2021年09月29日

諸星大二郎を大いに語る回

気になっていた念願の諸星大二郎展に行ってきたので、そのノリで諸星作品への思い入れをいろいろ語ってみました。


210929-moroboshi.png諸星大二郎展に行ってきました!

諸星大二郎展、素晴らしかったです!以前に銀座のギャラリーで諸星大二郎展があったとき行きそびれてしまって心残りがあったこともあり、今回の展示会は是非行きたいと思ってましたので、とりあえず行けてよかったです。期間中は前期、後期と別れていて、それぞれ展示内容が変わるので2回は行きたいと思っていましたが、結局は前期を見逃してしまいました。とはいえ、展示物の質も量も満足な良質の展覧会で、「デビュー50周年」と銘打つに足る内容に感無量でした。会期中にもう1度くらい行きたいですね〜

「不安の立像」「子供の遊び」「生物都市」「夢見る機械」「生命の木」などなど、名だたる傑作の生原稿をじっくり鑑賞できる快感に酔いしれ、喜びのあまり思わずウルッときてしまいました。天才のペンの筆致を間近に感じる高揚感は印刷物からではなかなか味わえない快楽ですね。出不精なので、よほどでないとイベントには出かけないのですが、本当に来てよかったと感じました。スクリーントーンが貼られ、トレーシングペーパーに白抜き指示のはいった写植が貼られ、はみ出しをホワイトで修正し、掲載雑誌のスタンプが押され、掲載物によって書き直されたノンブルの跡など、生原稿ならではの生々しい本物≠フ味わいを堪能しました。漫画の生原稿だけでなく、直筆のカラーの絵画作品もたくさん展示されていて、細密な書き込みと筆の勢いが伝わってくるような迫力が楽しめました。諸星先生の絵って、描かれている内容以上の神秘的な思念が濃厚に塗り込められているような感じで、なんともいえないムード感があって素敵ですね。

さらに、錚々たる諸星作品を生み出すインスピレーションの元になった数々の民俗史料や美術作品もたくさん展示されていて圧巻でした。涙のような跡のあるあのトコイの仮面の現物とか、諸星先生所有のニューギニアの仮面、江戸のUFO「うつろ舟」の彩色図版入りの和本、八咫烏の掛け軸などなど、博物学的な展示物も見応えがあり、またデルヴォーの大きな油絵やブリューゲルの版画など、美術作品も興味深い作品が展示されていました。以前から気になっていたバベルの図書館をモチーフにしたエリック・デマジエールの版画の現物も見れて思わぬ収穫も多かったです。まさに異界巡りをしているような気分にさせるイベントでした。心ではずっといつまでも鑑賞していたいと思いつつも、物理的な要因で足は自然と疲れてきますので、2、3周して堪能した後に名残惜しくも出口を出て、資料的価値が高い展覧会用のカタログを購入して帰ってきました。財布に余裕があればサイン入りの絵皿なども欲しかったですね〜 東京三鷹での展示は10/10までで、次は10/23より栃木県の足利美術館での展示になるようです。北海道からはじまり長野、福岡、そして東京と巡回してきた諸星大二郎展も次の足利美術館で最後のようです。

「妖怪ハンター」の第1作目に、ヒルコと名付けられたハリガネ生物みたいなクリーチャーがでてきますが、前々からダリの「茹でたインゲン豆のある柔らかい構造物(内乱の予感)」と題された作品に描かれた奇妙な物体に似てるなぁ、と思ってました。そんなアイデアを元にパロディ的な絵を描きたいと思っていたところでしたが、展覧会に奇しくもダリの「茹でたインゲン豆の〜」の複製画が展示されており、ヒルコと件のダリの絵はたまたま似てたのではなく、ダリの絵からインスピレーションを得てヒルコが造形されたのだと知りました。どうりで似てたはずです。やはり諸星先生もダリ好きなのですね。そういえば「ど次元世界物語」など、シュルレアリスムの影響が前面に出ている作品も少なからず描いておられましたね。

ダリもそうですが、諸星先生の興味の方向は自分の好みと近いものが多く、また、逆に諸星先生の興味によって自分の好みが開拓されていったところもあり、振り返ればけっこう諸星先生には影響されてるところがあります。神話や民族学や中国の古典などはモロに諸星先生の影響で関心が芽生えたジャンルです。人生には「面白い事」が多くないと退屈であるばかりか、生きる目的もぼんやりしてしまいます。しかし「面白い事」というのは、ただ待っているだけでやってくるものではなく、自らの「面白い!」と感じる心がなければどんな事も「面白く」なりません。人生を面白くするには、能動的に「面白がり方に気付く」ことが大事なような気がします。

そういう意味でも諸星先生が作品で取り上げるいろいろなモチーフは「ああ、このジャンルってこんなに面白かったのか」とか「これってそういう見方をすると面白いのだな」という気付きがあって、自分の中の「面白い」の質と量をレベルアップさせてくれたように思います。漫画もそうですが、映画や音楽や美術など、あらゆる表現は、それ自体が自分の人生における「面白い」を発見するためのデパートみたいなものなのかもしれません。

210929-moro-chirashi.jpg
図録も丁寧な編集をされていて、図版の見せ方も見せるべきものは大きく載せていて大胆で素晴らしく、デザインも凝りすぎず凝らなすぎずちょうどよく、あくまで図版を邪魔しないツボを心得た見事なさじ加減。これは永久保存版ですね!

メモ参考サイト



210929-moroboshi.png諸星作品の先見性

天才の生み出す作品というのは、その作品がただ面白いだけでなく、しばしば時代を先取りする先見性が垣間見えるものです。諸星作品もまたそういうところがあり、例えば「夢見る機械」(1974年)、これはこの世界が実は人間ソックリなロボットが人間のフリをして生活しているだけの見せかけの世界であり、実際の人間は地下の施設にあるカプセルの中で、悩みも苦しみもない理想の「夢」を見続けるだけの存在だった、というショッキングな「事実」を知ることになる少年の話ですが、この設定は1999年に世界的にヒットしたハリウッド映画「マトリックス」の世界観とほぼ同じですね。社会生活している人間はAIの生み出すバーチャルな幻影で、本物の人間は薄暗い施設でカプセルの中で眠っている、という世界観がマトリックスで、私も大好きな映画で何度も見ましたが、それでふと諸星作品との類似に気付いた次第でした。「マトリックス」という世界を熱狂させた傑作と似通ったアイデアを25年前に発想していた諸星先生の先見性もスゴイですよね。

また諸星作品の珠玉の傑作のひとつ「暗黒神話」(1976年)にも先見的なアイデアがあります。この作品は主人公の武が、自らの出生の秘密を確かめるために日本全国を行脚する壮大な物語です。主人公は全国各地で謎の一端が明らかになるたびに身体の一部に奇妙な傷、聖痕があらわれます。最終的には8つの聖痕があらわれるのですが、その並びはオリオン座の星の配置と同じになります。これも、1983年に連載が開始され全国一大ブームとなった「北斗の拳」の主人公ケンシロウの胸の傷を彷彿とします。ケンシロウのケンシロウたる最大の特徴は、婚約者ユリアを奪った南斗聖拳の使い手シンによって付けられた北斗七星の配置の7つの傷です。北斗神拳の伝承者であるケンシロウへの当てつけで北斗七星の並びになるように傷をつけられたわけですね。漫画において、キャラを識別するユニークな特徴というのは重要な要素ですので、星座の形を模した身体の傷というユニークなアイデアに感服したものです。しかしそれも諸星先生が7年も前に同じアイデアを思いついていたのを知って、余計に神秘なものを感じた次第です。

210929-moro-book.jpg
諸星大二郎コレクション。「暗黒神話完全版」も欲しいところですね〜

210929-moroboshi.png「マッドメン」その他

一番好きな諸星作品を選ぶというのは、諸星ファンには難問ですが、個人的に「マッドメン」(1975〜1982年)はトップ争いの有力候補です。タイトルの禍々しい響きや、顔まで入墨の入った主人公コドワの面妖なビジュアルのインパクトで、実際に手に取るまで時間がかかった作品でしたが、実際に読んでみると序盤からグイグイ引き込ませる見事なストーリーテリングで、一気に読んでしまいました。パプア・ニューギニアの土着神話と聖書の逸話や日本の古事記との共通点などを交え、当時の現代思想で脚光を浴びていたレヴィ・ストロースなどの構造主義の手法を取り入れたシナリオがスリリングで、文明とは何か?を考えさせられる傑作です。三種の神器を使った「呪的逃走」のシーンなど、投げつけるアイテムは厳密に神話と同じでなくても似てればOKみたいなところは、まさに構造主義的で興味深い場面でしたね。「鳥が森へ帰る時」では、ノアの方舟(はこぶね)をモチーフにしたユニークな切口が斬新で面白かったです。細野晴臣さんも諸星ファンで、YMO時代に「The Madmen」(※)という曲を作ってますね。諸星先生を特集したムックでも諸星大二郎を熱く語る細野さんのインタビューがあり、興味深かったです。

※「The Madmen」
YMO時代の細野さんの作った楽曲。マッドメンの正しいつづりは「Mudmen」ですが、wikiによると当初の誤植によりMadのままになっているようですね。漫画のほうのマッドメンもタイトル表記はカタカナなので初見ではつい「狂人(Madmen)」の意味で受け取ってしまいますが、マッドはMAD(狂う)ではなくMUD(泥)であり、パプア・ニューギニアのアサロ族の民俗文化で、先祖の霊を表す仮面をつけ身体中に泥を塗った扮装をした男を指す言葉のようです。作中ではマッドメンたちは祖先の霊として描かれ、主人公コドワを導いたり助けたりして、最初は不気味な印象がありますが、読み進めていくうちにピュアで可愛げのある存在に思えてきます。

