2019年08月02日

【雑談】黄金郷通信 vol.3

更新のモチベーションを上げるために雑誌風なイメージで雑多なコラム集的なシリーズとしてはじめたものの、このシリーズ自体の更新も間が空いてしまいました。vol.1を書いてからもう1年経つにもかかわらずまだ2回しか続いてないというのもあり、そろそろ続きを書こうということで、とりあえず最近よく思うところのあった話題を中心にまとめてみました。



el_icon.png「一杯のかけそば」と「ヨイトマケの唄」

バブル時代といわれた1980年代頃は日本中が好景気で浮かれていたような感じでしたが、その反面、ロス疑惑や豊田商事などの殺伐とした事件やら、デザイナーズブランドのファッションのブームやら三高(理想の結婚相手の条件。高身長・高学歴・高収入のこと)などが流行語になったりなど、なにかと拝金主義というか物質至上主義のような所があった時代でもあったと思います。ドラマでは『男女7人夏物語』など「トレンディ・ドラマ」と呼ばれるバブル時代のライフスタイルを根底とした理想のお洒落な恋愛を描いたドラマが続々と作られて消費されていましたが、そういう時代だからこそなのか、多くの人が素朴な人情話に飢えはじめてきたちょうどいいタイミングで爆発的に流行ったショートストーリーがありました。「誰もが必ず涙する感動話」というふれこみで日本中を席巻し、未見ですが映画まで作られたのだとか。これはご存知『一杯のかけそば』という物語で、原作者は栗良平という作家さんのようです。最初は作者本人の体験に基づく実話かと思われていましたが、実際はフィクションであり、タモリさんらによるアンチの言論や、また作者が後に詐欺行為を繰り返していたことが発覚したりなどで急速に『一杯のかけそば』ブームも下火になったようです。

しかしながら、その話は感動話の定石のようなよく出来た物語で、たしかに重箱の隅を突こうと思えば突けはしますが、普通にグッとくるお話ではあります。流行しすぎたせいで、いつしか「感動の押し売りみたいで不愉快」みたいな、理不尽なバッシングもあったそうですが、これもブームの終焉にありがちなパターンですね。「不愉快」に思う人も、多分このお話自体が不愉快なのではなく、流行しているせいでいつもこの話の話題が耳に入り、まるで自分が説教されているような気分になってしまったことへの反発みたいなものなのでしょう。つまり、ブームそれ自体に対する不満ということかもしれません。

ググれば物語の概要を紹介しているサイトはいくつかヒットするので、ここでは省略しますが、簡単に説明すれば2012年の紅白歌合戦でも話題になった美輪明宏のヒット曲『ヨイトマケの唄』とよく似た話です。細部の設定は異なりますが、極貧の家庭で育った少年が、その境遇を恨むことなく、貧しい中でも精一杯愛情を注いでくれた親に感謝し、世間の偏見に負けずに立派な社会人に成長するという骨子は通底するところがあります。『一杯のかけそば』は1989年の作、『ヨイトマケの唄』は1966年の作ですから、美輪さんの唄の方が23年も先に作っていたことになりますね。私の場合は、先に知ったのが『一杯のかけそば』の方だったので、後で『ヨイトマケの唄』を知ったときは「『一杯のかけそば』によく似てる」という印象を持ちました。とはいえ、やはり『ヨイトマケの唄』は、母親の苦労とか世間の偏見に堪える描写が具体的に描かれている分、ビジュアルが想像しやすいドラマになっていて、そのあたりはさすがリアルに波瀾万丈の人生を歩んで来た美輪さんらしい才能を感じるところですね。

こうした物語、つまり「貧乏暮らし」「親子愛」「偏見との戦い」を経て、ラストに立派に育った晴れ姿を描いてカタルシスを与える物語というのは、筋書きが読めていてもついつい涙腺が刺激されてしますね。ある意味、ベタな展開なのですが、むしろ変に難しく作り込まずに、このくらいベタな方がストレートに感動を表現できるもののようにも思えます。もっと端的に言えば、「逆境にめげずに正しくたくましく成長していく理想の人間の姿」という構造は面白い物語には必ずといっていいほど見られるパターンで、それは、ヒーローを描いた物語とも言えそうです。いわゆる神話学でいうところの「英雄神話」の類型を感じさせるものがありますね。古来から英雄はいつの世でも人間の永遠の憧れであり、また人生の目標でもあります。悪人と戦って勝利するだけがヒーローなのではなく、自分の運命、逆境に打ち勝つことこそが根本的なヒーローの条件にも思えます。ゆえに、これからどんな世の中になっていくにせよ、そうしたヒーローを描く物語は人が人である限りいつまでも求められるテーマであるように思います。

そういえば、数年前にネットで話題になったタイの通信会社のCMも、そういう感じの話で良かったですね。ご存知の方も多いと思いますが、貧しい家の子が病気の母親を救いたい一心で薬局から薬を万引きし、店から逃げ出した所を店主に捉えられるシーンから始まる三分のCMです。たった三分であるにもかかわらず長編映画にも負けないくらいの巧みな演出とストーリーに感動します。このCMでは、貧しい生まれの子が、ただ立派に成長したというだけでなく、幼い頃に受けた恩を返すという粋なオチを付けているところがまた秀逸です。とてもドラマチックですが、実はこの話はアメリカで実際にあった実話を元にしているのだとか。今でも世界のどこかで誰かを救っているそんなヒーローたちがリアルにいるのだと思いますし、そう考えているだけで心が暖かくなってきますね。

メモ関連サイト
『一杯のかけそば』全文(PDF) (「緑井レディースクリニック」様のサイトより)

『ヨイトマケの歌』(YouTube検索結果より)

数年前にネットで話題になった件のタイのCMに関する記事(「カラパイア」様より)

【日本語字幕】世界中が涙したタイの感動CM(YouTubeより)




el_icon.png驚異の折り鶴

折り鶴だけに特化したマニアックな折り紙の本『折り鶴』(長谷川正勝著 昭和49年発行 グラフ社)という本を古書市で見つけました。どれも折り鶴のバリエーションのみで構成されているのですが、それゆえに創意工夫による数々のバリエーションの妙味が味わえて、ページをめくる快感を覚えるなかなかの一冊でした。この本は江戸時代後期の『秘伝千羽鶴折形(ひでんせんばづるおりかた)』に掲載されたものをアレンジした作品集で、折り鶴の奥深さに感嘆させられます。

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五羽の鶴 『折り鶴』(長谷川正勝著 昭和49年発行 グラフ社)より

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十羽の鶴 『折り鶴』(長谷川正勝著 昭和49年発行 グラフ社)より

これら驚異の折り鶴、どれも1枚の紙を折って作られていて、いろいろと面白い折り鶴を次々に紹介しています。もちろん、折り方の解説もついていますので、根気が有れば実際に作ることも可能になっています。気分がノったらいつかチャレンジしたいですね。

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八羽の鶴 『折り鶴』(長谷川正勝著 昭和49年発行 グラフ社)より

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九十七羽の鶴(原題「百鶴」ひゃっかく) 『折り鶴』(長谷川正勝著 昭和49年発行 グラフ社)より

中でも97羽の鶴を折った「百鶴(ひゃっかく)」という作品が圧巻ですね。普通に百羽近く折るだけでも大変そうなのに、それぞれの鶴が繋がった状態で折っていくのは何かの苦行めいていますが、それゆえに完成の歓びも大きそうですね。これを作れたら、いつも気の遠くなるような過酷で地味な作業をさせられることで印象的だった『FNS地球特捜隊ダイバスター』のAD小田君の気持ちが理解できそうです。

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『秘伝千羽鶴折形(ひでんせんばづるおりかた)』より。この本は1797年(寛政9年)京都の吉野屋為八によって初版が発行されました。折り鶴49種を集めた書で、現存する世界で最も古い遊戯折り紙の本だそうです。

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同上『秘伝千羽鶴折形』より、五羽の鶴(葭原雀 よしわらすずめ)のページ。

メモ関連サイト
『秘伝千羽鶴折形』の原書を公開されているページ(「折紙探偵団」様より)
江戸時代の折り紙教本『秘伝千羽鶴折形』の現物の一部(全62ページ中17ページ分)を公開されています。全ページ公開予定のようなので更新が待ち遠しいですね。

『秘伝千羽鶴折形』に収録されている折り鶴の完成作品を展示しているサイト(「紙との会話」様より)
こうして様々な折り鶴のバリエーションが並んでいると壮観ですね。ラーメンズのコント『日本の形』を彷彿とする感じですね。『日本の形』ではそのまんま折り紙がテーマの回がありますが、『秘伝千羽鶴折形』の折り鶴バリエーションを見てると、むしろ「箸」がテーマの回のアクロバティックな割り箸アートに通じる面白みがありますね。

