2019年01月18日

聖書と原罪

何かと慌ただしいような、そうでもないような感じで新年がはじまりました。すっかり開けきってしまいましたが、今年もよろしくお願いします!今回の記事は、この前部屋の整理などをしてたらふと聖書の原罪についてひらめくことがあったので、忘れないうちにメモ替わりに文章を書いているうちにいろいろ話がふくらんできたので単発記事としてアップしてみました。

本聖書の思い出

欧米の文化はキリスト教の思想が根底にあるので、聖書を一通り読んでおいたほうがハリウッド映画や文学、アニメなど、向こうの文化をより楽しめるよ、といった話を学校の先生だったか誰か忘れましたが、子供の頃どこかで聞いていたこともあって、中学生くらいの時期に聖書をよく読んでいました。欧米人ならだれでも知ってるような超ベストセラー本なわけですから、多分読めば面白かろう、という軽いノリで読んでみたのはいいですが・・・・しかし、世界宗教の聖典だけあって子供には薬が効きすぎたようでした。「原罪」に落ち込み、「十戒」に憂鬱になったりと、心の救いどころか、何か恐ろしい圧迫感や束縛感を感じつつ、それを否定すると地獄に堕ちるのではないか、神に罰せられるのではないか、という恐怖感に囚われた思い出があります。聖書に書いてある禁則事項の中には、「脳内で女性を犯しても実際に淫行したのと同じ罪!」とか「オナニーも罪!」とかあるので、思春期の少年には厳しすぎる内容です。なんとなく性に抑圧的な環境で育ったこともあって、さらに自ら禁欲的な思想まで取り入れたものですから、心の奥では逆に余計にエロに対する興味を増大させていた気がします。抑圧されるほどに、ますます性的な空想が極上のパラダイス的な魅力をもって誘惑してくる感じでしたが、そういう妄想をしている自分に罪悪感や嫌悪感もあったりして、それなりに若者らしい悩みに苦しんでいたのだなぁ、と他人事のように思い出が蘇ります。大人になるにつれて、そういう聖書の思想を背景にした社会に生きているはずの西洋人も、十戒を守って生きてるような人はほとんどいなさそうな事がわかってきて、気が楽になりました。何ごとも、イイカゲンくらいが加減がいい、つまり「いい加減」なのかもしれませんね。

聖書に限ったことではないですが、この世界は必ず2面性を持って存在しているので、醤油も調味料として使うと美味しいですが、ガブ飲みしたら毒と同じで死んでしまうように、聖書も心の成熟度とかいろいろな条件によっては毒にも薬にもなるのだということを学びました。ヘッセの小説とかは、そうしたキリスト教的な思想が文化的な背景としてあらかじめ存在している西洋人の苦悩が描かれていて、個人的にとても思い入れのある小説「デミアン」も、そうしたキリスト教的な環境からの抑圧と解放を描いていて、すごく共感したものです。なるほど思い返してみれば、もし先に聖書を読んで、さらにその聖書の世界観に暗澹たる圧迫感を感じることがなければ、ヘッセの作品から受ける印象も浅いものになったでしょうから、振り返ってみれば、聖書を読むという経験はなんだかんだいっても役に立ったには違いありません。陰謀論系のオカルト本も聖書が元ネタになってるものが多く、鬼塚五十一などの666関係の陰謀論とか、超古代文明関係の話とか、なにかと妖しい話題にも聖書はよく出てくるので、そういう話のネタ元としての興味からヨハネの黙示録を読んだりなどもしました。

一冊の読物として見ると、旧約聖書は序盤はエデンの園とかノアの洪水とかバベルの塔など有名なイベントが次々と目白押しなのでそれなりに面白いのですが、ヨシュア記とか歴代志上など旧約聖書全般に「ベニヤミンの生んだ者は長子はベラ、その次はアシベル、第三はアハラ、第四はノハ、第五はラパ。ベラの子らはアダル、ゲラ、アビウデ、アビシュア、ナアマン、アホア、ゲラ、シフパム、ヒラム。(歴代志上 第8章)」みたいな感じで誰それが誰を生んだとか家系図的な記述がえんえんと続くスコブル退屈な文章も多く、そのせいで旧約はあまりちゃんと読んでませんでした。こうした聖書の「○○○が○○○を生んだ」的な記述がしつこく繰り返されるノリをパロったのが筒井康隆の「バブリング創世記」で、内容は「ドンドンはドンドコの父なり。ドンドンの子ドンドコ、ドンドコドンを生み、ドンドコドン、ドコドンドンとドンタカタを生む。ドンタカタ、ドカタンタンを生めり。」という感じでえんえんとへんてこな家系の愉快な響きの名前が語られるユニークで実験的な短編小説です。さすがナンセンス文学の巨匠筒井康隆ですね。これも聖書のしつこい家系の記述を先に知ってないと面白さも半減しますから、やはり聖書はとりあえず読んでおくと何かと後々役に立つ本といえます。

メモ関連サイト
ニコニコ文学劇場 「バブリング創世記」 -筒井康隆- 読み手:ゆっくり
本だと字面だけで読む気が失せてしまうような威力があるのでちゃんと読んだ事はなかったのですが、こうして改めて音声で聴くとばかばかしくも妙にリズム感のある繰り返しのフレーズがツボにハマって吹き出してしまいました。聖書を茶化すというバチ当たりなノリもいかにも筒井節な感じですね。キリスト教だけでなく、そういえば仏式の葬式を茶化したブラックな漫画も描いてましたね。そこに下手に真面目な批判や風刺が込められていたりすると、ややもすると冒涜と受け取られかねないネタですが、筒井康隆の場合、ただ「面白そうだったからやった」的なノリでこういうものを書くので「筒井康隆なら仕方ない」ということになってしまう所も面白いです。こういう作品は、ちょっとでも元ネタを見下すような感じとか、批判的な風刺の匂いがすると興醒めになるのですが、絶妙にそうならないところが筒井康隆の天才性ですね。

というわけで、旧約聖書はそんなに熟読していないのですが、後半のエレミア書、エゼキエル書などの箴言集的なものは今読み返すと仏教哲学にも通じる事を言っていたりなど、なかなか含蓄があります。新約聖書はイエス・キリストを主人公にした聖典なので、基本的にイエスの人生や思想が語られる内容になっており、読みやすいです。また、旧約聖書の時代背景と較べると、旧約よりも悲壮感が無く、父なる神様も旧約の時の恐く厳しい感じでなく、比較的優しい神様になっているので馴染みやすいですね。神様が時代や民族によってキャラが微妙に変化していくのは、神様自体に問題があるのではなく、感じとる人間の側のフィルターの違いが神の違いになっているのだと思います。旧約聖書の神は人間の罪に怒って洪水を起こしたり実の子供を生贄に求めたりなど、どこか近付き難い恐い神のようなイメージがありますし、十戒のように、厳格な規則を人間に求めるスパルタ教師のような側面がありますが、こういう神の性質は、当時のイスラエル民族の置かれた厳しい環境を反映したものなのでしょうね。

現代の日本社会の有り様と聖書の時代とはかなりのギャップがあるのも確かで、書いてある事を真面目に受け取りすぎると最初に書いたようにいらぬ不安感や罪悪感を背負いかねないところもあり、キリスト教というのは世界的な宗教の割にはけっこう上級者向けの宗教のように個人的には感じてます。冷静に聖書を読めるようになったのは哲学や神話学や神秘学やスピリチュアルの教えなど、精神世界全般に興味を持って俯瞰してみるようになってからでしたね。どんな宗教でもそうですが、直感的というか感覚的に不安感や罪悪感や恐怖感を感じるようなものは、自分の肌に合ってないか、まだその教えを理解できる時期ではないか、あるいはカルト宗教などの間違った教義であるかのどれかです。基本的に、その教えを聞いて心が軽くなったり、人生を能動的に自由に生きれるようにしてくれるようなものこそがその人にとって一番必要な教えだと思います。人間に対する神の願いは一言でいえば「幸せでありなさい!」という事で、すべての教えはそのための技法にすぎません。宗教は元来、人を自由にし、幸せに導く技法でありますから、そうでないものはその宗教が間違っているか、自分の解釈が間違っているかのどちらかだろうと思います。



本原罪のはなし

キリスト教の基本的な概念で「原罪」というのがありますが、昔の私がそうだったように、これもキリスト教にネガティブな印象を持ってしまう原因にもなっているような気がします。私は別にクリスチャンでもないですし、特定の宗教の信者でもないのですが、神について興味を持ち「神とは?」という問題を研究していくと、そうした「原罪」をはじめとして、世界的にメジャーな宗教であるキリスト教もけっこう誤解して自分勝手なイメージで解釈している部分が多いことに気づいてきます。「原罪」というと、一般的に定義すれば、聖書の創世記に登場する人類最初のカップル、アダムとイブが神に背いた罪のことで、人間はすべてこのアダムとイブから受け継がれた罪(原罪)を生まれた時から皆背負っているのだ、という概念です。聞いただけで憂鬱になってくる概念ですよね。ジョセフ・キャンベルは生前日本を訪れた時の印象を「原罪を持たない国」と羨ましそうに語っていましたね。その言葉からは、それほどこの原罪というキリスト教の概念は欧米人には多かれ少なかれ潜在的に刻み込まれたトラウマ的なものであるように感じました。キャンベル先生の著書を読んでるとキリスト教に批判的な記述がしばしば出てきますが、それはおそらく、ヘッセやユングなども感じていたような、そうした西洋人の聖書的なトラウマが影響してる面もあるのかな、と思いました。キャンベル先生が神話の研究に魅入られたのは、聖書の価値観とは違った視点から語られる神話の神々の中に、そういった抑圧から解放してくれるような救いを求めていたからなのかもしれませんね。


私は日本を訪れたときの経験を決して忘れないでしょう。原罪による堕落も、エデンの園もまるで聞いたことのない国です。神道の聖典のひとつに、自然の営みが悪しきものであるはずはない、と書いてあるのです。あらゆる自然な衝動は矯正するものではなく、昇華すべきものである、美化すべきものである。自然の美と、自然との協力とに対するすばらしい関心がありますから、日本の庭園のいくつかでは、どこで自然が終わって人工が始まっているのかわからない。これはすごい体験でしたよ。
──────ジョセフ・キャンベル

ジョセフ・キャンベル、ビル・モイヤーズ著『神話の力』(飛田茂雄訳 1992年 早川書房) p65より



と、まぁ、人を救い、人を幸せにするのが宗教のはずなのに、なんで原罪などというトラウマ的な概念で人を縛るのか?という部分で、キリスト教をはじめとする宗教全般への懐疑心を持つ人も多いように思います。かつては私もそうでしたので、多分、そのような考えを持つ人はけっこういそうな気がします。この間、この原罪の概念についてふとひらめいたことがあったので、この記事を書こうと思ったのですが、その考えとは「そもそもこの原罪というのは、いわゆる人間を罪人として定義することが本義ではないのではないか?」とうことでした。ニュアンス的には、「罪」というよりは「不完全」という意味ではなかろうか、ということです。人間はもともと神(あるいは宇宙≠ナもいいですが)と繋がっているのが自然な状態であるはずなのに、すべての人間は神を知らない状態で生まれてくる。この人間の置かれた不完全な状態を言い表したのが「原罪」という概念なのではないか、というようなことが頭に浮かんできました。

あらゆる宗教は、なんらかの方法で神との絆を回復しようとする試みであるともいえると思います。宇宙138億年の歴史の結晶として人間が誕生したわけですが、その宇宙の子である人間は宇宙について無知であることと似ています。神秘家のグルジェフも、人間はそのままの状態ではただ環境に自動的に反応しているだけの機械にすぎない、と言っていましたね。人間は能動的に「目覚める」努力をしない限りは眠ったまま生まれて眠ったまま死んでいくだけである、というのがグルジェフの思想でしたが、たしかに人間というのはそういう存在なのかもしれません。神を知り、神と共にいる、という「本来の状態」に、なんらかの方法で回帰するためのノウハウを提供しているのが宗教や神秘主義やスピリチュアル思想などの精神世界なのだと思います。

人間以外の動物は、善悪の概念を持たないゆえに罪を犯す事はあり得ません。ライオンがシマウマを殺すのは自然が認めた生きるための行為であって悪ではないですし、蜘蛛が自らの作った粘着質の網の罠にかかった蝶を食べるのも罪ではありません。ライオンも蜘蛛も善悪という基準で生きてませんから、悪意で他者を殺すことは原理的に不可能です。同じように、植物も、石も、山も罪を犯しません。ただ人間だけが善悪を知っているために罪を犯してしまいます。これが聖書の創世記にある「善悪を知る木」の実を食べたアダムとイブの寓意であるように思いました。

では、なぜ人間は「善悪を知る」存在であるのか?善悪を知らなければ罪を犯す事はないですし、もっと自由に生きれたはずです。善悪を知るというのは神の罰なのでしょうか?いや多分、それこそが神の恩寵でもあるように思います。なぜなら、動物は善悪を知らないゆえに罪を犯したくても犯せない存在ですが、自分の不完全性についても知らないので、神を知ることもできません。つまり、動物は悪い生き方ができないかわりに、より良く生きるという生き方もできないわけです。動物は愚かな存在だといいたいわけではなく、むしろ赤ちゃんのように無垢な存在だということです。無垢でありますが、それ以上にも以下にもなれない。人間は悪によって動物以下の心性に堕ちる事もありますが、善を行うことで動物の無垢な心性よりも高次の心性を獲得することも可能な存在です。聖書が神の姿に似せて人間を造った、と記述しているのは、まさに、「万物の中で、人間だけが神と似たような存在になれる特権を与えられた」ことを示唆しているのではないか、ということです。

神は自分のかたちに人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し、男と女に創造された。

聖書 創世記 第1章


人間だけが、少なくとも地球上の生物の中では唯一宇宙を知ろうとする生物として存在していますし、人間だけが神の存在に気づくことが可能で、さらには神に限りなく近づくことも原則的に可能な状態にあるわけです。そう考えると、かつて抱いていたような、人間を原罪という窮屈な檻に閉じ込めて罪悪感植え付けようとしているかのような陰鬱なイメージとは真逆の、非常にポジティブなメッセージを読み取る事ができます。そして、この解釈のほうがインドのヴェーダーンタ哲学から最近のスピリチュアル思想まで共通して現われてくる考えに近いものがありますし、意外とこれが真相に近いような気もしている昨今です。
posted by 八竹彗月 at 07:23| Comment(0) | 精神世界

2018年12月15日

【音楽】最近聴いてる曲

元気な曲から、ヒーリングな曲まで、最近聴いている曲の中からいい感じの音楽を気分で選んでみました。

るんるんSlade「Cum On Feel The Noize」
元気が湧いて来るパワフルな曲です。最近よく聴いてます。クワイエット・ライオットやオアシスのカバーでも知られるヒット曲「カモン・フィール・ザ・ノイズ」ですが、やはりスレイドによる1973年のオリジナル曲はプリミティブなパワーがあってイイですね〜