私が諸星大二郎に関心を持ったきっかけは、いくつかありますが一番影響されたのは以前からファンだった筒井康隆が選者となった徳間文庫の「日本SFベスト集成'73」に、諸星大二郎の短編「不安の立像」がチョイスされていたことでした。(選集のメインはSF短編小説ですが、十数編の中に2本ほど漫画作品も選ばれています)「不安の立像」はなんともいえない謎めいたムード感のあるホラー短編ですが、クリーチャーの造形で怖がらせる感じではなく、黒装束の謎めいた「あいつ」の正体は最後まで不明のままなのが想像力を刺激します。人間の心の中にある「不安感」を視覚化したような独特の不思議なムード感に感銘を受けたのを思い出します。「筒井康隆が選んだ作家」ということでさらに「諸星大二郎はスゴイ人かもしれない」という思いが確信に変わったような感じでした。

徳間文庫の「日本SFベスト集成」シリーズで何度か選者を務めた筒井氏ですが、一度のみならず「生物都市」など諸星作品を何度も選んでいた筒井氏ですから、氏にとっても諸星大二郎氏は印象深い作家であるように推察します。(ちなみにこの選集で筒井氏はますむらひろし先生の初期のブラックな短編もチョイスしていて、そちらも印象深かったです)そういえば筒井氏の作品に「アフリカの血」という短編があり、これはアフリカ人の血をひくハーフの青年が都会の生活に馴染めずに葛藤する話ですが、青年が悩んで落ち込んでいるとどこからともなく空中にアフリカの仮面があらわれ、青年に道を示すような助言をするシーンがあります。この作品は筒井氏自身が自作を漫画で描いてもいて、件のシーンは大いなる仮面≠ェコドワに助言をする「マッドメン」のシーンを彷彿とさせます。最初見たときはてっきり筒井氏が諸星作品に影響を受けて描いたのかな、と思いましたが、「アフリカの血」の原作自体は1968年の単行本に収録され、それを自身で漫画化したのは1974年の「暗黒世界のオデッセイ」に収録されており、それらはマッドメン(1975年〜)の連載がはじまる前のことです。ということは、憶測ですがもしかしたら諸星先生が「マッドメン」を描くにあたって「アフリカの血」に幾ばくかの影響を受けてた可能性もあるかもしれませんね。

「マッドメン」で描かれる野生の思想の心地よさは、我々が捨ててきてしまった原初の人間たちの生命力への憧憬のように感じます。何か内面の奥底から語りかけてくる神の声に耳を傾けなさいというメッセージのような。現代文明の視点で未開≠ニされている世界を舞台にした話って、どこか惹かれるところがありますね。「未開」とか「発展途上」という言葉は、西洋的な視点で見た科学技術や合理主義の立場からの見方であって、どこか文化に優劣をつけているような居心地の悪さがある言葉です。「マッドメン」などの、いわゆる未開社会≠舞台にした物語がうったえてくるメッセージの力強さは、むしろ現代の科学文明が失ってしまったものは何なのかを浮き彫りにしていくような含蓄があって味わい深いですね。

「マッドメン」ではそうした野生の世界の舞台をパプア・ニューギニアに置いて物語が展開していきますが、アフリカをテーマにしたいくつかの作品、「ダオナン」「ラスト・マジック」(「子供の世界」集英社 1984年 に収録の短編)などもまた、ユニークで奥深い野生の思想が興味深く語られてとても面白いですね。「ダオナン」では、砂漠でやっと見つけた獲物を追っている主人公の青年ダオナンが、宇宙人と仲良しになる話で、ユーモラスな展開ながら宇宙人は最後は白人によって射殺されてしまうという可哀想な話です。宇宙人の造形も、ヒト型でないのが本物っぽい感じでよかったですね。「子供の遊び」にでてきた不定形の不気味な生き物を彷彿とする奇怪な造形の宇宙人ですが、興奮するとカニみたいに泡をふいたりして、読み進むうちに可愛く思えてきます。こういう宇宙人のような、見た事も無い生物も本当にいそうな感じに表現してしまえるのも流石ですね。


210929-moroboshi.png太公望伝について

この作品も個人的にトップ3に入る傑作なのですが、この作品との出会いも昔の職場でたまたま隣の席になった人の薦めによって手に取ったものです。タイトルからして「太公望伝」という、どことなくパッと見に固い印象のある作品名なので彼の薦めがなければ興味がわかずに読まなかったかもしれません。振り返ってみれば、諸星作品とは自らの興味で進んで出逢ったものではなく、外的な導きで「おい、これ読んどけ!」的な見えない力によって引き合わされていたようにも思えてきます。

「太公望伝」は、タイトルが偉人の伝記ものっぽい教育漫画風のイメージがあって、あまり期待せずに読んだ作品ですが、予想を裏切り、とても感銘を受けました。それまでは初期のSF、ホラーな短編などの印象で、才気溢れる作家だとは認識していましたが、「太公望伝」はそういった要素の他に道教思想の奥深い部分や崇高な人生哲学まで描き出していて、いやはやなんてすごい作品を描く人なんだろう!と驚いたものです。

太公望という人物は紀元前11世紀ごろの古代中国・周の軍師で、後に斉の始祖とのこと。本名は呂尚(りょしょう)という人で、川(中国陝西省中央部を流れる川、渭水)で釣りをしていたところ、周の文王に見いだされ「あなたこそ先の君主太公≠フ望んでいた賢者だ!」と感激したということから「太公望」と呼ばれるようになったようです。太公望と呼ばれるようになってからは色々と手柄を立てて歴史に名を残しましたが、文王に出会う以前の経歴はあまり分っておらず、実態がつかめない人物のようです。その歴史に刻まれていない太公望になる前の呂尚の半生を想像力豊かに描いたのが諸星先生の「太公望伝」となります。

あとがきで先生も指摘しておられますが、史実に忠実になりすぎないように太公望の生きていた時代ではないエピソードも任意に取り入れて描かれているそうです。それでも、先生いわく「少し堅苦しくなってしまった」とのことですが、私はとくに堅苦しさはまったく感じませんでした。後の太公望、呂尚が渭水(いすい)という川で龍を釣り上げるシーンは魂がうち震えるような感動をおぼえます。あれは「生命の木」の「ぱらいそさいぐだ!」に匹敵する名シーンですね。ラストが龍を釣り上げたあの川(渭水)で文王に見いだされるシーンで締めるところも情緒があってシビれました。

この作品は『無面目・太公望伝』(平成1年 潮出版)で読んだのですが、もう一作の「無面目」も負けず劣らずの傑作ですね。「無面目」は、混沌の神で、天窮山の頂上で天地開闢の頃からずっと思索を続けているために、五感を必要としなくなり目鼻口耳などが無いのっぺらぼうの姿です。あるふたりの仙人が、天地創造の秘密について議論になり、天地創造の時代から瞑想を続けている無面目という神に聞けば疑問も解けるだろうと会いに行く。といったところから話がはじまり、壮大なスケールの物語が動き始めます。こちらも大好きな作品です。

メモ参考サイト


210929-moroboshi.png好きな諸星作品の寸評

諸星作品ベスト10みたいなことも書こうかと思いましたが、基本ほとんどの作品が好きなので順位が付けづらいということもあり、好みの作品を思いつくままにランダムに取り上げてコメントを付ける感じにしてみました。

目妖怪ハンターシリーズ
「妖怪ハンター」シリーズの主人公、異端の考古学者である稗田礼二郎は、諸星作品を代表する象徴的なキャラクターでもありますね。名前は『古事記』暗誦者の稗田阿礼から採られたそうで、キャラのネーミングも意味付けがされているところも凝ってますね。たしかに稗田は事件の当事者として登場することは稀で、ほとんどは傍観者として事件に関わっていて、なんとなく楳図かずお先生の「おろち」の雰囲気に共通したものを感じます。このシリーズは日本民族学がベースになっているエピソードが中心で、第1話のヒルコの話は映画にもなりましたね。他には、とくに東北の隠れキリシタン伝説をテーマにした「生命の木」は、呉智英氏も絶賛した珠玉の名品として名高く、自分にとってもとても印象深い作品です。

目諸怪志異シリーズ
仙人や異世界や物の怪の話など、怪異譚を集成した中国の古典「聊齋志異」を意識して描かれた連作短編集。道教の呪術の達人、五行先生と、ひょんなことから五行先生の養子兼、弟子みたいな感じで同行することになる阿鬼(あき)との旅を中心に古代中国の仙人や道士たちが跋扈する世界を舞台に興味深いエピソードが展開していきます。「エコエコアザラク』(古賀新一著)のような西洋魔術のノリとはまた別の、アジア的な魔術の世界の雰囲気が独特で楽しくて好きな作品です。

目桃源記(短編)
酒と隠遁を愛した中国の文人、陶淵明(365〜427年)の詩「桃花源記」をベースに、彼の他の著作からのエピソードや「抱朴子」の呪術的な道教思想を盛り込み、ミステリアスな寓意譚に仕上げた傑作で、とても好きな作品です。陶淵明の「桃花源記」は現在でもよく使われる「桃源郷」の言葉の元になった詩です。桃源郷というとアジア版の楽園のイメージですが、元になった詩で描かれているのは質素な村です。現代で桃源郷と聞くと美とエロスの饗宴「酒池肉林」のイメージがありますよね。当時の中国は戦乱続きだったため、理想郷のイメージは贅沢な豊かさよりも、争いの無い自由で平和な世界ということになるのでしょうね。