ラーメンズ『日本の形』「箸」(YouTube検索結果)
『日本の形(THE JAPANESE TRADITION)』のコントの中で「箸」が個人的に一番好きです。この作品はDVDが出てるので、そのうち手に入れて高画質であのアクロバティックな箸や折り紙をじっくり鑑賞したいですね。



el_icon.pngクロウリーと日本

アレイスター・クロウリーといえば、20世紀を代表する魔術師ですが、ある人は「世界で最も邪悪な人物」だと言い、またある人は「世界で最も偉大な魔術師」であると言ったりと、極端に賛否の別れる怪人で、つかみどころがない人でありますね。ムッソリーニでさえクロウリーの存在を恐れて国外追放処分にした、というエピソードは有名ですが、変態エロ親父でなおかつ麻薬常用者でもあったりと、悪名高いところはあるものの、ヘビーメタルやロックなどのポピュラー音楽のアーティストには崇拝者も多く、良くも悪くもけっこうな影響を与えてますし、児童文学のミヒャエル・エンデの作品『はてしない物語』など何かと現代文化に与えた影響を垣間みる機会は多く、深入りしたくなくてもしばしば目に入る神秘家のひとりであります。クロウリーは、整理されていなかった諸々のいにしえの魔術を再構築して実践的な体系を造り上げたりなどオカルト界での貢献は大きく、その思想はなかなかに奥深く興味深いところがあるので、一概に避けて通れないところもあります。が、そのあたりの話は今は置いとくとして、今回はその20世紀が生んだ怪人クロウリーと日本との接点をテーマにちょっと語ってみようと思います。

明治34年6月29日の朝、クロウリーは、観光名所でも有名な神奈川県鎌倉の長谷(はせ)の高徳院浄泉寺にあるいわゆる「鎌倉大仏」を見物していたそうです。外国人観光客のド定番な観光地にいるクロウリー、というミスマッチがなんとも微笑ましいものを感じますね。しかしこの大仏の圧倒的な存在感にはかなりの感銘を受けたようです。クロウリーは案内人に「近くの僧堂に住み込んで修行したい」とも伝えたようで、けっこう本気で感動していたとのこと。そうしたことから仏教自体にも興味をもったみたいですね。日本滞在期間は短いものだったそうですが、鎌倉の他には江ノ島、日光、長崎、それと吉原にも足を伸ばした形跡があるようです。そこはやはり「汝の欲する所を為せ」といった彼らしく、やはりエロに対する探究心はどこに行っても正直に発揮してしまうのでしょうね。セックスのパワーを利用した性魔術の開拓でも知られるクロウリーですが、吉原探訪はオカルト研究の探求心からなのか、単なるエロ的なものからだったのか気になる所です。

性魔術というと、字面からして怪し気で、けっこうヤバそうな雰囲気満点ですが、まぁ、エロとオカルティズムの結びつきというのは、そう突飛なものでもなく、性的なパワーを上手く利用して解脱を目指す修行法というのはタントラ・ヨガや仙道の房中術などかなり昔から実践されてきたところもあるので、意外と効果がありそうな気もしますね。ドラッグを利用した行法よりはまだ健全かもしれません。仙道などでは、性行為や自慰などで無闇に精液を浪費することを戒めていますが、現代でもネットでしばしばオナ禁による開運法がまことしやかにささやかれているのと同じで、やはり性には尋常ならざるパワーが秘められているのはたしかだろうと思います。

閑話休題、クロウリーは相当な偏屈な人物であったのは確かなようで、意図的に悪魔的な振る舞いを楽しんでいたフシもあり、それは幼い頃にキリスト教系の厳しい学校でひどいイジメにあっていたことがトラウマとなってアンチキリスト教的なベクトルとして魔術に関心をもっていったのではないかともいわれてますね。そんなクロウリーですが、自伝『アレイスター・クロウリーの告白 (The Confessions of Aleister Crowley)』(本邦未訳)の中で日本について語ったとされる言葉が意味深でなかなかに興味深いものを感じます。

私は、比較的にいって、日本をほとんど見ていない。私は日本人をまったく理解しなかったから、したがってあまり好きではない。日本人の貴族性が、どういうわけか私のそれとそぐわないのだ。日本人のもつ民族的傲慢には腹が立つ。私は日本人を中国人と非好意的に比較してみた。ちょうどイギリス人のように、日本人も絶縁的特質と欠点を有している。日本人はアジア人ではないのだ。まさに我々イギリス人がヨーロッパ人ではないように・・・

────────アレイスター・クロウリー


彼は「日本人はアジア人ではない」と言及していますが、これなど後の世に米国の国際政治学者サミュエル・ハンティントンが著作『文明の衝突』(1998年)で日本文明について言及していた説(世界を8つの文明に分け、日本を単一の文明圏とみなした)を連想しますね。自らを黙示録の獣と称したりなど、スピリチュアル的にはヤバヤバなオーラを発散している怪人なので、あまり近づきすぎるのは危険ではありますが、このクロウリーによる日本人評、けなしているようでいて逆説的に最大の賛辞のようでもあり、こうしたツンデレ具合がまた憎めないところでもあるんですよね。

※この記事を書くにあたって雑誌『トワイライト・ゾーン』(1987年3月号 KKワールドフォトプレス刊)のクロウリー特集の中の記事「奇人クロウリー・エピソード大全」(長尾豊・文)を参照しました。



el_icon.png「私は自殺する人間がきらいである」三島由紀夫

一般に三島由紀夫といえば、陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地内での演説の後に割腹自殺という壮絶な最期を遂げたことで、その文学に対するイメージ以上のインパクトを社会に与えたように感じます。三島と同じく、芥川龍之介にしろ太宰治にしろ川端康成にしろ昭和の有名な文豪がこうも次々に自決による最期を遂げているのは、何か因縁めいたものを感じざるを得ないですね。そうした例をみていると、知性は人を幸せにするとは限らないものだ、という想いが過ります。先日古書店でなにげなく手にした三島の本のなかに、三島自身が自殺について思う所を述べたエッセイがあり、ちょっと興味深かったので買って読んでみました。

そのエッセイは1954年12月に発表された『芥川龍之介について』という小論です。「私は弱いものがきらいである」ではじまるそのエッセイの中で、三島は自殺についてこう述べています。

私は自殺する人間がきらいである。自殺にも一種の勇気を要するし、私自身も自殺を考えた経験があり、自殺を敢行しなかったのは単に私の怯懦(きょうだ=臆病で気の弱い事)からだと思っているが、自殺する文学者というものを、どうも尊敬できない。武士には武士の徳目があって、切腹やその他の自決は、かれらの道徳律の内部にあっては、作戦や突撃や一騎打ちと同一線上にある行為の一種にすぎない。だから私は武士の自殺というものはみとめる。しかし文学者の自殺はみとめない。

──────三島由紀夫『芥川龍之介について』より抜粋

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「芥川龍之介について」 『三島由紀夫選集・15 鍵のかかる部屋』に収録 新潮社 昭和34年


エッセイのテーマは芥川龍之介の自殺に関する内容ですが、後世の私たちからすると、実に興味深い内容になっています。芥川龍之介は遺書の手紙に自殺の理由を「僕の将来に対する唯ぼんやりした不安」と記したそうです。天才作家らしいというか、なんとも曖昧で理解しがたい面はあるものの、実際にリアルに苦しんでいる人の苦しみの理由というのは、本質的にそういった、自分でも説明しがたい漠然とした、それでいて自然災害のようにリアルに襲いかかってくる恐怖なのかもしれません。三島がボディビルをはじめるのはこのエッセイが書かれた次の年、1955年(昭和30年)からですが、すでに文章からはマッチョ的というか、「強さへの憧れ」を感じますね。

三島は芥川の文学を後世に立派に残る日本文学≠ナあると高く評価しながらも、「芥川は自殺が好きだったから、自殺したのだ。私がそういう生き方をきらいであっても、何も人の生き方にとがめ立てする権利はない。」といささか投げやり気味に突き放しています。後に自らが嫌った「文学者の自殺」の系列に自分も加わる事になるわけですが、歴史の時系列を俯瞰して見れる立場の現代の私たちからすると、なんだか皮肉なものを感じてしまいます。しかし、よく読むと武士による切腹などの自殺は認める、とも書いています。三島の自決は、文学者として自殺したのではなく、まさしく武士としての最期だったのかもしれませんね。なにかこの辺りも因縁めいていて、複雑な気分になります。