るんるんJimi Hendrix「Purple Haze」
るんるんJimi Hendrix「Sunshine Of Your Love」
激しい中に遊び心とかっこよさとサイケ感のあるフリーダムなギターの唸りにシビれます。このところなぜかジミヘンが無性に聴きたくなってきて、最近は仕事のBGMのジミヘン率が微妙に上昇中です。以前はアクが強過ぎる感じがして苦手だったんですが、最近ようやくジミヘンの良さが分かってきたみたいです。「パープル・ヘイズ」といえば、HIS(忌野清志郎&坂本冬美&細野晴臣のユニット)が和風にアレンジした「パープル・ヘイズ音頭」という曲がありましたね。「サンシャイン・オブ・ユア・ラヴ」は伝説のロックバンド、クリームの名曲のカバーです。

るんるんNigel Kennedy「Fire」
るんるんNigel Kennedy「Transfiguration」
ナイジェル・ケネディは英国イングランドのヴァイオリニスト。「Fire」はオムニバスのジミヘンのトリビュートアルバム「Stone Free ( A Tribute to Jimi Hendrix )」からの曲で、ジミヘンの曲「Fire」をいい感じにアレンジしていて気持ちいい曲です。「Transfiguration」はナイジェル・ケネディの2010年のオリジナルアルバム「Shhh!」からの曲で、フリーキーで個性的な曲ながらも心地いいグルーヴ感のある面白い曲です。

るんるんBalanescu Quartet「Computer Love」
るんるんBalanescu Quartet「The Model」
バラネスク・カルテットはルーマニア出身のヴァイオリニスト、作曲家のアレクサンダー・バラネスクによる弦楽ユニット。オリジナル曲もユニークでかっこいい曲が多いですが、マイケル・ナイマンの弦楽四重奏曲の演奏や、今回ピックアップしたクラフトワークのカバー曲などもとてもいい感じですね。テクノの名曲も生楽器のアレンジが意外とハマっていて、なかなか聴かせてくれます。

るんるんGary Lewis & The Playboys「Green Grass」
るんるんGary Lewis & The Playboys「Sure Gonna Miss Her」
ゲイリー・ルイス&ザ・プレイボーイズは主に60年代に活躍したアメリカのポップ・ロック・バンド。いかにも60年代ポップスな夢のようなスウィート感のあるテイストが気持ちいいですね。

るんるんHoneydrippers「Sea of Love」
レッド・ツェッペリンのロバート・プラントの結成したバンド、ハニー・ドリッパーズによる80年代の大ヒット曲、「シー・オブ・ラブ」。てっきりオリジナル曲かと思ってましたが、1959年のフィル・フィリップス( Phill Phillips )による同名のヒット曲がオリジナルのようですね。郷愁感のある切ないロマンチックなムード感がたまりません。

るんるんSteven Geraghty「You Were There」
ゲーム史に残るであろう傑作「ICO」のサントラ「ICO~霧の中の旋律~ 」からの一曲。スティーブン・ジェラティは英国の少年合唱団「Libera(リベラ)」に所属していた歌手で、聴く者を神聖な天界に誘うようなその天使のようなけがれ無き歌声に癒されます。ICOの不思議な世界観と相まって、実に神秘的な味わいの楽曲に仕上がっていますね。

るんるんLibera「Air」
上でも触れたロンドンを拠点に活動している天使のような歌声の少年合唱団「Libera(リベラ)」、この曲はバッハの有名な名曲「G線上のアリア( Air on G String )」ですが、透き通った少年たちのコーラスによってより崇高な気分に誘われますね〜
タグ:音楽 洋楽
posted by 八竹彗月 at 04:06| Comment(2) | 音楽

2018年12月08日

初代ルパン三世と70年代カルチャー

el_icon.png山下毅雄の音楽

ルパン三世といえば、言わずと知れたモンキー・パンチ原作の国民的な作品で、ご多分に漏れず私も好きです。といっても、アニメ版の1stシリーズが好きすぎて、1stシリーズ以外はあまり興味がなく、映画版にもそれほど食指が動きません。なので、ルパン三世のファンではあっても、1stシリーズと原作漫画のファンであると言ったほうが正確かもしれません。久しぶりにまた1stシリーズを見返しているところなので、1stルパンへの思い入れなどをちょっと語ってみたいと思います。1stルパンの大塚康生作画の魅力は言うに及ばず、山下毅雄(やました たけお)のモンドでサイケでジャジーな音楽も、ルパン一味が生息する窃盗や殺しといったアウトローが跋扈する裏社会の妖しい世界観をじつに上手く表現していますね。そのサイケでアダルトな妖しいムード感はルパン三世の世界観をより魅力的なものにしています。ルパンの音楽といえば、大野雄二さんの存在感も大きいですし、大野ルパンのほうも大好きではありますが、個人的な好みではやはりヤマタケさんの醸し出す音楽は1stシリーズ特有の「危険でエロスな香りのするルパン」にぴったりの、妖しく退廃的なムード感が濃厚に表現されていて、琴線に触れるものがあります。

作中の重要シーンでよくかかる「ヤパッパ、パパーヤ♪」のコーラスが印象的な「Afro Lupin '68」とかとくに大好きです。ほんとに絶妙なタイミングで流れされる曲で、この曲が流れると一気にテンションが上がりますね。山下毅雄は超個性的なセンスをもった天才肌の音楽家のイメージがあるので、寡作な人のようなイメージもありましたが、調べてみると他にもアニメ「ガンバの冒険」のOP、ED曲や、サイケなお色気アクションドラマ「プレイガール」などなど生涯数千曲を手がけた多作な人だったみたいで意外でした。「クイズ・タイムショック」や「パネルクイズアタック25」のテーマもヤマタケさんの曲ですが、あの「ショック!ショック!」や「アタック!」のかけ声は本人によるものだそうですね。

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「ルパン三世 ’71 ME トラックス」1999年 VAP
1stシリーズのサントラは時折聴きたくなります。このサントラは、当時のオリジナル音源は紛失しているため、効果音がかぶっている音素材を繋いで復元して作成されており、銃声や足音などの入った曲もあったりします。ノイズの無いオリジナルが失われているというのはもったいない話ですが、まぁ、無い物はしょうがないですし、再演奏よりは元の状態に近い形で出してくれるだけでありがたいものでもありますね。


メモ関連サイト
「Afro Lupin 68」山下毅雄(YouTube検索結果より)
ヤマタケ・ルパンの傑作音源ですね。ところでなぜアニメ化するよりも前の68の年号がついているのが気になって調べてみましたが、曲名自体が当時は付けられてなくて、1980年発売のCD『テレビオリジナルBGMコレクション ルパン三世』に収録されるさいにはじめて付けられた曲名だそうですが、なぜ68なのかはやはり不明だそうです。

山下毅雄(ウィキペディアより)

2018.12.26追記
チャーリーさんの添削により「Afro Lupin '68」の幻の歌詞が判明したという記事(Visage様のHP「The Long And Winding Road」より)

上述しましたとおり、ルパン三世関連の音楽の中で「Afro Lupin '68」が個人的にもっとも好きな曲なのですが、この楽曲はもともと劇伴(げきばん=劇中に使われる音楽)として作られたもので、歌詞は歌手のチャーリー・コーセイさんのアドリブらしく、正式な歌詞は存在していないようです。そこで、なんとなく歌詞が気になってきたので調べてみると、なんとチャーリー・コーセイさんご本人に歌詞を確認していただいて正式な歌詞が判明したという記事を見つけてビックリしました。「Afro Lupin '68」の出だしなど自分では適当に「Be Feeling Year〜!」とか雰囲気で聴いてたのですが、実際はこの出だしは「P-38(thirty eight)」が正解で、ワルサーP38の事を言っていたようですし、途中でしばしば聞こえる「キッコーマン!」は「it's cool man」だとか、記事を読みながらへぇボタンをバンバン押したくなってきました。



el_icon.png十三代五ヱ門登場

ルパン、次元、五エ門、不二子、といった黄金のキャラは、ドラえもんキャラと同じくらいに日本人なら誰でも知っているお馴染みのキャラクターですね。無国籍な雰囲気の舞台と登場人物が跋扈する作品の中で唯一コテコテの日本人キャラである五エ門の存在は、異質でありながら、その異質さがいい具合にルパン三世という作品に独特の個性を出していて、当初から好きなキャラでした。パイロットフィルム版のデフォルメの強い浅黒い五エ門もカッコよくて好きです。1stシリーズの第9話を除く第4話〜第15話のOPに使用されている人物紹介の作画もパイロット版からの流用なのですが、五エ門の作画が本編とあきらかに顔が違うので昔からなんとなく気になってました。「アフロ・ルパン68」をバックに人物紹介していくこのOPも大好きです。峰不二子も顔が違ってますが、こういう作画の不二子も70年代感があってイイですね〜

五エ門登場シーンの冒頭で、五エ門がその華奢な刀身の日本刀で、アナログなバッティングマシーンみたいな装置から放たれる3本の斧や、頭上から落ちて来る鉛の塊をまっぷたつにしたり、次元の早撃ちのピストルの銃弾をその刀ですべて切り捨てるシーンであっけにとられ、そしてそのシーンのインパクトによって、五エ門だけでなくルパン三世という作品自体に魅入られてしまったような気がします。金属もスッパリと斬ってしまう架空の日本刀「斬鉄剣」の使い手というインパクトのある設定は、分厚い金庫やマシンガンの弾までまっぷたつにしてしまうという、他作に類例のないオリジナリティ抜群のアクションシーンを生み出すことに成功しました。個性的なアクションといえば、アニメ「R.O.D」で「紙」をアクションに使うという斬新なアイデアに感服したものですが、斬鉄剣にしろ「紙」にしろ、こうした意外性のあるアイテムによるアクションシーンというのは、作品のオリジナリティと娯楽性を高めますね。北斗の拳も、「経絡秘孔(けいらくひこう)」という、鍼灸のツボのような概念で、人間の秘められた急所である特定の経絡秘孔を突くと、その直接的なダメージだけでなく、関連した人体内部が破壊され、頭が爆発したりなどする、奇妙なアクションシーンがお馴染みですが、このように、独自のビジュアルチックなアクションシーンはヒット作に共通するところですね。野球漫画では魔球モノとかもそうですね。こうした独自のアクションシーンのある作品は、多くのファンを惹き付ける重要な要素になっていますね。

五エ門といえば今でこそルパン一家の固定キャラですが、五エ門が登場するのは原作では第28話、アニメでは1stシリーズの第5話目からで、途中で追加されたキャラである事が推察されます。実際の五エ門誕生のきっかけは、モンキー・パンチ氏のインタビュー記事などで何度か言及しておられましたが、作者のモンキー・パンチ氏がアメリカのサンディエゴで行われたイベントに参加したさいに、現地のアメリカ人女性から、日本の漫画なのに東洋的なテイストに乏しいという指摘をうけたのが原因だそうで、それで急遽あからさまにオリエンタル感のあるキャラとして五エ門を登場させた、というのが経緯のようです。モンキー・パンチ氏の漫画は、アメコミのような「日本人作家らしくない」作風が持ち味ですから、「日本ぽくない」という意見は、ある意味ピントのずれた指摘のようにも思いますし、普通ならそういった、ファンならまず出てこないであろうズレた意見は一蹴してしまいそうですが、なぜかそういう一見むちゃくちゃに思える意見を素直に作品に取り入れたのは、なにか直感的な啓示があったのではないか、と勘ぐってしまうほど絶妙なものを感じます。結果的に五エ門は、ルパン三世という作品の個性を際立たせている重要なキャラになってますから、当時のモンキー・パンチ氏の柔軟な対応には、なにか運命的なものがありそうですね。もしルパン三世に五エ門がいなかったら、作品が欧米風無国籍漫画という作品傾向がそのまま表現されたものになったでしょうし、もしかしたら作風が調和しすぎて印象も薄くインパクトに欠ける作品になって埋もれてしまっていたかもしれません。

2018.12.30追記
印象深い五エ門初登場の第5話「十三代五エ門初登場」ですが、そういえばこのエピソード中で流れる演歌っぽい曲がありましたね。ルパンとの初決闘の夜に五エ門はひとり寝室で正座して深夜ラジオの女性DJのトークを聴いているというシーンがあるのですが、そのラジオでかかる演歌調の曲がふと気になって調べてみたらあっさり曲名が判明してスッキリしました。毎回インターネットの重宝さには感動します。五エ門がうっとりした表情で聴き入っていたアノ曲は、小柳ルミ子の「お祭りの夜」という曲だそうですね。ウィキペディアにも詳細が書いてありましたが、大ヒットしたデビュー曲「わたしの城下町」の次にリリースされた2ndシングルがこの「お祭りの夜」みたいです。曲そのものも、味わい深くてなかなか聴かせてくれる素敵な曲ですね。

小柳ルミ子「お祭りの夜」(ウィキペディア)




el_icon.png名前の奇跡

主人公ルパン三世はモーリス・ルブランの生んだ怪盗アルセーヌ・ルパンの孫という設定で、それに対になるような存在が銭形平次の子孫である警視庁の銭形警部です。五エ門は、安土桃山時代の盗賊の首長であった石川五右衛門の13代目の末裔ということですが、残りの次元と不二子は完全なオリジナルキャラですね。彼らのネーミングの由来もユニークですね。四次元などの「次元」という言葉が好きだったから名付けたとか、「事件大好き→じけんだいすき→じげんだいすけ→次元大介」になったとか、峰不二子は仕事場の壁にかかってた富士山のカレンダーに「霊峰富士」と書いてあったのを見て思いついたとか、なんかどれもあまり深く考えずにフワっとした思いつきで決めてる感があって好きなエピソードです。後世に残る傑作って、意外にそのようにふとした思いつきとか直感がかかわってたりするというのはよく聞きますし、実際そういう自力でウンウン唸ってひねり出したアイデアよりも、ふわっと思いついた直感のほうが正確に物事を見通すことって実際の日常でもよくありますね。次元大介も峰不二子も、どちらも比較的画数の少ないシンプルな見た目の名前ですが、最初見た時からそれぞれの文字並び方に独特なオーラのような、あるいは文字の繋がりのリズム感の面白さとか、名前の響きと文字面の両方が相乗的に醸し出すシュールで不思議なざわざわ感のようなものを、なんとなく感じていたような気がします。

現代の漫画などでは、キャラクターにクセのある特殊な響きや変わった文字面の漢字を使った名前を意図的に選んで付けてるような傾向が強い印象がありますが、うまくいけばキャラに独自の個性付けができて読者にも忘れがたいキャラに成長してくれるメリットがありますが、その反面、かえって感情移入しづらくさせてしまったり、キャラ名を覚えづらくさせてしまい、読者に微妙な心理的負担をかけてしまう場合もあり、諸刃の剣でもありますね。その点でも、次元大介、峰不二子、という名前は、絶妙なバランスで「ありそうでなさそうな感じ」を出していて、ただの思いつきで名付けたとは思えない運命づけられた名前のようにも思えてきます。いやむしろ、そうした運命を操る見えない世界の情報をキャッチする場合にこそ、思いつきというか、直感がモノをいうのでしょうね。江戸川乱歩が、単純にエドガー・アラン・ポーを当て字であらわしたペンネームでありながら、字面から漂う妖気のようなオーラは抜きん出たパワーを感じますし、そういうところも大衆を虜にした要因でもあると思ってますが、そのように、名前って力を抜いた精神状態で直感的に付けてしまうのがベストなのかもしれませんね。

