったので無欲なのだろうか?それなら聖人って何てつまらないんだろう。と考えてました。実は、真相はそうではなく、聖人が無欲なのは、あえてアレコレ欲しがらなくても実はもうすでに自分が究極に価値のあるものに十分満たされている、ということに気づいているからなのでしょう。ある意味、究極に無欲であることは同時に究極に貪欲である事と限りなく似ているのかもしれません。最上の至福はどこか遠くにあって必死に探し求めるものなのではなく、実は最初から無条件であらかじめ与えられているものなのだ、ということに多くの聖典が言及しているのは、迷信でも気休めでも方便でもなく、けっこうリアルな真実なのではないだろうか、と最近思うようになりました。

精神世界の話は、いろいろとパラドキシカルな論理に満ちていて、ある種の敷居の高さを感じさせる面もありますが、実は物事の本質には至る所にパラドキシカルな構造が見られることに気づきます。柔道などでよくいわれる理念で、堅牢剛健さよりも柔軟であるほうが実は強靭なのだ、という意味の「柔よく剛を制す」という言葉がありますが、この、しなやかさは固さに勝るという考えも、ある意味逆説的な味わいのある箴言ですね。そしてそれはまた建築における理念でもありますね。地震に強い建築とは、揺れに抗う建築ではなく、揺れに逆らわないしなやかさを計算にいれた建築だということはよく知られてます。

『不思議の国のアリス』の作者ルイス・キャロルは本職は数学者でしたが、彼が発案したユニークな論理パズル的な小話に「ワニのパラドックス」と呼ばれるものがあります。パラドックスの内容はこうです。川縁で人食いワニに子供を人質にされた母親が「どうか子供を食べないで!」とワニに懇願します。するとワニは「オレ様がこれから何をするか予言できたら子供を返してやろう。だが、予言が外れたら問答無用で子供を喰わせてもらうよ」と条件を出してきました。一見すると超能力者でもない人間がそんな無理難題をクリアするのは不可能に思えます。ワニもあえて答えれない問いをふっかけてきたわけですね。しかし賢い母親は子供を助けたい一心で頭をフル回転させ、回答をせかすワニに向けて思いきってある予言をします。ワニは、その予言が外れるような逆の行動をとればよいのですから、ニヤリと笑って母親の予言と逆の事をしようとします。そこでハタとワニは気づきます。約束を守る限り、ワニはどう転んでも子供を喰うことが不可能な状況に陥ったことに気づいたのです。母親の放った予言はこうです。「あなたはこれから私の子供を食らうでしょう」

もしワニが子供を喰おうとするなら、予言は当たったのですから、条件に従って子供は返さないとならないし、子供を喰わずに返すなら予言は外れたことになるので、やっぱり子供を喰ってよいことになります。しかし子供を喰おうとすると・・・というように自己矛盾の無限ループに陥りワニは約束を忠実に守る限り、子供を喰う事も喰わないこともできなくなった、というお話です。このユニークな話は、単なる頭の体操に留まらず、実際の私たちの生活の中にこのお話の構造と同じ仕組みをもったモノがあります。ブザーやベルなどは、回路の途中に電磁石によって開閉する部分を作ることで電流が流れるとハンマーが鐘を叩き、鐘を叩くと回路の接点が開いて電流が止まり鐘からハンマーが離れます。電流を流し続ける限り、電流が流れる→ハンマーが鐘を叩く→電流が切れるのでハンマーが元に戻る→そのことによってまた電流が回路に流れる、ということが高速でえんえんと繰り返されることでブザー音になります。まさにこの回路の構造は「ワニのパラドックス」と同じです。