目詔命(「礎」改題)(短編)
都庁の地震研究所に勤める平凡な公務員の主人公は、ある日原因不明の目の疾患に見舞われる。その日を境に、なぜか高額の給料が振り込まれはじめるが、とくに疑問も抱かず、これラッキー!と豪遊を楽しむのだったが、その目の煩いは地震防止の生贄を識別するためのものだった。というお話。現代の都庁の地下では、古代から受け継がれてきた地鎮のための神への生贄の儀式が行われていたという設定がドキドキしますね。「グラップラー刃牙」(板垣恵介・作)でも東京ドームの地下に密かに格闘技場が作られていたという設定がありましたし、「R.O.D」(倉田英之・作)では神保町の神田古書センタービルの地階にトトブックスという超稀覯本を扱う古書店が存在する設定がありましたね。こうした実在する有名な場所に謎の施設が存在するという設定ってワクワクしますね。

目孔子暗黒伝
同時期にジャンプに連載されていたコンタロウ先生のギャグ漫画「1・2のアッホ!!」で、半人半獣、おじさんのスフィンクスのような姿の「開明獣」が野球の解説者の役で出てきたりしてて、この元ネタが諸星先生の「孔子暗黒伝」であることから興味がわいて読んだ覚えがあります。「孔子暗黒伝」に登場する印象深いサブキャラ「開明獣」ですが、元ネタは中国の古典「山海経」に描かれている幻獣、瑞獣です。「孔子暗黒伝」はなかなか濃いシナリオで、読むのに気合いが要りますが、とても深い内容で感銘をうけました。ソクラテス、ブッダとほぼ同時代に生きていたと思われる賢者、老子は、水牛にまたがって周の国を去る前に関所の番人に懇願されて「道徳経」上下二巻を著したといわれてますが、周を去った後の足取りは謎です。「孔子暗黒伝」では、老子が周を去ったのはインドで不世出の賢者、ブッダに会うためだったというエピソードが描かれていて、とても面白い解釈だなぁと感服しました。こうした、実際の出来事や歴史的な事実をもとにして、本当っぽいフィクションを練り上げる手法って大好きで、そういう系統では「漱石事件簿」(古山寛、ほんまりう)も印象深い作品でした。夏目漱石の生きていた時代背景を舞台に、史実では言及されていない有名人たちとの邂逅が描かれていて、事実と虚構の境目を歩いているような不思議で楽しい気分を味わえました。

目袋の中(短編)
ある日たまたま公園のベンチの隣に座ったホームレスの中年男にタバコを1本あげたことから彼の奇妙な身の上話がはじまる、といった出だしで、物語は近親相姦妄想などが入り交じったフェティッシュで不気味でダークなお話です。こういう、ひょんなことから知り合った他人から、思わぬ話を聞くという設定もワクワクしますね。そういえば大好きな乱歩の短編「押絵と旅する男」も、たまたま電車に乗り合わせた男から聞いた話という設定でしたね。世界には自分の狭い見聞では計り知れない不思議な事があるはずで、そういう話というのは、自分のいつもの閉じた日常で関わっているいつもの人よりは、偶然出会った一期一会の他人の口から得られるのかもしれませんね。この漫画では、ホームレスの男の回想シーンで少年の頃に父の書斎で医学図鑑に載っている女性器の図版を盗み見ているところを父に見つかり引っ叩かれるシーンがありますが、その書斎の本棚に納められている本が背表紙まできちんと描かれているため、当時の諸星先生の趣味嗜好がうかがわれてとても興味深いです。判別できる本だけでも「聞け小人物よ(W・ライヒ)」「彼方(ユイスマンス)」「黒死館殺人事件(小栗虫太郎)」「サド選集(澁澤龍彦)」「ロートレアモン詩集」「未開人の性生活(マリノフスキー)」など、なかなかユニークな本ばかりで流石は諸星先生ですね。他にも「肉色の誕生」という短編でも錬金術師の本棚に納められているのは「ネクロノミコン」「失楽園(ミルトン)」「ヴェールを脱いだイシス(ブラヴァツキー夫人)」「子宮論(パラケルスス)」「化学の結婚(ヨハン・ヴァレンティン・アンドレーエ)」「高等魔術の教義と儀式(エリファス・レヴィ)」「四運動の理論(シャルル・フーリエ)」などの錚々たる奇書珍書、またユイスマンスの「さかしま」が逆さまに本棚に入れられていたりなど、細かすぎるユーモアにニンマリしてしまいます。こういう作者の趣味が背景の描き込みの中に何気なく現れている感じの表現も好きです。

目地下鉄を降りて(短編)
この作品は、迷子になったときの心細さや不安感を実に巧みに表現していて印象深い作品です。平凡で真面目な中年サラリーマンの主人公が東京駅での乗り換えのタイミングでふとした気まぐれからいつもの通勤ルートを外れて八重洲地下街をぶらつこうと思い立ったことがきっかけで迷子になってしまう、というものです。焦れば焦るほど目的地から遠ざかっていく様子を描いた独特の不条理感がユニークな逸品。駅の中の迷宮をえんえんとさまよっている中で、主人公は駅の中でホームレス生活をしている男と出会います。彼もまた主人公と同様に迷子になり、かれこれ1ヵ月も閉じ込められているとのこと。この男は物語に深みを与えてる重要なキャラで、彼は社会心理学における「制度的行動」という概念を引用しながら、自分たちが置かれた状況を説明してくれます。いろいろな物語でしばしば現れるこうした解説者の役割をする蘊蓄を語るキャラってけっこう好きです。主人公がこの作品のように凡庸であったり、または脳筋的なドンキホーテ型なキャラである場合、本人が置かれている複雑な状況をスマートに解釈してしまうとキャラが崩れてしまうので、蘊蓄を語る別のキャラをうまく絡ませる必要がでてくるんでしょうね。利用者の数も半端無い東京の鉄道施設においては、めまぐるしく随時拡張されていくためか、とくに酔っぱらいや怪し気な人物が跋扈する夜の構内は、まるでかつて香港に存在した建築「九龍城」を思わせる怪奇な迷宮に思えることもありますね。この作品のように、とはいかないまでも、普段利用しているルートを外れて適当に歩いていると迷子になりそうでもあります。そうした感覚をこの作品はうまく表現しでいますよね。迷いはじめると底なし沼のようにどんどん目的地から遠ざかっていく感じが不気味で、駅自体が人を飲み込んで生きている魔物のように思えてくる秀逸な作品です。

※前に書いた文章は、記憶を頼りに適当に書いてしまたっため、作品の舞台をうっかり新宿駅と勘違いしたレビューになっていたことに気づき、書き直しました。「夢みる機械」に新宿駅が出てくるのでそれと記憶が混ざってしまったようです。(2021/10/11加筆)

目感情のある風景(短編)
おんぼろの宇宙船が故障する前に緊急避難で着陸した惑星。その惑星の住人はみな無表情なため、外来者である主人公にとって、その星の住人は感情が読めずにとても奇妙に感じます。見た目は同じ人間ですが、ひとつ違うのは、頭の側に幾何学的な図形が常に浮かんでいることです。その星の人間は「感情」というものは内面ではなく、外側に図形として投影されているのでした。感情が変化すると、表情ではなく、その図形が変化するというわけです。感情を図形であらわすというアイデアがとてもユニークで好きな作品です。宇宙船で変な星に流れついたりする話もイイですよね。宇宙ものも味わい深い短編をいくつか描かれていて、どれも興味深いです。冴えないサラリーマンが遠方の惑星に左遷される話「商社の赤い花」も、宇宙を舞台にしたSFという感じがまったくしない生活感のある小市民的な展開が面白かったですね。

諸星作品は思い入れのあるものが多いので、もしかしたらおいおい他の作品の寸評も追加していくかもしれません。


メモ参考サイト


210929-moro-shioritoshimiko.jpg
「栞と紙魚子」のファンアート描いてみました。
posted by 八竹彗月 at 06:33| Comment(0) | 漫画

2021年08月18日

ゲーム『街 〜運命の交差点〜 』の話

『街』との出会い

最近はゲームをする機会もめっきり少なくなってますが、ゆとりができれば最新の高スペックのゲーム機で緻密なグラフィックの話題作で遊んでみたいですね。今はゲームを自分でプレイする機会は減りましたが、そのかわりゲーム関連でいえば、とりあえずは昔プレイした思い出深いゲームの実況などを見つけては楽しむことが多くなりました。とくに大好きだったバイオ4&5や、クロス探偵物語、サクラ大戦1&2、EVEシリーズ、FF10、ひぐらし&うみねこのなく頃になどは、好きな実況者さんが取り上げてくれたりすると毎日の楽しみが増えてうれしくなります。サウンドノベルの大傑作『街 〜運命の交差点〜 』(チュンソフト)もそうした作品のひとつです。

『街』は実写映像をメインにしたビジュアルで構成されているのもユニークで、ゲームはドット絵かアニメ絵かポリゴン、みたいな先入観が支配していた当時はとくに珍しかった記憶があります。当時の自分も『街』はまったく眼中になく、実写ゲームというだけでハズレの予感しかなく、当たり前のようにスルー対象の作品でした。『街』との出会いは偶然で、仕事帰りに寄った深夜のコンビニでした。弁当と一緒に、何かゲームでも買おうという気分で、アクションやRPGのような集中しないと遊べない作品ではなく、まったり進めれるゲームが何か欲しいな、という気持ちで手に取ったのがサウンドノベルのハシリである『弟切草』(PS版)でした。とはいえ、『弟切草』は私に合わなかったのか、あまりハマれずその夜は序盤まで遊んで中断。しかしそのままでは釈然としないので、『弟切草』に収録されていた『街』の体験版をふとプレイしてみようと何の気無しに思ったのでした。今にして思えばそれがまさに私のゲーム体験における「運命の交差点」だったのかもしれません。