そう考えていくと、そもそもルパン三世の生みの親からして秀逸ですね。このモンキー・パンチというペンネームも、主人公ルパン三世の別名でもおかしくない感じがしてきます。ルパンの顔はあの特徴的な髪型のせいか、動物に例えるとまさに猿っぽい(注:いい意味で!)ですし、まるでルパンの別名みたいなペンネームなのが面白いなぁ、と思って調べてみたら、なんと当時の漫画アクションの編集長に勝手に付けられたPNだったようで、当時は気に入っておらずいずれ改名しようと思っていたそうですが、作品がヒットしてしまったため機会を逃してしまったとのことです。これもまた不思議な運命の糸というか、運命の意図を感じますね〜 さらに、アニメのルパンではたまにわざと自ら猿っぽい変顔をする時がありますが、そうした猿系キャラが定着した原因であるあのスポーツ刈りっぽい短髪の髪型、これも最初は当時流行っていたビートルズやタイガースなどのグループサウンズなどがしていたロングヘアをルパンの髪型にしようと思てったそうです。しかし結果的に週刊連載時の負担を減らそうと楽に描ける短髪の髪型にしたというのが今のルパンの髪型になった理由なようです。こうなってくると、今や国民的作品になっているルパン三世の、ルパンらしい特徴から、次元、不二子などのサブキャラ、はては五エ門を登場させる理由にいたるまで、ほとんど偶然とか直感とかが関係していて、まるで神が采配したような不思議な作品に思えてきますね。

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「100てんランド・アニメコレクション4・ルパン三世 PART-1 旧シリーズ全収録1」双葉社 昭和57年発行
1stルパンのビジュアルムック。設定資料や各話紹介、キャラクター紹介、拳銃などの小物の解説から、まめ知識的な記事など、より深く1stルパンを堪能できました。五エ門初登場シーンで、次元の銃弾をすべてまっぷたつに斬り捨てるシーンがありますが、斬られた銃弾の画像のキャプションには「五エ門に切断されたマグナム弾はなぜか薬莢ごと発射されていた」と厳しいツッコミが入ってたりして容赦ないです。日本では銃器の所持は禁止されてますから、馴染みの無いアイテムだけに勘違いして描いちゃったのでしょうね。


メモ関連サイト
ルパン三世 (TV第1シリーズ) (ウィキペディアより)



el_icon.pngルパンの腕時計

最初ルパン三世にハマった頃は、その妙に欧州っぽい日本という無国籍な舞台設定の雰囲気の中でひときわ異彩を放つコテコテのサムライキャラである五エ門のミスマッチ感が大好きで、初代の作画と大塚周夫氏の声が「本物の五エ門の声!」というインプットがされてしまいました。初代五エ門のキャラデザインはもちろん、女好きのくせに硬派ぶってるカッコ可愛い性格なども含め、自分の脳内に完璧な五エ門像ができあがってしまったせいで、その後の五エ門にはどうしても違和感があって馴染めずにきてしまいました。1stシリーズは、もともと大人の鑑賞に堪えれるアニメを、というコンセプトが当初にあった作品であることはファンなら周知の有名なエピソードだと思います。第1話では、レアなクロノグラフの腕時計が大写しになったり、第6話に出てくる不二子の子分、通称「お子様ランチ」の乗ってる愛車がルノーで、次元も「ルノーか。お子様ランチにゃお似合いだぜ」と言わせたり、要所要所でアイテムに語らせるようなハードボイルド風の文法が生かされているところも、アダルト感があってぐっときたものです。

腕時計にそれほどこだわりも興味もなかったので高級腕時計というとロレックスくらいしか思い浮かばなかったですが、この機会に調べてみたら、車どころか家一軒買えてしまうくらい高価な腕時計が存在していてびっくりしました。最高峰はパテックフィリップというメーカーのようで、そうした値段になるのはハリボテのブランド力とか宝石などの高価な素材を多用することが原因なのではなく、それ相応の非常に難易度の高い精巧なメカニックを搭載し、そういう機構を実際に作れる腕を持った一流職人を抱えているメーカーであることも大きな理由でもあるようです。最近、トゥールビヨンなる腕時計の超複雑機構について知ったばかりなのですが、こうした過去の一流職人の技ものは、最新のテクノロジーに匹敵する魅力がありますね。ふとオーパーツで有名な「アンティキティラ島の天体観測機械」を彷彿としました。どんな時代にも、その時代の最高峰の技術というのは時代を超えて賞賛されるに値する芸術なのかもしれません。

トゥールビヨンをはじめとする腕時計の超複雑機構、実用品でありながら実用の範囲を超えてしまってるところなど、ルパンの第10話「ニセ札つくりを狙え!」に登場したニセ札作りの職人イワノフを彷彿としますね。イワノフはあまりに器用過ぎて、ルパンいわく本物よりも精巧なニセ札≠作ってしまうほどの腕前です。しかし工芸品ならいざしらずニセ札が本物を超えてしまったらかえって役に立たないのでは、とかついつい野暮な考えが頭をよぎってしまいますが、まぁ、そういうレベルのものは腕試し的に作成してるだけで、実際の仕事≠ナは、本物と同じモノを作ってたのでしょう。本物と全く同じレベルの偽物は、本家を上回る腕がないと作れませんからね。そういえば、このエピソードの舞台は奇しくも時計繋がりの時計塔でしたね。

第1話でルパンや次元がつけていたクロノグラフのメーカーは、どちらも実在するブランドのものらしく、以下の関連サイトのリンクに詳細を調査された方の記事がありましたので、リンクを貼っておきます。ルパンのクロノグラフを追ううちに、意外な出会いがあったりなど、とてもいい話を知ることができました。

メモ関連サイト
「ルパンの腕時計 YEMA meangraph super Marine model」(三葉(みつば)様のブログより)
第1話「ルパンは燃えているか?」に印象的に登場するルパンと次元が付けているクロノグラフ。この腕時計のブランドが気になって調べていたら、とてもいい話を知ることができました。しかし腕時計の世界も奥が深いですね〜 

腕時計のロマンがつまった7大複雑機構を徹底解説(「ダンディズムコレクション」様のサイトより)
一般に高級腕時計といえばロレックスの名が思い浮かびますが、世界の最高峰はさらに次元が違うようで、こちらのサイト様では超高級腕時計に搭載されている複雑で緻密なメカニックをいくつか紹介されています。ここまでくると実用の領域を超えた芸術品のレベルですね。

アンティキティラ島の機械(ウィキペディア)



el_icon.png70年代フォークソングの話

1stシリーズの放映は1971年10月24日〜1972年3月26日とのことで、当時の日本は寺山修司や唐十郎のアングラ演劇とか、サブカル漫画のハシリである「ガロ」や「COM」などが発行されていた時期と重なりますから、けっこうヒッピーでサイケな感じの若者文化が花開いていた時期っぽいですし、1stルパンからも、そうした時代の空気をビンビン感じます。ルパン三世のロゴ自体もいかにも70年代のサイケ感があって好みですし、OPの要所要所で、動きの途中でスケッチ画風の止め絵が入ったりする演出とか、不二子の踊るシーンの背景に西洋の偉人やピンナップガールのグラビア写真やフルーツの盛り合わせなどの雑多な写真がフラッシュバックするところなど、70年代の妖しい空気感が濃厚でうっとりします。

この時代には日本屈指の実験映画の傑作が多産された時期でもあり、松本俊夫「薔薇の葬列」(1969年)、寺山修司「書を捨てよ町へ出よう」(1971年)、大島渚「新宿泥棒日記 」(1969年)、若松孝二「新宿マッド」(1970年)、勅使河原宏「他人の顔」(1966年)などなど、個人的に思い入れのある日本映画の多くが1970年前後に発表されています。また音楽でも、日本はこの時代はフォークブームで、「日本のウッドストック」ともいえる中津川フォークジャンボリー(1969〜1971年)の開催された時期ですね。フォークソングというと、なんとなく牧歌的で慎ましい青春な感じの、当時の中産階級の大学生とかがキャンプ場で輪になって歌ってそうなステレオタイプなイメージがありますが、実際当時のフォークソングを聞いてみると、そういう真面目なイメージとは真逆のパンクな音楽で、社会に対する痛烈なメッセージや、人生の苦悩をえぐるような言葉と音で表現した激しい音楽もけっこう多く、想像以上に振り幅の大きな、当時の若者文化を席巻していた文化なのだなぁという印象を持ちました。

元来の牧歌的なフォークミュージックの定義から外れて爆発的に流行したフォークソングですが、このブームは当時すでに世界的に若者を惹き付けていたカリスマ、ボブ・ディランの影響によるものが大きかったと思います。当時のヒット曲「学生街の喫茶店」(ガロ 1972年)では、行きつけの喫茶店で頻繁にかかっていたボブ・ディランを聴いていた思い出を歌っています。ここからも70年代にはボブ・ディランはすでに日本の若者文化の中に馴染みきっていた様子が伺えると思います。ボブ・ディランのかかっているフォーク喫茶といえば、当時大阪にあった喫茶店「ディラン」(もちろん店名の由来はボブ・ディラン)からとったバンド名のザ・ディランII(ザ・ディラン・セカンド)というグループもありましたね。ディランIIは、ヒット曲「プカプカ」が収録されているアルバム「きのうの思い出に別れをつげるんだもの」(1972年)を聴きましたが、「プカプカ」以外では「君の窓から」「その時」などの曲もグッときました。そういえば吉田拓郎の曲「親切」(1972年)でも、ボブ・ディランの話ばかりする友人にうんざりしている様子を歌っていましたね。

フォークソングのフォークはフォークロア(folklore=民族的な伝承、風習、民話、民謡)からきているだけに、元々はもっと素朴で土着的な音楽を指してましたが、ボブ・ディラン以降は、ただフォークギターとハーモニカで演奏してればどんな過激な音楽性でもフォークソングと呼ばれるようになったような感じですね。遠藤ミチロウのスターリン以前にすでに情念のシンガー三上寛はパンクでしたし、そうした過激なフォークシンガーといえば友川かずきや遠藤賢司もものすごい個性派でユニークな存在感をもってましたね。叙情的でキャッチーなメロディが印象的な吉田拓郎も、初期の曲はほとばしるメッセージと詩情に満ちた熱い音楽が多く、初期も傑作が多いです。当時のフォークソングは、その魅力にハマって復刻CDなどを探したりしていろいろと聞きまくった時期があります。そうしたフォーク漁りでの個人的な収穫アルバムは、あがた森魚の「噫無情」、斉藤哲夫の「バイバイグッドバイサラバイ」、吉田拓郎(初期はひらがなのよしだたくろう*シ義)の「青春の詩」などで、今でもたまに聞きたくなる名盤は多いです。

「かぐや姫」のヒット曲「神田川」が、いわゆる暗いジメジメしたフォークのイメージが定着したきかっけになったような気がしますが、そういう先入観を持たずに聴くと、非常に味わい深い名曲でもあります。貧乏学生の恋愛を描いたその曲の影響で、そうしたテイストの一連の曲を指して「四畳半フォーク」というような俗称も生まれました。(ちなみに実際に歌詞で歌われているのは「三畳一間の小さな下宿」なのですが、「四畳半」という言葉は貧乏暮らしを意味する象徴的な単語みたいなものなので、語呂もいいことからそうネーミングされたのかもしれませんね)しかし、そういう曲ばかりでなく、日本的な美意識を叙情的に描いた傑作「夢一夜」などの名曲も生んだグループでもあります。「かぐや姫」といえば、あえて特筆したいのは、民謡の「田原坂(たばるざか)」をパロった隠れた珍曲「変調田原坂(へんちょうたばるざか)」というレア曲。曲の合間にちり紙交換のアナウンスの口上を挿入したりなど、「かぐや姫」っぽくないアヴァンギャルドでユーモラスな感じが面白い変な曲です。自分の中では「老人と子供のポルカ」(歌・左卜全とひまわりキティーズ)に匹敵する昭和のナンセンスソングの傑作だと思っています。

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70年代頃に発表されたフォークソングの名盤を復刻したCD。井上陽水、吉田拓郎、斉藤哲夫、あがた森魚、泉谷しげる、友部正人、五つの赤い風船、遠藤賢司などは今でもたまに聞きたくなりますね。

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「1970年全日本フォークジャンボリー」キングレコード 1990年
日本版ウッドストック、中津川フォークジャンボリー(または全日本フォークジャンボリー)での貴重なライブ音源を収録した2枚組アルバム。なぎらけんいち「怪盗ゴールデンバットのうた」とか、ひがしのひとし「ハナゲの伸長度に関する社会学的考察」とか、どんな曲なのか気になる変な曲名の作品もお楽しみのひとつですが、とくに凄いのは遠藤賢司の初期の代表的な曲のひとつ「夜汽車のブルース」のライブです。かき鳴らすギターの激しさに観客も一体となってテンションが上がっていく緊張感のある演奏が圧巻です。


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植草甚一編集の雑誌「宝島」1976年4月号より
あがた森魚によるボブ・ディランのアルバム「欲望」についてのレビュー記事
70年代の「宝島」はジャズ、ミステリー、映画評論など多岐にわたる執筆で知られた稀代の雑学王、植草甚一が編集していて、とても時代を反映した雑誌になっています。植草甚一編集の時代の「宝島」は、1冊まるごとマリファナ特集みたいな号もあったりして、サイケデリック、ヒッピー、ビートニクなどの当時の先鋭的な若者文化を旺盛に取り入れた大胆な編集が見所です。この号は、アメリカ建国200年を祝した号で、1冊まるごとアメリカ万歳な号ですが、そこは植草甚一編集だけあって、ドラッグカルチャーやロックやSFなど、カルトな切り口でアメリカを賛美していて面白いです。このページは、当時すでに日本の若者を虜にしていたカリスマ、ボブ・ディランの17枚目となる当時のニューアルバム「欲望」について、5人のレビュアーがひとり見開き2ページ分担当して語りまくる「ファイブ・アルバム・レビューズ」という企画の中の一部です。このページではあがた森魚さんがボブ・ディランをレビューしていて、興味深いです。あがた森魚というと、当時のフォークシンガーの中でも異質で、フォークソングのテーマにありがちな社会批判とか苦悩の青春とかラブソング的なものとは一線を画して、宮沢賢治的な天体ロマンとか鉱物愛的な歌とか大正ロマンな情緒など、とても虚構性の高いテーマを表現していてユニークなアーティストですが、そういうあがた森魚さんでもやはりボブ・ディランというのはかなり大きな存在だったみたいで、そういう所がちょっと意外で興味深い記事でした。


メモ関連サイト
四畳半フォーク(ウィキペディア)
念のためにウィキを検索してみたら、なかなか面白い事が書いてありました。「四畳半フォーク」という言葉は松任谷由実(当時は荒井由実)が当時のフォークを揶揄して使った言葉だとする説など、興味深い雑学を紹介してますね。