メモ参考サイト
ワニのパラドックス 「ウィキペディア」より

ベル(電鈴)の仕組み 「TDK テクマグ」より

パラドックスは、パズルのような知的な玩具としてだけでなく、数学から現代哲学やAI(人工知能)の研究、また禅の公案からタオイズムまで、まさに科学からオカルトまで、どこにでも顔を出す不思議な要素です。おそらく、パラドックスというのは、なにかこの世の隠された仕組みの根幹にかかわる性質が、人間に知覚できる形でにじみ出てきた事を知らせるシグナルなのかもしれないですね。

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1・「世界の名著4 老子・荘子」中央公論社 1978年
2・「Books Esoterica 4 道教の本 不老不死をめざす仙道呪術の世界」学研 1992年
学研のBooks Esotericaシリーズは基本を抑えながらバラエティ感覚のある楽しい編集が素晴らしく「読ませる教科書」といった感じのシリーズなので、手っ取り早く知るのには一番ですね。
3・「世界の名著 史記列伝 司馬遷」貝塚茂雄、川勝義雄訳 中央公論社 1968年
4・「中国古典文学大系8 抱朴子・列仙伝・神仙伝・山海経」本田濟訳 平凡社 1969年
仙人になる方法が書かれた抱朴子、伝説の仙人を紹介する神仙伝、いにしえのUMA百科事典の山海経と、中国古典の中でも異彩を放つ奇書ばかりを集めた巻。
5・「中国古典新書 抱朴子」村上嘉実著 明徳出版社 1967年
仙人の教科書「抱朴子」の内容と解説。こういう書物はえてして著者がアカデミックに客観的に分析して解説してたりして興醒めしてしまうものですが、この著者はかなり精神世界に理解がある感じの方なので解説も安心して面白く読めます。
6・「道教 1 道教とは何か」平河出版社 1983年
7・「現代思想 特集・タオイズム」青土社 1991年
8・「TAO MAGIC -THE SECRET LANGUAGE OF DIAGRAMS & CALLIGRAPHY-」Laszlo Legeza著 Thames & Hudson刊 1975年
洋書ですが、図版を大胆に構成したつくりなので図版を眺めているだけで楽しい本です。道教の不思議な護符がたくさん載っています。
9・「イメージの博物誌9 タオ 悠久中国の生と造形」フィリップ・ローソン、ラズロ・レゲザ著 大室幹雄訳 平凡社 1982年
このイメージの博物誌シリーズもグラフィックをメインにした構成で目で楽しむタオイズム、という感じの構成で面白いです。
10・「道教の美術 TAOISM ART」読売新聞大阪本社、大阪市立美術館発行 2009年
テーマ別に構成された貴重なカラー図版が満載のタオイズム・アートを存分に堪能できる画集です。
11・「TAO 永遠の大河 バグワン・シュリ・ラジニーシ老子を語る」全4巻 バグワン・シュリ・ラジニーシ著 めるくまーる社 1979年
OSHOことラジニーシが老子を語って語って語りまくる本。
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2016年06月04日

キモノ・ファンタジア(その七)

戦前の婦人雑誌切り抜きコレクションから風流な着物美人の写真をご紹介します。この当時流行していた女性の髪型でフィンガーウェーブという波打つようなヘアスタイルがありますが、レトロな雰囲気と可愛らしさがあって素敵ですね。

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タグ:着物 古本
posted by イヒ太郎 at 07:27| Comment(0) | 古本

2016年05月31日

浪漫鉄道

電車血があつい鉄道ならば…

列車は「旅」の象徴であり、旅は「人生」の象徴であります。そういうイメージも手伝って、列車というのはいつもどこか叙情と哀愁を感じる乗物という印象があります。私は鉄道に詳しくはないので鉄道オタクを自称するレベルにはいないのですが、最近昔の汽車の写真を集めはじめていて、鉄道マニアの人の気持ちがなんとなくわかるような気がしてきました。そう鉄道とはロマンそのものなのです。

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戦前の児童雑誌『センセイ』(幼女の友社 昭和5年[1930年])より 