『街』は8人の主人公が渋谷で過ごす五日間を描いた物語ですが、体験版の『街』ではその中の一日分をプレイできます。実写のゲームだしということで期待はせず、体験版だしすぐ終わるだろうと始めてみたのでした。最初に選んだのは「オタク刑事」のシナリオだったと思います。主人公の新人刑事、雨宮桂馬(中の人はあらい正和さん)は、ゲーム好きでパソコンオタクという設定ながら刑事コロンボみたいな感じの味のある刑事っぽい雰囲気のファッションで、その愛嬌のある風貌もあって一目で親しみをもちました。序盤から一気に引き込ませる展開がほんと見事でしたね。渋谷駅前の交差点にあるビルに組み込まれた巨大モニター、オーロラビジョンに、いきなり爆破予告を匂わせる奇妙な暗号文が表示され、それを警邏中に偶然目撃した桂馬はあこがれの先輩女性刑事の栞さんと共に事件の謎に巻き込まれていく、というものです。これは面白くないわけがない!と即座に直感させる序盤のツカミにやられました。

その他の主人公もそれぞれ異なった背景を持ったクセのある面白いキャラとシナリオでしたので、深夜で次の日も仕事だというのに、止め時に迷う程ハマりこんでしまいました。最初は漠然と実写にハズレ臭を感じていたものの、その先入観はプレイしたとたんにほとんど一瞬で消し飛んだのでした。青ムシ役の人や、木嵐さんなど、脇役の名演怪演も素晴らしく、ほれぼれする演技が目白押しの作品でしたね。牛&馬の一人二役を演じきった松田優さんの演技も天才的で、ほとんど静止画でアフレコも無いのに、顔を見ただけで牛か馬かの違いが一発でわかるくらい明確に演じ分けられていて感銘を受けました。牛尾も馬部も、髪型から服装から頬の傷まですべて外見はまったく一緒の設定ですから、想像以上に難易度の高い演技力が求められる役だと思います。松田勝さんが舞台裏を語っておられるサイト(下に貼ってあるリンクを参照)を読むと、想像通り役作りは大変だったみたいで、撮影中はいつも牛と馬のふたりの人格を自分の中に住まわせていなければならないので精神的にしんどかったそうですね。

体験版は一日分とはいえ、想像以上にボリュームがあり、それは嬉しい誤算でした。面白いゲームは、止め時が難しいので体力と気力が続く限りずっと遊び続けてしまうことがありますが、限度を超えて面白いゲームは逆に永遠とこの世界の中で遊んでいたいという気分を誘い、早々にクリアしてしまうことを避けたくなるため、むしろ断腸の思いで一気に進めずにあえて中断して次の日に楽しみを残すような遊び方になりますね。

続きが気になりすぎて、体験版で『街』の一日をクリアするとすぐに『街』の製品版を探して即購入したのを思いだします。クリアしても、しばらくは『街』のあの楽しくて切ない余韻がずっと残っていた気がします。最初とくに好きだったシナリオはオタク刑事と七曜会でしたが、歳をとるにつれてシュレディンガーの手や迷える外人部隊の味わい深い哲学と悲哀の描写になんともいえない魅力を感じるようになってきます。(牛&馬などの他のシナリオもとても面白く好きですが、先に上げたシナリオはどれも独特の『街』ならではの味があり、また時間がたつにつれて初プレイ時と今では印象が変わったシナリオでした)『弟切草』を買わなければ『街』をプレイすることもなかったわけですが、事前に欲しくて手に入れたものよりも、とくに期待せずに衝動買いしたものとか、偶然の予期せぬ出会いをきっかけにハマった作品は、どこか運命の出会いのような気がして特別な愛着がわきますね。

ウィキペディアをみると『街』の8本のシナリオはメインライターの長坂秀佳さんだけでなく、複数のライターさんがかかわっていることがわかります。長坂さんが関わっているのは「オタク刑事」「七曜会」「シュレディンガーの手」「迷える外人部隊」の4つのようで、いわれてみるとたしかにその4つはとくに、独特のケレン味と含蓄のある個性的な哲学で娯楽性を醸し出すノリが特徴的なストーリーで、どこか通底するものを感じますね。

20210818-machi.jpg
『街 〜運命の交差点〜 』のファンアート描いてみました。
似てないキャラとか、描き漏らしたキャラもけっこういますが、そこはまぁ賑やかしということで大目に見てください。

「これだ!」の人、木嵐袋郎

『街』はむちゃくちゃなダイエットをテーマにしたものや、モテモテのプレイボーイに降り掛かる自業自得の災難をテーマにしたシナリオなど、楽し気なドタバタコメディものから、シリアスで重いストーリーまでバラエティ豊かです。そして、その8本のシナリオどれもが魅力的で、どれもが捨てがたいお話であるのも、考えてみればスゴイことですね。さらにスゴイのは、それぞれがまったく異なる背景をもった主人公たちの物語が互いにたまにシンクロしたり、ひとりの主人公の行動が別の主人公の展開に影響を与えたり、複数の脇役が異なるシナリオをまたいで活躍したりと、全体がとても複雑で緻密な構成になっているところですね。

シナリオの重さでいえば、『街』の中では比較的大人しいシナリオである「迷える外人部隊」がヘビーな話ですが、「シュレディンガーの手」もそういったシリアスさにホラー色まで加味した最凶の重量感のあるお話で、最初はちょっと苦手な印象がありました。しかし、今振り返ってみてみると、「シュレディンガーの手」の魅力がジワジワと心の中に広がってきます。

ダンカンさん演じるテレビドラマのプロットライター市川文靖を主人公としたシナリオ「シュレディンガーの手」。寝てる間に何者かが書いて用意された俗悪な自分名義のシナリオをテレビ局に売る事で表向き成功している男が主人公の市川です。ストーリーは、眠りから覚めるといつの間にか出来上がっている謎のドラマ脚本は誰が書いたのか?という謎を追っていくことで話は進んでいきます。市川は文芸雑誌で純文学でデビューした作家ですが、文学では食べていけないために生活のためにテレビ向けの脚本を生業とするようになっていきます。なので本来は人の崇高な部分に訴えかけて感動を喚起するような良心的な傑作を生み出したいと思っているので、自分で書いた記憶の無い自分名義の低俗なドラマがヒットしていくことにやりきれない葛藤と嫌悪感をいつも感じています。その対価として高級ホテルの一室に住み込んで金銭的には何不自由のない生活を手に入れてはいますが、心の中は常に煉獄であり、その魂の苦痛を和らげるためにいつも睡眠薬を常飲しています。

このお話では、作中劇であるドラマ「独走最善戦」の担当である「テレビ太陽」のプロデューサー、木嵐袋郎(こがらしふくろう)とのやりとりが実に感動的に描かれており、味わい深く心に響くものがあります。序盤の重く陰鬱なホラー展開をひっくり返すほど中盤からの木嵐とのからみは素晴らしい展開で、この脚本を書いている作家の本音とも思える「魂の叫び」を感じたものでした。もしかしたらキャリアの長い大御所の長坂秀佳さんですし、ただプロ脚本家としてのテクニックだけで書いているという可能性もあるかもしれない、と思いつつも、それはそれですごいことでもあります。ちょっとそこが気になったこともあり、長坂秀佳さんについてざっとウィキペディアを読んでみると、意外なことが判明して感慨深いものを感じざるを得ませんでした。

「シュレディンガーの手」で実に印象深い役であった木嵐袋郎プロデューサーについて。『街』の原案者、長坂秀佳さんのウィキに、「特捜最前線」からの長年親交を続けてきた無二の友人がテレビ朝日のプロデューサー、五十嵐文郎(いがらしふみお)さんであるとの記載があります。あきらかに木嵐のモデルっぽいですよね。案の定「五十嵐文郎」のウィキでは、この『街』での木嵐役は五十嵐さんがモデルであり、市川は長坂さん本人がモデルであるという情報も記載されてました。

とても好きなシーンのひとつに、市川文靖がウケ狙いのヒット作ではなく、芸術性で人を感動させうる良心的なドラマ脚本で勝負したいという熱意を思い切って木嵐に打ち明けるシーンがあります。いつもヘラヘラとゴマをするだけだった木嵐がいつになく真剣にその情熱に応えるという感動的なシーンです。あたかもご本人の実体験とか創作活動に対する作家の本音を代弁させているように思えるシーンです。当時のその印象は当たっていたみたいで、長坂さんの実際のエピソードに、似た経緯がありました。長坂さんは、脚本業を一年間も中断してホテルに缶詰になって小説作品を書き上げた過去があるそうです。初応募した『浅草エノケン一座の嵐』と題したその本は見事に江戸川乱歩賞を受賞し、小説への希望を感じたものの、何人もの批評家の辛辣な意見にとても意気消沈し苦々しい経験をしたとのこと。こうしてみると「シュレディンガーの手」での主人公市川の発するセリフやその想いや感情など、思ったよりも長坂さんの体験がけっこう反映されてたんだなぁ、と感じました。だからこそ、あの市川と木嵐の魂を震わすような情熱的なやりとりの描写ができたのだな、と改めて感慨に耽ります。

TIPSの魅力(市川編より)