自殺を嫌悪していた三島も、「死」それ自体には、ある種の美意識を持っていましたが、そういえば三島の友人でもあった澁澤龍彦の雑誌『血と薔薇』にも篠山紀信撮影による三島のヌード写真がありましたね。それは『聖セバスチャンの殉教』と題して、無数の矢に射られて殉教する聖セバスチャンの姿を描いたグイド・レーニ(Guido Reni、1575 − 1642)の絵画作品を三島の裸体に置き換えた写真で、死とエロスの緊張感ある拮抗を見事に表現しています。聖セバスチャンの殉教は三島も自身の小説で言及したこともあるお気に入りのモチーフだったようですね。

実際は聖セバスチャンは絵画に描かれているように、矢に射られて死んだわけではなく、無数の矢に射られても九死に一生を得たそうで、瀕死のセバスチャンをイレーネという女性が助けて介抱したようです。このあたりブッダを助けたスジャータの逸話を連想しますね。セバスチャンが亡くなったのは、その後キリスト教徒であることがバレて時の皇帝の怒りを買い、何度も殴打されたことが死因とのことです。当時のローマではローマの神々への信仰が主体だったようで、そうした社会におけるセバスチャンの存在は人々を迷わす邪悪な異教徒であるという認識だったのでしょうね。

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「聖セバスチャンの殉教」モデル:三島由紀夫 撮影:篠山紀信
『血と薔薇』創刊号(澁澤龍彦責任編集)天声出版 昭和43年10月発行 巻頭グラビア「男の死 LES MORTS MASCULINES」 より


三島の死にについてはオカルトめいた裏話もあって、そうした面でも興味をそそるところがあります。政治イデオロギー的には全く正反対の美輪明宏さんとも懇意におつき合いしていた三島ですが、美輪さんはその霊能力で、当時から三島の自殺の匂いを事前に察知していたという逸話が有名ですね。映画化もされた三島の作品『憂国』は、後に政治結社「盾の会」を創設するまでになる三島の政治的なイデオロギーが全面に出ている作品でもありますが、この作品の執筆中におかしな事が頻繁に起こったそうです。書いた後に読み直して気に入らない部分を書き直そうとするのですが、なぜか不思議な力が働いているかのように書き直す事ができなかった、と美輪さんにもらしたそうです。美輪さんの当時の霊視によれば、三島の背後には226事件に参加した将校の霊が見えたとのことで、そうした日本の行く末を案じて無念のうちに他界した霊たちが三島を指導していたのではないかということです。心霊的な霊能力に関しては、私も半信半疑なところもありますが、霊能力というのも、ある種の具体化した直感でもあると思いますし、無いとも言い切れないところではあります。実際に美輪さんはその霊能力で若い頃は霊障のある人を除霊したりなども何度もしていたようですし、実際そういうことが出来てもおかしくないような神秘な雰囲気がある人ですから、なんとなく納得させられてしまうところがありますね。何よりそうしたオカルト的な能力以前にその歌や音楽をはじめ、その芸術家としての存在感に前々から惹かれていたこともあって、三島の霊視の話も、何か真相に迫るヒントのひとつとして受け入れてもいいのかな、などと思っています。

メモ関連サイト
聖セバスチャン(ウィキペディア)

【画像】グイド・レーニ画『聖セバスチャンの殉教』(ウィキペディア)

美輪明宏が語る天才作家・三島由紀夫(「テレビ朝日」様のサイトより)



el_icon.pngゲームFF10・ブラスカとジェクトについて

ここ数年ゲームはあまりしてませんが、むかしハマった大好きなゲームのひとつにファイナルファンタジーX(FF10)があります。いうまでもなく名台詞名シーンがてんこ盛りの傑作で、ナンバリングタイトルの中ではじめて舞台設定を引き継いだ続編が作られたほどの人気を博した作品でもあります。ゲーム中に使われる音楽も、どれもむちゃくちゃ良いですよね。この作品中にでてくる最も好きな台詞をあえてひとつ挙げるなら、ブラスカがアーロンにはなったこの一言。

「私のために悲しんでくれるのはうれしいが、私は悲しみを消しに行くのだ」


う〜ん、胸にこみあげてくるものがある名台詞ですね。いちおう説明のために、この台詞の背景となるエピソードをざっくり言いますと、召還師ブラスカは、破壊と殺戮を繰り返しながらスピラ(劇中の舞台となる世界)を破滅に導く魔物シン≠倒すために旅を続けているのですが、そうした旅の終盤で交わされる会話で発せられた台詞です。以下多少のネタバレを含みますので、今後FF10をプレイする予定のある人は読まずにスルーしていただいたほうがよりFF10を楽しめると思います。まぁ、もう20年も前の作品ですし、こういう記事を読む方はすでにFF10をプレイ済みだとは思いますが、念のために一応エクスキューズを入れておきます。

彼らの旅の目的は命と引き換えにシンを倒す技(究極召還)を修得することです。召還師というのはFF10の世界での特殊な職種のひとつで、召還獣と呼ばれる霊的な聖獣を高次元からこの世に呼び出して物質化させ、そうすることで聖獣を自分たちの仲間として戦かわせることのできる能力を身につけた人たちの称号です。ゲーム的にいうと、ある条件を満たした場合にのみ使えるチート的な能力を持った用心棒が召還獣です。召還獣の概念はFFシリーズに通底する伝統ですが、今までゲーム的なお約束で何となく存在していた感のある召還獣が、その成り立ちなどの設定を含めてFF10では細かく練られているのも良かったですね。

ひとつの寺院には一匹の召還獣が祀られていて、試練を通過した召還師にその力を貸してくれる、という感じで、初プレイ時は、次の寺院ではどんな召還獣がゲットできるんだろう、というワクワク感でいっぱいだった記憶があります。そうした寺院巡りの旅の道中には様々な魔物が現われて襲ってくるために、旅そのものがデンジャラスなのですが、そこで助さん格さんよろしく腕利きの用心棒アーロンとジェクトのふたりがブラスカの旅のお供をしています。召還師ブラスカとそのボディガードであるジェクトとアーロンの一同は究極召還を得るための目的地、ザナルカンドにようやく着いたところで、アーロンは今まで覚悟を決めて抑えていたはずの心が揺れます。いくら世界の平和のためでもそのために生死を共にして旅をしてきた盟友ブラスカが死ぬのは嫌だ、とアーロンがブラスカに旅を止めるように懇願するのです。まさにそのシーンで出てくるのがこの上記の台詞です。FFXで一番好きなキャラはアーロンなんですが、シブいおっさんキャラのアーロンの若い時期のこの青臭さとのギャップなど、人に歴史ありって感じでなかなか味わい深いシーンです。

この世界ではシンを倒すということは、人々の悲しみの原因を消すことと同じです。プレイ当初は、どうせ倒してもまた蘇るシンを、命がけで倒す旅に志願する召還師たちの気持ちというのがいまいちピンときませんでしたが、このブラスカの言葉でなんか納得してしまいました。世界から悲しみを無くす仕事、それはある意味世界で最も貴い仕事で、まさにブラスカをはじめとする大召還師というのは英雄の中の英雄という感じですね。そうした歴史上シンを倒した召還師達は大きな像が造られ各地の寺院で英霊として祀られていますが、たしかに、このスピラという世界に住む住民にとってはシンを倒すというのはそれだけのスゴい偉業であることでしょう。

ブラスカは劇中ではあまり描かれてませんが、普段は物腰の柔らかい真面目な物静かな紳士で自己主張の少ないキャラだけに、あの固い信念に裏打ちされた、優しくて、そして力強い台詞にはグッときました。このブラスカの娘ユウナが後に父の遺志を引き継いで蘇ったシンにまた立ち向かうというのがメインストーリーなのですが、主人公ティーダとその父ジェクトの関係といい、主人公もヒロインもいろんな形でそれぞれ父親の影響を受けて今がある、という描き方をしていて、本当によく出来たシナリオだなぁ、とつくづく感心しました。

ジェクト 「なあブラスカ、(旅を)止めてもいいんだぞ」
ブラスカ 「気持ちだけ受け取っておこう」
ジェクト 「わ〜ったよ!もう言わねえよ!」
アーロン 「いや、俺は何度でも言います!ブラスカ様、帰りましょう!あなたが死ぬのは・・・嫌だ」
ブラスカ 「君も、覚悟していたはずじゃないか」
アーロン 「あの時は・・・どうかしていました」
ブラスカ 「私のために悲しんでくれるのはうれしいが・・・私は悲しみを消しに行くのだ。「シン」を倒し、スピラを覆う悲しみを消しにね。わかってくれ、アーロン」

「ファイナルファンタジーX」(スクウェア・エニックス 2001年)