田原坂(たばるざか)(ウィキペディア)



el_icon.pngグラフィックとアクション

初代ルパンは音楽や作画や声優など、全般に渡って好きですが、まず最初に見たときに惹かれたのは構図のカッコよさです。といっても、はじめて見たのは小学生の子供の頃なので、構図がどうとか、そういう美術的な知識はなかったのですが、それでもなおグッとくるものがありました。「カッコよさ」という漠然とした概念を具体的に絵で表したものを見たときの感動がそこにはありました。例えば、大好きな五エ門初登場の第5話(まぁ、初代のエピソードは全部好きなのですが)に描かれたこの構図(下図参照)です。初めて見た時の衝撃は忘れられません。なんというかっこよさ!これは原作のモンキー・パンチ先生の天才的な構図のセンスをアニメに上手く持ち込んだシーンのひとつですね。子供心に思ったのは、「人間の身体って、みんな似たような形だと思い込んでいたけど、こういう角度から見ると、こんなにかっこ良く見えるんだ!」という事でした。

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この構図のカッコよさには子供でもしびれるものがありました。高速道路を走る車の群れの中、車の背を飛び石(庭園などに飛び飛びに置かれている石)を渡るように飛びながら、このときは敵対している五エ門と決闘をするシーンです。


このシーンは原作を確認していないのですが、おそらくモンキー・パンチ先生の絵をそのまま参考にしていそうな典型的モンキー・パンチな構図ですね。たなびくスリムなスラックスから覗く極細の足首もなんかカッコよさを感じてました。また、腕毛やすね毛が描かれたアニメというのも斬新で、「うーんマンダム」のCMが流行した70年代らしく、まだ男臭い男がカッコイイとされた時代ならではの「カッコイイ」の記号だったのでしょうね。この後、80年代に入ると、だんだんメンズファッションも中性的なものがウケるようになっていきますが、そういう意味でもルパン三世における「男」の描き方というのは時代を写していて、ルパンのいる世界は一見無国籍な異世界のようでいて、意外と時代を反映している所も多いですね。

あと、グラフィック的な面白さというと、ルパン三世のロゴのサイケ感とか、オープニングでロゴに撃たれる弾丸の痕とか、サブタイトルのタイプライター音とか、今となってはどれも「ルパンっぽさ」を醸し出すエレメントになっている感がありますね。ルパン三世のロゴは微妙に何度も変遷がありますが、初代の第3話までに使用された細いウェイトのロゴがスタイリッシュで怪しさも出ていて70年代特有のサイケ感まで匂ってくる感じで一番好きです。第4話からロゴがぽってりした太いフォントになるのですが、おそらく制作側の意図ではなく、視聴率不審からくるスポンサーやTV局側の大人の事情(もっと目立つロゴにして欲しい、とか)によるものじゃないかと推測します。このあたりは本当の事情を知りたいところですね。

前述したルパン三世のサブタイトルのタイプライター風の表示は、ネット上でもいろいろシミュレーションできるジェネレーターを公開されているサイトもあって、なかなか楽しいですね。

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初代ルパン三世のOPでお馴染みのサーチライトに追いかけられながら逃げるルパンも象徴的です。焦るどころか追いかけられるのを楽しんでいるように不敵な笑みを浮かべるこのOPのルパンの表情がまた素晴らしい。

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これは第1話にあるシーンですが、このヘルメットのかぶり方のアクションも独特で、いかにもルパンな感じのアクションの典型だと思います。こうした細かい個性的な描写が積み重なってルパン三世の唯一無二の世界観が構築されているのだと思います。

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「漫画アクション・コミックス ルパン三世 第1集」モンキー・パンチ著 双葉社 昭和43年
モンキー・パンチ先生の絵の才能は比類の無いもので、原色の鮮やかな配色を用いながらもスタイリッシュに魅せるセンスや、キャラの独特の大胆なポージングなど、ものすごい才気を感じる画面構成に圧倒されます。絵のタッチからただよう妖しい空気感なども天性のものを感じますね。ジャッキー・チェンの映画の素晴らしい日本版ポスターなども手がけられていて、イラストレーターとしての腕前も一級です。また集大成的な作品集出して欲しいですね〜


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同上。アニメの第2話「魔術師と呼ばれた男」の原作「魔術師」のヒトコマ。パイカルという「酔っぱらっちまいそうな名前」は、中国のお酒「白乾児(パイカル)」からとったものですが、字面に「白」があるからか、パイカルはアニメでは真っ白のスーツを着てましたね。原作では白以外に色付きのスーツを着用しているシーンがあります。また、アニメでは、パイカルの3つの謎(火炎放射する指先、銃弾を跳ね返す肉体、空中浮遊)をルパンひとりで全部解いてしまいますが、原作ではルパンお抱えの専任科学者に依頼して解析してもらっています。また、アニメのラストではルパンとパイカルはお互いを炎で焼き合いますが、ルパンもパイカルの使用しているのと同じ耐熱防弾効果のある皮膜を生成する薬品を使用していたため無事で、パイカルのほうは薬を塗ってから時間がたっていたため効果が消えかかっていて、焼け死んでしまうというオチでしたが、原作ではパイカルが焼死してしまったところまでは同じですが、専任科学者がルパンのアソコにだけ薬品を塗り忘れていたために股間を大やけどしてしまったというオチになっています。けっこうアダルトな表現が多めの印象のあるアニメ版第2話ですが、原作と比較すると、それでもかなりマイルドに抑えられていることがわかりますね。



el_icon.pngルパンと鬼太郎

冷静に考えると、泥棒という、犯罪者を主人公にした作品が国民的に愛されるようになったのも不思議な感じがしますね。手塚治虫作品の中で大好きな作品の筆頭に「ブラック・ジャック」があるのですが、この作品もまた法を逸脱した無免許の天才外科医が主人公でしたね。70年代あたりの漫画には、こうしたそれまでの品行方正な「正義の味方」像がかならずしも子供のヒーローでなくてもかまわないんだ、というパラダイムの転換を感じます。当時勢いのあった学生運動などの影響も多少ありそうな価値観ですが、またそうしたものと同時に、ルパンはある種の「自由」の象徴でもあり、そこに人々は憧れたのではないか、とも感じます。

ルパン三世1stシリーズ初放映の1971年10月には、ルパンと同じく今でも人気の長寿作品「ゲゲゲの鬼太郎」の第2シーズンの放映も開始されています。この鬼太郎のアニメOPではお馴染みの「お化けにゃ学校も試験もなんにもない!」という印象深い歌詞がありますが、これは原作者の水木しげる先生本人の作詞で、先生の思想のエッセンスである「幸せの七ヵ条」を彷彿とする哲学がうまく練り込まれた秀逸な歌詞だなぁと感心します。普通、お化けというと、ある意味「恐怖」や「不安」などの感情を擬人化したような存在で、どちらかというとネガティブな存在という一般通念がありますが、水木先生の詩では全く逆に、お化けは学校も試験も無い自由な存在で、むしろ彼らは人間より愉快で充実した人生を送っているんだよ、といったような、どこか憧れの対象であるかのような存在としてお化けを捉えているところがとても面白いです。お化けというのは、見えない世界の住人です。人間側がそれを恐ろしい邪悪な存在だと認識した場合に彼らは「お化け」と呼ばれますが、社会がまだ文明の洗礼を受けていない時代では、そういう存在はポジティブに捉えられていて、見えない世界の住人は集落を守護する精霊だったり、実りをもたらす神々だったりします。水木先生は戦争中、ニューギニアの現地人と親しく交流していた事を語っていますが、そうした経験もあって、見えない世界は迷信でも妄想でもなくちゃんと実在しているのだという確信があったのでしょうね。

「ゲゲゲの鬼太郎」では、しばしば社会に束縛されて苦しむ人間と、すべてのしがらみから自由に生きる妖怪のコントラストが描かれますが、これは本来の水木しげる先生本人の思想にもあるように、「ゲゲゲの鬼太郎」を通して「自由とは何か」を描いている面もあるのでしょうね。妖怪やお化けも、ある意味暗黒街を住処にする犯罪者であるルパンとその仲間たちと同じアウトローといえますが、ルパンたちもそういえばお化けたちと同じく、学校とか試験などの束縛や社会の法律からも自由な存在であります。そうした意味でも、ルパン三世は、単なるアンチヒーローではなく、人生の「自由」を獲得した存在でもあり、そうしたルパンたちの自由さが人々を惹き付けてるのではないか、とふと思いました。

メモ関連サイト
水木しげる「幸せの七ヵ条」(「grape」様のサイトより)



el_icon.png異世界としての暗黒街

そんなルパン一味が生息しているのは、盗みや殺しが日常的に起こっている暗黒街の片隅です。そこはなにやら殺伐とした恐ろしい世界のようですが、でもルパンや次元のような、単純に「悪人」ともいいきれない魅力的な男たちが闊歩する魅惑の世界でもあります。また、単純にヤクザやマフィアが生息する実際のアウトローの住む世界というよりは、この世界と真逆の法則が支配している「鏡の国」のような異世界っぽさもどことなく感じる妙な世界です。物語に何度も出てくる「殺し屋」という風変わりな職業などがいい例ですね。菅野ひろゆき氏のゲーム「EVE」や「探偵紳士」などに出てくる探偵(ゲーム内の世界では、探偵業を営むには世界的な探偵のギルドから発行されるライセンスが必要とされている。実際は探偵を開業するために特別な資格は無い)みたいな感じで、ルパン内の世界でも実際とは別のルールで存在する「殺し屋」がいい具合に異世界感がありますね。物語内で描かれる殺し屋はマフィア的な組織の仕事の一部としての殺しではなく、どうも殺し請負を専門にしている組織のようで、殺し屋プーンのエピソード(第9話「殺し屋はブルースを歌う」)や五エ門の師匠、殺し屋百地の話(第5話「十三代五ヱ門登場」)などを見るに、けっこう大規模な組織っぽく、このあたりの虚構性の高さというか、ファンタジーなノリが、平気で主人公一味が敵を殺害する1stルパンの殺伐としがちな空気を和らげています。

ルパンたちの暮らす「暗黒街」、そこは実社会の日陰に生きるアウトローの住む世界というような深刻な世界でもなく、表社会の鏡像のようにモラルや法などのあらゆるシステムが正反対になった異世界のような奇妙な世界です。そもそもがルパン三世の舞台になっているのは日本家屋よりも洋館率の高い日本のようで日本でないような無国籍な世界ですから、最初からルパン三世はある種の異世界の住人であるようにも思えます。第9話「殺し屋はブルースを歌う」では、そうした独特の異世界的な裏社会のテイストを描き出していて、ルパンと出会う前の峰不二子が所属していた殺し屋組織でのエピソードが語られて興味深いですね。

五エ門の師匠である殺し屋百地の話によると、どうやらその裏社会では殺人の数を競うオリンピックみたいなものがあるらしく、暗黒街でルパンや五エ門がブイブイ言わすようになるまでは百地が殺しの世界チャンピオンだったことが第5話で描かれています。子供の頃は、大人の世界の裏側では、日常感覚から隔たったそういうアナーキーな世界があるのかもしれないなぁ、などと素直に思ってましたが、これはこれでナンセンス風味の効いたブラックユーモア的な設定でユニークではありますね。こういうあきらかにフィクショナルな設定が、ルパンの犯罪をもどこかファンタジーな魔法と同じ扱いで見ることができるために、安心して子供も楽しめるような作品になってるのかもしれないですね。

「殺しの世界チャンピオン」というパンチの効いたフレーズでふと思い出すのは、こちらもよくネットで話題になった「木曜日のリカ」(小池一夫原作、松森正漫画)での主人公リカの名台詞「世界でただひとり…ノーベル殺人賞をもらった女よ…」。どこの世界のノーベル賞だ!とつっこまずにいられないインパクトのある台詞ですが、原作はギャグ漫画ではなく、けっこうシリアスなピカレスクロマンっぽいですね。ギャグでなく、大真面目にこの台詞が出てくるからこそインパクトも最大ですね。ラッキーなことに、数ヶ月前に安価で「木曜日のリカ」の単行本を古本市で見かけたことがあるのですが、その日の気分的に、ネタ要素としての興味だけで購入する気になれなかったこともあってスルーしてしまいました。

ノーベル殺人賞でまた思い出したんですが、そういえば70年代を代表するロックバンド「頭脳警察」のサードアルバム「頭脳警察3」に、「指名手配された犯人は殺人許可証を持っていた」というインパクトのある曲名の作品が収録されていました。演奏時間が10秒足らずというのも斬新というか実験的な曲で、歌詞はそのまんま曲名を言うだけの作品です。この「殺人許可証」という物騒でありながら異世界感のあるフィクショナルな響きも「ノーベル殺人賞」に匹敵する怪しさがありますね。頭脳警察はむかしハマった時期があって、とくにアルバム「頭脳警察セカンド」「仮面劇のヒーローを告訴しろ」「悪たれ小僧」の3枚はよく聴いてました。過激なロックだけでなく哲学的で詩情のある曲も多いのが頭脳警察の魅力ですね。

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頭脳警察のCD。「悪たれ小僧」のジャケットデザイン、70年代テイストが濃厚でイイですね〜 バンド名の「頭脳警察」というシュールなネーミングも秀逸ですね。由来はフランク・ザッパの曲名で「頭脳警察ってのはどいつらなんだよ? 」(Who Are The Brain Police?)から取ったものだそうです。過激な曲に混じってヒネリのある知的な曲があったりするのがこのバンドの魅力で、ヘルマン・ヘッセの詩をモチーフにしたといわれる「さようなら世界夫人よ」とか、ブリジット・フォンテーヌの「ランボオのように」の日本語歌詞バージョンとか、パンタさんのそのセンス溢れるインテリ不良っぽい所にシビれます。

メモ関連サイト
「木曜日のリカ」の例の名台詞(google画像検索結果)

ルパン三世第2シーズン風のサブタイトルを作って遊んでみました。「真※いぬ小屋」様のサイトのジェネレーターをお借りしました)



el_icon.pngルパンの影としての次元大介

ウィキの「次元大介」の補足に、次元大介は、「ルパンを長髪にして髭と帽子を付け加えて完成されたキャラ」であるという面白いエピソードがありますね。この説は、原作者のモンキー・パンチ氏自身がテレビ番組「トリビアの泉」で語ったということなので、本当のことなのでしょう。たしかに、子供の頃よくルパン三世の似顔絵を描いてたときがあって、まさに次元ってルパンが衣装を変えただけのような外見だなぁ、と思ってました。そういう記号的で、没個性に徹したような風情が、逆にとても魅力的です。まさしく次元はルパンと不可分なキャラで、ルパンの影のような寓意的存在なのかもしれないですね。そういえば次元大介は服装も黒ずくめで、まさにルパンの影≠象徴しているかのような存在です。こうなるとどこか神話的なものまで感じてきますね。ふと思い出すのは、アニメの第1話がすでに、レーサーの格好をしたルパンと次元が入れ替わるトリックが見せ場になってたことです。第1話は印象的なシーンが盛りだくさんで、拘束された不二子のコチョコチョハンドによる羞恥責めとか、例のクロノグラフの大写しなどの大胆な編集に目を奪われてしまいますが、ルパンと次元の双子のような、あるいはジキルとハイド的な陰陽の関係性をストレートに描き出しているエピソードでもあったわけですね。意図的なのか結果的にそう見えるのか、どちらにせよルパン三世の主要キャラクターたちはそれぞれほんとによく出来てるなぁ、と感心します。