『街』にはテキストの要所要所に補足が必要な本文中の用語を解説する「TIPS」というシステムがありますが、これも『街』の大きな魅力のひとつですね。単調な用語解説は少なく、それ自体で楽しいヒネリのある解説文であることがほとんどです。ときには哲学的に人生を語るシリアスなものや、おふざけ的にウソ情報を解説したり、TIPS内だけで語られる本編の裏設定など、TIPSももうひとつの『街』というか、一見ただの用語解説のシステムのように思わせながら、実は本編と同じくらいの重要な要素になっているのが画期的なアイデアだと感服しました。

TIPSは、8人のキャラごとにシナリオに応じたテイストのノリで書かれているのも楽しく、プレイしているうちにTIPSの解説を読むのも楽しみになってきていることに気付きます。心に残るTIPSもたくさんあるのですが、今回は市川編にスポットを当てた記事ですので、市川編「シュレディンガーの手」に出てくるTIPSの中からグッときたものをいくつか以下に引用しました。(グレー文字は私のコメントです)

「愛」
科学的には脳内分泌物が人間に愛≠感じさせる。それはLSD等の薬物が愛他心や多幸心を増加させるのを見ても明らかだ。人は脳からこんなわずかな物質を分泌させるために右往左往する。しかしそれでも愛≠ェなければ人は生きていけない。

(寸評:市川編はこういったどこかニヒリスティックなヒネリのあるシリアスで哲学的な感慨深いTIPSが多いのも魅力ですね。)

「文学新人賞」
大正末期のユートピア作家「多摩川頓歩」を記念して相談社という出版社が作った多摩川頓歩賞のこと。この賞を登竜門として幾多の作家が文学界にデビューした。ちなみに、この「多摩川頓歩」というペンネームは、台湾のユートピア作家、「タムガー・ワトン・ポー」をもじったもの。

(寸評:原作者である長坂秀佳さんがホテルに篭って書き上げた小説が江戸川乱歩賞を受賞した経緯が元ネタになってますね。こういうウソ情報がたまに紛れ込んでいるのも『街』TIPSの醍醐味。いうまでもなく多摩川頓歩とは江戸川乱歩のことで、そのペンネームの由来がエドガー・アラン・ポーであることをパロった一文ですね。)

「膝枕」
子供の頃、あなたも母親にしてもらったことがあるだろう。そして大人になると、母親以外の人にしてもらえるかもしれない。そんな人がいるとしたら、あなたはその人を大切にしなければいけない。
(寸評:なんともロマンチックなTIPSですが、意外と人間の本質を突いているようでもあり、それをポエティックにサラリと表現する見事なセンスを感じますね。市川編は序盤のホラー展開から、中盤の木嵐との青臭くも熱い展開、そして昔の恋人末永とのすれ違う愛情を描く切ない描写など、プレイするたびに豊穣な展開をみせる贅沢なシナリオでもあることに気付かされ、新鮮な発見をさせられますね。このロマンチックなTIPSも、市川編の物語の意外な包容力を感じます。)

「囲繞(いじょう)」
かこい、めぐらすの意味。われわれは常に何かに囲まれている。たとえば空気。たとえば人。たとえば抑圧。たとえば悪意。たとえば恐怖。たとえば憎悪。たとえば死。たとえば殺意。たとえば欲情。たとえば嫉妬。たとえば絶望。たとえば病。たとえば嫌悪。たとえば孤独。たとえば不信。たとえば愛。

(寸評:厭世的な重いリズムを最後の一言で一気に逆転させる名文にシビレました。用語解説の域を超えて含蓄のある散文詩のような味わいの『街』屈指の名TIPSだと思います。自分にとって最も印象深い一番好きなTIPSです。そういえば「ツィゴイネルワイゼン」というサラサーテの名曲がありますね。ヴァイオリンによる長めのクラシカルな曲なので、序盤の悲壮感のあるメロディだけを耳にする機会が多く、一般にもそういうイメージが強い曲だと思います。ある時気になって最後まで通して聴いたのですが、まさにそのときの印象が、このTIPSを読んで感じた印象とちょうどよく似ていたのでふと思い出しました。「ツィゴイネルワイゼン」は曲の大部分を通じて序盤の悲壮感をひきついだ展開なのですが、曲のラスト近くになると突然急にはっちゃけたような軽快で喜びにみちた演奏になるのでびっくりした覚えがあります。クラシックの著名な名曲というイメージが強かっただけに、そのアヴァンギャルドな構成にグッときたものです。それまでの空気をラストで唐突に一変させるノリというのは、なんとなくパンドラの箱に残った「希望」の寓意を思わせるものがあり、どこかスピリチュアルな深みを感じますね。)

──────以上4本のTIPSは『街 〜運命の交差点〜 』(チュンソフト)の市川文靖編「シュレディンガーの手」より引用


上記のTIPSにも出てくる江戸川乱歩賞のパロディで、長坂さんご自身の乱歩受賞という経験が下敷きになっていたみたいですが、そういえばこの「シュレディンガーの手」というシナリオそのものも、乱歩の影がうかがえますね。市川の左手は経済的な成功者にさせてくれた功労者であると同時に、自分でも毛嫌いする内容の自分の作品を書き上げる悪魔のような存在でもあります。自分の意思に反して従わない市川の左手の謎を追っていくのが物語の主軸になっていますが、なんとなく江戸川乱歩の短編『指』を彷彿としますね。念のために気になって乱歩の『指』を読みかえしていて気付きましたが、『シュレディンガーの手』のあの切ない余韻を残すラストのピアニストのような手の動きの描写は、もしかしたら乱歩の『指』のオマージュなのかもしれませんね。

他に、「手」繋がりの作品で思い出すのは、手塚治虫の短編『鉄の旋律』ですね。マフィアによって両腕を奪われた主人公がサイコキネシス(念力)で動く鋼鉄の義手を手に入れ、それを操ることによって復讐を決意する話でした。念力とはいえ自分の意思で動かしているはずの義手でありながら、皮肉にもその義手によって自分の意図しない結末をもたらすところが手塚治虫独特の人間哲学を感じて印象深い作品でした。憎しみの心は最終的には自分をも滅ぼすのだ、という手塚先生からのメッセージのようにも思えて、考えさせられる作品でしたね。『鉄の旋律』の義手も最初は自分の身を助けてくれる味方であったはずのものでしたが、いつしか最大の敵になってくところも、どこか市川文靖の物語と重なって興味深いです。

市川文靖の使っていたMAC

まぁ、そんな思い出深い作品『街』ですが、サターン版が出た1998年から数えて、もう20年ちょっと経ってるんですね。たしかに電話ボックスとか、ISBN回線とか、カセットテープ式の録音機とか今はもうなくなってしまったアイテムも散見されますが、今プレイする場合は逆にそういうところも見所になりそうです。むかしは渋谷は通勤圏だったので、休日は渋谷をうろうろする事が多く、馴染みのある光景が舞台になっているゲームというところもどっぷりハマる要因でした。もう何年も渋谷に足を運んでいませんが、ゲーム内に登場したゲーセンとか飲食店など、今はほとんどなくなっているらしく、ちょっと寂しいものを感じます。

『街』に登場する懐かしいアイテムといえば、そういえば市川が仕事で使っているパソコン「Macintosh SE/30」もそうですね。調べてみると当時の値段は日本円で30〜50万円くらい、CPUは16MHz、メモリは最大128Mb、と心もとないスペックですが、これが当時の先端だったわけで、IT関連の技術の進歩の凄まじさを実感します。CPUのクロック周波数は現在はスマホでも約3GHzくらいありますから、20年で当時のハイエンドなPCより200倍ほど速くなってることになりますね。まさに隔世の感があります。


メモ参考サイト



市川文靖が原稿を書くのに使用していたマック。液晶でないモニタとか、フロッピーディスクの挿入口とか、見た目もすでにレトロマシンといった感じですが、骨董的な価値もあるようで、ヤフオクなどでもマニアの間で中古市場でジャンクで2〜3万円、動作品は4〜7万円ほどで今でも取り引きされてますね。置き場所に余裕があれば私も往年のマックをいじって漢字Talkの世界に浸ってみたいものです。

冴えない役者の馬部と、とある女性にプロポーズするためにヤクザの道から足を洗った牛尾の二役を演じた俳優松田勝さんによる『街』の裏話。牛&馬を演じるにあたっての役作りの話など、いろいろ興味深いお話をされています。舞台裏の狐島三次(鶴見淳司さん)は松田さんを兄貴分のように慕ってらしたそうで、撮影の合間にもよく演技や映画の話などで盛り上がったとか、貴重なお話が満載で面白かったです。

件の江戸川乱歩の短編の全文が青空文庫に納められてました。推理ものではなく、ホラーチックな短い幻想小説です。「シュレディンガーの手」のラストで市川の右手の指が跳ねるように動き出す切なくも崇高なシーンの余韻に浸っていたときに、ふとこの短編を思い出しました。市川のあの指の動きは、キーボードを叩いて原稿を書く動作なのですが、それはキーを打つというよりも、音楽を紡いでいるかのようなリズミカルな動きで、まさにこの乱歩の「指」をイメージしているようにも思えますね。長坂さんご自身を最も色濃く投影した『街』のキャラが市川ですし、江戸川乱歩賞の受賞経験もあり、乱歩には同じ作家として浅からぬ想いもありそうです。市川編のラスト、やっと悪魔の左手から自由になって、本当に書きたかった良心的な芸術作品を紡ぎ出す魂の喜びを、乱歩の『指』へのオマージュとからめて表現したのではないか、などと愚考しています。
posted by 八竹彗月 at 16:51| Comment(0) | ゲーム