FF10が大好きなのは、やはり主人公ティーダと父親であるジェクトとの不器用な親子関係の妙味にあるのかもしれません。子供の気持ちなど塵ほどにも考慮せずワガママ放題で傲慢にも見える親父、しかし実際は、息子の成長を陰ながら見守りいつでも力になりたいと思っていながらも照れくささが先んじてしまって息子をからかい、そして嫌われてしまう不器用な父親です。この父親像というのが、先頃他界した自分の父とダブってしまい、物語にドップリとはまって共感してしまうところがありました。ティーダは幼い頃、父ジェクトによくからかわれ泣かされてしました。幼いティーダがグズると決まってジェクトは「泣くぞ、すぐ泣くぞ、絶対泣くぞ、ほら泣くぞ!」と追い打ちをかけてイジメてくる嫌味な親父です。しかし実際のジェクトは自分の息子をイジメて楽しむ毒親だったわけではなく、小さな事でメソメソして泣き出す息子を見て将来が心配でたまらず、これから対峙するであろう社会という名の大海の波に負けない強い男に育ってほしいという願いが根底にあってしたことでした。しかし素直な愛情表現がとことん苦手な元来の不器用さが、あのような意地悪とも取れる不器用なやりかたになってしまったのですね。

この世に生まれるという事は、つまり魂がいまだ未熟だから修行のためにこの世に生れ出るのだ、という説があります。老若男女、みんな自分と同じ未熟者。そう思えば、他人の行いも「あの人だってこの人だって私と同じ未熟者」として許してあげようという気になります。人は一生かかっても魂を完成させることはなかなか困難で、だから何度も何度も輪廻して千回万回と生まれ変わり、未熟さをひとつひとつ克服していくのでしょう。そういえばFF10の世界観も意味深で、スピラという世界自体がシンの登場によって千年もの間、破壊と再生を繰り返す輪廻の輪にはまり込んでいますね。そのスピラ自体が繰り返す「死の螺旋」を止めるのがブラスカの娘ユウナなのですが、まるでFF10は世界を覆う死の輪廻を止めることによって世界を涅槃に導く物語、というような、仏教的な世界観が見え隠れしているようにも見えてきます。

仏教では、はてしなく生老病死を繰り返す苦の世界であるこの世から解脱し、輪廻することのない完成された魂(仏性)を獲得する事で涅槃(ニルヴァーナ)に至ることを目指します。FF10では、シンは「人間の罪が具現化した怪物」として描かれ、シンという名も英語のSin(=罪)からきているようですね。このシンがスピラを死の輪廻に縛り付けている張本人なわけですが、ユウナたちによってシンを倒した後には罪の輪廻から解き放たれ「生きる自由」を千年ぶりに獲得した世界に到達します。輪廻しない平和な世界、まさに涅槃の暗喩のようにも思えてきますね。またFF10での物語が召還獣をひとつ獲得するごとに各属性魔法への未熟さを克服していく寺院巡りの構造をベースに組み立てられていますが、これも宗教的な悟りに至る修行の工程の暗喩とみれなくもないですね。

私の父もジェクトも、素直に他人に愛を伝えられない未熟者で、自分の非を絶対認めない頑固者でしたが、居なくなってしまうと、むしろそうした未熟さ至らなさが逆に無償に人間らしい愛おしさとして感じられてきます。いや、もしかすると、すべての他人には未熟さというのは無く、それを「未熟」であると判断してしまう自分自身こそが本当の未熟者なのかもしれません。ただ他者の未熟さは自分の未熟さが投影されているだけで、もし自分が真に未熟さを克服したならば、全ての人は自分の魂を完成に導くために必要不可欠な教師でしかないことに気づくのかもしれませんね。現にティーダは、あれだけジェクトを憎みながらも、結果的に今の自分が立派に生きているのはジェクトの存在と導きがあってこそだったということに気づきます。ティーダが勇気を出して口にしたジェクトと交わす最後の言葉「はじめて思った。・・・あんたの息子でよかった」が胸に刺さりますね。──────などと書いていたらまたFF10を最初からプレイしたくなってきました。

メモ関連サイト
FF10「私は悲しみを消しに行くのだ」のシーン(YouTube)
posted by 八竹彗月 at 20:25| Comment(0) | 雑記

2019年06月23日

【音楽】エンニオ・モリコーネ & アルマンド・トロヴァヨーリ & ピエロ・ピッチオーニ & etc...(イタリアン・レトロ・グルーヴ vol.3)

エンニオ・モリコーネ、アルマンド・トロヴァヨーリ、ピエロ・ピッチオーニといえばイタリア映画音楽を代表する三巨匠だと思いますが、それぞれに強烈な個性と才能を持った音楽家なので、単純なイメージではくくれない一筋縄でいかない奥の深さがあって探究心をくすぐります。そういうわけで、また引き続きイタリア音楽特集ということで、フェイバリットな曲を挙げながら語ってみたいと思います。

るんるんPiero Piccioni「Per noi due soli」
イタリアン・ラウンジ音楽の代表的な作曲家ピエロ・ピッチオーニ(1921-2004)の曲です。夢の世界に連れていってくれそうな濃密なレトロ感が気持ちいいですね〜

るんるんPiero Piccioni「 In Viaggio Attraverso L'Australia」
一番好きなピエロ・ピッチオーニの曲といえばこの曲です。以前にも音楽テーマの記事で紹介しましたが、イタリア特集ということでまた再掲します。改めて聴いてもやはり傑作ですね!ボサノヴァ調の映画音楽を集めたコンピレーション『Metti Una Bossa A Cena 2』で知った曲で、そのアルバムでの曲名は『Incontro All'aeroporto』で、リンク先もその曲名になってますが、この曲は1971年のイタリア映画『Bello, Onesto, Emigrato, Australia Sposerebbe Compaesana Illibata』のサントラ曲のようで、「In Viaggio Attraverso L'Australia」が正しい曲名のようです。件の「Incontro All'aeroporto」は同サントラの別の曲のタイトルでした。

fax to参考サイト
映画「Bello, onesto, emigrato Australia sposerebbe compaesana illibata」のサントラ(試聴あり)(アマゾン)


るんるんArmando Trovajoli「La Matriarca」
イタリア映画音楽の巨匠アルマンド・トロヴァヨーリ。この人も天才ですね。この曲は映画『女性上位時代(La Matriarca)』のサントラ曲。ムーディーで幻想的なレトロ感が絶品ですね。

るんるんArmando Trovajoli「L'arcidiavolo」
これも以前の記事でも触れた曲ですが、お気に入りイタリアン・ラウンジということで再掲します。ノリのいいグルーヴィーな感じで、ベースがすごくカッコイイ曲ですね〜 ありそうでなさそうな秀逸なフレーズが流石といった感じです。

るんるんArmando Trovajoli「Decisione」
お洒落でムーディーなラブソング。翻訳をかけてみると、恋する乙女の心情を歌った、とくに深い意味の無い歌詞みたいでしたが、イタリア語の情熱的な響きのせいか、ラテンな感じの個性的な雰囲気を感じる曲になってますね。

るんるんRiz Ortolani & Nino Oliviero「Donna Twist」
パンチの効いたファンキーでモンドなイカした逸品です。この曲は1963年のイタリア映画『世界女族物語(せかいじょぞくものがたり La donna nel mondo)』のサントラ曲です。これまたものすごい題名の映画ですね。イタリアの名曲を追っていくと前回触れた「マナ・マナ」の時のようなエグ味のある悪趣味っぽい映画作品のために作られたサントラ曲であるケースがよくあります。イタリア文化のひとつに「ジャッロ(Giallo)」というのがありますが、これは大衆文学や映画などのジャンルで、怪奇、エロ、犯罪、推理、などのキワモノっぽいテーマが特徴です。『サスペリア』のダリオ・アルジェントもジャッロの影響を色濃く反映した監督ですが、そうしたジャンルが一般に受け入れられている特殊な背景が、そのようなイタリアの文化の独特の個性を醸し出しているのかもしれませんね。

メモ参考サイト
「ジャッロ」とは?(ウィキペディア)

るんるんEnnio Morricone「Metti Una Sera A Cena」
イタリア映画にとどまらずハリウッド映画も多く手がけている映画音楽の帝王、エンニオ・モリコーネ(1928〜)。この曲は1969年のイタリア映画『ある夕食のテーブル』のサントラ曲です。モリコーネをはじめて聴いたのが80年代以降のハリウッド映画のサントラだったせいか、あまりイタリアン・ラウンジのテイストを連想させない音楽家の印象があったのですが、60年代あたりのモリコーネのイタリア映画音楽のサントラを聴くと、この曲のようにやはりそこはお洒落なイタリアン・ラウンジ音楽のイメージそのまんまのサウンドで、改めて新鮮な魅力を感じたりしますね。