メモ関連サイト
モンキー・パンチ先生による次元大介誕生の逸話(ウィキペディアより)



el_icon.png変装

ルパンは変装の名人、という設定ですが、第4話「脱獄のチャンスは一度」で次元はお坊さんに、第6話「雨の午後はヤバイゼ」で不二子はルパンそっくりに変装しています。それぞれ元の人物と全く同一の姿形に変装できているので、ルパンだけが変装の名人というわけではなく、ルパン一家はみんな基本技能として変装術は達人のレベルにあるのでしょうね。ルパンの変装術には2パターンあって、全く別の人物にソックリに化けるパターンと、素顔に付け髭とカツラをかぶっただけなのになぜか見破られない謎の変装というものです。後者は単純に漫画アニメのお約束的な表現であって、別人に変装してしまうと絵面として都合が悪いエピソードの場合によくこの「視聴者にはルパンにしか見えないのに、銭形などの物語内のキャラにはなぜか見破られない」ような変装をしますね。このパターンでの傑作は第14話「エメラルドの秘密」ですね。このエピソードではルパンはニップル伯爵と称する謎の貴族に変装します。

このニップル伯爵、これもまたルパンが付け髭とカツラを付けただけのアバウトな変装です。さっそく銭形に不審に思われてしまい、職務質問されそうになるのですが、変装した不二子が気を利かせて「ベルモント王朝の末裔のニップル伯爵ですわ」と助け舟を出します。このエピソードでのルパンのミッションは、「ナイルの瞳」と呼ばれる大粒のエメラルドを盗むというもので、豪華客船という動く密室を舞台にスリリングでユーモラスな駆け引きがとても面白かったです。エメラルドの隠し場所の謎を解くという王道のミステリーをテンポよく20分足らずで表現してしまうシナリオも凄かったです。1stルパンのミステリー系エピソードの中では第11話「七番目の橋が落ちる時」と並んで好きなエピソードです。先日久しぶりにこの「エメラルドの秘密」を見返してたんですが、ふと「そういえば、なにげなく無意識にスルーしていたけど、よりにもよってニップル(Nipple=乳首)なんてきわどい名前をなぜつけたのか?」というのが気になってきました。まぁ、もともとルパン三世1stシリーズは「大人の鑑賞に堪えうるアニメ」というコンセプトが当初はありましたし、当時のアニメでは珍しいエロチックな表現も持ち味でしたから、おそらくそうしたノリであえて乳首伯爵にしたのだろうと思ってました。しかし、念のために調べてみると、どうもアテが外れたようで、ニップル伯爵のニップルは「Nipple(乳首)」ではなく、ルパン(LUPIN)の逆さ読みでニップル(NIPUL)になったようです。長年のニップルな謎が解けてスッキリしました。

変装ネタといえば一番ショッキングだったのは、第20話「ニセルパンを捕えろ!」の序盤で、謎の組織が変装を解くシーンです。謎の組織の一員が、別人になりすました顔のマスクを剥ぐと、中からガスマスクをつけた顔が出て来るというシーンがあるのですが、いくらなんでもガスマスクの上から変装用のマスクというのはアクロバティックすぎる表現でしたね。まぁ、ここまででなくても、ルパン三世の世界では、変装用のゴムマスクはかなり万能なアイテムと化してますから、第20話という後半戦では、感覚が麻痺してそうした変装の万能性に拍車がかかっていたのかもしれませんね。まぁ、そういうびっくりシーンはあるものの、物語自体は、この謎の組織を追ってルパンが泥棒村に潜入するというお話でかなり面白いエピソードでした。

変装モノというと、江戸川乱歩の生んだ怪人二十面相も魅力的ですね。発表当時の少年雑誌の倫理規定の問題で、当初は「怪盗二十面相」とするつもりが「盗」の字を使うのはマズいということで、「怪人」になったというのは有名な逸話ですが、結果的に「怪盗」より「怪人」のほうが怪し気なインパクトが出ていて、むしろ「怪人」のほうが人間離れした怪しい二十面相らしさが出ていてイイですよね。昨今の倫理規制は行き過ぎた言葉狩り的な面も指摘されたりして、こういう規制というものは規制したい側とされる側では許容するラインが異なってることが多いのでサジ加減が難しいものだとは思いますが、この「怪人二十面相」に関しては、規制が逆にプラスの効果になっているかなり珍しいケースですね。また百とか千ではなく「二十」と控えめな所が変に奥ゆかしいですよね。調べてみると二十面相というのは、トマス・W. ハンシュー作「四十面相のクリーク」からアイデアを得たネーミングだそうですが、ちゃんと40以下にしているところなど、オリジナルに対する敬意のようなものを感じます。怪人二十面相の、盗みはするが殺人や暴力は絶対にしないというポリシーからして魅力的で、泥棒なのに紳士のような感じも面白いですね。絶対私生活ではお金に困ってそうになく、家柄もハイソっぽいのに、なぜか泥棒を天職みたいにして世間を楽しませているエンターティナー、それが怪人二十面相やルパン三世なのかもしれません。



el_icon.pngルパンとコンピュータ

裏社会のトップクラスに君臨するルパン三世とその一味は、毎回様々なライバルや敵に遭遇します。普通の悪人に混じってときおり、空中浮遊したり指先から火炎放射する暗黒街の魔術師とか、タイムマシンを使ってルパンを殺そうとするタイムトラベラーだとか、ぶっとんだ敵もいて、そういう絶妙なナンセンス加減も1stルパンの魅力で、そういう一見チャチになりそうなSF的な設定も、大塚作画、ヤマタケサウンド、ルパン一家の初期声優たちの魔法で、とてもカッコイイエピソードに見事に料理してみせていて素晴らしいです。中でもとびきり異質だった敵は、最終話のひとつ前、第22話に登場するコンピュータ≠ナす。人間相手なら、長年裏世界を生き延びてきたノウハウが生かせますが、前代未聞のコンピュータが相手ということで、さすがのルパンも苦戦を強いられます。

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昔のアニメとかに出てくるコンピュータでお馴染みのこんな感じの紙テープ。(図の穴の開け方は適当です)かつてコンピュータの情報を記録するために使われたアイテムで、自動パンチ機で穴をあけ、穴の有無で0,1の信号を記録する仕組みだったようです。

このコンピュータ、70年代の漫画によくある定番のパンチ穴の開いた紙の帯(鑽孔テープ)を読み取る式のヴィンテージなコンピュータが微笑ましいです。しかしこのコンピュータ、現代のマシンよりも先を行っていて、ルパンの身長体重や過去の犯罪歴などの様々なデータを元に、今後のルパンが起こすであろう犯罪も未然に予知して、さらにその対策もはじき出してしまうというスグレモノです。この時代はまだパソコンも普及しておらず、コンピュータといえば「人間の頭脳の何百倍も高速に演算をするバケモノのような機械」というアバウトなイメージが一般にあったように思われます。こういう万能コンピュータのイメージは、おそらく当時(1972年)の4年前、1968年に世界的に大ヒットしたSF映画の金字塔「2001年宇宙の旅」に登場する架空のコンピュータ「HAL9000」の影響も大きいでしょうね。第22話以前にも、五エ門が初登場する第5話「十三代五ヱ門登場」にも、すでにそういう万能コンピュータがちょろっと出てきます。第5話では、五エ門の師匠である百地(ももち)が、殺し屋の世界でのトップの座を脅かすルパンと弟子の五エ門をも抹殺しようと画策しますが、五エ門にバレて逆に返り討ちにされそうになります。その時に百地は「コンピュータに命令されたんだ!」というデンパな言い逃れの嘘をつくのですが、その嘘の回想シーンで出てくるのがなんでも予測する件の万能コンピュータです。意識的に誇張している面はあるにせよ、けっこうコンピュータに対する現実以上の買いかぶりは一般に当時かなりあったのではないか、と感じますね。

第22話では、ルパンは実際にそういうコンピュータと対決し、結果的にはルパンはコンピュータに勝つのですが、コンピュータを打ち負かしたルパンの戦略は、なかなか含蓄があります。ルパンが対峙しているのはコンピュータというよりも、哲学的な味わいのある問い≠サのもので、これは言い換えれば「自分のすべての行動を完璧に予測する者が仮にいたとして、そうした者を相手にする場合、どうすれば相手の裏をかくことができうるのか?」ということでもあります。ルパンは最初は己の天才的な頭脳を過信して、論理的思考によってコンピュータを出し抜こうとしますが、思考ではじき出す戦略というのは、つまり理性を武器にした戦略ですから、このコンピュータにとってはそうした戦略は、すでに入力されているルパンという人間の全データ≠元に予測してしまいます。理性によるどんな戦略も予測解析可能という設定のマシンなので、それに勝つには非理性的なアプローチしかありません。それに気づいたルパンは非理性的な戦略に切り替えます。ふとした思いつきで計画を途中でコロコロ変えていくという、直感≠ノ従った行動をとったのです。すべて思考が相手に読まれていることを承知で、牢屋に捕らえられた仲間を助けるために厳重な警備の中ルパンは単身敵の手中に乗り込みますが、気まぐれにちょいちょい計画をその場で変えていき、ルパンは見事仲間の救出に成功してします。幽閉されていた仲間の元に現われたルパンはこういいます。「コンピュータの裏をかくには気まぐれ≠ェ一番なのさ」。

まぁ、細かい事を言えば、気まぐれというのも人間ならかなりの頻度で起こるはずで、以前は私も、「すべてを予測するコンピュータなら、そういう気まぐれも予測できないと役に立たないはずだ」と思ってました。が、しかし、そういうのは野暮でもありますし、よく考えてみれば、野暮どころか、少々未熟な指摘でもあるように思えてきます。視点を変えれば、そういう表面的なつっこみどころよりも、このエピソードは論理的思考と直感、理性と無意識、みたいな対立項が骨格になっており、むしろソコがこの作品の魅力の本質ではないか、ということに気づきます。いつも事前に犯罪を予告して遂行する計画性のあるルパンが、最終的には頭で考えることを止めて直感に頼ることを余儀なくさせる結末が、なんとも皮肉めいていて教訓的というか、寓意的で面白いです。ある意味では、それまで経験を生かした自力の戦略で生きてきたルパンが、はじめてこのエピソードで過去に培ってきたノウハウを捨て去り、まったく新しい戦術をとっています。奇しくもこの次のエピソードで1stシリーズの最終話となるわけで、そういう意味でもこの第22話はルパンというキャラの限界を示すと同時に、別の新しい伸びしろを伺わせる象徴的なエピソードのように思えてきます。



el_icon.pngゴダールの話

万能の人工知能コンピュータといえば、先に触れた「2001年宇宙の旅」のHAL9000のインパクトが大きいですが、そういえばゴダールの映画「アルファヴィル」にも似たような機械が出てきたな、と思い出し、やはりゴダールも「2001年〜」の影響を受けてたんだな、とにやにやしながら、ふと念のために調べてみたのですが・・・なんとゴダールの「アルファヴィル」のほうが「2001年〜」よりも3年も前に作られてたようでビックリしました!う〜む、ゴダール、天才すぎる!「アルファヴィル」はゴダール作品にしては異質のSF映画ですが、未来都市の設定なのに、普通に当時のパリ市街で撮影されてた、というのもユニークなエピソードとして有名ですね。この映画もまたゴダールらしいポエティックなカッコイイ台詞が頻発してて印象的な映画でした。主人公が万能コンピュータ「アルファ60」と会話するシーンがあって、主人公はコンピュータといくつか問答するのですが、特に印象に残っているのは、コンピュータが「死者の特権とは何か?」と質問してくる場面です。

「死者の特権とは何か?」その質問に主人公はこう答えます「二度と死なないことさ」。まず普通の日常会話では出てこない知的でお洒落なやり取りですが、そういう詩的でかっこいいシチュエーションを描くのはゴダールの持ち味ですね。ゴダールの映画は、お洒落で知的なフランスというステレオタイプなイメージをそのまま映像にしたような感じで、難解でとっつきにくい面がありつつ、理解できなくてもいいから見てみたいと思わせる変な魅力があり、むかしは気合いをいれて鑑賞しまくった時期があります。それは「ゴダール映画を知ってる俺って知的でかっこいい」と思いたいという俗物的な思惑も大いにあったわけですが、そういうステイタス的な魅力も含めてゴダールの魅力だと思います。実際鑑賞してみると、それだけでなない収穫もたくさんありましたし、見ておいてよかったと思います。上記のような、スタイリッシュでポエティックな台詞の応酬とかは、ゴダール作品特有の個性ですし、出世作「勝手にしやがれ」では、まさに前述したルパンの第22話のように、毎日その場で考えた脚本を次の日に撮影していくという、気まぐれや思いつきを生かした実験的な作品で、即興演出や斬新な編集など、ヌーベルバーグを代表する傑作ですし、見ておいて損は無い作品でした。「気狂いピエロ」なども代表的ですが、個人的には「女と男のいる舗道」「男性女性」あたりの作品がお気に入りです。ゴダールの独特のノリに慣れると楽しく見れるようになってきますし、なによりものの見せ方、会話のリズム感など、今でも勉強になる部分の多い監督ですね。自分が好きなものやこだわっているものを世間受けを気にせずけっこうストレートに作品に持ち込む監督で、そういう所も好きです。

フォークソングの話のところでもちょっと触れたあがた森魚の傑作アルバム「噫無情(レ・ミゼラブル)」(1972年)ですが、このアルバムの中の一曲「最后のダンス・ステップ(昭和柔侠伝の唄)」に印象的なゴダールの引用がありましたね。この曲は緑魔子さんとデュエットしているのも注目したい点で、緑魔子といえば現在は俳優の石橋蓮司さんの奥さんとしても知られていますが、名前のインパクト通り当時はアングラ演劇や前衛的な映画で活躍した女優さんです。彼女は当時からゴダールの大ファンだったようで、このあがた森魚とのデュエットでも、序盤に入る「私の名は朝子です」からはじまる緑魔子さんの少女っぽく初々しい語りは、ゴダールの「女と男のいる舗道」をアレンジして引用したもののようです。たしかにCD付属の歌詞カードを参照してみると、歌詞の中に「J・L・ゴダール「女と男のいる舗道」より)とクレジットがあります。映画のほうはだいぶ昔に見たきりなので、どういうシーンからの引用なのか覚えてませんが、なんとなく気になるのでそのうちDVDなどで見直してみたいです。日本の音楽とゴダール、といえば、このあがた森魚の曲のほかに、YMOの「マッドピエロ」(映画「気狂いピエロ」がタイトルの元ネタ)や「中国女」や「東風」もゴダールの映画のタイトルを引用した曲として有名ですね。また、沢田研二さんの往年のヒット曲「勝手にしやがれ」もゴダールの映画タイトルが元ネタになっています。こうしてみると、意外とゴダールというのは日本の大衆文化のあちこちで引用され重宝されている側面もあったりして面白いですね。お洒落さや知的感性を象徴する権威、というかある種箔付けのような意味合いでゴダールが引用されている面もあるとは思いますが、そういうものも含めた魅力があるのもたしかですし、私がそうだったように、そうした魅力がゴダール映画を鑑賞してみようという動機になったりすることも多いわけですから、入り口はファッション感覚でかまわないのかな、とも思います。結果的にそれが人生を少しでも豊かにしてくれるものなら儲け物です。

ゴダールは作品も素敵ですが、本人もめちゃくちゃカッコよくて、顔面にパイ投げされたハプニング映像を昔見たことがありますが、その時のリアクションがかっこよすぎたのが記憶に焼き付いていて、私の場合、それもあってゴダールが気になる監督になっていったような気がします。一昔前、世界的に当時暗躍していたゲリラ的な集団で、気に入らない有名人の顔にパイを投げつけてクリームまみれにして、そのかっこ悪い姿やリアクションをビデオにとってマスコミに流し、世間のさらし者にするという、反権力が生き甲斐みたいなノリの悪趣味な集団で、日本でもちょっと取り上げられたことがありました。たまたまその時の報道映像で、ハリウッド俳優やビルゲイツなどの著名人にまじってゴダールがターゲットにされた時の映像がありました。件の集団は「パイ投げスナイパー」と呼ばれる集団で、ベルギーを拠点に活動していたようです。パイを投げられ顔中クリームまみれになったゴダールは、口のまわりのパイをぬぐいそれまでくわえていた葉巻をまたヒョイとくわえます。突然のハプニングなのに、実にスマートに反応をしていてシビれました。お洒落って、ファッションのことではなく、こういうにじみ出る人間力のことなんだろうなぁ、と思わずにいられない映像でした。

パイ投げスナイパーのリーダーをしているのは、調べてみたら作家や俳優などをしているノエル・ゴディンという人物のようです。屈強なガードマンの防御をかいくぐりビル・ゲイツを奇襲したことで世界的に有名になってしまったようですが、それにしても人によってはユーモアや冗談だけで済まなさそうなギリギリな活動ですよね。パイ投げ団のそんな冗談に命かけてる感には苦笑を禁じ得ません。

ルパンの記事なのになんかゴダールの話が長くなってしまいましたが、まぁルパンもモーリス・ルブラン原作のアルセーヌ・ルパンの孫という設定で、なんとかフランス繋がりではあるので、とりあえず良しとしましょう!