2021年04月15日

続・古書を補修してみました

やる気が残っているうちに手を付けないと、今までの例から多分何年経ってもやらない気がするので、ついでに先日言及しました「さらに痛みのひどい本」を補修することにしました。

というわけで、今回補修するのはこの本です。

210415_book_hosyu3_01.jpg

『神話と神話学』中島悦次 著 大東出版社 昭和17年

背表紙はおろか、表紙もボロボロです。ちなみに中身は周辺がヤケてる程度で読書には支障のない許せる範囲の経年劣化です。本の内容はタイトルの通り神話の解説なのですが、宇宙創成神話の分類をはじめとした宇宙関連の神話についての章立てがメインになっていて、ちょうど宇宙にも神話にも興味がある私としては、状態が悪くても一度読んでみたい!と思わせる印象がありましたので思い切ってお迎えしました。宇宙をテーマにした神話関連の本は他にも何冊も持ってますが、他の本に書いてないレアな神話が載ってる可能性があるので、多少の重複は覚悟で好きなテーマの本は集めてます。後で追記でこの本の目次も入れようと思ってます。まだ読んでませんが、この目次を見たら、私と似たような趣向の方はグッとくると思います。

これも語ると長くなりそうなので、本の内容はひとまず置いといて、早速補修に取りかかろうと思います。中は読書に支障がないにしても、表紙も背表紙もダメージありすぎなので、読書のたびにいろいろ剥がれ落ちたりしそうな状態です。なので、とりあえずはストレス無く読書できる程度の状態には復帰させようと思います。

210415_book_hosyu3_02.jpg

表紙の厚紙もくっついていた何層もの紙が剥がれてるのでまずボンドで元の1枚の厚紙に戻します。背表紙も剥がれているのでバラけないようにボンドを塗りました。

210415_book_hosyu3_03.jpg

前回のように、背表紙を作り、これを貼って補強しておしまいにしようかと思ったものの、表紙のダメージも相当なものなので、これはボツにしました。どうしたものかと思案。表紙を別の厚紙で補強しようかとも思いましたが、難易度が高い割に上手くいっても違和感がでてきそうなので、かわりに全体をくるむカバーを作ることにしました。カバーでくるむほうが、今後のダメージ軽減や補強の替わりにもなりますし、なんといっても見た目的には今の自分の出来る範囲の方法の中では最善かと判断しました。

210415_book_hosyu3_04.jpg

では、さっそく表紙カバーの作成にはいります。手元にあるこの本もおそらくもともとあったカバーが無い状態だと思われますし、ちょうどいいかもしれませんね。今回は検索しても国会図書館などの索引にヒットするだけで、背表紙どころか表紙カバーのデザインも不明でした。なので、目の前にある本のデザインを参考に、似たようなテイストで背表紙なども創作します。

210415_book_hosyu3_05.jpg

白地では雰囲気でないので、地色も印刷しようと思いましたが、もともと色の付いた紙にプリントするほうがリアリティがあるのでは?と思いつき、けっこう昔に買ったインクジェット対応のクラフトペーパーがあったのを思い出し、それを使用することにしました。色合いも古書の焼けた感じに似てていい感じになりそう。ベージュ色のクラフトペーパーにプリントする事を考えて、文字の色味は鮮やかな朱色にしました。実際にプリントすると、いい具合に赤色が濁って落ち着きのある赤に。

210415_book_hosyu3_06.jpg

文字は先日の記事と同じ感じで、似た書体で組んでみました。ヒラギノやリュウミンなど、オープンタイプのオーソドックスな日本語フォントには異字体として旧字体もけっこう含まれているので、こういう時には重宝しますね。絵柄は原本をスキャンしてphotoshopで図柄部分の選択範囲を出して、それを作業用パスに変換、そのベクトルデータをイラレ上で文字と同じ色に変換して使用しました。

210415_book_hosyu3_07.jpg

完璧とはいかないまでも、最初の状態と比べればかなり良くなったと思います。クラフト紙を使う事でそこそこ古書っぽい雰囲気も出たので、これで良しとします。

210415_book_hosyu3_08.jpg

怪し気な古書を入れてる本棚にさして確認。さすがに本物に囲まれるとちょっと浮いてる感もありますが、一応は許せるレベルではないでしょうか。ということで、今回も前回に引き続き、古本の補修を記事にしてみました。ご閲覧ありがとうございました。


ペン同日追記

今回補修しました本、『神話と神話学』(中島悦次 著 大東出版社 昭和17年)の目次です。

210415_book_hosyu4_contents2.jpg

宇宙関連の神話の分類と解説。そそるテーマと、興味深い分類にグッときます。

210415_book_hosyu4_contents.jpg

上の画像は全ての目次です。宇宙創成神話だけでなく、太陽や月などの天体関連も充実していますね。巨人や小人の神話など、大ヒットしたアニメ『進撃の巨人』とか、身近な話題の興味を深めそうなテーマもありますね。また最後のほうにある「神聖数の話」も面白そう。ざっと見てみると、民族の違いによって神聖視される数が違ってたり、ある民族がなぜその数を神聖視するのかなどが分類考察されています。偶然とインスピレーションで出会った本ですが、なかなか面白そうな内容の本ですね。

タグ:神話 古本 補修
posted by 八竹彗月 at 16:10| Comment(0) | 古本

2021年04月14日

古書を補修してみました

本と私

昨今は本もどんどん電子化されて、キンドルとかスマホなどで手軽にどこでも読書ができるという、読書好きには夢のような時代になってきましたね。私はスマホもキンドルもまだ未経験なので、そうした時代の恩恵には与れてませんが、まぁ、急がなくてもそのうち何かのきっかけで活用するようになるでしょう。こういうものって、一定レベルの必要に迫られる何かが無いと、なかなか手に入れようというアクションに繋がらないものです。

そもそも、私は本は大好きですが、読書好きといえるほどでもなく、本そのものの存在感が好きという感じですので、電子ブックになかなか触手が動かないのも、それが理由にあるかもしれません。(とはいえ、読書が目的の本も買うので、そういう本はやはり電子ブックのほうが便利だろうなぁ、といつも思ってます)

先日も古本市で本を物色する楽しみに耽ってきましたが、古書には、そういう味のある本の存在感があり、また時代を経て残っている骨董的な楽しさもあるので、古書集めはけっこう長続きしている趣味です。古本は、下は数十円から数千万円もする稀覯本まで、とてつもなく値段の振り幅が大きく、リッチな人だけでなく普通の庶民でも手が届く趣味でありますが、高いからといって面白い本とは限らず、安いからといって価値が無いというわけでもないところが奥が深いです。ときには数十円で、数万円の相場の本が見つかる事も意外とあります。古書店もその店の専門外のジャンルは二束三文で売られている事もありますし、貴重な本でも状態が悪いと格安で入手できたりもします。まさに、人との出会いと同じですね。人は見かけによらないものですが、本の価値というのも一筋縄でいかない多様性があります。

古書談義はこのくらいにして、今回は先日手に入れた古書に、痛みのひどいものが何冊か含まれているので、そのうちの一冊を補修する過程を記事にしてみました。ここ数年くらい前から、痛んだ古書は、今回ほどではないにせよ、カバーや背表紙の補強とか、鉛筆やボールペンなどでの線引きの消去作業など、けっこうマメにやっています。今回のような大幅な手間のかかる補修は年に一回あるかないか程度ですが、やるときはやります。

古書を補修することは、次に手に渡る本の主人への配慮とか、個人でやれる文化保護とか、あるいは愛書家のフェティッシュな愉しみであるとか、いろいろ理由は思い浮かびますが、私の場合は「本に好かれるため」みたいな理由もあったりします。千と千尋ではないですが、日本の土着的な宗教観として、万物に神が宿るという思想ってありますよね。森の精霊とか、山の神とか、森羅万象にそれぞれそれを守護する精霊がセットになっていて、霊的な見えない次元で守護の対象を守ったり、禁忌に触れるような者にはバチを当てたりとか。私も、それと似たような考えを信じていて、それは、万物に守護する精霊がいるというだけでなく、そのモノ自体も魂を持っていると考えています。

機械にも心があり、書物にも「読まれたい」「大切に扱ってもらいたい」「喜んでもらいたい」と思う心があって、それに応えてあげてると、本にも好かれますし、本を守護する担当の精霊も味方になってくれます。具体的には、超レア本を格安で入手できるラッキーにたびたび出会うといった思いがけない奇跡が頻繁に起きるようになります。痛んだ本を治療したりしてることへの恩返しに違いない!と今では堅く信じるようになりました。何度も奇跡が続くと、だんだん本に対する敬意みたいな感情が芽生えてきて、図書館とか古本市とか古書店などで、本が逆さに本棚に入れられていたりするのを見ると、気になって正しい位置に戻したりとかするようになりました。そういう時は、自分の背後で本の神が気分良さそうな笑顔で満足そうに自分を見おろしているような気配を感じます。どんなものでも、人間でも動物でも植物でも、はては人工物や無機物でさえも、愛を与えれば愛を返してくれるように、この世界は出来ているのでしょうね。

補修開始!
では、そろそろ補習・・・じゃなくて、補修を始めます!
今回補修するのは、この本。
210414_book_hosyu_01.jpg

中国の古典の中から、テーマ別に6巻で構成された「中国史談」というシリーズの中の第5巻目『妖怪仙術物語』(河出書房新社 昭和34年発行)という本です。諸星大二郎先生の影響で、前々から仙人などの道教関連の不思議な話にとても興味があったので、こういう関係の本はつい手に取ってしまいます。