るんるんEnnio Morricone「Sospiri Da Una Radio Lontana」
1975年のジャン=ポール・ベルモンド主演のフランス映画『恐怖に襲われた街(Peur Sur La Ville)』のサントラ曲。喘ぎ声のようなセクシーな女声が重なりあうセクシーでムーディーな曲ですね。モリコーネのイメージというと『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ』『エクソシスト2』『ニュー・シネマ・パラダイス』『アンタッチャブル』などハリウッド映画のサントラの印象が強いですが、ちゃんとイタリアン・ラウンジな感じの曲も作っていて抽き出しの多さと溢れる才能に感服します。

るんるんEnnio Morricone「Cavallina A Cavallo」
池田満寿夫原作の1979年の日伊合作映画『エーゲ海に捧ぐ』のサントラ曲。コケティッシュな女声ボーカルがキュートな曲ですね。
posted by 八竹彗月 at 04:36| Comment(0) | 音楽

【音楽】ブルーノ・ニコライ & ピエロ・ウミリアーニ & etc...(イタリアン・レトロ・グルーヴ vol.2)

イタリア映画というと、フェデリコ・フェリーニやルキノ・ヴィスコンティ、ベルナルド・ベルトルッチ、ダリオ・アルジェントなどなど耳馴染みのある世界的な名声のある監督も多く、個性派揃いでアクの強い感じのアーティスティックな作品を作り出している国という印象があります。まさに映画王国!といった感じもありつつ、その割りにはやはりハリウッド映画に圧されて、それなりに大ヒットした作品くらいしか馴染みが無いところもありますが、そこがまたマニア心をくすぐる魅力を感じるところでもありますね。映画音楽の世界でも、巨匠、エンニオ・モリコーネをはじめとして、アルマンド・トロヴァヨーリ、ピエロ・ピッチオーニなどなど、個性派の天才揃いで、映像だけでなく、音もまたお洒落さと同時に独特の個性的な「濃さ」のある質感がまさに「イタリアっぽい」感じでハマるとクセになります。60年代あたりのイタリア映画音楽はまさに人類の至宝ともいうべき傑作がゴロゴロしており、掘れば掘るほど新鮮な驚きと感動があって楽しいです。そういった感じで、今回は前回に引き続き映画音楽を中心に魅惑のイタリア音楽の世界を語ってみようと思います。

るんるんAlessandro Alessandroni「Jeune Flirt」
前回に引き続いてアレサンドロ・アレサンドローニの名曲を。レトロ感たっぷりの、この甘〜い感じのダバダバスキャットがたまりません!お菓子の国のような楽園感覚を感じるノスタルジックなメロディが圧巻です。

るんるんAlessandro Alessandroni「Intimità」
これも絶品ですね。女声スキャットとハモンドオルガンがツボを付きまくりです。部屋の空気が一気にサイケでモンドな異世界に変容してしまうような音の魔法。素晴らしいですね〜

るんるんBruno Nicolai「Sguardi Teneri」
ブルーノ・ニコライ(1926-1991)は60〜80年代にかけてイタリアの映画音楽で活躍した作曲家。この曲は1969年のイタリア音楽『Carnal Circuit(原題:Femmine Insaziabili)』のサントラ曲。ダバダバスキャットがヴィンテージ感のあるムーディーで幻想的な雰囲気をだしていて引き込まれますね。ローマの音楽院でピアノと作曲の勉強をしていた時期にエンニオ・モリコーネと知り合ったことがきっかけで映画音楽を中心とした仕事にたずさわることとになったようです。

るんるんBruno Nicolai「I Want It All」
これもブルーノ・ニコライによる同上『Carnal Circuit』のサントラ曲です。映画は日本未公開作品なので、映画のほうは見てないですが、サントラの出来がめちゃくちゃイイので、本編を見たくなってきますね。日本でも馴染みのあるブルーノ・ニコライが音楽を手がけた映画というと1980年に公開されスキャンダラスな話題をふりまいた『カリギュラ』があります。『カリギュラ』も未見なのですが、46億円の巨費を投じた壮大なハードコアポルノ作品という、いかにもイタリアらしい濃い感じの映画のようで、機会があれば見てみたいですね。

るんるんPiero Umiliani 「L'arcangelo」
心癒される夢のような音楽ですね。ピエロ・ウミリアーニ(1926-2001)も映画音楽を多く手がけた作曲家で、この曲は映画『ミラノお色気大混戦(L'arcangelo)』のサントラ曲。映画はコメディもののようで、資料によると劇場未公開のようですが、TV放映があったみたいです。

るんるんPiero Umiliani「Mah nà mah nà」
ピエロ・ウミリアーニの最も有名な曲でもあり、イタリアン・ラウンジ音楽を代表する曲のひとつとも言える「マナ・マナ」です。一頃よくテレビのバラエティ番組のBGMなどでよく使われてたので、おそらく最も日本人に馴染みのあるピエロ・ウミリアーニの曲ではないでしょうか。キャッチーでコミカルなメロディ、おじさんの怪しい「マナマナ」のかけ声とコケティッシュな女声のスキャット、軽やかで楽し気な曲なのにやっぱり「濃い」感じなのがイタリアっぽいですね〜(いい意味で!)調べてみるとこの曲の背景もけっこう面白く、もともとはイタリア映画『フリーセックス地帯を行く〜天国か地獄か(Svezia、inferno e paradiso)』という、題名からしていかにもマイナーでモンドなカルト映画のサントラ曲のひとつとして作られた作品のようです。そのままでは埋もれてしまっていたはずの曲ですが、1970年前後にアメリカのテレビ番組「マペットショー」でこの曲が使われたことがきっかけで世界に広まったようです。「マナ・マナ」ってどういう意味なのか気になりますが、ウィキによればフランスのミュージカル『Me Noi、Me Noi(私であって私ではない)』の語感からヒントを得て造った意味の無いナンセンスな造語のようですね
posted by 八竹彗月 at 04:11| Comment(0) | 音楽

2019年06月15日

タイムマシンにお願い!・その2(タイムマシン関連の雑記)

先のタイムマシン関連の記事の補足的な感じで、タイムマシンに関する余談をあれこれ語ってみたいと思います。

190615-TM-icon.pngタイムマシンのある生活

タイムマシンという夢のマシーンに憧れるのは、それがあれば人生をもっとパーフェクトなものにできるのではないだろうか?という願望でもあるでしょうね。昨日に戻ってあの会社での失敗を取り消したいとか、未来に行ってこれから起こる事業の失策などがあれば回避したい。あるいは、過去のアクシデントで壊してしまった骨董の花瓶が壊れる前に戻って破壊を回避させたいとか、未来に起こる災害や事件を知ってあらかじめ対策をたてておきたい、など。たしかにタイムマシンがあれば、理想の人生、はては人類永遠の夢である戦争の無い世界すら可能になるかもしれませんね。

しかし、本当にタイムマシンが実現して、それこそ自動車に毛の生えたような日常的な乗物になっている時代が来たとしたら、本当に私たちは幸福になれるのか?と考えると、それもそれで疑問に思えてきます。過去は修正がきかないからこそ私たちは「今」にベストを尽くそうとするのですし、未来が不確かでも、それでも何かを信じてチャレンジするからこそ成功の達成感もあるわけです。タイムマシンがあれば、誰もが失敗することのない人生を送る事ができるかもしれませんが、失敗した経験が無いということは、本当に幸せなのだろうか?とも思えてきます。失敗が無いということは、成功しかない人生ということになりますが、失敗が存在しない世界は成功という概念も無い世界です。欠乏感がなければ学ぼうとする気力や動機を自発的に保たねば成長できませんから、心が幼いままで一生を終えてしまう可能性もあります。ヴィヴェーカーナンダの名言に「失敗は人生の美であり、それがなかったならば、どこに人生の詩があるだろうか」「幸福よりも一層多くを教えてくれるものは不幸である。富よりも一層多くを学ばせてくれるのは貧乏である。また、内面の火をかきたててくれるのは、賞賛よりも攻撃である」という言葉がありますが、まさしくこの世は、人も歴史も、まるで物理法則のように例外無く、幸と不幸が波のように繰り返すようになっていますから、幸福のみを求めるという不可能状態を夢見るよりは、不幸からいかに学び成長できるかということに着目していったほうが、結果的には人生を幸福なものにしていくことになるのかもしれませんね。