メモ関連サイト
ゴダールの映画「アルファヴィル」(ウィキペディア)

ゴダールの傑作映画『勝手にしやがれ』予告編(YouTube)

カンヌでパイを顔に当てられるゴダールの映像(YouTube)

鑽孔テープ(「邪悪な波動に目覚めたアルマジロ」様のブロマガより)
鑽孔テープの雑学と、それが出てくる娯楽作品について書かれていて興味深いです。鑽孔(さんこう)テープとは、上記でも触れた昔のコンピュータの描写によくあるパンチ穴の開いた紙テープのことです。
posted by 八竹彗月 at 22:27| Comment(0) | 雑記

2018年11月01日

竜宮童子と浦島太郎

異世界に迷いこんだりする話は、SF小説や漫画だけでなく、昔話でも定番のモチーフですね。フィクションの世界だけにとどまらず、江戸時代の知識人、平田篤胤(ひらたあつたね)の「仙境異聞(せんきょういぶん)」という著書では、神仙界を訪れて見聞してきたと主張する少年の話を聞き取ってまとめたもので、岩波文庫などでも読めます。私は中央公論社の「日本の名著」シリーズの平田篤胤の巻に収録されているものを少し読んでみましたが、古い文体なので読みずらく、腰を据えてかからないとなかなか内容が頭に入ってきませんね。しかし、異世界見聞録というのはすこぶる興味をそそるものには違いないので、そのうちちゃんと読破してみたいです。

メモ関連サイト
仙境異聞(ウィキペディア)

異世界といってもいろいろあり、平行宇宙のような世界や、死後の世界や霊界、イデア界、仙境、シャンバラなどの地下王国、他の惑星などの地球以外の別の天体、宇宙論などで出てくる5次元〜11次元の世界などや、SFファンタジーなどで描かれるような世界など多種多様ですが、どれもがこの日常とかけはなれた魅惑の世界で、はてしないロマンをかき立てます。以前の記事でも書いた桃源郷なども、理想郷としての異世界のひとつで、隠れ里的なたたずまいがミステリアスで惹かれるところです。日常に埋没してしまうと、こうした世界はいかにも現実逃避のように思ってしまいがちですが、小学校から中学校に上がるのもひとつの新しい世界、異世界に飛び込むようなものですし、会社に就職するのも別世界に参入する行為でもあります。今いる場所が、居心地が良かろうと悪かろうと、どっちにしてもいずれは別の世界に移行しなければならないように人生はできているように思います。好んで移行するか、状況が変わって無理にでも移行せざるをえなくなるかの違いはあっても、どっちにしろ、同じ場所に止まることを阻止しようとする何らかの力がこの世界にははたらいているような気がします。まさに、鏡の国のアリスですね。「同じ場所にとどまるためには、絶えず全力で走っていなければならない」変化することよりも、むしろ維持することのほうが大きなエネルギーを要するようにこの世はできているのかもしれません。

そうしたわけで、人生は自分で選択するにしろ、状況に迫られて選択させられるにしろ、ある時期が来ると必ず新しい世界に参入するような状況に出会いますが、フィクションや伝説などで語られる異世界の話は、そうした人生に訪れる新世界への参入を寓意的にあらわしているようにも思えてきます。

昔話で描かれる異世界というと、いろいろありますが、桃太郎の鬼ヶ島とか、浦島太郎の竜宮城などが真っ先に思い浮かびますね。ということで、無理矢理っぽいですが、今回は浦島太郎のバージョン違いみたいな感じの「竜宮童子」という民話についてちょっと語ってみたいと思います。「竜宮童子」は新潟県見附市葛巻町の石地という土地にまつわる民話ということのようですが、亀に乗って竜宮城に行くとか、姫君から帰りに不思議な贈り物を授かったりとか、浦島太郎の話を下敷きにしてそうな設定が見受けられますが、お話全体のテイストは浦島太郎とはけっこう違った味わいの話になっていて、なかなか面白いと思いました。浦島太郎も、この「竜宮童子」も、当たり前のように亀の背に乗って海中を潜って竜宮城に行き着きますが、なぜ海中で息ができるのかという理由は語られず、単なる物語上の「お約束」でそうなってるだけのようにも思いますが、水中で溺死しそこなった主人公の臨死体験としての異世界、というふうに想像すると、ちょっと別の味わいのある物語にもみえてきますね。

前置きはこのくらいにして、件の「竜宮童子」のお話をまずはご紹介します。

竜宮童子

 むかし、石地というところに、貧乏な花売りの男が住んでいた。
 毎日山を下って信濃川の沿岸の村々、町々を商って歩いたが、なにぶん温度の低い山里から来るので、良い花を持ってきたことがほとんどなかった。そのために、夕方になっても、いつも売れ残りの花が、背の籠の中でゆれていた。その残った花は、帰りの渡しのあるところまで来ると、きまってゆるやかな大川へ流すのであった。色とりどりの花々は、くるくるまわりながら、夕靄のただよう水面を音もなくすべっていった。その花のゆくえをしばらく目で追ってから、花売りはやおら腰を上げて渡しをわたるのであった。
ある日、終日花を売って渡しにさしかかった。と、朝はおだやかだった大川が増水し、氾濫していた。
「これでは、川を渡ることができやしない。はて、困ったことになったわい」
 と、ひとりごとを言っていると、ふいに足下の水の中から大亀が姿を現した。見ると、背の上に乗れという様子をするので、あやぶみながらも花売りは、その広い背に乗った。大亀は波立つ川をどこまでもすいすいと泳いでいった。花売りはびっくりして、
「どこへゆくんです」
 と聞いた。大亀は顔を前方に向けたままで、
「お前さんには話をしていないから、さぞ驚いたことでしょう。じつは、乙姫様は、いつもお前さんがお花をあげるのを大変喜ばれて、お礼をしたいからお連れするように、とおいいつけになったのですよ」
 と答えた。
 大亀は、たゆまず泳いでいった。それからとほうもない長い時が経ったと思う頃、前方に美しい城が見えてきた。それは乙姫の竜宮であった。
 乙姫の手厚いもてなしを受けて、時の経つのを忘れたが、やがて花売りは里心がついた。帰るというと、乙姫はひとりの童子を手招きした。それは青ばなを出し、よだれを垂らしている、見るからに汚い子供だった。
「お前の優しい心映えを賞(め)でて、この子をあげようと思います。だいじに養えば、お前の望みはなんなりと叶えてくれます」
 と、乙姫がいった。
「ありがとうございます。それでは私の子にして、大切にいたしましょう。ところで、この子の名はなんというのですか」
「名前は、とほう小僧といいます」
 おかしな名もあればあるものと思ったが、礼をのべて、小僧を連れて帰った。輝くばかりの美しい竜宮から、久しぶりにあばら屋に帰ってみると、それはいかにも狭くて、みすぼらしいさまが目についてしかたなかった。花売りは乙姫の言葉を思い出し、
「とほうよ、とほうよ」
 と呼んだ。あいかわらず青ばなを垂らした小童が、花売りのそばにやってきた。
「間取りを広くしたいが、すまんが変えてくれないか」
 というと、小童は目をつむって、手を三つ打った。すると、たちまち奇麗な広い屋敷になった。
「家ができたら、それに似つかわしい家具調度がのうては困る。すぐ出してくれないか」
 というと、これもぞうさもなく調えた。屋敷ができると、こんどは貧乏なことに気がついた。
「おれは金がない。すまんが金を出してくれないか」
「どれくらい出したらよいかね」
「千両(=現在の価値でおよそ1億円)も出してもらえばよいのだが」
「ああ、そんな金なら、なんのぞうさもないこと」
 といって、小童は即座に千両箱を出した。
 花売りは、大金をにぎったので、いままでの商売をやめ、その千両をもとにして金貸しになった。番頭や女中をおく身分になり、たちまち大金持ちになった。
 それから旦那づきあいが広くなり、毎日のように招かれていくようになったが、どこへゆくにも、いつも汚い小童がついていって離れなかった。小童が汚くて、いかにも体裁が悪いので、
「とほうよ。青ばなをかんではどうだい」
 というと、
「とてもかまれねえ」
 と答えた。
「それじゃあ、よだれはどうだ」
 というと、
「それもふかれねえ」
「お前の着物は、はなやよだれでどろどろに汚れている。せめて着物を新しいのに着替えてはどうだ」
「この着物もかえることはできねえ」
 と答えた。あいかわらず汚いなりで、旦那から離れる様子はなかった。旦那もすっかり困ってしまった。
 ある日のこと、旦那は小童をよんで、
「とほうよ。お前は、なにかほしいものはないか」
「おらぁ、なにも、欲しいものや食べたいものはねえ」
 といった。
 小童がそばにくると、異様な臭いがするので、日がたつにつれて我慢ができなくなった。
「ずいぶんお前の世話になった。ありがとう。だが、わしは知ってのとおり、今日ではどこへいっても旦那、旦那といわれる身分になった。お前の働きも、いちおう終わったといってもよい。ついては、このへんでお前にひまを出したいと思うが、どうだね」
「そうですか。おらぁ、いついつまでも旦那のそばにいて、ほしいものをすぐ出してあげたいと思っていたが、旦那にその気がなけりゃしかたがねえ」
 そういって、小童は屋敷を出て行った。
 やっと、小童から自由になった旦那は、庭へおりて両手を広げて深呼吸をした。それから屋敷の方へふりかえった旦那は、気を失うほどに驚いた。そこには、自慢の屋敷や蔵があとかたもなく無くなり、そのかわりに、むかしのあばら屋だけが跡に残っていた。身につけたやわらかい着物も消えて、もとのやぶれ衣に変わっていた。おどろいて小童のあとを追って飛び出したが、もうどこにもその姿は見えなかった。
(新潟県見附市葛巻町石地)

「日本伝説集」武田静澄著 現代教養文庫 723 社会思想社 1971年刊


「とほう小僧」の「とほう」という響きもなにやら怪し気で、意味が何なのか気になりますね。「途方」からきてるのでしょうか。それはそれとして、竜宮城が出てくる昔話というと「浦島太郎」が有名ですが、この「竜宮童子」のお話もまた違った味わいの面白い民話ですね。竜宮に住む乙姫というのは、竜神の化身でしょうね。意にかなった人間を招いては盛大な歓待をする点が「浦島太郎」と共通してます。また先に触れたように亀の使いによって竜宮城に行くというのも同じ設定ですし、ラストに主人公が何らかの禁忌を犯してしまって元の状態に戻ってしまうというのも共通した部分です。しかし、「浦島太郎」の場合は、「開けてはならぬ」というタブーを犯すことで「竜宮城で歓待されていた膨大な時間」が身に降り掛かり一気に白髪の老人になってしまう、という理不尽なもので、禁忌を犯す動機もちょっとした好奇心であり、そもそも「開けてはいけないと」いう意味不明で迷惑な玉手箱を土産によこす乙姫様は何の魂胆があったのか、など、なんかモヤモヤする読後感のお話ですが、「竜宮童子」のほうは、もっとわかりやすく「いくら恩人でも、汚くて醜い小僧につきまとわれるのは世間体が悪くてカッコ悪いから」というエゴイスティックな動機で、福を授ける小僧を手放してしまうという人間臭いわかりやすいストーリーが魅力です。大企業の令嬢と結婚して逆玉の輿に乗るために、長くつき合ってきた恋人を振ってしまう男、みたいな、昔のドラマとかでよくあるエゴイスティックなジレンマを彷彿とするところがあって、どこか普遍的な、人間の心の弱さを描いていて考えさせられる昔話ですね。

始終鼻水やよだれを垂らしながら異臭を放つ汚い着物を着た子供が富をもたらすという所も意味深ですね。小僧の汚さは富を得るためのある種のリスクという見方もできますし、まさにそのような「富を授けてくれるのはいいが、汚いなりでつきまとわれるのは不快だ」という主人公のジレンマが物語のキモです。しかし、単に話を面白くするだけの理由でこの小さな福の神のなりが汚いのかといえば、それだけでもなさそうな気もします。以前「トイレの神様」という歌がヒットしましたが、この曲の影響なのかどうかその後のスピリチュアル界隈で「トイレ掃除をすると金運が上がる」的な話がよく挙がるようになりましたね。トイレ掃除を嫌がらずにするとお金持ちになるとか美人になるとか、なんらかの現世的な御利益があるということですが、まぁおそらくは、元は子供をしつけるうえでの方便が起源になってる話のような気がしますが、このトイレの神様の正体はインド神話に出てくる火の神、アグニを起源とする密教の神様、烏枢沙摩明王(ウスサマ明王)であるという説など、どんどんそれっぽい話になってきていて、もしかしたら単に子供をしつけるための方便ではなく、実際に御利益のあるものなのかも?という気分にさせてくれます。

なぜにトイレ掃除が金運と関係あるのか?という理由についても、ユニークな説がありますね。それによれば、人が住む前の新しい家には、人より先にまず神々が訪れてきて、担当する部屋をそれぞれ決めて守護するのだそうです。最初に来た神は応接室、次に来た神は玄関、という感じでどんどん居心地のよさげな部屋が埋まっていきます。最後に訪れる神にはトイレしか残ってないのでそこに住むことになった、という話です。神々の来る順番は、それぞれの神様が授けようとしている福の詰まった袋の大きさに依存しており、袋が大きいほど重いので家に到着するのが遅くなり、一番たくさんの福を持ってくる神が最後になってしまいます。その神こそがトイレの神様だ、ということです。だからトイレを清潔に保っている家は、トイレの神様が喜ばれて住む者に富をもたらすという話です。なんだかイイ話ですし、ただの作り話を超えたものを感じるところがあります。「竜宮童子」が小汚い子供である理由も、家の中で最も汚れやすいトイレと金運が密接にかかわっている事と、どこか繋がった価値観を感じます。もしかしたらとほう小僧≠ェ臭くて汚いのは、願いを叶えてあげるために関わってきた無数の人間の穢れた欲望を一身に引き受けているために汚れているだけで、彼自身の汚さではないのかもしれませんね。