今回補修するのは本そのものではなく箱のほうです。箱入りの本の「箱」の背表紙がまるっと外れており、断片も無いものもあるので、これは背表紙自体を作らないとだめだな、と判断。まずは、本の箱と似た厚みの厚紙を探します。とりあえず以前届いた厚紙の封筒の切れ端を材料にして、箱の抜けた部分にちょうどよくハマるように、背と同じ長さのものを作ります。

断っておくと、この補修作業は全くの自己流で、図書館などが行っているような正式な補修方法とは違うかもしれません。よって、この記事は本の補修のハウツーというよりは、ニコ動などの「やってみた」的な、ネタ的な視点でお読みいただければと思います。

210414_book_hosyu_02.jpg


断片だけでは背表紙にどんなデザインで文字が入っていたのか解らないので、ネットで画像検索。基本的に本のタイトルで検索しても、ふつうは表の表紙ばかり出てくるので、背表紙が必ず出てくる保証はありません。古書店のサンプル画像とかでも、背表紙の画像はあまり使いませんが、まぁ、ダメモトで検索してみます。今回は運良くヤフオクの出品画像で背表紙が解る画像が1点だけヒットしました。ヒットしなかった場合は、自分で勝手にデザインして進行するつもりでしたが、これもまた小さなラッキーですね。

210414_book_hosyu_03.jpg

イラレで背表紙のデザインを作成します。現物を見ながら、地色の色合いを調節します。モニタの色と実際に印刷される色が全く一致することはないので、まぁまぁ似てる程度の色合いで進めます。

210414_book_hosyu_04.jpg

背表紙の断片の文字と比較しながら、文字の大きさを調整。昭和34年の本なので、この時代にはDTPなど無く、文字は大きな写植機を使った写植の時代ですね。横長のこの明朝、いかにも昭和の古書といった風格を感じるレトロを感じる書体ですね。さすがに同じフォントは持ってないので、持ってるフォントで似たようなものを使い、横長に変形をかけて使用します。

210414_book_hosyu_05.jpg

A4に4つ入る大きさなので、プリントした後で近い色を選べるように微妙に色違いにした背表紙を4つ作成。

210414_book_hosyu_06.jpg

プリントした背表紙から色の似ているものを切り離し、先ほどの厚紙に糊付けして補強します。箱と接着する面は、糊をつける前に箱に合わせてみて大きさの確認。ちょうどスッポリ収まる感じで、問題なさそうです。

210414_book_hosyu_07.jpg

箱との接着部分は込み入った箇所になるので、糊やボンドよりは両面テープが良さそうだと気づき、両面テープを使用することにしました。結局同じ色合いにはなりませんでしたが、まぁ、地色が明るいほうが本棚にさしたときに見やすそうなので、そのままくっつけました。このくらいのいい加減精神≠烽ネいと、補修作業が義務感になってしまい楽しめません。なので、これでいいのだ!

後は毛羽立った部分とか、テープで接着しきれなかった部分を木工ボンドで穴埋めして、程よい締め付けの洗濯バサミで軽く圧着させて、そのまま放置。

210414_book_hosyu_08.jpg

30分ほどでボンドも乾き、完成です。こんな感じになりました。
さすがに新品同様になったりはしませんが、一応、箱が箱の役割を果たせる程度には回復したので、一応これで良しとします。

210414_book_hosyu_09.jpg

すぐ近くの本棚に入れてみて様子を確認。まぁ、いい感じではないでしょうか。
込み入った補修をした後には、ちょっとした達成感を感じますね。これからコーヒーを入れて、のんびり本棚を眺めて悦に入ろうと思います。たんなる古本の補修の記事にどこまでニーズがあるのか謎ですが、とにかく、ここまで読んでいただきありがとうございました!


ペン同日追記
落ち着いて良く見てたら誤字を発見してしまいました。「中國史談」の國≠フ部分をうっかり国≠ナ作ってしまってました。日本語的には間違ってはいないので、気にしなければそれでいいようにも思いますが、せっかくなのでやる気の残っているうちに、正しい表記に直したものをさきほどの背表紙に重ね貼りしました。

210414_book_hosyu2_01.jpg

210414_book_hosyu2_02.jpg

本棚に入れて再度確認。これで気になる点はとりあえず解決して一段落しました。まだもっとひどい痛みのある本が残っているので、後でまた気が向いたら補修しようと思います。では、これでひとまず補修の顛末の結びとさせていただきます。ご閲覧ありがとうございました。
タグ:古本 補修
posted by 八竹彗月 at 02:54| Comment(0) | 古本

2021年04月07日

神様論

神と宇宙法則

幸も不幸も、神が罪を裁いたのでも、神が罰を当てたのでもなく、宇宙の「理」、つまり、絶対的な宇宙法則によって自動的に生じる原因と結果である、という考えに最近はとても共感しています。神は実は人間に罰を与えたりしたことが一度も無いのではないか、と。罰に見えるのは、ただ因果の法則で、悪い種が不幸という芽を出しただけというような。仏教の教えとはそういった法則の解明を主体としており、キリスト教やイスラム教はその法則を神と呼んでいいるともいえるかもしれません。

聖書に、「神は愛です」(ヨハネの手紙一4章16節)という有名な言葉がありますが、最初は情緒的な比喩のような言い回しかと解釈してました。でも最近は、真理そのものを定義しただけのものであることに気付いてきました。別にポエティックな言い回しとして「神は愛です」というのではなく、それが真実であるから、そう言うしかない、という言葉であるというのが正しかろうと思います。そもそも、我々は「愛」というのを、人間的な、あるいは生物的な情緒のように誤解していますが、愛は万物すべからく通底する存在の種≠フような根源的なエネルギーではないか、思うようになりました。愛というのは、感情を表すだけの言葉ではなく、全ての感情と物質の根幹に関わる根源的なエネルギー、というのが意外と本質的なイメージのような気がします。この世界は、この世界の根源にある存在やその法則が「存在してもいいよ」と毎秒毎瞬、無限に許可を出し続けているから存在しているのではないでしょうか?

我々は、漠然と、存在しているものが存在するのは当たり前に思っていますが、本当にそうでしょうか?現代科学でも、物質に質量があるのは、当たり前ではなく、質量を与えるための粒子(ヒッグス粒子)が介在することで重さという概念が成立していることを示唆しています。それと同じように、我々の日常を成立させているすべて、電子の運動やひいては万物の根源である究極のヒモの振動が、振動しつづけていることは、何も理由のないことなのだろうか、と考えた場合、何か神としか呼べないような根源的な想像を絶する壮大な存在をうっすらと感じます。

神の定義について

最初の話題に戻って、幸も不幸も宇宙の法則が自動的に出した結果である、という話ですが、これは先に述べたように仏教の根幹にある思想でもありますが、またその他の宗教で「神」と呼ばれる超越的な存在が、人間に罰を下したり、幸福を授けたりしているという考え方も、正確ではないものの間違いではないですし、仏教の考えより劣るわけでもないと最近は感じています。私が思うのは、幸も不幸も自分が撒いた種が発芽した結果であるにせよ、もっと詳細にその結果を分析すれば、「幸福は神が与えたもので、不幸は自分のエゴが生み出したもの」という考えも意外と正解に近い気がしているという事です。

短絡的に「良い事は神のおかげ、悪い事は自分のせい」と言ってしまうと、いかにもカルト宗教のヤバい教えのように見えてしまいますが、それは、この教えを他人をコントロールするために使う組織があるせいでしょうね。あくまでも、真理というものは、自己の内面を浄化して魂の根源に回帰するためにあるものだと思います。そうした中で、体感していく宇宙的な力を人間の言葉で言い表したときに、「神」という言葉が、実は一番正確なようにも感じるのです。

神というと、最初は、人間と無関係に存在してて、ささいな悪に過敏に反応し、最高の善のみしか受け入れない融通のきかないモンスターのようなイメージで考えがちです。それゆえに若い頃は、神を否定したがり、神からあえて決別したがる傾向もけっこうあると思います。(そういえば詩人のアントナン・アルトーの作品に現代哲学にも引用された「器官なき身体」で有名な『神の裁きと決別するため』というのがありましたね)しかし、そもそも多くの宗教や神話では、神は人間に寛容や許しを説いてるわけですから、神ご自身が寛容でないわけがありません。神は人間の何万倍も寛容だと考えた方が論理的です。美輪明宏さんが何かの著書でおっしゃってましたが、神的な存在は、べつに人間に100%良い事ばかりしなさいと無理強いしてはおらず、悪事よりも善行の比率が高ければとりあえず合格、くらいな感覚でまずは十分だと思います。

我々が人生を通じて求めてやまないのは、麗しい異性でも、お金でも、宝石でも、不動産でもなく、「幸福」です。麗しい異性、お金、宝石、不動産、その全てが満たされても、幸福でなかったら何の意味もありません。有り余る巨富がありながら、その富を使う暇もないほど仕事に追われているとか、とてつもない価値のある不動産を所持しながら、家族仲が異常に悪く、毎日諍いが堪えないとしたら、そんな生活を誰が望むでしょうか。

神は気に入らない人間にきまぐれにひどい罰を与える怪物ではなく、まったく正反対で、本当の神とは、人間の思考をフルに働かせてイメージする最高に素敵な人物よりも何億倍も素敵で、どんな聖者よりも寛容で優しく、どんなに親しい友人よりも楽しい仲間であり、どんな偉人よりも知性的であり、考えうるどんな「最高」よりも最高な存在である可能性のほうが高いと思ってます。いや存在すら超越しているので、ジョセフ・キャンベルの定義したように「存在と非存在」であり、本来思考で捉えれないところを、あえて名付けたのが「神」なのでしょう。以前グノーシス主義の記事を書いたときに引用しましたが、言葉で表現できるギリギリで神を表現していて秀逸なので、もう一度キャンベル先生の神の定義を再掲します。