ちなみに、電車と汽車の違いですが、「電車」はパンタグラフと呼ばれる部分から上方に張られている架線から電力を受け取って走るタイプのことで、「汽車」とは主に「蒸気機関車」を指しますが「ディーゼル機関車」など電車以外の列車を含む総称でもある、ということです。また、電車というと、なんとなく電気機関車の略称のように思い込んでいたのですが、厳密には区別されている言葉のようで、普段何気なく使っている言葉も意外と一筋縄でいかないものですね。

メモ参考サイト 「鉄道豆知識」

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860型 タンク機関車 1-B-1型 (明治26年[1893年] 製造:鉄道作業局神戸工場)国産1号機。英国人技師リチャード・フランシス・トレビシックの指導により我が国初の蒸気機関車が製造されました。

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C51型加熱テンダー機関車のお召列車牽引 2-C-1型(大正8年[1919年] 製造:川崎車両、三菱造船など)C51型は扱いやすく、パワーもあり、よく走る、とても優秀な機関車だったそうで、旅客車両としてだけでなく、お召し列車(おめしれっしゃ=天皇、皇后、皇太后が使うために特別に運行される列車)にもしばしば使われたそうです。

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8550型 テンダー機関車 1-C型 (明治32年[1899年] 製造:スケネクターデー社)九州鉄道が主な舞台だったそうで、その無骨な外観通り、牛のようにのっしのっしと尻を揺らしながらスタートするが速度が乗ると俄然パワフルな走りを見せてくれたそうです。

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弁慶号テンダー機関車 1-C型 (明治13年[1880年] 製造:米国ポーター社)威勢良く北海道を走っていたそうです。カランカランと優雅な鐘が鳴るユーモラスな機関車として親しまれてきたようですが、可愛らしい外見に似合わず200馬力を超える当時としてはなかなかのパワーもあったそうで、北の大地の開拓に大いに貢献したようです。


血があつい鉄道ならば
走りぬけてゆく汽車はいつかは心臓を通るだろう
同じ時代の誰かが
地を穿つさびしいひぴきを後にして
私はクリフォード・ブラウンの旅行案内の最後のペーシをめくる男だ
合言棄は A列車で行こう だ
そうだ A列車で行こう
ぞれがだめなら走って行こう

時速一○○キロのスピードでホーマーの「オデッセー」を読みとばしてゆく爽快さ!
想像力の冒険王! テーブルの上のアメリカ大陸を一日二往復目 目で走破しても
息切れしない私は 魂の車輪の直径を
メートル法ではかりながら
「癌の谷」をいくつも越え捨ててきた

血があつい鉄道ならば
汽車の通らぬ裏通りもあるだろう
声の無人地域でハーモニカを吹いている孤独な老人たち! 木の箱をたたくとどこからともなく這い出してくる無数のカメたち
数少ないやさしいことばを預金通帳から出したり入れたりし 過去の職業安定所 噂のホームドラマを探しながら
年々、鉄路から離れてゆく

寺山修司「ロング・グッドバイ」より抜粋


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足寄森林鉄道 44号(昭和17年[1942年] 製造:国鉄釧路工場)

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C型アプト式タンク機関車 形式3900 (明治25年[1892年] 製造:英国エスリンゲン社)横川-軽井沢アプト区間で最初に使用された。


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1C型テンダー機関車 形式7750 (明治26年[1893年] 製造:英国ネルソン社)黒磯-福島の勾配区間で使用されたそうです。



電車A列車で行こう

列車は人生という名の旅を分かりやすく象徴する乗物ですから、列車をテーマにした音楽も叙情に満ちたものが多いですね。また、近代社会を代表するスピードの象徴でもあり、メカニックなフォルムのクールさから、モダンなイメージもまた加味されて独特の味わいがあります。そういうわけで、列車をテーマにした曲を個人的な好みで選んでみました。