とはいうものの・・・視点を変えてみれば、タイムマシンが当たり前に存在する世界には、そういう世界なりの苦労があるでしょうし、実際は意外と問題なくうまくやっていくのかもしれないなぁ、とも同時に思います。洗濯板で家族の服を洗っていた時代に「洗濯機なんて普及したら人間が怠惰になってしまう」と心配したり、PCが普及しだした時代に「コンピュータに仕事を奪われてしまう」と懸念したりするようなもので、実際は洗濯機によって楽になった分、別のところに時間を配分したり、生活の質を高めれるわけですし、コンピュータ社会なりの新しい仕事(プログラマやオペレーターなど)がたくさん生まれました。そのうえコンピュータによって仕事の効率が上がったり利便性が高まったりするメリットのほうがあたったりしたわけで、タイムマシンも変に心配しなくても、あったらあったなりに上手く運用しながら意外と大した不都合無くやっていけるのかもしれませんね。いくら過去や未来を書き換えることが可能になろうとも、人間の喜びや苦しみは物質的な問題ではなく心の問題ですから、タイムマシンがある時代には、そういう時代なりの心の問題がありそうですし、そういう時代なりの苦労や試練もでてくるのでしょう。

タイムマシンよりは実現の可能性の高い、来るべき未来のテクノロジーの筆頭にクローン技術やAI(人工知能)がありますが、これらも似たような問題がありますね。どちらも実現すれば人の幸福に多大な貢献をしてくれそうな技術ですが、同時に倫理的な面などで懸念や不安がささやかれているのもご存知の通りです。クローンもAIも、つきつめれば「人間に限りなく近い新しい存在の人権などをどう考えるか」などの複雑な問いを含んだところがあって、なかなか明確な答えが出しづらい問題です。クローン技術は最終的には人間の複製をも可能にするはずですし、AIも最終的には人間と同等の知能や感情、はては人格まで持ったコンピュータに行き着きます。そうなれば、単に倫理だけの問題ではなくなり、そういった存在を社会的にどう扱うべきか、という法整備などが必要になりますから、人間社会にとってだけでなく、個人個人にとっても、革命的な意識改革が必要になってきそうですね。

しかし、多分、それらの技術も、かつて産業の機械化やコンピュータなどの先進技術が当初は漠然とした不安をもって迎えられていたようなもので、普及して一般化してしまえば、そういったものが当たり前に存在する社会なりのシステムに安定していくのでしょうし、意外と上手くやっていけてしまいそうでもあります。



190615-TM-icon.png時間停止と加速剤

日常的な時間から逸脱した世界のロマンというと、「時を止めた世界」というのも興味深いものがあります。これもSF漫画などでたまに見かけるモチーフですね。そういえば昭和のアニメに「ポールのミラクル大作戦」という作品がありましたが、その作品では異世界に行くための入り口を開くための段取りとして、時間停止の描写が演出されていてユニークでしたね。

最近はアダルト動画でも「時間を止めた世界でエッチなことをする」といったタイプのジャンルが流行ってるようで、こういうドラえもん的な道具でエロ的な世界を描く作品というのは、どこか少年時代のドキドキするようなエロティシズムがあります。しかし実際に時間が止まるわけではないので、そういう系のビデオに出演する女優さんは、カメラが回っている間は瞬きが出来ないためにかなり大変みたいですね。エロの世界でも裏では見えない努力によって支えられているんだなぁ、と感心してしまいます。少年漫画でも、昔ジャンプだったかチャンピオンだったかの読み切り作品で似たような「時間が止まった世界でエロいいたずらをする」的なエッチな作品を読んだ記憶がありますが、そうしたものがヒントになって出来たジャンルなのかもしれないですね。

止まった時間モノは、自分以外、あるいは自分と特定のキャラ(時間を止めれる能力者など)以外の世界の時間の流れが止まる、という設定のものですが、実際に時間が止まった世界を考えるといろいろ破綻する部分が多く、タイムマシンものよりもそれらしい理屈を考えるのが大変そうなジャンルでもあります。エロ系の話の場合は適当に、単純に自分以外の全てが止まった世界、ということで済ませてますが、時間が止まるということは、光も進まなくなるので暗闇になりますし、分子の動きまで止まりますからモノに触れば鬼のように冷たいでしょう。時の止まった世界で、女子の胸を触ってもダイヤモンドより硬いはずですし、そもそも空気との摩擦もものすごいものになりそうですから、歩くどころか、ちょっとの身動きも大変そうです。空気の振動も無いので音も聞こえないでしょうから相当に寂しい世界でしょうね。時間が停止した世界というと、ビデオを一時停止したような、静止画のような単純な世界ではなく、上記のような寒く、暗く、音も色も無い、退屈と苦痛だけしか無いような、まるで地獄のような世界でしょうから、実際には時を止めてみても良い所はほとんどなさそうですね。

H・G・ウェルズのアイデア「加速剤」は、そうした不都合を緩和するアイデアで、自分の身体能力の全てを異常に加速させる薬を飲むことで、筋肉だけでなく思考も加速するため、周囲の時間が遅く流れているように感じるようになる、という架空の薬です。この加速の程度によっては、ほとんど周囲の世界の時間が止まった状態になるのですが、主人公視点でもわずかづつ時間は流れるため、光の問題などはクリアできますし、話にもそれなりにリアリティを持たせれる良いアイデアだと思いました。ただ、やはり他者の肉体の反応や物理現象も遅くなるので、人間の体に触ってもカチカチに固いんでしょうね。

加速剤はSFの世界にしか存在しない架空の薬ですが、LSDなどの幻覚を誘発する系の麻薬は、視覚的な混乱だけでなく時間の感覚も歪んでくるらしいので、そういう意味では実在する「時間を操る薬」のようなところがありますね。違法な薬物ですし、余計なリスクは抱えたくないので、まぁ試す機会は無いと思いますが。依存性はほとんど無く、むしろアルコール依存の治療薬として使われていた薬みたいですが、とりあえず現代では、仮にチャンスがあっても「君子危うきに近寄らず」というのが一番ですね。

LSDは1950年代前後に本格的な研究がはじまった新しい薬だったため、60年代半ばくらいまでは法整備が整っていなかったようで、アメリカを中心とした当時のアーティストやヒッピーなどの間でLSDによるトリップ体験をテーマにしたアートや音楽などの分野でサイケデリックなサブカルチャーが流行りました。画家の横尾忠則さんも若い頃にアメリカでLSDを体験していたそうで、そういうエッセイを昔読んだ覚えがあります。数人で友人の部屋でLSDを服用してとんでもないリアルな幻覚を見たそうで、尿意をもよおしてトイレのドアを開けたら、いきなりドアの向こうがナイアガラの滝になっていてびっくりした、というようなエピソードを読んだ記憶があります。60年代のレコードジャケットやポスターなど、サイケデリックアートは60年代のサブカルチャーの代表みたいなところもあり、そういったアートで表現されてるような原色がチカチカするめくるめく虹の世界が実際に見えるというのは楽しそうでもあり、また恐そうでもありますね。

自然界を見ると、生物の寿命は数百年も生きる貝(ホンビノスガイ)とか、250年ほど生きると言われるゾウガメなどもいれば、一年の寿命のハツカネズや、わずか一日で寿命が尽きるカゲロウの成虫などさまざまです。ということは、以前話題になった『ゾウの時間ネズミの時間』で言及されているように、それぞれの生物が体感している「時間」は、おそらく人間が感じるような早さでは流れてなくて、寿命の短い生物にとっての時間は速く流れ、寿命の長い生物の時間は遅く流れているのかもしれません。そうして見ると、ネズミが見る人間は、まるで加速剤を服用したSFの主人公のように超スローに動いているように見えてるのかもしれませんね。

そんな感じで、加速剤を使えば時間がゆっくり進む世界を体験できますが、逆に自分が加速するのではなく、ひとつの街全体の時間が遅く進む世界を描いた作品もありましたね。タイムマシンものばかり書き続けた時に憑かれた作家″L瀬正の短編、「化石の街」という作品がそれです。アメリカの片田舎に住む26歳の青年が主人公で、休日に趣味の写生をするために遠出して立ち寄ったある町の様子がおかしい事に気づきます。町の人がみんな蝋人形のように凍り付いたように固まっていているのです。何か伝染病のようなものがこの町に蔓延しているのか、などと青年は不安になりますが、次の日またその町に来てみると、昨日と同じ場所にいた人がわずかにポーズが変わっていることに気づきます。実は、この町は、街ごと時間が異常に遅延しているようで、24時間で1秒程度しか時間が進まない町なのでした。という感じの内容です。主人公の青年が書き残した遺書という体裁の短編で、映画「ブレア・ウィッチ・プロジェクト」みたいなドキュメンタリー風なノリで書かれていて、不思議な味わいのある面白い作品です。広瀬正著『タイムマシンの作り方』(集英社文庫)にも収録されていますが、タイムマシン系のアンソロジーにもよくチョイスされる作品です。

メモ関連サイト
時間停止(ニコニコ大百科)
時間停止の能力を持ったアニメなどのキャラの紹介が列挙されていますが、時間停止って思ったより意外とたくさんの作品で重宝されているんですね。