超越者(神)は思考のあらゆるカテゴリーを超越している。存在と非存在−それがカテゴリーです。「神」という語は本来あらゆる思考を超えたものを意味しているはずなのに、「神」という語そのものが思考の対象になってしまっている。
さて、神は非常に多くの形で擬人化されます。神はひとりか、それとも多くの神がいるのか。それもまた思考のカテゴリーに過ぎません。あなたがそれについて語り、考えようとしているものは、そのすべてを超越しているのです。

ジョセフ・キャンベル「神話の力」飛田茂雄訳 早川書房 1992年 p123

人間のような人格はないともいえますが、それは想像をはるかに超えた究極の人格であるゆえに、人間の知力で捉えがたいからだろうと思います。神は、信じないうちは、ファンタジー的な存在のようにしか思えず、信じてる人が迷信深い愚者にしか見えないものです。しかし、何かのきかっけで神の存在をうっすらとでも信じるようになってくると、なぜか面白いほどに小さな奇跡が頻繁に起きるようになるので、より確信的に信じるようになっていきます。まさに「信じる者は救われる」の本当の意味を実感します。神を信じるというのは、
特定の教団に入信したりすることではなく、この宇宙の背後に確かに存在する人間の知性で捉えきれない壮大な何ものかの気配に関心を向ける事です。神を知ろうとすることは宗教的な好奇心というよりは、もっと根源的な、自己の本質と最も密接な鍵だろうと思います。

神と宇宙について

そもそも、この宇宙には最初から潜在的に人間を生み出せる要素が全て揃っていたから人間が誕生したのであり、ならば、この宇宙自体も人間よりも高度な「心」や「魂」が無いはずがありません。人間でさえ、どんなクリエイターも自分に無いものは表現できません。よく耳にする意見で「神は人間の心が生み出した架空の存在だ」という見方もあります。私も以前はそう考えていたものでした。しかし、人間は、無い存在を作ったのではなく、古代の高度な意識に到達した賢者たちが、宇宙の背後に存在する壮大な何かの気配を察知して、それを表現する人間世界の言葉がなかったので、「神」という概念でそれを語るしかなかった、というのが事実かな、と思っています。

人間は宇宙が生み出した宇宙存在でもありますから、その宇宙法則に従って行動すると物事がスムーズに運び、それに逆らって行動すると困難や苦しみが伴う、というのは、そういう意味では実に理にかなった考えだと理解できます。老子は、この宇宙の法則を『道(タオ)』と名付け、生き方のエッセンスを簡潔に遺しました。一見自分が得をしそうなエゴを満たすような生き方は、結局自分を破滅させるだけで、逆に自分を捨てて周囲の人や公益に貢献する生き方のほうが、結果的に自分に最大の利益をもたらす、というのは世の中をみると全くその通りに動いていますね。狭い期間だけで見ると、悪人が栄えるように見えるケースもありますが、長いスパンでは、悪人が人生に勝利するという事はまず不可能でしょう。人間世界の幸と不幸は、ほぼ9割以上は人間関係で生じますが、そういう意味では全ての人間は幸福の担い手でもあるわけです。イエスの「隣人を愛せ」というのは、隣人のためだけでなく、主に自分の幸福の絶対条件であるということなんでしょう。

幸福は常に神からしか出力されない現象であり、不幸は常にエゴ(自分本位な利己性)からのみ生じます。エゴは利己的ですが、利己性自体がマズいわけではなく、高いレベルの利己性は「神を知りたい」「困っている人を助けたい」「この世から悲しみを消したい」という高度な「欲望」となりますし、人助けが一番気持ちのいい行為だということを悟った人は、自分が気持ちよくなるために、他人を助けたりしはじめます。これは偽善ではなく、むしろ最高の善で、自分も気持ちよく、しかもそれによって他者も気持ち良くさせるので、自己犠牲の善意よりも宇宙視点では喜びの量が最大化されるので、価値が高いといえます。

神の計画について

パラマハンサ・ヨガナンダも、常に神の事を考え、瞑想によって神と対話することの重要性を指摘していましたが、こうしたことは、精神世界に免疫がないと「宗教的」というカテゴリーで片付けてしまいがちかもしれません。本質はそういうカテゴリーとかジャンルの問題ではなく、人生の根本的な価値は、まさにそこにあるし、そこにしかない、という真理を言っていたのだなぁ、ということが最近は身にしみます。たしかに神は、神の事を熱心に考え、神に好かれようとする人間に、幸福とか奇跡を与えているように一見思えます。しかし神はえこひいきするようなレベルの低い感情は無いですから、実際は悪人にでさえ聖者に与えるのと同じ量の、いいえ、万人、万物に、等しく100%の愛のエネルギーを常に与えています。ひいきに見えるものの正体は、各人が神の愛を受け取る器の大きさや、器の状態によるのだと思います。

霊的な次元では、思うことなどの心のパワーは絶大なので、神を信じるほど神との霊的なパイプが太くなるので、より神からのエネルギーが自分に入りやすくなる気がします。聖者や賢者のように、修行の末に神の愛を受け取る心の器を大きく育てた者には、たくさん愛が入るようになるし、悪人はあらかじめ生まれもって持っている器でそれなりに愛を受けとっています。器も悪人ほど手入れをしないので、底が抜けている場合もありますし、わざわざ器を手で覆って、神の愛を受け取る量を自分で減らしている場合もあります。何にせよ、神は、太陽が完璧に分け隔てなく万物を照らすように、全ての生命と非生命に完璧に100%の愛を注いでいるように思えます。

神を信じると良い事がよく起こるようになるのは、自分に関して言えばほとんど事実だと思ってます。神を信じるというのは、具体的には、聖書を勉強するとか、イエスの十字架像を拝むとか、そういう宗教っぽい行為とはあまり関係なく、自分が存在しているこの世界と調和し、この世界に貢献する事だと思います。

神はこの宇宙の創造主だという定義は、しばしば「宇宙の創造は物理的な仕組みで起こったことで神とは関係ない」という反論もあり私もそう思っていた時期もありましたが、そういうことではなく、ただ定義としてこの宇宙を創造した何らかの力や仕組みの発生源を仮に「神」と呼んでいるだけで、ある意味科学によって開明しようとしている宇宙の謎も、神とは何か?の探究なのではないか、と思うようになりました。神と宇宙はほぼ同じ意味ともいえますが、神というと宗教的な擬人化したイメージに捕われますし、宇宙というと感情の無い無機質な物理現象に拘束された自動装置のようなイメージに捕われがちです。神を言葉と思考で捉えるのは限界がありますね。それゆえ過去の賢者たちは真理は言葉の外にあると何度も言ってきたのでしょう。神は思考の対象ではなく、人生の体験の中で直に感じとる生きた存在です。

全ては神が創造したものなので、好きなものだけでなく嫌いなものも含めて、全てのものに敬意をもつこと。それに加え、運命もまた神の領域なので、神を信頼していれば、神が100%の愛を注いでいる万物、つまり自分も万物に含まれるのですから、自分に因果を超えてわざわざ不幸な現象を与えるはずがない、ということを「信じる」ことも重要です。神を信じるということは、神が自分を不幸にすることは絶対に無いと確信することと同じです。確信は運命の設計図となり、やがてそれは現実に現象化します。一見不幸に見える現象も、それは自分を成長させるための「幸福の種」として現われたものである場合が100%であり、人間を苦しめるために与えたサディスティックな刑罰ではないのだと思ってます。そもそも神は愛なので、苦しみの正体というのは、「神からどれだけ離れているか」の魂的な距離感によって生じるものなのでしょう。

よく、人間は、自分の力ではどしょうもないことに悩んだりするものです。急いでいる時に踏切が降りてヤキモキする事が昔はありましたが、よく考えると、ヤキモキしようがしまいが同じ時間で遮断機は上がります。であれば、ヤキモキもイライラもしなくていい、と気付きます。入学試験の結果も、結果発表までは考えても悩んでも結果は変わらないので、悩むだけ嫌な時間が増えるだけ損です。何が言いたいかというと、こういう「考えても意味の無いこと」や「自分の力の及ばないもの」は、すべて霊的な次元の領分なので、ここで一番効力を発揮するのは運命を信じる力です。「人事を尽くして天命を待つ」という言葉がありますが、まさに真理で、自分の手が届く範囲のことは精一杯やって、その後の結果は神の裁量に全部お任せする、というのが、もっとも最善の結果を招くのでしょう。実際に、自分の経験に照らしても、そういう法則があるのはリアルに実感します。この物質世界に人間として存在していること自体、魂の未熟さを払拭するために修行している存在であるという考えに共感します。ならば人生、いつも理想通りにできないことは仕方ないですし、人事を尽くす時点で出来てないとか、人事を尽くしても天命に任せず、うだうだと悩んでしまうのも、未熟さゆえであります。まぁ、この世界、生けるもの全ての目的というのは、そういう未熟な魂が集まって、助け合いながら、失敗を許しあい、お互いの未熟な部分を補いあって、みんなで力を合わせてちょっとづつこの地上を天国にしていこうという、壮大な神のプロジェクトなのかもしれませんね。

posted by 八竹彗月 at 15:26| Comment(0) | 精神世界