るんるんSteve Reich「Different Trains 1 (America - Before The War)」
るんるんSteve Reich「Different Trains 2 (Europe-During the War)」
るんるんSteve Reich「Different Trains 3(America-After the War)」
以前スティーブ・ライヒをテーマにした記事でも書きましたが、汽車をテーマにした音楽の中で最も好きな曲はこれです。ミニマル音楽の巨匠スティーブ・ライヒによるミステリアスな質感の汽車幻想。弦楽器が実に巧みに汽車の動きや線路のうねりを表現していて凄いです。サンプリングされた短文のリピートや汽笛が異次元なシュール感を醸し出していて絶品であります。楽曲「ディファレント・トレイン」は、第二次世界大戦の前後の不安感を3部で構成した作品。第1部は戦前のアメリカ、第2部は戦中のヨーロッパ、第3部は戦後のアメリカがテーマです。はじめて聴いたスティーブ・ライヒの曲というのもあって個人的に思い入れがあります。

るんるんTom Waits「Downtown Train」
黄昏の酔いどれシンガー、トム・ウェイツらしい哀愁漂う汽車のロマン。曲もかっこいいですが歌詞もまた渋くて素敵!列車は、閉じこもった小さな日常から、果てしない未知の世界に連れて行ってくれる人生の導師(グル)なのかもしれませんね。「洋楽和訳 (lyrics) めったPOPS」様による歌詞の和訳

るんるんAnita O'Day「Take The 'A' Train」
アニタ・オデイの軽快でムーディーな歌唱が心地いいですね。曲はジャズの有名なスタンダードナンバー「A列車で行こう」です。
「Groovy Groovy ~and all that jazz~」様による歌詞の和訳

るんるんMeade Lux Lewis「Honky Tonk Train Blues」
アメリカのピアニスト、ミード・ルクス・ルイスの1927年の大ヒットナンバー。ホンキートンク(Honky Tonk)とは意図的にくだけた調子外れなノリを味わいとするアメリカのカントリーミュージックのジャンルを指すようです。

るんるんMartin Denny「Burma Train」
「ビルマ・トレイン」と題するマーティン・デニーらしいエキゾチック感たっぷりの曲。

るんるんThe Doobie Brothers「Long Train Running」
アメリカのベテランロックバンド、ドゥービー・ブラザーズの1973年の大ヒット曲。なんとなくどこかで聴いたことある曲だと思います。歌詞は人生の無情さを列車に例えて歌っていて哀愁を感じます。「洋楽歌詞を和訳じゃ。」様による歌詞の和訳



電車花電車

花電車といえば、派手な装飾を施した路面電車のことで、主にお祭りや重要な記念日などのスペシャルな日でしか運行されないため、なかなか見る機会はありません。とっくに廃れた風習だと思っていたのですが、現在でもごくたまに運行しているようで、チャンスがあればまだまだ見れる機会はありそうです。ということで、絵葉書コレクションの中から、シュールな様相を偲ばせる往年の花電車をご紹介します。

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posted by イヒ太郎 at 11:36| Comment(0) | コレクション

2016年05月20日

キモノ・ファンタジア(その六)

優雅な着物美人が並んだ古い婦人雑誌の折り込みページをいくつかご紹介します。どれも戦前の雑誌のものですが、切り取られた状態で手に入れたものなので詳細は分かりません。アールデコなグラフィックデザインと、洋装と着物が混在した昭和初期のレトロな雰囲気がどこか幻想的ですね。

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「流行と経済の夏衣装」全図

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「流行と経済の夏衣装」左部分

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「流行と経済の夏衣装」中央

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「流行と経済の夏衣装」右部分

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「春の流行行進曲」表

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「春の流行行進曲」裏

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「秋の流行を代表する外出着姿」表

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「秋の流行を代表する外出着姿」裏

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「調和美を見せた初夏の服装」表

関連ページ
キモノ・ファンタジア(その1) (その2) (その3) (その4) (その5)
タグ:着物 古本
posted by イヒ太郎 at 07:23| Comment(0) | 古本