ゾウの時間・ネズミの時間 本川 達雄 氏 - こだわりアカデミー (「at home」様のサイトより)
90年代初頭に話題になった『ゾウの時間ネズミの時間』の著者であり、生物学者の本川達雄氏への興味深いインタビュー。ネズミとゾウはどちらも心臓は一生のうちに15億回打って止まるようです。しかしネズミは短命でゾウは長寿です。これは、鼓動の速度が異なるせいで、ネズミは一回の鼓動が0.1秒であるのに対しゾウは3秒とのこと。人間の尺度で感じる時間だけが唯一の時間ではなく、生物ごとにそれぞれ独自の時計を持っているのだ、といった話を筆頭に、とても興味深いテーマを語っていて勉強になります。

ポールのミラクル大作戦 第1話「よみがえったベルト・サタン」(YouTubeのTatsunokoChannel様より)
タツノコプロの公式チャンネルで公開されている懐かしの昭和アニメ「ポールのミラクル大作戦」です。この作品では異世界に参入する前段として時間停止を扱っています。9:03あたりから時間停止の描写がありますが、時間が停止した世界をモノトーンの版画のようなタッチで表現していて、とても秀逸な演出ですね。時間が止まった世界は、上述したようにビデオの一時停止のような単純な世界ではなく、原子の運動も止まった凍てつく状態でしょうし、光の運動さえも停止した暗黒の世界だと思うので、まさにこのアニメの凍てついたような冷たさのある時間停止の演出には妙なリアリティを感じます。時間停止した世界でオカルトハンマーなる魔法のハンマーで適当な場所を叩くと異世界の扉が開く、という段取りなのですが、この異世界への扉の紋様も雰囲気がありますね。どことなくFF10の「試練の間」のスフィアを置く場所にある不思議な「印」のデザインを連想させる感じで、いかにも不思議な世界にありそうな感じがグッときます。



190615-TM-icon.png時の旅人・サンジェルマン伯爵とジョン・タイター

タイムマシンの製造は不可能であることの根拠のひとつに、「歴史上タイムマシンが訪れたという記録がない」というものがあります。タイムマシンが時間を自在に移動できるなら、すでに過去のいろいろな時点に未来人が来てるはずで、未来人が歴史的な大事件に調査に訪れたり、歴史上の人物に会見したりした記録がたくさん残っていてもおかしくないはずです。なのに、それらしき記憶が全く無いということは、そもそもタイムマシンの製造は不可能で、どんな遠い未来においても作られることはないのではないか、という推論があります。これは、至極真っ当な指摘ですが、本当に未来人が過去に干渉した証拠は皆無なのかというと、意外とそうでもなく、真偽が不確かながらも、オーパーツ的なものとか、それらしい痕跡がいくつか発見されているのも事実です。

そういった逸話の代表格というと、不死の人とか、時の旅人とか言われたサンジェルマン伯爵が有名ですね。彼が食事をしているところを見た人はないないとか、何十年たってもいつも40代前の精悍な風貌で全く歳をとらなかったとか、様々な分野の専門知識があり、音楽、絵画にも熟達した芸術家でもあり、錬金術にも通じていてときおり人前でその秘術を披露したとか、かなり謎めいた人物であったようです。ルイ15世、ルイ16世をはじめ、1700年代の社交界において実際に彼と面識を持った貴族や識者、著名人は多く、不死者かどうか別にして、サンジェルマン伯爵なる人物が実在したのはたしかなようですね。

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サンジェルマン伯爵の肖像画

同時代の哲学者ヴォルテールはサンジェルマン伯爵を「決して死ぬことがなく、すべてを知っている人物」と評したとのことで、当時の知識人からも、その超人的な博識ぶりは本物だったのでしょう。また、過去の歴史的事件をさも実際に立ち会ってきたかのように話したりしていたことから、不老不死というよりは、彼はタイムトラベラーなのではないか、とまで言われるようになります。不老不死とかタイムトラベラーとか、一般にはトンデモなオカルト系のイメージがありますから、このサンジェルマン伯爵の超人的なエピソードのほとんどは彼のホラ話なのでは、という見解もあり、たしかに常識で考えれば、そっちのほうが理性が納得する解釈で、オカルト関係に寛容なコリン・ウィルソンでも彼をペテン師のような感じに捉えているみたいです。しかし、ホラ話であるという証拠もなく、ただのホラ吹きにしては上流社会のマナーに通じていたり、博学だったり、裕福な生活をしてたりしていたようで、タイムトラベラーかどうか別にしても、そうとうに超人的な人物で、かつ私生活が謎に包まれたミステリアスな人物であったのは事実みたいですね。個人的に思うに、タイムトラベラー説は置いとくとしても、ただ者ではなさそうですし、それなりに別の面白い真相がありそうな気もします。

そういえば諸星大二郎の傑作『暗黒神話』の中では、武内宿禰(たけうちのすくね。4世紀前半頃、景行・成務・仲哀・応神・仁徳の五朝にわたって朝廷に仕えていたとされる伝説上の人物)の正体はサンジェルマン伯爵だった、というユニークな仮説を描いていて面白かったですね。

サンジェルマン伯爵の生まれは通説では1700年前後といわれていて、主なエピソードも18世紀ヨーロッパにおけるものがメインですが、マリーアントワネットの処刑も前もって知っていたかのように予言めいた忠告を残していたとか、はては聖書のヨハネ福音書に書かれているカナの婚礼のイベントに立ち会ったとか、古代の出来事も体験談のように話していたそうです。また、サンジェルマンは1784年2月27日にリューマチと鬱病を煩い死去したという記録がドイツのエッカーフェーデ教会の戸籍簿に記録されているとのことですが、その翌年にはドイツのヴィルヘルムスバートで開かれた秘密結社の集会に出ていたという記録や、さらに死後7年後の1791年にはアントワネット王妃の侍女アデマール夫人と会って話もしたようで、生前の彼を知っている夫人は幽霊が現われたのかと驚いたほどその人物の容姿はサンジェルマン伯爵と瓜二つだったようです。彼女は伯爵の葬儀にも参列していたそうなので、見間違いとも断言しがたく、また彼は自身をサンジェルマン本人を名乗っていたようなので、これも不思議なエピソードです。

他には、ナポレオンと会ってたとか、第二次大戦中にチャーチル首相に会い、ヒトラー戦の助言をしていたとか、謎めいた噂も多いですね。こうした逸話を、サンジェルマン伝説に尾ひれがついて広まったデマ話と片付けるのは容易ですが、ヨガナンダの本に出てくるヨガナンダの師匠の師匠のそのまた師匠であるヨガマスター、ババジも似たような不老不死の神人として書かれてますし、サンジェルマンのような達人(アデプト)がこの世に一人や二人くらいいてもらったほうが楽しい世界になりそうです。

そういえば、タイムトラベルもののヒット作、「シュタインズ・ゲート」に、件のサンジェルマン伯爵の現代版であるタイムトラベル界のニュースター、ジョン・タイターが何度か言及されていましたね。「シュタインズ・ゲート」におけるタイムトラベルの理屈は、ほぼこのジョン・タイターによる時間理論を元にしたもので、タイターの言及している「世界線」などの解釈はなかなかユニークで興味深いものを感じます。ジョン・タイターは、2000年にインターネット上に現われ、自称2036年からやってきた未来人を名乗り、その書き込み内容がそれなりにリアリティのある理論や設定であったために、一躍世界的な有名人になっていったようです。未来人を名乗っているだけに、未来に起こりうる歴史的な事件などを予言したりもしていますが、予言内容を見ると、中国の宇宙進出とか当たってる予言も少しありますが、ほとんどはハズレてるので、こちらはやはり本物の未来人と見るには少し条件が足りない感じがします。まぁ、実際、それらしいネタをネットに投下して楽しんだ愉快犯というのが常識的な見方だとは思います。しかし、時間旅行の理論や、タイムマシンの構造など、なかなかそれらしい感じではありましたし、予言が外れる事も「世界線のズレ」による影響という解釈によって、それなりに説明に整合性を付けてる所が芸が細かく、また、ネットから消える最後まで野暮なネタバレをしないまま去ってくれたおかげで、完全否定もまた出来ないままロマンの余地を残してくれた感じではありますね。

考えてみれば、タイターがいなければ「シュタインズ・ゲート」も無かったわけですから、彼は少なくとも日本のゲームやアニメなどのサブカルチャーにはそれなりの影響を与えたわけです。サンジェルマンのほうは、数ある不思議な逸話のほとんどは多少尾ひれがついていると思うものの、かなり謎めいた怪人物には違いなさそうではあります。タイムトラベラーかどうかわかりませんが、魔術師的な能力はかなりのレベルだったのではないかと推察します。