とほう小僧≠ェ主人公の男について離れない理由は、ある種の嫌がらせみたいなもので、前述したように、異臭のする薄汚れた小僧の存在を我慢することが、もたらされた富を維持するための条件になっているのではないか、と最初は考えて読んでましたが、改めて物語を読み返していたら、さらに別の部分に気づきました。汚さを我慢するのが富を維持する何らかの条件になっているのは確かだと思いますが、とほう小僧自身はそういう条件を念頭にして動いているわけではない、ということです。つまり、真相は、とほう小僧には何の魂胆もなくて、単に主人公の男を実はけっこう気に入っているからベッタリと付いて来るだけ、という単純なものなのではないか、ということです。なぜなら、もし嫌がらせで付きまとうなら、これほど面倒くさいことはありませんし、そこまで熱心に他人の不幸のために腐心し努力するような小僧であるなら、なぜその当人の願いを何でも叶えてあげようとするのか、という矛盾がうまれます。もっというなら、小僧が男に付いて離れないのは、男を「好きになろうとして」いたからなのかもしれませんね。好ましいと思う人間だからこそ、願いを叶えてやろうとする熱意も生まれてきます。小僧にとっても、嫌な人間に奉仕するよりも、好ましい人間に奉仕したいはずです。だから、もしかすると一生の付き合いになるかもしれない男を少しでも好きになろうとして、男から離れなかったのではないでしょうか。乙姫様も、一瞬で豪邸を出現させたりするほどの魔力を持った有能で貴重な眷属であるとほう小僧≠奉公に差し出すわけですから、とくに意地悪な下心はないはずです。しかし、そうしたとほう小僧のいじらしい想いが結果的に主人公の悩みの種になり、破局を迎えた、ということなのでしょうね。

まぁそんなこんなで、とほう小僧が去ってしまうと、立派な屋敷も何もかもが元の貧しい状態に還ってしまいますが、このあたりは、怪談話によくある、美人の幽霊と逢い引きする男の話の結末などでもお馴染みの現象ですね。逢い引きしていたはずの立派な屋敷が、じつはあばら屋だった、というアレです。「竜宮童子」のお話の場合は、この世の栄華も夢幻のように儚いものだ、というような教訓も込められてそうですね。どこか杜子春の話も彷彿とする諸行無常を感じますね。

醜い外見ながら、あらゆる望みを叶える神通力を持ったとほう小僧≠ナすが、かれは他者の望みを叶えることを楽しみとしているようなそぶりで、自分自身はとくに欲しいものはない、といった無欲さもユニークなところです。ある意味、典型的な聖人、聖者の類型にあてはまるところがあるのもとほう小僧≠フ面白い特徴ですね。ふと永井豪の問題作「オモライくん」や秋山ジョージの「アシュラ」などを思い出します。これらの漫画作品は疎まれる側の人間の視点を通してこの世の真実を描き出した傑作ですが、オモライくんもアシュラもある意味聖者のような存在でもあるような気がしますね。

インドの偉大な聖者として有名なラマナ・マハルシは、残された写真や映像を見ても、どれもパンツ一丁で外をうろうろしてるフリーダムな姿をみせていて、偉大な精神を持っている者ほど、俗世間の価値に執着しないんだろうな〜と、へんに感心したものです。有名になると、高い車に乗ったり、豪邸に住んだりしはじめる聖者もたまにいますが、有名になろうが贅沢に無関心のラマナ・マハルシは本物の聖者の風格を感じます。絶対的な心の平安と至福を得たと言うのに、他に何が必要だというのか、といわんばかりのパンツ一丁の姿に、心底憧れる境地に自分がいるのかどうか、というのも自分の精神のレベルを計るいいテストになりますね。

自由気ままに外をうろうろ歩く天然≠チぽい感じの聖者といえば、そういえば日本にもそんな風情の人物がいましたね。幕末から明治にかけての宮城県に実在した、福の神のように慕われた仙台四郎という人物のことです。知的障害があり、会話能力は低かったそうですが、他人に危害をくわえることはなく、子供好きでいつも機嫌が良く、愛嬌のある風貌をしていたこともあって誰からも好かれていたそうです。市中を気ままに徘徊するのが四郎の毎日でしたが、不思議な事に四郎が立ち寄った店はなぜか繁盛し、客の入りが良くなったそうで、そうした噂が広まるにつれ、福の神のように扱われるようになったようです。四郎の死後も、彼の写真を飾ると商売繁盛の御利益があるとされ、大正時代には、ちょっとした民間信仰のように崇められる存在になっていったとのことです。

とんち話で有名な一休さんもアニメのような感じの人ではなく、かなりフリーダムで破天荒な禅宗の僧侶だったようですが、仙台四郎のユニークなところは、禅などの宗教とも無関係の、いわゆる一般人であるところですね。人間、人生において何が最も大事な能力か?といえば、知性でも経済力でも腕力でもなく、それは「人に好かれる能力」だと思います。これがあるだけで、誰もその人を放っておきませんから、何かあれば誰かが助けてくれるので貧乏にもなりませんし、もめ事に遭遇することも少ないはずです。天才と言われた哲学者や文学者など知性的な著名人でも自殺する人はいますから、教養があることや頭が切れることが人を必ずしも幸福にするとは限らないのでしょう。そういう意味でも、仙台四郎は天性の好かれる才能≠もっていた人であり、生まれつきの聖者だったのでしょうね。ロシア民話の「イワンの馬鹿」も、まさにそうした真理を描いていて興味深いですね。頭がいいとか、お洒落であるとか、スタイルがいいとか、お金持ちだとか、そういう属性は、この世的なエゴ的な部分で凄く惹かれる属性ですが、自分の見栄だけでそれらの属性をひけらかす人には誰もついていきませんし、それらの属性が人を幸せにするのは、結局のところ、その属性によって他人を幸せにできたときだけです。この世では、自分が幸せになるためには、まず他者を幸せにする能力を磨かねばならないのでしょうね。

メモ関連サイト
仙台四郎(ウィキペディア)

とほう小僧≠焉Aなんでも願いを叶えてくれるわりには、「ハナをかめ」「よだれを垂らすな」「服を着替えろ」という自分に対する要求には断固として従いません。とほう小僧≠ノとっては、自分の生き方の自由を制限されることは絶対に受け入れないということでしょう。そして、その自由こそが、とほう小僧≠フ魔法の源泉でもあるように思います。この世は、目に見える物質に頼った世界なので、価値観というのもどうしても物質的なものになりがちで、見た目の善し悪しで人を判断してしまうことが多々あります。聖書では小さき者(世間的にとるに足らない者とされている人たち)こそ神の視点では偉大な人間なのである、というパラドックス的な真理を述べていますが、これは高次元の世界からみた価値観ですね。

だれでもこの幼な子をわたしの名のゆえに受けいれる者は、わたしを受けいれるのである。そしてわたしを受けいれる者は、わたしをおつかわしになったかたを受けいれるのである。あなたがたみんなの中でいちばん小さい者こそ、大きいのである。

聖書 ルカによる福音書 第9章 48節


私たちが食べ物を与えているのは飢えたキリストなのです。衣服を着せてあげるのは裸のキリスト、宿を与えてあげるのは家のないキリストなのです。(略)これまでそうだったように、今日でも、キリストが同胞のところへやってきても、人々は気づきません。キリストは、貧しき人々の腐った身体のうちに顕われます。(略)そしていまここに、私やあなたの前にキリストは姿を現します。ところがいつも私たちは見過ごしてしまうのです。
───マザー・テレサ

「20世紀の神秘思想家たち」アン・バンクロフト著 吉福伸逸訳 平河出版社 1984年


聖書といえば、有名な「信じる者は救われる」という言葉も誤解されがちですね。この言葉もこの世的に解釈すると、いかにもずるい人に簡単に騙されてしまいそうな危うい価値観に見えてしまいますが、宗教やスピリチュアルや神秘学など、精神世界では「疑い」からは何も得られない世界で、まずは信じないとはじまらないところがあります。神も、神を信じない人間には恩寵を授けたくても授けるルートが「疑い」によって遮断されているために、それができません。だから信じないと救いようがないために「信じる者は救われる」というわけです。けっこうこの言葉は「救うか救わないかを神が自分への信仰心を基準にしてえり好みしている」というような意味で誤読されがちですが、救うかどうかを決定しているのは神ではなく人間の側にあるわけです。太陽はえり好みすることなく万人に光を与えますが、わざわざ建物の影に隠れたり、地下に潜ってしまったりする人間にはせっかくの光も届きません。

怪し気な宗教団体が、こうした高次元の理屈をこの世的な次元で解釈して金儲けに利用したりして信者から搾取するための理屈にしているケースもよくあるので、危ういといえば実際危うい面もある教えですが、リスク無しに得られるものは何もないというのもこの世の法則のひとつです。信じることはリスクが伴いますが、疑うことよりも得られるものは大きいのもたしかです。オリンピックレベルのトップアスリートの世界では、実力的な部分はギリギリまで均衡しているために、最後にモノをいうのは自分の勝利を信じるメンタル力だったりするという話を聞きますし、そういった意味でも、信じるということは、リアルに現実を変革するパワーがあるのは事実だと思います。

信じる力というと、この前DVDでなにげなく第1話を見返していていたらついつい全話通してまた鑑賞してしまった往年の名作ドラマ「スクール・ウォーズ」を思い出します。実話を元に脚色した熱血スポ根モノの物語で、校内暴力の吹き荒れる問題校の弱小ラグビー部が、わずか数年で万年最下位から全国優勝を勝ち取るという奇跡を描いています。その奇跡を成し遂げれた最大の理由は、主人公の滝沢先生が自身の信念「信じ、待ち、許してやること」を教育の場で貫いたことによるものでした。現代社会において、こうした「信じる事」とか「愛する事」というのは、どこか面映い言葉になってしまているせいか、私もそうした言葉をなかなか素直に受け取れずに、昔はひねくれてあえてそういう言葉に反抗してたような気がします。しかし、「信じる」「愛する」というのは、とてもプリミティブでもあり、またパワフルなものでもある、人間の幸福に直結したとても重要な精神でもあります。「信じたからって叶うものではない」などという、ペシミスティックな考えって誰しも多少あると思いますが、宝くじも買わないと当たらないように、まず信じないと奇跡は起こりません。

武田鉄矢さんがかつてヒット曲「贈る言葉」で「信じられぬと嘆くよりも、人を信じて傷つくほうがいい」と歌っていましたが、それなども昔は「まさに正直者が馬鹿を見るような、役に立たないどころか有害な理想論だな」と馬鹿にしていたものでした。しかし、今考えると、やっぱりそれは真実を歌ってるのではないか、と気づかされます。信じると裏切られたときにダメージが大きいので、信じない、疑う、というのをデフォルトで生きるというのをやってた時が私もかつてありましたが、そんな時期ほどよく裏切られて傷つく経験が多かったような気がします。信じない人生ではなく信じる人生を生きようと決意すると、不思議と、実際は「人を信じて傷つく」という経験は減っていきます。世界は自分の心を反映する性質があるので、人や世界に不信感を持っていると、なぜか他人から信用されなかったり、物事がうまくいかなかったりします。逆に、人や世界を心から信頼するようにすると、ラッキーな事が頻繁に起こるようになりますし、物事がうまくいくように変化してきます。以前は、「祈り」というのを、ただの気休めくらいにしか思っておらず、何の意味もパワーもないと思ってましたが、実は、これほど現実を変革する威力のある行為はない、と最近思うようになりました。祈りとは、人や世界がより良くなることを信頼する″s為ですから、現実世界では一見無力なように見えても、見えない世界ではものすごいパワーで影響を与えているように感じます。祈りについては、また別の機会にもっと掘り下げて書いてみたいです。

話が逸れてきたので「竜宮童子」に話を戻しますが、調べてみると、類似の民話は熊本にもあるみたいですね。「まんが日本昔ばなし〜データベース〜」様によと、アニメ「日本昔ばなし」でも92話(1976年10月30日放映)「はなたれ小僧さま」というタイトルで放映されたようです。「はなたれ小僧さま」のほうの主人公は花売りではなく薪売りのおじいさんという設定で、売れ残りの薪を竜神を祀る祠の前の川に、竜神様使ってください、と薪を流したことで洟垂れ小僧をゲットする流れになっていますね。

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はなたれ小僧さま(「まんが日本昔ばなし〜データベース〜」様のサイトより)


竜宮童子(ウィキペディア)
ここを読むと、どうやら薪売りのおじいさんのバージョンのほうがオーソドックスな「竜宮童子」のシナリオみたいですね。もしかしたら花売りバージョンは、浦島太郎の物語の影響を受けながら派生したものなのかもしれないですね。

ちょっと上記でも触れた浦島太郎ですが、最後にちょっとしたお遊びで、自分なりにあの物語のモヤモヤした部分を想像で補ったショートストーリーを考えてみました。亀を助けてくれた恩人の浦島太郎に、乙姫様はなぜ最後の最後であんな理不尽な仕打ちをしようとしたのか、という謎に対する説明としては、けっこうイケてるのではないか、と思いますがいかがでしょうか。浦島太郎視点だと見えてこなかった事実が、乙姫様視点で読み解くと、すべて合点がいきます。

私家版浦島太郎異説
八竹釣月作

仲間の亀を助けてくれたお礼にと浦島太郎を竜宮に招いたものの、あまりにいい気になって長居する浦島太郎に、いいかげんうんざりしてきた乙姫様だった。しかし招待しておきながら帰れともいえず、乙姫様のイライラは日に日につのっていった。いつしか手厚い歓待に慣れきってしまった浦島は、すっかり客人の礼儀まで忘れてしまっていた。選りすぐりの美人の人魚をはべらせてはセクハラ三昧、忠実な可愛い部下(マグロ)をどうしても刺身で喰わせろと無理を言ってくることもたびたびであった。あきれることに、浦島太郎がようやく帰る気になったのは、招待してから40年以上もたったある日のことだった。乙姫様は、顔では笑いながらも、心の中ではずうずうしく居座り続けていた浦島太郎に、もう亀を助けてくれた恩どころか、賠償請求でもしたいくらいに立腹していた。そこで、乙姫はひらめいた。竜宮では時の流れが止まった異世界であるが、現世では時間は止まることなく流れている。そこで、この竜宮での時間分を現世で購わせるための氣≠封じ込めた玉手箱を、上手いこと言ってはぐらかしながら浦島に土産に持たせて帰らせたのだ。そう、玉手箱は褒美などではなく、竜神の化身であらせられる姫様の厚意に甘え、何十年もタダで他人様の城で贅沢三昧しまくるという、はなはだ常軌を逸した非礼に対する罰≠ネのだった。そうとは知らず、満足そうにニコニコ手を振って亀に乗って海上に昇ってゆく浦島を眺め、乙姫様は満面の笑みで見送るのであった。その笑みは、穀潰しがいなくなった安堵だけでなく、これから浦島が開けるであろう玉手箱によって迎えるはずの結末に対するものなのであった。邪魔者は去り、竜宮城には何十年かぶりにようやく平安が戻ったのであった。 
───完───