サンジェルマンもタイターも冷静に考えればタイムトラベラーと断定するには疑問の余地がありますが、完全否定することを少し躊躇せざるをえないくらいには「それっぽさ」があって、もしも正体が単なる詐話師であったにせよ、彼らの言動がこの世界をちょっと面白い愉快なものにしてくれているのは確かですから、そう考えると、ある意味人々に夢を与えて社会貢献している立派な人たちのようにも思えてきますね。

メモ関連サイト
サンジェルマン伯爵(ウィキペディア)

ジョン・タイター(ウィキペディア)
posted by 八竹彗月 at 04:21| Comment(0) | 雑記

2019年06月02日

とあるおばあちゃんの詩についてのエッセイ

「この世の人生というは、魂の修行の場である」というスピリチュアルな考えがありますね。最初聞いたときは根拠の無い宗教的な適当な方便、くらいにしか思ってませんでしたが、考えれば考えるほど、意外と人生とは本当にそういうものなのではなかろうか、と思う事がしばしばあります。いくつになっても天真爛漫で豪快なイメージのファッションデザイナー、山本寛斎氏も、かつて伊集院光さんのラジオ番組で「人生は表面がどう見えようとも、いい時悪い時、山谷(やま たに)はみんなあります。右肩上がりでズーッといい事づくめ、なんてことはないですよ」とおっしゃっていたのが印象に残ってます。「でも世の中にはそんな人もいるんじゃないですか?」という質問に対しても「いいや、これは断言できます」と確信をもって否定しています。

地球上にいる人類の総数は国連などの統計によれば現在推定75億人ということですが、なんとなく、私たちは、75億人もの人間がいるなら相当数の「幸福だけの人生」を過ごしている人がいてもおかしくないのではないか?という漠然とした推測をしてしまいがちです。しかし、自分の周囲を振り返ってもそういう人はいませんし、有名人など「この人なら不幸は経験してないはずだ」と目星をつけても、よく調べてみるとけっこう深刻な悩みを抱えていたりするものです。そういえば私も、昔働いていた職場の経理のお姐さんに「あんた、悩みなんて無いでしょ?」と目が合うとよく言われてました。私の場合、深刻な悩みにもがいている時ほど、他人にはひょうひょうと悩み無く生きているように見えてるようです。誰しも他人の悩みなどほとんど無関心なのが普通なので、悩んでいるのは自分だけ、みたいな気分に陥りがちですが、ポジティブを絵に描いたような山本寛斎さんのような人でさえ不幸や悩みがあるんですから、おそらく悩み無く生きている人はほぼ皆無でしょう。ブッダも言ったように、人間の悩みは人間関係やお金などの表面的なものだけでなく、人間すべからく逃れざる「苦」、つまり生老病死と無関係に人生を過ごすことはできないわけです。

まぁ、とにかく、人生は、そういう世界でいかに幸福に過ごす事ができるか、ということにチャレンジし続けるゲームのようなものなのでしょう。ゲームに勝つにはゲームの仕組みを理解しないと話になりませんが、幸いな事にキリストやブッダや老子などの数々の賢者がヒントをたくさん遺してくださってますし、また、自分自身の半生そのものが最大のヒントですから、そこから自分なりの解答を見つけ出していくのもゲームの醍醐味なのかもしれませんね。今回は、そうした人生ゲームの終盤に差し掛かったとある女性が書いたとされる、ある一編の何とも言えない味わいのある詩を取り上げたいと思います。

もう一度生きられたら

次の人生ではもっと誤りを犯したい。リラックスしたい。柔軟に生きたい。この人生よりも愚か者でありたい。ものごとを生真面目にとらないようにしよう。もっとチャンスを手に入れよう。もっともっと山に登り、もっともっと川で泳ごう。アイスクリームを今よりたくさん食べて、豆類は少なくしよう。きっと現実でのトラブルは多くなるだろうが、不安や思い過ごしは少なくなるに違いない。

ごらんの通り、私は時を日についで、賢く清らかに生きている大衆の一人だ。ああ、自分だけの時がもてていたなら。もし、もう一度生きてそうすることができたら、たっぷり自由な時を持つことだろう。つまり、他のことは何も試みまい。毎日あくせくと生きて多年を過ごす代わりに、ひとつ、またひとつと、ただそういう瞬間のみを。私は、温度計や魔法瓶や、レインコートや、パラシュートを持たずには、どこへも行かない人間だった。もし、もう一度それができたら、私は身軽に旅することだろう。

もう一度生きることができたら、まだ早春のうちにはだしで出かけよう。そして、晩秋になっても、大自然の中にとどまっていよう。もっとダンスをしに行こう。メリーゴーランドにもっと乗ろう。ひな菊をもっとたくさん摘もう。

ナディーヌ・ステア 85歳



作者の名前はナディーヌ・ステア(Nadine Stair)。アメリカ・ケンタッキー州・ルーイヴィル在住の女性で、彼女が85歳の時に書いたとされるこの詩は、多くの人に感銘を与え、多くの本や雑誌に引用され、またネットでもこの詩の引用をよく見かけます。引き寄せブームの火付け役になった『ザ・シークレット』に登場したことでも知られるジャック・キャンフィールドの著書『こころのチキンスープ』(原著は1993年刊)にも紹介されてますし、ニューエイジのスピリチュアルリーダー、ラム・ダスの著書『覚醒への旅』(原著は1978年刊)にも引用が見られ、また先日ネットでも見かけたりして、ここのところよくこの詩を見るので、ちょっと気になっていたこともあって今回記事にしてみました。

数々の本に引用される名詩の作者であるナディーヌ・ステアなる女性ですが、その素性が気になって調べてみたら意外な事が分かりました。英語版のウィキによれば、この女性、まことしやかに住所まで示されていながらも、実は実在する人物かどうかもわかっていないようです。この詩の出所を辿っていくと、あの南米文学の巨匠、ホルヘ・ルイス・ボルヘスに行き当たるようですが、ボルヘスの創作した詩ということではなく、アメリカの漫画家ドン・ヘロルド(Don Herold)の『私はもっとひな菊を摘もうと思う(I'd Pick More Daisies)』というタイトルの1935年に書かれた詩がオリジナルのようです。その詩をボルヘスがどこかのテキストに引用したようで、それがボルヘスの作として誤って拡散されていったみたいですね。そして、さらにそれがどういう経緯か、ナディーヌ・ステアなる老女の詩という改変が為されて主に北米で最も一般的に知られるバージョンに育っていったようです。先日のヴォルテールの話ではないですが、これもまた伝言ゲームみたいな面白い流れですね。

ちなみにドン・ヘロルドの詩は1953年のリーダース・ダイジェストにも改訂版を公開しているようです。オリジナルの詩は男性の視点で書かれてるので、どこか人生訓めいた重さがあるためか、さほど知られてなかったようですが、その後改変されて拡散された老女ナディーヌ・ステアのバージョンでは、女性目線のロマンチックな情緒が加味されているため、多くの人の心をつかんでいたのでしょうね。詳細は以下のウィキを参照してください。

まぁ、そういった細かい経緯はどうあれ、作品自体は味わい深い良い詩であるのはたしかで、人生をよりよく生きるにはどうしたら良いのか、という人類共通の問題を、ブッダなどの賢者目線ではなく、一般の普通のおばあちゃん目線で語っているところが、親しみ深く心に染み込んでくる所以でしょうね。

人生という劇場では、「自分」というひとりの主観劇を一本だけしか見る事はできませんから、充実した人生を送った人でも、後悔、というよりは「もしあの時こうしていたらどうだったろう?」とか、いろいろと「あり得たはずの別の人生」を想像してしまうのかもしれません。「次の人生ではもっと誤りを犯したい」という最初の一句が胸に刺さります。死後の世界があるにしろ、この自分という個体の人生は一度きりですし、何かの行為がどういう結果を招くのかは未知の世界なので、無難に生きようとしがちですが、慎重になりすぎてしまうと冒険の無い単調なものになってしまいますし、本当に人生というのは正解の無いドラマだなぁ、と感じます。しかし、どうも運命を支配している法則は、リスクを背負ってでも冒険する者に多くを与えるようになっているようにも感じます。人生の最後に後悔するのは、失敗した経験ではなく、やろうと思っていながらチャレンジしなかった事である、という話がありますね。スティーブ・ジョブズの名言に「ハングリーであれ。愚かであれ。(Stay hungry, stay foolish)」というのがありますが、まさに人間はハングリーな状態こそがアイデアや行動力を発揮しやすくなるところがあり、人生においてはチャレンジする事のリスクを勘定して臆病になってしまうような賢さよりも、見切り発車できる愚かさのほうが大切なのかもしれませんね。

関連サイト
ナディーヌ・ステアの有名な詩の出所について(wiki 英語)
posted by 八竹彗月 at 07:06| Comment(0) | 雑記