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浦島太郎(ウィキペディア)
posted by 八竹彗月 at 15:22| Comment(0) | 精神世界

2018年09月26日

1と一について。そして霊界の話など。

この前の記事(「1なる存在について」)で、数字の「1(いち)」と、「私」を表す「I(アイ)」の類似などについて考察しましたが、漢字の「一」もまた1を横に倒した感じでよく似てますね。まぁ、「ひとつ」を表す字が、短い線一本であるのはそんなに驚くようなアイデアではない気もしますが、アラビア数字だけでなく西洋ではローマ数字も「I」でタテですが、漢字では横倒しの「一」であるのも面白いなぁ、となんとなく思いました。そこになんとなく西洋と東洋の個性の違いのようなものを感じた次第です。

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西洋的な直立する1のイメージと、東洋的な漢字の一。1をキリストの立像、一をブッダの涅槃仏像でシンボリックに見立ててみたのですが、こうして並べると「聖☆おにいさん」っぽい感じがしてきますね。映画化もされるほど人気のようなのでご存知の方も多いとおもいますが、ちなみに「聖☆おにいさん」というのはキリストとブッダが現代の日本で安アパートで暮らす、というコメディ漫画です。どちらも歴史上の大聖者なので、実際はさすがに漫画のような弱点の多いキャラではないと思いますが、宗教を真正面からコメディのネタにもってくるというのはかなり新鮮で、あまり深く考えずに見れば面白いです。そういえば、聖者とは真逆に地獄の魔王様が現代日本でこれまた安アパートに住みながらファーストフード店のバイトをして生活費を稼ぐという「はたらく魔王さま!」というのもありましたね。作品の発表時期は「聖☆おにいさん」のほうが先のようですが、こちらもなかなか楽しかったです。欧州のどこかの国の言葉っぽい響きのインチキな魔界語をしゃべたりするのですが、これがまたソレっぽくて笑えます。声優さんも謎の言語を流暢に話していて、そういうところも見所でした。

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映画「聖☆おにいさん」予告編
「はたらく魔王さま!」PV

西洋的価値観とは物質主義的で個人主義的、東洋的価値観は精神主義で集団主義的、というのはけっこう漠然としたイメージとして一般にあるように思います。こういうのは、歴史の成り行きから生じた偶発的なもので意味がないと以前は思ってましたが、逆に、最近の私は思考が前よりスピリチュアルな傾向にあるので、そういうことにもけっこう意味を感じてしまいます。例えば、西洋では龍(ドラゴン)は火属性の魔性の獣ですが、東洋の龍は豊作をもたらす水属性の聖獣だったりしますし、西洋はイスラム教やキリスト教など一神教のイメージですが、東洋はヒンドゥー教や仏教や神道など多神教(仏教は厳密には神を想定せずに真理を究明する宗教なのですが、一般にはヒンドゥー教の神々を仏教の守護神に取り入れたりなど多神教的な側面があると思います)といったこともあります。また、コウモリは西洋ではドラキュラのイメージからかハロウィン御用達のモノノケみたいな扱いで、最近は東洋でもそうしたイメージが定着してますが、昔は東洋では吉祥のイメージで捉えられ、よく昔の鋳造や焼物の図案などにはコウモリが描かれたりしてます。あとはヘビも西洋では悪魔の使い、東洋は神の使いみたいな扱いの違いもみられますね。

現代でも、卍(まんじ)とハーケンクロイツなど、形が鏡対称であるだけでなく、その意味も聖なるシンボルとナチスのシンボルというように東西で正反対の意味で扱われているのも意味深です。また、弥勒(みろく=遠い未来に次のブッダとなり人々を救済するとされる菩薩のこと。菩薩とは仏教の修行者の位)は、日本語読みでの音を数字にすると三六(みろく)になりますが、3つの6といえば聖書のヨハネ黙示録で予言されている未来の偽キリスト(世の終わりに現れるキリストを騙り人類を支配する悪魔的独裁者)を暗示する数字「666」も3つの6です。ミロクに関しては、日本語以外では成立しない語呂であるところなど、ちょっとこじつけっぽく感じる強引さはありますが、偶然にもどちらも未来の人物を指している数字ですし、トンデモと簡単に片付けるのもしっくりこないところでもあります。これも東西における鏡のような意味の逆転の一例として私的にはなかなか面白いと思っています。西洋と東洋のこうしたコインの裏表のような相違点は探せばまだまだけっこうでてきそうで、いろいろ調べてみるのも楽しそうです。

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ヨハネの黙示録 日本語訳全文(Wikisource様)

おおざっぱにいえば、西洋と東洋の違いの多くは、狩猟民族と農耕民族という違いがもたらす文化的な視点の相違からくるものが原因のように思いますが、それだけでは説明のつかない部分も多く、やはりどこか神秘な背景を想像したくなってきます。

で、話を戻しますと、西洋は1を縦で表し、東洋では横で表す、というところから思ったのは、西洋は1の立ってる状態(つまり立っている時は目覚めて活動している昼の象徴)から、1なる根本原因に「理性」を重視しているのではないだろうか?といったん仮定してみることでした。そうすると、漢字の横向きの一は何か?それは、寝ている状態(つまり夜の睡眠中、無意識の活動が優勢になる状態)であり、非合理性や唯物論で捉えきれない精神世界を象徴していて、東洋における1なる根本原因は「非理性」的なものに求めているのでは?ということがふと思い浮かびました。

まぁ、古代人が数字の記号の発祥にそういう意味をあらかじめ込めていたとは思いませんが、プラトンのいうようなイデア界(完全な世界のこと。この現世はイデア界の影のようなものなので不完全な世界である、という説)みたいな、超越的な見えない次元からは、そうした意味合いもあらかじめあったのではないかと思ってます。イデア的な世界にある西洋的な構造(理性、個性、男性的、な役割)と東洋的な構造(心性、全体性、女性的、な役割)が反映されているのがこの世界なので、そういう鋳型が漠然とこの世に投影されているために、理由のつかない不思議な相違点が「西洋vs東洋」に見つかるのではないでしょうか。1と一の違いも、常識的に考えれば実際は横書きの言語と縦書きの言語の違いによる単なる筆記のうえでの合理性でそうなったのだと思いますが、このように「たまたまそうなった」という事柄なのにかかわらず、そこになぜか西洋的価値観や東洋的価値観が投影されていることがシンクロニシティ的であり、そこに面白さを感じるわけです。

などと案の定話がだんだんオカルティックな方向に進んできましたが・・・以前は、人間に知覚できない世界を仮定して物事を考えるのはナンセンスだと思っていました。変われば変わるものです。まぁ、どのみちこの世界は、決定的な答えを用意していない世界であるように思います。答えを出してしまうと、それ以上考えなくてよいですから、楽ですが、それ以上の進歩も発展もなく、広がりのない世界になってしまいます。おそらく、宇宙的な視点からは、「答え」よりも「答えを見つけるための様々なアプローチを楽しむ」ことのほうが価値が高いのだと思います。松尾芭蕉が、旅の目的地よりも旅そのものに価値を見いだしたように、この宇宙も、これまでにない面白い気候の星を生み出したりとかするのが楽しくて、「絶対的に理想的な完璧な星」というのをあえて想定せずに、あらゆる可能性を試したがって無数の星々を生み出しているのではないでしょうか。そして人間もまた、何が絶対的に正しいかを知らされずに生きているのは、それを見つけ出す過程こそが宇宙的至福であるからではないでしょうか。ふと、そんな事を思いました。

唯物論の権化だと思われてきた科学も、ここ半世紀の間にもますます不思議な領域に入ってきていて、ある意味、ゲーデルの不完全性定理とか、量子力学とか、人間原理とか、ダークマターなど、現代アカデミズムのキーワード的な、ここ百年で急激に世界を変えてきた様々なそれらの概念が指し示す方向、それは唯物論の終焉、そしてこれからの新時代に向けた新たなパラダイムの誕生、を示唆しているような気がなんとなくします。カナダのチームが、スパコンの1億倍の演算能力を持つといわれている量子コンピュータの試作を完成したニュースがついこの間話題になりましたが、時代はますます加速度的に未知の領域に突き進んでいってるような、時代のジェットコースターに乗っているような気分のする昨今です。量子コンピュータが普及していくと、人工知能(AI)の研究も想像以上に進みそうでわくわくしますね。

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これだけは知っておきたい、量子コンピュータの基礎と現状(FUJITSU JOURNAL様)
従来のコンピュータでは膨大な時間がかっていた巡回セールスマン問題のような指数関数的に増える莫大な組み合わせの中から正解を見つけていくような問題も、従来のコンピュータとは根本的な演算方式が異なる量子コンピュータなら一瞬で答えを出せるようですね。まさに夢のマシーンで、これが実用化できればおそらく人間並みの人工知能も夢ではなくなる気もします。ですが逆に気がかりな面もでてきますね。現代の最速のスパコンさえも子供の玩具以下に成り下がるくらいに爆速の量子コンピュータが実用化したら、クレジットカードなどのセキュリティ関連の暗号とかも簡単に解析できてしまうかもしれません。素数を生成したり、ある数列が素数であるかどうかを判定する方法など、素数に関する多くの問題はまだちゃんと解明されていないために、セキュリティに関する暗号処理には桁数の多い素数が使われているという話を聞いた事があります。これも莫大な演算を一瞬でやってしまう量子コンピュータを使えば、そういう素数式の暗号も破られる危険性がありますから、現在の緻密に構成されたITシステムも根本から構築しなおす時代が来ているのかもしれないですね。(ちなみに確認がてらウィキの「素数」のページを読んでみましたが、素数に関する問題は完全に解明されてはいないものの、現在ではけっこう使えるアルゴリズムもいろいろ存在するようで興味深かったです。素数は、虚数とか無理数などの、あからさまにとっつきにくい感じの数ではなく、むしろフィボナッチ数よりも単純そうで、一見したところ何の変哲も無さそうな初歩的な数っぽく見える数でありながら、世界の天才たちもがその解明に未だに難儀させられているというのは、どこかこの世界のパラドクス的な構造が垣間見えるような気がして興味をそそります。素数もそうですが、かつてピタゴラスが示唆していたように、そもそも「数」というもの自体に神秘な秘密が隠されているのかもしれませんね。身近なようで謎めいている「数」というものに底知れない不思議な魅力を感じる昨今です。)

そういう時代の空気もあって、「非合理性の価値」というものに目覚めてきているのかもしれません。そうしたわけで、イデア界とか霊界的な概念も、空想や、何かの哲学的な寓意とかではなく、リアルにそういう世界はありうるんじゃないか?と考えるようになってきました。医師など、人の死に立ち会う機会が一般人より比較的多い職業だと思いますが、人の死を実際に何度も見ているうちに死後の世界を信じざるを得なくなったという話も洋の東西を違わずよく耳にします。未読ですが、アメリカの外科医エベン・アレグザンダーが自分自身の臨死体験を契機に死後の世界を確信したというレポートで話題になり全米ベストセラーになった「プルーフ・オブ・ヘヴン」という本(テレビ番組「アンビリーバボー!」でも紹介されたそうです)とか、日本でも、医師である矢作直樹氏の死後の世界肯定論が有名みたいですね。

私も、先日古本屋で臨死体験とか死後の世界関係の本が安価でたくさん入荷していたので面白そうな本をいくつか買って読んでたのですが、けっこう具体的に死後の世界を肯定していて興味深かったです。臨死体験の中には、夢などの脳のはたらきでは説明できない状況もあるようで、そうした話もまた項を改めて記事に書いてみようと想ってます。実際に、現在亡命中のチベット仏教の最高指導者ダライ・ラマ14世は輪廻転生の生き証人で、最高指導者の位であるダライ・ラマの称号は世襲ではなく、生まれ変わりを探して即位させるという摩訶不思議な伝統を守ってきました。あと最近では中国の奥地にあるといわれている「生まれ変わりの村」(中国の奥地に、前世をハッキリ覚えている人がやたら多い村があるらしい)の話も耳にしますね。輪廻転生したら死後に霊界に行く必要がなさそうに思えるので、輪廻転生と死後の世界とは別のジャンルみたいにみえますが、霊界の住人も魂の修行のためにまた現世に戻って生まれてくるという説もオカルト界隈ではよく聞きます。まぁ、神秘な次元の話なので真相はなかなか掴めないですし、はっきりしたところがわからないからこそ、その謎自体に魅力を感じる、という面もありますね。

スウェデンボルグや出口王仁三郎など霊界を見聞してきたオカルティストもいますし、チャネリング系で支持者の多いシルバーバーチの霊界通信でも、けっこう詳細に霊界の様子を語っていて興味深いです。上記で少し触れた聖書の黙示録ですが、聖書というのはひとつのまとまった教典ではなく、作者の異なる複数の文書を編纂した書物です。この聖書の編纂時には外された文書もたくさんあり、そうした文書類は聖書外典という扱いで現在でも翻訳された本もあるので読む事ができます。その外典の中に、「パウロの黙示録」という奇妙な文書があります。4〜5世紀につくられたとされるこの文書は、むかし学生時代に図書館でたまたま手にして読んだことがあります。ヨハネ以外にも黙示録があったのか、ということにチラリと興味を惹かれて読んでみたのですが、その内容がなんとスウェデンボルグばりの霊界見聞記のような感じで、とても衝撃をうけたのを思い出します。秘密の文書を読んでいるよう妙なスリルを感じながらページをめくっていた当時を久しぶりに思い出しました。多分大きめの図書館には聖書外典の翻訳本は置いてると思うので、機会があれば興味のある方は読んでみてください。まぁ、なんというか古今東西を問わず、生きている間に霊界を見て来た人というのは少なからずいるのだなぁ、と感慨深く思ったものです。とはいえ、こうした話は結局のところ「信じるか信じないかはあなた次第です」という世界ではありますが、意外とこの世界は、直感が「面白そう」と感じた事を選ぶと結果的には正しかったりするような世界だと私は思っています。

そういう感じで、ここのところは、そんな霊界的な場所の存在もあるような気がしています。霊界の話は、シュタイナーやスウェデンボルグ等、神秘学的な興味もありますが、プラトンのイデア論や、チベットやエジプトの「死者の書」など、人文学としても興味の尽きないテーマであります。

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こっち関係の本もだんだん集まってきました。まだ読破してないですが、霊界だけでなく、地下王国の伝説とか、理想郷伝説など、別世界のイメージにとても惹かれるところがあります。世間では、そういう場所は「無い」とするのが常識みたいな空気がありますが、そもそも正解の見つかっていない未知の物事ですから、「無いかもしれない」よりも「あったないいな」の方に価値を置いています。

地底世界のロマンにからめてシャンバラ伝説の記事を下書きしてるところだったのですが、ふと1と一について考えてたら筆がノってしまいました。霊界や死後の世界などの別次元の世界の話は、ルドルフ・シュタイナーの話などとからめて、これもまたいずれ掘り下げて考察してみたいテーマです。
posted by 八竹彗月 at 13:58| Comment(0) | 精神世界